袁紹と劉表の列伝
劉焉・袁術・呂布列伝
テーマ = 歴史
史書
注釈
袁譚、袁熙、袁尚
袁譚は自ら車騎将軍と称し、軍を率いて黎陽に出陣した。袁尚は彼にわずかな兵しか与えず、逢紀を付き従わせた。袁譚は増援を求めたが、審配らはまた議論して与えなかった。袁譚は怒り、逢紀を殺した。
曹操が黄河を渡って袁譚を攻撃すると、袁譚は袁尚に急を告げた。袁尚は審配を鄴に残して守らせ、自ら軍を率いて袁譚を助け、曹操と黎陽で対峙した。
九月から翌年二月にかけて、城下で大規模な戦闘が行われ、(郭縁生の『述征記』によると、「黎陽城の西に袁譚城があり、城南にもう一つの城がある。これは曹操が袁譚を攻撃した際に築いたものである」という。)袁譚と袁尚は敗れて退却した。曹操が包囲しようとしたため、彼らは夜間に遁走して鄴に戻った。曹操が進軍すると、袁尚は迎撃して曹操を破り、曹操軍は許に帰還した。袁譚は袁尚に言った。「私の鎧甲が精良でなかったため、以前曹操に敗れたのだ。今、曹操軍は撤退し、兵士たちは帰郷を望んでいる。彼らが渡河を終える前に出兵して急襲すれば、大いに打ち破ることができる。この好機を逃すべきではない。」袁尚は疑って許可せず、兵を増やすことも、鎧甲を取り替えることもしなかった。袁譚は大いに怒り、郭図と辛評はこれに乗じて袁譚に言った。「先公(袁紹)が将軍(袁譚)を兄の後継ぎとして出したのは、すべて審配が仕組んだことです。」袁譚はこれを認めた。そこで兵を率いて袁尚を攻撃し、外門で戦った。(外城の門である。)袁譚は敗れ、兵を率いて南皮に戻った。(南皮は現在の滄州の県である。章武に北皮亭があるため、ここを南皮と呼ぶ。)
別駕の王修が吏人を率いて青州から救援に赴き、袁譚は戻って再び袁尚を攻めようとしたが、王修に尋ねて言った。「計略はどうすればよいか?」王修は言った。
「兄弟は左右の手のようなものです。人が戦おうとしてその右手を切り落とし、『私は必ずお前に勝つ』と言うようなもので、これでよいでしょうか。兄弟を捨てて親しまなければ、天下に誰を親しむというのでしょう。讒言する者が間に入って争いを仕掛け、一時の利益を求めることがありますが、どうか耳を塞いで聞き入れないでください。もし佞臣を数人斬り、再び親しく睦み合って四方を防衛すれば、天下を横行することができます。」袁譚は従わなかった。袁尚は再び自ら軍を率いて袁譚を攻撃し、袁譚は大敗して城に籠り固守した。(《漢書》に蒯通が言うには「必ず城に籠って固守するだろう」とある。音義によれば「嬰とは城を以て自らを巡らすことをいう」という。)袁尚が激しく包囲したため、袁譚は平原に逃れ、穎川の辛毗を曹操のもとに遣わして救援を請うた。(魏志によれば「辛毗は穎川陽翟の人である。袁譚は辛毗を太祖(曹操)のもとに遣わして和睦を求め、辛毗は太祖に会って袁譚の意向を伝えた」という。)
太祖は喜び、辛毗に言った。『袁譚は信頼できるか。袁尚は必ず討てるか。』辛毗は答えた。『明公は信頼か欺瞞かを問うのではなく、ただその情勢を論じるべきです。袁氏はそもそも兄弟が互いに討ち合っているのであり、他人がその間隙に入り込めるからではなく、天下が己の手で定められると考えているのです。一朝にして明公に救援を求めたことから、これは明らかです。』」劉表は手紙を送って袁譚を諫めて言った。
天が災害を降らせ、禍難が盛んに流れ、初めは異なる族と交わり、ついに同盟を成し、王室を震盪させ、常道が敗れた。(左伝に「震盪播越」とある。書経に「彝倫攸斁」とある。彝は常、倫は理、攸は所、斁は敗である。)このため、知恵に通じた士は、痛心入骨し、時人が互いに忍ぶことができないことを悲しまない者はなかった。しかし、私と太公は、志を同じくし願いを等しくし、(太公と言うのは尊んで、袁紹を指す。)楚と魏が遠く隔たり、山河が遠く離れていても、(楚は荊州、魏は冀州である。)力を合わせ心を尽くし、共に王室を助け、(『左伝』に「同好悪、奬王室」とある。杜預が「奬は助なり」と注す。)異族に我が盟を犯させず、異類に我が友好を絶たせず、これが私と太公に二心がなかったことによるものである。功績が未だ成らぬうちに、太公が崩じ、賢い後嗣が統を継ぎ、洪業を継いだ。累代の徳を宣べ、大いに顕かな福祚を履み、厳敵を鄴都で摧き、美しい功業を朔土に揚げ、疆宇を顧み定め、河外を虎視し、我が同盟のすべてが、影のように従わない者はなかった。どうして青蠅が竿旌に飛び、無忌が二つの塁に遊ぶことを悟らなかったのか、(『詩・小雅』に「営営青蠅、止於榛。讒人罔極、構我二人」とある。史記によれば、費無忌は楚の平王に寵愛され、太子建の少傅となったが、太子には寵愛されず、日夜太子を王に讒言し、太子を誅殺しようとした。太子は宋に亡命した。左伝では「無極」と作る。竿旌、二塁とは、袁譚、袁尚を指す。)股肱が二体に分かれ、胸と背中が異なる身に絶たれることになろうとは。初めにこの報せを聞いた時、まだそうではないと思ったが、確かな情報が来て、閼伯と実沈の憤りが既に成り、親を棄てて仇に就く計略が既に決まったことを知った。(左伝で子産が言う「高辛氏に二人の子あり、伯は閼伯、季は実沈、曠林に居り、能わず、日々干戈を尋ね、以て相征討す」。)旗が中原で交わり、暴かれた屍が城下に累なった。これを聞いて哽咽し、存するか亡ぶかのようであった。昔、三王、五伯から下って戦国に至るまで、君臣が互いに弑し、父子が互いに殺し、兄弟が互いに傷つけ、親戚が互いに滅ぼすことは、時にあったことである。しかし、ある者は王業を成そうとし、(周公が管叔、蔡叔を誅したような類い。)ある者は覇功を定めようとし、(斉の桓公が子糾を殺したようなこと。)皆いわゆる逆に取り順に守り、一世に富強を求めたのである。
親族を捨てて異国に赴き、その根本を切り離して、長く世を全うできる者はいない。
昔、斉の襄公は九代前の仇を報いた(『公羊伝』に「紀侯が国を大きく去った。大去とは何か?滅ぼされたのである。誰が滅ぼしたのか?斉が滅ぼした。なぜ斉が滅ぼしたと言わないのか?襄公のためを思って避諱したのである。春秋は賢者のためを思って避諱する。襄公の何が賢いのか?仇を報いたからである。どんな仇か?遠祖の仇である。哀公が周で烹殺されたのは、紀侯が讒言したからである。遠祖とは何代前か?九代前である。」『史記』に「紀侯が斉の哀公を周に讒言し、周の夷王が哀公を烹殺した。その弟の静が立ち、これが胡公である。弟の献公が立ち、子の武公が立ち、子の厲公が立ち、子の文公が立ち、子の成公が立ち、子の莊公が立ち、子の厘公が立ち、子の襄公の八年に、紀がその邑を去った。これが九代である。」)。士匄と荀偃の事績も同様であり、それゆえ春秋はその義を称え、君子はその信を称える。
伯游(荀偃)が斉に対して抱いた恨みは、太公(袁譚)が曹(曹操)に対して抱く憤りには及ばない。宣子(士匄)が臣下として先人の業を継いだのは、仁君(袁尚)が後を継いで統治者となったのには及ばない。(荀偃は晋の大夫である。左伝によれば、荀偃が中軍を率い、士匄がこれを補佐して斉を討伐した。黄河を渡った時、荀偃は目を病んで突出し、死に際して目を閉じず、含玉を受け付けなかった。欒盈が「それはまだ斉に対することを成し遂げていないからではなかろうか?」と言うと、士匄がその体を撫でて「主君がもしお亡くなりになっても、斉に対することを継がぬことがあればこの河のようになろう!」と言うと、ようやく目を閉じて含玉を受けた。伯游は荀偃の字である。宣子はすなわち士匄であり、士燮の子、士會の孫である。) そもそも君子は難を避けるにも仇国には赴かず、交わりが絶えても悪口を言わないものだ(左伝に、公山不狃が「君子は難を避けるにも仇国には赴かない」と言った。杜預の注に「違は、奔亡(逃亡)すること」とある。史記楽毅が燕の恵王に送った書簡に「臣は聞く、古の君子は、交わりが絶えても悪口を言わないと」とある)。ましてや先人の仇を忘れ、親族のよしみを捨てて、万世の戒めとなり、同盟の恥を後世に残すようなことがあってよいだろうか!蛮夷戎狄でさえも非難の言葉を発するであろうのに、ましてや我々同族が、痛心しないことがあろうか!
当世に竹帛(歴史書)に名を残し、一代で宗廟の祭祀を全うしようとするなら、どうして兄弟が生き別れて非難を分かち合い、得失を争って比べ合うことができようか?もし冀州(袁尚)に弟としての道理に従わない傲慢さがあり、恭順の節度がないならば、仁君(袁譚)は志を低くし身を辱めて、事を成し遂げることを務めとすべきである。事が定まった後、天下の人々にその是非曲直を判断させれば、それもまた高い義とは言えないだろうか?今、仁君が夫人(劉氏)に憎まれるのは、鄭の荘公が姜氏に憎まれたほどのことではない。兄弟の間のわだかまりも、重華(舜)が象敖に対して抱いたほどのものではない。
しかし荘公は結局、大隧での楽しみを尊び、象敖は最終的に有鼻に封じられた。どうか百のわだかまりを捨て、古い義理を思い起こし、再び母子兄弟として元のように仲良くしてほしい。(鄭の武公が申から妻を娶り、武姜と言った。荘公と叔段を生んだ。荘公が逆子で生まれたため、姜氏は驚き、彼を憎むようになり、叔段を愛して彼を立てようとしたが、武公は許さなかった。荘公が立つと、姜氏は京を請い、叔段をそこに住まわせた。叔段は甲冑兵器を整え、鄭を襲おうとし、夫人(姜氏)は城門を開けようとした。荘公はついに姜氏を城穎に置き、「黄泉に至らぬ限り、互いに会うことはない」と誓った。後に後悔した。穎考叔が「君は何を憂えるのですか?もし地を掘って泉に至り、トンネルで会えば、誰がそれを否定できましょうか!」と言った。これに従った。公(荘公)が入って「大隧の中、その楽しみも融融たり」と賦し、姜が出て「大隧の外、その楽しみも洩洩たり」と賦した。ついに母子は元のようになった。事は左伝に見える。史記によれば、舜の名は重華である。父の瞽叟は盲目で舜の母が死に、瞽叟は再び妻を娶り、象を生んだ。瞽叟は後妻の子を愛し、常に舜を殺そうとした。舜が帝位に就くと、弟の象を諸侯に封じた。孟子に「象は至って不仁であるが、有鼻に封じた。仁者はその弟に対して、怒りを心に秘めず、怨みを宿さず、親しみ愛するだけである」とある。鼻国は永州営道県の北にあり、今もなお鼻亭という。)今、兵士と馬を整え、待ち望んで鵠のように立っている。
また尚書に諫言したが、いずれも従わなかった。(『魏氏春秋』に袁紹の上表文を載せている。「辛評・郭図に変事が起こり、同生(兄弟)に禍が結ばれ、閼伯と実沈の争いの跡を追い、棠棣の死喪の義を忘れ、自ら干戈を執り、屍は血にまみれ、これを聞いて哽咽し、生きているのか死んでいるのかわからない。昔、軒轅には涿鹿の戦いがあり、周公には商・奄の征討があった。これらは皆、穢れた害を除き切り、王業を定めるためのものであり、強弱の争いや喜怒の憤りによるものではない。それゆえ、親族を滅ぼしても咎められず、兄を誅殺しても傷つけられなかった。今、二君は初めて洪業(大業)を継承し、前の軌道を継ぎつつある。進めば国家が傾き危うくなる憂いがあり、退けば先公(袁紹)の遺恨を負うことになる。ただ曹操を討つことに務め、ただ国を安んじるべきである。なぜか?金木水火は剛柔が互いに補い合って、初めて調和を得、人のために用いられることができる。今、青州(袁譚)は天性が峻烈で急であり、曲直に迷っている。仁君(袁尚)は度量が広大で、余裕がある。大をもって小を包み、優れたもので劣ったものを包容し、まず曹操を除いて、先公の恨みを晴らすべきである。事が定まった後、それから曲直の評議をすれば、それもまた善いことではなかろうか!もし遠大な計画に留意し、己を克ち礼に復するなら、軍勢を整えて長駆し、共に王室を補佐すべきである。もし迷って戻らず、過ちを改めないなら、胡夷でさえ非難の言葉を発するであろう。ましてや我々同盟が、再び仁君の戦いに力を合わせることができようか!これは韓盧と東郭の狡兎が前に自ら困り、田父の獲物となるのを残すようなものである。憤り躍り鶴のように望み、和合の声を聞くことを願う。もしそれが順調ならば、袁氏一族は漢と共に栄えるであろう!もしそれがうまくいかなければ、同盟は永遠に望みがなくなる。」袁紹の二つの書簡はともに王粲の文集に見える。)
義は人よりも重く、事はやむを得ないからである。昔、先公(袁紹)は将軍(袁譚)を廃して賢兄(袁譚の兄)を継がせ、我が将軍(袁尚)を立てて嫡嗣とし、上は祖霊に告げ、下は譜牒に書き記し、海内の遠近、誰かが詳しく聞かないことがあろうか!どうして凶臣の郭図が、妄りに蛇足を画き、曲がった言葉で諂い媚び、親しい身内をかき乱すことを予想できようか。ついに将軍(袁譚)に孝友の仁を忘れさせ、閼伯と実沈の争いのような過ちを襲わせ、兵を放って略奪し突撃させ、城を屠り吏を殺し、冤魂は幽冥に痛み、創痍は草棘に覆われるに至った。さらにまた鄴城を手に入れようと図り、秦胡に賞賜を与えると約束し、その財物や婦女について、あらかじめ分配の割合を決めていた。また、『私は老いた母がいるが、ただ身体を完全に保つように急がせるだけだ』と言ったという。この言葉を聞く者は、誰もが心を悼み涙を揮い、太夫人(袁譚の母)を憂い哀しませ憤慨させ隔絶させ、我が州の君臣は眠らずに悲嘆した。誠に拱手黙して執事(袁譚)の図る所に従えば、春秋の死命の節に背くことを恐れ、太夫人に測りがたい禍いを遺し、先公の世にも稀な大業を損なうことになる。我が将軍(袁尚)は辞退することを許されず、館陶の戦役に至ったのである。伏して考えるに、将軍(袁譚)は至孝の心が盛んで、幼少の頃から発現し、兄弟への友愛の性は自然に生まれ、聡明さによって顕著に現れ、敏達さによって行動し、古今の挙措を覧て、興廃の兆しを察知し、栄華財貨を糞土のように軽んじ、名声と地位を丘岳のように貴んだ。どうして突然に迷い沈み、賢哲の操りを堕とし、積もった怨みを放って憤り、家を破る禍いを取るようなことになろうか!首を長くして待ち望むのは仇敵であり、慈しむ親を虎狼の牙に委ねて、一朝の志を逞しゅうすること、なんと痛ましいことではないか!
もしも天が尊心を啓き、図りを改め慮りを易えるならば、我が将軍(袁尚)は将軍(袁譚)の股掌の上に這いつくばって悲号し、配(審配)らもまた身を屈めて体を布き、斧鑕の刑に従うであろう。もしまた悔い改めなければ、禍いは将に及ぼう。どうか吉凶を熟慮され、環か玦か(去就の決断)を賜りたい。」(袁)譚は受け入れなかった。注()孔子家語に曰く、「忠言は耳に逆らうが行いに利する」と。
注()左伝に晏嬰が曰く、「君が社稷のために死ぬならばそれに従って死に、社稷のために亡びるならばそれに従って亡びる」と。また晋の解楊が曰く、「命を受けて出で、死すとも隕ちず。死して命を成せば、臣の禄である」と。
注()左伝に曰く「天実に乱を剝く」とある。
注()左伝に曰く、鄭の子太叔が言った、「周公は管叔を殺し、蔡叔を放った。どうして愛さなかったことがあろうか?王室のためである」と。
注()公羊伝に曰く、「公子牙卒。なぜ弟と称さないのか?殺されたからである。季子が殺したことを隠すためである。莊公が病んだ時、叔牙が言った、『魯は一生一及(父死子継と兄終弟及)である。君はそれをご存知である。慶父がいる』と。季子が言った、『どうしてそんなことができようか?これは乱を為そうとしているのだ!』と。薬を調合して飲ませ、言った、『公子が私の言葉に従ってこれを飲めば、天下の戮笑を免れ、必ずや魯国に後を残すことができる』と。誅罰は兄弟を避けず、君臣の義である」と。
注()戦国策に曰く、「楚に祠る者がおり、その舍人に酒一琶を賜った。互いに言った、『数人で飲むには足りず、一人で飲むには余る。どうぞ各自地面に蛇を画き、先にできた者が酒を飲もう』と。一人の蛇が先にでき、酒を引き寄せて飲もうとしたが、左手に酒を持ち、右手で蛇を画き、言った、『私はこれに足を付け加えることができる』と。まだ完成しないうちに、一人の蛇ができ、その琶を奪い、言った、『蛇にはもともと足はない。あなたがどうして足を付けられようか?』と言って遂に酒を飲んだ。蛇に足を画いた者はついにその酒を失った」と。
注()詒は遺すこと。不世は非常と言うようなもの。献帝春秋に曰く、「譚と尚は遂に干戈を尋ね、互いに征討した。譚の軍は不利で、平原に保った。尚は館陶に軍を置いた。譚がこれを撃って敗れ、尚は険要な地に走って守った。譚が追撃して攻めると、尚は奇伏を設けて大いに譚軍を破り、死屍と流血は数え切れなかった。譚は走って平原に還った」と。
注()墮の音は許規の反切。
注()《孫卿子》に曰く、「人を絶つには玦を以てし、人を反(返)すには環を以てす」と。
曹操はこれによって鄴を攻撃し、審配の将である馮礼が内応し、突門を開いて曹操の兵三百余人を内に入れた。審配はそれに気づき、城上から大石で門を撃ち、門は閉じ、入った者は皆死んだ。曹操はそこで塹壕を掘って城を囲み、周囲四十里、初めは浅く掘り、越えられるかのように示した。審配はそれを見て、笑い出て争って利を取ろうとしなかった。曹操は一夜でそれを浚い、広さ深さ二丈とし、漳水を引いて城に注いだ。五月から八月まで、城中で餓死者が半数を超えた。袁尚は鄴が危急と聞き、将兵万余人を率いて還り城を救おうとしたが、曹操は逆撃してこれを破った。袁尚は走って曲漳に依り営を為した。曹操は再びこれを囲んだが、まだ合囲が完成しないうちに、袁尚は恐れ、陰夔と陳琳を遣わして降伏を求めたが、聞き入れられなかった。袁尚は還って藍口に走った。曹操は再び進軍し、急いでこれを囲んだ。袁尚の将である馬延らが陣前に臨んで降伏し、衆は大いに潰え、袁尚は中山に奔った。(曹操は)その輜重をことごとく収め、袁尚の印綬・節鉞および衣物を得て、城中に示した。城中は崩れ沮んだ。審配は士卒に命じて言った、「堅く守り死に戦え。曹操軍は疲れている。幽州(袁熙)の軍がまさに来る。主君がいないことを何の憂いがあろうか!」曹操が包囲陣を巡行すると、審配は伏せた弩でこれを射て、ほとんど命中させた。(審配は)その兄の子である審栄を東門校尉とし、審栄は夜に門を開いて曹操の兵を内に入れた。審配は城中で拒戦したが、生け捕りにされた。
曹操は審配に言った、「私は先ほど包囲陣を巡行したが、弩がなんと多いことか」と。審配は言った、「まだ少ないのが恨めしい」と。曹操は言った、「卿は袁氏に忠実である。それもまたやむを得ないことだ」と。生かそうとする意図があった。審配は意気壮烈で、終に屈する言葉はなく、見る者は誰もが嘆息し、遂に斬った。
袁尚の母・妻子を全うし、その財宝を返還した。高干は并州を以て降伏し、再び刺史となった。注()《墨子・備突篇》に曰く、「城百歩ごとに一つの突門を設ける。突門には車の両輪を用い、木で束ねてその上に塗り、維(綱)を突門内に置く。門の広狭を測り、人を入れて門から四尺のところに、中に窐突を置き、門の傍に橐を置き、醋状(酢のようなもの)を充たし、また艾を置く。敵が入ってくれば、輪を下ろして塞ぎ、橐を鼓してこれを熏す」とある。
注()漳水の曲がりくねった所。
注()相州安陽県界に藍嵯山があり、鄴に近い。おそらく藍山の入口であろう。
注:幾は祈と読む。中は竹仲反と読む。
注:先賢行狀に「この日、まず配を縛って帳下に連れて行くと、辛毗らが逆に馬鞭でその頭を打ち、罵って言った。『奴隷め、お前は今日本当に死ぬぞ。』配は振り返って言った。『犬どもめ!お前たちが冀州を破ったのだ。お前たちを殺せなかったことが残念だ。』太祖はすでに配を生かそうとする意向があったが、配に屈する言葉はなく、辛毗らが号哭してやまなかったので、ついに彼を殺した。」とある。
曹操が鄴を包囲したとき、譚はまたも背き、甘陵、安平、勃海、河間を攻略し、中山で尚を攻撃した。尚は敗れ、故安に逃げて熙に従ったが、譚はその兵衆をことごとく収容し、龍湊に戻って駐屯した。
十二月、曹操が譚を討伐し、その城門に軍を進めた。譚は夜に遁走して南皮に逃れ、清河に臨んで駐屯した。翌年正月、曹操は急攻した。譚は出戦しようとしたが、軍が合流する前に破られた。譚は髪を振り乱して馬を駆った。追撃する者は彼が普通の人間ではないと思い、急いで追いかけた。譚は馬から落ち、振り返って言った。『おい、若者、私を通せ。私はお前を富貴にできる。』言葉が終わらないうちに、首はすでに地面に落ちた。こうして郭図らを斬り、その妻子を殺した。注:趨は促と読む。
熙と尚はその部将の焦触と張南に攻撃され、遼西の烏桓に逃れた。触は自ら幽州刺史を称し、諸郡の太守や令長を駆り立てて袁氏に背き曹操に付かせ、数万の兵を並べた。白馬を殺して盟を結び、令を下した。『違う者は斬る!』兵衆は誰も仰ぎ見ようとせず、それぞれ順番に血をすすった。別駕の代郡の韓珩の番になると、言った。『私は袁公父子の厚恩を受けた。今、彼らが破れ滅びたのに、知恵では救えず、勇気では死ねなかった。義において欠けている。ましてや北面して曹氏に仕えるなど、私にはできないことだ!』一座は珩のため顔色を失った。触は言った。『大事を挙げるには、大義を立てるべきだ。事の成否は一人にかかっているわけではない。珩の志を全うさせ、君主に仕える者を励ますことにしよう。』曹操は珩の節義を聞き、非常に高く評価し、たびたび召し出したが応じず、家で死去した。注:珩は行と読む。
注:先賢行狀に「珩は字を子佩といい、代郡の人である。清く純粋で雅量があった。幼くして父母を亡くし、兄姉を養い、宗族から孝悌と称された」とある。
高干がまた反逆し、上党太守を捕らえ、兵を挙げて壺口関を守った。十一年、曹操が自ら干を征伐すると、干はその部将に城を守らせ、自らは匈奴に救援を求めに行ったが、得られず、わずか数騎で逃亡し、南の荊州に逃げようとした。上洛都尉が捕らえて斬った。注:潞州上党県に壺山口があり、その険しさによって関を置いた。
注:典論に「上洛都尉の王琰が高干を捕らえ、功によって侯に封じられた。その妻は家で泣き、琰が富貴になったのでまた妾を娶るのだろうと思ったためである」とある。
公孫康
詔制に従って襄平城南に壇を設け、天地を郊祀し、藉田を行い兵を整え、鸞輅、九旒、旄頭、羽騎に乗った。建安九年、司空の曹操が表して奮威将軍とし、永寧郷侯に封じた。度が死ぬと、康が継ぎ、こうして遼土を占拠した。
劉表
劉表は字を景升といい、山陽郡高平県の人で、魯恭王の後裔である。身長八尺あまり、姿形は温和で立派であった。同郡の張儉らとともに誹謗の議論を受け、「八顧」と号された。詔書によって党人を逮捕取り調べることになり、表は逃亡して難を免れた。党禁が解けると、大将軍何進の掾に召された。
そこで劉表は蒯越に命じて宗賊の頭目を誘い出させ、やって来た十五人を皆斬り、その配下の兵を奪い取った。ただ江夏の賊張虎と陳坐だけが兵を擁して襄陽城を占拠していたが、劉表が蒯越と龐季を派遣して説得させると、降伏した。江南はすべて平定された。諸郡県の守令たちは劉表の威名を聞き、多くが印綬を解いて去った。劉表はそこで襄陽で軍を整え、時勢の変化をうかがった。
注()『王氏譜』にいう。「王叡は字を通曜といい、晋の太保王祥の伯父である。」『呉録』にいう。「王叡は捕らえられ、驚いて『私は何の罪があるのか』と言った。孫堅は『何も知らないという罪だ』と言った。王叡は追い詰められ、金を削って飲み、死んだ。」
注()傅子にいう。「蒯越は字を異度といい、魏の太祖(曹操)が荊州を平定した時、荀彧に手紙を送って『荊州を得たことは喜ばないが、異度を得たことを喜ぶ』と言った。」
注()『漢官儀』によると、荊州は長沙、零陵、桂陽、南陽、江夏、武陵、南郡、章陵などを管轄する。
袁術は従兄の袁紹と不和であり、袁紹が劉表と結んだので、袁術は孫堅と連合して劉表を襲撃した。劉表は敗れ、孫堅は襄陽を包囲した。ちょうど劉表の部将黄祖の救援が到着し、孫堅は流れ矢に当たって死に、残りの兵は退却した。()李傕らが長安に入ると、冬、劉表は使者を派遣して貢物を献上した。李傕は劉表を鎮南将軍・荊州牧に任じ、成武侯に封じ、節を与え、自らの援けとした。注()『典略』にいう。「劉表は夜に部将黄祖を遣わし、密かに出兵させた。孫堅は迎え撃って戦い、黄祖は敗走し、峴山に逃げ込んだ。孫堅は勝ちに乗じて夜に黄祖を追撃し、黄祖の部下の兵が竹や木の間から孫堅を射て、殺した。」『英雄記』にいう。「劉表の部将呂介が兵を率いて山に沿って孫堅に向かい、孫堅は軽騎で山を巡って呂介を討った。呂介の部下の兵が孫堅の頭を射て、即時に死んだ。」これとは異なる。
注()『英雄記』にいう。「張羨は南陽の人である。先に零陵、桂陽の守を務め、江湘の間の人心を大いに得た。しかし性格が強情で従順でなく、劉表はその人となりを軽んじ、あまり礼遇しなかった。張羨はこれにより恨みを抱き、遂に劉表に背いた。」
注()闓の音は開。
曹操と袁紹が官渡で対峙すると、袁紹は人を派遣して援助を求めた。劉表は承諾したが、兵を出さず、曹操を援けることもせず、天下の変を観望しようとした。従事中郎の南陽の韓嵩と、()別駕の劉先が劉表を説いて()言った。「今、豪傑が争いを並べ、二雄が相対峙しています。天子の重みは将軍(劉表)にかかっています。もし何かをなそうとするなら、その疲弊に乗じて起つことができます。もしそうでないなら、当然、従うべき方を選ばねばなりません。どうして十万の兵を擁しながら、成敗を坐視し、援けを求められても助けず、賢者を見ても帰順しようとしないことがありましょうか。この二つの怨みが必ず将軍に集まり、中立を保つことはできないでしょう。曹操は用兵に巧みで、かつ賢俊が多く帰順しています。その勢いで必ず袁紹を打ち破り、その後兵を移して江漢に向かうでしょう。将軍には防ぎきれない恐れがあります。今の勝ち策は、荊州を挙げて曹操に付くことに勝るものはありません。曹操は必ず将軍に厚く恩を返し、長く福と位を享受し、後嗣にまで伝えることができます。これが万全の策です。」蒯越もこれを勧めた。劉表は狐疑して決断できず、韓嵩を曹操のもとに派遣し、虚実を観察させた。韓嵩に言った。「今、天下はまだ定まっていない。曹操は天子を擁して許に都している。君は私のためにその隙を観てきてくれ。」
韓嵩は答えて言った。「私は曹公の英明さを見ると、必ず天下で志を得るでしょう。将軍がもし彼に帰順しようとするなら、私を行かせればよいでしょう。もしためらわれるなら、私が京師に至り、天子が私に一職を与え、辞退することを許されなければ、私は天子の臣となり、将軍の旧吏となるだけです。君に仕える者は君のためであり、もはや将軍のために死ぬことはありません。どうか重ねてお考えください。」劉表は彼が使者を恐れていると思い、強いて行かせた。許に至ると、果たして韓嵩は侍中・零陵太守に任ぜられた。戻ると、朝廷と曹操の徳を大いに称え、子を人質として送るよう勧めた。劉表は大いに怒り、二心を抱いていると思い、兵を並べて韓嵩を罵り、斬ろうとした。()韓嵩は動じることなく、ゆっくりと出発時の言葉を述べた。劉表の妻蔡氏は韓嵩が賢者であることを知り、諫めて止めさせた。
劉表はなお怒り、従行者を拷問して殺した。韓嵩に他意がないことを知ると、ただ韓嵩を囚えるだけだった。()注()『先賢行状』にいう。「韓嵩は字を徳高といい、義陽の人である。若くして学問を好み、貧しくても節操を変えなかった。」
注()『零陵先賢伝』にいう。「劉先は字を始宗という。博学で記憶力が強く、特に黄老を好み、漢の典故に明るく習熟していた。」
注:詬とは罵ることであり。注:傅子に「劉表の妻蔡氏が諫めて言った。『韓嵩は楚国の声望ある人物であり、しかもその言葉は正しい。誅殺する理由がない』と。劉表はそこで誅殺せずに彼を囚禁した」とある。
二人の子、劉琦と劉琮がいた。劉表は当初、劉琦の容貌が自分に似ているとして、非常に可愛がっていたが、後に劉琮のために後妻蔡氏の姪を娶らせると、蔡氏は劉琮を愛し劉琦を憎むようになり、誹謗や称賛の言葉が日々劉表の耳に入るようになった。劉表は後妻を寵愛し、その言葉を信じて受け入れた。また、妻の弟である蔡瑁と甥の張允はともに劉表に寵愛され、劉琮とも親しくしていた。劉琦は自らの安泰を図れず、かつて琅邪の人諸葛亮に身の安全を図る策を相談した。
諸葛亮は最初は答えなかった。後に共に高楼に登り、梯子を外させて、諸葛亮に言った。「今日は上は天に届かず、下は地に届かない。言葉はあなたの口から出て私の耳に入る。話してもらえないか?」諸葛亮は言った。「あなたは申生が内にいて危険に陥り、重耳が外にいて安泰だったことをご存じないのですか?」劉琦はその意味を悟り、密かに外出する計画を立てた。ちょうど劉表配下の江夏太守黄祖が孫権に殺されたので、劉琦はその職務を代行することを求めた。
注:申生は晋の献公の太子である。驪姫の讒言によって自縊死した。重耳は申生の弟である。驪姫の讒言を恐れて出奔した。献公が没すると、重耳が入国し、文公となり、遂に覇者となった。『左氏伝』に見える。
劉表の病が重くなると、劉琦が帰省して見舞った。劉琦はもともと慈孝であったが、張允らは彼が劉表に面会して父子の情が通じ、後継ぎとして託す意思が生じることを恐れ、劉琦に言った。「将軍(劉表)はあなたに江夏を統治するよう命じられ、その任務は非常に重い。今、多くの人々を置いて来たならば、必ず叱責され怒られるでしょう。親の心を傷つけ、病をさらに重くすることは、孝行の道ではありません。」そして戸口で遮り、面会させなかった。劉琦は涙を流して去り、人々はこれを聞いて哀れんだ。こうして劉琮が後継ぎとされた。
劉琮が侯の印綬を劉琦に授けようとした。劉琦は怒り、それを地面に投げつけ、喪に服する機会に乗じて乱を起こそうとした。ちょうど曹操の軍が新野に到着したので、劉琦は江南に逃れた。
蒯越、韓嵩および東曹掾の傅巽らが劉琮を説得して降伏させた。劉琮は言った。「今、諸君と共に全楚の地を占拠し、先君の事業を守り、天下の情勢を見守っている。どうしてできないことがあろうか?」傅巽は言った。「逆と順には大義があり、強弱には定まった形勢がある。人臣として人主に抵抗することは、逆の道である。新たに造られた楚をもって中国を防ぐことは、必ず危険である。劉備をもって曹公に敵対することは、適切ではない。この三つはすべて短所であり、王師の鋭鋒に抗しようとすることは、必ず滅亡の道である。将軍は自ら考えてみてください。劉備と比べてどうですか?」劉琮は言った。「及ばない。」傅巽は言った。「もし劉備が曹公を防ぐのに十分でないと真に思うなら、たとえ全楚であっても自ら存続することはできないでしょう。もし劉備が曹公を防ぐのに十分であると真に思うなら、劉備は将軍の下にはつかないでしょう。将軍には疑わないことを願います。」注:傅子に「傅巽は字を公悌といい、才知に富み博識で、人を見抜く鑑識眼があった」とある。
曹操の軍が襄陽に到着すると、劉琮は州全体を挙げて降伏を請い、劉備は夏口に逃れた。曹操は劉琮を青州刺史とし、列侯に封じた。
蒯越ら侯となった者は十五人であった。そこで韓嵩の囚禁を解き、その名声が高いことを重んじ、非常に礼遇して、州人の優劣を条列して品評させ、皆を抜擢して用いた。韓嵩を大鴻臚とし、交友の礼をもって遇した。蒯越を光禄勲とし、劉先を尚書令とした。初め、劉表が袁紹と結んだ時、侍中従事の鄧義が諫めたが聞き入れられなかった。鄧義は病気を理由に退き、劉表の世の間は仕えず、曹操は彼を侍中とした。その他多くが高官に至った。注:夏口は城であり、現在の鄂州である。左伝に「呉が楚を伐ち、楚の沈尹戌が夏汭に急行した」とある。杜預の注に「漢水が江に入る所、今の夏口である」とある。
曹操が後に赤壁で敗れると、劉備は劉琦を荊州刺史に上表した。翌年、劉琦は死去した。注:赤壁は山の名で、現在の鄂州蒲圻県にある。
史論
論じて言う。袁紹は初め豪侠として衆望を得て、雄大な覇業の構想を抱き、天下で兵を挙げ旗を揚げる者は、みな彼の名を借りた。戦場に臨んで敵と決戦する時には、勇猛な者が命を争って戦い、深く策を練り高く議論する時には、知恵ある者が心を傾けた。その資質は盛大であったと言えよう。韓非は言う。「頑固で剛直で和せず、諫言を無視して勝ちにこだわり、嫡子を軽んじて庶子を重んじる、これを亡国の兆しという。」(『韓非子・亡徴』に「頑固で剛直で和せず、諫言を無視して勝ちにこだわり、国家を顧みずに軽率に信義を行う者は、滅びうる」とある。また「太子が軽んじられ、庶子が強ければ、滅びうる」とある。また「太子が卑しく庶子が尊ければ、滅びうる」とある。)劉表はその道を越えることができず、臥したまま天運を受け取り、天下三分の動きに倣おうとしたが、それはまるで木偶が人に及ばないようなものであった。(木を刻んで人形としたように、何も知らないことを言う。『前書』に「木禺龍一」とある。音義に「禺は寄せること。木に龍の形を寄せる」とある。)
賛して言う。袁紹の風貌は弘雅であり、劉表もまた長者であった。河外に雄を称え、南夏に強を擅にした。魚のように連なる漢の船、雲のように屯する冀の馬。図を窺い鼎を訊ね、天を祀り社に類す。既に天の働きを云い、また人の補佐を資とした。強を誇って成すこと少なく、坐して談ずるのみで何を望めよう。寵愛に惑い身は倒れ業は喪われた。