後漢書

巻九十六・禮儀下 大喪諸侯王列侯始封貴人公主薨

巻九十六・禮儀下 大喪諸侯王列侯始封貴人公主薨

礼儀下

原文(段落全体)禮儀下

大喪、諸侯王・列侯・始封貴人・公主の薨去

原文大喪諸侯王列侯始封貴人公主薨

 

後漢書志第六 礼儀下 大喪、諸侯王・列侯・始封貴人・公主の薨去  不豫(病が重たかさい)のときは、太醫令丞が醫者を率い、適切な薬を進める。嘗藥監・近臣の中常侍・小黃門は皆、先に薬を嘗め、十二分に量を過ごす。公卿朝臣は起居を問うて間断がない。太尉は南郊に告請し、司徒・司空は宗廟に告請し、五嶽・四瀆・群祀に告げ、ともに福を祈り求める。疾病のときは、公卿が再び礼に従う。  注[一]漢舊儀にいう:「帝が崩ずるときは、珠を唅み、緹繒十二重で纏う。玉を襦(短い上着)とし、鎧のようにつなぎ縫いし、黄金を縷(糸)とする。腰以下は玉を札とし、長さ一尺、幅二寸半、柙はことし、足まで至り、これも黄金の鏤(彫金)で縫う。諸衣の衿でこれを斂おさめる。凡そ乗輿の衣服は、すでに用いたものは、すぐにこれを蔵し、崩じたときは皆これを以て斂める。」

原文後漢書志第六 禮儀下 大喪諸侯王列侯始封貴人公主薨  不豫,太醫令丞將醫人,就進所宜藥。嘗藥監、近臣中常侍、小黃門皆先嘗藥,過量十二。公卿朝臣問起居無閒。太尉告請南郊,司徒、司空告請宗廟,告五獄、四瀆、腢祀,並禱求福。疾病,公卿復如禮。  注[一]漢舊儀曰:「帝崩,唅以珠,纏以緹繒十二重。以玉為襦,如鎧狀,連縫之,以黃金為縷。腰以下以玉為札,長一尺,*[廣]*二寸半,為柙,下至足,亦縫以黃金鏤。*(請)*諸衣衿斂之。凡乘輿衣服,已御,輒藏之,崩皆以斂。」

注[二]禮稽命征にいう:「天子は珠を飯とし、玉を唅む。諸侯は珠を飯とし、璧を唅む。卿大夫・士は珠を飯とし、貝を唅む。」

原文注[二]禮稽命征曰:「天子飯以珠,唅以玉。諸侯飯以珠,唅以*(珠)**[璧]*。卿大夫、士飯以珠,唅以貝。」

注[三]周禮:「凌人、天子の喪には、夷盤の冰を供す。」鄭玄がいう:「夷とは屍の言である。盤中に冰を実みたし、これを屍の牀の下に置き、もって屍を寒くする所以である。」漢の禮器制度:「大盤は広さ八尺、長さ一丈いちじょう二尺、深さ三尺、漆で赤く中を塗る。」

原文注[三]周禮:「凌人,天子喪,供夷盤冰。」鄭玄曰:「夷之言屍也,實冰於盤中,置之屍默之下,所以寒屍也。」漢禮器制度:「大盤廣八尺,長一丈二尺,深三尺,漆赤中。」

注[四]應劭がいう:「凡そ郡国守相に竹使符を与えるときは、皆、竹箭五枚、長さ五寸を用い、篆書で第一から第五までを鐫刻する。」張晏がいう:「符は古の珪璋に代えるもので、簡易に従うのである。」この下の大喪の符も、またこの比と同じである。

原文注[四]應劭曰:「凡與郡國守相竹使符,皆以竹箭五枚,長五寸,鐫刻篆書第一至第五。」張晏曰:「符以代古之珪璋,從簡易也。」此下大喪符,亦猶斯比。

注[五]漢の旧制では、兵を発するときは皆、銅虎符を用い、その他の徴調は、竹使符のみである。符の第が合会することを大信とし、杜詩伝に見える。

原文注[五]漢舊制,發兵皆以銅虎符,其餘徵調,竹使而已。符第合會為大信,見杜詩傳。

注[六]周禮:「駔そ珪・璋・璧・琮・琥・璜の渠みぞ眉、璧・琮を疏あけて以て屍を斂む。」鄭司農がいう:「駔とは、外に捷盧つばがあることである。珪・璋・璧・琮・琥・璜は皆、渠を開き、眉瑑ぶちとし、沙除すなをのぞき以て屍を斂め、汁の流れ去るを得しめるのである。」鄭玄がいう:「以て屍を斂むとは、大斂のときにこれを加えるのである。渠眉とは、玉を飾る溝瑑(みぞの彫り)である。組を以て六玉の溝瑑の中を穿ち聯ね、以て屍を斂める。珪は左に、璋は首に、琥は右に、璜は足に、璧は背に、琮は腹にあり、蓋ふたし方明の神に象を取るのである。璧・琮を疏(あ)けるとは、天地に通ずるのである。」

原文注[六]周禮:「駔珪、璋、璧、琮、琥、璜之渠眉,疏璧、琮以斂屍。」鄭司農曰:「駔,外有捷盧也。謂珪、璋、璧、琮、琥、璜皆為開渠,為眉瑑,沙除以斂屍,令汁得流去也。」鄭玄曰:「以斂屍者,以大斂焉加之也。渠眉,玉飾之溝瑑也,以組穿聯六玉溝瑑之中以斂屍。珪在左,璋在首,琥在右,璜在足,璧在背,琮在腹,蓋取象方明神之也。疏璧、琮者,通於天地。」

注[七]喪大記にいう:「君は蓋に漆を用い、三衽三束。」鄭玄注にいう:「衽とは、小腰こしである。」

原文注[七]喪大記曰:「君蓋用漆,三衽三束。」鄭玄注曰:「衽,小腰。」

三公は尚書顧命を奏上し、太子は即日、柩前において天子の位に即き、太子が皇帝の位に即くことを請い、皇后を皇太后とする。

原文三公奏尚書顧命,太子即日即天子位於柩前,請太子即皇帝位,皇后為皇太后。

奏可。群臣は皆、退出し、吉服を着て入会し、儀の如くする。太尉は阼階より昇り、柩の御座に当たり北面して稽首し、策を読み終え、伝国玉璽綬じじゅを以て東面して跪き皇太子に授け、皇帝の位に即く。中黃門は兵を掌り、玉具・随侯珠・斬蛇寶□を以て太尉に授け、群臣に告げ令す。群臣は皆、伏して万歳と称す。あるいは天下に大赦する。使者を遣わし、城門・宮門を開くことを詔し、屯□の兵を罷やめる。群臣百官は罷り、喪服を成して入り、礼の如くする。兵官は戎(軍装)す。[一]三公、太常は礼の如くする。  注[一]文帝の遺詔:「布車及び兵器を施すことなかれ。」應劭がいう:「軽車と介士(武装兵士)を施さないのである。」

原文奏可。腢臣皆出,吉服入會如儀。太尉升自阼階,當柩御坐北面稽首,讀策畢,以傳國玉璽綬東面跪授皇太子,即皇帝位。中黃門掌兵以玉具、隨侯珠、斬蛇寶□授太尉,告令腢臣,腢臣皆伏稱萬歲。或大赦天下。遣使者詔開城門、宮門,罷屯□兵。腢臣百官罷,入成喪服如禮。兵官戎。[一]三公,太常如禮。  注[一]文帝遺詔:「無布車及兵器。」應劭曰:「不施輕車介士。」

故事によれば、百官は五日ごとに一度集まって喪に臨み、かつての二千石の官吏、刺史、都にいる郡国の上計掾史は皆五日ごとに一度集まる。

原文故事:百官五日一會臨,故吏二千石、刺史、在京都郡國上計掾史皆五日一會。

天下の官吏と民衆は喪に臨むこと三日間。注[一] 埋葬の二日前から、皆朝と夕方に喪に臨む。埋葬が終わると、喪服を脱ぎ、嫁娶や祠祀を禁じない。注[二] 佐史以下の者は、布の衣と冠、幘さくを着け、喪帯の幅は三寸を超えず、庭中で喪に臨む。注[三] 武官の吏は布の幘と大冠を着ける。

原文天下吏民發喪臨三日。[一]先葬二日,皆旦晡臨。既葬,釋服,無禁嫁娶、祠祀。[二]佐史以下,布衣冠幘,絰帶無過三寸,臨庭中。[三]武吏布幘大冠。

大司農は現金と穀物を支出し、六丈の布の代価を支給する。埋葬に際しては、大紅十五日、小紅十四日、纖七日、その後喪服を脱ぐ。注[四] 部刺史、二千石、国にいる列侯および関内侯、宗室の長吏および郵便によって上奏する者は、諸侯王は大夫一人を派遣して上奏し、弔問の臣は駅馬による露布の上奏を請う。奏上は許可された。注[一] 文帝の遺詔:「天下の官吏と民衆に命じ、令が到着したら、喪に臨むこと三日間、その後喪服を脱ぐ。」

原文大司農出見錢穀,給六丈布直。以葬,大紅十五日,小紅十四日,纖七日,釋服。[四]部刺史、二千石、列侯在國者及關內侯、宗室長吏及因郵奉奏,諸侯王遣大夫一人奉奏,吊臣請驛馬露布,奏可。  注[一]文帝遺詔:「其令天下吏民,令到,出臨三日,釋服。」

注[二] 文帝の遺詔の文に「酒を飲み肉を食べることは自ら供給すべきであり、喪事に服して臨む者は皆、踐はだしであってはならない」とある。踐とは、徒跣(はだしで歩くこと)である。

原文注[二]文帝遺詔文有「飲酒食肉自當給,喪事服臨者皆無踐」。踐,徒跣也。

注[三] 文帝の遺詔:「殿中で喪に臨むべき者は、朝と夕方にそれぞれ十五回ずつ声をあげ、礼が終わればやめる。朝と夕方の臨時の時以外は、みだりに哭臨することを禁ずる。」

原文注[三]文帝遺詔:「殿中當臨者,以旦夕各十五舉音,禮畢罷。非旦夕臨時,禁無得擅哭臨。」

注[四] 応劭が言うには:「紅とは、小祥、大祥に紅を領縁とするものである。纖とは、禫である。凡そ三十六日で喪服を脱ぐ。」

原文注[四]應劭曰:「紅者,*(中)**[小]*祥、大祥以紅為領緣*[也]*。纖*[者]*,禫也。凡三十六日而釋*[服]*。」

木で重を作り、高さ九尺、幅は八つの歴(食器)を容れることができ、葦の席で裏打ちする。巾門、喪帳は皆簟(竹のすだれ)を用いる。車は皆、輔轓(装飾)を取り外し、粗布で悪い車輪とする。走卒(従者)は皆、布の□幘を着ける。太僕が四輪の輈ながえを駕して賓車とし、大練(太い絹)で屋幙おおいを作る。中黄門、虎賁各二十人が紼ひつぎなわを執る。司空が土を選んで穴を穿つ。太史が日を卜う。謁者二人、中謁者僕射、中謁者が副将として作務し、油を塗った緹色の帳で坑を覆う。方石で黄腸題湊の便房を礼の通りに治める。注[一] 注[一] 漢旧儀が前漢の諸帝の寿陵を略載している:「天子が即位した翌年、将作大匠が陵地を営み、用地七頃を用い、方中に用地一頃を用いる。深さ十三丈、堂壇の高さ三丈、墳の高さ十二丈。武帝の墳は高さ二十丈、明中の高さ一丈七尺、周囲二丈、内側に梓の棺と柏の黄腸題湊があり、次いで百官の蔵が終わる。四通の羨門を設け、大車六馬を容れ、皆を内方に蔵し、外に陟車石を置く。外方が立ち、先に□戸を閉じ、戸に夜龍、莫邪□、伏弩を設け、伏火を設ける。陵を営んだ後、余った地を西園の後陵とし、余った地を婕妤以下とし、次いで親族功臣に賜う。」漢書音義によれば:「題とは、頭である。湊とは、頭を内に向けることで、固くするためである。便房とは、蔵の中の便坐である。」皇覧によれば:「漢家の葬りは、方中百歩、すでに穿ち築いて方城とする。その中に四つの門を開き、四方に通じ、六馬を放つに足り、その後、渾然とした雑物、扞漆、繒綺、金宝、米穀を置き、および車馬・虎豹・禽獣を埋める。近郡の卒徒を発し、将軍・尉・候を置き、後宮の貴幸な者を皆、園陵を守らせる。元帝の葬りには、ついに車馬・禽獣などの物を用いなかった。」

原文以木為重,高九尺,廣容八歷,裡以葦席。巾門、喪帳皆以簟。車皆去輔轓,疏布惡輪。走卒皆布□幘。太僕*[駕]*四輪輈為賓車,大練為屋幙。中黃門、虎賁各二十人執紼。司空擇土造穿。太史卜日。謁者二人,中謁者僕射、中謁者副將作,油緹帳以覆坑。方石治黃腸題湊便房如禮。[一]  注[一]漢舊儀略載前漢諸帝壽陵曰:「天子即位明年,將作大匠營陵地,用地七頃,方中用地一頃。深十三丈,堂壇高三丈,墳高十二丈。武帝墳高二十丈,明中高一丈七尺,四週二丈,內梓棺柏黃腸題湊,以次百官藏畢。其設四通羨門,容大車六馬,皆藏之內方,外陟車石。外方立,先閉□戶,戶設夜龍、莫邪□、伏弩,設伏火。已營陵,餘地為西園後陵,餘地為婕妤以下,次賜親屬功臣。」漢書音義曰:「題,頭也。湊,以頭向內,所以為固也。便房,藏中便坐也。」皇覽曰:「漢家之葬,方中百步,已穿築為方城。其中開四門,四通,足放六馬,然後錯渾雜物,扞漆繒綺金寶米谷,及埋車馬虎豹禽獸。發近郡卒徒,置將軍尉候,以後宮貴幸者皆守園陵。元帝葬,乃不用車馬禽獸等物。」

大駕の時、太僕が御する。方相氏は黄金の四目、熊の皮をかぶり、玄衣朱裳、戈を執り楯を揚げ、立ち乗りで四馬の先駆けとなる。注[一] 旗の制は、長さ三仞、十二の游はたあしがあり、地を引きずり、日・月・昇龍を画き、旐に「天子之柩」と書く。謁者二人が立ち乗りで六馬を次とする。大駕の甘泉鹵簿、金根容車、蘭台法駕。喪服の大行の車の飾りは金根車のようである。皇帝は礼の通りに従って送る。太常が啓奠を上る。夜漏二十刻、太尉は長冠をかぶり、斎衣を着け、高車に乗り、殿の止車門外に詣でる。使者が到着し、南に向かって立ち、太尉が進み伏して拝し詔を受ける。太尉が南郊に詣でる。九刻が尽きないうちに、大鴻臚が九賓を設けて随い立ち、群臣が位に入り、太尉が礼を行う。執事は皆、長冠をかぶり、斎衣を着ける。太祝令が跪いて謚策を読み、太尉が再拝稽首する。治礼が事の終わりを告げる。太尉が謚策を奉じ、還って殿の端門に詣でる。太常が祖奠を上り、中黄門尚衣が衣を奉じて容根車に登る。東園武士が大行を載せ、司徒が□行道に立ち車の前に立つ。治礼が太尉を導いて位に就かせ、大行の車の西やや南、東面して謚策を奉じ、太史令が哀策を奉じて後ろに立つ。太常が跪いて「進め」と言い、皇帝が進む。太尉が謚策を読み、金匱に蔵する。皇帝は次に科(文書)を廟に蔵する。太史が哀策を奉じ、葦の篋で陵に詣でる。太尉が旋回して公の位に復し、再拝して立つ。太常が跪いて「哭せよ」と言い、大鴻臚が哭を伝え、十五回声をあげ、哭を止める。太常が遣奠を行い、皆礼の通りである。哭を請い、哭を止めることは儀の通りである。注[一] 周礼によれば:「方相氏は、大喪の時、先ず柩に及び、墓に入り壙に至り、戈で四隅を撃ち、方良を駆る。」鄭玄が言うには:「方相とは、放想であり、畏怖すべき貌である。壙とは、地中を穿った所である。方良とは、罔両である。

原文大駕,太僕御。方相氏黃金四目,蒙熊皮,玄衣朱裳,執戈揚楯,立乘四馬先驅。[一]旗之制,長三仞,十有二游,曳地,畫日、月、升龍,書旐曰「天子之柩」。謁者二人立乘六馬為次。大駕甘泉鹵簿,金根容車,蘭台法駕。喪服大行載飾如金根車。皇帝從送如禮。太常上啟奠。夜漏二十刻,太尉冠長冠,衣齋衣,乘高車,詣殿止車門外。使者到,南向立,太尉進伏拜受詔。太尉詣南郊。未盡九刻,大鴻臚設九賓隨立,腢臣入位,太尉行禮。執事皆冠長冠,衣齋衣。太祝令跪讀謚策,太尉再拜稽首。治禮告事畢。太尉奉謚策,還詣殿端門。太常上祖奠,中黃門尚衣奉衣登容根車。東園武士載大行,司徒□行道立車前。治禮引太尉入就位,大行車西少南,東面奉*[謚]*策,太史令奉哀策立後。太常跪曰「進」,皇帝進。太尉讀謚策,藏金匱。皇帝次科藏於廟。太史奉哀策葦篋詣陵。太尉旋復公位,再拜立*(哭)*。太常跪曰「哭」,大鴻臚傳哭,十五舉音,止哭。太常行遣奠皆如禮。請哭止哭如儀。  注[一]周禮曰:「方相氏,大喪先柩,及墓入壙,以戈擊四隅,*(毆)**[驅]*方良。」鄭玄曰:「方相,放想也,可畏怖之貌。壙,穿地中也。方良,罔兩也。

天子の幟は、柏を用い、黄腸を裏とし、石で表す。国語に『木石の怪は夔、罔両』とある。」

原文天子之幟,柏,黃腸為裡,表以石焉。國語曰『木石之怪夔、罔兩』。」

諸侯、王公、特進は道の西に、北面して東を上とし、中二千石、二千石、列侯は九賓の東に直し、北面して西を上とする。皇帝は白布の幕で素の裏、羨道の東に挟み、西向きに礼の通りである。容車の幄坐は羨道の西に、南向き、車は座に当たり、南向き、中黄門尚衣が衣を奉じて幄坐に就く。車が少し前進し、太祝が進み醴を献じて礼の通りである。司徒が跪いて「大駕、捨つることを請う」と言い、太史令が車の南から、北面して哀策を読み、掌故が後ろにいて、すでに哀哭する。太常が跪いて「哭せよ」と言い、大鴻臚が哭を伝えて儀の通りである。司徒が跪いて「下位に就くことを請う」と言い、東園武士が下車を奉じる。司徒が跪いて「下房に就くことを請う」と言い、都導の東園武士が車を奉じて房に入れる。司徒、太史令が謚、哀策を奉じる。注[一]

原文諸侯、王公、特進道西,北面東上;中二千石、二千石、列侯*(宜)**[直]*九賓東,北面西上。皇帝白布幕素裡,夾羨道東,西向如禮。容車幄坐羨道西,南向,車當坐,南向,中黃門尚衣奉衣就幄坐。車少前,太祝進醴獻如禮。司徒跪曰「大駕請捨」,太史令自車南,北面讀哀策,掌故在後,已哀哭。太常跪曰「哭」,大鴻臚傳哭如儀。司徒跪曰「請就下位」,東園武士奉下車。司徒跪曰「請就下房」,都導東園武士奉車入房。司徒、太史令奉謚、哀策。[一]

注[一] 晋の時に、ある人が嵩高山の下で竹簡一枚を得た。上に二行の科斗文字あざなが書かれており、台中外伝をもって互いに示したが、知る者はいなかった。司空の張華が博士の束□に問うた。□が言うには:「これは明帝の顕節陵の中の策である。」検校したところ、果たしてそうであった。これによって策がこの書を用いることを知るのである。

原文注[一]晉時有人嵩高山下得竹簡一枚,上有兩行科斗書之,台中外傳以相示,莫有知者。司空張華以問博士束□。□曰:「此明帝顯節陵中策也。」檢校果然。是知策用此書也。

東園武士の執事が明器を下す。注[一] 筲八つが盛られ、容積は三升、黍一、稷一、麦一、粱一、稻一、麻一、菽一、小豆一。甕三つ、容積は三升、醯一、醢一、屑一。黍飴。

原文東園武士執事下明器。[一]筲八盛,容三升,[二]黍一,稷一,麥一,粱一,稻一,麻一,菽一,小豆一。甕三,容三升,醯一,醢一,屑一。[三]黍飴。

木の桁に載せ、粗い布で覆う。甒が二つ、容量は三升、醴が一つ、酒が一つ。木の桁に載せ、功布で覆う。瓦の鐙が一つ。彤矢が四本、軒輖の中に、また短い□がある。彤矢が四本、骨製、短い□。彤弓が一つ。琶が八つ、牟が八つ、豆が八つ、籩が八つ、形方の酒壺が八つ。盤匜が一組。杖と几がそれぞれ一つ。蓋が一つ。鐘が十六個、虡はない。鎛が四個、虡はない。磬が十六個、虡はない。塤が一つ、簫が四つ、笙が一つ、箎が一つ、柷が一つ、敔が一つ、瑟が六つ、琴が一つ、竽が一つ、築が一つ、坎侯が一つ。干と戈がそれぞれ一つ、笮が一つ、甲が一つ、冑が一つ。挽車が九乗、芻霊が三十六匹。瓦の醋が二つ、瓦の釜が二つ、瓦の甑が一つ。

原文載以木桁,覆以疏布。甒二,容三升,醴一,酒一。載以木桁,覆以功布。瓦鐙一。彤矢四,軒輖中,亦短□。彤矢四,骨,短□。[四]彤弓一。琶八,牟八,[五]豆八,籩八,形方酒壺八。盤匜一具。[六]杖、幾各一。蓋一。鐘十六,無虡。鎛四,無虡。[七]磬十六,無虡。[八]塤一,簫四,笙一,箎一,柷一,敔一,瑟六,琴一,竽一,築一,坎侯一。[九]干、戈各一,笮一,甲一,冑一。[一0]挽車九乘,芻靈三十六匹。[一一]瓦醋二,瓦釜二,瓦甑一。

瓦の鼎が十二個、容量は五升。匏の勺が一つ、容量は一升。瓦の案が九つ。瓦の大杯が十六個、容量は三升。瓦の小杯が二十個、容量は二升。瓦の飯盤が十個。瓦の酒樽が二つ、容量は五斗。匏の勺が二つ、容量は一升。注釈一:礼記に「明器は、神明のためのものである。孔子は明器を作ることを喪の道を知っていると言い、器物を備えるが用いることはできない」とある。鄭玄の既夕礼注に「明器を陳列するには、西行の南端を上とする」とある。

原文瓦鼎十二,容五升。匏勺一,容一升。瓦案九。瓦大杯十六,容三升。瓦小杯二十,容二升。瓦飯盤十。瓦酒樽二,容五斗。匏勺二,容一升。  注[一]禮記曰:「明器,神明之也。孔子謂為明器知喪道矣,備物而不可用也。」鄭玄注既夕曰:「陳明器,以西行南端為上。」

注釈二:鄭玄の既夕礼注に「筲は畚の類であり、その容量はおそらく簋と同じであろう」とある。

原文注[二]鄭玄注既夕曰:「筲,畚種類也,其容蓋與簋同。」

注釈三:鄭玄の既夕礼注に「屑は、生姜や桂皮の屑である」とある。

原文注[三]鄭玄注既夕曰:「屑,姜桂之屑。」

注釈四:既夕礼に「翭矢一乗、骨鏃短□」とある。鄭玄は「翭は候のようなもので、物を待ち受けて射る矢である。四本の矢を一乗という。骨鏃で短い□なのは、用いないことを示すためである。生前の翭矢は金属の鏃であった。凡そ矢を作るには、笴の長さを五分し、その一つを羽とする」と言う。通俗文に「細い毛を翭という」とある。

原文注[四]既夕曰:「翭矢一乘,骨鏃短□。」鄭玄曰:「翭猶候也,候物而射之矢也。四矢曰乘。骨鏃短□,亦示不用也。生時翭矢金鏃,凡為矢,五分笴長而羽其一。」通俗文曰:「細毛翭也。」

注釈五:鄭玄の既夕礼注に「牟は、湯や漿を盛るものである」とある。

原文注[五]鄭玄注既夕曰:「牟,盛湯漿。」

注釈六:鄭玄の既夕礼注に「盤匜は、手を洗う器である」とある。

原文注[六]鄭玄注既夕曰:「盤匜,盥器也。」

注釈七:爾雅に「大鐘を鏞という」とある。郭璞の注に「書経に『笙鏞以って間う』とある。また鎛とも名づける」とある。

原文注[七]爾雅曰:「大鐘謂之鏞。」郭璞注曰:「書曰『笙鏞以閒』。亦名鎛。」

注釈八:礼記に「鐘磬はあるが簨虡はない」とある。鄭玄は「懸けないのである」と言う。

原文注[八]禮記曰:「有鐘磬而無簨虡。」鄭玄曰:「不懸之也。」

注釈九:礼記に「琴瑟は張ってあるが調律されておらず、竽笙は備わっているが調和していない」とある。

原文注[九]禮記曰:「琴瑟張而不平,竽笙備而不和。」

注釈十:既夕礼ではこれを役器と呼ぶ。鄭玄は「笮は、矢を入れる箙である」と言う。

原文注[一0]既夕謂之役器。鄭玄曰:「笮,矢箙。」

注釈十一:鄭玄の礼記注に「芻霊は、茅を束ねて人馬の形にしたもので、これを芻霊といい、神の類である」とある。

原文注[一一]鄭玄注禮記曰:「芻靈,東茅為人馬,謂之芻靈,神之類。」

祭服や衣類の送りがすべて終わると、東園匠が「哭すべし」と言い、部屋の中にいる者は皆哭する。太常と大鴻臚が儀礼に従って哭を止めるよう請う。司徒が「百官の事は終わりました。臣は罷まることを請います」と言うと、部屋に入っていた者たちは皆再拝し、退出して各自の位置に就く。太常が皇帝を贈位に導く。司徒が跪いて「贈り物を進めることを請います」と言い、侍中が鴻洞を持って奉る。贈る王珪は長さ一尺四寸、紫の巾に薦め、縦横それぞれ三寸、緹の裏地、赤い纁で周囲を縁取る。贈る幣は、玄が三、纁が二、それぞれ長さ一尺二寸、幅は布幅いっぱい。皇帝が進み出て跪き、羨道の部屋の戸に臨み、西を向き、手を下ろして贈り物を投じ、鴻洞の中に三度入れる。東園匠が奉じて封じ、部屋の中に納める。太常が跪いて「皇帝は謹んで再拝し、哭することを請います」と言い、大鴻臚が儀礼に従って哭を伝える。太常が跪いて「贈る事は終わりました」と言うと、皇帝は急いで元の位置に就く。容根車の游に容衣を載せる。司徒が便殿に至り、並んだ騎兵たちは皆容車の玉帳の下に従う。司徒が跪いて「幄に就くことを請います」と言い、導いて登らせる。尚衣が衣を奉り、順次器物や衣類を奉り、便殿に蔵する。太祝が進み出て醴を献じる。すべての下りは、漏刻で十刻を用いる。礼が終わると、司空が将校を率いて土を盛り返す。注釈一:続漢書に「明帝が崩御した時、司徒の鮑昱が喪事を主管した。葬送の日、三公が梓宮を安置しに入り、帰る途中、羨道の半ばで、上(皇帝)が降りようとしているのに逢った。昱は前に進み出て叩頭して言った。『礼では、天子は鴻洞を用いて贈り物をします。それは郊廟を重んじるためです。陛下はどうして危険を冒し、義をもって哀しみを断ち切られないのですか?』上はすぐに戻られた」とある。

原文祭服衣送皆畢,東園匠曰「可哭」,在房中者皆哭。太常、大鴻臚請哭止*[哭]*如儀。司徒曰「百官事畢,臣請罷」,從入房者皆再拜,出,就位。太常導皇帝就贈位。司徒跪曰「請進贈」,侍中奉持鴻洞。贈王珪長尺四寸,薦以紫巾,廣袤各三寸,緹裡,赤纁周緣;贈幣,玄三纁二,各長尺二寸,廣充幅。皇帝進跪,臨羨道房戶,西向,手下贈,投鴻洞中,三。東園匠奉封入藏房中。太常跪曰「皇帝敬再拜,請哭」,大鴻臚傳哭如儀。太常跪曰「贈事畢」,皇帝促就位。[一]容根車游載容衣。司徒至便殿,並□騎皆從容車玉帳下。司徒跪曰「請就幄」,導登。尚衣奉衣,以次奉器衣物,藏於便殿。太祝進醴獻。凡下,用漏十刻。禮畢,司空將校復土。  注[一]續漢書曰:「明帝崩,司徒鮑昱典喪事,葬日,三公入安梓宮,還,至羨道半,逢上欲下,昱前叩頭言:『禮,天子鴻洞以贈,所以重郊廟也。陛下柰何冒危險,不以義割哀?』上即還。」

皇帝、皇后以下は皆粗服を脱ぎ、大紅の服を着て、宮中に戻り反廬し、礼に従って神主を立てる。桑の木の神主は一尺二寸、諡は書かない。虞祭の礼が終わると、廟に合祀する。礼に従う。注釈一:漢旧儀に「高帝が崩御して三日目、小斂を室の中の□の下で行う。栗の木の神主を作り、長さ八寸、前方後円、周囲一尺、□の中に置き、外を望み、内側に撓んだ綿を張って外を遮る。皓木を指ほどの太さ、長さ三尺のものを四本、皓皮で巻き、四方に□の中に置き、神主はその中央に置く。七日目に大斂して棺に納め、黍飯と羊の舌で□の中で祭る。葬送が終わると、神主を収める。木の函を作り、廟の太室の西の壁の埳の中に蔵し、内を望み、外には出さず室堂の上に置かない。座り物として五時の衣、冠、履、几、杖、竹籠を置く。俑人を作り、頭はなく、坐ったり起きたりする様子を生前の如くにする。皇后の神主は長さ七寸、周囲九寸、皇帝の神主の右傍らに置く。高皇帝の神主は長さ九寸。上林苑が栗の木を供給し、長安の祠廟で神主を作り、東園の秘器で梓の棺を作る。素木は長さ一丈三尺、高さと幅は四尺」とある。

原文皇帝、皇后以下皆去麤服,服大紅,還宮反廬,立主如禮。桑木主尺二寸,不書謚。虞禮畢,祔於廟,如禮。[一]  注[一]漢舊儀曰:「高帝崩三日,小斂室中□下。作栗木主,長八寸,前方後圓,圍一尺,置□中,望外,內張撓絮以鄣外,以皓木大如指,長三尺,四枚,纏以皓皮四方置□中,主居其中央。七日大斂棺,以黍飯羊舌祭之□中。已葬,收主。為木函,藏廟太室中西牆壁埳中,望內,外不出室堂之上。坐為五時衣、冠、履,幾、杖、竹籠。為俑人,無頭,坐起如生時。皇后主長七寸,圍九寸,在皇帝主右旁。高皇帝主長九寸。上林給栗木,長安祠廟作神主,東園秘器作梓棺,素木長丈三尺,崇廣四尺。」

大駕の発する前日に、諸宮諸殿で游冠と衣を供え、群臣は皆吉服を着て儀礼に従って参集する。皇帝の近臣は礼に従って喪服を着る。大紅を脱ぎ、小紅を着、十一升の都布で作った練冠をかぶる。小紅を脱ぎ、纖を着る。纖を脱ぎ、留黄を着、常の冠をかぶる。近臣および二千石以下は皆留黄の冠をかぶる。百官は皂の衣を着る。服が変わるたびに、哭しながら陵に詣で、儀礼に従って参集する。祭祀には特牲を用い、毛や血、頭は進めない。司徒と光禄勲が礼に従って三爵を備える。注釈一:古今注には帝陵の丈尺や頃畝が詳しく記載されている。今、後に附しておく。光武帝の原陵は、山の一辺が三百二十三步、高さ六丈六尺。垣が四方に司馬門を設けて出ている。寝殿と鐘虡はすべて周囲の垣の内側にある。堤封の田は十二頃五十七畝八十五歩。帝王世記に「臨平亭の南にあり、西に平陰を望み、東南に雒陽から十五里」とある。明帝の顕節陵は、山の一辺が三百歩、高さ八丈。周囲の垣はなく、行馬を設け、四方に司馬門を設ける。石殿と鐘虡は行馬の内側にある。寝殿と園省は東にある。園寺の吏舎は殿の北にある。堤封の田は七十四頃五畝。帝王世記に「もと富寿亭であり、西北に雒陽から三十七里」とある。章帝の敬陵は、山の一辺が三百歩、高さ六丈二尺。周囲の垣はなく、行馬を設け、四方に司馬門を設ける。石殿と鐘虡は行馬の内側にある。寝殿と園省は東にある。

原文先大駕日游冠衣於諸宮諸殿,腢臣皆吉服從會如儀。皇帝近臣喪服如禮。醳大紅,服小紅,十一升都布練冠。醳小紅,服纖。醳纖,服留黃,冠常冠。近臣及二千石以下皆服留黃冠。百官衣皁。每變服,從哭詣陵會如儀。祭以特牲,不進毛血首。司徒、光祿勳備三爵如禮。[一]  注[一]古今注具載帝陵丈尺頃畝,今附之後焉。光武原陵,山方三百二十三步,高六丈六尺。垣四出司馬門。寢殿、鐘虡皆在周垣內。堤封田十二頃五十七畝八十五步。帝王世記曰:「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。」明帝顯節陵,山方三百步,高八丈。無周垣,為行馬,四出司馬門。石殿、鐘虡在行馬內。寢殿、園省在東。園寺吏捨在殿北。堤封田七十四頃五畝。帝王世記曰:「故富壽亭也,西北在雒陽三十七里。」章帝敬陵,山方三百步,高六丈二尺。無周垣,為行馬,四出司馬門。石殿、鐘虡在行馬內。寢殿、園省在東。

園寺の吏舎は殿の北にある。堤封の田は二十五頃五十五畝。帝王世記に言う:「洛陽の東南にあり、洛陽から三十九里離れている。」和帝の慎陵は、山の一辺が三百八十歩、高さ十丈。周囲の塀はなく、行馬を設け、四方に司馬門がある。石殿と鐘虡は行馬の内側にある。寝殿と園省は東にある。園寺の吏舎は殿の北にある。堤封の田は三十一頃二十畝二百歩。帝王世記に言う:「洛陽の東南にあり、洛陽から四十一里離れている。」殤帝の康陵は、山の周囲が二百八歩、高さ五丈五尺。行馬が四方に司馬門を出ている。寝殿と鐘虡は行馬の中にある。寝殿を廟とした。園吏の寺舎は殿の北にある。堤封の田は十三頃十九畝二百五十歩。帝王世記に言う:「高さ五丈四尺。洛陽から四十八里離れている。」安帝の恭陵は、山の周囲が二百六十歩、高さ十五丈。周囲の塀はなく、行馬を設け、四方に司馬門がある。石殿と鐘虡は行馬の内側にある。寝殿と園吏の舎は殿の北にある。堤封の田は十四頃五十六畝。帝王世記に言う:「高さ十一丈。洛陽の西北にあり、洛陽から十五里離れている。」

原文園寺吏捨在殿北。堤封田二十五頃五十五畝。帝王世記曰:「在雒陽東南,去雒陽三十九里。」和帝慎陵,山方三百八十步,高十丈。無周坦,為行馬,四出司馬門。石殿、鐘虡在行馬內。寢殿、園省在東。園寺吏捨在殿北。堤封田三十一頃二十畝二百步。帝王世記曰:「在雒陽東南,去雒陽四十一里。」殤帝康陵,山週二百八步,高五丈五尺。行馬四出司馬門。寢殿、鐘虡在行馬中。因寢殿為廟。園吏寺捨在殿北。堤封田十三頃十九畝二百五十步。帝王世記曰:「高五丈四尺。去雒陽四十八里。」安帝恭陵,山週二百六十步,高十五丈。無周垣,為行馬,四出司馬門。石殿、鐘虡在行馬內。寢殿、園吏捨在殿北。堤封田一十四頃五十六畝。帝王世記曰:「高十一丈。在雒陽西北,去雒陽十五里。」

順帝の憲陵は、山の一辺が三百歩、高さ八丈四尺。周囲の塀はなく、行馬を設け、四方に司馬門がある。石殿と鐘虡は司馬門の内側にある。寝殿と園省の寺吏舎は殿の東にある。堤封の田は十八頃十九畝三十歩。帝王世記に言う:「洛陽の西北にあり、洛陽から十五里離れている。」沖帝の懐陵は、山の一辺が百八十三歩、高さ四丈六尺。寝殿の行馬を設け、四つの門がある。園寺の吏舎は殿の東にある。堤封の田は五頃八十畝。帝王世記に言う:「洛陽の西北にあり、洛陽から十五里離れている。」質帝の静陵は、山の一辺が百三十六歩、高さ五丈五尺、行馬を設け、四方に司馬門がある。寝殿と鐘虡は行馬の中にあり、園寺の吏舎は殿の北にある。堤封の田は十二頃五十四畝。寝殿を廟とした。帝王世記に言う:「洛陽の東にあり、洛陽から三十二里離れている。」

原文順帝憲陵,山方三百步,高八丈四尺。無周垣,為行馬,四出司馬門。石殿、鐘虡在司馬門內。寢殿、園省寺吏捨在殿東。堤封田十八頃十九畝三十步。帝王世記曰:「在雒陽西北,去雒陽十五里。」沖帝懷陵,山方百八十三步,高四丈六尺。為寢殿行馬,四出門。園寺吏捨在殿東。堤封田五頃八十畝。帝王世記曰:「*[在雒陽]*西北,去雒陽十五里。」質帝靜陵,山方百三十六步,高五丈五尺,為行馬,四出*[司馬]*門。寢殿、鐘虡在行馬中,園寺吏捨在殿北。堤封田十二頃五十四畝。因寢為廟。帝王世記曰:「在雒陽東,去雒陽三十二里。」

桓帝の宣陵について、帝王世記に言う:「山の一辺が三百歩、高さ十二丈。洛陽の東南にあり、洛陽から三十里離れている。」

原文桓帝宣陵,帝王世記曰:「山方三百步,高十二丈。在雒陽東南,去雒陽三十里。」

霊帝の文陵について、帝王世記に言う:「山の一辺が三百歩、高さ十二丈。洛陽の西北にあり、洛陽から二十里離れている。」

原文靈帝文陵,帝王世記曰:「山方三百步,高十二丈。在雒陽西北,去雒陽二十里。」

献帝の禅陵について、帝王世記に言う:「墳丘を築かず、深さ五丈、前堂の一辺が一丈八尺、後堂の一辺が一丈五尺、角の広さが六尺。河内郡山陽県の濁城の西北にあり、濁城から直線距離で十一里、斜め距離で七里離れ、懐陵から百一十里、山陽から五十里、南の洛陽から三百一十里離れている。」蔡質の漢儀に言う:「十二陵の令は河南尹に対しても敬意を払わない。」魏文帝の終制の要約に言う:「漢文帝の霸陵が発掘されなかったのは、求めなかったからである。光武帝の原陵が掘られたのは、封樹(墳墓に木を植えること)をしたからである。霸陵が完全だったのは、功績は張釈之にある;原陵が掘られたのは、罪は明帝にある。これは張釈之が忠によって君主に利益をもたらし、明帝が愛によって親を害したのである。忠臣孝子は、張釈之の言葉を思い、明帝の戒めを考察し、君主を安んじ親を定める方法を考え、魂霊を万載にわたって危険にさらさないようにすべきである。これこそが賢聖の忠孝である。古より今に至るまで、滅びない国はなく、掘られない墓もない。喪乱以来、漢代の諸陵はすべて発掘され、玉柙金縷を焼いて取り、骸骨までもがことごとく尽きてしまった。これは焚如の刑であり、重く痛ましいことではないか。禍は厚葬と封樹によるのである。桑弘羊と霍光を我が戒めとせよ、これもまた明らかではないか!」臣の昭が案ずるに、

原文獻帝禪陵,帝王世記曰:「不起墳,深五丈,前堂方一丈八尺,後堂方一丈五尺,角廣六尺。在河內山陽之濁城西北,去濁城直行十一里,斜行七里,去懷陵百一十里,去山陽五十里,南去雒陽三百一十里。」蔡質漢儀曰:「十二陵令見河南尹無敬也。」魏文帝終制略曰:「漢文帝之不發霸陵,無求也。光武之掘原陵,封樹也。霸陵之完,功在釋之;原陵之掘,罪在明帝。是釋之忠以利君,明帝愛以害親也。忠臣孝子,宜思釋之之言,察明帝之戒,存於所以安君定親,使魂靈萬載無危,斯則賢聖之忠孝矣。自古及今,未有不亡之國,亦無不掘之墓也。喪亂以來,漢氏諸陵無不發掘,至乃燒取玉柙金縷,骸骨並盡,是焚如之刑也,豈不重痛哉。禍由乎厚葬封樹,桑、霍為我戒,不亦明乎!」臣昭案:

董卓伝に:「董卓は呂布に命じて諸帝の陵墓および公卿以下の墓を発掘させ、その珍宝を収奪した。」とある。卓別伝に言う:「成帝の陵を発掘し、金縷を解き、含璣を探った。」呂氏春秋の要約に言う:「生を審らかに知ることは、聖人の要である;死を審らかに知ることは、聖人の極みである。生を知る者は、物をもって生を害さず;死を知る者は、物をもって死を害さない。およそ天地の間に生まれたものは、必ず死がある。親を重んずる孝子は、親がその子を愛するように、溝壑に捨てることをせず、故に葬送の義がある。葬とは、蔵することである。生者の心をもって考えるならば、動かさないことが最も良く、動かさないことには利益がないことが最も良い。葬りが浅ければ狐や狸が掘り起こし、深ければ水泉に達するので、必ず高陵の上にし、二つの害を避ける。しかしながら、奸賊や寇盗の変を忘れるのは、まさに惑いではないか!民は利のためには、白刃を犯し、危難を渡ってこれを求め;親戚を忍び、知交を欺いてこれを求める。今このような危険も醜態もないのに、得られる利益が甚だ厚いので、固く禁じるのは難しい。国が大きければ大きいほど、家が富めば富むほど、その葬りは厚くなり、珠玉金銅は数え切れないほどである。

原文董卓傳:「卓使呂布發諸帝陵及公卿以下頤墓,收其珍寶。」卓別傳曰:「發成帝陵,解金縷,探含璣焉。」呂氏春秋略曰:「審知生,聖人之要也;審知死,聖人之極也。知生者,不以物害生;知死者,不以物害死。凡生於天地之閒,其必有死。孝子之重其親者,若親之愛其子,不棄於溝壑,故有葬送之義。葬者,藏也。以生人心為之慮,則莫如無動,無動莫如無利。葬淺則狐狸掘之,深則及水泉,故必高陵之上,以避二害。然而忘奸寇之變,豈不惑哉!民之於利也,犯白刃,涉危難以求之;忍親戚,欺知交以求之。今無此危,無此醜,而為利甚厚,固難禁也。國彌大,家彌富,其葬彌厚,珠玉金銅,不可勝計。

奸人がこれを聞き、互いに伝え合うので、厳刑重罪があっても止めることはできない。しかも死者が久しければ久しいほど、生者はますます疎遠になり、疎遠になれば守ることもますます怠慢になる。蔵めた器物はそのままなのに守りが怠慢になるならば、その勢い必ず掘られることになる。世の君主が丘隴(墳墓)を築き、その高さは山陵のようで、木を植えるのは林藪のようであり、あるいは闕庭や都邑を設ける。これをもって富を示すことはできるが、これをもって死者のためとすることは惑いである!およそ死者は、万世を見ても一瞬のようである。人の寿命は、長くても百歳を超えず、中くらいでも六十歳である。百歳と六十歳をもって無限のことを慮るならば、その心情はそもそも相応しくない。必ず無限を慮ってこそ、はじめて適切なのである。今、その墓に『ここには金宝が甚だ厚く、掘ってはならない』と銘を刻めば、必ず世の笑いものとなるであろう。それなのに闕庭を設けて自ら誇示するのは、これと何が異なるのか!古より今に至るまで、滅びない国はない。滅びない国がないということは、掘られない墓がないということである。耳目で聞き見たところでは、斉、荊、燕はかつて滅びた;

原文奸人聞之,轉以相告,雖有嚴刑重罪,不能止也。且死者彌久,生者彌疏,彌疏則守之彌怠。藏器如故而守之有怠,其勢固必掘矣。世*(至)**[主]*為丘隴,其高若山陵,樹之若林藪,或設闕庭、都邑。以此示富則可矣,以此為死者則惑矣!大凡死者,其視萬世猶一*(瞑)**[瞚]*也。人之壽,久者不過百,中者六十。以百與六十為無窮者慮,其情固不相當矣。必以無窮為慮,然後為可。今有銘其墓曰,『此中有金寶甚厚,不可掘也』,必為世笑矣。而為之闕庭以自表,此何異彼哉!自古及今,未有不亡之國也。無不亡之國,是無不掘之墓。以耳目之所聞見,則齊、荊、燕嘗亡矣;

宋、中山はすでに滅びた;趙、韓、魏は皆その故国を失った。これより以上、滅びた国は数え切れず、故にその大墓は掘られないものはない。それでもなお皆争ってこれを行うのは、悲しいことではないか!今、君主の命令に従わない民、父に孝行しない子、兄に従順でない弟は、皆郷邑から見捨てられ、耕耒の労を恐れる者たちである。それでもなお農耕に従事せず、鮮やかな衣服と贅沢な食事を好む。知恵と技巧が窮まると、徒党を組み連ねて、名高い丘や大墓を狙う。上はこれを禁じることができない。これが葬りをもって自らを表す禍いである。昔、堯は谷林に葬られ、木を遍く植えた;舜は紀巿に葬られ、市の様子を変えなかった;禹は会稽に葬られ、人夫を動員しなかった。費用を惜しんだのではなく、死者のために慮ったのである。先王が憎んだのは、死者が辱められることを憎んだのである。倹約であれば発掘されず、発掘されなければ辱められないので、必ず倹約をもって山原に合致させるのである。宋が滅びる前に東の墓が掘られ、斉が滅びる前に荘公の墓が掘られた。国が存続しているのにこのような有様である。ましてや国名が滅んだ後はどうであろうか!これは愛するがゆえに厚葬した故である。愛そうとしてかえって害し、安らかにしようとしてかえって危険にさらす。忠臣孝子もまた厚葬してはならないのである。昔、季孫が璵璠をもって納棺しようとしたとき、孔子は階を上ってこれを止めた。無限のことを慮ったのである。」

原文宋、中山已亡矣;趙、韓、魏皆失其故國矣。自此以上,亡國不可勝數,故其大墓無不掘也。而猶皆爭為之,豈不悲哉!今夫君之不令民,父之不*(教)**[孝]*子,兄之不悌弟,皆鄉邑之所遺,而憚耕耒之勞者也。仍不事耕農,而好鮮衣侈食。智巧窮匱,則合黨連觿,而謀名丘大墓。上曾不能禁也,此有葬自表之禍也。昔堯葬谷林,通樹之;舜葬紀巿,不變肆;禹葬會稽,不變人徒。非愛其費,以為死者*[慮]*也。先王之所惡,惡死者之辱。以為儉則不發,不發則不辱,故必以儉而合乎山原也。宋未亡而東頤掘,齊未亡而莊公*[頤]*掘。國存而乃若此,又況滅名之後乎!此愛而厚葬之故也。欲愛而反害之,欲安而反危之,忠臣孝子亦不可以厚葬矣。昔季孫以璵璠斂,孔子歷級而止之,為無窮慮也。」

合葬:羨道が開通すると、皇帝は便房に謁し、太常が導いて羨道まで行き、杖を離し、中常侍が受け取り、柩の前まで行き、謁し、伏して哭し、儀礼に従って止める。辞し、太常が導いて出て、中常侍が杖を授け、車に乗って宮に帰る。これが終わると、反虞の礼を行い、神主を立てる。

原文合葬:羨道開通,皇帝謁便房,太常導至羨道,去杖,中常侍受,至柩前,謁,伏哭止如儀。辭,太常導出,中常侍授杖,升車歸宮。已下,反虞立主如禮。

すべての郊廟の祭服はみな便房に納められた。五時の朝服はそれぞれ一襲ずつ陵寢に置かれ、その他および宴服はすべて篋笥に封じて、宮殿の後ろの合室に収蔵された。

原文諸郊廟祭服皆下便房。五時朝服各一襲在陵寢,其餘及宴服皆封以篋笥,藏宮殿後合室。

諸侯王、列侯、始封の貴人、公主が薨じた場合、みな印璽と玉柙銀縷を贈るよう命じられた。大貴人、長公主には銅縷を贈った。諸侯王、貴人、公主、公、将軍、特進にはみな器物を賜り、官中二十四物であった。使者が喪を治め、墓穴を穿ち、柏の幟を立て、百官が会して送ることは、故事の通りであった。諸侯王、公主、貴人にはみな樟棺を用い、朱色に塗り、雲気の画を描いた。公、特進には樟棺で黒漆を塗った。中二千石以下には坎侯漆を塗った。[一]朝臣の中二千石、将軍には、使者が弔祭し、郡国の二千石、六百石から黄綬に至るまで、みな常車と駅牛を賜って祭を贈った。佐史以上から上達するに相応しく、大斂にはみな朝服を用いた。君主が自ら弔問するか使者を遣わす場合、主人は免絰し杖を去って馬首を望むことが礼であった。免絰し杖を去るのは、戚凶の服をもって尊者に当たることを敢えてしないためである。[二]王、主、貴人以下から佐史に至るまで、車騎を送り導従する吏卒は、それぞれその官府の通りであった。車飾りには蓋を用い、龍首魚尾、華布の牆、纁色の上周、前後に交絡し、雲気の画を帷裳に描いた。

原文諸侯王、列侯、始封貴人、公主薨,皆令贈印璽、玉柙銀縷;大貴人、長公主銅縷。諸侯王、貴人、公主、公、將軍、特進皆賜器,官中二十四物。使者治喪,穿作,柏幟,百官會送,如故事。諸侯王、公主、貴人皆樟棺,洞朱,雲氣畫。公、特進樟棺黑漆。中二千石以下坎侯漆。[一]朝臣中二千石、將軍,使者弔祭,郡國二千石、六百石以至黃綬,皆賜常車驛牛贈祭。宜自佐史以上達,大斂皆以朝服。君臨吊若遣使者,主人免絰去杖望馬首如禮。免絰去杖,不敢以戚凶服當尊者。[二]自王、主、貴人以下至佐史,送車騎導從吏卒,各如其官府。載飾以蓋,龍首魚尾,華布牆,纁上周,交絡前後,雲氣畫帷裳。

中二千石以上には輜車があり、左に龍、右に虎、朱鳥玄武を描いた。公侯以上にはさらに倚鹿伏熊を加えた。千石以下には、緇布の蓋と牆、魚龍の首尾のみであった。二百石黄綬以下から処士に至るまで、みな簟席を以て牆蓋とした。その正妃、夫人、妻もみな同様であった。諸侯王の場合、傅、相、中尉、内史が喪事を司り、大鴻臚が謚を奏上し、天子の使者が璧帛を贈り、載日して命謚することは礼の通りであった。陵に下る時、群臣は麤服を醳し儀に従い、主人は礼の通りであった。  注[一]丁孚の漢儀に曰く、「孝霊帝が馬貴人を葬るに、歩揺、赤紱を贈り、青羽蓋、駟馬で葬った。柩が殿を下る時、女侍史二百人が素衣を着て輓歌し、木を引いて車に就け、黄門宦者が宮門から引出した。」

原文中二千石以上有輜,左龍右虎,朱鳥玄武;公侯以上加倚鹿伏熊。千石以下,緇布蓋牆,魚龍首尾而已。二百石黃綬以下至於處士,皆以簟席為牆蓋。其正妃、夫人、妻皆如之。諸侯王,傅、相、中尉、內史典喪事,大鴻臚奏謚,天子使者贈璧帛,載日命謚如禮。下陵,腢臣醳麤服如儀,主人如禮。  注[一]丁孚漢儀曰:「孝靈帝葬馬貴人,贈步搖、赤紱葬,青羽蓋、駟馬。柩下殿,女侍史二百人著素衣輓歌,引木下就車,黃門宦者引出宮門。」

注[二]前書賈山の上書に曰く、「古の賢君は臣に対して、その爵禄を尊び親しみ、病めば臨視すること数えきれず、死すれば往きて吊哭し、その小斂、大斂に臨んだ。棺を塗り終えて前後その服を為し、錫衰絰して三たびその喪に臨んだ。未だ斂せざれば酒を飲み肉を食わず、未だ葬らざれば楽を挙げず。まさに礼を尽くしたと謂うべきである。法服を服し、容貌を端にし、顏色を正して、然る後にこれに会した。故に臣下は敢えて力を尽くし死を尽くしてその上に報いざるはなく、功徳は世に立ち、令問は忘れられなかった。」晉起居注に曰く、「太尉賈充が薨じた。皇太子□の父であり、また太保でもあった。有司が漢の元帝・明帝の二帝が師保に親臨した故事に依るよう奏上した。皇太子は素服して哀を発し、またその喪に臨んだ。」

原文注[二]前書賈山上書曰:「古之賢君於臣也,尊其爵祿而親之,疾則臨視之無數,死則往吊哭之,臨其小斂、大斂。已棺塗前後為之服,錫衰絰而三臨其喪。未斂而不飲酒食肉,未葬不舉樂。當可謂盡禮矣。服法服,端容貌,正顏色,然後見之,故臣下莫敢不竭力盡死以報其上,功德立於世,而令問不忘也。」晉起居注曰:「太尉賈充薨,皇太子□之父,又太保也,有司奏依漢元明二帝親臨師保故事,皇太子素服為發哀,又臨其喪。」

賛に曰く、大礼は簡素であれども、鴻儀は則ち容れる。天は尊く地は卑し、君は荘にして臣は恭し。質と文は通変し、哀と敬は交わって従う。元序これ立つ、家邦乃ち隆盛す。

原文贊曰:大禮雖簡,鴻儀則容。天尊地卑,君莊臣恭。質文通變,哀敬交從。元序斯立,家邦乃隆。