後漢書

巻82上

巻82上

孔子は『易経』に君子の道が四つあると称し、「卜筮を行う者はその占いを尊ぶ」と言った。占いとは、先王が禍福を定め、嫌疑を決断し、神明に幽かに助けられ、ついに来るべき事象を知るために用いたものである。陰陽推歩の学問については、往々にして古い記録に見られる。しかし、神妙な経典や奇怪な文書、玉策や金繩は、霊妙な府庫に鍵をかけられ、瑶壇の上に封印されており、うかがい知ることはできない。『河図』『洛書』の文、亀や龍の図、箕子の術、師曠の書、緯書や候書の部類、符契や決断の符などは、いずれも幽玄な奥義を探り出し、人間世界に照らし合わせて検証するためのもので、時に聞くことができるものもある。その流れにはさらに、風角、遁甲、七政、元気、六日七分、逢占、日者、挺専、須臾、孤虚の術があり、雲を望んで気を察し、吉凶の兆しを推し量るもので、時には事柄に効果を現すこともあった。しかしこの道は隠微で遠く、玄妙で奥深く、その根源は捉えがたい。だから聖人は怪異や鬼神について語らず、めったに性命について言及しない。あるいは末節を開示してその端緒を抑え、あるいは婉曲な言葉でその意義を明らかにする。いわゆる「民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず」という所以である。

原文仲尼稱《易》有君子之道四焉,曰「卜筮者尚其占」。佔也者,先王所以定禍福,決嫌疑,幽贊於神明,遂知來物者也。若夫陰陽推步之學,往往見於墳記矣。然神經怪牒、玉策金繩,關扃於明靈之府、封縢於瑤壇之上者,靡得而窺也。至乃《河》、《洛》之文,龜龍之圖,箕子之術,師曠之書,緯候之部,鈐決之符,皆所以探抽冥賾、參驗人區,時有可聞者焉。其流又有風角、遁甲、七政、元氣、六日七分、逢佔、日者、挺專、須臾、孤虛之術,乃望雲省氣,推處祥妖,時亦有以效於事也。而斯道隱遠,玄奧難原,故聖人不語怪神,罕言性命。或開末而抑其端,或曲辭以章其義,所謂「民可使由之,不可使知之」。

漢では武帝が方術を好んだため、天下の道術や技芸に通じた士人たちは、こぞって策を抱え手を打ち、風に乗って集まってきた。その後、王莽は符命を偽って用い、光武帝は特に讖言を信じたので、時流に乗ろうとする士人たちは、みな駆け回って穿鑿し、争ってこれを語った。そこで王梁や孫咸は、図籙に応じる名を持ち、三公の重任に登った。鄭興や賈逵は、これに附和同調することで顕著になった。桓譚や尹敏は、これに逆らったために没落した。これ以降、内学(讖緯の学)を習うことが流行し、奇異な文書を尊び、異なる数術を貴ぶ風潮が、当時絶えることがなかった。このため、博識な儒者や碩学の士は、その奸悪で虚妄で常軌を逸したことを憤り、慷慨して奏議し、これらを蔵匿し排斥すべきだと主張した。司馬遷もまた言っている。「陰陽の書を見ると、人は拘束され多くの禁忌を持つようになる。」おそらくこのことを指しているのだろう。

原文漢自武帝頗好方術,天下懷協道藝之士,莫不負策抵掌,順風而屆焉。後王莽矯用符命,及光武尤信讖言,士之赴趣時宜者,皆騁馳穿鑿,爭談之也。故王梁、孫咸,名應圖籙,越登槐鼎之任;鄭興、賈逵,以附同稱顯;恆譚、尹敏,以乖忤淪敗。自是習為內學,尚奇文,貴異數,不乏於時矣。是以通儒碩生,忿其奸妄不經,奏議慷慨,以為宜見藏擯。子長亦云:「觀陰陽之書,使人拘而多忌。」蓋為此也。

物事には偏りがあり、弊害がないわけではない。たとえ大道と言えども、その障害は同じかもしれない。例えば『詩経』の欠点は愚かさにあり、『書経』の欠点は虚偽にある。では、数術の欠点は、詭俗(怪しげな俗説)に至るのだろうか。もし、温厚で篤実でありながら愚かでなく、それで『詩経』に深く通じていると言える。広く通じて遠くを知りながら虚偽がなく、それで『書経』に深く通じていると言える。数を極めて変化を知りながら詭俗に陥らなければ、それで数術に深く通じていると言える。だからこそ、「もしその人でなければ、道は虚しく行われることはない」と言われる。思うに、多くの人はその統体を見失い、取捨がかなり偏っており、甚だしい場合は、流動的で過度に荒唐無稽であっても、それもまた失策なのである。

原文夫物之所偏,未能無蔽。雖云大道,其硋或同。若乃《詩》之失愚,《書》之失誣。然則數術之失,至於詭俗乎?如令溫柔敦厚而不愚,斯深於《詩》者也;疏通知遠而不誣,斯深於《書》者也;極數知變而不詭俗,斯深於數術者也。故曰:「苟非其人,道不虛行。」意者多迷其統,取遣頗偏,甚有雖流宕過誕亦失也。

中世において、張衡は陰陽の宗とされ、郎顗は災異の兆候について最も精密であった。その他にも、それぞれに名家がいた。その門徒にも優れた才能と偉大な徳を持つ者がいたが、必ずしも極致の技芸を体得していたわけではない。ここでは、その中でも変化を推し量ることに特に長け、時事を広く補うことができる者を糾合し、合わせて表に記すこととする。

原文中世張衡為陰陽之宗,郎顗咎徵最密,餘亦班班名家焉。其徒亦有雅才偉德,未必體極藝能。今蓋糾其推變尤長,可以弘補時事,因合表之云。

任文公

原文任文公

任文公は、巴郡閬中の人である。父の文孫は、天官風角の秘要に明るかった。文公は若くして父の術を修め、州から従事に召し出された。哀帝の時、越巂太守が謀反を企てているという噂があり、刺史は大いに恐れ、文公ら五人の従事を派遣して郡内を巡察させ、ひそかに虚実を探らせた。一同が宿舎に泊まっている時、突然暴風が起こった。文公は急いで他の従事たちに知らせ、急いで去るよう促した。逆賊が来て人を害する事変が起こるだろうと言い、車を起こして速やかに駆けさせた。他の従事たちは自ら出発できなかったが、郡の兵が果たして来て彼らを殺害し、文公だけが免れた。

原文任文公,巴郡閬中人也。父文孫,明曉天官風角秘要。文公少修父術,州辟從事。哀帝時,有言越巂太守欲反,刺史大懼,遣文公等五從事檢行郡界,潛伺虛實。共止傳舍,時,暴風卒至,文公遽趣白諸從事促去,當有逆變來害人者,因起駕速驅。諸從事未能自發,郡果使兵殺之,文公獨得免。

後に治中従事となった。その時、天は大いに旱魃していた。文公は刺史に言った。「五月一日に、大水が起こるでしょう。その変異はすでに現れており、防ぎ救うことはできません。役人や民衆に前もって準備させるべきです。」刺史は聞き入れず、文公だけが大船を用意した。民衆の中にはこれを聞き、かなり防備する者もいた。その日は激しい日照りが続いたが、文公は急いで積み込むよう命じ、刺史に報告させた。刺史はこれを笑った。日が中天に近づくと、北の空に雲が湧き起こり、やがて大雨となり、午後三時ごろには、湔水が十余丈も湧き上がり、家屋を突き崩し、数千人が被害を受けた。文公はこれによって占術で名声を馳せた。司空掾に召し出された。平帝が即位すると、病気と称して帰郷した。

原文後為治中從事。時,天大旱,白刺史曰:「五月一日,當有大水。其變已至,不可防救,宜令吏人豫為其備。」刺史不聽,文公獨儲大船。百姓或聞,頗有為防者。到其日旱烈,文公急命促載,使白刺史,刺史笑之。日將中,天北雲起,須臾大雨,至晡時,湔水湧起十餘丈,突壞廬舍,所害數千人。文公遂以佔術馳名。辟司空掾。平帝即位,稱疾歸家。

王莽が簒奪した後、文公は数術を推し量り、大乱が起こることを知った。そこで家族に命じて、百斤の荷物を背負わせ、家の周りを走り回らせ、一日に数十回もさせた。当時の人々はその理由を知らなかった。後に兵乱と賊寇が同時に起こり、逃亡する者のうち自ら逃れられる者は少なかったが、文公一家は大小ともに食糧を背負って敏捷に歩き、全員が無事に逃れることができた。そこで子公山に逃れ、十余年間兵乱に遭わなかった。

原文王莽篡後,文公推數,知當大亂,乃課家人負物百斤,環舍趨走,日數十,時人莫知其故。後兵寇並起,其逃亡者少能自脫,惟文公大小負糧捷步,悉得完免。遂奔子公山,十餘年不被兵革。

公孫述の時代、蜀の武擔山の石が折れた。文公は言った。「ああ!西州の知恵ある士が死ぬ。私がそれに当たるのだ。」それ以来、常に子孫を集め、酒食を設けた。三か月後に果たして死去した。そこで益州では彼についてこう言った。「任文公、知恵は並ぶ者なし。」

原文公孫述時,蜀武擔石折。文公曰:「噫!西州智士死,我乃當之。」自是常會聚子孫,設酒食。後三月果卒。故益部為之語曰:「任文公,智無雙。」

郭憲

原文郭憲

郭憲は字あざなを子横といい、汝南宋の人である。若い頃、東海の王仲子に師事した。当時、王莽が大司馬となっており、仲子を召し出した。仲子は行こうとした。憲は諫めて言った。「礼には来て学ぶことはあっても、行って教えるという義はありません。今、あなたは道を軽んじて貴人を恐れておられますが、私はひそかに取るに足らないことだと思います。」仲子は言った。「王公は非常に重い方なので、逆らうことはできない。」憲は言った。「今ちょうど講義の最中です。まずそれを終わらせるべきです。」仲子はこれに従い、日が暮れてから行った。莽は尋ねた。「どうしてこんなに遅くなったのか。」仲子は詳しく憲の言葉を答えた。莽は内心、彼を異才と認めた。後に帝位を簒奪すると、憲を郎中に任じ、衣服を賜った。憲は衣服を受け取ると焼き捨て、東海のほとりに逃れた。莽は深く憤慨し、討伐して追跡したが、所在はわからなかった。

原文郭憲字子橫,汝南宋人也。少師事東海王仲子。時,王莽為大司馬,召仲子。仲子欲往。憲諫曰:「禮有來學,無有往教之義。今君賤道畏貴,竊所不取。」仲子曰:「王公至重,不敢違之。」憲曰:「今正臨講業,且當訖事。」仲子從之,日晏乃往。莽問:「君來何遲?」仲子具以憲言對,莽陰奇之。及後篡位,拜憲郎中,賜以衣服。憲受衣焚之,逃於東海之濱。莽深忿恚,討逐不知所在。

光武帝が即位し、天下の有道の人を求め、憲を召し出して博士に任じた。再び昇進し、建武七年、張堪に代わって光禄勲となった。天子に従って南郊の祭りに参列した。憲はその席上で、突然東北の方角に向きを変え、酒を口に含んで三度吹きかけた。執法官が不敬であると上奏した。詔によってその理由を問われた。憲は答えて言った。「斉国で火災が起こるので、これをもって鎮めようとしたのです。」後日、斉国で果たして火災が起こり、それは郊祀の日と同じ日であった。

原文光武即位,求天下有道之人,乃徵憲拜博士。再遷,建武七年,代張堪為光祿勳。從駕南郊。憲在位,忽迴向東北,含酒三潠。執法奏為不敬。詔問其故。憲對曰:「齊國失火,故以此厭之。」後齊果上火災,與郊同日。

八年、天子の車駕が西征して隗囂を討とうとした。憲は諫めて言った。「天下は初めて平定されたばかりで、車駕を動かすべきではありません。」憲は車の前に進み出て佩刀を抜き、車の引き革を断ち切った。帝は従わず、ついに隴に上った。その後、潁川で兵乱が起こり、車駕を引き返して帰還した。帝は嘆いて言った。「子横の言葉を用いなかったことを悔いる。」

原文八年,車駕西征隗囂。憲諫曰:「天下初定,車駕未可以動。」憲乃當車拔佩刀以斷車靷。帝不從,遂上隴。其後潁川兵起,乃回駕而還。帝歎曰:「恨不用子橫之言。」

当時、匈奴がたびたび国境を侵犯したので、帝はこれを憂い、百官を朝廷に召して議論させた。憲は、天下が疲弊しているので、大軍を動かすべきではないと考えた。諫争が受け入れられないと、地面に伏して目眩いを訴え、それ以上言わなかった。帝は二人の郎官に命じて殿から下がらせたが、憲も拝礼しなかった。帝は言った。「常々『関東に剛直な郭子横がいる』と聞いていたが、果たして嘘ではなかった。」憲は病気を理由に辞退し、家で死去した。

原文時,匈奴數犯塞,帝患之,乃召百僚廷議。憲以為天下疲敝,不宜動眾。諫爭不合,乃伏地稱眩瞀,不復言。帝令兩郎扶下殿,憲亦不拜。帝曰:「常聞『關東觥觥郭子橫』,竟不虛也。」憲遂以病辭退,卒於家。

許楊

原文許楊

許楊は偉君という字で、汝南郡平輿県の人である。若い頃から術数が好きだった。王莽が政権を補佐していた時、郎に召され、次第に酒泉都尉に昇進した。王莽が帝位を簒奪すると、許楊は姓名を変えて巫医となり、他の地域に逃れて潜伏した。王莽が敗れると、ようやく故郷に戻った。

原文許楊字偉君,汝南平輿人也。少好術數。王莽輔政,召為郎,稍遷酒泉都尉。及莽篡位,楊乃變姓名為巫醫,逃匿它界。莽敗,方還鄉里。

汝南には昔、鴻郤陂という池があったが、成帝の時、丞相の翟方進が上奏してこれを破壊させた。建武年間、太守の鄧晨がその修復事業を再開しようとした。鄧晨は許楊が水脈に詳しいと聞き、召し出して相談した。許楊は言った。「昔、成帝が翟方進の意見を用いた後、すぐに自ら天に昇る夢を見られ、天帝が怒って『なぜ我が濯龍淵を破壊したのか』と言われました。その後、民はその利益を失い、多くが飢え困窮に陥りました。当時、歌謡に『我が陂を敗る者は翟子威、我に大豆を与え、我に芋魁を煮て食わせよ。覆ること反ること、陂は復た当に復すべし』とありました。昔、大禹が長江を切り開き黄河を疏浚して、天下に利益をもたらしました。今、明府が廃れた事業を興し、国を富ませ民を安んじようとされるのは、童謡の言葉がここに実現する兆しでしょう。誠に命を賭して尽力したいと願います。」鄧晨は大いに喜び、許楊を都水掾に任命し、その事業を主管させた。許楊は地形の高低に従って、堤防を四百余里にわたって築き、数年かけて完成させた。百姓はその恩恵を受け、数年続けて大豊作となった。

原文汝南舊有鴻郤陂,成帝時,丞相翟方進奏毀敗之。建武中,太守鄧晨欲修復其功。聞楊曉水脈,召與議之。楊曰:「昔成帝用方進之言,尋而自夢上天,天帝怒曰:『何故敗我濯龍淵?』是後民失其利,多致飢困。時有謠歌曰:『敗我陂者翟子威,飴我大豆,亨我芋魁。反乎覆,陂當復。』昔大禹決江疏河,以利天下。明府今興立廢業,富國安民,童謠之言,將有徵於此。誠願以死效力。」晨大悅,因署楊為都水掾,使典其事。楊因高下形勢,起塘四百餘里,數年乃立。百姓得其便,累歲大稔。

当初、豪族や大姓はこの池の工事に便乗して、それぞれの地域で利益を独占しようと競ったが、許楊は一切聞き入れず、彼らは共謀して許楊が賄賂を受け取ったと誣告した。鄧晨はついに許楊を捕らえて獄に下したが、枷は自然に外れてしまった。獄吏は恐れ、急いで鄧晨に報告した。鄧晨は驚いて言った。「やはり冤罪だったか。太守は忠信が霊を感動させると聞いていたが、今その効果が現れたのだろうか!」その夜すぐに許楊を釈放し、帰らせた。その時、空はひどく曇っていたが、道中にはまるで火が照らしているかのようで、当時の人々は怪しんだ。後に許楊は病気で亡くなった。鄧晨は郡庁で許楊の廟を建て、その肖像を描かせた。百姓はその功績を思い、皆祭祀を行った。

原文初,豪右大姓因緣陂役,競欲辜較在所,楊一無聽,遂共譖楊受取賕賂。晨遂收楊下獄,而械輒自解。獄吏恐,遽白晨。晨驚曰:「果濫矣。太守聞忠信可以感靈,今其效乎!」即夜出楊,遣歸。時天大陰晦,道中若有火光照之,時人異焉。後以病卒。晨於都宮為楊起廟,圖畫形像,百姓思其功績,皆祭祀之。

高獲

原文高獲

高獲は敬公という字で、汝南郡新息県の人である。頭が丸く顔が四角い風貌をしていた。若い頃に京師に遊学し、光武帝と旧知の仲だった。司徒の歐陽歙に師事した。歐陽歙が獄に下され処刑されようとした時、高獲は鉄の冠をかぶり、斧と鉄の台(刑具)を帯びて、宮門まで行き歐陽歙の赦免を請うた。帝は赦さなかったが、彼を引見した。そして言った。「敬公よ、朕はお前を官吏に登用したいと思うが、常の性格を改めるべきだ。」高獲は答えて言った。「臣の性格は父母から受けたものであり、陛下のもとで改めることはできません。」退出するとすぐに辞去した。

原文高獲字敬公,汝南新息人也。為人尼首方面。少游學京師,與光武有舊。師事司徒歐陽歙。歙下獄當斷,獲冠鐵冠,帶鈇鑕,詣闕請歙。帝雖不赦,而引見之。謂曰:「敬公,朕欲用子為吏,宜改常性。」獲對曰:「臣受性於父母,不可改之於陛下。」出便辭去。

三公が争って招聘したが応じなかった。後に太守の鮑昱が高獲を招いたが、門に着くと、主簿を迎えに行かせた。主簿はただ騎吏に迎えに行かせただけだった。高獲はこれを聞くと、すぐに去ってしまった。鮑昱が人を追わせて高獲を招いたが、高獲は振り返って言った。「府君はただ主簿に欺かれているだけで、話すに足りません。」そして留まらなかった。その時、郡内は大旱魃に見舞われた。高獲はもともと天文に詳しく、遁甲に通じ、鬼神を使役することができた。鮑昱が自ら出向いてどうすれば雨を降らせられるかと尋ねると、高獲は言った。「急いで三部の督郵を罷免し、明府が自ら北から出て、三十里の亭まで行けば、雨を降らせることができます。」鮑昱がこれに従うと、果たして大雨を得た。鮑昱は県を巡行するたびに、必ず高獲の里門に車の軾に手をかけて敬意を表した。高獲はついに遠く江南に逃れ、石城で亡くなった。石城の人々は彼を思い、共に祠を建てた。

原文三公爭辟,不應。後太守鮑昱請獲,既至門,令主簿就迎,主簿但使騎吏迎之,獲聞之,即去。昱遣追請獲,獲顧曰:「府君但為主簿所欺,不足與談。」遂不留。時郡境大旱。獲素善天文,曉遁甲,能役使鬼神。昱自往問何以致雨,獲曰:「急罷三部督郵,明府當自北出,到三十里亭,雨可致也。」昱從之,果得大雨。每行縣,輒軾其閭。獲遂遠遁江南,卒於石城。石城人思之,共為立祠。

王喬

原文王喬

王喬は、河東郡の人である。顕宗(明帝)の時代、葉県の令となった。王喬には神術があり、毎月の朔と望(一日と十五日)には、常に県から朝廷に参内した。帝は彼の来訪が頻繁なのを怪しみ、車馬が見えないので、密かに太史に偵察させた。太史は、王喬が来る時には、必ず一対の野鴨が東南から飛んでくると報告した。そこで野鴨が来るのを待ち伏せ、網を張って捕らえると、ただ一隻の履だけが得られた。そこで詔を下して尚方に調べさせると、それは永平四年に尚書官属に賜わった履であった。朝廷参内の時にはいつも、葉県の役所の門の鼓が打たずとも自ら鳴り、その音は京師にまで聞こえた。後に天から玉の棺が堂の前に下り、役人が押したり動かしたりしたが、ついに揺るがすことはできなかった。王喬は言った。「天帝が私だけを召されるのか?」そこで沐浴して衣服を整え、その中に寝ると、蓋がすぐに閉じた。一夜のうちに城東に葬られ、土が自然に墳丘を成した。その夜、県中の牛は皆汗を流して喘ぎ疲れたが、人々はその理由を知らなかった。百姓は彼のために廟を建て、葉君祠と号した。州牧や太守が任官の際に名簿を確認する時は、皆まずこの祠を拝謁した。役人や民が祈願すると、その通りに応えた。もし違反があれば、すぐに祟りをなすこともあった。帝はついにその鼓を迎え取って都亭の下に置いたが、ほとんど再び音を立てることはなかった。ある者は、これが即ち古の仙人王子喬であると言う。

原文王喬者,河東人也。顯宗世,為葉令。喬有神術,每月朔望,常自縣詣臺朝。帝怪其來數,而不見車騎,密令太史伺望之。言其臨至,輒有雙鳧從東南飛來。於是候鳧至,舉羅張之,但得一隻舄焉。乃詔上方𧭉視,則四年中所賜尚書官屬履也。每當朝時,葉門下鼓不擊自鳴,聞於京師。後天下玉棺於堂前,吏人推排,終不搖動。喬曰:「天帝獨召我邪?」乃沐浴服飾寢其中,蓋便立覆。宿昔葬於城東,土自成墳。其夕,縣中牛皆流汗喘乏,而人無知者。百姓乃為立廟,號葉君祠。牧守每班錄,皆先謁拜之。吏人祈禱,無不如應。若有違犯,亦立能為祟。帝乃迎取其鼓,置都亭下,略無復聲焉。或云此即古仙人王子喬也。

謝夷吾

原文謝夷吾

謝夷吾は堯卿という字で、会稽郡山陰県の人である。若い頃は郡の役人で、風角や占候を学んだ。太守の第五倫が彼を督郵に抜擢した。その時、烏程県の長に贓罪の疑いがあり、第五倫は謝夷吾にその罪を調査させた。謝夷吾が県に着くと、何の証拠も調べず、ただ役所の門を見上げて伏して泣き、帰ってきた。県中の者は驚き怪しみ、どうしてよいかわからなかった。帰還後、第五倫に報告して言った。「密かに占候したところ、長は死ぬべき運命にあることがわかりました。早ければ三十日以内、遅くとも六十日以内に、遊魂が仮の息をしているだけで、刑罰を加えるべきではないので、捕らえませんでした。」第五倫がその言葉を聞き入れると、一月余りして、果たして駅馬が長の印綬を携えて来て、急死したと報告した。第五倫はこれによってますます謝夷吾を礼遇し信頼した。

原文謝夷吾字堯卿,會稽山陰人也。少為郡吏,學風角佔候。太守第五倫擢為督郵。時,烏程長有臧釁,倫使收案其罪。夷吾到縣,無所驗,但望閣伏哭而還。一縣驚怪,不知所為。及還,白倫曰:「竊以佔候,知長當死。近三十日,遠不過六十日,遊魂假息,非刑所加,故不收之。」倫聽其言,至月餘,果有驛馬齎長印綬,上言暴卒。倫以此益禮信之。

孝廉に推挙され、寿張県令となり、次第に荊州刺史に昇進し、さらに鉅鹿太守に転任した。赴任先では常に人材を愛育し、善政の実績を残した。第五倫が司徒となった時、班固に文章を書かせて謝夷吾を推薦した。その文は以下の通りである。

原文舉孝廉,為壽張令,稍遷荊州刺史,遷鉅鹿太守。所在愛育人物,有善績。及倫作司徒,令班固為文薦夷吾曰:

臣は聞く。堯は稷と契を登用し、政治は太平に隆盛し、舜は皋陶を用い、政治は雍熙に至った。殷と周には高宗・文王・武王のような君主がいても、傅說と呂望の策に依ったため、その大業を崇め興し、大中に叶えることができた。謹んで見るに、鉅鹿太守の会稽の謝夷吾は東州の出身で、その土地は泥濘にして劣るが、英姿は挺然たる特出であり、奇偉に秀で、群を抜いている。才能は四科を兼ね、品行は九徳を含み、仁は世を済すに足り、知は万物に通じる。若くから儒学を身につけ、六経を胸に収め、星宿の度を推考し、図籍を校理し、聖人の奥義を探究し、歴数の兆を観て変を察し、天を占地を知り、神意に合契し、その道徳に拠って王事を経理する。かつて陪隶の身で臣に従事し、忠毅の操を奮い、史魚の直節を自ら践み、臣の綱紀を督し、臣の懦弱を励まし、咎を免れたのは実に彼の功による。官に応じ宰職に就けば、恵み百里に遍き、降す福は弥異なり、流布せる教化は神のごとく、荊州を牧して威は邦国に行われた。法を奉じ政を施すことには周公・召公の風があり、倹約を守り履行することには公儀の操を継ぐ。功を問い能を選ぶは外台の模範となり、声を聴き実を察するは九伯の冠であった。鉅鹿に遷官して守るや、政は時和に合した。徳と器量、政績と謀略は伊尹・呂望・管仲・晏嬰に任ずべき器であり、道の奥義を闡明することは史蘇・京房の価に同じ。公務に密勿あれど身は出で心は幽に潜み、名のために身を殉じて誉を求めず、世俗的栄達に駆け巡って寵を要せず、退遁の念あり、箕山に志を演ずる。古の賢臣に比すべき名節が固くあり、今時に求むるに俗を超絶している。誠に社稷の元亀、大漢の棟梁にして、直ちに抜擢して三公の位に登らすべきである。これにより上は三辰が暦象に順軌し、下は五品が嘉時に咸く訓応し、吉瑞繁昌の慶を必ず致しうるのであって、法に従い職を守るのみに止まらない。臣は頑愚にしてその器にあらず、屍位素餐の責めを負い、夕惕若厲の身である。骸骨を乞い、官を夷吾に譲りたい。上は七曜の光明を増し、下は天下の人望を満たし、微臣に過咎を塞き悔いを免れしめんことを。

原文臣聞堯登稷、契,政隆太平;舜用皋陶,政致雍熙。殷、周雖有高宗、昌、發之君,猶賴傅說、呂望之策,故能克崇其業,允協大中。竊見鉅鹿太守會稽謝夷吾,出自東州,厥土塗泥,而英姿挺特,奇偉秀出。才兼四科,行包九德,仁足濟時,知周萬物。加以少膺儒雅,韜含六籍,推考星度,綜校圖錄,探賾聖秘,觀變曆徵,佔天知地,與神合契,據其道德,以經王務。昔為陪隸,與臣從事,奮忠毅之操,躬史魚之節,董臣嚴綱,勗臣懦弱,得以免戾,實賴厥勳。及其應選作宰,惠敷百里,降福彌異,流化若神,爰牧荊州,威行邦國。奉法作政,有周、召之風;居儉履約,紹公儀之操。尋功簡能,為外臺之表;聽聲察實,為九伯之冠。遷守鉅鹿,政合時雍。德量績謀,有伊、呂、管、晏之任;闡弘道奧,同史蘇、京房之倫。雖密勿在公,而身出心隱,不徇名以求譽,不馳鶩以要寵,念存遜遁,演志箕山。方之古賢,實有倫序;采之於今,超焉絕俗。誠社稷之元龜,大漢之棟甍。宜當拔擢,使登鼎司。上令三辰順軌於歷象,下使五品咸訓於嘉時,必致休徵克昌之慶,非徒循法奉職而已。臣以頑駑,器非其疇,屍祿負乘,夕惕若厲。願乞骸骨,更授夷吾,上以光七曜之明,下以厭率土之望,庶令微臣塞咎免悔。

後に春の巡行の際に柴車に乗り、二人の役人を従えたことについて、冀州刺史がその儀礼の順序が適切でなく、国家の典範を損なうと上奏したため、左遷されて下邳県令となった。彼は自らの死期を予言し、その通りに果たして亡くなった。息子に遺言して言った。「漢末には乱が起こり、必ずや墓を暴き骸骨を露わにする禍いがあるだろう。」棺を吊るして埋葬し、墓に墳丘を築かないようにさせた。

原文後以行春乘柴車,從兩史,冀州刺史上其儀序失中,有損國典,左轉下邳令。豫克死日,如期果卒。敕其子曰:「漢末當亂,必有發掘露骸之禍。」使懸棺下葬,墓不起墳。

その時、博士の勃海郡の郭鳳も図讖としんを好み、災異を説き、吉凶の占いの応験に詳しかった。彼はあらかじめ自分の死期を知り、予め弟子に棺や収殮の道具を買わせておき、その日に亡くなった。

原文時,博士勃海郭鳳亦好圖讖,善說災異,吉凶占應。先自知死期,豫令弟子市棺斂具,至其日而終。

楊由

原文楊由

楊由は哀侯という字で、蜀郡成都県の人である。若い頃から『易経』を学び、七政、元気、風雲の占候にも通じていた。郡の文学掾となった。その時、大きな雀が夜に倉庫の楼上に集まった。太守の廉範が楊由にその意味を尋ねた。楊由は答えて言った。「これは郡内に小規模な兵乱があることを占うものですが、害にはなりません。」二十日余り後、広柔県の蛮夷が反乱を起こし、長吏を殺傷した。郡は倉庫の兵器を出してこれを討った。また、風が木屑を吹き飛ばしたことがあり、太守が楊由に尋ねた。楊由は答えて言った。「今まさに木の実を献上する者がいるでしょう。その色は黄赤です。」間もなく、五官掾が数包みの橘を献上した。

原文楊由字哀侯,蜀郡成都人也,少習《易》,並七政、元氣、風雲佔候。為郡文學掾。時,有大雀夜集於庫樓上,太守廉範以問由。由對曰:「此佔郡內當有小兵,然不為害。」後二十餘日,廣柔縣蠻夷反,殺傷長吏,郡發庫兵擊之。又有風吹削哺,太守以問由。由對曰:「方當有薦木實者,其色黃赤。」頃之,五官掾獻橘數包。

由はかつて人と共に酒を飲み、御者に命じて言った。「酒が三巡したら、すぐに車を整えよ。」やがて急いで去った。後日、主人の家で争いがあり殺し合いが起きた。人が尋ねてどうしてそれを知ったのかと問うた。由は言った。「先ほど社の木の上に鳩が争っていた。これは兵賊の兆しである。」彼の言葉は多くが的中した。著書は十余篇あり、『其平』と名付けられた。家で亡くなった。

原文由嘗從人飲,敕御者曰:「酒若三行,便宜嚴駕。」既而趣去。後主人舍有鬥相殺者,人請問何以知之。由曰:「向社中木上有鳩鬥,此兵賊之像也。」其言多驗。著書十餘篇,名曰《其平》。終於家。

李南

原文李南

李南は字を孝山といい、丹陽郡句容県の人である。若い頃から学問に篤く励み、風角に明るかった。和帝の永元年間、太守の馬棱が盗賊の事件に連座して召喚され、廷尉に赴くことになり、役人や民衆は不安に陥ったが、李南だけがわざわざ謁見して祝賀した。馬棱は恨みがあると思い、言った。「太守である私に徳がなく、今や罪に当たろうとしているのに、あなたはかえって祝うのか?」李南は言った。「明朝に良い風が吹き、明日の正午頃、吉報があるはずです。それでお祝いに参ったのです。」翌朝、馬棱は夕暮れまで待ち望んだが、何の兆候もないと思った。午後遅くになって、ようやく駅使が詔書を持って来て、馬棱の件を赦免した。李南はその遅れた様子を尋ねた。使者は言った。「先ほど宛陵の浦裡斻を渡ろうとした時、馬の足がつったので、速く来られなかったのです。」馬棱はようやく信服した。後に有道に推挙され、公府に召されたが、病気で行かず、家で亡くなった。

原文李南字孝山,丹陽句容人也。少篤學,明於風角。和帝永元中,太守馬棱坐盜賊事被徵,當詣廷尉,吏民不寧,南特通謁賀。棱意有恨,謂曰:「太守不德,今當即罪,而君反相賀邪?」南曰:「旦有善風,明日中時,應有吉問,故來稱慶。」旦日,棱延望景晏,以為無徵;至晡,乃有驛使齎詔書原停棱事。南問其遲留之狀。使者曰:「向度宛陵浦裡斻,馬踠足,是以不得速。」棱乃服焉。後舉有道,辟公府,病不行,終於家。

李南の娘も家伝の術に通じており、由拳県の人の妻となった。ある朝かまどの部屋に行くと、突然暴風が起こった。女はすぐに母屋に上がって姑に帰省を願い出て、両親に別れを告げようとした。姑が許さないと、跪いて泣きながら言った。「家は代々術を伝えています。疾風が突然起こり、まずかまどの煙突と井戸を吹いた。この災いは、かまどを司る婦人に降りかかるもので、私が亡くなる兆しです。」そしてその亡くなる日を書き記した。ようやく帰宅を許され、予定通りに病死した。

原文南女亦曉家術,為由拳縣人妻。晨詣爨室,卒有暴風,婦便上堂從姑求歸,辭其二親。姑不許,乃跪而泣曰:「家世傳術,疾風卒起,先吹灶突及井,此禍為婦女主爨者,妾將亡之應。」因著其亡日。乃聽還家,如期病卒。

李郃

原文李郃

李郃は字を孟節といい、漢中郡南鄭県の人である。父の頡は儒学で知られ、博士にまで至った。李郃は父の学業を受け継ぎ、太学に遊学して『五経』に通じた。『河図』『洛書』や風星に詳しく、外見は質朴で、人々は彼を認めなかった。県は彼を召して幕門候吏に任命した。

原文李郃字孟節,漢中南鄭人也。父頡,以儒學稱,官至博士。郃襲父業,游太學,通《五經》。善《河》、《洛》風星,外質樸,人莫之識。縣召署幕門候吏。

和帝が即位すると、使者を分遣し、皆が微服で単独行動し、それぞれ州県に至って、風俗や歌謡を観察し採録した。二人の使者が益州部に到着することになり、李郃の宿舎に投宿した。時は夏の夕方、外で座っていた李郃が仰ぎ見て、尋ねた。「お二人は都を発たれた時、朝廷が二人の使者を遣わされたことをご存知でしたか?」二人は黙り、驚いて顔を見合わせて言った。「聞いていない。」どうして知ったのかと尋ねると、李郃は星を指し示して言った。「二つの使者の星が益州の分野に向かっています。それで知ったのです。」

原文和帝即位,分遣使者,皆微服單行,各至州縣,觀采風謠。使者二人當到益部,投郃候舍。時,夏夕露坐,郃因仰觀,問曰:「二君發京師時,寧知朝廷遣二使邪?」二人默然,驚相視曰:「不聞也。」問何以知之。郃指星示云:「有二使星向益州分野,故知之耳。」

三年後、その使者の一人が漢中太守に任命されたが、李郃はまだ下吏のままであった。太守は彼の隠れた徳を奇異に思い、召して戸曹史に任命した。その時、大将軍の竇憲が妻を迎え、天下の郡国は皆、祝いの礼を贈った。郡も使者を遣わそうとした。李郃は進み出て諫めて言った。「竇将軍は后宮の親戚であり、礼儀や徳を修めず、専権をほしいままに驕り高ぶっています。危亡の禍は足を上げて待つばかりです。どうか明府(太守)は王室に一心を尽くし、彼らと交際なさいませんように。」太守はどうしても遣わそうとしたので、李郃は止められなかった。自ら行くことを願い出て、許された。李郃はそこでわざと滞在を遅らせ、事態の変化を見守った。扶風まで行った時、竇憲は封国に帰って自殺し、その一派は皆誅殺された。竇憲と交際した者は皆、官を免ぜられたが、ただ漢中太守だけは関与しなかった。

原文後三年,其使者一人拜漢中太守,郃猶為吏。太守奇其隱德,召署戶曹史。時,大將軍竇憲納妻,天下郡國皆有禮慶,郡亦遣使。郃進諫曰:「竇將軍椒房之親,不修禮德,而專權驕恣,危亡之禍可翹足而待。願明府一心王室,勿與交通。」太守固遣之,郃不能止。請求自行,許之。郃遂所在留遲,以觀其變。行至扶風,而憲就國自殺,支黨悉伏其誅。凡交通憲者,皆為免官,唯漢中太守不豫焉。

李郃はその年のうちに孝廉に推挙され、五度の昇進を経て尚書令となり、さらに太常に任命された。元初四年、袁敞に代わって司空となり、しばしば得失を陳べて、忠臣の節操があった。在位四年の後、請託の事で連座して免官された。

原文郃歲中舉孝廉,五遷尚書令,又拜太常。元初四年,代袁敞為司空,數陳得失,有忠臣節。在位四年,坐請託事免。

安帝が崩御し、北郷侯が立つと、再び司徒となった。北郷侯が病気になると、李郃は密かに少府の河南の陶範、歩兵校尉の趙直と謀って順帝を立てようとしたが、ちょうど孫程らが先に事を成し遂げたので、李郃の功績は顕著にならなかった。翌年、役人や民衆の疾病と災異の異変があったため、策書を賜って免官された。将作大匠の翟酺が上奏して李郃が「密かに大計を図り、社稷を安んじた」と述べたため、陰謀の功績を記録し、李郃を涉都侯に封じたが、辞退して受けなかった。八十余歳で家で亡くなった。門人の上党の馮冑だけが喪服を着て、心の中で三年間喪に服し、当時の人々はこれを異としていた。

原文安帝崩,北鄉侯立,復為司徒。及北鄉侯病,郃陰與少府河南陶範、步兵校尉趙直謀立順帝,會孫程等事先成,故郃功不顯。明年,坐吏民疾病,仍有災異,賜策免。將作大匠翟酺上郃「潛圖大計,以安社稷」,於是錄陰謀之功,封郃涉都侯,辭讓不受。年八十餘,卒於家。門人上黨馮冑獨制服,心喪三年,時人異之。

馮冑は字を世威といい、馮奉世の子孫である。常に周伯況や閔仲叔の人物を慕い、山沢に隠れ住み、徴辟に応じなかった。

原文冑字世威,奉世之後也。常慕周伯況、閔仲叔之為人,隱處山澤,不應徵辟。

李郃の子の固は、すでに前の伝に見える。弟子の歴は字を季子という。清廉潔白で節操があり、博学で交際を好み、鄭玄や陳紀らと親交を結んだ。新城県の長となり、政治は無為を貴んだ。また方術を好んだ。天下が旱魃の時、県内だけは特別に雨が降った。官は奉車都尉に至った。

原文郃子固,已見前傳。弟子歷,字季子。清白有節,博學善交,與鄭玄、陳紀等相結。為新城長,政貴無為。亦好方術。時,天下旱,縣界特雨。官至奉車都尉。

段翳

原文段翳

段翳は字を元章といい、広漢郡新都県の人である。『易経』を学び、風角に明るかった。時に彼に学ぼうとする者がいたが、まだ到着していなくても、必ずその姓名を予め知っていた。かつて渡し場の役人に告げて言った。「ある日に、書生二人が荷を担いで段翳の家を尋ねて来るだろう。どうか教えてやってほしい。」後日、果たしてその通りになった。また一人の書生が学びに来て、数年経ち、おおよそ要術を究めたと思い、辞して故郷に帰ろうとした。段翳は膏薬を調合し、それに手紙を添えて筒の中に封じ、書生に告げて言った。「急なことがあったら開けて見よ。」書生は葭萌に着き、役人と渡しを争い、渡し場の役人が従者の頭を殴り割った。書生が筒を開けて手紙を得ると、「葭萌に着き、役人と争って頭を割られた者には、この膏薬で包め」と書いてあった。書生はその言葉を用いると、傷はすぐに癒えた。書生は感嘆して服し、戻って学業を終えた。段翳はその後、隠居して姿をくらまし、家で亡くなった。

原文段翳字元章,廣漢新都人也。習《易經》,明風角。時有就其學者,雖未至,必豫知其姓名。嘗告守津吏曰:「某日當有諸生二人,荷擔問翳舍處者,幸為告之。」後竟如其言。又有一生來學,積年,自謂略究要術,辭歸鄉里。翳為合膏藥,並以簡書封於筒中,告生曰:「有急發視之。」生到葭萌,與吏爭度,津吏楇破從者頭。生開筒得書,言到葭萌,與吏鬥頭破者,以此膏裹之。生用其言,創者即愈。生嘆服,乃還卒業。翳遂隱居竄跡,終於家。

廖扶

原文廖扶

廖扶は字を文起といい、汝南郡平輿県の人である。『韓詩』と『欧陽尚書』を学び、常に数百人の学生を教授した。父は北地太守であったが、永初年間に羌族の侵入で郡が陥落した罪に連座して獄死した。廖扶は父が法によって命を落としたことを思い、役人になることを恐れた。喪が明けた時、彼は嘆息して言った。「老子に『名と身と孰れか親しき』という言葉がある。私はどうして名声のために生きようか!」こうして世間を捨てる決意を固めた。経典に専念し、特に天文・讖緯・風角・推歩の術に明るかった。州郡や公府が召し出しても、すべて応じなかった。災異について尋ねられても、何も答えなかった。

原文廖扶字文起,汝南平輿人也。習《韓詩》、《歐陽尚書》,教授常數百人。父為北地太守,永初中,坐羌沒郡下獄死。扶感父以法喪身,憚為吏。及服終而歎曰:「老子有言:『名與身孰親?』吾豈為名乎!」遂絕志世外。專精經典,尤明天文、讖緯,風角、推步之術。州郡公府辟召,皆不應。就問災異,亦無所對。

廖扶は前もって凶作の年が来ることを知り、数千斛こくの穀物を蓄え、すべてを宗族や姻戚に与え、また疫病で死亡し自分で葬ることもできない者を埋葬した。常に先祖の墓のそばに住み、一度も都市に入ることはなかった。太守の謁煥は、以前は儒生で廖扶に学んだことがあった。後に郡の長官として赴任する際、到着する前にまず役人を遣わして門人としての礼を修めさせ、さらに廖扶の子弟を登用しようとしたが、固辞された。当時の人々は彼を北郭先生と呼んだ。八十歳で家で亡くなった。

原文扶逆知歲荒,乃聚谷數千斛,悉用給宗族姻親,又斂葬遭疫死亡不能自收者。常居先人塚側,未曾入城市。太守謁煥,先為諸生,從扶學。後臨郡,未到,先遣吏修門人之禮,又欲擢扶子弟,固不肯,當時人因號為北郭先生。年八十,終於家。

二人の息子、孟挙と偉挙はともに名を知られた。

原文二子,孟舉、偉舉,並知名。

折像

原文折像

折像は字を伯式といい、広漢郡雒県の人である。先祖の張江という者が折侯に封ぜられ、その曾孫の折国が鬱林太守となり、広漢に移住し、封邑の名を氏とした。折国が折像を生んだ。

原文折像字伯式,廣漢雒人也。其先張江者,封折侯,曾孫國為鬱林太守,徙廣漢,因封氏焉。國生像。

折国には二億の財産と八百人の家来がいた。折像は幼い頃から仁愛の心を持ち、昆虫を殺さず、芽を折らなかった。『京氏易』に通じ、黄老の思想を好んだ。折国が亡くなると、多くを蓄えれば失うものも大きいという道理を感じ、金銭や絹、資産をばらまき、親しい者も疎遠な者も広く施した。ある人が折像を諫めて言った。「あなたには三人の息子と二人の娘がおり、孫や曾孫が前にあふれている。産業を増やすべきなのに、どうして自ら財産を尽くそうとするのですか」折像は言った。「昔、斗子文が言った。『私は災いを逃れているのであって、富を避けているのではない』と。我が家は長い間財を殖やしてきた。満ち溢れることの咎めは、道家の忌むところである。今や世は衰えようとしており、息子たちも才能がない。仁愛なくして富むことは、不幸と言うべきだ。壁に隙間があって高いと、崩れるのは必ず早いものだ。」智者たちはこれを聞き、皆感服した。

原文國有資財二億,家僮八百人。像幼有仁心,不殺昆蟲,不折萌牙。能通《京氏易》,好黃、老言。及國卒,感多藏厚亡之義,乃散金帛資產,周施親疏。或諫像曰:「君三男兩女,孫息盈前,當增益產業,何為坐自殫竭乎?」像曰:「昔斗子文有言:『我乃逃禍,非避富也。』吾門戶殖財日久,盈滿之咎,道家所忌。今世將衰,子又不才。不仁而富,謂之不幸。牆隙而高,其崩必疾也。」智者聞之,咸服焉。

自らの死期を知り、賓客や九族を招いて飲食し別れを告げ、突然亡くなった。時に八十四歳。家には余財がなく、息子たちは衰え劣っていたが、彼の言った通りであった。

原文自知亡日,召賓客九族飲食辭訣,忽然而終。時年八十四。家無餘資,諸子衰劣如其言云。

樊英

原文樊英

樊英は字を季齊といい、南陽郡魯陽県の人である。若い頃に三輔で学業を受け、『京氏易』を学び、併せて五経に明るかった。また風角・星算・『河図』『洛書』の七緯、災異の推歩に優れていた。壺山の南に隠居し、学業を求めて四方から人々が訪れた。州郡が前後して礼を尽くして招聘したが応じず、公卿が賢良方正や有道に推挙しても、すべて行かなかった。

原文樊英字季齊,南陽魯陽人也。少受業三輔,習《京氏易》,兼明《五經》。又善風角、星算,《河》、《洛》七緯,推步災異。隱於壺山之陽,受業者四方而至。州郡前後禮請,不應;公卿舉賢良方正、有道,皆不行。

かつて暴風が西から起こった時、樊英は学ぶ者たちに言った。「成都市で火災が非常に激しい。」そこで水を含んで西に向かって漱ぎ、その日時を記録させた。後に蜀都から来た客が言うには、「その日大火事があり、黒い雲が突然東から起こり、たちまち大雨が降り、火は消えた。」と。これによって天下の人々は彼の術芸を称賛した。

原文嘗有暴風從西方起,英謂學者曰:「成都市火甚盛。」因含水西向漱之,乃令記其日時。客後有從蜀都來,云「是日大火,有黑雲卒從東起,須臾大雨,火遂得滅。」於是天下稱其術藝。

安帝の初め、博士に徴された。建光元年には、さらに詔を下して公車に策書を賜り、樊英と同郡の孔喬・李昺・北海の郎宗・陳留の楊倫・東平の王輔の六人を招聘したが、郎宗と楊倫だけが洛陽に到着し、樊英ら四人はついに来なかった。

原文安帝初,徵為博士。至建光元年,复詔公車賜策書,徵英及同郡孔喬、李昺、北海郎宗、陳留楊倫、東平王輔六人,唯郎宗、楊倫到洛陽,英等四人並不至。

永建二年、順帝は策書を備え礼を尽くし、玄纁を用いて樊英を招聘したが、またも病が重いと固辞した。そこで詔を下して郡県を厳しく責め、車に乗せて上道させた。樊英はやむなく都に着いたが、病気と称して起き上がろうとしなかった。強いて輿に乗せて殿中に入れたが、なおも礼によって屈しなかった。帝は怒って樊英に言った。「朕は卿を生かすことも殺すこともできる。卿を貴くすることも賤しくすることもできる。卿を富ませることも貧しくすることもできる。卿はどうして朕の命令を軽んじるのか。」樊英は言った。「臣は天命を受けております。生きて天命を全うするのも天であり、死んで天命を得られないのも天です。陛下がどうして臣を生かし、どうして殺せましょうか!臣は暴君を見れば仇敵を見るようであり、その朝廷に立つことさえ肯んじません。どうして貴くすることができましょうか?たとえ布衣の列にあり、狭い家の中にあっても、安らかに自得し、万乗の尊さと取り替えようとは思いません。どうして賤しくすることができましょうか?陛下がどうして臣を貴くし、どうして賤しくできましょうか!礼にかなわない俸禄は、たとえ万鍾でも受けません。もし自分の志を貫くならば、一簞の食でも満足します。陛下がどうして臣を富ませ、どうして貧しくできましょうか!」帝は彼を屈服させることができず、その名声を敬い、太医のもとで病気を養生させ、毎月羊と酒を贈った。

原文永建二年,順帝策書備禮,玄纁徵之,复固辭疾篤。乃詔切責郡縣,駕載上道。英不得已,到京,稱疾不肯起。乃強輿入殿,猶不以禮屈。帝怒,謂英曰:「朕能生君,能殺君;能貴君,能賤君;能富君,能貧君。君何以慢朕命?」英曰:「臣受命於天。生盡其命,天也;死不得其命,亦天也。陛下焉能生臣,焉能殺臣!臣見暴君如見仇讎,立其朝猶不肯,可得而貴乎?雖在布衣之列,環堵之中,晏然自得,不易萬乘之尊,又可得而賤乎?陛下焉能貴臣,焉能賤臣!臣非禮之祿,雖萬鍾不受;若申其志,雖簞食不厭也。陛下焉能富臣,焉能貧臣!」帝不能屈,而敬其名,使出就太醫養疾,月致羊、酒。

四年三月になると、天子は樊英のために壇席を設け、公車令に先導させ、尚書に奉引させ、几杖を賜り、師傅の礼をもって待遇し、政治の得失について質問した。樊英は辞することができず、五官中郎将に拝された。数か月後、樊英は病が重いと称し、詔によって光禄大夫とし、告帰を賜った。在所の役所に命じて千斛の穀物を送らせ、常に八月に牛一頭と酒三斛を贈ることとした。もし不幸があれば、中牢の礼で祭祀を行うようにとした。樊英は位を辞して受けなかったが、詔で趣旨を諭しても聞き入れなかった。

原文至四年三月,天子乃為英設壇席,令公車令導,尚書奉引,賜几杖,待以師傅之禮,延問得失。英不敢辭,拜五官中郎將。數月,英稱疾篤,詔以為光祿大夫,賜告歸。令在所送谷千斛,常以八月致牛一頭,酒三斛;如有不幸,祠以中牢。英辭位不受,有詔譬旨,勿聽。

樊英が最初に詔命を受けた時、人々は皆、彼が必ず志を曲げないだろうと思ったが、後に応対してみると、特に優れた謀略や深遠な策略もなく、論者は失望したという。初め、河南の張楷は樊英とともに招聘されたが、後に樊英に言った。「天下には二つの道がある。出仕することと隠居することだ。私は以前、あなたが出仕すれば、この君主を補佐し、この民を救うことができると思っていた。ところがあなたは最初、計り知れない身をもって万乗の主を怒らせ、その後、爵禄を受けると、またも匡救の術を聞かず、進退の拠り所を失ってしまった。」

原文英初被詔命,僉以為必不降志,及後應對,又無奇謨深策,談者以為失望。初,河南張楷與英俱徵,既而謂英曰:「天下有二道,出與處也。吾前以子之出,能輔是君也,濟斯人也。而子始以不訾之身,怒萬乘之主;及其享受爵祿,又不聞匡救之術,進退無所據矣。」

樊英は術に優れていたので、朝廷で災異があるたびに、詔が下って変異を回復させる効果について問うと、彼の言うことは多くが的中した。

原文英既善術,朝廷每有災異,詔輒下問變復之效,所言多驗。

初めに、樊英は『易章句』を著し、世に樊氏学と呼ばれ、図緯を教授した。潁川の陳寔は、若くして樊英に師事した。かつて樊英が病気になった時、妻が侍女を遣わして見舞いの礼をさせたところ、樊英は床から降りて答礼した。陳寔は不思議に思ってその理由を尋ねた。樊英は言った。「妻は、対等な伴侶である。共に祭祀を奉じる者として、礼において答礼しないことはない。」彼の恭しさと慎み深さはこのようなものであった。七十余歳で、家で亡くなった。

原文初,英著《易章句》,世名樊氏學,以圖緯教授。潁川陳寔,少從英學。嘗有疾,妻遣婢拜問,英下床答拜。寔怪而問之。英曰:「妻,齊也。共奉祭祀,禮無不答。」其恭謹若是。年七十餘,卒於家。

孫の樊陵は、霊帝の時代に宦官に諂って仕え、司徒となった。

原文孫陵,靈帝時以諂事宦人為司徒。

陳郡の郤巡は、樊英の学問を伝え受け継ぎ、官は侍中に至った。

原文陳郡郤巡,學傳英業,官至侍中。

評語

原文評語

論じて言う。漢代にいわゆる名士と呼ばれた者の風流は、知ることができる。その弛張や進退には時に純粋でないところがあったが、情を刻み容姿を修め、道芸に依拠してその名声と価値を成し遂げたのであり、物事の道理を通達させ、時務を広めることができたわけではない。樊英や楊厚を招聘した時、朝廷は神明を待つかのようであったが、到着してみると、結局他に特段の異能はなかった。樊英の名声は最も高かったが、毀られることも最も甚だしかった。李固や朱穆らは、処士は純粋に虚名を盗むだけで、実用には益がないと考えた。だからそうなったのである。しかしながら、後進の者は彼らを慕って名声を成し、世の君主は彼らを礼遇して衆を得ようとした。その無用の根源を考えれば、それもまた用をなす所以であり、その有用はあるいは無用に帰するのである。どうしてそう言えるのか。あの輝かしい文章は、時に用にそぐわないことがある。礼楽を根本とするが、末節に適応するには疎かになることがある。それが士大夫を陶冶し、心性を飾り立て、彼らにそれに従っていながら自覚させないというのは、道が遠く用が表れ、その数理の跡に乖離しているからではないか。ところが、ある者は踏まれぬ土地を軽んじ、無用の功績を遠ざけ、遠い術策を嘲り罵り、国の精華を卑しめ斥けて、力と詐術で淪落した弊害を救い、文律だけで寧平を招致できると考え、智恵を猜疑と監察に尽くし、道を法令で満たせば、たとえ万世を救うことができても、それは夷狄と同じになってしまうであろう。孟軻が言った。『夏をもって夷を変えることは聞くが、夷をもって夏を変えることは聞かない。』ましてや、まだ救われていない者がいるではないか。

原文論曰:漢世之所謂名士者,其風流可知矣。雖弛張趣舍,時有未純,於刻情修容,依倚道藝,以就其聲價,非所能通物方,弘時務也。及徵樊英、楊厚,朝廷若待神明,至,竟無他異。英名最高,毀最甚。李固、硃穆等,以為處士純盜虛名,無益於用,故其所以然也。然而後進希之以成名,世主禮之以得眾,原其無用亦所以為用,則其有用或歸於無用矣。何以言之?夫煥乎文章,時或乖用;本乎禮樂,適末或疏。及其陶搢紳,藻心性,使由之而不知者,豈非道邈用表,乖之數跡乎?而或者忽不踐之地,賒無用之功,至乃誚噪遠術,賤斥國華,以為力詐可以救淪敝,文律足以致寧平,智盡於猜察,道足於法令,雖濟萬世,其將與夷狄同也。孟軻有言曰:「以夏變夷,不聞變夷於夏。」況有未濟者乎!