初めに、光武帝は民間で育ち、事情や虚偽に通暁し、農作業の困難や民衆の苦しみを見てきた。天下が平定された後は、静謐を旨とし、王莽の煩瑣で厳密な法を解き、漢代の寛大な法に戻した。自身は粗末な絹の衣をまとい、色とりどりの豪華な服は着ず、鄭や衛の淫らな音楽を耳にせず、手に珠玉の玩物を持たず、後宮に私的な寵愛はなく、側近に偏った恩恵を与えなかった。建武十三年(37年)、異国が名馬を献上し、一日に千里を走り、また宝剣を進上したが、その価値は百金に相当した。詔して馬を鼓車に繋ぎ、剣を騎士に賜った。上林苑の池や禁苑の官吏を削減し、遠くを見渡したり狩猟を行うことを廃止した。自らの手跡で方国に下賜するものは、皆、一枚の木簡に十行、細字で書き上げた。勤倹の風は、上から下まで行き渡った。しばしば公卿や郎将を引き連れ、禁中の座に列した。広く民の苦しみを求め、風謡(民謡)を観察して取り入れた。故に内外共に怠ることなく、民衆は安らぎ息をついた。自ら郡県を治める者は、競ってその職務に優れた能力を発揮した。杜詩が南陽を守り、「杜母」と称され、任延や錫光が辺境の習俗を変えたのは、その功績が最も顕著な者である。また第五倫や宋均の徒も、称賛に値する点が十分にある。
しかし建武・永平の間(光武帝・明帝の時代)は、官吏の事務は厳しく深刻で、しばしば風聞や一方的な言葉によって、太守や県令が交代させられた。故に朱浮はたびたび諫言の上書をし、厳しい政治を戒め、鍾離意らも熱心に規諫し、長者の言葉として述べたが、聞き入れられなかった。中興の美事が、未だ十分ではなかった所以である。章帝・和帝以後、善政の績を上げる者は、絶えることなく続いた。魯恭、呉祐、劉寬及び潁川の四長(荀淑、韓韶、陳寔、鍾皓)らは、仁愛・信義・篤実・誠実をもって、人を欺かせず、王堂や陳寵は賢良を任用し、職務はおのずから治まった。これらは皆、人々を感化して教化を行ったと言える。辺鳳、延篤は相次いで京兆尹となり、当時の人は彼らを前世の趙広漢や張敞の同類とみなした。また王渙や任峻が洛陽令となった時は、隠れた悪事を明らかにし、官吏の不正を禁止したが、徳による教化や礼による導きには、まだ十分でない点もあり、それでも一時の優れた有能な官吏であった。今、特筆すべき事績を集め、『循吏篇』とする。
衛颯
衛颯は、字を子産といい、河内郡修武県の人である。家は貧しかったが学問を好み、師に従うのに食糧がなく、常に雇われて自ら生計を立てた。王莽の時代、郡で仕え、州の長官を歴任した。
建武二年(26年)、大司徒鄧禹の府に辟召された。才能を挙げられ難事を処理する役目につき、侍御史に任じられ、襄城県令となった。政治に名声と実績があり、桂陽太守に昇進した。桂陽郡は交州と境を接し、その習俗にかなり染まり、礼儀や規範を知らなかった。衛颯が着任すると、学校の教育を整え、婚姻の礼を設けた。一年の間に、郡内の習俗は教化に従った。
これより先、含洭・湞陽・曲江の三県は、南越の旧地で、武帝が平定し、桂陽郡に属させた。住民は深山に住み、渓谷のほとりに暮らし、その風土に慣れ、田租を納めなかった。郡から遠い所は、あるいは千里も離れていた。官吏の用事で往来する度に、民衆に船を出させ、これを「伝役」と称した。一人の官吏が出るごとに、数家に徭役が及び、民衆はこれを苦しんだ。衛颯はそこで山を穿ち五百余里の道を通し、亭や伝舍を並べ立て、郵便駅を設置した。これにより役務は省かれ労苦は止み、悪辣な官吏の行為は絶えた。流民は次第に帰還し、徐々に集落を形成し、租税を納めさせ、一般の民と同じ扱いとした。また耒陽県は鉄鉱石を産出し、他郡の民衆がしばしば集まって会合し、私的に製錬・鋳造を行い、それによって逃亡者を招き寄せ、多くの悪事や盗賊を生み出していた。衛颯は上奏して鉄官を設置し、私的な鋳造を廃止させ、年間の増収は五百余万となった。衛颯は民事をよく思いやり、官に在ることを家にいるようにし、その施政は全て状況に適っていた。十年間職務に当たり、郡内は清く治まった。
建武二十五年(49年)、召還された。光武帝は少府に任じようとしたが、衛颯が病気にかかり、拝礼起立ができなかったため、詔勅により桂陽太守のまま帰郷させ、後の詔書を待つこととした。二年後、病を押して宮廷に赴き、自ら重篤な状態を訴えた。そこで印綬を回収され、十万銭を賜り、後に家で死去した。
南陽郡の茨充が衛颯に代わって桂陽太守となった。彼もまた善政を行い、民に桑・柘・麻・紵などの栽培を教え、養蚕や履物の製作を勧め、民は利益を得た。
任延
任延は、字を長孫といい、南陽郡宛県の人である。十二歳で諸生となり、長安で学び、『詩経』・『易経』・『春秋』に通暁し、太学で名声を顕わし、学内で「任聖童」と号された。突然の変事に遭い、兵乱を避けて隴西に逃れた。当時、隗囂が既に四郡を占拠し、使者を遣わして任延を招請したが、任延は応じなかった。
更始元年(23年)、任延は大司馬の属官に任じられ、会稽都尉に拝された。当時十九歳で、迎えの役人はその若さに驚いた。到着すると、静かに無為を旨とし、ただ先に贈り物を送って延陵の季子(季札)の祠を祀った。当時、天下は新たに平定されたばかりで、道路は通じておらず、江南に避乱した者は皆まだ中原に帰還しておらず、会稽は多くの士人がいると評判だった。任延が着任すると、董子儀や厳子陵のような高潔な行いの者を皆招聘し、師友の礼をもって敬い待遇した。属官で貧しい者には、常に俸禄を分けて救済した。兵卒を減らし、公田を耕させて、困窮する者を救済した。折に触れて県を巡行する際には、必ず孝子を慰労し、食事を共にした。
呉に龍丘萇という者がおり、太末に隠居し、志を曲げて辱めを受けることをしなかった。王莽の時代、四輔や三公が相次いで辟召したが、応じなかった。属吏が召し出すよう申し出た。任延は言った。「龍丘先生は自ら徳を修め義を行い、原憲や伯夷の節操がある。都尉がその門を掃除しても、なお辱めることを恐れるのに、召し出すことなどできない。」功曹に謁見の礼を持たせて遣わし、書簡を整え、医薬を届けさせ、役人が道で行き交うほどにした。一年が経つと、龍丘萇は輿に乗って府の門前に至り、先に死んで名簿に備えられることを願った。任延は再三辞退したが、遂に議曹祭酒に任命した。龍丘萇はまもなく病死し、任延は自ら葬儀に臨み、三日間朝に出なかった。このため郡内の賢士や大夫は争って任延の下で官に就こうとした。
建武初年、任延は上書して骸骨を乞い、朝廷に帰参することを願った。詔により九真太守に徴された。光武帝は引見し、馬や雑多な絹を賜り、妻子を洛陽に留め置くよう命じた。九真の習俗は狩猟を業とし、牛耕を知らず、民は常に交阯から穀物を買い求め、しばしば困窮に陥った。任延はそこで農具を作らせ、開墾を教えた。田畑は年々広がり、民衆は豊かになった。また駱越の民には嫁娶の礼法がなく、それぞれ情欲のままに交わり、正式な配偶者がなく、父子の情や夫婦の道を知らなかった。任延はそこで属県に文書を送り、それぞれ男は二十歳から五十歳、女は十五歳から四十歳まで、皆年齢に応じて配偶させるよう命じた。貧しく礼式や結納の品がない者は、長吏以下がそれぞれ俸禄を節約して救済援助させた。同時期に婚姻した者は二千余人に及んだ。この年は風雨が順調で、穀物は豊かに実った。子供を産んだ者は、初めて自分の家系を知った。皆が言った。「私にこの子を持たせてくれたのは、任君である。」多くが子の名に「任」と付けた。これにより、境外の蛮夷である夜郎などがその義を慕って塞を守り、任延は偵察や守備の兵卒を廃止させた。
初めに、平帝の時、漢中の錫光が交阯太守となり、民や夷を教導し、次第に礼義を以て教化し、その名声は任延と同等であった。王莽の末期、境界を閉ざして守りを固めた。建武の初め、使者を遣わして貢献し、塩水侯に封ぜられた。嶺南に中華の風が始まったのは、この二人の太守からである。
任延は職務を四年間務め、洛陽に召還されたが、病気で滞在し、左遷されて睢陽令となった。九真の官吏や民衆は生きながらにして祠を建てた。武威太守に任命されると、帝は自ら会って戒めて言った。「上官に良く仕え、名声を失うな。」任延は答えて言った。「臣は聞きます。忠臣は私せず、私する臣は忠ならずと。正しきを履み公に奉ずるは、臣子の節であります。上下が雷同するのは、陛下の福ではありません。『上官に良く仕えよ』との詔は、臣は奉じることができません。」帝は嘆息して言った。「卿の言う通りである。」
武威に着任すると、当時、将兵長史の田紺は郡の大姓で、その子弟や賓客が人に暴害を加えていた。任延は田紺を捕らえて拘束し、父子や賓客で処刑された者は五、六人に及んだ。田紺の末子の田尚は軽薄な者数百人を集め、自ら将軍と号し、夜に郡を攻撃してきた。任延は直ちに兵を出してこれを撃破した。これより以後、威令は境内に行き渡り、官吏や民衆は息をひそめた。
郡の北は匈奴に面し、南は種羌と接し、民は賊寇の掠奪を恐れ、多く田業を廃していた。任延が到着すると、武略に優れた士を選び集めて千人とし、賞罰を明らかにし、彼らに雑種の胡騎や休屠、黄石を率いさせて要害に駐屯させ、警急があるごとに逆襲して追討させた。虜は常に多く傷つき、遂に出て来ることを敢えてしなくなった。
河西は元来、降雨が少なかったので、水官吏を設置し、溝渠を修理させ、皆その利益を被った。また校官を設立し、掾史の子孫から、皆学びに行って学業を受けさせ、その徭役を免除した。章句を通じた者は、悉く顕抜して栄進させた。郡には遂に儒雅の士が現れた。
後に、羌を誅するに先んじて上奏しなかった罪に坐し、左遷されて召陵令となった。顕宗が即位すると、潁川太守に任命された。永平二年(59年)、辟雍に召し出され、それによって河内太守に任ぜられた。職務を九年務め、病没した。
末子の任愷は、官は太常に至った。
王景
王景は、字を仲通といい、楽浪郡講邯県の人である。八世の祖の王仲は、元は琅邪郡不其県の人であった。道術を好み、天文に明るかった。諸呂が乱を起こすと、劉哀王の劉襄は兵を起こそうと謀り、しばしば王仲に相談した。また済北王の劉興居が反乱を起こした時、兵権を王仲に委ねようとしたが、王仲は禍が及ぶことを恐れ、海を渡って東に奔り、楽浪の山中に至り、そこで家を構えた。父の王閎は、郡の三老であった。更始帝が敗れると、土地の者である王調が郡守の劉憲を殺し、自ら大将軍・楽浪太守と称した。建武六年(30年)、光武帝は太守の王遵に兵を率いてこれを討たせた。遼東に至ると、王閎は郡の決曹史の楊邑らと共に王調を殺して王遵を迎え、皆列侯に封ぜられたが、王閎だけは爵位を辞退した。帝はこれを奇異に思い召し出そうとしたが、道中で病没した。
王景は若くして『易』を学び、遂に広く多くの書物を窺い、また天文術数のことを好み、沈深で多くの技芸を持っていた。司空の伏恭の府に辟召された。時に王景に治水の能力があると推薦する者がおり、顕宗は詔を下して将作謁者の王呉と共に浚儀渠の修築を行わせた。王呉は王景の堰止めて流れを制する方法を用い、水はもはや害をなさなくなった。
初めに、平帝の時、黄河と汴渠が決壊したが、修復する暇がなかった。建武十年(34年)、陽武県令の張汜が上言した。「黄河の決壊は長く続き、日月が経つにつれて侵食破壊され、済渠によって数十ほどの県が流された。修理の費用は、その功績は難しくありません。堤防を改修して、百姓を安んずべきです。」上書が奏上されると、光武帝は直ちに兵卒を動員した。ちょうど黄河の工事を計画している時、逡儀県令の楽俊がまた上言した。「昔、元光の年間(前134-前129年)は、人口が多く繁栄し、堤防に沿って開墾耕作していたが、瓠子で黄河が決壊した時でさえ、なお二十余年も経てから塞がれたのでした。今は家屋が少なく、田地は広く豊かであり、修理しなくても、その災害はまだ我慢できます。しかも新たに戦乱を受け、今まさに労役の力を興そうとしているのです。労苦と怨みが既に多いのに、民は命に堪えられません。平静になるのを待ち、改めてその事を議論すべきです。」光武帝はこれを受けて遂に中止した。
後に汴渠が東に侵食し、日月が経つにつれてますます広がり、水門の旧位置は皆河中に没し、兗州・豫州の百姓は怨み嘆き、朝廷が常に他の労役を興し、民の急務を優先しないと思った。永平十二年、汴渠の修復が議され、王景を引見して、治水の地理的利便について問うた。王景はその利害を述べ、応対は敏捷で、帝はこれを良しとした。またかつて浚儀渠を修築し、功業を成し遂げたこともあり、王景に『山海経』、『河渠書』、『禹貢図』及び銭帛や衣物を賜った。夏、遂に数十万の兵卒を動員し、王景と王呉に渠を修築させ堤防を築かせ、滎陽から東は千乗の海口まで千余里に及んだ。王景は地勢を測量し、山や丘を穿ち、砥績(難所)を破り、溝や澗を直截し、衝要を防ぎ止め、塞がった堆積を疏通し決壊させ、十里ごとに一つの水門を設け、互いに回り注ぐようにさせ、再び決壊や漏水の憂いがなくなった。王景は労役費用を簡素化し節約したが、それでもなお百億を数えた。翌年の夏、渠は完成した。帝は自ら巡行し、詔を下して河に臨む郡国に河堤の員吏を置かせ、西京の旧制のようにした。王景はこれによって有名になった。王呉及び諸々の従事掾史は皆秩一等を増された。王景は三度昇進して侍御史となった。十五年、帝の車駕に従って巡狩し、無塩に至ると、帝はその功績を称え、河堤謁者に任命し、車馬や縑(絹)・銭を賜った。
建初七年(82年)、徐州刺史に転任した。これより先、杜陵の杜篤が『論都賦』を奏上し、車駕を長安に遷還させようとした。古老でこれを聞いた者は、皆故郷を思う心を動かされ、懐かしそうに立ち尽くして西を望まない者はなかった。王景は宮廟が既に洛陽に建立されていることから、人情が疑惑を抱くことを恐れ、時に神雀などの様々な瑞祥があったので、『金人論』を作り、洛邑の美しさと天人の符応を称え、その文には採るべきところがあった。
翌年、廬江太守に転任した。これより先、百姓は牛耕を知らず、地力が余っているのに食糧が常に不足していた。郡内には楚の相であった孫叔敖が築いた芍陂の稻田があった。王景は官吏や民衆を率いて、荒廃したものを修復し起こさせ、犁を用いた耕作を教え、これによって開墾された土地は倍増し、境内は豊かで供給に事欠かなくなった。遂に石碑に銘を刻んで誓いを立て、民に恒常的な禁令を知らしめた。また養蚕や機織りを訓令し、法制を作り、皆郷亭に掲示し、廬江ではその文辞が伝えられた。官の任上で没した。
初めに、王景は『六経』に載っていることには、皆卜筮があり、事を行い挙措を取るには、蓍亀によって質すが、多くの書物は錯綜し、吉凶が相反していると考え、多くの家の数術文書、塚宅の禁忌、堪輿や日相の類について、事に適したものを参考にし、集めて『大衍玄基』としたという。
秦袁
秦袁は字を伯平といい、扶風郡茂陵県の人である。漢が興って以来、代々官位を継承した。六世の祖の秦襲は潁川太守となり、一族の者たちと同時に二千石の官に就いた者が五人いたので、三輔地方では「万石秦氏」と称された。秦彭の同腹の妹は、顕宗(明帝)の時に後宮に入って貴人となり、寵愛を受けた。永平七年(64年)、秦彭は貴人の兄として、四姓小侯に随って抜擢され開陽城門候となった。十五年(72年)、騎都尉に任命され、駙馬都尉耿秉の副将として匈奴征伐に北征した。
建初元年(76年)、山陽太守に転任した。礼をもって人を教化し、刑罰に頼らなかった。儒学を尊び、学校を盛んにした。毎年春秋の饗射の礼では、昇降や揖譲の儀礼を整えた。そして人々のために四つの戒めを設け、六親の長幼の礼を定めた。教化を遵守する者は郷の三老に抜擢し、常に八月に酒肉を贈って激励した。官吏に過失があっても、罷免・解任するだけで、恥辱を加えなかった。民衆は慈愛を慕い、欺いたり犯す者はなかった。数千頃の水田を開墾し、農繁期には自ら田畑を測量し、肥沃さによって三品に分け、それぞれ文書を作成して郷や県に保管した。これにより悪辣な官吏は身を縮めて、詐欺を行う余地がなくなった。秦彭は上奏して、天下にこの制度と同じものを実施すべきだと述べた。詔書により彼の定めた条式が三府に下され、さらに州郡にも伝えられた。
在職六年の後、潁川太守に転任したが、やはり鳳凰、麒麟、嘉禾、甘露などの瑞祥がその郡内に現れた。粛宗(章帝)が巡幸し、再び潁川に行幸した時には、常に銭や穀物を賞賜し、恩寵は格別であった。章和二年(88年)に死去した。秦彭の弟の秦惇と秦褒は、ともに射声校尉となった。
王渙
王渙は字を稚子といい、広漢郡郪県の人である。父の王順は安定太守であった。王渙は若い頃から任侠を好み、気力を尊び、しばしば軽薄な若者たちと交際した。後に行いを改め、儒学を篤く学び、『尚書』を習い、律令を読み、大義を大まかに理解した。太守陳寵の功曹となり、職務を処理するにあたり、豪族を避けなかった。陳寵の名声が大いに広まり、中央に入って大司農となった。和帝が「郡ではどのように治めていたのか」と尋ねると、陳寵は頓首して謝し、「臣は功曹の王渙に賢才を簡抜選任させ、主簿の鐔顕に遺漏を補わせ、臣は詔書を奉宣しただけです」と答えた。帝は大いに喜び、王渙はこれにより名声を高めた。
州から茂才に推挙され、温県令に任命された。県内には多くの奸猾な者がおり、長年の患いとなっていた。王渙は方略を用いて討伐し、ことごとく誅殺した。管内は清らかで平穏となり、商人は道端で野宿するようになった。牛を放牧する者も、「稚子に任せた」と言って、ついに侵害されることはなかった。温県で三年を過ごし、兗州刺史に転任し、管轄する郡を正し、威風は大いに広まった。後に妖言の取り調べが事実と合わないとして罪に問われた。一年余り後、侍御史に任命された。
永元十五年(103年)、帝の南巡に従駕し、帰還後洛陽令となった。公平正直に身を処し、寛容と厳格のバランスを適切に保った。冤罪や長年の訴訟で、歴代の政権が解決できず、法理でも解決が難しい案件についても、ことごとく真情と詐偽を究明し、多くの疑念を鎮めた。また、奇策を用いて隠れた悪事を摘発することもできた。都の人々は称賛し、王渙には神算があると思った。元興元年(105年)、病気で死去した。市井の民衆は誰もが嘆き悲しんだ。男女老若が共に寄付を集め、数千もの奠醊(供物)を捧げた。
王渙の遺体が西へ帰る途中、弘農を通ると、民衆は皆、道端に槃桉(供物台)を設けた。役人がその理由を尋ねると、皆が「以前は米を洛陽に持っていくと、兵卒の役人に没収され、常に半分を失っていた。王君が在職してからは、侵害されることがなくなったので、恩に報いるためです」と言った。彼の政治と教化が人々の心を捉えたのはこのようなものであった。民はその徳を慕い、安陽亭の西に祠を建て、食事のたびに弦歌を奏でて供えた。
永初二年(108年)、鄧太后は詔を下して言った。「忠良な官吏は、国家が治まるためのものである。それを求めるのは非常に熱心だが、得るのは極めて少ない。故に孔子は『才は得難い、そうではないか』と言われた。大司農の朱邑、右扶風の尹翁帰は、政績が優れ、名声が広く知られ、孝宣皇帝は賞賛し惜しみ、黄金百斤をその子に賜った。故洛陽令の王渙は、清廉な節操を持ち、羔羊の義(清廉潔白)を実践し、心を尽くして公務に奉じ、民を利することを務め、功業を成し遂げずに不幸にも早世した。民衆は追慕し、祠を建てた。忠愛の極みでなければ、誰がこのようにできるだろうか。今、王渙の子の王石を郎中とし、勤労を勧める。」延熹年間(158年-167年)、桓帝が黄老の道を奉じ、諸々の祠をことごとく破壊したが、特に詔を下して密県には故太傅卓茂の廟を残し、洛陽には王渙の祠を残させた。
鐔顕も後に有名となり、安帝の時に豫州刺史となった。当時、天下は飢饉で、競って盗賊となり、州内で捕らえられた者は一万人余りに上った。鐔顕は彼らの困窮を哀れみ、自ら刑罰に陥ったことを思い、独断で赦免し、自ら弾劾して上奏した。詔書により処罰は問われなかった。後に長楽衛尉の位に至った。
王渙の死後、連続して三公に特命で洛陽令を選ばせたが、皆適任ではなかった。永和年間(136年-141年)、劇県令の勃海郡の任峻を補任した。任峻は文武の官吏を抜擢し、皆その能力を発揮させ、奸盗を取り締まり、即座に処断し、一年の裁判件数は数十件に過ぎず、威風は王渙よりも厳しかったが、文治の面では及ばなかった。任峻は字を叔高といい、太山太守で終わった。
許荊
許荊は字を少張といい、会稽郡陽羨県の人である。祖父の許武は、太守の第五倫に孝廉に推挙された。許武は二人の弟の許晏と許普がまだ顕れていないのを見て、彼らに名声を得させようと思い、彼らに請うて言った。「礼には分かれて異なるべき義があり、家には別居する道がある。」そこで共に財産を三分割し、許武は自ら肥沃な田畑、広い屋敷、強い奴婢を取った。二人の弟が得たものは全て劣って少なかった。郷の人々は皆、弟たちが譲ることを称え、許武の貪欲さを軽蔑した。許晏らはこれにより共に選挙に推挙され、許武は宗族を集めて泣きながら言った。「私は兄として不肖で、名声と地位を盗み、二人の弟は年長でありながら栄禄に預からなかった。だから財産を分けることを求め、自ら大きな非難を招いた。今、財産を整理して増えた分は、以前の三倍であり、全て二人の弟に譲り、少しも残さない。」これにより郡中は一致して称賛し、遠近にその名が知られた。位は長楽少府に至った。
許荊は若くして郡吏となり、兄の子の許世が仇討ちで人を殺し、恨みを持つ者が武器を持って攻めてきた。許荊はこれを聞き、門を出て恨みを持つ者を迎え、跪いて言った。「許世が以前無礼なことを犯したのは、全て私が訓導できなかった咎です。兄は既に早く亡くなり、一子が後を継いでいます。もし死者がその血筋が絶えるのを悲しむならば、私の身を殺して代わりとさせてください。」怨家は許荊を扶け起こし、「許掾は郡中で賢人と称されている。どうして侵そうか」と言い、それで去っていった。許荊の名声はますます高まった。太守の黄兢が孝廉に推挙した。
和帝の時、次第に昇進して桂陽太守となった。桂陽郡は南方の州に接し、風俗は軽薄で、学問や道義を理解していなかった。衛荊は喪礼や婚姻の制度を定め、礼儀や禁制を知らしめた。ある時、春の巡行で耒陽県に至ると、蔣均という者がおり、兄弟が財産を争い、互いに訴え合っていた。衛荊は彼らを見て嘆き、「私は国の重任を担っているのに、教化が行き届かない。その過ちは太守にある」と言った。そして振り返って役人に命じ、上書して状況を述べ、廷尉への出頭を願い出た。蔣均兄弟は感動して悔い改め、それぞれ罪を受けようとした。在任十二年、父老たちは彼を称え歌った。病気を理由に自ら退任を願い出て、諫議大夫に任命され、官のまま死去した。桂陽の人々は彼のために廟を建て碑を立てた。
衛荊の孫の衛𢒰は、霊帝の時に太尉となった。
孟嘗
孟嘗は、字を伯周といい、会稽郡上虞県の人である。先祖三代は郡の役人であり、いずれも節を守って死難に殉じた。孟嘗は若い頃から操行を修め、郡に出仕して戸曹史となった。上虞に夫を亡くした寡婦がおり、姑を非常に孝養をもって世話していた。姑が年老いて寿命で亡くなると、夫の妹が以前から嫌悪の念を抱いており、寡婦が供養を厭い苦にし、さらに母に毒を盛ったと誣告し、県の役所に訴え出た。郡は詳しく調査せず、ついにその罪を結審した。孟嘗は事前に冤罪であることを知り、詳しく太守に説明したが、太守は取り合わなかった。孟嘗は外門で悲しみ泣き、病気を理由に辞任して去った。寡婦はついに冤罪のまま死んだ。これ以来、郡内は二年連続で旱魃が続き、祈願しても何の効果もなかった。後任の太守殷丹が着任し、その原因を尋ねたところ、孟嘗は役所に赴き、寡婦の冤罪誣告のことを詳しく述べた。そして言った。「昔、東海の孝婦(の冤罪)が天に感じて旱魃を招き、于公の一言で慈雨が降り注いだ。訴えた者を誅戮し、冤魂に謝罪すべきです。そうすれば幽界の冤罪が晴らされ、慈雨が期待できるでしょう。」殷丹はこれに従い、すぐに訴えた女を刑に処し、寡婦の墓を祭った。天はこれに応えて慈雨を降らせ、穀物は豊作となった。
孟嘗は後に孝廉に推挙され、茂才に挙げられ、徐県令に任命された。州郡はその才能を上表し、合浦太守に転任した。合浦郡は穀物を産出しないが、海で珠寶が採れ、交阯と隣接しており、常に商人が行き来し、穀物を買い入れて食糧としていた。以前の太守たちは多くが貪欲で汚職しており、人々に採らせては際限なく求め、珠はついに次第に交阯郡の境界へと移ってしまった。そこで旅人が来なくなり、人々は財産を失い、貧しい者は道端で餓死した。孟嘗が着任すると、以前の弊害を改め、民の苦しみと利益を求めた。一年も経たないうちに、去っていた珠が再び戻り、百姓は皆、元の生業に戻り、商品の流通も盛んになり、彼は神明のようだと称えられた。
病気を理由に自ら退任を願い出て、召還されることになったが、役人や民衆は車にすがりついて引き留めた。孟嘗は進むことができず、郷里の民の船に乗って夜中に密かに去った。辺鄙な沼沢地に身を隠し、自ら耕作や雇い労働に従事した。隣県の士人や民衆はその徳を慕い、彼の近くに住み着いた者は百余家に及んだ。
桓帝の時、尚書で同郡の楊喬が上書して孟嘗を推薦した。
臣は前後七度にわたり、元合浦太守孟嘗のことを上奏しましたが、身分が軽く言葉も微力なため、ついにご理解いただけませんでした。誠意を尽くして心を砕いただけの徒労に終わりました。孟嘗は仁を安んじ義を広め、道徳を楽しみ、清らかな行いは俗を超え、才能と幹略は群を抜いています。以前、太守として赴任し、風俗を移し政治を改め、去った珠が再び戻り、飢えた民衆が救われました。しかも南海には珍宝が多く、財産は容易に蓄積できます。手の中にあれば、その価値は倍の金に匹敵するでしょう。しかし孟嘗は独り身で病気を理由に辞し、自ら田畑で耕作し、その光と才を隠し、華やかな飾り気を見せません。これはまさに鳥の翼や羽根のような有用な部分であり、単なる腹や背中の毛のようなものではありません。それなのに草むらに埋もれ、良い官爵にも恵まれず、朝廷の宝が溝渠に捨てられているのです。しかも年齢には限りがあり、晚年も尽きようとしています。忠貞の節操が、永遠に聖代に報いることがないのは、誠に心を傷め、私情で涙が流れます。物は遠方から来るものが珍重され、士は稀に見られるものが貴ばれます。曲がった木や朽ちた珠も、天子に用いられるのは、側近がその価値を認めるからです。王者が士を取るには、衆人が貴ぶ者を抜擢すべきです。臣は斗や筲のような器量で、日月(天子)の側近くに仕えています。微かな節義を立てたいと思い、故郷の情実で私的に行動することを敢えてしません。ひそかに禽息(春秋時代の人物、身を捨てて賢者を推挙した)に感じ入り、身を顧みず賢者を推挙いたします。
孟嘗は結局用いられることはなかった。七十歳で、家で死去した。
第五訪
第五訪は、字を仲謀といい、京兆長陵の人で、司空第五倫の族孫である。幼くして孤児となり貧しく、常に雇われ耕作して兄と嫂を養った。暇がある時は学問をした。郡に出仕して功曹となり、孝廉に推挙され、新都令に補任された。政治は平穏で教化は行き渡り、三年の間に隣県から帰順する者が多く、戸口は十倍になった。
張掖太守に転任した。凶作の年で、粟一石が数千銭にもなり、第五訪は倉を開いて救済し、その困窮を救った。部下たちは譴責を恐れ、争って上奏しようとした。第五訪は言った。「もし上からの許可を待っていたら、民を見捨てることになる。太守たるもの、一身をもって百姓を救うことを喜ぶべきだ。」そして穀物を出して民に与えた。順帝は璽書を下してこれを賞賛した。これにより一郡が全うされた。一年余り後、官民ともに豊かになり、境界内に奸盗はいなくなった。
南陽太守に転任し、後に官を去った。護羌校尉に任命され、辺境の人々はその威信に服した。官のまま死去した。
劉矩
劉矩は字を叔方といい、沛国蕭県の人である。叔父の劉光は、順帝の時に司徒となった。劉矩は若い頃から高い節義を持ち、父の劉叔遼が官途に就けなかったため、州郡からの招聘を断った。太尉朱寵と太傅桓焉がその志と義を賞賛し、劉叔遼がこれによって諸公に招聘され、議郎に任命されたので、劉矩はようやく孝廉に推挙された。
次第に雍丘県令に昇進し、礼譲をもって民を教化した。孝義の心がない者も皆、感化されて自ら改めた。民に争訟があると、矩は常に彼らを前に引き出し、耳を引っぱって訓戒し、怒りや恨みは耐え忍べるが、役所に訴え出ることは避けるべきだと説き、帰ってよく考え直すよう促した。訴え出た者はこれに感じ入り、それぞれ引き下がって行った。道で落とし物を拾った者は、皆その持ち主を探し求めた。県令として四年間務め、母の喪のため官を去った。
後に太尉の胡広が矩を賢良方正に推挙し、四度の昇進を経て尚書令となった。矩は性格が誠実で率直であり、権勢にへつらって付き従うことができなかったため、これが原因で大将軍梁冀の意に沿わず、常山国の相として出向し、病気のため官を辞した。当時、梁冀の妻の兄の孫祉が沛国の相であったため、矩は彼に害されることを恐れ、郷里に戻ることができず、彭城の友人の家に身を寄せた。一年余りして、梁冀の気持ちが少し和らぎ、やっと止んだ。その後、従事中郎に補任され、再び尚書令となり、宗正、太常に昇進した。
延熹四年、黄瓊の後任として太尉となった。黄瓊は再び司空となり、矩は黄瓊および司徒の種暠と心を合わせて政務を補佐し、賢相と称された。当時、災異が相次いで発生したため、司隸校尉が三公を弾劾した。尚書の朱穆が上疏し、矩らが良き補佐役であると称え、殷の湯王や高宗が臣下を罪に問わなかった故事を引き合いに出して弁護した。帝は省みず、結局、蛮夷の反乱を理由に免職された。後に再び太中大夫に任命された。
霊帝の初め、周景の後任として太尉となった。矩が再び上公の地位に就くと、彼が招聘した者はいずれも名高い儒者や徳望の厚い旧臣であった。州郡と私的な交際を持たず、穏やかな言葉で静かに諫言し、多くは採用された。再び日食を理由に免職された。そこで骸骨を乞うて引退し、家で亡くなった。
劉寵
劉寵、字は祖榮、東萊郡牟平県の人で、斉の悼恵王の子孫である。(悼恵王の名は肥、高祖の子である。)悼恵王の子の孝王将閭、将閭の末子が牟平侯に封ぜられ、子孫はそこに住み着いた。父の㔻は博学で、通儒と称された。
寵は若くして父の学問を受け継ぎ、明経で孝廉に推挙され、東平陵県令に任命された。(東平陵は県名、済南郡に属する。)仁恵をもって官吏や民衆から愛された。母が病気になると、官を棄てて去った。百姓たちが送別のため道を塞ぎ、車が進めなくなったので、軽装で密かに帰郷した。
後に四度の昇進を経て豫章太守となり、さらに三度昇進して会稽太守に任命された。山の民は質朴で謹直であり、白髪頭になっても市井に入らない者さえいた。(願は謹み深い意。《風俗通》に「俗に市井というのは、市に行って物を売るには、まず井戸で洗ってから市に行くという意味だという。謹んで案ずるに《春秋井田記》によれば、人は三十歳になると百畝の田を与えられ、五人の口を養う。五人の口とは一戸を構成する父母妻子である。公田十畝、廬舎五畝で、合わせて一頃十五畝となる。八家で九頃二十畝となり、合わせて一井をなす。廬舎が内側にあるのは人を貴ぶため。公田がその次にあるのは公を重んじるため。私田が外側にあるのは私を軽んじるため。井田の意義は、第一に地気を漏らさないこと、第二に一家の浪費を防ぐこと、第三に風俗を同じくすること、第四に巧拙を合わせること、第五に財貨を通ずることである。井戸を中心に市が開かれ、取引が終われば引き上げるので、市井と称するのである」という。)彼らはかなり官吏に煩わされていた。寵は煩わしい法令を簡素化し、不法な取り締まりを禁じ、郡内は大いに教化された。将作大匠に召し出された時、山陰県の五、六人の老翁が、眉は混じり髪は白く、(尨は混じりの意。老人の眉は白黒混じっている。)若邪の山谷から出てきて、(若邪は現在の越州会稽県の東南にある。)それぞれ百銭を持参して寵を見送った。寵は労って言った。「ご老人方はどうしてご苦労なさるのですか?」老翁たちは答えた。「我々は山谷の鄙びた生まれで、郡の役所など見たこともありません。以前の太守の時は、役人が民間から徴発や要求をし、夜になっても絶えず、あるいは犬が一晩中吠え続け、民は安らぐことができませんでした。明府様が着任されて以来、犬は夜も吠えず、民は役人の姿を見ることがなくなりました。年老いて聖明な世に巡り合い、今、お去りになると聞き、わざわざお見送りに参りました。」寵は言った。「私の政治が皆さんのお言葉に及ぶものでしょうか。ご苦労なことです、ご老人方。」そして、人々のために大きな銭を一つ選んで受け取った。
宗正、大鴻臚に転任した。延熹四年、黄瓊の後任として司空となったが、陰霧が太陽を覆い隠した天候不順のため免職された。間もなく、将作大匠に任命され、宗正となることができた。建寧元年、王暢の後任として司空となり、頻繁に昇進して司徒、太尉となった。二年、日食により策書により免職され、郷里に帰った。
寵は前後して二郡の太守を歴任し、累進して卿相の位に登ったが、清廉で質素を旨とし、家に財貨の蓄えはなかった。かつて京師を出て、亭舎で休もうとしたところ、亭吏が止めて言った。「整頓し清掃して、劉公をお待ちしているので、ここで休むことはできません。」寵は何も言わずに去り、当時の人々は彼を長者と称えた。老病のため家で亡くなった。
弟の方は、山陽太守にまで至った。方には二人の子がいた。岱、字は公山。繇、字は正礼。兄弟はともに名声が高かった。(《呉志》によると、「平原の陶丘洪が繇を推薦し、茂才に推挙させようとした。刺史が言った。『去年は公山を推挙したのに、どうしてまた正礼を推挙するのか?』洪は言った。『もし明使君が前に公山を用い、後に正礼を抜擢されるならば、いわゆる長い道で二頭の龍を御し、千里の地で駿馬を駆けるようなもので、それもまたよろしいのでは?』」)
董卓が洛陽に入ると、岱は侍中から出向して兗州刺史となった。己を虚しくして人を愛し、士人たちに慕われた。初平三年、青州の黄巾賊が兗州に入り、任城国の相鄭遂を殺し、東平国に転進した。岱がこれを迎撃し、戦死した。
興平年間、繇は揚州牧、振威将軍となった。当時、袁術が淮南を占拠していたため、繇は曲阿に移り住んだ。中原が喪乱に陥ると、士人や友人たちの多くが南方に逃れてきた。繇は彼らを受け入れ養い、苦楽を共にし、非常に名声を得た。袁術が孫策を派遣して繇を撃破したため、豫章に逃れ、病没した。
仇覧
仇覧、字は季智、一名は香、陳留郡考城県の人である。若い頃は書生で淳朴寡黙であり、郷里では知る者もいなかった。四十歳の時、県に召し出されて吏に補され、蒲亭長に選ばれた。人々に生業を勧め、規律を定め、果物や野菜の制限から、鶏や豚の飼育数に至るまで定め、農事が終わると子弟たちを集めて住まわせ、学舎に戻って学ばせた。軽薄で遊び暮らす者は、皆、田畑や養蚕の仕事に就かせ、厳しく罰則を設けた。自ら喪事を助け、貧困者や寡婦を救済した。一年で大いに教化が進んだと称された。覧が初めて亭に着任した時、陳元という者がおり、母と二人で暮らしていたが、母が覧のもとを訪れ、元が不孝であると訴えた。覧は驚いて言った。「私は最近そちらの家を通りかかりましたが、家屋は整頓され、耕作も時を守って行われていました。これは悪人ではありません。おそらく教化が行き届かず、恥を知らなかったのでしょう。母上は寡婦として孤児を養い、苦労して老いを迎えようとしているのに、どうして一時の怒りに任せて、子を不義の者にしようとなさるのですか?」母はこれを聞いて感じ入り悔い、涙を流して去った。覧は自ら元の家を訪れ、母子と共に酒を酌み交わし、機会を得て人倫や孝行について説き、禍福の道理を譬え話した。元はついに孝子となった。郷里の人々はこれについて諺を作った。「父母はどこにいるか、我が庭にあり、我が梟を化して子を哺う。」
当時、考城県令の河内郡出身の王渙は、政治を厳格かつ峻烈に重んじていたが、仇覧が徳をもって人を教化していると聞き、彼を主簿に任命した。王渙は仇覧に言った。「主簿は陳元の過ちを聞きながら、罪に問わずに教化したという。少しは鷹や鷂のような志がないのか?」仇覧は答えた。「鷹や鷂になるよりは、鸞や鳳凰になるほうがよいと思います。」王渙は謝罪して彼を送り出し、言った。「枳や棘は鸞鳳の棲むところではない。百里の地(小さな県)が大賢の道であろうか。今、太学で長い裾を引きずり、名声を飛ばしている者たちは、皆、主簿の後塵を拝する者たちだ。一か月の俸禄を資金として、どうか立派な行いを最後まで貫いてほしい。」
仇覧は太学に入った。当時、同郡出身の諸生である符融は高い名声があり、仇覧と隣り合わせの部屋に住み、賓客が部屋に溢れていた。仇覧は常に自らを守り、符融と話すことはなかった。符融は彼の様子や立ち居振る舞いを見て、ひそかに彼を非凡な人物だと思い、言った。「私は先生と同郷で、部屋の窓も隣同士です。今、京師には英雄が四方から集まり、志士たちが交際を結ぶ時です。常道に努めることは大切ですが、それだけを守っていてどうなさいますか?」仇覧は厳しい表情で言った。「天子が太学を設け修めたのは、ただ人々にその中で遊び談笑させるためでしょうか!」高く揖(礼)をして去り、二度と話すことはなかった。後日、符融がこのことを郭林宗(郭泰)に告げると、郭林宗は符融と共に名刺を持って仇覧の部屋を訪ね、そのまま宿泊を願い出た。郭林宗は感嘆し、床から降りて拝礼した。
仇覧は学業を終えて故郷に帰ると、州や郡から招請があったが、すべて病気を理由に辞退した。平穏に暮らしている時でも、必ず礼をもって自らを整えた。妻子が過ちを犯すと、自ら冠を脱いで自責した。妻子が庭で謝罪し、仇覧が冠をかぶるのを待って、初めて堂に上がることができた。家族は彼の喜怒の声や表情の変化を見たことがなかった。後に方正に推薦されたが、病気にかかり亡くなった。
三人の息子はいずれも文と史の才能があり、末子の仇玄が最も有名であった。
童恢
童恢、字は漢宗、琅邪郡姑幕県の人である。父の童仲玉は、凶作と飢饉の世に遭い、家財を傾けて救済し、九族や郷里で頼って全うした者は数百人に及んだ。仲玉は早くに亡くなった。
童恢は若くして州郡に出仕して吏となり、司徒の楊賜は彼が法を執行し清廉で公平であると聞き、彼を召し出した。楊賜が弾劾され免官されそうになった時、掾属たちはこぞって名刺を置いて去ったが、童恢だけが宮廷に赴いて弁護した。楊賜が無事となると、掾属たちは皆、役所に戻ったが、童恢は杖を執って去っていった。このことから、世論は彼を称賛した。
再び公府に召し出され、不其県令に任命された。官吏や民が禁令や法律に違反すると、その状況に応じて道理を明らかにして諭した。もし官吏がその職務にふさわしく、民が善行を行った者には、すべて酒や肴の礼を与えて、勧め励ました。耕作、機織り、種まき、収穫にはすべて規則があった。全県が清く静かで、牢獄には連年囚人がいなかった。隣県の流浪の民が帰順し、移り住んだ者は二万余戸に及んだ。民が虎に害されることがあったので、檻を設けて捕らえ、生け捕りに二頭の虎を得た。童恢が聞き出てきて、虎に呪文のように言った。「天は万物を生んだが、人だけが最も貴い。虎狼は六畜を食うべきであり、人に対して残暴であってはならない。王法では人を殺せば死罪、傷つければ法によって裁かれる。お前たちがもし人を殺した者ならば、うなだれて罪に服すがよい。自分がそうでないと知っているならば、声をあげて冤罪を叫ぶがよい。」一頭の虎はうなだれて目を閉じ、震え恐れるような様子だったので、ただちに殺した。もう一頭は童恢を見つめて吼え、躍り上がって自ら奮い立ったので、放してやるよう命じた。官吏や民は彼のために歌を詠んで称えた。青州で特に優れた者として推挙され、丹陽太守に昇進したが、急病で亡くなった。
弟の童翊、字は漢文で、その名声は兄の童恢よりも高く、宰相の府が先に彼を召し出した。童翊は病気を装って(陽喑)仕官を肯んじず、兄の童恢が任命を受けた後になって、ようやく孝廉に挙げられ、須昌県長に任命された。教化に優れた政績があり、官吏や民は彼の生前に碑を建てた。推挙してくれた長官(挙将)の喪に服すと聞き、官を棄てて帰郷した。後に茂才に推挙されたが、就任しなかった。家で亡くなった。
評語
賛に言う。「政治は張り詰めた厳しさを恐れる。(《韓詩外伝》に言う。『水が濁れば魚は口を水面に出し、法令が厳しければ人は乱れる。国を治める者は琴を張るようなものだ。大弦が張り詰めれば小弦は切れる。だから手綱をきつく締める者は、千里を駆ける御者ではない。』)治めるには鮮魚を煮るようにするのがよい。(老子に『大国を治める者は小魚を煮るようである』と言う。)忠誠を推し及ぼせば、多くの弊害は自ら消える。(忠恕を人々に推し及ぼせば、多くの弊害は自ら取り除かれる。)一人の長が真情を得れば、千の家は弦を鳴らして安楽する。(一夫とは県令などの長を指す。千室とは庶民を指す。上に立つ者が下を教化する真情を得れば、その下の者は弦を鳴らして安楽するという意味。)我らの風教と慈愛を懐かしみ、永遠に遺された賢人を記録する。(沈約の《宋書》に范曄がその甥や姪に送った手紙を載せ、書を撰述した意図について論じている。『私は史書を読んで、常にその不可解さを感じていた。後漢書を編纂するに及んで、ようやく筋道が得られた。古今の著述や評論を詳しく見ると、ほとんど満足できるものは少ない。班固は最も高い名声があるが、感情任せで例がなく、甲乙をつけがたい。博識豊富な点は及ばないが、整理の点では恥じることはないと思う。私の雑伝の論にはすべて精緻な意図と深い主旨がある。循吏以下および六夷の諸序論に至っては、筆勢が縦横に放たれ、実に天下の奇作であり、その中で優れたものは、往々にして賈誼の「過秦論」に劣らない。かつて班固の作ったものと比べてみると、ただ恥じないだけでなく、むしろ勝っていると思う。また、事に因って論を発し、一代の得失を正そうとしたが、その意図は果たせなかった。賛はまさに私の文章の傑出した思考であり、ほとんど一字も無駄なものはない。この書が世に行けば、きっと理解してくれる者がいるだろう。紀伝の例はその大略を挙げたに過ぎない。細かい意図は非常に多い。古来、規模が大きく思考が精緻な点で、これに及ぶものはない。俗人が十分に理解できないことを恐れ、多くは古きを貴び今を賤しむので、思いのままに狂言を述べたまでである。』)