漢書かんじょごかんじょ

巻九十一・律曆上 律準 候氣

後漢書 志第一 律暦上 律準候気

古代の人々が数を論じた際に言った。「物が生まれて後に象があり、象があって後に増殖があり、増殖があって後に数がある」。それゆえ、天地が初めて形を成し、人物が既に顕著になると、算術の事柄が生じたのである。記録には大橈が甲子を作ったと称している。

隷首が数を創り出した。この二つ(律と数)が確立されると、日表(日時計)と照らし合わせ、あらゆる事柄を統括するのに用いられた。一、十、百、千、万は、共通して用いられる単位である。律、度、量、衡、暦は、それぞれ別の用途に用いられる。ゆえに、物体には長短があるので、度(尺度)で測り、物には多少があるので、量(容量)で受け、量には軽重があるので、権衡はかりで均し、音声には清濁があるので、律呂(音律)で調和させ、日月星の運行は、暦数で記録する。そうして初めて、奥深い事情や精微な変化を総合的に把握することができるのである。

漢が興ると、北平侯の張蒼が最初に律暦を整えた。孝武帝は楽を正し、協律の官を置いた。元始年間に至り、鐘律に通じる者を広く徴用し、その意義を考証させ、羲和の劉歆がこれを統轄して条奏した。前史の班固はこれを取って志とした。一方、元帝の時、郎中の京房(字は君明)は五声の音と六律の数を知っていた。帝は太子太傅の韋玄成(字は少翁)と諫議大夫の章に命じ、楽府で京房を交えて試問させた。京房は答えて言った。「故小黄令の焦延寿に学びました。六十律相生の法は、上から下を生むのは皆三生二、下から上を生むのは皆三生四、陽が下って陰を生み、陰が上って陽を生み、中呂で終わり、十二律が完結します。中呂が上って執始を生み、執始が下って去滅を生み、上下相生して南事で終わり、六十律が完結します。十二律の変化が六十に至るのは、八卦の変化が六十四に至るのと同じです。宓羲が易を作り、陽気の初めを記して律法としました。日を建て冬至の声とし、黄鐘を宮、太蔟を商、姑洗を角、林鐘を徴、南呂を羽、応鐘を変宮、蕤賓を変徴としました。これが声気の元、五音の正です。故に各々一日を終えます。その他は順次運行し、当日のものがそれぞれ宮となり、商・徴は類によって従います。」

『礼運篇』に「五声、六律、十二管が互いに宮音となる」とあるのは、このことを言うのである。六十律を用いて一周期の日数を分け、黄鐘を冬至から始め、再び冬至に戻ることで、陰陽・寒暖・風雨の占いが生じる。これによって諸々の音を統制し、その高低を考察すれば、草木の声でない限り、全て何らかの律に合致する。『虞書』に「律は声を調和させる」とあるのは、このことを言うのである。」

房はまた言った。「竹の音は調律の基準に用いることができないので、準を作って数値を定める。準の形状は瑟に似て、長さ一丈で十三弦あり、弦と弦の間隔は九尺で、黄鐘の律九寸に対応させる。中央の一弦の下には分寸の目盛りを刻み、六十律の清濁の節度とする。」房の律に関する議論は劉歆の上奏したものより詳しく、その方法は史官によって施行され、候部で用いられた。文章が多いので全ては記載しない。よってその根本的な要点をまとめ、前の志に続ける。

律術に曰く、陽は円を以て形と為し、その性は動く。陰は方をもって節と為し、その性は静かである。動く者は数は三、静かなる者は数は二である。

陽から陰を生じる場合は、その数を倍にして、陰から陽を生じる場合は、その数を四倍にして、いずれも三で割る。陽から陰を生じることを下生といい、陰から陽を生じることを上生という。

上生では黄鐘の清濁を超えることができず、下生では黄鐘の数の実に及ばない。いずれも天に参じ地に両し、円蓋が方覆を覆い、六耦が奇を承ける道理である。黄鐘は律呂の首であり、十二律を生じるものである。

その相生は、すべて三分して損益する。それゆえ十二律のそれは十七万七千百四十七を得、これが黄鐘の実である。

また二を乗じて三で約すると、これが下生林鐘の実となる。また四を乗じて三で約すると、これが上生太蔟の実となる。この上下を推して、六十律の実を定める。九三の数、一万九千六百八十三を法とする。律は寸であり、準では尺となる。満たないものは十倍し、得られたものを分とする。また十で満たないものは十倍し、得られたものを小分とする。その余りをもってその強弱を正す。

黄鐘、十七万七千百四十七。下生林鐘。黄鐘を宮とし、太蔟を商とし、林鐘を徴とする。

一日律九寸、準九尺。

色育、十七万六千七百七十六。下生謙待。色育を宮とし、未知を商とし、謙待を徴とする。

六日律、八寸九分小分八微強。準、八尺九寸一万五千九百七十三。

執始、十七万四千七百六十二。下生去滅。執始を宮とし、時息を商とし、去滅を徴とする。

六日律、八寸八分小分七大強。準、八尺八寸一万五千五百一十六。

丙盛、十七万二千四百十。下生安度。丙盛を宮とし、屈齊を商とし、安度を徴とする。

六日律、八寸七分小分六微弱。準、八尺七寸一万一千六百七十九。

分動、十七万八十九。下生帰嘉。分動を宮とし、随期を商とし、帰嘉を徴とする。

六日律、八寸六分小分四強。準、八尺六寸八千百五十二。

質末、十六万七千八百。下生否与。質末を宮とし、形晉を商とし、否与を徴とする。

六日律、八寸五分小分二強。準、八尺五寸四千九百八十五。

六日律、八寸五分小分二強。基準、八尺五寸四千九百四十五。

大呂、十六万五千八百八十八。下生夷則。大呂を宮とし、夾鐘を商とし、夷則を徴とする。

八日律、八寸四分小分三弱。基準、八尺四寸五千五百八。

分否、十六万三千六百五十四。下生解形。分否を宮とし、開時を商とし、解形を徴とする。

八日律、八寸三分小分一強。基準、八尺三寸二千八百五十一。

凌陰、十六万一千四百五十二。下生去南。凌陰を宮とし、族嘉を商とし、去南を徴とする。

八日律、八寸二分小分一弱。基準、八尺二寸五百一十四。

少出、十五万九千二百八十。下生分積。少出を宮とし、爭南を商とし、分積を徴とする。

六日律、八寸小分九強。基準、八尺一万八千一百六十。

太蔟、十五万七千四百六十四。下生南呂。太蔟を宮とし、姑洗を商とし、南呂を徴とする。

一日律、八寸。基準、八尺。

未知、十五万七千一百三十四。下生白呂。未知を宮とし、南授を商とし、白呂を徴とする。

六日律、七寸九分小分八強。基準、七尺九寸一万六千三百八十三。

時息、十五万五千三百四十四。下生結躬。時息を宮とし、變虞を商とし、結躬を徴とする。

六日律、七寸八分小分九少強。基準、七尺八寸一万八千一百六十六。

屈斉、十五万三千二百五十三。下生して帰期を生ず。屈斉を宮とし、路時を商とし、帰期を徴とする。

六日律、七寸七分小分九弱。準、七尺七寸一万六千九百三十九。

随期、十五万一千一百九十。下生して未卯を生ず。随期を宮とし、形始を商とし、未卯を徴とする。

六日律、七寸六分小分八強。準、七尺六寸一万五千九百九十二。

形晋、十四万九千一百五十五。下生して夷汗を生ず。形晋を宮とし、依行を商とし、夷汗を徴とする。

六日律、七寸五分小分八弱。準、七尺五寸一万五千三百二十五。

夾鐘、十四万七千四百五十六。下生して無射を生ず。夾鐘を宮とし、中呂を商とし、無射を徴とする。

六日律、七寸四分小分九強。準、七尺四寸一万八千十八。

開時、十四万五千四百七十。下生して閉掩を生ず。開時を宮とし、南中を商とし、閉掩を徴とする。

八日律、七寸三分小分九微強。準、七尺三寸一万七千八百四十一。

族嘉、十四万三千五百十三。下生して鄰斉を生ず。族嘉を宮とし、内負を商とし、鄰斉を徴とする。

八日律、七寸二分小分九微強。準、七尺二寸一万七千九百五十四。

争南、十四万一千五百八十二。下生して期保を生ず。争南を宮とし、物応を商とし、期保を徴とする。

八日律、七寸一分小分九強。準、七尺一寸一万八千三百二十七。

姑洗、十三万九千九百六十八。下生して応鐘を生ず。姑洗を宮とし、蕤賓を商とし、応鐘を徴とする。

一日律は、七寸一分と小分一微強。準は、七尺一寸二千一百八十七。

南授は、十三万九千六百七十。下生して分烏を生ず。南授を宮とし、南事を商とし、分烏を徴とする。

六日律は、七寸と小分九大強。準は、七尺万八千九百三十。

変虞は、十三万八千八十四。下生して遅内を生ず。変虞を宮とし、盛変を商とし、遅内を徴とする。

六日律は、七寸と小分一半強。準は、七尺三千三十。

路時は、十三万六千二百二十五。下生して未育を生ず。路時を宮とし、離宮を商とし、未育を徴とする。

六日律は、六寸九分と小分二微強。準は、六尺九寸四千一百二十三。

形始は、十三万四千三百九十二。下生して遅時を生ず。形始を宮とし、制時を商とし、遅時を徴とする。

五日律は、六寸八分と小分三弱。準は、六尺八寸五千四百七十六。

依行は、十三万二千五百八十二。上生して色育を生ず。依行を宮とし、謙待を商とし、色育を徴とする。

七日律は、六寸七分と小分三大強。準は、六尺七寸七千五十九。

中呂は、十三万一千七十二。上生して執始を生ず。中呂を宮とし、去滅を商とし、執始を徴とする。

八日律は、六寸六分と小分六弱。準は、六尺六寸一万一千六百四十二。

南中は、十二万九千三百八。上生して丙盛を生ず。南中を宮とし、安度を商とし、丙盛を徴とする。

七日律は、六寸五分と小分七微弱。準は、六尺五寸一万三千六百八十五。

内負、十二万七千五百六十七。上生して分動を生ず。内負を宮とし、帰嘉を商とし、分動を徴とする。

八日の律、六寸四分小分八強。準、六尺四寸一万五千九百五十八。

物応、十二万五千八百五十。上生して質末を生ず。物応を宮とし、否与を商とし、質末を徴とする。

七日の律、六寸三分小分九強。準、六尺三寸一万八千四百七十一。

蕤賓、十二万四千四百一十六。上生して大呂を生ず。蕤賓を宮とし、夷則を商とし、大呂を徴とする。

一日の律、六寸三分小分二微強。準、六尺三寸四千一百三十一。

南事、十二万四千一百五十四。下生する。南事は窮まり、商・徴なく、宮とはならず。

七日の律、六寸三分小分一弱。準、六尺三寸一千五百三十一。

盛変、十二万二千七百四十一。上生して分否を生ず。盛変を宮とし、解形を商とし、分否を徴とする。

七日の律、六寸二分小分三大強。準、六尺二寸七千六十四。

離宮、十二万一千八百一十九。上生して凌陰を生ず。離宮を宮とし、去南を商とし、凌陰を徴とする。

七日の律、六寸一分小分五微強。準、六尺一寸一万二百二十七。

制時、十一万九千四百六十。上生して少出を生ず。制時を宮とし、分積を商とし、少出を徴とする。

八日の律、六寸小分七弱。準、六尺一万三千六百二十。

林鐘、十一万八千九十八。上生して太蔟を生ず。林鐘を宮とし、南呂を商とし、太蔟を徴とする。

一日の律は、六寸。準は、六尺。

謙待は、十一万七千八百五十一。上生は未知。謙待を宮とし、白呂を商とし、未知を徴とする。

五日の律は、五寸九分小分九弱。準は、五尺九寸万七千二百一十三。

去滅は、十一万六千五百八。上生は時息。去滅を宮とし、結躬を商とし、時息を徴とする。

七日の律は、五寸九分小分二弱。準は、五尺九寸三千七百八十三。

安度は、十一万四千九百四十。上生は屈齊。安度を宮とし、帰期を商とし、屈齊を徴とする。

六日の律は、五寸八分小分四弱。準は、五尺八寸七千七百八十六。

帰嘉は、十一万三千三百九十三。上生は随期。帰嘉を宮とし、未卯を商とし、随期を徴とする。

六日の律は、五寸七分小分六微強。準は、五尺七寸一万一千九百九十九。

否與は、十一万一千八百六十七。上生は形晉。否與を宮とし、夷汗を商とし、形晉を徴とする。

五日の律は、五寸六分小分八強。準は、五尺六寸一万六千四百二十二。

夷則は、十一万五百九十二。上生は夾鐘。夷則を宮とし、無射を商とし、夾鐘を徴とする。

八日の律は、五寸六分小分二弱。準は、五尺六寸三千六百七十二。

解形は、十一万九千一百三。上生は開時。解形を宮とし、閉掩を商とし、開時を徴とする。

八日の律は、五寸五分小分四強。準は、五尺五寸八千四百六十五。

去南、十万七千六百三十五。上生して族嘉となる。去南を宮とし、鄰斉を商とし、族嘉を徴とする。

八日律、五寸四分小分六大強。準、五尺四寸一万三千四百六十八。

分積、十万六千一百八十八。上生して争南となる。分積を宮とし、期保を商とし、争南を徴とする。

七日律、五寸三分小分九半強。準、五尺三寸一万八千六百八十一。

南呂、十万四千九百七十六。上生して姑洗となる。南呂を宮とし、応鐘を商とし、姑洗を徴とする。

一日律、五寸三分小分三強。準、五尺三寸六千五百六十一。

白呂、十万四千七百五十六。上生して南授となる。白呂を宮とし、分烏を商とし、南授を徴とする。

五日律、五寸三分小分二強。準、五尺三寸四千三百七十一。

結躬、十万三千五百六十三。上生して変虞となる。結躬を宮とし、遅内を商とし、変虞を徴とする。

六日律、五寸二分小分六少強。準、五尺二寸一万二千一百一十四。

帰期、十万二千一百六十九。上生して路時となる。帰期を宮とし、未育を商とし、路時を徴とする。

六日律、五寸一分小分九微強。準、五尺一寸一万七千八百五十七。

未卯、十万七百九十四。上生して形始となる。未卯を宮とし、遅時を商とし、形始を徴とする。

六日律、五寸一分小分二微強。準、五尺一寸四千八十七。

夷汗、九万九千四百三十七。上生して依行となる。夷汗を宮とし、色育を商とし、依行を徴とする。

第七日律、五寸小分五強。準、五尺一万二百二十。

無射、九万八千三百四。上生中呂。無射を宮とし、執始を商とし、中呂を徵とする。

第八日律、四寸九分小分九強。準、四尺九寸一万八千五百七十三。

閉掩、九万六千九百八十。上生南中。閉掩を宮とし、丙盛を商とし、南中を徵とする。

第八日律、四寸九分小分三弱。準、四尺九寸五千三百三十三。

鄰齊、九万五千六百七十五。上生內負。鄰齊を宮とし、分動を商とし、內負を徵とする。

第七日律、四寸八分小分六微強。準、四尺八寸一万一千九百六十六。

期保、九万四千三百八十八。上生物應。期保を宮とし、質末を商とし、物應を徵とする。

第八日律、四寸七分小分九微強。準、四尺七寸一万八千七百七十九。

應鐘、九万三千三百一十二。上生蕤賓。應鐘を宮とし、大呂を商とし、蕤賓を徵とする。

第一日律、四寸七分小分四微強。準、四尺七寸八千十九。

分烏、九万三千一百一十七。上生南事。分烏は次が窮まり、徵がなく、宮とはならない。

第七日律、四寸七分小分三微強。準、四尺七寸六千五十九。

遲內、九万二千五十六。上生盛變。遲內を宮とし、分否を商とし、盛變を徵とする。

第八日律、四寸六分小分八弱。準、四尺六寸一万五千一百四十二。

未育、九万八百一十七。上生離宮。未育を宮とし、凌陰を商とし、離宮を徴とする。

八日律、四寸六分小分一少強。準、四尺六寸二千七百五十二。

遅時、八万九千五百九十五。上生制時。遅時を宮とし、少出を商とし、制時を徴とする。

六日律、四寸五分小分五強。準、四尺五寸万二百一十五。

管を截って律とし、吹いて声を考へ、列ねて物気とし、道の本なり。術家は其の声微にして体知り難く、其の分数明らかならざるを以て、故に準を作りて之に代ふ。準の声は、明暢にして達し易く、分寸又粗なり。然れども弦は緩急清濁を以てす、管無くしては正すこと無し。其の中弦を均し、黄鐘と相得せしめ、画に案じて諸律を求めれば、数に如かずして応ふる者無からん。

音声は精微にして、之を綜ぶる者は解す。元和元年、待詔候鐘律の殷肜上言す。「官に六十律を暁りて準を以て音を調ふる者無し。故に待詔厳崇、具に準法を以て子男の宣に教ふ。宣、通習す。願くは宣を召し学官に補し、楽器を調ふるを主とせしめよ。」

詔して曰く、「崇の子、学び律を審かに暁り、其の族を別ち、其の声を協する者は、審かに試みよ。父の学に依托し、聾を以て聡と為すことを得ず。

声は微妙にして、独り非なるも知る莫く、独り是なるも暁る莫し。律を錯て吹き、能く命じて十二律を一も失はざるを知るは、方に能く崇の学を伝ふる者と為す耳。」太史丞の弘、十二律を試みるに、其二は中り、其の四は中らず、其の六は何の律なるかを知らず。宣遂に罷む。此より律家は準を施し弦を為すこと能はず、候部は復た見ることを知る莫し。熹平六年、東観、典律者たる太子舎人張光等を召して準の意を問ふ。光等知らず、旧蔵を閲して、乃ち其の器を得たり。形制は房の書の如し。猶ほ其の弦の緩急を定むること能はず。音は時人に書きて伝ふべからず。之を知る者は教へんと欲して従ふ所無く、心達する者は体知すれども師無し。故に史官に清濁を弁ずる能ふ者遂に絶ゆ。其の相伝ふべくする者は、唯だ大搉の常数及び候気のみ。

夫れ五音は陰陽に生じ、十二律に分かれ、転じて六十を生ず。皆な以て鬥気を紀し、物類を效する所以なり。天は景を以て效し、地は響を以て效す。即ち律なり。陰陽和すれば則ち景至り、律気応すれば則ち灰除く。是を以て天子は常に日に冬夏至に御前殿し、八能の士を合せ、八音を陳べ、楽均を聴き、景を度り、鐘律を候ひ、土灰を権り、陰陽を放つ。冬至に陽気応ずれば、則ち楽均清く、景長く極まり、黄鐘通じ、土灰軽くして衡仰ぐ。夏至に陰気応ずれば、則ち楽均濁く、景短く極まり、蕤賓通じ、土灰重くして衡低し。進退は先後五日の中に於てし、八能各おの候状を以て聞こしめし、太史封じて上る。效すれば則ち和し、否すれば則ち占ふ。

候気の法は、室を三重と為し、戸閉ぢ、塗釁必ず周くし、密かに緹縵を布く。室中に木を以て案と為し、毎律各おの一、内は庳く外は高く、其の方位に従ひ、律を其の上に加へ、葭莩の灰を以て其の内端を抑へ、歴に案じて之を候ふ。

気至る者は灰去る。其れ気の動かす所と為る者は其の灰散じ、人及び風の動かす所と為る者は其の灰聚まる。殿中に候ふには、玉律十二を用ふ。惟だ二至にのみ乃ち霊台に候ひ、竹律六十を用ふ。日を候ふこと其の歴の如し。

校勘記

二九九九頁一〇行 子丑を作りて以て月と名づく。集解、盧文弨の説を引き、『日』は『月』と為すべしと謂ふ。案ずるに子丑等も亦た十二辰を謂ふ。則ち月に繫くは明らかなり。後人、下に枝幹相配し、以て六旬を成す有るに因り、遂に『日』と改む。泥ること甚だし。今に校補の説に拠りて改む。

二九九九頁一三行 粟を以て之を生じ、一粟を一分と為す。集解、盧文弨の説を引き、『以て粟』説苑は『以て黍』と作し、『十粟』の二字無しと謂ふ。按ずるに、校補、『十』は『一』と作すべしと謂ふ。粟は猶ほ黍なり。説苑と雖も亦た『一黍』の二字無しと雖も、然れども別に数を出さず、即ちは一黍に就きて言ふ。前書律暦志に云ふ「一黍の広さ、之を度るに九十分、黄鐘の長さ。一を一分と為す」。夫れ黄鐘長さ九寸、一黍の広さ当に之が長さ九十分の一に当たる。即ち亦た一黍を一分と為す。故に此の一粟を一分と為すを知る。今に校補の説に拠りて改む。

三〇〇〇頁二行目:十粒の粟の重さが一圭、十圭の重さが一銖。按:集解に引用された盧文弨の説によれば、説苑では「十粟」を「十六黍」とし、「十圭」を「六圭」としている。

三〇〇〇頁四行目:萬よりも広い。按:集解に引用された盧文弨の説によれば、前志では「広」を「衍」としている。

三〇〇〇頁六行目:郎中の京房(房の字は君明)は五声の音と六律の数を理解していた。「房字君明」の四字は集解に引用された盧文弨の説に基づいて削除した。盧の説は下記を参照。また、集解に引用された盧文弨の説によれば、「五声之音,六律之数」は通典では「五音六十律之数」となっている。王先謙は、晋志と宋志はいずれも「五音六十律」としており、この文は誤りであると述べている。今按:「六律」という語はここで律呂を広く指すものとして解釈することも可能であるため、今は改めない。

三〇〇〇頁七行目:上は太子太傅の韋玄成(字は少翁)を使わした。按:集解に引用された盧文弨の説によれば、甄鸞の五経算術には「韋」の字がなく、下の王章も姓を書いていないことと合致する。下の「字少翁」の三字もない。おそらく読者が傍らに書き記したものが誤って本文に書き入れられたものであり、上の「房字君明」とともに削除すべきであり、史記しきに「解揚字子虎」があるのと同列に扱うことはできない。今これに基づいて削除した。

三〇〇〇頁一二行目:故に各々一日を統べる。按:集解に引用された惠棟の説によれば、「終」は礼記正義の引用では「統」となっており、北史牛宏伝も同じである。また、盧文弨の説を引用すると、算術も「統」としている。今これに基づいて改めた。

三〇〇〇頁一五行目:苟も草木の声に非ざれば。集解に引用された盧文弨の説によれば、「草」は算術に従って「革」とすべきである。今これに基づいて改めた。按:王先謙は晋志が「草」としていると述べている。

三〇〇一頁六行目:律の長短を以って制と為す。汲本に基づいて改めた。

三〇〇一頁一四行目:上生は黄鐘の濁を過ぎてはならず、下生は黄鐘の清に及んではならない。集解に引用された盧文弨の説によれば、「清」の字は衍字である。「之數實」は「之清」とすべきであり、算術に従って改正する。今これに基づいて改めた。盧はまた「及」の上に「不」の字が脱落していると述べている。今按:上生が黄鐘の濁を過ぎてはならないとは、生じる音が黄鐘の本律より低くなってはならないという意味であり、下生が黄鐘の清に及んではならないとは、生じる音が黄鐘の半律より高く、または等しくなってはならないという意味である。「過」と「及」は字は異なるが意味は同じであり、脱落した字はない。今は改めない。

三〇〇一頁一六行目:而して十一律を生ずる者なり。「十一」は汲本と殿本では「十二」となっている。集解に引用された盧文弨の説によれば、通鑒注の引用では「十二」を「十一」としている。今按:「十二」とするのは誤りであり、下条の校記を参照すれば自ずと明らかである。

三〇〇一頁一六行目:是の故に十二律の得る所は十七万七千百四十七。按:「十二律之」は語意が不明であり、脱落または誤りがあると疑われる。文意に従えば「十一三之」とすべきであり、三を十一次自乗した数が十七万七千百四十七となる。

三〇〇二頁二行目:一万九千六百八十三を得て法と為す。集解に引用された盧文弨の説に基づいて改めた。

三〇〇二頁二行目:律においては寸となる。集解に引用された盧文弨の説によれば、「律」の上に「於」の字が脱落しており、算術にはある。今これに基づいて補った。

三〇〇二頁四行目:以って黄鐘の管と為す。按:集解に引用された盧文弨の説によれば、前志では「管」を「宮」としている。

三〇〇二頁五行目:黄鐘の音に比す。按:集解に引用された盧文弨の説によれば、前志では「音」を「宮」としている。

三〇〇二頁一一行目:故に子に萌え滋く。按:王先謙は前志では「滋」を「孳」としていると述べている。

三〇〇二ページ十一行目「振羨於辰」の前志では「羨」を「美」と作る。按:王念孫は「美」は「羨」とすべきであり、字の誤りであるという。

三〇〇二ページ十一行目「昧曖於未」按:王先謙は前志では「曖」を「薆」と作ると言う。

三〇〇二ページ十二行目「大成於丁」按:集解が引く盧文弨の説によれば、前志では「成」を「盛」と作る。

三〇〇二ページ十二行目「豐茂於戊」按:王先謙は前志では「茂」を「楙」と作ると言う。

三〇〇二ページ十三行目「而變化之情則可見矣」按:王先謙は前志には「則」の字がないと言う。

三〇〇三ページ一行目「色育」集解が引く盧文弨の説によれば、「色」は隋志および律呂新書ではともに「包」と作っており、これが正しいであろう。算術、礼記正義ではともに「色」と作る。

三〇〇三ページ二行目「下生謙待」按:隋志では「謙待」を「謙侍」と作る。以下同じ。

三〇〇三ページ六行目「律八寸八分小分七大強」集解が引く恵棟の説によれば、「七大強」は一説に「八弱」と作る。今按:礼記正義では「小分八弱」と作る。また按:集解が引く盧文弨の説によれば、「大」は「太」と作るべきである。

三〇〇三ページ十行目「分動」集解が引く恵棟の説によれば、「動」は一説に「勳」と作る。今按:隋志では「動」と作る。以下同じ。

三〇〇三ページ十三行目「質末」集解が引く盧文弨の説によれば、隋志、礼運正義では「末」を「未」と作る。按:殿本では「未」と作る。以下同じ。

三〇〇三ページ十四行目「形晉」按:隋志では「形」を「刑」と作る。以下同じ。

三〇〇三ページ十五行目「小分二*[半]*強」集解が引く盧文弨の説によれば、算術では「強」の上に「半」の字があり、これが正しい。今これに拠って補う。

三〇〇四ページ五行目「下生解形」按:隋志では「解形」を「解刑」と作る。以下同じ。

三〇〇四ページ七行目「凌陰」集解が引く盧文弨の説によれば、隋志、正義では「凌」をともに「陵」と作る。

三〇〇四ページ八行目「族嘉」按:隋志では「佚喜」と作る。以下同じ。

三〇〇五頁十一行下生未卯 按:隋志では「未卯」を「未卬」としている。

三〇〇五頁十三行十四萬九千一百五十六 集解が盧文弨の説を引用し、「五十五」は算術では「五十六」としているのが正しいという。今これに従って改める。

三〇〇五頁十四行下生夷汗 按:隋志では「夷汗」を「夷污」としている。以下同じ。また按ずるに、「夷」は原本では「無」と誤っており、直接に改正した。

三〇〇五頁十五行七尺五寸萬五千三百三十五 按:各本はすべて「二十五」としているが、今、算理に従って改める。

三〇〇六頁五行下生閉掩 按:隋志では「閉掩」を「閉奄」としている。以下同じ。

三〇〇六頁六行小分九微強 按:集解が盧文弨の説を引用し、算術では「微強」としているのが正しいという。今これに従って改める。

三〇〇六頁八行內負 按:隋志では「負」を「貞」としている。以下同じ。

三〇〇七頁一行十三萬九千六百七十四 集解が錢大昕の説を引用し、「七十四」とすべきで、「四」の字が脱落しているという。また盧文弨の説を引用し、算術には「四」の字があるという。今これに従って補う。

三〇〇七頁二行下生分烏 按:隋志では「分烏」を「分焉」としている。以下同じ。

三〇〇七頁十行形始 按:隋志では「形」を「刑」としている。

三〇〇七頁十五行小分三半強 集解が盧文弨の説を引用し、算術では「半強」としているのが正しいという。今これに従って改める。

三〇〇八頁九行小分八微強 集解が盧文弨の説を引用し、算術では「微強」としているのが正しいという。今これに従って補う。

三〇〇九頁二行不生 集解が錢大昕の説を引用し、十二律の変化は南事で尽きており、どうして下生と言えようか?「下」は「不」の字の誤りであろうと疑う。また盧文弨の説を引用し、「下生」は「不生」とすべきだという。今これに従って改める。

三〇〇九頁三行六尺三寸一千五百十一 按:各本は「三十一」としているが、今、算理に従って改める。

三〇〇九頁六行小分三半強 集解が盧文弨の説を引用し、算術では「半強」としているのが正しいという。今これに従って改める。

三〇〇九頁七行の「十二萬一千八百一十九」について、集解が引用する銭大昕の説によれば、「一千八十九」とすべきであるという。また盧文弨の説を引用すると、「百一」の二字は誤って衍字であり、算術にはない。今これに従って削除する。

三〇一〇頁九行の「小分四微弱」について、集解が引用する盧文弨の説によれば、算術では「微弱」としており、これが正しい。今これに従って補う。

三〇一一頁四行の「十一萬九千一百三」について、集解が引用する銭大昕の説によれば、「十萬」とすべきであるという。また盧文弨の説を引用すると、「十」の下の「一」の字は衍字であり、算術にはない。今これに従って削除する。

三〇一一頁一〇行の「十萬六千一百八十八」について、集解が引用する銭大昕の説によれば、「八十七」とすべきであるという。また盧文弨の説を引用すると、「八」は誤りで、算術では「七」である。今これに従って改める。

三〇一一頁一二行の「小分九半強」について、集解が引用する盧文弨の説によれば、算術には「半」の字がなく、「少強」とすべきであるという。今考えるに、算理に従えば「半弱」とすべきであろう。

三〇一一頁一二行の「五尺三寸萬八千六百八十一」について、按ずるに、各本は「八十一」としているが、今は算理に従って改める。

三〇一二頁三行の「五尺三寸四千三百七十一」について、按ずるに、各本は「七十一」としているが、今は算理に従って改める。

三〇一二頁六行の「小分六少強」について、集解が引用する盧文弨の説によれば、算術では「微強」としており、案ずるに単に「強」とすべきである。今これに従って削除する。

三〇一二頁一二行の「五尺一寸四千八十」について、按ずるに、各本は「四千八十七」としているが、今は算理に従って改める。

三〇一三頁一二行の「小分九微強」について、集解が引用する盧文弨の説によれば、算術では「半強」としており、これが正しい。今これに従って改める。

三〇一四頁一行の「九萬三千一百一十七」について、集解が引用する銭大昕の説によれば、「一十六」とすべきであるという。また盧文弨の説を引用すると、算術では「六」としている。今これに従って改める。

三〇一四頁一三行の「列以物氣」について、集解が引用する恵棟の説によれば、晋志では「物」を「效」としているという。今考えるに、「效」とするのが合っているようである。

三〇一四頁一四行の「然弦以緩急清濁」について、集解が引用する張文虎の説によれば、「弦以」の「以」は「之」とすべきか、あるいは「緩急」の下に「為」の字が脱落しているのではないかという。

三〇一五頁一行の「泠道縣」について、按ずるに、「泠」は原本では「冷」と誤っており、直接に改正する。

三〇一五頁三行の「故待詔嚴崇」について、按ずるに、晋志・宋志では「崇」をともに「嵩」としており、魏志でも「嵩」としている。集解が引用する銭大昕の説によれば、古文では崇と嵩は通じ、漢武帝が嵩高山を「崇高」と改めたという。

三〇一五頁五行の「方」は元は「力」であったが、直接に訂正した。按ずるに、晋志と宋志はともに「乃」と作る。

三〇一五頁八行の「音不可書以時人」、王先謙は晋志が「音不可書以曉」とし、宋志が「音不可以書曉」とすると言う。「書以」が誤って倒置され、「時」の字が誤りであることが明らかである。按ずるに、王氏は「曉」の字で句切り、「人」の字を下に続けて読む。今、晋志に従って「時」を「曉」に改め、「人」の字を上に属させて読む。

三〇一五頁一二行の「皆不應日律」、汲古閣本と殿本に従って「日」を「月」に改める。

三〇一五頁一二行の「乃能順天地」、按ずるに、汲古閣本と殿本は「順」を「感」と作る。

三〇一五頁一五行の「可順上天之明待」、隋書音楽志下が引くところでは「待」を「時」と作る。今これに従って改める。

三〇一六頁二行の「皆所以紀鬥気」、按ずるに、「斗」の字は誤りがあるか疑わしく、あるいは「卦」と作るべきであろう。

三〇一六頁四行の「権土灰」、集解が引く惠棟の説によれば、晋灼が引く蔡邕の律歴記は「土炭」と作り、漢書律歴志もまた「懸土炭」と言う。今これに従って改める。以下同じ。

三〇一六頁四行の「放陰陽」、集解が引く惠棟の説によれば、「放」は一に「效」と作り、晋志は「效」と作る。今これに従って改める。

三〇一六頁八行の「気至者灰去」、集解が引く銭大昭の説によれば、閩本は「動」と作る。王先謙は殿本が「動」と作ると言い、晋志は「去」と作る。今按ずるに、下に「其為気所動者其灰散」とあるから、「去」と作るのは誤りであり、今これに従って改める。

三〇一七頁一行の「徑三分」、太平御覧巻十六に従って「孔」の字を補う。

三〇一七頁一行の「其餘皆補短」、集解が引く惠棟の説によれば、李氏本は「補」を「漸」と作る。