後漢書

巻七十六・循吏列傳 第六十六

巻七十六・循吏列傳 第六十六

初めに、光武帝は民間で育ち、事情や虚偽に通暁し、農作業の困難や民衆の苦しみを見てきた。天下が平定された後は、静謐を旨とし、王莽の煩瑣で厳密な法を解き、漢代の寛大な法に戻した。自身は粗末な絹の衣をまとい、色とりどりの豪華な服は着ず、鄭や衛の淫らな音楽を耳にせず、手に珠玉の玩物を持たず、後宮に私的な寵愛はなく、側近に偏った恩恵を与えなかった。建武十三年(37年)、異国が名馬を献上し、一日に千里を走り、また宝剣を進上したが、その価値は百金に相当した。詔して馬を鼓車に繋ぎ、剣を騎士に賜った。上林苑の池や禁苑の官吏を削減し、遠くを見渡したり狩猟を行うことを廃止した。自らの手跡で方国に下賜するものは、皆、一枚の木簡に十行、細字あざなで書き上げた。勤倹の風は、上から下まで行き渡った。しばしば公卿や郎将を引き連れ、禁中の座に列した。広く民の苦しみを求め、風謡(民謡)を観察して取り入れた。故に内外共に怠ることなく、民衆は安らぎ息をついた。自ら郡県を治める者は、競ってその職務に優れた能力を発揮した。杜詩が南陽を守り、「杜母」と称され、任延や錫光が辺境の習俗を変えたのは、その功績が最も顕著な者である。また第五倫や宋均の徒も、称賛に値する点が十分にある。

原文初,光武長於民間,頗達情僞,見稼穡艱難,百姓病害,至天下已定,務用安靜,解王莽之繁密,還漢世之輕法。身衣大練,色無重綵,耳不聽鄭、衛之音,手不持珠玉之玩,宮房無私愛,左右無偏恩。建武十三年|37年,異國有獻名馬者,日行千里,又進寶劒,賈兼百金,詔以馬駕鼓車,劒賜騎士。損上林池籞之官,廢騁望弋獵之事。其以手跡賜方國者,皆一札十行,細書成文。勤約之風,行於上下。數引公卿郎將,列於禁坐。廣求民瘼,觀納風謠。故能內外匪懈,百姓寬息。自臨宰邦邑者,競能其官。若杜詩守南陽,號爲「杜母」,任延、錫光移變邊俗,斯其績用之最章章者也。又第五倫、宋均之徒,亦足有可稱談。

しかし建武・永平の間(光武帝・明帝の時代)は、官吏の事務は厳しく深刻で、しばしば風聞や一方的な言葉によって、太守や県令が交代させられた。故に朱浮はたびたび諫言の上書をし、厳しい政治を戒め、鍾離意らも熱心に規諫し、長者の言葉として述べたが、聞き入れられなかった。中興の美事が、未だ十分ではなかった所以である。章帝・和帝以後、善政の績を上げる者は、絶えることなく続いた。魯恭、呉祐、劉寬及び潁川の四長(荀淑、韓韶、陳寔、鍾皓)らは、仁愛・信義・篤実・誠実をもって、人を欺かせず、王堂や陳寵は賢良を任用し、職務はおのずから治まった。これらは皆、人々を感化して教化を行ったと言える。辺鳳、延篤は相次いで京兆尹となり、当時の人は彼らを前世の趙広漢や張敞の同類とみなした。また王渙や任峻が洛陽令となった時は、隠れた悪事を明らかにし、官吏の不正を禁止したが、徳による教化や礼による導きには、まだ十分でない点もあり、それでも一時の優れた有能な官吏であった。今、特筆すべき事績を集め、『循吏篇』とする。

原文然建武、永平之間,吏事刻深,亟以謠言單辭,轉易守長。故朱浮數上諫書,箴切峻政,鍾離意等亦規諷殷勤,以長者爲言,而不能得也。所以中興之美,蓋未盡焉。自章、和以後,其有善績者,徃徃不絕。如魯恭、吳祐、劉寬及潁川四長,並以仁信篤誠,使人不欺;王堂、陳寵委任賢良,而職事自理:斯皆可以感物而行化也。邊鳳、延篤先後爲京兆尹,時人以輩前世趙、張。又王渙、任峻之爲洛陽令,明發姦伏,吏端禁止,然導德劉禮,有所未充,亦一時之良能也。今綴集殊聞顯跡,以爲《循吏篇》云。

衛颯

原文衛颯

衛颯は、字を子産といい、河内郡修武県の人である。家は貧しかったが学問を好み、師に従うのに食糧がなく、常に雇われて自ら生計を立てた。王莽の時代、郡で仕え、州の長官を歴任した。

原文衛颯,字子產,河內修武人也。家貧好學問,隨師無糧,常傭以自給。王莽時,仕郡歷州宰。

建武二年(26年)、大司徒鄧禹の府に辟召された。才能を挙げられ難事を処理する役目につき、侍御史に任じられ、襄城県令となった。政治に名声と実績があり、桂陽太守に昇進した。桂陽郡は交州と境を接し、その習俗にかなり染まり、礼儀や規範を知らなかった。衛颯が着任すると、学校の教育を整え、婚姻の礼を設けた。一年の間に、郡内の習俗は教化に従った。

原文建武二年|26年,辟大司徒鄧禹府。舉能案劇,除侍御史,襄城令。政有名跡,遷桂陽太守。郡與交州接境,頗染其俗,不知禮則。颯下車,修庠序之教,設婚姻之禮。期年間,邦俗從化。

これより先、含洭・湞陽・曲江の三県は、南越の旧地で、武帝が平定し、桂陽郡に属させた。住民は深山に住み、渓谷のほとりに暮らし、その風土に慣れ、田租を納めなかった。郡から遠い所は、あるいは千里も離れていた。官吏の用事で往来する度に、民衆に船を出させ、これを「伝役」と称した。一人の官吏が出るごとに、数家に徭役ようえきが及び、民衆はこれを苦しんだ。衛颯はそこで山を穿ち五百余里の道を通し、亭や伝舍を並べ立て、郵便駅を設置した。これにより役務は省かれ労苦は止み、悪辣な官吏の行為は絶えた。流民は次第に帰還し、徐々に集落を形成し、租税を納めさせ、一般の民と同じ扱いとした。また耒陽県は鉄鉱石を産出し、他郡の民衆がしばしば集まって会合し、私的に製錬・鋳造を行い、それによって逃亡者を招き寄せ、多くの悪事や盗賊を生み出していた。衛颯は上奏して鉄官を設置し、私的な鋳造を廃止させ、年間の増収は五百余万となった。衛颯は民事をよく思いやり、官に在ることを家にいるようにし、その施政は全て状況に適っていた。十年間職務に当たり、郡内は清く治まった。

原文先是,含洭、湞陽,曲江三縣,越之故地,武帝平之,內屬桂陽。民居深山,濱溪谷,習其風土,不出田租。去郡遠者,或且千里。吏事徃來,輒發民乘船,名曰「傳役」。每一吏出,徭及數家,百姓苦之。颯乃鑿山通道五百餘里,列亭傳,置郵驛。於是役省勞息,姦吏杜絕。流民稍還,漸成聚邑,使輸租賦,同之平民。又耒陽縣出鐵石,佗郡民庶常依因聚會,私爲冶鑄,遂招來亡命,多致姦盜。颯乃上起鐵官,罷斥私鑄,歲所增入五百餘萬。颯理恤民事,居官如家,其所施政,莫不合於物宜。視事十年,郡內清理。

建武二十五年(49年)、召還された。光武帝は少府に任じようとしたが、衛颯が病気にかかり、拝礼起立ができなかったため、詔勅により桂陽太守のまま帰郷させ、後の詔書を待つこととした。二年後、病を押して宮廷に赴き、自ら重篤な状態を訴えた。そこで印綬を回収され、十万銭を賜り、後に家で死去した。

原文二十五年|49年,徵還。光武欲以爲少府,會颯被疾,不能拜起,敕以桂陽太守歸家,須後詔書。居二歲,載病詣闕,自陳困篤,乃收印綬,賜錢十萬,後卒於家。

南陽郡の茨充が衛颯に代わって桂陽太守となった。彼もまた善政を行い、民に桑・柘・麻・紵などの栽培を教え、養蚕や履物の製作を勧め、民は利益を得た。

原文南陽茨充代颯爲桂陽。亦善其政,教民種殖桑柘麻紵之屬,勸令養蠶織履,民得利益焉。

任延

原文任延

任延は、字を長孫といい、南陽郡宛県の人である。十二歳で諸生となり、長安で学び、『詩経』・『易経』・『春秋』に通暁し、太学で名声を顕わし、学内で「任聖童」と号された。突然の変事に遭い、兵乱を避けて隴西に逃れた。当時、隗囂が既に四郡を占拠し、使者を遣わして任延を招請したが、任延は応じなかった。

原文任延,字長孫,南陽宛人也。年十二,爲諸生,學於長安,明《詩》、《易》、《春秋》,顯名太學,學中號爲「任聖童」。值倉卒,避兵之隴西。時隗囂已據四郡,遣使請延,延不應。

更始元年(23年)、任延は大司馬の属官に任じられ、会稽都尉に拝された。当時十九歳で、迎えの役人はその若さに驚いた。到着すると、静かに無為を旨とし、ただ先に贈り物を送って延陵の季子(季札)の祠を祀った。当時、天下は新たに平定されたばかりで、道路は通じておらず、江南に避乱した者は皆まだ中原に帰還しておらず、会稽は多くの士人がいると評判だった。任延が着任すると、董子儀や厳子陵のような高潔な行いの者を皆招聘し、師友の礼をもって敬い待遇した。属官で貧しい者には、常に俸禄を分けて救済した。兵卒を減らし、公田を耕させて、困窮する者を救済した。折に触れて県を巡行する際には、必ず孝子を慰労し、食事を共にした。

原文更始元年|23年,以延爲大司馬屬,拜會稽都尉。時年十九,迎官驚其壯。及到,靜泊無爲,唯先遣饋禮祠延陵季子。時,天下新定,道路未通,避亂江南者皆未還中土,會稽頗稱多士。延到,皆聘請高行如董子儀、嚴子陵等,敬待以師友之禮。掾吏貧者,輒分奉祿以賑給之。省諸卒,令耕公田,以周窮急。每時行縣,輒使慰勉孝子,就餐飯之。

呉に龍丘萇という者がおり、太末に隠居し、志を曲げて辱めを受けることをしなかった。王莽の時代、四輔や三公が相次いで辟召したが、応じなかった。属吏が召し出すよう申し出た。任延は言った。「龍丘先生は自ら徳を修め義を行い、原憲や伯夷の節操がある。都尉がその門を掃除しても、なお辱めることを恐れるのに、召し出すことなどできない。」功曹に謁見の礼を持たせて遣わし、書簡を整え、医薬を届けさせ、役人が道で行き交うほどにした。一年が経つと、龍丘萇は輿に乗って府の門前に至り、先に死んで名簿に備えられることを願った。任延は再三辞退したが、遂に議曹祭酒に任命した。龍丘萇はまもなく病死し、任延は自ら葬儀に臨み、三日間朝に出なかった。このため郡内の賢士や大夫は争って任延の下で官に就こうとした。

原文吳有龍丘萇者,隱居太末,志不降辱。王莽時,四輔三公連辟,不到。掾史白請召之。延曰:「龍丘先生躬德履義,有原憲、伯夷之節。都尉埽灑其門,猶懼辱焉,召之不可。」遣功曹奉謁,修書記,致醫藥,吏使相望於道。積一歲,萇乃乘輦詣府門,願得先死備錄。延辭讓再三,遂署議曹祭酒。萇尋病卒,延自臨殯,不朝三日。是以郡中賢士大夫爭徃宦焉。

建武初年、任延は上書して骸骨を乞い、朝廷に帰参することを願った。詔により九真太守に徴された。光武帝は引見し、馬や雑多な絹を賜り、妻子を洛陽に留め置くよう命じた。九真の習俗は狩猟を業とし、牛耕を知らず、民は常に交阯から穀物を買い求め、しばしば困窮に陥った。任延はそこで農具を作らせ、開墾を教えた。田畑は年々広がり、民衆は豊かになった。また駱越の民には嫁娶の礼法がなく、それぞれ情欲のままに交わり、正式な配偶者がなく、父子の情や夫婦の道を知らなかった。任延はそこで属県に文書を送り、それぞれ男は二十歳から五十歳、女は十五歳から四十歳まで、皆年齢に応じて配偶させるよう命じた。貧しく礼式や結納の品がない者は、長吏以下がそれぞれ俸禄を節約して救済援助させた。同時期に婚姻した者は二千余人に及んだ。この年は風雨が順調で、穀物は豊かに実った。子供を産んだ者は、初めて自分の家系を知った。皆が言った。「私にこの子を持たせてくれたのは、任君である。」多くが子の名に「任」と付けた。これにより、境外の蛮夷である夜郎などがその義を慕って塞を守り、任延は偵察や守備の兵卒を廃止させた。

原文建武初,延上書願乞骸骨,歸拜王庭。詔徵爲九真太守。光武引見,賜馬雜繒,令妻子留洛陽。九真俗以謝獵爲業,不知牛耕,民常告糴交阯,每致困乏。延乃令鑄作田器,教之墾辟。田疇歲歲開廣,百姓充給。又駱越之民無嫁娶禮法,各因淫好,無適對匹,不識父子之性,夫婦之道。延乃移書屬縣,各使男年二十至五十,女年十五至四十,皆以年齒相配。其貧無禮娉,令長吏以下各省奉祿以賑助之。同時相娶者二千餘人。是歲風雨順節,穀稼豐衍。其產子者,始知種姓。咸曰:「使我有是子者,任君也。」多名子爲「任」。於是徼外蠻夷夜郎等慕義保塞,延遂止罷偵候戍卒。

初めに、平帝の時、漢中の錫光が交阯太守となり、民や夷を教導し、次第に礼義を以て教化し、その名声は任延と同等であった。王莽の末期、境界を閉ざして守りを固めた。建武の初め、使者を遣わして貢献し、塩水侯に封ぜられた。嶺南に中華の風が始まったのは、この二人の太守からである。

原文初,平帝時,漢中錫光爲交阯太守,教導民夷,漸以禮義,化聲侔於延。王莽末,閉境拒守。建武初,遣使貢獻,封鹽水侯。領南華風,始於二守焉。

任延は職務を四年間務め、洛陽に召還されたが、病気で滞在し、左遷されて睢陽令となった。九真の官吏や民衆は生きながらにして祠を建てた。武威太守に任命されると、帝は自ら会って戒めて言った。「上官に良く仕え、名声を失うな。」任延は答えて言った。「臣は聞きます。忠臣は私せず、私する臣は忠ならずと。正しきを履み公に奉ずるは、臣子の節であります。上下が雷同するのは、陛下の福ではありません。『上官に良く仕えよ』との詔は、臣は奉じることができません。」帝は嘆息して言った。「卿の言う通りである。」

原文延視事四年,徵詣洛陽,以病稽留,左轉睢陽令,九真吏人生爲立祠。拜武威太守,帝親見,戒之曰:「善事上官,無失名譽。」延對曰:「臣聞忠臣不私,私臣不忠。履正奉公,臣子之節。上下雷同,非陛下之福。善事上官,臣不敢奉詔。」帝嘆息曰:「卿言是也。」

武威に着任すると、当時、将兵長史の田紺は郡の大姓で、その子弟や賓客が人に暴害を加えていた。任延は田紺を捕らえて拘束し、父子や賓客で処刑された者は五、六人に及んだ。田紺の末子の田尚は軽薄な者数百人を集め、自ら将軍と号し、夜に郡を攻撃してきた。任延は直ちに兵を出してこれを撃破した。これより以後、威令は境内に行き渡り、官吏や民衆は息をひそめた。

原文既之武威,時將兵長史田紺,郡之大姓,其子弟賓客爲人暴害。延收紺繫之,父子賓客伏法者五六人。紺少子尚乃聚會輕薄數百人,自號將軍,夜來攻郡。延即發兵破之。自是威行境內,吏民累息。

郡の北は匈奴に面し、南は種羌と接し、民は賊寇の掠奪を恐れ、多く田業を廃していた。任延が到着すると、武略に優れた士を選び集めて千人とし、賞罰を明らかにし、彼らに雑種の胡騎や休屠、黄石を率いさせて要害に駐屯させ、警急があるごとに逆襲して追討させた。虜は常に多く傷つき、遂に出て来ることを敢えてしなくなった。

原文郡北當匈奴,南接種羌,民畏寇抄,多廢田業。延到,選集武略之士千人,明其賞罰,令將雜種胡騎休屠黃石屯據要害,其有警急,逆擊追討。虜恆多殘傷,遂絕不敢出。

河西は元来、降雨が少なかったので、水官吏を設置し、溝渠を修理させ、皆その利益を被った。また校官を設立し、掾史の子孫から、皆学びに行って学業を受けさせ、その徭役を免除した。章句を通じた者は、悉く顕抜して栄進させた。郡には遂に儒雅の士が現れた。

原文河西舊少雨澤,乃爲置水官吏,修理溝渠,皆蒙其利。又造立校官,自掾史子孫,皆令詣學受業,復其徭役。章句既通。悉顯拔榮進之。郡遂有儒雅之士。

後に、羌を誅するに先んじて上奏しなかった罪に坐し、左遷されて召陵令となった。顕宗が即位すると、潁川太守に任命された。永平二年(59年)、辟雍に召し出され、それによって河内太守に任ぜられた。職務を九年務め、病没した。

原文後坐擅誅羌不先上,左轉召陵令。顯宗即位,拜潁川太守。永平二年|59年,徵會辟雍,因以爲河內太守。視事九年,病卒。

末子の任愷は、官は太常に至った。

原文少子愷,官至太常。

王景

原文王景

王景は、字を仲通といい、楽浪郡講邯県の人である。八世の祖の王仲は、元は琅邪郡不其県の人であった。道術を好み、天文に明るかった。諸呂が乱を起こすと、劉哀王の劉襄は兵を起こそうと謀り、しばしば王仲に相談した。また済北王の劉興居が反乱を起こした時、兵権を王仲に委ねようとしたが、王仲は禍が及ぶことを恐れ、海を渡って東に奔り、楽浪の山中に至り、そこで家を構えた。父の王閎は、郡の三老であった。更始帝が敗れると、土地の者である王調が郡守の劉憲を殺し、自ら大将軍・楽浪太守と称した。建武六年(30年)、光武帝は太守の王遵に兵を率いてこれを討たせた。遼東に至ると、王閎は郡の決曹史の楊邑らと共に王調を殺して王遵を迎え、皆列侯に封ぜられたが、王閎だけは爵位を辞退した。帝はこれを奇異に思い召し出そうとしたが、道中で病没した。

原文王景,字仲通,樂浪講邯人也。八世祖仲,本琅邪不其人。好道術,明天文。諸呂作亂,劉哀王襄謀發兵,而數問於仲。及濟北王興居反,欲委兵師仲,仲懼禍及,乃浮海東奔樂浪山中,因而家焉。父閎,爲郡三老。更始敗,土人王調殺郡守劉憲,自稱大將軍、樂浪太守。建武六年|30年,光武遣太守王遵將兵擊之。至遼東,閎與郡決曹史楊邑等共殺調迎遵,皆封爲列侯,閎獨讓爵。帝奇而徵之,道病卒。

王景は若くして『易』を学び、遂に広く多くの書物を窺い、また天文術数のことを好み、沈深で多くの技芸を持っていた。司空の伏恭の府に辟召された。時に王景に治水の能力があると推薦する者がおり、顕宗は詔を下して将作謁者の王呉と共に浚儀渠の修築を行わせた。王呉は王景の堰止めて流れを制する方法を用い、水はもはや害をなさなくなった。

原文景少學《易》,遂廣窺眾書,又好天文術數之事,沈深多伎藝。辟司空伏恭府。時有薦景能理水者,顯宗詔與將作謁者王吳共修作浚儀渠。吳用景墕流法,水乃不復爲害。

初めに、平帝の時、黄河と汴渠が決壊したが、修復する暇がなかった。建武十年(34年)、陽武県令の張汜が上言した。「黄河の決壊は長く続き、日月が経つにつれて侵食破壊され、済渠によって数十ほどの県が流された。修理の費用は、その功績は難しくありません。堤防を改修して、百姓を安んずべきです。」上書が奏上されると、光武帝は直ちに兵卒を動員した。ちょうど黄河の工事を計画している時、逡儀県令の楽俊がまた上言した。「昔、元光の年間(前134-前129年)は、人口が多く繁栄し、堤防に沿って開墾耕作していたが、瓠子で黄河が決壊した時でさえ、なお二十余年も経てから塞がれたのでした。今は家屋が少なく、田地は広く豊かであり、修理しなくても、その災害はまだ我慢できます。しかも新たに戦乱を受け、今まさに労役の力を興そうとしているのです。労苦と怨みが既に多いのに、民は命に堪えられません。平静になるのを待ち、改めてその事を議論すべきです。」光武帝はこれを受けて遂に中止した。

原文初,平帝時,河、汴決壞,未及得修。建武十年|34年,陽武令張汜上言:「河決積久,日月侵毀,濟渠所漂數十許縣。修理之費,其功不難。宜改修堤防,以安百姓。」書奏,光武即爲發卒。方營河功,而逡儀令樂俊复上言:「昔元光之間,人庶熾盛,緣堤墾殖,而瓠子河決,尚二十餘年,不即擁塞。今居家稀少,田地饒廣,雖未修理,其患猶可。且新被兵革,方興役力,勞怨既多,民不堪命。宜須平靜,更議其事。」光武得此遂止。

後に汴渠が東に侵食し、日月が経つにつれてますます広がり、水門の旧位置は皆河中に没し、兗州・豫州の百姓は怨み嘆き、朝廷が常に他の労役を興し、民の急務を優先しないと思った。永平十二年、汴渠の修復が議され、王景を引見して、治水の地理的利便について問うた。王景はその利害を述べ、応対は敏捷で、帝はこれを良しとした。またかつて浚儀渠を修築し、功業を成し遂げたこともあり、王景に『山海経』、『河渠書』、『禹貢図』及び銭帛や衣物を賜った。夏、遂に数十万の兵卒を動員し、王景と王呉に渠を修築させ堤防を築かせ、滎陽けいようから東は千乗の海口まで千余里に及んだ。王景は地勢を測量し、山や丘を穿ち、砥績(難所)を破り、溝や澗を直截し、衝要を防ぎ止め、塞がった堆積を疏通し決壊させ、十里ごとに一つの水門を設け、互いに回り注ぐようにさせ、再び決壊や漏水の憂いがなくなった。王景は労役費用を簡素化し節約したが、それでもなお百億を数えた。翌年の夏、渠は完成した。帝は自ら巡行し、詔を下して河に臨む郡国に河堤の員吏を置かせ、西京の旧制のようにした。王景はこれによって有名になった。王呉及び諸々の従事掾史は皆秩一等を増された。王景は三度昇進して侍御史となった。十五年、帝の車駕に従って巡狩し、無塩に至ると、帝はその功績を称え、河堤謁者に任命し、車馬や縑(絹)・銭を賜った。

原文後汴渠東侵,日月彌廣,而水門故處,皆在河中,兗、豫百姓怨嘆,以爲縣官恆興佗役,不先民急。永平十二年,議修汴渠,乃引見景,問以理水形便。景陳其利害,應對敏給,帝善之。又以嘗修浚儀,功業有成,乃賜景《山海經》、《河渠書》、《禹貢圖》及錢帛衣物。夏,遂發卒數十萬,遣景與王吳修渠築堤,自滎陽東至千乘海口千餘里。景乃商度地勢,鑿山阜,破砥績,直截溝澗,防遏衝要,疏決壅積,十里立一水門,令更相洄注,無复潰漏之患。景雖簡省役費,然猶以百億計。明年夏,渠成。帝親自巡行,詔濱河郡國置河堤員吏,如西京舊制。景由是知名。王吳及諸從事掾史皆增秩一等。景三遷爲侍御史。十五年,從駕車巡狩,至無鹽,帝美其功績,拜河堤謁者,賜車馬縑錢。

建初七年(82年)、徐州刺史に転任した。これより先、杜陵の杜篤が『論都賦』を奏上し、車駕を長安に遷還させようとした。古老でこれを聞いた者は、皆故郷を思う心を動かされ、懐かしそうに立ち尽くして西を望まない者はなかった。王景は宮廟が既に洛陽に建立されていることから、人情が疑惑を抱くことを恐れ、時に神雀などの様々な瑞祥があったので、『金人論』を作り、洛邑の美しさと天人の符応を称え、その文には採るべきところがあった。

原文建初七年|82年,遷徐州刺史。先是杜陵杜篤奏上《論都賦》,欲令車駕遷還長安。耆老聞者,皆動懷土之心,莫不眷然佇立西望。景以宮廟已立,恐人情疑惑,會時有神雀諸瑞,乃作《金人論》,頌洛邑之美,天人之符,文有可採。

翌年、廬江太守に転任した。これより先、百姓は牛耕を知らず、地力が余っているのに食糧が常に不足していた。郡内には楚の相であった孫叔敖が築いた芍陂の稻田があった。王景は官吏や民衆を率いて、荒廃したものを修復し起こさせ、犁を用いた耕作を教え、これによって開墾された土地は倍増し、境内は豊かで供給に事欠かなくなった。遂に石碑に銘を刻んで誓いを立て、民に恒常的な禁令を知らしめた。また養蚕や機織りを訓令し、法制を作り、皆郷亭に掲示し、廬江ではその文辞が伝えられた。官の任上で没した。

原文明年,遷廬江太守。先是,百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犁耕,由是墾辟倍多,境內豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又訓令蠶織,爲作法制,皆著於鄉亭,廬江傳其文辭。卒於官。

初めに、王景は『六経』に載っていることには、皆卜筮があり、事を行い挙措を取るには、蓍亀によって質すが、多くの書物は錯綜し、吉凶が相反していると考え、多くの家の数術文書、塚宅の禁忌、堪輿や日相の類について、事に適したものを参考にし、集めて『大衍玄基』としたという。

原文初,景以爲《六經》所載,皆有卜筮,作事舉止,質於蓍龜,而眾書錯糅,吉凶相反,乃參紀眾家數術文書,塚宅禁忌,堪輿日相之屬,適於事用者,集爲《大衍玄基》云。

秦袁

原文秦袁

秦袁は字を伯平といい、扶風郡茂陵県の人である。漢が興って以来、代々官位を継承した。六世の祖の秦襲は潁川太守となり、一族の者たちと同時に二千石の官に就いた者が五人いたので、三輔地方では「万石秦氏」と称された。秦彭の同腹の妹は、顕宗(明帝)の時に後宮に入って貴人となり、寵愛を受けた。永平七年(64年)、秦彭は貴人の兄として、四姓小侯に随って抜擢され開陽城門候となった。十五年(72年)、騎都尉に任命され、駙馬都尉耿秉の副将として匈奴征伐に北征した。

原文秦袁,字伯平,扶風茂陵人也。自漢興之後,世位相承。六世祖襲,爲潁川太守,與群從同時爲二千石者五人,故三輔號曰「萬石秦氏」。彭同產女弟,顯宗時入掖庭爲貴人,有寵。永平七年,以彭貴人兄,隨四姓小侯擢爲開陽城門候。十五年,拜騎都尉,副駙馬都尉耿秉北征匈奴。

建初元年(76年)、山陽太守に転任した。礼をもって人を教化し、刑罰に頼らなかった。儒学を尊び、学校を盛んにした。毎年春秋の饗射の礼では、昇降や揖譲の儀礼を整えた。そして人々のために四つの戒めを設け、六親の長幼の礼を定めた。教化を遵守する者は郷の三老に抜擢し、常に八月に酒肉を贈って激励した。官吏に過失があっても、罷免・解任するだけで、恥辱を加えなかった。民衆は慈愛を慕い、欺いたり犯す者はなかった。数千頃の水田を開墾し、農繁期には自ら田畑を測量し、肥沃さによって三品に分け、それぞれ文書を作成して郷や県に保管した。これにより悪辣な官吏は身を縮めて、詐欺を行う余地がなくなった。秦彭は上奏して、天下にこの制度と同じものを実施すべきだと述べた。詔書により彼の定めた条式が三府に下され、さらに州郡にも伝えられた。

原文建初元年|76年,遷山陽太守。以禮訓人,不任刑罰。崇好儒雅,敦明庠序。每春秋饗射,輒修升降揖讓之儀。乃爲人設四誡,以定六親長幼之禮。有遵奉教化者,擢爲鄉三老,常以八月致酒肉以勸勉之。吏有過咎,罷遣而已,不加恥辱。百姓懷愛,莫有欺犯。興起稻田數千頃,每於農月,親度頃畝,分別肥瘠,差爲三品,各立文簿,藏之鄉縣。於是姦吏跼蹐,無所容詐。彭乃上言,宜令天下劉同其制。詔書以其所立條式,班令三府,並下州郡。

在職六年の後、潁川太守に転任したが、やはり鳳凰、麒麟、嘉禾、甘露などの瑞祥がその郡内に現れた。粛宗(章帝)が巡幸し、再び潁川に行幸した時には、常に銭や穀物を賞賜し、恩寵は格別であった。章和二年(88年)に死去した。秦彭の弟の秦惇と秦褒は、ともに射声校尉となった。

原文在職六年,轉潁川太守,仍有鳳皇、麒麟、嘉禾、甘露之瑞,集其郡境。肅宗巡行,再幸潁川,輒賞賜錢穀,恩寵甚異。章和二年|88年卒。鼓弟惇、褒,並爲射聲校尉。

王渙

原文王渙

王渙は字を稚子といい、広漢郡郪県の人である。父の王順は安定太守であった。王渙は若い頃から任侠を好み、気力を尊び、しばしば軽薄な若者たちと交際した。後に行いを改め、儒学を篤く学び、『尚書』を習い、律令を読み、大義を大まかに理解した。太守陳寵の功曹となり、職務を処理するにあたり、豪族を避けなかった。陳寵の名声が大いに広まり、中央に入って大司農となった。和帝が「郡ではどのように治めていたのか」と尋ねると、陳寵は頓首して謝し、「臣は功曹の王渙に賢才を簡抜選任させ、主簿の鐔顕に遺漏を補わせ、臣は詔書を奉宣しただけです」と答えた。帝は大いに喜び、王渙はこれにより名声を高めた。

原文王渙,字稚子,廣漢郪人也。父順,安定太守。渙少好俠,尚氣力,數通剽輕少年。晚而改節,敦儒學,習《尚書》,讀律令,略舉大義。爲太守陳寵功曹,當職割斷,不避豪右。寵風聲大行,入爲大司農。和帝問曰:「在郡何以爲理?」寵頓首謝曰:「臣任功曹王渙以簡賢選能,主簿鐔顯拾遺補闕,臣奉宣詔書而已。」帝大悅,渙由此顯名。

州から茂才に推挙され、温県令に任命された。県内には多くの奸猾な者がおり、長年の患いとなっていた。王渙は方略を用いて討伐し、ことごとく誅殺した。管内は清らかで平穏となり、商人は道端で野宿するようになった。牛を放牧する者も、「稚子に任せた」と言って、ついに侵害されることはなかった。温県で三年を過ごし、兗州刺史に転任し、管轄する郡を正し、威風は大いに広まった。後に妖言の取り調べが事実と合わないとして罪に問われた。一年余り後、侍御史に任命された。

原文州舉茂才,除溫令。縣多姦猾,積爲人患。渙以方略討擊,悉誅之。境內清夷,商人露宿於道。其有放牛者,輒云以屬稚子,終無侵犯。在溫三年,遷兗州刺史,繩正部郡,風威大行。後坐考妖言不實論。歲餘,徵拜侍御史。

永元十五年(103年)、帝の南巡に従駕し、帰還後洛陽令となった。公平正直に身を処し、寛容と厳格のバランスを適切に保った。冤罪や長年の訴訟で、歴代の政権が解決できず、法理でも解決が難しい案件についても、ことごとく真情と詐偽を究明し、多くの疑念を鎮めた。また、奇策を用いて隠れた悪事を摘発することもできた。都の人々は称賛し、王渙には神算があると思った。元興元年(105年)、病気で死去した。市井の民衆は誰もが嘆き悲しんだ。男女老若が共に寄付を集め、数千もの奠醊(供物)を捧げた。

原文永元十五年,從駕南巡,還爲洛陽令。以平正居身,得寬猛之宜。其冤嫌久訟,歷政所不斷,法理所難平者,莫不曲盡情詐,壓塞群疑。又能以譎數發擿姦伏。京師稱嘆,以爲渙有神算。元興元年|105年,病卒。百姓市道莫不咨嗟。男女老壯皆相與賦斂,致奠醊以千數。

王渙の遺体が西へ帰る途中、弘農を通ると、民衆は皆、道端に槃桉(供物台)を設けた。役人がその理由を尋ねると、皆が「以前は米を洛陽に持っていくと、兵卒の役人に没収され、常に半分を失っていた。王君が在職してからは、侵害されることがなくなったので、恩に報いるためです」と言った。彼の政治と教化が人々の心を捉えたのはこのようなものであった。民はその徳を慕い、安陽亭の西に祠を建て、食事のたびに弦歌を奏でて供えた。

原文渙喪西歸,道經弘農,民庶皆設槃桉於路。吏問其故,咸言平常持米到洛,爲卒司所抄,恆亡其半。自王君在事,不見侵枉,故來報恩。其政化懷物如此。民思其德,爲立祠安陽亭西,每食輒弦歌而薦之。

永初二年(108年)、鄧太后は詔を下して言った。「忠良な官吏は、国家が治まるためのものである。それを求めるのは非常に熱心だが、得るのは極めて少ない。故に孔子は『才は得難い、そうではないか』と言われた。大司農の朱邑、右扶風の尹翁帰は、政績が優れ、名声が広く知られ、孝宣皇帝は賞賛し惜しみ、黄金百斤をその子に賜った。故洛陽令の王渙は、清廉な節操を持ち、羔羊の義(清廉潔白)を実践し、心を尽くして公務に奉じ、民を利することを務め、功業を成し遂げずに不幸にも早世した。民衆は追慕し、祠を建てた。忠愛の極みでなければ、誰がこのようにできるだろうか。今、王渙の子の王石を郎中とし、勤労を勧める。」延熹年間(158年-167年)、桓帝が黄老の道を奉じ、諸々の祠をことごとく破壊したが、特に詔を下して密県には故太傅卓茂の廟を残し、洛陽には王渙の祠を残させた。

原文永初二年,鄧太后詔曰:「夫忠良之吏,國家所以爲理也。求之甚勤,得之至寡。故孔子曰:『才難不其然乎!』莫大司農朱邑、右扶風尹翁歸,政跡茂異,令名顯聞,孝宣皇帝嘉嘆憫惜,而以黃金百斤策賜其子。故洛陽令王渙,秉清修之節,蹈羔羊之義,盡心奉公,務在惠民,功業未遂,不幸早世,百姓追思,爲之立祠。自非忠愛之至,孰能若斯者乎!今以渙子石爲郎中,以勸勞勤。」延熹中,桓帝事黃、老道,悉毀諸房祀,唯特詔密縣存故太傅卓茂廟,洛陽留王渙祠焉。

鐔顕も後に有名となり、安帝の時に豫州刺史となった。当時、天下は飢饉で、競って盗賊となり、州内で捕らえられた者は一万人余りに上った。鐔顕は彼らの困窮を哀れみ、自ら刑罰に陥ったことを思い、独断で赦免し、自ら弾劾して上奏した。詔書により処罰は問われなかった。後に長楽衛尉の位に至った。

原文鐔顯後亦知名,安帝時爲豫州刺史。時,天下飢荒,競爲盜賊,州界收捕且萬餘人。顯愍其困窮,自陷刑辟,輒擅赦之,因自劾奏。有詔勿理。後位至長樂衛尉。

王渙の死後、連続して三公に特命で洛陽令を選ばせたが、皆適任ではなかった。永和年間(136年-141年)、劇県令の勃海郡の任峻を補任した。任峻は文武の官吏を抜擢し、皆その能力を発揮させ、奸盗を取り締まり、即座に処断し、一年の裁判件数は数十件に過ぎず、威風は王渙よりも厳しかったが、文治の面では及ばなかった。任峻は字を叔高といい、太山太守で終わった。

原文自渙卒後,連詔三公特選洛陽令,皆不稱職。永和中,以劇令勃海任峻補之。峻擢用文武吏,皆盡其能,糾剔姦盜,不得旋踵,一歲斷獄,不過數十,威風猛於渙,而文理不及之。峻字叔高,終於太山太守。

許荊

原文許荊

許荊は字を少張といい、会稽郡陽羨県の人である。祖父の許武は、太守の第五倫に孝廉に推挙された。許武は二人の弟の許晏と許普がまだ顕れていないのを見て、彼らに名声を得させようと思い、彼らに請うて言った。「礼には分かれて異なるべき義があり、家には別居する道がある。」そこで共に財産を三分割し、許武は自ら肥沃な田畑、広い屋敷、強い奴婢を取った。二人の弟が得たものは全て劣って少なかった。郷の人々は皆、弟たちが譲ることを称え、許武の貪欲さを軽蔑した。許晏らはこれにより共に選挙に推挙され、許武は宗族を集めて泣きながら言った。「私は兄として不肖で、名声と地位を盗み、二人の弟は年長でありながら栄禄に預からなかった。だから財産を分けることを求め、自ら大きな非難を招いた。今、財産を整理して増えた分は、以前の三倍であり、全て二人の弟に譲り、少しも残さない。」これにより郡中は一致して称賛し、遠近にその名が知られた。位は長楽少府に至った。

原文許荊,字少張,會稽陽羨人也。祖父武,太守第五倫舉爲孝廉。武以二弟晏、普未顯,欲令成名,乃請之曰:「禮有分異之義,家有別居之道。」於是共割財產以爲三分,武自取肥田廣宅奴婢強者,二弟所得並悉劣少。鄉人皆稱弟克讓而鄙武貪婪,晏等以此並得選舉,武乃會宗親,泣曰:「吾爲兄不肖,盜聲竊位,二弟長年,未豫榮祿,所以求得分財,自取大譏。今理產所增,三倍於前,悉以推二弟,一無所留。」於是郡中翕然,遠近稱之。位至長樂少府。

許荊は若くして郡吏となり、兄の子の許世が仇討ちで人を殺し、恨みを持つ者が武器を持って攻めてきた。許荊はこれを聞き、門を出て恨みを持つ者を迎え、跪いて言った。「許世が以前無礼なことを犯したのは、全て私が訓導できなかった咎です。兄は既に早く亡くなり、一子が後を継いでいます。もし死者がその血筋が絶えるのを悲しむならば、私の身を殺して代わりとさせてください。」怨家は許荊を扶け起こし、「許掾は郡中で賢人と称されている。どうして侵そうか」と言い、それで去っていった。許荊の名声はますます高まった。太守の黄兢が孝廉に推挙した。

原文荊少爲郡吏,兄子世嘗報仇殺人,怨者操兵攻之。荊聞,乃出門逆怨者,跪而言曰:「世前無狀相犯,咎皆在荊不能訓導。兄既早沒,一子爲嗣,如令死者傷其滅絕,願殺身代之。」怨家扶荊起,曰:「許掾郡中稱賢,吾何敢相侵?」因遂委去。荊名譽益著。太守黃兢舉孝廉。

和帝の時、次第に昇進して桂陽太守となった。桂陽郡は南方の州に接し、風俗は軽薄で、学問や道義を理解していなかった。衛荊は喪礼や婚姻の制度を定め、礼儀や禁制を知らしめた。ある時、春の巡行で耒陽県に至ると、蔣均という者がおり、兄弟が財産を争い、互いに訴え合っていた。衛荊は彼らを見て嘆き、「私は国の重任を担っているのに、教化が行き届かない。その過ちは太守にある」と言った。そして振り返って役人に命じ、上書して状況を述べ、廷尉への出頭を願い出た。蔣均兄弟は感動して悔い改め、それぞれ罪を受けようとした。在任十二年、父老たちは彼を称え歌った。病気を理由に自ら退任を願い出て、諫議大夫に任命され、官のまま死去した。桂陽の人々は彼のために廟を建て碑を立てた。

原文和帝時,稍遷桂陽太守。郡濱南州,風俗脆薄,不識學義。荊爲設喪紀婚姻制度,使知禮禁。嘗行春到耒陽縣,人有蔣均者,兄弟爭財,互相言訟。荊對之嘆曰:「吾荷國重任,而教化不行,咎在太守。」乃顧使吏上書陳狀,乞詣廷尉。均兄弟感悔,各求受罪。在事十二年,父老稱歌。以病自上,徵拜諫議大夫,卒於官。桂陽人爲立廟樹碑。

衛荊の孫の衛𢒰は、霊帝の時に太尉となった。

原文荊孫𢒰,靈帝時爲太尉。

孟嘗

原文孟嘗

孟嘗は、字を伯周といい、会稽郡上虞県の人である。先祖三代は郡の役人であり、いずれも節を守って死難に殉じた。孟嘗は若い頃から操行を修め、郡に出仕して戸曹史となった。上虞に夫を亡くした寡婦がおり、姑を非常に孝養をもって世話していた。姑が年老いて寿命で亡くなると、夫の妹が以前から嫌悪の念を抱いており、寡婦が供養を厭い苦にし、さらに母に毒を盛ったと誣告し、県の役所に訴え出た。郡は詳しく調査せず、ついにその罪を結審した。孟嘗は事前に冤罪であることを知り、詳しく太守に説明したが、太守は取り合わなかった。孟嘗は外門で悲しみ泣き、病気を理由に辞任して去った。寡婦はついに冤罪のまま死んだ。これ以来、郡内は二年連続で旱魃が続き、祈願しても何の効果もなかった。後任の太守殷丹が着任し、その原因を尋ねたところ、孟嘗は役所に赴き、寡婦の冤罪誣告のことを詳しく述べた。そして言った。「昔、東海の孝婦(の冤罪)が天に感じて旱魃を招き、于公の一言で慈雨が降り注いだ。訴えた者を誅戮し、冤魂に謝罪すべきです。そうすれば幽界の冤罪が晴らされ、慈雨が期待できるでしょう。」殷丹はこれに従い、すぐに訴えた女を刑に処し、寡婦の墓を祭った。天はこれに応えて慈雨を降らせ、穀物は豊作となった。

原文孟嘗,字伯周,會稽上虞上也。其先三世爲郡吏,並伏節死難。嘗少修操行,仕郡爲戶曹史。上虞有寡婦至孝養姑。姑年老壽終,夫女弟先懷嫌忌,乃誣婦厭苦供養,加鴆其母,列訟縣庭。郡不加尋察,遂結竟其罪。嘗先知枉狀,備言之於太守,太守不爲理。嘗哀泣外門,因謝病去,婦竟冤死。自是郡中連旱二年,禱請無所獲。後太守殷丹到官,訪問其故,嘗詣府具陳寡婦冤誣之事。因曰:「昔東海孝婦,感天致旱;于公一言,甘澤時降。宜戮訟者,以謝冤魂,庶幽枉獲申,時雨可期。」丹從之,即刑訟女而祭婦墓,天應澍雨,穀稼以登。

孟嘗は後に孝廉に推挙され、茂才に挙げられ、徐県令に任命された。州郡はその才能を上表し、合浦太守に転任した。合浦郡は穀物を産出しないが、海で珠寶が採れ、交阯と隣接しており、常に商人が行き来し、穀物を買い入れて食糧としていた。以前の太守たちは多くが貪欲で汚職しており、人々に採らせては際限なく求め、珠はついに次第に交阯郡の境界へと移ってしまった。そこで旅人が来なくなり、人々は財産を失い、貧しい者は道端で餓死した。孟嘗が着任すると、以前の弊害を改め、民の苦しみと利益を求めた。一年も経たないうちに、去っていた珠が再び戻り、百姓は皆、元の生業に戻り、商品の流通も盛んになり、彼は神明のようだと称えられた。

原文嘗後策孝廉,舉茂才,拜徐令。州郡表其能,遷合浦太守。郡不產穀實,而海出珠寶,與交阯比境,常通商販,留糴糧食。先時宰守並多貪穢,詭人採求,不知紀極,珠遂漸徙於交阯郡界。於是行旅不至,人物無資,貧者餓死於道。嘗到官,革易前敝,求民病利。曾未逾歲,去珠复還,百姓皆反其業,商貨流通,稱爲神明。

病気を理由に自ら退任を願い出て、召還されることになったが、役人や民衆は車にすがりついて引き留めた。孟嘗は進むことができず、郷里の民の船に乗って夜中に密かに去った。辺鄙な沼沢地に身を隠し、自ら耕作や雇い労働に従事した。隣県の士人や民衆はその徳を慕い、彼の近くに住み着いた者は百余家に及んだ。

原文以病自上,被徵當還,吏民攀車請之。嘗既不得進,乃載鄉民船夜遁去。隱處窮澤,身自耕傭。鄰縣士民慕其德,就居止者百餘家。

桓帝の時、尚書で同郡の楊喬が上書して孟嘗を推薦した。

原文榧齔桓帝時、尚書同郡楊喬上書薦嘗曰:

臣は前後七度にわたり、元合浦太守孟嘗のことを上奏しましたが、身分が軽く言葉も微力なため、ついにご理解いただけませんでした。誠意を尽くして心を砕いただけの徒労に終わりました。孟嘗は仁を安んじ義を広め、道徳を楽しみ、清らかな行いは俗を超え、才能と幹略は群を抜いています。以前、太守として赴任し、風俗を移し政治を改め、去った珠が再び戻り、飢えた民衆が救われました。しかも南海には珍宝が多く、財産は容易に蓄積できます。手の中にあれば、その価値は倍の金に匹敵するでしょう。しかし孟嘗は独り身で病気を理由に辞し、自ら田畑で耕作し、その光と才を隠し、華やかな飾り気を見せません。これはまさに鳥の翼や羽根のような有用な部分であり、単なる腹や背中の毛のようなものではありません。それなのに草むらに埋もれ、良い官爵にも恵まれず、朝廷の宝が溝渠に捨てられているのです。しかも年齢には限りがあり、晚年も尽きようとしています。忠貞の節操が、永遠に聖代に報いることがないのは、誠に心を傷め、私情で涙が流れます。物は遠方から来るものが珍重され、士は稀に見られるものが貴ばれます。曲がった木や朽ちた珠も、天子に用いられるのは、側近がその価値を認めるからです。王者が士を取るには、衆人が貴ぶ者を抜擢すべきです。臣は斗や筲のような器量で、日月(天子)の側近くに仕えています。微かな節義を立てたいと思い、故郷の情実で私的に行動することを敢えてしません。ひそかに禽息(春秋時代の人物、身を捨てて賢者を推挙した)に感じ入り、身を顧みず賢者を推挙いたします。

原文:臣前後七表言故合浦太守孟嘗,而身輕言微,終不蒙察。區區破心,徒然而已。嘗安仁弘義,耽樂道德,清行出俗,能幹絕群。前更守宰,移風改政,去珠复還,飢民蒙活。且南海多珍,財產易積,掌握之內,價盈兼金,而嘗單身謝病,躬耕壟次,匿景藏採,不揚華藻。實羽翮之美用,非徒腹背之毛也。而沉淪草莽,好爵莫及,廊廟之寶,棄於溝渠。且年歲有訖,桑榆行盡,而忠貞之節,永謝聖時。臣誠傷心,私用流涕。夫物以遠至爲珍,士以稀見爲貴。槃木朽珠,爲萬乘用者,左右爲之容耳。王者取士,宜拔眾之所貴。臣以斗筲之姿,趨走日月之側。思立微節,不敢苟私鄉曲。竊感禽息,亡身進賢。

孟嘗は結局用いられることはなかった。七十歳で、家で死去した。

原文嘗竟不見用。年七十,卒於家。

第五訪

原文第五訪

第五訪は、字を仲謀といい、京兆長陵の人で、司空第五倫の族孫である。幼くして孤児となり貧しく、常に雇われ耕作して兄と嫂を養った。暇がある時は学問をした。郡に出仕して功曹となり、孝廉に推挙され、新都令に補任された。政治は平穏で教化は行き渡り、三年の間に隣県から帰順する者が多く、戸口は十倍になった。

原文第五訪,字仲謀,京兆長陵人,司空倫之族孫也。少孤貧,常傭耕以養兄嫂。有閒暇,則以學文。仕郡爲功曹,察孝廉,補新都令。政平化行,三年之間,鄰縣歸之,戶口十倍。

張掖太守に転任した。凶作の年で、粟一石が数千銭にもなり、第五訪は倉を開いて救済し、その困窮を救った。部下たちは譴責を恐れ、争って上奏しようとした。第五訪は言った。「もし上からの許可を待っていたら、民を見捨てることになる。太守たるもの、一身をもって百姓を救うことを喜ぶべきだ。」そして穀物を出して民に与えた。順帝は璽書を下してこれを賞賛した。これにより一郡が全うされた。一年余り後、官民ともに豊かになり、境界内に奸盗はいなくなった。

原文遷張掖太守。歲飢,粟石數千,訪乃開倉賑給以救其敝。更懼譴,爭欲上言。訪曰:「若上須報,是棄民也。太守樂以一身救百姓!」遂出谷賦人。順帝璽書嘉之。由是一郡得全。歲餘,官民並豐,界無姦盜。

南陽太守に転任し、後に官を去った。護羌校尉に任命され、辺境の人々はその威信に服した。官のまま死去した。

原文遷南陽太守,去官。拜護羌校尉,邊境服其威信。卒於官。

劉矩

原文劉矩

劉矩は字を叔方といい、沛国蕭県の人である。叔父の劉光は、順帝の時に司徒となった。劉矩は若い頃から高い節義を持ち、父の劉叔遼が官途に就けなかったため、州郡からの招聘を断った。太尉朱寵と太傅桓焉がその志と義を賞賛し、劉叔遼がこれによって諸公に招聘され、議郎に任命されたので、劉矩はようやく孝廉に推挙された。

原文劉矩字叔方,沛國蕭人也。叔父光,順帝時爲司徒。矩少有高節,以父叔遼未得仕進,遂絕州郡之命。太尉朱寵、太傅桓焉嘉其志義,故叔遼以此爲諸公所辟,拜議郎,矩乃舉孝廉。

次第に雍丘県令に昇進し、礼譲をもって民を教化した。孝義の心がない者も皆、感化されて自ら改めた。民に争訟があると、矩は常に彼らを前に引き出し、耳を引っぱって訓戒し、怒りや恨みは耐え忍べるが、役所に訴え出ることは避けるべきだと説き、帰ってよく考え直すよう促した。訴え出た者はこれに感じ入り、それぞれ引き下がって行った。道で落とし物を拾った者は、皆その持ち主を探し求めた。県令として四年間務め、母の喪のため官を去った。

原文稍遷雍丘令,以禮讓化之,其無孝義者,皆感悟自革。民有爭訟,矩常引之於前,提耳訓告,以爲忿恚可忍,縣官不可入,使歸更尋思。訟者感之,輒各罷去。其有路得遺者,皆推尋其主。在縣四年,以母憂去官。

後に太尉の胡広が矩を賢良方正に推挙し、四度の昇進を経て尚書令となった。矩は性格が誠実で率直であり、権勢にへつらって付き従うことができなかったため、これが原因で大将軍梁冀の意に沿わず、常山国の相として出向し、病気のため官を辞した。当時、梁冀の妻の兄の孫祉が沛国の相であったため、矩は彼に害されることを恐れ、郷里に戻ることができず、彭城の友人の家に身を寄せた。一年余りして、梁冀の気持ちが少し和らぎ、やっと止んだ。その後、従事中郎に補任され、再び尚書令となり、宗正、太常に昇進した。

原文後太尉胡廣舉矩賢良方正,四遷爲尚書令。矩性亮直,不能諧附貴勢,以是失大將軍梁冀意,出爲常山相,以疾去官。時冀妻兄孫祉爲沛相,矩懼爲所害,不敢還鄉里,乃投彭城友人家。歲餘,冀意少悟,乃止。補從事中郎,复爲尚書令,遷宗正、太常。

延熹四年、黄瓊の後任として太尉となった。黄瓊は再び司空となり、矩は黄瓊および司徒の種暠と心を合わせて政務を補佐し、賢相と称された。当時、災異が相次いで発生したため、司隸校尉が三公を弾劾した。尚書の朱穆が上疏し、矩らが良き補佐役であると称え、殷の湯王や高宗が臣下を罪に問わなかった故事を引き合いに出して弁護した。帝は省みず、結局、蛮夷の反乱を理由に免職された。後に再び太中大夫に任命された。

原文延熹四年,代黃瓊爲太尉。瓊复爲司空,矩與瓊及司徒種暠同心輔政,號爲賢相。時,連有災異,司隸校尉以劾三公。尚書朱穆上疏,稱矩等良輔,以言殷湯、高宗不罪臣下之義。帝不省,竟以蠻夷反叛免。後復拜太中大夫。

霊帝の初め、周景の後任として太尉となった。矩が再び上公の地位に就くと、彼が招聘した者はいずれも名高い儒者や徳望の厚い旧臣であった。州郡と私的な交際を持たず、穏やかな言葉で静かに諫言し、多くは採用された。再び日食を理由に免職された。そこで骸骨を乞うて引退し、家で亡くなった。

原文靈帝初,代周景爲太尉。矩再爲上公,所辟召皆名儒宿德。不與州郡交通。順辭默諫,多見省用。復以日食免。因乞骸骨,卒於家。

劉寵

原文劉寵

劉寵、字は祖榮、東萊郡牟平県の人で、斉の悼恵王の子孫である。(悼恵王の名は肥、高祖の子である。)悼恵王の子の孝王将閭、将閭の末子が牟平侯に封ぜられ、子孫はそこに住み着いた。父の㔻は博学で、通儒と称された。

原文劉寵,字祖榮,東萊牟平人,齊悼惠王之後也。(悼惠王肥,高祖子也。)悼惠王子孝王將閭,將閭少子封牟平侯,子孫家焉。父㔻,博學,號爲通儒。

寵は若くして父の学問を受け継ぎ、明経で孝廉に推挙され、東平陵県令に任命された。(東平陵は県名、済南郡に属する。)仁恵をもって官吏や民衆から愛された。母が病気になると、官を棄てて去った。百姓たちが送別のため道を塞ぎ、車が進めなくなったので、軽装で密かに帰郷した。

原文寵少受父業,以明經舉孝廉,陳東平陵令,(東平陵,縣名,屬濟南郡也。)以仁惠爲吏民所愛。母疾,棄官去。百姓將送塞道,車不得進,乃輕服遁歸。

後に四度の昇進を経て豫章太守となり、さらに三度昇進して会稽太守に任命された。山の民は質朴で謹直であり、白髪頭になっても市井に入らない者さえいた。(願は謹み深い意。《風俗通》に「俗に市井というのは、市に行って物を売るには、まず井戸で洗ってから市に行くという意味だという。謹んで案ずるに《春秋井田記》によれば、人は三十歳になると百畝の田を与えられ、五人の口を養う。五人の口とは一戸を構成する父母妻子である。公田十畝、廬舎五畝で、合わせて一頃十五畝となる。八家で九頃二十畝となり、合わせて一井をなす。廬舎が内側にあるのは人を貴ぶため。公田がその次にあるのは公を重んじるため。私田が外側にあるのは私を軽んじるため。井田の意義は、第一に地気を漏らさないこと、第二に一家の浪費を防ぐこと、第三に風俗を同じくすること、第四に巧拙を合わせること、第五に財貨を通ずることである。井戸を中心に市が開かれ、取引が終われば引き上げるので、市井と称するのである」という。)彼らはかなり官吏に煩わされていた。寵は煩わしい法令を簡素化し、不法な取り締まりを禁じ、郡内は大いに教化された。将作大匠に召し出された時、山陰県の五、六人の老翁が、眉は混じり髪は白く、(尨は混じりの意。老人の眉は白黒混じっている。)若邪の山谷から出てきて、(若邪は現在の越州会稽県の東南にある。)それぞれ百銭を持参して寵を見送った。寵は労って言った。「ご老人方はどうしてご苦労なさるのですか?」老翁たちは答えた。「我々は山谷の鄙びた生まれで、郡の役所など見たこともありません。以前の太守の時は、役人が民間から徴発や要求をし、夜になっても絶えず、あるいは犬が一晩中吠え続け、民は安らぐことができませんでした。明府様が着任されて以来、犬は夜も吠えず、民は役人の姿を見ることがなくなりました。年老いて聖明な世に巡り合い、今、お去りになると聞き、わざわざお見送りに参りました。」寵は言った。「私の政治が皆さんのお言葉に及ぶものでしょうか。ご苦労なことです、ご老人方。」そして、人々のために大きな銭を一つ選んで受け取った。

原文後四遷爲豫章太守,又三遷拜會稽太守。山民願樸,乃有白首不入市井者,(願,謹也。《風俗通》曰「俗說市井者,言至市有所鬻賣,當於井上先濯,乃到市也。謹案《春秋井田記》,人年三十,受田百畝,以食五口。五口為一戶,父母妻子也。公田十畝,廬舍五畝,成田一頃十五畝。八家而九頃二十畝,共為一井。廬舍在內,貴人也。公田次之,重公也。私田在外,賤私也。井田之義,一曰無洩地氣,二曰無費一家,三曰同風俗,四曰合巧拙,五曰通財貨。因井為市,交易而退,故稱市井」也。)頗爲官吏所擾。寵簡除煩苛,禁察非法,郡中大化。徵爲將作大匠。山陰縣有五六老叟,尨眉皓髪,(尨,雜也。老者眉雜白黑也。)自若邪山谷間出,(若邪,在今越州會稽縣東南也。)人齎百錢以送寵。寵勞之曰:「父老何自苦?」對曰:「山谷鄙生,未嘗識郡朝。它守時吏發求民間,至夜不絕,或狗吠竟夕,民不得安。自明府下車以來,狗不夜吠,民不見吏。年老遭值聖明,今聞當見棄去,故自扶奉送。」寵曰:「吾政何能及公言邪?勤苦父老!」爲人選一大錢受之。

宗正、大鴻臚に転任した。延熹四年、黄瓊の後任として司空となったが、陰霧が太陽を覆い隠した天候不順のため免職された。間もなく、将作大匠に任命され、宗正となることができた。建寧元年、王暢の後任として司空となり、頻繁に昇進して司徒、太尉となった。二年、日食により策書により免職され、郷里に帰った。

原文轉爲宗正、大鴻臚。延熹四年,代黃瓊爲司空、以陰霧愆陽免。頃之,拜將作大匠,得爲宗正。建寧元年,代王暢爲司空,頻遷司徒、太尉。二年,以日食策免,歸鄉里。

寵は前後して二郡の太守を歴任し、累進して卿相の位に登ったが、清廉で質素を旨とし、家に財貨の蓄えはなかった。かつて京師を出て、亭舎で休もうとしたところ、亭吏が止めて言った。「整頓し清掃して、劉公をお待ちしているので、ここで休むことはできません。」寵は何も言わずに去り、当時の人々は彼を長者と称えた。老病のため家で亡くなった。

原文寵前後歷宰二郡,累登卿相,而清約省素,家無貨積。嘗出京師,欲息亭舍,亭吏止之,曰:「整頓灑埽,以待劉公,不可得止。」寵無言而去,時人稱其長者。以老病卒於家。

弟の方は、山陽太守にまで至った。方には二人の子がいた。岱、字は公山。繇、字は正礼。兄弟はともに名声が高かった。(《呉志》によると、「平原の陶丘洪が繇を推薦し、茂才に推挙させようとした。刺史が言った。『去年は公山を推挙したのに、どうしてまた正礼を推挙するのか?』洪は言った。『もし明使君が前に公山を用い、後に正礼を抜擢されるならば、いわゆる長い道で二頭の龍を御し、千里の地で駿馬を駆けるようなもので、それもまたよろしいのでは?』」)

原文弟方,官至山陽太守。方有二子:岱字公山,繇字正禮。兄弟齊名稱。(《吳志》曰:「平原陶丘洪薦繇,欲令舉茂才。刺史曰:『前年舉公山,柰何復舉正禮?』洪曰:『若明〔使〕君用公山於前,擢正禮於後,所謂御二龍於長塗,騁騏驥於千里,不亦可乎?』」)

董卓が洛陽に入ると、岱は侍中から出向して兗州刺史となった。己を虚しくして人を愛し、士人たちに慕われた。初平三年、青州の黄巾賊が兗州に入り、任城国の相鄭遂を殺し、東平国に転進した。岱がこれを迎撃し、戦死した。

原文董卓入洛陽,岱從侍中出爲兗州刺史。虛己愛物,爲士人所附。初平三年,青州黃巾賊入兗州,殺任城相鄭遂,轉入東平。岱擊之,戰死。

興平年間、繇は揚州牧、振威将軍となった。当時、袁術が淮南を占拠していたため、繇は曲阿に移り住んだ。中原が喪乱に陥ると、士人や友人たちの多くが南方に逃れてきた。繇は彼らを受け入れ養い、苦楽を共にし、非常に名声を得た。袁術が孫策を派遣して繇を撃破したため、豫章に逃れ、病没した。

原文興平中,繇爲楊州牧、振威將軍。時袁術據淮南,繇乃移居曲阿。值中國喪亂,士友多南奔,繇攜接收養,與同優劇,甚得名稱。袁術遣孫策攻破繇,因奔豫章,病卒。

仇覧

原文仇覽

仇覧、字は季智、一名は香、陳留郡考城県の人である。若い頃は書生で淳朴寡黙であり、郷里では知る者もいなかった。四十歳の時、県に召し出されて吏に補され、蒲亭長に選ばれた。人々に生業を勧め、規律を定め、果物や野菜の制限から、鶏や豚の飼育数に至るまで定め、農事が終わると子弟たちを集めて住まわせ、学舎に戻って学ばせた。軽薄で遊び暮らす者は、皆、田畑や養蚕の仕事に就かせ、厳しく罰則を設けた。自ら喪事を助け、貧困者や寡婦を救済した。一年で大いに教化が進んだと称された。覧が初めて亭に着任した時、陳元という者がおり、母と二人で暮らしていたが、母が覧のもとを訪れ、元が不孝であると訴えた。覧は驚いて言った。「私は最近そちらの家を通りかかりましたが、家屋は整頓され、耕作も時を守って行われていました。これは悪人ではありません。おそらく教化が行き届かず、恥を知らなかったのでしょう。母上は寡婦として孤児を養い、苦労して老いを迎えようとしているのに、どうして一時の怒りに任せて、子を不義の者にしようとなさるのですか?」母はこれを聞いて感じ入り悔い、涙を流して去った。覧は自ら元の家を訪れ、母子と共に酒を酌み交わし、機会を得て人倫や孝行について説き、禍福の道理を譬え話した。元はついに孝子となった。郷里の人々はこれについて諺を作った。「父母はどこにいるか、我が庭にあり、我が梟を化して子を哺う。」

原文仇覽,字季智,一名香,除留考城人也。少爲書生淳默,鄉里無知者。年四十,縣召補史,選爲蒲亭長。勸人生業,爲制科令,至於果菜爲限,雞豕有數,農事既畢,乃令子弟群居,還就黌學。其剽輕遊恣者,皆役以田桑,嚴設科罰。躬助喪事,賑恤窮寡。期年稱大化。覽初到亭,人有陳元者,獨與母居,而母詣覽告元不孝。覽驚曰:「吾近日過舍,廬落整頓,耕耘以時。此非惡人,當是教化未及至恥。母守寡養孤,苦身投老,奈何肆忿於一朝,欲致子以不義乎?」母聞感悔,涕泣而去。覽乃親到元家,與其母子飲,因爲節人倫孝行,譬以禍福之言。元卒成孝子。鄉邑爲之諺曰:「父母何在在我庭,化我鳲梟哺所生。」

当時、考城県令の河内郡出身の王渙は、政治を厳格かつ峻烈に重んじていたが、仇覧が徳をもって人を教化していると聞き、彼を主簿に任命した。王渙は仇覧に言った。「主簿は陳元の過ちを聞きながら、罪に問わずに教化したという。少しは鷹や鷂のような志がないのか?」仇覧は答えた。「鷹や鷂になるよりは、鸞や鳳凰になるほうがよいと思います。」王渙は謝罪して彼を送り出し、言った。「枳や棘は鸞鳳の棲むところではない。百里の地(小さな県)が大賢の道であろうか。今、太学で長い裾を引きずり、名声を飛ばしている者たちは、皆、主簿の後塵を拝する者たちだ。一か月の俸禄を資金として、どうか立派な行いを最後まで貫いてほしい。」

原文時考城令河內王渙,政尚嚴猛,聞覽以德化人,署爲主簿。謂覽曰:「主簿聞陳元之過,不罪而化之,得無少鷹鸇之志邪?」覽曰:「以爲鷹鸇,不若鸞鳳。」渙謝遣曰:「枳棘非鸞鳳所棲,百里豈大賢之路?今日太學曳長裾,飛名譽,皆主簿後耳。以一月奉爲資,勉卒景行。」

仇覧は太学に入った。当時、同郡出身の諸生である符融は高い名声があり、仇覧と隣り合わせの部屋に住み、賓客が部屋に溢れていた。仇覧は常に自らを守り、符融と話すことはなかった。符融は彼の様子や立ち居振る舞いを見て、ひそかに彼を非凡な人物だと思い、言った。「私は先生と同郷で、部屋の窓も隣同士です。今、京師には英雄が四方から集まり、志士たちが交際を結ぶ時です。常道に努めることは大切ですが、それだけを守っていてどうなさいますか?」仇覧は厳しい表情で言った。「天子が太学を設け修めたのは、ただ人々にその中で遊び談笑させるためでしょうか!」高く揖(礼)をして去り、二度と話すことはなかった。後日、符融がこのことを郭林宗(郭泰)に告げると、郭林宗は符融と共に名刺を持って仇覧の部屋を訪ね、そのまま宿泊を願い出た。郭林宗は感嘆し、床から降りて拝礼した。

原文覽入太學。時,諸生同郡符融有高名,與覽比宇,賓客盈室。覽常自守,不與融言。融觀其容止,心獨奇之,乃謂曰:「與先生同郡壤,鄰房牖。今京師英雄四集,志士交結之秋,雖務經常,守之何因?」覽乃正色曰:「天子修設太學,豈但使人遊談其中!」高揖而去,不復與言。後融以告郭林宗,林宗因與融齎刺就房謁之,遂請留宿。林宗嗟嘆,下床爲拜。

仇覧は学業を終えて故郷に帰ると、州や郡から招請があったが、すべて病気を理由に辞退した。平穏に暮らしている時でも、必ず礼をもって自らを整えた。妻子が過ちを犯すと、自ら冠を脱いで自責した。妻子が庭で謝罪し、仇覧が冠をかぶるのを待って、初めて堂に上がることができた。家族は彼の喜怒の声や表情の変化を見たことがなかった。後に方正に推薦されたが、病気にかかり亡くなった。

原文覽學畢歸鄉里,州郡並請,皆以疾辭。雖在宴居,必以禮自整。妻子有過,輒免冠自責。妻子庭謝,候覽冠,乃敢升堂。家人莫見喜怒聲色之異。後徵方正,遇疾而卒。

三人の息子はいずれも文と史の才能があり、末子の仇玄が最も有名であった。

原文三子皆有文史才,少子玄,最知名。

童恢

原文童恢

童恢、字は漢宗、琅邪郡姑幕県の人である。父の童仲玉は、凶作と飢饉の世に遭い、家財を傾けて救済し、九族や郷里で頼って全うした者は数百人に及んだ。仲玉は早くに亡くなった。

原文童恢,字漢宗,琅邪姑幕人也。父仲玉,遭世凶荒,傾家賑卹,九族鄉里賴全者以百數。仲玉早卒。

童恢は若くして州郡に出仕して吏となり、司徒の楊賜は彼が法を執行し清廉で公平であると聞き、彼を召し出した。楊賜が弾劾され免官されそうになった時、掾属たちはこぞって名刺を置いて去ったが、童恢だけが宮廷に赴いて弁護した。楊賜が無事となると、掾属たちは皆、役所に戻ったが、童恢は杖を執って去っていった。このことから、世論は彼を称賛した。

原文恢少仕州郡爲吏,司徒楊賜聞其執法廉平,乃辟之。乃賜被劾當免,掾屬悉投刺去,恢獨詣闕爭之。乃得理,掾屬悉歸府,恢杖策而逝。由是論者歸美。

再び公府に召し出され、不其県令に任命された。官吏や民が禁令や法律に違反すると、その状況に応じて道理を明らかにして諭した。もし官吏がその職務にふさわしく、民が善行を行った者には、すべて酒や肴の礼を与えて、勧め励ました。耕作、機織り、種まき、収穫にはすべて規則があった。全県が清く静かで、牢獄には連年囚人がいなかった。隣県の流浪の民が帰順し、移り住んだ者は二万余戸に及んだ。民が虎に害されることがあったので、檻を設けて捕らえ、生け捕りに二頭の虎を得た。童恢が聞き出てきて、虎に呪文のように言った。「天は万物を生んだが、人だけが最も貴い。虎狼は六畜を食うべきであり、人に対して残暴であってはならない。王法では人を殺せば死罪、傷つければ法によって裁かれる。お前たちがもし人を殺した者ならば、うなだれて罪に服すがよい。自分がそうでないと知っているならば、声をあげて冤罪を叫ぶがよい。」一頭の虎はうなだれて目を閉じ、震え恐れるような様子だったので、ただちに殺した。もう一頭は童恢を見つめて吼え、躍り上がって自ら奮い立ったので、放してやるよう命じた。官吏や民は彼のために歌を詠んで称えた。青州で特に優れた者として推挙され、丹陽太守に昇進したが、急病で亡くなった。

原文復辟公府,除不其令。吏人有犯違禁法,輒隨方曉示。若吏稱其職,人行善事者,皆賜以酒肴之禮,以勸勵之。耕織種收,皆有條章。一境清靜,牢獄連年無囚。比縣流人歸化,徙居二萬餘戶。民嘗爲虎所害,乃設檻捕之,生獲二虎。恢聞而出,咒虎曰:「天生萬物,唯人爲貴。虎狼當食六畜,而殘暴於人。王法殺人者傷,傷人則論法。汝若是殺人者,當垂頭服罪;自知非者,當號呼稱冤。」一虎低頭閉目,狀如震懼,即時殺之。其一視恢鳴吼,踴躍自奮,遂令放釋。吏人爲之歌頌。青州舉尤異,遷丹陽太守,暴疾而卒。

弟の童翊、字は漢文で、その名声は兄の童恢よりも高く、宰相の府が先に彼を召し出した。童翊は病気を装って(陽喑)仕官を肯んじず、兄の童恢が任命を受けた後になって、ようやく孝廉に挙げられ、須昌県長に任命された。教化に優れた政績があり、官吏や民は彼の生前に碑を建てた。推挙してくれた長官(挙将)の喪に服すと聞き、官を棄てて帰郷した。後に茂才に推挙されたが、就任しなかった。家で亡くなった。

原文弟翊字漢文,名高於恢,宰府先辟之。翊陽喑不肯仕,及恢被命,乃就孝廉,除須昌長。化有異政,吏人生爲立碑。聞舉將喪,棄官歸。後舉茂才,不就。卒於家。

評語

原文評語

賛に言う。「政治は張り詰めた厳しさを恐れる。(《韓詩外伝》に言う。『水が濁れば魚は口を水面に出し、法令が厳しければ人は乱れる。国を治める者は琴を張るようなものだ。大弦が張り詰めれば小弦は切れる。だから手綱をきつく締める者は、千里を駆ける御者ではない。』)治めるには鮮魚を煮るようにするのがよい。(老子に『大国を治める者は小魚を煮るようである』と言う。)忠誠を推し及ぼせば、多くの弊害は自ら消える。(忠恕を人々に推し及ぼせば、多くの弊害は自ら取り除かれる。)一人の長が真情を得れば、千の家は弦を鳴らして安楽する。(一夫とは県令などの長を指す。千室とは庶民を指す。上に立つ者が下を教化する真情を得れば、その下の者は弦を鳴らして安楽するという意味。)我らの風教と慈愛を懐かしみ、永遠に遺された賢人を記録する。(沈約の《宋書》に范曄がその甥や姪に送った手紙を載せ、書を撰述した意図について論じている。『私は史書を読んで、常にその不可解さを感じていた。後漢書を編纂するに及んで、ようやく筋道が得られた。古今の著述や評論を詳しく見ると、ほとんど満足できるものは少ない。班固は最も高い名声があるが、感情任せで例がなく、甲乙をつけがたい。博識豊富な点は及ばないが、整理の点では恥じることはないと思う。私の雑伝の論にはすべて精緻な意図と深い主旨がある。循吏以下および六夷の諸序論に至っては、筆勢が縦横に放たれ、実に天下の奇作であり、その中で優れたものは、往々にして賈誼の「過秦論」に劣らない。かつて班固の作ったものと比べてみると、ただ恥じないだけでなく、むしろ勝っていると思う。また、事に因って論を発し、一代の得失を正そうとしたが、その意図は果たせなかった。賛はまさに私の文章の傑出した思考であり、ほとんど一字も無駄なものはない。この書が世に行けば、きっと理解してくれる者がいるだろう。紀伝の例はその大略を挙げたに過ぎない。細かい意図は非常に多い。古来、規模が大きく思考が精緻な点で、これに及ぶものはない。俗人が十分に理解できないことを恐れ、多くは古きを貴び今を賤しむので、思いのままに狂言を述べたまでである。』)

原文贊曰:「政畏張急,(《韓詩外傳》曰:「水濁則魚喁,令苛則人亂。理國者譬若張琴然,大弦急則小絃絕矣。故急轡銜者,非千里之御也。」)理善亨鮮。(老子曰「理大國者若亨小鮮」也。)推忠以及,眾瘼自蠲。(推忠恕以及於人,則眾病自蠲除。)一夫得情,千室鳴統。(一夫謂守長也。千室謂黎庶。言上得化下之情,則其下鳴弦而安樂也。)懷我風愛,永載遺賢。(沈約《宋書》載曄與其姪及甥書,論撰書之意曰:「吾觀史書,恆覺其不可解。既造後漢,轉得統緒。詳觀古今著述及評論,殆少可得意者。班氏最有高名,既任情無例,不可甲乙。博贍不可及之,整理未必愧也。吾雜傳論皆有精意深旨,至於循吏已下及六夷諸序論,筆埶縱放,實天下之奇作,其中合者,往往不減過秦篇。嘗比方班氏所作,非但不愧之而已。又欲因事發論,以正一代得失,意復未果。贊自是吾文之傑思,殆無一字空設。此書行,故應有賞音者。紀傳例為舉其大略耳。諸細意甚多,自古體大而思精,未有此也。恐俗人不能盡之,多貴古賤今,所以稱情狂言耳。」)