後漢書
董卓の列伝 第六十二
董卓
董卓は字を仲穎という。
隴西郡臨洮県の人である。性質は粗暴で猛々しく、謀略があった。若い頃、羌族の地を遊歴し、その豪族の首領たちとことごとく交わりを結んだ。
後に野に帰って耕作していたが、諸豪族の首領で彼に従おうとする者が来ると、董卓は耕作用の牛を殺し、共に宴会を楽しんだ。豪族の首領たちはその厚意に感じ入り、帰って互いに集めて雑多な家畜千頭余りを董卓に贈った。これによって、剛健で任侠の士として知られるようになった。州の兵馬掾となり、常に辺境の塞を巡邏して守備した。
董卓は膂力が人並み外れており、両方の腰に二つの弓袋を帯び、左右に馬を走らせながら射ることができた。
羌族や胡族から恐れられた。
桓帝の末年に、六郡の良家の子として羽林郎に選ばれ、中郎将張奐に従って軍司馬となり、共に漢陽の反乱した羌族を撃ち、これを破った。郎中に任じられ、縑九千匹を賜った。董卓は言った。「功績を立てたのは自分だが、それを有するのは兵士たちである。」
そこで全てを官吏や兵士たちに分け与え、少しも留め置かなかった。次第に西域戊己校尉に昇進したが、事に坐して免官された。後に并州刺史、河東太守となった。
中平元年、東中郎将に任じられ、節を持ち、盧植に代わって下曲陽で張角を撃ったが、軍が敗れて罪に当たった。その冬、北地郡の先零羌および枹罕・河関の群盗が反乱を起こし、遂に共に湟中の義従胡である北宮伯玉と李文侯を立てて将軍とし、護羌校尉泠征を殺害した。伯玉らはそこで金城郡の人辺章と韓遂を脅迫して招致し、
彼らに軍政を専任させ、共に金城太守陳懿を殺害し、州郡を攻め焼いた。翌年の春、数万騎を率いて三輔に侵入し寇掠し、皇帝の陵園を侵し脅かし、宦官を誅することを名目とした。詔によって董卓を中郎将とし、左車騎将軍皇甫嵩の副将として征討に当たらせた。皇甫嵩は功績なくして免官されて帰還し、辺章と韓遂らは大いに勢いを盛んにした。朝廷は再び司空張温を車騎将軍とし、節を仮授し、執金吾袁滂を副将とした。
破虜将軍に董卓を任じ、蕩寇将軍周慎と共に張温の統率下に置いた。諸郡の兵を合わせて歩兵騎兵合わせて十余万とし、美陽に駐屯した。
園陵を守衛するためである。辺章と韓遂もまた美陽に進軍した。張温と董卓は彼らと戦ったが、しばしば不利であった。十一月、夜に流星が火のようで、光の長さは十余丈に及び、辺章と韓遂の陣営を照らし、驢馬がすべて鳴いた。賊はこれを不吉と考え、金城に帰ろうとした。董卓はこれを聞いて喜び、翌日、右扶風の鮑鴻らと合流して兵を合わせて共に攻撃し、大いにこれを破り、数千の首級を斬った。辺章と韓遂は敗走して榆中に逃れた。
董卓は慎重に言った。「賊の城中には穀物がなく、外部から食糧を転送しているはずです。私は一万人を得てその輸送路を断ち切りたいと思います。将軍が大軍を率いてその後を継いでくだされば、賊は必ず困窮して戦おうとしなくなるでしょう。もし彼らが羌の中に逃げ込んだなら、力を合わせて討伐すれば、涼州を平定することができます。」慎重は従わず、軍を率いて榆中城を包囲した。しかし辺章と韓遂は葵園狭に分かれて駐屯し、逆に慎重の輸送路を断った。慎重は恐れ、車両や重装備を捨てて撤退した。張温もまた董卓に兵三万を率いて先零羌を討伐させたが、董卓は望垣の北で羌胡に包囲され、食糧が尽き、進退窮まった。
そこで、渡ろうとする河の中に偽りの堰を築き、魚を捕っているように見せかけ、密かに堰の下を通って軍を移動させた。
賊が追いついた時には、水をせき止めたため水深が深くなり、渡ることができなかった。当時、諸軍は敗退したが、董卓だけが全軍を率いて帰還し、扶風に駐屯した。斄郷侯に封ぜられ、邑千戸を与えられた。
三年の春、使者を遣わし、節を持たせて長安に赴き、張温を太尉に任命した。三公が外にいるのは、張温が初めてである。その冬、張温を召還して京師に帰らせた。韓遂は辺章および伯玉、文侯を殺し、兵十余万を擁して隴西を包囲した。太守の李相如は反逆し、韓遂と連合し、共に涼州刺史の耿鄙を殺した。そして耿鄙の司馬である扶風の馬騰もまた兵を擁して反乱を起こした。
また漢陽の王國は自ら「合衆将軍」と号し、皆韓遂と合流した。共に王國を主として推戴し、その全軍を統率させ、三輔を寇掠した。
五年、陳倉を包囲した。そこで董卓を前将軍に任命し、左将軍の皇甫嵩と共にこれを撃破した。韓遂らはまた共に王國を廃し、元信都令の漢陽の閻忠を脅迫し、
諸部を統率させた。閻忠は大衆に脅迫されることを恥じ、憤慨して病没した。韓遂らは次第に権利を争い、互いに殺害し合い、その諸部曲はそれぞれ分裂した。
六年、董卓を少府に任命しようとしたが、就任を肯んぜず、上書して言った。「私が率いる湟中の義従及び秦胡の兵士たちが皆、私のもとに来て言うには、『兵糧が十分に支給されず、俸給や賜物が途絶え、
妻子が飢え凍えている』と。彼らは私の車を引き止め、行かせようとしない。羌胡の心は卑しく、その態度は犬のようである。
私はこれを禁止することができず、やむなく彼らに従い慰撫した。もし彼らがさらに異なる志を増すようなことがあれば、再び上奏するつもりである。」
朝廷は董卓を制することができず、大いに憂慮した。霊帝が病に伏せると、璽書をもって董卓を并州牧に任命し、兵を皇甫嵩に属させるよう命じた。董卓は再び上書して言った。「私は老練な謀略もなく、また壮年の功績もなく、天恩を誤って受け、十年にわたり軍務を執ってきました。士卒たちは大小共に長く親しみ合い、私が養育してきた恩を慕い、私のために一時の命を奮い立たせようとしています。どうか彼らを率いて北州に赴き、辺境で力を尽くさせてください。」そこで河東に駐兵し、時勢の変化を観望した。
帝が崩御すると、大将軍の何進と司隸校尉の袁紹は宦官誅殺を謀ったが、太后が許さなかったため、密かに董卓を呼び寄せて兵を率いて朝廷に入らせ、太后を脅迫しようとした。董卓は召喚を受けると、直ちに出発した。併せて上書して、
言った。「中常侍の張讓らは寵愛を窃み受け、海内を濁乱させています。臣は聞きます。湯をかき回して沸騰を止めるよりも、薪を取り除く方が良いと。
癰を潰すのは痛いが、内部で膿がたまるよりはましである。昔、趙鞅は晋陽の兵を起こし、君主の側近の悪人を追放した。
今、臣が勝手に鐘や太鼓を鳴らして洛陽に赴くのは、
張譲らを捕らえて、奸悪な穢れを清めるためです。」董卓が到着する前に何進は敗れ、虎賁中郎将の袁術が南宮に火を放ち、宦官を討伐しようとしたが、中常侍の段珪らが
少帝と陳留王を脅迫して夜間に小平津へ逃げた。
董卓は遠くで火の手が上がるのを見て、兵を率いて急ぎ進軍し、夜明け前に城西に到着した。少帝が北芒にいると聞き、それゆえに奉迎に向かった。帝は董卓が兵を率いて突然やって来たのを見て、恐怖のあまり涙を流した。
董卓が話しかけても、言葉を返すことができなかった。陳留王と話をすると、禍乱の事柄について語った。董卓は王が賢明であると考え、また董太后に養育されたことから、董卓は自らが太后と同族であると思い、廃立の意思を持った。
初め、董卓が入京した時、歩兵と騎兵は三千に過ぎず、自ら兵が少ないことを気にして、遠近の人々に服従されないことを恐れ、四、五日ごとに夜間に密かに軍を出して近くの営地に赴き、翌朝には大いに旗や太鼓を並べて帰還し、西の兵がまた来たと思わせ、洛中の者には知る者がいなかった。まもなく何進とその弟の何苗が以前に率いていた部曲はすべて董卓に帰属し、董卓はまた呂布に命じて執金吾の丁原を殺し、その兵衆を併合した。
董卓の兵士は大いに盛んになった。そこで朝廷を諷して司空の劉弘を策免させ、自らが代わった。
そこで廃立について集議した。百官が大いに会合し、董卓は奮い立って言った。「大なるは天地、次は君臣、これが政治を行う所以である。皇帝は暗弱で、宗廟を奉じ、天下の主となることはできない。今、伊尹や霍光の故事に倣い、陳留王を改めて立てようと思うが、どうか。」公卿以下は誰も敢えて答えなかった。董卓はまた高らかに言った。
「昔、霍光が策を定めた時、田延年が剣を握った。敢えて大議を阻む者は、皆軍法に従って処断する。」座っていた者たちは震え上がった。
尚書の盧植だけが言った。「昔、太甲が立った後、明らかでなく、
昌邑王の罪過は千余りもあったので、廃立の事があった。
今の上は年が若く、行いに失徳はなく、前の事とは比べるに及ばない。」董卓は大いに怒り、座を罷めた。翌日、また百官を崇徳前殿に集め、遂に太后を脅迫し、策を以て少帝を廃した。曰く、「皇帝は喪中にあるのに、人子の心がなく、威儀は人君に似ず、今、弘農王に廃する。」そして陳留王を立てた。これが献帝である。また太后について議した。
永楽太后を逼迫し、
ついに憂い死に至らしめ、姑と嫁の礼を逆らい、孝順の節がなかった。
永安宮に移し、遂に弑して崩じさせた。
董卓は太尉に昇進し、前将軍の職務を兼任し、節伝・斧鉞・虎賁を加えられ、さらに郿侯に封じられた。
董卓は司徒の黄琬、司空の楊彪とともに、鈇鑕を帯びて宮廷に赴き上書し、陳蕃と竇武および諸党人の名誉回復を追及し、人望に従った。そこで陳蕃らの爵位をすべて回復し、子孫を抜擢して任用した。
まもなく董卓は相国に進められ、朝廷に入る際に小走りせず、剣を帯びたまま靴を履いて殿上に上がることが許された。母を池陽君に封じ、丞令を置いた。
当時、洛陽では貴戚の邸宅が軒を連ね、金帛や財産はどの家も豊かに蓄えられていた。董卓は兵士を放縦にし、彼らの家屋に乱入し、婦女を強姦し略奪し、資財を強奪し、これを「捜牢」と呼んだ。
人心は崩壊し恐怖に陥り、朝夕の命さえ保証されなかった。何太后が埋葬され、文陵が開かれると、
董卓は陵墓の蔵の中の珍宝をすべて奪い取った。また、公主を姦淫し、宮人を略奪して妻とし、刑罰を虐げ濫用し、些細な恨みでも必ず死に至らしめ、内外の官僚たちは誰も自らの安全を保つことができなかった。董卓はかつて軍を陽城に派遣し、当時人々が社の下で集会していたところを、全員を捕らえて斬殺させ、彼らの車両を奪い、婦女を乗せ、首を車の轅に結びつけ、歌い叫びながら帰還した。また五銖銭を廃し、小銭を新たに鋳造し、洛陽と長安の銅人、鐘虡、飛廉、銅馬などをすべて取り上げ、鋳造に充てた。
そのため貨幣の価値は下落し物価は高騰し、穀物一石が数万銭となった。また銭には輪郭や模様がなく、人々の使用に不便であった。
当時の人々は、秦始皇が臨洮で長人を見たため、銅人を鋳造したと考えていた。
董卓は臨洮の出身であるが、今それを破壊した。完成と破壊は異なるが、その凶暴さは似通っている。
董卓はかねてから天下が宦官を憎み忠良を誅殺したことを同じく患っていると聞いていたため、自分が政権を握ると、無道な行いをしながらも、なお本性を抑えて感情を偽り、多くの士人を抜擢して任用した。そこで吏部尚書の漢陽の周珌、侍中の汝南の伍瓊、
尚書の鄭公業、
長史の何顒らを任用した。隠士の荀爽を司空に任じた。党錮の禍に連座した者たち、陳紀や韓融の類いも、みな列卿となった。埋もれていた士人も多くが顕彰され抜擢された。尚書の韓馥を冀州刺史に、
侍中の劉岱を兗州刺史に、
陳留の孔伷を豫州刺史に、
穎川の張咨を南陽太守に任じた。
董卓が親愛する者たちは、いずれも顕職には就かず、ただ将校に過ぎなかった。初平元年、韓馥らが官に着くと、袁紹の徒ら十数人と共に、それぞれ義兵を起こし、同盟して董卓を討とうとしたが、伍瓊と周珌が内応していた。
初め、霊帝の末、黄巾の残党である郭太らが西河の白波谷で再び蜂起し、転じて太原を寇掠し、ついに河東を破り、百姓は三輔に流転し、「白波賊」と号され、その衆は十数万に及んだ。董卓は中郎将の牛輔を派遣してこれを撃たせたが、退けることができなかった。東方で兵が起こったと聞くと、恐れて、弘農王を毒殺し、都を長安に遷そうとした。公卿を集めて議すると、太尉の黄琬と司徒の楊彪が朝廷で争ったが叶わず、伍瓊と周珌もまた固く諫めた。董卓はこれにより大いに怒って言った、「董卓が初めて朝廷に入った時、あの二人は善士を登用するよう勧めたので、従ったのだ。ところが諸君が官に着くと、兵を挙げて私を図ろうとする。この二人は董卓を売ったのだ。董卓がどうして彼らに背いたというのか!」 遂に伍瓊と周珌を斬った。楊彪と黄琬は恐れ、董卓のもとに赴き謝罪して言った、「小生どもは旧情に未練がありましたが、国事を阻もうとしたのではありません。どうか不手際の罪としてお許しください。」 董卓は伍瓊と周珌を殺した後、すぐに後悔したので、楊彪と黄琬を光禄大夫に上表した。こうして天子を西の都に遷した。
初め、長安は赤眉の乱に遭い、宮室や営寺は焼き滅ぼされて残らず、この時にはただ高廟と京兆府の建物だけがあったので、便時にこれに幸した。
後に未央宮に移った。こうして洛陽の人数百万口をことごとく長安に移住させたが、歩兵と騎兵が駆り立て追い立て、互いに踏みつけ合い、飢餓と寇掠により、積み重なった死体が道に満ちた。董卓自身は畢圭苑に留まり屯し、宮廟・官府・住居をことごとく焼き払い、二百里の内に再び生き残った者はなかった。また呂布に命じて諸帝の陵墓、および公卿以下の冢墓を発掘させ、その珍宝を収奪した。
当時、長沙太守の孫堅もまた豫州の諸郡の兵を率いて董卓を討った。董卓は先に将の徐栄と李蒙を派遣して四方に出て虜掠させた。徐栄は梁で孫堅と遭遇し、
戦いを交え、孫堅を破り、穎川太守の李旻を生け捕りにし、烹り殺した。董卓が得た義兵の士卒は、皆布で巻き包み、逆さに地面に立て、熱した膏を注いで殺した。
当時、河内太守の王匡が
河陽津に兵を屯させ、董卓を図ろうとした。董卓は疑兵を出して挑戦させ、密かに鋭卒を小平津から津北に渡らせてこれを破り、死者はほぼ全滅した。翌年、孫堅は散り散りになった兵卒を収集し合せ、進軍して梁県の陽人に屯した。
董卓は将の胡軫と呂布を派遣してこれを攻めたが、呂布と胡軫は仲が悪く、軍中で自ら驚き恐れ、士卒は散乱した。
孫堅はこれを追撃し、胡軫と呂布は敗走した。董卓は将の李傕を孫堅のもとに遣わして和を求めたが、孫堅は拒絶して受け入れず、進軍して大谷に至り、洛陽から九十里の地点に迫った。
董卓自ら出て孫堅と諸陵墓の間で戦ったが、董卓は敗走し、退いて黽池に屯し、陝で兵を集めた。孫堅は洛陽の宣陽城門に進み、
さらに呂布を撃ち、呂布はまた破られて逃げた。孫堅はそこで宗廟を掃除し、諸陵を平らかに塞ぎ、兵を分けて函谷関を出て、新安と黽池の間に至り、董卓の背後を脅かした。董卓は長史の劉艾に言った、「関東の諸将は幾度も敗れたが、何もできはしない。ただ孫堅だけが少し愚かである。
諸将軍は彼を慎重に対処すべきだ。」 そこで東中郎将の董越を黽池に、中郎将の段煨を華陰に、
中郎将の牛輔を安邑にそれぞれ屯させ、その他の中郎将や校尉を諸県に配置し、山東を防がせた。
董卓は朝廷に示唆して光禄勳の宣璠を
節を持って董卓を太師に拝し、その位は諸侯王の上に置いた。そこで引き返して長安に戻った。百官が道で迎えて拝揖すると、董卓はついに車服を僭称して模倣し、金華の青蓋の車に乗り、爪形の文様で両轓を飾った。当時の人はこれを「竿摩車」と呼び、その服飾が天子に近いと言った。
弟の董旻を左将軍とし、鄠侯に封じ、兄の子の董璜を侍中・中軍校尉とし、いずれも兵事を司らせた。こうして宗族内外の人々は、みな列位に並んでいた。その子孫はまだ幼少であっても、男子はみな侯に封ぜられ、女子は邑君とされた。
しばしば百官と酒宴を設け、淫楽にふけり、放縦に振る舞った。そこで長安城の東に塁を築いて自らの居所とし、また郿に塢を築いた。その高さと厚さは七丈で、「万歳塢」と号した。
穀物を蓄えて三十年分の備えとした。自ら言うには、「事が成れば、天下を雄据し、成らなければ、ここを守って老いを終えるのに足る」と。かつて郿の塢に行ったとき、公卿以下が横門の外で餞別の宴を催した。
董卓は帳幔を張って飲宴を設け、北地の反乱者数百人を降伏させて誘い出し、座中で彼らを殺した。まずその舌を断ち、次に手足を斬り、次にその眼目をえぐり、鑊で煮た。まだ死に至らないうちに、うつぶせになったり仰向けになったりして杯や机の間を転がった。参会者は戦慄し、匙や箸を落としたが、董卓は飲食を平然としていた。諸将で言葉に過ちがある者は、すぐに面前で殺した。また次第に関中の旧族を誅殺し、叛逆の罪に陥れた。
魏絳が楊干を殺した。
今もし彼を放免すれば、自ら威厳を損ない、後悔してもどうしようもない!」何進は従うことができず、董卓はなおも恨みを抱いていたので、難に及んだのである。
何進の字は伯慎である。
若い頃から名声があり、累進して公卿に登り、また密かに司徒の王允と共に董卓誅殺を謀ったが、事が発する前に害された。越騎校尉の汝南の伍孚は、
董卓の凶暴さに憤り、自ら手刃することを志し、朝服を着て懐に佩刀を隠して董卓に会った。伍孚が話し終えて辞去すると、董卓は起き上がって閤まで送り、手をその背に撫でた。伍孚はそこで刀を出して彼を刺したが、当たらなかった。董卓は自ら奮闘して難を逃れ、急いで左右の者を呼んで伍孚を捕らえ殺させ、大声で罵った。
「奴め、反逆しようというのか!」伍孚は大声で言った。「奸賊を都市で磔に裂くことができなかったことを恨む。
天地に謝罪するために!」言葉が終わらないうちに絶命した。
この時、王允は呂布および僕射の士孫瑞と謀って董卓を誅殺しようとした。
ある者が「呂」の字を布に書き、背負って市中を行き、歌った。「布よ!」と。これを董卓に告げる者がいたが、董卓は悟らなかった。
初平三年四月、帝の病気がちょうど癒え、未央殿で大宴会が開かれた。董卓は朝服を着て車に乗ったが、やがて馬が驚いて泥に落ち、引き返して衣を着替えた。その若い妻が止めたが、董卓は従わず、遂に出発した。そこで兵を道の両側に並べ、自らの塁から宮殿まで、左側に歩兵、右側に騎兵を配置し、周囲を包囲して駐屯させ、呂布らに前後を警護させた。王允はそこで士孫瑞と密かに上表してこのことを奏上し、瑞に自ら詔を書かせて呂布に授け、騎都尉の李肅に命じた。
董卓と同心の勇士十数人と共に、衛士の服を偽って着用し、北掖門の内側で董卓を待ち受けた。董卓が到着しようとした時、馬が驚いて進まず、怪しんで恐れ、引き返そうとした。呂布が進むよう勧めたので、遂に門内に入った。李粛が戟で董卓を刺したが、董卓は鎧を衣服の下に着けていたため刺さらず、腕を負傷して車から落ちた。董卓は振り返って大声で呼んだ、「呂布はどこにいる?」呂布は言った、「詔勅があって賊臣を討つのだ。」董卓は大声で罵った、「凡庸な犬め、よくもそんなことができたな!」呂布は声に応じて矛を手に取り董卓を刺し、兵士に急いで斬らせた。
主簿の田儀
および董卓の下僕たちがその死体に駆け寄ると、呂布はまた彼らを殺した。赦書を携えて馳せ、宮廷内外に命令を伝えた。兵士たちは皆万歳を唱え、道では百姓たちが歌舞した。長安では男女が珠玉や衣服を売り、酒や肉を買って互いに祝い合い、街路や市場は人で埋め尽くされた。皇甫嵩を派遣して郿塢で董卓の弟の董旻を攻撃させ、その母・妻・子女を殺し、一族をことごとく滅ぼした。
そして董卓の死体を市場に晒した。季節は暑くなり始めており、董卓は元々肥満体で、脂が地面に流れ出た。死体を監視する役人が火を灯し、董卓の臍の中に置くと、明かりは夜明けまで続き、このように数日間続いた。袁氏の門下生たちはまた董氏一族の死体を集め、灰に焼いて道に撒き散らした。郿塢の中の蔵には金が二三万斤、銀が八九万斤、錦・綺・繍・縠・紈素などの珍しい宝物が山のように積まれていた。
李傕、郭汜
初め、董卓は牛輔を子婿として、元々親信していたので、兵を率いて陝に駐屯させた。牛輔は配下の校尉李傕、郭汜、張済に歩兵と騎兵数万を分遣させ、
中牟で河南尹の朱儁を撃破した。そこで陳留、潁川の諸県を略奪し、男女を殺害・拉致し、通過した地域には生き残る者はいなくなった。呂布は李粛に詔命を持たせて陝に派遣し、牛輔らを討伐させた。牛輔らは逆に李粛と戦い、李粛は敗走して弘農に逃げ、呂布は彼を誅殺した。その後、牛輔の陣営で理由もなく大騒ぎが起こり、牛輔は恐れ、金銀財宝を持って城を越えて逃走した。側近たちはその財宝を欲しがり、牛輔を斬り、その首を長安に送った。
李傕、郭汜らは、王允と呂布が董卓を殺したため、并州の人々を恨み怒り、軍中にいた并州人の男女数百人を皆誅殺した。牛輔が既に敗れたので、兵士たちは頼るものがなく、それぞれ散り散りになろうとした。李傕らは恐れ、先に使者を長安に派遣し、赦免を請うた。王允は一年に二度も赦すことはできないと考え、許さなかった。李傕らはますます憂慮と恐れを抱き、どうすべきか分からなかった。武威郡の賈詡が当時李傕の軍中にいて、彼らを説得した。
言った、「長安では涼州人を皆殺しにしようという議論があると聞いています。諸君が軍を捨てて単独で行けば、一介の亭長でも諸君を縛ることができます。共に西進して長安を攻め、董公の仇を討つ方が良いでしょう。事が成功すれば、国家を奉じて天下を正し、もし合わなければ、その時逃げても遅くはありません。」李傕らはこれに同意し、互いに言い合った、「朝廷が我々を赦さないなら、死を決して戦おう。もし長安を攻め落とせば、天下を得られる。落とせなければ、三輔の婦女と財物を略奪し、西に帰って故郷に戻り、まだ命を延ばすことができる。」兵士たちもそうだと思い、そこで共に盟約を結び、数千の軍勢を率いて、昼夜を問わず西へ向かった。王允はこれを聞き、董卓の旧将である胡軫と徐栄を派遣して新豊で彼らを迎撃させた。
徐栄は戦死し、胡軫は兵を率いて降伏した。李傕は道中で兵を集め、長安に到着する頃には既に十余万に達し、董卓の旧部曲である樊稠、李蒙らと合流し、
長安を包囲した。城壁は険しく攻め落とせず、八日間包囲を続けたが、呂布軍の中に蜀兵が内応し、
李傕の兵を引き入れて城内に入ることができた。城は陥落し、兵士たちが略奪を始め、死者は一万余人に上った。衛尉の种拂らを殺害した。呂布は戦いに敗れて逃走した。王允は天子を奉じて宣平城門の楼上に避難した。
そこで天下に大赦を行った。李傕、郭汜、樊稠らは皆将軍となった。
そして門楼を包囲し、共に上表して司徒の王允を出させ、「太師(董卓)に何の罪があったのか」と問いただした。王允は追い詰められて降り、数日後に殺害された。李傕らは董卓を郿に埋葬し、同時に董氏一族が焼かれた死体の灰を集め、一つの棺に納めて葬った。埋葬の日、大風雨が起こり、雷が董卓の墓を震わせ、水が墓穴に流れ込み、棺を押し流した。
李傕はさらに車騎將軍に昇進し、開府を許され、司隸校尉を兼任し、仮節を与えられた。郭汜は後將軍、樊稠は右將軍、張済は鎮東將軍となり、皆列侯に封じられた。李傕、郭汜、樊稠が共に朝政を執った。張済は弘農に駐屯した。賈詡を左馮翊に任命し、侯に封じようとした。賈詡は言った、「これは命を救うための計略であって、何の功績もありません!」と固辞したのでやめた。代わりに尚書として官吏選抜を担当させた。
翌年の夏、大雨が昼夜二十余日も降り続き、民衆が流され溺れ、また風が冬のようであった。帝は御史の裴茂を派遣して詔獄を訊問させ、拘束されていた者二百余人を赦免した。その中に李傕によって冤罪で拘束されていた者がいたため、李傕は裴茂が彼らを赦免することを恐れ、上表して裴茂が勝手に囚人を釈放したこと、何か不正な意図があるのではないかと疑い、彼を逮捕するよう請願した。詔勅は言った。「災異が繰り返し降り、陰雨が害をなしている。使者は命を受けて恩沢を宣布し、軽微な罪を赦免するのは、天の心に合致するものであろう。冤罪を解きほぐそうとしているのに、再び罪に問うというのか!一切問うことはない。」
初めに、董卓が関中に入った時、韓遂と馬騰を招いて山東(函谷関以東)の諸侯を討つ計画を共に謀った。〈《献帝伝》によると、「馬騰の父の平は扶風の人である。天水の蘭干尉となったが、官職を失い、隴西に留まり、羌族と雑居した。家が貧しく妻がいなかったため、羌族の女を娶り、馬騰を生んだ。」〉
韓遂と馬騰は天下が乱れ始めているのを見て、董卓に頼って兵を起こそうとも考えた。
興平元年
、馬騰が隴右から朝廷に来朝し、覇橋に駐屯した。この時、馬騰は個人的に李傕に何かを求めたが、得られずに怒り、侍中の馬宇、右中郎将の劉範、〈劉焉の子。〉
前涼州刺史の种劭、中郎将の杜稟〈《献帝紀》によると、「杜稟は賈詡と不和があり、扶風の官吏や民衆を脅して馬騰のために槐里を守らせ、共に李傕を攻撃しようとした。李傕は樊稠と兄の子の李利に数万の兵を率いさせて槐里を包囲攻撃させ、夜に梯子で城壁を登り、城は陥落し、杜稟を斬って首をさらした。」〉
と合流して李傕を攻撃し、何日も決着がつかなかった。韓遂はこれを聞き、兵を率いて来て馬騰と李傕の和解を図ろうとしたが、やがてまた馬騰と合流した。李傕は兄の子の李利に郭汜、樊稠と共に軍を率いさせ、長平観の下で馬騰らと戦わせた。〈前書音義によると、「長平は坂の名で、池陽の南にある。長平観があり、長安から五十里離れている。」〉
韓遂と馬騰は敗北し、首級一万余りを斬られ、种劭、劉範らは皆死んだ。韓遂と馬騰は涼州へ敗走し、樊稠らはさらに追撃した。韓遂は人をやって樊稠に言わせた。「天下の形勢はどう転ぶか分からない。我々は同州の出身であり、今は少し意見が違うが、大局的には大同すべきであり、一言話し合いたい。」そこで馬を並べて腕を組み合った。〈駢は並ぶの意。〉〈《献帝起居注》によると、「李傕らはそれぞれ自分が推挙した者を使いたがり、もし一度でもそれに背くと、憤慨して怒った。担当者はこれを憂い、順番に彼らの推挙した者を用いることにし、まず李傕の推挙から始め、次に郭汜、次に樊稠の順とした。三公が推挙した者は結局用いられなかった。」〉〈啖の音は徒敢反。〉
白骨が積み重なり、悪臭が道に満ちた。帝は侍御史の侯汶〈音は問。〉
を派遣して太倉の米や豆を出させ、飢えた人々に粥を作らせたが、一日経っても死者の数は減らなかった。帝は救済物資の配布に虚偽があるのではないかと疑い、〈賦は布くこと。卹は憂うること。〉
自ら御前で臨検を行った。事実でないと知ると、侍中の劉艾を出向させて担当官庁を責めさせた。そこで尚書令以下は皆、省閣に詣でて謝罪し、侯汶を収監して取り調べるよう上奏した。詔勅は言った。「侯汶を法に照らして裁くには忍びない。杖五十に処せよ。」この後から多くの者が救済されるようになった。
翌年の春、李傕は宴会の席で樊稠を刺殺した。〈《献帝紀》によると、「李傕は樊稠が果敢で勇猛であり、衆望を集めているのを見て、妬み害そうとし、酒に酔ったふりをして、ひそかに外甥の騎都尉胡封に命じ、座席の中で樊稠を拉致して殺させた。」〉
これにより諸将は互いに疑心暗鬼を抱くようになり、李傕と郭汜はついに再び兵を動かして互いに攻撃し合った。〈袁宏の《紀》によると「李傕はしばしば酒宴を設けて郭汜を招き、時には郭汜を留めて宿泊させた。郭汜の妻は、李傕の婢妾と私通して自分の寵愛が奪われることを恐れ、二人を離間する方法を考えた。ちょうど李傕から贈り物が届いた時、郭汜の妻は豆豉を毒薬に見せかけた。郭汜が食べようとすると、妻は言った。『外から来た食べ物は、もしかしたら何かあるかも?』そこで薬(に見せかけた豆豉)を取り出して見せ、言った。『一つの巣に二羽の雄鳥は棲めない。私はもともと将軍が李公を信じているのを疑っていたのです。』別の日、李傕が郭汜を招き、郭汜は大いに酔った。郭汜は李傕が毒を盛ったのではないかと疑い、糞汁を絞って飲ませてやっと毒消しをした。こうして互いに猜疑心を抱くようになった」という。〉
安西将軍の楊定という者は、もと董卓の部曲将であった。李傕が残忍で害をなすことを恐れ、郭汜と謀って天子を自分の陣営に迎え入れようとした。李傕はその計略を知り、すぐに兄の子の李暹〈音は纖。〉
に数千人を率いさせて宮殿を包囲させた。そして車三台で天子と皇后を迎えようとした。太尉の楊彪が李暹に言った。「古今の帝王で、臣下の家にいる者はいない。諸君が事を起こすなら、上は天の心に順うべきであり、どうしてこのようなことをするのか!」李暹は言った。「将軍(李傕)の決断は固まっています。」帝はついに李傕の陣営に行幸することになり、楊彪らは皆付き従った。乱兵が宮殿に入り、宮人や器物を略奪し、李傕はさらに御府の金帛や乗輿、器物、服飾品を運び出し、宮殿や官庁、民家を全て焼き尽くした。帝は楊彪と司空の張喜ら十余人を派遣して李傕と郭汜の和解を図らせたが、郭汜は従わず、公卿を人質として留め置いた。楊彪が郭汜に言った。「将軍は世間の道理に通じているのに、どうして君臣が争い、一人は天子を脅し、一人は公卿を人質に取るなどということが、行えることでしょうか?」郭汜は怒り、自ら楊彪を斬ろうとした。楊彪は言った。「貴公がなお国家に奉じないのに、私がどうして生き延びようなどと思うだろうか!」側近の多くが諫めたので、郭汜はやめた。そして兵を率いて李傕を攻撃し、矢が帝の目前にまで飛来した。〈《献帝紀》によると、「郭汜は李傕の将の張苞、張龍と謀って李傕を誅殺しようとし、郭汜は兵を率いて夜に李傕の門を攻撃した。門番が門を開いて郭汜の兵を中に入れると、張苞らが屋敷に火を放ったが、火は燃え広がらなかった。郭汜の兵が弓弩を一斉に放ち、矢が天子のいる楼閣の帷や簾の中にまで及んだ。」〉
また、李傕の耳を貫いた。李傕の部将楊奉はもともと白波賊の首領であったが、兵を率いて李傕を救い、これにより郭汜の軍勢は退いた。
この日、李傕は再び皇帝を移してその北塢に滞在させ、皇后と宋貴人だけが同行した。李傕は校尉に門を監視させ、内外を隔絶した。
まもなくまた皇帝を池陽の黄白城に移そうとした。
君臣は恐れおののいた。司徒の趙温が深く説得して諭したので、やっと中止した。詔を下して謁者僕射の皇甫酈を派遣し、李傕と郭汜を和解させようとした。皇甫酈はまず郭汜を諭し、郭汜はすぐに命令に従った。また李傕のもとに行ったが、李傕は聞き入れなかった。李傕は言った。「郭多(郭汜)は、盗馬の奴隷に過ぎない。どうして私と同等になろうなどとすることができようか!必ず誅殺する。あなたは私の戦略と兵士たちを見て、郭多を十分に処理できると思うか?郭多はまた公卿を人質に取っている。このようなことをしておきながら、あなたはどうして彼を助けようとするのか!」
郭汜は別名を多といった。皇甫酈は言った。「今、郭汜は公卿を人質に取り、将軍(李傕)は主君を脅迫しています。どちらが軽く、どちらが重いでしょうか?」李傕は怒り、皇甫酈を叱りつけて追い返し、虎賁の王昌に命じて追いかけて殺させた。王昌は偽って追いつけなかったふりをし、皇甫酈は難を逃れることができた。李傕は自ら大司馬となった。
郭汜と互いに攻撃し合うこと数ヶ月、死者は万単位に上った。
張済が陝から来て二人を和解させ、引き続き皇帝を弘農に移して一時滞在させようとした。皇帝もまた旧都を懐かしみ、使者を派遣して李傕に東帰を強く請わせ、十度も往復してようやく許しを得た。
車駕はその日に出発した。
李傕は出て曹陽に駐屯した。張済を驃騎将軍とし、再び陝に戻って駐屯させた。郭汜を車騎将軍に、楊定を後将軍に、楊奉を興義将軍に昇進させた。また、以前の牛輔の配下であった董承を安集将軍とした。
郭汜らは皆、車駕に付き従って送った。郭汜はまた皇帝を脅して郿に行幸させようとしたが、楊定、楊奉、董承は従わなかった。郭汜は変事が起こることを恐れ、軍を捨てて李傕のもとに戻った。車駕は進んで華陰に至った。
寧輯将軍の段煨は、皇帝の衣服や車馬、および公卿以下の物資を準備し、皇帝にその陣営に来るよう請うた。当初、楊定は段煨と不和であったため、段煨が謀反を企てていると誣告し、その陣営を攻撃したが、十数日経っても落とせなかった。
しかし段煨は依然として皇帝の食事を供給し、百官に俸給を与え、終始二心を抱かなかった。
李傕と郭汜は天子を東に行かせたことを後悔し、段煨を救おうとして来たが、その機に乗じて皇帝を脅して西に連れ去ろうとした。楊定は郭汜に遮られ、荊州に逃亡した。一方、張済は楊奉、董承と不和であったため、逆に李傕、郭汜と合流し、共に車駕を追撃し、弘農の東澗で大戦となった。董承、楊奉の軍は敗北し、百官や兵士の死者は数え切れず、皆、婦女子や輜重、皇帝の器物、符節、典籍を捨て、ほとんど何も残らなかった。
射声校尉の沮儁は傷を負って馬から落ちた。李傕は側近に言った。「まだ生きているか?」沮儁は彼を罵って言った。「お前たちのような凶悪な逆賊が天子を逼迫するとは、乱臣賊子の中でもお前たちほどひどいものはいない!」李傕は彼を殺させた。
天子はついに曹陽で野営した。董承と楊奉は李傕らを欺いて和睦を装い、密かに間者を河東に派遣し、元の白波賊の首領である李楽、韓暹、胡才、および南匈奴の右賢王の去卑を招き、合わせて数千騎の兵を率いて来させ、董承、楊奉と共に李傕らを攻撃し、大いに破って数千の首級を斬り、車駕はようやく進むことができた。董承と李楽が左右を護衛し、胡才、楊奉、韓暹、去卑が後衛となった。李傕らが再び戦いを挑んできたので、楊奉らは大敗し、死者は東澗の時よりも多かった。東澗から兵が連なり四十里に及ぶ中を、ようやく陝に到着し、陣営を構えて自守した。当時は戦乱で荒廃した後であり、虎賁や羽林の兵は百人に満たず、皆、離散しようとする心を持っていた。董承、楊奉らは夜になって密かに黄河を渡ることを協議した。
李楽に先に渡河させて船を準備させ、のろしを上げて合図とした。帝は歩いて陣営を出て、黄河に臨み渡ろうとしたが、岸は十余丈の高さがあり、絹で吊り下ろされて降りた。
残りの者は岸辺を這う者もいれば、上から飛び降りる者もおり、死傷者が続出し、互いの安否もわからなくなった。船に殺到する者は制止できず、董承が戈で彼らを打ち払い、船の中で切断された指は両手で掬えるほどだった。共に渡河できたのは皇后、宋貴人、
楊彪、董承、および皇后の父である執金吾の伏完ら数十人だけだった。宮女たちは皆、李傕の兵士に略奪され、凍死や溺死した者が非常に多かった。大陽に到着すると、民家に滞在し、
その後、李楽の陣営に行幸した。百官は飢えに苦しみ、河内太守の張楊が
数千人に米を背負わせて貢物として届けさせた。帝は牛車に乗り、安邑に都を置いた。河東太守の王邑が綿や絹を献上し、公卿以下に全て分配した。王邑を列侯に封じ、
胡才を征東将軍に任じ、張楊を安国将軍に任じ、いずれも仮節・開府を許した。各地の塁壁の群小たちは競って官職を求め、印を刻むのが間に合わず、錐で印面を刻むほどだった。ある者は酒や肉を持参して天子と宴会を開いた。
また、太僕の韓融を弘農に派遣し、李傕、郭汜らと和睦を結んだ。李傕はようやく公卿百官を解放し、宮人や婦女の多くを返し、乗輿や器物・服飾も返還した。
初め、帝が関中に入った時、三輔の戸口はまだ数十万あったが、李傕と郭汜が互いに攻撃し合い、天子が東帰した後、長安の城は四十余日も空となり、強者は四散し、弱者は共食いし、二三年の間に、関中には人の気配がなくなった。建安元年の春、諸将が権力を争い、韓暹はついに董承を攻撃し、董承は張楊のもとに逃れた。張楊は董承に先に洛陽の宮殿を修復させた。七月、帝は洛陽に帰還し、楊安殿に行幸した。張楊は自分の功績だと考えたため、わざわざ「楊」の名を殿の名にした。
そこで諸将に言った。「天子は天下の人々と共有すべきものであり、朝廷には公卿大臣がいる。私は外敵を防ぐために出て行くべきで、どうして京師に留まる必要があろうか。」そして野王に帰還した。楊奉も出て梁に駐屯した。
そこで張楊を大司馬に、楊奉を車騎将軍に、韓暹を大将軍に任じ、司隸校尉を兼任させ、いずれも仮節鉞を授けた。韓暹と董承はともに留まって宿衛を担当した。
韓暹は功績を誇り、勝手気ままに振る舞い、
政事を乱したので、董承はこれを憂慮し、密かに兗州牧の曹操を召し寄せた。曹操は宮廷に赴いて貢物を献上し、公卿以下に食糧を支給し、その上で韓暹と張楊の罪を上奏した。韓暹は誅殺を恐れ、単騎で楊奉のもとに逃れた。帝は韓暹と張楊が車駕を護衛した功績があるとして、詔を下して一切問わないこととした。そこで衛将軍の董承、輔国将軍の伏完ら十余人を列侯に封じ、沮儁に弘農太守を追贈した。
曹操は洛陽が荒廃しているのを見て、帝を許に移すよう勧めた。楊奉と韓暹は車駕を遮ろうとしたが及ばず、曹操が彼らを攻撃した。
楊奉と韓暹は袁術のもとに逃れ、楊州と徐州の間で暴虐をほしいままにした。翌年、左将軍の劉備が楊奉を誘い出して斬殺した。韓暹は恐れ、并州に逃げ帰ろうとしたが、途中で人に殺された。
胡才と李楽は河東に留まったが、胡才は恨みを買った者に殺害され、李楽は病死した。張済は食糧に困り、南陽に出て穣を攻撃したが、戦死した。郭汜はその部将の伍習に殺された。
建安三年、謁者僕射の裴茂を派遣し、詔を奉じて関中の諸将段煨らに李傕を討伐させ、三族を誅滅した。
段煨を安南将軍とし、閺郷侯に封じた。
四年、張楊は配下の将楊醜に殺害された。
董承を車騎将軍とし、開府を許した。
許都に遷都して以来、権力は曹氏に帰し、天子は自らを束ねるのみで、百官はただ員数を揃えているだけだった。帝は曹操の専横と逼迫を忌み嫌い、密かに董承に詔を下し、天下の義士を結集して共に曹操を誅殺するよう命じた。董承は劉備と共謀したが、まだ挙兵しないうちに、劉備が出征したため、董承はさらに偏将軍の王服、長水校尉の种輯、議郎の吳碩と謀議を結んだ。事が漏れ、董承、王服、种輯、吳碩は皆、曹操に誅殺された。
馬騰
韓遂と馬騰は涼州に戻ると、互いに戦争を繰り返し、やがて隴山を下って関中を占拠した。曹操はちょうど河北の戦役に忙しく、彼らが隙を突いて乱を起こすことを憂慮し、建安七年、馬騰を征南将軍、韓遂を征西将軍に任じ、ともに開府を許した。後に段煨を大鴻臚に召し出したが、病没した。また馬騰を衛尉に召し出し、槐里侯に封じた。馬騰は応召したが、子の馬超に軍勢を率いさせて留め置いた。
馬騰の子 超
建安十六年、馬超は韓遂と共に関中で挙兵し曹操に背いたが、曹操に撃破され、韓遂、馬超は敗走した。馬騰は連座して三族を誅滅された。馬超は涼州刺史の韋康を攻め殺し、
再び隴右を占拠した。
建安十九年、天水郡の人物である楊阜が馬超を撃破した。
馬超は漢中に逃れ、劉備に降伏した。
韓遂
韓遂は金城郡の羌族の地に逃れたが、配下の者に殺害された。初め、隴西郡の宗建が枹罕におり、「河首平漢王」を自称していた。
百官を任命して約三十年に及んだ。曹操はこれに乗じて夏侯淵を派遣し宗建を攻撃させ、斬殺した。涼州はすべて平定された。
史論
論者は言う。董卓は初め、虎のように猛々しい気性を本性とし、
崩壊混乱の情勢に乗じたため、
ついに常道を踏みにじり、王畿と九服を破壊し切り裂くことができた。
肝臓をえぐり足を斬るような残忍な本性を持った者にとっては、
民衆すべてをもってしてもその快楽を満たすことはできず、それでもなお士大夫に心を屈し、権力奪取をためらったのは、
まだ盗賊にもあるような道理をわきまえていたからである。
そして残虐な賊徒がこれに乗じると、
山を倒し海を傾ける勢いとなり、崑崙の山火事のように、ここから燃え広がり、
『詩経』の「板」「蕩」の篇に描かれたような乱世が、ここに極まった。
ああ、人の生きることは難しいことだ。
天地の無慈悲は、はなはだしいことだ。
賛に曰く、百六の会あり、
過ぎて剝となり災いを成す。
董卓は天を滔き、三才に干逆す。
方夏は崩沸し、
皇京は烟埃たり。無礼自ら及ぶも、余祲遂に広がる。
矢は王輅に延び、兵は魏象に纏わる。
区服は傾回し、人神は波蕩す。