呉佑
呉佑は字を季英といい、陳留郡長垣県の人である。父の恢は南海太守であった。呉佑が十二歳の時、父に従って任地へ赴いた。恢は青竹簡を火で炙って経書を書写しようとしたが、呉佑が諫めて言った。「今、父上は五嶺を越え、遠く海辺の地におられます。その風俗は確かに粗野ですが、古くから珍奇な物が多く、上は国家に疑われ、下は権威ある外戚たちに目を付けられています。この書が完成すれば、それを運ぶのに車両を倍にしなければなりません。昔、馬援は薏苡のために誹謗を招き、王陽は衣嚢のために名声を求めました。嫌疑が生じる間柄は、誠に先賢が慎重にしたところです。」恢はやめて、彼の頭を撫でて言った。「呉氏の家系も季子(賢人)に事欠くことはない。」二十歳の時、父を亡くし、家には一石の蓄えもなかったが、贈り物や遺贈を受け取らなかった。常に長垣の沢で豚を飼いながら、経書を吟じ歩いた。父の旧友に出会い、「あなたは二千石の子でありながら、自ら賤しい仕事に従事している。たとえあなたが恥知らずでも、先君にどうして顔向けできようか」と言われた。呉佑は謝罪するだけで、志を守り初めのままだった。
注[一] 佑の音は「又」である。続漢書では「佑」と作る。 注[二] 「恢」はあるいは「惔」と作り、音は徒濫反。
注[三] 殺青とは、火で竹簡を炙って汗(水分)を出させ、その青みを取って書きやすくし、また虫がつかないようにすることをいう。これを殺青といい、また汗簡ともいう。意味は劉向の別録に見える。
注[四] 領とは、西は衡山の南から東は海に至るまで、一つの山の限界に過ぎないが、別に標して名付ければ五つある。裴氏の広州記に言う。「大庾、始安、臨賀、桂陽、揭陽、これが五領である。」鄧徳明の南康記に言う。「大庾、これが一。桂陽甲騎、これが二。九真都龐、これが三。臨賀萌渚、これが四。始安越城、これが五。」裴氏の説の方が詳しい。
注[五] その贈り物を望むことである。 注[六] 車には二輪があるので、「両」と称する。
注[七] 徼は求めることで、音は工堯反。前漢書に言う、王陽は車馬を好み、衣服は鮮明であったが、転任して移動する時、運ぶものは嚢橐(袋)を超えなかった。当時の人はその奢侈を怪しみ、その倹約に感服したので、俗に王陽が黄金を作ることができると伝えられた。
注[八] 季子とは季札を指す。 注[九] 続漢書に「四十余歳になって、ようやく郡吏となった」とある。
後に孝廉に推挙され、出発する時、郡中で餞別の宴が催された。呉佑は席を離れて小史の雍丘県人黄真と楽しく長い間語り、友となって別れた。功曹は呉佑が傲慢だとして、罷免を請うた。太守は言った。「呉季英には人を見抜く明がある。卿はしばらく言うな。」
黄真は後にも孝廉に挙げられ、新蔡県令に任じられ、世にその清廉な節操を称えられた。当時、公沙穆が太学に遊学に来ていたが、資金や食糧がなく、衣服を変えて雇われ人となり、呉佑のために米搗きをした。呉佑が彼と話して大いに驚き、杵と臼の間で共に交わりを結んだ。 注[一] 陳留耆旧伝に言う。「太守の冷宏が召し出して文学に補した。冷宏は彼を異才と見て、孝廉に推挙した。」
注[二] 祖道の礼は、土を盛って軷壇とする。五経要義に言う。「祖道とは、行く道の安全を祈る祭祀を行うことである。」周礼の太馭に「王の玉路を掌って祭祀を行い、及び軷を犯す」とある。注に言う。「軷を犯すとは、路傍に土を盛って山の形とし、菩と芻で神主を作り祭り、車で軷壇を轢いて去る。険難がないことを譬える。」
注[三] 謝承の書に言う。「黄真は字を夏甫という。」
呉佑は光禄四行によって膠東侯の相に昇進した。当時、済北の戴宏の父が県丞であり、戴宏は十六歳で、父の丞舎に従っていた。
呉佑が園を巡るたびに、常に経書を誦する声を聞き、奇異に思い厚遇し、また友となった。戴宏はついに儒学の大家となり、東方で名を知られ、官は酒泉太守に至った。呉佑の政治は仁愛と簡素のみで、自ら範を示して人々を導いた。民に争訟があると、すぐに門を閉めて自らを責め、それからその訴訟を裁断し、道理をもって諭した。ある時は自ら里を訪れ、重ねて和解させた。この後から、争いは減り、役人や民は懐いて欺くことがなかった。嗇夫の孫性が民から私的に銭を徴収し、衣服を買って父に進上した。父はそれを受け取って怒って言った。「このような立派な君がいるのに、どうして欺くことが忍びようか。」急いで帰って罪を認めよ。孫性は慚愧して恐れ、役所に行き衣服を持って自首した。呉佑は左右を退けてその理由を尋ねた。孫性は父の言葉を詳しく話した。
呉祐は言った。「掾は親族の縁故で、汚名を負うことになった。いわゆる『過ちを見ればその人を知る』というものだ。」彼を帰して父に謝らせ、衣を贈ってやった。また、安丘の男子毋丘長が母とともに市に行き、道で酔客が母を侮辱したので、長はその客を殺して逃亡した。安丘の役人が膠東で追跡して捕らえた。呉祐は長を呼んで言った。「子の母が辱めを受けるのは、人情として恥ずべきことだ。しかし孝子は怒っても必ず災難を考え、行動して親を累わさないものだ。今、もし汝が親を顧みず怒りを晴らし、白昼殺人を犯したなら、赦すのは義に反し、刑するのは忍びない。どうしたらよいか?」長は手枷を自らつけて言った。「国家が法を定め、囚人がそれを犯した。明府が哀れみを加えられても、恩は施しようがない。」
呉祐は長に妻子があるかと尋ねた。長は答えて言った。「妻はいますが、子はいません。」すぐに安丘に移文して長の妻を逮捕させ、妻が到着すると、彼女の手枷足枷を解き、獄中で同宿させた。妻はやがて妊娠した。冬の終わりに刑が執行されることになり、長は泣いて母に言った。「母に背いて死ぬべき身ですが、どうやって呉君に報いましょうか?」そこで指を噛み切って飲み込み、血を含んで言った。「妻がもし子を産んだら、名を『呉生』と付けよ。私が死に臨んで指を噛み切って誓い、子に呉君への報恩を託したと言え。」そして縄を投げて首を吊って死んだ。
注[二] 東夏とは東方のこと。尚書に「尹茲東夏」とある。
注[三] 済北先賢伝によると、「孫宏は字を元襄といい、剛県の人である。二十二歳の時、郡の督郵となり、かつて職務上のことで詰問され、府君が彼を鞭打とうとした。孫宏は言った。『今、弊郡は明府にお会いし、皆が仲尼のような君主だと思い、国は小さく人は少ないが、私を顔回と見なしています。仲尼が顔回を鞭打つ道理があると聞いたことがありますか?』府君はその答えを異とし、その日に主簿に任命した』という。
注[四] 続漢書によると、「賦銭五百を出して、父のために単衣を買った。」
注[五] 論語に載る孔子の言葉である。
注[六] 論語で孔子が言う。「怒る時は災難を考えよ。」また言う。「一朝の怒りで、その身を忘れ、その親にまで及ぶのは、惑いではないか?」
注[七] 若は汝(お前)のこと。逞は快こと。注[八] 手にはめるものを械という。
注[九] 縄で輪を作り、それを投げて首を吊ったことをいう。繯の音は胡犬反。
呉祐は膠東に九年間在任し、斉の相に転任し、大将軍梁冀が彼を長史に推薦した。梁冀が太尉李固を誣告して上奏した時、呉祐はそれを聞いて面会を求め、梁冀と争ったが、聞き入れられなかった。その時、扶風の馬融が同席しており、梁冀のための上奏文の草稿を書いていた。呉祐は馬融に言った。「李公の罪は、卿の手によって成った。李公が誅殺されたら、卿はどんな顔をして天下の人に会うつもりか?」梁冀は怒って立ち上がり室内に入り、呉祐もまっすぐに去った。梁冀は呉祐を河間の相に左遷することで道を開き、呉祐はそれにより自ら免職を願い出て家に帰り、再び仕官せず、自ら園の野菜に水をやり、経書を教授した。九十八歳で没した。
長子の呉鳳は官が楽浪太守に至り、少子の呉愷は新息県令となった。呉鳳の子の呉馮は鮦陽侯の相となり、皆、世に名を知られた。
注[二] 陳留耆舊伝によると、「呉鳳は字を君雅といい、呉馮は字を子高という。」
延篤
延篤は字を叔堅といい、南陽郡犨県の人である。若い頃、潁川の唐溪典に師事して左氏伝を受け、十日で暗誦できるようになり、唐溪典は深く敬服した。また馬融に師事して学業を受け、経書・伝注および百家の言説に広く通じ、文章を著すことができ、京師で有名であった。
注[二] 先賢行状によると、「唐溪典は字を季度といい、西鄂県令となった。」風俗通によると、「呉の夫□王が楚に逃れ、堂渓に封ぜられ、それによって氏とした。」唐溪典は五官中郎将となった。「唐」と「堂」は同じである。
注[三]『先賢行状』に言う。「延篤は左氏伝を書き写したいと思ったが、紙がなかった。唐溪典が廃棄された箋記の紙を彼に与えた。延篤は箋記の紙では伝を書くのに適さないと考え、原本を借りて暗誦し、完全に覚えてから辞去した。典が『あなたは伝を書き写したいと言っていたのに、どうして帰るのか?』と尋ねると、篤は『もう暗誦してしまいました』と答えた。典はこれを聞いて嘆息し、『ああ、延生よ!たとえ端木賜(子貢)が一を聞いて二を知るといえども、比喩とするに足りない。もし尼父(孔子)が洙水と泗水のほとりで再び立ち上がられたなら、あなたは七十弟子の名簿に加えられ、子游や子夏と肩を並べるだろう』と言った。」孝廉に推挙され、平陽侯の相となった。任地に着くと、龔遂の墓を表彰し、銘を立てて祠を祭り、その子孫を田畑の間から抜擢して用いた。[一] 師の喪に服すため官を辞して駆けつけ、五府がこぞって招聘したが就任しなかった。 注[一]前漢書によれば、龔遂は山陽郡南平陽県の人で、勃海太守となった。南平陽の故城は*[現在]*の兗州鄒県にある。
桓帝は博士として招聘し、議郎に任じ、朱穆、辺韶と共に東観で著作に従事させた。やがて侍中に昇進した。帝がたびたび政事について問うと、延篤は巧みな言葉で密かに答え、[一]その行動は常に典籍の義に依拠した。左馮翊に転任し、さらに京兆尹に移った。その政治は寛仁を用い、民衆を憂い慈しみ、年長者を抜擢して政事に参与させたため、郡中は喜び愛し、三輔の人々は賞賛した。以前、陳留の辺鳳が京兆尹となり、やはり有能な名声があった。郡人は彼らのために言葉を作った。「前には趙・張・三王あり、[二]後には辺・延の二君あり。」 注[一]谷梁伝に言う。「故に士は君に謁して言い、詭辞(巧みな言葉)で退出する。」范寧の注に云う。「辟は君なり。詭辞で退出するとは、実情を告げないことなり。」
注[二]前漢書によれば、趙広漢、張敞、王遵、王章、王駿はいずれも京兆尹となった。
時に皇子が病気になり、郡県に命じて珍しい薬を献上させた。すると大将軍梁冀が使者を送り、手紙を持たせて京兆尹の下を訪れ、同時に牛黄を売りつけようとした。[一] 延篤は手紙を開封して使者を逮捕し、「大将軍は皇后の外戚であり、皇子が病気ならば、必ず医方(薬の処方)を進言すべきである。どうして使者を千里の遠方にやって利益を求めることがあろうか」と言い、遂に彼を殺した。梁冀は恥じ入って何も言えず、役人はその意を受けて事件を追求しようとした。延篤は病気を理由に免官されて帰郷し、家の路地で教授した。 注[一]呉普の『本草』に言う。「牛黄は味苦く、毒なし。牛が出入りして呻くものにこれあり。夜に光ありて角の中を走る。牛死すれば、胆の中に入り、鶏卵の黄の如し。」神農『本草』に言う。「驚き癇を療し、邪を除き鬼を逐う。」
当時、人々の中には仁と孝のどちらが先でどちらが後かについて疑義を持つ者もいた。延篤はそこでこれを論じて言った。「仁と孝の弁論を見ると、[一]様々に異端が入り乱れ、互いに典拠となる文章を引き合い、代わる代わる事例を取って根拠としている。[二]まさに篤(厚い)論と言えよう。[三]そもそも仁と孝という二つの帰結は同じ源から出て、百の行いを総率するものである。[四]もはや銖や両で軽重を量り、前後の数を定めるようなものではない。しかし、もしその大略を分けようとするならば、[五]その本質を捉えて名付けると、孝は親に仕えることにあり、仁は万物に施すことにある。万物に施せばその功績は時代を救い、親に仕えればその徳は自分に帰する。自分に帰するものは事が少なく、時代を救うものは功が多い。この理を推して言えば、仁の方が遠大である。しかし、物には微細なところから顕著になるものがあり、事には隠れたところから明らかになるものがある。身近なものを自分自身に取ってみれば、耳には聞き受け入れる働きがあり、目には見て察知する明らかさがあり、足には遠くまで行く労があり、手には身を飾り守る功がある。その功は外に顕著であっても、それを根本づけるのは心である。
遠く物を取ってみれば、草木の生長は、芽生えから始まり、やがて広く蔓り、枝葉は茂り、花は華やかに咲き乱れる。[六]末節は繁茂していても、それを成り立たせるのは根である。仁人に孝があるのは、ちょうど四肢に心腹があるようなものであり、[七]枝葉に根本の根があるようなものである。
聖人はこれを知っている。故に言う。
『孝とは、天の経(常道)であり、地の義(道理)であり、人の行いである。』[八]『君子は本に務める。本が立てば道が生じる。孝悌というものは、それこそが仁の根本であろう!』[九]しかし、その本質は大きくて完全に備えることは難しく、物の性質は偏りがちである。故に施すところが異なり、両方を兼ね備えることは稀である。もしどうしてもその優劣を対比しなければならないならば、仁は枝葉が茂ることを大とし、孝は心身の根本を先とする、と言って争う必要はない。あるいは、孝を先にして仁を後にするのは、仲尼が顔回と曾参を序列づけた意に合わないと言う者もいる。[一0]おそらく仁と孝は同じ本質から生まれ、純粋にその本質を体現する者は、互いに称え合うものであり、虞舜や顔回がそうである。[一一]もし偏って体現するならば、それぞれに名目があり、公劉や曾参がそうである。[一二]曾子や閔子騫は孝悌を最高の徳とし、[一三]管仲は諸侯を九度会合させたことを仁の功績とした。[一四] 徳を論じて顔回や曾参を先にしない者はおらず、功績を考査して管夷吾を大としない者はいない。このことから言えば、それぞれがその称えられるべきところに従っているのである。」
注[一]辯は争い。 注[二]代は更えること。 注[三]篤は厚いこと。
注[四]二致とは仁と孝。易の繋辞に「道は異なるが同じところに帰し、考えは百あっても一致する」とある。
注[五]較は略の意。
注[六]説文に言う。「縟は繁く彩り飾ること。」
注[七]四体とは手足のこと。
注[八]左氏伝に、趙簡子が子太叔に「礼とは何か」と問うた。太叔が答えて言う。「先大夫の子産から聞きました。『礼とは、天の経(常道)であり、地の義(道理)であり、人の行いである。天地の常道を、人はこれに則る。すなわち天の明るさに則り、地の性質に因る』と。」孔子がこれを取って孝経の言葉とした。
注[九]論語に載っている有若の言葉。
注[一〇]『論語』で孔子が言う、「曾参は魯鈍であり、顔回はその善道に近いか?」とは、善道に近いことを言うのである。魯とは鈍いことである。もし孝を先にして仁を後にするならば、曾参は顔回に及ばないことにならない、という意味である。
注[一一]虞舜と顔回は純粋な徳をすでに備えており、あるいは仁、あるいは孝と称されるが、ただその称される所に従っているだけである。
注[一二]『史記』によれば、公劉は後稷の曾孫である。後稷の業績を修復し、耕作に努め、土地に適したことを行い、百姓は彼を慕い、多く従って帰って保った。ゆえに公劉は仁をもって徳を記され、曾参は至孝をもって賢と称される。これはそれぞれが目指すところであり、その美を総合して兼ねることはできないのである。
注[一三]曾参と閔損のことである。
注[一四]『論語』で孔子が言う、「桓公は九たび諸侯を会合させたが、兵車を用いなかった。管仲の力によるものである。これが彼の仁である、これが彼の仁である。」九合とは、鄄で再び会合し、幽で二度会合し、さらに檉、首止、戴寧、母洮、葵丘で会合したことを言う。
以前の越巂太守の李文徳はもともと延篤と親しく、当時京師におり、公卿に言った、「延叔堅(延篤)には王を補佐する才能がある。どうして千里の足を屈させているのか?」と。彼を引き立てようとした。延篤はこれを聞き、手紙を書いて文徳を止めさせた。「道が廃れようとするのは、いわゆる命である。[一] うわさでは、私のために東観に戻るよう求めようとしているそうだが、その厚意は篤いものの、敢えて受け入れることはできない。私はかつて夜明け前に髪を梳き、客堂に座っていた。[二] 朝には伏羲・文王の易、虞・夏の書を誦し、周公旦の典礼を歴覧し、仲尼の春秋を覧た。[三] 夕方には内階を逍遥し、南軒で詩を詠んだ。[四] 百家の諸子の書は、暇を見つけては手に取った。[五] 豊かに耳に満ちる音声、[六] 鮮やかに目に溢れる文彩、[七] 多く楽しく、私は独り楽しんだ。この時、天が蓋であることも、地が車であることも知らず、[八] 世の中に人がいることも、自分に体があることも知らなかった。たとえ漸離が筑を撃ち、傍若無人であっても、[九] 高鳳が読書し、暴雨を知らなくても、[一〇] 私と比べれば、まだ比べるに足りない。かつて私は自らを修めて以来、[一一] 人臣として不忠に陥らず、人子として不孝に陥らず、上に交わるには諂わず、下に交わるには軽んじず、[一二] このまま死んで、地下で先君や遠祖に会っても、恥じることはない。[一三] このようにして善をもって止めないのは、羿に射を教えるようなものになることを恐れるからである。[一四] 慎んでその本を迷わず、その生を損なわないように。」 注[一]『論語』で孔子が言う、「道が行われようとするのは、命である。道が廃れようとするのは、命である。」
注[二]孔安國が『尚書』に注して言う、「昧は暗いこと。爽は明るいこと。」
注[三]周公が七年間摂政し、礼楽を制定した。班固の『東都賦』に「今の論者はただ虞・夏の書を誦し、殷・周の詩を詠み、羲・文の易を講じ、孔氏の春秋を論ずるのみ」とある。
注[四]『楚辞』に「高い堂、深い屋、彫刻された欄干、重なった軒」とある。王逸が注して言う、「軒は楼の板である。」
注[五]経典を誦する余暇に、隙間の時間を利用して諸子百家の書を玩ぶことを言う。
注[六]洋洋は美しいこと。『論語』に「洋洋として耳に満つ」とある。
注[七]渙爛は文章の鮮やかな様子である。
注[八]宋玉の『大言賦』に「地を方として車とし、天を円として蓋とす」とある。
注[九]『説文』に「筑は五弦の楽器である」とある。沈約の『宋書』に「筑は誰が造ったか知らない。『史記』にはただ高漸離が筑を撃ったとあるのみ」とある。案ずるに、今の筑は筝に似ており、項と柱がある。『史記』によれば、荊軻が燕に至り、毎日屠狗者や高漸離と筑を撃ち、荊軻が和して市中で歌い、共に楽しみ、やがて共に泣き、傍若無人であった。
注[一〇]事柄は『逸人伝』に詳しい。
注[一一]束修とは、帯を締めて身なりを整えることをいう。鄭玄の論語注に「十五歳以上をいう」とある。
注[一二]易経の繋辞伝の文である。
注[一三]顔色を恥じて赤らむことを赧という。音は女板反。
注[一四]史記に、養由基という者がおり、弓の名手であった。柳の葉から百歩離れてこれを射ると、百発百中した。
左右の見物人数千人、皆が「上手な射手だ」と言った。一人の者がその傍らに立って言った。「上手だ。射方を教えよう。」養由基は怒り、弓を置き手を握りしめて言った。「客はどうして私に射方を教えられようか。」客は言った。「私があなたに左手を伸ばし右手を曲げる術を教えられるわけではない。柳の葉から百歩離れてこれを射て、百発百中するが、上手な時に休まないと、しばらくして気力が衰え力が尽き、弓が外れ矢が曲がり、一発でも外せば百発の名声も尽きる。」ここで羿と言うのは、ともに弓の名手として称えているのであろう。
注[二]屈原は楚の大夫で、忠貞を抱いて死んだ。篤は志操と行いに優れ文才があったので、その像を描いて並べたのである。
篤は経伝を論じ解釈し、多くを駁正した。後世の儒者服虔らはこれを折衷と見なした。著した詩、論、銘、書、応訊、表、教令、[一]合わせて二十篇あるという。 注[一]訊とは問うこと。おそらく客難に答える類いであろう。
史弼
史弼、字は公謙、陳留郡考城県の人である。父の敞は、順帝の時に弁舌巧みで尚書、郡守にまで至った。[一]弼は若くして学問に篤実で、数百人の門徒を集めた。州郡に仕え、[二]公府に辟召され、北軍中候に遷った。 注[一]続漢書に「敞は京兆尹となり、教化に能名があり、特に条教を善くし、三輔で称えられた」とある。
注[二]謝承の後漢書に「弼は二十歳で郡の功曹となり、前任の太守宋欣の汚濁した政治の後を受けて、諸生や収奪を行った奸吏百余人をことごとく条挙し、皆太守に報告し、多くを県に送り返した。高い名声はこれによって起こった」とある。
この時、桓帝の弟の渤海王劉悝は平素から行いが邪悪で、分を越えて傲慢で不法なことが多かった。弼はその驕り高ぶって乱を起こすことを恐れ、封事を上奏して言った。「臣は聞きます。帝王が親戚に対しても、愛は厚くとも、必ず威を示すべきであり、身分は貴くとも、必ず法度で禁じるべきです。このようにしてこそ、和睦の道が興り、骨肉の恩情が全うされます。昔、周の襄王が甘昭公を恣にさせ、[一]孝景皇帝が梁孝王を驕らせたが、[二]二人の弟は寵愛を頼みに、ついに傲慢になり、ついには周には播蕩の禍が起こり、漢には爰盎の変がありました。窃かに聞くところでは、渤海王劉悝は、至親の身分を頼み、偏った私的な愛を恃み、主上に仕える節度を失い、分を越えた傲慢な心を持ち、外では軽薄で不満を持つ者どもを集め、[三]内では酒色にふけり楽しみ、出入りは常軌を逸し、共に交わる者は皆、口先だけで実行のない者ばかり、[四]あるいは家の放蕩息子、あるいは朝廷から追放された臣下であり、必ずや羊勝や伍被のような変事が起こるでしょう。[五]州の役人は弾劾糾挙できず、傅や相は匡正補佐できません。陛下は兄弟愛が厚く、これを断ち切るに忍びません。[六]恐らくはついに蔓延し、害はますます大きくなるでしょう。[七]どうか臣の上奏を公表し、百官に示し、臣が清らかな朝廷でその過失を明言できるようにし、その後で公卿に詔してその法を公平に処断させてください。法が決まり罪が定まってから、陛下が忍びないという詔を下されます。臣下が固く執り行うよう主張し、その後で少しだけ許しを与えられます。このようにすれば、聖なる朝廷には親族を傷つけるという非難はなく、渤海には国を享受する慶びがあります。そうでなければ、大獄が起こり、使者が道に相望むことになるのを恐れます。臣の職務は禁兵を管轄し、非常事態に備え防ぐことですが、妄りに藩国に関知し、至戚を犯すこと、罪は誅殺に値します。憤懣に耐えかね、謹んで死を冒して申し上げます。」帝は至親であるため、その事を下して裁くに忍びなかった。後に劉悝はついに謀反の罪に連座し、癭陶王に貶められた。 注[一]甘昭公は王子帯、周の襄王の弟で、甘に食邑され、謚は昭。左伝によると、初め甘昭公は恵后に寵愛され、后は彼を立てようとしたが、果たさずに死去した。昭公は斉に奔った。王が彼を復帰させると、ついに狄の軍を率いて王を攻め、王は鄭に出奔した。
注[二]梁孝王は景帝の弟、竇太后の末子で、愛され、天子の旌旗を賜り、出入りには警蹕が行われた。景帝はかつて太后の前で王と宴し、「千秋万歳の後は王に伝えよう」と言った。爰盎が諫めて許さず、ついに人をやって爰盎を刺殺させた。
注[三]剽とは悍いこと。逞とは快いこと。侵害され冤罪を被って快く思わない人をいう。左伝に「不逞の徒を率いる」とある。剽の音は疋妙反。
注[四]虚言はあっても実行がないこと。
注[五]前漢書に羊勝が梁王に漢の後継者を求めるよう勧め、伍被が淮南王に謀反を勧めて誅殺されたとある。
注[六]友は親しむこと。尚書に「惟れ孝は兄弟に友にす」とある。
注[七]滋は伸びる、蔓は広がる。左氏伝に「滋蔓せしむることなかれ、蔓なれば図り難し」とある。
史弼は尚書に昇進し、出向して平原国の相となった。当時、詔書が下って鉤党(互いに結びついた党人)を挙げるよう命じられ、郡や国が上奏した連座の者は数百に及んだが、史弼だけは一人も挙げなかった。詔書が前後して州郡を厳しく督促し、掾史を髡刑や笞刑に処した。従事史が駅舎に座って史弼を責めて言った。「詔書は党人を憎悪し、その趣旨は切実である。青州六郡のうち、五郡に党人がいる。近隣の甘陵国でも、南北部を調査している。平原国だけがどうして無いと言えるのか」。史弼は言った。「先王は天下を区画し、境界を分けて治めた。水土の気候は異なり、風俗も同じではない。他の郡にはあるが、平原には無い。どうして比べられようか。もし上司の意向に迎合し、善良な者を誣告して陥れ、むやみに刑罰を加え、道理に合わないことをほしいままにするなら、平原の人々は戸ごとに党人となり得よう。相たる私は死ぬまでそうはしない。できないことだ」。従事史は大いに怒り、すぐに郡の役人を収監して獄に送り、途中で史弼を弾劾して上奏した。ちょうど党禁が緩和され、史弼は俸禄で罪を贖って免罪となり、救われた者は千余人に及んだ。注[一]鉤は互いに連なることをいう。
注[二]切は急ぐこと。□は退けること。
注[三]続漢書の志によると、各州には皆従事史と諸曹の掾史がいた。伝は客舎で、音は知戀の反切。駅舎に座って史弼を召し出して責めた。
注[四]済南、楽安、斉国、東萊、平原、北海の六郡は、青州の管轄である。青州は斉国の臨淄にあり、漢官儀に見える。
注[五]桓帝が蠡吾侯であった時、甘陵の周福に学び、帝が即位すると周福を尚書に抜擢した。当時、同郡の河南尹房植が朝廷で名を知られており、両家の賓客が互いに讒言し合い、遂にそれぞれ徒党を組んで、次第に深刻な対立となり、これによって甘陵に南北部ができた。党人篇の序に見える。
注[六]疆は境界。理は正すこと。左伝に「先王は天下を区画し、土地の特性に応じてその利益を布いた」とある。
注[七]前漢書に「人は皆五常の性を備えているが、その剛柔緩急、音声は同じではない。これは水土の風気によるもので、これを風という。好悪取捨、動静は一定せず、君主の情欲に従うので、これを俗という」とある。
注[八]*(奉)**[俸]*の音は扶用の反切。
史弼は政務において特に豪族を抑圧し、庶民が罪を犯しても多くは寛大に扱った。河東太守に転任し、詔書によって孝廉を推挙することになった。史弼は権力者からの依頼が多いと知り、あらかじめ書簡による請託を断ち切った。中常侍の侯覧が果たして諸生に書簡を持たせて依頼し、併せて塩税の貸与を求めたが、数日経っても取り次がれなかった。諸生は別件で史弼に面会し、その機に乗じて侯覧の書簡を渡した。史弼は大いに怒って言った。「太守は重任を担い、士を選んで国に報いるべきである。お前は何者で、偽り欺くことこのような無体なことをするのか」。左右の者に命じて引き出させ、数百回も鞭打った。府丞や掾史十数人も廷で諫めたが、史弼は答えなかった。遂に安邑の獄に引き渡し、その日に拷問して殺した。侯覧は大いに恨み、偽りの弾劾文を作って司隸校尉に下し、史弼を誹謗の罪で誣告し、檻車で召還させた。役人や民衆で近づく者はいなかったが、かつての孝廉である裴瑜だけが崤山と澠水の間まで見送り、道端で大声で言った。「明府は暴虐な臣を挫き、徳のある者を選んで国に報いようとされた。もし罪を得られても、竹帛に名を残すに足ります。どうか憂えず恐れませんように」。史弼は言った。「『誰か荼は苦しと言う、その甘きこと薺の如し』。昔の人は首を刎ねられても、九死しても悔いはない」。廷尉の詔獄に下されると、平原の役人や民衆は奔走して宮門に赴き、彼の無実を訴えた。また、かつての孝廉である魏劭は姿形を変え、家の奴隷に扮して、史弼を見守り保護した。史弼は遂に誣告されたまま、罪は市で斬首に値した。魏劭は郡の人々と共に郡の邸宅を売り、侯覧に賄賂を贈り、死刑一等を減じられ、左校に送られて労役に服することになった。当時の人々はある者は「平原の人々が賄賂を使って君を救ったとは、愚かではないか」と非難した。陶丘洪が言った。
「昔、文王が牖裡に囚われた時、閎夭と散宜生が金を持って救った。史弼が災難に遭い、義士が宝を捧げた。何の疑いがあろうか」。これによって議論する者はやんだ。刑期を終えて郷里に帰り、病気と称して門を閉ざし出なかった。数度にわたり公卿に推薦され、議郎の何休もまた史弼に国を治める器量があると上奏し、台閣の宰相に登用すべきだとし、議郎に任命された。侯覧らはこれを憎んだ。光和年間、出向して彭城国の相となり、病気で死去した。裴瑜は尚書の位に至った。注[一]屬の音は之欲の反切。
注[二]詩の□風にある。荼は苦い菜。
注[三]刎は切ること。楚詞に「九死すとも猶未だ悔いず」とある。
注[四]郡邸とは、今の寺邸のようなものである。
注[五]青州先賢伝によると、「洪は字を子林といい、平原の人である。清達で博弁、文は当代に冠たるものだった。孝廉に挙げられたが行かず、太尉府に辟召された。三十歳で没した」という。
注[六]牖裡は、殷の獄の名である。あるいは「羑」と作り、羑城ともいい、現在の相州湯陰県の北にある。帝王紀に「散宜生、南宮括、閎夭が呂尚に学んだ。尚は三人の賢を知り、朋友の交わりを結んだ。紂が文王を囚えた時、乃ち黄金千鎰を宜生に与え、諸々の物を求めて紂に与えさせた」とある。史記に「閎夭の徒は乃ち有莘の美女、驪戎の文馬、有熊の九駟、その他の奇怪な物を求め、殷の孽臣費仲を通じて紂に献上した。紂は大いに喜び、乃ち赦した」とある。
注[七]先賢行状に「瑜は字を雉璜という。聰明敏達、物を見て滞ることがない。清論が加われば、必ず成器となる。丑議が指すところは、没歯しても怨みがない」とある。
論じて言う。剛烈は性を表し、優しく寛容であることは稀である。仁柔は情を用い、貞直を欠くことが多い。呉季英は人を見て傷つけることを畏れ、発言は烝烝として、儒者のようである。しかし憤りを懐き激揚し、権枉を折譲する、何と壮なることか!仁をもって郷物に接し、義をもって身を退く、君子である。語に曰く、「千人を生かす者の子孫は必ず封ぜられる」と。史弼は厳吏と頡頏し、終に平原の党を全うしたが、その後は大きくならなかった。これもまた論ずるには及ばない。
注[二]法言に「君子は仁においては柔、義においては剛である」とある。
注[三]前書に王翁孺が「千人を生かす者には子孫に封があると聞く。私が生かした者は千人、後世は栄えるだろうか」と言ったとある。
注[四]頡頏とは、上下するような様子である。
注[五]「不大」とは、子孫が衰え替わることである。左伝に晋の卜偃が「畢萬の後は必ず大きくなる」と言った。
盧植
盧植は字を子幹といい、涿郡涿の人である。身長は八尺二寸、音声は鐘のようであった。若い頃に鄭玄と共に馬融に師事し、古今の学に通じ、精研を好み章句に固執しなかった。融は外戚の豪家で、多くの女倡の歌舞を前に並べた。植は積年にわたり侍講したが、一度も目をそらさず、融はこれをもって彼を敬った。学を終えて辞して帰り、門を閉じて教授した。性は剛毅で大節があり、常に世を救う志を懐き、辞賦を好まず、一石の酒を飲むことができた。
当時、皇后の父である大将軍竇武が霊帝を援立し、初めて機政を執り、朝議は封爵を加えようとしていた。植は布衣であったが、武が平素から名誉があることを以て、乃ち書を献じてこれを戒めて言った。「植は聞く、嫠には緯を恤れぬことがあり、漆室には楹に倚る憂いがあると。憂いは深く思いは遠く、これが君子の情である。士は争友を立て、義は切磋を貴ぶ。書経には『謀は庶人に及ぶ』と陳べ、詩経には『芻蕘に詢う』と詠う。植は先王の書を誦すること久しい、敢えてその瞽言を惜しもうか!今、足下が漢朝において果たす役割は、周室における旦や奭のようであり、聖主を建立し、四海に系るものがある。論者は吾子の功が、これにおいて最も重いとする。天下は目を凝らして見、耳をそろえて聞き、前事に準えて、景風の福が来ると言う。春秋の義を尋ねれば、王后に嗣子がなければ、親長を選んで立て、年が等しければ徳によって、徳が等しければ卜筮によって決する。今、同宗が相後することは、図や案牒を披き、順次に建てるだけで、何の勲があろうか。どうして横に天功を叨って己の力とすることができようか!大賞を辞し、身と名を全うすべきである。また、近ごろ世の福祚が競わず、なお外に嗣を求めるのは、危ういと言える。四方は未だ寧かならず、盗賊が隙を窺い、恒岳や勃碣には特に奸盗が多く、楚人が比を脅かし、尹氏が朝を立てるような変事が起こるであろう。古礼に依り、諸子の官を置き、王侯の愛子や宗室の賢才を徴し、外には訓導の義を崇め、内には貪利の心を息ませ、その良能を簡び、用に随って爵し、幹を強くし枝を弱くする道を取るべきである」。武はこれを用いなかった。州郡から数度命じられたが、植は皆就かなかった。建寧年間、博士に徴され、乃ち初めて起った。熹平四年、九江の蛮が反乱し、四府は植が文武を兼ねる才能があると選び、九江太守に拝し、蛮寇は賓服した。病気のため官を去った。
注[一]左伝に、范献子が「人にも言うことがある、嫠はその緯を恤れずして宗周の隕ることを憂う、これが将に及ぼうとするからだ」と言ったとある。杜預の注に「嫠は寡婦である。織る者は常に緯が少ないことを苦しむが、寡婦の憂うべきことである」とある。
注[二]琴操に「魯の漆室の女が柱に倚って悲吟し嘯いた。隣人がその心の楽しからぬのを見て、進んで問うて言った。『淫心があって嫁ぎたいと思うのか、どうして吟ずることが悲しいのか』。漆室の女は言った。『ああ、ああ、あなたは志がなく、人を知ることが甚だ浅い。昔、楚人がその君に罪を得て、我が東家に逃げてきた。馬が逸れて我が園の葵を踏み、我をして終年菜を食べさせなかった。我が西の隣人が羊を失って還らず、我が兄に追わせたところ、霧が濁り水が出て、我が兄を溺死させ、終身兄を失った。これらは政の致すところである。我は国を憂い人を傷み、心悲しんで嘯いたのであって、どうして嫁ぎたいと思うことがあろうか』。自ら傷み懐を結んで人の疑いを受けることを、ここにおいて裳を褰げて山林の中に入り、女貞の木を見て、喟然として歎息し、琴を援りて弦歌し女貞の辞を以てし、自ら経って死んだ」とある。
注[三]憂いは深く思いは遠く、君子の情である。
注[三]『詩経』の序文に、「憂い深く思慮遠く、倹約して礼を用いる、これこそ堯の遺風がある」とある。
注[四]『孝経』に「士に諍友あれば、身は不義に陥らぬ」とある。『詩経』に「切るが如く磋くが如し」とある。鄭玄の注に「骨を切るといい、象牙を磋くという。友が互いに規誡する様は、骨や象牙が切磋されるようなものだ」とある。
注[五]『尚書』洪範篇に「卿士に謀り、庶人に謀る」とある。
注[六]『詩経』大雅に「先人の言有り、芻蕘に詢う」とある。毛萇の注に「芻蕘は薪を採る者なり」とある。
注[七]目が見えない者を瞽という。□の音は直忍反。
注[八]前漢書に賈山が「天下をして目を戴きて視せしめ、耳を傾けて聴かしむ」と言ったとある。
注[九]景風については、和帝紀の解釈を見よ。
注[一〇]左伝に王子朝が言う、「先王の命は、王后に嫡子がなければ、長を選んで立てる。年齢が同じなら徳で決め、徳が同じなら占いで決める。これが古の制度である」と。
注[一一]叨は貪る意。左伝に「天の功を貪り、以て己が力と為す」とある。
注[一二]競は強い意。
注[一三]勃は勃海。碣は碣石山。
注[一四]左伝によれば、楚の公子比は恭王の子である。霊王が立つと、子比は晋に奔った。霊王が没すると、子比は晋から楚に帰り、君に立てられた。子比の弟の公子□疾がその位を簒奪しようとし、夜に人を走らせて周囲で叫ばせた、「王が来られたぞ」。国人は大いに驚き、子比は自殺した。王子朝は周の景王の庶子である。景王が没すると、子猛が立った。尹氏は周の卿士で、子朝を立てて猛の位を奪った。
注[一五]樹木に喩えている。京師を幹とし、四方を枝とする。前漢書に「漢が興り、長安に都を立て、斉の諸田、楚の昭・屈・景の氏および諸功臣の家を長陵に移した。これは強幹弱枝のためであり、ただ山陵を奉るためだけではない」とある。
『尚書章句』と『三礼解詁』を作った。当時、太学に石経が初めて立てられ、五経の文字を正そうとしていた。盧植は上書して言った、「臣は若い頃、通儒であった故南郡太守馬融に古学を学び、今の『礼記』には特に迂曲が多いことを知りました。臣は以前、『周礼』などの経書について、誤謬を指摘し、愚かな浅学を顧みず、その解詁を作りましたが、家が貧しく、書き写して献上する力がありません。どうか書生二人を連れて、共に東観に赴き、官の財糧を用い、専心研究に励み、『尚書』の章句をまとめ、『礼記』の得失を考証し、聖典を裁定し、碑文を刊正したいと存じます。古文科斗の文字は、実態に近いものですが、流俗に抑圧され、小学に降格しています。中興以来、通儒達士の班固、賈逵、鄭興父子はいずれもこれを尊び好みました。今、『毛詩』、『左氏伝』、『周礼』にはそれぞれ伝記があり、これらは『春秋』と互いに表裏を成しています。博士を置き、学官を立て、後進を助け、聖意を広めるべきです」。
注[二]回□は迂曲と同じ意味。
注[三]□は、粟が実らないこと。義に背いたことを諭している。
注[四]繕とは、善くすること。家が貧しくて善く書き写して献上することができないと言っている。
注[五]古文とは孔子の壁中書のこと。形が科斗に似ているため、この名がついた。前書(漢書)では文字を「小学」と呼んでいる。
注[六]興の子の觿は、独自に伝がある。左伝に「□縠は礼楽を悦び詩書を敦くす」とある。
注[七]表裏とは、義が互いに必要として成り立つこと。前書(漢書)に「河図と洛書は互いに経緯となり、八卦と九章は互いに表裏となる」とある。
ちょうど南夷が反乱したため、劉植がかつて九江で恩信があったことから、廬江太守に任命された。劉植は政治の要諦に深く通じ、清静を旨とし、大綱を広く保つことだけを務めた。
[一一] 帝は省みなかった。 注[一]中書と言うのは外(一般の官署)と区別するためである。
注[二]五行伝は劉向の著書。朓とは、月の運行が速く日の前にあるため、早く見えること。劉向は、君主が緩慢であれば臣下が驕慢になると考え、それゆえ日は遅く、月は速く運行するとした。
注[三]左氏伝に「日が春分・秋分を過ぎて三辰(日・月・星)に至らないうちに災異があれば、そこで君主は挙措をやめ、時を移して避ける」とある。杜預の注に「正寝を避け、日食の時を過ぎる」とある。
注[四]禁じられている事柄の根源を考えて宥すこと。
注[五]疫癘の気を防禦すること。
注[六]核とは、実査すること。 注[七]回とは、邪なこと。
注[八]宋皇后は王甫と程阿の誣告によって憂死し、父と兄弟は皆誅殺された。霊帝は後に桓帝が怒って「宋皇后は何の罪があってその命を絶ったのか? すでに天に訴え、上帝は震怒し、罪は救い難い」と言う夢を見た。
注[一〇]希は求めること。注[一一]蠲は除くこと。
車騎将軍の皇甫嵩が黄巾を討伐して平定すると、盧植の軍を指揮する方略を大いに称賛し、皇甫嵩は皆その計画と謀略を用いて、その功績を成し遂げたのであった。その年に再び尚書となった。
霊帝が崩御すると、大将軍の何進は宦官を誅殺しようと謀り、并州牧の董卓を召し寄せて、太后を脅かそうとした。盧植は董卓が凶暴で制御し難く、必ず後患を生じると知り、固くこれを止めた。何進は従わなかった。董卓が到着すると、果たして朝廷を陵辱し、虐げた。そこで朝堂で百官を大いに集め、廃立を議しようとした。群僚は敢えて言う者なく、盧植のみが抗議して同意しなかった。董卓は怒って会を中止し、盧植を誅殺しようとした。この話は董卓伝にある。盧植は平素から蔡邕と親しくしていた。蔡邕が以前に朔方に流された時、盧植はただ一人上書してこれを請うた。蔡邕は当時董卓に親しくされていたので、盧植のために事を請うた。また議郎の彭伯が董卓に諫めて言った。「盧尚書は海内の大儒であり、人々の仰望するところです。今これを害すれば、天下は震え恐れます。」董卓はやめて、ただ盧植の官を免じただけだった。
盧植は老病を理由に帰郷を求め、禍を免れないことを恐れ、偽って轘轅から出る道を取った。董卓は果たして人を遣わしてこれを追わせたが、懐県に至り、追いつかなかった。
注[二]左伝に曰く、「仲尼は子産の死を聞き、涙を流して言った。『古の遺愛なり。』」
注[三]公羊伝に曰く、「君子の善を善とするは長く、悪を悪とするは短し。悪を悪とするはその身に止まり、善を善とするは子孫に及ぶ。賢者の子孫であるから、君子はそのために諱するのである。」
注[四]亟は急ぐこと。
注[五]醊は祭って酒を地に注ぐこと。音は張芮の反切。
注[六]魏志に曰く、「盧毓は字を子家といい、十歳で孤児となり、学問と行いで称され、魏に仕えて侍中・吏部尚書に至った。時に中書郎を推挙することになり、詔に曰く、『適任者を得るか否かは、盧生次第である。選挙には名声を取るなかれ。地に餅を画くが如く、食べることはできない。』盧毓は答えて言った、『名声だけでは異人を得ることはできないが、常士を得ることはできる。常士は教えを畏れ善を慕い、その後名声があるのです。』」
論じて言う。風霜によって草木の本性が区別され、危乱によって貞良の節操が現れる。ならば盧公の心は知ることができる。
蜂や蠍が懐に起こり、雷霆が耳を驚かす時、たとえ孟賁・夏育・荊軻・専諸の類であっても、躊躇して常態を失わない者はない。
盧植が厳しい合囲の下で白刃を抜き、帝を河津の間で追い、戈や刃を排し、殺害や挫折に赴いた時、果たして事前に計算していただろうか?君子の忠義に対する態度は、慌ただしい時にも必ずこれにあり、困窮する時にも必ずこれにあるのである。
注[五]事は何進伝に見える。杜預が左伝に注して言う、「戕とは、卒暴の名である」。
注[六]孔子は言う、「君子は終食の間も仁を違えることなく、造次にも必ずこれにあり、顛沛にも必ずこれにあり」。馬融が注して云う、「造次とは、急遽である。顛沛とは、僵仆である。急遽僵仆といえども、仁に違えざるなり」。
趙岐
趙岐は字を邠卿といい、京兆長陵の人である。初め名は嘉といい、御史臺で生まれたため、字を臺卿としたが、後に難を避けて、自ら名字を改め、本土を忘れないことを示した。趙岐は若くして経書に明るく、才芸があり、扶風の馬融の兄の娘を娶った。馬融は外戚の豪家であったが、趙岐は常にこれを軽蔑し、馬融と会おうとしなかった。州郡に仕え、廉直で悪を憎むことで恐れられた。三十余歳の時、重い病気にかかり、七年間床に臥した。自分が急死することを憂慮し、遺言を兄の子に書き与えて言った。「大丈夫が世に生まれ、隠遁しても箕山の節操がなく、仕官しても伊尹・呂尚のような勲功がなければ、天が我に与えず、また何を言えようか。我が墓の前に一枚の石を立て、『漢に逸人あり、姓は趙、名は嘉。志あれど時なく、命なるかな、いかんせん』と刻むがよい」。その後、病気は治癒した。注[一]その祖父が御史であったため、臺で生まれたのである。
注[二]三輔決録注に言う。「趙岐は馬敦の娘の宗姜を娶って妻とした。敦の兄の子の馬融がかつて趙岐の家に来た時、多くの賓客を連れて従妹と宴飲して楽しみ、日が暮れてから出て行った。通りがかりに趙処士がどこにいるかと尋ねた。趙岐もまた節操を厳しくし、妹の夫であるという理由で馬融に志を屈しなかった。友に与えた書簡に言う、『馬季長は当世に名があっても士の節操を持たず、三輔の高士はかつて衣の裾をその門に振るったことはない』と。趙岐はかつて周官の二つの意味が通じず、一度彼を訪ねたが、馬融をこれほど軽んじたのである」。
注[三]蓐とは、寝蓐である。声類に言う、「蓐とは、薦である」。
注[四]易に言う、「遯にして亨なり、君子は小人を遠ざく」。王弼が註して言う、「遯の義は、内を避けて外に就く者なり」。箕山は、許由が隠れた所である。
注[一]玹の音は玄。
注[二]決録註に言う。「襲は字を元嗣という。先に杜伯度・崔子玉が草書に巧みで前代に称えられ、襲と羅暉は書が拙く、張伯英に嘲笑された。張伯英は頗る自ら高しとし、朱賜に与えた書簡に『上は崔・杜に比ぶれば足らず、下は羅・趙に方ぶれば余りあり』と云った」と。
注[三]決録注に言う。「趙岐の長兄の趙盤は、州の都官従事で、早くに亡くなった。次兄の趙無忌は字を世卿といい、河東従事を務め、唐玹に殺された」。戩の音は翦。
後に諸唐が死滅し、赦令によって出ることができた。三府がこれを聞き、同時に辟召した。九年、司徒の胡広の命に応じた。ちょうど南匈奴・烏桓・鮮卑が反叛し、公卿が趙岐を推挙し、并州刺史に抜擢任命された。趙岐は辺境防衛の策を上奏しようとしたが、まだ上る前に、党の事に連座して免官となり、それらを撰述して御寇論とした。注[一]決録注に言う。「この時、綱紀が整わず、宦官が権を専らにし、趙岐は前代の連珠の書に擬いて四十章を作り上奏したが、宮中に留められ出されなかった」。
賊は脅して帥とさせようとしたが、趙岐は詭弁を用いて免れ、転々として長安に戻った。注[一]県名、隴西郡に属する。
注釈[二]決録注に「岐が陳倉に戻った時、再び乱兵に遭い、裸で逃げ延び、草むらの中で十二日間何も食べなかった」とある。
献帝が西都に遷った時、再び議郎に任命され、やがて太僕に昇進した。李傕が専権を握ると、太傅馬日磾に天下を慰撫させ、趙岐を副使とした。日磾が洛陽に到着すると、別に趙岐を派遣して国命を宣揚するよう上表し、趙岐が赴いた郡県では、民衆が皆喜んで言った。「今日また使者の車騎を見ることができた」。
私は詔命に迫られているが、なお国家に報いる志があり、自ら牛車に乗って南へ行き劉表を説得し、彼自身が兵を率いて朝廷を守衛しに来させ、将軍と心を合わせ力を併せ、共に王室を助けるようにしたい。これは上を安んじ人を救う策である」。董承はすぐに上表して趙岐を荊州に派遣し、租税と食糧を監督させた。趙岐が到着すると、劉表はすぐに兵を洛陽に派遣して宮室修理を助けさせ、軍需物資の輸送は前後して絶えなかった。当時、孫嵩もまた劉表のもとに身を寄せていたが、劉表は礼を尽くさなかった。趙岐は孫嵩の平素の行いが篤実で烈々であることを称え、共に上表して青州刺史に推薦した。趙岐は老病のため、荊州に留まった。
曹操が司空であった時、自らの後任として趙岐を推挙した。光禄勲桓典と少府孔融が上書して推薦したため、そこで趙岐を太常に任命した。九十余歳で、建安六年に死去した。生前に自ら寿蔵(生前に作る墓)を造り、[一]季札・子産・晏嬰・叔向の四賢の像を描いて賓位に置き、また自らの像を描いて主位に置き、皆に賛頌を付けた。子に命じて言った。「私が死んだ日、墓中に砂を集めて床とし、敷物と白衣を敷き、髪を解いてその上に寝かせ、単被で覆い、その日にすぐに下棺し、下棺が終わればすぐに埋めよ」。趙岐は多くの著述があり、『孟子章句』『三輔決録』が当時に伝わった。[二] 注[一]寿蔵とは塚壙(墓穴)のこと。寿と称するのは、その久遠を取る意味である。寿宮・寿器の類と同様。墓は現在の荊州古郢城中にある。
注[二]決録序に言う。「三輔とは、もと雍州の地であり、代々公卿・吏二千石および資産の多い者を移住させ、皆諸陵に陪するためであった。五方の習俗が雑然と集まり、一国の風俗ではなく、ただ詩経の秦風・豳風に限らない。その士人は高尚な義を好み、名声と行いを重んじる。その習俗が失われると、権勢に趨り、権力を求め、ただ利のみを見る。私は不才ながら西土に生まれ、耳で聞いて故老の言葉を聞き、目で見て衣冠の輩を見、心で識ってその賢愚を観た。常に厳冬に、黄髪の士の夢を見た。姓は玄、名は明、字は子真といい、私と目覚めて語り合い、言うことは必ず当たり、善悪の間で依違することがなく、筆を執る者に命じてこれを書かせた。近くは建武以来から今に至るまで、その人が既に亡くなり、その行いが書くに値するようになった。玉石と朱紫(真偽・善悪)はこれによって定まるので、決録というのである」。
=贊=
賛に言う。呉祐は温厚で慈愛があり、義をもって剛烈な者に立ち向かった。[一]延篤と史弼は人を慈しみ、風は和らぎ恩は結ばれた。梁冀は刑罰を顕わにし、誣告された党人たちはひそかに絶えた。盧植は兼ね備えた資質を持ち、儒服のまま軍師に臨んだ。[二]趙岐は国境を出て、朝威を専らにした。[三] 注[一]義をもって梁冀に立ち向かい李固を争ったことを指す。
注[二]礼記に孔子が言う。「私は若い頃魯に住み、逢掖の衣を着た」。鄭玄注に言う。「逢は大の意。大袖の衣で、これは君子で道芸のある者の着るものである」。相承する本は縫と作るが、意味も通じる。
注[三]疆は境界。左伝に言う。「大夫が国境を出て、もし社稷に利あれば、専断してもよい」。
=校勘記=
二〇九九頁七行 常に長垣沢の中で豚を飼った。按ずるに、集解が引く恵棟の説によれば、袁紀は「長羅沢」と作る。水経注に圈稱が言うには、長垣県に羅亭があり、もと長羅県である。後漢で長垣に併合された。長羅沢があり、季英(呉祐)が豚を飼った場所である。
二〇九九頁一二行 裴氏広*(川)**[州]*記 殿本考証に基づき改める。
二一〇〇頁一行 桂陽甲騎 九真都龐 按ずるに、集解が引く沈欽韓の説によれば、水経注は「甲騎」を「騎田」とし、「都龐」を「部龍」とする。また按ずるに、汲本は「都龐」を「都寵」とする。
二一〇〇頁一四行「祀」を「犯」に改める。殿本による。按:殿本の考証は「犯」の字が監本では誤って「祀」となっているとし、周礼大馭の文に基づいて改正したと述べている。
二一〇〇頁一五行「犯軷祀者」を殿本に基づいて改める。
二一〇〇頁一五行「菩」を「芻」に補う。刊誤に合致し、周礼鄭注と一致する。
二一〇一頁六行「観過斯知人矣」。按:殿本は「人」を「仁」としている。後人が論語に基づいて改めたものかと疑われる。錢大昕は、古書では仁と人の二字が多く通用すると述べているが、「人」の意味の方が長所があるとしている。
二一〇一頁七行「安丘男子毋丘長」。按:「毋」は原本では「母」となっている。汲本・殿本に基づいて直接改正した。
二一〇一頁一〇行「明府雖加哀鄉」。汲本・殿本では「鄉」を「矜」としている。按:段注説文では「鄉」とし、雲□矛令聲としている。
二一〇二頁一行「年二十二」。按:殿本では「年三十二」としている。
二一〇三頁一行「延篤字叔堅」。按:集解は汪文臺の説を引き、御覧四百五十二が引く謝承書では「字叔固」としていると述べている。
二一〇三頁一行「旬日能諷之」。按:殿本では「諷」の下に「誦」の字がある。
二一〇三頁七行「嗟乎延生」。按:「乎」は原本では「呼」となっている。汲本・殿本に基づいて直接改めた。
二一〇三頁一一行「南平陽故城在今兗州鄒縣」。汲本・殿本に基づいて「在」を補う。
二一〇五頁一行「其為仁之本與」。按:集解は錢大昕の説を引き、葛本では「仁」を「人」としていると述べている。現在の論語の本は「仁」としているが、初學記友悌部・御覽人事部が引く論語はいずれも「人」としており、有子が先に「其為人也孝弟」と言い、後に「其為人之本」と言っていることと首尾一貫しており、「人」とする方が長所があるとも言える。
二一〇六頁一〇行「坐於客堂」。按:集解は沉欽韓の説を引き、「客」の一本は「容」としていると述べ、それが正しいとしている。隠蔽して自らを障るものは皆「容」と言う。堂の前には屏蔽の設けがあるので、容堂と言うのである。
二一〇八頁一三行「悉條諸生聚斂奸吏」。按:殿本考証は「生」の字は衍字ではないかと述べている。
二一〇九頁一行「桓帝弟渤海王悝」。何焯校本は「渤」を「勃」に改めている。按:下文は皆「勃」としているので、何氏は一律に改めたのである。
二一一〇頁三行、伍被が淮南王に謀反を勧めたとあるが、誅殺されたのは汲本・殿本に基づき改めた。
二一一一頁五行、「奉」は「俸」の音で扶用反。汲本・殿本に基づき改め、正文と合致する。
二一一一頁八行、生は乃ち他事を以て弼に謁見するよう説いた。按:刊誤は文を案ずるに「説」の字は「詭」と作るべきとし、詭譎を謂うとしている。
二一一一頁一〇行、侯覽は大いに怨んだ。按:殿本は「怨」を「怒」と作る。
二一一二頁八行、洪の字は子林。按:殿本は「林」を「休」と作る。
二一一二頁一四行、夫の儒者の如し。汲本・殿本は「儒」を「懦」と作る。按:説文に儒は柔なりとある。儒には懦弱の義があり、誤字ではない。
二一一三頁三行、千人を生かす者には封があり子孫に及ぶと聞く。殿本に基づき補う。
二一一三頁三行、後世は其れ興るだろうか。汲本・殿本に基づき補う。
二一一六頁二行、□謬を発起す。按:集解が惠棟の説を引き、「□謬」は「紕繆」の誤りかと疑う。
二一一六頁三行、力を供えて繕写するに足らず。汲本・殿本に基づき補う。
二一一七頁一二行、災咎を攘服す。汲本・殿本は「攘」を「禳」と作る。按:攘と禳は通ず。
二一一八頁一行、朓とは月の運行が速く日に先んずることをいう。按:「日」は原誤って「目」と作る。汲本・殿本に基づき直ちに改正する。
二一一八頁一行、君が舒緩なれば則ち臣は驕慢となる。汲本・殿本に基づき改める。
二一一八頁七行、後に王甫・程阿の構えたる所により。按:「甫」は原誤って「封」と作る。汲本・殿本に基づき直ちに改正する。
二一一九頁六行、今先ず之を害す。刊誤は文を案ずるに「之」の字が少なく、文理を成さないという。また集解が惠棟の説を引き、先賢伝に「今先害之」とあるという。今これに基づき補う。
二一二一頁五行 趙岐、字は邠卿。按ずるに、この伝の「岐」の字は原本すべて「歧」と作し、汲本も同じ。王先謙は殿本は「歧」を「岐」と作すと謂い、古書は通作し、「岐」を是とす。今一律に殿本に依り「岐」に改む。
二一二一頁七行 年三十余にして重疾有り。按ずるに、御覧五百一に引く「三十余」は「四十余」と作す。
二一二五頁一行 目能く視*[而]*りて衣冠の疇を見る。汲本に据りて補う。
二一二五頁一行 常に玄冬に黄髪の士を夢む。集解は惠棟の説を引き、御覧三百九十九巻に引くに据れば「玄冬」の下に「修夜思而未之得也忽然而寢」の十二字有り、「夢」の下に「此」の字有りと謂う。今按ずるに、御覧は「士」を「叟」と作す。
二一二五頁一行 字は子真。按ずるに、惠棟は御覧に引く「字」の下に「曰」の字有りと謂う。