後漢書
皇甫嵩朱儁列傳 第六十一
皇甫嵩
皇甫嵩は字を義真といい、安定郡朝那県の人である。
度遼将軍の規
彼は兄の子である。父の節は、雁門太守であった。嵩は若い頃から文武の志と節操を持ち、詩書を好み、弓馬を習った。初めに孝廉、茂才に挙げられた。
太尉の陳蕃と大将軍の竇武が相次いで召し出したが、いずれも赴任しなかった。霊帝が公車で召し出して議郎とし、北地太守に昇進させた。
初めに、鉅鹿の張角は自ら「大賢良師」と称した。〈「良」は或いは「郎」と作る。〉
黄老道を奉じ、弟子を養い、跪拝して過ちを告白した。
符水や呪文を用いて病気を治療し、病人がかなり治癒したため、民衆は彼らを信じて帰依した。張角はそこで弟子八人を四方に派遣し、善き道をもって天下を教化させ、互いに欺き惑わし合うようにした。十数年の間に、信徒は数十万に達し、郡や国を結びつけ、青州、徐州、幽州、冀州、荊州、揚州、兗州、豫州の八州の人々は、ことごとくこれに応じない者はなかった。そこで三十六の「方」を設置した。「方」は将軍の称号のようなものである。大方は一万余人、小方は六、七千人で、それぞれに渠帥を立てた。「蒼天はすでに死に、黄天が立つべし。歳は甲子にあり、天下は大いに吉とならん」と偽りの言葉を流布した。白土で都の城門や寺の門、州や郡の官府に書き記し、すべて「甲子」の文字を記した。
中平元年
その頃、大方の馬元義らは先に荊州・揚州の数万人を集め、鄴で期日を定めて決起することを約束していた。元義はたびたび京師に往来し、中常侍の封諝・徐奉らを内応とし、三月五日に内外で同時に挙兵することを約束した。乱を起こす前に、張角の弟子である済南の唐周が上書してこれを告発したため、元義は洛陽で車裂きの刑に処せられた。霊帝は唐周の上書を三公と司隸に下し、鉤盾令の周斌に三府の掾属を率いさせ、宮中の直衛や百姓で張角の道に関わった者を調査・検証させ、千余人を誅殺し、冀州を追及調査して張角らを追捕させた。張角らは事がすでに露見したことを知り、昼夜を問わず諸方に急ぎ命令を伝え、一斉に決起した。皆、黄巾を頭に巻いて標識とした。
当時の人々は彼らを「黄巾」と呼び、また「蛾賊」とも称した。〈蛾の音は魚綺の反切で、すなわち「蟻」の字である。賊の衆多であることを比喩して、この名としたのである。〉
人を殺して天を祀った。張角は「天公将軍」と称し、角の弟の張宝は「地公将軍」と称し、宝の弟の張梁は「人公将軍」と称し、各地で官府を焼き払い、集落を略奪し、州郡は拠り所を失い、長官や役人の多くが逃亡した。十日ほどの間に、天下はこれに呼応し、京師は震動した。
詔勅を下して州郡に攻守の準備を整えさせ、兵器を選び鍛えさせ、函谷関、大谷関、広城関、伊闕関、轘轅関、旋門関、孟津、小平津などの諸関に、すべて都尉を置いた。
群臣を召集して会議を開いた。皇甫嵩は、党錮の禁を解き、さらに中蔵の銭や西園の厩舎の馬を出して、兵士たちに分け与えるべきだと主張した。帝はこれに従った。そこで天下の精兵を動員し、広く将帥を選抜し、皇甫嵩を左中郎将とし、節を持たせて、右中郎将の朱儁とともに、五校の兵、三河の騎士および募集した精鋭を発し、合わせて四万余人とし、嵩と儁がそれぞれ一軍を統率し、ともに潁川の黄巾賊を討伐した。
朱儁は先に賊の波才と戦って敗れた。皇甫嵩はこれにより進軍して長社を守備した。波才が大軍を率いて城を包囲すると、嵩の兵は少なく、兵士たちは皆恐れた。そこで軍吏を召して言った。「戦いには奇策による変化があり、数の多寡によるものではない。
今、賊は草むらに依って陣営を結んでいるので、風火を用いるのに容易である。もし夜に乗じて火を放てば、必ず大いに驚き混乱するだろう。我らが兵を出してこれを撃てば、四方から同時に攻め立て、田単の功業を成し遂げることができる。」
その夜、大風が吹いた。皇甫嵩は兵士たちに命じて皆、松明を束ねて城壁に登らせ、
鋭卒を遣わして包囲の外に潜り出させ、火を放って大声で叫ばせ、城の上ではかがり火を挙げてこれに応じた。嵩はこれに乗じて太鼓を鳴らして敵陣に突撃し、賊は驚き混乱して逃走した。ちょうど帝が騎都尉の曹操に兵を率いさせて到着したので、嵩と操は朱儁と合流してさらに戦い、賊を大破し、数万の首級を斬った。皇甫嵩は都郷侯に封じられた。嵩と儁は勝ちに乗じて汝南、陳国の黄巾賊を討伐し、波才を陽翟で追撃し、彭脱を西華で撃破し、ともにこれを打ち破った。
残った賊は降伏し散り、三郡はすべて平定された。
さらに進撃して東郡の黄巾賊の卜己を倉亭で攻撃し、卜己を生け捕りにし、七千余りの首級を斬った。この時、北中郎将の盧植と東中郎将の董卓が張角を討伐したが、ともに功績なく帰還したため、詔を下して皇甫嵩に進軍してこれを討たせた。嵩は張角の弟の張梁と広宗で戦った。
張梁の軍は精鋭で勇猛であり、皇甫嵩はこれを打ち破ることができなかった。翌日、陣営を閉じて兵士を休ませ、敵の変化を観察した。賊の気が緩んだのを知ると、密かに夜に兵を整え、鶏が鳴くころに敵陣に駆けつけ、戦いは午後三時から五時ごろまで続き、賊を大破し、張梁を斬り、三万の首級を獲、河に投身して死んだ者は五万人ほどで、車両や物資三万両余りを焼き払い、その妻子をことごとく捕虜とし、捕獲したものは非常に多かった。張角はすでに先に病死していたので、棺を割いて屍を辱め、首を京師に送った。
皇甫嵩はさらに鉅鹿太守の馮翊の郭典とともに張角の弟の張宝を下曲陽で攻撃し、またこれを斬った。首級と捕虜は十余万人に上り、城南に京観を築いた。
ただちに皇甫嵩を左車騎将軍に任じ、冀州牧を兼務させ、槐里侯に封じ、槐里と美陽の両県を食邑とした。
合わせて八千戸である。
黄巾賊が既に平定されたので、年号を中平と改めた。皇甫嵩は冀州の一年分の田租を、飢えた民を救済するために用いるよう上奏し、帝はこれに従った。百姓は歌った。「天下大乱で市は廃墟となり、母は子を保てず妻は夫を失う。皇甫(嵩)を得たおかげで再び安らかに住める。」皇甫嵩は兵士を温かく思いやり、非常に衆望を得ており、軍が行軍して駐屯するたび、必ず陣営の幕舎が整ってからでなければ自分の宿舎に入った。兵士たちが皆食事をし、
それから
そこで食事を試みた。役人で事に乗じて賄賂を受け取った者がいたが、皇甫嵩はかえって金品を与えたので、役人は恥じて、自殺する者もいた。
皇甫嵩は黄巾を破った後、威勢は天下に震うたが、朝廷の政治は日に日に乱れ、国内は疲弊していた。そこで信都令の漢陽の閻忠が(干は無理に進むことをいう)
皇甫嵩に説いて言った。「得難くして失いやすいものは時機である。時機が来ても踵を返さないのは機会である。だから聖人は時機に順応して行動し、智者は機会に乗じて事を起こす。今、将軍は得難い運命に遭い、人を驚かせやすい機会を踏んでいるのに、運命に臨んでこれを鎮撫せず、機会に臨んでこれを用いないなら、どうして大いなる名声を保つことができようか。」皇甫嵩が「どういうことか」と言うと、閻忠は言った。「天道は親しい者を選ばず、百姓は能ある者に与する。今、将軍は暮春に鉞を受け、末冬に功績を収めた。
兵を動かすこと神の如く、謀略は二度考えず、強敵を摧くことは枯れ枝を折るよりも容易で、堅固なものを消滅させることは湯雪よりも速やかであった。一ヶ月の間に、神兵は電撃のように掃討し、屍を封じて石に刻み、南に向かって報告した。威徳は朝廷を震わせ、風評は海外に馳せた。湯武の挙げた事業であっても、将軍より高いものはなかった。今、身に賞せられない功績を立て、体に高人の徳を兼ね備えながら、北面して凡庸な君主に仕えるのは、どうして安泰を求めることができようか。」皇甫嵩は言った。「朝夕公務に励み、心に忠を忘れない。どうして不安があろうか。」
閻忠は言った。「そうではない。昔、韓信は一食の恩遇に耐えられず、天下三分の業を捨てた。利剣がすでに喉に突きつけられてから、初めて悔恨の嘆きを発したのは、機会を失い謀略が外れたからである。
今、主上は劉邦や項羽よりも勢いが弱く、将軍は淮陰侯(韓信)よりも権力が重い。指麾すれば風雲を振るうに足り、叱咤すれば雷電を起こすことができる。
赫然として奮発し、危機に乗じて傾いたものを撃ち、
恩寵を高めて先に帰順した者を安んじ、武威を振るって後に服従する者に臨み、冀州の士を徴発し、七州の民衆を動員する。羽檄を先に馳せさせ、大軍が後に響き渡る。漳河の流れを渡り、孟津で馬に水を飲ませ、宦官の罪を誅し、群凶の積怨を除くならば、童子ですら拳を奮って力を尽くさせることができ、女子ですら裳をはしょって命を使わせることができる。ましてや熊羆の如き兵士を励まし、迅風の勢いに乗ずるならばなおさらである。功業がすでに成り、天下がすでに従えば、その後、上帝に呼びかけ、天命を示し、六合を混一して南面し制を称し、神器を将に興らんとする者に移し、
亡びんとする漢をすでに墜ちたところから推し落とすのは、実に神機の至る会合であり、風発の良き時である。朽ちたものは彫らず、衰えた世は補佐し難い。もし補佐し難い朝廷を助け、朽ち敗れた木を彫ろうとするならば、それは坂を逆らって玉を走らせ、風に向かって棹を操るようなもので、どうして容易だと言えようか。かつて今、宦官たちが群れをなして居り、悪を同じくする者が市の如く多い。
上の命令は行われず、権力は近習に帰する。昏主の下では、長く居ることは難しい。
賞せられない功績があれば、讒言する者は横目で睨む。もし早く図らなければ、後悔しても及ばない。」皇甫嵩は恐れて言った。「非常の謀略は、常態にある勢力には施さない。大功を図り創ることは、どうして凡庸な才能で成し得ようか。黄巾は小さな妖賊であり、敵は秦や項羽ではない。新たに結んだものは容易に散じ、業を成すのは難しい。かつて人は主を忘れず、天は逆臣を助けない。もし望みもしない功績を虚しく作り上げ、朝夕の禍を速めるならば、忠を朝廷に委ね、臣下の節を守ることに比べてどうか。たとえ多くの讒言があっても、せいぜい放逐・廃位されるまでで、なお良い名声があり、死んでも朽ちない。
常道に反する議論は、敢えて聞くことはできない。」閻忠は計略が用いられないと知り、逃亡した。
丁度、辺章・韓遂が隴右で乱を起こした。翌年の春、詔により皇甫嵩は長安に戻って鎮守し、園陵を守衛することになった。辺章らは再び三輔に侵入したので、皇甫嵩にこれを討伐させた。
初め、皇甫嵩が張角を討伐した時、鄴を通りかかり、中常侍趙忠の邸宅が制限を超えているのを見て、没収するよう上奏した。また中常侍張讓が私的に五千万銭を要求したが、皇甫嵩は与えなかった。二人はこれによって恨みを抱き、皇甫嵩が連戦しても功績がなく、費用が多いと上奏した。その秋、召還され、左車騎将軍の印綬を没収され、六千戸を削られ、更に都郷侯に封ぜられ、二千戸となった。
五年、
梁
州の賊である王国が陳倉を包囲したため、再び皇甫嵩を左将軍に任命し、前将軍の董卓を督いて、それぞれ二万人を率いてこれを防がせた。董卓は速やかに進軍して陳倉に赴こうとしたが、皇甫嵩は聞き入れなかった。董卓は言った。「智者は時機を逃さず、勇者は決断をためらわない。速やかに救援すれば城は全うされ、救援しなければ城は滅びる。全うするか滅びるかの勢いは、ここにある。」皇甫嵩は言った。「そうではない。百戦百勝するよりも、戦わずして敵の兵を屈服させるに如くはない。それゆえ、まず自らを不可勝(負けられない状態)とし、敵の可勝(勝てる状態)を待つのだ。不可勝は我にあり、可勝は彼にある。
彼の守りは不足し、我が攻撃は余裕がある。(孫子の文。)
余裕ある者は九天の上で動き、不足する者は九地の下に陥る。(『孫子兵法』に曰く、「善く守る者は九地の下に蔵れ、善く攻むる者は九天の上に動く」と。玄女三宮戦法に曰く、「兵を行うの道は、天地の宝なり。九天九地、各々表裏あり。九天の上は六甲子なり。九地の下は六癸酉なり。子能くこれに順えば、万全保たるべし」と。)
今、陳倉は小さいが、城の守りは堅固で備えが整っており、九地の陥落ではない。王国は強力ではあるが、我が救援しないところを攻めているのであり、九天の勢いではない。その勢いが九天でなければ、攻撃する者が害を受ける。陥落が九地でなければ、守る者は抜かれない。王国は今や害を受ける地に陥り、陳倉は抜かれない城を保っている。我は兵を煩わし衆を動かすことなく、全勝の功を取ることができる。どうして救援しようか。」遂に聞き入れなかった。
王国が陳倉を包囲してから、冬から春にかけて八十余日、城は堅固に守られ、ついに陥落させることができなかった。賊の衆は疲弊し、果たして自ら解いて去った。皇甫嵩は進軍してこれを撃とうとした。董卓は言った。「いけない。兵法に、窮寇は追うな、
迫
帰る衆は追うな、
追
うなとある。(司馬兵法の言葉。)
今、我々が王国を追うのは、帰る衆を追い詰め、窮寇を追うことだ。困った獣はなお闘い、蜂や蠍には毒がある。(いずれも左氏伝の文。)
まして大衆においておや!」
皇甫嵩は言った。「そうではない。以前、我々が撃たなかったのは、その鋭気を避けたのだ。今、これを撃つのは、その衰えを待ったのだ。撃つところは疲れた軍勢であり、帰る衆ではない。王国の衆は逃げようとしており、闘志はない。整った軍で乱れた軍を撃つのであり、窮寇ではない。」遂に独り進んでこれを撃ち、董卓に後詰めをさせた。
連戦してこれを大破し、首級一万余を斬り、王国は逃げて死んだ。董卓は大いに恥じ恨み、これによって皇甫嵩を忌むようになった。
翌年、董卓は并州牧に任命され、詔によって兵を皇甫嵩に委ねるよう命じられたが、董卓は従わなかった。皇甫嵩の従子の皇甫酈(酈の音は歴)。
その時、皇甫嵩は軍中にあり、彼に言った。「朝廷が政治を誤り、天下が逆さまに吊るされている。危険を安定させ、傾きを正すことができるのは、あなたと董卓だけです。今、怨恨の溝はすでに生じ、両立することはできません。董卓は詔勅を受けて兵を委ねられながら、上書して自ら請願する。これは命令に背くものです。また、京師が混乱しているのを理由に、躊躇して進軍しない。これは奸計を抱いているからです。しかも彼は凶暴で親しみがなく、将兵たちも心服していません。あなたは今、元帥として国の威光を杖に彼を討伐なされば、上には忠義を顕わし、下には凶悪な害を除くことになります。これは桓公・文公の事業です。」
皇甫嵩は言った。「専断的に命令することは罪ではあるが、専断的に誅殺することにも責任が伴う。(『春秋左氏伝』に言う。「命令を受ければ威厳がなく、専断的に命令すれば不孝である。」)むしろその事柄を明らかに上奏し、朝廷に裁断させたほうがよい。」そこで上書して事の次第を報告した。皇帝は董卓を責めたので、董卓はさらに皇甫嵩に対する怨恨を増した。後に董卓が政権を握ると、初平元年、皇甫嵩を城門校尉に任命して、殺そうとした。皇甫嵩が赴任しようとした時、長史の梁衍が説得して言った。「漢室は衰微し、宦官が朝廷を乱しています。董卓は彼らを誅殺しましたが、国に忠誠を尽くすことはできず、再び京邑を侵略略奪し、皇帝を廃立して自分の意のままにしています。今、将軍を召し出すのは、大きければ危険な禍、小さければ困窮と屈辱です。今、董卓は洛陽におり、天子は西に来られています。将軍の軍勢、精兵三万をもって、至尊をお迎えし、命令を奉じて逆賊を討伐し、海内に号令を発し、諸将に兵を徴発すれば、袁氏が東から迫り、将軍が西から迫ることになり、董卓は必ず捕らえられます。」皇甫嵩は従わず、ついに召し出しに応じた。役人は董卓の意を受けて、皇甫嵩を官吏に下して弾劾し、ついに誅殺しようとした。
皇甫嵩の子の堅寿は董卓と元々親しくしていたが、長安から逃亡して洛陽に走り、董卓のもとに身を寄せた。董卓がちょうど酒宴を設けて歓談している時、堅寿はまっすぐに進み出て、大義をもって正々堂々と責めた。(質は、正すこと。)
頭を地に叩きつけて涙を流した。座っていた者たちは感動し、皆、席を離れて彼のために請願した。董卓はようやく立ち上がり、堅寿の手を取って共に座らせた。
皇甫嵩の囚人としての身柄を釈放させ、再び議郎に任命し、御史中丞に昇進させた。董卓が長安に戻った時、公卿百官が道端で迎えて拝謁した。董卓は風説によって御史中丞以下に命じ、皆に拝礼させて皇甫嵩を屈服させようとした。(風は諷の音で、そそのかして動かすことをいう。)
やがて手を打って言った。「義真(皇甫嵩の字)、まだ服していないのか?」(犕の音は服。『説文』に言う。「犕牛は馬に乗せる。」「犕」は即ち古い「服」の字で、今も河朔の人々にはこの言葉があり、音は備。)
皇甫嵩は笑って謝ったので、董卓はようやく和解した。(『献帝春秋』に言う。「初め、董卓は前将軍、皇甫嵩は左将軍で、共に辺章・韓遂を征伐し、覇を競った。皇甫嵩が車の下で拝礼した時、董卓は言った。『服したか?』皇甫嵩は言った。『明公がここまでなさるとは思いもよりませんでした。』董卓は言った。『鴻鵠にはもとより遠大な志があるが、ただ燕雀は自らそれを知らないだけだ。』皇甫嵩は言った。『昔、明公と共に鴻鵠でありましたが、ただ明公は今日、鳳凰に変わられただけです。』」)
董卓が誅殺されると、皇甫嵩を征西将軍とし、さらに車騎将軍に昇進させた。その年の秋、太尉に任命され、冬、流星の兆しにより策書で免官された。(『続漢書』には、日が重なる暈があったため免官されたとある。)
再び光禄大夫に任命され、太常に昇進した。まもなく李傕が乱を起こすと、皇甫嵩もまた病死し、驃騎将軍の印綬を追贈され、家の者一人が郎に任命された。
皇甫嵩は人となり、慎重で勤勉を尽くし、前後して上表し、補益のあることを陳述・諫言したのは五百余りの事柄に及び、全て自ら書いて草稿を破棄し、外部に公表しなかった。また、身分を低くして士を敬い、門に客を滞留させなかった。(引き立てるのが速いことを言う。)
当時の人々は皆、彼を称賛して付き従った。
堅寿もまた名声を顕わし、後に侍中となったが、辞退して受けず、病死した。
朱儁
朱儁、字は公偉、会稽郡上虞県の人である。幼くして孤児となり、母はかつて絹織物の販売を生業としていた。朱儁は孝養によって名声を得、県の門下書佐となり、義を好み財を軽んじ、郷里の人々から敬われた。時、同郡の周規が公府に召し出され、出発しようとした時、郡の庫から百万銭を借りて、冠や幘の費用に充てたが、後に突然督促され、周規の家は貧しく準備するものがなかった。朱儁はひそかに母の絹織物を盗み、周規のために弁償した。(周規は取り調べられて供述を求められ、朱儁が金銭を準備してその事を解決した。)
母はすでに財産を失い、深く恨んで彼を責めた。朱儁は言った。「小さな損害は大きな利益となり、初めは貧しくても後には富む。これは必然の道理です。」
本県の長である山陽の
度尚は
彼を見て非凡な人物と認め、太守の韋毅に推薦し、次第に郡の官職を歴任させた。後に太守の尹端は朱儁を主簿に任命した。
熹平二年
、尹端は賊の許昭討伐に失敗した罪で、州から上奏され、棄市の刑に相当する罪となった。朱儁はやせ衰えた服装で密かに都へ行き、軽い絹織物数百金を持参して京師に至り、文書を担当する役人に賄賂を贈り、ついに州の上奏文を書き改めさせたため、尹端は左校での労役刑に減刑された。尹端は減刑されたことを喜んだが、その理由を知らず、朱儁も終始何も言わなかった。
後に太守の徐珪が朱儁を孝廉に推挙し、再び昇進して蘭陵県令に任命された。政治に優れた手腕を発揮し、東海国の相によって表彰された。ちょうど交趾部で多くの賊が一斉に蜂起し、州牧や太守は軟弱でこれを抑えられなかった。また交趾の賊である梁龍ら一万余人が、南海太守の孔芝と共に反乱を起こし、郡県を陥落させた。光和元年、朱儁はただちに交趾刺史に任命され、任地へ赴く途中で出身郡を通る際に、私兵を募集し、また徴発した兵を選抜するよう命じられた。〈家兵とは、僮僕の類である。調とは、調発(徴発)することである。〉
合わせて五千人を得て、二手に分かれて進軍した。州の境界に到着すると、甲冑を整えて進まず、まず使者を郡に派遣し、賊の実情を観察させ、威徳を宣揚して彼らの心を揺るがせた。その後、七郡の兵と共に進軍して賊を圧迫し、ついに梁龍を斬り、降伏する者は数万人に上り、一ヶ月足らずで全て平定した。功績により都亭侯に封じられ、千五百戸の封邑と黄金五十斤を賜り、諫議大夫に召し出された。
黄巾の乱が起こると、公卿の多くが朱儁に才略があると推薦し、右中郎将に任命され、節を持ち、左中郎将の皇甫嵩と共に潁川、汝南、陳国などの賊を討伐し、全て撃破平定した。皇甫嵩はその状況を上奏し、功績を朱儁に帰した。そこで西郷侯に進封され、鎮賊中郎将に転任した。
当時、南陽の黄巾賊張曼成が兵を起こし、「神上使」と称し、数万の兵を擁して郡守の褚貢を殺害し、宛城の近郊に百余日駐屯した。
後に太守の秦頡が張曼成を撃ち殺すと、賊はさらに趙弘を帥とし、勢力は次第に盛んとなり、ついに十余万に達し、宛城を占拠した。朱儁は荊州刺史の徐璆および秦頡と合流し、一万八千人で趙弘を包囲したが、六月から八月にかけても陥落させられなかった。役所が朱儁を召還しようと上奏した。司空の張温が上疏して言った。「昔、秦は白起を用い、燕は楽毅を任用したが、いずれも長い年月をかけて初めて敵を克服できた。〈《史記》によると、白起は郿の人で、兵を用いることに長け、秦の昭王に仕えて大良造となった。魏を攻めてこれを落とした。その五年後、趙を攻めて光狼城を落とした。その七年後、楚を攻めて鄢・鄧など五城を落とした。翌年、郢を落とし、夷陵を焼き払い、ついに東は竟陵にまで至った。楽毅は趙の人で、賢明で兵法を好み、燕の昭王は彼を亜卿とし、後に上将軍とした。斉を討伐して臨淄に入り、五年間斉を睨み、斉の七十余城を陥落させた。〉
朱儁は潁川を討伐し、功績があった。軍を率いて南へ向かい、方策は既に定まっている。戦陣の最中に将を替えることは、兵家の忌むところである。時日を与え、その成功を責めるべきである。」霊帝はこれでやめた。朱儁は急いで趙弘を攻撃し、これを斬った。賊の残党の帥である韓忠が再び宛城を占拠して朱儁に抵抗した。朱儁の兵は少なく敵わないので、包囲網を張り陣地を構築し、土山を築いて城内を見下ろし、太鼓を鳴らして西南を攻撃すると、賊は全軍をそこへ向かわせた。朱儁自ら精兵五千を率い、その東北を急襲し、城壁を乗り越えて城内に入った。韓忠は退いて小城に籠り、恐れ慄いて降伏を請うた。司馬の張超および徐璆、秦頡はいずれもこれを受け入れようとした。朱儁は言った。「戦いには形は同じでも情勢が異なる場合がある。昔、秦と項羽の時代には、民に定まった主がなかったので、味方に付く者を賞して来る者を勧めただけである。今は海内が統一され、ただ黄巾だけが賊を起こしている。降伏を受け入れても善を勧めることにはならず、討伐すれば悪を懲らしめるのに十分である。今もしこれを受け入れるならば、さらに逆意を生じさせ、賊は有利なら進んで戦い、不利なら降伏を請うことになる。敵を逃がし賊を長引かせるのは、良策ではない。」そこで急攻をかけ、連戦したが陥落させられなかった。
朱儁が土山に登って眺め、振り返って張超に言った。「分かった。賊は今、外からの包囲が堅固で、内部の陣営が逼迫している。降伏を請うても受け入れられず、出ようとしても出られないので、死に物狂いで戦っているのだ。万人が一心であってもなお防ぎ難いのに、まして十万ではどうだろう!その害は甚大である。包囲を解き、兵力を合わせて城内に入る方がよい。韓忠は包囲が解けたのを見れば、情勢上必ず自ら出てくるだろう。出てくれば戦意が散漫になり、撃破しやすい方法である。」やがて包囲を解くと、韓忠は果たして出撃してきた。朱儁はこれに攻撃を加え、大いにこれを破った。勝ちに乗じて敗走する敵を数十里追撃し、一万余りの首級を斬った。韓忠らはついに降伏した。しかし秦頡は韓忠に対する積年の恨みがあり、ついに彼を殺した。残党は不安を感じ、再び孫夏を帥とし、宛城中に戻って駐屯した。朱儁は急攻をかけた。孫夏は逃走し、西鄂県の精山まで追撃し、またこれを破った。〈西鄂の故城は現在の鄧州向城県の南にあり、精山はその南にある。〉
さらに一万余りの首級を斬り、賊はついに解散した。翌年の春、使者が節を持って派遣され、朱儁を右車騎将軍に任命し、軍を整えて京師に帰還させ、光禄大夫とし、封邑を五千戸増やし、改めて銭塘侯に封じた。〈銭塘は現在の杭州県である。《銭塘記》によると、「昔、郡の議曹である華信が義によってこの堤防を築き、海水を防いだ。初め募集をかけ、土石を一斛運べば銭一千を与えるとすると、十日ほどの間に、来る者が雲のように集まった。堤防が完成しないうちに華信は策略を用いて報酬を支払わなくなり、人々は皆土石を捨てて去ったので、堤防はそれで完成した。」〉
位を特進に加えられた。母の喪に服すため官を辞したが、喪が明けると再び将作大匠に起用され、少府、太僕と転任した。
黄巾賊の後、さらに黒山、黄龍、白波、左校、郭大賢、於氐根、青牛角、張白騎、劉石、左髭丈八、平漢、大計、司隸、掾哉〈《九州春秋》では「大計」を「大洪」とし、「掾哉」を「緣城」とする。〉
雷公、浮雲、飛燕、白雀、楊鳳、於毒、五鹿、李大目、白繞、畦固、苦唒といった者たちは、
谷間のあちこちから一斉に蜂起し、数え切れないほどであった。そのうち大声を出す者は雷公と称し、白馬に騎乗する者は張白騎と呼ばれ、身軽で敏捷な者は飛燕と言われ、ひげの多い者は於氐根と号し、
目が大きい者は大目と呼ばれた。このようなあだ名は、それぞれに由来があった。大規模な勢力は二、三万、小規模な勢力は六、七千人であった。
賊の頭目である常山郡の人張燕は、軽捷で勇猛、身のこなしが素早かったため、軍中で飛燕と号された。兵士たちの心をよく掴み、中山、常山、趙郡、上党、河内の各郡の谷間の賊寇と次々に連絡を取り合い、その勢力は
百
万に達し、黒山賊と号した。
黄河以北の諸郡県はことごとくその害を受け、朝廷は討伐することができなかった。張燕は使者を京師に派遣し、降伏を願い出る上書を奉った。そこで張燕は平難中郎将に任じられ、黄河以北の諸山谷の事務を統轄させられ、毎年孝廉や計吏を推挙する権限を得た。
張燕はその後次第に河内を侵し、京師に迫った。そこで朱儁を河内太守として出向させ、私兵を率いてこれを撃退した。その後、諸賊の多くは袁紹によって平定され、その事績は袁紹伝にある。朱儁は再び光禄大夫に任じられ、転じて屯騎校尉となり、まもなく城門校尉、河南尹となった。
当時、董卓が政権を専断しており、朱儁が古参の将軍であることから、表向きは非常に親しく受け入れていたが、内心は実は彼を忌み嫌っていた。関東の兵勢が盛んになると、董卓は恐れをなし、たびたび公卿を集めて会議を開き、都を長安に遷すことを提案したが、朱儁はその都度これを止めさせた。董卓は朱儁が自分と意見を異にするのを憎んだが、しかし彼の名声の重さを貪り、上表して太僕に昇進させ、自分の副官としようとした。使者が任命を伝えに来たが、朱儁は辞退して受けようとしなかった。そして言った。「国家が西遷すれば、必ずや天下の期待を裏切り、山東(函谷関以東)に争いの原因を作ることになります。臣にはそれが妥当だとは思えません。」使者が詰問した。「君を召して任命を授けようというのに君はそれを拒み、遷都の事については問われてもいないのに君はそれを述べる。その理由は何か。」朱儁は言った。「相国の副官となることは、臣の堪えうる所ではありません。遷都の計画は、急務とは思えません。堪えられないことを辞退し、急務でないことを述べるのが、臣の当然のすべきことです。」使者が言った。「遷都の件については、その計画を聞いたことはない。仮に未公開の計画があったとしても、君はどこからそれを承知したのか。」朱儁は言った。「相国董卓が詳しく臣に話しました。それで知ったのです。」
使者は朱儁を屈服させることができず、これにより副官とする件は取りやめになった。
董卓が後に関中に入ると、朱儁を留めて洛陽を守らせたが、朱儁は山東の諸将と内通して内応しようと謀った。やがて董卓に襲撃されることを恐れ、官を棄てて荊州に奔った。董卓は弘農郡の楊懿を河南尹とし、洛陽を守らせた。朱儁はこれを聞き、再び兵を進めて洛陽に戻り、楊懿は逃走した。朱儁は河南が荒廃して拠り所とするものが無いと見て、東へ進んで中牟に駐屯し、州郡に檄文を送って、董卓討伐の軍勢を請うた。徐州刺史陶謙が精兵三千を派遣し、他の州郡も少しずつ兵糧を供給した。陶謙は上奏して朱儁を行車騎将軍とした。董卓はこれを聞き、配下の将軍李傕、郭汜らに数万の兵を率いさせて河南に駐屯させ、朱儁を防がせた。朱儁は迎撃したが、李傕、郭汜に敗れた。朱儁は自分が敵わないと悟り、函谷関の手前に留まってこれ以上進もうとはしなかった。
董卓が誅殺され、李傕、郭汜が乱を起こした時、朱儁はまだ中牟にいた。陶謙は朱儁が名臣であり、数々の戦功があり、大事を委ねることができると考え、諸豪傑と共に朱儁を推戴して太師とし、そこで牧伯たちに檄文を飛ばして、共に李傕らを討伐し、天子を奉迎しようとした。そして朱儁に上申文を奉った。「徐州刺史陶謙、前揚州刺史周干、琅邪相陰德、東海相劉馗、
彭城相汲廉、北海相孔融、沛相袁忠、泰山太守応劭、汝南太守徐璆、前九江太守服虔、博士鄭玄ら、敢えて行車騎将軍河南尹の幕府に申し上げます。
国家は既に董卓の難に遭い、重ねて李傕、郭汜の禍いに見舞われ、幼い主上は脅迫されて拘束され、忠良の臣は傷つき疲弊し、長安は隔絶されて、吉凶を知ることができません。このため官に臨む者、民を治める者、紳士で識見ある者は、誰もが憂い恐れ、明哲で雄大な覇者でなければ、どうして禍乱を克服し救うことができようか、と考えております。起兵して以来、今や三年になりますが、州郡は互いに顔色を窺い合い、奮撃して功を立てる者はなく、互いに私的な争いをし、更に疑惑を深め合っています。謙らは共に相談を重ね、国難を消し去ることを議しました。皆が言うには、『将軍君侯は、文にも武にも優れ、時運に応じて現れられました。すべての君子たちが、仰ぎ慕わない者はいません。』そこで互いに励まし合い、精鋭で精悍な者を選び抜き、深く敵地に攻め入り、咸陽を直指することができ、多くの兵糧を携え、半年分を支えるに足ります。謹んで心腹を同じくし、元帥である貴方に委ねます。」ちょうどその時、李傕が太尉周忠、尚書賈詡の策を用い、朱儁を朝廷に召し入れることにした。軍吏たちは皆、関中に入ることを恐れ、陶謙らに応じようとした。朱儁は言った。「君主が臣を召せば、義として車を待たずに出向くものだ。
ましてや天子の詔勳ではないか。それに李傕、郭汜は小僧同然、樊稠は凡庸な小児に過ぎず、他に遠大な謀略はなく、また勢力も互角であるから、変事と困難は必ず起こる。私はその隙に乗じれば、大事を成し遂げることができる。」こうして陶謙らの提案を辞退し、李傕の招聘に応じ、再び太僕となった。陶謙らはこれにより兵を引いた。
初平四年、
周忠に代わって太尉となり、尚書事を録した。翌年の秋、日食のため免官され、再び驃騎将軍の職務を代行し、節を持って関東を鎮守することになった。出発しないうちに、李傕が樊稠を殺し、郭汜もまた自ら疑いを抱き、李傕と互いに攻撃し合い、長安の都中が混乱したため、朱儁は出発を止めて留まり、大司農に任命された。献帝は詔を下し、朱儁と太尉の楊彪ら十数人に郭汜を諭させ、李傕と和解させるよう命じた。
郭汜は承諾せず、朱儁らを人質として留め置いた。朱儁はもともと剛直な性格で、その日に発病して死去した。
子の朱皓もまた才能と品行を備え、官は豫章太守に至った。
史論
論じて言う。皇甫嵩と朱儁はともに上将の才略を持ち、危急の時に軍権を受けた。
そしてその功績が成り、軍が勝利すると、威勢と名声は天下に満ちた。弱い君主が難を蒙り、凶暴な賊が命令に背く時勢に遭遇した。これはまさに葉公が袖を振るって立ち上がるべき機会であり、翟義が軍勢を整えて出陣すべき日であった。
それゆえ梁衍が策略を献じ、山東で同盟が結ばれたにもかかわらず、天に届く大業を捨てて、匹夫の小さな信義に拘り、ついに狼狽して虎口に落ち、智者たちの笑いものとなった。
はたして天がこの乱を長引かせようとしたのか。どうして智勇が最後まで貫かれなかったことが、これほど甚だしいのか。前史である晋の平原の華嶠は、その父である光禄大夫の華表が、
常々その祖父である魏の太尉の華歆が、
「当時の人は皇甫嵩が功績を誇らないことを称え、汝南・豫州の戦いでは功績を朱儁に帰し、張角討伐の勝利は盧植に由来するとし、名声を収め功績を記録することを控え、自分自身のものとはしなかった。
およそ功名というものは、世間が非常に重んじるものである。誠に天下が非常に重んじるものを争わなければ、怨みや災いは深くならない」。皇甫公のように危険と混乱に赴きながら、最終的に身を全うして帰ることができたのは、その到達点もまた貴いものではなかったか。ゆえに顔回は功績を誇らないことを第一の願いとした。これもまた身を処する上での要諦であろう。
賛に曰く、黄巾の妖賊が勃発し、朱儁は奮って鉞を揮った。誰がこのように軍を奮い立たせ、功績に居着かず、誇らなかったであろうか。
朱儁は陳国・潁川で迅速に勝利し、また
越の地で
平定した。
詔命を厳粛に奉じ、共に艱難に遭遇した。