後漢書
『志』第五
礼儀中 立夏、請雨、皇太子拝謁、王公拝謁、桃印、黄郊、立秋、貙劉、案戸、祠星、立冬、冬至、臘、大儺、土牛、衛士派遣、朝会
後漢書志第五 礼儀中 立夏請雨皇太子拝謁王公拝謁桃印黄郊立秋貙劉案戸祠星立冬
冬至、臘、大儺、土牛、衛士派遣、朝会。立夏の日、夜漏が未だ五刻尽きず、京都の百官は皆赤い衣を着用し、季夏に至って黄色い衣を着用し、郊祀を行う。その礼は、特を祠り、祭醋を行う。
立春から立夏を経て立秋に至るまで、郡国は降雨量を報告する。もし少なければ、各郡県はそれぞれ社稷を掃除する。旱魃の際は、公卿官長が順次雩礼を行い雨を求める。[一]諸陽を閉じ、黒衣を着用し、土龍を起こし、[二]土人と舞僮二佾を立て、七日ごとに故事の通りに変更する。[三]朱索を拘えて社を縈らせ、朱鼓を伐つ。[四]少牢をもって礼の通りに禱賽する。[五] 注[一]公羊伝に言う、「大雩は旱祭なり。」何休の注に言う、「君主自ら南郊に赴き、六事を以て過ちを謝し自ら責めて言う、『政が不善か?民が職を失ったか?宮室が崇大か?婦人の謁見が盛んか?苞苴(賄賂)が行われているか?讒言する者が主導しているか?』と。童男女各八人に舞わせて雩を呼ばせる。故に雩と謂う。」春秋繁露に言う、「大旱の時は雩祭して雨を請い、大水の時は鼓を鳴らして社を攻める。これは天地の為すところ、陰陽の起こすところである。或いは請い、或いは攻めるのは、何故か?曰く、大旱は陽が陰を滅ぼすことである。陽が陰を滅ぼすとは、尊が卑を圧することである。その義は固より当然であり、たとえ甚だしくても、拝して請うのみで、敢えて加えることがあろうか?大水は、陰が陽を滅ぼすことである。陰が陽を滅ぼすとは、卑が尊に勝つことである。賤が貴を陵ぐことは節に逆らう。故に鼓を鳴らしてこれを攻め、朱絲を以てこれを脅す。その不義のためである。これもまた春秋の強禦を畏れざるところである。天地の位を変え、陰陽の序を正し、直ちにその道を行ってその難を忌まず、これが義の極みである。」
また董仲舒が江都王に奏上して言う、「雨を求める方法は、陽を損ない陰を益すことである。願わくは大王、広陵の女子で人に祝いをする者の一ヶ月の租を収めず、諸巫に賜うこと。諸巫は大小を問わず皆郭門に集まり、小壇を設け、脯酒を以て祭ること。女は独り広く便な処を選んで市を移し、市には丈夫(男)を入れず、丈夫は互いに従って飲食することがないようにすること。吏の妻に各々その夫を見に行かせ、皆到着したら即座に立ち上がり、雨が注ぐまでとする。」服虔が左伝に注して言う、「大雩は、夏に天を祭る名である。雩とは遠の意で、遠く百穀の為に膏雨を求めるのである。
龍が現れて雩を行う。龍とは角宿・亢宿である。四月□に、龍星の体が現れ、万物が初めて盛んになり、雨を待って大きくなる。故に雩祭して雨を求めるのである。」一説に、大雩とは、帝を祭って雨を祈ることである。一説に、郊は天を祀って農事を祈り、雩は山川を祭って雨を祈ることである。漢旧儀に言う、「雨を求めるには、太常が天地・宗廟・社稷・山川に禱り、賽する。各々その常牢の通り、礼である。四月立夏に旱魃があれば、雨を求めて禱るのみ。後に旱魃があれば、再び重ねて禱るのみ。立秋に至れば、たとえ旱魃があっても雨を求めて禱ってはならない。」
注[二]山海経に言う、「大荒の東北隅に山あり、凶広土丘と名づく。応龍は南極に処し、蚩尤と誇父を殺し、再び上ることが得られず、故に下って数たび旱魃となる。旱魃の時、応龍の形状を為せば、乃ち大雨を得る。」郭璞が言う、「今の土龍は、これに本づく。気が応じ、自然に冥々として感ずるもので、人の為すところではない。」董仲舒が言う、「春の旱魃に雨を求めるには、県邑に水日を以て民に社稷を禱らせ、家人に戸を祠らせる。名木を伐らず、山林を斬らず。巫を暴し蛇を集めて八日とする。邑の東門の外に四通の壇を為し、方八尺、蒼繒八を植える。その神は共工である。生魚八、玄酒、清酒・膊脯を具えてこれを祭る。巫のうち清潔で弁舌爽やかな者を選んで祝とする。祝は三日斎戒し、蒼衣を着る。先ず再拝し、乃ち跪いて陳べ、陳べ終われば、再び再拝し、乃ち起つ。祝して言う、『昊天は五穀を生じて人を養う。今五穀が旱魃に病み、成らぬことを恐れる。謹んで清酒・膊脯を進め、再拝して雨を請う。幸いに雨が大いに注ぐならば、牲を奉って禱る。』甲・乙の日に大青龍一を為し、長さ八丈、中央に居らせる。小龍七を為し、各々長さ四丈、東方に於いて、皆東を向かせ、その間を八尺離す。小僮八人、皆三日斎戒し、青衣を着てこれを舞わす。田嗇夫もまた三日斎戒し、青衣を着てこれに立つ。社を鑿ちて閭外の溝に通ず。五蝦罶を取り、社の中に錯置する。池は方八尺、深さ一尺、水と蝦罶を置く。清酒・膊脯を具える。祝は三日斎戒し、蒼衣を着、拝跪・陳祝は初めの通りとする。三歳の雄鶏と三歳の豭猪を取り、皆四通の神宇でこれを燔く。民に邑里の南門を閉じさせ、その外に水を置き、里の北門を開かせる。老豭猪一を具え、これを里の北門の外に置く。市中にもまた一つの豭猪を置く。鼓の声を聞けば、皆猪の尾を焼き、死人骨を取り埋め、山淵を開き積薪を焚く。信道橋の壅塞して通じないものを決し、瀆を決する。幸いに雨を得れば、豚一、酒、塩、黍を以て報い、財は足るようにする。茅を以て席と為し、断たない。夏に雨を求めるには、県邑に水日を以て家人に醋を祀らせ、土功を行わない。井戸を更に大いに浚う。釜を壇に暴し、杵臼を術に置き、七日とする。邑の南門の外に四通の壇を為し、方七尺、赤繒七を植える。その神は蚩尤である。赤雄鶏七、玄酒、清酒・膊脯を具えてこれを祭る。祝は三日斎戒し、赤衣を着、拝跪・陳祝は春の通りとする。丙・丁の日に赤大龍一を為し、長さ七丈、中央に居らせる。また小龍六を為し、各々長さ三丈五尺、南方に於いて、皆南を向かせ、その間を七尺離す。壮者七人、皆三日斎戒し、赤衣を着てこれを舞わす。
司空の嗇夫もまた三日間斎戒し、赤い衣を着て立つ。社を掘って里の外の溝と通じさせる。五匹の蝦罶を取って、社の中に交錯して置く。池は七尺四方、深さ一尺。酒と干し肉で祭祀する。斎戒の衣は赤色、拝跪し、祝詞を述べることは春と同じ。三歳の雄鶏と雄豚を取り、四方に通じる神の屋で焼く。陰を開き陽を閉じることは春と同じ。季夏には、山陵に祈ってこれを助ける。県邑に命じて一度市場を邑の南門の外に移させ、五日間、男子が市場に入ることを禁じる。家人は中溜を祀る。土工事を行わない。巫を市場のそばに集め、彼らのために屋根を結ぶ。中央に四方に通じる壇を作り、黄色い絹五本を立てる。その神は後稷である。母□五、玄酒、清酒と干し肉を備えてこれを祭る。それぞれに祝詞を三日間斎戒させ、黄色い衣を着ることは、すべて春の祠と同じ。戊・己の日に大きな黄龍一匹、長さ五丈、中央に置く。また小さな龍四匹、それぞれ長さ二丈五尺、中央に置き、すべて南を向かせ、その間隔は五尺。丈夫五人、皆三日間斎戒し、黄色い衣を着てこれを舞う。老人も三日間斎戒し、黄色い衣を着て立つ。また社の中を里の外の溝と通じさせる。蝦罶の池は五尺四方、深さ一尺。その他はすべて前と同じ。秋には、巫を九日間まで暴く。火事を起こさず、金属器を煎じない。家人は門を祀る。邑の西門の外に四方に通じる壇を作り、九尺四方、白い絹九本を立てる。その神は少昊である。桐の木の魚九匹、玄酒、清酒と干し肉を備えてこれを祭る。白衣を着る。その他は春と同じ。庚・辛の日に大きな白龍一匹、長さ九丈、中央に置く。小さな龍八匹、それぞれ長さ四丈五尺、西方に置き、すべて西を向かせ、その間隔は九尺。□者九人、皆三日間斎戒し、白衣を着てこれを舞う。司馬も三日間斎戒し、白衣を着て立つ。蝦罶の池は九尺四方、深さ一尺。その他は前と同じ。
冬には、龍を六日間舞わせ、名山に祈ってこれを助ける。家人は井戸を祀る。水を塞がない。邑の北門の外に四方に通じる壇を作り、六尺四方、黒い絹六本を立てる。その神は玄冥である。黒い子犬六匹、玄酒、清酒と干し肉を備えてこれを祭る。祝は三日間斎戒し、黒衣を着る。祝の礼は春と同じ。壬・癸の日に大きな黒龍一匹、長さ六丈、中央に置く。
また小さな龍五匹、それぞれ長さ三丈、北方に置き、すべて北を向かせ、その間隔は六尺。老人六人、皆三日間斎戒し、黒衣を着てこれを舞う。尉も三日間斎戒し、黒衣を着て立つ。蝦罶の池はすべて春と同じ。
四季すべて庚子の日に、吏民の夫婦を皆一緒に住まわせる。およそ雨を求めるには、大体、丈夫は隠れて住もうとし、女子は和して楽しもうとする。」応龍には翼がある。法言に言う:「龍の雨を招く様を象る。難しいことだ、龍よ!龍よ!」新論に言う:「劉歆が雨を招くのに、土龍を作り、律管を吹き、あらゆる方術を備え設けた。譚が問う:『雨を求めるのに土龍を用いるのは、なぜか。』と言うと、『龍が現れると、すぐに風雨が起こり、それをもてなすため、その象と類に縁ってこれを作るのだ。』」注[三]周礼に言う:「□舞は、率いて旱魃の事を舞う。」鄭玄が言う:「□は、赤い皁で羽を染めて作るものである。」
旱歎について注釈する:「陽である。仮の色を用いるのは、時が来れば去らせたいからである。」
注[四]漢旧儀に言う:「成帝の三年六月、初めて諸官に命じて雨を止めさせ、朱の縄で社を反対に巻き、太鼓を打ってこれを攻めた。この後、水害と旱害が常に調和しなかった。」干宝が言う:「朱の糸で社を巻く。社は太陰である。朱は火の色である。糸は離に属する。天子が社で太鼓を打つのは、群陰を責めるためである。諸侯が社で幣を用いるのは、上公に請うためである。朝廷で太鼓を打つのは、自らを攻めて退くためである。これは聖人の厭勝の法である。」
注[五]漢書儀に言う:「武帝の元封の日から七月まで終わってこれを賽し、秋冬春には雨を求めない。」古今注に言う:「武帝の元封六年五月に旱害があり、女および巫の丈夫は市場に入らなかった。」
皇太子を拝する儀式:百官が集まり、位置が定まると、謁者が皇太子を御座の殿下に導き、北を向かせる。司空は太子の西北に当たり、東を向いて立つ。策書を読み終わると、中常侍が皇太子の璽綬を持って東を向き太子に授ける。太子は再拝し、三度稽首する。謁者が皇太子臣某と唱え、中謁者が制と称して「可」と言う。三公が階を上って殿に上がり、万歳を賀する。これにより大赦を天下に下す。供賜の礼が終わると、終わる。
諸侯王公を拝する儀式:百官が集まり、位置が定まると、謁者が光祿勲を前に導く。[一]謁者が拝されるべき者を前に導き、座に当たって殿下に伏させる。光祿勲が前に進み、一拝し、手を挙げて言う:「制詔す、某を以て某と為す。」[二]策書を読み終わると、謁者が臣某再拝と称する。尚書郎が璽印綬を侍御史に渡す。侍御史が前に進み、東を向いて立ち、璽印綬を授ける。王公は再拝頓首三する。謁者を補佐する者が言う:「某王臣某新たに封ぜられ、某公某初めて除され、謝す。」中謁者が謹んで謝すと報じる。補佐する者が立って言う:「皇帝、公のために興る。」重ねて座り、策を受ける者は拝して謝し、起きて就位する。供賜の礼が終わると、終わる。[三]注[一]丁孚の漢儀に「太常が蓋の下に住み、東を向いて文を読む」とあり、これとは異なる。
注[二]丁孚の漢儀に夏勤の策文があり、言う:「元初六年三月甲子、制詔して大鴻臚勤を以て司徒と為す。曰く:『朕は天の序を承け、惟れ古を稽え、爾を位に建てて漢の輔と為す。往きて旧職に率い、敬って五教を敷き、五教は寛に在り。
朕の身の左右にあり、力を四方に宣べ、皇家を保い治む。嗚呼!実に国の均を秉るのみ、旁ら其の緒を祗み、時に天の工を亮す、慎まざるべけんや!勤、其れこれを戒めよ!』」注[三]臣昭が言う:漢が皇后を立てるのは、国の礼の大なるものであるが、志にその儀がないのは、まことに未だ明らかでない。蔡質の記した宋皇后を立てる儀を見ると、今これを取って欠けを備える。言う:「尚書令臣囂、僕射臣鼎、尚書臣旭、臣乗、臣滂、臣謨、臣詣、稽首して言う:『伏して惟うに陛下は干に履き坤を則り、動き陰陽に合う。群臣大小皆以て長秋宮未だ定まらず、旧に遵い典に依り、章表仍び聞こえ、時を歴て乃ち聴く。今月吉日、宋貴人を以て皇后と為し、期に応じて位を正し、群生兆庶式舞せざるは莫し。易は「茲の介祉を受く」と称し、詩は「禄を干し百福、子孫千億」と云う、万方幸甚。
今、吉日が定まったので、臣下は太傅、太尉、司徒、司空、太常に礼儀の正しい手順を条列して上奏するよう請う。群臣や妾たちが上寿の礼を行わないことは、故事の通りである。臣囂、臣鼎、臣旭、臣乗、臣滂、臣謨、臣詣は愚かで暗く、大義を理解しておらず、誠に恐れ謹み、頓首して死罪を申し上げ、稽首して再拝し、奏上する。』詔書に『よろしい』とあった。建寧四年七月乙未の日、詔書を下した。『皇后の尊位は、帝と体を同じくし、天地を供養し、宗廟を敬い受け継ぎ、天下の母として臨む。ゆえに有莘の女が殷を興し、姜任が周の母となった。二代の隆盛は、内に徳があったからである。長秋宮の宮殿は、中宮の位が空いている。宋貴人は淑媛の美徳を備え、山河のような威儀を体現し、威容は明らかに輝き、徳は後宮で第一である。群臣が諮問するところ、皆が『適任である』と言う。占いの蓍亀で卜うと、卦は承干を得た。有司が奏議し、紱組を称え、万民の母となるのがふさわしいとすべきである。
今、太尉の襲を使者持節として璽綬を奉じさせ、宗正の祖を副使とし、貴人を皇后に立てる。後にその位に就き、宗廟の礼典を敬い、中饋を厳かに慎み、朕の命に背かず、天の禄を永く終えるように。』皇后は初めて章徳殿で即位し、太尉は使者持節として璽綬を奉じ、天子は軒に臨み、百官は陪位した。皇后は北を向き、太尉は傘蓋の下に立ち、東を向き、宗正と大長秋は西を向いた。宗正が策文を読み終えると、皇后は拝礼し、臣妾と称し、終わると位に着いた。太尉の襲が璽綬を授け、中常侍長秋太僕高郷侯の覧が長跪して璽綬を受け取り、殿前で奏上し、女史が婕妤に授け、婕妤が長跪して受け取り、昭儀に授け、昭儀が受け取り、長跪して皇后に帯びさせた。皇后は伏し、起き上がって拝礼し、臣妾と称した。終わると、黄門鼓吹が三度鳴らされた。鼓を鳴らし終えると、群臣は順次退出した。後に即位し、大赦を天下に施行した。皇后の秩は国王に比し、即位の威儀は、赤い紱と玉璽である。」
仲夏の月は、万物がちょうど盛んになる。夏至の日には、陰気が萌し始め、物が茂らないことを恐れる。その礼は、朱色の縄で葷菜をつなぎ、弥牟樸蠱鐘を満たす。桃の印で長さ六寸、幅三寸のものに、五色で法に従って文を書き、門戸に施す。代々に崇尚するもので飾りを代える。夏后氏は金徳であり、葦の茭を作り、気が交わるという。殷人は水徳であり、螺の頭を用い、その閉塞を慎み、螺のようになるようにする。周人は木徳であり、桃を更とし、気が相更えるという。漢はこれを兼ね用いるので、五月五日に、朱色の縄と五色の印で門戸を飾り、悪気を止め難くする。夏至の日には、大火を起こすことを禁じ、炭を焼き鼓を鋳造することを止め、硝石を溶かし冶金することも全て絶つ。立秋に至るまで、故事の通りとする。この日には井戸を浚い水を改め、冬至には鑽燧で火を改めるという。
注釈[一] 風俗通に言う。「伝に『萑葦には叢がある』と言う。呂氏春秋に『湯が初めて伊尹を得た時、廟で祓い、萑葦で薫した』と言う。周礼に『卿大夫の子は門子と名付ける』。論語に『誰か戸より出でずして由らざる者あらんや』。
故に葦を用いるのは、人の子孫が繁殖することを望むためである。その類を失わず、萑葦のようである。茭は交易であり、陰陽が代わり興ることである。」
注釈[二] 桃印は本来漢の制度であり、卯金(劉氏)を補佐するためである。魏はこれを廃した。
立秋の十八日前に、黄帝を郊祀する。この日の夜漏が五刻尽きないうちに、京都の百官は皆黄色の衣を着る。立秋に至り、黄郊で気を迎え、楽は黄鐘の宮を奏で、帝臨を歌い、冕をかぶり干戚を執り、雲翹、育命を舞い、時に養い訓えるためである。
立秋の日、夜漏が五刻尽きないうちに、京都の百官は皆白い衣を着、皂色の襟縁の下着を付け、白郊で気を迎える。
礼が終わると、皆絳色の衣を着、立冬まで続ける。
立秋の日、白郊の礼が終わると、初めて威武を揚げ、郊の東門で犠牲を斬り、陵廟に薦める。その儀式は、
乗輿は戎路に乗り、白馬に朱のたてがみ、自ら弩を執って犠牲を射る。犠牲は鹿の子を用いる。太宰令と謁者が各一人、獲車に載せ、馳せて陵廟に送る。そこで乗輿は宮に戻り、使者を遣わして束帛を継ぎ賜い、武官に賜う。
武官は兵を演習し、戦陣の儀と犠牲を斬る礼を習い、これを貙劉という。兵士と官は皆、孫子と呉子の兵法六十四陣を演習し、これを乗之という。立春には、使者を遣わして束帛を継ぎ賜い、文官に賜う。貙劉の礼は、先虞を祠り、執事が先虞に告げ終わり、生贄を調理する時、有司が告げ、そこで逡巡して犠牲を射る。獲車が終わると、有司が事の終わりを告げる。
注釈[一] 月令に言う。「天子はまさに飾りを整え、弓を執り矢を挟んで狩りをする。」月令章句に言う。「親しく弓を執り禽を射るのは、万民に戦いの事を教えるためである。四時に閑習し、無辜を救い、有罪を伐つためであり、強兵して民を保ち、安きに忘れず危うきを思うためである。」
注釈[二] 漢官名秩に言う。「太尉と将軍に各六十匹、執金吾と諸校尉に各三十匹を賜う。武官は文官の倍である。」
注釈[三] 月令に、孟冬に天子が武を講じ、射御を習い、角力するとある。盧植の注に言う。「角力は、漢家の乗之のようであり、関を引いて蹴鞠の類である。」今の月令に、季秋に天子が田猟を教え、五戎を習うとある。月令章句に言う。「戎事の教えを田猟に託す。武事は空しく設けることができず、必ず戒めがあるので、田猟に教えを託し、五兵を閑習する。
古語に『車に在りては下と為す』とあるが、この時のみ施行する。」魏書に曰く、「建安二十一年三月、曹公自ら藉田を耕した。有司が奏上した、『四時に農隙を利用して武を講じる。漢は秦の制を承け、三時には講じず、ただ十月に車駕が長安水南門に幸し、五営の士を会し、八陣の進退を為し、名付けて乗之という。今、金革未だ偃まず、士民は平素より習熟している。四時に武を講ずる必要はなく、ただ立秋に吉日を選び大いに車騎を朝し、号して治兵という。上は礼の名に合い、下は漢の制を承けるものである。』」注[四]漢官名秩に曰く、「司徒・司空に帛四十匹を賜い、九卿には十五匹を賜う。」古今注に曰く、「建武八年立春、公に十五匹、卿に十匹を賜う。」
注[五]古今注に曰く、「永平元年六月乙卯、初めて百官に貙膢を令し、白幕は皆霜のようであった。」風俗通は「韓子の書に、山に居り谷に水を汲む者は、膢臘にして水を置く。楚の俗は常に十二月に飲食を祭る。また曰く、新を嘗め始めて殺す。新を食うことを貙膢という。」と称している。
仲秋の月、県道は皆戸を案じ民を比べる。年齢が七十に始まる者には、王杖を授け、糜粥を餔する。八十、九十の者には、礼として加賜がある。王杖の長さは九尺、端に鳩鳥を飾りとする。鳩は、噎せない鳥である。老人が噎せないことを願うためである。
この月、国都の南郊の老人廟で老人星を祀る。
季秋の月、城南の壇の心星廟で星を祠る。
立冬の日、夜漏が未だ尽きず五刻の時、京都の百官は皆皁衣を着て、黒郊で気を迎える。礼が終わると、皆絳衣を着て、冬至まで事を絶つ。
冬至の前後、君子は身を安んじ体を静かにし、百官は事を絶ち、政を聴かず、吉辰を選んで後に事を省みる。事を絶つ日、夜漏が未だ尽きず五刻の時、京都の百官は皆絳衣を着て、立春に至る。諸々の五時に服を変える際、執事者はその時より先に或いは後に皆一日行う。
冬至・夏至の日は、陰陽の晷景の長短の極まり、微気の生ずる所である。[一]故に八能の士八人を使い、或いは黄鐘の律を吹き竽を間う;或いは黄鐘の鐘を撞く;或いは晷景を度り、水の軽重を権り、水一升は、冬に十三両重い;或いは黄鐘の磬を撃つ;或いは黄鐘の瑟を鼓し、軫の間は九尺、二十五弦、宮は中に処り、左右を商・征・角・羽とする;或いは黄鐘の鼓を撃つ。先だつこと三日、太史が謁する。至日に、夏は四孟の時、冬は四仲の時、その気が至る。 注[一]白虎通に曰く、「至日に兵を休め、事を興さず、関を閉じ、商旅を行わないのは何故か?この日は陰陽の気が微かであり、王者は天を承けて物を理めるので、天下を率いて静かにし、再び行役せず、微気を扶助し、万物を成すためである。夏至は陰気が動き始め、冬至は陽気が萌し始める。易に曰く、『先王は至日に関を閉じ、商旅を行わず。』夏至に陰が始めて起きるのに、反って大熱となるのは何故か?陰気が始めて起き、陽気が推し上げるので、大熱となるのである。冬至に陽が始めて起きるのに、大寒となるのは何故か?陽気が始めて起き、陰気が推し上げるので、大寒となるのである。」
気が至る五刻前に、太史令と八能の士は端門左塾に坐す。大予が楽器を具え、夏は赤、冬は黒とし、前殿の前の西上に列べ、鐘を端とする。守宮が器の南に席を設け、北面東上とし、正徳の席とし、鼓の南西面とし、晷儀を東北に令す。三刻、中黄門が兵を持ち、太史令・八能の士を導いて端門より入り、位に就く。二刻、侍中・尚書・御史・謁者皆陛す。一刻、乗輿親しく御し臨軒し、体を安んじ居を静かにしてこれを聴く。太史令が前に進み、軒溜に当たり北面して跪く。手を挙げて曰く、「八能の士は備わりました。事を行わんことを請う。」制して曰く「可」。太史令稽首して曰く「諾」。立ち上がり少し退き、顧みて正徳に令して曰く、「事を行え。」正徳曰く「諾」。皆旋って位に復す。正徳立ち、八能士に命じて曰く、「次を以て事を行い、音を間うには竽を以てせよ。」八能曰く「諾」。五音各三十を闋とする。
正徳曰く、「五音律を合せよ。」先ず唱え、五音並びに作し、二十五闋、皆音を竽に以てす。[一]終わり、正徳曰く、「八能士各々事を言え。」八能士各々板に書して事を言う。文に曰く、「臣某言す、今月若干日甲乙日冬至、黄鐘の音調う、君道得たり、孝道□。」商は臣、角は民、征は事、羽は物、各一板。
然らずば太史令を召し各々板に書し、皁囊を以て封じ、西陛に送り、跪いて尚書に授け、軒に当てて施し、北面稽首し、封事を上ぐるを拝す。尚書は侍中常侍に授けて迎え受けさせ、報聞する。小黄門の幡麾を以て節度す。太史令前に進み礼畢を白す。制して曰く「可」。太史令前に進み稽首して曰く「諾」。太史は八能士に命じて太官に詣り賜を受かしむ。陛する者は次を以て罷む。夏至の日の礼もまたこれに如し。[二] 注[一]楽□図征に曰く、「夫れ聖人の楽を作すは、自ら娯しむためではなく、得失の効を見る所以である。故に聖人は一人に備わるを取らず、必ず八能の士に従う。故に鐘を撞く者は鐘を知るべきであり、鼓を撃つ者は鼓を知るべきであり、管を吹く者は管を知るべきであり、竽を吹く者は竽を知るべきであり、磬を撃つ者は磬を知るべきであり、琴を鼓する者は琴を知るべきである。故に八士は或いは陰陽を調え、或いは律暦を調え、或いは五音を調える。故に鐘を撞く者は法度を知り、琴を鼓する者は四海を知り、磬を撃つ者は民事を知る。鐘の音が調えば、則ち君道得たり;君道得れば、則ち黄鐘・蕤賓の律応ず。君道得られずば、則ち鐘の音調わず;鐘の音調わずば、則ち黄鐘・蕤賓の律応ぜず。鼓の音が調えば、則ち臣道得たり;臣道得れば、則ち太蔟の律応ず。管の音が調えば、則ち律暦正し;律暦正しければ、則ち夷則の律応ず。磬の音が調えば、則ち民道得たり;
民道得れば、則ち林鐘の律応ず。竽の音が調えば、則ち法度得たり;法度得れば、則ち無射の律応ず。琴の音が調えば、則ち四海合して歳気し、百川一たび徳を合す。鬼神の道行わり、祭祀の道得たり、かくの如くすれば、則ち姑洗の律応ず。五楽皆得れば、則ち応鐘の律応ず。天地和気を以て至れば、則ち和気応ず;和気至らざれば、則ち天地の和気応ぜず。鐘の音が調えば、下臣は法を以て主を賀す。鼓の音が調えば、主は法を以て臣を賀す。磬の音が調えば、主は徳を以て百姓に施す。琴の音が調えば、主は徳を以て四海に及ぼす。八能の士は常に日冬至に天文を成し、日夏至に地理を成す。陰楽を作して天文を成し、陽楽を作して地理を成す。」
注[二]蔡邕の独断に曰く、「冬至は陽気が動き始め、夏至は陰気が起き始め、麋鹿の角が解ける。故に兵鼓を寝かす。身は寧んぜんと欲し、志は静かならんと欲す。故に事を聴かず、迎送*(凡そ田猟)**[五日。臘]*とは、歳終の大祭であり、吏民を縦して宴飲す。気を迎えるのではないので、ただ送り迎えず。正月の歳首もまた臘の儀に如し。冬至は陽気が起き、君道長ず。故に賀す。夏至は陰気が起き、君道衰う。故に賀さず。鼓は以て衆を動かし、鐘は以て衆を止む。故に夜漏尽きれば、鼓鳴れば則ち起き;晝漏尽きれば、鐘鳴れば則ち息む。」
季冬の月、星が回り歳が終わり、陰陽が交わり、農民を労って盛大に臘祭を行う。
臘祭の前日、大儺を行い、これを逐疫という。その儀式は、中黄門の子弟で年齢十歳以上十二歳以下の者を選び、百二十人を侲子とする。皆、赤い幘に黒い衣を着け、大□を執る。方相氏は黄金の四つの目を持ち、熊の皮をかぶり、玄衣に朱裳を着け、戈を執り盾を揚げる。十二の獣は毛と角を着ける。中黄門がこれを行い、□従僕射が率いて、悪鬼を禁中から追い払う。夜漏が上水の刻になると、朝臣が集まり、侍中、尚書、御史、謁者、虎賁、羽林郎将が執事となり、皆、赤い幘を着け陛□に立つ。乗輿は前殿に臨御する。黄門令が奏上して言う、「侲子が整いました。疫鬼を追い払うことを請います」。そこで中黄門が唱え、侲子が和し、言う、「甲作は□を食らい、胇胃は虎を食らい、雄伯は魅を食らい、騰簡は不祥を食らい、攬諸は咎を食らい、伯奇は夢を食らい、強梁と祖明は共に磔死寄生を食らい、委随は観を食らい、錯断は巨を食らい、窮奇と騰根は共に蠱を食らう。凡そ十二の神を使って悪凶を追い、汝の躯を赫し、汝の干を拉ぎ、汝の肉を節解し、汝の肺腸を抽く。汝が急ぎ去らねば、後れる者は糧となるぞ!」。そこで方相と十二の獣の□を作る。嚾呼し、周□の前後を省みて三度巡り、炬火を持ち、疫鬼を端門から送り出す。
門外では騶騎が炬火を伝えて宮を出し、司馬闕門の門外では五営の騎士が火を伝えて雒水の中に棄てる。
百官官府はそれぞれ木面の獣を儺人の師とし、終わると桃梗、郁櫑、葦茭を設け、執事で陛にいた者は罷める。
葦戟と桃杖を公、卿、将軍、特侯、諸侯に賜うという。
注釈:譙周の論語注に言う、「儺とは、□することである」。
注釈:漢旧儀に言う、「顓頊氏に三人の子がおり、生まれてすぐに逃げ去り疫鬼となった。一人は江水に住み、これを*(虎)**[虐鬼]*という。一人は若水に住み、これを罔両蜮鬼という。一人は人の宮室の区隅*(漚庾)*に住み、よく小児を驚かす」。
月令章句に言う、「太陽が北方の宿を行く。北方は大陰である。恐らく抑えられることを恐れ、故に有司に命じて大儺を行い、陽を扶け陰を抑えるのである」。盧植の礼記注に云う、「衰を逐い新を迎える所以である」。
注釈:漢旧儀に言う、「方相が百隷及び童*(女)**[子]*を率い、桃弧、棘矢、土鼓を用い、鼓を打ち且つ射て、赤丸、五穀を播灑する」。譙周の論語注に言う、「葦矢でこれを射る」。薛綜が言う、「侲とは善の意味で、善き童幼子である」。
注釈:東京賦に言う、「*(捐)**[捎]*魑魅し、獝狂を斮つ。委蛇を斬り、方良の脳を砕く。耕父を清泠に囚え、女魃を神潢に溺らす。夔魖と罔象を残し、□仲を殪し游光を殲す」。注に言う、「魑魅は山沢の神。獝狂は悪鬼。委蛇は車轂の如く大。方良は草沢の神。耕父、女魃は皆旱鬼。悪水であるから、水中に囚え溺らせ、害を為すことができないようにする。夔魖、罔象は木石の怪。□仲、游光は兄弟八人、常に人間に在って怪害をなす」。孔子が言う、「木石の怪は夔、罔両、水の怪は龍、罔象」。*(臣)**[韋]*昭が言う、「木石*[は]*山*(の怪)*を謂う。夔は一足、越人は*[これを]*山□と謂う。罔両は山精、人の声を好んで学び、人を迷惑させる。龍は神物、常に見る所に非ず、故に怪と曰う。罔象は人を食らい、一名を沐□という」。
埤蒼に言う、「獝狂は頭なき鬼」。
注釈:東京賦に言う、「煌火馳けて星流れ、赤疫を四裔に逐う」。注に言う、「煌は火光。逐は驚走。煌然たる火光星の如く馳る。赤疫は疫鬼の悪しき者」。侲子は三行に合し、東序より上り、西序より下る。
注釈:東京賦注に言う、「□士千人端門外に在り、五営千騎□士の外に在り、三部と為し、更に送りて雒水に至らしめ、凡そ三輩、鬼を逐い雒水中に投ず。仍って天池に上り、其の橋樑を絶ち、復た度り還ることを使わず」。
注釈:山海経に言う、「東海の中に度朔山有り、上に大桃樹有り、蟠屈三千里、其の卑枝門を東北鬼門と曰い、万鬼出入す。上に二神人有り、一を神荼と曰い、一を郁櫑と曰い、主に觿鬼の悪く人を害する者を閲領し、葦索を執りて用い虎に食わしむ」。ここにおいて黄帝法し之に象る。駆除畢り、因って桃梗を門戸上に立て、郁櫑の葦索を持つを画き、以て凶鬼を御し、虎を門に画き、当に鬼を食らうに当たる。史記に言う、「東は蟠木に至る」。
風俗通に言う、「黄帝*[書]*に『上古の時、神荼と郁櫑兄弟二人有り、性鬼を執るに能くす』と。桃梗、梗は更なり、歳終わり更に始まり、介祉を受く。蘇秦、孟嘗君に説いて曰く『土偶人桃梗に語り、今子は東国の桃木、子を削りて人と為す』と。虎は陽物、百獣の長、能く鷙牲を撃ち魑魅を食らう者」。
また、贄(進物)については、公や侯は璧、中二千石および二千石は子羊、千石および六百石は雁、四百石以下は雉を献上した。百官が正月を祝賀する。二千石以上の者は殿上に上って万歳を称え、杯を挙げて御座の前で祝う。司空は羹を奉じ、大司農は飯を奉じ、食を挙げる音楽を奏する。百官は賜物を受け宴饗し、盛大に音楽を奏する。毎月の朔には、ただ十月の旦(一日)のみが故事に従う。これは高祖が秦を平定した月であり、元年の歳首である。
注[一]『献帝起居注』に言う:「旧典では、巿長は雁を執ったが、建安八年に初めて雉を執ることを命じた。」