後漢書

巻七十四上

袁紹劉表列傳 第六十四上

 

袁紹

袁紹はあざなを本初といい、汝南郡汝陽県の人で、司徒の袁湯の孫である。父の袁成は五官中郎将であった。袁紹は体が丈夫で交際を好み、大将軍の梁冀以下、彼と親しくしない者はなかった。

注[一] 袁山松の『書』によると、「袁紹は司空の袁逢の庶子で、伯父の袁成の後を継いだ」という。魏書も同じである。『英雄記』によると、「袁成は字を文開といい、梁冀と親しく交わり、言うことは何でも聞き入れられた。都の諺に『事がうまくいかなければ、文開に聞け』というものがあった」。

袁紹は若くして郎となり、濮陽県令に任命されたが、母の喪に遭い官を去った。三年の喪が終わると、幼くして孤児となったことを思い返し、さらに父の喪に服した。喪が明けると、洛陽に移り住んだ。袁紹は風貌が威厳に満ち、士を愛し名声を養った。代々三公の家柄であり、賓客が集まるのに加え、心を傾けて礼を尽くしたので、争ってその門を訪れる者がなく、士は貴賤を問わず彼と対等の礼を交わし、多くの車が街路を埋め尽くした。宦官たちは皆これを憎んだ。中常侍の趙忠が宮中で言った。「袁本初は勝手に名声を高め、死士を養うことを好んでいる。この子が結局何をしようとしているのか分からない」。叔父の太傅袁隗はこれを聞いて袁紹を呼び、趙忠の言葉を伝えて責めたが、袁紹は結局改めなかった。

注[一]『英雄記

『英雄記』によると、「袁紹は軽々しく賓客と通じず、海内で名を知られていない者には会わなかった。また遊侠を好み、張孟卓・何伯求・吳子卿・許子遠らと奔走の友となった」という。

注[二]『英雄記』曰:「紹不妄通賓客,非海內知名不得相見。又好遊俠,與張孟卓、何伯求、吳子卿、許子遠皆為奔走之友。」

注[三]

說文

曰:「軿車,衣車也。」鄭玄注《周禮》曰:「軿猶屏也,取其自蔽隱。」柴轂,賤者之車。

後辟大將軍何進掾,為侍御史、虎賁中郎將。

中平五年

,初置西園八校尉,以紹為佐軍校尉。[一]

注[一]樂資《山陽公載記》曰:「小黃門蹇碩為上軍校尉,虎賁中郎將袁紹為中軍校尉,屯騎校尉鮑鴻為下軍校尉,議郎曹操為典軍校尉,趙融為助軍左校尉,馮芳為助軍右校尉,諫議大夫夏牟為左校尉,淳于瓊為右校尉:凡八人,謂之西園軍,皆統於碩。」此云「佐軍」,與彼文不同。

靈帝崩,紹勸何進征董卓等眾軍,脅太后誅諸宦官,轉紹司隸校尉。語已見何進傳。及卓將兵至,騎都尉太山鮑信說紹曰:[一]「董卓擁制強兵,將有異志,今不早圖,必為所制。及其新至疲勞,襲之可禽也。」紹畏卓,不敢發。頃之,卓議欲廢立,謂紹曰:「天下之主,宜得賢明,每念靈帝,令人憤毒。[二]董侯似可,今當立之。」紹曰:「今上富於春秋,未有不善宣於天下。若公違禮任情,廢嫡立庶,恐觿議未安。」卓案□叱紹曰:「豎子敢然!天下之事,豈不在我?我欲為之,誰敢不從!」紹詭對曰:「此國之大事,請出與太傅議之。」卓復言「劉氏種不足復遺」。紹勃然曰:「天下健者,豈惟董公!」橫刀長揖徑出。[三]懸節於上東門,[四]而奔冀州。

注[一]魏書曰:「信,太山*(陽)*平*[陽]*人也。少有大節,寬厚愛人,沉毅有謀。說紹不從,乃引軍還鄉里。」

注[二]毒とは、恨みのことである。

注[三]『英雄記』にいう。「袁紹は董卓に揖して去り、座中の者は驚愕した。董卓は新たに来たばかりで、袁紹が名家の出身であるのを見て、敢えて害しようとしなかった」。

注[四]洛陽城の東面北端の門である。山陽公載記にいう。「董卓は袁紹が節を壊したので、第一葆を赤旄に改めた」。

董卓は賞金をかけて袁紹を求めさせた。当時、侍中の周珌と城門校尉の伍瓊は董卓に信頼されていたが、伍瓊らはひそかに袁紹のために董卓に説いて言った。「廃立は大事であり、常人には及ばぬことです。袁紹は大義に通ぜず、恐れて出奔しただけで、他意はありません。今急いで彼を懸賞すれば、形勢は必ず変動します。袁氏は四代にわたって恩を施し、門生故吏は天下に満ちております。もし豪傑を集めて徒党を募れば、英雄がこれに乗じて起こり、山東は公のものではなくなります。赦して一郡の太守に任じるのがよろしいでしょう。袁紹は罪を免れたことを喜び、必ずや禍いはなくなります」。董卓はその通りだと思い、そこで袁紹を勃海太守に任命し、邟郷侯に封じた。[一]袁紹はなお兼司隸を称した。

注[一]『前書』によれば、潁川に周承休侯国があり、元帝が置いた。

元始二年

に名を邟と改めた。音は口浪反。

初平元年

、袁紹はついに勃海を拠点に兵を起こし、従弟の後将軍袁術、冀州牧の韓馥、[一]豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、陳留太守の張邈、広陵太守の張超、河内太守の王匡、山陽太守の袁遺、東郡太守の橋瑁、[二]済北相の鮑信らと同時に挙兵し、それぞれ数万の兵を擁し、董卓討伐を名目とした。袁紹と王匡は河内に駐屯し、孔伷は潁川に、韓馥は鄴に、その他の軍は皆酸棗に駐屯し、盟約を結び、遠くから袁紹を盟主に推戴した。袁紹は自ら車騎将軍を号し、司隸校尉を兼任した。

注[一]韓馥は字を文節といい、潁川の人である。

注[二]『英雄記

孔伷は字を公緒といい、陳留の人である。王匡は字を公節といい、泰山の人である。袁遺は字を伯業といい、袁紹の従弟の袁術は字を公路といい、汝南郡汝陽県の人である。橋瑁は字を元瑋といい、橋玄の族子であり、先に兗州刺史となり、非常に威厳と恩恵があった。《魏氏春秋》には、劉岱が彼を憎んで殺したと記されている。

董卓は袁紹が山東で挙兵したと聞くと、袁紹の叔父の袁隗と、京師にいた一族を皆殺しにした。董卓は大鴻臚の韓融、少府の陰循、執金吾の胡母班、将作大匠の吳循、越騎校尉の王纓を派遣し、袁紹らの諸軍を説得させようとした。袁紹は王匡に命じて胡母班、王纓、吳循らを殺害させ、袁術もまた陰循を捕らえて殺した。ただ韓融だけは名声と徳行により難を免れた。

献帝春秋によると、「太傅の袁隗と太僕の袁基は、袁術の母方の兄である。董卓は司隸の宣璠に命じて彼らをことごとく捕らえさせ、母と姉妹、幼児を含む五十人以上を獄に下して死なせた」という。卓別伝によると、「全員を青城門の外、東都門の内に埋葬し、その上に文書を加えた。また、盗掘されることを恐れ、さらに遺体を郿に送って隠した」という。

注[二]『海内先賢伝』にいう、「韓融は字を元長といい、潁川の人である」。『楚國先賢伝』にいう、「陰循は字を元基といい、南陽郡新野県の人である」。『漢末名士録』にいう、「胡母班は字を季友といい、泰山郡の人で、その名は八厨に列せられている」。謝承の『後漢書』にいう、「胡母班は王匡の妹婿であった。王匡は袁紹の意を受けて、胡母班を捕らえて獄に繋ぎ、軍中に示し斬ろうとした。胡母班は王匡に手紙を送り、おおよそ次のように述べた。『足下は私を獄に拘束し、鼓の血祭りにしようとしている。これはなんという道理にもとるり暴虐で無道なことか。私は董卓とどんな親戚関係があったというのか。義によって同じ悪に与することなどありえようか。足下は虎狼の口を開き、長蛇の毒を吐き、董卓への憤りを私に遷らせ、なんと残酷なことをするのか。死は人が避け難いものではあるが、狂夫に害されることを恥じる。もし死者に霊があるならば、必ずや足下のことを皇天に訴えよう。婚姻というものは禍福の分かれ目であり、それが今日明らかになった。かつては一体であったものが、今や血で争う仇となった。亡き私の二人の娘は、すなわち君の姪である。私が死んだ後、くれぐれも彼女たちを私の屍骸の前に近づけさせないでほしい』。王匡はこの手紙を得て、胡母班の二人の子を抱いて泣き、胡母班はついに獄中で死んだ」と。

この時、豪傑たちは既に多く袁紹に付き従い、また彼の家の災禍に同情し、人々は報復を考えており、州郡が蜂起ほうきするや、袁氏の名を掲げない者はなかった。韓馥は人心が袁紹に帰するのを見て、彼が大衆を得ることを忌み、自分を謀ることを恐れ、常に従事を派遣して袁紹の門を守らせ、兵を出すことを許さなかった。

橋瑁はそこで三公の名を偽って移書を作り、駅伝によって州郡に伝えさせ、董卓の罪悪を説き、天子が危難に迫られていることを述べ、義兵の挙兵を望み、国難を解消しようとした。韓馥はようやく袁紹の挙兵を認めた。そこで配下の者たちに謀って言った。「袁氏を助けるべきか、董氏を助けるべきか。」治中劉恵は激怒して言った。「兵を起こすのは国のためである。どうして袁や董のことを問うのか。」韓馥の心はなおも袁紹を深く疑っており、しばしば軍糧の供給を減らし、彼の軍勢を離散させようとした。

注[一]《英雄記

劉子恵は中山の人である。兗州刺史の劉岱が彼に手紙を送り、『董卓は無道で、天下が共に攻めるところであり、死は旦夕に迫っている。憂えるに足りない。ただ董卓が死んだ後は、必ず軍を返して文節(韓馥)を討つであろう。強兵を擁し、何の凶逆があって、どうして放置できようか』と述べた。この封書を韓馥に渡すと、韓馥はこれを得て大いに恐れ、劉子恵に罪を帰して斬ろうとした。別駕従事の耿武らが押し合って劉子恵の上に伏し、共に斬られることを願ったため、死を免れ、徒刑に処せられ、赭衣を着せられて宮門外の掃除をさせられた。」

翌年、韓馥配下の曲義が反乱を起こし、韓馥は戦って敗れた。袁紹はもともと韓馥を恨んでいたので、曲義と結託した。袁紹の食客である逢紀が袁紹に言った:『大事を起こすには、一州を拠点としなければ自立できない。今、冀州は強力で豊かだが、韓馥は凡庸な人物である。密かに公孫瓚に兵を率いて南下するよう要請すれば、韓馥はそれを聞いて必ず驚き恐れるだろう。その上で弁舌に優れた者を遣わして禍福を説かせれば、韓馥は突然の事態に迫られ、その地位を奪うことができるはずだ。』袁紹はこれを認め、逢紀をますます親しくし、すぐに手紙を公孫瓚に送った。公孫瓚は兵を率いてやって来たが、表面上は董卓討伐を名目とし、密かに韓馥を襲撃しようと謀った。

袁紹はそこで甥の陳留の高幹と潁川の荀諶らを派遣して韓馥を説得させた。「公孫瓚は勝ちに乗じて南へ攻めて来ており、諸郡はこれに呼応しています。袁車騎(袁紹)は軍を率いて東へ向かっており、その意図は測り知れません。ひそかに将軍の身を危うく思います」と。韓馥は恐れて言った。「それではどうすればよいのか?」

諶は言った。「あなたは自ら考えてみてください。寛大で仁愛があり、人々を包容し、天下の人々から慕われることにおいて、袁氏と比べてどうですか。」馥は言った。「及ばない。」「危機に臨んで決断を吐き、知勇が人に優れていることでは、また袁氏と比べてどうですか。」馥は言った。「及ばない。」「世に恩徳を施し、天下の家々がその恩恵を受けることでは、また袁氏と比べてどうですか。」馥は言った。「及ばない。」諶は言った。「渤海は郡とはいえ、実質は州のようなものです。[三]今、将軍は三つの点で及ばないという情勢にありながら、長くその上位に居座っています。袁氏は当代の傑物であり、必ずや将軍の下に立つことはないでしょう。しかも公孫瓚は燕・代の兵卒を率いており、その鋒鋭は当たることができません。冀州は天下の重要な資産です。もし両軍が力を合わせて、兵が城下で交われば、危亡はすぐに待ち受けることになるでしょう。袁氏は将軍の旧知であり、かつ同盟関係にあります。当今の計は、冀州を挙げて袁氏に譲るに如くはありません。袁氏は必ずや将軍に厚く恩徳を施し、公孫瓚は再び彼と争うことはできなくなるでしょう。これにより将軍には賢者を譲る名声があり、身は泰山のように安泰となります。どうか疑わないでください。」馥はもともと臆病な性格だったので、その計略を是とした。馥の長史耿武、別駕閔純、騎都尉沮授はこれを聞いて諫めて言った。[四]「冀州は辺鄙な地とはいえ、甲冑を帯びた兵は百万、穀物は十年分の支えがあります。袁紹は孤立した客将で窮迫した軍勢であり、我々の鼻息を仰いでいるのです。まるで赤ん坊が掌の上にいるようなもので、その乳を与えるのを絶てば、たちまち餓死させることができます。」

どうして州を彼に譲ろうとするのか?」韓馥は言った。「私は袁氏の旧臣であり、しかも才能は本初(袁紹)に及ばない。徳を量って譲ることは、古人が貴んだところだ。諸君はどうしてただそれだけを問題にするのか?」これより先、韓馥の従事であった趙浮と程渙が強弩一万を率いて孟津に駐屯していたが、このことを聞き、兵を率いて急ぎ戻り、袁紹を拒むことを請うたが、韓馥はまたも聞き入れなかった。[五] そこで韓馥は地位を避け、中常侍趙忠の旧宅に出て住み、子を遣わして印綬を送り、袁紹に譲った。

注[一]《『英雄記』に言う。

「紀の字は元図。初め、紹が董卓を去り、許攸及び紀と共に冀州に赴いた時、紀は聡明で計策に長けていたため、紹は彼を非常に親信した。」逢の音は龐。

注[二]『魏志』に言う。諶は荀彧の弟である。  注[三]土地が広いことを言う。

注[四]『献帝伝』に言う。「沮授は広平の人。若い時から大志を持ち、謀略に富んでいた。」『英雄記』に言う。

「耿武の字は文威。閔純の字は伯典。後に袁紹が到着すると、韓馥の従事十人は韓馥を見捨てて去り、遅れることを恐れたが、ただ耿武と閔純だけが刀を杖にして拒み、兵士たちも彼らを止めることができなかった。袁紹は後に田豊に命じてこの二人を殺させた。」

注[五]『英雄記』に言う。

「紹が朝歌の清水口にいた時、朱浮らが後方から来て、船数百艘、兵一万余人で、兵を整え太鼓を鳴らして紹の陣営の前を通り過ぎたので、紹は非常に不快に思った。朱浮らが到着し、韓馥に言った。『袁本初の軍には一斗の糧もなく、兵士たちは皆離散しようとしており、十日もすれば必ず土崩瓦解するでしょう。明将軍はただ戸を閉じて高枕でいればよく、何を憂え何を恐れることがありましょうか。』」

袁紹はついに冀州牧を兼任し、皇帝の権威を借りて韓馥を奮威将軍に任命したが、彼に指揮させる軍勢はなかった。沮授を別駕に引き立て、そこで授に言った。「今、賊臣が乱を起こし、朝廷は移転した。私は代々寵愛を受け、志を尽くし命を捧げて、漢室を興復しようとしている。しかし、斉の桓公は管仲なくしては覇業を成し遂げられず、越王勾践は范蠡なくしては国を存続させられなかった。今、卿と力を合わせ心を一つにして、共に社稷を安んじたいと思うが、どうすればこれを救い成し遂げることができるだろうか。」沮授が進み出て言った。「将軍は弱冠で朝廷に仕え、その名を海内に轟かせた。廃立の際に、忠義を奮い起こし、単騎で出奔し、董卓を恐れさせ、黄河を渡って北に渡り、渤海郡を服従させた。一郡の兵を擁し、冀州の民衆を掌握し、その威勢は河北を圧し、その名声は天下に重きをなした。

もし全軍を東に向ければ、黄巾を掃討できる。引き返して黒山を討てば、張燕を滅ぼせる。軍を返して北を向けば、公孫瓚を必ず捕らえられる。戎狄を威嚇すれば、匈奴はたちまち平定される。大河の北を制し、四州の地を合わせ、英雄の士を集め、百万の民衆を擁し、長安にて天子を迎え、洛陽にて宗廟を復興し、天下に号令して、服従しない者を誅討する。これをもって争えば、誰が防ぐことができようか。数年もすれば、その功績は難しくない。」紹は喜んで言った。「これこそ我が心だ。」すぐに沮授を奮武将軍に上表し、諸将を監督させた。

注[一]稽の音は啓。  注[二]

『広雅』に言う。

「撮は、持つこと。」

注[三]黒山は今の□州□県の西北にある。『九州春秋』に言う。「張燕は本来、褚姓であった。黄巾の賊が起こると、燕は若者を集めて群盗となり、博陵の張牛角もまた起こって燕と合流した。燕は牛角を帥に推し、共に癭陶を攻めた。牛角が飛び矢に当たり、傷ついて死にかけていた時、大いにその配下を集め、告げて言った。『必ず燕を帥とせよ。』牛角が死ぬと、配下は燕を奉じたので、姓を張に改めた。性質は剽悍で、敏捷さは人に優り、故に軍中では『飛燕』と号した。その後、配下は次第に広がり、常山、趙郡、中山、上党、河内の各山谷は皆つながり、『黒山』と号した」という。

注[四]四州については下に記す。

注[五]『左伝』に秦伯が言う。「これこそ我が心である」。

魏郡の審配、鉅鹿の田豊は、[一]ともに正直なため韓馥のもとで志を得られなかった。袁紹はそこで田豊を別駕に、審配を治中に任じ、非常に重用した。韓馥は猜疑と恐れを抱き、袁紹に辞去を願い出て、[二]張邈のもとに身を寄せた。後に袁紹が使者を張邈のもとに遣わし、何か相談があり、互いに耳打ちした。韓馥がその場に座っていたが、自分が謀られていると思い、ほどなく、厠に入って自殺した。[三]

注[一]『先賢行状』に言う。「審配は字を正南という。若い頃から忠烈で慷慨とし、犯しがたい節操があった。袁紹が冀州を領すると、腹心の任を委ねられた。田豊は字を元皓という。天性英傑で、権謀術数に奇抜なものが多かった。袁紹軍が敗れた時、土崩瓦解して敗走し、兵士はほぼ全滅し、軍将たちは皆膝を撫でて泣き言った。『もし田豊がここにいたなら、ここまでにはならなかっただろうに』」。

注[二]『英雄記』に言う。「袁紹は河内の朱漢を都官従事とした。朱漢は以前、韓馥から礼遇されず、内心憤り恨んでおり、かつ袁紹の意を迎えようとし、勝手に城郭の兵を発して韓馥の邸を包囲し、刃を抜いて屋根に登り、韓馥は楼上に逃げ上がった。朱漢は韓馥の長男を捕らえ、両足を折った。袁紹もすぐに朱漢を捕らえて殺した。韓馥はなおも憂い恐れ、袁紹に辞去を願い出た」。

注[三]『九州春秋』に言う。「退出した後、書刀で自殺した」。

その冬、公孫瓚が黄巾を大破し、盤河に戻って駐屯し、[一]河北に威勢を震わせ、冀州の諸城は風に応じるようにみな呼応した。

袁紹は自らこれを討った。公孫瓚の兵は三万、方陣を布き、突騎一万騎を分けて軍の左右を翼とし、その鋒は非常に鋭かった。袁紹はまず麹義に精兵八百、強弩千張を率いさせ、先鋒とした。公孫瓚はその兵が少ないと軽んじ、騎兵を放って突撃させた。麹義の兵は楯の下に伏せ、一斉に発射し、公孫瓚軍は大敗し、彼が置いた冀州刺史の厳綱を斬り、甲冑を着た首級千余りを獲た。麹義は界橋まで追撃し、[二]公孫瓚は兵を収めて再戦したが、麹義はまたこれを破り、ついに公孫瓚の陣営に至り、その牙門を抜いた。[三]残りの兵は皆逃げた。袁紹は後方十数里にいて、公孫瓚がすでに敗れたと聞き、鎧を脱ぎ馬を休め、ただ帳下の強弩数十張、大戟士百人ほどだけを従えていた。公孫瓚の散兵二千余騎が突然至り、袁紹を数重に囲み、矢を雨のように射かけた。田豊が袁紹を支え、空き塀の中に入らせようとした。袁紹は兜を脱ぎ捨て地面に叩きつけ、「大丈夫は前に進んで死すべきで、かえって塀の間を逃げ回るのか?」と言い、急いで諸弩に競って発射させ、多く公孫瓚の騎兵を傷つけた。

兵たちはこれが袁紹だと知らず、やや退き始めた。ちょうど麹義が迎えに来たので、騎兵は散り退いた。初平三年、公孫瓚はまた兵を龍湊に遣わして挑戦したが、袁紹はまたこれを撃破した。公孫瓚はついに幽州に戻り、再び出て来ようとはしなかった。

注[一]

爾雅

九つの河があり、鉤盤河はその一つである。故河道は現在の德州昌平県の境界にあり、滄州楽陵県に入り、現在は枯盤河と呼ばれている。

注[二]

九州春秋

言った。「広宗の界橋に戻って駐屯せよ。」現在の貝州宗城県の東に古い界城があり、この城は枯れた漳水に近いので、界橋はおそらくこの側にあったのであろう。

注[三]真人水鏡経に曰く、「凡そ軍が出で始むるに、牙竿を立て必ず完堅ならしむべし;もし折るる有らば、将軍利あらず」と。牙門旗竿は、軍の精なり。即ち《周礼

『周礼』の司常職に「軍旅が会同するときは旌門を置く」とあるのがこれである。

四年の初め、天子は太僕の趙岐を遣わして関東を和解させ、それぞれ兵を罷めさせた。公孫瓚はこれにより書を送って袁紹を諭して言った。「趙太僕は周・召のごとき徳を持ち、命を奉じて来征し、朝廷の恩を宣揚し、和睦を示され、まるで雲が開けて日が現れるかのようであり、何と喜ばしいことか。昔、賈復と寇恂は互いに危害を争ったが、世祖(光武帝)が紛争を解かれると、遂に同じ車に並んで出た。争いの難が既に解け、当時の人々はこれを称えた。自ら辺境の鄙びた者と考える私が、将軍と共にこのよき関係を得ることは、誠に将軍のご厚情であり、また私の願いでもある。」袁紹はそこで軍を率いて南へ帰還した。

三月上巳の日、薄落津で賓客や徒党を大いに集めて会合を開いた。その時、魏郡の兵が反乱を起こし、黒山賊の干毒ら数万人と共に鄴城を陥落させ、郡守を殺害したとの報が届いた。席にいた賓客で鄴に家族がいる者は皆、憂いと恐怖で顔色を失い、ある者は立ち上がって泣き叫んだが、袁紹の容貌は泰然自若としており、平素の態度を少しも変えなかった。賊の中に陶升という者がおり、自ら「平漢将軍」と号していたが、ただ一人で他の賊たちに背き、配下の衆を率いて西城を越えて入城し、府の門を閉ざし、車両や輜重しちょうを整え、袁紹の家族および州内にいた諸々の士大夫たちを載せ、自ら防衛しながら斥丘まで送り届けた。

袁紹は帰還し、斥丘に駐屯し、陶升を建義中郎将とした。六月、袁紹は軍を出し、朝歌の鹿腸山蒼巖谷口に入り、干毒を討伐した。五日間包囲攻撃し、これを破り、干毒とその配下一万余りの首級を斬った。袁紹は山をたどって北進し、諸賊の左髭丈八らを攻撃し、皆これを斬り、さらに劉石、青牛角、黄龍、左校、郭大賢、李大目、於氐根らを攻撃し、また数万の首級を斬り、皆その屯営や砦を殲滅した。こうして黒山賊の張燕および四営の屠各、雁門の烏桓と常山で戦った。張燕の精兵は数万、騎兵は数千騎で、十余日連戦し、張燕軍の死傷者は多かったが、袁紹軍も疲弊したため、遂にそれぞれ退却した。麴義は功績を恃み、驕慢で法に背いたため、袁紹は彼を召し出して殺し、その配下を併せた。

注[一] 暦法では三月は辰に建つ。己卯の日に退除(災いを払うこと)を行い、災いを払い除くことができる。韓詩に「溱と洧は、まさに洹洹たり」とある。薛君の注に「鄭国の習俗では、三月の上巳の辰に、二つの川のほとりで魂を招き魄を継ぎ、不祥を払い除く。ゆえに詩人は、語り合いたい者と共に行きたいと願うのである」とある。酈元の『水経注

『水経注』に言う、「漳水は鉅鹿の故城の西を流れ、これを薄落津という。》『続漢書』郡国志によれば、癭陶県に薄落亭がある。

注[二]《管子

斉の桓公は五鹿・中牟・鄴を築城し、諸侯を防衛した。

献帝春秋に曰く、「紹は督を勧めて杯を満たし投壺を行わせ、言葉と笑顔、容貌は自若としていた》と。

注[四]《英雄記

彼は言った。「私は以前、内黄県の下級役人でした。》

注[五]重とは、輜重のことである。

注[六]斥丘は県であり、鉅鹿郡に属し、故城は現在の相州成安県の東南にある。《十三州志》によると、「土地が塩分を含み、斥鹵であるため、斥丘と名付けられた」という。

注[七]朝歌の故城は現在の□県の西にある。続漢志に「朝歌には鹿腸山がある」とある。

興平二年

袁紹は右将軍に任命された。その冬、献帝の車駕が李傕らに曹陽で追撃されると、沮授は袁紹に進言した。「将軍は代々三公の家柄で、世々忠義を守ってきました。今、朝廷は流浪し、宗廟は破壊されています。諸州郡を見渡せば、表面上は義兵を掲げていても、内実は互いに謀り合っており、社稷を憂い民を憐れむ志はありません。今、州城はほぼ安定し、兵は強く士は従っています。西へ向かい大駕を迎え、鄴都に宮殿を設けて天子を擁し、諸侯に号令し、兵馬を率いて朝廷に背く者を討てば、誰が防ぎ得ましょうか。」袁紹はその計略に従おうとした。穎川の郭図と淳于瓊は言った。「漢室の衰微は、すでに久しい。今それを興そうとするのは、難しいことではありませんか。しかも英雄が並び起ち、それぞれ州郡を占拠し、徒党を集めれば、動けば万単位の数になります。いわゆる秦がその鹿(帝位)を失い、先に得た者が王となるというものです。今、天子を迎えれば、行動するたびに上奏して聞かねばならず、従えば権威は軽くなり、背けば命令に逆らうことになり、良い計略とは言えません。」沮授は言った。「今、朝廷を迎えるのは、義に適い、時宜に叶っています。もし早く決めなければ、必ず先に行う者が現れるでしょう。権謀は機会を失わず、功績は速やかであることを厭わないものです。どうかご考慮ください。」帝(献帝)が即位したことは袁紹の本意ではなかったため、結局従うことができなかった。

注[一]

左伝

周の襄王が鄭に亡命した際、狐偃が晋の文公に言った。「諸侯を求めるには、王に仕えることに励むに如くはありません。諸侯はこれを信じ、また大義でもあります。文公(晋の文侯)の事業を継ぎ、信義を諸侯に示すなら、今がその時です。」文公はこれに従い、襄王を迎え入れて、ついに覇業を成し遂げた。

注[二]『九州春秋』によると、図の字は公則である。

注[三]

史記

に言う、蒯通が言った:「秦がその鹿(帝位)を失い、天下の者が共にこれを追い、才能の高い者が先にこれを得る。」

袁紹には三人の子がいた:

譚は字を顯思といい、熙は字を顯雍といい、尚は字を顯甫といった

。譚は年長で聡明であり、尚は年少で容姿が美しかった。袁紹の後妻の劉氏は寵愛を受け、尚を偏愛し、しばしば袁紹に称賛したので、袁紹もまたその姿容を非凡だと思い、彼に後を継がせようとした。そこで譚を兄の後を継がせ、出して青州刺史とした。沮授が諫めて言った:「世に言う、万人が兎を追い、一人がこれを獲れば、貪る者は皆止む、分が定まったからである。[一] また、年齢が同じならば賢さによって決め、徳が同じならば占いによって決める、これが古の制度である。[二] 願わくは上には先代の成敗の戒めを思い、下には兎を追う分定の道理を考えてください。もしこれを改めなければ、禍はここから始まるでしょう。」袁紹は言った:「私は諸子にそれぞれ一州を治めさせ、その能力を見たいのだ。」そこで中子の熙を幽州刺史とし、甥の高干を并州刺史とした。

注[一]

慎子

に言う:「兎が街を走れば、百人がこれを追う。貪る者が皆いるが、人として非難する者はいない。それは兎が未だ分定していないからである。積もった兎が市を満たしても、通り過ぎる者は顧みない。兎を欲しくないわけではない。分が定まった後は、たとえ卑しい者でも争わない。」子思子、商君書にも同様に載せられており、その言葉はほぼ同じである。

注[二]

左傳

に言う:「王后に嫡子がいなければ長を立てることを選び、年齢が同じならば徳によって決め、徳が同じならば占いによって決める。」

建安元年

曹操が天子を迎えて許に都を置くと、詔書を袁紹に下し、土地が広く兵が多いのに専ら自ら党派を立て、王室を助ける軍を聞かずにただ互いに討伐し合っていることを責めた。袁紹は上書して言った。

臣は聞く、昔には哀しみ嘆いて霜が降り、悲しみ泣いて城が崩れたことがあったと。その書を読むたびに、本当のことだと思っていたが、今の状況に照らしてみると、それはでたらめな作り話だと分かった。なぜか。臣は身を国に捧げ、家を破って事を起こし、忠誠を抱いてかえって罪を得、信義を抱いて疑いを受けるに至り、昼夜長く嘆き、肝を切り血を流して泣いたが、かつて城が崩れ霜が降るような応答はなかった。だから鄒衍や杞梁の妻がどうして天地に通じることができようか。

注釈一

淮南子

に言う。「鄒衍が燕の恵王に仕えて忠を尽くしたが、側近が彼を讒言した。鄒衍は天を仰いで泣いた。夏の五月、天は霜を降らせた。」

注釈二 斉の荘公が莒を攻めた時、五乗の賓客を選んだが、杞梁だけは選ばれなかった。帰って食事をしないので、その母が言った。「食べなさい。お前が生きて義がなく、死んで名がなければ、たとえ五乗の賓客でなくても、誰がお前を笑わないだろうか。生きて義があり、死んで名があれば、五乗の賓客は皆お前の下にいることになる。」莒との戦いになると、梁はついに二十七人を斬り殺して死んだ。妻がそれを聞いて泣くと、城壁がそれによって崩れ、隅がそれによって崩れた。『説苑』に見える。

説苑

臣は賤しい身分から、陪隷の中から抜擢され、憲台の職務を奉じ、軍の校尉に任命された。常侍の張讓らは天の常道を乱し、朝廷の威厳を侵奪し、忠義の士を害し、奸党を扇動した。故大將軍の何進は国に忠誠を尽くし乱を憎み、義の心に激しく怒り、臣に少しばかりの節操があるとして、鷹犬の功を責めることができると考え、臣に督司の任を授け、方策を諮問した。臣は強力な者を畏れ憚らず、禍を避け福を求めることなく、何進と共に図り、事に違背することはなかった。忠義の策が尽きないうちに元帥は敗れ、太后は人質に取られ、宮室は焼かれ、陛下は幼くして聖徳を備えながら、直接に困窮に遭われた。その時、何進が既に害された後、軍勢は意気消沈したが、臣はただ家兵百余人を率い、戈を取って承明殿に進み、翼室に身を竦めて、虎のように諸官を叱咤し、凶悪な者どもに奮撃し、十二日も経たないうちに、罪人は滅びた。これはまさに愚臣が命を捧げた一つの証拠である。

注釈一 負薪とは賤しい人を言う。

礼記

に言う。「士の子の長幼を問うと、長い者は『薪を背負える』と言い、幼い者は『まだ薪を背負えない』と言う。」

注釈二 陪とは重なること。

左伝

『王は公を臣とし、公は卿を臣とし、卿は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は皁を臣とし、皁は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は台を臣とする』と言う。また、『これは陪台がいないのだ』とも言う。陪隷は陪台と同じである。

注[三] 元帥とは何進を指す。

注[四] 山陽公載記に言う。「袁紹は王匡らと力を合わせて端門に入り、承明堂で中常侍の高望ら二人を格殺した」。

尚書

に言う。「翼室に延いて入る」。孔安國の注に言う。「翼は明なり。室は路寢を謂う」。

注[五] 浹は、□(満ちる)である。

左傳

に言う。「浹辰の間」。杜預の注に言う。「十二日なり」。

ちょうど董卓が虚に乗じ、企図するところが不軌であった。臣の父兄と親族従者は、皆高位にあり、一門の禍を憚らず、ただ国家の安寧の義を思ったので、節を解いて出奔し、河外で謀略を創始した。当時、董卓は外援を結びつけることに貪り、英豪を招き悦ばせようとしていたので、臣を勃海に就かせ、軍号を授けた。したがって、臣と董卓の間には、微細なわだかまりさえなかった。もし泥を滑らせ波を揚げ、栄誉を盗み利益を求めることを望んだならば、進んでは窃取した禄位を享受し、退いても門戸の患いはなかった。しかし、臣の愚かながら守るところの志は傾くことがなく、故に英雄を引き合わせ、百万の兵を起こし、孟津で馬に水を飲ませ、漳河で血をすすった。ちょうど故冀州牧の韓馥が逆謀を抱き、権勢を専らにしようとし、臣の軍糧を絶ち、連絡を継続できなくさせ、狡猾な虜が毒をほしいままにし、害が一門に及び、尊卑大小、同日に皆殺しにされるに至った。鳥獣の情でさえ、なお号呼することを知る。臣が蕩然として哀しみを忘れ、容貌に隠れた悲しみがないのは、誠に忠孝の節は、道として両立せず、私を顧み己を懐うれば、功を全うできないからである。これもまた愚臣が家を破り国に殉じた第二の証拠である。

注[一] 叔父の袁隗が太傅となり、従兄の袁基が太僕となったことを指す。

注[二] 河外は、河南を指す。

注[三] 即とは、就いて任命することを言う。山陽公載記に言う。「董卓は袁紹を前将軍とし、邟郷侯に封じた。袁紹は侯爵は受けたが、前将軍は受けなかった」。

注[四] 滑は混じる意。楚詞に「其の泥を滑し、其の波を揚ぐ」。

注[五] 献帝春秋に言う。「袁紹は冀州十郡の守相を合わせ、衆数十万、壇に登り血をすすり、盟して言った。『賊臣董卓、漢室の微に乗じ、兵甲の衆を負い、帝城を陵越し、王朝を跨ぎ蹈み、太后を幽して鴆殺し、弘農王を戮殺し、幼主を提挈し、秦の地に越遷し、朝臣を残害し、忠良を斬刈し、宮室を焚焼し、宮人を蒸乱し、陵墓を発掘し、虐を鬼神に及び、過悪は皇天に烝し、濁穢は后土を熏す。神祇怨恫し、憑恃する所無く、兆人血を泣き、控告する所無し。仁賢の士は心を痛め首を疾し、義士奮発し、雲興り霧合い、皆辞を奉り罪を伐ち、躬ら天誅を行わんと欲す。凡そ我が同盟の後は、力を畢げ命を致し、以て凶醜を伐ち、共に王室を□し、天子を翼戴せん。此の盟に渝る有らば、神明是れ殛ち、其の師を墜し、国を祚することを克さしむること無からん!』」。

注[六]

『礼記』にいう。

「天地の間に生を受けるものは、血気ある類には必ず知覚があり、知覚ある類で自らの同類を愛さないものはない。今、この大鳥獣が群れの仲間を失えば、月を越え時を過ぎても、必ず巡って故郷に戻り、飛び回り、鳴き叫び、足踏みし、ためらい、それからやっと去るのである。小さなものに至っては燕や雀でさえ、しばらく悲しげに鳴き、それからやっと去るのである。」

注[七]隠とは、憂いのことである。

また黄巾賊十万が青州・兗州を焼き払い、黒山賊・張楊が冀州の城を踏みにじった。臣はそこで軍を返し、大義を奉じて反逆を討伐した。戦鼓の音もまだ響かないうちに、狡猾な敵は滅亡を知り、韓馥は恐れを抱いて罪を謝し領土を返還し、張楊・黒山賊は同時に降伏をこじきうた。臣はその時、詔を承ったと称し、ひそかに竇融になぞらえて、議郎の曹操に暫定的に兗州牧を代行させた。[一]ちょうど公孫瓚が軍勢を率いて南下し、北方の境を略奪したので、臣は直ちに星のごとく急行して席巻し、瓚と交戦した。天の威を借りて、戦うごとに必ず勝利した。臣は公族の子弟として、京師で育ち、祭祀の礼儀は多少知っているが、戦いのことは習っていない。

さらに臣の祖先以来、代々補佐の任にあり、皆文徳をもって忠を尽くし、罪を免れてきた。臣は瓚と軍馬の勢いを競い、戦陣の功を争おうとする者ではない。誠に賊臣を誅殺しなければ、『春秋』が非難するところであり、[二]もし国に利すると言えるなら、専断しても疑わない。[三]だから敢えて霜雪を踏み、労苦を厭わず、ひたすら一勝の福を願い、終生の功を立てようとしたのである。社稷がまだ定まらないことを、臣は誠に恥じている。

太僕の趙岐が命を受けて来訪し、陛下の寛大な施しを宣明し、些細な過ちを赦し、臣下と共に新たに始めるよう詔を奉じた日、軍を率いて南へ向かった。[四]これが臣が天威を畏れ、怠慢にしない三つ目の証拠である。

注[一]竇融は西河五郡大将軍事を行い、梁統を武威太守とした。

注[二]

『公羊伝』

にいう。「趙盾がその君夷獮を弑した。弑したのは趙穿である。なぜ趙盾に罪を加えるのか?賊を討たなかったからである。趙盾は言った。『天よ、私は無実である』。史官は言った。『あなたは仁義を行い、人があなたの君を弑したのに、国に戻って賊を討たない。これが弑逆でなくて何であろうか』」。

注[三]

『左伝』

にいう。「もし社稷に利するなら、専断してもよい」。

注[四]『左伝』に「令尹が車を南に向け旗を返した」とある。杜預の注に「軍を返して南に向かう」とある。

また臣が上奏した将校たちは、概ね清廉で英才の宿徳を持ち、名声が高く、鋒刃を踏み、死者は半数を超え、勤勉な功績は記録されていない。しかし州郡の牧守たちは、競って名声を盗み、二心を抱き、悠々と傍観し、皆領土を分け圭を賜り、州を跨ぎ郡を連ねている。これによって遠近で疑念が生じ、議論が錯綜しているのである。臣は聞く。文治を守る世には、徳の高い者が位が尊く;緊急の時には、功の多い者が賞が厚いと。陛下が流浪の身となり、洛邑で祭祀が絶え、海内が傷心し、志士が憤慨している。だから忠臣が肝脳を地に塗し、肌膚が切り裂かれても後悔しないのは、義に感じるからである。今、功労なき者に賞を加え、有徳の者を離反させ;[一]忠功を退け黜き、衆望を疑わせる。これは果たして腹心の遠大な計画なのか?それとも讒言と邪悪な説がそうさせているのか?臣の爵は通侯、位は二千石である。特別な恩恵と厚い徳を、臣はすでに辱くも受けている。どうして重い礼を窺い、彤弓や玈矢の賜与を望もうか?[二]誠に偏将や列校たちが、勤労が記録されず、国に尽くして忠を尽くしながら、重い罪を負うことを傷むのである。これは蒙恬が辺境の獄で悲号し、[三]白起が杜郵で嘆息した所以である。[四]太傅の馬日磾は師保の位にあり、東征に任じられるべきであるのに、王命を乱し、[五]寵愛任用を誤り、挙用した者は皆、衆人が捨て去る者ばかりである。しかもその策を容れ、謀主とし、臣の骨肉の兄弟を、かえって仇敵とし、刃を交え戦わせ、禍いをますます大きくしている。臣は甲冑を脱ぎ戈を投げ捨てたいが、事やむを得ない。誠に陛下の日月の明が照らさぬ所があり、四方を聴く耳が聞こえぬ所があることを恐れ、臣の上奏文を下し、群賢に諮問し、三槐九棘に臣の罪を議していただきたい。[六]もし臣が今、権宜を図ったことを罪とするなら、桓公・文公は誅殺される刑に当たり;[七]もし衆人が賊を討たないことを賢いとするなら、趙盾に弑逆の非難を記す必要はなかったであろう。

私は小人ではありますが、志は一介の者として守り通します。もし私の本心を申し開き、先帝に恥じないことが叶うならば、首を伏せて刑刀に身を委ね、衣をまくって釜に入ることも、私の願いです。どうか陛下には尸鳩のように公平な心をお垂れになり、邪悪で諂う議論を絶ち、愚かな私が地下深く恨みを抱くことのないようにしてください。

注[一] 携は、離れること。

注[二]

左氏伝

に言う。「王は尹氏に命じて晋の文公を侯伯に策命し、大路の服、戎路の服、彤弓一つ、彤矢百本、玈弓十、玈矢千本を賜った。」

注[三]

史記

に言う。胡亥が使者を遣わして蒙恬を殺させた。恬は死を肯んぜず、使者はすぐに役人に引き渡し、陽周に拘束した。恬は深く嘆息して言った。「恬の罪は死に当たる。臨洮から遼東に至るまで、城壁を一万余里に築いた。その中には地脈を断つことがなかったはずはない。これこそ恬の罪だ!」そして薬を飲んで自殺した。

注[四] 史記に言う。秦王は白起を免官して兵卒とし、陰密に移した。白起が既に出発し、咸陽の西門から十里の杜郵に至った時、秦王は使者を遣わして剣を賜り、自害させた。

注[五] 三輔決録注に言う。「馬日磾は字を翁叔といい、馬融の族子である。幼少時に融の学業を伝え、才学によって進み、九卿の位を歴任し、遂に台輔に登った。」献帝春秋に言う。「日磾は節を持って東征し、州郡を巡撫した。袁術が寿春におり、王命を恭しくせず、日磾を侮り慢待し、節を借りて見て、そのまま奪って返さず、日磾は去ることを求めたが、術は遣わさなかった。節を失い屈辱を受けたため、憂い憤って死んだ。」

注[六] 周官に言う。「三槐の木には、三公の位がある。左の九棘には、孤・卿・大夫の位がある。右の九棘には、公・侯・伯・子・男の位がある。」鄭玄の注に言う。「槐は懐(思いやる)という意味で、人をここに懐き来らせて謀り事をしようとすることを言う。棘を植えて位とするのは、その赤い心と外に向かう刺を取り、赤心を持ちながらも刺を持つ様子を象っている。」

注[七] 斉の桓公、晋の文公の時代、周王室は弱く、諸侯は朝見しなかった。桓公、文公は権宜的に征伐を行い、諸侯を率いて天子に朝見した。

注[八] 尸鳩は、カッコウのこと。詩の国風に言う。「尸鳩が桑の木におり、その子は七つ。善人君子は、その儀礼は一つ。」毛萇の注に言う。「尸鳩がその子を養うのは、朝は上から下へ、夕は下から上へと、平均して一様である。善人君子が義を執るのもこのようであると言う。」

注[九] 三は数の小さな終わりで、深いことを言う。前漢書に「下を三泉に錮す」とある。

そこで袁紹を太尉とし、鄴侯に封じた。この時、曹操は自ら大将軍となっていた。袁紹はその下に立つことを恥じ、偽って上表して辞退し受けなかった。曹操は大いに恐れ、大将軍の位を袁紹に譲った。二年、将作大匠の孔融を使者として節を持たせ、袁紹を大将軍に任命し、弓矢・節鉞を賜り、虎賁百人を与え、冀・青・幽・并の四州を兼ねて監督させた。その後、袁紹はそれを受けた。

注[一]『献帝春秋』に言う。「将作大匠の孔融に節を持たせて鄴に赴かせ、太尉の袁紹を大将軍に拝し、鄴侯に改封した」。

注[二]太尉の位は大将軍の上にある。初め、武帝は衛青が征伐に功があったため、大将軍とし、彼を尊崇したいと思い、大司馬の官号を置いてその上に冠した。その後、霍光、王鳳らも皆そうであった。明帝は弟の東平王劉蒼に賢才があるとして、驃騎大将軍とし、王であるがゆえに、位を三公の上とした。和帝は舅の竇憲が匈奴を征討し、帰還して大将軍に遷したが、三公の上にあり、勲功と外戚の者は常例に拘束されないのである。

注[三]『礼含文嘉』に言う。「九錫とは、第一は車馬、第二は衣服、第三は楽器、第四は朱戸、第五は納陛、第六は虎賁の士百人、第七は斧鉞、第八は弓矢、第九は秬鬯である」。『春秋元命苞』に「虎賁を賜れば専征伐を得、斧鉞を賜れば誅罰を得る」とある。

袁紹は詔書を得るたびに、自分にとって都合が悪いことを憂い、天子を近くに移したいと考え、曹操に説いて、許県の地は低湿で、洛陽は残破しているので、甄城に遷都し、完全で充実した地に就くべきだと言わせた。曹操はこれを拒絶した。田豊が袁紹に説いて言った。「遷都の計略は、既に従うことができないのであれば、早く許県を図り、天子を奉迎し、行動には詔令を仮託し、号令を海内に響かせるべきです。これが最上の策です。そうしなければ、結局は他人に捕らえられることになり、後悔しても益はありません」。袁紹は従わなかった。建安四年の春、公孫瓚を撃ち、ついに幽州の地を平定した。事は『公孫瓚伝』にある。

注[一]埤もまた低いという意味。音は婢。  注[二]甄の音は絹。

袁紹は四州の地を併せ、兵は数十万に及び、驕慢な心はますます盛んとなり、朝廷への貢ぎ物や献上品は少なく粗末になった。主簿の耿包が密かに袁紹に申し上げて言った。「赤徳(漢の火徳)は衰え尽き、袁氏は黄帝の末裔です。天意に順い、民心に従うべきです」。袁紹は耿包の申し出たことを軍府の官僚たちに見せた。議論する者は耿包が妖妄であるとして誅殺すべきだと主張した。袁紹は衆人の気持ちがまだ一致していないことを知り、やむを得ず耿包を殺してその禍を鎮めた。そこで精兵十万、騎兵一万匹を選び、許県を攻撃しようとし、審配と逢紀に軍事を統率させ、田豊、荀諶、および南陽の許攸を謀主とし、顔良と文醜を将帥とした。沮授が進み出て説いて言った。「近ごろ公孫瓚を討ち、軍を出して数年を経て、百姓は疲弊し、倉庫には蓄えがなく、賦役はまさに盛んです。これが国の深い憂いです。まず使者を遣わして天子に戦勝を献上し、農業に努め民を休ませるべきです。もし通じなければ、それから曹操が我が王路を隔てていると上表し、その後で黎陽に進んで駐屯し、次第に黄河の南を営み、さらに舟船を作り、器械を修繕し、精鋭の騎兵を分遣して、その辺境を襲撃し、彼らを安住させず、我々は安逸を得るようにすべきです。このようにすれば、座して平定できます」。郭図と審配は言った。「兵法の法則では、十倍なら包囲し、五倍なら攻撃し、互角なら戦えるとあります。今、明公の神武をもって、河北の強兵を連ねて曹操を討てば、その勢いは手をひっくり返すようなものです。今、時を逃して取らなければ、後で図るのは難しくなります」。沮授は言った。「そもそも乱を救い暴を誅するのを義兵と言い、衆を恃み強さを頼むのを驕兵と言います。義なる者は敵なく、驕る者は先に滅びます。曹操は天子を奉迎し、許都に宮殿を建てました。今、軍を挙げて南に向かうのは、義に背きます。かつ、廟堂での勝算の策は、強弱にあるのではありません。曹操は法令が既に行き渡り、士卒は精練されており、公孫瓚のように座して包囲される者ではありません。今、万全の術を捨てて、名目のない軍を起こすのは、ひそかに公のために恐れます」。郭図らは言った。「武王が紂を討ったのは、不義ではなかった。ましてや兵を曹操に加えるのに、名目がないとは言えようか。かつ公の軍勢は精鋭で勇猛、将兵は奮起を思っており、時を逃さず早く大業を定めなければ、いわゆる『天が与えるのに取らなければ、かえってその咎を受ける』ことになります。これが越が覇を唱え、呉が滅んだ理由です。監軍(沮授)の計略は、堅固に守ることにあり、時機を知り機微を見る変化ではありません」。袁紹は郭図の意見を採用した。

郭図らはこれによって沮授を讒言して言った。「沮授は内外を監察統率し、威は三軍に震っています。もしその勢力が次第に盛んになれば、どうして制御できましょうか。臣下と君主が同じになるのは昌え、君主と臣下が同じになるのは滅びます。これは黄石公が忌み嫌うところです。かつ、外で軍勢を統御する者は、内政を知るべきではありません」。袁紹はそこで沮授の統率するものを三つの都督に分け、沮授と郭図、淳于瓊にそれぞれ一軍を統轄させたが、まだ実行には至らなかった。

注[一]『献帝春秋』に言う。「袁氏は舜の末裔である。黄(土徳)は赤(火徳)に代わるべきなので、耿包はこの言葉を言った」。

注[二]十倍なら包囲し、五倍なら攻撃する。

注[三]『漢書』に陸賈が南越王に言った。「越が王を殺して漢に降れば、手をひっくり返すようなものだ」。

注[四]『漢書』に魏相が上書して言った。「乱を救い暴を誅するのを義兵と言う。兵が義ならば王者となる。敵が己に加え、やむを得ず起こるのを応兵と言う。兵が応ならば勝つ。小さな恨みを争い、憤怒に耐えられないのを忿兵と言う。兵が忿れば敗れる。他人の土地や財宝を利するのを貪兵と言う。兵が貪れば破れる。国家の大きさを恃み、民衆の多さを誇り、敵に威を示そうとするのを驕兵と言う。兵が驕れば滅びる。これはただ人の事ではなく、天の道である」。

注[五]

『淮南子』

言うには、「廟堂の中で計略をめぐらし、千里の外で勝利を決する。」

注[六]前書に曰く、新城の三老が高祖に説いて言うには、「徳に順う者は栄え、徳に逆らう者は滅びる。兵を出すに名がなければ、事は故に成らない。」音義に曰く、「名有りとは、罪有るを伐つなり。」

注[七]

史記

范蠡が句踐に言うには、「天が与えるのに取らなければ、かえってその咎を受ける。」

注[八]臣と主とが同じであるとは、権が主にあることである。主と臣とが同じであるとは、権が臣にあることである。黄石とは、すなわち張良が下邳の橋の上で得たもので、三略である。圯は音、以之の反。

注[九]

淮南子

曰く、「国は外から治めるべからず、軍は中から統御すべからず。」

五年、左将軍劉備が徐州刺史車冑を殺し、沛を拠点として曹操に背いた。曹操は恐れ、自ら軍を率いて劉備を征討した。田豊が袁紹に説いて言った。「公と天下を争う者は、曹操です。曹操は今、東へ向かって劉備を撃ち、戦いは続いてすぐには解決しません。今、全軍を挙げてその背後を襲えば、一度の進軍で平定できます。兵は機に応じて動くもので、今がその時です。」袁紹は息子の病気を理由に断り、行くことができなかった。田豊は杖を地面に打ちつけて言った。「ああ、事は去った! 難に遭い機に遇いながら、幼児の病気でその好機を失うとは、惜しいことだ!」袁紹はこれを聞いて怒り、これ以降、彼を疎んじるようになった。

曹操は袁紹が黄河を渡るのを恐れ、急いで劉備を攻撃し、ついに彼を破った。劉備は袁紹のもとに逃げ、袁紹はそこで軍を進めて許を攻めた。田豊は、すでに前の好機を失った以上、すぐに進軍すべきではないと諫めて袁紹に言った。「曹操はすでに劉備を破りましたから、許の下はもはや空虚ではありません。しかも曹操は兵を用いるのが巧みで、変化に一定の法則がなく、兵は少ないとはいえ、軽視できません。今は持久戦に持ち込むのが得策です。将軍は山河の険固を拠り所とし、四州の兵を擁し、外には英雄と結び、内には農戦を修め、それからその精鋭を選び分けて奇兵とし、[一]虚に乗じて繰り返し出撃し、黄河の南をかく乱し、右を救うならばその左を撃ち、左を救うならばその右を撃ち、敵を奔走に疲れさせ、人々を安んじて生業に従うことができないようにすれば、我々はまだ労せずして彼らはすでに疲弊し、三年も経たないうちに、座して勝利を得ることができます。今、廟堂での勝算の策を捨てて、一戦の成敗に決着をつけようとすれば、もし思い通りにならなかった場合、後悔しても及ばないでしょう。」袁紹は従わなかった。田豊が強く諫めて袁紹に逆らい、袁紹は彼が軍の士気をくじくものと考え、ついに彼を枷をはめて拘禁した。そこでまず檄文を宣布して言った。

注[一]

孫子兵法

曰く、「およそ戦う者は、正をもって合し、奇をもって勝つ。」注に云う、「正とは敵に当たるもの、奇とはその不備を撃つものなり。」

聞くところによれば、明主は危険を図って変事を制し、忠臣は困難を慮って権を立てる。昔、強秦の弱主(胡亥)の時、趙高が権柄を執り、朝命を専制し、威福を己の思いのままにし、ついに望夷の禍を招き、その汚辱は今日に至っている。[一]呂后の時代に至ると、呂禄・呂産が専政し、万機を断じ、事を禁省で決し、下は上を陵ぎ、上は下に替わり、海内は寒心した。そこで絳侯(周勃)・朱虚侯(劉章)が威を奮い怒りを起こし、逆暴を誅夷し、太宗(文帝)を尊立したので、道化を興隆させ、光明が融け顕れることができた。これが大臣が権を立てる明らかな表れである。[二]

注[一] 始皇帝が崩御し、胡亥が即位すると、趙高が丞相となった。胡亥は白虎が自分の左驂馬(副馬)を噛み殺す夢を見て、心が晴れず、占夢を問うたところ、卜占で涇水が祟りをなしていると出た。そこで胡亥は望夷宮で斎戒沐浴した。趙高は配下の豻(閻楽)に命じて胡亥を脅迫し、自殺させた。張華は言う。「望夷の宮は長陵の西北、長平観にあり、東は涇水に臨み、これを作って北夷を望んだのである。」事は史記に見える。

注[二] 呂后が専制し、兄の子の呂禄を趙王・上将軍とし、呂産を梁王・相国とし、それぞれ南北の軍を率いさせた。呂后が崩御すると、乱を起こそうとしたが、絳侯周勃や朱虚侯劉章らが共にこれを誅し、文帝を立てた。廟号は太宗という。左伝に閔子馬が言う。「下が上を陵ぎ、上が下に替われば、乱が無くて済むだろうか?」

司空曹操の祖父の曹騰は、かつて中常侍であり、左悺や徐璜と共に妖しき行いをなし、貪欲で横暴を極め、教化を損ない民を虐げた。[一] 父の曹嵩は、物乞いから引き取られ養子となり、[二] 賄賂によって官位を買い、車に金銀財宝を積んで権門に送り込み、鼎司(三公の職)を盗み取り、重器(国家)を傾け覆そうとした。

注[一] 財を貪ることを饕、食を貪ることを餮という。悺の音は烏板反。

注[二] 『続漢志』に言う。「嵩、字は巨高。霊帝の時に官位が売られ、嵩は財貨によって大司農・大鴻臚に拝され、崔烈に代わって太尉となった。」『魏志』に言う。「嵩は騰の養子であり、その出生の詳細を知る者は誰もいない。」『曹瞞伝』及び郭頒の『代語』は共に、嵩は夏侯氏の子で、夏侯惇の叔父であると述べている。魏の太祖(曹操)は夏侯惇にとって従父兄弟にあたる。「□」もまた「乞」の意である。

注[三]

方言

に言う。「僄は、軽いことである。」魏志に言う。「操は若い頃から機敏で権謀術数に長け、任侠を気取り放蕩にふけり、正業に励まなかった。」鋒侠とは、その刃先のように鋭いことを言う。僄の音は方妙反。或いは「剽」と書き、財物を奪う意で、音は同じ。

注[四] 袁紹が宦官たちを誅殺し、老若を問わず皆斬り殺したことを指す。  注[五]

左伝

に言う。「官職を侵すことは冒涙である。」

注[六] 字書に言う。「佻は、軽率であること。」魏志に言う。「操は兵を率いて西進し、成皋を占拠しようとしたが、滎陽けいようの汴水で董卓の将軍徐栄と遭遇し、戦いは不利で、士卒の死傷が多く、操は流れ矢に当たり、乗っていた馬も傷を負った。曹洪が自分の馬を操に与え、夜間に逃げ延びることができたが、また呂布に敗れた。」

注[七] 続漢志に言う。「虎賁将は、鶡冠をかぶり、虎の文様の単衣を着る。襄邑は毎年、織成の虎文衣を献上した。」

注[八] 秦の穆公が孟明視・西乞術・白乙丙を派遣して鄭を討たせたが、晋の襄公が殽でこれを破り、孟明らを捕らえた。文嬴が請うて彼らを釈放し、秦に帰した。穆公は再び孟明を用いて晋を討たせ、晋人は出撃できず、殽の戦死者を埋葬して帰還した。事は左伝に見える。

注[九] 太公金匱に言う。「天道に親疎はなく、常に善人に与する。今、海内は殷によって久しく陸沈している。どうして民衆を急き立てる必要があろうか?」

注[一〇]『魏志』にいう、「陶謙が徐州牧となったとき、曹操が初めてこれを征伐し、十余城を陥落させた。後に再び陶謙を征伐し、五城を攻略し、ついに東海まで領土を広げた。帰途、郯を通過したとき、ちょうど張邈と陳宮が呂布を迎えて反乱を起こし、郡県が皆これに呼応した。呂布は西の濮陽に駐屯し、曹操がこれを攻撃した。呂布は兵を出して戦い、曹操の兵は敗走し、陣形は乱れ、火の中を突進して脱出したが、落馬して左手の掌を焼いた。司馬の楼異が曹操を馬上に助け上げ、ようやく退却することができた」。

注[一一]強幹弱枝については、〈班固伝〉に解釈がある。

『左伝』

宋の大夫の魚石らが宋の彭城を以て楚に帰属して反乱したとき、経文には「宋彭城」と書かれ、伝には「宋の地ではないが、追って書いたのであり、かつ反乱者を登用しない」とある。杜預の注にいう、「登とは、成すことである」。

注[一二]

『左伝』

にいう、「甲を擐ぎ兵を執る」。杜預の注にいう、「擐とは、貫くことである」。『前書』

『前書』

楊雄にいう、「雲のごとく撤き席のごとく捲き、後に余災なし」。『魏志』にいう、「曹操が定陶を襲撃してまだ陥落させないうちに、ちょうど呂布が到着し、これを撃破した。呂布の将の薛蘭・李封が鉅野に駐屯したので、曹操がこれを攻撃した。呂布が薛蘭を救援したが敗れ、呂布は逃走した。呂布は再び陳宮とともに一万余りの兵を率いて戦いを挑んだ。曹操は当時兵が少なく、伏兵を設け奇兵を放って攻撃し、これを大破した。呂布は夜に逃走し、東の劉備のもとへ奔った」。

注[一三]

『左伝』

呂相をして秦と断交させた言葉にいう、「秦の軍が勝利して帰還し害がなければ、それは我々が西方に対して大いに功績を成したことになる」。杜預の注にいう、「造とは、成すことである」。

その後、天子の車駕が東に帰還しようとしたとき、群賊が政を乱した。当時、冀州ではちょうど北方の辺境に警報があり、職務を離れる余裕がなかったので、[一] 従事中郎の徐勳を遣わして曹操を発遣させ、郊廟を修繕させ、幼い君主を翼衛させた。しかし曹操は思いのままに専断を行い、宮廷を威圧して脅し、王の臣僚を軽んじ侮辱し、法を破り紀を乱し、三台を座に召し出し、朝政を専制し、[二] 爵禄と賞賜は心のままに、刑罰と殺戮は口のままに、愛する者は五宗まで栄えさせ、怨む者は三族まで滅ぼし、[三] 公然と議論する者は顕著な誅罰を受け、腹の中で非議する者は隠然たる殺戮を蒙り、[四] 道行く人は目で合図するだけで、百官は口を閉ざし、[五] 尚書は期日の取り決めを記録するだけ、公卿は員数を満たすための飾り物に過ぎなかった。[六]

注[一] 北方の辺境の警報とは、公孫瓚が袁紹を攻撃したことを指す。

『左伝』

杜預の注釈に「その部曲ぶきょくを遠ざけることを離局という」とある。

注[二]

『晉書』

に「漢の官制では尚書を中台、御史を憲台、謁者を外台とし、これらを三台という」とある。

注[三] 五宗とは上は高祖から下は孫までを指す。三族とは父族・母族・妻族を指す。

注[四] 大農の顔異は張湯と不和であった。ある者が顔異を告発した。張湯は顔異が客と詔令の不都合について話したと推問したが、顔異は何も言わず、わずかに唇を反らせただけだった。張湯はそこで上奏し、顔異は九卿の身であり、命令が不都合であるのを見ながら、口に出さずに腹の中で非難した、と論じて死罪に処した。前漢書に見える。

注[五]

『國語』

に「厲王は暴虐で、国人が王を誹謗した。邵公が王に告げて『人々は命令に耐えられません』と言った。王は怒り、衛の巫を手に入れ、誹謗を監視させ、告げ口があれば殺させた。国人は誰も口をきけず、道で会えば目配せするだけだった」とある。周書に「賢哲は口を閉ざし、小人は舌を振るう」とある。何休が

『公羊傳』

に注して「柑とは、木で口をはさむことである」と言う。「鉗」は「柑」とも書き、音は渠廉の反切である。

注[六] 前漢書の賈誼が「大臣はただ簿書の報告がなく、期会の間のことを、重大なことと考える」と言った。

故太尉の楊彪は、二つの司(司空・司徒)を歴任し、朝廷の大綱を司る極位にあった。曹操は些細な恨みによって、無実の罪を着せ、鞭打ちの刑を加え、五毒の拷問をすべて行い、感情のままに悪事を働き、法令を顧みなかった。また議郎の趙彥は、忠誠を尽くして直言し、その意見は採用に値するものであったため、聖なる朝廷は聞き入れ、態度を改めて恩賜を加えた。曹操は時の明るさを奪い、言論の道を絶とうとし、趙彥を逮捕してすぐに殺害し、上奏して返答を待たなかった。また梁孝王は先帝の同母弟であり、その陵墓は尊く顕著で、松柏や桑梓の地はなお恭しく厳粛であるべきである。曹操は将兵を率い、自ら発掘に臨み、棺を破り裸の屍をさらし、金銀財宝を掠め取り、聖なる朝廷をして涙を流させ、士民をして悲しみに沈ませるに至った。さらに発丘中郎将・摸金校尉という官を置き、通過する所は破壊し、骸骨を露わにしないものはなかった。三公の官位にありながら、桀や盗賊のような振る舞いをし、国を汚し民を虐げ、その毒は生者と死者の両方に及んだ。

さらに細かな政令は苛酷で惨く、規則と防備が互いに設けられ、罠の縄が小道に満ち、落とし穴が道を塞ぎ、手を挙げれば網羅に引っかかり、足を動かせば仕掛けられた穴に落ちる。このため兗州・豫州には頼るもののない人々がおり、帝都には嘆き怨む声があった。

注[一] 続漢書に「楊彪は董卓に代わって司空となり、また黄琬に代わって司徒となった。時に袁術が僭称せんしょうして乱を起こした。曹操は楊彪が袁術と婚姻関係にあることを口実に、廃立を図ろうとしたと誣告し、上奏して逮捕投獄し、大逆の罪で弾劾した」とある。

注[二]『献帝春秋』に「楊彪を収監して取り調べ、ついに詔書によって罷免した」とある。

注[三]『前漢書』に、孝文皇帝の竇皇后は孝景帝と梁孝王武を生んだとある。

注[四]

『管子』

に「天下に道がなければ、爵位にある者は皆、自ら生きる楽しみがない」とある。

古今の書籍に記載されているものを歴覧するに、貪婪で残忍、暴虐で無道な臣下の中で、曹操ほど甚だしい者はない。幕府は外の奸賊を詰問しようとしている最中であり、まだ軍を整え訓練する余裕がなく、寛大な処置で包み込み、補修して収められることを望んでいた。[一]しかし曹操は豺狼のような野心を抱き、ひそかに禍いの謀略を包蔵し、[二]漢王朝の棟梁を折り曲げ、孤立させ弱体化させようとし、[三]忠臣を除き善人を害し、専ら梟雄として振る舞った。往年、太鼓を打ち鳴らして北征し、公孫瓚を討伐した時、強暴で凶逆な敵を包囲して一年に及んだ。曹操は彼がまだ破られていないのを見て、密かに書簡を交わし、王師を助けると偽って、不意打ちを仕掛けようとした。そのため軍を率いて黄河に至り、舟を並べて北岸に渡ろうとした。ちょうど使者が発覚し、公孫瓚もまた討ち滅ぼされたため、その鋭鋒えいほうは挫かれ縮み、その企ては成就しなかった。彼は敖倉に駐屯して占拠し、黄河を防壁として堅固に守り、[四]まさに螳螂の斧を振るって、大きな車の通る道を防ごうとするようなものだ。[五]幕府は漢の威霊を奉じ、天下にその武威を振るい、長戟百万、胡騎数千、中黄、夏育、烏獲のような勇士を奮い起こし、[六]良弓勁弩の勢いを駆使し、[七]并州軍は太行山を越え、[八]青州軍は済水・漯水を渡り、[九]大軍は黄河を渡ってその前面を突き、荊州軍は宛・葉を下ってその背後を掣肘する。[一〇]雷の如く震え、虎の如く歩み、一斉に敵の本拠に集結すれば、燃え盛る火で飛び散る蓬を焼くが如く、[一一]滄海の水を覆して燃えさかる炭火に注ぐが如くであり、[一二]何ものか消滅しないことがあろうか。

注[一]

『左伝』

に「我が国を補合する」とある。杜預の注に「弥縫は補合するようなもの」とある。

注[二]『左伝』に、楚の司馬子良が子越椒を生んだ時、令尹の子文が言った。「必ず殺せ。この子は、熊虎の形をし豺狼の声を持つ。殺さなければ必ず若敖氏を滅ぼす。諺に『狼子野心』という。これは狼だ。飼うことができようか!」と。

注[三]

『周易』

に「棟がたわむ凶は、もって輔けることなし」とある。

注[四]『献帝春秋』に「曹操は軍を率いて黄河に至り、袁紹を助けると偽って言い、実は鄴を襲撃しようと図り、公孫瓚の援軍となろうとした。ちょうど公孫瓚が破滅し、袁紹もまたそのことを察知したため、軍を退かせ、敖倉に駐屯させた」とある。

注[五]

『韓詩外伝』

に言う。「斉の荘公が狩りをしていた時、カマキリが足を挙げてその車輪を押さえようとした。荘公は御者に尋ねた。『これは何という虫か?』御者が答えて言った。『これはカマキリです。この虫は進むことを知っていて退くことを知らず、自分の力を量らずに軽々しく敵に立ち向かいます。』公は言った。『これは天下の勇士である。』車を回してこれを避け、勇士は帰っていった。」また

『淮南子』

にも見える。また

『荘子』

に言う。「カマキリが怒って腕を振り上げて車の轍を遮ろうとするのは、それが任に堪えないことを知らないのである。」隧とは道のことである。

注[六]

『屍子』

に言う。「中黄伯が言った。『私は左手に太行山の獶(猿の一種)を捕え、右手に彫虎(猛虎)を捕えている。ただ象だけはまだ試していない。』」

『史記』

の范雎が秦の昭王に説いた「烏獲、任鄙の力、慶忌、夏育の勇」という言葉である。

注[七]文子に言う。「狡兎を得れば猟犬は煮られ、高鳥が尽きれば良弓は蔵められる。」史記の蘇秦が韓王に説いた言葉に「天下の強弓勁弩は、皆韓から出る」とある。

注[八]袁紹の甥の高幹が并州刺史であったので、太行山を越えて来て助けると言っている。

注[九]袁紹の長子の袁譚が青州刺史であった。済と漯は二つの水の名で、現在の斉州の界にある。漯の音は他合反。

注[一〇]賈逵の注釈

『国語』にいう。

「後ろから引っ張ることを掎という。」音は居蟻反。

『左伝』にいう。

「晋人が角で突き、諸戎が掎で引っ張る」というのがこれである。荊州とは劉表を指す。袁紹と交わったので、宛や葉を下したと述べている。

注[一一]『楚辞』にいう。「憂患から離れて初めて悟る、秋の蓬に火を放つがごとし」。

注[一二]

『黄石公三略』にいう。

「義をもって不義を討つは、大河を決壊させて蛍火を沈めるがごとく、その勝利は必ずしも確実である」。

今、漢の道は衰え、綱紀は断絶している。曹操は精兵七百をもって宮闕を包囲し守り、外では陪衛と称しながら、内では人質を拘束し、簒逆の禍を恐れ、これによって起こった。これは忠臣が肝脳を地に塗らす秋であり、烈士が功を立てる機会である。努めないことがあろうか![一]

注[一]陳琳の文集によれば、この檄文は陳琳の言葉である。『魏志』によると、「琳は字を孔璋といい、広陵の人で、冀州に避難し、袁紹に仕えて文章を司った。袁紹が敗れると、太祖(曹操)に帰順した。太祖は彼に言った。『卿はかつて本初(袁紹)のために文書を移したが、ただ私を罪状で責めるだけでよかった。悪を憎むのはその身に止めるべきで、どうして父や祖父にまで及ぼしたのか?』琳は謝罪した。太祖はその才能を愛し咎めなかった」。俗本にはこの後に「陳琳の辞」とあるが、誤りである。

そこでまず顔良を派遣し、白馬で曹操の別将劉延を攻撃させた。[一]袁紹は自ら兵を率いて黎陽に至った。沮授は出発に際し、宗族を集め、資財を分け与えた。そして言った。「勢いがあれば威は及ばぬところなく、勢いが失われれば一身すら保てぬ。哀れなことだ!」その弟の宗が言った。「曹操の兵馬は敵わないのに、あなたは何を恐れるのですか?」授は言った。「曹兗州の明らかな謀略をもってし、さらに天子を擁して資としている。我らは公孫瓚を打ち破ったとはいえ、兵は実に疲弊しており、主は驕り将は奢っている。軍の破敗は、この挙にあるのだ。楊雄に言う。『六国は蚩蚩たり、嬴を為して姬を弱くす』。今のことを言っているのだろう!」[二]曹操はすぐに劉延を救援し、顔良を撃って斬った。[三]袁紹は黄河を渡り、延津の南に陣を構えた。[四]沮授は船に臨んで嘆いて言った。「上はその志を満たし、下はその功を務める。悠々たる黄河よ、私は渡ることができるだろうか!」そこで病気を理由に退こうとしたが、袁紹は許さず内心恨んだ。さらに彼の配下の兵を削り、すべて郭図に属させた。

注[一]白馬は県で、東郡に属する。現在の滑州の県であり、故城は現在の県の東にある。

注[二]『法言』の文である。嬴は秦の姓。姬は周の姓。

『方言』にいう。

「蚩は悖である」。六国が悖惑し、周室を侵して弱め、ついに秦に併呑されたのである。

『三国志』蜀書に注記されているところによると、「曹操は張遼と関羽を先鋒とし、関羽は顔良の旗指し物と傘蓋を見ると、馬を駆って万軍の中を突き進み顔良を刺し、その首を斬って帰還した。諸将でこれに抗える者はなく、こうして白馬の包囲は解かれた」という。

酈道元の

『水経注』

によると、「漢の孝文帝の時に黄河が酸棗で決壊し、東の金堤を破った。大いに兵卒を徴発してこれを塞いだ。武帝が瓠子の歌を作ったのは、皆この河口のことを指している」という。また東北を延津と呼ぶ。杜預が『左伝』に注釈して「陳留郡酸棗県の北に延津がある」としている。

袁紹は劉備と文醜に挑戦させたが、曹操はまたこれを撃破し、文醜を斬った。二度の戦いで二将を捕らえ、袁紹軍は大いに震駭した。

曹操は官渡に戻って駐屯し、袁紹は進んで陽武を守った。沮授がまた袁紹に進言した。「北方の兵は数は多いが、精強さと果断さでは南軍に及ばない。南軍は食糧が少ないが、物資の蓄えは北方に及ばない。南軍は急戦を望み、北軍は持久戦に利がある。ゆっくりと持久し、日月をかけるべきです」。袁紹は従わなかった。陣営を連ねて少しずつ前進し、次第に官渡に迫り、ついに合戦となった。曹操軍は不利となり、また塁壁に籠もった。袁紹は高い櫓を造り、土山を築いて陣営内を射た。陣営内の者は皆盾をかぶって行動した。曹操は石を発射する車で袁紹の楼櫓を撃ち、ことごとく破壊した。軍中ではこれを「霹靂車」と呼んだ。袁紹は地下道を掘って曹操を襲おうとしたが、曹操はすぐに陣内に長いかがり火を設けて防いだ。また奇兵を派遣して袁紹の輸送車を襲撃し、大いにこれを破り、その食糧をすべて焼き払った。

官渡は現在の鄭州中牟県の北にある。酈道元の『水経』に「莨蕩渠が曹公の塁の北を通り、高台があり官渡台と呼ばれ、中牟城の北にあり、俗に中牟台という」とある。

陽武は現在の鄭州の県である。

『魏志』によると、「陣営を連ねて少しずつ進み、前に沙堆に依り、東西数十里にわたって屯した。曹操もまた陣営を分けてこれに対応した」という。

『釈名』に「楼櫓とは、上に覆い屋根のないものだ」とある。今、官渡台の北の土山はまだ残っており、台の東には袁紹の旧陣営の遺構がともに現存している。

楯は現在の傍牌である。楊雄の『羽猟賦』に「楯をかぶり羽を背負う」とある。『献帝春秋』によると、「袁紹は軍中にそれぞれ三尺の縄を持たせ、曹操がもし捕らえられたならば、ただ縛るだけだ」と命じた。

その石を発射する音が雷のように激しいので、霹靂と呼んだ。これは現在の拋車である。拋は普孝反と読む。

百余日相持した。河南の人々は疲弊困窮し、多くが離反して袁紹に呼応した。袁紹は淳于瓊らに兵一万余りを率いさせ、北へ向かわせて輸送を迎えさせた。沮授は袁紹に、蒋奇を別働隊として外側に派遣し、曹操の掠奪を断つべきだと進言した。袁紹は従わなかった。許攸が進言した。「曹操の兵は少なく、全軍で我々を防いでいる。許都の残りの守りは必ず手薄である。もし軽軍を分遣し、夜を日に継いで急襲すれば、許都が陥落すれば曹操は捕虜となるでしょう。もしまだ崩れていなくても、首尾奔走させることができ、必ず破ることができます」。袁紹はまた用いなかった。ちょうど許攸の家族が法を犯し、審配がこれを捕らえて拘束した。許攸は志を得ず、ついに曹操に奔り、淳于瓊らを襲撃して奪取するよう説いた。瓊らは当時烏巣に宿営しており、袁紹の本軍から四十里離れていた。曹操自ら歩騎五千を率い、夜襲して瓊らを攻め破り、ことごとく斬った。

支軍を淳于瓊らの外側の援護とするためである。

烏巣は地名で、滑州酸棗城の東にある。

注[三]『曹瞞伝』によると、「曹操は許攸が来たと聞くと、はだしで出迎えた。許攸は曹操に淳于瓊らを襲撃するよう勧め、曹操は大いに喜び、精鋭の歩兵と騎兵を選び、皆に袁紹軍の旗幟を執らせ、枚を銜ませ馬の口を縛り、夜間に間道から出て、人々は束薪を抱えた。通った道で尋ねる者がいれば、『袁公は曹操が後軍を掠奪するのを恐れ、兵を返して守備を厚くしているのだ』と言った。尋ねる者はそれを真に受けた。到着すると、屯営を包囲し、大いに火を放つと、陣営内は驚き乱れ、大いにこれを打ち破り、その穀物や財宝をことごとく焼き払い、督将の眭元進らを斬り、将軍淳于仲簡の鼻を切り取り、兵士千余人を殺し、皆その鼻を取り、牛馬は唇や舌を切り取って、袁紹軍に見せしめた。将兵は皆恐れおののいた」。

初め、袁紹は曹操が淳于瓊を攻撃したと聞き、長子の袁譚に言った。「たとえ曹操が淳于瓊を破っても、我々がその本営を抜けば、彼らは行き場を失うだろう」。そこで高覧、張郃らに曹操の本営を攻撃させたが、落とせなかった。[一]二将は淳于瓊らが敗れたと聞き、すぐに曹操のもとに奔った。ここにおいて袁紹軍は驚き乱れ、大いに潰走した。袁紹は袁譚らと幅巾を着け馬に乗り、八百騎を率いて黄河を渡り、黎陽の北岸に至り、その将軍蔣義渠の陣営に入った。幕舎の下に至り、その手を握って言った。「孤はこの首をあなたに託す」。蔣義渠は幕舎を避けて袁紹を住まわせた。命令を宣布させた。兵士たちは袁紹がいることを聞き、次第に再び集まった。残りの兵は偽って降伏したが、曹操はことごとく生き埋めにし、前後に殺した者は八万人に及んだ。

注[一]『魏志』によると、「張郃は字を儁乂といい、河間郡鄚県の人である。張郃は袁紹に説いて言った。『曹公の精兵が行けば、必ず淳于瓊らを破り、そうなれば我々の大事は去ります』。郭図は言った。『張郃の計略は間違っている。本営を攻撃する方がよい』。張郃は言った。『曹公の本営は堅固で、攻めても必ず落とせません。もし淳于瓊らが捕らえられたら、我々は皆虜となってしまいます』。袁紹はただ軽騎を派遣して淳于瓊を救わせ、重兵をもって太祖(曹操)の本営を攻撃したが、落とせなかった。太祖は果たして淳于瓊らを破った。袁紹軍は潰走し、郭図は恥じ、さらに張郃が軍の敗北を喜んでいると讒言した。張郃は恐れ、太祖に帰順した」。

沮授は曹操軍に捕らえられると、大声で叫んだ。「授は降伏しない。捕らえられただけだ」。曹操は沮授に会って言った。「分かれ隔たった地にいて、ついに絶縁していたが、今日あなたと会えるとは思わなかった」。沮授は答えて言った。「冀州(袁紹)の失策により、自ら敗走を招きました。授は知力ともに尽き、捕らえられるのも当然です」。曹操は言った。「本初(袁紹)には謀がなく、あなたの計略を用いなかった。今、喪乱が十二年を過ぎ、[一]国家は未だ定まっていない。まさにあなたとともにこれを図ろうとしているところだ」。沮授は言った。「叔父、母、弟の命が袁氏に懸かっています。もしあなたの御威光を蒙ることがあれば、速やかに死ぬことが福です」。曹操は嘆いて言った。「もし早くからあなたを得ていたなら、天下を憂慮するには足りなかっただろう」。そこで赦免して厚く遇した。沮授はまもなく袁氏に帰ろうと謀り、そこで誅殺された。

注[一]十二年を一紀という。

袁紹は外見は寛大で風雅があり器量があった。憂いや喜びを顔色に表さなかったが、性格は傲慢で強情で自らを高く評価し、[一]他人の善い意見に従うことが不得手であった。それゆえに敗北に至ったのである。

軍が帰還した後、ある者が田豊に言った。「あなたは必ず重用されるでしょう」。田豊は言った。「袁公は外見は寛大だが内心は猜疑心が強く、私の忠誠を理解せず、私はたびたび率直な意見で彼に逆らった。もし勝って喜んでいれば、必ず私を赦すだろうが、戦いに敗れて怨みがあれば、内心の猜疑心が発動する。もし軍を出して有利であれば、全き身を保てたはずだが、今や既に敗れた。私は生きることを望まない」。袁紹は帰還し、言った。「私は田豊の言葉を用いなかったので、果たして笑われることになった」。そこで彼を殺した。[二]

注[一]愎の音は平逼の反切。

注[二]『先賢行状』によると、「袁紹は逢紀に言った。『冀州の人々は我が軍の敗北を聞き、皆私を思いやるだろう。ただ田別駕(田豊)だけが以前に私を諫めて止め、衆人と異なっていたので、私は彼を恥じている』。逢紀はさらに言った。『田豊は将軍が退却したと聞き、手を打って大笑いし、自分の言葉が的中したことを喜んでいます』。袁紹はここにおいて田豊を害する意を抱いた。初め、太祖(曹操)は田豊が従軍しなかったと聞き、喜んで言った。『袁紹は必ず敗れるだろう』。袁紹が敗走した時、さらに言った。『もし袁紹があの別駕の計略を用いていたなら、まだどうなったか分からなかっただろう』」。

官渡の戦いの敗北で、審配の二人の息子が曹操に捕らえられた。孟岱は審配と不和があり、蔣奇を通じて袁紹に言った。「審配はその地位で専権をふるい、一族は大きく兵力は強い。しかも二人の息子が南(曹操側)にいるので、必ずや反逆を企てるでしょう」。郭図、辛評もそう考えた。袁紹はそこで孟岱を監軍とし、審配に代わって鄴を守らせた。護軍の逢紀は審配と仲が悪かった。[一]袁紹がこれについて逢紀に尋ねると、逢紀は答えて言った。「審配の天性は激しく直情的で、その言動は常に古人の節義を慕い、二人の息子が南にいることを不義とは考えていません。あなたは彼を疑わないでください」。袁紹は言った。「あなたは彼を嫌っていないのか?」。逢紀は言った。「以前に争ったのは私情であり、今申し上げるのは国事です」。袁紹は「善い」と言った。そこで審配を罷免せず、審配と逢紀はこれによってより協力するようになった。

注[一]『英雄記』によると、「審配が任用されると、逢紀と不和になり、辛評、郭図は皆袁譚に与した」。辛評は辛毗の兄である。『魏志』に見える。

冀州の城邑の多くが離反したので、袁紹は再び攻撃して平定した。軍が敗れて後、発病し、建安七年の夏、死去した。[一]後継者を定める前に、逢紀、審配は平素から驕慢で奢侈なことで袁譚に憎まれ、辛評、郭図は皆袁譚に与し、審配、逢紀とは不和であった。衆人は袁譚が年長であるとして、彼を立てようとした。審配らは袁譚が立つと辛評らが害をなすことを恐れ、そこで袁紹の遺命を偽り、袁尚を後継者として奉じた。

注[一]『魏志』によると、「袁紹は軍が破られた後、発病して吐血して死んだ」。『献帝春秋』によると、「袁紹は人に政を施すに寛大で、百姓はその徳を慕った。河北の男女は誰もが悲しみ怨み、街路では涙を揮い、あたかも親を喪ったかのようであった」。

『典論』

こう述べている。「袁紹の妻劉氏は性来、酷く嫉妬深かった。袁紹が死に、死体がまだ埋葬されないうちに、寵愛していた妾五人をことごとく殺し、死者に知覚があるならば、地下で再び袁紹に会うことになるだろうと考え、妾たちの髪を剃り顔を墨で塗り、その容貌を損なわせた。袁尚はさらに、死者の家族をことごとく殺させた。」

校勘記

二三七三頁三行目「父成五官中郎將」について。按ずるに、集解が引用する錢大昕の説によれば、華嶠の漢書では「左中郎將」としているという。三国志注に見える。袁安伝では「左中郎」とあり、誤りのようである。

二三七三頁三行目「*(紹)*壯健好交結」について。殿本考證が引用する何焯の説によれば、これはその父の袁成を指しており、「紹」の字は衍字であるという。今これに従って削除した。

二三七三頁七行目「除濮陽長」について。按ずるに、集解が引用する錢大昕の説によれば、許劭伝では袁紹を濮陽令と称している。

二三七四頁三行目「以紹為佐軍校尉」について。集解が引用する洪頤粻の説によれば、何進伝では「中軍校尉」とし、蓋勳伝、五行志はいずれも「佐軍校尉」としている。按ずるに、沉家本は注が引用する山陽公載記では「中軍」とし、献帝紀の注が引用するものも同じであり、魏志も「中軍」としていると述べている。当時には上軍、下軍があったので、「中軍」としているのが正しい。

二三七四頁六行目「淳於瓊為右校尉」について。按ずるに、何進伝では「左軍校尉」としている。

二三七四頁一一行目「未有不善宣於天下」について。按ずるに、校補が引用する柳從辰の説によれば、袁紀では「宣」を「害」としている。

二三七五頁一行目「信太山*(陽)*平*[陽]*人也」について。洪亮吉は「陽平」は魏志鮑勳伝のように「平陽」とすべきであると述べている。今これに従って改めた。

二三七五頁一行目「乃引軍還鄉里」について。刊誤は「軍」は「歸」とすべきであるか、あるいは「軍」の字は衍字であると述べている。

二三七五頁一一行目「*(以)**[與]*從弟後將軍術」について。刊誤に従って改めた。

二三七六頁三行目「少府陰循至將作大匠吳循」について。集解が引用する錢大昕の説によれば、献帝紀では「循」はいずれも「修」とし、魏志も「吳修」としているので、「修」が正しいはずである。

二三七六頁六行目「卓使司隸宣璠*(尺)**[盡]*口收之」について。汲本、殿本に従って改めた。

二三七六頁八行目「胡母班字季友」について。三国魏志注では「季友」を「季皮」としている。風俗通巻三では「胡母季皮」としている。今按ずるに、「皮」としているのが正しい。沉家本は漢書□伝に、楚人は虎を班と呼ぶとあると述べている。名を班、字を季皮とするのは、春秋時代の鄭の罕虎が字を子皮としたのと同じである。

二三七六頁一二行の「亡人二女」について、沈家本は魏志注では「亡人子二人」とあると指摘している。案ずるに、下文に「匡抱班二子哭」とあるので、「二女」としているのは誤りである。

二三七六頁一五行の「忌方得觿」の「方」字は意味をなさないため、「其」字であるべきと刊誤が指摘している。按ずるに、通志は正に「其」と作している。今これに拠って改める。

二三七七頁四行の「何凶逆」について、『刊誤』は「何」は「阿」とすべきであるとしている。按ずるに、厳可均の『全後漢文』注は「何、負也」としている。厳説に依拠すれば、「何」の字は誤りではない。

袁紹の食客である逢紀(按:『何進伝』では「龐紀」と作る)。

二三七七頁九行の「外托董卓」の箇所に、『刊誤』は本文に「討」の字が一つ欠けていると指摘している。按ずるに、『通志』は正しく「托討董卓」と作っている。今これに拠って補う。

二三七八頁二行の騎都尉沮授について注記する。集解が引用する王補の説によれば、魏志では諫言した者として耿、閔のほかに治中李歴を挙げており、沮授は記されていない。通鑒はこれに従っている。

二三七八頁五行の程渙の按:集解が引く惠棟の説によれば、魏志では「渙」を「奐」と作るとある。

秦伯は言う。按ずるに、「秦」は元来「泰」と書かれていたが、汲古閣本と武英殿本に基づいて改めた。

これはまさに将軍にとっての恥辱である。集解は惠棟の説を引いて、「羞」の字は誤りで、『英雄記

『眷』と作す。今、改むるに拠る。按ずるに、三国志袁紹伝注に『英雄記

『眷』と作る。

二三八一頁一〇行「大會賓徒於薄落津」の校補は「徒」は「從」とすべきであるとしている。按ずるに、魏志注が引く《英雄記」と書き、『方と賓客諸将と共に会す』と作る。

二三八一頁一〇行、黒山賊の干毒、殿本は「干」を「於」と作し、以下同じ。按ずるに、朱儁伝も「於」と作す。

二三八一頁一四行、紹は遂に山を尋ねて北行す。按ずるに、張森楷の校勘記は「尋」の字は意味がなく、疑わしく「循」と作すべきと謂う。

二三八一頁一五行、左髭丈八。按ずるに、殿本は「丈」を「文」と作す。

二三八二頁五行、これを*[薄]*落津と謂う。校補は柳従辰の説を引き、通鑑注がこれを引いて「これを薄落津と謂う」と作すと謂い、ここは「薄」の字を脱す。今これに拠り補い、今本の水経注に合わす。

二三八二頁一三行、紹を右将軍に拝す。按ずるに、集解は惠棟の説を引き、袁宏紀は「後将軍」と作すと謂う。

二三八三頁九行、熙の字は顯雍。集解は惠棟の説を引き、「顯雍」は魏志注に従って「顯奕」と作すべきと謂う。按ずるに、潘眉の三国志考證は雍と熙の字は相応じ、「奕」と作すは誤りと謂う。

二三八三頁一二行、願わくは上は惟だ先代の成*(則)**[敗]*の誡を。集解は惠棟の説を引き、「則」は九州春秋に依って「敗」と作すべきと謂う。今これに拠り改む。

二三八六頁九行、凡そ我が同盟の後は。按ずるに、刊誤は案ずるに文は当に「同盟の人、既に盟しての後」と云うべきと謂い、これが盟書の常文なり、誤って四字を脱すと謂う。

二三八六頁九行、神明是れ殛す。按ずるに、「殛」は原斗「亟」、逕に汲本・殿本に拠りて改正す。

二三八六頁一一行、今是れ*(夫)**[大]*鳥獣は則ち其の群匹を失喪す。殿本に拠り改め、今の礼記の文に合わす。

二三八六頁一六行、張楊・黒山、同時に乞降す。按ずるに、「楊」は原作「揚」、前後互いに岐れ、逕に改正す。

二三八七頁五行、太僕趙岐。按ずるに、「岐」は原斗「歧」、逕に改正す。

二三八九頁四行、三槐、三公*(匹)**[位]*す。汲本・殿本に拠り改む。

二三八九頁一五行、以て驃騎大将軍と為す。按ずるに、張森楷の校勘記は案ずるに明帝紀及び東平王伝は並びに驃騎将軍と為すと云い、「大」の字は蓋し衍字なりと謂う。

二三九一頁一行 その勢いは譬えるならば手を覆して据えるが如し。汲本により改める。

二三九一頁五行 かつ公の師徒は精鋭で勇猛なり。按ずるに、校補が柳従辰の説を引き、閩本では「公」を「今」と作すと謂う。

二三九一頁七行 在りては持牢に在り。殿本により改める。按ずるに、殿本考證の李良裘が謂うには、三国志注中の献帝伝に載せる所に「在於持牢」と作り、「将軍」の二字は伝写の誤りなりと。また集解が王補の説を引き、通鑑も亦「持牢」と作すと謂い、胡注は猶ほ今の南人の言う「把穩」の如しと。

二三九一頁八行 夫れ臣と主と同なる者は昌び、主と臣と同なる者は亡ぶ。集解が惠棟の説を引き、献帝伝に云う「臣與主同者昌,主與臣同者亡」と、伝は「昌主與臣同者」の六字を漏らすと謂う。今これに拠り補う。

二三九三頁一二行 臧に因りて位を買う。集解が惠棟の説を引き、「買」は陳琳集に「假」と作すと謂う。今按ずるに、文選も亦「假」と作す。

二三九三頁一二行 操は贅閹の遺丑なり。集解が錢大昕の説を引き、「奸」は「贅」と作すべきなりと謂い、三国志注及び文選並びに「贅」の字なりと。今これに拠り改む。

二三九四頁一行 □就の威柄。集解が惠棟の説を引き、文選及び魏志注は皆「□□」と作り、□は成なり、就も亦成と訓み、□と義を同じくすと謂う。按ずるに、殿本は「就」を「蹴」と作す。

二三九四頁三行 身に梟懸の戮を被る。文選は「身」の下に「首」の字有り、「戮」を「誅」と作す。按ずるに、下に「妻孥灰滅の咎を受く」と云う、「身首」「妻孥」相対して文を成す、疑わくは此れ「首」の字を脱す。

二三九五頁一一行 布復た陳宮と将いて万余人を率いて来たりて戦う。汲本、殿本により改める。

二三九八頁八行 中黄伯曰く。刊誤により補う。

二四00頁三行 営中皆な楯を蒙りて行く。李慈銘が謂う、「皆」の字の上に当に「営中」の二字を重ねるべしと、三国志袁紹伝は「営中皆蒙楯,觿大懼」と作すと。今これに拠り補う。

二四00頁一0行 曹操誠に禽らる。按ずるに、刊誤が謂う、「誠」は文に案ずるに「成」と作すべきなりと。

二四00頁一四行 許を抜かば則ち操成る禽と為る。刊誤により刪す。

二四0一頁六行 兵を還して以て備えを益す。按ずるに、校補が謂う、魏志注の引く曹瞞伝は、「還兵」を「遣兵」と作すと。

二四0一頁七行 督将眭元進等を斬る。集解が惠棟の説を引き、「睢》は「眭》と作すべきなりと謂い、即ち眭固なりと。今これに拠り改む。

二四〇三頁四行の「配》の字の後に『紀』の字を補う。これは蘇輿の説を引いて『集解』に拠り、より協調させたためである。