後漢書

第七十八巻

宦者列伝第六十八

 

『易経』に言う。「天は象を垂れ、聖人はこれに則る」と。宦者四星は、皇位の傍らにある。故に『周礼』は官を置き、その数を備える。閽者は中門の禁を守り、寺人は女宮の戒めを掌る。また「王の正内者は五人」とも云う。『月令』には「仲冬、閹尹に命じて門閭を審らかにし、房室を謹ましむ」とある。『詩経』の『小雅』にも、『巷伯』という讒言を諷刺した篇がある。かくて王朝に宦人がいることは、その来り旧い。それは彼らの身体が完全な気でなく、情志が専ら良く、宮中の人々と通じやすく、使役・養育しやすいからであろうか。しかし後世はこれを踏襲し、その才能に任せる範囲が次第に広がり、その能ある者は、勃貂・管蘇が楚・晋に功を立て、景監・繆賢が秦・趙に庸を著した。その弊に至っては、豎刁が斉を乱し、伊戾が宋に禍をもたらした。

漢が興り、なお秦の制度を襲い、中常侍の官を置いた。しかし士人も引用して、その選に参じさせ、皆銀璫左貂を着け、殿省に給事した。高后が称制すると、張卿を大謁者とし、出入りして臥内に至り、詔命の宣伝を受けた。文帝の時には、趙談・北宮伯子がおり、大いに親幸された。孝武帝に至っても、李延年を愛した。帝はしばしば後庭で宴を開き、あるいはひそかに離館を遊覧したので、機密事の奏請は、多く宦官を以てこれを主とした。元帝の世に至り、史游が黄門令となり、心を勤めて忠を納れ、補益するところがあった。その後、弘恭・石顯が佞険を以て自ら進み、ついに蕭・周の禍があり、帝徳を損い穢した。

中興の初め、宦官は全て閹人を用い、再び他の士人を混ぜて任用することはなかった。永平年間に至り、初めて員数を定め、中常侍四人、小黄門十人とした。和帝が幼弱で即位すると、竇憲兄弟が権威を専らに総べ、内外の臣僚は親しく接する由もなく、共に居る者は、ただ宦官のみであった。故に鄭众は禁中で謀を専らにし、ついに大憝を除き、遂に分土の封を享け、宮卿の位に超登した。ここにおいて中官が初めて盛んとなった。

明帝以後より、延平に至るまで、委用は次第に大きくなり、その員数も少し増え、中常侍は十人に至り、小黄門は二十人となり、金璫右貂に改め、卿署の職を兼ねて領した。鄧后が女主として政に臨み、万機は殷遠で、朝臣の国議は帷幄に参断する由がなく、称制して下令するも、房闈の間を出ず、刑人を用いることを委ね、国命を寄せることを得ざるはなかった。手に王爵を握り、口に天憲を含み、もはや掖廷永巷の職や、閨牖房闼の任ではなかった。その後、孫程が順帝を立てる功を定め、曹騰が桓帝を建てる策に参じ、続いて五侯が合謀し、梁冀が鉞を受けるに及んで、その事跡は公正に因り、恩寵は主心に固く、故に中外は従い、上下は息をひそめた。ある者は伊尹・霍光の勲功に称え、往昔に謝する所なく、ある者は張良・陳平の謀画と謂い、当今に復興した。時に忠公の士はあっても、結局排斥された。その挙動は山海を回らし、呼吸は霜露を変える。旨に阿り曲げて求むれば、光寵は三族に及び、真情を以て意に忤えば、参夷は五宗に及んだ。漢の綱紀は大いに乱れた。

高冠長剣を戴き、朱綬を垂れ金印を懐く者は、宮闈に満ち溢れ;茅を苴き虎符を分け、南面して人を臣とする者は、十数に及んだ。府署・第館は、都鄙に棋列し;子弟・支附は、州国の過半を占めた。南金・和宝・冰紈・霧縠の蓄積は、仞を満たして珍藏され;嬙媛・侍兒・歌単・舞女の玩好は、綺室に充ち備わった。狗馬は彫文で飾り、土木は緹繍を被った。皆、萌黎を剥ぎ切り、競って奢欲を恣にした。明賢を構害し、専ら党類を樹てた。互いに援引し、権強に希い附こうとする者は、皆、身を腐らせ子を熏し、以て自ら衒達した。同じ弊を相い済ますので、その徒党は繁茂し、国を敗り蠹す事跡は、単に書き記すことができない。これにより海内は毒を嘆き、志士は窮して棲み、寇劇は間隙に縁り、区夏を揺り乱した。忠良が憤りを懐き、時に奮発することはあっても、言い出せば禍が従い、たちまち孥戮に遭った。そこでまた大いに鉤党を考査し、転じて互いに誣染した。善士と称される者は、災毒を被らない者はなかった。竇武・何進は、位は崇高で戚近にあり、九服の嚣怨に乗じ、群英の勢力を協えながら、疑いを留めて断じず、ついに殄敗に至った。これもまた運の極みであろうか!袁紹が恭行し、芟夷して余り無くしたとはいえ、暴を以て乱に易えただけであり、何と云って及ぼうか!曹騰が梁冀を説き、ついに昏弱を立てて以来、魏武(曹操)がこれに因り、遂に鼎を遷した。所謂「君これに以て始まる者は、必ずこれに以て終わる」とは、まことにその通りであると言えよう。

鄭众

鄭众、あざなは季产、南陽郡犨県の人である。人となりは謹敏で心に機微があった。永平年間、初めて太子の家に給事した。肅宗(章帝)が即位すると、小黄門に拝され、中常侍に遷った。和帝の初め、位を加えて鉤盾令となった。

当時、竇太后が政務を執り行い、太后の兄である大将軍の竇憲らが共に権威と権力を私物化し、朝廷の臣下たちは上から下まで彼らに付き従わない者はなかったが、鄭衆だけは一心に王室を思い、豪族の党派に仕えることなく、皇帝から親しく信頼された。やがて竇憲兄弟が謀反を企てると、鄭衆は真っ先に彼らを誅殺することを謀り、その功績により大長秋に昇進した。功績を記録し恩賞を分け与える際、彼は常に多くを辞退して少なく受け取った。このため、しばしば政事の相談に与ることとなった。宦官が権力を用いることは、鄭衆から始まったのである。

十四年、皇帝は鄭衆の功績の素晴らしさを思い、彼を鄛郷侯に封じ、食邑千五百戸を与えた。

永初元年

、和熹皇后はさらに三百戸を加増して封じた。

元初元年

に死去し、養子の鄭閎が後を継いだ。鄭閎が死去すると、子の鄭安が後を継いだ。その後、封国は絶えた。桓帝の

延熹二年

、鄭衆の曾孫である鄭石讎を関内侯に封じて家系を継がせた。

蔡倫

蔡倫は字を敬仲といい、桂陽郡の人である。永平末年に宮廷に仕え始め、建初年間に小黄門となった。和帝が即位すると、中常侍に転じ、帷幄の議に参与した。

蔡倫は才学があり、誠心誠意、篤実で慎重であり、たびたび厳しい顔色を犯しながらも、過ちを正し補佐した。休暇のたびに、門を閉ざして賓客を断ち、野原で体を日にさらした。後に尚方令の位を加えられた。

永元九年

、秘剣や各種の器械の製作を監督し、どれも精巧で堅牢緻密であり、後世の規範となった。

古来より文書は多く竹簡を編んで作られ、絹帛を用いるものを紙と呼んだ。絹帛は高価で竹簡は重く、いずれも人々にとって不便であった。蔡倫は創意を凝らし、樹皮、麻くず、古布、魚網を用いて紙を造った。元興元年にこれを上奏して献上すると、皇帝はその才能を称え、これ以降、用いない者はなく、天下こぞって「蔡侯紙」と呼んだ。

元初元年

鄧太后は、蔡倫が長く宿衛に勤めたことを理由に、龍亭侯に封じ、三百戸の封邑を与えた。後に長楽太僕となった。四年(永初四年)、皇帝は経伝の文に正しくないものが多いと考え、通儒の謁者劉珍と博士良史を選んで東観に赴かせ、それぞれ漢家の法を校訂させ、蔡倫にその事を監督させた。

蔡倫は最初、竇皇后の暗示に従い、安帝の祖母である宋貴人を誣告して陥れた。太后が崩御すると、安帝が初めて政務を親裁するようになり、蔡倫に廷尉に出頭するよう命じた。蔡倫は辱めを受けることを恥じ、身を清めて衣冠を整え、毒を飲んで死んだ。封国は除かれた。

孫程

孫程は稚卿と字し、涿郡新城の人である。安帝の時、中黄門となり、長楽宮に給事した。

当時、鄧太后が臨朝称制しており、皇帝は政務に関与していなかった。小黄門の李閏と皇帝の乳母である王聖は、しばしば共謀して太后の兄である執金吾の鄧悝らを讒言し、皇帝を廃して平原王の劉翼を立てようとしていると述べ、皇帝は常に憤りと恐れを抱いていた。太后が崩御すると、ついに鄧氏を誅殺し平原王を廃し、李閏を雍郷侯に封じた。また、小黄門の江京は諂いと讒言によって出世し、最初に皇帝を邸から迎えた功績で都郷侯に封じられ、それぞれ三百戸の封邑を与えられた。李閏と江京はともに中常侍に昇進し、江京は大長秋を兼任し、中常侍の樊豊、黄門令の劉安、鉤盾令の陳達、そして王聖とその娘の伯栄とともに内外を扇動し、奢侈と暴虐を競った。また、皇帝の母方の叔父である大将軍の耿宝、皇后の兄である大鴻臚の閻顕は互いに結託し、ついに太尉の楊震を冤罪で殺害し、皇太子を廃して済陰王とした。

翌年、皇帝が崩御し、北郷侯が天子に立てられた。閻顕らは朝廷の権力を独占して争い、役人に暗示して樊豊を誅殺するよう上奏させ、耿宝と王聖を廃し、その一派は皆、死罪や流刑に処せられた。

十月、北郷侯の病状が重篤になった。孫程は済陰王の謁者長である興渠に言った。「王は嫡流として、何ら過失はなく、先帝が讒言を用いたために廃嫡された。もし北郷侯が病で亡くなれば、江京と閻顕を共に討ち取れば、事は成就するだろう。」興渠らはこれを同意した。また、中黄門の南陽出身の王康は、以前太子府の官吏であり、太子が廃されて以来、常に嘆き憤りを抱いていた。また、長楽太官丞の京兆出身の王國も、孫程に同調した。二十七日、北郷侯が薨去した。閻顕は太后に上奏し、諸王子の中から簡を選んで帝嗣とするよう求めた。到着する前に、十一月二日、孫程は王康ら十八人と共に西鐘の下で謀議ぼうぎを凝らし、皆、単衣を着て誓いを立てた。四日の夜、孫程らは共に崇徳殿に集まり、章台門に入った。その時、江京、劉安、李閏、陳達らが省門の下に座っていた。孫程と王康は共に進み出て江京、劉安、陳達を斬殺した。李閏は権勢が強く省内で服されていたため、主導者に推そうと考え、刀を掲げて李閏を脅し、「今、済陰王を立てる。動揺するな」と言った。李閏は「承知した」と答えた。そこで李閏を扶け起こし、共に西鐘の下で済陰王を迎えて皇帝に立てた。これが順帝である。尚書令、僕射以下を召し、輦に従って南宮の雲台に行幸した。孫程らは省門を守り、内外を遮断した。

閻顕はその時、禁中におり、憂慮してどうすべきか分からなかった。小黄門の樊登が閻顕に兵を発するよう勧め、太后の詔をもって越騎校尉の馮詩と虎賁中郎将の閻崇を召し、朔平門に駐屯させて孫程らを防がせようとした。馮詩を省中に誘い入れ、太后は印綬を授け、「済陰王を捕らえた者には万戸侯を、李閏を捕らえた者には五千戸侯を与える」と言った。閻顕は馮詩の率いる兵が少ないと考え、彼と樊登を左掖門の外で吏士を迎えさせた。馮詩は樊登を撃ち殺し、自らの陣営に帰って守りを固めた。閻顕の弟である衛尉の閻景は急いで省中から外府に戻り、兵を集めて盛徳門に至った。孫程は諸尚書に伝令して閻景を捕らえさせた。尚書の郭鎮はその時病気で臥せっていたが、これを聞くと、直ちに宿直の羽林を率いて南止車門から出て、閻景とその従卒に遭遇した。郭鎮は白刃を抜き、「兵を動かすな」と叫んだ。郭鎮は車から降り、節を持って詔を告げた。閻景は「何の詔だ?」と言い、郭鎮を斬ろうとしたが、当たらなかった。郭鎮は剣を引いて閻景を車から落とし、左右の者が戟でその胸を刺し、ついに捕らえて廷尉の獄に送り、その夜のうちに死んだ。翌朝、侍御史に命じて閻顕らを捕らえて獄に送り、こうして事態は鎮定された。詔書が下された。

功績を表彰し善行を記録することは、古今を通じての道理である。故に中常侍長楽太僕の江京、黄門令の劉安、鉤盾令の陳達は、故車騎将軍の閻顕兄弟と共に悪逆を謀議し、天下を傾け乱した。中黄門の孫程、王康、長楽太官丞の王國、中黄門の黄龍、彭愷、孟叔、李建、王成、張賢、史汎、馬國、王道、李元、楊佗、陳予、趙封、李剛、魏猛、苗光らは、忠誠を抱き奮起し、力を合わせて謀り、ついに元凶を掃滅し、王室を安定させた。『詩経』に言わないか、「言葉には応えがあり、大いなる徳には報いがある」と。孫程は謀議の首謀者であり、王康、王國は協力した。ここに孫程を浮陽侯に封じ、五戸の封邑を与える。王康を華容侯、王國を酈侯に封じ、それぞれ九千戸とする。黄龍を湘南侯に封じ、五千戸とする。彭愷を西平昌侯、孟叔を中廬侯、李建を復陽侯に封じ、それぞれ四千二百戸とする。王成を広宗侯、張賢を祝阿侯、史汎を臨沮侯、馬國を文平侯、王道を范県侯、李元を褒信侯、楊佗を山都侯、陳予を下雋侯、趙封を析県侯、李剛を枝江侯に封じ、それぞれ四千戸とする。魏猛を夷陵侯に封じ、二千戸とする。苗光を東阿侯に封じ、千戸とする。

これが十九侯である。さらに車、馬、金、銀、銭、帛を加賜し、それぞれ差があった。李閏は最初から謀議に関与していなかったため、封じられなかった。ついに孫程を騎都尉に任命した。

永建元年

孫程は張賢、孟叔、馬國らと共に、司隷校尉の虞詡の罪を訴え、上表文を懐にして殿上に上がり、左右を叱責した。皇帝は怒り、孫程の官を免じ、十九侯全員を封国に帰らせ、後に孫程を宜城侯に転封した。孫程は封国に到着すると、怨み憤り、印綬と符策を返上して封を返し、逃亡して京師に帰り、山中を往来した。詔書で追及され、元の爵位と封土を回復し、車馬と衣物を賜り、封国に帰還させられた。

三年、皇帝は孫程らの功績を思い、皆を京師に召還した。孫程と王道、李元は皆、騎都尉に任命され、残りは奉朝請となった。陽嘉元年、孫程が重病になると、直ちに奉車都尉に任命し、位は特進とした。死去すると、五官中郎将に命じて車騎将軍の印綬を追贈し、諡を剛侯と賜った。侍御史が節を持って喪事を監督し、皇帝自らが北部尉の伝舍に行幸し、車騎将軍の行列を眺められた。

孫程は臨終に際し、遺言として上書し、封国を弟の孫美に継がせたいと願った。皇帝はこれを許し、孫程の封邑の半分を分け、孫程の養子である孫寿を浮陽侯に封じた。後に詔書で微功を記録し、興渠を高望亭侯に封じた。四年、詔書で宦官の養子が皆、後継者となることを認め、封爵を世襲することを法令に定めた。

王康、王國、彭愷、王成、趙封、魏猛の六人は皆、早世した。黄龍、楊佗、孟叔、李建、張賢、史汎、王道、李元、李剛の九人は、阿母の山陽君である宋娥と互いに賄賂を贈り、高い官位と封邑の増加を求め、また中常侍の曹騰、孟賁らを誣告した。永和二年、発覚し、皆、封国に帰らせられ、租税の四分の一を減じられた。宋娥は爵位を剥奪され、田舎に帰された。ただ馬國、陳予、苗光だけが封邑を保全した。

初めに、帝が廃位された時、太子家を監視していた小黄門の籍建、傅高梵、長秋長の趙熹、丞の良賀、薬長の夏珍は皆、過失がないのに罪を得て、籍建らは罪に坐して朔方に流された。帝が即位すると、彼らは皆、中常侍に抜擢された。傅高梵は贓罪に坐し、死刑一等を減じられた。籍建は後に東郷侯に封ぜられ、三百戸を賜った。

良賀は清廉で倹約し、謙虚で篤実であり、位は大長秋に至った。陽嘉年間、詔により九卿が武勇猛々たる者を推挙したが、良賀だけは誰も推薦しなかった。帝がその理由を問うと、彼は答えて言った。「臣は草莽の生まれで、宮中で育ちました。人を見抜く明らかさもなく、またかつて士人たちと交際して知ることもありませんでした。昔、衛鞅は景監を通じて謁見しましたが、識者は彼が最後まで全うしないと知っていました。今、臣が推挙する者を得ることは、栄誉ではなく恥辱です。」と固辞した。彼が亡くなると、帝は良賀の忠誠を思い、その養子を都郷侯に封じ、三百戸を賜った。

曹騰

曹騰は字を季興といい、沛国譙県の人である。安帝の時、黄門従官に任ぜられた。順帝が東宮にいた時、鄧太后は曹騰が若くて謹厳で篤実であるとして、皇太子の読書に侍らせ、特に親愛を受けた。帝が即位すると、曹騰は小黄門となり、中常侍に昇進した。桓帝が即位すると、曹騰と長楽太僕の州輔ら七人は、策定の功績により、皆、亭侯に封ぜられ、曹騰は費亭侯となり、大長秋に昇進し、特進の位を加えられた。

曹騰は省闥で権力を握ること三十余年、四帝に仕えて、一度も過失がなかった。彼が推挙して取り立てた者は、皆、海内の名士であり、陳留の虞放、辺韶、南陽の延固、張温、弘農の張奐、潁川の堂谿典らである。時、蜀郡太守が計吏を通じて曹騰に賄賂を贈ったが、益州刺史の種暠が斜谷関でその書状を押収し、太守を上奏するとともに、曹騰を弾劾し、廷尉に下して罪を審理するよう請願した。帝は言った。「書状は外から来たもので、曹騰の過失ではない。」そして種暠の上奏を握りつぶした。曹騰は少しも恨まず、常に種暠を能吏と称え、当時の人々はこれを称賛した。

曹騰が亡くなると、養子の曹嵩が後を継いだ。種暠は後に司徒となり、賓客に告げて言った。「今、私が公の位にあるのは、曹常侍の力によるものだ。」

曹嵩は霊帝の時、中官に賄賂を贈り、西園に銭一亿万を納めたため、位は太尉に至った。息子の曹操が兵を起こすと、これに従おうとせず、末子の曹疾とともに琅邪に避難したが、徐州刺史の陶謙に殺害された。

単超、徐璜、具瑗、左悺、唐衡

単超は河南の人、徐璜は下邳良城の人、具瑗は魏郡元城の人、左悺は河南平陰の人、唐衡は潁川郾県の人である。桓帝の初め、単超、徐璜、具瑗は中常侍となり、左悺、唐衡は小黄門史となった。

初め、梁冀の二人の妹が順帝、桓帝の皇后となり、梁冀は父の梁商に代わって大将軍となり、二代にわたって権威を振るい、天下に威を振るった。梁冀は太尉の李固、杜喬らを誅殺して以来、ますます驕慢で横暴となり、皇后もその勢いに乗じて嫉妬と放恣に陥り、多く毒殺を行い、上下が口を閉ざし、敢えて言う者はいなかった。帝は長く脅迫と畏怖にさらされ、常に不満を抱いていたが、言葉が漏れることを恐れ、謀ることもできなかった。

延熹二年

皇后が崩御すると、帝は厠に行くふりをして、唐衡だけを呼び出して尋ねた。「側近と外戚が仲の悪い者は皆、誰か?」唐衡は答えて言った。「単超と左悺が以前、河南尹の梁不疑を訪ねた時、礼儀と敬意が少し疎かであったため、梁不疑は彼らの兄弟を捕らえて洛陽の獄に送り、二人が門を訪れて謝罪して、ようやく釈放されました。徐璜と具瑗は常に外戚の横暴をひそかに憤り憎んでいますが、口に出して言うことはできません。」そこで帝は単超と左悺を室内に呼び入れ、言った。「梁将軍兄弟は朝廷を専断し、内外を脅迫し、公卿以下は彼らの意向に従っている。今、彼らを誅殺したいと思うが、常侍たちの意見はどうか?」単超らは答えて言った。「まことに国の奸賊であり、誅殺すべきは久しいことです。臣らは弱く劣っており、聖意がどうか分かりません。」帝は言った。「確かにそうならば、常侍たちは密かに計画せよ。」彼らは答えて言った。「計画するのは難しくありませんが、陛下がまた狐疑に陥られることを恐れます。」帝は言った。「奸臣が国を脅かしているのだから、その罪に伏すべきであり、何を疑うことがあろうか!」そこでさらに徐璜、具瑗ら五人を召し出し、遂にその議を定め、帝は単超の腕を噛んで血を出し、盟を結んだ。そこで単超は梁冀とその宗族・親族・党与をことごとく捕らえて誅殺した。左悺と唐衡は中常侍に昇進した。単超を新豊侯に封じ二万戸、徐璜を武原侯に、具瑗を東武陽侯に封じ、それぞれ一万五千戸、銭千五百万を賜り、左悺を上蔡侯に、唐衡を汝陽侯に封じ、それぞれ一万三千戸、銭千三百万を賜った。五人は同日に封ぜられたので、世間では「五侯」と呼んだ。また、小黄門の劉普、趙忠ら八人を郷侯に封じた。これより権力は宦官に帰し、朝廷は日に日に乱れた。

単超が病気になると、帝は使者を遣わして車騎将軍に任命した。翌年、薨去し、東園の秘器を賜り、棺の中に玉具を入れ、侯の将軍の印綬を追贈し、使者が喪を司った。埋葬の際には、五営の騎士を発し、侍御史が喪を護り、将作大匠が墳墓を築いた。

その後、四侯はますます横暴となり、天下の人々は彼らを評して言った。「左は天を回し、具は独り座し、徐は臥す虎、唐は両方に堕つ。」皆、競って邸宅を建て、楼閣は壮麗で、技巧の極みを尽くした。金銀の毛織物を犬馬に掛けた。多くの良民の美女を奪って妾とし、皆、珍しい装飾で華美に飾り立て、宮人に模倣した。その僕従は皆、牛車に乗り、騎兵の列に従った。また、その遠縁の親族を養い、あるいは異姓の者を乞い嗣がせ、あるいは蒼頭を買って子とし、皆、国を伝え襲封させた。兄弟や姻戚は皆、州を宰め郡に臨み、百姓から搾り取り、盗賊と変わらなかった。

単超の弟の単安は河東太守となり、甥の単匡は済陰太守となり、徐璜の弟の徐盛は河内太守となり、左悺の弟の左敏は陳留太守となり、具瑗の兄の具恭は沛国の相となり、皆、その任地で害をなした。

徐璜の兄の子の徐宣は下邳県令であったが、特に暴虐であった。以前、故汝南太守で下邳出身の李暠の娘を娶ろうとして果たせなかったが、県に着任すると、役人と兵卒を率いて李暠の家に行き、その娘を車に乗せて連れ帰り、戯れに射殺して、寺の中に埋めた。当時、下邳県は東海郡に属しており、汝南出身の黄浮が東海国の相であった。徐宣を告発する者がいたので、黄浮は徐宣の家族を捕らえ、老若を問わず全て取り調べた。属官以下の者たちが固く諫めて争ったが、黄浮は言った。「徐宣は国賊である。今日彼を殺し、明日死罪になっても、目を閉じるに足る。」すぐに徐宣の罪状を審理して市中で斬首に処し、その死体を晒して百姓に見せつけたので、郡中は震え上がった。徐璜はこれにより帝に訴え出た。帝は大いに怒り、黄浮は髪を剃り首枷をはめられる罪に問われ、右校での労役に服した。五侯(単超、徐璜、具瑗、左悺、唐衡)の一族や賓客の暴虐は天下に遍く及び、民はその命令に耐えられず、賊となって蜂起ほうきした。延熹七年、唐衡が死去すると、やはり車騎将軍の位を追贈され、単超の先例に倣った。徐璜が死去すると、葬儀のための銭と布が贈られ、墓所の土地が賜与された。

翌年、司隷校尉の韓演が左悺の罪悪を奏上し、その兄の太僕で南郷侯の左称が州郡に請託し、不正に財物を集め、賓客が勝手気ままに振る舞い、役人や民衆を侵害していることも合わせて奏上した。左悺と左称はともに自殺した。韓演はさらに具瑗の兄で沛国の相である具恭の収賄罪を奏上し、廷尉に召喚させた。具瑗は獄に赴いて謝罪し、東武侯の印綬を返上した。詔により都郷侯に降格され、家で死去した。単超および徐璜、唐衡の封爵を継承した者たちは、いずれも郷侯に降格され、年々の租税収入はそれぞれ三百万銭とされ、子弟で分封されていた者は、全て爵位と領土を剥奪された。劉普らは関内侯に降格された。

侯覧について。

侯覧は、山陽郡防東県の出身である。桓帝の初めに中常侍となり、巧言で狡猾な振る舞いによって昇進し、権勢を頼みに貪欲で放縦であり、受け取った賄賂や贈り物は巨万の数に上った。延熹年間、連年にわたる征伐で国庫が空になったため、百官の俸禄や王侯の租税を借り受けた。侯覧もまた絹五千匹を献上し、関内侯の爵位を賜った。また、梁冀誅殺の議論に参与した功績にかこつけて、高郷侯に封ぜられた。

小黄門の段珪の家は済陰郡にあり、侯覧とともに田産を営み、済北国の境界に近かった。その僕従や賓客が百姓を侵害し、旅人を略奪した。済北国の相である滕延は、これらを全て逮捕し、数十人を殺して、その死体を大通りの辻に晒した。侯覧と段珪は大いに恨み、事を帝に訴え出た。滕延は多くの無辜の者を殺した罪に問われ、廷尉に召喚され、免官された。滕延は字を伯行といい、北海郡の出身で、後に京兆尹となり、治績の評判があり、世間では長者と称された。

侯覧らはこのことを得てますます勝手気ままになった。侯覧の兄の侯参は益州刺史であったが、豊かな財産を持つ民がいると、すぐに大逆の罪で誣告し、皆誅殺して滅ぼし、その財物を没収した。前後して累億に上る額であった。太尉の楊秉が侯参を弾劾し、檻車で召還されたが、道中で自殺した。京兆尹の袁逢が旅舎で侯参の車三百余両を調べると、全て金銀や錦織、絹、珍玩であり、数えきれないほどであった。侯覧は連座して免官されたが、すぐにまた官職に復帰した。

建寧二年、母が死去して帰郷した際、大規模に墓を築いた。督郵の張倹はこれにより侯覧の貪欲で奢侈、放縦ぶりを弾劾し、前後して三百八十一軒の家屋を奪い、百十八頃の田畑を奪ったことを挙げた。十六区画に邸宅を建て、いずれも高楼や池、苑があり、堂や楼閣が相望み、綺麗な絵画や丹漆などで飾られ、その構造は重厚で深く、宮中の建物に匹敵していた。また、生前に寿陵を造り、石の外棺と二つの闕を設け、高い廊下は百尺に及び、人の家屋を壊し、墓を発掘した。良民を捕らえ、婦女子を略奪して妻としたこと、およびその他の罪状を挙げ、誅殺を請うた。しかし侯覧は機会を窺って上奏文を遮り、結章は上られなかった。張倹はついに侯覧の墓所と邸宅を破壊し、資産を没収し、罪状を詳しく述べた。また、侯覧の母が生前に賓客と交際し、郡や国をかき乱したことを奏上した。これもまた取り上げられなかった。侯覧はついに張倹を鉤党の一味であると誣告し、故長楽少府の李膺、太僕の杜密らとともに、皆誅殺して滅ぼした。こうして曹節に代わって長楽太僕を領した。

熹平元年、

役人が侯覧が権力を専断し驕奢であると弾劾し、印綬を没収する策書が下り、自殺した。彼に阿った一派も皆免官された。

曹節について。

曹節は字を漢豊といい、南陽郡新野県の出身である。その本籍は魏郡で、代々二千石の官吏の家柄であった。順帝の初め、西園騎から小黄門に昇進した。桓帝の時、中常侍、奉車都尉に昇進した。建寧元年、節を持って中黄門、虎賁、羽林の兵千人を率い、北へ霊帝を迎え、陪乗して宮中に入った。即位すると、策定の功により長安郷侯に封ぜられ、六百戸を領した。

当時、竇太后が臨朝称制していた。太后の父である大将軍の竇武と太傅の陳蕃が宦官誅殺を謀った。曹節は長楽五官史の朱瑀、従官史の共普、張亮、中黄門の王尊、長楽謁者の騰是ら十七人とともに、共に詔を偽造して長楽食監の王甫を黄門令とし、兵を率いて竇武、陳蕃らを誅殺した。事の詳細は『陳蕃伝』『竇武伝』に詳しい。曹節は長楽衛尉に昇進し、育陽侯に封ぜられ、封邑三千戸を加増された。王甫は中常侍に昇進し、黄門令は元のままとした。朱瑀は都郷侯に封ぜられ、千五百戸を領した。共普、張亮ら五人にはそれぞれ三百戸が与えられた。残る十一人も皆関内侯となり、年々二千こくの租税を食んだ。

以前、朱瑀らは密かに明堂の中で皇天に祈って言った。「竇氏は無道である。どうか皇天が皇帝を助けてこれを誅殺し、事を必ず成就させ、天下を安寧ならしめ給え。」竇武らを誅殺した後、詔により太官に塞(報賽の祭)の供物を用意させ、朱瑀に銭五千万を賜り、その他にもそれぞれ差等があった。後にさらに華容侯に封ぜられた。建寧二年、曹節が重病に陥ると、詔により車騎将軍に任ぜられた。しばらくして病気が治り、印綬を返上し、罷免され、再び中常侍となり、位は特進、秩禄は中二千石となり、まもなく大長秋に転じた。

熹平元年、

竇太后が崩御した。ある者が朱雀闕に書をしたため、「天下大乱、曹節、王甫が太后を幽閉して殺害し、常侍の侯覧は多くの党人を殺害し、公卿は禄を食むだけで、忠言する者はいない。」と書いた。そこで詔により司隷校尉の劉猛に追捕を命じ、十日ごとに報告させた。劉猛は誹謗の書ではあるが言っていることは正しいとして、急いで捕らえようとせず、一ヶ月余り経っても主犯の名は確定しなかった。劉猛は左遷されて諫議大夫とされ、御史中丞の段熲が劉猛に代わった。段熲は四方に出向いて追捕し、太学の遊学の書生にまで及び、捕らえられた者は千人以上に上った。曹節らは劉猛を許さず、段熲に別の事柄で劉猛を弾劾させ、罪に問われて左校での労役に服させた。朝臣の多くがこれを諫めたため、ようやく刑を免れ、再び公車で召し出された。

曹節は王甫らと共に桓帝の弟である勃海王劉悝が謀反を企てたと誣告し、これを誅殺した。功績により十二人が封を受けた。王甫は冠軍侯に封ぜられた。曹節もまた四千六百戸を加増され、以前の分と合わせて七千六百戸となった。父・兄・子弟は皆、公卿・列校・牧守・令長となり、天下に満ち溢れた。

曹節の弟の破石は越騎校尉であったが、越騎営の五百人の妻に美しい者がいたので、破石はこれを求めようとした。五百人は敢えて逆らえず、妻は固く行くことを拒み、遂に自殺した。その淫暴で道を外れた行いは、多くこのようなものであった。

光和二年、

司隷校尉の陽球が王甫とその子の長楽少府の王萌、沛相の王吉を誅殺すべきと上奏し、皆が獄中で死んだ。この時、災異が相次いだため、郎中の梁の人である審忠は、朱瑀らの罪悪が天に感じたものと考え、上書して言った。

臣は聞く、国を治めるには賢人を得れば安泰となり、賢人を失えば危うくなると。故に舜には臣が五人いて天下は治まり、湯は伊尹を挙用して不仁な者は遠ざかった。陛下が即位された当初、まだ万機を親裁されず、皇太后は養育を思い、一時的に摂政された。故に中常侍の蘇康・管霸は時に応じて誅滅された。太傅の陳蕃と大将軍の竇武はその党与を糾弾し、朝廷の政治を清めようと志した。華容侯の朱瑀は事が露見し、禍が身に及ぶことを知り、遂に逆謀を起こし、王室に乱を起こし、省闥を蹂躙し、璽綬じじゅを奪い取り、陛下を脅迫し、群臣を集め、骨肉母子の恩を離間させ、遂に陳蕃・竇武および尹勲らを誅殺した。そして共に城社を割拠し、互いに封賞し合った。父子兄弟は尊栄を被り、平素から親密な者は州郡に配置され、ある者は九列に登り、ある者は三司を占めた。禄が重く位が尊い責務を顧みず、ただ私利を貪り、財貨を多く蓄え、邸宅を修築し、里巷に連なり競った。御用水を盗んで魚釣りに使い、車馬・服玩は天子の家に擬した。群公卿士は口を閉ざし声を呑み、敢えて言う者はなかった。州牧郡守はその意向に従い、辟召・選挙を行い、賢を捨てて愚を取った。故に虫蝗がこれによって生じ、夷寇がこれによって起こった。天意は憤り満ち、十余年が積もった。故に頻繁に年々、上では日食が、下では地震が起こり、人主を譴責戒告し、覚醒させ、無道な者を誅鋤させようとしたのである。昔、高宗は雉が鳴く異変によって、故に中興の功績を得た。近頃、神祇が陛下を啓発し、赫怒を発せられたので、王甫父子は時に応じて斬り捨てられ、道行く士女は皆称善し、父母の仇を除いたかのようであった。誠に陛下がまた奸臣の類を忍び、悉く殄滅されないことを怪しむ。昔、秦は趙高を信じて国を危うくし、呉は刑人を使ったために身に禍を遭った。虞公は宝を抱え馬を牽き、魯昭公は乾侯に追放されたのは、宮之奇・子家駒を用いなかったために滅亡と屈辱に至ったのである。今、忍びざる恩情をもって、夷族の罪を赦し、奸謀が一旦成就すれば、後悔してもどうしようもない。臣が郎となって十五年、全て耳目で聞き見たところ、朱瑀の行いは、誠に皇后であっても再び赦さないであろう。願わくば陛下は僅かな時間をお聞き取りになり、臣の上表を裁断省察し、醜類を掃滅して、天の怒りに応えられんことを。朱瑀と対質して検証し、もし言葉と違うことがあれば、願わくば湯鑊の誅罰を受け、妻子も共に流罪とされ、妄言の道を断たれんことを。

上書は放置され、返答がなかった。曹節は遂に尚書令を領した。四年、死去し、車騎将軍を追贈された。後に朱瑀も病死し、皆養子が封国を継いだ。審忠は字を公誠といい、宦官が誅殺された後、公府に辟召された。

呂強

呂強は字を漢盛といい、河南郡成皋県の人である。若くして宦官となり小黄門に任じられ、再び転任して中常侍となった。人となりは清廉で忠実に公務に奉じた。霊帝の時、宦官を封ずる例により、呂強を都郷侯とした。呂強は辞譲を懇願し、固く受けようとせず、帝はこれを聞き入れた。そこで上疏して事を陳べた。

臣は聞く、諸侯は上では四七の星宿に象り、下では王土を分かつ。高祖は重ねて約束し、功臣でなければ侯としないと。これは天爵を重んじ、勧戒を明らかにするためである。伏して聞く、中常侍の曹節・王甫・張譲ら、および侍中の許相が、並んで列侯となったと。曹節らは宦官として福徳が薄く、品は卑しく人も賤しい。讒言して主に媚び、佞邪に寵を求め、人物に毒を放ち、忠良を嫉妬し、趙高の禍があるのに、轘裂の誅罰を受けず、朝廷の明を覆い、私的な党派を形成している。しかし陛下は悟らず、妄りに茅土を授け、国を開き家を継がせ、小人を用いている。またその家族にも及び、重金と紫綬を兼ね、相次いで藩輔となっている。国の重恩を受けながら、その祖を念わず、その徳を修め述べることもなく、邪党と交結し、下では群佞と結託している。陛下はあるいはその小才ゆえに、特に恩沢を蒙っている。また位の授け方が道理に外れ、賢才は昇進せず、素餐の私的な寵臣には、必ず栄耀と抜擢が加えられる。陰陽が逆らい、農作物は荒れ果て、人々は安らかでなく、これによらないものはない。臣は誠に封爵の事が既に行われ、今更言っても及ばないことを知っている。敢えて死を冒して愚かな忠誠を陳べるのは、実に陛下が既に誤ったことを減らし改め、ここで一旦止められることを願うからである。

臣はまた聞く、後宮の綵女は数千人余りおり、衣食の費用は一日に数百金余りである。穀物は安いが、戸毎に飢えた顔色がある。法に照らせば貴くなるべきなのに今は却って安いのは、賦税の徴発が頻繁で、県官の負担を解消するため、寒くても衣服を着ることを敢えず、飢えても食べることを敢えないからである。民はこのような苦境にあっても、誰もこれを憐れまない。宮女は用がなく、後庭に充満している。天下が再び力を尽くして耕桑しても、まだ供給できない。昔、楚の女が悲愁すれば西宮に災いが及んだ。ましてや終年積み重なれば、憂怨がないはずがあろうか。天が衆民を生み、君を立ててこれを治めさせる。君道が得られれば、民はこれを父母のように戴き、日月のように仰ぎ、時に徴税があっても、なおその仁恩の恵みを望む。

に言う、『民を使うに悦びをもってすれば、民はその労苦を忘れる。難に当たるに悦びをもってすれば、民はその死を忘れる』。儲君たる副主は、この言葉を諷誦すべきであり、南面して国に当たる者は、この事を履行すべきである。

また詔書を承るに、河間の故国に解瀆の館を建てるとのことである。陛下が龍飛されて即位され、藩国から出られたとはいえ、九天の高みに居られるのに、どうして顧恋の意があろうか。しかも河間は遠く、解瀆は遥かに隔絶しており、民を労し力を費やすのに、その利便性が見られない。また今、外戚の四姓の貴幸の家、および中官の公族で功徳のない者が、館舎を造営し、凡そ万数に及び、楼閣は連なり、丹青や白亜、彫刻の装飾は、一言では言い尽くせない。喪葬は制度を超え、奢麗は礼を過ぎ、互いに模倣し競い、誰もこれを矯正しようとしない。

穀梁伝

に言う、『財が尽きれば怨み、力が尽きれば恨む』。

尸子

の書に言う。「君主はひしゃくの如く、民は水の如し。杼が方形ならば水も方形となり、杼が円形ならば水も円形となる」。上(君主)が下(民衆)を教化するのは、風が草をなびかせるようなものである。今、上には奢侈を去る倹約がなく、下には欲望をほしいままにする弊害があり、ついには禽獣が民の甘美な食物を食らい、土木工事が民の絹布を衣としている。昔、師曠が晋の平公を諫めて言った。「梁や柱に刺繍を施せば、民は粗末な衣さえ持たない。池に捨てられた酒があれば、士は渇き死にする。厩舎の馬が粟を食べていれば、民は飢えた顔色をしている。近臣は諫めることができず、遠臣は思いを述べることができない」。まさにこのことを言うのである。

また、以前に議郎の蔡邕を召して金商門で質問に答えさせ、中常侍の曹節や王甫らに詔書で趣旨を伝えさせたことを聞いている。蔡邕は道を抱いて国を迷わすことなく、痛烈に極論を述べ、貴臣を誹謗中傷し、宦官を非難した。陛下はその言葉を秘密にせず、ついに公表させてしまい、多くの邪悪な者たちが首を長くして、唇を潤し舌を拭い、競って咀嚼し、飛び交う誹謗の文書を作り上げた。陛下はかえって誹謗を受け、蔡邕を刑罰に処し、一家は流罪にされ、老幼は流浪した。これでは忠臣に背くことにならないか。今、群臣は皆、蔡邕のことを戒めとし、上では予測できない災難を恐れ、下では刺客の害を恐れている。臣は朝廷が二度と忠言を聞くことができなくなることを知っている。故太尉の段熲は、武勇が世に冠たり、辺境の事に習熟し、若くして軍務に服し、功を成したのは白髪の年になってからであった。二人の君主に仕え、勲功は特に顕著であった。陛下は既に順序を定めて、台司の位に登らせたが、司隷校尉の陽球に誣告され脅迫され、一身が滅びただけでなく、妻子も遠方に追放された。天下は失望し、功臣は期待を失った。蔡邕を召し出して改めて任用し、段熲の家族を帰還させるべきである。そうすれば忠誠の道が開かれ、多くの怨みも消えるであろう。

帝はその忠誠を知りながらも用いることができなかった。

当時、帝は私的な蓄えを多く貯め、天下の珍品を収集し、各郡国が貢献するたびに、まず中署に納めさせ、これを「導行費」と称していた。呂強は上疏して諫めて言った。

天下の財は、すべて陰陽から生まれ、陛下に帰するものである。陛下に帰するものに、どうして公私の区別があろうか。しかし今、中尚方は諸郡の宝物を徴収し、中御府は天下の絹織物を蓄積し、西園は司農の蔵を引き出し、中厩は太僕の馬を集めている。そして貢納する府には、必ず導行の財がある。徴収が広がれば民は困窮し、費用が多く献上が少なく、奸吏はその利に乗じ、百姓はその弊害を受ける。また、へつらう臣は、私的な献上を好み、諂いと姑息が容認され、これによって昇進する。

旧典では、選挙(人材登用)は三府に委任されていた。三府に選挙の任があれば、掾属を参議し、その行状を諮問し、その器量能力を推し量り、試験を受けて任用し、成功の責を負わせた。もし審査するに足りなければ、その後で尚書に付した。尚書が挙劾し、廷尉に下すよう請い、虚実を覆案し、その誅罰を行った。今はただ尚書に任せ、あるいはまた詔勅で任用する。このようにすれば、三公は選挙の責任を免れ、尚書もまた罪に問われず、責務と賞罰の帰するところがなく、どうして空しく自ら苦労しようとするだろうか。

言論を立てても過ちを顕わにした咎はなく、明鏡も瑕を見せた咎はない。もし過ちを記録するために言論を立てることを憎むならば、学ぶべきではない。明鏡が瑕を見せることを望まないならば、照らすべきではない。願わくは陛下、臣の言葉を詳しく考えられ、過ちを記録し瑕を見せることを責めとされないように。

上書は奏上されたが、省みられなかった。

中平元年

、黄巾の賊が起こると、帝は呂強にどうすべきかを問うた。呂強はまず左右の貪欲で汚れた者を誅殺し、党人を大赦し、刺史や二千石の能力の有無を選別することを望んだ。帝はこれを採用し、まず党人を赦免した。そこで諸常侍はそれぞれが退去を求め、またそれぞれが州郡にいる宗族や親族の子弟を召還した。中常侍の趙忠や夏惲らはそこで共に呂強を陥れ、「党人と共に朝廷を議し、しばしば『霍光伝』を読んだ。呂強兄弟の在所はすべて貪欲で汚穢である」と言った。帝は不愉快に思い、中黄門に兵を持たせて呂強を召し出させた。呂強は帝が召し出したと聞き、怒って言った。「私が死ねば、乱が起こるであろう。丈夫たるもの、国家に忠を尽くそうとするのに、どうして獄吏に対面できようか」。そこで自殺した。趙忠や夏惲らはさらに讒言して言った。「呂強は召し出された理由を知らず、草むらで自ら身を隠した。奸計があることは明らかである」。そこで宗族や親族を捕らえ、財産を没収した。

当時、宦官の済陰の丁粛、下邳の徐衍、南陽の郭耽、汝陽の李巡、北海の趙祐ら五人は清廉で忠誠であると称され、皆、里巷にあり、威権を争わなかった。李巡は、諸博士が甲乙科の試験で、弟子の優劣を争い、互いに告発し合い、ついには賄賂を行って蘭台の漆書の経文の文字を定め、自分たちの私的な文章に合わせる者があると考え、帝に申し出て、諸儒と共に『五経』の文章を石に刻んだ。そこで詔して蔡邕らにその文字を正させた。以後、『五経』は一定し、争う者は用いられなくなった。趙祐は博学で広く見聞し、著作や校書に携わり、諸儒に称賛された。

また、小黄門の甘陵の呉伉は、風角に優れ、博識で通達し、奉公の称があった。用いられないことを知り、常に病気と称して寺舎に戻り、悠々として志を養ったという。

張譲、趙忠

張譲は、潁川の人である。趙忠は、安平の人である。若い頃ともに宮中に給事し、桓帝の時に小黄門となった。趙忠は梁冀誅殺の功績により都郷侯に封ぜられた。

延熹八年、

関内侯に降格され、本県の租税千斛を食邑とした。

霊帝の時、張譲と趙忠はともに中常侍に昇進し、列侯に封ぜられ、曹節や王甫らと互いに表裏をなした。曹節の死後、趙忠が大長秋を兼任した。張譲には家事を管理する監奴がおり、賄賂を取り交わし、威勢は喧噪を極めた。扶風の人孟佗は資産が豊かで、その監奴と結託し、贈り物を惜しみなく与えて厚遇した。監奴たちは皆その恩に感じ、孟佗に「あなたは何が望みですか。力になれることがあれば。」と尋ねた。孟佗は「お前たちに一礼してもらいたいだけだ」と言った。当時、張譲に面会を求める賓客の車は常に数百千台に及び、孟佗が張譲を訪ねた時は遅れて到着し、中に入れなかった。監奴はそこで諸々の倉頭を率いて路上で迎え拝礼し、共に車を担いで門内に入った。賓客たちは皆驚き、孟佗が張譲と親しいと思い、こぞって珍玩を贈って取り入ろうとした。孟佗はそれを分けて張譲に贈ると、張譲は大いに喜び、孟佗を涼州刺史に任じた。

この時、張譲、趙忠および夏惲、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓悝、宋典の十二人はいずれも中常侍となり、侯に封ぜられて寵愛され、父兄子弟を州郡に配置し、任地で貪欲に略奪し、人々を害した。黄巾の乱が起こり、盗賊が沸き立つと、郎中の中山の人張鈞が上書して言った。「私が考えるに、張角が兵を起こして乱を起こし、万人が喜んでこれに従う原因は、全て十常侍が多く父兄、子弟、姻戚、賓客を州郡の要職に据え、財利を独占し、百姓を侵害略奪し、百姓の冤罪を訴えるところがないため、謀って不軌を図り、集まって盗賊となるからです。十常侍を斬り、その首を南郊に晒し、百姓に謝罪すべきです。また使者を遣わして天下に布告すれば、軍旅を用いずとも、大賊は自然に消滅するでしょう。」天子は張鈞の上奏文を張譲らに見せると、彼らは皆冠を脱ぎ裸足で頓首し、自ら洛陽の詔獄に赴くことを乞い、併せて家財を出して軍費を助けたいと申し出た。詔により、彼らは皆冠履を着用して元通り職務に就いた。帝は張鈞を怒って言った。「これは本当に狂人だ。十常侍の中に一人くらい善人がいるはずではないのか?」張鈞は重ねて上奏し、前回と同じ内容を述べたが、その都度握り潰され返答がなかった。詔により廷尉と侍御史に張角の道に関わる者を糾問させたが、御史は張譲らの意を受けて、張鈞が黄巾の道を学んでいると誣告して上奏し、捕らえて獄中で拷問死させた。しかし張譲らは実際に張角と多く通じていた。後に中常侍の封諝と徐奉の事件だけが発覚して誅殺されると、帝は怒って張譲らを詰問して言った。「お前たちは常に党人が不軌を図ると言い、皆を禁錮に処し、ある者は誅殺させた。今、党人はかえって国のために用いられているのに、お前たちは反って張角と通じている。斬るに足りないか?」皆叩頭して言った。「それは故中常侍の王甫と侯覧の仕業です。」帝はそこでやめた。

翌年、南宮に災害が起こった。張譲と趙忠らは帝に説き、天下の田畑に一畝当たり十銭の税を徴収して宮室を修築させた。太原、河東、狄道などの諸郡から材木や文石を徴発し、各州郡が部を分けて京師に送ると、黄門常侍はしばしば不合格として譴責し、強引に値切って安く買い叩き、十分の一の価格で雇い、さらに宦官に転売した。宦官もすぐには受け取らず、材木は腐って積み上がり、宮室は連年完成しなかった。刺史や太守はさらに私的な調達を増やし、百姓は嘆き叫んだ。詔による徴発や要求は全て、西園の騶に密かに命令させ、「中使」と号し、州郡を脅かして多く賄賂を受け取った。刺史、二千石および茂才孝廉の任免に際しては、皆軍費や宮殿修築の資金の援助を要求し、大郡では二三千万に達し、その他もそれぞれ差があった。官に就任する者は、皆まず西園に行って価格を決め、その後で赴任できた。金銭を全額払えない者は、自殺に至る者もいた。清廉を守る者は、赴任を乞わなかったが、皆強制的に派遣された。

当時、鉅鹿太守の河内の人司馬直が新たに任命されたが、清廉な名声があったため、要求額を三百万に減らされた。司馬直は詔を受けて、慨然として言った。「民の父母として、反って百姓を切り刻み剥ぎ取り、時の要求に応えるなど、私は忍びない。」病気を理由に辞退したが聞き入れられず、孟津まで来た時、上書して当代の過失と古今の禍敗の戒めを極力陳述し、すぐに薬を飲んで自殺した。上書が奏上されると、帝は一時的に宮殿修築の資金徴収を停止した。

また西園に万金堂を造営し、大司農の金銭や絹帛を引き出して中に積み上げた。また河間の地に戻って田宅を買い、邸宅や楼観を建てた。帝はもと侯の家に生まれ、元来貧しく、桓帝が家計をうまくやれなかったと常に嘆いていたので、私的な蔵を蓄え、さらに小黄門常侍にそれぞれ数千万の金を預けた。常に「張常侍はわが父、趙常侍はわが母である」と言った。宦官は志を得て、何も畏れるところがなく、こぞって邸宅を建て、宮室に模倣した。帝が永安の候台に登った時、宦官は外の邸宅が見えるのを恐れ、中大人の尚但に諫めさせて言った。「天子は高きに登るべからず。登れば百姓が虚しく散り散りになります。」それ以来、帝は再び台榭に登らなくなった。

翌年、鉤盾令の宋典に命じて南宮の玉堂を修繕させた。また掖庭令の畢嵐に命じて銅人四体を鋳造させ、倉龍門と玄武闕に並べさせた。また四つの鐘を鋳造させ、いずれも二千斛を容れ、玉堂と雲台殿の前に掛けさせた。また天禄と蝦蟇を鋳造し、平門外の橋の東で水を吐き出させ、水を宮中に引き入れた。また翻車と渴烏を作り、橋の西に設置して、南北郊の道路に撒水し、百姓の道路撒水の労費を省かせた。また四出文銭を鋳造し、銭には皆四本の道があった。識者はひそかに言った。「奢侈と暴虐が甚だしく、その兆しが現れている。この銭が完成すれば、必ず四方に流出するだろう。」そして京師が大乱すると、銭は果たして四海に流布した。また趙忠を車騎将軍としたが、百余日で罷免した。

中平六年、帝が崩御した。中軍校尉の袁紹が大将軍の何進に説き、宦官を誅殺して天下の歓心を買うよう勧めた。謀り事が漏れ、張譲と趙忠らは何進が省中に入るのに乗じて、共に何進を殺害した。しかし袁紹が兵を率いて趙忠を斬り、宦官を老若を問わず捕らえて皆斬った。張譲ら数十人は天子を人質に取り河上へ逃走した。追撃が急になると、張譲らは悲しみ泣いて別れを告げて言った。「臣らが滅びれば、天下は乱れます。陛下ご自愛ください。」皆河に身を投げて死んだ。

史論

論じて言う。古より大業を喪い宗廟の祭祀を絶つ者は、その漸くして至る所に由縁がある。三代は寵姫によって禍を招き、嬴氏は奢侈と暴虐によって災いを招いた。西京(前漢)は外戚によって国祚を失い、東都(後漢)は宦官によって国が傾いた。成敗の来る所以は、先史が久しく論じてきた。宦官から禍が起こるに至っては、その概略はなお言うことができる。なぜか。刑余の醜い者は、道理上、全き生命を失い、名声や栄誉は門閥に輝きを添えず、肌膚は子孫に伝わることがない。情を推し量ってもその弊害を見極めず、事に即して容易に信用を得、加えて朝政に染まり、典章文物をかなり識っているため、幼い君主は旧来の謹直な功績を頼りとし、女君(皇太后)は宮中出入りの命令を頼みとし、顧み訪ねるにも猜疑や畏怖の心がなく、寵愛親密には喜ばしい様子がある。また忠厚で公平端正で、術策を抱いて邪を糾す者もあり、あるいは才敏で応対に事欠かず、巧みに飾り立てて実情を乱す者もあり、あるいは貞良の誉れを借りて、先んじて推薦や称賛を行う者もあった。単に凶悪な行いを恣にするだけでなく、暴虐横暴に止まらなかったのである。しかし真偽が並行し、内情と外見がかけ離れているため、昏愚な幼君を惑わせ、視聴を迷わすことができた。これにもまた道理があったのである。詐欺と利得が既に蔓延し、徒党は日増しに広がると、直臣が抗議しても必ず事前に漏れ、至親が憤りを発して初めて専横奪権の隙が開く。これが忠賢の智が屈し、社稷が故に廃墟となる所以である。『易』に言う。「霜を履めば堅き冰至る」。その由来は久しいのである。今その所以を跡づけても、一朝一夕のことではなかったのだ。

賛して言う。「任を失うこと小なりと雖も、過用すれば則ち違う。況んや巷職をや、遠く天機に参ずるを。文を舞わし巧態をなし、恵を作し威を作す。家を凶にし国を害する、夫れ豈に異なる帰せんや!」