後漢書

巻八十一

独行列伝第七十一

 

孔子は言った。「中庸を得られないならば、必ずや狂か狷かであろう!」また言った。「狂者は進取し、狷者は為さざるところがある。」これはおそらく周到な道を失い、偏った極端な一端を取ったものである。しかしながら、為さざるところがあるということは、また必ず為すところがあるということでもあろう。進取すると言うならば、また取らざるところもあるであろう。このように、性質は分流し、為すか否かはそれぞれに適うのである。

中世において、一介の偏った行いの士で、名声を成し、立派な行いを立てることができた者は、おそらくまた多い。ある者は志が金石のように堅く、強暴な者に抵抗することができた。ある者は意気が冬の霜のように厳しく、小さな信義に甘んじた。また、友人を結び、協力して好みを同じくし、幽明(陰陽・生死)を共にする心を持つ者もいた。義に踏み、険を凌ぎ、死生を等しく節操とした。事柄は円通したものではないが、その風範と軌道は、十分に懐かしむに足るものである。しかし、その心情と事跡は様々に雑多で、条理立てて品評するのは難しい。断片的な言葉や特別な趣向では、区別するには足りない。省けば事柄が遺漏する恐れがあり、載せれば貫通した順序が統一されない。その名称と体裁は異なるが、操行はともに絶倫であるため、総じて『独行篇』とした。これにより諸々の欠けた文章を補い、記録や志に漏れ脱したものを記すこととしたい。

譙玄

譙玄はあざなを君黄といい、巴郡閬中の人である。若い頃から学問を好み、『易経』と『春秋』を説くことができた。州郡に仕えた。成帝の時、

易経

春秋

。州郡に仕えた。成帝

永始二年

, 日食の災異があったため、詔を下して敦朴で謙譲し、行義のある者を各一人ずつ推挙させた。州が玄を推挙し、公車に赴かせ、対策で高第を得て、議郎に任じられた。

皇帝が初めて期門を作り、しばしば微行を行った。趙飛燕を皇后に立てると、皇后は寵愛を独占して嫉妬深く、皇子たちは多く横死した。玄は上書して諫めて言った。「臣は聞く、王者は天を承け、宗統を継ぎ、業を保ち祚を延ばすには、後継ぎほど急務なものはないと。故に『易』には干蠱の義があり、『詩』には多くの福を詠んでいる。今、陛下には聖なる後継ぎがまだ立てられず、天下が属望しているのに、社稷の計を思わず、専ら微行の事に心を留め、愛幸を惑わす所に用い、曲意を非正なものに留めている。窃かに聞く、後宮の皇子は、産んでも育てられないと。臣はこれを聞いて怛然とし、心を痛め傷み、窃かに国を憂うる思いを抱き、一瞬も忘れない。警衛を修めなければ、非常の患いが生じる。突然、酔った狂人が現れ、道で争いを分かつこともある。すでに尊厳の儀がなければ、どうして上下の別を識ることができようか。これは胡狄が轂下に起こり、賊乱が左右から発するようなものである。願わくは陛下、天下の至重を思い、金玉の身を愛し、九女への施しを均しくし、窮まりなき福を存し給え。天下幸いである。」

当時、しばしば災異があったため、玄はその変異を陳べた。既に省みられ採用されなかったので、長く郎官のまま滞留した。後に太常丞に遷り、弟の喪服のため職を去った。

平帝

元始元年

, 日食があり、また詔して公卿に敦朴で直言する者を推挙させた。大鴻臚左咸が玄を推挙して公車に対策させ、再び議郎に任じられ、中散大夫に遷った。四年、政事に明達し、風俗を教化して行き渡らせることができる者八人を選んだ。時に玄も併せて推挙され、繍衣使者となり、節を持ち、太僕王惲らと分かれて天下を行き、風俗を観覧し、至る所で専ら誅賞を行った。事がまだ終わらないうちに、王莽が摂政の位に就いたため、玄はそこで使者の車を放ち、姓名を変え、隙を見て家に逃げ帰り、これによって隠遁した。

後に公孫述が蜀で僭号を称し、繰り返し招聘したが赴かなかった。述は使者を遣わし礼を備えて徴用しようとした。もし玄が起ち上がらなければ、毒薬を賜うことにした。太守自ら璽書を持って玄の家に赴き、言った。「君の高節は既に顕著であり、朝廷も心を寄せている。誠に再び辞退すべきではなく、自ら凶禍を招くべきではない。」玄は天を仰いで嘆いて言った。「唐堯は大聖であるが、許由は仕えることを恥じた。周の武王は至徳であるが、伯夷は餓死を守った。彼らは一体何者か、私もまた何者か。志を保ち高節を全うし、死んでも何の恨みがあろうか。」遂に毒薬を受け取った。玄の子の瑛が血の涙を流して太守に叩頭し言った。「今、国家は東に厳しい敵があり、兵師が四方に出ている。国の用いる軍資は、常に充足しているとは限らない。願わくは家の銭千万を奉じて、父の死を贖いたい。」太守が請うと、述はこれを許した。玄は遂に田野に隠れ、述の世が終わるまで過ごした。

当時、兵戈が累年続き、誰も学業を修め尊ぶことができなかったが、玄だけは諸子を訓え、経書を勤勉に習わせた。

建武十一年

に卒去した。翌年、天下が平定されると、玄の弟の慶が状況を記して宮闕に赴き自ら陳べた。光武帝はこれを称美し、詔書を下して本郡に中牢で祭祀させ、所在の役所に玄の家の銭を返還するよう命じた。

当時、犍為の費貽という者もおり、述に仕えることを肯んぜず、漆を体に塗って癩病になり、狂ったふりをしてこれを避け、山薮に退き隠れて十余年過ごした。述が破れた後、合浦太守まで仕官した。

瑛は『易』を説くのが巧みで、これを顕宗に授け、北宮衛士令となった。

李業

李業は字を巨遊といい、広漢郡梓潼県の人である。若い頃から志操があり、孤高で独特であった。『魯詩』を習い、博士の許晃に師事した。元始年間、明経に挙げられ、郎に任じられた。

王莽が摂政の地位にあった時、業は病気を理由に官職を辞し、門を閉ざして州郡からの召しに応じなかった。太守の劉咸が強引に召し出そうとしたので、業は病を押して車に乗り門前に赴いた。劉咸は怒り、教令を出して言った。「賢者は害を避けず、まるで弩を引き絞って市中を射るようなもので、運の薄い者が先に死ぬ。業の名声を聞き、故に彼と共に政治を行おうとしたのに、逆に病気を口実にするとは。」そして獄に赴いて病気を養うよう命じ、彼を殺そうとした。客が劉咸を諫めて言った。「趙が鳴犢を殺した時、孔子は黄河のほとりに臨んで立ち去った。賢者を求めて牢獄で脅迫したなどとは聞いたことがない。」劉咸はそこで業を釈放し、方正に推挙した。王莽は業を酒士に任命したが、業は病気を理由に赴任せず、遂に山谷に隠れ、名跡を絶って、王莽の世が終わるまで過ごした。

公孫述が帝号を僭称せんしょうすると、平素から業の賢さを聞いていたので、彼を徴召し、博士にしようとしたが、業は固く病気を理由に起き上がらなかった。数年後、公孫述は業を招くことができず恥じ、大鴻臚の尹融に毒酒を持たせ、詔命を奉じて業を脅迫させた。もし起き上がれば公侯の位を受け、起き上がらなければ薬を賜るというものだった。尹融は趣旨を説いて言った。「今、天下は分崩離析し、誰が是非を知ろうか。それなのに、わずかな身をもって、測り知れぬ深淵を試みようとするのですか。朝廷はあなたの名声と徳を貪り慕い、官職を空け位を欠いたまま、今や七年になります。四季折々の珍しい御物も、あなたのことを忘れずにいます。上は知己に奉じ、下は子孫のために、身も名も共に全うするのが、優れたことではないでしょうか。今、数年も起き上がらないと、猜疑と敵意が生じ、凶禍がすぐに加えられるでしょう。それは得策ではありません。」業は嘆いて言った。「危険な国には入らず、乱れた国には住まない。自ら不善を行う者に親しむことは、義によって従うべきではない。君子は危険を見て命を授けるものだ。どうして高位や重い餌で誘惑するのか。」尹融は業の言葉と志が屈しないのを見て、また言った。「家族を呼んで相談すべきです。」業は言った。「大丈夫の決断は心の中で久しく決まっている。妻や子がどうしようというのか。」遂に毒を飲んで死んだ。公孫述は業の死を聞き、大いに驚き、また賢者を殺した名を恥じ、使者を遣わして弔問し祭祀を行わせ、百匹の絹を贈った。業の子の翚は逃げ隠れて受け取らなかった。

蜀が平定されると、光武帝は詔を下してその里門を表彰し、『益部紀』にはその高潔な節操が記され、その姿が絵に描かれた。

初め、平帝の時、蜀郡の王皓は美陽県令となり、王嘉は郎となった。王莽が帝位を簒奪すると、共に官職を棄てて西に帰った。公孫述が帝を称すると、使者を遣わして王皓と王嘉を徴召した。来ないことを恐れ、先に彼らの妻子を拘束した。使者が王嘉に言った。「早く支度しなさい。妻子は全うできる。」王嘉は答えて言った。「犬や馬でさえ主人を知る。まして人においておや。」王皓は先に自刎し、その首を使者に渡した。公孫述は怒り、遂に王皓の家族を誅殺した。王嘉はこれを聞いて嘆き言った。「遅かったなあ。」そして使者に対し剣に伏して死んだ。

この時、犍為郡の任永と、業と同じ郡の馮信は、共に博学で古事を好んだ。公孫述が連続して徴命を出し、高位をもって待遇したが、皆、青盲(失明)を理由に、世の難を避けた。任永の妻は彼の目の前で淫行に及んだが、彼は感情を隠して何も言わなかった。子が井戸に落ちるのを見ても、耐えて救わなかった。馮信の侍女も馮信に対して姦通した。公孫述が誅殺されたと聞くと、皆、顔を洗い目を開けて言った。「世がちょうど平らかになったので、目がすぐに明るくなった。」淫行を行った者は自殺した。光武帝はこれを聞いて彼らを徴召したが、共に病気で死去した。

劉茂

劉茂は字を子衛といい、太原郡晋陽県の人である。幼くして孤児となり、独りで母に仕えて暮らした。家は貧しく、体力で生計を立て、孝行が郷里に顕著であった。成長すると、『礼経』を習得し、教授して常に数百人の弟子がいた。哀帝の時、孝廉に察挙され、再び転任して五原属国候となったが、母の喪に遭い官を去った。喪が明けた後、沮陽県令となった。王莽が帝位を簒奪すると、劉茂は官を棄て、世を避けて弘農郡の山中で教授した。

建武二年

帰還し、郡の門下掾となった。その時、赤眉軍二十万余りが郡県を攻め、長吏や府の掾史を殺した。劉茂は太守の孫福を背負って城壁を越え、空いた穴に隠れ、難を免れた。その夜、共に盂県に逃げた。昼は逃げ隠れ、夜は食糧を求めた。百余日が経ち、賊が去って、ようやく府に帰ることができた。翌年、詔書が天下の義士を求めた。孫福が劉茂について言上した。「臣は以前、赤眉軍に攻められ、吏民は死傷し、山へと逃げ走りました。臣は賊に包囲され、命は糸のように危うかったのですが、劉茂が臣を背負って城を越え、盂県に出て守ってくれたおかげです。劉茂は弟と共に兵刃を冒し、山を伝って食糧を背負い、臣と妻子は死命を免れることができました。その節義は特に高いです。表彰抜擢されるべきで、義士を励ますのにふさわしいです。」詔書によりすぐに劉茂を徴召し、議郎に拝し、宗正丞に転任した。後に侍中に拝し、官のまま死去した。

延平年間、鮮卑の数百余騎が漁陽郡を寇掠し、太守の張顕が吏士を率いて塞外に追撃した。遠くに敵の陣営の煙火を望み、急いで向かった。兵馬掾の厳授は伏兵があることを憂慮し、苦しく諫めて止めようとしたが、聞き入れられなかった。張顕は進軍を急がせ、厳授はやむを得ず前進して戦い、伏兵が現れ、厳授は体に十か所の傷を受け、陣中で戦死した。張顕は刃を抜いて散兵を追ったが、制することができず、敵の矢が張顕に命中した。主簿の衛福と功曹の徐咸が急いで駆けつけたが、張顕は馬から落ち、衛福が身をもってかばったが、敵は共に彼らを殺した。朝廷は厳授らの節義を哀れみ、詔書で褒め称え、手厚く賞賜を加え、それぞれ子一人を郎中に任じた。

永初二年

、大賊の畢豪らが平原郡の境界に入り、県令の劉雄が吏士を率いて船に乗って追撃した。厭次河に至り、賊と合戦した。劉雄は敗れ、捕らえられ、矛で刺された。その時、小吏の所輔が前に進み出て叩頭し哀願し、身代わりになることを願った。畢豪らは劉雄を放し、所輔を刺し、心臓を貫き背中を突き通して即死させた。東郡太守が畢豪らを捕らえ、詳細を上奏した。詔書が下り、その死を追悼し、銭二十万を賜り、父の奉を郎中に任じた。

温序

温序は字を次房といい、太原郡祁県の人である。州の従事に仕えた。

建武二年

騎都尉の弓里戍が兵を率いて北州を平定し、太原に至り、各地で英俊の大人を訪ね、策謀を問うた。戍は序を見てその非凡さを認め、上疏して推薦した。そこで侍御史に召し出され、武陵都尉に昇進したが、病気で官を免じられた。

六年、謁者に任命され、護羌校尉に昇進した。序が管轄区域を巡行して襄武に至った時、隗囂の別将である苟宇に拘束・脅迫された。宇は序に言った。「あなたが私と力を合わせて威勢を併せれば、天下を手にすることができる。」序は言った。「国の重責を受け、分に応じて死を尽くすべきであり、義のために生きることを貪り、恩徳に背くことはしない。」宇らはさらに諭し説得した。序は元来気力に富み、大いに怒り、宇らを叱って言った。「虜め、どうして漢の将を脅迫することができようか!」そして節の杖で数人を打ち殺した。賊の群衆は争って彼を殺そうとした。宇は彼らを止めて言った。「これは義士であり、節を守って死ぬのだ。剣を与えてやれ。」序は剣を受け取り、口にひげをくわえ、左右を見回して言った。「既に賊に迫られて殺されるのだから、ひげを土で汚させてはならない。」そして剣に伏して死んだ。

序の主簿である韓遵と従事の王忠が遺体を持ち帰って葬った。光武帝はこれを聞き憐れみ、王忠に命じて喪を洛陽まで送らせ、城の傍らに墓地を与え、葬儀の助けとして穀物千こくと絹五百匹を賜り、三人の子を郎中に取り立てた。長男の寿は喪が明けて鄒平侯の相となった。夢の中で序が告げて言った。「長く客としており故郷が恋しい。」寿はすぐに官を棄て、上書して骸骨を帰葬することを乞うた。帝はこれを許し、そこで古い墓所に戻って葬った。

彭脩

彭脩は字を子陽といい、会稽郡毘陵県の人である。十五歳の時、父が郡の役人で、休暇を得て、脩と共に帰る途中、盗賊に襲撃された。脩は窮地に陥り、佩刀を抜いて前に進み出て賊の頭目を捕らえて言った。「父が辱めを受ければ子は死ぬ。あなたは死を顧みないのか?」盗賊たちは互いに言った。「この童子は義士だ。彼を追い詰めるべきではない。」そして謝罪して去った。郷里の人々はその名を称えた。

後に郡に出仕して功曹となった。当時、西部都尉の宰祐が太守の職務を代行し、些細な過失で呉県の獄吏を捕らえ、殺そうとした。主簿の鍾離意が激しく諫争したので、祐は怒り、彼を捕らえて縛り、取り調べようとしたが、掾史たちは誰も諫める者がいなかった。脩は扉を押し開けて直入し、庭で拝礼して言った。「明府が主簿に対して雷霆を発せられたと聞きます。その過失をお聞かせください。」祐は言った。「命令を受けて三日になるが、全く従わず、命令を放棄して不忠である。これが過ちではないのか?」脩は拝礼して言った。「昔、任座が文侯の面前で諫め、朱雲が欄干を引き壊しました。賢君でなければ、どうして忠臣を得られましょうか。今、慶賀すべきは明府が賢君であり、主簿が忠臣であることです。」祐はついに意の罰を許し、獄吏の罪を赦した。

後に州から従事に召された。当時、賊の張子林ら数百人が乱を起こし、郡は州に報告し、彭脩に呉県令を守らせるよう請うた。脩は太守と共に出陣して賊を討伐した。賊は車馬を見ると、競って射かけ、飛び交う矢が雨のように降り注いだ。脩は太守をかばったが、流れ矢に当たって死に、太守は全うされた。賊は平素から彼の恩信を聞いていたので、すぐに脩を射た弩の者を殺し、残りは全て降伏して散った。彼らは言った。「彭君のためだから降るのであって、太守に服従するためではない。」

索盧放

索盧放は字を君陽といい、東郡の人である。『尚書』を教授し、千余人の弟子がいた。初め郡の門下掾に任用された。更始帝の時、使者が郡国を巡察し、太守に罪があり、斬刑に処せられようとした。放が前に進み出て言った。「今、天下が王氏を苦しみ憎み、皇漢に心を寄せているのは、実に聖なる政治が寛大で仁愛があるからです。しかし伝車が通る所で、恩沢を聞いたことはありません。太守が誅殺されるのは、確かに口を挟むべきではありませんが、ただ天下が恐れおののき、それぞれ疑念を抱いて変事を起こすことを恐れます。功績のある者を使うよりは過ちを犯した者を使う方が良いと言います。どうか私の身をもって太守の命に代えさせてください。」そして前に進み出て斬られようとした。使者はその義を感じて赦し、これによって名声が高まった。

建武六年

、洛陽令に召し出され、政治に手腕があり名声があった。病気を理由に引退を願い出た。諫議大夫に転任し、たびたび忠言を献上したが、後に病気で去った。建武の末年に再び召し出されたが応じず、光武帝は人に輿で運ばせ、南宮の雲台で引見し、穀物二千斛を賜り、帰らせ、子を太子中庶子に取り立てた。家で死去した。

周嘉

周嘉は字を恵文といい、汝南郡安城県の人である。高祖父の燕は、宣帝の時に郡の決曹掾であった。太守が無実の者を殺そうとしたので、燕は諫めたが聞き入れられず、ついに囚人を殺し、燕を罷免した。囚人の家族が宮門の前に詰めかけて冤罪を訴えたので、詔によって再調査が派遣された。燕は太守に会って言った。「どうか文書を慎重に作成し、全て私の名を記してください。府君はただ当時病気だったとおっしゃるだけで結構です。」出て掾史たちに言った。「諸君が尋問されたら、全て罪を私に押し付けてください。一言でも府君に及ぶことがあれば、燕は自ら剣を取って刃向かいます。」使者はついに燕を収監して獄につないだ。たびたび鞭打たれ拷問されたが、供述を曲げることはなかった。蚕室に入れられることになった時、嘆いて言った。「私は平王の末裔であり、正公の玄孫である。どうして刀鋸の残った身で先君にお目にかかることができようか?」そして食事を取らずに死んだ。燕には五人の子がおり、皆が刺史や太守にまでなった。

嘉は郡に出仕して主簿となった。王莽の末年に、郡の賊が汝陽城に入り、嘉は太守の何敞に従って賊を討った。敞は流れ矢に当たり、郡兵は敗走し、賊は数十重に取り囲み、白刃が交錯した。嘉はそこで敞を抱きかかえ、身をもって彼を守った。そして賊を叱りつけて言った。「卿らは皆、人の臣下である。賊となったのはすでに道理に背いているが、どうしてさらにその主君を害することがあろうか。嘉は命をもって君の命を贖うことを請う。」そこで天を仰いで号泣した。群賊はそこで互いに顔を見合わせ、「これは義士だ」と言い、車馬を与えて送り返した。

その後、太守の寇恂が孝廉に推挙し、尚書侍郎に任じられた。光武帝が引見して、遭難のことを問うと、嘉は答えて言った。「太守が傷つき、命は賊の手に懸かっていました。臣は実に弩鈍で臆病であり、死んで難に殉ずることができませんでした。」帝は言った。「これは長者である。」詔して嘉に公主を娶らせようとしたが、嘉は病が重いと称して、承知しなかった。

次第に昇進して零陵太守となり、職務に当たること七年、死去した。零陵ではその遺愛を称え、官吏と民衆が祠を建立した。

嘉の従弟の暢は、字を伯持といい、性質が仁慈で、河南尹となった。

永初二年

夏、旱魃が続き、長く祈っても応えがなかった。暢はそこで洛城の傍らに客死した骸骨を収葬し、合わせて一万余人に及んだ。たちまち大雨が降り、その年は豊作となった。位は光禄勲に至った。

范式

范式は字を巨卿といい、山陽郡金郷県の人である。一名を汜といった。若くして太学に遊学し、諸生となり、汝南郡の張劭と友となった。劭は字を元伯という。二人はともに帰郷を告げた。式は元伯に言った。「後二年に必ず戻り、尊親を訪ね拝謁し、子供にも会おう。」そこでともに期日を定めた。後、期日が近づくと、元伯はことごとく母に告げ、食事を設けて待つことを請うた。母は言った。「二年の別れ、千里の約束を言葉で結んだだけなのに、どうしてそれほど確信しているのか。」答えて言った。「巨卿は信義の士です。必ず違えることはありません。」母は言った。「それならば、あなたのために酒を醸そう。」その日になると、巨卿は果たして到着し、堂に上がって拝礼し酒を酌み交わし、歓びを尽くして別れた。

式は出仕して郡の功曹となった。後、元伯が病に臥せって重篤となると、同郡の郅君章と殷子徵が朝晩見舞った。元伯は臨終に際し、嘆いて言った。「我が死友に会えぬのが残念だ!」子徵が言った。「私と君章があなたに心を尽くしている。これが死友でなくて、他に誰を求めるというのか。」元伯は言った。「お二人のような方は、私の生ける友です。山陽の范巨卿こそ、いわゆる死友なのです。」間もなく死去した。式はふと夢に元伯が玄い冠に垂れ飾りを下げ、履を履いて呼ぶのを見た。「巨卿よ、私はある日に死に、ある時に葬られる。永遠に黄泉に帰る。あなたが私を忘れず、どうして追いつけようか。」式ははっと目を覚まし、悲しみ嘆いて涙を流し、ことごとく太守に告げ、葬儀に駆けつけることを請うた。太守は内心信じなかったが、その心情に逆らうことを重んじ、許した。式はすぐに朋友の喪服を着て、葬りの日を目指して馳せ参じた。式が到着する前に、葬列は既に出発していた。墓穴に着き、棺を下ろそうとしたが、柩は進もうとしなかった。その母が撫でて言った。「元伯よ、何か望みがあるのか。」そこで柩をしばらく停めたところ、白い車に白馬を繋いだ者が号哭しながら来るのが見えた。その母がそれを見て言った。「きっと范巨卿だ。」巨卿が到着すると、喪に叩頭して言った。「行け、元伯!死と生の道は異なり、永遠にここで別れる。」会葬した者は千人、皆涙を流した。式はそこで棺綱を執って柩を引き、そこでようやく前進した。式はそこで墓の傍らに留まり、墳墓を修め樹木を植え、それから去った。

後に京師に行き、太学で学業を受けた。当時、諸生の長沙の陳平子も同じく学んでいたが、式とは会ったことがなかった。平子は病にかかり亡くなろうとして、妻に言った。「私は山陽の范巨卿は烈士だと聞いている。死を託すことができる。私が死んだ後は、ただ屍を巨卿の戸の前に埋めてくれ。」そこで白絹を裂いて手紙を書き、巨卿に遺した。死んだ後、妻はその言葉に従った。時に式は外出からちょうど帰り、手紙を見て埋葬されたのを知り、悲しみに感じ、墓に向かって揖礼して泣き、死友とした。そこで平子の妻子を保護し、自ら臨湘まで葬送した。あと四五里のところで、白絹の手紙を柩の上に置き、泣いて別れて去った。その兄弟がこれを聞き、探し求めたが再び会うことはなかった。長沙の上計掾史が京師に到着し、上書して式の行状を表彰した。三府がともに召し出したが、応じなかった。

州から茂才に推挙され、四度の昇進を経て荊州刺史となった。友人の南陽の孔嵩は、家が貧しく親が老いていたため、姓名を変えて、新野県阿里の街の卒として雇われた。式が巡察で新野に到着すると、県は嵩を選んで先導騎として式を迎えさせた。式は見て彼と気づき、嵩を呼び、腕を取って言った。「あなたは孔仲山ではないか。」彼に対して嘆息し、平生のことを語った。「昔、あなたとともに長い裾を引きずり、帝学に遊び学んだ。私は国恩を蒙り、牧伯の地位に至ったが、あなたは道を懐いて身を隠し、卒伍の中にいるのは、惜しいことではないか。」嵩は言った。「侯嬴は長く賤業を守り、晨門は抱関に志を恣にした。あなたが九夷に住もうとしても、その陋を患わない。貧しさは士の当然のことであり、どうして卑しいと言えようか。」式は県に命じて嵩の代わりをさせようとしたが、嵩は先の雇いが終わっていないとして、去ることを肯んじなかった。

嵩は阿里で、身を正し行いを励み、街中の子弟は皆その訓化に服した。そこで公府に召し出された。京師に行く途中、下亭に宿泊すると、盗賊が一緒にその馬を盗んだ。尋ねてそれが嵩だと知ると、互いに責め合って言った。「孔仲山は善士である。どうして侵盗すべきだろうか。」そこで馬を返して謝罪した。嵩は官位は南海太守に至った。

式は後に廬江太守に転じ、威名があり、官の任上で死去した。

李善

李善は字を次孫といい、南陽郡淯陽県の人である。もとは同県の李元の蒼頭であった。建武年間に疫病が流行し、元の家では相次いで死没し、ただ孤児の李続が生まれて数十日ばかりで、財産は千万あった。諸奴婢がひそかに相談し、続を謀殺してその財産を分けようとした。善は李氏のことを深く悲しんだが、力で抑えることができず、ひそかに続を背負って逃げ去り、山陽郡瑕丘県の境界に隠れ住み、自ら哺育し、乳を生じさせて与えた。乾いた所を推しやって自らは湿った所に居り、艱難辛苦をことごとく嘗めた。続は幼児であっても、彼を奉ずることは成人の主君と異ならず、事があれば必ず長跪して請い告げてから行った。里の人々はその行いに感動し、皆相率いで義を修めた。続が十歳の時、善は彼を連れて本県に帰り、旧業を整えた。長吏に奴婢たちを告訴し、ことごとく捕らえて殺させた。時に鐘離意が瑕丘令であり、上書して善の行状を推薦した。光武帝は詔して善と続をともに太子舎人に任じた。

善は顕宗の時に公府に辟召され、劇務を処理する能力によって、再び日南太守に遷った。京師から任地へ赴く途中、淯陽を経由し、李元の冢を訪れた。一里に至る前に、朝服を脱ぎ、鋤を持って草を刈った。墓を拝し、非常に悲しんで泣き、自ら炊事をし、鼎俎を執って祭祀を修めた。涙を流して言った、「君夫人、善がここにおります」。哀悼を尽くし、数日後に去った。任地に着くと、慈愛と恵みをもって政治を行い、異なる風俗の民を懐柔した。九江太守に遷ったが、任地に着く前に、道中で病没した。続いて河間相に至った。

王忳

王忳は字を少林といい、広漢郡新都県の人である。王忳はかつて京師に行き、空き家の中で一人の書生が重病で苦しんでいるのを見て、哀れに思い看病した。書生は王忳に言った、「私は洛陽に行くはずだったが、病にかかり、命は今にも尽きようとしている。腰の下に金十斤があるので、贈りたい。死後、遺骸を埋葬してほしい」。姓名を問う間もなく絶命した。王忳はすぐに金一斤を売り、その葬儀と埋葬を営み、残りの金はすべて棺の下に置き、誰にも知られなかった。数年後に帰郷すると、県は王忳を大度亭長に任命した。初めて着任した日、一頭の馬が亭の中に駆け込んで止まった。その日、大風が一枚の刺繡の被を吹き飛ばし、また王忳の前に落ちた。王忳はすぐに県に報告し、県はそれを王忳に与えた。王忳は後に馬に乗って雒県に行くと、馬は走り出し、王忳を引っ張って別の家に入った。主人はそれを見て喜んで言った、「今、盗賊を捕らえた」。王忳に馬を得た経緯を尋ねると、王忳はその状況を詳しく話し、刺繡の被にも言及した。主人はしばらく茫然としていたが、やがて言った、「被は旋風に乗って、馬とともに失われた。あなたはどんな陰徳があってこの二つの物を得たのか」。王忳は書生を埋葬したことを思い出し、それについて話し、書生の容貌と金を埋めた場所も述べた。主人は大いに驚き、叫んで言った、「それは私の息子だ。姓は金、名は彦という。以前京師に行き、行方がわからなかった。まさかあなたが埋葬してくれるとは。大恩を長く報いることができず、天がこれであなたの徳を顕わにしたのだ」。王忳は被と馬をすべて返そうとしたが、彦の父は受け取らず、さらに王忳に厚く贈り物をした。王忳は辞退して去った。当時、彦の父は州の従事をしており、新都県令に告げて王忳に休暇を取らせ、自ら共に彦の遺体を迎えに行き、残りの金はすべて残っていた。王忳はこれによって名声を顕わにした。

郡の功曹に仕え、州の治中従事となった。茂才に挙げられ、郿県令に任命された。任地に着き、斄亭に至った。亭長が言った、「亭には鬼がいて、しばしば通行人を殺すので、宿泊できません」。王忳は言った、「仁は凶邪に勝ち、徳は不祥を除く。鬼を避けることなどあるものか」。すぐに亭に入って宿泊した。夜中に女子が冤罪を訴える声が聞こえた。王忳は呪文を唱えて言った、「どんな冤罪があるのか、前に出て道理を求めよ」。女子は言った、「衣服がないので、進めません」。王忳は衣服を投げて与えた。女子は前に出て訴えた、「私の夫は涪県令で、任地へ赴く途中この亭に宿泊しました。亭長が無礼にも、私の家族十数人を賊のように殺し、楼の下に埋め、財貨をすべて奪いました」。王忳は亭長の姓名を尋ねた。女子は言った、「今の門下の遊徼です」。王忳は言った、「お前はなぜしばしば通行人を殺すのか」。答えて言った、「私は昼間に訴えることができず、毎夜冤罪を訴えても、客は眠って応じようとせず、耐えきれない憤りから、殺してしまうのです」。王忳は言った、「お前のこの冤罪を理めてやろう。もう善良な人を殺すな」。そこで衣服を地面に脱ぎ置くと、忽然と姿を消した。翌朝、遊徼を召し出して詰問すると、罪を認めたので、すぐに拘束し、共謀者十余人もすべて罪に伏した。役人を遣わしてその遺体を故郷に送り返させ、これによって亭は清らかで安らかになった。

張武

張武は、呉郡由拳県の人である。父の業は、郡の門下掾で、太守の妻と子を故郷に送る途中、河内亭で盗賊が夜襲し、業は賊と戦って死に、ついに遺体も失われた。張武は当時幼く、父の顔を知らなかった。後に太学で学業を受け、毎節句には、常に父の遺した剣を持ち、父の死んだ場所に行って祭り、泣いて帰った。太守の第五倫はその行いを称え、孝廉に推挙した。母の喪に遭い過度に悲しみ、父の魂が帰らないことを傷み、哀痛のあまり命を絶った。

陸続

陸続は字を智初といい、会稽郡呉県の人である。代々名族であった。祖父の閎は、字を子春といい、建武年間に尚書令となった。容姿が美しく、越布の単衣を好んで着た。光武帝はそれを見て気に入り、これ以後常に会稽郡に越布を献上するよう命じた。

陸続は幼くして孤児となり、郡の戸曹史に仕えた。当時、凶作で民が飢えていた。太守の尹興は陸続に都亭で民に粥を施すよう命じた。陸続は民をすべて点検し、姓名を尋ねた。事が終わると、尹興はどれだけの人が食べたかと尋ねた。陸続は口頭で六百余人を挙げ、それぞれ姓と名を区別し、誤りはなかった。尹興はこれを異とした。刺史が巡察に来て陸続を見て、別駕従事に辟召した。病気で辞し、郡の門下掾に戻った。

この時、楚王の劉英が謀反を企て、ひそかに天下の善士を名簿にしていた。楚王の事件が発覚すると、顕宗はその名簿を手に入れ、尹興の名があったので、尹興を廷尉の獄に召し出した。陸続は主簿の梁宏、功曹史の驷勲および掾史五百余人と共に洛陽の詔獄に行って取り調べを受け、役人たちは苦痛に耐えられず、大半が死んだ。ただ陸続、梁宏、驷勲だけは五毒の拷問を受け、筋肉が爛れても、終始言葉を変えなかった。陸続の母は遠く京師まで来て、消息をうかがったが、獄事が特に急を要し、陸続と連絡を取る機会がなかった。母はただ食事を作り、門番に渡して差し入れた。陸続は拷問の苦痛を受けても、言葉と表情は意気盛んで、一度も顔色を変えなかったが、食事に向かっては悲しみ泣き、自らを抑えられなかった。使者は怪しんでその理由を尋ねた。陸続は言った、「母が来たのに、会えなかったので、泣いているのです」。使者は激怒し、門番が内通して意志を通じたと思い、召し出して取り調べようとした。陸続は言った、「食事の羹を食べて、母が調理した味がわかったので、来たと知ったのです。誰かが告げたのではありません」。使者は尋ねた、「どうして母が作ったとわかるのか」。陸続は言った、「母は肉を切るとき、必ず四角に切り、葱を切るときは一寸を基準にします。それでわかったのです」。使者が宿舎に尋ねると、陸続の母が確かに来ていた。そこでひそかに称賛し、上書して陸続の行状を述べた。帝はすぐに尹興らの事件を赦し、故郷に帰したが、終身禁錮とした。陸続は老病で没した。

長子の稠は広陵太守となり、治績の評判があった。中子の逢は楽安太守となった。少子の褒は力行好学で、栄誉を慕わず、たびたび招聘されても応じなかった。褒の子の康については、

前の伝

に既に見える。

戴封

戴封は字を平仲といい、済北国剛県の人である。十五歳の時、太学に行き、鄮県令の東海の申君に師事した。申君が没すると、喪を送って東海に行き、道中で自分の家を通ることになった。父母は戴封が帰るはずだと思い、あらかじめ妻を娶らせた。戴封は一時的に立ち寄って親に挨拶したが、宿泊せずに去った。京師に戻って学業を終えた。当時、同学の石敬平が熱病で没した。戴封は看病し、葬儀と納棺を行い、持っていた食糧を売って小さな棺を買い、喪を送って家まで行った。家族が改めて納棺すると、石敬平が旅立った時の書物や物がすべて棺の中にあったので、大いに驚いた。戴封は後に賊に遭い、財物をすべて奪われたが、ただ絹七匹だけが残り、賊はその所在を知らなかった。戴封は追いかけてそれを与え、言った、「諸君が困っていると知ったので、贈り物として届けます」。賊は驚いて言った、「これは賢人だ」。器物をすべて返した。

彼は孝廉に推挙され、光禄主事となったが、伯父の喪に遭い官を去った。詔書が賢良方正で直言する士、至行があり災異を消し伏せる能力のある者を求め、公卿と郡守がそれぞれ一人を推挙することとなった。郡と大司農がともに陳重を推挙した。公車で徴召され、陛下に拝謁し、対策で第一となり、議郎に抜擢された。西華県令に転任した。当時、汝南と潁川に蝗害こうがいがあったが、西華県の境界には入らなかった。督郵が県を巡行した時、蝗が突然大挙して来た。督郵がその日に去ると、蝗もまたたちまち消え去り、一帯の人々はこれを奇異に思った。その年は大旱魃となり、陳重が祈願しても効果がなかったため、柴を積んでその上に座り自ら焼死しようとした。火が燃え上がると大雨が激しく降り、これにより遠近の人々は感嘆し敬服した。

中山国の相に転任した。当時、諸県の囚人四百余人がおり、供述調書はすでに確定し、刑の執行を待つところであった。陳重は彼らを哀れみ、皆を家に帰し、期日を約束させたが、誰一人として違約する者はなかった。詔書でこれを褒め称えた。

永元十二年、

太常に徴召され、官のまま死去した。

李充

李充は字を大遜といい、陳留の人である。家は貧しく、兄弟六人が同じものを食べ、衣服を回し着していた。妻がひそかに李充に言った。「今このように貧しく暮らしているのは、長く安泰に過ごすのは難しいです。私に私財がありますので、別居を考えてください。」李充は偽ってこれに応じ、「別居したいなら、酒を醸して会を設け、郷里の内外の人々を呼び、共にそのことを相談しよう」と言った。妻は李充に従って酒宴を設け客をもてなした。李充は座中で前に進み出て跪き、母に言った。「この妻は無作法で、私に母や兄弟を離間するよう教えました。罪は追放に値します。」そしてすぐにその妻を叱責し、門の外に追い出すよう命じた。妻は涙をのんで去った。座中の者は驚き粛然とし、それにより宴は散会した。李充は後に母の喪に遭い、墓のそばで喪に服していた。ある者が彼の墓の木を盗んだので、李充は自ら手を下してこれを殺した。喪が明けると、精舎を建てて講義した。

太守の魯平が功曹に任命しようと請うたが、就任しなかった。魯平は怒り、李充を溝の中に投げ込ませ、その罪を理由に県の都亭長に任命した。やむを得ず、職務に就いた。後に和帝が公車で徴召したが、行かなかった。延平年間、詔により公卿と中二千石がそれぞれ隠士や大儒を推挙し、必ず高潔な行いの者を選び、後進を励ますこととされ、特に李充を博士として徴召した。当時、魯平もまた博士であり、集会のたびに、常に感嘆し敬服した。

李充は侍中に転任した。大将軍の鄧騭は貴戚として権勢を傾け、誰に対しても譲るところがなかったが、李充の高潔な節操のため、常に謙虚に敬った。かつて酒宴を設けて李充を招き、賓客が満堂に集まった。酒がたけなわとなった時、鄧騭は跪いて言った。「幸いにも椒房の縁に託かり、上将の位に列なっています。幕府が開設されたばかりで、天下の奇才偉人を招き、不十分なところを補いたいと思っています。どうか諸君は広くその器量を求めてください。」李充はそこで天下に隠居し道を懐く士を列挙したが、鄧騭の意にかなわない点が多かった。鄧騭は彼の話を止めようと、肉を食べさせた。李充は肉を地面に投げつけ、「士を論じることは肉よりも甘美なのだ!」と言い、立ち上がり、まっすぐに去った。鄧騭は非常に失望した。同席していた汝南の張孟挙が李充のもとを訪れて責めた。「先日、あなたが鄧将軍と士について議論を尽くさず、激しく面と向かって反論し、中和の道によらなかったと聞きました。発言の責任は、子孫を栄えさせるものではありません。」李充は言った。「大丈夫が世に生きるのは、自分の意志を行うことを貴ぶのであって、どうして遠く子孫のことを計ることができようか!」これにより貴戚から非難されるようになった。

左中郎将に転任し、八十八歳で国の三老となった。安帝は常に特別に進めて拝謁させ、几杖を賜った。家で死去した。

繆肜

繆肜は字を豫公といい、汝南郡召陵県の人である。幼くして孤児となり、兄弟四人が皆、財産を共有していた。それぞれ妻を娶ると、妻たちが別居を求めるようになり、またしばしば争いの言葉があった。繆肜は深く憤り嘆き、戸を閉めて自ら頬を打ちながら言った。「繆肜よ、お前は身を修め行いを慎み、聖人の法を学んで、風俗を整えようとしてきたのに、どうして自分の家を正すことができないのか!」弟と妻たちはこれを聞き、皆、頭を地に叩きつけて謝罪し、その後はより一層親密で和やかな行いをするようになった。

県に出仕して主簿となった。当時、県令が上奏文により糾問され、役人たちは皆、恐れて自ら罪を認めたが、繆肜だけはその事実を証拠立てた。拷問は苦痛を極め、ついには体に蛆がわくほどであった。さらに五つの獄に移され、四年以上にわたり、県令はついに自らの無実を証明して免罪となった。

太守の隴西の梁湛が彼を決曹史に召し出した。安帝の初め、梁湛が病気で官のまま死去すると、繆肜は喪を送って隴西に帰った。埋葬を始めた時、西羌が反乱を起こし、梁湛の妻子は皆、他の郡に避難したが、繆肜だけは留まって去らず、墳墓を築いた。そしてひそかに井戸の脇に穴を掘って窟室とし、昼は隠れ潜み、夜は土を運び、賊が平定された時にはすでに墳墓は完成していた。その妻子は繆肜が死んだと思い、戻ってきて見て大いに驚いた。関西の人々は皆、これを称え伝え、車馬や衣服・資金を提供したが、繆肜は受け取らずに故郷に帰った。

公府に召され、特に優れた者として推挙され、中牟県令に転任した。県は都に近く、権勢のある豪族が多かった。繆肜が着任すると、奸悪な役人や貴戚の賓客を名乗る者百余人を誅殺し、威名はたちまち広まった。官のまま死去した。

陳重

陳重は字を景公といい、豫章郡宜春県の人である。若い頃、同郡の雷義と友となり、ともに『魯詩』と『顔氏春秋』を学んだ。太守の張雲が陳重を孝廉に推挙したが、陳重は雷義に譲ろうとし、前後十数回にわたって文書で申し立てたが、張雲は聞き入れなかった。雷義は翌年に孝廉に推挙され、陳重とともに郎署に在った。

同じ郎署にいた郎官が数十万の利息付き借金を負っており、債権者が毎日のように訪れ、執拗に返済を求めてやまなかった。陳重は密かに自分の金で代わりに返済した。後にその郎官は事実を知り、厚く礼を述べて謝った。陳重は言った。「私がしたのではありません。私と同姓同名の者がしたのでしょう。」終に恩を施したことを口にしなかった。また、同じ官舎の郎官で帰省する者がおり、誤って隣の郎官の袴を持ち去ってしまった。袴の持ち主は陳重が取ったのではないかと疑い、陳重は自分から弁明せず、新たに袴を買って弁償した。後に帰省していた者が戻り、袴を持ち主に返したことで、事の真相が明らかになった。

陳重は後に雷義とともに尚書郎に任じられた。雷義が同時期の人物の罪を代わって受け、そのために免官された。陳重は雷義が去るのを見て、自分も病気を理由に官を辞した。

後に茂才に推挙され、細陽県令に任命された。政治に優れた成果を上げ、特に優れた者として推挙され、会稽太守に昇進することになったが、姉の喪に服すため官を辞した。後に司徒府に招聘され、侍御史に任じられ、その任で没した。

雷義

雷義は字を仲公といい、豫章郡鄱陽県の人である。初め郡の功曹となり、善人を推挙したが、その功績を誇らなかった。雷義はかつて人の死罪を救ったことがあり、罪人は後に金二斤を謝礼として贈ったが、雷義は受け取らなかった。金の持ち主は雷義の不在を狙い、黙って天井裏に金を投げ入れた。後に家屋を修理した際、その金が見つかった。金の持ち主はすでに死んでおり、返すあてがなかったので、雷義はそれを県の役所に納めた。

後に孝廉に推挙され、尚書侍郎に任じられた。同時期の郎官が罪を犯し、刑罰として労役に服すことになった。雷義は密かに上表してその罪を自分が引き受け、これにより司寇の刑に処せられることになった。同じ官署の郎官がこれを知り、自ら官位を返上して、雷義の罪を贖うことを願い出た。順帝は詔を下して両者とも刑罰を免除した。

雷義は帰郷し、茂才に推挙されたが、陳重に譲ろうとした。刺史が聞き入れなかったので、雷義は狂気を装い髪を振り乱して逃げ出し、任命に応じなかった。郷里の人々は彼らのためにこう言った。「膠と漆は自ら堅いと言うが、雷と陳には及ばない。」三府(太尉・司徒・司空)が同時に二人を招聘した。雷義はやがて守灌謁者となった。節を持って郡国を巡り風俗を監督する使者となり、太守や県令・県長で罪に問われた者は合わせて七十人に及んだ。間もなく侍御史に任じられ、南頓県令に任命され、その任で没した。

子の雷授は、官は蒼梧太守に至った。

范冉

范冉は字を史雲といい、陳留郡外黄県の人である。若い頃、県の下級役人となり、十八歳の時、督郵を迎えるための公文書を受け取ったが、范冉はこれを恥じ、逃げ去った。南陽に行き、樊英に師事して学んだ。また三輔の地を遊学し、馬融のもとで経書を修め、数年を経て帰郷した。

范冉は時流に逆らい俗を絶つことを好み、過激で奇抜な行いをした。常に梁伯鸞(梁鴻)や閔仲叔(閔貢)の人物を慕った。漢中の李固、河内の王奐と親しくしたが、賈偉節(賈彪)や郭林宗(郭泰)を軽蔑した。王奐が後に考城県令となった時、その管轄地域は外黄県と接しており、たびたび手紙を送って范冉を招いたが、范冉は行かなかった。王奐が漢陽太守に転任し、出発しようとした時、范冉は弟の范協と共に歩き、麦酒を持参し、道端に祭壇を設けて待った。范冉は王奐の車と従者が続々と来るのを見て、自ら名乗り出ることはせず、ただ弟と路上で議論を交わしていた。王奐はその声を聞き分け、すぐに車から降りて挨拶を交わした。王奐は言った。「道中の慌ただしい中、旧交を語り合う場所ではありません。一緒に前の宿駅に行き、宿泊して別れてからのことを語り合いましょう。」范冉は言った。「貴方が以前考城にいた時、お供したいと思いましたが、身分の低い者が勝手に高貴な友人に近づくことを避けたのです。今、貴方は千里の遠方へ行かれ、再会の期もありません。だから軽装でお待ちし、別れを告げようとしたのです。もし私が貴方について行けば、富貴を慕う者と嘲笑われるでしょう。」そう言って立ち上がり別れを告げ、袖を払って去った。王奐が見送っても追いつけず、范冉は振り返らずに去って行った。

桓帝の時、范冉を萊蕪県長に任命したが、母の喪に服すため、任地に赴かなかった。後に太尉府に招聘されたが、偏屈でせっかちで世俗に従うことができず、朝廷で常に韋(柔らかい皮)を帯びて自戒した。議する者が侍御史に推そうとしたため、身を隠して梁・沛の地に逃れ、徒歩で粗末な衣服をまとい、市で卜占をして生計を立てた。

党人の禁錮に遭い、そこで鹿車を押し、妻子を乗せ、落ち穂などを拾って自活した。時には旅館に身を寄せ、時には木陰に宿をとった。このような生活を十余年続け、やがて草ぶきの家を建てて住んだ。住まいは質素で粗末で、時には食糧が尽きることもあったが、貧窮の中でも泰然自若としており、言葉や容貌に変わりはなかった。里の人々は彼を歌った。「甑に塵が生える范史雲、釜に魚が生える范萊蕪。」

党禁が解かれると、三府から招聘されたが、司空府の任命に応じた。この時、西羌が反乱し、黄巾の乱が起こり、各府の属官に対し、勝手に辞任したり就任したりすることを禁じる命令が出された。范冉は自ら率先して辞任を申し出たが、詔書により特に罪に問わないこととされた。また太尉府に招聘されたが、病気を理由に行かなかった。

中平二年、

七十四歳で、家で亡くなった。臨終に際して遺言を息子に命じて言った。「私は暗い世の中に生まれ、贅沢で放逸な風俗の時代に遭い、生きている間に世を正し時勢を救うことができなかった。死んでどうして自ら世間と同じであろうか!息が絶えたらすぐに納棺し、納棺にはその時の衣服を用い、衣は体を覆うのに足りる程度とし、棺は体を収めるのに足りるものとする。納棺が終わったらすぐに穴を掘り、穴を掘り終わったらすぐに埋める。霊前の供え物は、干飯と冷たい水、飲食の品は、何も供えてはならない。墳墓の封土の高さは、自らを隠すのに足りる程度とする。私の心を知る者は、李子堅と王子炳である。今は二人ともここにいない。決めるのはお前たちだ。郷里の人や同族が何かを付け加えることがないようにせよ。」そこで三府がそれぞれ令史を派遣して駆けつけ弔問した。大将軍の何進は文書を送って陳留太守に、行状を積み重ねて諡を論じさせ、皆が貞節先生とするのが適当であると言った。葬儀に参列した者は二千人余りに及び、刺史や郡守はそれぞれ碑を立てて墓を顕彰した。

戴就

戴就は字を景成といい、会稽郡上虞県の人である。郡の倉曹掾に仕えた。楊州刺史の欧陽参が太守の成公浮の贓罪を上奏し、部従事の薛安を派遣して倉庫の帳簿を調査させ、戴就を銭唐県の獄に収監した。幽閉して拷問し、五毒の刑を加えた。戴就は慷慨して率直に言葉を述べ、顔色も変えなかった。また鋘斧を焼き、戴就にそれを脇の下に挟ませた。戴就は獄吏に言った。「斧をよく焼いて、冷めないようにせよ。」拷問を受けるたびに、食事を止めて食べようとせず、肉が焦げて地面に落ちたものは、拾って食べた。取り調べの役人は残酷な手段を尽くし、他に方法がなくなると、戴就を伏せた船の下に寝かせ、馬の糞で燻した。一晩と二日が過ぎ、皆がもう死んだと思い、船を開けて見ると、戴就はちょうど目を見開いて大声で罵った。「どうしてもっと火を増やさないのか。滅ぼしてしまえ!」また地面を焼き、大きな針で指の爪の中を刺し、土を掴ませたので、爪は全て脱落した。取り調べ役人がこの様子を薛安に報告すると、薛安は戴就を呼び出して会い、言った。「太守は罪が多く狼藉を極め、命を受けて事実を調べているのだ。君はどうして骨肉の情で刑罰に抵抗するのか。」戴就は地面に手をついて答えて言った。「太守は符節を授かった大臣であり、命を賭けて国に報いるべきである。あなたは命令を受けたとはいえ、本来は冤罪と苦痛を明らかにし正すべきである。どうして忠良を誣告し、無理に拷問して理屈を付け、臣下に君主を誹謗させ、子に父を証言させようとするのか!薛安よ、お前は愚かで、恥知らずにも無義の行いをしている。私が拷問死する日には、必ず天に訴え、群鬼と共にお前を亭中で殺すだろう。もし生き延びることができれば、自ら刃を執ってお前を引き裂く!」薛安はその壮烈な節操を深く奇異に思い、すぐに枷を外し、改めて丁寧に話し合い、彼の言葉を上表し、郡の事柄について釈明した。成公浮を召還して京師に帰らせ、免職して郷里に帰した。

太守の劉寵が戴就を孝廉に推挙し、光禄主事となったが、病気で亡くなった。

趙苞

趙苞は字を威豪といい、甘陵国東武城県の人である。従兄の趙忠は中常侍であったが、趙苞は自分の一族に宦官の名声と勢力があることを深く恥じ、趙忠と交際しなかった。

初め州郡に仕え、孝廉に推挙され、再び昇進して広陵県令となった。職務について三年、政治と教化は清明で、郡がその状況を上表し、遼西太守に昇進した。威厳を奮い立たせて厳しくし、名声は辺境の風俗にまで響き渡った。着任の翌年、使者を派遣して母と妻子を迎えさせた。ちょうど郡に到着しようとする時、道中で柳城を通り過ぎたところ、鮮卑一万余人が塞内に侵入して略奪を行い、趙苞の母と妻子は人質に取られ、彼らを乗せて郡を攻撃してきた。趙苞は歩兵と騎兵二万を率いて賊と対陣した。賊は母を引き出して趙苞に見せた。趙苞は悲しみ号泣して母に言った。「子として道に外れ、わずかな俸禄で朝夕の養いをしようと思い、母上に災いをもたらすとは思いませんでした。昔は母と子でしたが、今は王の臣です。義によって私的な恩顧を顧みたり、忠節を損なうことはできません。ただ万死に値するのみで、罪を償うすべがありません。」母は遠くから言った。「威豪よ、人にはそれぞれ運命がある。どうして互いに気にかけて、忠義を損なうことがあろうか。昔、王陵の母が漢の使者の前で剣に伏して自決し、その志を固めた。お前も努めよ。」趙苞は直ちに進軍して戦い、賊は全て打ち破られたが、その母と妻は皆殺害された。趙苞は母を葬ると、自ら上書して帰郷して葬ることを願い出た。霊帝は策書を遣わして弔問し、鄃侯に封じた。

趙苞は葬儀を終えると、郷里の人々に言った。「俸禄を食みながら難を避けるのは忠ではない。母を殺して義を全うするのは孝ではない。このような者が、どうして天下に顔を向けて立つことができようか。」ついに血を吐いて死んだ。

向栩

向栩は字を甫興といい、河内郡朝歌県の人で、向長の子孫である。若い頃は書生で、性格は卓越して奇抜で並外れていた。常に『老子』を読み、道教を学んでいるような様子であった。また狂生のようで、髪を解き放つことを好み、深紅色の絹の頭巾を着けた。常にかまどの北側の板床に座り、このように長い間続けたので、板には膝や足首、足の指の跡ができた。言葉を好まず、長嘯を好んだ。賓客が訪ねて来ると、いつもうつ伏せて見ようとしなかった。弟子がおり、名を「顔淵」、「子貢」、「季路」、「冉有」などと付けていた。ある時は驢馬に乗って市場に入り、人に物乞いをした。ある時は全ての乞食の子供たちを連れ帰って泊まらせ、酒食を設けた。当時の人々は彼を測り知ることができなかった。郡が礼を尽くして召し出し、孝廉、賢良方正、有道に推挙し、公府が召し出したが、全て応じなかった。また彭城の姜肱、京兆の韋著と共に召し出されたが、向栩は応じなかった。

後に特に徴召され、到着すると趙国の相に任命された。任地に赴く時、当時の人々は彼が必ず質素な生活から倹約に改めると言ったが、向栩はかえって鮮やかな車に乗り、良馬を駆り、世間は彼の当初の振る舞いが偽りだったのではないかと疑った。任地に着くと、ほとんど文書を見ず、官舎には雑草が生い茂った。

侍中に徴召され任命されると、朝廷の大事があるたびに、剛直な態度で厳しい顔つきをし、百官は彼を恐れた。ちょうど張角が乱を起こすと、向栩は適切な策を上奏し、左右の者をかなり風刺し、国家が兵を興すことを望まず、ただ将を派遣して黄河の岸辺で北に向かって『孝経

,賊は自ずから消滅するであろう。中常侍の張譲は栩が国家が将を命じて出師することを望まず、角と同心であると疑い、内応しようとしていると讒言した。栩を収監して黄門北寺の獄に送り、殺した。

諒輔

諒輔は字を漢儒といい、広漢郡新都県の人である。郡に仕えて五官掾となった。時は夏の大旱魃で、太守自ら出て山川に祈祷したが、連日降るものはなかった。輔はそこで自ら庭中に身を曝し、慷慨して呪いの言葉を述べた。「輔は股肱の臣でありながら、進諫して忠を納れ、賢を薦めて悪を退け、陰陽を調和し、天意に順承することができず、天地が隔絶し、万物が焦げ枯れ、百姓が口をぱくぱくさせて訴えるところがないに至ったのは、その咎は全て輔にある。今、郡太守が服を改めて己を責め、民のために福を祈り、精誠を尽くして懇ろであるが、まだ感応が通じていない。輔は今あえて自ら祈請する。もし日中までに雨が降らなければ、この身をもって無状の罪を塞ぎたい。」そこで薪柴を積み、茭茅を集めて自らを囲み、その傍らに火を構え、自ら焼死しようとした。まだ日中に至らないうちに、天に雲が暗く合わさり、やがて慈雨が降り、一郡が潤った。世間はこれをもってその志の誠実さを称えた。

劉翊

劉翊は字を子相といい、潁川郡潁陰県の人である。家は代々豊かな資産を持ち、常に人々の間を周旋して助けながら、その恩恵を自分のものとしなかった。かつて汝南郡の境界内を行く時、陳国の張季礼が遠く師の喪に赴く途中、寒さで氷が張り車が壊れ、道中で立ち往生しているのに出会った。翊はこれを見て言った。「あなたは慎んで終わりを全うし義に赴こうとしている。行くべき道は速やかに通じるべきだ。」すぐに下車して自分の車を与え、姓名も告げず、自ら馬を策って去った。季礼は彼が子相であろうと思い、後にわざわざ潁陰まで行き、借り受けた車を返そうとした。翊は門を閉ざして行きを辞し、会おうとしなかった。

常に志を守って病床に臥し、招聘の命に屈しなかった。河南尹の種拂が郡に臨んだ時、彼を功曹に引き立てた。翊は種拂が名公の子であることを理由に、ようやく起ち上がった。種拂は彼が時を選んで仕えたことを重んじ、非常に敬って任じた。陽翟県の黄綱が程夫人の権力を恃み、山沢を占拠して私的に営植することを求めた。種拂は劉翊を召して問うた。「程氏は貴盛で、帝の左右におり、聞き入れなければ怨まれることを恐れ、与えれば民の利を奪うことになる。どうしたらよいか。」翊は言った。「名山大沢は封じないのは、民のためです。明府がこれを聞き入れれば、佞B062の名を被ることになります。もしこれによって禍を獲たとしても、貴子の申甫がいるので、自ら孤ならざるを得ましょう。」種拂は翊の言葉に従い、遂に与えなかった。そこで翊を孝廉に推挙したが、就任しなかった。

後に黄巾の賊が起こり、郡県は飢饉に陥った。翊は困窮し絶えた者を救い給し、その食を盗んだ者は数百人に及んだ。郷族の貧しい者で死亡した者には葬儀を整え、寡婦や独身者には妻を娶るのを助けた。

献帝が都を西京に遷すと、翊は上計掾に推挙された。この時、寇賊が興り、道路は遮断され、使者や駅伝が達することは稀であった。翊は夜行し昼は潜伏し、ようやく長安に到着した。詔書はその忠勤を嘉し、特に議郎に任じ、陳留太守に遷した。翊は所持していた珍玩を散じ、残るは車馬のみとし、自ら載せて東に帰った。関を出て数百里、士大夫が病で道端で亡くなっているのを見て、翊は馬を棺と交換し、衣を脱いでこれを収めた。また、知人故人が路で困窮し飢えているのに出会い、見捨てて去るに忍びず、そこで駕していた牛を殺して、その困窮を救った。一同が止めたが、翊は言った。「没するのを見て救わぬのは、志士ではない。」遂に共に餓死した。

王烈

王烈は字を彦方といい、太原の人である。若い時、陳寔に師事し、義行をもって郷里に称えられた。牛を盗んだ者がおり、持ち主が捕らえた。盗人は罪を請うて言った。「刑戮は甘んじて受けますが、王彦方に知らせないでください。」烈はこれを聞いて人を遣わして謝し、布一端を贈った。ある人がその理由を尋ねると、烈は言った。「盗人は私がその過ちを聞くのを恐れた。これは恥じ悪む心があるからだ。既に恥悪の心を抱けば、必ず改善できる。故にこれをもって激励したのだ。」後に、ある老人が路に剣を落とした。道を行く一人がこれを見て守り、日暮れになって老人が戻って探し、剣を得た。怪しんでその姓名を尋ね、事の次第を王烈に告げた。烈が推し求めてみると、それは以前牛を盗んだ者であった。争訟の曲直を裁こうとする者は、王烈に質そうとしたが、ある者は途中で引き返し、ある者はその家を見て帰った。そのように徳をもって人を感化した。

孝廉に察挙され、三府が共に辟召したが、いずれも就任しなかった。黄巾・董卓の乱に遭い、そこで遼東に避地した。夷人は彼を尊奉した。太守の公孫度は昆弟の礼をもって接し、州の政事を訪ね、長史にしようとした。烈はそこで商賈となって自らを穢らわしくし、免れることができた。曹操は烈の高名を聞き、徴召を遣わしたが、至らなかった。

建安二十四年

,遼東で終わり、七十八歳であった。

評語

賛に曰く、方に乗じて過たず、義に臨んで惑わず。この剛潔なるのみ、果たして行い徳を育む。