後漢書

巻七十九上・儒林列伝第六十九上

巻七十九上・儒林列伝第六十九上

昔、王莽や更始の時代には、天下は散乱し、礼楽は分崩し、典籍文章は残欠散逸していた。光武帝が中興すると、経術を愛好し、まだ都に着く前に先だって儒雅の士を訪ね、欠けた文章を探し求め、漏れ逸れたものを補いつなぎ合わせた。これ以前、四方の学者たちは多く図書を抱えて山林に逃れ隠れていたが、この時から皆、経典を抱えて都に雲集し、范升、陳元、鄭興、杜林、衛宏、劉昆、桓栄といった人々が次々と集まった。そこで『五経』博士を立て、それぞれ家法によって教授させた。『易』には施、孟、梁丘、京氏の四家、『尚書』には欧陽、大夏侯、小夏侯の三家、『詩』には斉、魯、韓の三家、『礼』には大戴、小戴の二家、『春秋』には厳、顔の二家、合わせて十四博士を置き、太常がその序列を定めて総括した。

原文昔王莽、更始之際,天下散亂,禮乐分崩,典文残落。及光武中興,爱好經术,未及下車,而先访儒雅,采求阙文,补缀漏逸。先是,四方學士多懷协图書,遁逃林薮。自是莫不抱負坟策,云会京师,范升、陳元、鄭興、杜林、卫宏、劉昆、桓荣之徒,继踵而集。于是立《五經》博士,各以家法教授,《易》有施、孟、梁丘、京氏,《尚書》歐陽、大小夏侯,《詩》齊、鲁、韓,《禮》大小戴,《春秋》严、颜、凡十四博士,太常差次总領焉。

建武五年、太学を修築し、古典の儀式に則り、籩豆や干戚の容儀を列に備え、方領の服を着て矩歩を習う者が、その中でゆったりとしていた。中元元年、初めて三雍(明堂、霊台、辟雍)を建立した。明帝が即位すると、自らその礼を行った。天子は初めて通天冠を戴き、日月の文様の衣を着て、法物を備えた車駕に乗り、清道の儀を盛大に行い、明堂に坐して諸侯を朝見し、霊台に登って雲物を望み、辟雍の上で袒衣して牲を切り、三老五更を尊養した。饗射の礼が終わると、帝は正坐して自ら講義し、諸儒が経書を手に前に出て問難し、冠帯を整えた縉紳の人々が、圜橋の門を囲んで観聴する者は億万を数えた。その後さらに功臣の子孫や四姓(樊、郭、陰、馬)の末属のために別に校舎を立て、高才を選抜してその学業を受けさせ、期門や羽林の兵士からも、皆に『孝経』の章句を通曉させ、匈奴も子を遣わして入学させた。盛んなことよ、広大なことよ、永平年間の盛況であった。

原文建武五年,乃修起太學,稽式古典,笾豆干戚之容,备之于列,服方領习矩步者,委它乎其中。中元元年,初建三雍。明帝即位,親行其禮。天子始冠通天,衣日月,备法物之驾,盛清道之仪,坐明堂而朝群后,登靈台以望云物,袒割辟雍之上,尊养三老五更。飨射禮毕,帝正坐自講,諸儒执經問难于前,冠带缙绅之人,圜桥门而觀听者盖億萬计。其后复爲功臣子孫、四姓末属别立校舍,搜选高能以受其業,自期门羽林之士,悉令通《孝經》章句,匈奴亦遣子入學。濟濟乎,洋洋乎,盛于永平矣!

建初年間、白虎観で諸儒を大いに集め、同異を考証詳論し、数か月にわたってようやく終わった。章帝が親臨して制を称し、石渠閣の故事のように、史臣に命じて通義を著わさせた。また詔して高才生に『古文尚書』、『毛詩』、『穀梁伝』、『左氏春秋』を学ばせた。これらは学官に立てられなかったが、皆高第を抜擢して講郎とし、近署に給事させ、遺逸を網羅し、多くの家説を広く保存したのである。和帝もたびたび東観に行幸し、書林を閲覧した。鄧太后が称制すると、学者はやや懈怠した。時、樊準と徐防がともに学問を勧めるべきことを上奏し、また儒職にふさわしくない者が多いと述べた。そこで詔して公卿にその選を妙簡させ、三署の郎で経術に通じる者は皆、察挙の対象とした。安帝が政務を執るようになってからは、芸文を軽んじ、博士は席に倚って講義せず、門徒たちは互いに怠慢散漫に見合い、学舎は荒れ果てて園蔬と化し、牧童や樵夫がその下で薪を刈るほどであった。順帝は翟酺の言葉に感じて、さらに学舎を修築し、構造物は合わせて二百四十棟、千八百五十室に及んだ。明経の試験で下第した者を弟子に補し、甲乙の科の定員をそれぞれ十人増やし、郡国の耆儒を皆、郎や舍人に補任した。本初元年、梁太后は詔して言った。「大将軍から六百石に至るまで、皆子を就学させよ。毎年、郷射の月に一度饗会を行うことを常例とする。」これ以来、遊学はますます盛んになり、三万余生に至った。しかし章句の学は次第に疎かになり、多くは浮華を尊ぶようになり、儒者の風は衰えた。党人が誅殺された後、その高名な善士の多くは流罪や免職に処せられ、その後は互いに憤争し、さらに誣告し合い、また私的に金貨を行って、蘭台の漆書の経字あざなを改定し、自分の私文に合わせる者もあった。熹平四年、霊帝はついに諸儒に詔して『五経』を正定させ、石碑に刊刻し、古文、篆書、隷書の三体書法で互いに参照検討できるようにし、学門に立てて、天下が皆これを規範とするようにした。

原文建初中,大会諸儒于白虎觀,考详同异,连月乃罢。肃宗親臨稱制,如石渠故事,顧命史臣,著爲通义。又詔高才生受《古文尚書》、《毛詩》、《穀梁》、《左氏春秋》,雖不立學官,然皆擢高第爲講郎,给事近署,所以网罗遺逸,博存衆家。孝和亦数幸東觀,览阅書林。及邓后稱制,學者颇懈。時,樊准、徐防并陳敦學之宜,又言儒职多非其人,于是制詔公卿妙简其选,三署郎能通經术者,皆得察舉。自安帝览政,薄于藝文,博士倚席不講,朋徒相視怠散,學舍穨敝,鞠爲园蔬,牧兒荛竖,至于薪刈其下。顺帝感翟酺之言,乃更修黉宇,凡所结构二百四十房,千八百五十室。试明經下第补弟子,增甲乙之科员各十人,除郡國耆儒皆补郎、舍人。本初元年,梁太后詔曰:“大将军下至六百石,悉遣子就學,每歲辄于乡射月一飨会之,以此爲常。”自是游學增盛,至三萬余生。然章句渐疏,而多以浮华相尚,儒者之風盖衰矣。党人既誅,其高名善士多坐流廢,后遂至忿争,更相信告,亦有私行金货,定兰台漆書經字,以合其私文。熹平四年,靈帝乃詔諸儒正定《五經》,刊于石碑,爲古文、篆、隶三体書法以相参检,树之學门,使天下咸取則焉。

初め、光武帝が洛陽に遷都した時、その経牒秘書を載せた車は二千余両に及んだが、これ以後、以前の三倍に増えた。董卓が都を移す際、官吏民衆が混乱し、辟雍、東観、蘭台、石室、宣明、鴻都などに蔵されていた典籍文章は争って散逸し、その絹帛の図書は、大きいものは帷や蓋に継ぎ合わされ、小さいものは嚢袋に作られた。王允が収集して西へ運んだものは、わずか七十余乗に過ぎず、道路は険遠で、さらにその半分を棄てた。その後、長安の乱で、一時に焼き払われ、ことごとく滅び尽くしてしまった。

原文初,光武遷還洛陽,其經牒秘書載之二千余两,自此以后,参倍于前。及董卓移都之際,吏民扰亂,自辟雍、東觀、兰台、石室、宣明、鸿都諸藏典策文章,竞共剖散,其缣帛图書,大則连爲帷盖,小乃制爲縢囊。及王允所收而西者。裁七十余乘,道路艰远,复弃其半矣。后長安之亂,一時焚荡,莫不泯盡焉。

東京(洛陽)の学者は雑多で多く、詳しく記載するのは難しい。今はただ経書に通じ名家となった者を記録して、『儒林篇』とする。独自に列伝がある者は、重複して書かない。師承関係で、証として名を標すべきものは、ここに記す。

原文東京學者猥衆,难以详載,今但录其能通經名家者,以爲《儒林篇》。其自有列傳者,則不兼書。若师资所承,宜标名爲证者,乃著之云。

『易』

原文=易=

『前漢書』によると、田何が『易』を伝え丁寛に授け、丁寛が田王孫に授け、王孫が沛の人施讎、東海の人孟喜、琅邪の人梁丘賀に授けた。これによって『易』に施、孟、梁丘の学が生まれた。また東郡の京房が梁国の焦延寿から『易』を受け、別に京氏学を立てた。また東莱の費直が『易』を伝え、琅邪の王横に授けて、費氏学となった。もともと古字を用い、『古文易』と称した。また沛の人高相が『易』を伝え、子の高康と蘭陵の毋将永に授けて、高氏学となった。施、孟、梁丘、京氏の四家は皆博士に立てられたが、費、高二家は立てられなかった。

原文《前書》云:田何傳《易》授丁寬,丁寬授田王孫,王孫授沛人施雠、東海孟喜、琅邪梁丘贺,由是《易》有施、孟、梁丘之學。又東郡京房受《易》于梁國焦延壽,别爲京氏學。又有東莱费直,傳《易》,授琅邪王横,爲费氏學。本以古字,号《古文易》。又沛人高相傳《易》,授子康及兰陵毋将永,爲高氏學。施、孟、梁丘、京氏四家皆立博士,费、高二家未得立。

劉昆

原文劉昆

劉昆は字を桓公といい、陳留郡東昏県の人で、梁孝王の子孫である。若くして容礼を習った。平帝の時、沛の人戴賓から『施氏易』を受けた。雅琴を弾くことができ、清角の操を知っていた。

原文劉昆字桓公,陳留東昏人,梁孝王之胤也。少习容禮。平帝時,受《施氏易》于沛人戴宾。能弹雅琴,知清角之操。

王莽の時代、弟子を教授し、常に五百余人を数えた。毎年春秋の饗射には、常に典儀を整え、素木の瓠の葉を俎豆とし、桑の弓と蒿の矢で「菟首」を射た。礼を行うたびに、県令は属吏を率いて見物した。王莽は劉昆が多くの徒衆を集め、私的に大礼を行い、上を僭越する心があると考え、劉昆とその家族を外黄の獄に繋いだ。まもなく王莽が敗れて免れた。その後天下が大乱すると、劉昆は難を避けて河南の負犢山に隠れた。

原文王莽世,教授弟子恒五百余人。每春秋飨射,常备列典仪,以素木瓠叶爲俎豆,桑弧蒿矢,以射“菟首”。每有行禮,县宰辄率吏属而觀之。王莽以昆多聚徒衆,私行大禮,有僭上心,乃系昆及家属于外黄狱。寻莽敗得免。既而天下大亂,昆避难河南負犊山中。

建武五年、孝廉に挙げられたが応じず、逃れて江陵で教授した。光武帝はこれを聞き、すぐに江陵令に任命した。当時、県では連年火災が起こり、劉昆は火に向かって叩頭すると、多くは雨を降らせ風を止めることができた。議郎に徴され、次第に侍中、弘農太守に昇進した。

原文建武五年,舉孝廉,不行,遂逃,教授于江陵。光武聞之,即除爲江陵令。時,县连年火災,昆辄向火叩頭,多能降雨止風。征拜議郎,稍遷侍中、弘農太守。

以前、崤山や黾池の駅道には虎の災害が多く、旅人の通行ができなかった。劉昆が政を執ること三年、仁徳の教化が大いに行き渡り、虎は皆子を背負って黄河を渡って去った。帝はこれを聞いて異とし、二十二年、杜林に代わって光禄勲に徴した。詔して劉昆に問うた。「以前江陵では、風向きを変えて火を消し、後に弘農を守ると、虎が北へ黄河を渡った。どのような徳政を行ってこのような事を招いたのか。」劉昆は答えて言った。「偶然です。」左右の者は皆、その質朴で口下手なのを笑った。帝は嘆いて言った。「これこそ長者の言葉である。」命じてこれを策に書かせた。そして皇太子及び諸王、小侯五十余人に教授させた。二十七年、騎都尉に任じられた。三十年、老齢を理由に致仕を願い出て、詔により洛陽に邸宅を賜り、千石の禄でその身を終えた。中元二年に死去した。

原文先是,崤、黾驿道多虎災,行旅不通。昆爲政三年,仁化大行,虎皆負子度河。帝聞而异之。二十二年,征代杜林爲光禄勋。詔問昆曰:“前在江陵,反風灭火,后守弘農,虎北度河,行何德政而致是事?”昆對曰:“偶然耳。”左右皆笑其质讷。帝叹曰:“此乃長者之言也。”顧命書諸策。乃令入授皇太子及諸王小侯五十余人。二十七年,拜骑都尉。三十年,以老乞骸骨,詔賜洛陽第舍,以千石禄終其身。中元二年卒。

子の劉軼は、字を君文といい、劉昆の学業を伝え、門徒も盛んだった。永平年間、太子中庶子となった。建初年間、次第に宗正に昇進し、在官中に死去し、以後代々宗正を掌ることとなった。

原文子軼,字君文,傳昆業,门徒亦盛。永平中,爲太子中庶子。建初中,稍遷宗正,卒官,遂世掌宗正焉。

窪丹

原文洼丹

窪丹は字を子玉といい、南陽郡育陽県の人である。代々『孟氏易』を伝えた。王莽の時代には、常に世を避けて教授に専念し、仕官せず、弟子は数百人に及んだ。建武の初め、博士となり、次第に昇進し、十一年に大鴻臚となった。『易通論』七篇を著し、世に『窪君通』と称された。窪丹の学問は義理を深く究め、易学の家は彼を宗とし、大儒と称された。十七年、官の任上で死去した。七十歳であった。

原文洼丹字子玉,南陽育陽人也。世傳《孟氏易》。王莽時,常避世教授,專志不仕,徒衆数百人。建武初,爲博士,稍遷,十一年,爲大鸿胪。作《易通論》七篇,世 號《洼君通》。丹學義研深,《易》家宗之,稱爲大儒。十七年,卒於官,年七十。

その頃、中山国の觟陽鴻は、字を孟孫といい、やはり『孟氏易』を教授して名声があり、永平年間に少府となった。

原文時,中山觟陽鸿,字孟孫,亦以《孟氏易》教授,有名稱,永平中爲少府。

任安

原文任安

任安は字を定祖といい、広漢郡綿竹県の人である。若くして太学に遊学し、『孟氏易』を受け、さらに数種の経書に通じた。また同郡の楊厚について図讖としんを学び、その術を極めた。当時の人は「仲桓を知りたければ任安に問え」と言い、また「今に居りて古を行なうは任定祖なり」と言った。学業を終えて帰郷し教授すると、諸生は遠方からもやって来た。初め州郡に仕えた。後に太尉が二度辟召し、博士に任じられ、公車で招聘されたが、いずれも病気を称して応じなかった。州牧の劉焉が上表して推薦したが、当時は王道が隔絶し、詔命は結局届かなかった。七十九歳、建安七年に自宅で死去した。

原文任安字定祖,广汉绵竹人也。少游太學,受《孟氏易》,兼通数經。又从同郡楊厚學图谶,究極其术。時人稱曰:“欲知仲桓問任安。”又曰:“居今行古任定祖。”學終,還家教授,諸生自远而至。初仕州郡。后太尉再辟,除博士,公車征,皆稱疾不就。州牧劉焉表荐之,時王涂隔塞,詔命竟不至。年七十九,建安七年,卒于家。

楊政

原文楊政

楊政は字を子行といい、京兆の人である。若くして学問を好み、代郡の范升に師事して『梁丘易』を受け、経書を説くことを得意とした。京師では彼について「経を説くこと鏗鏗たる楊子行」と謡われた。数百人の弟子を教授した。

原文楊政字子行,京兆人也。少好學,从代郡范升受《梁丘易》,善说經書。京师爲之语曰:“说經铿铿楊子行。”教授数百人。

范升がかつて離縁した妻に訴えられ、罪に連座して獄に繋がれたことがあった。楊政は肌を脱ぎ、耳に矢を貫き、范升の子を抱いて道端に潜み、車駕を待ち受けて上奏文を持ち頭を叩きつけ大声で言った。「范升は三度娶ったが、ただ一人の子がいるのみで、今ちょうど三歳です。孤児となるのは哀れです。」武騎や虎賁は乗輿を驚かすことを恐れ、弓を挙げて彼を射ようとしたが、それでも去ろうとしなかった。旄頭がまた戟で楊政を突き刺し、胸を傷つけたが、楊政はなお退かなかった。哀泣して請願し、帝の心を動かし、詔して「楊生の師を乞う」と言われ、即座に范升を釈放した。楊政はこれによって名声を顕わにした。

原文范升尝爲出妇所告,坐系狱,政乃肉袒,以箭贯耳,抱升子潜伏道傍,候車驾,而持章叩頭大言曰:“范升三娶,唯有一子,今适三歲,孤之可哀。”武骑虎贲惧惊乘舆,舉弓射之,犹不肯去;旄頭又以戟叉政,伤胸,政犹不退。哀泣辞请,有感帝心,詔曰:“乞楊生师。”即尺一出升,政由是显名。

人となりは酒を好み、細かい礼節に拘らず、果敢で自ら誇ったが、義に厚かった。当時、帝の婿の梁松、皇后の弟の陰就はいずれもその名声を慕い、交友を請うた。楊政が彼らと議論するたび、常に切磋琢磨して誠実であり、屈服させられることはなかった。かつて楊虚侯の馬武を訪ねたことがある。馬武は楊政に会うのを難くし、病気と称して起き上がらなかった。楊政は戸口に入り、まっすぐに床に登って馬武を押しのけ、その腕を掴んで責めて言った。「卿は国の恩恵を受け、藩輔の地位に備わっているのに、賢者を求めて特別な寵愛に報いることを思わず、天下の英俊に対して驕っている。これは身を養う道ではない。今日動けば刀が脇腹に入る。」馬武の諸子や左右の者は皆大いに驚き、脅迫されたと思い、兵を操って周囲を満たしたが、楊政の顔色は自若としていた。ちょうど陰就が到着し、馬武を責め数えて、交友するよう命じた。その剛直果敢で感情のままに振る舞う様は、皆このようなものであった。建初年間、官は左中郎将に至った。

原文爲人嗜酒,不拘小節,果敢自矜,然笃于义。時,帝婿梁松、皇后弟陰就,皆慕其聲名,而请与交友。政每共言論,常切磋恳至,不爲屈挠。尝诣楊虚侯馬武,武难見政,稱疾不爲起。政入户,径升床排武,把臂责之曰:“卿蒙國恩,备位籓辅,不思求贤以报殊宠,而骄天下英俊,此非养身之道也。今日动者刀入胁。”武諸子及左右皆大惊,以爲見劫,操兵满侧,政颜色自若。会陰就至,责数武,令爲交友。其刚果任情,皆如此也。建初中,官至左中郎将。

張興

原文張興

張興は字を君上といい、潁川郡鄢陵県の人である。『梁丘易』を修め教授した。建武年間、孝廉に挙げられて郎となり、病気を理由に辞去し、再び帰郷して門徒を集めた。後に司徒の馮勤の府に辟召され、馮勤が孝廉に挙げ、次第に昇進して博士となった。永平の初め、侍中祭酒に転じた。十年、太子少傅に拝された。顕宗はたびたび経術について訪問し尋ねた。やがて名声が著しく聞こえ、弟子は遠方からやって来て、登録した者がほぼ一万人に及び、梁丘家の宗とされた。十四年、官の任上で死去した。

原文張興字君上,颍川鄢陵人也。习《梁丘易》以教授。建武中,舉孝廉爲郎,谢病去,复歸聚徒。后辟司徒冯勤府,勤舉爲教廉,稍遷博士。永平初,遷侍中祭酒。十年,拜太子少傅。显宗数访問經术。既而聲稱著聞,弟子自远至者,著录且萬人,爲梁丘家宗。十四年,卒于官。

子の張魴は父の学業を伝え、位は張掖属国都尉に至った。

原文子鲂,傳興業,位至張掖属國都尉。

戴憑

原文戴憑

戴憑は字を次仲といい、汝南郡平輿県の人である。『京氏易』を修めた。十六歳の時、郡が明経に挙げ、博士に試験徴用され、郎中に拝された。

原文戴憑字次仲,汝南平舆人也。习《京氏易》。年十六,郡舉明經,征试博士,拜郎中。

ある時、詔により公卿が大会し、群臣は皆席に就いたが、戴憑だけは立ったままだった。光武帝がその意を問うた。戴憑は答えて言った。「博士たちが経を説くのは皆、臣に及びません。それなのに臣の上に座っています。それゆえ席に就くことができないのです。」帝はすぐに殿上に召し上げ、諸儒と論難させたところ、戴憑は多くを解釈した。帝はこれを良しとし、侍中に拝し、たびたび進見して得失を問うた。帝は戴憑に言った。「侍中は国政を匡正補佐すべきであり、隠し事があってはならない。」戴憑は答えて言った。「陛下は厳格です。」帝が「朕はどうして厳格なのか」と言うと、戴憑は言った。「前太尉西曹掾の蒋遵は、清く明るく忠孝に厚く、学問は古今に通じています。陛下が膚受の訴えを受け入れられたため、ついに禁錮に至りました。世間はこれをもって厳格としています。」帝は怒って言った。「汝南の子はまた党を結ぼうとするのか。」戴憑は退出し、自ら廷尉に身を繫いだ。詔があって赦し出された。後にまた引見され、戴憑は謝罪して言った。「臣には謇諤の節はなく、狂瞽の言葉があるのみで、屍を伏して諫めることができず、苟くも生きながらえているのは、誠に聖朝に慚じます。」帝はすぐに尚書に命じて蒋遵の禁錮を解き、戴憑を虎賁中郎将に拝し、侍中を兼ねてこれを領させた。

原文時,詔公卿大会,群臣皆就席,憑独立。光武問其意。憑對曰:“博士说經皆不如臣,而坐居臣上,是以不得就席。”帝即召上殿,令与諸儒难说,憑多所解释。帝善之,拜爲侍中,数进見問得失。帝謂憑曰:“侍中当匡补國政,勿有隐情。”憑對曰:“陛下严。”帝曰:“朕何用严?”憑曰:“伏見前太尉西曹掾蒋遵,清亮忠孝,學通古今,陛下纳肤受之诉,遂致禁锢,世以是爲严。”帝怒曰:“汝南子欲复党乎?”憑出,自系廷尉,有詔敕出。后复引見,憑谢曰:“臣无謇谔之節,而有狂瞽之言,不能以尸伏谏,偷生苟活,诚惭聖朝。”帝即敕尚書解遵禁锢,拜憑虎贲中郎将,以侍中兼領之。

正月元旦の朝賀で、百官がすべて参集すると、皇帝は群臣の中で経書を説くことのできる者に互いに論難させ、義理が通じない者があれば、その席を奪って通じた者に与えた。戴憑はついに五十余りの席を重ねて座った。それゆえ都の人々は彼についてこう言った。「経を解して尽きることなきは戴侍中」。在職十八年、官の任上で死去した。詔により東園の梓器と銭二十万が賜与された。

原文正旦朝贺,百僚毕会,帝令群臣能说經者更相难诘,义有不通,辄夺其席以益通者,憑遂重坐五十余席。故京师爲之语曰:“解經不穷戴侍中。”在职十八年,卒于官,詔賜東园梓器,钱二十萬。

当時、南陽の魏満は字を叔牙といい、やはり『京氏易』を学び、教授していた。永平年間に、弘農太守に至った。

原文時南陽魏满字叔牙,亦习《京氏易》,教授。永平中,至弘農太守。

孫期

原文孫期

孫期は字を仲彧といい、済陰郡成武県の人である。若くして諸生となり、『京氏易』と『古文尚書』を学んだ。家は貧しく、母に仕えて至孝であり、大沢の中で豚を放牧して、母を養った。遠方から彼に学びに来る者は、皆、経書を手に畦道で彼を追いかけ、村里はその仁愛と譲りの心に感化された。黄巾の賊が起こり、孫期の里の道を通りかかった時、互いに約束して孫先生の家を犯さないようにした。郡が方正に推挙し、役人が羊と酒を持って孫期を招こうとしたが、孫期は豚を草むらに追いやって顧みなかった。司徒の黄琬が特に召し出したが、行かず、家で亡くなった。

原文孫期字仲彧,濟陰成武人也。少爲諸生,习《京氏易》、《古文尚書》。家贫,事母至孝,牧豕于大澤中,以奉养焉。远人从其學者,皆执經壟畔以追之,里落化其仁讓。黄巾贼起,過期里陌,相約不犯孫先生舍。郡舉方正,遣吏赍羊、酒请期,期驱豕入草不顧。司徒黄琬特辟,不行,終于家。

建武年間、范升が『孟氏易』を伝え、楊政に授けた。一方、陳元と鄭衆は皆『費氏易』を伝え、その後、馬融もその伝を作った。馬融は鄭玄に授け、鄭玄は『易注』を作り、荀爽もまた『易伝』を作った。これ以降、『費氏』が興隆し、『京氏』は衰退した。

原文:建武中,范升傳《孟氏易》,以授楊政,而陳元、鄭衆皆傳《费氏易》,其后馬融亦爲其傳。融授鄭玄,玄作《易注》,荀爽又作《易傳》,自是《费氏》興,而《京氏》遂衰。

尚書

原文=尚書=

『前書』に言う。済南の伏生が『尚書』を伝え、済南の張生と千乗の欧陽生に授けた。欧陽生は同郡のB6 F9寬に授け、寬は欧陽生の子に授け、代々相伝え、曾孫の欧陽高に至り、『尚書』の欧陽氏学となった。張生は夏侯都尉に授け、都尉は同族の子の始昌に授け、始昌は同族の子の勝に伝え、大夏侯氏学となった。勝は従兄の子の建に伝え、建は別に小夏侯氏学を立てた。三家は皆博士に立てられた。また、魯の人孔安国が『古文尚書』を伝え、都尉朝に授け、朝は膠東の庸譚に授け、『尚書』の古文学となったが、立てられることはなかった。

原文《前書》云:濟南伏生傳《尚書》,授濟南張生及千乘歐陽生,歐陽生授同郡B6 F9寬,寬授歐陽生之子,世世相傳,至曾孫歐陽高,爲《尚書》歐陽氏學;張生授夏侯都尉,都尉授族子始昌,始昌傳族子胜,爲大夏侯氏學;胜傳从兄子建,建别爲小夏侯氏學:三家皆立博士。又鲁人孔安國傳《古文尚書》授都尉朝,朝授胶東庸谭,爲《尚書》古文學,未得立。

欧陽歙

原文歐陽歙

欧陽歙は字を正思といい、楽安郡千乗県の人である。欧陽生から伏生の『尚書』を伝えられ、歙に至るまで八代、皆博士となった。

原文歐陽歙字正思,乐安千乘人也。自歐陽生傳《伏生尚書》,至歙八世,皆爲博士。

歙は学問を伝承するとともに、恭謙で礼譲を好んだ。王莽の時、長社宰となった。更始帝が立つと、原武令となった。世祖(光武帝)が河北を平定し、原武に到着した時、歙が県で善政を行っているのを見て、河南都尉に遷し、後に太守の事務を代行した。世祖が即位すると、初めて河南尹となり、被陽侯に封ぜられた。建武五年、事に坐して官を免ぜられた。翌年、揚州牧に拝され、汝南太守に遷った。賢俊を推挙登用し、政治は異跡と称された。九年、夜侯に改封された。

原文歙既傳業,而恭谦好禮讓。王莽時,爲長社宰。更始立,爲原武令。世祖平河北,到原武,見歙在县修政,遷河南都尉,后行太守事。世祖即位,始爲河南尹,封被陽侯。建武五年,坐事免官。明年,拜楊州牧,遷汝南太守。推用贤俊,政稱异迹。九年,更封夜侯。

歙は郡において、数百人を教授した。職務に就いて九年、大司徒に徴された。汝南太守在任中の千万余に上る贓罪が発覚して獄に下された。諸生が宮門を守って歙のために哀願する者は千余人に及び、自ら髪を剃る者さえいた。平原の礼震は、十七歳の時、獄で処断されようとしていると聞き、都へ駆けつけ、河内郡獲嘉県まで来たところで、自らを縛し、上書して歙に代わって死ぬことを求めた。その文に言う。「伏して臣が師と仰ぐ大司徒欧陽歙を見ますに、学問は儒者の宗と為り、八代博士でありながら、贓罪によって重い刑罰を受けることになりました。歙の家門は子が幼く単弱で、学問を伝えることができず、身が死んだ後、永遠に廃絶してしまいます。上は陛下に賢者を殺すとのそしりを招き、下は学者に師資の益を失わせます。どうか臣の身を殺して歙の命に代えてください」。上書が奏上された時、歙はすでに獄中で死んでいた。歙の属官であった陳元が上書して追ってその冤罪を訴え、言葉は甚だ切実であった。そこで帝は棺木を賜い、印綶を追贈し、葬儀のための絹三千匹を贈った。

原文歙在郡,教授数百人,視事九歲,征爲大司徒。坐在汝南臧罪千余萬发觉下狱。諸生守阙爲歙求哀者千余人,至有自髡剔者。平原禮震,年十七,聞狱当断,驰之京师,行到河内获嘉县,自系,上書求代歙死。曰:“伏見臣师大司徒歐陽歙,學爲儒宗,八世博士,而以臧咎当伏重辜。歙门单子幼,未能傳學,身死之后,永爲廢絕,上令陛下获殺贤之讥,下使學者丧师资之益。乞殺臣身以代歙命。”書奏,而歙已死狱中。歙掾陳元上書追訟之,言甚切至,帝乃賜棺木,赠印绶,赙缣三千匹。

子の復が後を嗣いだ。復が卒すると、子がなく、封国は除かれた。

原文子复嗣。复卒,无子,國除。

済陰の曹曾は字を伯山といい、歙に従って『尚書』を受け、門徒三千人、位は諫議大夫に至った。子の祉は河南尹となり、父の学業を伝えて教授した。

原文濟陰曹曾字伯山,从歙受《尚書》,门徒三千人,位至谏議大夫。子祉,河南尹,傳父業教授。

陳留の陳弇は字を叔明といい、司徒の丁鴻からも『欧陽尚書』を受け、蕲県の長として仕えた。

原文留陳弇,字叔明,亦受《歐陽尚書》于司徒丁鸿,仕爲蕲長。

牟長

原文牟長

牟長は字を君高といい、楽安郡臨済県の人である。先祖は牟に封ぜられ、春秋時代の末に国が滅び、それによって氏とした。

原文牟長字君高,乐安臨濟人也。其先封牟,春秋之末,國灭,因氏焉。

牟長は若い頃に『欧陽尚書』を学び、王莽の世には仕えなかった。建武二年、大司空の宋弘が特に召し出して博士に任じ、やがて河内太守に昇進したが、墾田の報告が事実に合わない罪で免職となった。

原文長少习《歐陽尚書》,不仕王莽世。建武二年,大司空弘特辟,拜博士,稍遷河内太守,坐垦田不實免。

牟長は博士となってから河内にいる間、諸生の講学を受ける者は常に千余人おり、登録された者は前後で一万人に及んだ。『尚書章句』を著し、いずれも欧陽氏の学説を本とし、世間では『牟氏章句』と呼んだ。再び中散大夫に徴され、一年間の休暇を賜り、家で死去した。

原文長自爲博士及在河内,諸生講學者常有千余人,著录前后萬人。著《尚書章句》,皆本之歐陽氏,俗号爲《牟氏章句》。复征爲中散大夫,賜告一歲,卒于家。

子の牟紆もまた、隠居して教授に従事し、門生は千人に及んだ。粛宗(章帝)はこれを聞いて召し出し、博士にしようとしたが、赴任途中で死去した。

原文子纡,又以隐居教授,门生千人。肃宗聞而征之,欲以爲博士,道物故。

宋登

原文宋登

宋登は字を叔陽といい、京兆尹長安県の人である。父の宋由は太尉となった。

原文宋登字叔陽,京兆長安人也。父由,爲太尉。

宋登は若くして『欧陽尚書』を伝え、数千人を教授した。汝陰県令となり、政治は明察で有能であり、「神父」と称された。趙国の相に昇進し、朝廷に入って尚書僕射となった。順帝は宋登が礼楽に明識があるとして、節を持たせて太学に臨ませ、曲律を奏上して定めさせ、侍中に転任させた。たびたび封事を上奏し、権臣を抑えて退けたため、これによって穎川太守として出された。市場には二つの価格がなく、道に落ちた物は拾わなかった。病気で免官となり、家で死去した。汝陰の人々は彼を社に配祀した。

原文登少傳《歐陽尚書》,教授数千人。爲汝陰令,政爲明能,号稱“神父”。遷趙相,入爲尚書仆射。顺帝以登明識禮乐,使持節臨太學,奏定曲律,轉拜侍中。数上封事,抑退权臣,由是出爲颖川太守。市无二價,道不拾遺。病免,卒于家,汝陰人配社祠之。

張馴

原文張驯

張馴は字を子鯭といい、済陰郡定陶県の人である。若くして太学に遊学し、『春秋左氏伝』を暗誦することができた。『大夏侯尚書』をもって教授した。公府に召し出され、高第に挙げられて議郎に任じられた。蔡邕とともに『六経』の文字を奏上して定めた。抜擢されて侍中に任じられ、秘書近署を統轄し、非常に異例の待遇を受けた。多くは便宜に従って政治の得失を陳述し、朝廷はこれを称賛した。丹陽太守に昇進し、教化には恵み深い政治を行った。光和七年、尚書に徴されて任じられ、大司農に昇進した。初平年間、官職のまま死去した。

原文張驯字子鯭,濟陰定陶人也。少游太學,能誦《春秋左氏傳》。以《大夏侯尚書》教授。辟公府,舉高第,拜議郎。与蔡邕共奏定《六經》文字。擢拜侍中,典領秘書近署,甚見纳异。多因便宜陳政得失,朝廷嘉之。遷丹陽太守,化有惠政。光和七年,征拜尚書,遷大司農。初平中,卒于官。

尹敏

原文尹敏

尹敏は字を幼季といい、南陽郡堵陽県の人である。若い頃は諸生であった。初めは『欧陽尚書』を学び、後に『古文尚書』を受け、併せて『毛詩』、『穀梁伝』、『左氏春秋』に優れていた。

原文尹敏字幼季,南陽堵陽人也。少爲諸生。初习《歐陽尚書》,后受《古文》,兼善《毛詩》、《穀梁》、《左氏春秋》。

建武二年、『洪範』の消災の術を上疏して陳述した。当時、世祖(光武帝)は天下を創始したばかりで、その事に余裕がなく、尹敏に公車で詔を待つことを命じ、郎中に任じ、大司空府に召し出した。

原文建武二年,上疏陳《洪范》消災之术。時,世祖方草创天下,未遑其事,命敏待詔公車,拜郎中,辟大司空府。

帝は尹敏が経書や記録に博通しているとして、図讖の校訂を命じ、崔発が王莽のために著録し編次した部分を削除させようとした。尹敏は答えて言った。「讖書は聖人の作ったものではなく、その中には多くの卑近な異体字があり、世俗の言辞によく似ています。後生を疑い誤らせることを恐れます。」帝は聞き入れなかった。尹敏はその欠けている文字に因んで、これに加えて「君に口無くば、漢の輔たるべし」と書いた。帝はこれを見て怪しみ、尹敏を召してその理由を問うた。尹敏は答えて言った。「臣は前人が図書を増減するのを見ました。敢えて自らの力量を量らず、ひそかに万一の幸いを願ったのです。」帝はこれを深く非とし、結局は罪に問わなかったが、尹敏もまたこれによって沈滞した。

原文帝以敏博通經記,令校图谶,使蠲去崔发所爲王莽著录次比。敏對曰:“谶書非聖人所作,其中多近鄙别字,颇类世俗之辞,恐疑误后生。”帝不纳。敏因其阙文增之曰:“君无口,爲汉辅。”帝見而怪之,召敏問其故。敏對曰:“臣見前人增損图書,敢不自量,窃幸萬一。”帝深非之,雖竟不罪,而亦以此沈滞。

班彪と親しく交わり、互いに会うたびに、日が暮れるのも忘れて食事をせず、夜半になっても寝ず、自らを鍾子期と伯牙、荘周と恵施のようによく理解し合っていると思った。

原文与班彪親善,每相遇,辄日旰忘食,夜分不寝,自以爲钟期、伯牙,庄周、惠施之相得也。

後に三度昇進して長陵県令となった。永平五年、詔書によって男子の周慮を捕らえることとなった。周慮は平素から名声があり、尹敏と親しかったため、尹敏は連座して投獄され免官となった。出獄した時、嘆いて言った。「唖者や聾者は、まことに世の有道者である。どうして明察であることがこのような災いに遭うと言えようか。」十一年、郎中に任じられ、諫議大夫に昇進した。家で死去した。

原文后三遷長陵令。永平五年,詔書捕男子周虑。虑素有名稱,而善于敏,敏坐系免官。及出,叹曰:“喑聾之徒,真世之有道者也。何謂察察而遇斯患乎?”十一年,除郎中,遷谏議大夫。卒于家。

周防

原文周防

周防は偉公と字し、汝南郡汝陽県の人である。父の揚は幼くして孤児となり貧しかったが、常に旅館を営み、通行客に供給したが、その報酬を受け取らなかった。

原文周防字伟公,汝南汝陽人也。父揚,少孤微,常修逆旅,以供過客,而不受其报。

防は十六歳の時、郡の小吏に仕えた。世祖(光武帝)が汝南を巡狩した際、掾史を召して経書の試験を行ったところ、防は特に読誦に優れていたため、守丞に任命された。防はまだ元服前であったことを理由に辞去した。徐州刺史の蓋豫に師事し、『古文尚書』を学んだ。経書に明るくなると、孝廉に推挙され、郎中に任命された。『尚書雑記』三十二篇、四十万字を撰した。太尉の張禹が推薦して博士に補任され、やがて陳留太守に昇進したが、法に坐して免官された。七十八歳で家で死去した。

原文防年十六,仕郡小吏。世祖巡狩汝南,召掾史试經,防尤能誦讀,拜爲守丞。防以未冠,谒去。师事徐州剌史盖豫,受《古文尚書》。經明,舉孝廉,拜郎中。撰《尚書杂記》三十二篇,四十萬言。太尉張禹荐补博士,稍遷陳留太守,坐法免。年七十八,卒于家。

子の挙は、別に伝がある。

原文子舉,自有傳。

孔僖

原文孔僖

孔僖は仲和と字し、魯国魯県の人である。安国以来、代々『古文尚書』と『毛詩』を伝授してきた。曾祖父の子建は、若い頃長安に遊学し、崔篆と親しく交わった。崔篆が王莽に仕えて建新大尹となった時、子建に出仕を勧めたことがあった。子建は答えて言った。「私には布衣(在野)の志があり、あなたには袞冕(高官)の志がある。それぞれ自分の好むところに従うのが、良いことではないか。道が既に異なったのだから、ここでお別れしよう。」こうして帰郷し、家で生涯を終えた。

原文孔僖字仲和,鲁國鲁人也。自安國以下,世傳《古文尚書》、《毛詩》。曾祖父子建,少游長安,与崔篆友善。及篆仕王莽爲建新大尹,尝勸子建仕。對曰:“吾有布衣之心,子有衮冕之志,各从所好,不亦善乎!道既乘矣,请从此辞。”遂歸,終于家。

僖は崔篆の孫の駰ともまた親しく交わり、共に太学に遊学し、『春秋』を学んだ。呉王夫差の時代の事績を読んだ時、僖は書を置いて嘆息して言った。「これこそ、いわゆる龍を描こうとしてかえって狗になるというものだ。」駰が言った。「その通りだ。昔、孝武皇帝(武帝)が天子となった初め、年は十八歳で、聖人の道を尊び信じ、先王を師とし、五、六年の間は、文帝・景帝よりも優れていると称えられた。その後、己の欲望のままに振る舞い、以前善政を行っていたことを忘れてしまった。」僖が言った。「書伝にこのような例は多い。」隣の部屋の学生である梁郁が調子を合わせて言った。「そうすると、武帝も狗なのか?」僖と駰は黙って答えなかった。郁はこれを恨みに思い、密かに上書して駰と僖が先帝を誹謗し、当世を諷刺していると告発した。事件は役所に下され、駰は役人のもとに出頭して取り調べを受けた。僖は役人が捕らえに来るのを恐れて誅殺されることを恐れ、上書して肅宗(章帝)に訴えた。

原文僖与崔篆孫駰复相友善,同游太學,习《春秋》。因讀吴王夫差時事,僖廢書叹曰:“若是,所謂画龍不成反爲狗者。”駰曰:“然。昔孝武皇帝始爲天子,年方十八,崇信聖道,师則先王,五六年间,号胜文、景。及后恣己,忘其前之爲善。”僖曰:“書傳若此多矣!”邻房生梁郁B367和之曰:“如此,武帝亦是狗邪?”僖、駰默然不對。郁怒恨之,陰上書告駰、僖誹谤先帝,刺讥当世。事下有司,駰诣吏受讯。僖以吏捕方至,恐誅,乃上書肃宗自訟曰:

臣の愚かな考えでは、誹謗というのは、実はその事がなく虚偽を加えて誣いることを言うのだと思います。孝武皇帝の政治の善悪については、漢の歴史にはっきりと記されており、日月のように明らかです。これは書伝の実事を率直に述べているのであって、虚偽の誹謗ではありません。帝王が善を行えば、天下の善はすべてそこに帰します。その不善であれば、天下の悪もまたそこに集まります。これらはすべて原因があってそうなるのであり、人を誅する理由にはなりません。かつ陛下が即位されて以来、政治と教化に過ちはなく、徳沢は以前より増しており、天下がこれを知っているところです。臣らだけがどうして諷刺などできましょうか。仮に非難したことが真実であれば、固より悔い改めるべきです。もし適切でないとしても、寛容に含むべきであり、どうして罪とするのでしょうか。陛下は大勢を推し量らず、深くご自身のために計らず、ただ私憤をふるってご自分の気持ちを快くしようとされています。臣らが殺されれば、死ぬだけのことですが、天下の人々は必ずや振り返って考えを変え、この事件をもって陛下のお心を窺うでしょう。今以後、もしも行うべきでない事柄を見たとしても、ついに再び言う者はなくなるでしょう。臣が死を惜しまず、なお敢えて極言するのは、誠に陛下のためにこの大業を深く惜しむからです。陛下がご自身で惜しまれないなら、臣は何を頼りにしましょうか。齊の桓公は自ら先君の悪事を公表して、管仲を導き出し、その後で群臣が心を尽くすことができました。今、陛下は十代前の武帝について、遠く実事を避けようとされています。これは桓公とは異なるのではありませんか。臣は役人が突然罪をでっち上げ、恨みを抱え冤罪を被り、自らを述べることもできず、後世の論者が勝手に陛下を何かに比べ、どうして再び子孫に追って覆い隠させることができましょうか。謹んで宮門に赴き伏して重誅を待ちます。

原文臣之愚意,以爲凡言誹谤者,謂實无此事而虚加诬之也。至如孝武皇帝,政之美恶,显在汉史,坦如日月。是爲直说書傳實事,非虚谤也。夫帝者爲善,則天下之善咸歸焉;其不善,則天下之恶亦萃焉。斯皆有以致之,故不可以誅于人也。且陛下即位以来,政教未過,而德澤有加,天下所具也,臣等独何讥刺哉?假使所非實是,則固應悛改;倘其不当,亦宜含容,又何罪焉?陛下不推原大数,深自爲计,徒肆私忿,以快其意。臣等受戮,死即死耳,顧天下之人,必回視易虑,以此事窥陛下心。自今以后,苟見不可之事,終莫复言者矣。臣之所以不爱其死,犹敢極言者,诚爲陛下深惜此大業。陛下若不自惜,則臣何赖焉?齊桓公親揚其先君之恶,以唱管仲,然后群臣得盡其心。今陛下乃欲以十世之武帝,远諱實事,岂不与桓公异哉?臣恐有司卒然見构,衔恨蒙枉,不得自叙,使后世論者,擅以陛下有所方比,宁可复使子孫追掩之乎?谨诣阙伏待重誅。

帝は初め僖らを罪に問う意志はなかったが、上書が奏上されると、直ちに詔を下して問わないようにし、僖を蘭台令史に任命した。

原文帝始亦无罪僖等意,及書奏,立詔勿問,拜僖兰台令史。

元和二年の春、帝は東巡狩を行い、帰途魯を通り、闕里に行幸し、太牢をもって孔子と七十二弟子を祭祀し、六代の楽を奏で、孔氏の男子で二十歳以上の者六十三人を集めて大会を開き、儒者に命じて『論語』を講義させた。僖は自ら陳謝した。帝が言った。「今日の会は、卿の宗族にとって光栄であろうか。」答えて言った。「臣は聞きます。明王聖主は、師を尊び道を貴ぶことをしない者はないと。今、陛下がみずから萬乗の尊を屈し、弊邑に辱くも臨まれた。これは先師を礼遇し、聖徳に輝きを増すことです。光栄については、敢えて受け止めることはできません。」帝は大笑いして言った。「聖人の子孫でなければ、どうしてこのような言葉があろうか。」そこで僖を郎中に任命し、褒成侯の孔損および孔氏の男女に銭と帛を賜り、詔して僖に従って京師に還るように命じ、東観で校書をさせた。

原文元和二年春,帝東巡狩,還過鲁,幸阙里,以太牢祠孔子及七十二弟子,作六代之乐,大会孔氏男子二十以上者六十三人,命儒者講《論语》。僖因自陳谢。帝曰:“今日之会,宁于卿宗有光荣乎?”對曰:“臣聞明王聖主,莫不尊师贵道。今陛下親屈萬乘,辱臨敝里,此乃崇禮先师,增辉聖德。至于光荣,非所敢承。”帝大笑曰:“非聖者子孫,焉有斯言乎!”遂拜僖郎中,賜褒成侯損及孔氏男女线、帛,詔僖从還京师,使校書東觀。

冬、臨晋県令に任命された。崔駰が『家林』で占ったところ、不吉であると言い、僖を止めて言った。「あなたはどうして辞退しないのですか。」僖は言った。「学問は人のためではなく、仕官は官を選ばない。吉凶は己によるものであって、占いによるものだろうか。」県で三年間務め、任地で死去し、遺言によってその地に葬られた。

原文冬,拜臨晋令,崔駰以《家林》筮之,謂爲不吉,止僖曰:“子盍辞乎?”僖曰:“學不爲人,仕不择官,凶吉由己,而由卜乎?”在县三年,卒官,遺令即葬。

二人の子、長彦と季彦は、ともに十余歳であった。蒲坂県令の許君然が魯に帰るよう勧めた。彼らは答えて言った。「今、棺を載せて帰れば、父の命令に背くことになる。墓を捨てて去るのは、心が忍びない。」こうして華陰に留まった。

原文二子:長彦、季彦,并十余歲。蒲坂令许君然勸令反鲁。對曰:“今載柩而歸,則违父令;舍墓而去,心所不忍。”遂留华陰。

長彦は章句の学を好み、季彦はその家業を守り、門徒は数百人に及んだ。延光元年、河西で大きな雹が降り、大きいものは斗のようであった。安帝は道術に通じた士を召して災異の原因を極力陳述させようとし、季彦を徳陽殿に召して会見し、帝自らその原因を問うた。答えて言った。「これらはすべて陰が陽に乗じた兆しです。今、貴臣が権力を専断し、母后の一族が盛んです。陛下は聖徳を修め、この二つのことを慮るべきです。」帝は黙り、側近たちは皆これを嫌った。孝廉に推挙されたが、就任しなかった。三年、四十七歳で家で死去した。

原文長彦好章句學,季彦守其家業,门徒数百人。延光元年,河西大雨雹,大者如斗。安帝詔有道术之士極陳变眚,乃召季彦見于德陽殿,帝親問其故。對曰:“此皆陰乘陽之征也。今贵臣擅权,母后党盛,陛下宜修聖德,虑此二者。”帝默然,左右皆恶之。舉孝廉,不就。三年,年四十七,終于家。

初め、平帝の時、王莽が政権を執り、孔子の子孫である孔均を褒成侯に封じ、孔子に褒成宣尼と追諡した。王莽が敗れると、封国を失った。建武十三年、世祖(光武帝)は再び孔均の子の志を褒成侯に封じた。志が死去すると、子の損が嗣いだ。永元四年、褒亭侯に徙封された。損が死去すると、子の曜が嗣いだ。曜が死去すると、子の完が嗣いだ。代々相伝わり、献帝の初めに至り、封国は絶えた。

原文初,平帝時王莽秉政,乃封孔子后孔均爲褒成侯,追谥孔子爲褒成宣尼。及莽敗,失國。建武十三年,世祖复封均子志爲褒成侯。志卒,子損嗣。永元四年,徙封褒亭侯。損卒,子曜嗣。曜卒,子完嗣。世世相傳,至献帝初,國絕。

楊伦

原文楊伦

楊倫は字を仲理といい、陳留郡東昏県の人である。若い頃は諸生となり、司徒の丁鴻に師事して『古文尚書』を学んだ。郡の文学掾となった。数人の将軍に仕えたが、時勢に志を乗せることができず、また世間の付き合いができないため、職を辞し、以後は州郡からの召しに応じなかった。大沢の中で講義を行い、弟子は千人を超えた。元初年間、郡が礼を尽くして招聘し、三府がともに辟召し、公車が徴用したが、いずれも病気を理由に辞退して就任しなかった。

原文楊伦字仲理,陳留東昏人也。少爲諸生,师事司徒丁鸿,习《古文尚書》。爲郡文學掾。更历数将,志乘于時,以不能人间事,遂去职,不复應州郡命。講授于大澤中,弟子至千余人。元初中,郡禮请,三府并辟,公車征,皆辞疾不就。

その後、特に博士に徴用され、清河王の傅となった。この年、安帝が崩御すると、楊倫はすぐに官を棄てて喪に駆けつけ、宮門の下で声を絶やさず号泣した。閻太后は彼が専断して職を離れたとして、罪に当たるとした。

原文后特征博士,爲清河王傅。是歲,安帝崩,伦辄弃官奔丧,号泣阙下不絕聲。閻太后以其专擅去职,坐抵罪。

順帝が即位すると、詔により楊倫の刑は赦免され、恭陵で喪に服すことを許された。喪が明けると、侍中に任命された。この時、邵陵県令の任嘉は在職中に貪欲で穢れた行いがありながら、武威太守に転任していたが、後に役人が任嘉の千万に及ぶ賄賂の罪を奏上し、廷尉に召喚して取り調べたところ、それに連座した将相大臣は百人以上に及んだ。楊倫は上書して言った。「臣は聞きます。『春秋』は悪を誅するにその根本に及び、根本が誅されれば悪は消える。裘(毛皮の外套)を振るうには襟を持ち、襟が正しければ毛並みも整う。今、任嘉の犯した罪は狼藉を極めているのに、まだ罪に伏して誅殺されておらず、みだりに穢れた身で大郡の長官に改任されました。もし彼を推薦した者を糾明して罪に問わなければ、奸悪の芽を禁絶することはできません。かつて湖陸県令の張疊、蕭県令の駟賢、徐州刺史の劉福らは、その穢れた行いが明らかになり、皆誅殺されました。しかし、豺狼のような官吏が今も絶えないのは、まさに根本である推薦の主に罪を加えないからではないでしょうか。昔、齊の威王が覇を唱えた時、奸臣五人を殺し、同時に推薦者にも及んだのは、誹謗を止めさせるためでした。断ずべき時に断たないのは、『黄石』の戒めるところです。聖王が童夫匹婦(身分の低い男女)の言葉に耳を傾けるのは、塵が嵩山や泰山に加わり、霧が淮水や海に集まるようなもので、たとえ益がなくとも損にはならないからです。どうか陛下には留意してご覧ください。」上奏されると、役人は楊倫の言葉が厳しく率直で、言辞が恭順でないとして、彼を糾弾した。尚書は楊倫が密事を探り知り、激しい言葉で正直さを求めたと奏上した。不敬の罪に問われ、鬼薪(薪拾いの刑)に処せられた。詔書は楊倫がたびたび忠言を進めたことを考慮し、特に赦免して、故郷に帰らせた。

原文顺帝即位,詔免伦刑,遂留行丧于恭陵。服阕,征拜侍中。是時,邵陵令任嘉在职贪秽,因遷武威太守,后有司奏嘉臧罪千萬,征考廷尉,其所牵染将相大臣百有余人。伦乃上書曰:“臣聞《春秋》誅恶及本,本誅則恶消;振裘持領,領正則毛理。今任嘉所坐狼藉,未受辜戮,猥以垢身,改典大郡,自非案坐舉者,无以禁絕奸萌。往者湖陆令張叠、萧令驷贤、徐州刺史劉福等,衅秽既章,咸伏其誅,而豺狼之吏至今不絕者,岂非本舉之主不加之罪乎?昔齊威之霸,殺奸臣五人,并及舉者,以弭谤讟。当断不断,《黄石》所戒。夫聖王所以听僮夫匹妇之言者,犹尘加嵩岱,雾集淮海,雖未有益,不爲損也。惟陛下留神省察。”奏御,有司以伦言切直,辞不逊顺,下之。尚書奏伦探知密事,激以求直。坐不敬,结鬼薪。詔書以伦数进忠言,特原之,免歸田里。

陽嘉二年、太中大夫に任命された。大将軍の梁商は彼を長史にしようとしたが、諫言が合わず、常山王の傅に左遷され、病気のため赴任しなかった。詔書により司隷校尉に催促と発遣を命じたが、楊倫は河内郡の朝歌に留まり、病気を理由に上書した。「一尺でも留まって死ぬことはあれ、一寸でも北へ行くことはない。首を刎ねられようと志は変えず、九裂の刑を受けようと恨みはない。一匹夫の執着は、三軍よりも強い。敢えて言葉を申し上げる。」皇帝は詔を下して言った。「楊倫は幽谷から昇り、藩王の傅という寵を受けながら、王命を滞らせ、みだりに道中で止まり、病気と称して勝手なことをし、ひたすら偏屈な志をほしいままにした。」そこで廷尉に召喚したが、詔により罪は赦免された。

原文陽嘉二年,征拜太中大夫。大将军梁商以爲長史。谏诤不合,出补常山王傅,病不之官。詔書敕司隶催促发遣,伦乃留河内朝歌,以疾自上,曰:“有留死一尺,无北行一寸。刎颈不易,九裂不恨。匹夫所执,强于三军。固敢有辞。”帝乃下詔曰:“伦出幽升高,宠以籓傅,稽留王命,擅止道路,托疾自从,苟肆狷志。”遂征诣廷尉,有詔原罪。

楊倫は前後三度にわたり徴用されたが、いずれも直諫が受け入れられなかった。帰郷後は門を閉ざして講義に専念し、人との交わりを絶った。公車が再び徴用したが、辞退して行かず、家で死去した。

原文伦前后三征,皆以直谏不合。既歸,闭门講授,自絕人事。公車复征,逊遁不行,卒于家。

後漢の中興期、北海の牟融は『大夏侯尚書』を学び、東海の王良は『小夏侯尚書』を学び、沛国の桓栄は『歐陽尚書』を学んだ。桓栄の学問は代々伝授され、洛陽(東京)で最も盛んになった。扶風の杜林は『古文尚書』を伝え、杜林と同じ郡の賈逵がこれに訓を加え、馬融が伝を作り、鄭玄が注解を施した。これによって『古文尚書』は世に顕れるようになった。

原文:中興,北海牟融习《大夏侯尚書》,東海王良习《小夏侯尚書》,沛國桓荣习《歐陽尚書》。荣世习相傳授,東京最盛。扶風杜林傳《古文尚書》,林同郡贾逵爲之作訓,馬融作傳,鄭玄注解,由是《古文尚書》遂显于世。