後漢書

巻七十五・劉焉袁術呂布列傳第六十五

巻七十五・劉焉袁術呂布列傳第六十五

劉焉

原文劉焉

劉焉は字あざなを君郎といい、江夏郡竟陵県の人で、魯恭王の末裔である。粛宗の時代に、竟陵に移住した。劉焉は若くして州郡の役人を務め、宗室の身分により郎中に任じられた。官を辞して陽城山に住み、学問に専念して教授した。賢良方正に推挙され、次第に南陽太守、宗正、太常に昇進した。

原文劉焉字君郎,江夏竟陵人也,魯恭王後也。肅宗時,徙竟陵。焉少任州郡,以宗室拜郎中。去官居陽城山,精學教授。舉賢良方正,稍遷南陽太守、宗正、太常。

当時、霊帝の政治と教化は衰え欠けており、四方で兵乱が起こっていた。劉焉は刺史の権威が軽く、乱を禁圧できず、しかも不適任な者が任用されることで、かえって暴乱を増長させると考えた。そこで、州の長官を牧伯に改めて設置し、地方を鎮め安定させ、重臣を厳選してその任に就かせるよう建議した。劉焉は密かに交阯への赴任を求めて、当時の難を避けようとした。この議論がすぐには実行されないうちに、益州刺史の郗儉が政治を煩わしく擾乱させているという風聞が遠くまで広まり、また并州刺史の張懿と涼州刺史の耿鄙がともに賊に殺害されたため、劉焉の建議が採用されることになった。劉焉は監軍使者として出向し、益州牧を兼任し、太僕の黄琬は豫州牧に、宗正の劉虞は幽州牧に任じられ、いずれも本来の官秩のまま職務に就いた。州の長官の重要性は、ここから始まったのである。

原文時,靈帝政化衰缺,四方兵寇,焉以為刺史威輕,既不能禁,且用非其人,輒增暴亂,乃建議改置牧伯,鎮安方夏,清選重臣,以居其任。焉乃陰求為交阯,以避時難。議未即行,會益州刺史郗儉在政煩擾,謠言遠聞,而并州刺史張懿、涼州刺史耿鄙並為寇賊所害,故焉議得用。出焉為監軍使者,領益州牧,太僕黃琬為豫州牧,宗正劉虞為幽州牧,皆以本秩居職。州任之重,自此而始。

この時、益州の賊の馬相もまた自ら「黄巾」と号し、疲弊した役人や民衆数千人を集めて、まず綿竹県令を殺し、雒県を攻撃して郗儉を殺害し、さらに蜀郡、犍為郡を攻撃し、十日余りの間に三郡を破壊した。馬相は自ら「天子」と称し、その勢力は十数万人に達し、兵を派遣して巴郡を破り、郡守の趙部を殺した。州の従事であった賈龍は、先に兵数百人を率いて犍為にいたが、そこで官吏や民衆を糾合して馬相を攻撃し、これを破った。賈龍は吏卒を派遣して劉焉を迎え入れた。劉焉が到着すると、賈龍を校尉とし、自らは綿竹に移り住んだ。離反者を慰撫して受け入れ、寛大で恩恵のある政治を行うことに努めたが、内心では別の計画を企てていた。

原文是時,益州賊馬相亦自號「黃巾」,合聚疲役之民數千人,先殺綿竹令,進攻雒縣,殺郗儉,又擊蜀郡、犍為,旬月之間,破壞三郡。馬相自稱「天子」,眾至十餘萬人,遣兵破巴郡,殺郡守趙部。州從事賈龍,先領兵數百人在犍為,遂糾合吏人攻相,破之,龍乃遣吏卒迎焉。焉到,以龍為校尉,徙居綿竹。撫納離叛,務行寬惠,而陰圖異計。

沛郡の人張魯は、母が美しい容姿を持ち、また鬼道の術を兼ね備えていた。彼女は劉焉の家に出入りし、劉焉は張魯を督義司馬に任じ、別部司馬の張脩とともに兵を率いて漢中太守の蘇固を襲撃して殺し、斜谷道を遮断し、朝廷の使者を殺害させた。張魯は漢中を手に入れると、さらに張脩を殺してその配下を併せた。

原文沛人張魯,母有姿色,兼挾鬼道,往來焉家,遂任魯以為督義司馬,與別部司馬張脩將兵掩殺漢中太守蘇固,斷絕斜谷,殺使者。魯既得漢中,遂復殺張脩而併其眾。

劉焉は威厳と刑罰を立てて自らを尊大に見せようと欲し、他の事を口実として、州内の豪族十数人を殺害した。これにより士人や民衆は皆、怨んだ。

原文焉欲立威刑以自尊大,乃託以佗事,殺州中豪強十餘人,士民皆怨。

初平二年、犍為太守の任岐と賈龍がともに反乱を起こし、劉焉を攻撃した。劉焉はこれを撃破し、両者を殺害した。これ以降、劉焉の気勢は次第に盛んとなり、ついに天子の乗り物である乗輿や車両を千余りも造作した。劉焉には四人の子がおり、劉範は左中郎将、劉誕は治書御史、劉璋は奉車都尉で、いずれも献帝に従って長安にいた。別部司馬の劉瑁だけが劉焉に従って益州にいた。朝廷は劉璋を派遣して劉焉を諭させたが、劉焉は劉璋を留め置いて帰さなかった。

原文初平二年,犍為太守任岐及賈龍並反,攻焉。焉擊破,皆殺之。自此意氣漸盛,遂造作乘輿車重千餘乘。焉四子,範為左中郎將,誕治書御史,璋奉車都尉,並從獻帝在長安,唯別部司馬瑁隨焉在益州。朝廷使璋曉譬焉,焉留璋不復遣。

興平元年、征西将軍の馬騰が劉範と謀って李傕を誅殺しようとした。劉焉は叟兵五千を派遣してこれを助けたが、戦いに敗れ、劉範と劉誕はともに殺害された。劉焉は二人の子を失った悲しみに加え、天火が城の役所や車両を焼き、民家にまで延焼し、館舎や町が残らず焼失する災難に遭った。そこで成都に移り住んだが、背中にできものができて死去した。

原文興平元年,征西將軍馬騰與範謀誅李傕,焉遣叟兵五千助之,戰敗,範及誕並見殺。焉既痛二子,又遇天火燒其城府車重,延及民家,館邑無餘,於是徙居成都,遂疽發背卒。

子の劉璋

原文子璋

州の大官である趙韙らは劉璋の温和で仁厚な性格を好み、彼を刺史に立てた。詔書により劉璋は監軍使者に任じられ、益州牧を兼任し、趙韙は征東中郎将に任じられた。以前、荊州牧の劉表が劉焉が天子の器物や服飾を僭称せんしょうして用いていると上表していたため、趙韙はこれにより朐䏰に兵を駐屯させて劉表に備えた。

原文州大吏趙韙等貪璋溫仁,立為刺史。詔書因以璋為監軍使者,領益州牧,以韙為征東中郎將。先是,荊州牧劉表表焉僭擬乘輿器服,韙以此遂屯兵朐䏰備表。

当初、南陽や三輔の民数万戸が益州に流入し、劉焉はこれをすべて受け入れて配下とし、「東州兵」と名付けた。劉璋の性格は柔和で寛大であったが威厳や謀略に欠け、東州兵が侵攻して暴虐を働き民衆の害となっても、これを禁圧することができず、以前からの土地の者たちはかなり離反を怨んだ。趙韙は巴中におり、非常に人心を得ていたので、劉璋は彼に権限を委ねた。趙韙は人心がまとまらないのを理由に、密かに州内の大姓と結託した。建安五年、趙韙は帰還して共同で劉璋を攻撃し、蜀郡、広漢郡、犍為郡はいずれもこれに呼応した。東州兵は誅滅されることを恐れ、心を一つにして力を合わせ、劉璋のために死力を尽くして戦い、ついに反乱者を撃破し、江州で趙韙を攻撃して斬った。

原文初,南陽、三輔民數万戶流入益州,焉悉收以為眾,名曰「東州兵」。璋性柔寬無威略,東州入侵暴為民患,不能禁制,舊士頗有離怨。趙韓之在巴中,甚得眾心,璋委之以權。韙因人情不輯,乃陰結州中大姓。建安五年,還共擊璋,蜀郡、廣漢、犍為皆反應。東州人畏見誅滅,乃同心並力,為璋死戰,遂破反者,進攻韙於江州,斬之。

張魯は劉璋が暗愚で懦弱であるとして、もはや従順に従わなくなった。劉璋は怒り、張魯の母と弟を殺害し、配下の将軍である龐羲らを派遣して張魯を攻撃させたが、何度も張魯に敗北した。張魯の配下の多くは巴の地にいたため、劉璋は龐羲を巴郡太守とした。張魯はこれを襲撃して奪い取り、ついに巴漢地方で勢力を振るうようになった。

原文張魯以璋暗懦,不復承順。璋怒,殺魯母及弟,而遣其將龐羲等攻魯,數為所破。魯部曲多在巴土,故以羲為巴郡太守。魯因襲取之,遂雄於巴漢。

十三年、曹操が自ら軍を率いて荊州を征討すると、劉璋は使者を派遣して敬意を表した。曹操は劉璋に振威将軍の位を加え、兄の劉瑁に平寇将軍の位を与えた。劉璋は別駕従事の張松を派遣して曹操のもとに赴かせたが、曹操は張松を丁重に遇さなかった。張松は恨みを抱いて帰還し、劉璋に曹操と絶交して劉備と友好を結ぶよう勧めた。劉璋はこれに従った。

原文十三年,曹操自將征荊州,璋乃遣使致敬。操加璋振威將軍,兄瑁平寇將軍。璋因遣別駕從事張松詣操,而操不相接禮。松懷恨而還,勸璋絕曹氏,而結好劉備。璋從之。

十六年、劉璋は曹操が漢中に向かって張魯を討伐するために兵を派遣しようとしていると聞き、内心恐れを抱いた。張松はまた劉璋を説得して劉備を迎え入れ、曹操に対抗させようとした。劉璋はすぐに法正に兵を率いて劉備を迎えさせた。劉璋の主簿である巴西の黄権は諫めて言った。「劉備には梟雄の名声があり、今、部曲ぶきょくとして扱えば彼の心を満足させず、賓客として待遇すれば一国に二人の主君は容れられません。これは自ら安泰を得る道ではありません。」従事の広漢の王累は州の門に逆さ吊りになって自ら諫めた。劉璋はまったく受け入れなかった。

原文十六年,璋聞曹操當遣兵向漢中討張魯,內懷恐懼,松复說璋迎劉備以拒操。璋即遣法正將兵迎備。璋主簿巴西黃權諫曰:「劉備有梟名,今以部曲遇之,則不滿其心,以賓客待之,則一國不容二主,此非自安之道。」從事廣漢王累自倒懸於州門以諫。璋一無所納。

劉備は江陵から急行して涪城に到着し、劉璋は数万の歩兵と騎兵を率いて劉備と会見した。張松は劉備に会見の場で劉璋を襲撃するよう勧めたが、劉備は忍びなかった。翌年、劉備は出て葭萌に駐屯した。張松の兄で広漢太守の張粛は災いが自分に及ぶことを恐れ、張松の謀略を劉璋に告げた。劉璋は張松を捕らえて斬り、諸々の関所や守備兵に二度と通じないよう命じた。劉備は大いに怒り、兵を返して劉璋を攻撃し、攻める所々で勝利した。

原文備自江陵馳至涪城,璋率步騎數万與備會。張松勸備於會襲璋,備不忍。明年,出屯葭萌。松兄廣漢太守肅懼禍及己,乃以松謀白璋,收松斬之,敕諸關戍勿復通。備大怒,還兵擊璋,所在戰克。

十九年、劉備は成都を包囲し、数十日が経った。城中には精兵三万、食糧は一年分あり、官吏と民衆は皆戦おうとした。劉璋は言った。「父子でこの州に二十余年、百姓に恩徳を加えることがなく、三年にわたる戦いで野原に骨をさらし肉を草の肥やしにしたのは、私のためである。どうして心安らかでいられようか。」遂に城門を開いて降伏した。配下の者たちは涙を流さない者はいなかった。劉備は劉璋を公安に移し、その財宝を返還した。後に劉璋は病で死去した。

原文十九年,進圍成都,數十日,城中有精兵三萬人,穀支一年,吏民咸欲拒戰。璋言:「父子在州二十餘歲,無恩德以加百姓,而攻戰三載,肌膏草野者,以璋故也。何心能安!」遂開城出降,群下莫不流涕。備遷璋於公安,歸其財寶,後以病卒。

翌年、曹操は張魯を破り、漢中を平定した。

原文明年,曹操破張魯,定漢中。

張魯

原文張魯

張魯は字を公旗という。初め、祖父の張陵は順帝の時に蜀に客居し、鶴鳴山で道を学び、符書を作り出して百姓を惑わした。その道を受ける者は常に五斗の米を出すので、「米賊」と呼ばれた。張陵は子の張衡に伝え、張衡は張魯に伝えた。張魯は遂に自ら「師君」と号した。学びに来る者は、初めは「鬼卒」と呼ばれ、後に「祭酒」と号した。祭酒はそれぞれ部衆を率い、多くの者を「理頭」と呼んだ。皆、誠信をもって検め、欺瞞を許さず、病気の者はただ罪を告白させるだけであった。諸々の祭酒はそれぞれ道端に義舎を建て、亭伝と同じようにし、米と肉を置いて旅人に供給した。食べる者は腹の量に応じて十分に取り、多すぎれば鬼が病気にするとされた。法を犯す者にはまず三度の赦しを加え、それから刑を執行した。長吏を置かず、祭酒が統治し、民衆や異民族は信頼して従った。朝廷は討伐できず、遂に張魯を鎮夷中郎将に任命し、漢寧太守を兼任させた。貢献を通じさせた。

原文魯字公旗。初,祖父陵,順帝時客於蜀,學道鶴鳴山中,造作符書,以惑百姓。受其道者輒出米五斗,故謂之「米賊」。陵傳子衡,衡傳於魯,魯遂自號「師君」。其來學者,初名為「鬼卒」,後號「祭酒」。祭酒各領部眾,眾多者名曰「理頭」。皆校以誠信,不聽欺妄,有病但令首過而已。諸祭酒各起義舍於路,同之亭傳,縣置米肉以給行旅。食者量腹取足,過多則鬼能病之。犯法者先加三原,然後行刑。不置長吏,以祭酒為理,民夷信向。朝廷不能討,遂就拜魯鎮夷中郎將,領漢寧太守。通其貢獻。

韓遂と馬超の乱の時、関西の民で張魯のもとに逃げて来た者は数万家に及んだ。当時、地中から玉印を得た者がおり、配下たちは張魯を漢寧王に尊ぼうとした。張魯の功曹である閻圃が諫めて言った。「漢川の民は十万戸を出し、四方は険固で、財は豊かで土地は肥沃です。上は天子を助ければ桓公・文公となり、次には竇融の例にならい、富貴を失いません。今、制度に従って官職を設置し、勢力は十分に独立しています。急いで王号を称えれば、必ず禍の先駆けとなります。」張魯はこれに従った。

原文韓遂、馬超之亂,關西民奔魯者數万家。時人有地中得玉印者,群下欲尊魯為漢寧王。魯功曹閻圃諫曰:「漢川之民,戶出十萬,四面險固,財富土沃,上匡天子,則為桓、文,次方竇融,不失富貴。今承製署置,勢足斬斷。遽稱王號,必為禍先。」魯從之。

張魯は漢川に在ることおよそ三十年、曹操が征伐に来ると聞き、陽平に至り、漢中を挙げて降伏しようとした。弟の張衛は聞き入れず、数万の兵を率いて関を守り固めた。曹操は張衛を破り、斬った。張魯は陽平が既に陥落したと聞き、額を地につけて降伏しようとした。閻圃が説いて言った。「今、急いで行けば功績は軽くなります。巴中に依拠し、その後で帰順した方が、功績は必ず多くなります。」そこで南山に奔った。側近たちは宝物や倉庫を全て焼こうとした。張魯は言った。「元々は国家に帰順しようとしたが、その志は果たせなかった。今日の逃走は、敵の鋭鋒えいほうを避けるためであり、悪意があるわけではない。」遂に蔵を封印して去った。曹操が南鄭に入ると、大いにこれを賞賛した。また張魯に元々善意があったとして、人を遣わして慰撫した。張魯はすぐに家族を連れて出迎え、鎮南将軍に任じられ、閬中侯に封じられ、邑一万戸を与えられた。中原に戻る時は客礼をもって待遇された。張魯の五人の子と閻圃らは皆、列侯に封じられた。

原文魯自在漢川垂三十年,聞曹操征之,至陽平,欲舉漢中降。其弟衛不聽,率眾數万,拒關固守。操破衛,斬之。魯聞陽平已陷,將稽顙歸降。閻圃說曰:「今以急往,其功為輕,不如且依巴中,然後委質,功必多也。」於是乃奔南山。左右欲悉焚寶貨倉庫。魯曰:「本欲歸命國家,其意未遂。今日之走,以避鋒銳,非有惡意。」遂封藏而去。操入南鄭,甚嘉之。又以魯本有善意,遣人尉安之。魯即與家屬出逆,拜鎮南將軍,封閬中侯,邑萬戶,將還中國,待以客禮。封魯五子及閻圃等皆為列侯。

張魯が死去し、諡は原侯といった。子の張富が後を継いだ。

原文魯卒,諡曰原侯。子富嗣。

論じて言う。劉焉は時勢の艱難を見て、先んじて滅亡を免れる地を求め、ほぼ機微を見て行動した。土地が広くなれば驕り高ぶる心が生じ、財が豊かになれば僭越で奢侈な感情が働く。これは固より凡人に必ず至る時期である。劉璋は要害を閉ざして力を養い、先の計画を守り通せば、まだ歳月と共に推移することができたであろうに、急いで利器(権力)を明け渡し、静かに流刑・排斥を受けた。いわゆる羊の質に虎の皮をかぶり、豺狼を見れば恐れるというものだ。ああ。

原文論曰:劉焉睹時方艱,先求後亡之所,庶乎見幾而作。夫地廣則驕尊之心生,財衍則僭奢之情用,固亦恆人必至之期也。璋能閉隘養力,守案先圖,尚可與歲時推移,而遽輸利器,靜受流斥,所謂羊質虎皮,見豺則恐,籲哉!

袁術

原文袁術

袁術は字を公路といい、汝南汝陽の人で、司空の袁逢の子である。若い頃から侠気で知られ、しばしば諸公子と鷹を飛ばし犬を走らせたが、後にはかなり節操を改めた。孝廉に推挙され、累進して河南尹・虎賁中郎将となった。

原文袁術字公路,汝南汝陽人,司空逢之子也。少以俠氣聞,數與諸​​公子飛鷹走狗,後頗折節。舉孝廉,累遷至河南尹、虎賁中郎將。

当時、董卓が廃立を企てようとし、袁術を後将軍に任じた。袁術は董卓の禍を恐れ、南陽に奔った。ちょうど長沙太守の孫堅が南陽太守の張諮を殺し、兵を率いて袁術に従った。劉表が上表して袁術を南陽太守とし、袁術もまた孫堅を豫州刺史に推薦し、荊州と豫州の兵卒を率いさせ、陽人で董卓を撃破した。

原文時,董卓將欲廢立,以術為後將軍。術畏卓之禍,出奔南陽。會長沙太守孫堅殺南陽太守張諮,引兵從術。劉表上術為南陽太守,術又表堅領豫州刺史,使率荊、豫之卒,擊破董卓於陽人。

袁術の従兄の袁紹は、孫堅が董卓を討伐して戻らないうちに、遠くからその部将の会稽の周昕を遣わして孫堅から豫州を奪わせた。袁術は怒り、周昕を撃って敗走させた。袁紹は劉虞を皇帝に立てようと議したが、袁術は放縦を好み、年長の君主を立てることを恐れ、公義を口実にして同意せず、この積み重ねが不和となった。そこでそれぞれ外で党と援助を求め、互いに謀略を図り、袁術は公孫瓚と結び、袁紹は劉表と連合した。豪傑の多くは袁紹に付いた。袁術は怒って言った。「あの小僧どもが私に従わず、我が家の奴隷に従うとは!」また公孫瓚に手紙を送り、袁紹は袁氏の子ではないと言った。袁紹は聞いて大いに怒った。初平三年、袁術は孫堅を遣わして襄陽で劉表を攻撃させたが、孫堅は戦死した。公孫瓚は劉備を遣わして袁術と共謀させ、共同で袁紹を脅かさせた。袁紹は曹操と合流して攻撃し、皆これを破った。四年、袁術は軍を率いて陳留に入り、封丘に駐屯した。黒山賊の残党や匈奴の於扶羅らが袁術を助け、曹操と匡亭で戦ったが大敗した。袁術は退いて雍丘を守り、またその残兵を率いて九江に奔り、楊州刺史の陳温を殺して自ら兼任し、さらに徐州伯を称した。李傕が長安に入り、袁術と結んで援軍としようとし、左将軍を授け、節を与え、陽翟侯に封じた。

原文術從兄紹因堅討卓未反,遠,遣其將會稽周昕奪堅豫州。術怒,擊昕走之。紹議欲立劉虞為帝,術好放縱,憚立長君,託以公義不肯同,積此釁隙遂成。乃各外交黨援,以相圖謀,術結公孫瓚,而紹連劉表。豪桀多附於紹,術怒曰:「群豎不吾從,而從吾家奴乎!」又與公孫瓚書,雲紹非袁氏子,紹聞大怒。初平三年,術遣孫堅擊劉表於襄陽,堅戰死。公孫瓚使劉備與術合謀共逼紹,紹與曹操會擊,皆破之。四年,術引軍入陳留,屯封丘。黑山餘賊及匈奴於扶羅等佐術,與曹操戰於匡亭,大敗。術退保雍丘,又將其餘眾奔九江,殺楊州刺史陳溫而自領之,又兼稱徐州伯。李傕入長安,欲結術為援,乃授以左將軍,假節,封陽翟侯。

初め、袁術が南陽にいた時、戸口はまだ数十百万あったが、法度を修めず、略奪を資金源とし、奢侈で飽くことを知らず、百姓はこれを憂えた。また讖書に「漢に代わる者は当塗高なり」とあるのを見て、自分の名と字がこれに応じると自ら言った。また袁氏は陳から出て舜の後裔であるとして、黄が赤に代わるのは徳運の順序であるとし、遂に僭越で叛逆の謀を抱いた。また孫堅が伝国璽を得たと聞き、孫堅の妻を拘束して奪った。興平二年の冬、天子が流浪し、曹陽で敗れた。袁術は大いに配下を集め、そこで言った。「今、海内は鼎の沸くが如く、劉氏は微弱である。我が家は四代にわたり三公や輔弼の位にあり、百姓の帰するところである。天に応じ民に順い、諸君はどう思うか。」誰も敢えて答えなかった。主簿の閻象が進み出て言った。「昔、周は后稷から文王に至るまで、徳を積み功を重ね、天下の三分の二を有しながら、なお殷に仕えました。明公は代々栄えておられますが、どうして周の盛んなりし時と比べられましょうか。漢室は衰微していますが、殷の紂王の弊に至ってはいません。」袁術は黙り、張範を召そうとした。張範は病気を理由に辞退し、弟の張承を遣わして応じさせた。袁術が問うて言った。「昔、周室が衰えれば桓公・文公の覇があり、秦がその政を失えば漢がこれを受け継いで用いた。今、孤は土地の広さ、士人の多さをもって、斉の桓公の福を求め、高祖の跡を擬することはできるか。」張承が答えて言った。「徳にあるのであって、人数にあるのではありません。もし徳を用いて天下の欲するところを同じくすることができれば、たとえ匹夫といえども、覇王となることができます。もし僭越で度を越え、時に逆らって動けば、衆に捨てられ、誰がこれを興せましょうか。」袁術は喜ばなかった。

原文初,術在南陽,戶口尚數十百萬,而不修法度,以抄掠為資,奢恣無猒,百姓患之。又少見讖書,言「代漢者當塗高」,自云名字應之。又以袁氏出陳為舜後,以黃代赤,德運之次,遂有僭逆之謀。又聞孫堅得傳國璽,遂拘堅妻奪之。興平二年冬,天子播越,敗於曹陽。術大會群下,因謂曰:「今海內鼎沸,劉氏微弱。吾家四世公輔,百姓所歸,欲應天順民,於諸君何如?」眾莫敢對。主簿閻象進曰:「昔周自后稷至於文王,積德累功,參分天下,猶服事殷。明公雖奕世克昌,孰若有周之盛?漢室雖微,未至殷紂之敝也。」術嘿然,使召張範。範辭疾,遣弟承往應之。術問曰「昔周室陵遲,則有桓、文之霸;秦失其政,漢接而用之。今孤以土地之廣,士人之眾,欲徼福於齊桓,擬跡於高祖,可乎?」承對曰:「在德不在眾。苟能用德以同天下之欲,雖云匹夫,霸王可也。若陵僭無度,乾時而動,眾之所棄,誰能興之!」術不說。

孫堅が死ぬと、その子の孫策が再び彼の部曲を率い、袁術は彼を派遣して揚州刺史の劉繇を攻撃させ、これを破った。孫策はこれにより江東を占拠した。孫策は袁術がまさに僭号しようとしていると聞き、手紙を送って諫めて言った。

原文自孫堅死,子策复領其部曲,術遣擊楊州刺史劉繇,破之,策因據江東。策聞術將欲僭號,與書諫曰:

董卓は無道で、王室を陵辱し、禍は太后に及び、暴虐は弘農王にまで及んだ。天子は流浪し、宮廟は焼き払われた。これにより豪傑たちは憤りを発し、沛然として一斉に立ち上がった。元凶がすでに斃れ、幼い君主が東を顧みると、王人を使わして命を奉じ、朝廷の恩恵を明らかに宣べ、武をやめて文を修め、彼らとともに更始した。しかし河北では黒山賊が異謀を抱き、曹操の毒害は東徐に及び、劉表は南荊で僭乱し、公孫氏は朔北で叛逆し、劉繇は兵を阻み、劉備は盟約を争った。このため、まだ命に従うことができず、弓を袋に納め、戈をしまい込んでいる。私は使君が国と共に規律を守り、これを捨てて顧みず、安閑として自ら取る志があるとは思わなかった。これは海内の人々が待ち望む意図ではないと恐れる。成湯が桀を討ったとき、「夏に多くの罪がある」と称し、武王が紂を討ったとき、「殷に重い罰がある」と言った。この二人の王者は、聖徳があったとしても、もし時に失道の過ちがなければ、どうして追い詰めて取ることができただろうか。今、主上は天下に悪いことをしているわけではなく、ただ幼少であるために強臣に脅かされているだけであり、湯や武王の時代とは異なる。また、幼い君主は聡明で賢く、早くから成熟した徳があり、天下はまだその恩恵に浴していないが、皆心を寄せている。もし補佐して興させれば、周公旦や召公奭のような美事は、天下の望むところである。使君は五世代にわたって相承し、漢の宰輔となり、栄寵の盛んなことは、比べるものがない。忠誠を尽くし節操を守り、王室に報いるべきである。当時の人々は多く図緯の言葉に惑わされ、妄りに類ならぬ文を引き合いに出し、苟も主君を喜ばせることを美とし、成敗の計略を顧みず、古今で慎むべきことを、熟慮しないでよいのか!忠言は耳に逆らい、異議を唱えれば憎まれるが、もし尊明のために有益であれば、敢えて辞するものではない。

原文董卓無道,陵虐王室,禍加太后,暴及弘農,天子播越,宮廟焚毀,是以豪桀發憤,沛然俱起。元惡既斃,幼主東顧,乃使王人奉命,宣明朝恩,偃武修文,與之更始。然而河北異謀於黑山,曹操毒被於東徐,劉表僭亂於南荊,公孫叛逆於朔北,正禮阻兵,玄德爭盟,是以未獲從命,橐弓戢戈。當謂使君與國同規,而捨是弗卹,完然有自取之志,懼非海內企望之意也。成湯討桀,稱:有夏多罪」;武王討紂,曰「殷有重罰」。此二王者,雖有聖德,假使時無失道之過,無由逼而取也。今主上非有惡於天下,徒以幼小脅於強臣,異於湯、武之時也。又聞幼主明智聰敏,有夙成之德,天下雖未被其恩,咸歸心焉。若輔而興之,則旦、奭之美,率土所望也。使君五世相承,為漢宰輔,榮寵之盛,莫與為比,宜效忠守節,以報王室。時人多惑圖緯之言,妄牽非類之文,苟以悅主為美,不顧成敗之計,古今所慎,可不熟慮!忠言逆耳,駁議致憎,苟有益於尊明,無所敢辭。

袁術は受け入れず、孫策は遂に彼と絶交した。

原文術不納,策遂絕之。

建安二年、河内の張炯の符命に因り、遂に果たして僭号し、自ら「仲家」と称した。九江太守を淮南尹とし、公卿百官を置き、天地を郊祀した。そして使者を遣わして窃号したことを呂布に告げ、併せて子のために呂布の娘を娶ろうとした。呂布は袁術の使者を捕らえて許都に送った。袁術は大いに怒り、その将の張勲と橋蕤を派遣して呂布を攻撃させたが、大敗して帰還した。袁術はまた兵を率いて陳国を攻撃し、その王の劉寵と相の駱俊を誘い出して殺害した。曹操はこれにより自ら征伐した。袁術は聞いて大いに驚き、すぐに淮を渡って逃走し、張勲と橋蕤を蘄陽に留めて、曹操を防がせた。曹操は攻撃して橋蕤を斬り、張勲は退却して逃げた。袁術の兵は弱く、大将が死に、衆情は離反し、加えて天候は旱魃で凶作、士民は凍え飢え、江・淮の間では互いに食い合い、ほとんど尽き果てた。当時、舒仲応は袁術の沛相であった。袁術は米十万斛こくを彼に与えて軍糧としたが、仲応はこれをすべて飢えた民に分け与えた。袁術は聞いて怒り、兵を陳べて彼を斬ろうとした。仲応は言った。「必ず死ぬと知っていたから、あえてそうしたのです。どうして一人の命をもって、塗炭の苦しみにある百姓を救えないことがありましょうか。」袁術は馬から降りて彼を引き寄せて言った。「仲応よ、あなただけが天下の重い名声を享受しようとして、私と共にしないのか?」

原文建安二年,因河內張炯符命,遂果僭號,自稱「仲家」。以九江太守為淮南尹,置公卿百官,郊祀天地。乃遣使以竊號告呂布,並為子娉布女。布執術使送許。術大怒,遣其將張勛、橋蕤攻布,大敗而還。術又率兵擊陳國,誘殺其王寵及相駱俊,曹操乃自征之。術聞大駭,即走度淮,留張勛、橋蕤於蘄陽,以拒操。操擊破斬蕤,而勳退走。術兵弱,大將死,眾情離叛,加天旱歲荒,士民凍餒,江、淮間相食殆盡。時,舒仲應為術沛相,術以米十萬斛與為軍糧,仲應悉散以給饑民。術聞怒,陳兵將斬之。仲應曰:「知當必死,故為之耳。寧可以一人之命,救百姓於塗炭。」術下馬牽之曰:「仲應,足下獨欲享天下重名,不與吾共之邪?」

袁術は名声を誇り奇を尚ぶものの、天性驕慢で放肆、己を尊び人を侮った。そして偽号を窃取すると、淫侈はますます甚だしく、側室や侍女は数百人に及び、すべて綾羅を纏い、美食に飽き、下の者は飢え困窮しても、誰一人として顧みて救済しなかった。こうして資産は空尽し、自立できなくなった。四年の夏、ついに宮室を焼き、その部曲の陳簡と雷薄のもとに灊山へ奔った。再び陳簡らに拒絶され、遂に大いに困窮し、士卒は散り散りに逃げた。憂悶してどうすればよいかわからず、遂に帝号を袁紹に帰して言った。「禄は漢室から去って久しく、天下は提挈され、政は家門にある。豪雄が角逐し、疆宇を分割している。これは周末の七国と異ならず、ただ強者がこれを併せようとしているだけである。袁氏は天命を受けて王となるべきであり、符瑞は明らかである。今、君は四州を擁し、人戸は百万、強さをもってすれば誰も大きさを争えず、位をもってすれば誰も高さを比べられない。曹操はたとえ衰微を扶け助けようとしても、どうして絶えた運命を継ぎ、すでに滅んだものを起こせようか!謹んで大命を帰す、君よこれを興せ。」袁紹は内心その計略を認めた。

原文術雖矜名尚奇,而天性驕肆,尊己陵物。及竊偽號,淫侈滋甚,媵禦數百,無不兼羅紈,厭梁肉,自下飢困,莫之簡卹。於是資實空盡,不能自立。四年夏,乃燒宮室,奔其部曲陳簡、雷薄於灊山。復為簡等所拒,遂大困窮,士卒散走。憂懣不知所為,遂歸帝號於紹,曰:「祿去漢室久矣,天下提挈,政在家門。豪雄角逐,分割疆宇。此與周末七國無異,唯強者兼之耳。袁氏受命當王,符瑞炳然。今君擁有四州,人戶百萬,以強則莫與爭大,以位則無所比高。曹操雖欲扶衰獎微,安能續絕運,起已滅乎!謹歸大命,君其興之。」紹陰然其計。

袁術はそこで北へ青州に行き袁譚に従おうとしたが、曹操が劉備を派遣して遮ったため、通過できず、再び寿春へ逃げ戻った。六月、江亭に至った。筵の床に座って嘆いて言った。「袁術がここまでなるとは!」憤慨して病を結び、血を吐いて死んだ。妻子は旧吏の廬江太守劉勲を頼った。孫策が劉勲を破ると、再び保護され、袁術の娘は孫権の宮に入り、子の袁曜は呉に仕えて郎中となった。

原文術因欲北至青州從袁譚,曹操使劉備徼之,不得過,复走還壽春。六月,至江亭。坐簣床而歎曰:「袁術乃至是乎!」因憤慨結病,歐血死。妻子依故吏廬江太守劉勛。孫策破勳,復見收視,術女入孫權宮,子曜仕吳為郎中。

論じて言う。「天命の符験は、見ることはできても、言うことはできない。しかし、おおよそ大福を受ける者は、信順に帰するのであろう!事を順に行わなければ、たとえ強力で広謀であっても、得ることはできない。得られないことを謀れば、日に忠信を失い、変詐が妄りに生じる。ましてや苟も放肆に行えば、それは天を欺くことになる!たとえ符を借りて僭称しても、帰る所はどこに容れられようか!

原文論曰:「天命符驗,可得而見,未可得而言也。然大致受大福者,歸於信順乎!夫事不以順,雖強力廣謀,不能得也。謀不可得之事,日失忠信,變詐妄生矣。況復苟肆行之,其以欺天乎!雖假符僭稱,歸將安所容哉!

呂布

原文呂布

呂布は字を奉先といい、五原郡九原県の人である。弓馬に優れ驍勇であったため并州に仕えた。刺史の丁原が騎都尉となると、丁原は河内に駐屯し、呂布を主簿とし、非常に親しく遇した。霊帝が崩御すると、丁原は何進の召しを受け、兵を率いて洛陽に赴き、執金吾となった。ちょうど何進が敗れると、董卓は呂布を誘って丁原を殺させ、その兵を併せた。

原文呂布字奉先,五原九原人也。以弓馬驍武給并州。刺史丁原為騎都尉,原屯河內,以布為主簿,甚見親待。靈帝崩,原受何進召,將兵詣洛陽,為執金吾。會進敗,董卓誘布殺原而併其兵。

董卓は呂布を騎都尉とし、父子の誓いを立て、非常に寵愛し信任した。次第に昇進して中郎将となり、都亭侯に封じられた。董卓は自ら凶暴で恣意であることを知り、常に猜疑と畏れを抱き、行動するときは常に呂布を自衛に従えた。かつて少し董卓の意に背いたことがあり、董卓は手戟を抜いて彼に投げつけた。呂布は素早く避けて難を逃れ、表情を改めて謝罪すると、董卓の怒りも解けた。呂布はこれにより密かに董卓を怨むようになった。董卓はまた呂布に中閤を守らせたが、呂布は密かに傅婢と情を通じ、ますます不安を感じた。そこで司徒の王允を訪ね、董卓に幾度も殺されそうになった様子を述べた。当時、王允は尚書僕射の士孫瑞と密かに董卓誅殺を謀っており、そこで呂布に告げ、内応をさせた。呂布は言った。「父子の間柄はどうするのか?」王允は言った。「君はもともと呂姓であり、骨肉ではない。今、死を憂える暇もないのに、何が父子か?戟を投げつけたとき、父子の情があったのか?」呂布は遂に承諾し、門で董卓を刺殺した。この事はすでに『董卓伝』に見える。王允は呂布を奮威将軍とし、仮節を与え、儀同三司とし、温侯に封じた。

原文卓以布為騎都尉,誓為父子,甚愛信之。稍遷至中郎將,封都亭侯。卓自知凶恣,每懷猜畏,行止常以布自衛。嘗小失卓意,卓拔手戟擲之。布拳捷得免,而改容顧謝,卓意亦解。布由是陰怨於卓。卓又使布守中閤,而私與傅婢情通,益不自安。因往見司徒王允,自陳卓幾見殺之狀。時允與尚書僕射士孫瑞密謀誅卓,因以告布,使為內應。布曰:「如父子何?」曰:「君自姓呂,本非骨肉。今憂死不暇,何謂父子?擲戟之時,豈有父子情也?」布遂許之,乃於門刺殺卓,事已見《卓傳》。允以布為奮威將軍,假節,儀同三司,封溫侯。

王允が涼州人を赦さなかったため、これにより董卓の将李傕らは相結び、還って長安を攻めた。呂布は李傕と戦い、敗れた。そこで数百騎を率い、董卓の首を馬鞍に結びつけ、武関から出て、南陽に奔った。袁術は彼を非常に厚く遇した。呂布は董卓を殺したことを恃み、袁氏に恩があると思い、兵を恣にさせて略奪させた。袁術はこれを憂えた。呂布は不安を感じ、再び去って河内の張楊に従った。当時、李傕らは呂布を懸賞して急いで求めていたので、張楊の配下の諸将は皆彼を図ろうとした。呂布は恐れ、張楊に言った。「私はあなたと同郷です。今、私を殺しても、その功績は多くないでしょう。生きている私を売り渡すほうが、李傕らの爵位と寵愛を大いに得られるでしょう。」張楊はそうだと思った。しばらくして、呂布は逃げ出して袁紹に投じた。袁紹は呂布とともに常山で張燕を撃った。張燕の精兵は一万余、騎兵は数千騎であった。呂布は常に良馬に乗り、赤菟と号し、城を馳せ塹を飛び越えることができ、その健将の成廉や魏越ら数十騎とともに張燕の陣を馳突し、一日に三四回も至り、皆首を斬って出てきた。連戦十余日、遂に張燕軍を破った。呂布はその功を恃み、さらに袁紹に兵を請うたが、袁紹は許さず、将兵は多く暴横であったので、袁紹はこれを憂えた。呂布は不安を感じ、そこで洛陽に戻ることを求めた。袁紹はこれを聞き入れ、詔を承って司隸校尉を領するようにし、壮士を派遣して呂布を送りながら密かに殺させようとした。呂布は自分を図っていると疑い、人をやって帳中で箏を鼓がせ、密かに逃げ出した。夜中に兵が起こったが、呂布はすでに逃亡していた。袁紹は聞いて、禍患となることを恐れ、追手を募って派遣したが、皆敢えて近づかず、呂布は張楊のもとに帰った。道中陳留を経たとき、太守の張邈が使者を遣わして迎え、非常に厚く遇し、別れ際に腕を握って誓いを立てた。

原文允既不赦涼州人,由是卓將李傕等遂相結,還攻長安。布與傕戰,敗,乃將數百騎,以卓頭系馬鞍,走出武關,奔南陽。袁術待之甚厚。布自恃殺卓,有德袁氏,遂恣兵抄掠。術患之。布不安,复去從張楊於河內。時李傕等購募求布急,楊下諸將皆欲圖之。布懼,謂楊曰:「與卿州里,今見殺,其功未必多。不如生賣布,可大得傕等爵寵。」楊以為然。有頃,布得走投袁紹,紹與布擊張燕于常山。燕精兵萬餘,騎數千匹。布常禦良馬,號曰赤菟,能馳城飛塹,與其健將成廉、魏越等數十騎馳突燕陣,一日或至三四,皆斬首而出。連戰十餘日,遂破燕軍。布既恃其功,更請兵於紹,紹不許,而將士多暴橫,紹患之。布不自安,因求還洛陽。紹聽之,承製使領司隸校尉,遣壯士送布而陰使殺之。布疑其圖己,乃使人鼓箏於帳中,潛自遁出。夜中兵起,而布已亡。紹聞,懼為患,募遣追之,皆莫敢逼,遂歸張楊。道經陳留,太守張邈遣使迎之,相待甚厚,臨別把臂言誓。

張邈は字を孟卓といい、東平の人で、若い頃から任侠で知られていた。初め公府に召され、やがて陳留太守に昇進した。董卓の乱の際、曹操と共に義兵を挙げた。袁紹が盟主となると驕慢な態度を見せたので、張邈は正義を以て彼を責めた。袁紹は張邈を恨むようになり、さらに彼が呂布と親密であると聞くと、曹操に命じて張邈を殺させようとした。曹操は聞き入れなかったが、張邈は内心不安を感じていた。興平元年、曹操が東進して陶謙を攻撃した時、配下の武陽人陳宮を東郡に駐屯させた。陳宮は張邈を説得して言った。「今、天下は分裂し、英雄豪傑が一斉に立ち上がっています。あなたは十万の兵を擁し、四方から攻められる地の利にあり、剣を撫でて周りを見渡せば、それだけで人々の雄となるに足ります。それなのに逆に他人の制約を受けているのは、あまりにも情けないことではありませんか。今、州の軍勢は東征しており、その地は空虚です。呂布は勇猛な士であり、戦いに優れ、誰も彼に敵いません。彼を迎えて共に兗州を占拠し、天下の形勢を観察し、時勢の変化に応じて行動すれば、これもまた一世を風靡する策です。」張邈はこれに従い、弟の張超や陳宮らと共に呂布を迎えて兗州牧とし、濮陽を拠点とした。郡県は皆これに呼応した。

原文邈字孟卓,東平人,少以俠聞。初辟公府,稍遷陳留太守。董卓之亂,與曹操共舉義兵。及袁紹為盟主,有驕色,邈正義責之。紹既怨邈,且聞與布厚,乃令曹操殺邈。操不聽,然邈心不自安。興平元年,曹操東擊陶謙,令其將武陽人陳宮屯東郡。宮因說邈曰:「今天下分崩,雄桀並起。君擁十萬之眾,當四戰之地,撫劍顧眄,亦足以為人豪,而反受制,不以鄙乎!今州軍東征,其處空虛,呂布壯士,善虞無前,迎之共據兗州,觀天下形勢,俟時事變通,此亦從橫一時也。」邈從之,遂與弟超及宮等迎布為兗州牧,據濮陽,郡縣皆應之。

曹操はこれを聞いて軍を率いて呂布を攻撃し、幾度も戦い、百余日にわたって対峙した。この時、旱魃と蝗害こうがいが発生し、穀物が不足し、民衆は互いに食い合う有様であった。呂布は山陽に駐屯地を移した。二年の間に、曹操は再び諸城をことごとく奪回し、鉅野で呂布を破り、呂布は東へ逃れて劉備を頼った。張邈は袁術のもとに赴き救援を求めたが、張超に家族を率いて雍丘に駐屯させておいた。曹操は張超を数ヶ月にわたって包囲し、これを屠り、三族を滅ぼした。張邈は寿春に到着する前に、その兵士たちによって殺害された。

原文曹操聞而引軍擊布,累戰,相持百餘日。是時,旱、蝗,少穀,百姓相食,布移屯山陽。二年間,操复盡收諸城,破布於鉅野,布東奔劉備。邈詣袁術求救,留超將家屬屯雍丘。操圍超數月,屠之,滅其三族。邈未至壽春,為其兵所害。

当時、劉備は徐州を領有し、下邳に駐在し、淮水のほとりで袁術と対峙していた。袁術は呂布を引き入れて劉備を攻撃させようとし、呂布に手紙を送って言った。「私は兵を挙げて朝廷に向かったが、董卓を屠裂することはできませんでした。将軍が董卓を誅殺し、私の恥を晴らしてくれたのは、第一の功績です。かつて金元休が南進して封丘に至った時、曹操に敗れました。将軍が彼を討伐し、私が遠近に再び面目を保つことができたのは、第二の功績です。私が生まれてこの方、天下に劉備という者がいるとは聞いたことがありませんでした。劉備が兵を挙げて私と対戦するに至りました。将軍の威霊を頼りに、劉備を破ることができたのは、第三の功績です。将軍には私に対して三つの大功があり、私は不肖ながらも生死をかけてお仕えします。将軍は連年攻戦を続け、軍糧が苦しく少ないと聞きます。今、米二十万斛を送ります。これだけに留まらず、引き続き送り届けましょう。全て不足するものがあれば、仰せのままに致します。」呂布はこの手紙を得て大いに喜び、直ちに兵を率いて下邳を急襲し、劉備の妻子を捕らえた。劉備は敗走して海西に逃れ、飢えに苦しみ、呂布に降伏を請うた。呂布はまた、袁術が約束した兵糧が再び届かないことを怒り、車馬を整えて劉備を迎え、豫州刺史に任じ、小沛に駐屯させた。呂布は自ら徐州牧を称した。袁術は呂布が自分に害をなすことを恐れ、息子のために呂布の娘との婚姻を求め、呂布は再びこれを承諾した。

原文時,劉備領徐州,居下邳,與袁術相拒於淮上。術欲引布擊備,乃與布書曰:「術舉兵詣闕,未能屠裂董卓。將軍誅卓,為術報恥,功一也。昔金元休南至封丘,為曹操所敗。將軍伐之,令術復明目於遐邇,功二也。術生年以來,不聞天下有劉備,備乃舉兵與術對戰。憑將軍威靈,得以破備,功三也。將軍有三大功在術,術雖不敏,奉以死生。將軍連年攻戰,軍糧苦少,今送米二十萬斛。非唯此止,當駱驛复致。凡所短長亦唯命。 」布得書大悅,即勒兵襲下邳,獲備妻子。備敗走海西,飢困,請降於布。布又恚術運糧不復至,乃具車馬迎備,以為豫州刺史,遣屯小沛。布自號徐州牧。術懼布為己害,為子求婚,布复許之。

袁術は将軍の紀霊らに歩兵・騎兵三万を率いさせて劉備を攻撃させた。劉備は呂布に救援を求めた。諸将は呂布に言った。「将軍は常々劉備を殺したいとお考えでした。今、袁術の手を借りることができます。」呂布は言った。「そうではない。袁術がもし劉備を破れば、北は太山と連絡を取り、我々は袁術に包囲されることになる。救わざるを得ないのだ。」すぐに歩兵・騎兵千余りを率いて馳せ向かった。紀霊らは呂布が来たと聞き、皆兵を収めて停止した。呂布は沛城外に駐屯し、人をやって劉備を招き、また紀霊らを招いて共に酒宴を開いた。呂布は紀霊に言った。「玄徳(劉備)は私の弟である。諸君に困らされているので、救いに来たのだ。私は争いを好まず、争いを解くことを好むだけだ。」そこで軍候に命じて戟を営門に立てさせ、呂布は弓を引き絞りながら言った。「諸君、私がこの戟の小枝を射るのを見よ。命中すれば各自兵を解け。命中しなければ留まって決戦してもよい。」呂布は一発で射ると、見事に戟の枝に命中した。紀霊らは皆驚き、「将軍は天の威をお持ちだ」と言った。翌日再び歓談した後、各自引き上げた。

原文術遣將紀靈等步騎三萬以攻備,備求救於布。諸將謂布曰:「將軍常欲殺劉備,今可假手於術。」布曰:「不然。術若破備,則北連太山,吾為在術圍中,不得不救也。」便率步騎千餘,馳往赴之。靈等聞布至,皆斂兵而止。布屯沛城外,遣人招備,並請靈等與共饗飲。布謂靈曰:「玄德,布弟也,為諸君所困,故來救之。布性不喜合鬬,但喜解鬬耳。」乃令軍候植戟於營門,布彎弓顧曰:「諸君觀布謝戟小支,中者當各解兵,不中可留決鬬。」布即一發,正中戟支。靈等皆驚,言「將軍天威也」。明日復歡會,然後各罷。

袁術は韓胤を使者として、僭号(皇帝を称すること)の件を呂布に告げさせ、併せて娘の迎えを求めた。呂布は娘を彼に随行させた。沛の相である陳珪は、袁術が呂布と姻戚関係を結べば、徐州と揚州が合従し、災難が終わらないことを恐れた。そこで呂布のもとに行って説得して言った。「曹公(曹操)は天子を奉迎し、国政を補佐しています。将軍は協力して共に策を謀り、大計を共に保つべきです。今、袁術と婚姻を結べば、必ず不義の名を受け、卵を積み重ねたような危険に陥ります。」呂布ももともと袁術を怨んでいたので、娘はすでに道中にあったが、追いかけて呼び戻し婚姻を断絶し、韓胤を捕らえて許都に送り、曹操が彼を殺した。

原文術遣韓胤以僭號事告布,因求迎婦,布遣女隨之。沛相陳珪恐術報布成姻,則徐、楊合從,為難未已。於是往說布曰:「曹公奉迎天子,輔贊國政,將軍宜與協助同策謀,共存大計。今與袁術結姻,必受不義之名,將有累卵之危矣。」布亦素怨術,而女已在塗,乃追還絕婚,執胤送許,曹操殺之。

陳珪は息子の陳登を曹操のもとに遣わそうとしたが、呂布は固く許さなかった。ちょうど使者が到着し、呂布を左将軍に任命すると伝えた。呂布は大いに喜び、すぐに陳登の行きを許し、併せて上奏文を奉じて恩に感謝するよう命じた。陳登が曹操に会うと、呂布は勇猛だが謀略がなく、去就が軽率であるから、早く図るべきだと述べた。曹操は言った。「呂布は狼の子のような野心を持ち、確かに長く養い続けるのは難しい。卿でなければその真偽を究められない。」すぐに陳珪の俸禄を中二千石に増やし、陳登を広陵太守に任命した。別れ際、曹操は陳登の手を取って言った。「東方のことは、そなたに任せる。」陰で部衆を糾合し、内応となるよう命じた。初め呂布は陳登を通じて徐州牧を求めたが、得られなかった。陳登が帰還すると、呂布は怒り、戟を抜いて机を斬りつけて言った。「卿の父は私に曹操と協力し、袁術(公路)との婚姻を絶つよう勧めた。今、私の求めたものは何も得られず、卿父子は共に顕著に重用されている。ただ卿に売られただけだ。」陳登は動じることなく、ゆっくりと答えて言った。「私は曹公にお目にかかり、将軍を養うことは虎を養うようなもので、肉を十分に与えて満腹にさせなければ、人を食い殺すだろうと申し上げました。公は『卿の言うようではない。鷹を養うようなものだ。飢えていれば用いることができ、満腹になれば飛び去ってしまう。』とおっしゃいました。そのようにおっしゃったのです。」呂布の怒りはようやく解けた。

原文陳珪欲使子登詣曹操,布固不許,會使至,拜布為左將軍,布大喜,即聽登行,並令奉章謝恩。登見曹操,因陳布勇而無謀,輕於去就,宜早圖之。操曰:「布狼子野心,誠難久養,非卿莫究其情偽。」即增珪秩中二千石,拜登廣陵太守。臨別,操執登手曰:「東方之事,便以相付。」令陰合部眾,以為內應。始布因登求徐州牧,不得。登還,布怒,拔戟斫机曰:「卿父勸吾協同曹操,絕婚公路。今吾所求無獲,而卿父子並顯重,但為卿所賣耳。」登不為動容,徐對之曰:「登見曹公,言養將軍譬如養虎,當飽其肉,不飽則將噬人。公曰:'不如卿言。譬如養鷹,飢即為用,飽則颺去。'其言如此。」布意乃解。

袁術は呂布が韓胤を殺したことに怒り、配下の大将張勲、橋蕤らと韓暹、楊奉と連合させ、歩兵・騎兵数万で七方向から呂布を攻撃した。呂布の当時の兵は三千、馬四百匹しかなく、敵わないことを恐れ、陳珪に言った。「今、袁術の軍を招き寄せたのは、卿のせいだ。どうすればよいか。」陳珪は言った。「韓暹、楊奉と袁術は、急に結びついた軍勢に過ぎません。以前から定まった謀略はなく、互いに支え合うことはできません。息子の登が策を立てましたが、それは鶏を縄で繋いだようなもので、一緒に棲むことはできず、すぐに離反させることができます。」呂布は陳珪の策を用い、韓暹、楊奉に手紙を送って言った。「二将軍は自ら天子の御輿を守り、私は手ずから董卓を殺しました。共に功名を立て、竹帛(歴史書)に名を残すべきです。今、袁術が逆賊を名乗っています。共に誅討すべきであり、どうして賊と共に戻って私を伐つのですか。今こそ力を合わせて袁術を破り、国の害を除き、天下に功を立てるべきです。この機会を逃すべきではありません。」また、袁術の軍を破ったら、軍資を全て彼らに与えると約束した。韓暹、楊奉は大いに喜び、遂に共に張勲らを下邳で攻撃し、大破した。橋蕤を生け捕りにし、残りの兵は潰走し、その殺傷され、水に落ちて死んだ者はほぼ全滅した。

原文袁術怒布殺韓胤,遣其大將張勛、橋蕤等與韓暹、楊奉連勢,步騎數万,七道攻布。布時兵有三千,馬四百匹,懼其不敵,謂陳珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之奈何?」珪曰:「暹、奉與術,卒合之師耳。謀無素定,不能相維。子登策之,比於連雞,勢不俱棲,立可離也。」布用珪策,與暹、奉書曰:「二將軍親拔大駕,而布手殺董卓,俱立功名,當垂竹帛。今袁術造逆,宜共誅討,奈何與賊還來伐布?可因今者同力破術,為國除害,建功天下,此時不可失也。」又許破術兵,悉以軍資與之。暹、奉大喜,遂共擊勳等於下邳,大破之,生禽橋蕤,餘眾潰走,其所殺傷、墯水死者殆盡。

当時、太山の臧霸らが莒城を攻め落とし、呂布に財貨を贈って結びつこうとしたが、まだ送り届ける前に、呂布は自ら出向いてそれを求めた。その督将の高順が諫めて止めようとして言った。「将軍の威名は広く知れ渡り、遠近に畏れられています。何を求めて得られないことがありましょうか。自ら出向いて賄賂を求めるなど。万一うまくいかなければ、名声を損なうことになりませんか。」呂布は聞き入れなかった。莒に到着すると、臧霸らは呂布の来意を測りかね、固く守って拒んだので、何も得ずに帰還した。高順は人となりが清廉で威厳があり、言葉少なで、兵を率いるのに整然としており、戦えば必ず勝利した。呂布の性格は決断が早く変わりやすく、行動に一貫性がなかった。高順はしばしば諫めて言った。「将軍の行動は、よく考えようとせず、突然得失が生じると、すぐに間違いだと言います。間違い事が何度もあってよいものでしょうか。」呂布は彼の忠誠を知っていたが、従うことはできなかった。

原文時,太山臧霸等攻破莒城,許布財幣以相結,而未及送,布乃自往求之。其督將高順諫止曰:「將軍威名宣播,遠近所畏,何求不得,而自行求賂。萬一不克,豈不損邪?」布不從。既至莒,霸等不測往意,固守拒之,無獲而還。順為人清白有威嚴,少言辭,將眾整齊,每戰必克。布性決易,所為無常。順每諫曰:「將軍舉動,不肯詳思,忽有失得,動輒言誤。誤事豈可數乎?」布知其忠而不能從。

建安三年、呂布はついに再び袁術に従い、高順を派遣して沛で劉備を攻撃し、これを破った。曹操は夏侯惇を派遣して劉備を救援させたが、高順に敗れた。曹操は自ら軍を率いて呂布を攻撃し、下邳城の城下に至った。曹操は呂布に手紙を送り、禍福を説いた。呂布は降伏しようとしたが、陳宮らは自ら曹操に対して罪を犯したことを自覚し、その計画を強く妨げ、呂布に言った。「曹公は遠くから来ており、その勢いは長く続かないでしょう。将軍が歩兵と騎兵を率いて城外に駐屯し、私が残りの兵を率いて城内に閉じこもって守ります。もし曹公が将軍を攻撃すれば、私は兵を率いてその背後を攻撃します。もしただ城を攻めるだけなら、将軍は外から救援します。一ヶ月も経たないうちに、敵軍の食糧は尽き、攻撃すれば打ち破ることができます。」呂布はこれを認めた。呂布の妻が言った。「昔、曹氏は公臺(陳宮)を赤子のように扱いましたが、それでも彼は曹氏を捨てて我が方に帰参しました。今、将軍が公臺を厚遇しても曹氏を超えることはなく、全城を委ね、妻子を捨て、孤軍を率いて遠く出陣しようとされるのですか?もし一旦事変があれば、妾はどうして将軍の妻であり続けられましょうか!」呂布はやめた。そして密かに人を派遣して袁術に救援を求め、自ら千余騎を率いて出撃した。戦いに敗れて逃げ帰り、城を守って敢えて出撃しなかった。袁術もまた救援できなかった。

原文建安三年,布遂復從袁術,遣順攻劉備於沛,破之。曹操遣夏侯惇救備,為順所敗。操乃自將擊布,至下邳城下。遺布書,為陳禍福。布欲降,而陳宮等自以負罪於操,深沮其計,而謂布曰:「曹公遠來,勢不能久。將軍若以步騎出屯於外,宮將餘眾閉守於內。若向將軍,宮引兵而攻其背;若但攻城,則將軍救於外。不過旬月,軍食畢盡,擊之可破也。」布然之。布妻曰:「昔曹氏待公檯如赤子,猶舍而歸我。今將軍厚公檯不過於曹氏,而欲委全城,捐妻、子,孤軍遠出乎?若一旦有變,妾豈得為將軍妻哉!」布乃止。而潛遣人求救於袁術,自將千餘騎出。戰敗走還,保城不敢出。術亦不能救。

曹操は塹壕を巡らせて包囲し、沂水と泗水を堰き止めて城に水を引き入れ、三ヶ月が経つと、城内は上下で心が離反した。その部将の侯成が客に自分の名馬を放牧させたところ、その客が馬を盗んで逃走した。侯成は客を追って馬を取り戻し、諸将が一緒に礼を尽くして侯成を祝った。侯成は酒と肉を分け、先に呂布のもとを訪れて言った。「将軍の威霊により、失った馬を取り戻しました。諸将が一斉に祝ってくれましたが、私はまだ口にしていません。故に先にこれを献上いたします。」呂布は怒って言った。「私は酒を禁じているのに、卿らは醸造していたのか。酒を口実に共謀して私を謀ろうというのか?」侯成は憤り恐れ、そこで諸将と共に陳宮と高順を捕らえ、その配下を率いて降伏した。呂布は配下と共に白門楼に登った。兵の包囲が厳しく、左右の者に命じて自分の首を取って曹操に届けさせようとした。左右の者は忍びず、そこで降伏した。呂布は曹操に会って言った。「今日以降、天下は定まるでしょう。」曹操が言った。「どうしてそう言えるのか?」呂布は言った。「明公が患えているのは私に過ぎません。今や私は服従しました。私に騎兵を率いさせ、明公が歩兵を率いれば、天下を平定するのに不足はありません。」振り返って劉備に言った。「玄徳、卿は座上客であり、私は降伏した虜囚だ。縄で私をきつく縛るが、一言も言ってくれないのか?」曹操は笑って言った。「虎を縛るには急がざるを得ない。」そこで呂布の縄を緩めるよう命じた。劉備が言った。「いけません。明公は呂布が丁建陽(丁原)や董太師(董卓)に仕えたことをご存じないのですか?」曹操はうなずいた。呂布は劉備を睨みつけて言った。「大耳の小僧は最も信用できない!」曹操が陳宮に言った。「公臺、平生は自ら智謀に余りありと称していたが、今の気持ちはどうか?」陳宮は呂布を指して言った。「この男が私の言葉を用いなかったから、ここに至ったのです。もし従っていたならば、どうなっていたか計り知れません。」曹操はまた言った。「卿の老母をどうすればよいか?」陳宮は言った。「老母のことは公(曹操)にお任せします。私の手にはありません。孝をもって天下を治める者は、人の親を害しません。」曹操はさらに言った。「では卿の妻子はどうするのか?」陳宮は言った。「私は聞きます。覇王たる君主は、人の祭祀を絶やさないと。」固く刑の執行を請い、遂に振り返らずに出て行った。曹操は彼のために涙を流した。呂布および陳宮、高順は皆、絞首刑に処され、その首は許都の市にさらされた。

原文曹操塹圍之,壅沂、泗以灌其城,三月,上下離心。其將侯成使客牧其名馬,而客策之以叛。成追客得馬,諸將合禮以賀成。成分酒肉,先入詣布而言曰:「蒙將軍威靈,得所亡馬,諸將齊賀,未敢嘗也,故先以奉貢。」布怒曰:「布禁酒而卿等醖釀,為欲因酒共謀布邪?」成忿懼,乃與諸將共執陳宮、高順,率其眾降。布與麾下登白門樓。兵圍之急,令左右取其首詣操。左右不忍,乃下降。布見操曰:「今日已往,天下定矣。」操曰:「何以言之?」布曰:「明公之所患不過於布,今已服矣。令布將騎,明公將步,天下不足定也。」顧謂劉備曰:「玄德,卿為坐上客,我為降虜,繩縛我急,獨不可一言邪?」操笑曰:「縛虎不得不急。 」乃令緩布縛。劉備曰:「不可。明公不見呂布事丁建陽、董太師乎?」操頷之。布目備曰:「大耳兒最叵信!」操謂陳宮曰:「公臺平生自謂智有餘,今意何如?」宮指布曰:「是子不用宮言,以至於此。若見從,未可量也。」操又曰:「奈卿老母何?」宮曰:「老母在公,不在宮也。夫以孝理天下者,不害人之親。」操復曰:「奈卿妻、子何?」宮曰:「宮聞霸王之主,不絕人之祀。」固請就刑,遂出不顧,操為之泣涕。布及宮、順皆縊殺之,傳首許市。

評語

原文評語

賛に曰く、劉焉は凡庸な州牧となり、後世の福を望んだ。どうして重荷を負うと言えようか?領地は失われ、身は追われた。袁術は既に貪欲であり、呂布もまた翻覆した。

原文贊曰:焉作庸牧,以希後福。曷云負荷?地墮身逐。術既叨貪,布亦翻覆。