漢書かんじょごかんじょ

巻七十六・循吏列伝 第六十六

かつて、光武帝は民間で育ち、世情や虚偽に通暁し、農作業の困難や民衆の苦しみを目の当たりにした。天下が平定された後は、静謐を旨とし、王莽の煩雑な法令を解き、漢代の簡素な法に戻した。自身は粗末な絹をまとい、華美な色彩を身につけず、鄭や衛の淫らな音楽を聴かず、珠玉の珍玩を手にせず、後宮に私的な寵愛はなく、側近に偏った恩寵を与えなかった。建武十三年(37年)、異国が名馬を献上し、一日に千里を走り、また宝剣を進献したが、その価値は百金に相当した。詔勅により、馬は鼓車を牽かせ、剣は騎士に賜った。上林苑の池や禁苑の管理官を削減し、遠くを見渡したり狩猟を行ったりすることを廃止した。自らの手跡で方国に下賜する文書は、すべて一枚の木簡に十行、細字で書き上げた。勤倹の風は、上から下まで行き渡った。たびたび公卿や郎将を引き連れて、禁中の座席に列した。広く民衆の苦しみを求め、風謡(民謡)を観察して取り入れた。そのため内外ともに怠ることなく、民衆は安らぎを得た。自ら郡県を治める者は、競ってその職務に優れた。杜詩が南陽を守ったときは「杜母」と称され、任延や錫光は辺境の習俗を変え、これらはその功績が最も顕著なものである。また第五倫や宋均の徒も、称賛に値する点があった。

しかし建武・永平の間(25-75年)、官吏の事務は厳しく深刻で、たびたび風聞や一方的な言葉によって、太守や県令が交代させられた。そのため朱浮はたびたび諫言の上書をし、峻烈な政治を戒め、鍾離意らも熱心に規諫し、長者の言葉として述べたが、聞き入れられなかった。それゆえ中興の美事は、おそらく十分ではなかった。章帝・和帝以後、善政を成した者は、絶えることなく続いた。魯恭、呉祐、劉寬および潁川の四長(荀淑、韓韶、陳寔、鍾皓)は、いずれも仁愛・信義・篤実・誠実をもって人を欺かせず、王堂、陳寵は賢良を任用し、職務はおのずから治まった。これらは皆、人々を感化して教化を行ったものである。辺鳳、延篤は相次いで京兆尹となり、当時の人は彼らを前世の趙広漢・張敞の同類とみなした。また王渙、任峻が洛陽らくよう令となったときは、隠れた悪事を明らかにし、官吏の不正を禁止したが、徳による教化や礼による導きには、まだ十分でない点もあり、それでも一時の優れた才能であった。今、特筆すべき事績を集めて、『循吏篇』とする。

衛颯

衛颯は、字を子産といい、河内郡修武県の人である。家は貧しかったが学問を好み、師に従うのに食糧がなく、常に雇われて生計を立てた。王莽の時代、郡や州の長官の職を歴任した。

建武二年(26年)、大司徒しと鄧禹の府に召し出された。才能を挙げて難事を処理し、侍御史に任じられ、襄城県令となった。政治に名声と実績があり、桂陽太守に昇進した。桂陽郡は交州と境を接し、その習俗にかなり染まり、礼儀や規範を知らなかった。衛颯が着任すると、学校の教育を整え、婚姻の礼儀を設けた。一年のうちに、郡内の習俗は教化に従った。

以前、含洭・湞陽・曲江の三県は、南越の旧地で、武帝が平定し、桂陽郡に属させた。住民は深山に住み、渓谷のほとりに暮らし、その風土に慣れ、田租を納めなかった。郡から遠いところは、あるいは千里も離れていた。官吏の用事で往来するたびに、民衆に船を出させ、これを「伝役」と称した。一人の役人が出るごとに、数家に労役が及び、民衆はこれを苦しんだ。衛颯はそこで山を穿ち五百余里の道を通し、亭や駅を並べ立て、郵便駅を設置した。これにより労役は省かれ苦しみは止み、悪辣な役人は絶えた。流民は次第に帰還し、徐々に集落を形成し、租税を納めさせ、一般の民衆と同じにした。また耒陽県は鉄鉱石を産出し、他の郡の民衆がしばしば集まって集会を開き、私的に製錬・鋳造を行い、逃亡者を招き寄せ、多くの悪事や盗賊を生み出していた。衛颯は上奏して鉄官を設置し、私的な鋳造を廃止させ、年間の増収は五百余万となった。衛颯は民事を思いやり、官にいるのを家にいるようにし、その施政はすべて物事に適していた。十年間職務に当たり、郡内は清く治まった。

建武二十五年(49年)、召還された。光武帝は少府に任じようとしたが、ちょうど衛颯が病気にかかり、礼拝起立ができなかったため、桂陽太守のまま帰宅するよう命じ、後の詔書を待たせた。二年後、病を押して宮廷に赴き、自ら重篤な状態を訴えた。そこで印綬を回収され、十万銭を賜り、後に家で死去した。

南陽の茨充が衛颯に代わって桂陽太守となった。彼もまた善政を行い、民に桑・クワ・麻・苧麻などを植えさせ、養蚕や履物作りを奨励し、民は利益を得た。

任延

任延は、字を長孫といい、南陽郡宛県の人である。十二歳で諸生となり、長安ちょうあんで学び、『詩経』・『易経』・『春秋』に明るく、太学で名声を顕わし、学内で「任聖童」と号された。突然の変事に遭い、兵乱を避けて隴西に逃れた。当時、隗囂がすでに四郡を占拠し、使者を遣わして任延を招請したが、任延は応じなかった。

更始元年(23年)、任延は大司馬の属官に任じられ、会稽都尉に任命された。当時十九歳で、迎えの役人はその若さに驚いた。着任すると、静かで無為を旨とし、ただ先に贈り物を送って延陵の季札の祠を祀った。当時、天下は新たに平定されたばかりで、道路は通じておらず、江南に避乱した者はまだ中原に帰還しておらず、会稽はかなり多くの士人がいると称されていた。任延が着任すると、董子儀や厳子陵のような高潔な行いの者をすべて招聘し、師友の礼をもって敬って待遇した。属官で貧しい者には、たびたび俸禄を分けて救済した。兵卒を減らし、公田を耕させて、困窮した者を救済した。折に触れて県を巡行するたびに、孝子を慰労激励し、食事を共にした。

呉に龍丘萇という者がおり、太末に隠居し、志を曲げて辱めを受けようとしなかった。王莽の時代、四輔や三公が相次いで招聘したが、応じなかった。属吏が報告して召し出すよう請うた。任延は言った。「龍丘先生は自ら徳を修め義を行い、原憲や伯夷の節操がある。都尉がその門を掃除しても、なお辱めることを恐れるのに、召し出すことはできない。」功曹に謁見の礼を持たせ、書簡を整え、医薬を届けさせ、役人が道で相望むほどにした。一年が経つと、龍丘萇は車に乗って府門に赴き、先に死んで名簿に備えられることを願った。任延は再三辞退したが、ついに議曹祭酒に任命した。龍丘萇はまもなく病死し、任延は自ら葬儀に臨み、三日間朝に出なかった。このため郡内の賢士や大夫は争って任官しようとした。

建武初年、任延は上書して骸骨を乞い、朝廷に帰参することを願った。詔により九真太守に任命された。光武帝は引見し、馬やさまざまな絹織物を賜り、妻子を洛陽に留め置くよう命じた。九真の習俗は狩猟を業とし、牛耕を知らず、民は常に交阯から穀物を買い求め、しばしば困窮に陥った。任延はそこで農具を作らせ、開墾を教えた。田畑は年々広がり、民衆は豊かになった。また駱越の民には嫁娶の礼法がなく、それぞれ情欲のままに交わり、正式な配偶者がなく、父子の情や夫婦の道を知らなかった。任延はそこで属県に文書を送り、それぞれ男は二十歳から五十歳、女は十五歳から四十歳で、年齢に応じて配偶させるようにした。貧しくて結納の礼ができない者は、長吏以下がそれぞれ俸禄を節約して救済援助させた。同時に結婚した者は二千余人に及んだ。この年は風雨が順調で、穀物は豊かに実った。子供を産んだ者は、初めて自分の姓(家族)を知った。皆が言った。「私にこの子をもたらしたのは、任君である。」と。多くが子の名を「任」とした。そこで境外の蛮夷である夜郎などがその義を慕って塞を守り、任延はついに斥候や戍卒を廃止した。

かつて、平帝の時代、漢中の錫光が交阯太守となり、民や夷を教え導き、次第に礼義を浸透させ、その教化の名声は任延と等しかった。王莽の末期、境界を閉ざして守りを固めた。建武初年、使者を遣わして貢献し、塩水侯に封じられた。嶺南に中華の風俗が始まったのは、この二人の太守からである。

任延は四年間職務に当たり、洛陽に召還されたが、病気で滞在し、左遷されて睢陽県令となり、九真の官吏や民衆は生前に祠を建てた。武威太守に任命されると、帝は自ら引見し、戒めて言った。「上官にうまく仕え、名誉を失うな。」任延は答えて言った。「臣は聞きます。忠臣は私せず、私する臣は忠ならず、と。正道を踏み奉公することは、臣下の節操です。上下が同調することは、陛下の福ではありません。上官にうまく仕えよとの詔は、臣は奉じることができません。」帝は嘆息して言った。「卿の言う通りである。」

任延が武威に到着すると、当時、将兵長史の田紺は郡内の大姓であり、その子弟や賓客が人々に暴虐を働いていた。任延は田紺を捕らえて拘束し、父子や賓客で処刑された者は五、六人に及んだ。田紺の末子の田尚は数百人の軽薄な者を集め、自ら将軍と称し、夜に郡を攻撃してきた。任延は直ちに兵を出してこれを撃破した。これ以降、彼の威令は郡内に行き渡り、役人や民衆は息をひそめて従った。

武威郡は北は匈奴に面し、南は種羌と接しており、民衆は賊の略奪を恐れて、多くが農耕を放棄していた。任延が着任すると、武略に優れた者千人を選抜し、賞罰を明確にし、彼らに雑種の胡騎や休屠、黄石の兵を率いさせて要害の地に駐屯させ、警急の事態があれば迎撃・追討させた。敵は常に多くの損害を被り、ついに出撃することはなくなった。

河西地方は元来、降雨が少なかったため、任延は水官吏を設置し、溝渠を修理させたので、人々はその恩恵を受けた。また校官を設立し、掾史の子孫から、皆を学問を受けさせるようにし、彼らの徭役を免除した。経書の章句を理解すると、皆を顕彰し、栄進させた。郡内にはついに儒雅の士が現れるようになった。

後に、羌を誅殺したことを事前に上奏しなかった罪で、左遷されて召陵県令となった。顕宗(明帝)が即位すると、潁川太守に任命された。永平二年(59年)、辟雍での会合に招かれ、そのまま河内太守に任命された。在職九年で、病気のため死去した。

末子の任愷は、太常の官にまで至った。

王景

王景は、字を仲通といい、楽浪郡講邯県の人である。八世の祖の王仲は、もともと琅邪郡不其県の人であった。道術を好み、天文に明るかった。諸呂が乱を起こした時、劉哀王(劉襄)が兵を起こそうと計画し、しばしば王仲に意見を求めた。済北王の劉興居が反乱を起こした時、兵権を王仲に委ねようとしたが、王仲は禍が及ぶことを恐れ、海を渡って東の楽浪の山中に逃れ、そこで家を構えた。父の王閎は、郡の三老であった。更始帝が敗れると、地元の者である王調が郡守の劉憲を殺し、自ら大将軍・楽浪太守と称した。建武六年(30年)、光武帝は太守の王遵に兵を率いてこれを討たせた。遼東に至ると、王閎は郡の決曹史の楊邑らと共謀して王調を殺し、王遵を迎え入れた。皆が列侯に封ぜられたが、王閎だけは爵位を辞退した。帝はこれを奇異に思い召し出そうとしたが、途中で病死した。

王景は若くして『易経』を学び、さらに広く多くの書物を読み、また天文や術数にも興味を持ち、深く沈潜して多くの技芸に通じていた。司空しくうの伏恭の府に召された。時に王景に治水の能力があると推薦する者がおり、顕宗(明帝)は詔を下し、将作謁者の王呉と共に浚儀渠の修築を行わせた。王呉が王景の堰止め水流制御法を用いたところ、水害はもはや起こらなくなった。

初め、平帝の時代に、黄河と汴渠が決壊したが、修復する機会がなかった。建武十年(34年)、陽武県令の張汜が上奏して言った。「黄河の決壊は長く続き、年月を経て侵食が進み、済水の水路が数十の県を水没させています。修理の費用はかかりますが、工事自体は難しくありません。堤防を改修して、百姓を安んずべきです。」上書が奏上されると、光武帝は直ちに兵卒を動員した。ちょうど黄河の工事を計画している時、逡儀県令の楽俊がまた上奏して言った。「昔、元光年間(前漢武帝の年号)には、人口が多く繁栄し、堤防沿いで開墾が行われていましたが、瓠子で黄河が決壊した時、なお二十余年も放置され、すぐには塞がれませんでした。今は家屋も少なく、田地は広く豊かです。修理しなくても、その災害はまだ耐えられます。しかも戦乱が終わったばかりで、今まさに労役を起こそうとしています。労苦と怨嗟が多くなれば、民は命令に耐えられません。平穏になるのを待って、改めてこの件を議論すべきです。」光武帝はこの意見を得て、工事を中止した。

その後、汴渠が東へ侵食し、年月とともに範囲が広がり、水門の旧位置はすべて河中に没してしまった。兗州・州の百姓は怨み嘆き、朝廷が常に他の労役を興すばかりで、民の急務を優先しないと思った。永平十二年、汴渠の修復が議論され、王景が引見され、治水の地理的条件について問われた。王景はその利害を述べ、応対は機敏で、帝はこれを良しとした。またかつて浚儀渠を修築し、功績を上げたこともあり、帝は王景に『山海経』、『河渠書』、『禹貢図』および銭帛や衣物を賜った。夏、ついに数十万の兵卒を動員し、王景と王呉に渠を修築させ堤防を築かせた。滎陽けいようから東の千乗郡の海口まで千余里に及んだ。王景は地形を測量し、山や丘を切り開き、岩盤を砕き、溝や谷を直線的に切り開き、要衝を防ぎ止め、堆積物を疏通させ、十里ごとに一つの水門を設け、互いに水を循環させて注がせ、再び決壊や漏水の憂いがないようにした。王景は労役費用を節約したが、それでも百億単位の費用がかかった。翌年の夏、渠は完成した。帝は自ら巡行し、詔を下して黄河沿いの郡国に河堤の官吏を設置させ、前漢の旧制に従わせた。王景はこれによって有名になった。王呉および諸々の従事掾史は皆、官秩が一等増された。王景は三度昇進して侍御史となった。十五年、帝の車駕に従って巡狩し、無塩に至った時、帝はその功績を称え、河堤謁者に任命し、車馬や絹、銭を賜った。

建初七年(82年)、徐州刺史に転任した。以前、杜陵の杜篤が『論都賦』を奏上し、天子の車駕を長安に遷都させようとした。古老たちがこれを聞くと、皆、故郷を懐かしむ心を動かされ、立ち尽くして西を望まずにはいられなかった。王景は宮廟がすでに洛陽に建立されていることから、人々の心情が惑わされることを恐れ、時に神雀などの祥瑞があったので、『金人論』を作り、洛邑の美しさと天人の符合を称え、その文章は採るべきところがあった。

翌年、廬江太守に転任した。以前、この地の百姓は牛耕を知らず、地力が余っているのに食糧が常に不足していた。郡内には楚の宰相の孫叔敖が築いた芍陂の水田があった。王景は役人や民衆を率いて荒廃した土地を修復し、犁を用いた耕作を教えた。これによって開墾地は倍増し、郡内は豊かになった。そこで石碑に誓いの言葉を刻み、民に恒常的な禁令を知らしめた。また養蚕と機織りを教え、法規を作り、すべて郷亭に記して掲示し、廬江ではその文辞が伝えられた。在官中に死去した。

初め、王景は『六経』に記載されていることはすべて卜筮に関わり、物事を行い行動するには、蓍草や亀甲によって質すべきであると考えた。しかし多くの書物は錯綜し、吉凶が相反しているので、多くの家の数術文書、塚宅の禁忌、堪輿や日相の類について、実用に適したものを参考にし、まとめて『大衍玄基』としたという。

秦袁

秦袁は、字を伯平といい、扶風郡茂陵県の人である。漢が興って以来、代々高い官位を継承した。六世の祖の秦襲は潁川太守となり、一族の従兄弟たちと同時に二千石の官に就いた者が五人いたので、三輔地方では「万石秦氏」と号された。秦彭の同母妹は、顕宗(明帝)の時に掖庭に入って貴人となり、寵愛を受けた。永平七年、秦彭が貴人の兄であったため、四姓小侯に随って抜擢され、開陽城門候となった。十五年、騎都尉に任命され、駙馬都尉の耿秉に副って北征し、匈奴を討った。

建初元年(76年)、山陽太守に転任した。礼をもって人を教化し、刑罰に頼らなかった。儒学を尊び、学校を重視した。春秋の饗射のたびに、昇降や揖譲の儀礼を整えた。そして人々のために四つの戒めを設け、六親の長幼の礼を定めた。教化に従う者があれば、郷の三老に抜擢し、常に八月に酒肉を贈って励ました。官吏に過失があれば、罷免・解任するだけで、恥辱を加えなかった。民衆は慈愛を慕い、欺く者も犯す者もなかった。数千頃の水田を開墾し、農繁期ごとに自ら田畑を測量し、肥沃さを分けて三品とし、それぞれ文書を作成して郷や県に保管した。これにより悪吏は身を縮めて、詐欺を行う余地がなくなった。秦彭は上奏して、天下に同じ制度を行わせるべきだと述べた。詔書により彼の定めた条式が三府に下され、州郡にも伝えられた。

在職六年で潁川太守に転任し、やはり鳳凰、麒麟、嘉禾、甘露の瑞祥がその郡内に集まった。粛宗(章帝)が巡幸し、再び潁川に行幸すると、たびたび銭や穀物を賞賜され、恩寵は格別であった。章和二年(88年)に死去した。秦彭の弟の秦惇と秦褒はともに射声校尉こういとなった。

王渙

王渙は字を稚子といい、広漢郡郪県の人である。父の王順は安定太守であった。王渙は若い頃から任侠を好み、気力に優れ、軽薄な若者たちとしばしば交わった。後に節操を改め、儒学を重んじ、『尚書』を学び、律令を読み、大義を大まかに理解した。太守の陳寵の功曹となり、職務を処理するにあたり、豪族を避けなかった。陳寵の名声が大いに広まり、中央に入って大司農となった。和帝が「郡ではどのように治めたのか」と尋ねると、陳寵は頓首して謝して言った。「臣は功曹の王渙に賢才を簡抜選抜させ、主簿の鐔顯に遺漏を補わせ、臣はただ詔書を奉じて宣べただけです。」帝は大いに喜び、王渙はこれにより名声を高めた。

州から茂才に推挙され、温県令に任命された。県には多くの奸悪狡猾な者がおり、長年の患いとなっていた。王渙は方略を用いて討伐し、ことごとく誅殺した。管内は清らかで平穏となり、商人は道端で野宿した。牛を放牧する者があれば、「稚子に任せた」と言い、ついに侵害されることはなかった。温県で三年を過ごし、兗州刺史に転任し、管下の郡を正し、威風が大いに広まった。後に妖言の取り調べが事実に合わないとして罪に問われた。一年余り後、侍御史に任命された。

永元十五年(103年)、帝の南巡に従駕し、帰還後洛陽令となった。公平正直に身を処し、寛容と厳格のバランスを適切に保った。冤罪や長年の訴訟で、歴代の政権が裁けず、法理でも解決が難しい案件についても、ことごとく真情と詐偽を究明し、多くの疑念を鎮めた。また、奇策を用いて隠れた悪事を摘発することもできた。都の人々は称賛し、王渙には神算があると思った。元興元年(105年)、病気で死去した。市井の民衆は誰もが嘆き悲しんだ。男女老若が共に寄付を集め、数千もの奠醊(供物)を捧げた。

王渙の遺体が西へ帰る途中、弘農を通ると、民衆は皆、道端に槃桉(供物台)を設けた。役人がその理由を尋ねると、皆が言うには、「普段米を持って洛陽に行くと、兵卒の役人に没収され、常に半分を失っていました。王君が在職してからは、侵害されることがなくなりましたので、恩に報いるために来たのです。」彼の政治と教化が人々の心を捉えたのはこのようなものであった。民はその徳を慕い、安陽亭の西に祠を建て、食事のたびに弦歌を奏でて供えた。

永初二年(108年)、鄧太后は詔を下した。延熹年間(158年-167年)、桓帝は黄老道を奉じ、諸々の祠をことごとく破壊したが、特に詔を下して密県に故太傅卓茂の廟を残し、洛陽に王渙の祠を留め置いた。

鐔顯も後に有名となり、安帝の時に豫州刺史となった。当時、天下は飢饉で、こぞって盗賊となり、州内で捕らえられた者は一万人近くに及んだ。鐔顯は彼らの困窮を哀れみ、自ら刑罰に陥ったことを思い、独断で赦免し、自らを弾劾して上奏した。詔書により取り調べられなかった。後に長楽衛尉の位に至った。

王渙の死後、連続して三公に詔が下り、特に洛陽令を選んだが、皆その職に適わなかった。永和年間(136年-141年)、劇県令の勃海出身の任峻がこれを補った。任峻は文武の官吏を抜擢し、皆その能力を発揮させ、奸悪や盗賊を糾弾摘発し、瞬く間に成果を上げ、一年の裁判は数十件に過ぎず、威風は王渙よりも厳しかったが、文治の面では及ばなかった。任峻は字を叔高といい、太山太守で終わった。

許荊

許荊は字を少張といい、会稽郡陽羨県の人である。祖父の許武は、太守の第五倫に孝廉に推挙された。許武は二人の弟の許晏と許普がまだ顕職に就いていないのを見て、彼らに名声を得させようと思い、彼らに請うて言った。「礼には分かれて異なる家を持つ義があり、家には別居する道がある。」そこで共に財産を三分割し、許武は自分で肥沃な田畑、広い邸宅、力の強い奴婢を取った。二人の弟が得たものはすべて劣って少なかった。郷の人々は皆、弟たちが譲り合ったと称賛し、許武の貪欲さを軽蔑した。許晏らはこれによりともに選挙に挙げられ、許武はようやく宗族を集めて涙を流して言った。「私は兄として不肖で、名声と地位を盗み、二人の弟は年長でありながら栄禄に預からなかった。だから財産を分けることを求め、自ら大きな非難を招いた。今、財産を整理して増えた分は、以前の三倍になるが、すべて二人の弟に譲り、何一つ残さない。」これにより郡中は一致して称賛し、遠近にその名が知られた。位は長楽少府に至った。

許荊は若くして郡吏となり、兄の子の許世が仇討ちで人を殺し、恨みを持つ者が武器を持って攻めてきた。許荊はこれを聞き、門を出て恨みを持つ者を迎え、跪いて言った。「許世が以前無礼なことを犯したのは、すべて私が訓導できなかった咎です。兄はすでに早く亡くなり、一子が後を継いでいます。もし死者がその血筋が絶えるのを悲しむならば、私が身代わりに殺されることを願います。」恨みを持つ者は許荊を扶け起こして言った。「許掾は郡中で賢人と称えられている。どうして侵そうか。」こうして去っていった。許荊の名声はますます高まった。太守の黄兢が孝廉に推挙した。

和帝の時、次第に昇進して桂陽太守となった。郡は南方に接し、風俗は薄く脆く、学問の道理を知らなかった。許荊は喪祭や婚姻の制度を設け、礼の禁制を知らしめた。春の巡行で耒陽県に至った時、蔣均という者がいて、兄弟が財産を争い、互いに訴え合っていた。許荊は彼らに向かって嘆いて言った。「私は国の重任を担いながら、教化が行き届かないのは、太守の咎である。」そして吏に命じて上書して状況を述べさせ、廷尉に出頭を願い出た。蔣均兄弟は感動して悔い改め、それぞれ罪を受けることを求めた。在職十二年、父老は称えて歌った。病気のため自ら上書し、諫議大夫に任命され、官のまま死去した。桂陽の人々は廟を建て碑を立てた。

許荊の孫の許𢒰は、霊帝の時に太尉となった。

孟嘗

孟嘗は、字を伯周といい、会稽郡上虞県の人である。先祖は三代にわたって郡の役人を務め、いずれも節を守って難に殉じた。孟嘗は若い頃から品行を修め、郡に出仕して戸曹史となった。上虞県に夫を亡くした寡婦がおり、姑を非常に孝養していた。姑が年老いて寿命が尽きると、夫の妹が以前から嫌悪の念を抱いており、寡婦が供養を厭い苦しんでいると誣告し、さらにその母に毒を盛ったと加えて、県の役所に訴え出た。郡は詳しく調査せず、ついにその罪を結審させた。孟嘗は先に冤罪の状況を知り、詳しく太守に説明したが、太守は取り合わなかった。孟嘗は役所の門の外で悲しみ泣き、病気を理由に辞職して去った。寡婦はついに冤罪のまま死んだ。これ以来、郡内では二年連続で旱魃が続き、祈願しても何の効果もなかった。後に太守の殷丹が着任し、その原因を尋ねたところ、孟嘗は役所に赴き、寡婦が冤罪を被ったことを詳しく述べた。そして言った。「昔、東海の孝婦(の冤罪)は天に感じて旱魃を招き、于公の一言によって慈雨が降り注ぎました。訴えた者を誅戮し、冤魂に謝罪すべきです。そうすれば、地下の冤罪が晴らされ、慈雨が期待できるでしょう。」殷丹はこれに従い、すぐに訴えた女を処刑して婦人の墓に祭りを行ったところ、天は応えて慈雨を降らせ、穀物は豊作となった。

孟嘗は後に孝廉に推挙され、茂才に挙げられて徐県令に任命された。州郡はその才能を上表し、合浦太守に昇進した。合浦郡は穀物を産出しないが、海から珠や宝が採れ、交阯郡と隣接しており、常に商人が行き来し、穀物を買い入れて食糧としていた。以前の太守たちは多くが貪欲で汚職しており、人を欺いて採らせ、限度を知らなかったため、真珠は次第に交阯郡の境界の方へ移ってしまった。そこで旅人が来なくなり、人々は生活の資を失い、貧しい者は道端で餓死した。孟嘗が着任すると、以前の弊害を改め、民の苦しみと利益を求めた。一年も経たないうちに、去っていた真珠が再び戻り、百姓は皆、元の生業に戻り、商品の流通も盛んになり、彼を神明と称えた。

病気を理由に自ら上書し、召還されることになったが、役人や民衆が車にすがりついて引き留めた。孟嘗は進むことができず、郷里の民の船に乗って夜中に密かに去った。辺鄙な沼沢地に身を隠し、自ら耕作や雇われ仕事をした。隣県の士人や民衆はその徳を慕い、彼の近くに住み着いた者は百余家に及んだ。

桓帝の時代、尚書で同郡の楊喬が上書して孟嘗を推薦した。その文は以下の通りである。

臣は前後七度にわたり、元合浦太守の孟嘗について上奏しましたが、身分が軽く言葉も微力なため、ついにご理解を得られませんでした。誠意を尽くして心を砕いただけの、むなしい努力に終わりました。孟嘗は仁を安んじ義を広め、道徳を楽しみ、清らかな行いは俗を超え、才能と行動力は群を抜いています。以前、太守として赴任した際には、風俗を移し政治を改め、去っていた真珠を再び戻らせ、飢えた民衆を救いました。しかも南海は珍宝が多く、財産を蓄積しやすい土地です。手の中に収めれば、その価値は倍の金に匹敵するでしょう。しかし孟嘗は独り身で病気を理由に辞し、自ら田畑を耕し、その光と才を隠し、華やかな飾り気を見せません。これはまさに鳥の翼や羽根のような優れた器用さであり、単なる腹や背中の毛のようなものではありません。それなのに草むらに埋もれ、良い官爵にも恵まれず、朝廷の宝が溝渠に捨てられているのです。しかも年齢には限りがあり、日は西山に迫っています。忠貞の節操が、永遠に聖代に報いることがないのは、臣は誠に心を痛め、ひそかに涙を流します。物は遠方から来るものが珍重され、士は稀に見られるものが貴ばれます。曲がった木や朽ちた珠も、天子に用いられるのは、側近が取り立てるからです。王者が士を取るには、衆人が貴ぶ者を抜擢すべきです。臣は斗や筲のような器量で、日月(天子)の側近くに仕えています。微かな節義を立てようと思い、故郷の者を私的に推挙するようなことは致しません。ひそかに禽息(春秋時代の人物、身を捨てて賢者を推挙した)に感じ入り、身を顧みず賢者を推挙いたします。

孟嘗は結局用いられることはなかった。七十歳で、家で亡くなった。

第五訪

第五訪は、字を仲謀といい、京兆尹長陵県の人で、司空の第五倫の族孫である。幼くして孤児となり貧しく、常に雇われて耕作し、兄とその妻を養った。暇がある時は、学問に励んだ。郡に出仕して功曹となり、孝廉に察挙され、新都県令に補任された。政治は公平で教化は行き渡り、三年の間に隣県の民が帰順し、戸口は十倍になった。

張掖太守に転任した。その年は飢饉で、粟一石が数千銭にもなった。第五訪は倉を開いて救済し、その困窮を救おうとした。役人たちは処罰を恐れ、争って上奏しようとした。第五訪は言った。「もし上からの許可を待っていたら、民を見捨てることになる。太守たるもの、一身をもって百姓を救うことを喜ぶべきだ。」そこで穀物を出して民に与えた。順帝は璽書を下してこれを賞賛した。これにより一郡が全うされた。一年余り後には、役人も民衆も共に豊かになり、境界内に奸盗はいなくなった。

南陽太守に転任し、後に官を去った。護羌校尉に任命され、辺境の人々はその威厳と信義に服した。官職のまま亡くなった。

劉矩

劉矩は字を叔方といい、はい国蕭県の人である。叔父の劉光は、順帝の時代に司徒となった。劉矩は若い頃から高い節義を持ち、父の劉叔遼が官途に就けなかったため、州郡からの招聘を断った。太尉の朱寵と太傅の桓焉がその志と義を賞賛し、劉叔遼がこれによって諸公に招聘され、議郎に任命されたため、劉矩は孝廉に挙げられた。

次第に雍丘県令に昇進し、礼と譲りをもって民を教化した。孝や義のない者も皆、感化されて自ら改めた。民に争訟があると、劉矩は常に彼らを前に引き出し、耳を引っぱって訓戒し、怒りや恨みは我慢できるが、役所に入る(訴訟を起こす)ことは避けるべきだと告げ、帰ってよく考え直させた。訴える者はこれに感じ入り、いつもそれぞれ引き下がって行った。道で落とし物を拾った者は、皆その持ち主を探し求めた。県に四年間在任し、母の喪のため官を去った。

後に太尉の胡広が劉矩を賢良方正に推薦し、四度の転任を経て尚書令しょうしょれいとなった。劉矩は性格が誠実で率直であり、権勢にへつらって付和雷同することができなかったため、これによって大将軍梁冀の意に沿わず、常山国の相として出向し、病気を理由に官を去った。当時、梁冀の妻の兄である孫祉が沛国の相であったため、劉矩は彼に害されることを恐れ、郷里に戻ることができず、彭城の友人の家に身を寄せた。一年余り後、梁冀の気持ちが少し和らいだため、やっと止んだ。その後、從事中郎に補任され、再び尚書令となり、宗正、太常に転任した。

延熹四年、黄瓊に代わって太尉となった。黄瓊は再び司空となり、劉矩は黄瓊および司徒の種暠と心を合わせて政務を補佐し、賢相と称された。当時、災異が相次いで起こり、司隸校尉が三公を弾劾した。尚書の朱穆が上疏し、劉矩らが良き補佐であると称え、殷の湯王や高宗が臣下を罪に問わなかった故事を引き合いに出して論じた。帝は省みず、ついに蛮夷の反叛を理由に免職された。後に再び太中大夫に任命された。

霊帝の初め、周景に代わって太尉となった。劉矩が再び上公となると、辟召した者はいずれも名高い儒者や宿徳であった。州郡と交際せず、穏やかな言葉で静かに諫言し、多くは採用された。再び日食を理由に免職された。そこで骸骨を乞うて退き、家で死去した。

劉寵

劉寵、字は祖栄、東萊郡牟平県の人、斉の悼恵王の末裔である。(悼恵王の肥は高祖こうその子である。)悼恵王の子の孝王将閭、将閭の末子が牟平侯に封ぜられ、子孫はそこに住んだ。父の㔻は博学で、通儒と号された。

劉寵は若くして父の学業を受け継ぎ、明経により孝廉に挙げられ、陳の東平陵県令となった。(東平陵は県名、済南郡に属する。)仁恵をもって官吏や民衆に愛された。母が病気になると、官を棄てて去った。百姓たちが送別のため道を塞ぎ、車が進めなくなったので、軽装で逃げるようにして帰った。

後に四度転任して豫章太守となり、さらに三度転任して会稽太守に任命された。山の民は質朴で、白髪になっても市井に入ったことのない者さえいた。(願は謹み深い意。《風俗通》に「俗に市井というのは、市に行って何かを売る時、まず井戸の上で洗ってから市に行くからだと言う。謹んで案ずるに《春秋井田記》によれば、人は三十歳になると百畝の田を受け、五人の口を養う。五口が一戸で、父母と妻子である。公田十畝、廬舎五畝で、一頃十五畝の田となる。八家で九頃二十畝となり、合わせて一井となる。廬舎が内側にあるのは、人を貴ぶためである。公田がその次にあるのは、公を重んじるためである。私田が外側にあるのは、私を軽んじるためである。井田の意義は、第一に地気を漏らさないこと、第二に一家を浪費しないこと、第三に風俗を同じくすること、第四に巧拙を合わせること、第五に財貨を通じさせることである。井戸に因って市が成り、取引が終われば退くので、市井と称するのである」という。)かなり官吏に煩わされていた。劉寵は煩わしい苛政を簡素化し、非合法な取り締まりを禁じ、郡内は大いに教化された。将作大匠に召された。山陰県に五、六人の老翁がおり、眉は混じり髪は白く、(尨は雑の意。老人の眉は白黒混じっている。)若邪の山谷から出てきて、(若邪は現在の越州会稽県の東南にある。)それぞれ百銭を持って劉寵を見送った。劉寵は労って言った。「父老たちはどうしてわざわざ苦労されるのか。」答えて言った。「我々は山谷の鄙びた生まれで、郡の役所を識りません。以前の太守の時は、役人が民間から徴発や要求をし、夜になっても絶えず、あるいは犬が一晩中吠え、民は安らぐことができませんでした。明府が着任されて以来、犬は夜に吠えず、民は役人を見ることがありません。年老いて聖明な世に遭い、今、あなたが去られると聞き、だから自ら支え合ってお送りに参りました。」劉寵は言った。「私の政治があなた方の言うほど及んでいるだろうか。父老たち、ご苦労であった。」人々のために一大銭を選んで受け取った。

宗正、大鴻臚に転じた。延熹四年、黄瓊に代わって司空となったが、陰霧が陽気を損なったとして免職された。まもなく、将作大匠に任命され、宗正となることができた。建寧元年、王暢に代わって司空となり、頻繁に転任して司徒、太尉となった。二年、日食により策書で免職され、郷里に帰った。

劉寵は前後して二郡の太守を歴任し、累進して卿相に登ったが、清廉で倹約し、質素を旨とし、家に財貨の蓄えがなかった。かつて京師を出て、亭舎で休もうとしたところ、亭吏が止めて言った。「整頓し掃除をして、劉公をお待ちしています。止めることはできません。」劉寵は何も言わずに去り、当時の人々は彼を長者と称えた。老病により家で死去した。

弟の劉方は、山陽太守まで官位が上がった。劉方には二人の子がいた。劉岱、字は公山、劉繇、字は正礼。兄弟はともに名声が高かった。(《呉志》に「平原の陶丘洪が劉繇を推薦し、茂才に挙げようとした。刺史が言った。『去年は公山を挙げたのに、どうしてまた正礼を挙げるのか?』洪は言った。『もし明使君が前に公山を用い、後に正礼を抜擢されるなら、いわゆる長い道で二頭の龍を御し、千里の地で騏驥を駆けるようなもので、それもまたよろしいのでは?』」という。)

董卓が洛陽に入ると、劉岱は侍中から出向して兗州刺史となった。己を虚しくして人を愛し、士人たちに慕われた。初平三年、青州の黄巾賊が兗州に入り、任城国の相鄭遂を殺し、東平国に転じた。劉岱がこれを撃ち、戦死した。

興平年間、劉繇は揚州牧、振威将軍となった。当時、袁術が淮南を占拠していたので、劉繇は曲阿に移り住んだ。中原が喪乱に遭い、士人や友人の多くが南方に逃げてきた時、劉繇は彼らを受け入れ養い、苦楽を共にし、非常に名声を得た。袁術が孫策を遣わして劉繇を撃破したため、豫章に奔り、病没した。

仇覧

仇覧、字は季智、一名は香、陳留郡考城県の人である。若い頃は書生で淳朴寡黙であり、郷里で知る者はいなかった。四十歳の時、県が史に補し、蒲亭長ていちょうに選ばれた。人々に生業を勧め、規則を定め、果物や野菜の限度から、鶏や豚の数に至るまで決め、農事が終わると子弟たちを集めて居住させ、学舎に戻って学ばせた。軽薄で遊びふける者は、皆、田畑や養蚕の労役に就かせ、厳しく規則と罰を設けた。自ら喪事を助け、貧窮や寡婦を救済した。一年で大いに教化されたと称された。仇覧が亭に着任した当初、陳元という者がおり、母と二人で暮らしていたが、母が仇覧のもとを訪れ、陳元が不孝であると訴えた。仇覧は驚いて言った。「私は近頃そちらの家を通りかかりましたが、家屋は整頓され、耕作は時節にかなっていました。これは悪人ではなく、教化がまだ恥を知るまでに至っていないのでしょう。母上は寡婦として孤児を養い、苦労して老いを迎えようとしているのに、どうして一朝の怒りに任せて、子を不義の者にしようとなさるのですか。」母は聞いて感動し後悔し、涙を流して去った。仇覧は自ら陳元の家に行き、母子と共に酒を飲み、機会を見て人倫や孝行について節を説き、禍福の道理を譬え話した。陳元はついに孝子となった。郷里では彼らのために諺ができた。「父母はどこにいるか我が庭にあり、我が鳲梟を化して子を哺う。」

当時、考城県令の河内の人王渙は、政治を厳しく猛々しくすることを尊んでいたが、仇覧が徳をもって人を教化していると聞き、主簿に任命した。仇覧に言った。「主簿は陳元の過ちを聞きながら、罪に問わずに教化したそうだが、少しは鷹や鸇のような志がないのか?」仇覧は言った。「鷹や鸇になるよりは、鸞や鳳凰になりたいものです。」王渙は謝罪して送り出し、言った。「枳や棘は鸞鳳の棲むところではなく、百里の地(県令の職)は大賢の道であろうか。今日、太学で長裾を引きずり、名声を飛ばしている者たちは、皆、主簿の後塵を拝する者です。一か月分の俸禄を資金として、どうか立派な行いを最後まで努められよ。」

仇覧は太学に入った。当時、諸生で同郡の符融は高い名声があり、仇覧と隣り合わせの部屋に住み、賓客が部屋に満ちていた。仇覧は常に自らを守り、符融と話さなかった。符融はその容貌や立ち居振る舞いを見て、ひそかに奇異に思い、そこで言った。「先生とは同郡の出身で、部屋の窓も隣同士です。今、京師には英雄が四方から集まり、志士が交際を結ぶ時節です。常道に務めるとしても、それを守る理由は何ですか?」仇覧は厳しい表情で言った。「天子が太学を設け修めたのは、ただ人々にその中で遊談させるためでしょうか!」高く揖して去り、二度と話さなかった。後に符融がこのことを郭林宗に告げると、郭林宗は符融と共に名刺を持って部屋を訪れ謁見し、そこで宿泊を請うた。郭林宗は感嘆し、床から降りて拝礼した。

李覧は学問を修めて故郷に帰ると、州や郡から招聘があったが、すべて病気を理由に辞退した。平穏に暮らしている時でも、必ず礼儀によって自らを整えた。妻や子に過ちがあると、すぐに冠を脱いで自らを責めた。妻や子が庭で謝罪し、李覧が冠を着けるのを待って、初めて堂に上がることができた。家族は彼の喜怒の声や表情の変化を見たことがなかった。後に方正に推挙されたが、病気にかかり亡くなった。

三人の息子はいずれも文才と史才があり、末子の李玄が最も有名であった。

童恢

童恢は字を漢宗といい、琅邪郡姑幕県の人である。父の仲玉は、凶作と飢饉の世に遭い、家財を傾けて救済し、九族や郷里で助けられて生き延びた者は数百人に及んだ。仲玉は早くに亡くなった。

童恢は若くして州郡に出仕して吏となり、司徒の楊賜が彼が法を執行して清廉公平であると聞き、彼を召し出した。楊賜が弾劾されて免官されそうになった時、掾属たちはこぞって名刺を置いて去ったが、童恢だけが宮廷に赴いて弁護した。楊賜が無事となると、掾属たちは皆、役所に戻ったが、童恢は杖を執って去って行った。このことから、世論は彼を称賛した。

再び公府に召し出され、不其県令に任命された。官吏や民が禁令や法律に違反すると、その場に応じて道理を諭した。もし官吏がその職務にふさわしく、人々が善行を行った場合は、皆に酒や肴を賜る礼遇をもって、勧め励ました。耕作や機織り、種まきや収穫にも、すべて規則があった。管内は清らかで静かであり、牢獄には連年囚人がいなかった。隣県の流浪の民が帰順し、移り住んだ者は二万余戸に及んだ。民が虎に害されることがあったので、檻を設けて捕らえ、生け捕りに二頭の虎を得た。童恢が聞き出て、虎に呪文を唱えた。「天は万物を生み、ただ人を最も貴いとする。虎狼は六畜を食らうべきであり、人に対して残暴であってはならない。王法によれば、人を殺せば死罪、人を傷つければ法によって裁かれる。もしお前たちが人を殺した者ならば、うなだれて罪に服すべきである。自分がそうでないと知っているならば、声をあげて冤罪を叫ぶべきである。」一頭の虎はうなだれて目を閉じ、震え恐れる様子であったので、すぐに殺した。もう一頭は童恢を見て吼え、躍り上がって自ら奮い立ったので、ついに放免するよう命じた。官吏や民は彼のために歌を詠んで称えた。青州で特に優れた者として推挙され、丹陽太守に昇進したが、急病で亡くなった。

弟の童翊は字を漢文といい、名声は童恢よりも高く、宰相の府が先に彼を召し出した。童翊は仮に口が利けないふりをして仕官を肯んぜず、童恢が任命を受けてから、ようやく孝廉に挙げられ、須昌県長に任命された。教化に優れた政績があり、官吏や民は彼の生前に碑を建てた。推挙した長官が亡くなったと聞くと、官を棄てて帰郷した。後に茂才に推挙されたが、就任しなかった。家で亡くなった。

評語

賛にいう。「政治は厳しすぎることを恐れ、道理は小魚を煮るように扱うのがよい。忠誠を推し広めて人々に及ぼせば、多くの弊害は自ずと除かれる。一人の長が民情を得れば、千の家は弦を鳴らして安楽となる。我が風教と慈愛を懐かしみ、永遠に遺された賢人を記録する。」