後漢書
巻六十三
李杜列傳 第五十三 第五十三
李固
李固は字を子堅といい、漢中郡南鄭県の人で、司徒の李合の子である。李合については『方術伝』にある。李固の容貌は特異な相があり、鼎角で匿犀、足には亀の文様があった。幼い頃から学問を好み、常に歩いて師を尋ね、千里の遠さも厭わなかった。ついに典籍を広く究め、英傑や賢者と交わった。四方の志ある士は多くその風采を慕って学びに来た。都の人々は皆、「これはまた李公となるであろう」と嘆賞した。司隸校尉や益州牧がともに郡に命じて孝廉に推挙し、司空府の掾に辟召したが、いずれも就任しなかった。
注釈:鼎角とは、頭頂に鼎の足のような骨があること。匿犀とは、伏犀のこと。額の上で髪の生え際に入り込んで隠れ隆起している骨を指す。足に亀の文様がある者は二千石の官に至る、と相書に見える。
注釈:謝承の『後漢書』にいう。「李固は姓名を変え、杖を突き驢馬を駆り、書箱を背負って三輔の地で師を追い求め、五経を学び、十数年を積んだ。古今の書を博覧し、風角・星算・河図・讖緯に明るく、天を仰いで観察し、地に俯して占い、神妙を極めて変化を知った。太学に行くたびに、密かに公府に入り、父母を見舞ったが、同じく学ぶ諸生に李合の子であることを知らせなかった。」
注釈:その父に継いで公となる、という意味である。
注釈:謝承の『後漢書』にいう。「五度孝廉に察挙され、益州では再び茂才に推挙されたが応じなかった。五府が相次いで辟召したが、皆病気を理由に辞退した。」
陽嘉二年
に、地震・山崩れ・火災などの異変があったため、公卿が李固を推挙して策問に対応させた。詔書はさらに特に当世の弊害と政治の行うべきところについて問うた。李固は答えて言った。
注[一]『続漢書』に「陽嘉二年、詔して公卿に敦朴の士を挙げさせたところ、□尉の賈建が固を挙げた」とある。
臣は聞く、王者は天を父とし地を母とし、山川を宝とする。王道が行われれば陰陽は和らぎ、政化が乱れれば崩壊や地震が災いとなる。これらは皆、天の心にかかわり、事の成り行きに現れるものである。教化は職務によって成り立ち、官職は能力によって治められる。古に進用される者は、徳と爵命があったが、今進用される者は、財力と権力だけである。詔書が寛大で博愛を求め、厳しく暴虐を憎むことを務めていると聞くが、今、多くの殺伐によって名声を得た長吏は、必ず昇進と賞賜を加えられ、寛和で党派の後ろ盾のない者は、すぐに排斥・追放される。このため、淳厚な風俗は広まらず、薄っぺらで人情の薄い習俗は改まらない。たとえ刑罰を多くし禁令を重くしても、どうして益があろうか。以前、孝安皇帝は旧典を変え乱し、阿母に爵位を封じたため、妖妄な災いが生じ、樊豊の徒が権力を握ってほしいままに振る舞い、君主の威厳を侵奪し、嫡子の継承を改め乱し、ついに陛下が狼狽し、自ら艱難に遭われることとなった。困窮危険から抜け出され、天子として即位されると、天下は仰ぎ望み、風教と政治に期待を寄せた。積弊の後は、中興を成しやすいものであり、誠に沛然として善き道を考えるべきである。それなのに論者はなお、今の事態は以前と同じだと述べている。臣が草むらに伏して思いを致すと、心を痛め胸を傷む。実に漢が興って以来、三百余年、賢聖の君主が相継ぎ、十八人の主がおられた。どうして乳母への恩愛がなかっただろうか。どうして爵位を貴ぶ寵愛を忘れただろうか。しかし、上は天威を畏れ、下は経典に照らし、道理が許さないと知ったため、封じなかったのである。今、宋阿母には大功と勤謹の徳があるが、賞賜を加えるだけで、その労苦に報いるには十分である。領土を分けて国を開くことは、実に旧典に背く。聞くところによれば、阿母は性質が謙虚であり、必ず辞退なさるだろう。陛下はその国を辞する高潔さを許し、万全の福を成し遂げさせるべきである。
注[一]『春秋感精符』に「人主は日月とともに明るく、四時とともに信じる。故に天を父とし地を母とし、日を兄とし月を姉とする」とある。宋均の注に「天を父とするのは圜丘の祀りであり、地を母とするのは方沢の祭りであり、日を兄とするのは東郊の祭りであり、月を姉とするのは西郊の祭りである」とある。
注[二]
『史記』
に「魏の武侯が西河を下り、中流で振り返って呉起に言った『美しいことよ、この山河の険固さは。これが魏の宝だ』。呉起は答えて『(宝は)徳にあって険にあらず』と言った」とある。注[三]命とは爵命のこと。徳ある者にのみ爵命を加えることができるという意味である。
注[四]阿母は王聖。注[五]順帝が太子であった時、廃されて済陰王となったことを指す。
注[六]殆は危ういこと。注[七]沛然とは広大なさまの意。注[八]宋娥を指す。
后妃の家で完全なものが少ないのは、果たして天性がそうさせるのか。ただ爵位が尊く顕著で、権力を一手に握り、天道は満ちることを憎むのに、自らを損なうことを知らないため、ついに転落するのである。先帝は閻氏を寵遇し、位号があまりに急であったため、その禍を受けるのに、時をめぐらす間もなかった。老子に「その進み鋭き者は、その退くこと速し」とある。今、梁氏は外戚として皇后の親族となり、礼では臣下としない身分である。高い爵位で尊ぶのは、まだ許される。しかし子弟や群従が、栄耀を兼ねて加えられるのは、永平・建初の故事には、おそらくこのようではなかった。歩兵校尉の冀や諸侍中を黄門の官に戻らせ、権力を外戚から離し、政治を国家に帰すべきである。これこそ善きことではないか。注[一]案ずるに、孟子にこの文がある。謝承の『書』も孟子とし、『続漢書』はまた老子としている。
注[二]
『公羊伝』
に「宋がその大夫を殺した。なぜ名を記さないのか?宋は三世大夫がおらず、三世内娶したからである」とある。何休の注に「内娶とは、大夫の女を娶ること。大夫がいないと三世言うのは、礼として妻の父母を臣としないためである。国内は皆臣であるから、娶る道理がない。故に大夫の名を絶って去り、その義を正すのである」とある。椒房とは、皇后の住む所で、椒で泥を塗ったものである。
また、詔書で侍中・尚書・中臣の子弟が吏や孝廉に察挙されないように禁じているのは、彼らが威権を握り、請託を受け入れるからである。しかし中常侍は天子の側近として、その威勢は天下に響き渡り、子弟の禄位や官職には、まったく制限がない。外見は謙虚で沈黙を装い、州郡に関与しないように見せながら、諂い偽る者どもが、その風向きを見て進み挙げられる。今、恒常的な禁令を設け、中臣と同じようにすべきである。
昔、館陶公主が子のために郎官を求めたが、明帝は許さず、千万の銭を賜った。厚い賜り物を軽んじ、薄い官位を重んじたのは、官人が才能を失い、百姓に害が及ぶからである。窃かに聞く、長水司馬の武宣や、開陽城門候の羊迪らは、他の功績徳行がなく、初任からいきなり正官となった。これは小さな過失ではあるが、次第に旧章を損なうものである。先聖の法度は、堅く守るべきであり、政教が一度崩れれば、百年経っても回復しない。詩に「上帝板板たり、下民ついに癉す」とある。これは周王が祖先の法度を変えたことを刺し、それゆえ下民がまさに病み尽くすようになったのである。注[一]館陶公主は、光武帝の第三皇女である。
注[二]『続漢志』に「長水校尉一人、比二千石、司馬一人、千石、宿□を掌る」とある。
注[三]『続漢志』にいう、「城門には各門ごとに候一人を置き、六百石とする」。
注[四]『続漢書』にいう、「中都官で、千石・六百石の者は、故事によりまず守(試用)を一年務め、その後真(本官)に補される」。
注[五]板は反なり。卒は尽なり。癉は病なり。『詩』大雅に、凡伯が周の厲王が先王の道に反し、下民がことごとく病んでいることを諫めた。
今、陛下に尚書があるのは、天に北斗があるようなものである。北斗は天の喉舌であり、尚書もまた陛下の喉舌である。[一]北斗は元気を斟酌し、四時を平らかに運ぶ。[二]尚書は王命を出納し、政令を四海に布く。[三]その権は尊く勢いは重く、責めの帰するところである。もし心を平らかにしなければ、災い必ず至る。誠にその人を審らかに選び、聖政を助けさせるべきである。今、陛下と共に天下を治める者は、外には公卿・尚書、内には常侍・黄門であり、譬えれば一つの門の内、一家の事のようで、安泰ならば共にその福慶を享け、危険ならばその禍敗を通ずるのである。刺史・二千石は、外では職事を統べ、内では法則を受ける。表が曲がれば影は必ず斜めになり、源が清ければ流れは必ず清い。それは樹の幹を叩けば、百の枝が皆動くようなものである。
『周頌』にいう、「薄言振之、莫不震疊」。[四]これは内において動かせば、外に応ずるということを言うのである。これによって言えば、本朝の号令は、どうして誤りがあってよいだろうか。隙間が一つ開けば、邪な者が心を動かす。利を競うことが一時的に始まれば、仁義の道は塞がれる。刑罰では再び禁じることができず、教化導引はこれによって次第に壊れる。これは天下の紀綱であり、当今の急務である。陛下は石室を開き、図書を陳べ、[五]多くの儒者を招き集め、得失を引き問い、変異の象を指摘し、天意を求めるべきである。その言葉に道理に適ったものがあれば、即時に施行し、その人を顕かに抜擢し、能ある者を表彰せよ。そうすれば、聖聴は日々聞くところがあり、忠臣はその知る所を尽くすであろう。また、宦官を罷退させ、その権重を取り去り、常侍二人を裁置し、方正で徳のある者を選び、左右の事を省みさせ、小黄門五人を、才智があり閑雅な者を選び、殿中に給事させるべきである。このようにすれば、論者は満足し、昇平を致すことができる。臣が敢えて愚かな考えを陳べ、冒昧にも自ら聞かせる所以は、もしや皇天が微臣に陛下を覚悟させようとしているのではないかと思うからである。陛下は熟察して臣の言葉を憐れみ、臣の死を赦されたい。
注[一]『春秋合誠図』にいう、「天理は斗中にあり、三公を司どる。人の喉が咽にあるように、舌語を理する」。宋均の注にいう、「斗は天の舌口であり、政教を出すことを主る。三公は君命を導き宣べることを主どる。人に譬えれば、人の喉が咽にあり、舌口を理して、言葉に条理があるようにさせるのに宜しい」。
注[二]『春秋保干図』にいう、「天皇はここにおいて元を斟ぎ樞を陳べ、五をもって威を易う」。宋均の注にいう、「威は則なり、法なり。天皇は元気を斟ぎ、樞機を陳列し、行うべき次第の当を得る所を受ける」。
注[三]賦は布くこと。
注[四]
『韓詩』
『薛君伝』にいう、「薄は辞なり。振は奮うなり。莫は無なり。震は動くなり。疊は応ずるなり。成王が文武の道を奮い舒べてこれを行い、天下が動いてその政教に応じないものはないことを美とした」。
注[五]
『前書』
にいう、「司馬遷は太史令となり、史記を石室金匱の書より紬した」。紬は音は抽。
順帝はその対策を覧て、多く採用し、即時に阿母を出して弟の舎に還し、諸常侍は悉く叩頭して罪を謝した。朝廷は粛然とした。
李固を議郎に任命した。しかし、阿母(乳母)や宦官たちは李固の直言を憎み、偽りの匿名文書をでっち上げて彼を罪に陥れようとし、事案は宮中から下された。大司農の黄尚らが大将軍の梁商に取りなし、また僕射の黄瓊が李固の無実を弁護したため、ようやく議郎に任命された。
広漢郡雒県の県令として出向したが、白水関に至ると印綬を解いて返上し、漢中に戻り、門を閉ざして人との交わりを絶った。その年のうちに、梁商が彼を従事中郎に招いた。梁商は皇后の父として政権を補佐していたが、柔和で自らの立場を守るだけで、政治の刷新や是正を行うことができず、災異がたびたび現れ、臣下の権力が日に日に強まっていた。李固は梁商にまず風俗教化を正し、高い地位から退いて満ち足りた状態を避けるよう勧めたいと考え、上書して言った。「『春秋』は儀父を褒めて義の道を開き、無駭を貶して利の門を閉ざしました。義の道が閉ざされれば利の門が開き、利の門が開けば義の道が閉ざされるのです。先の孝安皇帝の時代、内では伯栄や樊豊の輩を任用し、外では周広や謝惲の徒に委ね、賄賂を受け取って門戸を開き、順序を無視して官職を任命したため、天下は乱れ、怨嗟の声が道に満ちました。朝廷が新たに立ち上がった当初は、清浄な政治を保とうとしましたが、数年も経たないうちに、次第に堕落と衰退が始まりました。左右で党派を作って取り入る者は、日々に昇進・任命され、善道を守り通す者は、停滞し干上がった窮地に追いやられ、弊害を改め徳を立てる方策はありませんでした。また、陛下が即位されてから十余年が経ちますが、皇嗣はまだ立てられず、群臣は継承者を待ち望んでいます。中宮(皇后)に命じて広く後宮の女官を選び、身分の低くても子を産みやすい者を兼ねて選び、至尊(皇帝)に進めてお仕えさせ、天意に順い助けとすべきです。もし皇子が生まれれば、生母自らが乳を飲ませ養育し、乳母や医者・巫女に任せて、趙飛燕の禍のようなことを起こさせてはなりません。明将軍(梁商)は声望高く地位も顕著で、天下を憂えるべきであり、謙虚で倹約な態度を尊び、その模範を天下に示すべきです。ところが新たに祠堂を営み、費用は億単位に及び、立派な徳を明らかにし、清廉と倹約を示すものではありません。ここ数年、災異の怪しい現象がたびたび現れ、雨が降らず潤いがなく、重苦しい陰気が鬱積しています。宮廷の内部に、陰謀があるかもしれません。孔子は言われました。『智者は変異を見れば刑罰を思い、愚者は怪異に驚き名を忌み嫌う』と。天道は親しい者を選ばず、畏敬すべきものです。加えて近ごろ、端門の側で皆既月食がありました。月は大臣の象徴です。高く登りすぎれば危険であり、満ちすぎれば溢れ、月が満ちれば欠け、太陽が中天に達すれば移ります。この四つはすべて、自然の理数です。天地の心は、謙虚な者に福を与え、盛んな者を忌み嫌います。それゆえ賢達な者は功績を成し遂げると身を引き、名声を全うし長寿を養い、脅迫や追い詰められる憂いがないのです。誠に王綱を一たび整え、道が行われ忠義が立てば、明公(梁商)は伯成の高潔な行いを継ぎ、朽ちることのない誉れを全うされるでしょう。どうして外戚の凡庸な輩で、栄華と高位に耽る者と同日に論じられましょうか!私は狂った愚か者で、大義に通じておらず、古人の一飯の恩に報いる故事にひそかに感じ入り、ましてや顧みられ遇を受けたのに、思いを尽くさずにいられましょうか!」梁商はこれを用いなかった。
注[一]梁州記にいう。「関城の西南百八十里に白水関があり、昔、李固が印綬を解いた場所である。」かつての関城は今、梁州金牛県の西にある。
注[二]隠公元年三月、公(魯隠公)及び邾の儀父が昧で盟を結んだ。
公羊伝にいう。「儀公とは何者か?邾婁の君主である。なぜ字で呼ぶのか?褒めるためである。なぜ褒めるのか?公と盟を結んだからである。」何休の注に云う。「『春秋』は魯を王と仮託し、隠公を受命王と仮定し、儀父が先に隠公と盟を結んだことを借りて、褒賞の義を示した。」
注[三]春秋隠公二年、経に「無駭が師を率いて極に入る」と書かれている。公羊伝にいう。「無駭とは誰か?展無駭である。なぜ氏を書かないのか?貶すためである。なぜ貶すのか?滅ぼし始めることを憎むからである。」
注[四]伯栄は、王聖の娘である。
注[五]守死善道は、論語の文である。滯涸窮路は、魚を例えにしている。
注[六]趙飛燕は、成帝の皇后である。妹が昭儀となり、寵愛を独占した。成帝の貴人曹偉能らが皇子を生んだが、皆殺しにした。
注[七]雲が立ち込める様子。
注[八]祗は敬の意。天には親疎がなく、ただ善を行う者に与えるのみで、畏敬すべきであるという意味。
書経にいう。「皇天に親なし。」
注[九]既は尽きる意。端門は、太微宮の南門である。
注[一0]《前漢書》李尋の上疏にいう。「月は衆陰の長であり、妃后・大臣・諸侯の象徴である。」
注[一一]易経の豊卦にいう。「日中なれば則ち昃き、月盈ちれば則ち食う。天地盈虚、時に消息す。」
史記
蔡沢が范雎に言った。「太陽が中天に達すればやがて傾き、月が満ちればやがて欠ける」と。
注[一二]
易
言うには、「鬼神は満ち溢れる者を害し、謙虚な者を福し、人の道は満ち溢れる者を憎み、謙虚な者を好む」と。また言うには、「天地の心を見よ」と。
注[一三]
老子
言うには、「功績を成し遂げ、名声を得て身を退くのは、天の道である」と。
注[一四] 利益に誘われ、憂慮と勤労に脅迫されたのである。怵の音は息律反、あるいは黜と読む。
注[一五]荘子に曰く、「伯成子高は、唐虞の時代に諸侯となったが、禹の時に至り、去って耕作した。禹が彼を訪ねると、野で耕作していた。禹が問うて言った、『昔、堯が天下を治めた時、あなたは諸侯として立ち、堯は舜に譲り、舜は私に譲った。あなたは去って耕作するが、その理由は何か?』子高は言った、『昔、堯が天下を治めた時は、至って公平で私心がなく、賞さなくても人々は自ら励み、罰さなくても人々は自ら畏れた。今、あなたは賞しても人々は励まず、罰しても威厳がなく、徳はここから衰え、刑罰はここから起こる。あなたはどうして立ち去らず、私の仕事を邪魔しないのか。』と。俋俋然として、耕作を続け顧みなかった。」とも見える。
呂氏春秋
。
注[一六]霊輒のことである。
永和年間、荊州で盗賊が蜂起し、一年以上平定されなかったため、李固を荊州刺史に任命した。李固が着任すると、役人を派遣して管内を慰問し、賊徒の過去の罪を赦免して、新たな出発を約束した。そこで賊の首領夏密らは配下の頭目六百余人を集め、自ら縄をかけて投降した。李固は皆を許し、帰還させて互いに招集させ、法を示して威徳を示した。半年のうちに残党もすべて降伏し、州内は平穏になった。
南陽太守の高賜らが収賄などの汚職を行っていることを上奏した。高賜らは罪を恐れ、共謀して大いに大將軍梁冀に賄賂を贈った。梁冀は千里を走る速さで檄文を発し(注[一])、李固を救援しようとしたが、李固はかえって取り調べを一層厳しくした。梁冀はついに李固を太山太守に転任させるよう命じた。当時、太山では盗賊が数年にわたって屯集しており、郡兵は常に千人を数えたが、追討しても制圧できなかった。李固が着任すると、郡兵をすべて解雇して帰農させ、戦闘に適した者百余人だけを選んで残し、恩情と信義をもって彼らを招き誘った。一年も満たないうちに、賊はすべて平定され散り散りになった。 注[一]一日に千里を行く速さで檄文を発し、急を救うことを言う。
注[一]『史記』に言う、始皇帝が東巡の途中で病に倒れ、沙丘で崩御した。徐廣が言う、趙に沙丘宮があり、鉅鹿にある。
注[二]丞相の李斯は、始皇帝が外で崩御したことを恐れ、諸公子や天下に変事が起こるのを防ぐため、その死を秘して喪を発さなかった。ただ胡亥と趙高だけが陰謀を知り、始皇帝が封をした詔書を破り去り、公子扶蘇に死を賜い、胡亥を太子に立てた。胡亥元年、楚と漢がともに起こった。
注[三]江京と劉安らが省門下に座していたところ、孫程と王康らが進み出て江京と劉安らを斬り、順帝を立てた。
李固は清河王の劉蒜が年長で徳があると考え、彼を立てようとし、梁冀に言った。「今、帝を立てるにあたり、年長で聡明で徳があり、親政を任せられる者を選ぶべきです。将軍には大計を慎重に詳しく検討され、周勃と霍光が文帝と宣帝を立てたことを参考にし、鄧太后と閻太后が幼弱な者を利したことを戒めていただきたい。」梁冀は従わず、楽安王の子の劉纘を立てた。年八歳、これが質帝である。その時、沖帝の山陵を北に卜する予定であったが、李固は議して言った。「今は至るところに賊がおり、軍興による費用は倍加し、新たに憲陵を造営し、賦役の徴発は一つではない。帝はまだ幼少であるから、憲陵の塋域内に陵を築き、康陵の制度に依るべきです。そうすれば労役費用を三分の一減らせます。」そこで李固の議に従った。当時、太后は相次ぐ不幸に遭い、宰輔に政権を委任していた。李固が匡正する意見は、常に採用された。黄門や宦官はことごとく斥けられ、天下はみな太平が実現することを望んだ。しかし梁冀は猜疑心が強く専横で、常に李固を忌み嫌った。
注[一]周勃が文帝を立て、霍光が宣帝を立てたこと。
注[二]鄧太后が殤帝を立てたことを指す。帝は当時生後百余日で、二歳で崩御した。また安帝を立てたが、当時十余歳であった。閻太后が北郷侯を立てたが、その年に薨去し、また諸王子を徴して、立てる者を選ぼうとしたこと。
注[三]康陵は、殤帝の陵である。
初め、順帝の時に任命された官の多くは、順序を踏まないものが多かった。李固が職に就くと、百余人を上奏して免職にした。これらの者は怨みを抱き、また梁冀の意向を期待して、共に匿名の上奏文を作り、虚偽で李固の罪を誣告した。「臣は聞きます。君主が古を稽えなければ、天を承けることができず、臣下が旧を述べなければ、君に奉じることができないと。昔、堯が崩御された後、舜は三年間仰ぎ慕い、座れば堯を牆に見、食すれば羹に堯を覗いた。これこそ聿(述)べて来孝を追い、臣子の節を失わなかった者と言えましょう。太尉李固は、公事を仮りて私利を図り、正を依りて邪を行い、近親の外戚を離間し、自ら支党を隆盛させました。表挙して推薦する者は、例によって門徒であり、辟召する者は、先の旧知でない者はありません。ある者は富家の財賄により、ある者は子や姻族であり、官牒に列なる者は合わせて四十九人に上ります。さらに広く商賈を選び、令史を補い、良馬を募って求め、臨んで試乗させました。出入りは奢侈を極め、輜軿の車は日を耀かします。大行(皇帝の遺体)が殯に在るに、路行く人は涙をぬぐうというのに、李固ひとり胡粉で顔を飾り、頭を搔き姿を弄び、盤旋し偃仰し、従容として艶やかな歩みをし、少しも惨怛たる傷悴の心がありません。山陵が未だ完成せず、旧政に違い矯め、善は則ち己に称え、過ちは則ち君に帰し、近臣を斥逐して侍送させず、威福をほしいままにし、李固ほど甚だしい者はありません。臣は聞きます。台輔の位は、実に陰陽を和するものであり、琁機(政権の枢機)が平らかでなければ、寇賊や奸軌が起こり、その責は太尉にありますと。李固が任を受けた後、東南は跋扈し、両州数郡は千里蕭條し、兆民は傷損し、大化は陵遅しました。それなのに先帝を誹謗し、勝手に狂狷をほしいままにしています。存命中には廷争の忠がなく、死後には誹謗の説があります。夫子の罪は父を累わすより大なるはなく、臣の悪は君を毀るより深きはありません。李固の過ちと罪は、誅辟に合う事柄です。」事が上奏されると、梁冀は太后に報告し、その事を下して処分させようとした。太后は聞き入れず、李固は罪を免れた。
注[一]
『書経』
に言う。「粵若稽古帝堯」。鄭玄の注に言う。「稽は同なり。古は天なり。天と同じくして行う能う者を帝堯と言う」。
注[二]『太公兵法』に言う。「帝堯が天下を王たる時、金銀珠玉を服せず、錦銹文綺を衣せず、奇怪異物を視ず、玩好の器を寶とせず、淫佚の楽を聴かず、宮垣室屋に堊色せず、榱桷柱楹に藻飾せず、茅茨の蓋を翦齊せず、滋味重累を食せず、溫飯暖羹酸餧も易えず」。
注[三]聿は述べるなり。『詩経』大雅に言う。「文王烝哉、遹追來孝」。文王が王季の勤孝の行いを述べて追ったことを言う。
注[四]
『西京雜記』
言うには、「武帝が李夫人に会った時、玉の簪を取って頭を掻いた。それ以来、宮中の人々は頭を掻くのに皆玉を用いるようになった」。
注釈[五]『書経』に言う、「琁機玉衡を用いて七政を整える」。孔安国の注釈に言う、「琁は美玉である。機は衡である。王者が天文を正す器で、回転させることができるものである」。また言う、「寇賊奸軌」。注釈に言う、「群れをなして攻撃・略奪することを寇といい、人を殺すことを賊といい、外で行うことを奸といい、内で行うことを軌という」。
注釈[六]『続漢書』志に言う、「太尉は四方の兵事と功課を掌り、年の終わりに則ち殿最を奏上して賞罰を行う」という。
注釈[七]九江の賊徐鳳・馬免らが城邑を攻め焼き、広陵の賊張嬰らが江都長を攻め殺したことを指す。九江・広陵は荊州・揚州の地であるから、両州と言うのである。
注釈[八]『呉佑伝』に拠れば、この章は馬融の言葉である。
梁冀は皇帝(質帝)の聡明さを忌み、後患となることを恐れ、遂に左右の者に命じて毒を進めさせた。帝は苦しみ煩悶がひどく、急いで李固を召すよう命じた。李固が入り、前に進んで問うた。「陛下はどのようにして患われたのですか?」帝はまだ話すことができ、言った。「煮餅を食べた。今腹が苦しく、水があればまだ生きられるかもしれない」。その時梁冀も側にいて、言った。「吐く恐れがあります。水を飲ませてはなりません」。言葉が終わらないうちに帝は崩御した。李固は屍に伏して号泣し、侍医を推挙して問いただした。梁冀はその事が漏れることを憂慮し、大いにこれを憎んだ。
そこで後継者を立てることを議し、李固は司徒の胡広と司空の趙戒を引き連れ、先に梁冀に書を送って言った。「天下は不幸にも、重ねて大きな憂いに遭いました。皇太后は聖徳をもって朝政を執り、万機を統摂され、明将軍は忠孝を体現し、社稷の存続を憂えておられます。しかし数年(頻年)の間に、国祚が三度絶えました。今、帝を立てるにあたり、天下の重器ですから、誠に太后が心を垂れ、将軍が労慮され、詳しくその人を選び、必ず聖明な方を立てられることを知っております。しかし、愚かな心情として、ひそかに一つの考えがあります。遠く先代の廃立の旧儀を尋ね、近く国家の践祚の前例を見ると、公卿に諮問し、広く群議を求めて、上は天心に応え、下は衆望に合うようにしたものでした。
かつて永初以来、政事に多くの誤りがあり、地震が宮廟を襲い、彗星が天を覆いました。誠に将軍が誠意を尽くすべき時です。『伝』に言う、『天下を人に与えるのは易しいが、天下のために人を得るのは難しい』。昔、昌邑王が立てられた時、昏乱は日増しにひどくなり、霍光は憂い慚愧して発憤し、骨が折れるほど後悔しました。博陸侯(霍光)の忠勇と、延年(田延年)の奮発がなければ、大漢の祭祀は、ほとんど傾きかけたでしょう。最も憂慮すべき最も重大なことです。熟慮せずにいられましょうか!悠々たる万事の中で、これが最も大きいことです。国の興衰は、この一挙にかかっています」。梁冀は書を受け取ると、三公・中二千石・列侯を召して大いに誰を立てるかを議した。李固・胡広・趙戒および大鴻臚の杜喬は皆、清河王の劉蒜は明徳が著しく聞こえ、また最も尊く親しい血筋に属するので、後継者に立てるべきだと考えた。先に蠡吾侯の劉志が梁冀の妹を娶ることになっており、その時は京師にいた。梁冀は彼を立てようとした。衆論が既に異なり、憤懣として意を得ず、しかし互いに奪い合う手段がなかった。中常侍の曹騰らはこれを聞いて夜に梁冀のもとを訪れ説得して言った。「将軍は累世にわたり椒房の親戚として、万機を掌握し、賓客が縦横に活躍し、多くの過差がありました。清河王は厳明です。もし果たして立てられれば、将軍が禍を受けるのは遠くないでしょう。蠡吾侯を立てる方が、富貴を長く保つことができます」。
梁冀はその言葉を正しいと思った。翌日、再び公卿が会し、梁冀の意気は凶々しく、言辞は激切であった。胡広・趙戒以下、誰もが恐れ憚らずにはいられなかった。皆が言った。
「ただ大將軍の命令に従います」。しかし李固だけは杜喬と共に本来の議論を固く守った。梁冀は声を荒げて言った。「会議を終わらせる」。李固の意見が既に従われなかったが、それでもなお衆心が(清河王を)立てることを望み、再び書を送って梁冀を諫めた。梁冀はますます激怒し、太后に説いて先に李固を策免させ、遂に蠡吾侯を立てた。これが桓帝である。
注釈[一]謝承の『後漢書』に「趙戒は字を志伯といい、蜀郡成都の人である。趙戒は博学で経を明らかにし講授し、孝廉に挙げられ、累遷して荊州刺史となった。梁商の弟の梁譲が南陽太守であったが、椒房の寵を恃み、法を奉じなかった。趙戒が州に着任すると、彼を弾劾上奏した。趙戒を河間相に遷した。冀州の部は治め難いので、威厳を整え励ました。南陽太守に遷った。豪傑を糾弾し、吏人を恤れ、中官貴戚の子弟で令長となり貪濁する者を奏上して免じた。征されて尚書令に拝され、出て河南尹となり、転じて太常に拝された。
永和六年、
特に司空に拝された」という。
注釈[二]順帝が崩御し、沖帝が立って一年で崩御し、質帝が一年で崩御した。
注釈[三]昌邑王の劉賀は、武帝の孫で昌邑哀王の劉髆の子である。昭帝が崩御し、霍光が彼を立てた。
注[四]霍光は博陸侯に封じられた。『前書音義』によると、「博は大、陸は平。その嘉名を取ったもので、この名の県はない。食邑は北海と河東である」という。
注[五]霍光が丞相以下を召集して議した。「昌邑王の行いは昏乱で、社稷を危うくする恐れがある。どうするか?」群臣は皆驚愕して顔色を失った。大司農の田延年が前に進み出て手を机について言った。「今日の議は、踵を返す暇はない。後に応じる者がいれば、私が斬ることを請う!」これにより廃立が決まった。
注[六]別の道理もなくして(帝位を)奪い替えることはなかった。
その後一年余りして、甘陵の劉文と魏郡の劉鮪がそれぞれ(清河王)劉蒜を立てて天子にしようと謀り、梁冀はこれに乗じて李固が劉文・劉鮪と共に妖言をなしたと誣告し、獄に下した。門下生の勃海郡の王調が刑具を身につけたまま上書し、李固の無実を証明し、河内郡の趙承ら数十人もまた斧と鉄の台座を腰に提げて宮門に赴き訴え出た。太后はそのことを明らかにし、ようやく赦免した。獄を出ると、京師の市や里巷では皆が万歳を称えた。梁冀はこれを聞いて大いに驚き、李固の名声と徳行が結局は自分の害となると恐れ、さらに以前の事件を根拠に上奏し、ついに彼を誅殺した。時に五十四歳であった。
注[二]李固は臨終に際し、子孫に命じて素朴な棺を三寸の厚さで、幅巾を被せ、本郡の痩せた土地に埋葬し、墓所に還して葬ってはならず、先祖の墓地を汚してはならないと言った。謝承の『後漢書』に見える。
臨終に際し、胡広と趙戒に書を送って言った。「私は国から厚い恩を受けた。それゆえ股肱の力を尽くし、死を顧みず、志は王室を扶持し、文帝・宣帝の時代のように隆盛にしようとした。どうして一朝にして梁氏が迷い誤り、公らが曲がってこれに従い、吉を凶とし、成事を敗事としたことを図りえようか。漢家の衰微は、ここから始まるであろう。公らは主君から厚い禄を受けながら、倒れてもこれを扶けず、大事を傾覆させた。後の良史は、どうして私心を持つことがあろうか。私の身はもう終わった。義においては得たものがある。また何を言おうか!」胡広と趙戒は書を受け取って悲しみ慟哭し、皆長く嘆いて涙を流した。
州郡は李固の二人の子、李基と李茲を郾城で捕らえ、ともに獄中で死なせた。末子の李燮は逃れて亡命することができた。梁冀は胡広と趙戒を封じ、李固の屍を四つ辻にさらし、敢えて臨んで哭する者があればその罪を加えると命じた。李固の弟子の汝南郡の郭亮は、年は成童に始まるばかりで、洛陽に遊学していたが、左に章と鉞を提げ、右に斧と鉄の台座を執り、宮門に赴き上書して、李固の屍を収めることを乞うた。許されなかったので、臨んで哭し、その前に辞を陳べ、ついに喪に服して去らなかった。夏門の亭長がこれを叱って言った。「李・杜の二公は大臣でありながら、上を安んじ忠を納れることができず、根拠なく事を起こした。お前たちは何様の腐った書生か。公然と詔書に触れ、役人を試みるのか?」郭亮は言った。「私は陰陽を含んで生まれ、天を戴き地を踏んでいる。義によって動くのであって、どうして性命を知ろうか。どうして死をもって私を脅そうとするのか?」亭長は嘆いて言った。「天命にない世に生き、天が高くても敢えて身を縮めずにはおれず、地が厚くても敢えて足を踏み外さずにはおれない。耳目は視聴に適うように、口は妄言してはならないのだ。」太后はこれを聞いて誅殺しなかった。南陽郡の人董班もまた李固を哭しに赴き、屍に殉じて去ろうとしなかった。太后はこれを哀れみ、ついに殯殮の衣を着せて葬ることを許した。二人はこれによって名を顕わし、三公がともに辟召した。董班はついに身を隠し、どこへ行ったか知る者はいなかった。
注[一]『続漢書』によると、李基は偃師県の長であった。袁宏の『後漢紀』によると、李基は字を憲公、李茲は字を季公といい、ともに長史となり、李固が策免されたと聞き、ともに官を棄てて巴漢に逃げ帰った。南鄭の趙子賤が郡の功曹となり、詔が下って郡に李固の二人の子を殺すよう命じた。太守はその冤罪を知り、彼らを遇するのに非常に寛大であった。二人の子は服薬して死んだと偽り、棺や器具を整え、出棺の際に逃げ出そうとした。趙子賤は法を恐れ、役人に命じて実態を検証させ、その場で殺させた。
注[二]
『爾雅』
に「四方に通じるのを衢という」とある。郭璞の注に「交通が四方に出るものである」という。
注[三]謝承の『後漢書』によると、「郭亮は字を恆直といい、朗陵の人である」。
注[四]成童とは、十五歳のことである。
『礼記』
に「十五歳で成童となり、象舞を舞う」とある。
注[五]章とは上奏した文書を指す。蒼頡篇に「鉞は斧なり」とある。
注[六]洛陽の北面西頭門で、門外に萬壽亭がある。
注[七]腐生とは、腐儒のようなもの。
注[八]非命とは、衰乱の世には多くの人が非業の死を遂げることを言う。
注[九]局は曲がる、蹐は足を重ねる。天は高いが雷霆があり、地は厚いが陥没があり、上下ともに畏れるべきであるという意味。詩経に「天は蓋し高しと言えども、敢えて局せざるを得ず、地は蓋し厚しと言えども、敢えて蹐せざるを得ず」とある。
注[一〇]殉は巡と同じ。『楚國先賢傳』に「班は字を季といい、宛の人である。若くして太学に遊学し、李固を師事し、才高く行い美しく、非類と交わらなかった。かつて沢のほとりで耕作し、粗末な衣服と粗食に甘んじた。李固の死を聞くと、星夜を分けて駆けつけ、泣き悲しみ哀悼の意を尽くした。司隷が状況を奏上したが、天子は罪を問わなかった。班は遂に遺体の傍らを十日間離れず守った。桓帝はその義烈を嘉し、漢中まで葬送することを許し、葬儀を終えて帰還した」とある。
李固の著作である章、表、奏、議、教令、対策、記、銘は合わせて十一篇。弟子の趙承らは悲嘆に耐えず、李固の言動をまとめて『徳行』一篇とした。
子 燮
燮は字を徳公という。初め、李固が策問で罷免された時、禍を免れないと悟り、三人の子を郷里に帰らせた。当時、燮は十三歳で、姉の文姫は同郡の趙伯英の妻となり、賢明で知恵があり、二人の兄が帰ってきたのを見て、事の次第を詳しく知り、黙って独り悲しんで言った。「李氏は滅びるであろう。太公以来、徳を積み仁を重ねてきたのに、どうしてこのような目に遭うのか」。密かに二人の兄と謀り、あらかじめ燮を匿うことにし、京師に戻ると偽って言いふらし、人々は皆それを信じた。しばらくして難が起こり、郡に命じて李固の三人の子を捕らえさせた。
二人の兄が殺害されると、文姫は父の門下生であった王成に告げて言った。「あなたは先公(父)のために義を貫き、古人のような節操をお持ちです。今、六尺の孤児をあなたに託します。李氏の存亡は、あなた次第です」。王成はその義に感じ、燮を連れて長江を東下し、徐州の境界内に入り、燮に姓名を変えて酒屋の雇い人とさせ、自分は市で占いをして生計を立てた。それぞれ別人を装い、密かに往来した。
注[二]六尺とは十五歳以下を指す。
注[三]謝承の『後漢書』には「燮は身を北海郡の劇県に遠く逃れ、滕咨の家に身を寄せて難を免れた」とあり、これとは異なる。
燮は(王成から)学問を受けた。酒屋の主人は燮を異様に思い、普通の人ではないと感じ、娘を燮の妻にした。燮は経学に専念し精進した。十数年後、梁冀が誅殺され、災異が頻発した。翌年、史官が上奏して赦令を出すべきであり、また冤死した大臣の子孫を登用録用すべきだと述べた。そこで天下に大赦が行われ、李固の後嗣を探し求めた。燮はこれまでの経緯を酒屋の主人に告げた。主人は車を用意し厚く送り出そうとしたが、燮は一切受け取らず、郷里に戻り、喪に服した。姉弟は再会し、その悲しみに周囲の人々も感動した。その後、姉は燮を戒めて言った。「父上は正しく直く、漢の忠臣であったが、朝廷が傾き乱れ、梁冀が暴虐を極めたために、我が家の祭祀が絶えようとしている。今、弟が幸いにも生き延びることができたのは、天の導きではないか。多くの人々との交わりを断ち、むやみに往来せず、くれぐれも梁氏について一言も言及してはならない。梁氏に言及すれば主上に連なり、禍が再び降りかかるであろう。ただ己の過ちを認めるだけにしなさい」。燮は謹んでその教えに従った。後に王成が亡くなると、燮は礼をもって葬り、旧恩を感傷し、四季の節目ごとに上賓の席を設けて祀った。
州郡から礼遇と招聘があり、四府(大将軍府、太尉府、司徒府、司空府)からも辟召を受けたが、いずれも就任せず、後に議郎に任命された。その在任中は清廉方正で自らを律し、交わる者は皆その短所を捨て長所を取り、人の美事を成し遂げるのを好んだ。当時、穎川の荀爽と賈彪は共に有名であったが互いに仲が悪かった。燮は二人と共に交際し、偏りや差別のない情けを示したので、世間はその公平正大さを称えた。
論語
「君子は天下に対して、特定の相手に偏ることもなく、特定の相手を遠ざけることもなく、義に従って行動するものである」と言う。
霊帝の時に安平の相に任命された。以前、安平王の劉続が張角の賊に拉致され、国家が王を贖い戻して帰還させたが、朝廷では彼の国を復活させる議論が行われた。
杜燮が上奏して言った。「劉続は国にあって善政を施さず、妖賊に捕らえられ、藩屏を守るにふさわしからず、聖朝の名誉を損なった。国を復活させるべきではない。」当時、議論する者は意見が分かれたが、結局劉続は藩国に帰った。杜燮は宗室を誹謗中傷したとして、左校に減刑されて労役に服した。一年も満たないうちに、王が果たして不道の罪で誅殺されると、杜燮は議郎に任命された。都ではこう言われた。「父は帝を立てようとせず、子は王を立てようとしなかった。」
河南尹に昇進した。当時はすでに財貨で官職を買うことが行われており、詔書によってさらに三億銭を無理やり徴発し、西園を充実させようとしていた。杜燮は上書して諫言し、その言葉と道理が深く切実であったため、帝はやめることにした。以前、潁川の甄邵が梁冀に諂い付き、鄴の県令となった。同年に挙げられた者が梁冀に罪を得て、甄邵のもとに逃亡してきたが、甄邵は偽って受け入れながら密かに梁冀に告げ、梁冀はすぐにその者を捕らえて殺した。甄邵が郡守に昇進することになった時、たまたま母が亡くなった。甄邵はまず母の遺体を馬小屋に埋め、先に封を受けてから、その後で喪を発した。甄邵が洛陽に戻ってきた時、杜燮は道中で彼に出会い、兵卒に命じて彼の車を溝に投げ入れ、鞭で乱打し、大きな布に「権勢者に諂い友を売り、貪欲な官は母を埋めた」と書いてその背中に貼り付けた。そして詳しくその状況を上表した。甄邵はついに終身、官職に就くことを禁止された。杜燮は在職二年で死去した。当時の人々は彼の家が代々忠義で正しいことを感じ、皆その死を悲しみ惜しんだ。
注[一] 事柄は『宦者伝』に見える。
杜喬
杜喬、字は叔榮、河内郡林慮県の人である。若い頃は諸生となり、孝廉に推挙され、司徒の楊震の府に召された。次第に昇進して南郡太守となり、転じて東海の相となり、入朝して侍中に任命された。
韓詩
京氏易、欧陽尚書を学び、孝行で称えられた。二千石の子孫であったが、常に徒歩で荷を担いで師を求めた。」林慮は、今の相州の県である。
漢安元年
杜喬を光禄大夫の職務を代行させ、兗州を巡察させた。太山太守の李固の政治が天下第一であると上表して奏上した。
陳留太守の梁譲、済陰太守の汜宮、済北相の崔瑗らの贓罪が千万以上であると奏上した。梁譲は大将軍梁冀の叔父であり、汜宮、崔瑗はともに梁冀が親しくしていた者たちであった。帰還後、太子太傅に任命され、大司農に転じた。
当時、梁冀の子弟五人および中常侍らが功績がないのにいっせいに封じられた。杜喬は上書して諫言した。「陛下は藩臣の身から飛躍され、天子として即位なさいました。天と人の心は陛下に属し、万国の頼るところであります。忠賢に対する礼を急がず、まず側近の者を封じることは、善を傷つけ徳を害し、佞諂を増長させることになります。臣は聞きます。古の明君は、褒賞と刑罰を必ず功績と過失に基づいて行い、末世の暗主は、誅罰と褒賞をそれぞれ私情に基づいて行うと。今、梁氏一門や宦官の卑しい者たちが、功績のないのに印綬を帯び、功労ある臣下の領土を分け与えられています。その道理に外れ乱れたことは、どうして言い尽くせましょうか。功績があっても褒賞されなければ、善を行う者は期待を失い、邪悪な者を問い詰めなければ、悪事を行う者はその凶行をほしいままにします。だから、斧鉞を示しても人は畏れず、爵位を授けても人々は励まされないのです。もしこのような道をそのままにすれば、政治を傷つけるだけでなく、乱を引き起こすのみならず、身を滅ぼし国を失うことになりましょう。慎重にすべきではありませんか。」上書は奏上されたが、省みられることはなかった。
注[一] 孽の音は魚列反。
公羊伝
『臣僕庶孽之事』とある。何休の注に『孽は賤子なり、猶ほ樹の孽生有るが如し』と云う。
注[二]蒼頡篇に『紱は綬なり』とある。
注[三]易の旅卦九四に『旅於處、其の資斧を得る』とある。前書音義に『資は利なり』とある。
益州刺史の種暠が、永昌太守の劉君世が金の蛇を梁冀に贈ったことを弾劾して上奏した。事が発覚し、蛇は司農に納められた。梁冀は杜喬から借りて見ようとしたが、喬は与えようとせず、冀はここに恨みを抱き始めた。累遷して大鴻臚となった。時に梁冀の幼い娘が死んだので、公卿に会葬を命じたが、喬だけは行かなかった。冀はさらにこれを恨んだ。
光禄勲に遷った。
建和元年、
胡広に代わって太尉となった。桓帝が梁冀の妹を娶ろうとした時、冀は厚礼をもって迎えさせようとしたが、喬は旧典に基づいて執り行い、聞き入れなかった。また、冀は喬に汜宮を尚書に推挙するよう依頼したが、喬は宮の贓罪が明らかであるとして、遂に用いようとせず、これによって日々冀に逆らうようになった。先に李固が罷免されて以来、朝廷内外は意気消沈し、群臣は恐れて側に立つばかりであったが、ただ喬だけは凛然として顔色を変えず、曲げることがなかった。これによって天下は嘆息し、朝野は彼を見守った。在位数か月で、地震の責任を問われて免官された。宦官の唐衡、左悺らは共に帝に讒言して言った。「陛下が先に即位なさった時、喬は李固と共に抗議し、陛下は漢の宗祀を奉ずるに堪えぬと申しました。」帝もまたこれを怨んだ。清河王劉蒜の事件が起こると、梁冀は遂に役人に唆して、喬と李固が劉鮪らと内通したと弾劾させ、逮捕して罪を問うよう求めた。しかし梁太后は元より喬の忠誠を知っていたので、ただ策書をもって免官しただけだった。冀はますます怒り、人をやって喬を脅して言った。「早く適切な処置(自決)に従えば、妻子は全うできる。」喬は従わなかった。翌日、冀は騎兵をその門に遣わしたが、泣き声が聞こえなかったので、遂に報告して捕らえ獄に繋いだ。喬は獄中で死んだ。妻子は故郷の郡に帰された。李固と共に城北に晒し者にされ、家族や旧知の者で敢えて見る者はなかった。
注[一]時に役人が上奏して言った。「春秋には紀より王后を迎えるに、途上では既に后と称する。今、大将軍梁冀の妹は礼の規定を備えるべきであり、時に応じて幣帛を進めるべきである。」上奏は認可された。そこで全て孝恵帝が后を迎えた故事に依り、黄金二万斤を聘礼とし、納采の雁、璧、乗馬を納め、全て旧典の通りに行った。
注[二]回は邪なり。橈は曲がるなり。
注[三]抗は挙ぐるなり。
注[四]続漢書に「喬の門下生であった耿伯がかつて劉鮪と同宿しており、冀は役人に唆して劉鮪を捕らえ、喬の門下生であるとさせた」とある。
注[五]「宜に従う」とは、自尽するよう命じることである。
楊匡
喬の旧属吏であった陳留の楊匡はこのことを聞き、泣き叫びながら星の下を駆けて洛陽に到着した。そして古い赤い幘を被り、夏門の亭吏を装って、屍を守り喪に服し、蝿や虫を追い払い、十二日間経った。都官従事が彼を捕らえて上奏した。梁太后はその義心を認めて罪に問わなかった。匡はそこで鈇鍎(斧と鉄の腰当て、刑吏の装いか)を帯びて宮門に赴き上書し、李固と杜喬の両公の遺骨の返還を乞うた。太后はこれを許した。匡は礼を成して殯殮し、喬の喪を家に送り届け、葬送し喪服を着て、身を隠して仕官しなかった。匡は初め好学で、常に外黄の大沢で門徒を教授していた。蘄の長に補され、政績に優れたものがあったため、平原令に遷った。時に国相の徐曾は、中常侍徐璜の兄であった。匡は彼と共に事を執ることを恥じ、病気と称して雲の下で豚を飼ったという。
注[二]袁山松の『書』によれば、匡は別名を章といい、字は叔康である。
史論
論じて言う。仁人と称される者は、その道が広大である![一] 言葉を立てて実行し、[二] ただ名声を求め己を安んじるだけではない。[三] 去就の節を定め、天下の風潮を正し、生きては道理を全うし、死しては義と合致させるためである。[四] 専ら義のためとすれば生を損ない、[五] 専ら生のためとすれば義に背き、[六] 専ら外物のためとすれば知恵を害し、[七] 専ら己のためとすれば仁を損なう。もし義が生より重ければ、生を捨てることもできる。もし生が義より重ければ、生を全うすることもできる。[八] 上においては君主が残虐暗愚で君道を失い、下においては臣下が篤実固執して臣節を尽くす。臣節を尽くして死ぬことは、身を殺して仁を成すことであり、去ることは、生き延びて仁を害すことを求めることではない。[九] 順帝・桓帝の間、国統は三度絶え、太后が制を称し、賊臣が虎視眈々としていた。李固は高位に据わって重きを保ち、大義を争い、確固として奪うことができなかった。[一〇] どうして節操を守ることが禍を招くことを知らなかっただろうか。任を覆し折る傷を恥じたのである。[一一] その正しい言葉を発し、梁冀に遺した書簡を見ると、機を失い謀略が外れているにもかかわらず、なお執着してやめることができなかった。極まりである、社稷を思う心は! 胡広や趙戒を見るのは、まるで糞土を見るようである。注[一] 弘は大である。一つの道ではないという意味。
注[二] その言葉を立てれば、必ず実行する。
注[三] 徇は求めること。
注[四] □は節である。立身の道は、孝と忠のみであり、生死の義を全うするには、その所を得る必要がある。
注[五] 義を貴べば生を賤しむ。
注[六] 騫は背くこと。
注[七] 外物のためとすれば知恵に使役されるので、害となる。
注[八] 孟子に言う。「魚は私の欲するもの、熊の掌も私の欲するもの。両方を兼ね得なければ、魚を捨てて熊の掌を取る。
生も私の欲するもの、義も私の欲するもの。両方を兼ね得なければ、生を捨てて義を取る。」
注[九] 論語に「仁を害してまで生き延びようと求めることはなく、身を殺して仁を成すことはある。」
注[一〇] 確は堅固な様子。易に「確乎として抜くべからず」とある。論語に「大節に臨んで奪うべからず」とある。
注[一一] 易に「鼎の足折れ、公の餗を覆す」とある。その任に堪えないという意味。
賛に曰く、李と杜は職を司り、心を同じくして力を合わせた。
注[一]朋は猶お同じきなり。
注[三]離は、被るなり。毛詩に曰く、「讒人罔極」と。
注[四]趙朔の子、趙武。史記に曰く、晋の景公三年、大夫の屠岸賈が趙朔を殺し、朔の客である程嬰と公孫杵臼が朔の遺腹の子を中山に匿う。十五年を経て、後に景公が韓厥と共に趙の孤児を立て、屠岸賈を攻め滅ぼした。
注[五]載は、行うなり。