後漢書

巻八十四・列女伝 第七十四

巻八十四・列女伝 第七十四

『詩経』や『書経』に女性の徳について述べた言葉は古い。賢妃が国君の政治を助け、聡明な婦人が一家の道を盛んにし、高潔な士が清廉で純朴な風を広め、貞節な女が明白な節操を示すことは、その美点に違いはないが、世の典籍は皆これを漏らしている。それゆえ、中興以後、その事績をまとめ、列女篇として記述する。馬皇后、鄧皇后、梁皇后はそれぞれ前の紀に別に記載され、梁嫕、李姫はそれぞれ家伝に付されている。このような類は、併せて記さない。私はただ、才能と行いが特に優れている者を探し集めて記すだけで、必ずしも一つの節操に専念していることだけではない。

原文《詩》、《書》之言女德尚矣。若夫賢妃助國君之政,哲婦隆家人之道,高士弘清淳之風,貞女亮明白之節,則其徽美未殊也,而世典咸漏焉。故自中興以後,綜其成事,述為列女篇。如馬、鄧、梁后別見前紀,梁嫕、李姬各附家傳,若斯之類,並不兼書。余但搜次才行尤高秀者,不必專在一操而已。

桓少君

原文桓少君

勃海の鮑宣の妻は、桓氏の娘で、字あざなは少君という。鮑宣はかつて少君の父に学問を習いに行き、父はその清貧で苦労する様子を奇異に思い、娘を妻として与え、嫁入り道具や財貨を大変豊富に送った。鮑宣は喜ばず、妻に言った。「あなたは富貴に生まれ育ち、驕り高ぶり、美しい装飾に慣れているが、私は実に貧しく身分も低い。礼にふさわしくない。」妻は言った。「父は先生が徳を修め、倹約を守る方だとお思いになったので、私めにあなたにお仕えさせたのです。すでにあなたに仕えていますから、ご命令に従うのみです。」鮑宣は笑って言った。「このようにできるなら、それは私の望みだ。」妻はそこで侍女や服飾品をすべて返し、代わりに短い布の衣裳を着て、鮑宣とともに鹿車を引いて故郷に帰った。姑に挨拶の礼を終えると、甕を提げて水を汲みに出た。婦人の道を実践し、郷里で称賛された。

原文勃海鮑宣妻者,桓氏之女也,字少君。宣嘗就少君父學,父奇其清苦,故以女妻之,裝送資賄甚盛。宣不悅,謂妻曰:「少君生富驕,習美飾,而吾實貧賤,不敢當禮。」妻曰:「大人以先生脩德守約,故使賤妾侍執巾櫛。既奉承君子,唯命是從。」宣笑曰:「能如是,是吾志也。」妻乃悉歸侍御服飾,更著短布裳,與宣共挽鹿車歸鄉里。拜姑禮畢,提甕出汲。脩行婦道,鄉邦稱之。

鮑宣は哀帝の時に官が司隸校尉に至った。子の鮑永は、中興の初めに魯郡太守となった。鮑永の子の鮑昱が落ち着いて少君に尋ねた。「太夫人は、まだ鹿車を引いていた時のことを覚えていらっしゃいますか。」答えて言った。「亡き姑がおっしゃいました。『存する時も亡くなることを忘れず、安泰な時も危険を忘れない。』と。どうして忘れられましょうか。」鮑永と鮑昱については、すでに前の伝に記載されている。

原文宣、哀帝時官至司隸校尉。子永,中興初為魯郡太守。永子昱從容問少君曰:「太夫人寧復識挽鹿車時不?」對曰:「先姑有言:『存不忘亡,安不忘危。』吾焉敢忘乎!」永、昱已見前傳。

太原王霸の妻

原文太原王霸妻

太原の王霸の妻は、どこの何氏の娘かはわからない。王霸は若い時から高い節義を立て、光武帝の時、連続して徴召されたが仕官しなかった。王霸についてはすでに逸人伝に記載されている。妻も志操と行いが優れていた。初め、王霸は同郡の令狐子伯と友達だったが、後に子伯は楚の相となり、その子は郡の功曹となった。子伯はそこで子に命じて王霸に書簡を届けさせた。車馬や従者は、ゆったりと落ち着いていた。王霸の子はちょうど野で耕作をしていて、客が来たと聞き、耒を投げ出して帰ってきた。令狐の子を見て、気落ちし恥ずかしさのあまり顔を上げて見ることができなかった。王霸がそれを見て、恥ずかしそうな表情をした。客が去った後、長く横たわって起きなかった。妻が怪しんでその理由を尋ねたが、初めは告げようとしなかった。妻が謝罪を請うて、ようやく言った。「私は子伯とはもともと比べものにならない。さっき彼の子の容貌や服装がとても立派で、立ち居振る舞いが適切なのを見て、我が子はぼさぼさの髪に欠けた歯で、礼儀作法を知らず、客を見て恥ずかしそうな顔をしていた。父子の情愛は深いので、思わず自分を見失ってしまったのだ。」妻は言った。「あなたは若い時から清廉な節義を修め、栄誉や禄を顧みませんでした。今、子伯の貴さとあなたの高潔さと、どちらが優れているでしょうか。どうして昔の志を忘れて、子供や女に恥ずかしがるようなことをなさるのですか。」王霸は飛び起きて笑いながら言った。「なるほど、その通りだ。」そこで共に一生を隠遁して過ごした。

原文太原王霸妻者,不知何氏之女也。霸少立高節,光武時,連徵不仕。霸已見逸人傳。妻亦美志行。初,霸與同郡令狐子伯為友,後子伯為楚相,而其子為郡功曹。子伯乃令子奉書於霸,車馬服從,雍容如也。霸子時方耕於野,聞賓至,投耒而歸,見令狐子,沮怍不能仰視。霸目之,有愧容,客去而久臥不起。妻怪問其故,始不肯告,妻請罪,而後言曰:「吾與子伯素不相若,向見其子容服甚光,舉措有適,而我兒曹蓬髮歷齒,未知禮則,見客而有慚色。父子恩深,不覺自失耳。」妻曰:「君少修清節,不顧榮祿。今子伯之貴孰與君之高?奈何忘宿志而慚兒女子乎!」霸屈起而笑曰:「有是哉!」遂共終身隱遯。

広漢姜詩の妻

原文廣漢姜詩妻

広漢の姜詩の妻は、同郡の龐盛の娘である。姜詩は母に仕えて非常に孝行で、妻も仕えて従順なことが特に篤かった。母は江水を飲むのが好きで、水場は家から六、七里離れていたが、妻は常に流れを遡って水を汲んだ。後に風に遭い、すぐに帰ることができず、母が喉を渇かせたので、姜詩は妻を責めて離縁した。妻はそこで隣の家に寄宿し、昼夜を問わず紡績をして、珍しい食べ物を買い、隣の母に頼んでその意を汲んで姑に贈らせた。このようにして長い間が過ぎた。姑が怪しんで隣の母に尋ねると、隣の母は詳しく答えた。姑は感動し恥じて妻を呼び戻し、恩愛をもって養うことますます慎んだ。彼らの子は後に遠くへ水汲みに行って溺死したが、妻は姑が悲しむのを恐れ、言わずに、学問に行って不在だと偽った。姑は魚の刺身が好きで、また一人では食べられなかったので、夫婦は常に力を合わせて働いて刺身を供え、隣の母を呼んで一緒に食べさせた。家の傍らに突然湧き水が現れ、味は江水のようで、毎朝必ず二匹の鯉魚が出て、常に二人の母の食事に供えることができた。赤眉の賊の散兵が姜詩の里を通りかかり、武器を緩めて通り過ぎ、「大孝を驚かせれば必ず鬼神に触れる」と言った。その年は凶作で、賊は姜詩に米と肉を贈ったが、受け取って埋め、近隣の村落はそのおかげで安全を保った。

原文廣漢姜詩妻者,同郡龐盛之女也。詩事母至孝,妻奉順尤篤。母好飲江水,水去舍六七里,妻常泝流而汲。後值風,不時得還,母渴,詩責而遣之。妻乃寄止鄰舍,晝夜紡績,市珍羞,使鄰母以意自遺其姑。如是者久之,姑怪問鄰母,鄰母具對。姑感慚呼還,恩養愈謹。其子後因遠汲溺死,妻恐姑哀傷,不敢言,而託以行學不在。姑嗜魚鱠,又不能獨食,夫婦常力作供鱠,呼鄰母共之。舍側忽有涌泉,味如江水,每旦輒出雙鯉魚,常以供二母之膳。赤眉散賊經詩里,弛兵而過,曰:「驚大孝必觸鬼神。」時歲荒,賊乃遺詩米肉,受而埋之,比落蒙其安全。

永平三年、孝廉に察挙され、顕宗は詔を下して言った。「大孝の者は朝廷に入れ。すべての推挙された者は一律に公平に扱うように。」これによって皆郎中に任じられた。姜詩はまもなく江陽県令に任命され、任地で死去した。彼が住んで治めた所では、郷人が祠を立てた。

原文永平三年,察孝廉,顯宗詔曰:「大孝入朝,凡諸舉者一聽平之。」由是皆拜郎中。詩尋除江陽令,卒于官。所居治,鄉人為立祀。

趙阿

原文趙阿

沛郡の周郁の妻は、同郡の趙孝の娘で、字は阿という。幼い頃から礼儀作法を習い、婦人の道に通じていたが、周郁は驕り高ぶり、淫らで軽薄で、礼に外れた行いが多かった。周郁の父の周偉が阿に言った。「新婦は賢者の娘だから、道理をもって夫を正すべきだ。周郁が改めないのは、新婦の過ちだ。」阿は拝礼して命を受け、退いて側近に言った。「私には樊姫や衛姫のような行いがないので、舅は私を責められるのだ。私が言っても用いられなければ、舅は必ず私が教えに従わないと言い、罪は私にある。もし私の言うことが用いられれば、それは子が父に背いて妻に従うことになり、罪は彼にある。このように生きることも、何の楽しみがあろうか。」そこで自殺した。誰もがこれを悲しまなかった者はない。

原文沛郡周郁妻者,同郡趙孝之女也,字阿。少習儀訓,閑於婦道,而郁驕淫輕躁,多行無禮。郁父偉謂阿曰:「新婦賢者女,當以道匡夫。郁之不改,新婦過也。」阿拜而受命,退謂左右曰:「我無樊衛二姬之行,故君以責我。我言而不用,君必謂我不奉教令,則罪在我矣。若言而見用,是為子違父而從婦,則罪在彼矣。生如此,亦何聊哉!」乃自殺。莫不傷之。

班昭

原文班昭

扶風の曹世叔の妻は、同郡の班彪の娘で、名は昭、字は恵班、一名を姫という。博学で才能が高かった。曹世叔は早くに亡くなり、節操と行いと法度を守った。兄の班固が『漢書』を著したが、その八表と天文志は完成しないうちに亡くなった。和帝は詔を下して班昭に東観の蔵書閣で続きを完成させた。帝はたびたび彼女を宮中に召し入れ、皇后や諸貴人に師事させ、大家と号した。貢ぎ物や珍しい物があるたびに、詔を下して大家に賦や頌を作らせた。鄧太后が臨朝すると、政治に参与した。宮中への出入りの労をねぎらって、特に子の曹成を関内侯に封じ、官は斉の相に至った。当時『漢書』が世に出始めたが、理解できない者が多く、同郡の馬融が閣の下に伏して、班昭について読み方を学び、後にまた詔を下して馬融の兄の馬続に班昭の後を継いで完成させた。

原文扶風曹世叔妻者,同郡班彪之女也,名昭,字惠班,一名姬。博學高才。世叔早卒,有節行法度。兄固著《漢書》,其八表及天文志未及竟而卒,和帝詔昭就東觀臧書閣踵而成之。帝數召入宮,令皇后諸貴人師事焉,號曰大家。每有貢獻異物,輒詔大家作賦頌。及鄧太后臨朝,與聞政事。以出入之勤,特封子成關內侯,官至齊相。時漢書始出,多未能通者,同郡馬融伏於閣下,從昭受讀,後又詔融兄續繼昭成之。

永初年間、皇太后の兄である大将軍の鄧騭が母の喪に服すため、官職を辞することを上書した。皇太后は許可したくなく、班昭に意見を求めた。班昭は上疏して言った。「伏して考えるに、皇太后陛下は盛んな徳の美しさを身につけ、唐虞の政治を盛んにし、四方の門を開き四方の耳を開いて、狂人の愚かな言葉を採り、草刈りの者の謀慮を受け入れられました。私は愚かで老いた身でありながら、この盛んな明るい時代に身を置き、どうして肝胆を露わにし、万が一にも役立つことを尽くさないことがありましょうか。私は謙譲の風は、これ以上の徳はないと聞いております。ですから、古典はその美しさを述べ、神々は福を降ろすのです。昔、伯夷と叔斉が国を去ったとき、天下はその清廉さと高潔さに服しました。太伯が邠を離れたことは、孔子が三度の譲りと称賛しました。これらは輝かしい美徳を明らかにし、後世に名を揚げたものです。『論語』に『礼譲をもって国を治めることができれば、政治を行うのに何の困難があろうか』とあります。このことから言えば、推譲の誠意は、その効果が遠くまで及ぶのです。今、四人の舅(鄧騭、鄧悝、鄧弘、鄧閶)は忠孝を深く執り、身を引いて退こうとしていますが、四方の辺境がまだ静まっていないことを理由に、拒絶して許可されません。もし後日、今日に比べてわずかでも過ちがあれば、誠に推譲の名声を再び得ることはできないと恐れます。私の見解が及ぶところですので、敢えて死を冒して愚かな心情を尽くします。私の言葉が採用に足らないことを自覚していますが、虫けらのような赤心を示すためです。」皇太后はこれに従って許可した。そこで鄧騭らはそれぞれ郷里の邸宅に戻った。

原文永初中,太后兄大將軍鄧騭以母憂,上書乞身,太后不欲許,以問昭。昭因上疏曰:「伏惟皇太后陛下,躬盛德之美,隆唐虞之政,闢四門而開四聰,采狂夫之瞽言,納芻蕘之謀慮。妾昭得以愚朽,身當盛明,敢不披露肝膽,以效萬一。妾聞謙讓之風,德莫大焉,故典墳述美,神祇降福。昔夷齊去國,天下服其廉高;太伯違邠,孔子稱為三讓。所以光昭令德,揚名于後者也。《論語》曰:『能以禮讓為國,於從政乎何有。』由是言之,推讓之誠,其致遠矣。今四舅深執忠孝,引身自退,而以方垂未靜,拒而不許;如後有毫毛加於今日,誠恐推讓之名不可再得。緣見逮及,故敢昧死竭其愚情。自知言不足采,以示蟲螘之赤心。」太后從而許之。於是騭等各還里第焉。

彼女は『女誡』七篇を作り、内訓の助けとした。その文は次の通りである:

原文作女誡七篇,有助內訓。其辭曰:

馬融はこれを良しとし、妻と娘に習わせた。

原文馬融善之,令妻女習焉。

班昭の夫の妹である曹豊生もまた才知と聡明さがあり、彼女に反論する書簡を書き、その文辞は見るべきものがあった。

原文昭女妹曹豐生,亦有才惠,為書以難之,辭有可觀。

班昭は七十余歳で亡くなり、皇太后は喪服を着て哀悼し、使者を派遣して葬儀を監督させた。彼女の著作には、賦、頌、銘、誄、問、注、哀辞、書、論、上疏、遺令があり、合わせて十六篇である。息子の嫁の丁氏がこれらを編集し、また『大家讚』を作った。

原文昭年七十餘卒,皇太后素服舉哀,使者監護喪事。所著賦、頌、銘、誄、問、注、哀辭、書、論、上疏、遺令,凡十六篇。子婦丁氏為撰集之,又作大家讚焉。

楽羊子の妻

原文樂羊子妻

河南の楽羊子の妻は、どの家の娘かはわからない。羊子がかつて道を歩いていると、落とし金一餅を拾い、帰って妻に渡した。妻は言った。「私は志ある者は盗泉の水を飲まず、清廉な者は嗟来の食を受け取らないと聞いています。ましてや落とし物を拾って利益を求めるなど、自分の行いを汚すことではありませんか!」羊子は大いに恥じ、金を野原に捨て、遠くへ師を尋ね学問に出かけた。一年して帰ってくると、妻はひざまずいてその理由を尋ねた。羊子は言った。「長く旅をして懐かしくなり、他に変わりはない。」妻は刀を取り機織り機に近づき言った。「この織物は蚕の繭から生まれ、機織り機で完成します。一本の糸から積み重ねて、ついには寸となり、寸を積み重ねてやめなければ、ついに丈や匹となります。今もしこの織物を断ち切れば、完成した功績を失い、時間を無駄にすることになります。あなたが学問を積むのは、毎日自分に欠けているものを知り、立派な徳を成就させるためです。もし中途で帰ってくるなら、この織物を断ち切るのと何が違うでしょうか?」羊子はその言葉に感じ入り、再び戻って学業を終え、ついに七年間帰らなかった。妻は常に自ら進んで姑を養い、また遠くの羊子に食糧を送った。

原文河南樂羊子之妻者,不知何氏之女也。羊子嘗行路,得遺金一餅,還以與妻。妻曰:「妾聞志士不飲盜泉之水,廉者不受嗟來之食,況拾遺求利,以污其行乎!」羊子大慚,乃捐金於野,而遠尋師學。一年來歸,妻跪問其故。羊子曰:「久行懷思,無它異也。」妻乃引刀趨機而言曰:「此織生自蠶繭,成於機杼,一(絲)〔𢇇〕而累,以至於寸,累寸不已,遂成丈匹。今若斷斯織也,則捐失成功,稽廢時月。夫子積學,當日知其所亡,以就懿德。若中道而歸,何異斷斯織乎?」羊子感其言,復還終業,遂七年不反。妻常躬勤養姑,又遠饋羊子。

かつて他の家の鶏が誤って庭に入ってきたことがあり、姑が盗んで殺して食べた。妻は鶏の前に座っても食事せずに泣いた。姑が怪しんで理由を尋ねると、妻は言った。「貧しい暮らしをしていることを悲しみ、食事に他の肉を出させてしまったからです。」姑は結局その鶏を捨てた。

原文嘗有它舍雞謬入園中,姑盜殺而食之,妻對雞不餐而泣。姑怪問其故。妻曰:「自傷居貧,使食有它肉。」姑竟棄之。

後にある盗賊が妻を犯そうとし、まずその姑を脅迫した。妻はそれを聞き、刀を持って出て行った。盗賊は言った。「お前の刀を捨てて私に従えば命は助ける、従わなければお前の姑を殺す。」妻は天を仰いで嘆き、刀を上げて首を刎ねて死んだ。盗賊もその姑を殺さなかった。太守はこれを聞き、すぐに賊を捕らえて殺し、妻に絹織物を賜り、礼をもって葬り、「貞義」と称えた。

原文後盜欲有犯妻者,乃先劫其姑。妻聞,操刀而出。盜人曰:「釋汝刀從我者可全,不從我者,則殺汝姑。」妻仰天而歎,舉刀刎頸而死。盜亦不殺其姑。太守聞之,即捕殺賊盜,而賜妻縑帛,以禮葬之,號曰「貞義」。

李穆姜

原文李穆姜

漢中の程文矩の妻は、同郡の李法の姉で、字は穆姜という。二人の男子がいたが、前妻の子が四人いた。文矩は安衆県令となり、任地で亡くなった。四人の子は母が実母ではないため、憎しみと誹謗が日々積もっていったが、穆姜は慈愛に満ち温厚で仁徳があり、養育の情はますます厚く、衣食の供給はすべて実子の倍以上であった。ある人が母に言った。「四人の子は不孝も甚だしい、どうして別居させて遠ざけないのですか?」彼女は答えた。「私はまさに義をもって導き、彼らが自ら善に移るようにしようとしているのです。」前妻の長子の興が重病にかかったとき、母は自然に哀れみの情を起こし、自ら薬と食事を調え、恩情は篤く密接であった。興の病気は長引いてようやく治った。そこで彼は三人の弟を呼び言った。「継母は慈愛で仁徳があり、天性のものです。我々兄弟は恩養を知らず、心は禽獣のようでした。母の道がますます盛んであるのに、我々の過ちと悪行もまたすでに深いのです!」そこで三人の弟を連れて南鄭の役所に行き、母の徳を述べ、自分の過ちを陳べ、刑罰を受けることを乞うた。県は郡にこれを報告し、郡守はその母を表彰し、家の徭役ようえきを免除し、四人の子を帰宅させ、改心を許した。その後、訓導はますます明らかになり、皆良き士人となった。

原文漢中程文矩妻者,同郡李法之姊也,字穆姜。有二男,而前妻四子。文矩為安眾令,喪於官。四子以母非所生,憎毀日積,而穆姜慈愛溫仁,撫字益隆,衣食資供皆兼倍所生。或謂母曰:「四子不孝甚矣,何不別居以遠之?」對曰:「吾方以義相導,使其自遷善也。」及前妻長子興遇疾困篤,母惻隱自然,親調藥膳,恩情篤密。興疾久乃瘳,於是呼三弟謂曰:「繼母慈仁,出自天受。吾兄弟不識恩養,禽獸其心。雖母道益隆,我曹過惡亦已深矣!」遂將三弟詣南鄭獄,陳母之德,狀己之過,乞就刑辟。縣言之於郡,郡守表異其母,蠲除家徭,遣散四子,許以脩革,自後訓導愈明,並為良士。

穆姜は八十余歳で亡くなった。臨終に際して諸子に命じて言った。「私の弟の伯度は、知恵が通じた人物である。彼の論じた薄葬は、その道理は極まっている。また臨終の遺令は、賢人聖人の法である。お前たちはこれに従い、世俗と同じにせず、私の負担を増やさないように。」諸子はこれに従った。

原文穆姜年八十餘卒。臨終敕諸子曰:「吾弟伯度,智達士也。所論薄葬,其義至矣。又臨亡遺令,賢聖法也。令汝曹遵承,勿與俗同,增吾之累。」諸子奉行焉。

曹娥

原文曹娥

孝女の曹娥は、会稽郡上虞県の人である。父の盱は、弦歌ができ、巫祝をしていた。漢安二年五月五日、県の川で逆流する波の中を神を迎えて舞い、溺死し、遺体は見つからなかった。娥は十四歳で、川沿いを号泣し、昼夜を問わず声を絶やさず、十七日目についに川に身を投げて死んだ。元嘉元年、県長の度尚が娥を江南の道端に改葬し、碑を建立した。

原文孝女曹娥者,會稽上虞人也。父盱,能絃歌,為巫祝。漢安二年五月五日,於縣江泝濤(迎)婆娑〔迎〕神,溺死,不得屍骸。娥年十四,乃沿江號哭,晝夜不絕聲,旬有七日,遂投江而死。至元嘉元年,縣長度尚改葬娥於江南道傍,為立碑焉。

呂榮

原文呂榮

呉許升の妻は、呂氏の娘で、字は榮である。許升は若い頃博徒で、品行を顧みず、榮は常に自ら家業に勤め、姑を養った。たびたび許升に学問を修めるよう勧め、彼に良くないことがあると、涙を流して諫めた。榮の父は許升に憤りを募らせ、榮を呼び出して再嫁させようとした。榮は嘆いて言った。「運命がこうなった以上、道義として離れることはできません!」ついに帰ろうとしなかった。許升は感激して自らを奮い立たせ、師を求めて遠くに学びに行き、ついに名声を得た。まもなく本州から召し出され、寿春へ向かう途中、盗賊に殺害された。刺史の尹耀が盗賊を捕らえた。榮は路上で遺体を迎え、それを聞いて州役所に行き、仇敵を自らの手で裁くことを願い出た。尹耀はそれを許した。榮は自らその首を斬り、許升の霊前に捧げた。後に郡が賊に襲われ、賊が榮に乱暴しようとした。榮は垣根を越えて逃げ、賊は刀を抜いて追った。賊は言った。「俺に従えば生きられる、従わなければ死ぬ。」榮は言った。「道義として、この身を賊虜に辱められることはありません!」賊は彼女を殺した。その日は激しい風雨で、雷鳴が轟き暗闇に包まれた。賊は恐れ慄いて頭を地に叩きつけ謝罪し、彼女を丁重に葬った。

原文吳許升妻者,呂氏之女也,字榮。升少為博徒,不理操行,榮嘗躬勤家業,以奉養其姑。數勸升修學,每有不善,輒流涕進規。榮父積忿疾升,乃呼榮欲改嫁之。榮歎曰:「命之所遭,義無離貳!」終不肯歸。升感激自厲,乃尋師遠學,遂以成名。尋被本州辟命,行至壽春,道為盜所害。刺史尹耀捕盜得之。榮迎喪於路,聞而詣州,請甘心讎人。耀聽之。榮乃手斷其頭,以祭升靈。後郡遭寇賊,賊欲犯之,榮踰垣走,賊拔刀追之。賊曰:「從我則生,不從我則死。」榮曰:「義不以身受辱寇虜也!」遂殺之。是日疾風暴雨,雷電晦冥,賊惶懼叩頭謝罪,乃殯葬之。

馬倫

原文馬倫

汝南の袁隗の妻は、扶風の馬融の娘である。字は倫。袁隗については前の伝に既出。倫は若い頃から才知と弁舌に優れていた。馬融の家は代々豊かで豪勢で、嫁入り道具は非常に盛大であった。婚礼が終わると、袁隗が彼女に尋ねた。「妻は箕と箒を捧げて家事をするだけなのに、どうしてこれほどまでに珍しく華美なのだ?」彼女は答えた。「慈しむ親が愛情をかけてくださったので、命令に逆らうことはできませんでした。あなたが鮑宣や梁鴻の高潔さを慕われるなら、私も少君や孟光のように仕えましょう。」袁隗はまた言った。「弟が兄より先に挙げられるのは、世間の笑いものだ。今、姉がまだ嫁いでいないのに、妹が先に行くのは良いことか?」彼女は答えた。「私の姉は品行が高く並外れており、まだ良き配偶者に巡り会っておりません。私のような卑しく浅はかな者とは違い、適当に済ませるわけにはいかないのです。」また尋ねた。「南郡太守(あなたの父上)は学問で道の奥義を極め、文章では文壇の宗匠とされていますが、就任した官職では、いつも財貨のために評判を落としています。なぜでしょうか?」彼女は答えた。「孔子のような大聖人でも、武叔の誹謗を免れませんでした。子路のような極めて賢い者でも、なお伯寮の訴えがありました。父上がこのような目に遭われるのも、当然のことでしょう。」袁隗は黙り込み、言い負かすことができず、帳の外で聞いていた者たちは恥じ入った。袁隗が当時寵愛され高位にあったように、倫もまた世に名を知られた。六十余歳で亡くなった。

原文汝南袁隗妻者,扶風馬融之女也。字倫。隗已見前傳。倫少有才辯。融家世豐豪,裝遣甚盛。及初成禮,隗問之曰:「婦奉箕箒而已,何乃過珍麗乎?」對曰:「慈親垂愛,不敢逆命。君若欲慕鮑宣、梁鴻之高者,妾亦請從少君、孟光之事矣。」隗又曰:「弟先兄舉,世以為笑。今處姊未適,先行可乎?」對曰:「妾姊高行殊,未遭良匹,不似鄙薄,苟然而已。」又問曰:「南郡君學窮道奧,文為辭宗,而所在之職,輒以貨財為損,何邪?」對曰:「孔子大聖,不免武叔之毀;子路至賢,猶有伯寮之愬。家君獲此,固其宜耳。」隗默然不能屈,帳外聽者為慚。隗既寵貴當時,倫亦有名於世。年六十餘卒。

倫の妹の芝もまた、才知と節義があった。幼くして親を亡くし、成長してそのことを思い慕い、『申情賦』を作ったという。

原文倫妹芝,亦有才義。少喪親長而追感,乃作申情賦云。

趙娥

原文趙娥

酒泉の龐淯の母は、趙氏の娘で、字は娥である。父が同県の者に殺され、娥には三人の兄弟がいたが、その時みな病気で亡くなっていた。仇は喜び自らを祝い、もはや自分に報復する者はいないと思った。娥はひそかに憤りを抱き、密かに刀を用意し、常に帷を垂らした車に乗って仇の家を待ち伏せした。十数年経っても果たせなかった。後に都亭で仇に出会い、刺し殺した。そして自ら県に出頭し、言った。「父の仇は報いました。どうか刑罰をお与えください。」禄福県の長である尹嘉はその義を認め、印綬を解いて彼女と共に逃亡しようとした。娥は行こうとしなかった。言った。「怨みが晴れて身が死ぬのは、私の本分です。罪を裁き獄を治めるのは、あなたの常の務めです。どうして苟いやしくも生き延びて、公の法を曲げることができましょうか!」後に赦令にあって罪を免れた。州郡は彼女の里門を顕彰した。太常の張奐は賞賛して嘆き、束帛を贈って礼を尽くした。

原文酒泉龐淯母者,趙氏之女也,字娥。父為同縣人所殺,而娥兄弟三人,時俱病物故,讎乃喜而自賀,以為莫己報也。娥陰懷感憤,乃潛備刀兵,常帷車以候讎家。十餘年不能得。後遇於都亭,刺殺之。因詣縣自首。曰:「父仇已報,請就刑戮。」祿〔福〕長尹嘉義之,解印綬欲與俱亡。娥不肯去。曰:「怨塞身死,妾之明分;結罪理獄,君之常理。何敢苟生,以枉公法!」後遇赦得免。州郡表其閭。太常張奐嘉歎,以束帛禮之。

劉長卿の妻桓氏

原文劉長卿妻桓氏

沛の劉長卿の妻は、同郡の桓鸞の娘である。桓鸞については前の伝に既出。一男を生み五歳の時に長卿が亡くなった。妻は嫌疑を避けるため、実家に帰ろうとしなかった。息子が十五歳になった時、今度はその息子が若死にした。妻は(再嫁を迫られることを)免れられないと考え、あらかじめ自分の耳を切り落として誓いを立てた。同族の婦人たちは彼女を哀れみ、共に言った。「あなたの家には特に他意はないのです。仮にあったとしても、姑や姉妹を通じて誠意を示すこともできますのに、どうしてこれほどまでに義を重んじて身を軽んじるのですか!」彼女は答えた。「昔、私の先君(父)は五更(高官の名誉職)となり、儒学の宗匠として学び、帝師として尊ばれました。五更以来、代々その地位は廃されることなく、男子は忠孝で顕れ、女子は貞順で称えられてきました。『詩経』に『爾が祖を辱しむること無く、厥の徳を聿つとめて修めよ』とあります。それゆえ、あらかじめ自ら刑罰(耳切り)を加えて、私の心情を明らかにしたのです。」沛の相である王吉がその高潔な行いを上奏し、その里門を顕彰し、「行義桓釐」と号した。県や邑で祭祀があれば必ず膰(祭肉)が贈られた。

原文沛劉長卿妻者,同郡桓鸞之女也。鸞已見前傳。生一男五歲而長卿卒,妻防遠嫌疑,不肯歸寧。兒年十五,晚又夭歿。妻慮不免,乃豫刑其耳以自誓。宗婦相與愍之,共謂曰:「若家殊無它意;假令有之,猶可因姑姊妹以表其誠,何貴義輕身之甚哉!」對曰:「昔我先君五更,學為儒宗,尊為帝師。五更已來,歷代不替,男以忠孝顯,女以貞順稱。《詩》云:『無忝爾祖,聿脩厥德。』是以豫自刑翦,以明我情。」沛相王吉上奏高行,顯其門閭,號曰「行義桓釐」,縣邑有祀必膰焉。

皇甫規の妻

原文皇甫規妻

安定の皇甫規の妻は、どこの何氏の娘かはわからない。規は最初の妻に先立たれ、後妻として彼女を娶った。妻は文章をよくし、草書ができ、時に規に代わって書簡の返事を書き、人々はその巧みさに驚いた。規が亡くなった時、妻はまだ盛りで、容色も美しかった。後に董卓が相国となり、彼女の名を聞きつけ、軿輜車百台、馬二十匹、奴婢や金銭布帛を道いっぱいに並べて聘礼として贈り、娶ろうとした。妻は喪服を着て董卓の門に赴き、跪いて自ら願い出た。その言葉は非常に悲痛であった。董卓は傅婢や侍者に命じて皆刀を抜いて彼女を取り囲ませ、言った。「わしの威令と教化は、四海を風靡させようとするものだ。どうして一人の婦人に及ばないことがあろうか!」妻は免れられないと悟り、立ち上がって董卓を罵った。「あなたは羌胡の種族で、天下を毒害してもまだ足りないのですか!私の祖先は、清らかな徳を代々伝えてきました。皇甫氏(夫)は文武に優れた才を持ち、漢の忠臣でした。あなたはかつて彼の趣意を受けて走り回る小役人ではなかったのですか?よくもあなたの主君の夫人に非礼を働こうとしますね!」董卓は車を庭に引き入れ、彼女の首を軶くびきに縛り付け、鞭や棒で打ち据えた。妻は杖を持つ者に言った。「どうしてもっと強く打たないのか?早く死なせてくれるのが恩恵だ。」遂に車の下で死んだ。後世の人々はその姿を絵に描き、「礼宗」と称したという。

原文安定皇甫規妻者,不知何氏女也。規初喪室家,後更娶之。妻善屬文,能草書,時為規荅書記,眾人怪其工。及規卒時,妻年猶盛,而容色美。後董卓為相國,承其名,娉以軿輜百乘,馬二十匹,奴婢錢帛充路。妻乃輕服詣卓門,跪自陳請,辭甚酸愴。卓使傅奴侍者悉拔刀圍之,而謂曰:「孤之威教,欲令四海風靡,何有不行於一婦人乎!」妻知不免,乃立罵卓曰:「君羌胡之種,毒害天下猶未足邪!妾之先人,清德奕世。皇甫氏文武上才,為漢忠臣。君親非其趣使走吏乎?敢欲行非禮於爾君夫人邪!」卓乃引車庭中,以其頭縣軶,鞭撲交下。妻謂持杖者曰:「何不重乎?速盡為惠。」遂死車下。後人圖畫,號曰「禮宗」云。

荀采

原文荀采

南陽の陰瑜の妻は、潁川の荀爽の娘である。名は采、字は女荀。聡明で機敏、才芸があった。十七歳で陰氏に嫁いだ。十九歳で一女を産み、陰瑜が亡くなった。采はまだ若く豊かな容色で、常に実家から再嫁を迫られることを憂い、自らを厳重に防衛した。後日、同郡の郭奕が妻に先立たれた。荀爽は采を郭奕に嫁がせようとし、采が重病だと偽って、采を呼び寄せた。やむなく実家に帰った采は、懐に刃物を隠して誓いを立てた。荀爽は傅婢に命じてその刃を奪い取らせ、抱きかかえて車に乗せた。それでも彼女が激しく憤ることを憂い、警護を非常に厳重にした。采が郭氏の家に着くと、うれしそうな様子を装い、側近たちに言った。「私はもともと陰氏と同穴に葬られることを志していましたが、逼迫を免れず、ここまで来てしまいました。平素の心情が遂げられないのは、どうしたらよいでしょう?」そして使いの者に命じて四つの灯りを灯させ、盛装し、郭奕を入室させて面会し、共に語り合い、言葉を絶やさなかった。郭奕は彼女を敬い畏れ、ついに強いることができず、夜明けになって退出した。采は側近たちに湯浴みの用意を命じた。部屋に入って戸を閉めると、しばらく侍女たちに退くよう命じ、扉に粉で「尸還陰(遺体は陰氏に返せ)」と書いた。「陰」の字を書き終える前に、誰か来るのを恐れ、衣の帯で首を吊った。側近たちは彼女の様子を軽く見て気に留めず、見に行った時には既に息絶えていた。当時の人々はこれを悲しんだ。

原文南陽陰瑜妻者,潁川荀爽之女也,名采,字女荀。聰敏有才蓺。年十七,適陰氏。十九產一女,而瑜卒。采時尚豐少,常慮為家所逼,自防禦甚固。後同郡郭奕喪妻,爽以采許之,因詐稱病篤,召采。既不得已而歸,懷刃自誓。爽令傅婢執奪其刃,扶抱載之,猶憂致憤激,敕衛甚嚴。女既到郭氏,乃偽為歡悅之色,謂左右曰:「我本立志與陰氏同穴,而不免逼迫,遂至於此,素情不遂,柰何?」乃命使建四燈,盛裝飾,請奕入相見,共談,言辭不輟。(亦)〔奕〕敬憚之,遂不敢逼,至曙而出。采因敕令左右辨浴。既入室而掩戶,權令侍人避之,以粉書扉上曰:「尸還陰。」「陰」字未及成,懼有來者,遂以衣帶自縊。左右翫之不為意,比視,已絕,時人傷焉。

趙媛姜

原文趙媛姜

犍為の盛道の妻は、同郡の趙氏の娘で、字は媛姜である。建安五年、益州地方が乱れ、盛道が兵を集めて挙兵したが、事は失敗し、夫婦ともに捕らえられて、死罪に当たることになった。媛姜は夜中に盛道に告げて言った。『法には定められた刑罰があり、生き延びる望みは必ずありません。あなたは早く密かに逃げて、家門を再興なさいませ。私は自ら牢に留まり、あなたの代わりに罪を引き受けましょう。』盛道はためらって従わなかった。媛姜はそこで盛道の手枷足枷を解き、食糧と金品を用意した。子の翔は当時五歳で、盛道に連れて行かせて逃がした。媛姜は盛道に代わって夜番を務め、尋問にも的確に応対した。盛道がすでに遠くへ行ったと見計らうと、ようやく実情を役人に告げ、その場で殺された。盛道父子は赦令に会って帰ることができた。盛道は彼女の義に感じ入り、生涯再婚しなかった。

原文犍為盛道妻者,同郡趙氏之女也,字媛姜。建安五年,益部亂,道聚眾起兵,事敗,夫妻執繫,當死。媛姜夜中告道曰:「法有常刑,必無生望,君可速潛逃,建立門戶,妾自留獄,代君塞咎。」道依違未從。媛姜便解道桎梏,為齎糧貨。子翔時年五歲,使道攜持而走。媛姜代道持夜,應對不失。度道已遠,乃以實告吏,應時見殺。道父子會赦得歸。道感其義,終身不娶焉。

叔先雄

原文叔先雄

孝女の叔先雄は、犍為の人である。父の泥和は、永建の初年に県の功曹となった。県令が泥和を遣わして文書を持たせ巴郡太守に謁見させたところ、船に乗って急流に落ちて死亡し、遺体は帰ってこなかった。雄は悲しみ怨み痛みを感じ、昼夜を問わず号泣し、生きる気力もなく、常に身を投げることを考えていた。生んだ男女二人の子は、ともに数歳であったが、雄はそれぞれ袋を作り、珠や腕輪を入れて子供に結び付け、幾度も別れの言葉をかけた。家族は常に彼女を監視していたが、百日ほど経って少し警戒が緩んだので、雄は小船に乗り、父が落ちた場所で慟哭し、ついに自ら水に飛び込んで死んだ。弟の賢は、その夜、雄が夢に現れて告げるのを見た。『六日後、父とともに現れるだろう。』その日を待って見張っていると、果たして父と抱き合ったまま、江の上に浮かんでいた。郡と県は上表して報告し、雄のために碑を立て、その姿を絵に描かせた。

原文孝女叔先雄者,犍為人也。父泥和,永建初為縣功曹。縣長遣泥和拜檄謁巴郡太守,乘船墯湍水物故,尸喪不歸。雄感念怨痛,號泣晝夜,心不圖存,常有自沈之計。所生男女二人,並數歲,雄乃各作囊,盛珠環以繫兒,數為訣別之辭。家人每防閑之,經百許日後稍懈,雄因乘小船,於父墯處慟哭,遂自投水死。弟賢,其夕夢雄告之:「卻後六日,當共父同出。」至期伺之,果與父相持,浮於江上。郡縣表言,為雄立碑,圖象其形焉。

蔡文姫

原文蔡文姬

陳留の董祀の妻は、同郡の蔡邕の娘で、名は琰、字は文姫である。学識が広く才知と弁舌に優れ、また音律に妙を得ていた。河東の衛仲道に嫁いだ。夫が亡くなり子もなく、実家に戻っていた。興平年間、天下が乱れ、文姫は胡の騎兵に捕らえられ、南匈奴の左賢王のもとに没し、胡の地で十二年を過ごし、二人の子を生んだ。曹操はもともと蔡邕と親しく、彼に後継ぎがないのを哀れに思い、使者を遣わして金と璧で彼女を贖い出し、改めて董祀に嫁がせた。

原文陳留董祀妻者,同郡蔡邕之女也,名琰,字文姬。博學有才辯,又妙於音律。適河東衛仲道。夫亡無子,歸寧于家。興平中,天下喪亂,文姬為胡騎所獲,沒於南匈奴左賢王,在胡中十二年,生二子。曹操素與邕善,痛其無嗣,乃遣使者以金璧贖之,而重嫁於祀。

董祀は屯田都尉であったが、法を犯して死罪に当たることになった。文姫は曹操のもとに赴いて赦しを請うた。その時、公卿や名士、遠方からの使者や駅伝の者が座に満ちていた。曹操は賓客に言った。『蔡伯喈の娘が外にいる。今、諸君にお目にかけよう。』文姫が進み出ると、髪は乱れたまま徒歩で、叩頭して罪を請い、言葉は明晰で理路整然とし、趣旨は非常に悲痛で哀れであった。皆、顔色を変えた。曹操は言った。『確かに哀れではあるが、判決文はすでに送り出してしまった。どうしようか。』文姫は言った。『明公には厩舎に馬が万匹、勇猛な兵士が林のごとくおられます。どうして一騎の早馬を惜しんで、瀕死の命を救わないのでしょうか。』曹操はその言葉に感じ入り、董祀の罪を取り消して赦した。時は寒さに向かっていたので、頭巾と靴下を賜った。曹操はそこで尋ねて言った。『ご夫人家には以前多くの書籍があったと聞くが、まだ覚えているか。』文姫は言った。『かつて亡父から賜った書物は四千巻ほどありましたが、離散と苦難の中で、残っているものはありません。今、暗誦して覚えているのは、わずか四百余篇だけです。』曹操は言った。『今、十人の役人をあなたのもとに遣わして書き取らせよう。』文姫は言った。『私は男女の別があり、礼では直接手渡しをしないと聞いております。紙と筆をお与えください。楷書か草書かはお命じのままに。』そこで書物を書き写して送ったが、文章に抜け落ちや誤りはなかった。

原文祀為屯田都尉,犯法當死,文姬詣曹操請之。時公卿名士及遠方使驛坐者滿堂,操謂賓客曰:「蔡伯喈女在外,今為諸君見之。」及文姬進,蓬首徒行,叩頭請罪,音辭清辯,旨甚酸哀,眾皆為改容。操曰:「誠實相矜,然文狀已去,柰何?」文姬曰:「明公廄馬萬匹,虎士成林,何惜疾足一騎,而不濟垂死之命乎!」操感其言,乃追原祀罪。時且寒,賜以頭巾履襪。操因問曰:「聞夫人家先多墳籍,猶能憶識之不?」文姬曰:「昔亡父賜書四千許卷,流離塗炭,罔有存者。今所誦憶,裁四百餘篇耳。」操曰:「今當使十吏就夫人寫之。」文姬曰:「妾聞男女之別,禮不親授。乞給紙筆,真草唯命。」於是繕書送之,文無遺誤。

後に乱離を感傷し、悲憤を追懐して、詩二章を作った。その詞は次のとおりである。

原文後感傷亂離,追懷悲憤,作詩二章。其辭曰:

漢の末に権柄を失い、董卓が天の常を乱す。志は簒奪弑逆を図り、先ず諸々の賢良を害す。逼迫して旧邦に遷し、主を擁して以て自ら強し。海内義師興り、共に不祥を討たんと欲す。卓の衆東下し来たり、金甲日光を耀かす。平土の人脆弱なり、来たる兵皆胡羌。野を狩り城邑を囲み、向かう所悉く破亡す。斬るに孑遺無く、尸骸相い牚拒す。馬の辺に県ぐ男の頭、馬の後に載す婦女。長駆して西に関に入り、迥路険にして且つ阻し。還り顧みれば邈として冥冥、肝脾爛れ腐るが如し。略する所万計有り、屯聚せしむるを得ず。或いは骨肉俱にする有り、言わんと欲して敢えて語らず。意を失う機微の間、輒ち言う『斃せよ降虜』。要は当に亭刃を以てすべし、我曹汝を活かさず。豈に復た性命を惜しまんや、其の詈罵に堪えず。或いは便ち棰杖を加え、毒痛参并して下る。旦には則ち号泣して行き、夜は則ち悲吟して坐す。死なんと欲して得ず、生かんと欲して一も可ならず。彼の蒼者何の辜ぞ、乃ち此の厄禍に遭う!辺荒華と異なり、人俗義理少なし。処する所霜雪多く、胡風春夏に起こる。翩翩として我が衣を吹き、肅肅として我が耳に入る。時を感じて父母を念い、哀歎窮まり無し。客外より来たる有り、之を聞きて常に歓喜す。迎えて其の消息を問えば、輒ち復た郷里に非ず。邂逅時願に徼り、骨肉来たりて己を迎う。己に自ら解免を得たり、当に復た兒子を棄つべし。天属人心に綴り、別を念えば会期無し。存亡永く乖隔し、之と辞するに忍びず。児前に我が頸を抱き、母の何の之かせんと欲するを問う。『人言う母当に去るべしと、豈に復た還る時有らんや。阿母常に仁惻たり、今何ぞ更に慈しまざる?我未だ成人せず、奈何か顧み思わざる!』此を見て五内崩れ、恍惚として狂癡を生ず。号泣して手に撫摩し、発たんとすと雖も復た疑い回る。兼ねて同時の輩有り、相送りて離別を告ぐ。我の独り帰るを得るを慕い、哀叫の声摧裂す。馬は立って踟躕し、車は転轍せず。観る者皆歔欷し、行路も亦嗚咽す。去り去りて情恋を割き、遄征日を遐邁す。悠悠たる三千里、何の時か復た交会せん?我が出腹の子を念い、匈臆摧敗と為る。既に至れば家人尽き、又復た中外無し。城郭山林と為り、庭宇荊艾を生ず。白骨誰なるかを知らず、従横覆蓋無し。門を出ずれば人声無く、豺狼号して且つ吠ゆ。煢煢として孤景に対し、怛吒肝肺を糜す。高きに登り遠く眺望すれば、魂神忽ち飛逝す。奄として寿命尽きたるが若く、旁人相い寬大す。復た彊いて視息し、生くると雖も何をか聊賴せん!命を新人に託し、心を竭くして自ら勗厲す。流離鄙賤と成り、常に復た捐廢せんことを恐る。人生幾何の時ぞ、憂いを懐いて終年歳!

原文漢季失權柄,董卓亂天常。志欲圖篡弒,先害諸賢良。逼迫遷舊邦,擁主以自彊。海內興義師,欲共討不祥。卓眾來東下,金甲耀日光。平土人脆弱,來兵皆胡羌。獵野圍城邑,所向悉破亡。斬無孑遺,尸骸相牚拒。馬邊縣男頭,馬後載婦女。長驅西入關,迥路險且阻。還顧邈冥冥,肝脾為爛腐。所略有萬計,不得令屯聚。或有骨肉俱,欲言不敢語。失意機微閒,輒言斃降虜。要當以亭刃,我曹不活汝。豈復惜性命,不堪其詈罵。或便加棰杖,毒痛參并下。旦則號泣行,夜則悲吟坐。欲死不能得,欲生無一可。彼蒼者何辜,乃遭此厄禍!邊荒與華異,人俗少義理。處所多霜雪,胡風春夏起。翩翩吹我衣,肅肅入我耳。感時念父母,哀歎無窮已。有客從外來,聞之常歡喜。迎問其消息,輒復非鄉里。邂逅徼時願,骨肉來迎己。己得自解免,當復棄兒子。天屬綴人心,念別無會期。存亡永乖隔,不忍與之辭。兒前抱我頸,問母欲何之。「人言母當去,豈復有還時。阿母常仁惻,今何更不慈?我尚未成人,柰何不顧思!」見此崩五內,恍惚生狂癡。號泣手撫摩,當發復回疑。兼有同時輩,相送告離別。慕我獨得歸,哀叫聲摧裂。馬為立踟躕,車為不轉轍。觀者皆歔欷,行路亦嗚咽。去去割情戀,遄征日遐邁。悠悠三千里,何時復交會?念我出腹子,匈臆為摧敗。既至家人盡,又復無中外。城郭為山林,庭宇生荊艾。白骨不知誰,從橫莫覆蓋。出門無人聲,豺狼號且吠。煢煢對孤景,怛吒糜肝肺。登高遠眺望,魂神忽飛逝。奄若壽命盡,旁人相寬大。為復彊視息,雖生何聊賴!託命於新人,竭心自勗厲。流離成鄙賤,常恐復捐廢。人生幾何時,懷憂終年歲!

その第二章は次のとおりである。

原文其二章曰:

ああ、薄幸な私は世の患いに遭い、宗族は滅びて門戸は孤単。身は捕らわれて西関に入り、険阻を経て羌蛮の地へ。山谷は果てしなく道は遥か、東を顧みてただ悲嘆する。暗くなれば眠ろうとしても安らかでなく、飢えれば食べようとしても食事が喉を通らず、常に涙を流して目尻は乾かず、志節も薄く死の難を思えば、たとえ生きながらえても面目ない。かの地は遠く陽の精気から離れ、陰気が凝って夏に雪が降り、沙漠は覆われて塵は暗く、草木あれど春に栄えず。人は禽獣のごとく臭く腥いものを食らい、言葉は異様で姿は奇怪。歳は暮れて時は過ぎ行き、夜は悠長で門は閉ざされ、眠れずに起きて彷徨い、胡の殿に登り広庭に臨む。玄雲合わさって月星を翳し、北風は激しく厳しく冷たく、胡笳が響けば辺境の馬が嘶き、孤雁が帰れば声は嚶嚶。楽人が興じて琴箏を弾けば、音は相和して悲しく清く、心は思いを吐き胸は憤りに満ちる。気を晴らそうとすれば彼らを驚かすことを恐れ、哀しみを飲み込めば涙が首に濡れる。家は既に迎えに来て帰寧すべきなれど、長き路に臨んで我が子を捨てる。子は母を呼んで声を失って泣き、私は耳を掩いて聞くに忍びず。追いかけてくる我が子を抱きしめて独り歩み、立ち止まってはまた顔を崩して泣く。振り返れば人情を破り、心は断絶して死にまた生き返る。

原文嗟薄〔祜〕兮遭世患,宗族殄兮門戶單。身執略兮入西關,歷險阻兮之羌蠻。山谷眇兮路曼曼,眷東顧兮但悲歎。冥當寢兮不能安,[68]飢當食兮不能餐,常流涕兮眥不乾,薄志節兮念死難,雖苟活兮無形顏。惟彼方兮遠陽精,[69]陰氣凝兮雪夏零。沙漠壅兮塵冥冥,有草木兮春不榮。人似禽兮食臭腥,言兜離兮狀窈停。[70]歲聿暮兮時邁征,夜悠長兮禁門扄。不能寐兮起屏營,登胡殿兮臨廣庭。玄雲合兮翳月星,北風厲兮肅泠泠。胡笳動兮邊馬鳴,孤雁歸兮聲嚶嚶。樂人興兮彈琴箏,音相和兮悲且清。心吐思兮匈憤盈,欲舒氣兮恐彼驚,含哀咽兮涕沾頸。家既迎兮當歸寧,臨長路兮捐所生。兒呼母兮號失聲,我掩耳兮不忍聽。追持我兮走煢煢,頓復起兮毀顏形。還顧之兮破人情,心怛絕兮死復生。

賛

原文【贊】

賛に言う。端なる操には跡有り、幽閑には容有り。区々に風烈を明らかにし、我が管彤を昭らかにす。

原文贊曰:端操有蹤,幽閑有容。區明風烈,昭我管彤。