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皇甫嵩
皇甫嵩は字を義真といい、安定郡朝那県の人で、度遼将軍皇甫規の兄の子である。父の皇甫節は、雁門太守であった。嵩は若い頃から文武の志操と節義を持ち、詩書を好み、弓馬を習った。初め孝廉と茂才に挙げられた。(『続漢書』によると、「孝廉に挙げられて郎中となり、霸陵令、臨汾令に転任したが、父の喪のため官を去った」という。)太尉陳蕃と大将軍竇武が相次いで招聘したが、いずれも応じなかった。霊帝が公車で徴して議郎とし、北地太守に転任した。
詔勅を下して州郡に攻守の備えを整えさせ、兵器を精選・訓練させ、函谷関、大谷関、広城関、伊闕関、轘轅関、旋門関、孟津、小平津の諸関に、いずれも都尉を置いた。(大谷関、轘轅関は洛陽の東南にあり、旋門関は汜水の西にある。)群臣を召集して会議を開いた。皇甫嵩は、党錮の禁を解き、中蔵の銭と西園の厩馬を多く出して、軍士に分け与えるべきであると主張した。帝はこれに従った。そこで天下の精兵を動員し、広く将帥を選抜し、皇甫嵩を左中郎将とし、節を持たせ、右中郎将の朱儁とともに、五校の兵、三河の騎士および募集した精鋭を発し、合わせて四万余人とし、嵩と儁がそれぞれ一軍を統率し、共に潁川の黄巾を討伐した。
朱儁は先に賊の波才と戦って敗れた。皇甫嵩は進軍して長社を守備した。波才が大軍を率いて城を包囲した。嵩の兵は少なく、軍人たちは皆恐れた。そこで軍吏を召して言った。「戦いには奇策による変化があり、数の多寡によるものではない。(『孫子兵法』に言う、『およそ戦う者は、正をもって合し、奇をもって勝つ。故に善く奇を出す者は、その出ずること天地のごとく窮まりなく、江海のごとく尽きることがない。戦勢は奇正を過ぎず。奇正の変化は、勝つに勝べからざるなり』。)今、賊は草むらに依って陣営を結んでいるので、風火を用いやすい。もし夜に乗じて火を放てば、必ず大いに驚き乱れる。我が兵を出してこれを撃てば、四方から同時に攻め、田単の功績を成し遂げることができる。」(田単は斉の将軍で、即墨城を守った。燕軍が城を攻めた時、田単は牛千頭を取って五采の衣を着せ、角に矛と盾を結び付け、尾に火を付け、城から出撃させ、城上で大いに喚声を上げさせ、燕軍を大敗させた。事は『史記』に見える。)その夜、大風が吹いた。皇甫嵩は軍士に命じて皆、松明を束ねて城壁に登らせ、(苣は巨の音。『説文』によれば、「葦を束ねて焼く」という。)鋭卒に包囲の外へ潜り出させ、火を放って大声で叫ばせ、城上ではかがり火を上げて応じた。嵩はこれに乗じて太鼓を鳴らして敵陣に突撃し、賊は驚き乱れて逃走した。ちょうど帝が派遣した騎都尉曹操が兵を率いて到着し、嵩、操と朱儁が合流してさらに戦い、賊を大破し、数万級を斬首した。皇甫嵩を都郷侯に封じた。嵩と儁は勝ちに乗じて汝南、陳国の黄巾を討伐し、波才を陽翟で追撃し、彭脱を西華で撃破し、いずれも破った。(西華は県で、汝南郡に属する。)残った賊は降伏・離散し、三郡はすべて平定された。
さらに進軍して東郡の黄巾、卜己を倉亭で攻撃し、卜己を生け捕りにし、七千余級を斬首した。この時、北中郎将の盧植と東中郎将の董卓が張角を討伐したが、いずれも功績なく帰還した。そこで詔を下して皇甫嵩に進軍して討伐させた。皇甫嵩は張角の弟の張梁と広宗で戦った。(現在の貝州宗城県。)張梁の軍は精鋭で勇猛であり、嵩はこれを打ち破ることができなかった。翌日、陣営を閉じて兵士を休ませ、敵の変化を観察した。賊の気が緩んだのを知ると、密かに夜間に兵を整え、鶏の鳴くころに敵陣に急襲し、戦いは午後三時から五時ごろまで続き、賊を大破し、張梁を斬り、三万級を獲得し、河に投身して死んだ者は五万人ほどで、車両三万余両を焼き払い、その妻子をことごとく捕虜とし、捕獲した物資は非常に多かった。張角はすでに病死していたので、棺を割いて屍を辱め、首を京師に送った。
皇甫嵩はさらに鉅鹿太守の馮翊郭典とともに、張角の弟の張宝を下曲陽で攻撃し、またこれを斬った。斬首・捕虜は十余万人に上り、城南に京観を築いた。(杜預が『左伝』に注して言う、「屍を積み上げてその上に土を盛ることを京観という」。)ただちに皇甫嵩を左車騎将軍に任じ、冀州牧を兼務させ、槐里侯に封じ、槐里、美陽の両県を食邑とし、(いずれも扶風郡に属する。)合わせて八千戸とした。
黄巾が平定されたため、年号を中平と改めた。皇甫嵩は冀州の一年分の田租を免除し、飢民を救済するよう上奏し、帝はこれに従った。民衆は歌った。「天下大乱して市は廃墟と化し、母は子を保てず妻は夫を失う。皇甫に頼りて再び安らかに住まうことを得たり。」皇甫嵩は兵士を温かく思いやり、非常に衆望を得ていた。軍が行進して駐屯するたび、必ず陣営の幕舎が整ってから、自分の帳舎に入った。軍士が皆食事をしてから、自らも食事を味わった。役人で事に乗じて賄賂を受けた者がいると、嵩はかえって金品を与え、役人は恥じて、自殺する者さえいた。
皇甫嵩が黄巾を撃破した後、その威勢は天下に響き渡ったが、朝廷の政治は日に日に乱れ、国内は疲弊困窮していた。そこで信都令の漢陽出身の閻忠(干は冒進を意味する)が皇甫嵩に進言して言った。「得難くして失いやすいものは時機であり、時機が来ても踵を返さないものは機会である。だから聖人は時機に順応して行動し、智者は機会に乗じて事を起こす。今、将軍は得難い運命に遭遇し、容易に驚かされる機会を踏んでいるのに、運命に臨んでこれを撫でず、機会に面してこれを起こさないなら、どうして大いなる名声を保つことができようか。」皇甫嵩が「どういうことか」と問うと、閻忠は言った。「天道は親しい者を選ばず、民衆は有能な者に与する。今、将軍は暮春に鉞を受け取り、末冬に功績を収めた。兵の動きは神の如く、謀略は二度考えず、強敵を摧くことは枯れ枝を折るよりも容易で、堅固なものを消滅させることは湯雪よりも速い。一ヶ月の間に、神兵は電光のように掃討し、屍を封じて石に刻み、南に向かって報告した。威徳は本朝を震わせ、風評は海外に馳せた。湯武の挙兵であっても、将軍より高いものはなかった。今、身に賞せられざる功績を立て、体に高人の徳を兼ね備えながら、北面して凡庸な君主に仕えるのは、どうして安泰を求められようか。」皇甫嵩は言った。「朝夕公務に励み、心に忠誠を忘れない。どうして不安があろうか。」
閻忠は言った。「そうではない。昔、韓信は一食の恩遇に耐えられず、天下三分の事業を捨てた。鋭い剣が既に喉元に突きつけられてから、初めて悔恨の嘆きを発したのは、機会を失い謀略が外れたからである。今、主上は劉邦や項羽よりも勢いが弱く、将軍は淮陰侯(韓信)よりも権力が重い。指麾すれば風雲を振るうに足り、叱咤すれば雷電を起こすことができる。赫然と奮発し、危機に乗じて衰頽を撃ち、恩恵を厚くして先に帰順した者を安んじ、武威を振るって後に服従する者に臨み、冀州の士を徴発し、七州の民衆を動かし、羽檄を先に馳せさせ、大軍を後に響かせて、漳河の流れを渡り、孟津で馬に水を飲ませ、宦官の罪を誅し、群凶の積怨を除くならば、童子ですら拳を奮って力を尽くさせることができ、女子ですら裳をはしょって命を使わせることができる。ましてや熊羆の如き兵卒を励まし、迅風の勢いに乗ずるならばなおさらである。功業が既に成り、天下が既に順えば、その後、上帝に呼びかけ、天命を示し、六合を混一し、南面して制を称し、宝器(天位)を将に興らんとする者に移し、亡びんとする漢を既に墜ちたものとして推し進めるのは、実に神機の至る会合であり、風発の良き時である。既に朽ちたものは彫らず、衰えた世は補佐し難い。もし補佐し難い朝廷を輔け、朽ち敗れた木を彫ろうとするなら、それは坂を逆らって玉を転がし、風に向かって棹を操るようなもので、どうして容易と言えようか。しかも今、宦官の群れが居並び、悪を同じくする者が市の如く多く、上の命令は行われず、権力は近習に帰する。昏主の下では、長く居ることは難しく、賞せられざる功績には讒人が側目する。もし早く図らなければ、後悔しても及ばない。」皇甫嵩は恐れて言った。「非常の謀略は、常態の勢いに対しては施さない。大功を図り創ることは、どうして凡才が成し得ようか。黄巾は小さな妖孽であり、敵は秦や項羽ではない。新たに結んだものは容易に散じ、事業を成すのは難しい。しかも人々はまだ主君を忘れず、天は逆臣を助けない。もし冀らない功績を虚しく造り、朝夕の禍を速めるなら、忠誠を本朝に委ね、臣下の節を守るのと比べてどうか。たとえ讒言が多いと言えども、放逐・廃位されるに過ぎず、それでもなお良い名声があり、死しても不朽である。反常の論は、敢えて聞くところではない。」閻忠は計略が用いられないと知り、逃亡した。
ちょうど辺章と韓遂が隴右で乱を起こした。翌年の春、詔により皇甫嵩は長安に戻って鎮守し、園陵を守衛することになった。辺章らは再び三輔に侵入したため、皇甫嵩に討伐を命じた。
初め、皇甫嵩が張角を討伐した時、鄴を通りかかり、中常侍趙忠の邸宅が制限を超えているのを見て、没収するよう上奏した。また中常侍張讓が私的に五千万銭を要求したが、皇甫嵩は与えなかった。このため二人は恨みを抱き、皇甫嵩が連戦しても功績がなく、費用が多いと上奏した。その秋、召還され、左車騎将軍の印綬を没収され、六千戸を削られ、更に都郷侯に封じられ、二千戸となった。
五年、州の賊である王國が陳倉を包囲した。再び皇甫嵩を左将軍に任命し、前将軍董卓を督し、それぞれ二万人を率いて防がせた。董卓は速やかに進軍して陳倉に赴こうとしたが、皇甫嵩は聞き入れなかった。董卓は言った。「智者は時機を後回しにせず、勇者は決断を留めない。速やかに救援すれば城は全うし、救援しなければ城は滅びる。全うと滅亡の勢いは、ここにある。」皇甫嵩は言った。「そうではない。百戦百勝するよりも、戦わずして敵の兵を屈させる方がよい。だからまず負けない態勢を作り、敵が勝てる状態になるのを待つ。負けないことは我にあり、勝てることは敵にある。
敵の守備は不足し、我が攻撃には余裕がある。余裕がある者は九天の上で動き、不足している者は九地の下に陥る。今、陳倉は小さいが、城の守りは堅固で備えが整っており、九地の陥穽ではない。王國は強いが、我が救援しないところを攻めているので、九天の勢いではない。勢いが九天でなければ、攻撃する者が害を受け、陥穽が九地でなければ、守備する者は陥落しない。王國は今や害を受ける地に陥り、陳倉は陥落しない城を保っている。我は兵卒や民衆を煩わせ動かすことなく、全勝の功績を取ることができる。どうして救援しようか。」遂に聞き入れなかった。
王國が陳倉を包囲し、冬から春にかけて八十余日、城は堅固に守られ、ついに陥落させることができなかった。賊の衆は疲弊し、果たして自ら解囲して去った。皇甫嵩は進軍してこれを撃とうとした。董卓は言った。「いけない。兵法に、窮した敵は追うな、帰ろうとする衆は追うな、とある。今、我々が王國を追うのは、帰ろうとする衆を追い、窮した敵を追うことだ。窮した獣はなお闘い、蜂や蠍には毒がある。まして大衆であろうか。」
皇甫嵩は言った。「そうではない。以前、我が撃たなかったのは、その鋭気を避けたのだ。今、これを撃つのは、その衰えを待ったのだ。撃つのは疲れた軍勢であり、帰ろうとする衆ではない。王國の衆は逃げようとしており、闘志はない。整った軍で乱れた軍を撃つのであり、窮した敵ではない。」遂に独り進撃し、董卓に後衛を命じた。
連戦して大いにこれを破り、首級一万余を斬り、王國は逃げて死んだ。董卓は大いに恥じ恨み、これにより皇甫嵩を忌むようになった。
皇甫嵩の子の皇甫堅壽は董卓と元来親しくしていたが、長安から逃亡して洛陽に走り、董卓のもとに身を寄せた。董卓がちょうど酒宴を設けて歓談している時、堅壽はまっすぐ前に進み出て、大義をもって正々堂々と責め立て、(質は、正すこと。)叩頭して涙を流した。座っていた者たちは感動し、皆席を離れて彼のために請うた。董卓は立ち上がり、堅壽の手を取って共に座らせた。
皇甫嵩の囚人としての身柄を解放させ、再び議郎に任命し、御史中丞に昇進させた。董卓が長安に戻った時、公卿百官が道端で迎えて拝謁した。董卓は暗に御史中丞以下に命じて皆拝礼させ、皇甫嵩を屈服させようとしたが、(風は諷の音で、暗に動かす意味。)やがて手を打って言った。「義真(皇甫嵩の字)、服したか?」(犕の音は服。『説文』に「犕牛は馬に乗せる」とある。「犕」は即ち古い「服」の字で、今も河朔の人はこの言葉を使い、音は備。)皇甫嵩は笑って謝すると、董卓はようやく釈明した。(『献帝春秋』に「初め董卓が前将軍、皇甫嵩が左将軍で、共に辺章・韓遂を征討し、覇を争った。皇甫嵩が車の下で拝礼した時、董卓は『服したか?』と言った。皇甫嵩は『明公がここまでになるとは思いもよりませんでした』と言った。董卓は『鴻鵠には元来遠大な志があるが、ただ燕雀が自ら知らないだけだ』と言った。皇甫嵩は『昔、明公と共に鴻鵠でしたが、明公は今日鳳凰に変わられただけです』と言った。」とある。)
董卓が誅殺されると、皇甫嵩を征西将軍とし、さらに車騎将軍に昇進させた。その年の秋、太尉に任命されたが、冬、流星の異変により策書で免官された。(『続漢書』には日に重なる暈があったため免官されたとある。)再び光禄大夫に任命され、太常に昇進した。まもなく李傕が乱を起こすと、皇甫嵩も病で死去し、驃騎将軍の印綬を追贈され、家から一人を郎に任命された。
皇甫嵩は人となり、慎重で勤勉を尽くし、前後して上表して陳述し諫言したうち、補益があったものは五百余事に上り、全て自筆で草稿を破棄し、外部に公表しなかった。また、身分を低くして士を敬い、門に客を滞留させなかった。(引き立てるのが速いことを言う。)当時の人々は皆彼を称賛し、親しみを寄せた。
皇甫堅壽も名声を顕わにし、後に侍中となったが辞退して受けず、病で死去した。
朱儁
朱儁、字は公偉、会稽郡上虞県の人である。幼くして孤児となり、母はかつて絹織物の販売を生業としていた。朱儁は孝養によって名声を得、県の門下書佐となり、義を好み財を軽んじ、郷里の人々から敬われた。時、同郡の周規が公府に辟召され、赴任することになったが、郡の庫から百万銭を借りて冠や幘の費用とし、後に急に督促されると、周規の家は貧しく準備できなかった。朱儁は密かに母の絹織物を盗み、周規のために事を解決した。(周規が取り調べを受け供述を求められたので、朱儁が金を準備してその事を解決した。)母は生業を失い、深く恨んで彼を責めた。朱儁は言った。「小さな損害は大きな利益となり、初めは貧しくても後には富む、これは必然の道理です。」
本県の長である山陽郡の度尚は彼を見て非凡と認め、太守の韋毅に推薦し、次第に郡の職務を歴任した。後、太守の尹端は朱儁を主簿に任命した。
黄巾の乱が起こると、公卿の多くが朱儁に才略があると推薦し、右中郎将に任命され、節を持ち、左中郎将の皇甫嵩と共に潁川・汝南・陳国などの賊を討伐し、全て撃破平定した。皇甫嵩はその状況を上言し、功績を朱儁に帰したため、ここに西郷侯に進封され、鎮賊中郎将に昇進した。
時、南陽の黄巾賊の張曼成が兵を起こし、「神上使」と称し、数万の衆を集め、郡守の褚貢を殺害し、宛城の城下に百余日駐屯した。
太守の秦頡が曼成を撃ち殺すと、賊はさらに趙弘を帥とし、勢力は次第に盛んとなり、ついに十余万に達し、宛城を占拠した。朱儁は荊州刺史の徐璆および秦頡と合流し、一万八千人で趙弘を包囲したが、六月から八月にかけても陥落させられなかった。役人が朱儁を召還しようと上奏した。司空の張温が上疏して言った。「昔、秦は白起を用い、燕は楽毅を任用したが、いずれも長い年月を経て初めて敵を打ち破ることができた。(《史記》によると、白起は郿の人で、兵を用いることに長け、秦の昭王に仕えて大良造となった。魏を攻めてこれを落とし、その五年後に趙を攻めて光狼城を落とし、さらに七年後に楚を攻めて鄢・鄧など五城を落とした。翌年には郢を落とし夷陵を焼き払い、東は竟陵にまで至った。楽毅は趙の人で、賢明で兵法を好み、燕の昭王に亞卿に任じられ、後に上将軍となった。斉を討伐して臨淄に入り、五年間斉を睨み、斉の七十余城を陥落させた。)朱儁は潁川を討伐し、功績を挙げた。軍を率いて南進し、方策はすでに定まっている。戦陣の最中に将を替えるのは兵家の忌むところである。時日を与え、成功を責めるべきである。」霊帝はこれにより取りやめた。朱儁は急いで趙弘を攻撃し、これを斬った。賊の残党の帥である韓忠が再び宛を占拠して朱儁に抵抗した。朱儁は兵が少なく敵わないため、包囲網を張り陣営を築き、土山を築いて城内を見下ろし、太鼓を鳴らして西南を攻撃すると、賊は全軍をそこに向かわせた。朱儁は自ら精兵五千を率い、東北を急襲し、城壁を乗り越えて城内に入った。韓忠は小城に退いて守り、恐れおののいて降伏を請うた。司馬の張超および徐璆、秦頡はいずれもこれを受け入れようとした。朱儁は言った。「戦いには形は同じでも情勢が異なる場合がある。昔、秦と項羽の時代には、民に定まった主がなかったため、帰順者を賞して来る者を勧めたに過ぎない。今は天下が統一されており、ただ黄巾だけが賊を起こしている。降伏を受け入れても善を勧めることにはならず、討伐することで悪を懲らしめるのに十分である。今これを受け入れるならば、さらに逆意を助長することになり、賊は有利なら戦いを進め、不利なら降伏を請うことになる。敵を逃がし賊を長引かせるのは良策ではない。」そこで急攻し、連戦したが陥落させられなかった。
朱儁が土山に登って眺め、張超を振り返って言った。「分かった。賊は今、外の包囲が堅固で、内の陣営が逼迫し、降伏を請うても受け入れられず、出ようとしても出られず、死に物狂いで戦っているのだ。万人が一心であってもなお当たることはできないのに、まして十万ではどうだろうか。その害は甚大である。包囲を解き、兵力を合わせて城内に入る方がよい。韓忠は包囲が解けたのを見れば、情勢上必ず自ら出てくるだろう。出てくれば戦意は散り、打ち破りやすい方法である。」やがて包囲を解くと、韓忠は果たして出撃し、朱儁はこれを攻撃して大破した。勝ちに乗じて敗走する敵を数十里にわたって追撃し、一万余りの首級を斬った。韓忠らはついに降伏した。しかし秦頡は韓忠に対する積年の恨みから、遂に彼を殺した。残党は不安を抱き、再び孫夏を帥とし、宛の中に駐屯した。朱儁は急攻した。孫夏は逃走し、西鄂の精山まで追撃され、またも破られた。(西鄂の故城は現在の鄧州向城県の南にあり、精山はその南にある。)再び一万余りの首級を斬り、賊はついに解散した。翌年の春、使者が節を持って派遣され、朱儁を右車騎将軍に任命し、軍を整えて京師に帰還させ、光禄大夫とし、封邑を五千戸増やし、改めて銭塘侯に封じた。(銭塘は現在の杭州県である。《銭塘記》によると、「昔、郡の議曹である華信がこの塘を築き、海水を防いだ。初めに募集を開き、土石を一斛運べば銭一千を与えるとすると、十日ほどの間に来る者が雲のごとく集まった。塘が完成しないうちに華信は約束を履行せず、皆は土石を捨てて去り、塘はそれによって完成した。」)位を特進に加えた。母の喪に服して官を去り、喪が明けると再び将作大匠に任じられ、少府、太僕と転任した。
黄巾賊の後、さらに黒山、黄龍、白波、左校、郭大賢、於氐根、青牛角、張白騎、劉石、左髭丈八、平漢、大計、司隸、掾哉、(《九州春秋》では「大計」を「大洪」とし、「掾哉」を「縁城」とする。)雷公、浮雲、飛燕、白雀、楊鳳、於毒、五鹿、李大目、白繞、畦固、苦唒の徒、(《九州春秋》では「唒」を「蝤」とし、音は才由反。)が山谷の間に一斉に起こり、数え切れないほどであった。その中で声の大きい者は雷公と称し、白馬に乗る者は張白騎とし、身軽で敏捷な者は飛燕と言い、髭の多い者は於氐根と号し、(《左氏伝》に「于思于思、甲を棄ててまた来たる」とある。杜預の注に「于思は髭の多い様子である」とある。)目の大きい者は大目とした。このような称号は、それぞれに由来があった。大きいものは二、三万、小さいものは六、七千であった。
賊の帥である常山郡人の張燕は、軽捷で勇猛で敏捷であったため、軍中で飛燕と号された。兵士の心をよく掴み、中山、常山、趙郡、上党、河内の諸山谷の賊と互いに連絡を取り合い、勢力は百万に達し、黒山賊と号した。
河北の諸郡県はことごとくその害を受け、朝廷は討伐することができなかった。張燕は使者を京師に派遣し、上書して降伏を請うた。そこで張燕を平難中郎将に任命し、河北の諸山谷の事務を統轄させ、毎年孝廉や計吏を推挙する権限を与えた。
張燕は後に次第に河内を侵し、京師に迫った。そこで朱儁を河内太守として出向させ、私兵を率いてこれを撃退した。その後、諸賊の多くは袁紹によって平定され、その事績は袁紹伝にある。朱儁は再び光禄大夫に任命され、屯騎校尉に転じ、まもなく城門校尉、河南尹となった。
当時、董卓が政権を専断し、朱儁が古参の将軍であるため、表向きは非常に親しく受け入れていたが、内心は実は彼を忌み嫌っていた。関東の兵勢が盛んになると、董卓は恐れ、たびたび公卿を集めて会議を開き、長安への遷都を提案したが、朱儁は常にこれを止めさせた。董卓は朱儁が自分と意見を異にするのを憎んだが、その名声の重さを貪り、上表して太僕に昇進させ、自分の副官としようとした。使者が任命を伝えると、朱儁は辞退して受けようとしなかった。そして言った。「国家が西遷すれば、必ずや天下の期待を裏切り、山東に争いの原因を作ることになります。臣にはそれが妥当だとは思えません。」使者が詰問した。「君を召して任命を授けようとしたのに君は拒み、遷都の事については問われていないのに君はそれを述べた。その理由は何か。」朱儁は言った。「相国の副官となることは、臣の堪えうるところではありません。遷都の計画は、急務ではありません。堪えられないことを辞退し、急務でないことを述べるのが、臣の当然のすべきことです。」使者は言った。「遷都の件については、その計画を聞いていない。仮に未公開の計画があったとしても、どうしてそれを知ったのか。」朱儁は言った。「相国の董卓が臣に詳しく話したので、知ったのです。」
使者は朱儁を屈服させることができず、これにより副官とすることをやめた。
董卓が後に関中に入ると、朱儁を留めて洛陽を守らせたが、朱儁は山東の諸将と内通して内応しようと謀った。やがて董卓に襲撃されることを恐れ、官を棄てて荊州に奔った。董卓は弘農の楊懿を河南尹とし、洛陽を守らせた。朱儁はこれを聞き、再び兵を進めて洛陽に戻り、楊懿は逃走した。朱儁は河南が荒廃して資するものがないため、東の中牟に駐屯し、州郡に文書を送って、董卓討伐の軍勢を要請した。徐州刺史の陶謙が精兵三千を派遣し、他の州郡も少しずつ兵を提供したため、陶謙は朱儁を行車騎将軍に推挙した。董卓はこれを聞き、配下の将である李傕、郭汜らに数万の兵を率いさせて河南に駐屯させ、朱儁を防がせた。朱儁は迎撃したが、李傕、郭汜に敗れた。朱儁は敵わないと悟り、関の下に留まってこれ以上進もうとしなかった。
初平四年、周忠に代わって太尉となり、尚書事を録した。翌年の秋、日食のため免官され、再び驃騎将軍の職務を行い、節を持って関東を鎮撫することになった。出発しないうちに、李傕が樊稠を殺し、郭汜もまた自ら疑いを抱いて李傕と争い、長安が混乱したため、朱儁は出発を止めて留まり、大司農に任命された。献帝は朱儁に詔を下し、太尉楊彪ら十余人と共に郭汜を諭し、李傕と和解させるように命じた。
郭汜は承諾せず、朱儁らを人質として留めた。朱儁は元来剛直な性格で、その日に発病して死去した。
子の朱皓もまた才能と品行を備え、官は豫章太守に至った。
史論
賛して言う。黄巾の妖賊が湧き起こり、皇甫嵩は奮って鉞を揮った。誰がこのように軍を整え、功に居らず、誇らなかったか。朱儁は陳・潁で勝利し、また越の乱を鎮めた。王命を厳かに述べ、共に艱難に遭った。