後漢書
巻八十上
文苑列傳第七十上
杜篤
杜篤は字を季雅といい、京兆杜陵の人である。高祖の杜延年は、宣帝の時に御史大夫となった。杜篤は若い頃から博学であったが、細かい節度を修めず、郷里の人々から礼遇されなかった。美陽に住み、美陽県令と交際し、しばしば依頼事を持ちかけたが、うまくいかず、互いに恨みを抱くようになった。県令は怒り、杜篤を捕らえて都に送った。ちょうど大司馬の呉漢が亡くなり、光武帝が諸儒に誄文を作るよう詔を下した。杜篤は獄中で誄文を作り、その文辞が最も優れていたので、帝はこれを賞賛し、絹を賜って刑を免じた。
杜篤は、関中は山河に囲まれた要害の地であり、先帝の旧都であるから、洛邑に都を改めるべきではないと考え、上奏して『論都賦』を献じた。その文は以下の通りである。
臣は聞く。知ってなお知ることを重知という。臣が言おうとすることは、陛下もすでにご存知であるから、その大要を略述し、詳しく述べることは敢えてしない。昔、殷の盤庚は奢侈を去り、亳で倹約を行った。周の成王・康王の隆盛の時、中洛(洛邑)に都を定めた。時勢に応じて都を定めるのであり、常に同じ邑にいるわけではない。賢聖の考えには、優劣がある。覇王の資質には、明らかな相違がある。国を守る形勢は、目的は同じでも方法が異なる。ある者は険阻な地を捨て去り、平易な地に居ようと務め、ある者は山を背に河を控え、六国を併呑した。ある者は富貴を極めて故郷を思い、襲撃される危険を顧みず、ある者は虚を衝いて空を掩い、蜀漢から出撃し、その日のうちに車駕を進め、一兵卒の献策に従った。ある者は道理を知りながら従わず、長く瘠せた土地に都した。臣は確たる根拠を申し上げることはできない。ひそかに司馬相如や楊子雲が辞賦を作って主上を諫めたのを見て、臣は誠にこれを慕い、謹んで書一篇を作り、名を『論都』とし、謹んで封をして左のように奏上する。
皇帝は建武十八年二月甲辰の日、洛邑に輿を昇らせ、西岳を巡幸された。天時を推し、北斗に順い、閶闔門を押し開き、函谷関に入り、崤山と黽池の険阻を観察し、隴西と蜀の険要を図示された。その三月丁酉の日、長安に行幸された。宮室を営み、旧都を傷み哀れまれ、すぐに京兆尹に詔し、扶風太守に命じて、斎戒して敬意を表し、園陵を拝謁させられた。祖先を懐かしむ思いに心を痛め、諸夏の隆盛を思って嘆息された。そして天を旋回し雲を遊ぶように、渭水に船を造り、北へ涇水を渡られた。千乗の車が並び進み、万騎の騎兵が連なり広がり、岐山と梁山に陣を展開し、東は大河に横たわった。後土を埋めて祭り、郊祀の礼を行われた。その年の四月、洛陽の都に戻られた。翌年、函谷関を復旧させ、長安に大駕宮、六王邸、高車廄を造る詔があった。東都の城門を修理し、涇水と渭水に橋を架け、離宮や楼観をあちこちで修繕した。東は霸水と滻水に臨み、西は昆明池を望み、北は長平に登り、龍首山の地形を測り、未央宮を撫で、平楽館を求め、建章宮を規範とした。
この時、山東地方では一様に疑念を抱き、聖朝が西都に遷るのではないかと心配し、関門が逆に閉ざされることを恐れた。ある客が杜篤に言った。「あの井戸の濁った水たまりでは、舟を呑むほどの大きな魚は住めまい。まして洛邑のよどんだ水が、どうして万乗の天子をお住まわせできようか。咸陽は国を守る利器であり、長く空虚にしておくべきではなく、奸悪の芽生えを示すことになる。」杜篤はその言葉をあまり同意しなかったので、大漢の崇高さを述べ、代々雍州の利に拠ってきたこと、そして今、国家がそれに手を付けられない事情を説明して、客の意を諭した。曰く、
昔、強秦の時代、初めて辺境を開き、岐山と雍州から覇を唱え、国は富み民は増え、ついに天下を併合したが、桀紂のような暴虐で乱を起こした。天命は聖なる者に託され、それは大漢に及んだ。大漢が基業を開いたのは、高祖に勲功があったからである。白蛇を斬り、黒雲が屯し、五星が東井に集まり、干将の剣を提げて暴秦を叱った。滄海を渡り、崑崙を跨ぎ、彗星の光を奮い起こし、項羽の軍を掃討し、ついに人々の難を救い、泗水と沂水で汚れを洗い流した。劉敬が献策し、初めて長安に都した。太宗(文帝)はその流れを継ぎ、文治をもって国を守った。自ら倹約を実践し、身を低くして仁を行い、食事は二種類の味を求めず、衣服に異なる彩りはなかった。農桑で人々を救済し、自らを律して下を率い、美しい容貌は目を喜ばせず、鄭や衛の淫らな音楽は耳に入れず、佞邪の臣は朝廷に列せず、巧みな偽物は市場で売られなかった。だからこそ太平の世を治め、刑罰はほとんど用いられなかった。孝文帝・景帝の代には富が増え、功績は後嗣に伝えられた。
この時、孝武帝はその余財と府庫の蓄えを基に、初めて深遠を探り遠方を図る志を持ち、冒頓単于の罪を探り、平城の恥を晴らそうとした。そこで驃騎将軍に命じ、衛青を重任し、勇猛さは鷹が舞うようで、軍勢は流星の如く、深く匈奴に攻め入り、王庭を割裂し、漠北を席巻し、祁連山に迫り、単于を分断し、百蛮を屠裂した。毛氈の帳幕を焼き、閼氏を捕らえ、康居を焼き払い、珍奇な物を灰にし、鳴鏑を打ち砕き、鹿蠡王を釘付けにし、坑岸を駆け巡り、昆弥を捕獲し、多くの子供を虜にし、騾馬や驢馬を駆り立て、大宛の馬を御し、駃騠を鞭打った。万里の地を拓き、威は八荒に震った。四郡を初めて設置し、敦煌を拠点に守った。地域を併合して属国とし、一郡が一方を統轄した。北辺に侯を立て、西羌を護る校尉を置いた。氐や僰を打ち駆り、卭都や莋都を荒らし回った。東は烏桓に迫り、濊貊を蹂躙した。南は鈎町を従え、水軍で強越を討った。文身の夷を残滅させ、海の波は血の泡で覆われた。日南郡を置き、朱崖を漂泊の果てにした。部尉を東南に置き、黄支国をも併有した。緩耳国を連ね、雕題国を瑣末にし、天督を打ち破り、象や犀を引き連れ、蚌蛤を打ち砕き、琉璃を粉砕し、玳瑁の甲を着け、觜觿を殺した。こうして、洞穴に住み毛皮を着た地域も、同じ川で鼻で飲む国も、みな裸足で額を地に付け、気力を失って虜のように伏した。もし大漢の世が盛んでなく、代々雍州の豊かさを借り、外を御し内を治める術を得ていなければ、どうしてこのような功績を成し得たであろうか。だから、創業は高祖に始まり、嗣いだのは孝惠帝、徳が隆盛したのは太宗(文帝)、財が増えたのは孝景帝、威が盛んだったのは聖武(武帝)、政令が行き渡ったのは宣帝・元帝の代、奢侈の極みは成帝・哀帝の代、国統が絶えたのは孝平帝の代である。十一代伝わり、三百年を経たが、徳が衰えてまた盈ち、道が微かになってまた顕わになり、いずれも雍州を離れ、咸陽に背くことはできなかった。宮室や宗廟、山陵が相望み、高く顕著で広大で麗しく、思うに値し栄えるべきもので、伏羲・神農以来、これほど著しいものはない。
そもそも雍州は、帝王が業を育み、覇王が功を広げ、戦士が難に角突き合わせる場である。『禹貢』に記載されている通り、その田は上上である。沃野千里、平原と低地が望みの限り広がる。五穀を育て保ち、桑や麻がすらりと茂る。南山に沿って位置し、涇水と渭水が帯のように流れ、陸の海と号され、万物が蠢く。楩、楠、檀、柘、野菜や果物が実を結ぶ。小さな溝は潤って泥が肥え、水泉が灌漑し、沼沢が次第に川となり、粳米や稲がよく育つ。その土壌の肥沃さは、一畝の価値が金に等しい。田と田は相似て、斧や鍬で株や林を開く。火耕水耨の農法で、労力は浅くして収穫は深い。蓄積がある上に、四方を厄塞が臨む。四方は隴西と蜀に接し、南は漢中に通じ、北は谷口を押さえ、東は険しい岩山に阻まれる。函谷関と嶢山を守れば、山東の道は行き詰まる。汧県と隴山に列を置けば、西戎の動きを塞ぐ。褒斜道を守れば、嶺南とは通じない。口を閉ざし渡し場を絶てば、朔方からは来られない。鴻溝と渭水の流れは、直接黄河に入る。大船万艘が、漕運で行き交う。東は滄海を総括し、西は流沙を網羅する。朔方から南まで名声が届き、諸夏は和する。城壁は百尺の高さで、要害の地を扼する。関所と橋梁の険しさは、多くが要害をなす。一人の兵卒が礧を挙げれば、千人の兵が動けなくなる。一人が戟を奮えば、三軍が敗北する。地勢は便利で、鎧兜を着けた兵士は剽悍であり、近くを守るにも適し、遠くを攻めるにも有利である。兵士は守りやすく、人々は裸になって降伏する必要がない。十二州の初めであり、これこそ豊かで肥沃な地である。覇を唱えれば併呑でき、先に占拠すれば功績は格別である。文治を修めれば財が増え、武を行えば兵士が要を得る。政治を行えば教化が上に行き、簒逆があれば討伐しにくい。進攻すれば百戦百勝し、退守すれば余裕がある。これはまさに帝王の深い苑囿であり、国を守る利器である。
新の滅亡に至り、漢の衰えた時、淵のごとき深い謀略を忍び、神器を慢りに奪い、ただ勢いに乗じただけで、終わりに危うくすることはできなかった。十八年の間、京師から誅伐された。天は更始を授けたが、綱紀を引き締めることができなかった。慢蔵は寇を招き、再び赤眉を招き寄せた。海内は雲のように乱れ、諸夏は滅び微かになった。群龍が並び戦い、是非を知らなかった。その時、聖帝が赫然と威を伸ばし、天人の符を受け、並びなき資質を兼ね備えた。皇上より命を受け、霊祇の助けを得た。高邑に号を立て、四方に旗を掲げた。首謀の臣は、計略を巡らし奇策を出し、怒り狂う軍旅は、虎や螭のようであった。師の向かうところ、靡き披かれることなく、魚を焼き蛇を断つことさえ、これに比べるものはなかった。山東で大いに呼ばわれば、流砂まで響き渡った。龍淵を要し、鏌鋣を首とし、太白に命じて騰らせ、自ら狼弧を発した。南では公孫を捕らえ、北では強胡を背にし、西では隴・冀を平定し、東では洛都を占拠した。こうして帝宇を広く平定し、塗炭の苦しみにある民衆を救い、兆民の安寧を成し遂げ、ついに大漢を興復させた。
今、天下は新たに定まり、矢石の労苦はようやく癒え始めたが、主上はなお辺境を憂い、葭萌の従わぬことを憤り、都を論じ雍州を思いやる余裕がない。今まさに聖慮を自ら労して、海内を率い、名将を励まし撫で、疆外の地を攻略し、征伐に信威を示し、荒裔に武を展べている。文身し鼻飲みし緩耳の主、椎結し左衽の鍝の君、東南の殊俗で羈縻されぬ国、西北の絶域で制し難い隣国、みな重訳して貢を納め、藩臣となることを請うている。上はなお謙譲し、功労を誇らない。無用の虜を獲るよりは、有益な民を安んじる方がよい、荒裔の地を攻略するよりは、五穀を殖やす淵を保つ方がよい、遠く亡びた者を救うよりは、近く存する者を存続させる方がよい、という考えである。今、国家は自ら道徳を修め、恵みを吐き仁を含み、深い恩恵が広く行き渡り、時風が顕著に宣べられている。ただ公平を保ち実を守ることに心を留め、民衆を愛し育てることに務め、王政に便あることがあれば、聖主はそれを取り入れる。なぜか。物は損なわずには得られず、道は盛んでも移らぬことはなく、陽が盛んになれば運び、陰が満ちれば欠ける。故に存する時も滅亡を忘れず、安泰の時も危険を忌まず、仁義があってもなお城池を設けるのである。
客は利器を久しく虚しくしておくべきでなく、国家もまた西都を忘れていないのに、どうして洛邑の渟瀯を去る必要があるのか、と問うた。
杜篤は後に郡の文学掾に仕えた。目疾のため、二十余年にわたって京師を窺わなかった。
杜篤の外高祖父は破羌将軍の辛武賢で、武略をもって称された。杜篤は常に嘆いて言った。「杜氏は文徳明らかで善政を行ったが、私は吏となるに任じられない。辛氏は義を守り武を経営したが、私はまた事を行うのに臆病である。外内五世にして、私の代で衰えた。」
妹は扶風の馬氏に嫁いだ。
建初三年、
車騎将軍の馬防が西羌を撃つにあたり、杜篤を従事中郎に請うたが、射姑山で戦死した。
著した賦、誄、弔、書、賛、《七言》、《女誡》および雑文は、合わせて十八篇。また《明世論》十五篇を著した。
子の碩は豪侠で、貨殖をもって知られた。
王隆
王隆は字を文山といい、馮翊雲陽の人である。王莽の時、父の任子により郎となり、後に河西に避難し、竇融の左護軍となった。建武年間、新汲県令となった。文章に優れ、著した詩、賦、銘、書は合わせて二十六篇。初め、王莽の末、沛国の史岑(字は子孝)もまた文章で顕れ、王莽は謁者とし、頌、誄、《復神》、《説疾》を合わせて四篇を著した。
夏恭
夏恭は字を敬公といい、梁国蒙の人である。
《韓詩》を学んだ。
『孟氏易』を講じ、門徒を教授し、常に千余人を数えた。王莽の末、盗賊が横行し、郡県を攻め落とした。李恭は恩信をもって衆に慕われ、兵を擁して固く守り、ただ彼だけが安泰であった。光武帝が即位すると、その忠誠と果断を賞して、郎中に召し出し、さらに太山都尉に昇進させた。百姓を和合させ集め、大いにその歓心を得た。
李恭は文章をよくし、賦・頌・詩・『勵學』など合わせて二十篇を著した。四十九歳で官の任上で亡くなり、諸儒が共に宣明君と諡した。
子の李牙は、幼少より家業を習い、賦・頌・讃・誄など合わせて四十篇を著した。孝廉に挙げられたが、早世し、郷人は文徳先生と号した。
傅毅
傅毅は字を武仲といい、扶風郡茂陵県の人である。幼少より学問を修めた。永平年間(58-75年)、平陵で章句を学び、それによって『迪志詩』を作った。その詩に言う。
ああ、汝ら多くの士よ、時に及んで自ら励め。日月は過ぎ去り、どうして巡り戻ろうか!我が営為を哀れむも、旅の力は及ばず。この弱き我が身にありて、立つべきところもない。
ああ、赫々たる我が祖は、殷の国に顕れた。二つの足跡(伊尹と傅説)は阿衡(宰相)の位にあり、その法則をよく輝かせた。武丁が商を興し、伊尹と傅説は皇室の士となった。そこで股肱の臣となり、万邦を統べた。
代々に徳を載せ、我が顕考(亡父)に至る。淑やかで美しい徳を保ち受け継ぎ、その道を修め継いだ。漢の中ごろ、俊乂の士が順序よく並び、あの殷の宗廟の秩序のように、この功績の緒を光り輝かせた。
我が如き小輩は、穢れて見劣りし、及ぶところではない。我が世の功業が、ここから墜ちることを恐れる。誰が濁りを革め、我が洗い清める水を澄ませようか?誰が暗闇を照らし、我が童蒙の無知を啓こうか?
先人には教訓があり、我はそれに問い、それに戒められる。我に善き務めを教え、我に博学を諭す。そこで友を率い、この古き法則を尋ね求める。朝から晩まで勤勉に努め、怠り誤ることがないよう願う。
秩序ある大道は、あらゆる規範の綱紀である。勤勉でなければ明らかにならず、専一でなければ測り知れない。農夫が怠らなければ、やがて黍や稷が実る。誰が言えようか、それを成し遂げるのは、安息のうちに考察することだと?
二つの事(学問と実践)が業を敗れば、多くは我が力を損なう。あの大通りに従うようにすれば、極まる所を知らない。二つの志が成らなければ、ついに我が心を労する。あの多くの音を同時に聞くようにすれば、音に惑わされる。
ああ、君子よ、常に安逸に耽ってはならない。過ぎ行く年は流れる如く、暇な日は少ない。行く道でしばしば休んでは、どうして終わりに至れようか。朝から晩まで密かに努め、初めから終わりまで一貫せよ。
傅毅は、顕宗(明帝)が賢者を求めるのが篤実でなく、士の多くが隠れ住んでいるのを見て、『七激』を作って諷諫とした。
建初年間(76-84年)、肅宗(章帝)が文学の士を広く召し、傅毅を蘭臺令史とし、郎中に任じ、班固・賈逵と共に書籍の校訂を司らせた。傅毅は李明皇帝(明帝)の功徳が最も盛んでありながら、廟頌がまだ立てられていないことを追慕し、『清廟』に倣って『顯宗頌』十篇を作り、これを奏上した。これによって文雅の名が朝廷に顕れた。
車騎将軍の馬防は、外戚として尊重されていたが、傅毅を軍司馬に招聘し、師友の礼をもって遇した。馬氏が失脚すると、官を免ぜられ帰郷した。
永元元年
車騎将軍の竇憲が、再び傅毅を主記室に、崔駰を主簿に招聘した。竇憲が大将軍に昇進すると、再び傅毅を司馬に、班固を中護軍に任じた。竇憲の幕府の文章の盛んなことは、当世で第一であった。
傅毅は早世し、詩・賦・誄・頌・祝文・『七激』・連珠を合わせて二十八篇を著した。
黄香
黄香は字を文強といい、江夏郡安陸県の人である。九歳の時に母を失い、慕い悲しんで憔悴し、ほとんど喪に服することを免れなかったので、郷里の人々はその至孝を称えた。十二歳の時、太守の劉護がそのことを聞いて召し出し、門下の孝子として任用し、非常に愛敬された。黄香の家は貧しく、家内に僕妾もいなかったので、自ら苦労して勤め、心を尽くして父に仕えた。ついに経典に博学となり、道術の精髄を究め、文章をよくし、京師では「天下無双の江夏の黄童」と号された。
初め郎中に任ぜられ、
元和元年
粛宗(章帝)は詔を下して黄香を東観に行かせ、未だ見たことのない書物を読ませた。黄香は後に休暇を告げ、京師に帰った時、千乗王の元服の儀式があり、帝は中山邸で諸侯王と会したが、そこで黄香を殿下に呼び寄せ、諸王を顧みて言った。「これが『天下無双の江夏の黄童』である。」左右の者はみな見直した。後に安福殿に召して政事について問い、尚書郎に任じた。黄香はたびたび得失を陳述し、賞賜が増加した。常に独りで台(尚書台)に宿直し、昼夜を問わず省闥(宮中の門)を離れなかったので、帝はこれを善しとして聞いた。
永元四年
左丞に任ぜられた。功績が満ちて昇任すべき時であったが、和帝は留任させ、俸禄を増やした。六年、累進して尚書令となった。後に東郡太守に任ぜられようとしたが、黄香は上疏して辞退して言った。「臣は江淮の孤賤の身、愚昧な小生であり、経学や行い・能力には、記録に値するものはありません。太平の世に遭い、先祖の余福により、弱冠で特にご徴用を蒙り、連続して昇進し重ねて任用され、ついに台閣(尚書台)の極みに至りました。しかし、いささかでも称えられるような功績はなく、恩に報い死を尽くすことも、誠に思い至りませんでした。突然、望外のことであり、近郡に顕職を拝命し、千里の地に尊位を賜ることになりました。臣は聞きます。能力を量って官を授ければ、職務に廃れることはなく、功労によって爵を施せば、賢愚ともに適宜を得ると。臣黄香は小醜の身、若い頃は一書生に過ぎず、郡を治め政務に従うことは、もとより堪えられるものではありません。誠に愚昧で頓挫し、聖恩を辱めることを恐れます。また、機密の端首(尚書令)は、極めて尊く重要な職であり、これまた臣黄香が長く奉ずべきものではありません。詔を承り驚き慌て、どうしたらよいか分かりません。臣黄香は年齢は盛りであり、ちょうど駆使に適しております。どうか余恩を乞い、冗官として留め置き、督責の小職を賜り、宮台の煩わしい仕事を任せてください。それによって臣黄香の蟷螂の小さな志を全うさせ、誠に目を瞑る時の最大の願いであり、土灰となっても極めて栄誉なことです。」帝もまた黄香の実務能力を惜しみ、旧事(朝廷の故事)に長く習熟していたので、再び留任させて尚書令とし、俸禄を二千石に増やし、銭三十万を賜った。この後、枢機(機密の政務)を管掌し、非常に親任され重んじられた。黄香もまた勤勉に職務に励み、公事を己が家の事のように心配した。
十二年、東平国と清河国が妖言を唱えた卿仲遼らの事件を上奏し、連座する者は千人に及んだ。黄香は別に根拠を挙げて上奏し、多くを全活させた。毎回、郡国で疑わしい罪があると、必ず軽い科条を求め、人命を愛惜し、常に憂い救済することを心がけた。また辺境の事情に通暁し、軍政を公平に量り、いずれも事柄に適った。帝はその精勤ぶりを知り、たびたび恩賞を加えた。病気の時には見舞い、医薬を賜った。在任中に多くの人材を推薦し登用し、寵遇は非常に盛んであったので、議論する者はその過度の幸運を譏った。
延平元年
魏郡太守に転任した。郡には以前から内外の園田があり、常に人と分け合って耕作し、収穫する穀物は年に数千斛に及んだ。黄香は言った。「『田令』には『商いをする者は農をしない』、『王制』には『仕える者は耕さない』とある。氷を伐って食禄を取る者(高官)が、百姓と利益を争うべきではない。」そこで全てを民に与え、耕作するよう課した。当時、水害の年に飢饉が起こると、自分の俸禄と得た賞賜を分けて貧しい者に施した。これにより豊かな家はそれぞれ義穀を出し、官を助けて貸し与え、飢えた民は全活した。後に水害の事案に連座して免官され、数か月後、家で死去した。
賦・牋・奏・書・令を合わせて五篇を著した。子の黄瓊は、別に伝がある。
劉毅
劉毅は、北海敬王の子である。初め平望侯に封ぜられたが、永元年中に、事に坐して爵位を剥奪された。劉毅は若い頃から文才と弁舌に優れていると称された。元初元年、『漢徳論』および『憲論』十二篇を上呈した。当時、劉珍・鄧耽・尹兌・馬融が共に上書してその美点を称え、安帝はこれを嘉して、銭三万を賜い、議郎に任じた。
李尤
李尤は字を伯仁といい、広漢郡雒県の人である。若い頃から文章で名を知られた。和帝の時代、侍中の賈逵が李尤に司馬相如や揚雄のような風格があると推薦し、東観に召し出されて詔により賦を作り、蘭台令史に任じられた。次第に昇進し、安帝の時代には諫議大夫となり、詔により謁者僕射の劉珍らとともに『漢記』を撰修した。
漢記
その後、皇帝は皇太子を廃して済陰王としたが、尤は上書して諫争した。順帝が即位すると、楽安相に転任した。八十三歳で死去した。著した詩・賦・銘・誄・頌・『七嘆』・『哀典』は、合わせて二十八篇である。
同じ郡の李勝もまた文才があり、東観郎となり、賦・誄・頌・論数十篇を著した。
蘇順
蘇順は字を孝山といい、京兆郡霸陵県の人である。和帝・安帝の時代に才学をもって称えられた。養生の術を好み、隠棲して道を求めた。晩年になってようやく仕官し、郎中に任命されたが、在官中に死去した。著した賦・論・誄・哀辞・雑文は、合わせて十六篇ある。
当時、三輔には多くの人材がおり、扶風の曹衆(字は伯師)もまた才学があり、誄・書・論の四篇を著した。また曹朔という者がいたが、どこの者かはわからない。彼は『漢頌』四篇を作った。
劉珍
劉珍は字を秋孫といい、別名を寶といい、南陽郡蔡陽県の人である。若い頃から学問を好んだ。永初年間(107-113年)、謁者僕射となった。鄧太后の詔により、校書の劉騊駼・馬融および『五経』博士らとともに、東観の『五観』・諸子の伝記・百家の芸術書を校定し、脱落や誤りを整え、文字を正した。永寧元年(120年)、太后はさらに劉珍に詔して劉騊駼とともに建武年間(25-56年)以来の名臣伝を作らせ、侍中・越騎校尉に昇進した。
延光四年
宗正に任命された。翌年、衛尉に転任し、在官中に死去した。誄・頌・連珠を合わせて七篇を著した。また『釈名』三十篇を撰し、万物の称号を弁明したという。
葛龔
葛龔は字を元甫といい、梁国寧陵の人である。和帝の時、文章や記録をよく書くことで知られた。性格は慷慨で壮烈、勇力は人に優っていた。安帝の永初年間、孝廉に推挙され、太官丞となり、四つの便宜を上奏し、蕩陰令に任じられた。太尉府に招聘されたが、病気で就任しなかった。州から茂才に推挙され、臨汾令となった。二つの県に在任し、いずれも称賛される実績を上げた。文章、賊、碑、誄、書記を著し、合わせて十二篇。
王逸
王逸は字を叔師といい、南郡宜城の人である。元初年間、上計吏に推挙され、校書郎となった。順帝の時、侍中となった。著書『楚辞章句』は世に行われた。その賦、誄、書、論および雑文は、合わせて二十一篇。また『漢詩』百二十三篇を作った。
子の延寿は、字を文考といい、優れた才能があった。若くして魯国に遊学し、『霊光殿賦』を作った。後に蔡邕もこの賦を作ろうとしたが、完成せず、延寿の作ったものを見て、非常に驚き、筆を置いた。かつて不思議な夢を見て、その意味を嫌い、『夢賦』を作って自らを励ました。後に水死し、当時二十余歳であった。
崔琦
崔琦は字を子瑋といい、涿郡安平の人で、済北相の崔瑗の一族である。若くして京師に遊学し、文章に博通していると称された。初め孝廉に推挙され、郎となった。河南尹の梁冀がその才能を聞き、交際を求めた。梁冀の行いは多く軌道を逸しており、崔琦はしばしば古今の成敗を引き合いに出して戒めたが、梁冀は受け入れられなかった。そこで『外戚箴』を作った。その文は以下の通り。
ああ、外戚よ、華やかな寵愛は輝いている。昔、帝舜の時代には、英皇(娥皇・女英)の徳が盛んだった。周の興隆には三母(太姜・太任・太姒)がおり、有莘の女は湯を崇めた。宣王が朝寝坊すると、姜后は簪を外して諫めた。斉の桓公が音楽を好むと、衛姫は音を立てなかった。皆、礼をもって主君を補佐し、仁をもって君を支え、才能を発揮し善を進め、義をもって身を全うした。
末葉に至ると、次第に衰え損なわれた。貫魚のように順序よく並ばず、九御(后妃)の秩序は乱れた。晋国の難は、麗姫の禍から始まった。家を索(尽)くすは牝鶏の晨なり。権力を専らにし寵愛を独占し、己を顕わにして人を蔽う。長上を陵ぎ旧臣を離間し、至親を傷つけ滅ぼす。后を並べ立て嫡子と匹敵させ、淫らな女が陳を滅ぼした。
賢者を上とせず、番(樊)が司徒となった。爵位を担い乗り物に乗り、名都で采食する。詩人がこれを刺し、徳は用いられず憮然とする。暴辛(紂王)は婦人に惑わされ、諫めを拒んで自ら孤立した。蝠蛇のような心で、毒を放って罪なき者を害した。諸父を殺し、孕んだ子を切り裂いた。天は怒り地は憤り、人の謀り鬼の図るところとなった。甲子の昧爽(夜明け)、身首は分離した。初めは天子、後には人螭(怪物)となった。
ただ色に耽るだけでなく、母后もまたそうであった。礼をもって導かず、権力をもって競い奨励した。初めは笑い、後には号泣し、ついに辱められ滅びた。国家は滅び絶え、宗廟は焼かれた。末嬉は夏を喪わせ、褒姒は周を滅ぼし、妲己は殷を亡ぼし、趙霊(武霊王)は沙丘で死んだ。戚姫は人彘にされ、呂氏の宗族は敗れた。陳后は巫蠱を行い、ついに外で死んだ。霍氏(霍光の妻)は子を毒殺しようとし、身は廃された。
故に言う、我れ貴しと謂うなかれ、天将に爾を摧かん。常に好しと恃むなかれ、色には歇微(衰え)あり。常に幸いと怙むなかれ、愛には陵遲(衰微)あり。我れ能しと曰うなかれ、天人は爾に違かん。患いは不徳より生じ、福には慎むべき機あり。日は常に中天に在らず、月は盈ちて虧くあり。道を履む者は固く、勢いに杖る者は危うし。微臣、戚(外戚)を司どり、敢えて此に告ぐ。
崔琦は言葉が聞き入れられず、失意し、さらに『白鵠賦』を作って風刺した。梁冀はこれを見て、崔琦を呼び問うた。「百官内外、それぞれ司どる所がある。天下がうるさく言うのは、どうして私だけが特に悪いのか。君はなぜこれほど激しく刺すのか。」崔琦は答えて言った。「昔、管仲が斉の宰相となった時、機微を諫める言葉を聞くことを喜んだ。蕭何が漢を補佐した時は、過ちを書いて記す役吏を設けた。今、将軍は累世にわたり台輔(三公)の位にあり、伊尹や周公と同じ重任にあるのに、徳政は聞こえず、民衆は塗炭の苦しみにある。貞良な者を結び納れて禍敗を救うことができず、かえって士の口を封じ、主君の耳を塞ごうとする。天地の色を変え、馬と鹿の形を入れ替えようというのか。」梁冀は返す言葉がなく、崔琦を帰らせた。
後に臨済長に任じられたが、敢えてその職に就かず、印綬を解いて去った。梁冀は刺客に命じて密かに殺させようとした。刺客は崔琦が畦道で耕作し、一巻の書を懐に、休むたびに横になってそれを詠んでいるのを見た。刺客はその志を哀れみ、実情を崔琦に告げて言った。「将軍が私にあなたを襲えと命じた。今、あなたが賢者であるのを見て、忍びない気持ちだ。急いで逃げてくれ。私もここから逃げる。」崔琦は逃げ去ることができたが、梁冀は後に結局捕らえて殺した。
著した賦、頌、銘、誄、箴、弔、論、『九咨』、『七言』は、合わせて十五篇。
辺韶
辺韶は字を孝先といい、陳留郡浚儀県の人である。文章によって名声を知られ、数百人の弟子を教授した。辺韶は弁舌に優れ、かつて昼間に仮眠をとっていたところ、弟子たちがひそかに彼を嘲って言った。「辺孝先、腹がぽっこり。読書は怠けて、ただ眠りたがる。」辺韶はこっそりそれを聞き、即座に応えて言った。「辺は姓、考は字。腹がぽっこりは、『五経』の箱。ただ眠りたがるは、経書のことを思うため。眠れば周公と夢を通じ、静かにしていれば孔子と心を同じくする。師を嘲るなど、いったいどの典籍に書いてあるのか?」嘲った者は大いに恥じ入った。辺韶の才知の機敏さはみなこのようなものであった。
桓帝の時、臨潁侯の相となり、召されて太中大夫に任じられ、東観で著作に従事した。再び転じて北地太守となり、召し出されて尚書令に任じられた。後に陳の相となり、官のまま死去した。詩・頌・碑・銘・書・策を著し、合わせて十五篇ある。