漢書かんじょごかんじょ

巻八十三・逸民列伝第七十三

目次

『易経』は「隠遁の時の意義は大きい」と称え、また「王侯に仕えず、その事を高尚とする」と言う。それゆえ、堯は天に則ると称えられ、潁陽の高潔さを屈しなかった(潁陽とは、巣父と許由のこと)。武王はその美を尽くしたが、結局は孤竹の潔白を全うした(孤竹とは、伯夷と叔斉のこと)。これ以降、風流はますます盛んになり、長く去る軌跡は変わらないが、感応して至る道筋は一つではない。ある者は隠居してその志を求め、ある者は回避してその道を全うし(『論語』で孔子が言う「隠居してその志を求め、義を行ってその道を達する」。志を求めるのは長沮や桀溺のような者、道を全うするのは薛方が王莽に詭弁で答えたような者)、ある者は静かに己を修めてその躁動を鎮め(逢萌の類)、ある者は危険を去ってその安泰を図り(商山四皓の類)、ある者は俗世を汚れとしてその気概を奮い立たせ(申徒狄や鮑焦の流れ)、ある者は物事に瑕疵を見つけてその清らかさを激発させた(梁鴻や厳光の流れ)。しかし、彼らが田畑の中に甘んじ、江海の上で憔悴しているのを見るに(荘子に「舜が天下を北人無擇に譲ろうとした。無擇は言った『異なることよ、君主の為人よ!畑の中に住みながら堯の門に遊び、これだけでは済まない』」。また「藪沢に就き、閑曠に処する、これ江海の士、世を避ける人、閑暇を好む者の好むところである」)、必ずしも魚鳥に親しみ林草を楽しむためだけではなく、性分の赴くところに至っただけなのだ(分は音、問の反切)。だから、恥辱を蒙った賓客(柳下惠)は、何度も罷免されてもその国を去らず(『列女伝』に「柳下惠が死んだ時、その妻が誄して言った『恥辱を蒙って人を救い、徳はますます大きい。三度罷免されても、終いにその志は衰えない』」)、海に身を投げる節操(魯仲連)は、千乗の国をもってしてもその心情を移すことはできない(『史記しき』に、魯仲連が新垣衍に言った「秦がもし帝となれば、魯仲連は東海に身を投げて死ぬだけだ」。魯仲連が聊城を下した後、田単が爵位を与えようとしたが、魯仲連は海上に逃れて隠れた)。もし彼らに去就を無理に変えさせようとすれば、互いに為し得ることはなかっただろう(人はそれぞれ重んじるものがあり、その志を改めることはできない。孔子が長沮と桀溺の言葉を聞いて、子路に告げて言った「天下に道があれば、丘は(彼らと)易えようとはしない」)。彼らは確かに石のように堅く、名声を売り物にする者に似ているが(『論語』に「孔子が衛で磬を打っていた時、荷を担った者が孔氏の門を通り過ぎた。言った『心があるな!磬を打つのは?』やがて言った『卑しいな!石のように堅く、己を知る者もいない』」。また「子貢が言った『ここに美玉がある。櫃にしまっておくか?良い値で売るか?』孔子は言った『売ろう!売ろう!私は値段を待つ者だ』」。沽は売りさばくこと)、しかし、騒がしい塵埃の中から蝉の抜け殻のように脱し、自ら天下の外に至るのは、智巧を飾って浮利を追う者とは異なるではないか!荀子が言うように、「志意を修めれば富貴を驕らず、道義を重んじれば王公を軽んずる」のである(荀子の文章)。

漢王朝が中衰し、王莽が帝位をさんさんだつすると、士人の胸に秘めた義憤は甚だしかった。この時、冠を裂き冕を毀ち、互いに手を取り合って去っていった者は、数え切れないほどであった(『左伝』に「王が詹桓伯をして晋に辞を述べさせた『伯父がもし冠を裂き冕を毀ち、根本を抜き源を塞ぐならば』」。『毛詩』序に「百姓は互いに手を取り合って去らなかった者はない」)。揚雄は言う「がんは冥々と飛び、弋る者は何をからん」と。これは禍患を遠く離れることを言う(「篡」の字は諸本によっては「慕」と作るものもあるが、『法言』では「篡」と作る。宋衷は「篡は取るなり。鴻が高く冥々と天に近く飛べば、たとえ弋る者がいても、どうして巧みに取ることができようか。賢者が隠れ処にいて、暴乱の害に遭わないことを譬えている」。しかし今、人は計略を用いて物を取ることを「篡」と言い、篡もまた取ることである)。光武帝は幽人(隠者)を側席で待ち、求めること追い付かぬほどであった(『国語』に「越王の夫人が髪飾りを外し側席に坐した」。韋昭の注に「側は特なり。礼に、憂える者は側席に坐す」とある。『前漢書』公孫弘の賛に「上(武帝)は文武を用いようとし、求めること追い付かぬほどであった」)。旌旗や帛、蒲車で招聘し褒美を与える使者が、山中で相望むほどであった(『毛詩』序に「干旄は善を好むことの美しさなり」。その詩に「孑孑たる干旌、浚の城に在り」。『易経』賁卦の六五に「丘園にかざり、東帛戔戔たり」。蒲車は、蒲で車輪を包み、その安らかさを取る。『前漢書』に武帝が蒲車で魯の申公を招聘した)。薛方や逢萌は招聘されても来ようとせず、厳光や周党、王は来たが屈服しなかった。各方面の士は皆その志を遂げ、志士は仁を懐き、これはまさに「逸民を挙げれば天下の心帰す」というものだろうか(『論語』の文)。章帝(粛宗)もまた鄭均を礼遇し高鳳を招聘して、その節操を成し遂げさせた。その後、帝の徳は次第に衰え、邪悪な輩が朝廷を支配するようになると、処士たちは耿介(固く志を守る)であり、卿相と同列に並ぶことを恥じ、ついには憤りを抗って顧みず、多くは中庸の道を失ってしまった。ここに、世俗の塵を絶って戻らない者を記録し(荘子に「顔回が仲尼に問うて言った『先生が歩めば私も歩み、先生が走れば私も走り、先生が駆ければ私も駆けるが、先生が奔軼して塵を絶てば、回はただ目を見開いて後ろにいるだけです』」。司馬彪の注に「及ばないことを言う」とある。『韓詩外伝』に「山林の士は、往って戻ることができない」)、作者(世を避けた七人の賢者)と同じく、この篇に列する(『論語』に「賢者は世を避け、次は地を避け、次は色(顔色)を避け、次は言(言葉)を避ける。子曰く『作者七人あり』」)。

野王の二老

野王の二老とは、どこの誰であるか知られていない。初め、光武帝が更始帝に対して二心を抱いていた時、関中が混乱したため、前将軍鄧禹を西征させ、道で見送った。帰る途中、野王で狩りをし、道で二老が禽獣に近づいているのを見た(即は、近づくこと。易経に「鹿にちかづくもかりびとなし」)。光武帝が「獣はどちらに向かっているか」と尋ねると、二人とも手を挙げて西を指し、「ここには虎が多いので、私が獣に近づくたびに、虎もまた私に近づきます。大王は行かないでください」と言った。光武帝は「もし備えがあれば、虎も何の憂いがあろうか」と言った。老人は言った「なんと大王の考えは誤っていることか。昔、湯王は桀を鳴条で討ち、亳に大きな城を築いた(『帝王紀』に「孟子を案ずるに、桀は鳴条で死んだが、これは東夷の地にある。あるいは陳留郡平丘県に今も鳴条亭があると言う。ただ孔安国が尚書に注して、鳴条は安邑の西にあると言う。三つの説を検証すれば、孔の説が近い」)。武王もまた紂を牧野で討ち、郟鄏に大きな城を築いた(杜預が『左伝』に注して「今の河南である。河南県の西に郟鄏陌がある」)。あの二人の王者は、その備えが深くなかったわけではない。だから、人に近づく者は、人もまたそれに近づくのであり、たとえ備えがあっても、どうして軽視できようか!」光武帝はその主旨を悟り、左右の者を見て「これは隠者だ」と言った。彼らを用いようとしたが、辞して去り、どこへ行ったか分からなくなった。

向長

向長は字を子平といい、河内郡朝歌県の人である。世を避けて隠居し官に就かず、性格は中和を尊び、老子と易経に通じることを好んだ。貧しくて生活の資がなく、好事の者が食物を贈ってくると、必要分を受け取って残りは返した。王莽の大司空しくう王邑が彼を召し出そうとしたが、何年も経ってようやく来た。王邑が王莽に推薦しようとしたが、向長は固く辞退したので取りやめになった。家に潜んで隠れ、易経を読んで損卦と益卦に至ると、ため息をついて嘆いた。「私はすでに富は貧に及ばず、貴は賤に及ばないことを知っている。ただ、死が生に比べてどうかはまだ知らないだけだ。」建武年間、男女の嫁娶がすべて終わると、家事に関わらないよう命じ、自分が死んだものとして扱えと言った。そこで思いのままに振る舞い、同じ志を持つ北海郡の禽慶とともに五嶽の名山を遊歴し、ついにその行方知れずとなった。

逢萌

逢萌は字を子康といい、北海郡都昌県の人である。家が貧しく、県に仕えて亭長ていちょうを務めていた。ある時、県尉が亭の前を通りかかり、逢萌は出迎えて拝謁したが、やがて盾を投げ捨てて嘆いた。「大丈夫がどうして人の下僕になどなれようか!」そこで長安ちょうあんへ行って学問し、春秋経に通じた。当時、王莽が自分の子の王宇を殺した。逢萌は友人に言った。「三綱が絶えてしまった。ここを去らなければ、災いが自分に及ぶだろう。」すぐに冠を解いて東都門に掛け、家族を連れて海を渡り、遼東に客居した。

逢萌はもとより陰陽に明るく、王莽が敗れることを知っていた。しばらくして、瓦の盆を頭に載せ、市場で泣き叫んだ。「新よ、新よ!」それから潜んで身を隠した。

光武帝が即位すると、琅邪郡の労山に行き、志を養い道を修め、人々は皆その徳に感化された。

北海太守はかねてからその高名を聞いており、役人を遣わして挨拶と礼を贈ったが、逢萌は答えなかった。太守は恨みを抱き、彼を捕らえさせようとした。役人は頭を地に叩きつけて言った。「子康は大賢であり、天下にその名が知れ渡っています。彼のいる所では、人々は父のように敬っております。行っても捕らえることはできず、ただ自ら辱めを受けるだけです。」太守は怒り、その役人を捕らえて獄に繋ぎ、別の役人を派遣した。労山に着くと、人々は確かに相率いて武器を持って防衛し、役人は傷ついて血を流し、逃げ帰った。後に詔書で逢萌を召し出そうとしたが、年老いて方向も分からず迷っていると託け、使者に言った。「朝廷が私を召し出すのは、政治に有益だからであろう。まだ方角さえ分からないのに、どうして時勢を救えようか。」すぐに車を返して帰った。何度も召し出されたが応じず、天寿を全うした。

初め、逢萌は同郡の徐房、平原郡の李子雲、王君公と親しく交わり、皆陰陽に通じ、徳を抱きつつも穢れた行いをした。徐房と李子雲はそれぞれ千人もの弟子を養い、王君公は乱世に遭っても去らず、牛の仲買人となって身を隠した。当時の人は彼について論じて言った。「世を避けて牆東にいる王君公。」

周党

周党は字を伯況といい、太原郡広武県の人である。家産は千金あった。幼くして孤児となり、一族の者に養われたが、理不尽な扱いを受け、成長しても財産を返さなかった。周党は郷や県に訴え出て、ようやく返してもらった。その後、一族に分け与え、奴婢をすべて解放して帰した。そして長安へ遊学した。

かつて、郷佐が人前で周党を辱めたことがあった。周党は長くそれを恨んでいた。後に『春秋』を読み、復讐の義を聞くと、講義をやめて帰郷し、郷佐に伝えて決闘の日を約束した。刃を交えたが、周党は郷佐に傷つけられ、倒れた。郷佐はその義に感服し、車で連れ帰って養生させ、数日してようやく意識が戻った。目覚めると周党は去った。これ以降、自らを戒め志を修め、州里でその高潔さを称えられた。

王莽が帝位を簒奪すると、病気と称して門を閉ざした。その後、賊徒が横行し郡県を滅ぼしたが、広武に至った時だけは城を通り過ぎるだけで入城しなかった。

建武年間、議郎に徴されたが、病気を理由に辞職し、妻子を連れて黽池に住んだ。再び徴されたが、やむを得ず、短い布の単衣を着て、穀樹の皮で作った綃頭を被り、尚書の謁見を待った。光武帝が引見すると、周党は伏したまま拝謁せず、自分の志を守りたいと申し述べた。帝はそれを許した。

博士の范升が周党を誹謗して上奏した。「臣は聞きます。堯は許由や巣父を必要とせずに天下に号を建て、周は伯夷や叔齊を待たずに王道を成しました。伏して見るに、太原の周党、東海の王良、山陽の王成らは、厚い恩恵を受け、使者が三度招聘してようやく車に乗りました。そして朝廷で陛下にお目通りした際、周党は礼を尽くして屈せず、伏したまま拝謁せず、傲慢で強情に、同時に去って行きました。周党らは文では義を演じることができず、武では君のために死ぬことができず、華やかな名声を釣り、三公の位を望んでおります。臣は願わくば、雲台の下で彼らと共に座り、治国の道について試問させてください。もし臣の言う通りでなければ、虚妄の罪を伏して受けます。しかし彼らは敢えて私的に虚名を窃み、上を誇って高位を求めており、皆大不敬です。」上書が奏上されると、天子は公卿たちに見せた。詔して言った。「古来の明王聖主には必ず賓客とならない士がいた。伯夷や叔齊は周の粟を食まず、太原の周党は朕の禄を受けない。これもまたそれぞれの志である。帛四十匹を賜え。」周党はそこで黽池に隠居し、上下二篇の書を著して世を去った。邑人はその賢を慕って祠を建てた。

初め、周党は同郡の譚賢(字は伯升)と雁門郡の殷謨(字は君長)とともに節を守り、王莽の世に仕えなかった。建武年間、三人とも徴されたが応じなかった。

王霸

王霸は字を儒仲といい、太原郡広武県の人である。若い頃から清廉な節操があった。王莽が帝位を簒奪すると、官服を捨て、官吏との交際を断った。建武年間に、尚書に召し出され、拝謁の際に名を称したが、臣と称さなかった。役人がその理由を尋ねると、王霸は言った。「天子にも臣としない者がおり、諸侯にも友としない者がいる。」(『礼記』に「儒者には上は天子に臣とせず、下は諸侯に仕えない者がある」とある。)司徒しとの侯霸が王霸に地位を譲ろうとした。閻陽が王霸を誹謗して言った。「太原の俗党で、儒仲はその風習をかなり持っている。」そこで取りやめになった。(皇甫謐『高士伝』に「故梁県令の閻陽」とある。『漢書』に「太原には晋の公族の子孫が多く、詐術と武力で互いに傾け合い、功名を誇り、復讐が度を過ぎる。漢が興ってから、教化し難い土地とされ、常に厳格で猛々しい将軍を選び、あるいは殺伐を任せて威を示した。父兄が誅殺されると、子弟は怨み憤り、刺史や二千石の官を告発することに至った」とある。)病気を理由に帰郷した。隠居して志を守り、茅葺きの粗末な家に住んだ。何度も招聘されたが応じず、天寿を全うした。

厳光

厳光は字を子陵といい、一名は遵、会稽郡余姚県の人である。若い頃から高い名声があり、光武帝と共に遊学した。光武帝が即位すると、名と姓を変え、身を隠して姿を見せなかった。帝はその賢才を思い、形貌によって尋ね求めるよう命じた。(その容貌によって求めること。)後に斉国から上奏があった。「一人の男子が、羊の皮衣を着て沢で釣りをしている。」帝はそれが厳光ではないかと疑い、安車と玄纁を整え、使者を遣わして招聘した。三度往復してようやく到着した。北軍に宿泊させ、寝台と敷き布団を与え、太官が朝夕に食事を進めた。

司徒の侯霸は厳光と旧知の仲であったが、使者を遣わして書簡を奉った。(皇甫謐『高士伝』に「侯霸は西曹属の侯子道を使者として書簡を奉らせた。厳光は起き上がらず、床上で箕坐して膝を抱え、書簡を開封して読み終え、子道に尋ねた。『君房(侯霸)は元々愚かだったが、今は三公になった。少しは良くなったか?』子道が『位はすでに鼎の足のように重く、愚かではありません』と言うと、厳光は『あなたを遣わして何を言わせたのか?』と尋ねた。子道が侯霸の言葉を伝えると、厳光は『あなたは愚かでないと言うが、それは愚かな言葉ではないか?天子が私を三度招聘して初めて来た。君主にさえまだ会わないのに、臣下に会うべきだろうか?』と言った。子道が返事を求めた。厳光は『私は手で書けない』と言い、口述した。使者が少なすぎるので増やしてほしいと言うと、厳光は『野菜を買うのか?増量を求めるのか?』と言った」とある。)使者は厳光に言わせた。「侯公は先生が到着されたと聞き、是非ともすぐにお訪ねしたいのですが、職務に迫られて叶いません。日暮れにでも、ご足労いただいてお話ししたいと願っています。」厳光は答えず、書簡を投げ与え、口述した。「君房足下:位は鼎の足に至り、大変結構なことです。仁を懐き義を輔けて天下を喜ばせよ。へつらい旨に順っては首を絶たれる。」侯霸は書簡を受け取り、封をして帝に奏上した。帝は笑って言った。「狂った奴のいつもの様子だ。」車駕は即日その宿舎に行幸した。厳光は寝たまま起き上がらず、帝はその寝所に近づき、厳光の腹を撫でて言った。「ああ子陵、私を助けて政治を行わせてはくれないのか?」厳光はまた眠ったまま応じず、しばらくして、目を見開いてじっと見つめ、言った。「昔、唐堯が徳を示した時、巣父は耳を洗った。士には元々志がある。どうしてここまで迫るのか。」帝は言った。「子陵、私はついにあなたを臣下にすることができないのか?」そこで輿に乗り、嘆息して去った。

再び厳光を招き入れ、道や昔のことを論じ合い、何日も向かい合った。帝はゆったりと厳光に尋ねた。「朕は昔と比べてどうか。」答えて言った。「陛下は以前より少し増しておられます。」そこで共に横になり、厳光は足を帝の腹の上に載せた。翌日、太史が客星が御座を侵犯するのが甚だ急であると奏上した。帝は笑って言った。「朕の旧友の厳子陵と共に寝ただけだ。」

諫議大夫に任じようとしたが、屈せず、富春山で耕作した。(現在の杭州富陽県である。本来は漢の富春県であったが、晋の簡文帝の鄭太后の諱を避けて富陽と改称した。)後世の人々は彼が釣りをした場所を厳陵瀬と呼んだ。(顧野王『輿地志』に「七里瀬は東陽江の下流にあり、厳陵瀬と接し、厳山がある。桐廬県の南に厳子陵が漁釣した場所があり、今、山の辺りに石があり、上が平らで十人が座れ、水に臨んでおり、厳陵釣壇と呼ばれている」とある。)建武十七年、再び特に招聘したが、応じなかった。八十歳で家で亡くなった。帝は悲しみ惜しみ、詔を下して郡県に銭百万、穀千斛を賜うよう命じた。

井丹

井丹は字を大春といい、扶風郡郿県の人である。若くして太学で学業を受け、五経に通じ、談論を得意としたので、都の人々が彼について「五経紛綸の井大春」と言った。(紛綾は浩博と同じ意味である。)性格は清く高潔で、一度も名刺を書いて人を訪問したことがなかった。

建武末年、はい王劉輔ら五王が北宮に住んでいたが、皆賓客を好み、代わる代わる井丹を招請したが、招くことができなかった。信陽侯の陰就は、光烈皇后の弟で、外戚として貴盛であったが、五王を欺いて、千万の銭を求め、井丹を招けると約束し、別に人を遣わして彼を脅迫して連れて来させた。井丹はやむなく、到着すると、陰就はわざと麦の飲み物と葱の葉の食事を用意した。井丹はそれを押しのけて言った。「君侯が美味しいものを供してくださると聞いたので、お訪ねしたのに、どうしてこれほど粗末なのですか。」より盛大な饗宴を用意し直して、ようやく食べた。陰就が立ち上がる時、左右の者が輦を進めた。井丹は笑って言った。「私は桀が人に車を引かせたと聞いたが、これのことか?」(『帝王紀』に「桀は人に車を引かせた」とある。)座中の者は皆顔色を失った。陰就はやむなく輦を去らせた。これ以降、井丹は隠遁して人との関わりを絶ち、天寿を全うした。

梁鴻

梁鴻は字を伯鸞といい、扶風郡平陵県の人である。父の梁譲は、王莽の時に城門校尉こういとなり、脩遠伯に封じられ、少昊の後を奉祀させられ、北地に寓居して亡くなった。(『漢書』に王莽が允吾を脩遠に改めたとある。少昊は金天氏の号で、黄帝の次である。北地は現在の寧州である。)梁鴻はその時まだ幼く、乱世に遭ったため、筵を巻いて葬った。

後に太学で学業を受け、家は貧しかったが節義を尊び、広く博覧して通じないものはなく、章句の学はしなかった。学業を終えると、上林苑で豚を飼った。かつて誤って火を遺し、他の家屋に延焼したことがあった。梁鴻は焼けた家を尋ね訪ね、失ったものを尋ね、(去は亡くすこと。)全て豚で償った。その家主はまだ少ないと思った。梁鴻は言った。「他に財産はありません。私自身が働きに留まることを願います。」主人はそれを許した。そこで勤勉に働き、朝夕怠らなかった。近所の老人たちは梁鴻が普通の人でないと見て、共に主人を責め、梁鴻を長者と称えた。そこで初めて敬い異とし、全ての豚を返した。梁鴻は受け取らずに去り、郷里に帰った。

権勢のある家は彼の高潔な節操を慕い、多くは娘を嫁がせようとしたが、(娘を妻とさせることを女といい、音は尼慮の反切。)梁鴻は全て断って娶らなかった。同県の孟氏に娘がおり、容貌は肥えて醜く黒く、力は石臼を持ち上げ、配偶者を選んで嫁がず、三十歳になっていた。父母がその理由を尋ねた。娘は言った。「梁伯鸞のような賢者を得たいのです。」梁鴻はそれを聞いて聘した。娘は布衣と麻の履き物を作り、籠を編み糸を績ぐ道具を織ることを求めた。嫁ぐ時、初めて装飾を施して門に入った。七日経っても梁鴻は答えなかった。妻は床下に跪いて請うた。「ひそかに夫子の高義を聞き、数人の婦人を遠ざけられたと。(斥は遠ざけること。)私もまた数人の夫を拒んできました。今、選ばれた以上、敢えて罪を請わないわけには参りません。」梁鴻は言った。「私は粗末な衣服の者で、共に深山に隠れることのできる人を求めているのだ。今、綺や縞の衣を着て、粉や墨を施している。これが私の願いだろうか。」妻は言った。「夫子の志を観察するためです。私には隠居の服がございます。」そこで髪を椎髻に結い直し、布衣を着て、働きながら前に出た。梁鴻は大いに喜んで言った。「これこそ真の梁鴻の妻だ。私に仕えることができる!」彼女に徳曜という字を付け、名を孟光とした。

しばらく経った頃、妻が言った。「常々、あなたが世を避けて隠居したいとおっしゃっていたのに、今はなぜ黙っておられるのですか。ひょっとして頭を下げてそれに従おうとされているのではありませんか。」梁鴻は「そうだ。」と言った。そして共に霸陵山中に入り、耕作と機織りを生業とし、詩書を詠じ、琴を弾いて自ら楽しんだ。前世の高士を仰ぎ慕い、四皓以来の二十四人のために頌を作った。

そこで東へ出て関を越え、都を通り過ぎた時、五噫の歌を作った。歌に曰く。「あの北芒山に登るかな、ああ!帝京を顧みるかな、ああ!宮殿は高くそびえるかな、ああ!人々の苦労ははなはだしいかな、ああ!はるか遠く果てしもないかな、ああ!」肅宗(章帝)はこれを聞いて非難し、梁鴻を探し求めたが見つからなかった。そこで姓を運期と改め、名を燿、字を侯光とし、妻子と共に斉魯の間に住んだ。

しばらくして、また去って呉へ赴いた。出発に際し、詩を作った。「旧邦を去りて遠征し、遥かに集まらんと東南へ。心は憂いて傷み悴し、志は高下定まらず。策に乗じて邁進せんと欲すれど、我が俗は讒言を作るを疾む。枉(曲がった者)を挙げて直(正しい者)を措くを競い、皆先んじてへつらいをなすは延延たり。固より独り建つを慚じず、異州に尚賢を冀う。聊か逍遙して遊び戯れ、仲尼の跡を継ぎて周流す。もしも見て我が悦ぶならば、遂に車を捨てて即ち浮かばん。季札の延陵を過ぎ、魯連を海隅に求む。光儀を察せずとも、幸いに神霊と共に美を休めん。季春の華やかなる阜、麦は含含として方に秀でる。茂れる時が過ぎ去るを哀しみ、芳香の日々に敗れるを憐れむ。我が心の得られざるを悼み、長く委結して何を究めん。口は嚻嚻として余は謗られ、嗟くに恐れ恐れとして誰が留まらん。」

遂に呉に至り、大家の皐伯通に寄り、屋根の下の部屋に住み、人に雇われて米搗きをした。毎日帰ると、妻が食事を用意し、梁鴻の前で仰ぎ見ることもせず、食案を眉の高さに掲げて差し出した。伯通はこれを見て怪しみ、「あの雇い人が妻をしてここまで敬わせるとは、凡人ではない。」と言った。そこでようやく家の中に住まわせた。梁鴻はひそかに閉じこもって十余篇の書を著した。病が重くなり、主人に告げて言った。「昔、延陵の季子(季札)は子を嬴博の間に葬り、郷里に帰らせなかった。どうか私の子に喪を持って帰らせないでほしい。」死ぬと、伯通らは呉の要離の墓の傍らに葬地を求めた。皆が言った。「要離は烈士であり、伯鸞(梁鴻)は清高である。近くに葬らせることができる。」葬儀が終わると、妻子は扶風に帰った。

初め、梁鴻の友人に京兆の高恢がいた。若い頃から『老子』を好み、華陰山中に隠れていた。梁鴻が東遊して高恢を思い、詩を作った。「鳥の嚶嚶たるは友を期す。高子を念うは僕が懐思す。恢を想念すれば爰に茲に集まる。」二人は遂に再び会うことはなかった。高恢もまた高く抗い、終身仕官しなかった。

高鳳

高鳳は字を文通といい、南陽郡葉県の人である。若い頃は書生で、家は農業を生業としていたが、専心して読書に励み、昼夜休むことがなかった。妻がかつて田に出た時、庭に麦を干し、高鳳に鶏の番をさせた。その時、激しい雨が降ったが、高鳳は竿を持ったまま経書を誦読し、水が流れて麦を濡らしているのに気づかなかった。妻が帰ってきて怪しんで尋ねると、高鳳はようやく気づいた。その後、名高い儒者となり、西唐山中で教えを授け、学問を広めた。

近隣に財産を争って武器を持って闘う者がいた。高鳳が行って仲裁したが、やめないので、頭巾を脱いで頭を地に叩きつけ、固く請うて言った。「仁義と譲り合いを、どうして捨ててしまうのですか!」そこで争う者は感動し、武器を投げ捨てて謝罪した。

高鳳は年老いても志を貫いて倦まず、名声が広く知られるようになった。太守がたびたび召し出して請うたが、免れられないのを恐れ、自分はもともと巫の家系であるから吏となるべきではないと言い、また偽って寡婦の兄嫁と田を争う訴訟を起こし、遂に仕官しなかった。建初年間、将作大匠の任隗が高鳳を直言に推挙し、公車に到着したが、病気と偽って逃げ帰った。自分の財産を全て孤児の兄の子に与えた。身を隠して漁釣にふけり、家で亡くなった。

論じて言う。先大夫の宣侯は、かつて講学の余暇に、逸士の篇に思いを寄せられた。高文通伝に至って、筆を止めて感ずるところがあり、隠者について、その行いを記して論じられた。「古の隠逸は、その風は久しい。潁陽で耳を洗い、禅譲を聞くことを恥じた者。孤竹で長く飢え、周の粟を食むことを恥じた者。あるいは高く棲んで行いを違え、あるいは物に疾んで情を矯める。軌跡は区を異にするが、その去就は一つである。このような人々は、志は青雲の上を凌ぎ、身は泥汚の下に晦ます。心と名さえもまだ顕わにならないのに、ましてや怨みやわずらいなどどうであろうか!体を淵の砂に委ねた者や、弦を鳴らして日影を測った者と比べれば、はるかに遠いのではないか!」

臺佟

臺佟は字を孝威といい、魏郡鄴県の人である。武安山に隠れ、穴を掘って住居とし、薬草を採って自ら生業とした。建初年間、州が召し出したが応じなかった。刺史が巡察に来た時、従事を使者として挨拶に遣わした。臺佟は病気と称して行き、謝辞を述べた。刺史は進物を持って臺佟に会い、「孝威はこのような身の処し方をなさり、大変苦しいでしょう。どうなさいますか。」と言った。臺佟は言った。「佟は幸いにも命を全うし、精神を保ち和を養うことができています。明使君のように詔書を奉じて宣べ、夕べも諸事に慎み恐れるのと比べれば、かえって苦しくはないでしょうか。」遂に去り、隠逸して、二度と会うことはなかった。

韓康

韓康は字を伯休といい、もう一つの名は恬休、京兆郡の霸陵の人である。家は代々名門の姓を称していた。常に名山で薬草を採り、長安市で売り、値段を二つにしないこと三十余年であった。ある時、一人の女性が韓康から薬を買おうとしたが、韓康は値段を変えようとしなかった。女性は怒って言った。「あなたは韓伯休なのですか?(那は語尾の余韻で、音は乃賀の反切。)それで値段を二つにしないのですか?」韓康は嘆いて言った。「私はもともと名声を避けようとしていたのに、今や小さな女子でさえ私のことを知っている。どうして薬を売る必要があろうか。」そこで霸陵の山中に逃げ込んだ。博士や公車が連続して招聘したが、応じなかった。桓帝は玄纁の礼を整え、安車で招聘した。使者が詔を奉じて韓康を訪ねると、韓康はやむを得ず承諾した。安車を辞退し、自ら柴車に乗り、夜明け前に使者より先に出発した。亭に着くと、亭長は韓徴君が通るはずだと聞き、ちょうど人夫と牛を出して道や橋を修理していた。韓康が柴車に乗り幅巾をかぶっているのを見て、田舎の老人だと思い、牛を奪わせた。韓康はすぐに車を解いて牛を渡した。しばらくして使者が到着し、牛を奪った老人こそが徴君であると知った。使者は亭長を殺すよう上奏しようとした。韓康は言った。「これは私が自ら与えたのであって、亭長に何の罪があろうか!」そこでやめた。韓康はその途中で逃げ隠れし、天寿を全うした。

矯慎

矯慎は字を仲彥といい、(『風俗通』に「晋の大夫矯父の後裔である」とある。)扶風郡茂陵の人である。若い頃から黄老の学を好み、山谷に隠遁し、洞穴を住居とし、赤松子や王子喬の導引の術を慕った。馬融や蘇章とは同郷で同時代であり、馬融は才学の広博で名声を顕わし、蘇章は廉潔正直で称えられたが、いずれも矯慎を推して先んじた。

汝南の呉蒼は彼を非常に重んじ、手紙を送ってその志を探った。「仲彥足下:勤めて隠遁の生活を送り、雲に乗る者と泥を行く者とでは、棲むところは異なるが、西風が吹くたびに、どうして嘆かないことがあろうか。(汝南は扶風の東にある。)黄老の言葉によれば、虚に乗じて冥に入り、身を隠して遠く遁れることもあれば、国を治め人を養い、政治に施すこともある。(老子に「虚極に致し、静篤に守る」とあり、また「窈兮冥兮、その中に精有り」とあり、また「大国を治むるは小鮮を亨るが若し」とあり、また「人を愛し国を治むる所以に非ざるなり」とある。)山に登り跡を絶つに至っては、神はその証拠を示さず、人はその験を見ない。私は先生にその可能な方に従っていただきたいと思うが、ご意向はいかがか。昔、伊尹は道を抱いて堯舜の君を待ったものではない。(孟子に、湯が人を遣わして幣を持たせて伊尹を招聘した。伊尹は言った。「私はどうして湯の幣による招聘を受けようか。」やがて翻然と改めて言った。「私が畎畝の中にいるより、この君を堯舜の君にし、この人々を堯舜の人々にする方がよいのではないか。」)今や天下は明るく開け、巣父や許由は箕山に無為のままでおらず、伯夷や叔斉も首陽山に入ったことを悔いている。足下がもし真に龍に騎り鳳凰を弄び、雲の間を翔け遊ぶことができるならば、(『列仙伝』に「簫史は秦の繆公の時代の人。簫を吹くのが上手で、公の娘の弄玉がこれを好み、妻とした。そこで弄玉に鳳凰の鳴き声を教えた。数十年経つと、鳳凰の声を吹くと、鳳凰が来てその屋根に止まった。そこで鳳台を作り、夫婦はその上に住んだ。ある朝、二人とも鳳凰に従って飛び去った」とある。また「陶安公は六安の冶師。しばしば火を使っていたが、火が一度に散って紫色の気が天に衝いた。間もなく赤い雀が冶炉の上に止まり、言った。『安公よ、安公よ、冶は天と通ず。七月七日、赤龍で汝を迎えよう。』その時になると、安公はそれに騎って去った」とある。)狐や兎、燕や雀の敢えて企てることではない。」矯慎は答えなかった。七十余歳になっても、ついに娶ろうとしなかった。後日、突然家に帰り、自分の死ぬ日を言い、その期日になると果たして亡くなった。後世、敦煌で矯慎を見た者があり、前世の人々はこれを怪しみ、ある者は仙人であると言った。

矯慎と同じ郡の馬瑤は、汧山に隠れ、兎網を張ることを仕事とした。(罝は兎網。『毛詩』序に「兎罝は后妃の化である。関雎の化が行われれば、みな徳を好み、賢人が多くなる」とある。故に馬瑤はこれを仕事とした。)彼の住むところは風俗が教化され、百姓は彼を称え、馬牧先生と号した。

戴良

戴良は字を叔鸞といい、汝南郡慎陽の人である。曾祖父の戴遵は字を子高といい、平帝の時に侍御史となった。王莽が帝位を簒奪すると、病気と称して郷里に帰った。家は裕福で、施しを好み、侠気を尊び、食客は常に三四百人いた。当時の人は彼について「関東の大豪、戴子高」と言った。

戴良は若い頃から放縦な節操を持ち、母は驢馬の鳴き声を好んだので、(憙は音虚記の反切。)戴良はよくそれを真似て母を楽しませた。母が亡くなると、兄の伯鸞は喪屋に住み粥をすすり、礼に外れたことはしなかったが、戴良は一人で肉を食べ酒を飲み、悲しみが極まると泣き、二人とも憔悴した様子を見せた。ある人が戴良に尋ねた。「あなたの喪中の行いは、礼に適っていますか。」戴良は言った。「その通りです。礼は情の逸楽を制するためのものです。情がもし逸楽しなければ、何の礼を論じる必要がありましょうか。美味を食べても甘く感じなければ、憔悴の実を招くのです。もし口に味が感じられなければ、食べてもよいのです。」論者は彼を説得できなかった。

戴良は才能が高く達観しており、議論は奇を尚び、世俗を驚かすことが多かった。同郡の謝季孝が尋ねた。「あなたは自らを見て、天下で誰と比べられるとお考えですか。」戴良は言った。「私がもし東魯に長じた仲尼であり、西羌から出た大禹であるならば、(『帝王紀』に「夏の禹は石紐に生まれ、西羌で育ち、西夷の人である」とある。)天下に独歩し、誰と並び立とうか。」

孝廉に推挙されたが、応じなかった。再び司空府に辟召されたが、一年経っても赴かず、州郡が迫ったので、遜った言葉で府に出向くと言い、(遯は遜の意。)妻子を皆連れて、道中に出た後、江夏の山中に逃げ込んだ。悠々自適として仕官せず、天寿を全うした。

初め、戴良の五人の娘は皆賢く、求婚があるたびにすぐに嫁がせ、粗末な衣裳と布の衾、竹の笥と木の履を持たせて送り出した。五人の娘はその教えに従い、皆隠者の風があった。

法真

法真は字を高卿といい、(高は一説に喬。)扶風郡郿県の人で、南郡太守の法雄の子である。学問を好み特定の師に拘らず、内外の図書典籍に広く通じ、関西の大儒となった。弟子で遠方から来た者は、陳留の范冉ら数百人に及んだ。

性質は恬静で寡欲、世間の事に関わらなかった。太守が面会を求めたので、法真は幅巾をかぶって謁見した。太守は言った。「昔、魯の哀公は不肖であったが、孔子は臣として仕えた。太守は虚薄ではあるが、功曹として屈していただき、本朝を光栄に補佐していただきたい。いかがでしょうか。」法真は言った。「明府が礼をもって遇してくださるので、敢えて賓客の末席に同席いたしました。もし私を吏としようとなさるなら、私は北山の北、南山の南に行くつもりです。」太守は恐れおののき、(戄は音紀具の反切。)二度と言えなかった。

公府に辟召され、賢良に推挙されたが、いずれも応じなかった。同郡の田弱が法真を推薦して言った。「処士の法真は、四つの学芸を兼ね備え、(詩・書・礼・楽を指す。)学問は典籍の奥義を究め、幽居して恬泊、楽しみて憂いを忘れ、老子の高き跡を踏もうとしており、玄纁の礼で屈することはありません。臣は聖朝が彼に三公の職を加えられたいと願います。(『毛詩』に「衮職に闕有り」とある。三公を指す。)必ずや清廟の歌を唱え、来儀の鳳凰を招くことができるでしょう。(詩経の清廟に「於穆たる清廟、肅雍として顯相たり、濟濟たる多士、文の德を秉る」とある。尚書に「簫韶九成、鳳皇来儀」とある。)」ちょうど順帝が西巡した時、田弱はまた彼を推薦した。帝は虚心に招こうとし、前後四回招聘した。法真は言った。「私はすでに形を隠し世を遠ざけることができないのに、どうして洗耳の水を飲もうか。」そこで深く隠遁して絶え、ついに屈しなかった。友人郭正は彼を称えて言った。「法真の名は聞くことができるが、その身は得て見ることは難しい。名を逃れようとして名が私に従い、名を避けようとして名が私を追う。まさに百世の師と言えるだろう。」そこで共に石碑を刻んで彼を称え、玄德先生と号した。八十九歳、中平五年に天寿を全うした。

漢陰の老父

漢陰の老父という者は、どこの人か分からない。桓帝の延熹年間、帝が竟陵に行幸し、雲夢を過ぎ、沔水に臨んだ時、百姓は皆見物に来たが、一人の老父だけが耕作をやめなかった。尚書郎の南陽張温はこれを怪しみ、人をやって尋ねさせた。「人々は皆見に来ているのに、老父だけはやめないのはなぜか?」老父は笑って答えなかった。張温は道を下りて百歩進み、自ら話しかけた。老父は言った。「私は田舎者で、そのような言葉は理解できない。お尋ねしたい、天下が乱れたから天子を立てるのか?治まったから天子を立てるのか?天子を立てて天下を父として慈しむのか?それとも天下を酷使して天子に奉仕させるのか?昔、聖王が世を治めた時は、茅葺きの屋根に木のままの梁を用い、万民は安寧であった。(韓非子に言う。「堯舜は梁を削らず、茅葺きを整えなかった。」)今、あなたの君主は、民を労苦させて自らは勝手気ままに、安逸な遊びに耽りはばからない。私はあなたのことを恥ずかしく思う。どうして人に見せようなどと忍びられるのか!」張温は大いに恥じ入った。姓名を尋ねたが、告げずに去った。

陳留の老父

陳留の老父という者は、どこの人か分からない。桓帝の時代、党錮の事件が起こり、外黄県令を務めていた陳留の張升が官を辞して故郷に帰る途中、友人に出会い、共に草を敷いて座り話した。(班は敷くこと。)張升は言った。「私は聞く、趙が鳴犢を殺した時、孔子は黄河に臨んで引き返したと。巣が覆り淵が干上がれば、龍や鳳凰は去って来ない。(解釈は独行伝にある。)今、宦官の輩が日に日に乱し、忠良を陥れている。賢人君子は朝廷を去るべきではなかろうか?徳が建てられず、人に援けられる者がいなければ、(『左伝』に、臧文仲が六と蓼が滅んだと聞き、言った。「皐陶と廷堅の祭祀が絶えてしまうとは。徳が建てられず、人に援けられる者がいない、哀れなことよ!」)命を免れないことになる。どうすればよいのか?」そこで互いに抱き合って泣いた。老父が歩み寄って通り過ぎようとし、杖を立て、ため息をついて言った。「ああ、二つの大夫はどうしてそんなに悲しく泣くのか?龍は鱗を隠さず、鳳凰は羽を隠さない。網羅が高く張られていれば、どこへ行けばよいというのか?泣いたところでどうなるものか!」(『毛詩』に言う。「啜り泣くことよ、嘆いても及ばない。」泣いても及ばないという意味。)二人は話しかけようとしたが、振り返らずに去り、その後は分からなかった。

龐公

龐公という者は、南郡襄陽の人である。峴山の南に住み、(峴山は現在の襄陽県の東にある。『襄陽記』に言う。「諸葛孔明は毎度徳公の家に行くと、独り寝台の下に拝礼し、徳公は最初から止めさせなかった。司馬徳操がかつて徳公を訪ねた時、彼が沔水を渡って先祖の墓参りに行っているのに出会い、徳操はそのまま堂に入り、徳公の妻子を呼んで、急いで黍飯を作るよう言い、徐元直が『私と徳公が話すために来るだろう』と言っていたと伝えた。その妻子は皆堂の下に羅列して拝礼し、走り回って共に準備した。しばらくして徳公が戻り、まっすぐに入って来て相対し、どちらが客か分からなかった。徳操は徳公より十歳年下で、兄として仕え、龐公と呼んだ。だから俗人は龐公を徳公の名だと思ったが、そうではない。」)一度も城や役所に入ったことがなかった。夫婦は互いに賓客のように敬い合った。荊州刺史の劉表が何度も招請したが、屈することができず、自ら訪ねて行った。彼に言った。「一身を保全するのと、天下を保全するのと、どちらがまさっているか?」龐公は笑って言った。「鴻鵠は高い林の上に巣を作り、夕べに棲む所を得る。大亀や鼉は深い淵の下に穴を掘り、夕べに宿る所を得る。進退や行いもまた人の巣穴である。それぞれが棲み処を得ればそれでよい。天下は保つべきものではない。」そこで畝の上で耕作をやめ、妻と子が前で草取りをしていた。劉表が指さして尋ねた。「先生は畑に苦労して住みながら官職と俸禄を受けようとせず、後世に何を子孫に遺すというのか?」(『襄陽記』に言う。「徳公の子は山人という字で、これも名声があり、諸葛孔明の姉を娶り、魏の黄門吏部郎となった。子の渙は、晋の太康年間に牂柯太守となった。」)龐公は言った。「世の人は皆、危険を遺す。今、私だけが安らぎを遺す。遺すものは違うが、何も遺さないわけではない。」劉表はため息をついて去った。後に遂に妻子を連れて鹿門山に登り、薬草を採って戻らなかった。(『襄陽記』に言う。「鹿門山は旧名を蘇嶺山といい、建武年間に、襄陽侯の習郁が山に神祠を建て、二頭の石の鹿を刻み、神道の入り口に挟んで置いた。俗にこれによって鹿門廟と呼び、遂に廟の名を山の名とした。」)

【贊】

贊に言う。江海は遠くに消え、山林は長く去る。遠い性情は風のように疎らで、超逸の心情は雲の上にある。道は虚無に近づいて全うし、事は塵俗に遠ざかって曲がらない。(違は遠ざかること。)