漢書かんじょごかんじょ

巻九十三・律曆下 曆法

後漢書志第三 律暦下 暦法

昔、聖人が暦を作ったとき、北斗の運行、三光(日・月・星)の動き、太陽の道の伸縮、影の長短、斗綱の指す方位、青龍(歳星)の巡る位置を観察し、それらを組み合わせて変化を求め、その数を錯綜させ、暦術を制定した。

天の運行は、一晝一夜で一周する。星は天に従って西に動き、日は天に逆らって東に進む。太陽の運行と天の運行が一周するとき、天では度となり、暦では日となる。列宿を住まいとし、四七(二十八宿)で終わり、甲乙(十干)を受け、六旬(六十干支)で終わる。日月は互いに押し合い、日はゆるやかに、月は速く進み、両者が同じ位置に来るときを合朔という。ゆるやかな日が先、速い月が後で、近いときは一度、遠いときは三度離れるのを弦という。互いに相対して天の中分線上に位置するのを望という。速い月がゆるやかな日に追いつき、光が尽きて姿を隠すのを晦という。晦と朔が離合し、斗建が辰を移すのを月という。日月の運行には冬と夏があり、冬夏の間には春と秋がある。それゆえ、太陽が北陸(北方の星宿)を運行するのを冬といい、西陸を春といい、南陸を夏といい、東陸を秋という。太陽の道が南に伸び、北極からますます遠ざかると、その影はますます長くなり、遠く長くなって極まると、冬至が来る。太陽の道が北に縮み、北極にますます近づくと、その影はますます短くなり、近く短くなって極まると、夏至が来る。二至(冬至・夏至)の中間で、太陽の道が平らになり影が正しくなるのが、春分・秋分である。

太陽が天を一周する間に、一寒一暑があり、四時が整い、万物がすべて変化し、摂提星が次を移り、青龍(歳星)が辰を移すのを歳という。

歳の始まりは至(冬至)であり、月の始まりは朔である。至と朔が同じ日になるのを章といい、同じ日首(甲子の日)になるのを蔀といい、蔀が六十干支で終わるのを紀といい、歳と朔がまた元に戻るのを元という。それゆえ、日によって実を満たし、月によって閏を入れ、時によって分け、歳によって周り、章によって明らかにし、蔀によって区分し、紀によって記録し、元によって根源に遡る。そうすれば、たとえ変化が万種千様で、満ち欠けに一定の法則がなくとも、すべてこれに結びつけて正しくすることができる。

北極を中央に立て、黄道を外に巡らせ、渾天儀で太陽を追い、その伸縮を観察して、光の道(黄道)が生まれる。孔壺を漏刻とし、浮き矢を刻とし、漏刻の水が滴り刻数を数え、中星を考証して、□明(時刻)が生まれる。日には光の道(黄道)があり、月には九道(九つの運行経路)があり、九道が出入りして交点が生まれる。朔が望と衡(相対)し、交点に近づくと、欠けや薄明が生まれる。月には晦朔があり、星には合と見えがあり、月には弦望があり、星には留と逆があり、その帰するところは一つで、歩術(推算術)が生まれる。金星・水星は陽気を受け、太陽の前後に位置し、速ければ太陽より先に進み、□て後に留まり、留まった後に逆行し、逆行して太陽と離れ、離れた後に速くなり、速くなって太陽と競い、競ってまた太陽より先に進み、□速順逆によって、晨(明け方)と夕(夕方)が生まれる。

日・月・五緯(惑星)にはそれぞれ終わりと始まりがあり、それによって七元が生まれる。出現と潜伏には日数があり、留と運行には度数があり、それによって率数が生まれる。参差を揃え、多少を均して、会終(周期の終わり)が生まれる。引き伸ばし、触れて長くし、奥深いものを探り、隠れたものを求め、深いものを釣り上げ、遠いものを招き寄せ、幽暗で潜み伏すものでも、その精妙なところを捉えないものはない。それゆえ陰陽には分かれがあり、寒暑には節度があり、天地は正しく観られ、日月は正しく明るい。

もしも暦術を助け事業を開き、天の光を厚く輝かせた者といえば、重黎がその上首である。聖帝の命を受けて昊天のように、天象と三辰(日・月・星)の法則を司り、民事を授け、閏月を立て時を定め、歳の功を成し遂げた者といえば、羲和がその隆盛である。金(革新的な金属)と火(革命の火)の象を取って、革命し制度を創始し、暦を治めて時を明らかにし、天に応じ民に順った者といえば、湯王・武王がその盛んなる者である。そして王徳が衰えると、無道の君が上で乱し、頑愚の史官が下で失う。夏后氏の時代、羲和が酒に溺れ、時を廃し日を乱したので、胤侯がこれを征伐した。紂王が淫虐を行い、甲子の日を失ったので、武王がこれを誅した。正しく明らかにできる者は、その興りが勃然としており、曲げて失敗させる者は、その滅びが忽ちである。天地の綱紀、帝王の大事業として、その偉大さはまるで道のようであり、それゆえ聖人はこれを宝とし、君子はこれを努めるのである。

暦には聖人の徳が六つある。気を根本とする者はその本体を尊び、数を総合する者はその文飾を尊び、類を考察する者はその象徴を尊び、事を行う者はその時機を尊び、過去を占う者はその源を尊び、未来を知る者はその流れを尊ぶ。大業がこれに載り、吉凶がここから生じる。それゆえ君子は事業を起こそうとするとき、これを諮問して事に従い、天命を受けてこれに背かない。天を用い地に因り、時を測り教えを施し、明堂に頒布して民の規範とするものは、月令に勝るものはない。帝王の大いなる司祭はこれで備わり、天下の為しうる事はこれで尽きる。

これを過ぎて先へ進む、群れの禁忌やかりそめの禁制については、君子はまだ知らないこともある。

斗宿の二十一度は、北極から最も遠く、太陽がここに来ると冬至となり、万物はここから生じる。それゆえ律は黄鐘を首とし、暦は冬至を始めとし、月はまず建子の月(十一月)を先とし、時は夜半を平とする。漢の高皇帝が天命を受けて四十五年目、陽は上章(庚)、陰は執徐(辰)にあり、冬十一月甲子の夜半、朔旦冬至であった。日月閏積の数はすべてここから始まり、元を立て朔を正し、これを漢暦という。さらに上二つの元(紀元)を遡り、月食と五星の元も、ともにここを発端とする。

暦数が生まれると、儀器と表(日時計)を立てて、日影を較べた。影が長ければ太陽は遠く、これが天度の端緒である。太陽がその端緒から発し、一周して歳となるが、その影は元に戻らない。四周千四百六十一日で影が初めに戻る。これが太陽の運行の一周期である。これを周数で日数を割ると、三百六十五と四分の一度が得られ、これが一歳の日数である。日は一日に一度行くので、これがまた天度でもある。日月がともに度の端緒から発するのを観察すると、日が十九周し、月が二百五十四周して、再び端緒で会う。これが月の運行の一周期である。日周で月周を割ると、一歳の周天の数が得られる。

日一周をこれから減じると、余りは十二と十九分の七である。これは月が周天を過ぎて日が運行する数であり、一歳の月数となる。

これで一歳の日数を割ると、一月の日数が得られる。月の余分がその法(分母)に満ちると一月となり、月が成立するとその歳は大となる。

月が大きくなり四時が推移するので、十二の中気を置いて月の位置を定める。朔はあるが中気がない月を閏月とする。中気の始まりを節といい、節と中気を合わせて二十四気となる。これで一歳の日数を割ると、一気の日数が得られる。その分が積もって日となるのを没といい、歳気の分を合わせ、法で割ると一歳の没となる。没分は終中(中気の終わり)に分けられ、中気は冬至で終わる。冬至の分が法のように積もって一日となり、四歳で終わる。月の分が積もって閏となり、閏が七回で尽き、その歳は十九年、これを章という。章の首で分が尽き、四つがともに終わるのを蔀という。一歳の日数を掛けると、蔀の日数が得られる。甲子で命名すると、二十回で初めに戻る。それゆえ二十蔀を紀という。紀の歳で青龍(歳星)が終わらず、三終歳の後に再び青龍となるのを元という。

閏法は七、これは章閏のためである。

日の余りは百六十八。

中法は三十二。

大周は三十四万三千三百三十五。

月周は千一十六。

月食数の発生は、月食が既(既に起こったもの)を記録したものである。率は二十三回の食で再び既となる。その月食は百三十五回であり、率で割ると、五百月に二十三の二十で一食となる。これで一年の月数を割ると、一年に再び食が五百一十三分の五十五回あることが得られる。分で法を終え、これにより蔀と互いに約分すると、四と二十七が得られ、互いに乗じると二千五十二となり、二十で元と会する。

元会は四万一千四十。

蔀会は二千五十二。

歳数は五百一十三。

食数は千八十一。

月数は百三十五。

食法は二十三。

入蔀術を推すには、元法で上元を除去し、その余りを紀法で除する。得られた数は天紀から数え、算外が入る紀である。紀法に満たないものは、入紀の年数である。蔀法で除し、得られた数は甲子蔀から起算し、算外が入る紀の歳名を命じ、算上すれば、求める年の太歳の所在である。

月食の入る蔀会の年を推すには、元会で上元を除去し、その余りを蔀会で除する。得られたものに二十七を乗じ、六十で満たして除去し、余りを二十で除した得られた数は、天紀から数え、算外が入る紀である。二十に満たないものは、数は甲子蔀から起算し、算外が入る蔀会である。初めに蔀会に満たないものは、入蔀会の年数であり、それぞれ入る紀の歳名を命じ、算上すれば、求める年の太歳の所在である。

天紀歳名、地紀歳名、人紀歳名、蔀首。庚辰、庚子、庚申、甲子一。丙申、丙辰、丙子、癸卯二。壬子、壬申、壬辰、壬午三。戊辰、戊子、戊申、辛酉四。甲申、甲辰、甲子、庚子五。庚子、庚申、庚辰、己卯六。丙辰、丙子、丙申、戊午七。壬申、壬辰、壬子、丁酉八。戊子、戊申、戊辰、丙子九。甲辰、甲子、甲申、乙卯十。庚申、庚辰、庚子、甲午十一。丙子、丙申、丙辰、癸酉十二。壬辰、壬子、壬申、壬子十三。戊申、戊辰、戊子、辛卯十四。甲子、甲申、甲辰、庚午十五。庚辰、庚子、庚申、己酉十六。丙申、丙辰、丙子、戊子十七。壬子、壬申、壬辰、丁卯十八。戊辰、戊子、戊申、丙午十九。甲申、甲辰、甲子、乙酉二十。天正術を推すには、入蔀年から一を減じ、章月を乗じ、章法で満たして一を得る。これを積月と名付け、満たないものを閏余とする。十二以上であれば、その年には閏がある。

天正朔日を推算するには、入蔀年を置き、積月を乗じ、蔀日を以ってこれを乗じ、蔀月で満たして一を得、これを積日と名付け、満たさないものを小余とする。積日を六十で除して去り、その余りを大余とする。入った蔀の名を以ってこれを命じ、算を尽くした外は、則ち前年の天正十一月朔日である。小余が四百四十一以上ならば、その月は大である。後の月の朔を求めるには、大余に二十九を加え、小余に四百九十九を加える。小余が蔀月で満たされれば一を得、上に大余を加え、前と同じように命ずる。

一つの術として、大周を年数に乗じ、周天を閏余に乗じてこれを減じ、余りが蔀月で満たされれば、天正朔日である。

二十四気を推算する術は言う。入蔀年を置き一を減じ、日余を以ってこれを乗じ、中法で満たして一を得、これを大余と名付け、満たさないものを小余とする。大余が六十で満たされれば除して去り、その余りを蔀名を以ってこれを命じ、算を尽くした外は、則ち前年の冬至の日である。

次の気を求めるには、大余に十五を加え、小余に七を加え、除して命ずることは前と同じで、小寒の日である。

閏月の所在を推算するには、閏余を以って章法を減じ、余りを十二乗じ、章閏数で満たして一を得、四以上で満たされても一算の数とし、前年の十一月から起算し、算を尽くした外が閏月である。あるいは進退させ、中気を以ってこれを定める。

弦・望の日を推算するには、その月の朔の大小余の数に因り、皆大余に七を加え、小余に三百五十九と四分の三を加える。小余が蔀月で満たされれば一を得、大余を加え、大余を法の如く命ずれば、上弦を得る。また加えれば望を得、次に下弦を得、また後の月の朔となる。

その弦・望の小余が二百六十以下の場合、毎度百刻を以ってこれを乗じ、蔀月で満たして一刻を得、満たさない数は近い節気の夜漏の半分にし、算上を以って日とする。

没滅を推算する術は、入蔀年を置き一を減じ、没数を以ってこれを乗じ、日法で満たして一を得、これを積没と名付け、尽きないものを没余とする。

通法を以って積没を乗じ、没法で満たして一を得、これを大余と名付け、尽きないものを小余とする。大余が六十で満たされれば除して去り、その余りを蔀名を以ってこれを命じ、算を尽くした外は、前年の冬至前の没日である。後の没を求めるには、大余に六十九を加え、小余に四を加える。小余が没法で満たされれば、大余に従い、前と同じように命ずる。分が無ければ滅である。

一つの術として、十五を以って冬至の小余を乗じ、通法からこれを減じ、余りが没法で満たされれば一を得、則ち天正後の没である。

合朔の所在する度を推算するには、入蔀積日を置き、蔀月を以ってこれを乗じ、大周で満たして除し去り、その余りが蔀月で満たされれば一を得、これを積度と名付け、尽きないものを余分とする。積度に斗二十一度を加え、二百三十五分を加え、宿次を以ってこれを除し、宿で満たさなければ、則ち日月が合朔する所在の星度である。後の合朔を求めるには、度に二十九を加え、分に四百九十九を加える。分が蔀月で満たされれば一度を得、経斗して二百三十五分を除く。

一つの術として、閏余を以って周天を乗じ、大周余からこれを減じ、余りが蔀月で満たされれば一を得、合せて斗二十一度四分の一とすれば、則ち天正合朔の日月の所在する度である。

日の所在する度を推算するには、入蔀積日の数を置き、蔀法を以ってこれを乗じ、蔀日で満たして除し去り、その余りが蔀法で満たされれば一を得、これを積度とし、尽きないものを余分とする。積度に斗二十一度を加え、十九分を加え、宿次を以ってこれを除し去れば、則ち夜半の日の所在する宿度である。

次の日を求めるには、一度を加える。次の月を求めるには、大なら三十度を加え、小なら二十九度を加え、経斗して十九分を除く。

一つの術として、朔の小余を以って合朔の度分から減じれば、即ち日夜半の所在である。その分を二百三十五で約し、十九を乗ずる。

月の位置する度数を求めるには、蔀積日の数を置き、月周を乗じ、蔀日で満たして除去し、残りを蔀法で割って一を得たものを積度とし、割り切れないものを余分とする。積度に斗二十一十[九]分を加え、前述の方法で除去すれば、求める日の夜半における月の位置する宿度となる。

翌日を求めるには、十三度二十八分を加える。翌月を求めるには、大の月には三十五度六十一分を加え、小の月には二十二度三十三分を加え、分が法を満たせば一度とし、斗を経る際に十九分を除去する。冬の下旬に月が張宿・心宿にある場合は、これを記し、(尽)[昼]漏分の後から漏尽までを指す。

一つの方法として、蔀法で朔小余を割り、得た数で日半度を減ずる。余りで分を減じれば、月の夜半の位置する度数となる。

日の明け方に入る度分を求める術は次の通り。その月の節気の夜漏の数を置き、蔀法を乗じ、二百で割れば一分を得、これが夜半から明け方までに運行する分である。これを夜半の日の位置する度分に加えれば、明け方の位置する度分となる。

□日に入る度を求めるには、夜半から明日までに運行する分で蔀法を減じ、残りが夜半から□までに運行する分となる。

これを夜半の位置する度分に加えれば、□日の位置する度数となる。

月の明け方に入る度分を求める術は次の通り。その節気の夜(半)[漏]の数を置き、月周を乗じ、二百で割れば積分となる。積分が蔀法を満たせば一を得、これを夜半の度数に加えれば、(明)月[明]の位置する度数となる。

□月に入る度を求めるには、明け方の積分を月周から減じ、残りが蔀法を満たせば一度を得、夜半に加えれば、□月の位置する度数となる。

弦・望の日に入る星度を求める術は次の通り。合朔の度分の数を置き、七度三百五十九分四分(之)三を加え、[以]宿次で除去すれば、上弦の日に入る宿度分を得る。

望・下弦を求めるには、前述の方法で加除し、小分[が]四を満たせば大分に加え、[大分]が蔀月を満たせば度に加える。

弦・望の月に入る星度を求める術は次の通り。月の合朔の度分の数を置き、度九十八、加分六百五十三半を加え、宿次で除去すれば、上弦の月に入る宿度分を得る。

望・下弦を求めるには、前述の分を加除し、蔀月を満たせば度に加える。

月食を求める術は次の通り。入蔀会年数を置き、一を減じ、食数を乗じ、歳数で満たして一を得たものを積食と名付け、満たさないものを食余とする。月数で積[食]を乗じ、食法で満たして一を得たものを積月と名付け、満たさないものを月余分とする。積月から章月を除去し、残りを入章月数とする。先に入章閏を除去すべきであり、次に十二で除去し、満たさないものを十一月と定め、算尽の外は、前年の十一月以前の食月となる。入章閏を求めるには、入章月を置き、章閏を乗じ、章月で満たして一を得れば、入章閏数となる。余分が二百二十四以上二百三十一以下であれば、食は閏月にある。閏は進退することがあり、朔日で定める。後の食を求めるには、五(百)[月]二十分を加え、法を満たせば一月の数とし、前述の方法で定め、その分が食算の上で尽きる。

月食の朔日を求める術は次の通り。食積月の数を置き、二十九を乗じて積日とする。また四百九十[九]で積月を乗じ、蔀月で満たして一を得、これを積日に加え、六十で除去し、残りを会する蔀の名で定め、算尽の外は、前年の天正以前の食月の朔日となる。

食日を求めるには、大余十四、小余七百一十九半を加え、小余が蔀月を満たせば大余とし、大余を前述の方法で定めれば、食日となる。

食の朔日と日を求める後には、いずれも大余に二十七を加え、小余に六百一十五を加える。その月余分が二十に満たない場合は、さらに大余に二十九を加え、小余に四百九十九を加える。その食の小余については、漏刻を用いて課し、夜漏がまだ尽きていない場合、算上をもって日とする。

一つの術として、歳数で上元を去り、余りを積月とし、百一十二を乗じ、月数で満たして去り、余りが食法で一を得れば、天正後の食となる。

諸加時を推すには、十二を小余に乗じ、先に法の半分の如く減じ、一時を得、その余りは法で除し、得た算の数を夜半の子から起算し、算が尽きる外が、加える時となる。

諸上水漏刻を推すには、百をその小余に乗じ、その法で満たして一刻を得る。法に満たない場合は法を十倍し、法で満たして一分を得る。積刻は先に入る節気の夜漏の半分を減じ、その余りが昼上水の数となる。昼漏を過ぎれば去り、余りが夜上水の数となる。その刻が夜漏の半分に満たない場合は、これを減じ、余りが昨夜未だ尽きざる分となり、その弦望はその日となる。

五星の数の生ずるは、各々日に記し、周天度と相約して率とする。章法を周率に乗じて月法とし、章月を日率に乗じ、月法の如くして積月月余とする。月の日を積月に乗じて、朔の大小余とする。乗じて入月日余とする。日法を周率に乗じて日度法とし、周率で日率を去り、余りを周天に乗じ、日度法の如くして積度度余とする。日率を相約して取り、二千九百九十萬一千六百二十一億五十八萬二千三百を得て、五星が終わる。蔀の数の如く、元と通ず。

木星、周率、四千三百二十七。日率、四千七百二十五。合積月、十三。月余、四萬一千六百六。月法、八萬二千二百一十三。大余、二十三。小余、八百四十七。虚分、九十三。入月日、十五。日余、一萬四千六百四十一。

日度法、一萬七千三百八。積度、三十三。度余、一萬三百一十四。

火星、周率、八百七十九。日率、千八百七十六。合積月、二十六。月余、六千六百三十四。月法、一萬六千七百一。大余、四十七。小余、七百五十四。虚分、百八十六。入月日、十二。日余、千八百七十二。日度法、三千五百一十六。積度、四十九。度余、百一十四。

土星、周率、九千九十六。日率、九千四百一十五。合積月、十二。月余、十三萬八千六百三十七。月法、十七萬二千八百二十四。大余、五十四。小余、三百四十八。虚分、五百九十二。入月日、二十四。日余、二千一百六十三。日度法、三萬六千三百八十四。積度、十二。度余、二萬九千四百五十一。

金星、周率、五千八百三十。日率、四千六百六十一。合積月、九。月余、九萬八千四百五。月法、十一萬七百七十。大余、二十五。小余、七百三十一。

虚分、二百九。入月日、二十六。日余、二百八十一。日度法、二萬三千三百二十。積度、二百九十二。度余、二百八十一。

水星、周率、一萬一千九百八。日率、千八百八十九。合積月、一。月余、二十一萬七千六百六十三。月法、二十二萬六千二百五十二。大余、二十九。小余、四百九十九。虚分、四百四十一。入月日、二十八。

日余、四萬四千八百五。日度法、四萬七千六百三十二。積度、五十七。度余、四萬四千八百五。

五星の術を推すには、上元以来を置き、求める年まで尽くし、周率を乗じ、日率で満たして一を得、これを積合と名付ける。尽きざるを合余と名付ける。合余を周率で除し、得ざれば歳を退く。得る所無ければ、星はその年に合し、一を得れば前年に合し、二を得れば前二年に合す。金星・水星は積合が奇数の場合は晨、偶数の場合は夕となる。周率に満たざる者はこれを反減し、余りを度分とする。

星の合する月を推すには、合積月を積合に乗じて小積とし、また月余を積合に乗じ、その月法で満たして一を得、小積より積月とし、尽きざるを月余とする。積月が紀月で満たせば去り、余りを入紀月とする。毎に章閏を乗じ、章月で満たして一を得れば閏とし、尽きざるを閏余とする。閏で入紀月を減じ、その余りを十二で去り、余りを入歳月数とし、天正十一月より起算し、算外、星の合する所在の月となる。その閏余が二百二十四以上二百三十一に満たせば星は閏月に合す。閏は或いは進退し、朔をもってこれを制す。

朔日を推算するには、蔀日を紀月に乗じ、蔀月で満たして一を得れば積日とし、余りは小余とする。積日が六十に満てばこれを除き、余りを大余とし、甲子から起算し、算外で、星が月朔日に合する。

入月日を推算するには、蔀日を月余に乗じ、その月法を朔小余に乗じ、これに加え、四千四百六十五で約し、得た数が日度法で満たして一を得れば、入月日とし、余りは日余とする。朔から入月日を起算し、算外で、星が合する日である。

合度を推算するには、周天を度分に乗じ、日度法で満たして一を得れば積度とし、余りは度余とする。斗宿二十一と四分の一から度を起算し、算外で、星が合する所在の度である。

一つの方法として、退歳一を加え、これで上元を減じ、八十で満たして除き、余りを没数に乗じ、日法で満たして一を得れば大余とし、余りは小余とする。甲子から大余を起算すれば、星が合する歳の天正冬至の日である。周率を小余に乗じ、度余を併せ、余りが日度法で満てば度に加え、これが冬至後の星が合する日数であり、冬至から起算する。後の合月を求めるには、合積月を入歳月に加え、月余を月余に加え、その月法で満たして一を得れば、入歳月に加える。入歳月が十二に満てばこれを除き、閏があれば計算に入れ、余りは前のように起算し、算外で、後の合月である。金星・水星は、晨に加えれば夕を得、夕に加えれば晨を得る。

朔日を求めるには、大小余を今得たものに加え、その月余が一月を得れば、また大余二十九、小余四百九十九を加え、小余が蔀月で満たして一を得れば、大余に加え、大余は前のように起算する。

入月日を求めるには、入月日と日余を今得たものに加え、余りが日度法で満たして一を得れば、日に加える。その前の合月の朔小余がその虚分に満たない場合は、空しく一日を加える。日が月に満てば先ず二十九を除き、その後ろの合月の朔小余が四百九十九に満たない場合は、また一日を減じ、その余りは前のように起算する。

合度を求めるには、積度と度余を今得たものに加え、余りが日度法で満たして一を得れば度に加え、前のように起算し、斗宿を経る時は周率の如く除く。

木星は、晨に伏し、十六日七千三百二十分半、二度一万三千八百十一分を行き、日の後十三度あまりで、東方に現れる。現れて順行し、日に十一分の五十八度を行き、五十八日で十一度を行く。微かに遅く、日に九分を行き、五十八日で九度を行く。留まって行かず、二十五日。旋回して逆行し、日に七分の一度を行き、八十四日で十二度退く。再び留まり、二十五日。再び順行し、五十八日で九度を行き、また五十八日で十一度を行き、日の前十三度あまりで、夕に西方に伏する。伏と逆を除き、一現三百六十六日、二十八度を行う。再び伏すること十六日七千三百二十分半、二度一万三千八百十一分を行き、日と合する。凡そ一終は、三百九十八日と一万四千六百四十一分、三十三度と一万三百十四分を行き、通率は日に四千七百二十五分の三百九十八を行う。

火星は、晨に伏し、七十一日二千六百九十四分、五十五度二千二百五十四分半を行き、日の後十六度あまりで、東方に現れる。現れて順行し、日に十四分の二十三度を行き、百八十四日で百十二度を行く。微かに遅く、日に十二分を行き、九十二日で四十八度を行く。留まって行かず、十一日。旋回して逆行し、日に十七分の六十二度を行き、六十二日で十七度退く。再び留まり、十一日。再び順行し、九十二日で四十八度を行き、また百八十四日で百十二度を行き、日の前十六度あまりで、夕に西方に伏する。

伏と逆を除き、一現六百三十六日、三百三度を行う。再び伏すること七十一日二千六百九十四分、五十五度二千二百五十四分半を行き、日と合する。凡そ一終は、七百七十九日と千八百七十二分、四百十四度と九百九十三分を行き、通率は日に千八百七十六分の九百九十七を行う。

土星は、晨に伏し、十九日千八十一分半、三度一万四千七百二十五分半を行き、日の後十五度あまりで、東方に現れる。現れて順行し、日に三分の四十三度を行き、八十六日で六度を行く。留まって行かず、三十三日。旋回して逆行し、日に百二分の十七度を行き、百二日で六度退く。再び留まり、三十三日。再び順行し、八十六日で六度を行き、日の前十五度あまりで、夕に西方に伏する。伏と逆を除き、一現三百四十日、六度を行う。再び伏すること十九日千八十一分半、三度一万四千七百二十五分半を行き、日と合する。凡そ一終は、三百七十八日と二千百六十三分、十二度と二万九千四百五十一分を行き、通率は日に九千四百十五分の三百十九を行う。

金星は、晨に伏し、五日、四度退き、日の後九度で、東方に現れる。現れて逆行し、日に三分の五度を行き、十日で六度退く。留まって行かず、八日。旋回して順行し、日に三十三分の四十六度を行き、四十六日で三十三度を行く。そして疾行し、日に十五分の九十一度を行き、九十一日で百六度を行く。益々疾く、日に一度二十二分を行き、九十一日で百十三度を行き、日の後九度で、晨に東方に伏する。伏と逆を除き、一現二百四十六日、二百四十六度を行う。伏すること四十一日二百八十一分、五十度二百八十一分を行き、日と合する。一合は二百九十二日二百八十一分、行く度もこれと同じ。

金星は、夕に伏し、四十一日二百八十一分、五十度二百八十一分を行き、日の前九度で、西方に現れる。現れて順行し、疾く、日に二十二分の九十一度を行き、九十一日で百十三度を行く。

微かに遅く、日に一度十五分を行き、九十一日で百六度を行く。そして遅く、日に三十三分の四十六度を行き、四十六日で三十三度を行く。留まって行かず、八日。旋回して逆行し、日に三分の五度を行き、十日で六度退き、日の前九度で、夕に西方に伏する。伏と逆を除き、一現二百四十六日、二百四十六度を行い、伏すること五日、四度退いて再び合する。凡そ再合一終は、五百八十四日と五百六十二分、行く度もこれと同じ。通率は日に一度を行う。

水星は、朝方に隠伏し、九日間で七度退き、太陽の後方十六度の位置で、東方に現れる。現れた後は逆行し、一日に一度退く。留まることができず、二日間。やがて順行に転じ、一日に九分度の八(8/9度)進み、九日間で八度進む。そして疾行し、一日に一度四分度の一(1 1/4度)進み、二十日間で二十五度進み、太陽の後方十六度の位置で、朝方に東方に隠伏する。隠伏と逆行を除くと、一見の期間は三十二日で、三十二度進み、十六日四万四千八百五分間隠伏し、三十二度四万四千八百五分進み、太陽と合する。一合の周期は五十七日四万四千八百五分で、星の運行もこれと同じである。

水星は、夕方に隠伏し、十六日四万四千八百五分間で三十二度四万四千八百五分進み、太陽の前方十六度の位置で、西方に現れる。現れた後は順行で疾行し、一日に一度四分度の一(1 1/4度)進み、二十日間で二十五度進む。そして徐行し、一日に九分度の八(8/9度)進み、九日間で八度進む。留まって進まず、二日間。やがて逆行し、一日に一度退き、太陽の前方十六度の位置で、夕方に西方に隠伏する。隠伏と逆行を除くと、一見の期間は三十二日で、三十二度進み、九日間隠伏し、七度退いて再び合する。凡そ二度の合で一終となり、百一十五日四万一千九百七十八分で、星の運行もこれと同じである。通率では一日に一度進む。

歩術(推算方法)は、歩法(計算方法)によって隠伏の日数と度数分を求め、星の合の日数と度数余に加え、前述のように起算すると、星が現れる日数と度数が得られる。

術の分母を乗じ、分を日度法で割り、割り切れない分が半法以上であれば、一を加え、日に進む分を加え、その分母に満てば一度を得る。逆行と順行では分母が異なるので、当行の分母を乗じ、旧分母で割り、一とする。留は前の状態を継承し、逆行なら減じ、隠伏は度数を記さない。経斗(斗宿を通過する際)は行母(運行の分母)に従って除算し、四分の一を備える。その分には増減があり、前後に倣う。赤道を基準に度数を定め、進めば加え、退けば減ずる。その推算は黄道に基づく。

月名は、天正十一月、十二月、正月、二月、三月、四月、五月、六月、冬至、大寒、雨水、春分、穀雨、小満、夏至、大暑、七月、八月、九月、十月、処暑、秋分、霜降、小雪である。

月令章句によると、「孟春は立春を節とし、驚蟄を中とする。中は必ずその月にあるが、節は必ずしもその月にあるとは限らない。

孟春の驚蟄が十六日以後にある場合、立春は正月にある。驚蟄が十五日以前にある場合、立春は前年の十二月にある。」

斗宿二十六度、牛宿八度、女宿十二度、虚宿十度、危宿十六度、室宿十六度、壁宿十度。北方九十八度四分の一。奎宿十六度、婁宿十二度、胃宿十四度、昴宿十一度、畢宿十六度、觜宿二度、参宿九度。西方八十度。井宿三十三度、鬼宿四度、柳宿十五度、星宿七度、張宿十八度、翼宿十八度、軫宿十七度。南方百十二度。角宿十二度、亢宿九度、氐宿十五度、房宿五度、心宿五度、尾宿十八度、箕宿十一度。東方七十五度。以上が赤道の度数で、周天三百六十五度四分の一である。斗宿二十四度、牛宿七度、女宿十一度、虚宿十度、危宿十六度、室宿十八度、壁宿十度。北方九十六度四分の一。奎宿十七度、婁宿十二度、胃宿十五度、昴宿十二度、畢宿十六度、觜宿三度、参宿八度。西方八十三度。井宿三十度、鬼宿四度、柳宿十四度、星宿七度、張宿十七度、翼宿十九度、軫宿十八度。南方百九度。角宿十三度、亢宿十度、氐宿十六度、房宿五度、心宿五度、尾宿十八度、箕宿十度。東方七十七度。以上が黄道の度数で、三百六十五度四分の一である。

黄道の北極からの距離は、日影の発生は、儀器と表(日時計)に基づく。漏刻(時刻)の発生は、北極からの遠近の差に節気の差を乗じる。遠近によって一刻の差があり、それによって増減する。□明(?)の発生は、天の度数に昼の漏刻を乗じ、夜の漏刻を減じ、二百で割り、定度とする。天の度数からこれを減じた余りが明である。定度に一を加えたものが□である。その余りを四倍し、法で割って少とする。二で半、三で太とする。割り切れなければ、三倍し、法で割って強とし、余りが半法以上なら強を成す。強三つで少とし、少四つで一度とし、強二つで少弱とする。また、日の度数余を少強とし、それぞれに加える。

一気を十六日と定める場合、いずれも通常は四日に約半分の差がある。一気を十五日とすると半分に満たないため、中道の三日のうちに約半分の差が生じる。三気で一節となるので、四十六日で現在三度の差となる。差が三度に達する時、五日が同じ割合となることが一つあるが、実際には節の間は四十六日に満たない。現在残りの日数がその策に含まれるため、五日が同じ割合となる。その割合は同じでも、先のものは皆強く、後のものは皆弱く、数えきれない。三度に達して再び進退があるのは、黄道がやや斜めで、横行では度を得られないからである。春分・秋分で後退するのは、黄道が始まってさらに斜めになり、横行では度を得られないからである。また、一気ごとに一度ずつあり、三気で一節となり、やはり三度の差がある。三気の後は、やや遠くて直線的になるため、横行で度を得てやや前進する。立春・立秋では横行がやや後退するが、度はまだ前進していると言われるのは、その後退分を前進分から差し引いても、まだ余りがあり、尽きていないからである。立夏・立冬では横行がやや前進するが、度はまだ後退していると言われるのは、その前進分に後退分を加えても、まだ不足しており、完了していないからである。これによって論じると、太陽の運行に進退があるのではなく、赤道で黄道を測量したためにそうなっているのである。本来、二十八宿の間の度数の距離は、赤道を基準としているため、黄道にも進退がある。冬至は斗宿二十一度少半にあり、最も遠い時であるが、この暦では斗宿二十度で、ともに百一十五度強であるから、冬至はこれと同じ割合であるべきである。夏至は井宿二十一度半強にあり、最も近い時であるが、この暦では井宿二十三度で、ともに六十七度強であるから、夏至はこれと同じ割合であるべきである。」

二十四気

冬至

日が位置する黄道の去極、日影、昼の漏刻、夜の漏刻、昏中星、旦中星。二十四気、日が位置する黄道、去極、日影、昼の漏刻、夜の漏刻、昏中星、旦中星。冬至、斗宿二十一度八分、退二、百一十五度、一丈三尺、四十五、五十五、奎宿六弱、亢宿二少強、退一。

小寒

女宿二度七分、進一、百一十三強、一丈二尺三寸、四十五八分、五十四二分、婁宿六半強、退一、氐宿七少弱、退二。

大寒

虚宿五度十四分、進二、十大弱、一丈一尺、四十六八分、五十三八分、胃宿十一半強、退一、心宿半、退三。

立春

危宿十度二十一分、進二、六少強、九尺六寸、四十八六分、五十一四分、畢宿五少弱、退三、尾宿七半弱、退三。

雨水

室宿八度二十八分、進三、一強、七尺九寸五分、五十八分、四十九二分、参宿六半弱、退四、箕宿大弱、退三。

驚蟄

壁宿八度三分、進一、九十五強、六尺五寸、五十三三分、四十六七分、井宿十七少弱、退三、斗宿少、退二。

春分

奎宿十四度十分、八十九強、五尺二寸五分、五十五八分、四十四二分、鬼宿、四斗、十一弱、退二

清明

胃宿一度十七分、退一、八十三少弱、四尺一寸五分、五十八三分、四十一七分、星宿、四大、進一、斗宿、二十一半、退二

穀雨

昴宿二度二十四分、退二、七十七大強、三尺二寸、六十五分、三十九五分、張宿、十七、進一、牛宿、六半

立夏

畢宿六度三十一分、退三、七十三少弱、二尺五寸二分、六十二四分、三十七六分、翼宿、十七大、進二、女宿、十少、進一

小滿

參宿四度六分、退四、六十九大弱、一尺九寸八分、六十三九分、三十六一分、角宿、大弱、危宿、大弱、進二

芒種

井宿十度十三分、退三、六十七少弱、一尺六寸八分、六十四九分、三十五一分、亢宿、五大、退一、危宿、十四強、進二

夏至

井宿二十五度二十分、退三、六十七強、一尺五寸、六十五、三十五、氐宿、十二少弱、退二、室宿、十二少弱、進三

小暑

柳宿三度二十七分、六十七大強、尺七寸六十四七分、三十五三分、尾宿一大強、退三、奎宿二大強

大暑

星宿四度二分、進一、七十二尺六十三八分、三十六二分、尾宿十五半弱、退三、婁宿三大、退一

立秋

張宿十二度九分、進一、七十三半強、二尺五寸五分、六十二三分、三十七七分、箕宿九大強、退三、胃宿九弱、退一

処暑

翼宿九度十六分、進二、七十八半強、三尺三寸三分、六十二分、三十九八分、斗宿十少、退二、畢宿三大、退三

白露

軫宿六度二十三分、進一、八十四少強、四尺三寸五分、五十七八分、四十二二分、斗宿二十一強、退二、參宿五半弱、退四

秋分

角宿四度三十分、九十半強、五尺五寸、五十五二分、四十四八分、牛宿五少、井宿十六少強、退三

寒露

亢宿八度五分、退一、九十六大強、六尺八寸五分、五十二六分、四十七四分、女宿七大、進一、鬼宿三少強

霜降

氐宿十四度十二分、退一、百二少強、八尺四寸、五十三分、四十九七分、虛宿六大、進二、星宿三大強、進一

立冬

尾宿四度十九分、退行三百七度少強、日影長さ一丈四尺八寸二分、太陽黄経五十一度八分、危宿八度強、進み二度、張宿十五度大強、進み一度

小雪

箕宿一度二十六分、退行三百一十一度弱、日影長さ一丈一尺四寸四分、太陽黄経四十六度七分、五十三度三分、室宿三度半強、進み三度、翼宿十五度大強、進み二度

大雪

斗宿六度一分、退行二百一十三度大強、日影長さ一丈二尺五寸六分、太陽黄経四十五度五分、五十四度五分、壁宿半度強、進み一度、軫宿十五度弱、進み一度

注[一]『月令章句』に言う。「中星が当たるべき時に当たらないのは、太陽の運行が遅いからである。当たるべき時でないのに当たるのは、太陽の運行が速いからである。」

注[四]『易緯』に称えられる日影の長短は、実際と相応しない。ここに後ろに列挙し、至るべき時に至るものと至らないものとをそれぞれの兆候に合わせて掲載し、異同を広く参照する。冬至、日影長さ一丈三尺。至るべき時に至らないと、旱魃となり、多くは温病にかかる。至るべき時でないのに至ると、多くは突然の心痛を病み、その応報は夏至に現れる。小寒、日影長さ一丈二尺四分。至るべき時に至らないと、まず小旱、後に小水、男子は多く喉痺を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは身熱を病み、来年の麻は実らない。大寒、日影長さ一丈一尺八分。至るべき時に至らないと、まず大旱、後に大水、麦は実らず、厥逆を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは上気、嗌腫を病む。立春、日影長さ一丈一寸六分。至るべき時に至らないと、兵乱が起こり、麦は実らず、民は疲弊し病む。至るべき時でないのに至ると、多くは熛、疾疫を病む。雨水、日影長さ九尺一寸六分。至るべき時に至らないと、早麦が実らず、多くは心痛を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは□を病む。驚蟄、日影長さ八尺二寸。至るべき時に至らないと、霧が立ち、稚禾は実らず、老人は多く嚏を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは漢疽、脛腫を病む。春分、日影長さ七尺二寸四分。至るべき時に至らないと、まず旱魃、後に水害、凶作、米は実らず、多くは耳癢を病む。清明、日影長さ六尺二寸八分。至るべき時に至らないと、菽豆が熟さず、多くは嚏、振寒、洞洩を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは温病、突然死を病む。穀雨、日影長さ五尺三寸六分。至るべき時に至らないと、水物や雑穀などが実らず、多くは疾瘧、振寒、霍乱を病む。至るべき時でないのに至ると、老人は多く気腫を病む。立夏、日影長さ四尺三寸六分。至るべき時に至らないと、旱魃、五穀が損傷し、牛畜が病む。至るべき時でないのに至ると、多くは頭痛、腫嗌、喉痺を病む。小満、日影長さ三尺四寸。至るべき時に至らないと、凶言あり、国に大喪あり、まず水害、後に旱魃、多くは筋急、痺痛を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは熛、嗌腫を病む。芒種、日影長さ二尺四寸四分。

至るべき時に至らないと、凶言あり、国に狂った法令あり。至るべき時でないのに至ると、多くは厥眩、頭痛を病む。夏至、日影長さ一尺四寸八分。至るべき時に至らないと、国に大いなる災いあり、旱魃、陰陽ともに傷つき、草木は夏に落葉し、大寒あり。至るべき時でないのに至ると、眉腫を病む。小暑、日影長さ二尺四寸四分。至るべき時に至らないと、まず小水、後に小旱、兵乱あり、多くは洩注、腹痛を病む。至るべき時でないのに至ると、臚腫を病む。大暑、日影長さ三尺四寸。至るべき時に至らないと、外兵が起こり、来年飢饉、多くは筋痺、匣痛を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは脛痛、悪気を病む。立秋、日影長さ四尺三寸六分。至るべき時に至らないと、暴風が災いとなり、来年の黍は実らない。至るべき時でないのに至ると、多くは咳上気、咽腫を病む。処暑、日影長さ五尺三寸二分。至るべき時に至らないと、国に浮いた法令多く、兵乱起こり、来年の麦は実らない。

至るべき時でないのに至ると、脹を病み、耳熱が出て外出しない。白露、日影長さ六尺二寸八分。至るべき時に至らないと、多くは痤、疽、洩を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは水、腹閉疝瘕を病む。秋分、日影長さ七尺二寸四分。至るべき時に至らないと、草木が再び茂り、多くは温、悲心痛を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは匣鬲痛を病む。寒露、日影長さ八尺二寸。至るべき時に至らないと、来年の穀物が実らず、六畜鳥獣が災いを受け、多くは疝瘕、□痛を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは疢熱中を病む。霜降、日影長さ九尺一寸六分。至るべき時に至らないと、万物が大きく消耗し、年々大風多く、人は□痛を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは匣駿支満を病む。立冬、日影長さ一丈一寸二分。至るべき時に至らないと、地気が蔵されず、来年の立夏に逆に寒く、早く旱魃、遅く水害、万物実らず。至るべき時でないのに至ると、多くは臂掌痛を病む。小雪、日影長さ一丈一尺八分。至るべき時に至らないと、来年の蚕と麦が実らず、多くは恭腕痛を病む。至るべき時でないのに至ると、また多くは肘腋痛を病む。大雪、日影長さ一丈二尺四分。至るべき時に至らないと、温気が洩れ、夏に蝗虫が生じ、大水、多くは少気、五疸、水腫を病む。至るべき時でないのに至ると、多くは漢疽痛を病み、その応報は芒種に現れる。

『月令章句』に言う。「周天三百六十五度四分の一を、十二次に分け、日月の運行する軌道である。地には十二分あり、王侯の封国である。毎次は三十二度三十二分の十四、太陽がその初めに至れば節気、その中に至れば中気となる。危宿十度から壁宿九度までを豕韋の次といい、立春、驚蟄がこれに当たり、衛の分野である。壁宿九度から胃宿一度までを降婁の次といい、雨水、春分がこれに当たり、魯の分野である。胃宿一度から畢宿六度までを大梁の次といい、清明、穀雨がこれに当たり、趙の分野である。畢宿六度から井宿十度までを実沈の次といい、立夏、小満がこれに当たり、晉の分野である。井宿十度から柳宿三度までを鶉首の次といい、芒種、夏至がこれに当たり、秦の分野である。柳宿三度から張宿十二度までを鶉火の次といい、小暑、大暑がこれに当たり、周の分野である。張宿十二度から軫宿六度までを鶉尾の次といい、立秋、処暑がこれに当たり、楚の分野である。軫宿六度から亢宿八度までを壽星の次といい、白露、秋分がこれに当たり、鄭の分野である。亢宿八度から尾宿四度までを大火の次といい、寒露、霜降がこれに当たり、宋の分野である。尾宿四度から斗宿六度までを析木の次といい、立冬、小雪がこれに当たり、燕の分野である。斗宿六度から須女宿二度までを星紀の次といい、大雪、冬至がこれに当たり、越の分野である。須女宿二度から危宿十度までを玄枵の次といい、小寒、大寒がこれに当たり、齊の分野である。」

蔡邕が分けた星次と度数は皇甫謐のものと異なり、気節の所在も併せて明らかにしているので、ここに記載する。謐の列挙したものは郡国志にある。

中星は太陽の位置を基準とする。太陽の運行は四年で一周する。求めたい年の二十四気の小余を四倍し、法によって少・大とし、余りが尽きなければ三倍し、法によって強・弱とし、節気の□明中星から減じて、それぞれ定める。強は正である。

弱とは、不足していることである。その強弱を相減じ、同名のものは取り去り、異名のものはそれに従う。強い方から少し進めば弱となり、弱い方から少し退けば強となる。上元の太歳が庚辰にあった年から、熹平三年、甲寅の年に至るまで、合わせて九千四百五十五年である。

宋の時代に暦法を研究した何承天は言った。「暦数の術は、もし心で理解できないならば、たとえ博識な先達の知恵があっても、その弊害を救うことはできない。

そのため長年を経ても、まだ定めることができなかった。四分暦は天象に対して、三百年で一日のずれが生じるが、代々の人が悟らず、ただ暦を建てる根本は必ずまず元(暦の起点)を立てるべきだと唱え、讖緯の説に仮託して、遂に治乱の議論を開いた。この弊害は、また甚だしいものであった。劉歆の三統法はさらに粗雑で、四分暦と比べて、六千余年でまた一日を加える。楊雄はその説に心を惑わされ、『太玄経』に採用した。班固はこれを最も精密であると称え、『漢書』の志に著した。司馬彪は言う。『太初元年から三統暦の使用を始め、百有余年施行された。』かつて劉歆の生年が太初に及ばないことを思い出さなかったのか。二、三の君子が暦を作るのに、ほとんど知らないで妄言したと言えるのではないか!

元和年間、谷城門候の劉洪が初めて、四分暦が天象に対して粗雑であることを悟り、さらに五百八十九を紀法とし、百四十五を斗分として、干象法を作り、また□疾歴を制定して月の運行を推算した。太初暦、四分暦と比べて、より精密になった。」

史論

論じて言う。易に太極があり、これが両儀を生じる。両儀の分かれは古く、ここに伏羲が現れた。伏羲が天下を有した時は、まだ文字や計算がなかった。歳月が長く経ち、黄帝に至って、文章を明示し、重黎が記録し注釈を加え、天象に応じて名称を定め、始めと終わりを互いに検証し、基準を定めて元を遡り、ここに暦数が立てられた。天は信じ難いものであるため、五帝・三王から今に至るまで、それぞれに改作があり、通用しない。

ゆえに黄帝が暦を作り、元を辛卯に起した。そして顓頊は乙卯を用い、虞は戊午を用い、夏は丙寅を用い、殷は甲寅を用い、周は丁巳を用い、魯は庚子を用いた。漢が興って秦を継ぎ、初めは乙卯を用いたが、武帝の元封年間に至り、天象と合わなくなった。そこで術士を集めて太初暦を作り、元を丁丑とした。王莽の時代、劉歆が三統暦を作り、太初暦以前の一元を遡り、五星が庚戌の年に会合するのを得て、上元とした。太初暦は章帝の元和年間に至り、また粗雑になった。術に優れた者を徴用して諸暦を校合させ、朔を定め元を考証し、漢の四十五年庚辰の年を遡り、一日を遡及させて、天象と合致するようにし、これを四分暦の元とした。六百五元一紀を加えると、上は庚申を得る。緯書に近いが、歳星が摂提に当たらないため、暦を弁じる者がその説を開くことができ、その元は緯書と同じである。同じであれば、あるいは天象に合わないこともある。しかし暦の興廃は、粗密によって評価されるのであり、本来は元に主眼を置かない。光和元年、議郎の蔡邕と郎中の劉洪が律暦志を補完し続けた。蔡邕は文章を著すことができ、音律の清濁に通じ、劉洪は計算ができ、三光の運行を述べた。今その業績を考察論評すると、その意義は広く通じており、術数は大略を挙げている。そこでこれを集めて録し、上下篇とし、前の志を継ぐものとして、一家を成すものとした。

蔡邕が辺境に配流された際に上奏した文書に言う。「朔方の髡鉗の徒である臣、邕は、頓首再拝して皇帝陛下に上書いたします。臣邕は陛下の格別の大恩を受け、初めは宰相府に属して典城の任に備え、叔父の故衛尉の蔡質が当時尚書であったため、召されて郎中に任じられ、詔を受けて東観に赴き著作に従事し、ついに多くの儒者と共に議郎に任じられました。恩沢を浴し、聖なるお尋ねにお答えし、前後六年に及びました。蔡質は機密を奉じ、陛下の目下に奔走し、ついに尚書令しょうしょれいの地位に至り、良き藩国に出て宰相となり、都に戻って尹となり、十日ほどの間に高位に登りました。父子一門ともに恩寵を受けながら、心力を尽くしてわずかでも功績を挙げることができず、一旦罪状を暴かれ、罪に陥れられて誅戮されようとしました。陛下は天地のような御仁徳により、刀鋸で臣の首を断つに忍びず、平罪に就くことを許し、父子家属を辺境に移住させ、身体を全うさせ、息をつなぐことを許されました。これは臣の無様な者が再び望むべきことではなく、臣の罪悪が再び蒙るべきことではなく、臣の言葉や筆で再び陳述できることではありません。臣は初め洛陽らくようの詔獄で罪を決せられ、牢獄の戸から生まれ出て、元初年間の故尚書郎張俊のことを顧みました。彼は機密漏洩の罪に坐し、重刑に処せられるはずでしたが、すでに谷門を出た後、再び判決文の読み上げを聴き、詔書が馳せて救い、罪一等を減じて左校での労役に服することになりました。張俊は上書して恩に謝し、ついに流刑に転じました。臣は郡県から急かされて追い立てられ、役人の手に委ねられ、一息つく暇もなく、言葉を胸に抱き悲しみを抱いて、上達する手段がありませんでした。既に配流の地に到着し、要塞に乗り烽火を守り、斥候の任務に就いて以来、憂い怖れ焦がれ灼かれ、再び筆を執って草稿を完成させ、朝廷に奏章を届ける心もありません。聖朝が臣の謝罪を責めないことは誠に承知しておりますが、ただ愚かな心に、成し遂げられなかったことがあるのです。臣は布衣の身であった時から、常に『漢書』の十志は王莽の時代までで終わり、世祖(光武帝)以来は紀伝しかなく、志を継ぐ者がいないことを残念に思っておりました。臣が師事した故太傅の胡広は、臣がその学問の門戸を少しは識っていることを知り、おおよそ所有していた旧事を臣に与えてくださいました。まだ完全ではありませんでしたが、大略その首尾を見ることができ、考えを積み重ねること二十余年でした。その地位にいない者、外吏や庶人が勝手に述べるべきことではありません。

天がその心を導き、著作郎に備えることを得て、十志は皆撰録すべきであると建言し、ついに議郎の張華らと分けてこれを受け持ち、その難しい部分は皆臣に任されました。まず律暦を研究し、計算を根本とし、天文を検証とし、太史の旧注を請い、連年考証校合しましたが、往々にしてかなりの誤差があり、増減を加えて初めて施行し、永遠の法とすべきものでした。その道理は極めて深遠微妙であり、独りで議論することを敢えてしませんでした。郎中の劉洪は計算に精通していたため、臣は劉洪を上表して推挙し、共に図牒を参酌して考えました。

探求を続けてようやく端緒が見え始めたところで、臣が罪に問われ、ついに辺境の野に追放されました。臣はひそかに自ら痛み、一度の過ちによって、史籍に欠けている部分、胡広が校訂したもの、二十年の思索が中途で廃絶し、完遂できないことを残念に思います。誠実な思いは、なお心に結びつき、望みを捨てることができません。臣は初め刑期が終わるのを待ち、それから県の役所を通じて、詳しく状況を上聞しようと考えておりました。今年七月九日、匈奴が初めて郡の塩池県を攻撃し、その時鮮卑が連続して雲中、五原を侵犯し、一月のうちに烽火が絶えませんでした。西方の夷狄が互いに謀り合い、その企ては広く遠大で、恐らくは変事となり、どう対処してよいか分かりません。郡県は皆恐れ、明日の朝を保つことができません。臣の居る所は孤立して危険であり、命は鋒鏑に懸かり、土灰に埋もれ消え、次の息ができるか分かりません。誠に恐れるのは、胸に抱いた思いが身体と共に朽ち果て、黄泉に恨みを抱くことです。そこで準備を整えず、謹んでまず倒れ伏して申し上げます。諸志の条項について、臣が削除訂正したいもの一つ、継ぎ足すべきもの四つ、前志にないもので臣が著したいもの五つ、及び経典や多くの書物から採集すべきもの、本奏や詔書で根拠とすべきものを、それぞれ首目を分け、併せて奏章の左に記します。臣が初め取り調べを受けた時、妻子は逃げ散り、文書を失い、照会するものがありません。加えて惶れ怖れ愁え恐れ、思いは乱れ散り、十分の一も識ることができず、識ったものもまた誤りがあるのではないかと恐れます。死罪に触れることを冒して、愚かな心情を披瀝し、東観に下して諸々の奏文を推し求め、璽書と照合し、遺漏や欠落を補い綴り合わせ、国家の体制を明らかにしていただきたいと願います。この上奏が聞き届けられた後は、たとえ肝脳が流れ離れ、白骨が切り開かれても、再び恨むことはありません。どうか陛下ご覧ください。謹んで臨戎長の霍圉を通じて封をして上呈いたします。臣は頓首死罪、稽首再拝して以て上聞いたします。」彼が論じた志は、志家がまだ成書としてまとめておらず、もし異同があれば、今事に従って本志に注を加える。

賛に曰く、象は物によって生じ、数は杪曶びょうこつに本づく。律は均しく前に起こり、準は調べて後に発する。衡琁こうけんを該核し、日月を検会す。

校勘記

三〇五五頁四行 斗綱(之)〔所〕建 集解が盧文弨の説を引いて、「之」は御覧では「所」と作ると言う。按ずるに、下の「青龍所纏」と対句を成す文であるから、「所」と作るのが正しい。今これに拠って改める。また按ずるに、「綱」は原版では「剛」と作るが、直ちに改正する。

三〇五五頁七行 当其同〔所〕 集解が盧文弨の説を引いて、「同」の下に「所」の字が脱落していると言い、御覧にはある。今これに拠って補う。

三〇五五頁九行 斗建移辰謂之〔月〕 集解が李鋭の説を引いて補う。

三〇五五頁九行 日月之(術)〔行〕 集解が李鋭の説を引いて改める。按ずるに、殿本は「行」と作る。

三〇五六頁五行 以察〔発〕斂 集解が銭大昕の説を引いて補う。

三〇五七頁一三行 乃立儀表 按ずるに、集解が李鋭の説を引いて、儀は渾儀を謂い、表は圭表を謂うと言う。今、儀表の間に頓号を加える。

三〇五八頁二行 為一月之数 按ずるに、文義に依れば「為一月之日数」と云うべきであり、「日」の字が脱落している疑いがある。

三〇五八頁三行 月成則其歳〔大〕月(大)四時推移 集解が張文虎の説を引いて、「月大」の二字は倒置されており、「大」の字で句を切り、「月」の字は下に属すべきであると言う。これは閏のある年を大歳とするものである。歳の余分が月法に満ちて閏を置くのを大歳と言い、月の余分が日法に満ちて日となるのを大月と言うのと正に同じである。しかし閏月は四時の推移によって進退があるので、中気を置いてこれを定める。今これに拠って改める。

三〇五八頁四行 中之始(日)〔曰〕節 集解本に拠って改める。

三〇五八頁一三行 故一(共)〔元〕以四千五百六十為甲寅之終也 汲本に拠って改める。

三〇五九頁一一行 没数二十一(為章閏) 集解が李鋭の説を引いて削除する。

三〇五九頁一五行 中法(四)〔三〕十二 集解が銭大昕の説を引いて改める。

三〇六〇頁三行 其月(食)百三十五 集解が銭大昕の説を引いて削除する。

三〇六〇頁四行、『得五(百)[月]二十三之二十而一食』は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて改める。

三〇六〇頁四行、『得歳有再食五百一十三分之五十[五]也』は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて補う。

三〇六〇頁五行、『得四與二十七互之會二千五十二』について、按ずるに、「互」は殿本では「五」と作る。集解に引用された銭大昕の説によれば、「五之」の二字は解し難く、閩本や汲古閣本は「互」と作るが、これも正しくない。おそらく「名之曰蔀會」とあるべきで、伝写の際に脱字したのであろう。また李鋭の説を引くと、「互之」とは互いに乗ずることである。四は七十六の約数であり、これに五百一十三を乗ずると二千五十二を得る。二十七は五百一十三の約数であり、これに七十六を乗ずると、やはり二千五十二を得る。これが蔀会である。

三〇六〇頁七行、『蔀会(三)[二]千五十(三)[二]』は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて改める。

三〇六〇頁一〇行、『月数百(二)[三]十五』は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて改める。

三〇六〇頁一行、『食法二十(二)[三]』は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて改める。

三〇六〇頁一三行、『筭外所入紀歳名命之筭上即所求年太歳所在』について、集解に引用された李鋭の説によれば、「筭外」の下に脱文があり、おそらく「筭外、所入蔀也。不満蔀法者、入蔀年数也、各以所入紀歳名命之、筭上、即所求年太歳所在」とあるべきである。按ずるに、李の説によれば、「筭外」の下に「所入蔀也不満蔀法者入蔀年数也各以」の十六字を補うべきである。

三〇六〇頁一五行、『所得以(七)[二]十(二)[七]乘之』は、集解に引用された李鋭の説に基づいて改める。

三〇六一頁一行、『筭(之起)外所(以)入紀』について、集解に引用された銭大昕の説によれば、「之」「起」「以」の三字はすべて衍文である。今これに基づいて削除する。

三〇六一頁二行、『各以(不)[所]入紀歳名命之』は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて改める。

三〇六一頁三行、『即所求年(蔀)[太歳所在]』は、集解に引用された李鋭の説に基づいて削除・補足する。

三〇六一頁四行、紀蔀表について、張文虎の『舒蓺室随筆』に云う、「この表の首行の序題について、各本は誤って『天紀歳名』を蔀名『甲子』『癸卯』に対し第一列とし、『地紀歳名』を『庚辰』『丙申』に対し第二列とし、『人紀歳名』を『庚子』『丙辰』に対し第三列とし、『蔀首』の二字を『庚申一』『丙子二』に対し第四列としている。李尚之の四分術注は銭少詹の説に依ってこれを正し、天・地・人三紀の序題をそれぞれ一列ずつ下げ、『蔀首』の二字のみが一、二、三、四の数と対応するようにした。今の局中の新刊本はこれに従っている。実際には蔀名『甲子』、『癸卯』の列を末列に移し、数字と連続させるべきで、王氏の太歳考はこのように改めている。あるいは蔀首の数字を第一列に移し、蔀名と連続させれば、より明白であろう。」今、張の説に依ってこれを正しく移す。

三〇六二頁二行、『壬(午)[子]』は、集解に引用された盧文弨の説に基づいて改める。

三〇六二頁五行、『(乙)[己]酉』は、集解に引用された盧文弨の説に基づいて改める。

三〇六二頁一四行、『小余四百九十[九]』は、集解に引用された銭大昕、李鋭の説に基づいて補う。

三〇六三頁一行:大周の乗年と周天の乗閏余を以ってこれを減じ、余りが蔀月に満てば、天正の朔日である。集解に引く銭大昕の説に拠り補い改む。

三〇六三頁二行:日余を以ってこれを乗ず。集解に引く銭大昕の説に拠り改む。

三〇六三頁九行:その近き節気の夜漏の半に満たざる者は、集解に引く李鋭の説に、『数』は『所』と作るべしと謂う。声の闘なり。今これに拠り改む。

三〇六三頁一四行:十五を以って冬至の小余に乗ず。集解に引く銭大昕の説に拠り改む。

三〇六三頁一五行:入蔀積日を置き、蔀月を以ってこれを乗ず。集解に引く銭大昕の説に拠り改む。

三〇六四頁八行:斗を経て十九分を除く。集解に引く銭大昕の説に拠り補う。

三〇六四頁九行:朔の小余を以って合朔の度分を減ず。集解に引く盧文弨の説に拠り補う。

三〇六四頁九行:その分二百三十五を以ってこれを約す。汲本・殿本に拠り改む。

三〇六四頁一二行:積度に斗二十一十九分を加う。集解に引く銭大昕の説に拠り補う。

三〇六四頁一四行:昼漏分の後、漏尽に尽くると謂うなり。集解に引く李鋭の説に、『謂尽漏』は『謂晝漏』と作るべしと謂う。昼漏分の後とは、昼漏と夜漏分の後、すなわち夜上水の後より夜漏尽に至るまでを謂い、月が張・心にあれば、則ち術に注す。今これに拠り改む。

三〇六五頁三行:夜半より明日に到る所行分を以って蔀法を減ず。集解に引く李鋭の説に拠り削る。

三〇六五頁五行:その節気の夜漏の数を置く。集解に引く銭大昕の説に拠り改む。

三〇六五頁六行:即ち月の明の在る所の度なり。集解に引く盧文弨の説に拠り改む。

三〇六五頁八行:七度三百五十九分四分の三を加う。集解に引く盧文弨の説に拠り削る。

三〇六五頁八行:宿次を以ってこれを除く。集解に引く盧文弨の説に拠り補う。

三〇六五頁一〇行の小分[滿]四は大分[大分]滿蔀月に従う。度は集解に引く李鋭の説に拠って補う。

三〇六五頁一五行は月数に積[食]を乗ずる。集解に引く銭大昕の説に拠って補う。

三〇六六頁三行に五(百)[月]二十分を加える。集解に引く銭大昕の説に拠って改める。

三〇六六頁五行はまた四百九十[九]に積月を乗ずる。集解に引く銭大昕の説に拠って補う。

余は積月と為す。按ずるに、集解に引く李鋭の説に、これは省文なりと謂う。術を以て之を行えば、章月に余年を乗じ、章法に満てば一を得て積月と為し、満たざるを閏余と為すべし。

法に満たざる(法)什之。集解に引く銭大昕の説に拠って削る。

余は昨夜未(晝)[盡]と為す。集解に引く李鋭の説に拠って改める。

章法に周率を乗じて(用)[月]法と為す。集解に引く銭大昕の説に拠って改める。

月の(月)[日]に積[月]を乗じて朔の大小余と為す。集解に引く李鋭の説に拠って改める。

乗じて入月日余と為す。按ずるに、集解に引く銭大昕の説に、此処に脱文有りと謂う。今算術を以て之を求めれば、蔀日に積月を乗じ、蔀月を以て一と為し、積日と為し、尽きざるを小余と為す。積日六十に満てば之を去り、余を大余と為す。また蔀日に月余を乗じ、月法に朔小余を乗じ、之を併せ、四千四百六十五を以て之を約し、得る所日度法の如く一と為し、入月日と為し、尽きざるを日余と為す。また李鋭の説を引き、算を以て之を求めれば、蔀日に月余を乗じ、月法に朔小余を乗じ、之に従い、章法に章月を乗じ、得る数を約し、日度法の如く、入月日・日余と為すべしと謂う。

[周]率を以て日率を去る。集解に引く銭大昕の説に拠って補う。

日度法の如く[積]度(之)[度]余と為す。集解に引く銭大昕の説に、「度之餘」と為すべきは「積度度余」と云うべしと謂う。また李鋭の説を引き、「日度法の如く、度之餘也」と為すべきは、「日度法の如く積度と為し、尽きざるを度之餘也」と云うべしと謂う。今按ずるに、銭・李二氏の説皆理に合う。局本は銭説に依りて改む。今之に従う。

日余万四千六百四十(七)[一]。集解に引く銭大昕の説に拠って改める。

入月日十(一)[二]。集解に引く銭大昕の説に拠って改める。

入月日二十(三)[四]。集解に引く銭大昕の説に拠って改める。

三〇六八頁七行目:月法は十万七百七十(「一」の字は汲古閣本と武英殿本に基づいて補う)。

三〇六八頁一〇行目:月余は二十一萬七千六百六十三(集解に引用された銭大昕の説に基づいて補う)。

三〇六八頁一二行目:虚分は四百四十一(集解に引用された銭大昕の説に基づいて「九」を「一」に改める)。

三〇六八頁一二行目:入月日は二十八(集解に引用された銭大昕の説に基づいて「七」を「八」に改める)。

三〇六八頁一三行目:日度法は四萬七千六百三十二(集解に引用された銭大昕の説に基づいて「一」を「二」に改める)。

三〇六八頁一四行目:割り切れない部分を「合余」と呼ぶ(集解に引用された恵棟の説によれば、「名」の下に干象暦では「為」の字があり、これを補うべきであるとされる。ここに基づいて補う)。

三〇六八頁一五行目:合余を周率で割る(集解に引用された李鋭の説に基づいて補う)。

三〇六九頁二行目:小積から積月を求め、割り切れない部分を月余とする(集解に引用された李鋭の説に基づいて補う)。

三〇六九頁五行目:その閏余が二百二十四以上であれば(集解に引用された李鋭の説に基づいて「余」の字を補う)。

三〇六九頁六行目:蔀日に入紀月を乗じる(集解に引用された銭大昕の説に基づいて「之」の字を削除する)。

三〇六九頁八行目:得られた数が日度法に満たない場合は一を得る(集解に引用された銭大昕の説に基づいて余分な「得」の字を削除する)。

三〇六九頁一三行目:周率に小余を乗じる(集解に引用された盧文弨の説に基づいて「乗」の字を補う)。

三〇六九頁一四行目:これが冬至後の星合の日数である(集解に引用された李鋭の説に基づいて「正」を「至」に改める)。

三〇六九頁一五行目:金星と水星は晨に加えて夕を得る(集解に引用された銭大昕の説に基づいて「余一」を「金水」に改める)。

三〇七〇頁二行目:さらに大余二十九、小余四百九十九を加える(集解に引用された銭大昕の説によれば、「又」の下には脱落があると疑われ、「加大余二十九、小余四百九十九」とあるべきであるとされる。ここに基づいて補う。注:これは上記の「後合月」を求める際の「月余に月余を加え、その月法に満たない場合は一を得る」という部分に対応するため、再び大余二十九、小余四百九十九を加えるべきである)。

三〇七〇頁三行「如」を「加」に改める。集解に引用された銭大昕の説に拠って改めた。

三〇七〇頁四行「入月日」の後に「日」を補う。余加今所得に拠る。集解に引用された盧文弨の説に拠って補った。

三〇七〇頁四行「其前合月朔小余不満其虚分者」の「不」を削除する。集解に引用された李鋭の説に拠って削った。

三〇七〇頁八行「七千二百二十分半」の「二」を「三」に改める。集解に引用された銭大昕の説に拠って改めた。

三〇七〇頁一〇行「八十四日進十二度」の「進」を「退」に改める。集解に引用された銭大昕の説に拠って改めた。

三〇七〇頁一二行「七千二百二十分半」の「二」を「三」に改める。集解に引用された銭大昕の説に拠って改めた。

三〇七〇頁一四行「三十二度」の「二」を「三」に改める。集解に引用された銭大昕の説に拠って改めた。

三〇七一頁一行「八十四日行一十二度」の「八十四日」の前に「百」を補い、「一十二度」の前に「百」を補う。集解に引用された銭大昕の説に拠って補った。

三〇七一頁四行「行百三度」の「百」の後に「三」を補う。集解に引用された銭大昕の説に拠って補った。

三〇七一頁六行「通率日行千八百七十六分之九百九十七」の「九十七」は元来「九十六」であった。張元濟の校勘記によれば、「六」の字は元来「大」であり、影印上板の際に描き改めたものであるという。

三〇七一頁一一行「見三百四十日」の「見」の前に「一」を補う。集解に引用された盧文弨の説に拠って補った。

三〇七一頁一五行「順」の前に「旋」を補う。文義に依れば「旋」の字が脱落しているはずであり、今補った。

三〇七一頁一五行「日行行四十六分度之三十三」の「行」の重複を削除する。集解に引用された銭大昕の説に拠って削った。

三〇七一頁一五行「而日行一度九十一分度之十五」の「而」の後に「疾」を補い、「九十一分度」の「一」を補う。集解に引用された銭大昕の説に拠って補った。

三〇七二頁三行「一合二百九十二日百八十一分」の「百」の前に「二」を補う。集解に引用された銭大昕の説に拠って補った。

三〇七二頁七行目「而(進)[□]」は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて改める。

三〇七二頁九行目「退四度而(後)[復]合」は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて改める。

三〇七二頁九行目「凡(三)[再]合一終」は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて改める。

三〇七三頁二行目「[旋]逆」は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて補う。

三〇七三頁三行目「行三十[二]度」は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて補う。

三〇七三頁五行目「(如)[加]星合日度余」は、集解に引用された銭大昕の説に基づいて改める。

三〇七三頁五行目「(術)[行]分母乘之」は、集解に引用された李鋭の説に基づいて改める。

三〇七三頁六行目「分(日)如[日]度法而一」は、集解に引用された李鋭の説に基づいて改める。

三〇七三頁六行目「不盡如(法)半[法]以上」は、集解に引用された盧文弨の説に基づいて改める。

三〇七三頁一〇行目「(日)[月]名」は、集解に引用された李鋭の説に基づいて改める。注:下表の配列は李鋭の漢四分術に基づいて改定した。

三〇七四頁三行目「斗二十六四分[一]退二」は、集解に引用された李鋭の説に基づいて補う。

三〇七四頁三行目「女十二進(二)[一]」は、集解に引用された李鋭の説に基づいて改める。

三〇七四頁三行目「虚十進(三)[二]」は、集解に引用された李鋭の説に基づいて改める。

三〇七四頁四行目「危十(六)[七]」は、集解に引用された李鋭の説に基づいて改める。

三〇七四頁四行目「室十六進(二)[三]」は、集解に引用された李鋭の説に基づいて改める。

三〇七四頁四行、壁(十)[九]進(三)[一]。汲本、殿本は「進三」を「進二」と作る。集解が李鋭の説を引いて、「壁十」は「壁九」とすべきであり、「進二」は「進一」とすべきであるという。今これに拠って改める。按ずるに、集解が李鋭の説を引いて、この赤道度は即ち太初の星距で三統術に見えるものであるという。漢以後から相沿って承用され、唐の大衍術に至って初めて畢・觜・参・鬼の四宿を改め、後漢は四分術を施行し、未だ改測したことはなく、則ち二宿の度数は三統術と異なることはあり得ない。今本が「危十六」「壁十」と作るのは、下文の黄道度と関わって誤ったものである。

三〇七四頁六行、婁十二(進)[退]一。汲本、殿本は「進一」を「進二」と作る。集解が李鋭の説を引いて、「退一」とすべきであるという。今これに拠って改める。

三〇七四頁六行、胃十四(進二)[退一]。集解が李鋭の説を引いて改める。

三〇七四頁六行、昴十一(進)[退]二。集解が李鋭の説を引いて改める。

三〇七四頁七行、畢十六(進)[退]三。汲本、殿本は「進三」を「進二」と作る。集解が李鋭の説を引いて、「退三」とすべきであるという。今これに拠って改める。

三〇七四頁一〇行、翼十八進(一)[二]。集解が李鋭の説を引いて改める。

三〇七四頁一三行、尾十八(進)[退]三。集解が李鋭の説を引いて改める。

三〇七五頁二行、斗二十四(進一)[四分一]。集解が李鋭の説を引いて改める。

三〇七六頁一行、夜漏減(三)[之二]百而一。集解が李鋭の説を引いて改める。

三〇七六頁二行、如法為少[二為半三為太]。集解が李鋭の説を引いて補う。

三〇七六頁五行、赤道は渾天の腹を横帯し、去極九十一度十[六]分の五。御覧に「渾」字なし。また「分」の上に原「六」字なし。占経、御覧は「十九分」と作るも、これまた正しからず。今算理に依って補う。

三〇七六頁七行、夏の歴景去極の法に就いて以て率と為すなり。按ずるに、「夏歷景」は開元占経では「夏至歷景」と作る。影印宋本御覧の引用は「夏歷景」と作る。鮑刻本は「夏至晷景」と作る。

三〇七六頁九行、北極及び衡を取って各(誠)[針]□之を以て軸と為す。厳可均輯『全後漢文』に拠って改める。

三〇七六頁一〇行、以て[百]八十二度八分の五と為す。開元占経に拠って補う。

三〇七六頁一一行、篾の半際を視て(夕)多[少]黄赤道幾なるや。集解が盧文弨の説を引いて、「夕」字は衍字であるという。今按ずるに、「夕」は「少」字の形が闘い、またその文を顛倒したものである。下に「其所多少」と云うは、証と為し得る。開元占経の引用は「視篾半之際多少黃赤道幾何也」と作る。

三〇七六頁一二行「從(此)[北]極數之」は汲本・殿本に基づいて改める。

三〇七六頁一二行「則(無)[去]極之度也」は開元占経の引用に基づいて改める。

三〇七六頁一五行「故使中道三日之中(若)[差]少半也」は開元占経に基づいて改める。

三〇七七頁三行「而度猶[雲]退者」は集解の盧文弨の説を引き、「猶」の下に「雲」の字があるべきとし、これに基づいて補う。

三〇七七頁四行「而以赤道(重廣)[量度]黃道」は開元占経の引用に基づいて改める。

三〇七七頁五行「以赤道為(強)[距]耳」は開元占経の引用に基づいて改める。

三〇七七頁五行「故於黃道亦[有]進退也」は開元占経に基づいて補う。

三〇七七頁九行「斗二十一度八分退二」は元来「斗二十度百一十分八分退二斗」とあり、集解の銭大昕の説に基づいて改正する。按ずるに、銭は下に「百一十五」の文があるために重複したのだという。これは三十二を度法とし、分が法に満てば度に進め、三十一分を超えることはない。

三〇七七頁一〇行「女二度七分進一」の「進」の下に元来「一」の字が脱落していた。王先謙は李本が「進一」と作ると言うので、今、直ちに補う。

三〇七七頁一一行「百一十」は元来「百一十一」とあり、誤り。王先謙は李本が「百一十」と作ると言うので、直ちにこれに基づいて改める。

三〇七七頁一二行「危十度」は元来「危七度」とあり、誤り。直ちに集解の銭大昕の説に基づいて改正する。

三〇七七頁一二行「百六少強」の「少強」は元来「少弱」とあり、誤り。王先謙は李本が「少強」と作ると言うので、直ちにこれに基づいて改める。

三〇七七頁一二行「畢五少弱退三」の「少弱」は元来「少強」とあり、誤り。直ちに汲本に基づいて改正する。

三〇七七頁一三行「室八度二十八分進三」の「進三」は元来「退三」とあり、誤り。王先謙は李本が「退」を「進」と作ると言うので、直ちにこれに基づいて改める。

三〇七七頁一三行「箕大弱退三」の「箕」の下に元来「六」の大字があったが、誤り。王先謙は李本に「六」の字がないと言うので、直ちにこれに基づいて削除する。

三〇七八頁一行八十九強の「強」は原本では「少強」とあるが、誤りである。王先謙は李本には「少」の字がないと述べており、それに従って削除した。

三〇七八頁一行斗十一弱退二の「弱」は原本では「強」とあるが、誤りである。王先謙は李本では「弱」とあると述べており、それに従って改めた。

三〇七八頁二行胃一度十七分退一の「退一」は原本では「退二」とあるが、誤りである。王先謙は李本では「退一」とあると述べており、それに従って改めた。

三〇七八頁二行星四大進一の「進」の下に原本は「一」の字を欠いている。王先謙は李本では「進」の下に「一」の字があると述べており、それに従って補った。

三〇七八頁三行張十七進一の「進一」は原本では「進二」とあるが、誤りである。汲古閣本に従って正しく改めた。なお、王先謙は李本では「大進一」とあると述べている。

三〇七八頁四行畢六度の「六」は原本では「八」とあるが、誤りである。汲古閣本に従って正しく改めた。

三〇七八頁四行女十少進一の「進」は原本では「弱」とあるが、誤りである。王先謙は李本では「弱」を「進」としていると述べており、それに従って改めた。

三〇七八頁五行角大弱の「大」は原本では「六」とあり、大字で書かれているが、誤りである。王先謙は李本では「六」を「大」とし、小字で書かれていると述べており、それに従って改めた。

三〇七八頁七行室十二少弱進三の「進三」は原本では「退三」とあるが、誤りである。王先謙は李本では「進三」とあると述べており、それに従って改めた。

三〇七八頁九行星四度二分進一の「二分進一」は原本では「三分進二」とあるが、誤りである。王先謙は李本では「二分進一」とあると述べており、それに従って改めた。

三〇七八頁一〇行胃九大弱退一の「退一」は原本では「退二」とあるが、誤りである。王先謙は李本では「退一」とあると述べており、それに従って改めた。

三〇七八頁一一行翼九度十六分進二の「進二」は原本では「退二」とあるが、誤りである。李本では「進一」とあるが、これも誤りである。計算上の理屈から「進二」とすべきであり、ここではそのように改めた。

三〇七八頁一一行斗十少退二の「退」の下に原本は「二」の字を欠いている。王先謙は李本では「退二」とあると述べており、それに従って補った。

三〇七八頁一二行軫六度二十三分進一の「進一」は原本では「退一」とあるが、誤りである。王先謙は李本では「進一」とあると述べており、それに従って改めた。

三〇七八頁一二行斗二十一強退二の「退」の下に原本は一字を欠いている。汲古閣本と武英殿本では「退一」とあるが、誤りである。王先謙は李本では「退二」とあると述べており、それに従って補った。

三〇七八頁一四行、亢八度五分退一、「退一」は原本では「退三」とあるが、誤り。王先謙は李本が「退一」としていると言い、そのまま改めた。

三〇七八頁一四行、九十六大強、「大強」は原本では「少強」とあるが、誤り。王先謙は李本が「大強」としていると言い、そのまま改めた。

三〇七九頁一行、氐十四度十二分退二、「十二分」は原本では「十三分」とあるが、誤り。錢大昕は「三」は「二」とすべきと言い、王先謙は李本が「十二分」としていると言い、そのまま改めた。

三〇七九頁一行、虚六大進二、「進二」は原本では「進一」とあるが、誤り。王先謙は李本が「進二」としていると言い、そのまま改めた。

三〇七九頁二行、尾四度、「尾」は原本では「房」とあるが、誤り。王先謙は李本が「尾」としていると言い、そのまま改めた。

三〇七九頁二行、丈、「丈」の下に原本は「四寸二分」の四字があった。集解が李鋭の説を引いて言うには、祖沖之の術では二至の日影の長さはこれと同じである。その至の前後の各気の日影の長さは、この至の前後の日影の長さを二つずつ加えて、半分に折ることで得られる。この術では大雪の日影は丈二尺五寸六分、小寒の日影は二尺三寸、これを加えて半分にすると、沖之の術の大雪・小寒の日影一丈二尺四寸三分となる。この文を再び調べると、立冬の一気だけが合わない。祖沖之は四分志で立冬の中気の日影の長さは一丈、立春の中気の日影の長さは九尺六寸と言い、これを加えて半分にすると、九尺八寸となり、沖之の術の立春・立冬の日影とちょうど合う。するとこの文の立冬の日影丈四寸二分は、「四寸二分」の四字が誤って増えているのである。今、そのまま削除した。

三〇七九頁二行、張十五大強進一、「進一」は原本では「進二」とあり、汲本には「進一」の二字がない。王先謙は李本に「進一」の二字が多いと言い、殿本も同じであると言い、そのまま改めた。

三〇七九頁三行、室三、原本は「室二」とあるが、誤り。王先謙は李本の「室二」が「室三」となっていると言い、そのまま改めた。

三〇七九頁四行、斗六度一分退二、「退二」は原本では「退三」とあるが、誤り。王先謙は李本が「退二」としていると言い、そのまま改めた。

三〇七九頁四行、軫十五弱進一、「弱」は原本では「少強」とあるが、誤り。李本は「少弱」としているが、これも誤り。算理に依れば「弱」とすべきであり、そのまま改めた。

三〇七九頁一五行、振寒(温)[洞]泄、汲本・殿本に従って改めた。

三〇八〇頁二行、[国]有大喪、汲本・殿本に従って補った。

三〇八〇頁一四行、五疸、「疸」は原本では「疽」とあるが、誤り。殿本・集解本に従って正しく改めた。

三〇八〇頁一六行、每次三十(二)度三十(三)[二]分之十四、集解が引く錢大昕の説に従って削除・改めた。

三〇八〇頁一六行、自危十度至壁(八)[九]度、集解が引く錢大昕の説に従って改めた。下の「自壁八度至胃一度」も同じ。

三〇八〇頁一七行、立春と驚蟄をここに置く。按ずるに、殿本は「驚蟄」を「雨水」とし、下の「雨水」を「驚蟄」としている。集解は錢大昕の説を引き、これは驚蟄を正月中気とし、雨水を二月節とするもので、古法に依るという。四分術は雨水を正月中気とする。

三〇八一頁一行、清明と穀雨をここに置く。集解は盧文弨の説を引き、清明と穀雨は互いに易えるべきだとしている。今按ずるに、月令問答によって証するに、ただ驚蟄と雨水だけが三統を用い、他は皆四分を用いるので、易えるのは正しくない。

三〇八一頁一〇行、強は正、弱は負である。集解は李銳の説を引き、「直」は「負」とすべきで、負は背くことと同じだという。今これに拠って改める。

三〇八二頁七行、太初以前の三十一元を追う。集解が引く盧文弨の説に拠って改める。按ずるに、前志は太初元年が上元から十四万三千一百二十七歳離れているといい、まさに太初前三十一元であり、「卅」と「世」は形が近くて誤った。

三〇八二頁九行、漢の四十五年庚辰の歳を追う。集解が引く錢大昕の説に拠って改める。

三〇八三頁二行、趨走して目下にあり、ついに端右を出で、相となり好藩に出る。按ずるに、集解は惠棟の説を引き、邕の集では「目」は「陛」と、「竟」は「由」と、「好」は「外」と作るという。

三〇八三頁三行、一旦章を被る。汲本、殿本に拠って改める。

三〇八三頁四行、臣が無状であることによるものではなく、敢えて再び望むところではない。汲本、殿本に拠って補う。

三〇八三頁五行、罪一等を減ずる。「一等」の上に脱文があると疑われる。今、嚴可均が輯する全後漢文に拠って「減罪」の二字を補う。

三〇八三頁六行、邕が郡県から促されて遣わされる。集解は盧文弨の説を引き、「邕為」の二字が脱けているという。今これに拠って補う。按ずるに、惠棟の補注は「郡県」の上に邕の集には「邕為」の二字があるという。

三〇八三頁六行、吏の手に迫られる。按ずるに、集解は惠棟の説を引き、「□」は邕の集では「迫」と作るという。

三〇八三頁七行、ただ愚心を懐く。集解が引く盧文弨の説に拠って補う。

三〇八三頁八行、おおよそ所有の旧事を臣に与える。集解が引く盧文弨の説に拠って補う。

三〇八三頁一〇行、その難しきものは皆、臣に付される。集解は惠棟の説を引き、邕の集には「所使元順」の四字はなく、「其」の字があるという。今これに拠って改める。

三〇八三頁一一行、太史の旧注を請う。集解が引く盧文弨の説に拠って改める。

三〇八三頁一二行「尋繹」のところに頭角がある。集解は盧文弨の説を引いて、「尋繹」の下に「度數」の二字が脱落しているという。按ずるに、盧説のように「度數」の二字を増やすならば、「尋繹度數」で句を切るべきであろう。

三〇八三頁一二行(遂)[逐]放邊野。集解は惠棟の説を引いて、蔡邕の文集では「遂」を「逐」と作しているという。今これに拠って改める。

三〇八三頁一三行(故)[胡]廣所校。汲古閣本・武英殿本に拠って改める。

三〇八三頁一三行違望することができない。按ずるに、集解は盧文弨の説を引いて、「違望」は一に「自達」と作すという。

三〇八三頁一五行不(言四)[意西]夷相與合謀。集解が引く盧文弨の説に拠って改める。

三〇八三頁一六行謹んで先に顛踣す。按ずるに、集解は惠棟の説を引いて、「謹」は蔡邕の文集では「恐」と作しているという。

三〇八三頁一六行臣が(制)刪定せんと欲するもの一。集解が引く盧文弨の説に拠って削る。

三〇八三頁一七行臣が著さんと欲するもの(三)[五]。集解は惠棟の説を引いて、「三」は蔡邕の文集では「五」と作しているという。盧文弨もまた「三」は「五」と作すべきだという。今これに拠って改める。