威儀とは、君臣の関係を整え、六親の秩序を定めるためのものである。もし君主に君主としての威厳がなく、臣下に臣下としての礼儀がなければ、上は衰え下は侵すことになり、これを大乱という。大乱が起これば、すべての生き物がその災いを受けることになる。慎重にすべきではないか。よって、施行された威儀を記録し、礼儀志とした。(謝沈の書によれば、「太傅胡広は、旧来の儀礼を広く総合し、漢の制度を立てた。蔡邕はこれに基づいて志とし、譙周が後に改定して礼儀志とした」という。)
合朔
礼威儀によれば、毎月の朔の朝、太史がその月の暦を上奏し、有司・侍郎・尚書がその令を拝読し、その政務を奉行する。朔の前後各二日は、すべて羊を引き、酒を持って社の下に至り、日を祭る。日に異変があるときは、羊を割いて社に祠り、日を救う。日に異変があるとき、執事者は長冠をかぶり、黒の単衣を着て、えび茶色の襟袖、緑の中衣、えび茶色の袴と靴下をはき、礼を行い、故事の通りとする。(《公羊伝》に「日食があるときは、鼓を打ち、社で犠牲を用いる。これは陰を求める道である。朱い糸で社をめぐらすのは、あるいは脅すため、あるいは暗くするためである。人が犯すのを恐れるので、めぐらすのである」とある。何休は「脅すのは責め求めるのと同義である。社は土地の主である。月は土地の精である。上は天に繋がり日を犯すので、鼓を鳴らしてこれを攻め、その本を脅すのである。朱い糸でめぐらすのは、陽を助け陰を抑えるためである。あるいは暗くするためというのは、社は土地の主で尊いものであり、日光が尽きて天が暗くなり、人がこれを犯し踏みにじるのを恐れるので、めぐらすのである。しかしこの説は正しくない。先に鼓と言い、後に犠牲を用いると言うのは、先に尊者の命をもってこれを責め、後に臣子の礼をもってこれに接することを明らかにし、順であることを示すためである」という。《白虎通》に「日食は必ずこれを救う。陰が陽を侵すからである。鼓を打って攻めるのは、陽をもって陰を責めるためである。ゆえに春秋に『日食、鼓を打ち、社で犠牲を用いる』とある。必ず犠牲を用いるのは、土地は別の神であり、これを尊び、虚しく責めることをしないからである。日食・大水のときは鼓を打ち犠牲を用い、大旱のときは雨を求めて雩祭を行う。虚言ではない。陽を助けて下を責め、陰を求める道である」とある。決疑要注に「日食を救うときは、すべて赤い幘をかぶり、陽を助ける。日が食おうとするとき、天子は素服で正殿を避け、内外厳重にする。日に異変があるとき、鼓を打って音を聞かせ、侍臣は赤い幘をかぶり、剣を帯びて侍し、三臺の令史以下はすべて剣を持ってその戸前に立ち、衛尉卿は駆け巡って宮殿をめぐり、守備を巡察し、一周してまた始める。日が平常に戻ってから、すべてこれをやめる」とある。)
立春
正月の上丁の日、南郊で祠る。(《白虎通》に「春秋伝に『正月の上辛をもって』とあり、尚書に『丁巳、郊で犠牲を用いる、牛二頭』とある。甲の前の三日は辛、甲の後の三日は丁で、いずれも昊天に接事する日である」とある。)礼が終わると、次に北郊、明堂、高廟、世祖廟で祠り、これを五供という。五供が終わると、順次に陵に上る。
西都(長安)には旧来、上陵の礼があった。東都(洛陽)の儀礼では、百官・四姓の親家婦女・公主・諸王大夫・外国の朝者侍子・郡国の計吏が陵に会する。昼漏が上水のとき、大鴻臚が九賓を設け、寝殿の前に従って立つ。(蔡邕の独断に「先帝・后と縁故のある者すべて」とある。)鐘が鳴ると、謁者が礼を治めて客を引き、群臣は儀礼の通りに就位する。乗輿は東廂から下り、太常が導き出し、西に向かって拝し、旋回して阼階に昇り、神坐を拝する。退いて東廂に座り、西に向かう。(薛綜は「九賓とは王・侯・公・卿・二千石・六百石以下および郎・吏・匈奴侍子の九等をいう」という。)侍中・尚書・陛者はすべて神坐の後ろにいる。公卿群臣が神坐を謁し、太官が食事を上し、太常の楽が食挙を奏し、文始・五行の舞を舞う。(前書志に「文始舞は、もと韶舞であり、高祖六年に文始と改名し、相襲がないことを示した。五行舞は、もと周の舞であり、秦始皇二十六年に五行の舞と改名した」とある。)礼楽が終わると、臣は賜った食事を受け終わり、郡国の上計吏が順に前に進み、神軒に当たってその郡国の穀物の価格と民の苦しみを述べ、神にその動静を知らせようとする。孝子が親に仕えて礼を尽くすのは、敬愛の心である。周到に礼の通りに行う。(謝承の書に「建寧五年正月、車駕が原陵に上った。蔡邕は司徒掾として、公に従って行き、陵に至り、その儀礼を見て、慨然として同座の者に言った。『古には墓祭はないと聞く。朝廷に上陵の礼があるのは、始めは減らすべきだと思った。今その儀礼を見て、その本意を察すると、孝明皇帝の至孝惻隠の心が、旧来のものを変えられないことを知った』。ある人が『本意とはどういうことか』と問うと、『昔、京師が長安にあったとき、その礼はすべて聞くことができなかった。光武が世を去り、始めてここに葬られた。明帝が位につき一年を過ぎ、群臣が正月の朝賀をしたとき、先帝がこの礼を再び聞き見ることができないことを感じ、公卿百僚を率いて園陵に赴き、これを創始したのである』」とある。)最後に親しく陵に詣で、計吏を遣わし、帯と佩を賜う。八月に酎を飲み、陵に上る礼もこれと同じである。(丁孚の漢儀に「酎金律は文帝が加えたもので、正月の旦に酒を作り、八月に完成し、酎酒と名付ける。これにより諸侯に助祭させて金を貢がせた」とある。漢律金布令に「皇帝は斎戒して宿し、親しく群臣を率いて宗廟を祠り、群臣は分かれて奉請すべきである。諸侯・列侯はそれぞれ民の口数に従い、千口ごとに金四両を奉り、千口に満たない奇数の五百口でも四両とし、すべて酎に会し、少府が受け取る。また大鴻臚は、食邑が九真・交址・日南にある者は、犀角の長さ九寸以上または瑇瑁の甲一枚、郁林は象牙の長さ三尺以上または翡翠をそれぞれ二十個用い、金に準じて当てる」とある。漢書儀に「皇帝は八月の酎のみ、車駕で夕牲を行い、牛にはえび茶色の衣を着せる。皇帝は夕方に牲を見、鑒燧で月から水を取り、火燧で日から火を取り、明水・明火とする。左肩を袒き、水で牛の右肩を洗い、手に鸞刀を持ち、牛の毛を切って薦め、すぐに更衣し、巾侍中が熟したものを上ると、祀る」とある。)
斎戒は、天地に対しては七日、宗廟・山川に対しては五日、小祠に対しては三日行う。斎戒期間中に穢れがあれば、斎戒を解き、副官が代わって礼を行う。斎戒前日に、穢れや災変があれば、儀式に従って斎戒祭祀を行う。大喪の際は、天の郊祀のみが柩車を越えて斎戒を行い、地以下の祭祀は皆、百日後に斎戒を行う。これは故事に従う。(魏の文帝の詔に言う。「漢の時代は東郊で日を拝まず、朝夕に常に殿下の東面で日を拝んだ。これは煩雑で卑近で、家人の事のようであり、天に事え神と交わる道ではない。」そこで朝日を東門の外で拝し、祭祀を行う前には必ず前夜に犠牲を検め、その儀式は郊祀と同じである。)
正月、天の郊祀では、夕べに犠牲を検める。昼漏がまだ十八刻残っている時に初めて納牲し、夜漏がまだ八刻残っている時に初めて納牲し、煮えた肉を献じ、太祝が送り、旋回し、皆、燎祭の位置に就く。宰祝が火を挙げて柴を燔き、火が燃え上がると、天子は再拝し、立ち上がり、有司が事の終わりを告げる。明堂、五郊、宗廟、太社稷、六宗の夕牲は、皆、昼漏がまだ十四刻残っている時に初めて納牲し、夜漏がまだ七刻残っている時に初めて納牲し、煮えた肉を献じ、神を送り、還り、有司が事の終わりを告げる。六宗の燔燎では、火が大きく燃え上がると、有司が事の終わりを告げる。注[一]周礼の「展牲」について、干宝は「今の夕牲のようなもの」と言う。また郊祀の儀式では、郊祀の前日、日がまだ晡時(午後3時)になる五刻前に夕牲を行い、公卿、京尹、衆官が皆、壇の東に就位する。太祝吏が犠牲を牽き入れ、標識の所に来ると、廩犧令が跪いて言う。「犠牲を検めさせてください。」手を挙げて言う。「肥えています。」太祝令が犠牲を巡り、手を挙げて言う。「充実しています。」太史令が犠牲を厨房に牽いて行き、二つの陶豆で毛と血を取り、一つを天神の座前に奠め、一つを太祖の座前に奠める。今の郊祀もこれと同じである。
注[二]干宝の周官注に言う。「納とは、烹煮して納れること。犠牲を殺すことを告げる、祭祀の朝に向かう時を指す。」
正月に耕作を始める。昼漏が水を上る時に初めて納牲し、執事が先農に祠りを告げ、すでに饗する。耕作の時、有司が行事を請い、耕作の位置に就く。天子、三公、九卿、諸侯、百官が順次に耕作する。力田や種子がそれぞれ覆土を終えると、有司が事の終わりを告げる。この月の令に言う。「郡国の守相は皆、民を励まして耕作を始めさせ、儀式に従う。諸々の行き来には皆、鐘を鳴らし、皆、楽を奏する。
災害や異変、他の事情、あるいは雨乞い、雨止めの祈願がある時は、皆、鐘を鳴らさず、楽を奏しない。」注[一]月令に言う。「天子は自ら耒耜を載せ、それを参乗の保介と御者の間に置き、三公、九卿を率いて、帝藉(天子の藉田)を自ら耕す。」
盧植の注に言う。「帝とは天である。藉とは耕すことである。」
注[三]鄭玄の周礼注に言う。「天子は三推、公は五推、卿、諸侯は九推、庶人は千畝を終える。庶人とは三百人の徒のことである。」月令章句に言う。「卑しい者はより労多く、故に三公は五推する。礼では、上から下へ、二つずつ減らすが、労役の事はこれと逆である。諸侯の上には孤卿が七推、大夫が十二推、士が畝を終えることがあるはずで、これは推して知ることができる。」盧植の礼記注に言う。「天子が藉田を耕す時、一発で九推する。周礼では、二つの耜を耦とし、一つの耜の伐(起こすこと)は、広さ一尺、深さ一尺である。
伐とは、発(起こす)ことである。天子と三公は、坐って道を論じ、五つの職事に参与するため、三公は五を数とする。卿、諸侯は天子の職事を成し遂げるべきであるため、九を数とする。伐が皆三であるのは、礼が三を以て文とするためである。」
注[四]史記に言う。漢の文帝の詔に云う。「農は天下の根本である。その藉田を開き、朕自ら耕し、以て宗廟の粢盛を給する。」応劭が言う。「古、天子は藉田千畝を耕し、天下に先んじる。藉とは、帝王の典籍の常である。」
一方、応劭の『風俗通』ではまた、「古くは民を使うことを借りるようにしたので、藉田と言った」とある。鄭玄は、「藉とは借りの意味である。王が一度耕し、庶人に除草や刈り取りを最後までさせる」と言う。盧植は、「藉とは耕すことである。春秋伝に『鄅人藉稻』とあるので、藉が耕すことだと分かる」と言う。韋昭は、「民の力を借りてこれを治め、宗廟に奉る。また、天下を勧め率いて、農務に励ませるためである」と言う。
杜預の注に、「鄅人藉稻とは、その君主が自ら出て稻を藉する、すなわち自ら行うことである」とある。瓚は、「藉とは踏みつけることである。本来は自ら行うことを意味するので、仮借の意味で称えることはできない」と言う。漢書儀に、「春に始めて東の藉田で耕し、官が先農を祠る。
先農とはすなわち神農炎帝である。一太牢で祠り、百官は皆従い、三輔二百里の孝悌、力田、三老に帛を大いに賜う。百穀万斛を種き、藉田倉を立て、令、丞を置く。穀物は皆、天地、宗廟、群神の祭祀に給し、粢盛とする。皇帝自ら耒耜を執って耕す。古くは甸師官といった」とある。賀循は、「種く穀物は、黍、稷、穜、稑である。稑は早いもの。穜は遅いもの」と言う。干宝の周礼注に、「穜は遅い穀物、すなわち稲の類。珪(稑)は早い穀物、黍稷の類」とある。
注[五]『春秋釈痾』に、「漢家では郡守が大夫の礼を行い、鼎俎籩豆を備え、楽工が歌い、懸楽を奏する」とある。何休は、「漢家の法は軍陣を陳べ、守相を置くので、その楽を行うのである」と言う。
仲春の月、城南に高禖祠を立て、特牲で祀る。[一] 注[一]月令に、「玄鳥が至る日、太牢で祠る」とある。詩に、「克く禋し克く祀り、以て子無きを弗す」とある。毛萇伝に、「弗とは、子無きを去りて子有るを求めること。古くは必ず郊禖を立てた。玄鳥が至る日、郊禖に太牢で祀り、天子は親しく往き、后妃は九嬪を率いて御し、乃ち天子の御する所の者に礼し、弓韣を帯びさせ、弓矢を授け、郊禖の前で行う」とある。
鄭玄注に云う、「弗とは祓の意味である。郊禖で上帝を禋祀し、子無き疾を祓って福を得るのである」。月令章句に、「高とは尊ぶこと。禖とは祀ること。吉事の先に見える象である。おそらく人が子孫を祈る祭祀であろう。玄鳥は陽気を感じて至り、その来たる主たる所は孚乳蕃滋のためである。故にその至る日を重んじ、これによって事を用いる。契の母簡狄は、おそらく玄鳥の至る日に高禖の事を行って契を生んだのであろう。故に詩に、『天命玄鳥、降りて商を生む』とある。韣とは弓衣である。高禖の命によって祀り、醴を飲ませ、弓衣を帯びさせれば、尚お男児を得させるのである」。離騷に、「簡狄台に在りて嚳何ぞ宜しき?玄鳥胎(貽)を致して女何ぞ嘉しき?」とある。王逸は、「簡狄が帝嚳に台で侍っていた時、飛燕がその卵を堕とし、嘉んでこれを吞み、契を生んだと言う」とある。鄭玄の礼記注に、「後の王はこれを禖官の嘉祥として、その祠を立てた」とある。盧植注に云う、「玄鳥の至る時は、陰陽中和し、万物生ずる。故にこの時に三牲をもって高禖の神に子を請うのである。
明らかなる処に居するので、高という。子を求めることに因るので、禖という。古くに媒氏の官があったので、これによって神としたのであろう」。晋の元康年中、高禖壇上の石が破れた。詔して何の經典に出ているかと問うたが、朝士は誰も知らなかった。博士束□が答えて言うには、「漢の武帝が晩年に太子を得て、初めて高禖の祠を立てた。高禖とは、人の先である。故に石を立てて主とし、太牢で祀るのである」。
鄭玄の礼記注に、「皆、年老いて事に更りて致仕した者である。三五と名付けるのは、三辰五星の象を取り、天がこれによって天下を照明する因とするためである」。鄭玄のもう一つの注に、「皆、老人で三徳五事を更に知る者である」。応劭の漢官儀に、「三老、五更は、三代に尊ばれた。安車に蒲裡の輪を付け、送迎して家に至り、天子は独り屏で拝する。三者は、道が天、地、人に成る。老とは久しいこと、旧いこと。五者は五品に訓えること。更とは五世の長子が、更々相代わり、善道をもって己を改め更えることができることを言う。三老、五更は皆、首妻があり、男女完具の者を取る」。臣昭が案ずるに、桓栄は五更であったが、後に兄の子二人を四百石に補した。ならば栄は長子ではない。蔡邕は、「五更とは長老の称である」と言う。
注[二]袁山松の書に、「天子は皮弁に素積の衣で、親しく大侯を射る」とある。
注[三]鄭玄の儀礼注に「狗は人を択ぶことを取る」とあり、孟冬もまた同じである。石渠論に、「郷射は楽を合奏するが、大射は合奏しないのは何故か?韋玄成が言うには、『郷人は本来楽を持たないので、歳時に楽を合奏してその意を同じくする。諸侯は故より自ら楽を持つので、再び楽を合奏しないのである』」。鄭玄の郷飲酒礼注に、「今、郡国では十月に郷飲酒礼を行い、党正は毎年、邦の鬼神を索いて祭祀する時は、礼をもって民を属し、序で酒を飲み、歯位を正す礼を行う。凡そ郷党で酒を飲むのは、必ず民の聚まる時で、教化を見せて尚賢尊長を知らしめようとするためである。玄冠に皮弁服を着るが、礼とは異なる」。服虔、応昭が言うには、漢家では郡県の饗射祭祀は、皆、士の礼を仮りてこれを行う。楽懸、笙磬、籩俎は、皆、士の制のようである。
三老、五更を養う儀式は、まず吉日を選び、司徒が太傅または講師であった故三公の人名を上奏し、その德行年齢が高い者の一人を老とし、次の一人を更とする。[一]皆、都紵の大袍単衣を着て、皁色の縁取りの領袖の中衣を着け、進賢冠をかぶり、玉(王)杖を扶す。五更もまた同じだが、杖は持たない。皆、太学の講堂で斎戒する。[二]その日、乗輿は先に辟雍の礼殿に到り、御座の東廂に座り、使者に安車を遣わして三老、五更を迎えさせる。天子は門屏で迎え、礼を交わし、道は阼階から、三老は賓階から昇る。階に至ると、天子は礼に従って揖する。三老が昇り、東面すると、三公が几を設け、九卿が履を正し、天子は親しく袒ぎ牲を割き、醤を執って饋し、爵を執って酳し、祝が鯁を前にし、祝が饐を後にする。[三]五更は南面し、公が進んで礼を供するのも、また同じである。[四]明日、皆、闕に詣でて恩を謝する。礼遇が大いに尊顕であったことを見るためである。[五] 注[一]盧植の礼記注に、「三公の老者を選んで三老とし、卿大夫中の老者を五更とし、また参五するのである」とある。
注[二]月令章句に、「三公は国老である。五更は庶老である」とある。
注[三]礼記に言う、「天子が饌を適え醴を省み、養老の珍具を備え、遂に詠を発す。退きて、これに修むるに孝養を以てし、反りて、升歌して清廟を歌う」と。これは孝養の詩である。
注[四]譙周の五経然否に言う、「漢初には或いは三老が天子の拝に答えると言われたが、王莽の乱に遭い、法度が残欠した。漢が中興し、礼儀を定めるに当たり、群臣は三老に拝礼を答えさせようとした。城門校尉の董鈞が駁して言った、『三老を養うのは、事父の道を教えるためである。もし答拝させれば、これは天下の子に答拝させることになる』と。詔して鈞の議に従った」。譙周がこれを論じて言う、「礼によれば、屍が上服を着ていても、親でないが故に子の拝に答える。士が異国の君に会っても答拝する。これは皆、子の如くに見なすことはできないからである」。虞喜が言う、「かつ漢の儀礼によれば、門屏において礼を交わし、礼を交わせば即ち答拝する。中興の際に誤って鈞の議に従ったが、後にこれを改め、深くその意を得た」。
注[五]前書の礼楽志に言う、「顕宗が明堂において光武皇帝を祀り、辟雍において三老・五更を養い、威儀は既に盛んであるが、徳化が未だ流れ洽わないのは、その礼楽が未だ備わらず、群下に誦説する所がなく、また庠序が未だ設けられていないが故である。孔子が言う、『譬えば山を為すが如し、一簣を成さずして止むは、吾が止むなり』と」。この月、皇后は公卿諸侯の夫人を率いて蚕桑を行った。[一]先蚕を祠り、礼は少牢を用いた。[二] 注[一]丁孚の漢儀に言う、「皇后が出るには、鸞輅に乗り、青羽蓋を戴き、駟馬を駕し、龍旗九旒、大将軍の妻が参乗し、太僕の妻が御し、前に鸞旗車、皮軒闟戟があり、洛陽令が奉引し、これも千乗万騎である。車府令が鹵簿駕を設け、公・卿・五営校尉・司隸校尉・河南尹の妻は皆その官車に乗り、夫の本官の綬を帯び、その官属に従って皇后を導従する。虎賁・羽林騎を置き、戎頭・黄門鼓吹、五帝車、女騎が轂を夾み、執法御史が前後にあり、また金鉦黄鉞、五将が導く。蚕宮において桑を行い、繭館において手で三盆を行い、終わって宮に還る」。月令に言う、「婦人の無観を禁ず」。谷永の対を案ずるに「四月壬子は、皇后が蚕桑を行う日である」と称しているので、漢でも桑も四月を用いたことが分かる。
注[二]漢旧儀に言う、「春に桑が生じると皇后が苑中において親しく桑を行う。蚕室で蚕を千薄以上飼育する。
祠るには中牢の羊豕を用い、蚕神を祭るのを苑窳婦人・寓氏公主と言い、凡そ二神である。群臣妾が桑から還り、繭観に献じ、皆桑に従った者に糸を賜う。皇后は自ら行う。凡そ蚕の糸絮は、織室で祭服を作る。祭服とは冕服である。天地宗廟群神の五時の服。皇帝は縷縫衣を作ることができ、皇后は巾絮を作るに過ぎない。蚕官令・丞を置き、天下の官下法は皆蚕室に詣で、婦人と共に事に従う。故に旧来、東西織室に作治があった」。晋以後は先蚕を祠る。先蚕壇は高さ一丈、方二丈、四出陛とし、陛の広さは五尺、採桑壇の東南にある。
この月の上巳に、官民は皆東流の水上で潔斎し、これを洗濯祓除して宿垢疢を去り大いに潔めるという。潔とは、陽気が布暢し、万物が尽く出で、始めてこれを潔くすることを言う。[一] 注[一]これを禊と言う。風俗通に言う、「周礼に『女巫は歳時に掌りて以て疾病を祓除す』。禊とは潔である。
春とは蠢である。蠢蠢として動揺する。尚書に『殷仲春を以てし、厥の民析る』と言うのは、人が解析することを言う」。蔡邕が言う、「論語に『暮春者、春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰る』。上より下に及び、古よりこの礼あり。今の三月上巳に水濱において祓禊するのは、蓋しこれより出づ」。
杜篤の祓禊賦に「巫咸の徒、火を秉りて福を祈る」と言うのは、巫祝である。一説に言う、後漢に郭虞という者がおり、三月上巳に二女を産み、二日の内に共に育たなかった。俗はこれを大忌と為し、この月のこの日に至っては家を止めて忌み諱み、皆東流の水上において祈禳し自ら潔く濯ぎ、これを禊祠と言う。流れに引いて觴を行い、遂に曲水と成す。韓詩に言う、「鄭国の俗、三月上巳に、溱・洧の両水の上に至り、魂を招き魄を続け、蘭草を秉り、不祥を祓除す」。漢書に「八月に灞水を祓う」も、この義である。後の良史も、これを拠り所として正とした。臣の昭が言う、郭虞の説は、誠に虚誕である。仮に庶民が旬の内に二人の女を夭折させたとしても、何ぞ以てあの風俗を驚かし、世の忌みと称するに足らんや。杜篤は乃ち「王・侯・公主及び富商に至り、伊・洛に事を用い、帷幔は玄黄」と称した。本伝に大将軍梁商もまた洛の禊において歌泣した。魏より後は、三日の水宴を用いることはなくなった。
校勘記
三一〇一頁六行 蔡邕が依って以て志と為す 按ずるに、汲本・殿本は「依」を「因」と作す。
三一〇一頁八行 用いて日変を救う 盧文弨の群書拾補(以下「盧校」と略称)に拠り「日」を削る。按ずるに、晋志は「日」を重ねない。
三一〇一頁九行 絳の領袖 緑の中衣 盧校に拠り「緑」を「縁」に改む。
三一〇一頁一〇行 或いは闇と為すと曰う 按ずるに、「闇」は原「閭」に作る。逕に改正す。
三一〇一頁一一行 脅と責求とは同義 按ずるに、「責」は原「賣」に作る。逕に改正す。
三一〇一頁一一行 上は天に繫がりて日を犯す 按ずるに、「而」は原「陌」に作る。逕に改正す。
三一〇二頁二行 日食は必ず救うべきものであり、陰が陽を侵すからである。按:盧雲は、この下に本書は「鼓を用い、牲を社に用いる。社は衆陰の主であり、朱絲でこれを縈らし、鼓を鳴らしてこれを攻め、陽をもって陰を責める」とあるという。今、十七字を削除しており、分析が欠けている。
三一〇二頁三行 *(土)*[社]は地の別神である。盧校に拠って改める。按:今の白虎通は「社」と作る。
三一〇二頁五行 三台令史已(下)[上]。盧校に拠って改める。按:晋志が引く決疑は「上」と作る。
三一〇二頁六行 日が常に戻ると皆これを罷める。盧校に拠って「之」を削除。按:晋志が引く決疑には「之」の字がない。
三一〇三頁五行 太常が導き出し西に向かって拝し、(止)[折]旋して阼階に昇る。盧校に拠って改める。按:通典は「止」を「折」と作り、「阼」の字がない。
三一〇三頁六行 *[舞]文始五行の舞。盧校に拠って補う。按:通典に「舞」の字がある。
三一〇三頁七行 *(礼)*楽闋(君)[群]臣、賜を受けて食し畢わる。盧校に拠って改め、通典と合致する。
三一〇三頁七行 神軒に当たり、その郡*[国]の穀価を占う。盧校に拠って補う。按:通典に「国」の字があり、「占」を「告」と作る。
三一〇三頁一五行 始(為)[謂]く、損ずべしと。盧校に拠って改める。按:通典も「為」と作るが、謂と為は古く通ず。
三一〇三頁一五行 今(威)[其]の儀を見る。盧校に拠って改める。按:通典は「其」と作る。
三一〇三頁一五行 或いは曰く、本意は何ぞや。盧雲は、この下に一つの「曰」の字があるべきであり、古くは或いは省くことができたという。今按ずるに、袁紀に「曰」の字がある。
三一〇四頁二行 園陵に就いて而してこれを創る。集解は惠棟の説を引き、「創」は宋本が「朝」と作ると言う。今按ずるに、袁紀は「朝」と作る。
三一〇四頁二行 尚書(陛)[階]の西(陛為)[祭設]の神坐。盧校に拠って改める。按:盧は通典をもって校し、通志には「祭」の字がない。
三一〇四頁四行 久しく園陵に在り。集解は惠棟の説を引き、「久」は宋本が「又」と作ると言う。今按ずるに、通典は「久」と作る。
三一〇四頁八行 因(合)[令]むに諸侯、助祭して金を貢ぐ。盧校に拠って改める。按:通典は「令」と作る。
三一〇四頁一一行、牛に絳衣を着せる。按:『御覧』二十五に引くところでは「絳」を「繡」と作る。
三一〇四頁一一行、鑒燧をもって月から水を取り、火燧をもって日から火を取る。按:『御覧』が引くところでは「鑒燧」を「陰燧」と作り、「火燧」を「陽燧」と作る。
三一〇四頁一二行、切った牛の毛で薦める。按:「以切牛毛」は殿本では「以切牛尾」とし、『通志』も同じ。『御覧』が引くところおよび孫輯の『漢舊儀』ではともに「以切牛毛血」とし、『通典』が引くところでは「以切牛尾之毛」とする。
三一〇四頁一二行、そしてすぐに更衣し、巾を侍中に上せ、熟してからこれを祀る。盧校に従って補い削る。按:盧は『通典』、『通志』に従う。
三一〇四頁一六行、漢氏は東郊で日を拝しない。按:汲本は「氏」を「時」と作る。
三一〇五頁一行、乗輿が初めて緇布進賢を加える。盧校に従って補う。按:『通典』、『通志』ともに「加」の字がある。
三一〇五頁二行、次に通天冠を冠り終わる。盧校に従って改める。按:『通典』、『通志』ともに「冠訖」とし、惠棟もまた五礼新儀に従って「冠訖」とすべきであると言う。
三一〇五頁三行、周公が祝雍に王を祝わせる。盧校に従って補う。按:盧は『大戴礼』、『家語』で校訂する。
三一〇五頁三行、王を民に近づけ、年(歳月)から遠ざけさせる。盧校に従って補う。按:盧は『大戴礼』、『家語』で校訂する。
三一〇五頁三行、佞人から遠ざけ、義に近づける。按:盧は文が類例に合わず、また韻も調和せず、『大戴礼』及び『家語』にはいずれもなく、妄りに増やしたものと疑うと言う。
三一〇五頁四行、時に吝嗇で、財には恵み深い。盧校に従って補う。按:盧は『大戴礼』、『家語』で校訂する。
三一〇五頁五行、広く大道の郊域を尊ぶ。汲本は「尊」を「遵」と作る。按:遵と尊は同じ。
三一〇五頁六行、徳を蒙らぬものはない。按:盧は『通典』が「徳」を「福」と作ると言う。
三一〇五頁六行、永遠に天とともに極まりなし。按:盧は『通典』が「承天無極」と作ると言う。
三一〇五頁七行、貴人、王公、卿、司隸校尉、城門五校に賜う。盧校に従って補い改める。按:盧は『通典』、『通志』で校訂する。
三一〇五頁一三行、皆、昼漏が十四刻にまだ至らないうちに初めて納める。盧校に基づいて補う。按ずるに、盧は文義に依れば「未盡」の二字があるべきだと云う。
三一〇六頁一行、周礼の展牲。干宝が曰く、今の夕牲の如し。按ずるに、盧は云う、これは鄭康成の周礼注の言葉であり、「今」と曰うのは正に漢の時を指し、これを取って漢制を証するのは極めて合致する。干宝は晋の人である。夕牲は晋に始まるものではない。どうして「今」と云えようか。これは援引の誤りである。
三一〇六頁一行、太祝の吏が牲を牽いて入り、榜に到る。按ずるに、盧は云う、宋志では「吏」を「史」と作る。
三一〇六頁二行、太史令が牲を牽いて庖に就き、二つの陶豆をもって毛血を酌む。盧校に基づいて補う。按ずるに、盧は云う、宋志に「以二陶」の三字があり、「史」を「祝」と作る。
三一〇六頁四行、祭に向かう朝を謂う。盧校に基づいて改める。按ずるに、盧は云う、これも康成の注である。
三一〇六頁一三行、躬ら稼穡の艱難を知り、逸すること無きなり。盧校に基づいて改める。按ずるに、黄山は謂う、これはもと尚書の無逸を説くものなり。勤をもって百姓を訓え、逸無きをもって子孫を示す。義、それぞれ当たる所あり。
三一〇七頁一〇行、穜は晩谷、嬉・稻の類。稑は早谷、黍・稷の類。盧校に基づいて補い改める。
三一〇七頁一一行、漢家の法、陳師。按ずるに、盧は云う、脱字あるを疑う。
三一〇七頁一三行、弗は去なり。無子を去りて有子を求む。応に「弗、去也。去無子求有子」と作すべし。「去」の下に「也去」の二字を脱す。
三一〇七頁一六行、その来たりて主となるは、孚乳蕃滋のためなり。汲本は「孚」を「字」と作す。
三一〇八頁二行、玄鳥、胎を致して女に何の嘉しきか。盧校に基づいて改める。按ずるに、今本楚辞天問では「嘉」を一に「喜」と作す。
三一〇八頁九行、綏を供え執り、兄事を授けて五更とす。盧校に基づいて補う。
三一〇九頁六行、王杖を扶う。集解は惠棟の説を引き、「玉杖」は「王杖」と作すべきと謂う。惠説是なり。今これに拠りて改む。以下、直ちに改む。
三一〇九頁八行、階に至る。按ずるに、集解は惠棟の説を引き、「至」の下に「裨」の字あるべきと謂う。
三一〇九頁一〇行、公進みて礼を供す。按ずるに、校補は錢大昭の説を引き、「公」は本また「三公」と作すと謂う。
三一一〇頁二行 顕宗は明堂において光武皇帝を宗祀した(盧校により改め、前志と合致する)。
三一一〇頁二行 威儀は既に盛んであった(前志には「盛」の下に「美」の字がある)。
三一一〇頁五行 丁孚の『漢儀』(「儀」は原書では「義」と誤記されており、直接に訂正した)。
三一一〇頁一〇行 春に桑が生じると皇后は菀中で親桑を行った(汲本により改める。「菀」は各本では「苑」と作るが、苑と菀は同じである)。
三一一〇頁一〇行 (現在)蚕神を祭ることを菀窳婦人・寓氏公主という(盧校により改め、孫星衍校『漢旧儀』と合致する)。
三一一〇頁一一行 すべて桑に従事した者に(楽ではなく)絹を賜った(盧校により改め、孫校『旧漢儀』と合致する)。
三一一〇頁一二行 天地宗廟・群(臣ではなく)神の五時の服(盧校により改め、孫校『漢旧儀』と合致する)。
三一一〇頁一二行 (皇后)のみが巾絮を作ることができた(孫校『漢旧儀』及び『御覧』布帛部・服用部の引用にはいずれも「皇后」の二字があり、これに基づいて補う。『御覧』服用部の引用は「皇后得以作絮巾」、布帛部は「皇后閒以作巾絮而已」と作る)。
三一一〇頁一三行 天下の諸官(下法)は皆、蚕室に赴き、(亦ではなく)婦人とともに作業に従事した。故に旧来、東西織室が(法ではなく)治を行っていた(盧校により補い改め、孫校『漢旧儀』と合致する)。
三一一一頁二行 蠢(蠢)とは動揺することである(今本『風俗通』に基づいて補う)。
三一一一頁五行 後漢に郭虞という者がいた(盧雲は案ずるに、『晋書』束□伝に、武帝がかつて摯虞に三日曲水の意義を問うたところ、虞が答えて「漢の章帝の時、平原の徐肇が三月初めに三女を生み、三日にしてともに亡くなった」云々とし、□は周公に始まると考えた。ここで郭虞とあるのは、摯虞によって誤りが生じたのではないか?)。
三一一一頁五行 三月上巳に二女を産んだ(『通典』は「三月三日上辰に二女を産み、上巳日に一女を産んだ」と作る。『通志』も同じ)。
三一一一頁七行 八月に灞水で祓いを行った(『通典』『通志』は「水」を「上」と作る)。
三一一一頁八行 十日以内にその二女が夭折した(『通典』『通志』は「二」を「三」と作る)。