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巻七十三・劉虞公孫瓚陶謙列伝 第六十三

後漢書 巻七十三 劉虞公孫瓚陶謙列傳 第六十三

劉虞

劉虞は字を伯安といい、東海郡郯県の人である。祖父の劉嘉は光禄勲であった。劉虞は初め孝廉に推挙され、次第に昇進して幽州刺史となった。民衆や異民族はその徳による教化に感じ入り、鮮卑・烏桓・夫余・穢貊の類いも皆、時節に応じて朝貢し、辺境をかき乱す者はなく、百姓は彼を称えて喜んだ。公務のため官を去った。中平の初め、黄巾の乱が起こり、冀州の諸郡を攻め破ると、劉虞は甘陵の相に任命され、荒廃した余りの民を安撫し、質素倹約をもって下を率いた。宗正に転任した。

注釈:謝承の『後漢書』によると、「劉虞の父の劉舒は丹陽太守であった。劉虞は五経に通じ、東海恭王劉彊の後裔である」。

その後、車騎将軍の張温が賊の辺章らを討伐する際、幽州の烏桓から三千の突騎を徴発したが、兵糧の支給が滞り、皆が反乱して本国に帰ってしまった。前中山相の張純がひそかに前泰山太守の張挙に言った。「今、烏桓が既に背き、皆が乱を起こそうと願っており、涼州では賊が蜂起し、朝廷はこれを抑えられない。また洛陽らくようでは人の妻が両頭の子を産んだ。これは漢の天命が衰え尽き、天下に二人の主が現れる兆しである。あなたがもし私と共に烏桓の衆を率いて兵を起こせば、おそらく大業を成し遂げられるだろう」。張挙はそれに同意した。四年、張純らは遂に烏桓の大人と共に盟約を結び、薊を攻め、城郭を焼き払い、百姓を略奪し、護烏桓校尉こういの箕稠・右北平太守の劉政・遼東太守の陽終らを殺害した。その衆は十余万に達し、肥如に駐屯した。張挙は「天子」を称し、張純は「弥天将軍安定王」を称し、州郡に文書を送り、張挙が漢に代わるべきであり、天子は位を避け、公卿は奉迎すべきであると告げた。張純はまた烏桓の峭王らに歩兵騎兵五万を率いさせ、青州・冀州の二州に入り、清河・平原を攻め破り、官吏や民衆を殺害した。朝廷は劉虞の威信が平素から顕著で、北方に恩恵が積もっていると考え、翌年、再び幽州牧に任命した。劉虞が薊に到着すると、駐屯兵を減らし、恩信を広めることに務めた。使者を遣わして峭王らに朝廷の恩恵は寛大であり、善への道が開かれていることを告げさせた。また賞金をかけて張挙・張純を捕らえようとした。張挙と張純は塞外に逃げ出し、残りは皆降伏して散り散りになった。張純はその食客の王政に殺され、首は劉虞のもとに送られた。霊帝は使者を遣わしてその地で太尉に任命し、容丘侯に封じた。

注釈:『漢書』音義によると、「牢とは価値のことである」。稟は食糧のこと。軍糧が続かないことを言う。

注釈:肥如は県で、遼西郡に属する。故城は現在の平州にある。

注釈:峭の音は七笑反。

注釈:容丘は県で、東海郡に属する。

董卓が政権を執ると、使者を遣わして劉虞に大司馬を授け、襄賁侯に進封した。初平元年、再び召し出されて袁隗に代わり太傅となった。

道路が遮断され、朝廷の命令は遂に届かなかった。以前から幽州は辺境の外に接し、費用が非常に多く、毎年常に青州・冀州の賦調二億余りを割いて、これを充足させていた。当時は至る所で輸送路が断絶し、物資の輸送が届かなくなったが、劉虞は寛大な政治を保ち、農耕を勧め監督し、上谷での胡人との交易の利益を開き、漁陽の塩鉄の豊かさを通じさせた。民衆は喜び、年は豊かになり、穀物一石が三十銭であった。青州・徐州の士人や庶民で黄巾の難を避けて劉虞のもとに帰ってきた者は百余万口に及び、劉虞は皆を見守り温かく救済し、生業を立てさせて安定させたので、流民は皆、移住したことを忘れた。劉虞は上公の地位にありながら、天性倹約で、ぼろの衣服に縄の履き物、食事に二品の肉料理はなく、遠近の豪傑で以前から分を越えて贅沢をしていた者も、皆、行いを改めて心服した。

注釈:夙とは以前と同じくの意。

初め、詔令により公孫瓚に烏桓を討伐させ、劉虞の指揮下に置いた。公孫瓚はただ徒党を集めて自らを強大にすることを務め、配下の部曲を放任して、百姓をかなり侵害・かき乱した。一方、劉虞の政治は仁愛に満ち、民衆と物資の利益を思った。これにより劉虞と公孫瓚は次第に不和になった。二年、冀州刺史の韓馥・勃海太守の袁紹および山東の諸将は、朝廷が幼少で、董卓に脅迫され、関塞に遠く隔てられ、存否もわからないため、劉虞を宗室の長老として、主君に立てようと協議した。そこで元楽浪太守の張岐らを派遣して協議を重ね、劉虞に尊号を奉った。

劉虞は張岐らを見ると、厳しい表情で叱責して言った。「今、天下は崩壊して乱れ、主上は蒙塵されている。私は重い恩恵を受けながら、国の恥を清め雪ぐことができていない。諸君はそれぞれ州郡を領有しているのだから、共に力を合わせ、王室に尽くすべきである。それなのに逆らう謀略を造り、互いに汚し誤らせるのか!」

固く拒絶した。韓馥らはまた劉虞に尚書事を兼任させ、制を承って封爵・任命を行うよう請うたが、再び聞き入れなかった。遂に使者を捕らえて斬った。そこで属官の右北平の田疇と従事の鮮于銀を選び、危険を冒いて間道を行かせ、長安ちょうあんに使者として奉じさせた。献帝は既に東帰を望んでいたので、田疇らを見て大いに喜んだ。

その時、虞子和が侍中であったため、これに乗じて和を遣わし、密かに武関から出させ、虞に兵を率いて迎えに来るよう告げさせた。道中は南陽を通り、後将軍の袁術がその状況を聞くと、和を人質に取り、虞に兵を遣わして共に西進するよう報告させた。虞は数千騎を和のもとに遣わして天子を奉迎させようとしたが、術は結局彼らを遣わさなかった。

注[一] その時、献帝は十歳であった。

注[二] 左伝によると、周の襄王が鄭に亡命した時、魯の臧文仲が言った。「天子が外で塵を被る(=難に遭う)。」

注[三] 説文によると、「曒力は、力を合わせることである。」左伝に「曒力同心」とある。音は力凋反、また六とも読む。

注[四] 魏志によると、「田疇は字を子泰といい、右北平郡無終県の人である。読書を好み、剣術に長けていた。劉虞に任用され従事となった。太祖(曹操)が烏桓を北征した時、田疇に命じて衆を率いさせ、徐無山に登り、盧龍塞から出て、平剛を経由し、白狼堆に登った。柳城から二百余里のところで、敵は驚き、太祖はこれと戦い、大いに斬獲し、論功行賞で田疇を封じた。田疇は上疏して自らを陳べたが、太祖は夏侯惇に命じて彼を諭させた。田疇は言った。『どうして盧龍塞を売って賞禄と交換できようか?』」

初め、公孫瓚は袁術が詐りであることを知り、虞が兵を遣わすことを固く止めたが、虞は従わなかった。そこで瓚は密かに袁術をそそのかして和を捕らえさせ、その兵を奪わせた。これ以降、虞と瓚の仇怨はますます深くなった。和はやがて袁術のもとから逃げて北に帰還したが、また袁紹に留め置かれた。瓚は累次にわたり袁紹に敗れていたが、なおも攻撃をやめず、虞はその濫用される武力を憂い、また、彼が志を得れば制御できなくなることを慮り、固く出兵を許さず、次第にその兵糧の支給を減らした。瓚は怒り、たびたび命令に背き、また再び百姓を侵害した。虞が胡族や夷族に与える賞賜や質入れ品を、瓚はたびたび略奪した。積もる不満を抑えきれず、虞は駅使を遣わして上奏文を奉り、瓚の暴虐と略奪の罪を陳べた。瓚もまた、虞が兵糧を十分に供給しないことを上奏した。二つの上奏文が行き交い、互いに非難し合ったが、朝廷はどちらにも決めかねた。そこで瓚は薊城に高台(京)を築いて虞に備えた。虞はたびたび瓚を招請したが、瓚はいつも病気と称して応じなかった。虞は密かに瓚を討つことを謀り、東曹掾の右北平郡出身の魏攸に告げた。魏攸は言った。「今、天下の民は首を長くして、公(劉虞)に帰することを望んでいます。謀臣や爪牙(武臣)は、欠かすことができません。瓚の文武の才力は頼りに足ります。小さな過ちはあっても、本来は容忍すべきです。」虞はこれでやめた。

注[一] 黷は、侮慢、または頻繁に行うこと。尚書に「祭祀に黷する」とある。

注[二] 「當」の音は丁浪反。

注[三] 京とは高い丘のことで、高い丘の塁を築いて虞に備えたという意味。解釈は献帝紀を参照。

しばらくして魏攸が亡くなると、積もった憤りは収まらなかった。初平四年の冬、遂に自ら諸屯の兵を率い、合わせて十万の兵衆で公孫瓚を攻撃した。出発しようとした時、従事の代郡出身の程緒が冑を脱いで前に進み出て言った。「公孫瓚には過ちや悪行はありますが、その罪名はまだ確定していません。明公(劉虞)はまず彼に告げ諭して行いを改めさせることなく、内輪もめから兵を起こすのは、国の利益ではありません。さらに勝敗は保証できず、兵を駐留させ、武力をもって臨む方が良いでしょう。瓚は必ず禍を悔いて謝罪するでしょう。いわゆる戦わずして人を服させるというものです。」虞は程緒が事に臨んで議論を沮むとして、遂に彼を斬って見せしめにした。そして軍士に戒めて言った。「他の者を傷つけるな。ただ伯珪(公孫瓚)一人を殺すだけだ。」その時、州の従事に公孫紀という者がおり、瓚は同姓ということで厚く待遇していた。紀は虞の謀略を知り、夜に瓚に告げた。瓚は当時、配下の兵士が外に散らばっており、慌てて自ら免れられないことを恐れ、東城を掘って逃げ出そうとした。虞の兵は戦いに慣れておらず、また民家を惜しんで、焼くことを許さないと命じたため、急いで攻め囲んだが落とせなかった。瓚はそこで精鋭の兵士数百人を選抜募集し、風に乗って火を放ち、まっすぐに突撃した。虞は遂に大敗し、官属と共に北の居庸県に逃げた。瓚は追撃して攻め、三日で城は陥落し、遂に虞とその妻子を捕らえて薊に連れ戻し、なおも州の文書を扱わせた。ちょうどその時、天子が使者の段訓を遣わして虞の封邑を増やし、六州の事務を監督させ、瓚を前将軍に任命し、易侯に封じ、節を持たせて幽州・へい州・青州・冀州を監督させた。瓚はそこで、以前に虞が袁紹らと共に尊号を称しようとしたと誣告し、段訓に脅迫して虞を薊の市で斬らせた。虞はまず座り、呪って言った。「もし私虞が天子となるべき者ならば、天は風雨をもって救うであろう。」その時は旱魃が激しく炎暑が厳しかったため、遂に斬られた。首は都に送られ、旧吏の尾敦が道中で虞の首を奪い取り、埋葬した。

瓚はそこで段訓を幽州刺史に上奏した。虞は恩情が厚く衆望を得て、北州の人々の心を捉えていたため、百姓や旧臣は皆、痛惜した。

注[一] 居庸県は上谷郡に属し、関所がある。

注[二] 尾敦は姓名である。

初め、虞は倹素を操行とし、冠が破れても新調せず、穴を繕って補った。そして害に遭った時、瓚の兵が彼の邸内を捜索すると、妻妾は羅や紈(上質な絹)の服を着て、豪華な装飾を施しており、当時の人々はこれをもって彼を疑った。虞和は後に袁紹に従って公孫瓚に報復したという。

公孫瓚

公孫瓚は字を伯珪といい、遼西郡令支県の人である。家柄は二千石の家であった。瓚は母が身分が低かったため、郡の下級役人となった。容貌が美しく、声が大きく、事柄を述べるのに弁舌が鋭く聡明であった。太守はその才能を奇異に思い、娘を妻として与えた。後に涿郡の盧植に従い、緱氏山中で学び、書物や伝記を大略見た。上計吏に推挙された。太守の劉君が罪に坐して檻車で召還されることになり、官法では役人が親しく近づくことを許さなかったが、瓚は姿形を変え、衣服を改め、侍卒を詐称し、自ら徒卒や給仕の役を執り、車を御して洛陽まで行った。太守が日南郡に流されることになった時、瓚は豚と酒を北芒の上に備え、祖先に祭り別れを告げ、杯の酒を地に注ぎ祈って言った。

「昔は人の子であったが、今は人の臣下となり、日南に赴かねばならない。日南には瘴気が多いので、恐らく帰れないかもしれず、ここで永く墳墓に別れを告げる。」

慷慨として悲しみ泣き、再拝して去った。見る者は誰もが嘆息しなかった者はいない。出発した後、道中で赦免を得た。

注[一]令は音、力定反。支は音、巨移反。

注[二]典略に言う。「瓚の性質は弁舌が鋭く聡明で、事を上申する時、常に数曹分を兼ねて行い、忘れ誤りがなかった。」

注[三]魏志に言う。「侯太守が娘を妻として与えた。」

瓚は郡に戻り、孝廉に推挙され、遼東属国長史に任命された。かつて数十騎を従えて塞の外に出て巡察していた時、突然数百騎の鮮卑と出会った。

瓚はそこで空の亭舎に退き、従者たちに約束して言った。「今逃げなければ、全滅してしまう。」そこで自ら両刃の矛を持ち、駆け出して賊に突撃し、数十人を殺傷した。瓚の左右の者も半数を失ったが、ようやく難を逃れた。

中平年間、瓚を以て烏桓突騎を督させ、車騎将軍張温が涼州の賊を討伐した。ちょうど烏桓が反乱を起こし、賊の張純らと共に薊中を攻撃したので、瓚は率いる兵を率いて張純らを追討し、功績があり、騎都尉に昇進した。張純はまた反乱した胡の丘力居らと共に漁陽、河間、勃海を寇し、平原に入り、多くを殺略した。瓚は追撃して属国の石門で戦い、虜は大敗し、妻子を棄てて塞を越えて逃げ、略奪した男女をことごとく取り戻した。瓚は深く侵入したが後続がなく、逆に丘力居らに遼西の管子城で包囲され、二百余日が経ち、食糧が尽きて馬を食べ、馬が尽きて弩や楯を煮て食べ、力戦したが敵わず、兵士たちに別れを告げ、それぞれ分散して帰還した。

その時は雨雪が多く、隊や坑で死んだ者は十のうち五、六に及び、虜もまた飢え疲れ、遠く柳城へ逃げた。詔により瓚を降虜校尉に任命し、都亭侯に封じ、再び属国長史を兼務させた。職務は軍馬を統率し、辺境の寇賊と対峙することであった。警報を聞くたびに、瓚は厳しい表情で憤怒し、仇敵に向かうかのように、塵を見て駆け逐い、あるいは夜戦をもって続けた。虜は瓚の声を識り、その勇猛を恐れ、敢えて抵抗侵犯する者はいなかった。

注[一]賊とは辺章らである。

注[二]石門は山の名で、現在の営州柳城県の西南にある。

瓚は常に弓の巧みな士数十人と共に、皆白馬に乗り、左右の翼とし、自ら「白馬義従」と号した。烏桓は互いに言い伝え、白馬長史を避けた。そこで瓚の姿を描き、騎馬で駆けながらそれを射ると、当たった者は皆万歳と称えた。虜はこの後、遠く塞外に逃げ去った。

瓚は烏桓を掃滅する志を持っていたが、劉虞は恩信をもって招降しようとしたため、これによって劉虞と対立した。初平二年、青州、徐州の黄巾三十万の衆が勃海の境界に入り、黒山賊と合流しようとした。瓚は歩兵騎兵二万人を率い、東光の南で迎え撃ち、大破した。三万級余りの首を斬った。賊は車両数万台の重装備を棄て、奔走して河を渡った。瓚はその半渡を狙って攻め立て、賊は再び大破し、死者は数万に上り、流れる血で水が赤くなった。生け捕り七万余人を得、車両、甲冑、財物は数えきれず、威名は大いに震った。奮武将軍に任命され、薊侯に封じられた。

瓚は既に劉虞が袁術に兵を派遣することを諫めたが、袁術に怨まれることを恐れ、従弟の公孫越に千余騎を率いさせて袁術のもとに行き、自ら結びつきを求めた。袁術は公孫越をその将孫堅に従わせ、袁紹の将周昕を撃たせたが、公孫越は流れ矢に当たって死んだ。瓚はこれによって袁紹を怒り、軍を出して盤河に駐屯し、袁紹に報復しようとした。そこで上疏して言った。「臣は聞く、伏羲氏以来、君臣の道は明らかであり、礼を張り巡らして人を導き、刑を設けて暴を禁じた。今、車騎将軍袁紹は、先人の軌範を受け継ぐと称し、爵位と任務は崇高で厚いが、性質は元来淫乱で、行いは浮薄である。かつて司隸校尉であった時、国は多難であり、太后が摂政となり、何氏が朝廷を補佐していた。袁紹は正直を挙げて邪曲を退けることができず、専ら邪悪で媚びることに努め、不軌の徒を招き寄せ、社稷を疑わせ誤らせ、ついに丁原に孟津を焼かせ、董卓に乱の端緒を作らせた。これが袁紹の第一の罪である。董卓が既に無礼であり、皇帝が人質となった。袁紹は権謀をめぐらして君父を救うことができず、節と伝を棄てて、逃げ散り逃亡した。爵命を辱め、人主に背いた。これが袁紹の第二の罪である。袁紹が勃海太守であった時、董卓を攻撃すべきであったが、ひそかに軍馬を選び、父兄に告げず、ついに太傅一家を累々と共に斃れさせた。不仁不孝である。これが袁紹の第三の罪である。袁紹は既に兵を起こし、二年を経過したが、国難を憂えず、広く自ら勢力を培った。多くの資糧を引き入れ、専ら不急のことに用い、無制限に搾取し、百姓を責め立て、その痛み怨みは、誰もが嘆息しない者はいない。これが袁紹の第四の罪である。韓馥を逼迫し、その州を窃奪し、金玉を偽って刻み、印璽とし、何かを下すたびに、皁嚢に封を施し、文書は詔書と称した。かつて新の王莽が僭越で奢侈で、次第に真の天子となった。袁紹の模倣する所を見ると、必ずや乱の階梯となるであろう。これが袁紹の第五の罪である。袁紹は星占いの者に吉凶の兆候を伺わせ、財貨を贈り与え、共に飲食し、期日を約束して、郡県を攻撃略奪した。これは大臣としてなすべきことだろうか。これが袁紹の第六の罪である。袁紹は故虎牙都尉劉勳と、最初に共に兵を起こし、劉勳は張楊を降伏させ、累ねて功績があったが、小さな憤りによって無実に酷い害を加えた。讒言と邪悪な者を信用し、その無道を助けた。これが袁紹の第七の罪である。故上谷太守高焉、故甘陵相姚貢に対し、袁紹は貪欲ゆえに、横暴に金銭を責め立て、金銭が完備しないと、二人を共に命を絶たせた。これが袁紹の第八の罪である。春秋の義によれば、子は母によって貴くなる。袁紹の母は傅婢であり、身分は実に微賤であるのに、高い重い職に就き、豊かな福を享受している。苟も進む志はあっても、虚しく退く心はない。これが袁紹の第九の罪である。また、長沙太守孫堅は、以前州刺史を兼任し、遂に董卓を駆逐し、陵廟を掃除し、王室に忠勤し、その功績は大きい。袁紹は小将を遣わしてその地位を盗み占めさせ、孫堅の兵糧を断ち、深く侵入させず、董卓を長く誅殺されないままにさせた。これが袁紹の第十の罪である。かつて周王室の政治が弱まり、王道が衰え、天子が遷都し、諸侯が背いたため、斉の桓公は柯亭の盟を立て、晋の文公は践土の会合を行い、荊楚を伐って菁茅を貢がせ、曹、衛を誅して無礼を明らかにした。臣はたとえ卑小であっても、名は先賢ではないが、朝廷の恩恵を蒙り、重任を負い、職は鈇鉞にあり、辞を奉じて罪を伐つ。そこで諸将や州郡と共に袁紹らを討伐する。もし大事が成就し、罪人が得られれば、桓公や文公の忠誠の効験に続くことを願う。」そこで兵を挙げて袁紹を攻撃し、これによって冀州の諸城は皆、袁紹に背いて公孫瓚に従った。

注[一]般とは、すなわち『爾雅』にある九河のうちの鉤盤の河である。その枯れた河は現在の滄州楽陵県の東南にある。

注[二]何進を指す。

注[三]『続漢書』にいう。「何進は中常侍の趙忠らを誅殺しようとし、進は偽って武猛都尉の丁原に命じ、数千人の兵を放ち、河内で賊となり、『黒山伯』と称させ、上書して忠らを誅することを理由とし、平陰・河津の幕府や民家を焼き、太后を恐れ動揺させた。」

注[四]「傳」の音は丁戀反。

注[五]『左傳』に「両者ともに累囚を釈放した」とある。杜預の注に「累は繋ぐこと」という。『前書』音義に「罪によらずして死ぬ者を累という」とある。斃は倒れること。董卓は山東で兵を起こした袁紹を恨み、紹の叔父である太傅の袁隗と、京師にいた宗族をことごとく誅滅した。

注[六]『漢官儀』にいう。「すべての章表は封を開け、その言うことが密事である場合は皁嚢に入れる。」『説文』にいう。「檢は書物に署名すること。」今俗にこれを排といい、その字は「木」に従う。

注[七]亡新とは、王莽のこと。

注[八]階は梯子。『詩経』に「職が乱の階となる」とある。

注[九]星工とは、星に詳しい者。

注[一〇]「惏」の音は力含反。

注[一一]『公羊傳』に「桓公は幼くして貴く、隠公は年長だが卑しく、子は母によって貴くなり、母は子によって貴くなる」とある。

注[一二]『春秋』に「公が斉侯と会し、柯で盟を結んだ」とある。『公羊傳』に「斉桓公の信義が天下に著しくなるのは、柯の盟から始まった」とある。

注[一三]踐土は鄭の地。『左傳』によれば、周の襄王が鄭に出奔して居たとき、晉の文公重耳が踐土の会を開き、諸侯を率いて天子に朝見し、覇者の功績を成し遂げた。

注[一四]菁茅は霊茅で、祭祀に供える。『左傳』僖公四年に、斉の桓公が楚を討ち、責めて言うには「そなたの貢ぐ苞茅が入らず、王の祭祀に供えられず、酒を濾すことができない。寡人はこれを責める」とある。

注[一五]『左傳』僖公二十八年、晉の侯が曹を討つとき、衛に道を借りようとしたが、衛人は許さず、河南から引き返して渡河し、曹を侵し衛を討ち、その無礼を責めた。

注釈[一六]「闒」は低いこと。「茸」は細かいこと。「闒」の音は吐盍反。「昔」の音は人勇反。

注釈[一七]「鈇」の音は方於反。「莝」は刃。「鉞」は斧。

注釈[一八]尚書に「周公が東征し、三年にして罪人を得たり」とある。

袁紹は恐れ、佩用していた勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟の范に授け、彼をその郡に派遣し、結びつこうとした。しかし范は袁紹に背き、勃海の兵を率いて公孫瓚を助けた。公孫瓚は自らその将帥を青州、冀州、兗州の三州刺史に任命し、また郡県の守令をすべて置き、袁紹と界橋で大戦した。公孫瓚の軍は敗れて薊に戻った。袁紹は将の崔巨業に数万の兵を率いさせて故安を攻囲したが落とせず、軍を退いて南に帰還した。公孫瓚は歩兵と騎兵三万人を率いて巨馬水で追撃し、その軍を大破し、死者は七、八千人に及んだ。

公孫瓚は勝ちに乗じて南進し、郡県を攻め落とし、遂に平原に至り、青州刺史の田揩を派遣して斉の地を占拠させた。袁紹は再び数万の兵を派遣して田揩と連戦すること二年、食糧は共に尽き、士卒は疲弊困窮し、互いに百姓を略奪したので、野に青草はなくなった。袁紹は子の袁譚を青州刺史として派遣し、田揩はこれと戦って敗れ、退却した。

注釈[一]橋の名。解釈は献帝紀に見える。

注釈[二]この水は幽州帰義県の境界にあり、易州遒県の境界から流入する。

注釈[三]左伝に、斉侯が魯を伐った時、展喜に語って「家は懸けられた罄の如く、野に青草無し。何を恃んで恐れないのか」と言ったとある。

この年、公孫瓚は劉虞を破って捕らえ、幽州の地をことごとく有し、猛志はますます盛んになった。これ以前に童謡があった。「燕の南の果て、趙の北の際、中央は合わせず大いなること砥石の如し。ただこの中にのみ世を避けうる」。公孫瓚は自ら易の地がこれに当たると考え、遂に本拠を移した。そして盛んに営塁を築き、楼観数十を建て、易河に臨み、遼海に通じた。

劉虞の従事であった漁陽の鮮于輔らは、州兵を合わせ率い、共に公孫瓚に報復しようとした。鮮于輔は燕国の閻柔が平素から恩信があるとして、彼を烏桓司馬に推挙した。閻柔は胡漢数万人を招き誘い、公孫瓚が置いた漁陽太守の鄒丹と潞の北で戦い、鄒丹ら四千余りの首級を斬った。烏桓の峭王は劉虞の恩徳に感じ、種族の人々と鮮卑七千余騎を率い、共に鮮于輔を助けて南進し劉虞の子の劉和を迎え、袁紹の将の曲義と合兵して十万となり、共に公孫瓚を攻めた。興平二年、鮑丘で公孫瓚を破り、二万余りの首級を斬った。公孫瓚は遂に易京を守り、屯田を開設し、次第に自給できるようになった。一年余り相持した後、曲義の軍は食糧が尽き、士卒は飢え疲れ、残った軍勢数千人が退却した。公孫瓚はこれを襲撃して破り、その車両や物資をことごとく得た。

この時、旱魃と蝗害で穀物が高騰し、民は互いに食い合った。公孫瓚はその才力を恃み、百姓を顧みず、過失を記録して善行を忘れ、些細な恨みも必ず報いた。州内の善士で自分より優れている者は、必ず法をもって害した。常に「士大夫は皆、職分によって富貴を得たのであって、人の恩恵に感謝する必要はない」と言った。故に寵愛する者は、多くは商売人や下賤の者であった。所在で侵掠暴行し、百姓は彼を怨んだ。そこで代郡、広陽、上谷、右北平はそれぞれ公孫瓚が置いた長吏を殺し、再び鮮于輔、劉和の軍と合流した。公孫瓚は非常事態を慮り、高京に居住し、鉄で門を作った。左右の者を遠ざけ、七歳以上の男子は易の門に入ることを許さなかった。専ら侍女や妾に仕えさせ、文書や記録は全て汲み上げて運ばせた。婦人に大声を出すことを習わせ、数百歩先まで聞こえるようにし、命令を伝達宣布させた。賓客を疎遠にし、親信する者はなく、謀臣や猛将は次第に離散した。この後は、ほとんど攻戦しなくなった。ある者がその理由を尋ねた。公孫瓚は言った。「私はかつて塞外で畔胡を駆逐し、孟津で黄巾を掃討した。あの時は、天下は手のひらを返すように平定できると思った。今日に至って、戦乱がようやく始まったばかりである。これを見るに、私が決着をつけることではない。兵を休めて力を耕すに如かず、凶年に備えよう。兵法に百の楼があれば攻め落とせないという。今、私の諸営の楼櫓は千里に及び、蓄えた穀物は三百万斛ある。これを食って天下の変を待つのに十分である」。

注釈[一]九州春秋に「公孫瓚は言った『天下に兵乱が起こり始めた時、私は唾を掌に吐くように決着がつくと思った』」とある。

注釈[二]「樐」は「櫓」の字である。説文に見える。釈名に「櫓は露なり。上に屋根を覆うもの無し」とある。

建安三年、袁紹は再び大軍で公孫瓚を攻めた。公孫瓚は子の公孫続を派遣して黒山の諸将帥に救援を請わせ、自らは突騎を率いて直ちに出撃し、西山の傍らを通って袁紹の背後を断とうとした。長史の関靖が諫めて言った。「今、将軍の将士は、瓦解を思わない者はいません。それでもまだ守りを保っているのは、妻子老幼を顧み、将軍を主君として恃んでいるからです。堅守して日を長引かせれば、袁紹が自ら退くかもしれません。もしこれを捨てて出撃すれば、後方に威圧する者がなくなり、易京の危険はすぐに訪れるでしょう」。公孫瓚はやめた。袁紹は次第に攻め迫り、公孫瓚の軍勢は日々逼迫したので、退却し、三重の営を築いて自らを固めた。

四年の春、黒山の賊帥張燕が公孫続と共に兵十万を率い、三方向から救援に来た。到着する前に、公孫瓚は密かに使者を継ぎ送り、書簡を公孫続に伝えて告げた。「昔、周の末世に喪乱があり、死体が地を覆ったが、推測するに、まだましな方だった。まさか今日、自らその鋒先に当たるとは思わなかった。

袁氏の攻撃は、鬼神の如き勢いであり、雲梯や衝車が我が楼閣の上で舞い、鼓角の音が地中から鳴り響き、日も月も窮屈で急迫し、落ち着いて座る暇もない。

鳥が窮地に陥ると人に帰り、急流が高みを凌ぐように、お前は張燕のもとで首を砕き、駆け回って危急を告げよ。父子の天性は、言葉がなくとも動くものだ。さらに五千の鉄騎を北の低湿地に備えさせ、火を上げて合図とせよ。私は内から出て、威武を奮い起こし、ここで決死の戦いを挑もう。そうでなければ、私が死んだ後では、天下は広くとも、お前の足を容れる場所はないだろう。」袁紹は斥候にこの手紙を捕らえさせ、期日通りに火を上げた。公孫瓚は救援が来たと思い、すぐに出戦した。袁紹は伏兵を設け、公孫瓚は大敗し、再び中小城に戻って守りを固めた。自ら考えて必ず全うできないと悟り、姉妹や妻子を皆絞殺し、その後火を放って自焼した。袁紹の兵士は急いで楼閣に登り、彼を斬った。

注[一]滀は音が丑六反、急であることを譬えている。

注[二]互いに感じ合うことを言う。

注[三]低く湿った地を隰という。

注[四]献帝春秋に「斥候が手紙を得て、袁紹が陳琳にその文句を変えさせた」とあり、これがその手紙である。

関靖は公孫瓚が敗れたのを見て、嘆き悔やんで言った。「以前、将軍が自ら出陣するのを止めなければ、必ずしも成功しなかったわけではないだろうに。私は聞く、君子が人を危険に陥れたならば、必ずその難に共にすると。どうして一人で生きられようか!」そして馬を駆って袁紹軍に突入し、戦死した。続いて屠各に殺された。田楷は袁紹と戦って死んだ。注[一]屠各は、胡の称号である。

鮮于輔はその配下を率いて曹操に帰順し、曹操は鮮于輔を度遼将軍とし、都亭侯に封じた。閻柔は部曲を率いて曹操に従い烏桓を討ち、護烏桓校尉に任じられ、関内侯に封じられた。

張燕は既に袁紹に敗れ、配下の兵士は次第に離散した。曹操が冀州を平定しようとした時、張燕は兵を率いて鄴に赴き降伏し、平北将軍に任じられ、安国亭侯に封じられた。

論じて言う。帝室や王公の子孫は皆、豊かな環境で育ち、農耕の苦労を知らず、その中で行いを励み身を修め、卓越して群を抜く者は、あるいは聞いたことがない。劉虞は道を守り名声を慕い、忠厚をもって自らを養った。なんと素晴らしいことか、季漢の名高い宗室の子である!

もし劉虞と公孫瓚の間に隔たりがなく、同じ心で力を合わせ、人々を糾合して結束を固め、燕・薊の豊かさを保ち蓄え、兵を整え武威を明らかにし、群雄の隙に乗じて臨み、天運に任せるのではなく、人の努力によって征すれば、古代の輝かしい功業も、どれほど遠いことではなかったろうか!

注[一]前漢書に班固が言う。「大雅にして、卓然として群を抜く者は、河間献王をいうのか?」故に論はこれを引用した。

注[二]牧は養うこと。易経に「卑くして以て自ら牧す」とある。

注[三]糾は収めること。

注[四]繕は修めること。左伝に「甲兵を繕う」とある。

注釈[五]天運とは天命のことであり、人文とは人事のことである。易経に「人文を観て、以て天下を化成す」とある。

陶謙

陶謙は字を恭祖といい、丹陽の人である。若くして諸生となり、州郡に仕え、四度の昇進を経て車騎将軍張温の司馬となり、西へ赴いて辺章を討伐した。ちょうど徐州で黄巾の乱が起こったため、陶謙を徐州刺史に任じて黄巾を討伐させると、大いにこれを打ち破って敗走させ、管内は平穏になった。

注[一]丹陽郡丹陽県の人である。『呉書』に言う。「陶謙の父は、かつて余姚県の長であった。謙は幼くして孤児となり、初めは放縦で知られていた。十四歳の時も、まだ布を継ぎ合わせて旗を作り、竹馬に乗って遊び、町中の子供たちが皆彼に従った。かつて蒼梧太守であった同県の甘公が外出して彼に出会い、その容貌を見て、異様に感じて呼び止め、話をして大いに喜び、娘を妻として与えることを約束した。甘夫人は怒って言った。『陶家の子供は遊びに節度がなく、どうして娘を許すのか?』甘公は言った。『彼には非凡な風貌があり、成長すれば必ず大成するだろう。』遂に娘を与えた。」

注[二]『呉書』によると、「陶謙は孝廉に察挙され、尚書郎に拝命され、舒県令に除された。郡太守の張盤は、同郡の先輩で、陶謙の父と友人であったが、陶謙は彼に屈することを恥じた。かつて張盤が舞を陶謙に属させようとしたが、陶謙は起ち上がろうとせず、固く強いてようやく舞ったが、舞っても回らなかった。」

陶謙は言った。『転じてはならないのか?』答えて言った。『転じてはならない。転じれば人に勝つことになる。』」その時、董卓はすでに誅殺されていたが、李傕と郭汜が関中で乱を起こしていた。当時、四方との連絡は途絶えており、陶謙はたびたび使者を密かに派遣して、西京(長安)に貢物を奉じた。詔により徐州牧に遷任され、安東将軍を加えられ、溧陽侯に封じられた。[一] この時、徐州の民衆は豊かで、穀物は非常に豊富であり、流民の多くがここに帰順した。しかし陶謙は信用すべきでない者を重用し、刑罰と政務をきちんと処理しなかった。別駕従事の趙昱は、名を知られた士人であったが、忠誠と正直さのために疎んじられ、広陵太守として出された。[二] 曹宏らは讒言と悪意に満ちた小人であったが、陶謙は彼らを非常に親しく任用し、善良な人々の多くがその害を受けた。これによって次第に乱れていった。

下邳の閻宣が自ら「天子」と称したが、謙は初め彼と合従したが、後に彼を殺してその兵を併せた。

注[一]溧陽は現在の宣州の県である。溧は栗と読む。

注[二]謝承の書によると、「謙は昱を茂才に推挙し、太守に昇進させた」という。

当初、曹操の父の曹嵩が琅邪に避難していた時、陶謙の別将が陰平を守っていたが、兵士たちが曹嵩の財宝を狙い、襲撃して殺害した。初平四年、曹操が陶謙を攻撃し、彭城の傅陽を陥落させた。陶謙は郯に退いて守りを固め、曹操は攻撃したが陥とせず、引き揚げた。その途上で取慮・雎陵・夏丘を攻め落とし、すべての住民を虐殺した。男女合わせて数十万人を殺戮し、鶏や犬さえ残らず、泗水は死体で流れが止まったという。これ以来、五県の城砦には人影がほとんどなくなった。また、かつて三輔の地が李傕の乱に遭い、流民となって陶謙を頼ってきた人々も皆殺しにされた。

注[一] 県名であり、東海国に属し、故城は現在の沂州承県の西南にある。

注[二] 県名であり、彭城国に属する。本来は春秋時代の偪陽である。楚の宣王が宋を滅ぼし、傅陽と改称した。故城は現在の沂州承県の南にある。

注[三]取慮は音が秋閭で、県名であり、下邳郡に属し、故城は現在の泗州下邳県の西南にある。雎陵は県で、下邳県の東南にある。夏丘は県で、はい郡に属し、故城は現在の泗州虹県である。

注[四] 殲は尽くすことである。左伝に「門官殲焉」とある。

興平元年、曹操が再び陶謙を攻撃し、琅邪・東海の諸県を平定した。陶謙は免れられないことを恐れ、丹陽に逃げ帰ろうとした。ちょうど張邈が呂布を迎えて兗州を占拠したため、曹操は引き返して呂布を攻撃した。この年、陶謙は病死した。

初めに、同郡の者である笮融が、数百人の徒党を集めて陶謙のもとに身を寄せた。陶謙は彼に広陵・下邳・彭城の三郡の運糧を監督させた。

彼は三郡からの物資輸送を断ち切り、大規模な仏寺を建立した。上には金盤を積み重ね、下には重楼を築き、また堂や楼閣を周囲に巡らせ、およそ三千人を収容できるほどであった。黄金を塗った像を作り、錦の衣を着せた。毎年、灌仏会の際には、大量の飲食物を用意し、道に筵を敷き、それに就いて飲食したり見物したりする者は一万人余りに及んだ。

曹操が陶謙を攻撃し、徐州が不安定になると、笮融は男女一万人、馬三千匹を率いて広陵へ逃れた。広陵太守の趙昱は賓客の礼をもって彼を遇した。

笮融は広陵の資財を狙い、酒宴の酣に乗じて趙昱を殺害し、兵を放って大掠奪を行い、それから長江を渡り、南の豫章へ奔った。郡守の朱皓を殺害してその城を占拠した。後に揚州刺史の劉繇に撃破され、山中に逃げ込み、人に殺された。

注[一] 笮の音は側格反。

注[二] 浮屠とは、仏のことである。解釈は西羌伝に見える。

注[三] 献帝春秋に言う。「融が筵を敷いた範囲は四方四五里に及び、費用は巨万に及んだ」。

趙昱は字を元達といい、琅邪の人である。自らを清廉に保ち悪を憎み、ひそかに志を立て学問を好み、親友といえどもめったに会うことができなかった。人の話を邪に聞かず、目を妄りに動かさない人物であった。太僕の種拂が方正に推挙した。

賛に言う。襄賁侯は徳を励み、城をつなぎ燕の北にあった。仁は下を和らげることができ、忠は国を衛うに用いられた。伯珪(公孫瓚)は粗野で獰猛、武才は軽捷で勇猛であった。虞(劉虞)は終わりを全うすることを好み、紹(袁紹)の勢いと並び立つことは難しかった。徐州は殲滅され消耗し、実に陶謙が禍根となった。

注[一] 励とは、努めること。

注[二] 趫の音は去驕反。

校勘記

*二三五三頁六行 東海*(王)*恭*[王]*之後 刊誤は「王恭」は「恭王」とすべきだとしている。按ずるに、魏志公孫瓚伝の裴注が引く呉書も「東海恭王」と作っている。今これに拠って改める。

*二三五三頁七行 前中山相張純 集解は錢大昕の説を引き、南匈奴伝・烏桓伝はいずれも「前中山太守」と作っていると述べている。按ずるに、張森楷の校勘記は、中山は国であり、両漢の初めにはまだ郡となっておらず、太守があるべきではないから、「相」と作るのが正しく、両伝の方が誤っているのだと述べている。

*二三五五頁一三行 疇字子春 按ずるに、魏志は「春」を「泰」と作っており、袁紀も同じである。

二三五七頁三行の使者段訓の「段」は原本では「假」とあるが、直接に改正した。按ずるに、校補が柳従辰の説を引いて、袁紀では「段」を「殷」と作すという。

二三五七頁三行の假節督幽并司冀は、汲本・殿本に拠って青を司に改める。

二三五八頁一〇行の瓚に烏桓突騎を督させ、車騎将軍張温に涼州の賊を討たしめた。按ずるに、沈家本は「突騎」の下に字が奪われている疑いがあり、あるいは「従」の字か、あるいは「属」の字であろうという。

二三五八頁一四行の遠く柳城に走る。按ずるに、刊誤は「遠」は「還」と作すべきであるという。

二三五九頁四行の善射の士数十人。按ずるに、集解が恵棟の説を引いて、英雄記に依れば「十」は「千」と作すべきであり、数十人では左右の翼と為し得ないという。

二三五九頁一二行の袁紹の将周昕を撃つ。按ずるに、殿本考証は「昕」を魏志では「昂」と作すという。

二三五九頁一二行の遂に出軍して盤河に屯す。魏志では「盤」を「槃」と作す。按ずるに、槃と盤は通作する。

二三六〇頁一三行の故に斉桓は柯亭の盟を立てた。集解が銭大昕の説を引いて、「会」は「亭」と作すべきであるという。按ずるに、魏志裴注が引く典略は「亭」と作す。今これに拠って改める。

二三六一頁二行の般とは即ち爾雅の九河、鉤盤の河である。汲本・殿本は「盤」を「般」と作す。按ずるに、般・槃・盤の三字は通作する。趙一清は盤河即ち般河であり、水経河水注の所謂「東に般県に入りて般河と為る」であるという。

二三六二頁八行の死者七八千人。汲本・殿本に拠って「人」を補う。

二三六二頁八行の乃ち其の青州刺史田揩を遣わす。按ずるに、校補は「揩」を魏志では「楷」と作し、通鑑はこれに従うという。

二三六四頁三行の我は唾手にして決すべしと謂う。按ずるに、汲本・殿本は「掌」を「手」と作す。

二三六五頁一四行の人を糾合し完聚し、燕薊の饒を稸保す。刊誤は「人」の下に一つの「衆」の字があるべきであるという。集解が周寿昌の説を引いて、「糾人完聚」を句とし、「稸」の字を下に読んで句とすることも可能であり、稸は即ち畜の字であるという。校補は「人」の下には元来「民」の字があったのであろう、「糾人民」が句、「完聚稸」が句、「保燕、薊之饒」が句であり、唐本は諱を避けて「民」の字を省いたため、文法に背いてしまったのだという。按ずるに、諸説皆言うところ理に適っている。今、周説に依り、「稸」の字を下に読んで句とする。

二三六五頁一四行の諸の天運を捨つ。按ずるに、殿本考証の王会汾は文義を案ずるに「捨」は「合」と作すべきであるという。

二三六六頁七行の車騎将軍張温の司馬と為る。按ずるに、集解が恵棟の説を引いて、魏志は車騎将軍張温の軍事に参じたと云うという。

二三六六頁一二行の「嘗」の下に「以」の字が欠落していると、沈家本は指摘し、魏志注を根拠に補うべきだとしている。今これに従って補う。

二三六七頁三行の「下邳閻宣」は「下邳闕宣」とすべきであると刊誤は述べ、本紀が「闕宣」としていること、また闕党童子の末裔であると記されていることから、ここが「閻」なのは誤りであるとしている。また集解が引く恵棟の説では、魏志が「闕」としているという。今これに従って改める。

二三六七頁八行の「謙退保郯」について、「郯」の字が原本では「剡」と誤っており、汲本と殿本に基づいて直接に改正した。