後漢書

巻六十二・荀韓鍾陳列伝第五十二

巻六十二・荀韓鍾陳列伝第五十二

荀

原文荀

荀淑

原文荀淑

荀淑は字あざなを季和といい、潁川郡潁陰県の人である。荀卿の十一世の孫である。(荀卿は名を況といい、趙の人である。楚の蘭陵県令となった。著書二十二篇があり、荀卿子と号した。宣帝の諱いみなを避けたため、後に「孫」と改めた。)若い頃から高い品行を持ち、博学であったが章句の学を好まず、多くの俗儒から非難されたが、郷里では人を見抜く眼力があると称賛された。

原文荀淑字季和,穎川穎陰人(也),荀卿十一世孫也。(卿名況,趙人也。為楚蘭陵令。著書二十二篇,號荀卿子。避宣帝諱,故改曰「孫」也。)少有高行,博學而不好章句,多為俗儒所非,而州里稱其知人。

安帝の時、郎中に任命され、後に再び当塗県の長となった。(当塗は県名で、故城は現在の宣州にある。)官職を辞して郷里に戻った。当時の名賢である李固や李膺らは皆、彼を師と仰いだ。梁太后が臨朝した時、日食や地震の変異があり、詔によって公卿に賢良方正を推薦させたところ、光禄勲の杜喬と少府の房植が荀淑を推挙して対策を述べさせたが、その内容が権貴や寵臣を風刺したため、大将軍梁冀に憎まれ、朗陵侯の相に左遷された。(『続漢書』によれば、荀淑が対策で梁氏を風刺したため、左遷されたのである。職務を明らかに道理に従って行い、「神君」と称された。)間もなく官を棄てて帰郷し、閑居して志を養った。財産が増えるたびに、宗族や知人友人を援助した。六十七歳で、建和三年に死去した。李膺は当時尚書であったが、自ら師の喪に服することを上表した。(『礼記』に「師に仕えては犯さず隠さず、左右に就いて養い方なく、勤めに服して心を尽くし、心の喪を三年する」とある。)二県(潁陰と朗陵か)は皆、彼のために祠を建てた。八人の子があった:儉、緄、靖、燾、汪、爽、肅、専。皆名声があり、当時の人は「八龍」と呼んだ。(緄の音は昆。燾の音は道。汪の音は烏光の反切。『説文』によれば「汪は深く広いこと」という。俗本が「注」と改めるのは誤り。「専」はある本では「敷」と作る。)

原文安帝時,徵拜郎中,後再遷當塗長。(當塗,縣名,故城在今宣州。)去職還鄉里。當世名賢李固、李膺等皆師宗之。及梁太后臨朝,有日食地震之變,詔公卿舉賢良方正,光祿勳杜喬、少府房植舉淑對策,譏刺貴倖,為大將軍梁冀所忌,出補朗陵侯相。(《續漢書》曰:淑對策譏刺梁氏,故出也。馬事明理,稱為神君。)頃之,弃官歸,閒居養志。產業每增,輒以贍宗族知友。年六十七,建和三年卒。李膺時為尚書,自表師喪。(《禮記》曰「事師無犯無隱,左右就養無方,服勤至心,心喪三年」也。)二縣皆為立祠。有子八人:儉,緄,靖,燾,汪,爽,肅,專,並有名稱,時人謂[之]「八龍。」(緄音昆。燾音道。汪音烏光反。《說文》云:「汪,深廣也。」俗本改作「注」,非。「專」本或作「敷」。)

かつて、荀氏の旧里は西豪里と呼ばれていた。(現在の許州城内の西南に荀淑の故宅があり、伝承では旧西豪里であるという。)潁陰県令の勃海郡の苑康は、昔高陽氏に八人の才子があった(『左伝』に「昔、高陽氏に才子八人がいた:蒼舒、隤敳、檮戭、大臨、尨降、庭堅、仲容、叔達」とある)ことから、今荀氏にも八人の子がいるので、その里の名を高陽里と改めた。

原文初,荀氏舊里名西豪,(今許州城內西南有荀淑故宅,相傳云即舊西豪里也。)穎陰令勃海苑康以為昔高陽氏有才子八人,(《左傳》曰:「昔高陽氏有才子八人:蒼舒,隤敳,檮戭,大臨,尨降,庭堅,仲容,叔達。」)今荀氏亦有八子,故改其里曰高陽里。

荀靖は至高の品行を持ち、仕官せず、五十歳で亡くなり、玄行先生と号された。(皇甫謐の『高士伝』によれば「靖は字を叔慈といい、若い頃から優れた才能があり、行動は礼に従った。靖の弟の爽も才能で当時に名声を顕した。ある人が汝南の許章に『爽と靖とではどちらが賢いか』と尋ねた。章は言った『どちらも玉である。慈明(爽)は外に輝き、叔慈(靖)は内に潤いがある』と。靖が死去した時、学問を志す者たちは彼を惜しみ、靖のために誄を書いた者は二十六人に及んだ。潁陰県令の丘禎が靖を追号して玄行先生とした」という。)

原文靖有至行,不仕,年五十而終,號曰玄行先生。(皇甫謐《高士傳》曰「靖字叔慈,少有俊才,動止以禮。靖弟爽亦以才顯於當時。或問汝南許章曰:『爽與靖孰賢?』章曰:『皆玉也。慈明外朗,叔慈內潤。』及卒,學士惜之,誄靖者二十六人。穎陰令丘禎追號靖曰玄行先生」也。)

荀淑の兄の子に荀昱(字は伯條)と荀曇(字は元智)がいた。荀昱は沛国の相となり、荀曇は広陵太守となった。兄弟ともに身を正し悪を憎み、宦官を除くことを志した。その一派や賓客で二郡にいる者は、些細な罪でも必ず誅罰した。荀昱は後に大将軍竇武と共に宦官誅滅を謀り、李膺と共に死んだ。荀曇も終身にわたり禁錮された。

原文淑兄子昱字伯條,曇字元智。昱為沛相,曇為廣陵太守。兄弟皆正身疾惡,志除閹宦。其支黨賓客有在二郡者,纖罪必誅。昱後共大將軍竇武謀誅中官,與李膺俱死。曇亦禁錮終身。

荀爽

原文荀爽

爽は字を慈明といい、一名を諝といった。(音は息汝の反切。)幼い頃から学問を好み、十二歳で『春秋』と『論語』に通じた。太尉の杜喬は彼を見て称賛し、「人の師となることができる」と言った。爽はそこで経書の思索に耽り、慶弔の行事にも行かず、朝廷からの招聘にも応じなかった。潁川では彼について「荀氏の八龍、慈明は比類なし」と言う謡が生まれた。

原文爽字慈明,一名諝。(音息汝反。)幼而好學,年十二,能通《春秋》、《論語》。太尉杜喬見而稱之,曰:「可為人師。」爽遂耽思經書,慶吊不行,征命不應。穎川為之語曰:「荀氏八龍,慈明無雙。」

延熹九年、太常の趙典が爽を至孝として推挙し、郎中に任命された。爽は対策を上奏して便宜を述べた:

原文延熹九年,太常趙典舉爽至孝,拜郎中。對策陳便宜曰:

臣が師から聞いたところによりますと、「漢は火徳であり、火は木から生じ、木は火によって盛んとなるので、その徳は孝である(火は木の子であり、夏は火の位である。木は夏に至って盛んとなるので、孝となる。その象は『周易』の離卦にある)。」地にあるものは火であり、天にあるものは日である(『易』説卦伝に「離は火であり、日である」という)。天にあるものはその精を用い、地にあるものはその形を用いる。夏には火が旺じ、その精は天にあり、温暖の気は百木を養い育てる。これが孝である。冬の時には廃れ、その形は地にあり、酷烈の気は山林を焼き払う。これが不孝である。それゆえ漢の制度では天下に『孝経』を誦読させ、官吏を選ぶ際には孝廉を推挙するのである(平帝の時、王莽が子孫を戒める書八篇を作り、学官に教授させ、官吏でこれを誦読できる者は『孝経』と同等とみなした。音義によれば「これを用いて選挙を得ることを言う」という)。喪に服して親に自ら尽くすことは、孝の極みである(尽くすとは、その哀戚を尽くすことを言う)。今の公卿および二千石の官は、三年の喪に服してもすぐに職務を離れることができない。これはおそらく孝道を増し崇めることにも、火徳に相応しいことにもならないであろう。かつて孝文皇帝は労して謙り、行いは倹約に過ぎた(『易』謙卦の九三爻に「労して謙る君子は終わりに吉あり」という)ため、日をもって月に代えるという遺詔を出した。これは当時の適宜の措置であって、万世に貫くべきものではない。古今の制度には損益があっても、諒闇の礼は改め移されたことはなく、天下に親を忘れないことを示してきたのである(遺は忘れること)。今、公卿百官は皆、政治と教化の模範となるべき存在であるのに、父母の喪があっても駆けつけることができない。仁義の行いは、上から始まるものであり、敦厚な風俗は、下に応じて起こるものである。伝に言う「喪祭の礼が欠ければ、人臣の恩は薄くなり、死者を背き生者を忘れる者が多くなる」と。曾子は言った「人は自ら極めることはないが、必ずや親の喪においてはそうするであろう」(『論語』に見える。致は尽くす、極めるの意)。春秋伝に言う「上の行うところは、民の帰するところである」(『左氏伝』臧武仲の言葉)。上もしないことを民がするならば、刑罰を加えるのである。もし上の行うことを民も行うならば、どうして誅罰できようか。昔、丞相の翟方進は、自ら宰相であることを備え、制度を越えることを敢えてしなかった。母の憂いに遭った時、三十六日で喪を除いた(『前漢書』に翟方進が丞相となり、継母の憂いに遭い、喪服を着て三十六日で視事に就き、「国の制度を越えることはできない」と言ったとある)。礼を失う源は、上から始まるのである。古くは大喪の時には三年間その門を呼ばなかった(『公羊伝』の文である。何休の注に「孝子の恩を重んじて奪うことを避ける」という)。これは国を崇め風俗を厚くし教化を篤くする道である。事が宜しからざる時は正すべきであり、過ちがあれば改めることを恐れてはならない(憚は困難とする意)。天下の通ずる喪は、旧来の礼の通りにすべきである(『礼記』に「三年の喪は、天下の通ずる喪である」という)。

原文:臣聞之於師曰:「漢為火德,火生於木,木盛於火,故其德為孝,(火,木之子;夏,火之位。木至夏而盛,故為孝。其像在周易之離。)」夫在地為火,在天為日。(易說卦曰「離為火,為日」也。)在天者用其精,在地者用其形。夏則火王,其精在天,溫暖之氣,養生百木,是其孝也。冬時則廢,其形在地,酷烈之氣,焚燒山林,是其不孝也。故漢制使天下誦孝經,選吏舉孝廉。(平帝時,王莽作書八篇戒子孫,令學官以教授,吏能誦者比《孝經》。音義云:「言用之得選舉之也。」)夫喪親自盡,孝之終也。(盡謂盡其哀戚也。)今之公卿及二千石,三年之喪,不得即去,殆非所以增崇孝道而克稱火德者也。往者孝文勞謙,行過乎儉,(《易》謙卦九三爻:「勞謙君子,有終吉。」)故有遺詔以日易月。此當時之宜,不可貫之萬世。古今之制雖有損益,而諒闇之禮未嘗改移,以示天下莫遺其親。(遺,忘也。)今公卿羣寮皆政教所瞻,而父母之喪不得奔赴。夫仁義之行,自上而始;敦厚之俗,以應乎下。傳曰:「喪祭之禮闕,則人臣之恩薄,背死忘生者眾矣。」曾子曰:「人未有自致者,必也親喪乎!」(事見《論語》。致猶盡也,極也。)春秋傳曰:「上之所為,民之歸也。」(《左氏傳》臧武仲之言。)夫上所不為而民或為之,故加刑罰;若上之所為,民亦為之,又何誅焉?昔丞相翟方進,以自備宰相,而不敢踰制。至遭母憂,三十六日而除。(前書翟方進為丞相,遭後母憂,行服三十六日起視事,曰:「不敢踰國制也。」)夫失禮之源,自上而始。古者大喪三年不呼其門,(《公羊傳》之文也。何休注云:「重奪孝子之恩。」)所以崇國厚俗篤化之道也。事失宜正。過勿憚改。(憚,難也。)天下通喪,可如舊禮。(《禮記》曰:「三年之喪,天下之通喪也。」)

私は聞く、夫婦があって後に父子があり、父子があって後に君臣があり、君臣があって後に上下があり、上下があって後に礼義があると。礼義が備われば、人は身を置くべきところを知るのである。(語は易序卦に見える。)夫婦は人倫の始まりであり、王化の端緒である。だから文王が易を作ったとき、上経は乾・坤を冒頭とし、下経は咸・恒を冒頭とした。(易では乾・坤から離までが上経、咸・恒から未済までが下経である。)孔子は言う。「天は尊く地は卑しい、乾坤が定まるのである。」(易繋辞の文。)夫婦の道は、いわゆる順である。堯典に言う。「二女を媯汭に降嫁させ、虞に嫁がせた。」降とは下ること、嬪とは嫁ぐことである。帝堯の娘であっても、虞に下嫁するときは、なお身を屈めて降下し、婦道を勤め修めたのである。易に言う。「帝乙が妹を嫁がせ、福をもたらし大いに吉である。」(易泰卦六五爻の辞。王輔嗣の注に言う。「婦人は嫁ぐことを帰という。泰は陰陽が通じ合う時である。女が尊位にあり、中を履み順に居り、身を降して二に応ずる。帝乙が妹を嫁がせるのは、まさにこの義に合致する。」案ずるに《史記》では紂の父の名は帝乙であるが、この文では帝乙を湯とし、湯の名は天乙である。)婦人が嫁ぐことを帰というのは、湯が婚礼の礼をもってその妹を諸侯に嫁がせたことを言う。春秋の義では、王姫が斉に嫁ぐとき、魯に主とさせ、天子の尊さを諸侯に加えなかった。(《公羊伝》に言う。「夏の単伯が王姫を迎えた。単伯とは何か。我が大夫で天子から命を受けた者である。なぜ使と称さないのか。天子が召して迎えさせたからである。迎えるとはどういうことか。我に主とさせたのである。なぜ我に主とさせるのか。天子が諸侯に娘を嫁がせるには、必ず同姓の諸侯に主とさせるからである。」何休の注に言う。「自ら主とならないのは、尊卑が対等でないからである。」)今、漢は秦の法を継承し、公主を娶る儀礼を設け、妻が夫を制し、卑しい者が尊い者に臨む。これは乾坤の道に背き、陽が唱えるという義を失っている。(易緯に「陽が唱え陰が和す」とある。)

原文:臣聞有夫婦然後有父子,有父子然後有君臣,有君臣然後有上下,有上下然後有禮義。禮義備,則人知所厝矣。(語見易序卦也。)夫婦人倫之始,王化之端,故文王作易,上經首干、坤,下經首鹹、恆。(易乾、坤至離為上經,鹹、恆至未濟為下經。)孔子曰:「天尊地卑,乾坤定矣。」(易系辭也。)夫婦之道,所謂順也。堯典曰:「厘降二女於媯汭,嬪於虞。」降者下也,嬪者婦也。言雖帝堯之女,下嫁於虞,猶屈體降下,勤修婦道。易曰:「帝乙歸妹,以祉元吉。」(易泰卦六五爻辭也。王輔嗣注云:「婦人謂嫁曰歸。泰者,陰陽交通之時,女處尊位,履中居順,降身應二,帝乙歸妹,誠合斯義也。」案《史記》紂父名帝乙,此文以帝乙為湯,湯名天乙也。)婦人謂嫁曰歸,言湯以娶禮歸其妹於諸侯也。春秋之義,王姬嫁齊,使魯主之,不以天子之尊加於諸侯也。(《公羊傳》曰:「夏單伯逆王姬。單伯者何?吾大夫之命於天子者。何以不稱使?天子召而使逆之。逆之者何?使我主之也。曷為使我主之?天子嫁女於諸侯,必使同姓諸侯主之。」何休注云:「不自為主,尊卑不敵也。」)今漢承秦法,設尚主之儀,以妻制夫,以卑臨尊,違乾坤之道,失陽唱之義。(易緯曰「陽唱而陰和」也。)

孔子は言う。「昔、聖人が易を作ったとき、仰いでは天に象を観、俯しては地に法を察し、鳥獣の文と地の宜を観た。近くは身に取り、遠くは物に取り、神明の徳を通じさせ、万物の情を類推した。」(いずれも易繋辞の文である。)今、天に法を観れば、北極が最も尊く、四星が妃后である。(北極は北辰。軒轅四星は女主の象である。)地に法を察すれば、高い山は夫に象り、低い沢は妻に象る。(櫫は高いの意。易で艮下兌上が咸。艮は山で夫の象。兌は沢で妻の象。咸は感。山沢は気を通じ、夫婦が互いに感ずるのである。)鳥獣の文を観れば、鳥では雄が鳴き、雌が順服する。獣では牡が唱導し、牝が相従う。近く身に取れば、乾は人の首、坤は人の腹である。(易説卦の文。)遠く物に取れば、木の実は天に属し、根は地に属する。(荄の音は該。)陽は尊く陰は卑しいのは、およそ天性である。また詩の初篇はまさに関雎を冒頭とし、礼では冠礼・婚礼を始めとし、まず夫婦を正す。(儀礼では士冠礼が始め、士婚礼がそれに次ぐ。)天地と六経は、その主旨は一つである。公主を娶る制度を改め、乾坤の性にふさわしくすべきである。堯・湯の法に従い、周・孔の道を範とせよ。(式は法とする意。)天地に合わせても誤りなく、鬼神に質しても疑いがない。人事がこのようであれば、嘉瑞が天から降り、吉符が地から出て、五つの善い徴候がすべて備わり、それぞれその順序に従うであろう。(韙は是。《史記》に言う。「善い徴候:肅であれば、時に雨が順調に降る;乂であれば、時に日が順調に照る;哲であれば、時に暖かさが順調である;謀であれば、時に寒さが順調である;聖であれば、時に風が順調に吹く。」五つの善い徴候が来て備わり、それぞれその順序に従うのである。)

原文:孔子曰:「昔聖人之作易也,仰則觀象於天,俯則察法於池,鶯鳥獸之文,與地之宜。近取諸身,遠取諸物,以通神明之德,以類萬物之情。」(皆易系之文也。)今觀法於天,則北極至尊,四星妃後。(北極,北辰也。軒轅四星,女主之象也。)察法於地,則櫫山象夫,卑澤象妻。(櫫猶高也。易艮下兌上為鹹。艮為山,夫象也。兌為澤,妻象也。鹹,感也。山澤通氣,夫婦之相感也。)鶯鳥獸之文,鳥則雄者鳴鴝,雌能順服;獸則牡為唱導,牝乃相從。近取諸身,則干為人首,坤為人腹。(易說卦之文也。)遠取諸物,則木實屬天,根荄屬地。(荄音該。)陽尊陰卑,蓋乃天性。且詩初篇實首關雎;禮始冠、婚,先正夫婦。(儀禮士冠禮為始,士婚禮次之。)天地六經,其旨一揆。宜改尚主之制,以稱乾坤之性。遵法堯、湯,式是周、孔。(式,法也。)合之天地而不謬,質之鬼神而不疑。人事如此,則嘉瑞降天,吉符出地,五韙鹹備,各以其敍矣。(韙,是也。《史記》曰:「休征:曰肅,時雨若;曰乂,時(陽)[暘]若;曰哲,時燠若;曰謀,時寒若;曰聖,時風若。」五是來備,各以其敍也。)

昔、聖人は天地の中を立てて礼と称した。礼とは、福祥を興す根本であり、禍乱を止める源である。人が欲望を曲げて礼に従えば、福はこれに帰する。情に順じて礼を廃すれば、禍はこれに帰する。禍福の応ずる所を推し、興廃の由来を知るのである。多くの礼の中で、婚礼が第一である。だから天子は十二人を娶る。これは天の数である。諸侯以下はそれぞれ等差があり、事が降るのである。(《白虎通》に言う。「天子が十二人を娶るのは天に法り、十二月があり、百物がすべて生ずるからである。」また「諸侯は九人の女を娶る」ともある。)陽の性は純粋で施すことができ、陰の体は順で化すことができる。礼をもって楽を助け、その気を節度をもって発散させる。(《左伝》に、昔晋侯が病気になり、医和が診て言った。「病気は治せません。これは女に近づきすぎたためで、病気は蠱のようであり、鬼でも食物でもなく、惑って志を失ったのです。」公が言った。「女に近づいてはならないのか。」答えて言った。「節度をもってすべきです。先王の楽は、百事を節度づけるためのものです。天には六気があり、過ぎれば災いとなります。」そこでその気を節度をもって発散させるのである。)だから子孫の祥を豊かにし、老寿の福を招くことができる。三代の末期になると、淫らで節度がなくなった。瑤台・傾宮に、妾を数百人並べた。(列女伝に、夏の桀は琁室・瑤台を造り、雲雨に臨んだ。紂は傾宮を造った。解釈は桓帝紀に見える。)陽は上で尽き、陰は下で隔てられた。だから周公の戒めに言う。「農耕の艱難を知らず、小人の労苦を聞かず、ただ耽楽に従うばかりでは、時に長寿を保つ者もいない。」これが明らかな戒めである。(事は《尚書無逸篇》に見え、その言葉はこれとわずかに異なる。)後世の人々は、福を好みながらその根本に努めず、禍を憎みながらその軌道を改めない。伝に言う。「足を削って履に合わせる、誰が愚かだと言えようか。この人たちと比べて、欲望を追って身を喪うのはどうか。」まことに痛むべきことである。(適は従う意。身を喪う愚かさは、足を削るよりも甚だしいと言う。)

原文:昔者聖人建天地之中而謂之禮,禮者,所以興福祥之本,而止禍亂之源也。人能枉欲從禮者,則福歸之;順情廢禮者,則禍歸之。推禍福之所應,知興廢之所由來也。眾禮之中,婚禮為首。故天子娶十二,天之數也;諸侯以下各有等差,事之降也。(《白武通》曰:「天子娶十二,法天,則有十二月,百物畢生也。」又曰「諸侯娶九女」也。)陽性純而能施,陰體順而能化,以禮濟樂,節宣其氣。(《左傳》曰,昔晉侯有疾,醫和視之,曰:「疾不可為也。是為近女室,疾如蠱,非鬼非食,惑以喪志。」公曰:「女不可近乎?」對曰:「節之。先王之樂,所以節百事也。天有六氣,過則為災。」於是乎節宣其氣也。)故能豐子孫之祥,致老壽之福。及三代之季,淫而無節。瑤台、傾宮,陳妾數百。(列女傳曰,夏桀為琁室、瑤台,以臨雲雨,紂為傾宮。解見桓帝紀也。)陽竭於上,陰隔於下。故周公之戒曰:「不知稼穡之艱難,不聞小人之勞,惟耽樂之從,時亦罔或克壽。」是其明戒。(事見《尚書無逸篇》,其詞與此微有不同也。)後世之人,好福不務其本,惡禍不易其軌。傳曰:「𢧵趾適履,孰雲其愚?何與斯人,追欲喪軀?」誠可痛也。(適猶從也。言喪身之愚,甚於□趾也。)

私はひそかに聞く、後宮の采女は五、六千人おり、従官や侍使がさらにその外にいる。冬夏の衣服、朝夕の食糧供給は、絹帛を消耗し、府庫を空しくし、徴発と調達は倍増し、十分の一の税を課し、罪のない民に空しい賦役を課して、無用の女を養っている。百姓は外で窮困し、陰陽は内で隔て塞がれている。だから和気を動かし、災異がしばしば至るのである。私の愚見では、礼に則った聘礼を受けず、いまだ寵幸を受けていない者は、すべて遣い出して、妃匹を成させてはどうか。第一に、怨みと空しさを通じさせ、陰陽を和らげる。第二に、財用を省き、府庫を充実させる。第三に、礼制を修め、長寿を安らかにする。第四に、陽の施しに配し、螽斯を祈る。(螽斯は蚣蝑で、その性は嫉妬せず、だから子孫が多く生まれる。詩に言う。「螽斯の羽、詵詵たり。宜しく爾の子孫、振振たり。」)第五に、役賦を緩め、黎民を安んじる。これはまさに国家の大きな利益であり、天人の大いなる福である。

原文:臣竊聞後宮采女五六千人,從官侍使復在其外。冬夏衣服,朝夕稟糧,耗費縑帛,空竭府藏,徵調增倍,十而稅一,空賦不辜之民,以供無用之女,百姓窮困於外,陰陽隔塞於內。故感動和氣,災異屢臻。臣愚以為諸非禮聘未曾幸御者,一皆遣出,使成妃合。一曰通怨曠,和陰陽。二曰省財用,實府藏。三曰修禮制,綏眉壽。四曰配陽施,祈螽斯。(螽斯,蚣蝑也,其性不妒,故能子孫眾多。詩曰:「螽斯羽,詵詵兮。宜爾子孫,振振兮。」)五曰寬役賦,安黎民。此誠國家之弘利,天人之大福也。

寒さと暑さ、暗さと明るさがあるからこそ一年が成り立ち、尊卑と奢りと倹約があるからこそ礼が成り立つ。すなわち、暗明寒暑の気と、尊卑侈約の礼がその節度なのである。易経に言う、「天地に節度があって四時が成る」。春秋伝に言う、「器と名だけは人に貸してはならない」。孝経に言う、「上を安んじ民を治めるには、礼に優るものはない」。礼とは、尊卑の差別、上下の制度である。昔、季氏が八佾の舞を庭で舞ったが、人や物を害して困らせたわけではないのに、孔子はなお「これを忍ぶならば、何を忍ばないことがあろうか」と言った。洪範に言う、「君主だけが威を示し、君主だけが福を与え、君主だけが玉のような食事をとる」。この三つはすべて、君主だけが行い臣下が同じにしてはならないことである。今、臣下が君主の服を僭称せんしょうし、下の者が上の者の珍味を食らうのは、いわゆる家を害し国に凶事をもたらすものである。おおよそ古礼の尊卑の差別と、董仲舒の制度の区別に依拠し、厳しく有司を監督して、必ずその命令を行わせるべきである。これこそが乱を禁じ俗を善くし用を足らしめる要諦である。

原文:夫寒熱晦明,所以為歲;尊卑奢儉,所以為禮:故以晦明寒暑之氣,尊卑侈約之禮為其節也。易曰:「天地節而四時成。」(節卦彖辭文也。)春秋傳曰:「唯器與名不可以假人。」(杜預注左氏云:「器謂車服,名謂爵號。」)《孝經》曰:「安上治民,莫善於禮。」禮者,尊卑之差,上下之制也。昔季氏八佾舞於庭,非有傷害困於人物,而孔子猶曰「是可忍也,孰不可忍」。洪範曰:「惟闢作威,惟闢作福,惟辟玉食。」凡此三者,君所獨行而臣不得同也。今臣僭君服,下食上珍,所謂害於而家,凶於而國者也。宜略依古禮尊卑之差,及董仲舒制度之別,(《前書》董仲舒曰:「王者正法度之宜,別上下之序,以防欲也。」)嚴(篤)[督]有司,必行其命。此則禁亂善俗足用之要。

上奏して聞かせると、すぐに官を棄てて去った。

原文奏聞,即弃官去。

後に党錮の禍に遭い、海上に隠れ、さらに南へ漢水のほとりに逃れ、十余年を積み重ね、著述を事とし、ついに碩儒と称された。党禁が解けると、五府がこぞって辟召し、司空の袁逢が有道として推挙したが、応じなかった。袁逢が亡くなると、爽は喪服を着て三年間喪に服し、当時の人々はしばしばこれを見習って習俗とした。当時、多くの人は妻の喪服を着ることを行わず、親の憂いの中にあってもなお喪や病気を見舞う者がおり、また私的にその君主や父や諸名士に諡を贈っていたが、爽はみな大義を引き据え、経典によってこれを正した。すべてが変わるわけではなかったが、かなり改められた。

原文後遭黨錮,隱於海上,又南遁漢濱,積十餘年,以著述為事,遂稱為碩儒。黨禁解,五府並辟,司空袁逢舉有道,不應。及逢卒,爽制服三年,當世往往化以為俗。時人多不行妻服,雖在親憂猶有弔問喪疾者,又私謚其君父及諸名士,爽皆引據大義,正之經典,雖不悉變,亦頗有改。(喪服曰:「夫為妻齊縗杖開。」禮記曰:「曾子問:『三年之喪吊乎?』孔子曰:『禮以飾情。三年之喪而吊哭,不亦虛乎!』」)

後に公車が徴して大将軍何進の従事中郎とした。何進は彼が来ないことを恐れ、迎えて侍中に推薦したが、何進が敗れると詔命は中途で絶えた。献帝が即位すると、董卓が政を輔け、再び彼を徴した。爽は徴命を逃れようとしたが、役人が厳しく拘束したため、去ることができず、やむなく就任して平原の相に任ぜられた。宛陵まで行くと、再び追って光禄勲に任ぜられた。職務について三日で、司空に進んだ。爽が徴命を受けてから台司に登るまで、九十五日であった。これに従って長安に遷都した。

原文後公車徵為大將軍何進從事中郎。進恐其不至,迎薦為侍中,及進敗而詔命中絕。獻帝即立,董卓輔政,復徵之。爽欲遁命,吏持之急,不得去,因復就拜平原相。行至宛陵,復追為光祿勳。視事三日,進拜司空。爽自被徵命及登臺司,九十五日。因從遷都長安。

爽は董卓の残忍暴虐がますます甚だしくなり、必ずや社稷を危うくすると見て、彼が辟挙する者はみな才略のある士を選び、共にこれを図ろうとした。また司徒の王允や董卓の長史の何顒らと内々に謀った。病気で薨じ、六十三歳であった。

原文爽見董卓忍暴滋甚,必危社稷,其所辟舉皆取才略之士,將共圖之,亦與司徒王允及卓長史何顒等為內謀。會病薨,年六十三。

礼、易伝、詩伝、尚書正経、春秋条例を著し、また漢代の事柄で成敗の鑑戒となるべきものを集めて『漢語』と称した。また公羊問及び弁讖を作り、その他の論述とともに、『新書』と題した。合わせて百余篇あったが、今は多くが散逸欠落している。

原文著禮、易傳、詩傳、尚書正經、春秋條例,又集漢事成敗可為鑒戒者,謂之《漢語》。又作公羊問及辯讖,並它所論敍,題為新書。凡百餘篇,今多所亡缺。

兄の子の悦と彧はともに名を知られた。彧は別に伝がある。

原文兄子悅、彧並知名。彧自有傳。

論じて言う。荀爽、鄭玄、申屠蟠はともに儒行をもって処士とし、累次徴召されてもみな病気と称して赴かなかった。董卓が朝政を執ると、再び礼を整えて召し出した。蟠と玄はついに屈せず、その高潔を全うした。爽はすでに黄髪の年齢であり、ただ一人で赴き、百日と経たないうちに卿相の位を得た。その趣向の違いを疑う者もいるが、私はひそかにその心情を推し量るに、出処進退は君子の大筋であり、平穏な世運であれば道を弘めて志を求め、世が衰えれば跡を濡らして時を匡すものだ。荀公の急ぎ自らを励ますのは、その跡を濡らすことではなかったか。そうでなければ、どうして貞吉に背いて虎の尾を踏むようなことをしたのか。その遷都の議を控えめに述べて、楊彪、黄琬の禍を救おうとしたことを見よ。後にひそかに董氏を図り、ほとんど国命を振るわんとしたのは、いわゆる「大いなる直は屈するが如し」であり、道はもとより曲折しているのである。

原文論曰:荀爽、鄭玄、申屠蟠俱以儒行為處士,累征並謝病不詣。及董卓當朝,復備禮召之。蟠、玄竟不屈以全其高。爽已黃發矣,獨至焉,未十旬而取卿相。意者疑其乖趣捨,余竊商其情,以為出處君子之大致也,平運則弘道以求志,陵夷則濡跡以匡時。(濡跡,解見崔駰傳。)荀公之急急自勵,其濡跡乎?不然,何為違貞吉而履虎尾焉?(《易》履卦曰:「履道坦坦,幽人貞吉。」又曰:「履虎尾,不咥人亨。」王輔嗣注云:「履虎尾者,言其危也。」)觀其遜言遷都之議,以救楊、黃之禍。(楊彪、黃琬也。)及後潛圖董氏,幾振國命,所謂「大直若屈」,道固逶迤也。(《老子》云:「大直若屈,大巧若拙。」逶迤,曲也。)

荀悦

原文荀悅

悦は字を仲豫といい、儉の子である。儉は早くに亡くなった。悦は十二歳で春秋を説くことができた。家は貧しく書物がなく、たびたび人里に出て、目にした書簡を一覧して多くを暗誦記憶した。性格は沈静で、姿容が美しく、特に著述を好んだ。霊帝の時、宦官が権力を用い、士人は多く身を退いて窮地に処したが、悦は病気と称して隠居し、当時の人々は彼を知らず、従弟の彧だけが特に敬い称えた。初め鎮東将軍曹操の府に辟召され、黄門侍郎に遷った。献帝は文学を好み、悦は彧及び少府の孔融とともに禁中で侍講し、朝夕談論した。累進して秘書監、侍中となった。

原文悅字仲豫,儉之子也。儉早卒。悅年十二,能說春秋。家貧無書,每之人閒,所見篇牘,一覽多能誦記。性沉靜,美姿容,尤好著述。靈帝時閹官用權,士多退身窮處,悅乃托疾隱居,時人莫之識,雖從弟彧特稱敬焉。初辟鎮東將軍曹操府,遷黃門侍郎。獻帝頗好文學,悅與彧及少府孔融侍講禁中,旦夕談論。累遷秘書監、侍中。

時には政権が曹氏に移り、天子はただ己を恭しくするのみであった。悦は献替の志があったが、謀を用いることができず、そこで申鑑五篇を作った。その論弁は政体に通じ、完成するとこれを上奏した。その大略は次の通りである。

原文時政移曹氏,天子恭己而已。悅志在獻替,而謀無所用,乃作申鑒五篇。其所論辯,通見政體,既成而奏之。其大略曰:

道の根本は、仁義に過ぎない。五典によってこれを経とし、群籍によってこれを緯とし、詠じ歌い、弦にし舞い、前の鑑戒が明らかになった後、再びこれを繰り返し述べる。だから古代の聖王は、仁義について、繰り返し重ねるだけであった。

原文:夫道之本,仁義而已矣。(《易》曰:「立人之道曰仁與義。」)五典以經之,群籍以緯之,詠之歌之,弦之舞之,前監既明,後復申之。故古之聖王,其於仁義也,申重而已。

政治を成し遂げる方法は、まず四つの患いを除き、それから五つの政を尊ぶことである。

原文:致政之術,先屏四患,乃崇五政。

一つは偽り、二つは私心、三つは放縦、四つは奢侈である。偽りは俗を乱し、私心は法を壊し、放縦は軌道を越え、奢侈は制度を敗る。この四つが除かれなければ、政治は行われる道がない。俗が乱れれば道は荒廃し、天地といえどもその本性を保つことができない。法が壊れれば世は傾き、君主といえどもその法度を守ることができない。軌道を越えれば礼は亡び、聖人といえどもその道を全うすることができない。制度が敗れれば欲望がほしいままになり、四方といえどもその要求を満たすことができない。これを四患という。

原文:一曰偽,二曰私,三曰放,四曰奢。偽亂俗,私壞法,放越軌,奢敗制。四者不除,則政末由行矣。夫俗亂則道荒,雖天地不得保其性矣;法壞則世傾,雖人主不得守其度矣;軌越則禮亡,雖聖人不得全其道矣;制敗則欲肆,雖四表不得充其求矣。(肆,放也。)是謂四患。

農桑を興してその生を養い、好悪を審らかにしてその俗を正し、文教を宣べてその教化を明らかにし、武備を立ててその威を執り、賞罰を明らかにしてその法を統べる。これを五政という。

原文:興農桑以養其(性)[生],審好惡以正其俗,宣文教以章其化,立武備以秉以其威,明賞罰以統其法。是謂五政。

人は死を恐れなければ、罪で脅すことはできない。人は生きることを喜ばなければ、善で勧めることはできない。たとえ契が五教を布き、皐陶が刑官となっても、政治は行われないであろう。(尚書で舜が契に言うには、「汝は司徒となり、五教を敬って敷くには寛容であれ」と。皐陶に言うには、「汝は士となり、五刑を明らかにせよ」と。)それゆえ、上に立つ者はまず人々の財産を豊かにしてその志を定め、帝は籍田を耕し、后は蚕室で桑を採る。(籍田のことは、明帝紀の解釈に見える。礼記に言う、「季春の月、后妃は斎戒し、東に向かって自ら桑を採り、蚕事を勧める」と。古の天子諸侯には必ず公桑蚕室があり、川の近くに造り、宮の高さは三尺ある。)国に遊び人はなく、野に荒れた業はなく、財は買って用いる必要がなく、(自足しているという意味である。)力はむやみに加えず、人事に応じて用いる。これを養生という。(周は、給するという意味である。)

原文:人不畏死,不可懼以罪。人不樂生,不可勸以善。雖使契布五教,戲陶作士,政不行焉。(尚書舜謂契曰:「汝作司徒,敬敷五教在寬。」謂戲陶曰:「汝作士,明於五刑。」)故在上者先豐人財以定其志,帝耕籍田,後桑蠶宮,(籍田事,解見明紀。禮記曰:「季春之月,后妃齋戒,親東向桑,以勸蠶事。」古者天子諸侯必有公桑蠶室,近川而為之,宮仞有三尺也。)國無遊人,野無荒業,財不賈用,(言自足也。)力不妄加,以周人事。是謂養生。(周,給也。)

君子が天地を動かし、神明に応じ、万物を正して王化を成す所以は、必ずや真実の定めによるのみである。それゆえ、上に立つ者は善悪の区別を審らかに定める。善悪は功罪に要約され、毀誉は実証によって検証される。言葉を聞いて事績を責め、名声を挙げて実態を察し、詐偽に惑わされることなく、衆人の心を乱さない。それゆえ事には全て核があり、物には全て切実さがあり、善は全て顕れ、悪は全て明らかになり、俗に奸怪なく、民に淫風なし。百姓上下は利害が己にあることを知るので、心を恭しく慎み、行いを慎んで修め、内に迷い惑わず、外に異なる望みがなければ、民の志は平らかになる。これを正俗という。

原文:君子之所以動天地,應神明,正萬物而成王化者,必乎真定而已。故在上者審定好丑焉。善惡要乎功罪,毀譽効於准驗。聽言責事,舉名察實,無惑詐偽,以蕩眾心。故事無不核,物無不切,善無不顯,惡無不章,俗無奸怪,民無淫風。百姓上下鶯利害之存乎己也,故肅恭其心,慎修其行,內不回惑,外無異望,則民志平矣。是謂正俗。

君子には情によって働きかけ、小人には刑によって働きかける。栄辱とは、賞罰の精華である。それゆえ礼教と栄辱は、君子に加えて、その情を教化するのである。桎梏と鞭撲は、小人に加えて、その刑を教化するのである。君子は辱めを受けることすらしない、まして刑罰など受けるはずがない。小人は刑罰すら憚らない、まして辱めなど憚るはずがない。もし教化が廃れれば、中材の人を推して小人の域に落とす。教化が行われれば、中材の人を導いて君子の道に納める。これを章化という。(章は、明らかにするという意味である。)小人の情は、緩やかであれば驕り、驕れば恣に、恣になれば怨み、怨めば叛き、危険であれば乱を謀り、安泰であれば欲望を思う。威強でなければこれを懲らしめることはできない。それゆえ、上に立つ者は必ず武備を持ち、不測の事態に備え、寇虐を抑止する。平穏な時は内政に託し、有事の時は軍旅に用いる。(『国語』で斉の桓公が管仲に問うた、「国は安泰にできるか」と。管仲が言うには、「まだできません。君がもし卒伍を正し、甲兵を修めれば、大国もまたこれを修め、小国は設備し、内政を行いつつ軍令を託することができます」と。注に言う、「(正)[政]は国政である。国政を修めて軍令を託せば、隣国は知らない」と。)これを秉威という。

原文:君子以情用,小人以刑用。榮辱者,賞罰之精華也。故禮教榮辱,以加君子,化其情也;桎梏鞭撲,以加小人,化其刑也。君子不犯辱,況於刑乎!小人不忌刑,況於辱乎!若教化之廢,推中人而墜於小人之域;教化之行,引中人而納於君子之塗。是謂章化。(章,明也。)小人之情,緩則驕,驕則恣,恣則怨,怨則叛,危則謀亂,安則思欲,非威強無以懲之。故在上者,必有武備,以戒不虞,以遏寇虐。安居則寄之內政,有事則用之軍旅。(《國語》齊桓公問管仲曰:「國安可乎?」管仲曰:「未可。君若正卒伍,修甲兵,則大國亦將修之,小國設備,可作內政而寄軍令焉。」注云:「(正)[政],國政也。言修國政而寄軍令,鄰國不知。」)是謂秉威。

賞罰は、政治の柄である。(『韓子』に言う、「二柄とは、刑と徳である。殺戮するのを刑といい、慶賞するのを徳という」と。)賞を明らかにし罰を必ず行い、信を審らかにし令を慎み、賞は善を勧めるために、罰は悪を懲らしめるために行う。人主が妄りに賞を与えないのは、ただその財を惜しむからではなく、賞が妄りに行われれば善が勧められなくなるからである。妄りに罰しないのは、その人を哀れむからではなく、罰が妄りに行われれば悪が懲らしめられなくなるからである。賞が勧めにならないのは善を止めるということであり、罰が懲らしめにならないのは悪を放縦するということである。上に立つ者が下の者が善を行うのを止めさせず、下の者が悪を行うのを放縦させなければ、国法は立つ。これを統法という。

原文:賞罰,政之柄也。(《韓子》曰:「二柄者,刑、德也。殺戮之謂刑,慶賞之謂德。」)明賞必罰,審信慎令,賞以勸善,罰以懲惡。人主不妄賞,非徒愛其財也,賞妄行則善不勸矣。不妄罰,非矜其人也,罰妄行則惡不懲矣。賞不勸謂之止善,罰不懲謂之縱惡。在上者能不止下為善,不縱下為惡,則國法立矣。是謂統法。

四患が既に除かれ、五政がまた立ち、誠をもってこれを行い、固くこれを持守し、簡素であって怠らず、疎らであって失わず、無為にして為し、自らに施させ、無事にして事とし、自らに交わらせる。(『老子』に言う、「無為を為し、無事を事とす」と。また「故に徳は交わりて帰す」とも言う。)厳しくしなくても成り立ち、厳格でなくても教化され、拱手して揖譲するだけで、海内は平らかになる。これを為政の方という。

原文:四患既蠲,五政又立,行之以誠,守之以固,簡而不怠,疏而不失,無為為之,使自施之,無事事之,使自交之。(《老子》曰:「為無為,事無事。」又曰「故德交歸」也。)不肅而成,不嚴而化,垂拱揖讓,而海內平矣。是謂為政之方。

また言う。

原文又言:

公主を娶る制度は古くない。二女を降嫁させたのは、陶唐の典である。妹を嫁がせて大吉なのは、帝乙の訓である。王姫が斉に嫁いだのは、宗周の礼である。陰が陽に乗るのは天に背き、婦が夫を陵ぐのは人に背く。天に背けば不祥であり、人に背けば不義である。また古の天子諸侯には事があれば、必ず廟に告げた。朝廷には二史がおり、左史は言葉を記し、右史は事績を書いた。(『礼記』に言う、「天子は東門の外で朝日を拝し、南門の外で朔を聴き、閏月には門の左扉を閉ざし、その中に立ち、行動は左史がこれを書き、言葉は右史がこれを書く」と。)事績は春秋となり、言葉は尚書となる。君の挙動は必ず記録され、善悪成敗は全てそこに存する。下は士庶に及び、もし優れた者がいれば、皆載籍に記される。あるいは顕れようとしてできず、あるいは隠そうとして名が明らかになる。得失は一朝のうちに、栄辱は千載にわたる。善人は勧められ、過ちを犯した人は恐れる。(淫は、過ちという意味である。『左氏伝』に言う、「あるいは名を求めても得られず、あるいは隠そうとして名が明らかになる。書は斉豹を盗とし三叛人の名を記して、不義を懲らしめる」と。)今において適切なのは、史官を備え置き、その典文を掌り、その行動を記録させることである。毎年終わりに、尚書に挙げる。賞罰を助け、法教を弘めるためである。

原文:尚主之制非古。厘降二女,陶唐之典。歸妹元吉,帝乙之訓。王姬歸齊,宗周之禮。以陰乘陽違天,以婦陵夫違人。違天不祥,違人不義。又古者天子諸侯有事,必告於廟。朝有二史,左史記言,右史書事。(《禮記》曰「天子朝日於東門之外,聽朔於南門之外,閏月則闔門左扉,立於其中,動則左史書之,言則右史書之」也。)事為春秋,言為尚書。君舉必記,善惡成敗,無不存焉。下及士庶,苟有茂異,咸在載籍。或欲顯而不得,或欲隱而名章。得失一朝,而榮辱千載。善人勸焉,淫人懼焉。(淫,過也。《左氏傳》曰「或求名而不得,或欲蓋而名章,書齊豹盜三叛人名,以懲不義」也。)宜於今者備置史官,掌其典文,紀其行事。每於歲盡,舉之尚書。以助賞罰,以弘法教。

帝はこれを見て善しとした。

原文帝覽而善之。

帝は典籍を好み、常に班固の『漢書』が文が煩雑で省みにくいと感じ、そこで荀悦に命じて左氏伝の体裁に倣って『漢紀』三十篇を作らせ、詔を下して尚書に筆札を与えさせた。言葉は簡約で事績は詳細であり、論弁は多く美しい。その序に言う、「昔の上聖は、ただ皇極を建て、天地を経緯し、象を観て法を立て、そこで書契を作り、宇宙を通じ、王庭に揚げた。その用は大いなるものであった。先王は大業を光演し、この夏に陳べた。(『詩経』周頌に言う、「我は懿徳を求め、この夏に陳ぶ」と。鄭玄の注に言う、「懿は美である。肆は陳べるである。我は武王である。美徳の士を求めて任用したので、この夏に陳べてこれを歌ったのである」と。)またその後の世のため、永世の典を作った。典を立てるには五志がある。第一は道義を通達させること、第二は法式を明らかにすること、第三は古今を通じさせること、第四は功勲を顕著にすること、第五は賢能を表彰することである。ここにおいて天人の間、事物の宜しきが、燦然と顕著になり、備わらないものはない。世はその軌を継ぎ、その業を墜とさない。(済は、成すという意味である。)損益盈虚は、時とともに消息する。善悪は異なるが、その道理は一つである。漢は四百六年、乱を撥ねて反正し、武を統べ文を興し、ひたすら祖宗の洪業を思い、万世に光を啓かんとする。聖上は穆然として、ただ文を憂い、前を瞻み後を顧み、これを継ぎこれを承け、大猷を闡明し、国典を立てることを命じた。そこで旧書を綴じ、漢紀を述べる。中興以前の、明主賢臣の得失の軌跡も、十分に見ることができるであろう」。

原文帝好典籍,常以班固《漢書》文繁難省,乃令悅依左氏傳體以為'''《漢紀》三十篇''',詔尚書給筆札。辭約事詳,論辯多美。其序之曰:「昔在上聖,惟建皇極,經緯天地,觀象立法,乃作書契,以通宇宙,揚於王庭,厥用大焉。先王光演大業,肆於時夏。(《詩周頌》曰:「我求懿德,肆於時夏。」鄭玄注曰:「懿,美也。肆,陳也。我,武王也。求美德之士而任用之,故陳於是夏而歌之也。」)亦惟厥後,永世作典。夫立典有五志焉:一曰達道義,二曰章法式,三曰通古今,四曰著功勳,五曰表賢能。於是天人之際,事物之宜,粲然顯著,罔不備矣。世濟其軌,不隕其業。(濟,成也。)損益盈虛,與時消息。臧否不同,其揆一也。漢四百有六載,撥亂反正,統武興文,永惟祖宗之洪業,思光啟乎萬嗣。聖上穆然,惟文之恤,瞻前顧後,是紹是繼,闡崇大猷,命立國典。於是綴□舊書,以述漢紀。中興以前,明主賢臣得失之軌,亦足以觀矣。」

また崇徳、正論および諸論数十篇を著した。六十二歳、建安十四年に卒した。

原文又著崇德、正論及諸論數十篇。年六十二,建安十四年卒。

韓

原文韓

韓韶

原文韓韶

韓韶、字は仲黄、潁川郡舞陽県の人である。若くして郡に仕え、司徒府に辟召された。当時、泰山の賊公孫挙が偽号を称えて数年が経ち、守令はこれを打ち破り散らすことができず、多くは法に坐した。尚書は三府の掾で劇務を処理できる者を選び、そこで韓韶を嬴県の長とした。(嬴は県で、故城は現在の兗州博城県の東北にある。)賊はその賢さを聞き、互いに戒めて嬴県の境に入らなかった。他の県は多く寇盗に遭い、耕桑が廃れ、その流民が県境に入って衣糧を求める者が非常に多かった。韓韶はその飢えと困窮を哀れみ、倉を開いて賑済し、救済したのは一万余戸に及んだ。主管者は争って不可と言った。韓韶は言った、「溝壑に死ぬはずの人を長く生かしておき、これで罪に伏すなら、笑って地に入ろう」。太守はもとより韓韶の名声と徳行を知っており、結局何の罪にも問われなかった。病で官のまま卒した。同郡の李膺、陳寔、杜密、荀淑らが碑を立てて頌えた。

原文韓韶字仲黃,穎川舞陽人也。少仕郡,辟司徒府。時太山賊公孫舉偽號歷年,守令不能破散,多為坐法。尚書選三府掾能理劇者,乃以韶為贏長。(贏,縣,故城在今兗州博城縣東北。)賊聞其賢,相戒不入贏境。余縣多被寇盜,廢耕桑,其流入縣界求索衣糧者甚眾。韶愍其饑困,乃開倉賑之,所稟贍萬餘戶。主者爭謂不可。韶曰:「長活溝壑之人,而以此伏罪,含笑入地矣。」太守素知韶名德,竟無所坐。以病卒官。同郡李膺、陳寔、杜密、荀淑等為立碑頌焉。

子の融、字は元長。若くして道理を弁えることができたが、章句の学はしなかった。声名は甚だ盛んで、五府がともに辟召した。献帝の初め、太僕に至った。七十歳で卒した。

原文子融,字符長。少能辯理而不為章句學。聲名甚盛,五府並辟。獻帝初,至太僕。年七十卒。

鍾

原文鍾

鍾皓

原文鍾皓

鍾皓は字を季明といい、潁川郡長社県の人である。郡内の名門の出身で、代々刑法に通じていた。鍾皓は若い頃から篤実な行いで知られ、公府からたびたび招聘されたが、二人の兄がまだ官に就いていないことを理由に、密山に身を隠し(密県の山である)、詩経と法律を教えて門徒千余人を抱えた。同郡の陳寔は、年齢が鍾皓に及ばなかったが、鍾皓は彼を引き立てて友人とした。鍾皓が郡の功曹となった時、たまたま司徒府に招聘されることになり、辞去する際に太守が「誰があなたの後任に適任か」と尋ねた。鍾皓は「明府が必ず適任者をお求めなら、西門の亭長である陳寔がよろしいでしょう」と答えた。陳寔はこれを聞いて、「鍾君は人を見る目がないようだが、どうして私だけは見抜いたのだろうか」と言った。鍾皓はしばらくして自ら辞任して去った。前後九回にわたり公府から招聘され、廷尉正、博士、林慮県令に任命されたが、いずれも就任しなかった。当時、鍾皓と荀淑はともに士大夫の憧れの的であった。李膺は常々嘆いて言った。「荀君の清い識見には及ぶべくもなく、鍾君の至高の徳は師とすべきである」。

原文鍾皓字季明,穎川長社人也。為郡著姓,世善刑律。皓少以篤行稱,公府連辟,為二兄未仕,避隱密山,(密縣山也。)以詩律教授門徒千餘人。同郡陳寔,年不及皓,皓引與為友。皓為郡功曹,會辟司徒府,臨辭,太守問:「誰可代卿者?」皓曰:「明府欲必得其人,西門亭長陳寔可。」寔聞之,曰:「鍾君似不察人,不知何獨識我?」皓頃之自劾去。前後九辟公府,征為廷尉正、博士、林慮長,皆不就。時皓及荀淑並為士大夫所歸慕。李膺常歎曰:「荀君清識難尚,鍾君至德可師。」

鍾皓の兄の子である鍾瑾の母は、李膺の叔母である。鍾瑾は学問を好み古風を慕い、謙譲の気風があり、李膺と同年で、ともに名声があった。李膺の祖父で太尉であった李修は、常々「鍾瑾は我が家の気質に似ており、国に道があれば用いられ、国に道がなければ刑罰を免れるだろう」と言った。また李膺の妹を鍾瑾に娶わせた。鍾瑾は州府から招聘されたが、一度も志を曲げなかった。李膺は彼に言った。「孟子は『人に是非の心がなければ、人ではない』と考えている(『孟子』に「人に惻隠の心がなければ、人ではない。羞悪の心がなければ、人ではない。辞譲の心がなければ、人ではない。是非の心がなければ、人ではない」とある)。弟はどうして孟子と同じではないのか」。鍾瑾は常々李膺の言葉を鍾皓に伝えた。鍾皓は言った。「昔、国武子は人の過ちを明らかにすることを好み、それが怨みの原因となった(国武子は斉の大夫である。斉の慶克が斉の君主の母と密通したのを国武子が知り、慶克を責めたため、夫人は武子を讒言して追放させた。事は『左伝』に見える)。結局は身を保ち家を全うしたが、あなたの道こそ貴いのだ」。彼が教訓として安心させたのは、多くこのようなことであった。

原文皓兄子瑾母,膺之姑也。瑾好學慕古,有退讓風,與膺同年,俱有聲名。膺祖太尉修,常言:「瑾似我家性,邦有道不廢,邦無道免於刑戮。」復以膺妹妻之。瑾辟州府,未嘗屈志。膺謂之曰:「孟子以為『人無是非之心,非人也』。(《孟子》曰:「人無惻隱之心,非人也。無羞惡之心,非人也。無辭讓之心,非人也。無是非之心,非人也。」)弟何期不與孟軻同邪?」瑾常以膺言白皓。皓曰:「昔國武子好昭人過,以致怨本。(國武子,齊大夫。齊慶克通於齊君之母,國武子知之而責慶克,夫人遂譖武子而逐之。事見《左傳》。)卒保身全家,爾道為貴。」其體訓所安,多此類也。

六十九歳で家で亡くなった。諸儒は彼を称えて言った。「林慮の美徳、礼に非ざれば処さず。この詩書を悦び、弦琴を弾じて古を楽しむ。五度州の招きに就き、九度台輔に応ず。王命に逡巡し、歳を終えて容与す」。

原文年六十九,終於家。諸儒頌之曰:「林慮懿德,非禮不處。悅此詩書,弦琴樂古。五就州招,九應台輔。逡巡王命,卒歲容與。」

鍾皓の孫の鍾繇は、建安年間に司隸校尉となった(『海内先賢傳』によると「繇は字を元常といい、郡主簿の鍾迪の子である」とある。『魏志』によると「孝廉に挙げられて尚書郎となり、三府に招聘されて廷尉正、黄門侍郎となった」とある)。

原文皓孫繇,建安中為司隸校尉。(海內先賢傳曰:「繇字元常,郡主簿迪之子也。」《魏志》曰:「舉孝廉為尚書郎,辟三府為廷尉正、黃門侍郎。」)

陳

原文陳

陳寔

原文陳寔

陳寔は字を仲弓といい、潁川郡許県の人である。微賤な家柄の出身であった。子供の頃から、遊びの中にあっても、同輩たちの中心となった。若くして県の役人となり、常に雑役に従事していたが、後に都亭の佐吏となった。しかし志を立てて学問を好み、座っても立っても書物を読んだ。県令の鄧邵が試しに話をしてみると、彼を異才と認め、太学で学ぶことを許した。後に県令が再び役人に召そうとしたが、彼は陽城山中に身を隠した。当時殺人事件があり、同県の楊という役人が陳寔を疑ったため、県は彼を逮捕して拘束し、拷問したが証拠がなく、後に釈放された。督郵となった時、密かに許県令に頼み、礼をもって楊役人を招聘した。遠近でこれを聞いた者は、皆感嘆して敬服した。

原文陳寔字仲弓,穎川許人也。出於單微。自為兒童,雖在戲弄,為等類所歸。少作縣吏,常給事廝役,後為都亭(刺)佐。而有志好學,坐立誦讀。縣令鄧邵試與語,奇之,聽受業太學。後令復召為吏,乃避隱陽城山中。時有殺人者,同縣楊吏以疑寔,縣遂逮系,考掠無實,而後得出。及為督郵,乃密托許令,禮召楊吏。遠近聞者,鹹歎服之。

家が貧しかったため、再び郡の西門亭長となり、まもなく功曹に転じた。当時、中常侍の侯覧が太守の高倫に役人の任用を依頼し、高倫は教令を出して文学掾に任命しようとした。陳寔はその人物が適任でないことを知り、教令を板に書いて懐にしまい(檄とは板に書いた文書のこと。高倫の教令を檄に書いて懐に入れたのは、事が漏れるのを恐れたためである)、面会を求めて言った。「この人物は任用すべきではありませんが、侯常侍の意向に逆らうこともできません。私は外署(郡府外での任用)に従うことをお願いします。これで明徳を汚すことにはならないでしょう」。高倫はこれに従った(外署での任用を請うたのは、高倫が請託に陥るのを避けるためである)。そこで郷里の議論はこの任用を不適切だと怪しんだが、陳寔は終始何も言わなかった。後に高倫が尚書に任命されるとき、郡内の士大夫が輪氏県の伝舎まで見送った(輪氏は県名で、潁川郡に属し、現在の故高陽県である)。高倫は一同に向かって言った。「私は以前、侯常侍のために役人を任用しようとしたが、陳君は密かに教令を持ち帰り、外で白状して任用した。近頃、議論する者がこれをもって彼を軽んじていると聞くが、この過ちは旧友である私が権勢を恐れたためである。陳君はまさに善は君に帰し、過ちは己に帰する者と言えよう」。陳寔は固く自ら過ちを引き受け、聞いていた者たちはようやく嘆息し、これによって天下はその徳に服した。

原文家貧,復為郡西門亭長,尋轉功曹。時中常侍侯覽托太守高倫用吏,倫教署為文學掾。寔知非其人,懷檄請見。(檄,板書。謂以高倫之教書之於檄而懷之者,懼洩事也。)言曰:「此人不宜用,而侯常侍不可違。寔乞從外署,不足以塵明德。」倫從之。(請從外署之舉,不欲陷倫於請托也。)於是鄉論怪其非舉,寔終無所言。倫後被征為尚書,郡中士大夫送至輪氏傳捨。(輪氏,縣名,屬穎川郡,今故高陽縣是。)倫謂眾人言曰:「吾前為侯常侍用吏,陳君密持教還,而於外白署。比聞議者以此少之,此咎由故人畏憚強禦,陳君可謂善則稱君,過則稱己者也。」寔固自引愆,聞者方歎息,由是天下服其德。

司空の黄瓊が難事を処理する者を招聘して選んだ時、陳寔は聞喜県令に補され、一ヶ月ほどで喪に服すため官を去った。再び転任して太丘県令に任命された(太丘は県名で、沛国に属し、故城は現在の亳州永城県の西北にある)。徳を修めて清静を保ち、百姓は安らぎを得た。隣県から人々が帰属して来ると、陳寔はすぐに訓導して譬え諭し、それぞれ本籍の主管官庁に戻るよう発遣した(司官とは主管する官のことをいう)。役人は訴訟が出ることを心配し、禁止したいと申し出た。陳寔は言った。「訴訟は正しさを求めるものであり、禁止すれば道理はどうして明らかになるのか。拘束することはない」。主管官はこれを聞いて嘆息し、「陳君の言うことがこのようであれば、どうして人に怨まれることがあろうか」と言い、結局訴訟を起こす者はいなかった。沛国の相が賦斂を違法に行ったため、印綬を解いて去ったが、官吏や民衆は彼を追慕した。

原文司空黃瓊辟選理劇,補聞喜長,旬月,以開喪去官。復再遷除太丘長。(太丘,縣,屬沛國,故城在今亳州永城縣西北也。)修德清靜,百姓以安。鄰縣人戶歸附者,寔輒訓導譬解,發遣各令還本司官行部。(司官謂主司之官也。)吏慮有訟者,白欲禁之。寔曰:「訟以求直,禁之理將何申?其勿有所拘。」司官聞而歎息曰:「陳君所言若是,豈有怨於人乎?」亦竟無訟者。以沛相賦斂違法,及解印綬去,吏人追思之。

後に党人が逮捕されると、事件は陳寔にも連座した。他の多くは逃避して免れようとしたが、陳寔は「私が獄に就かなければ、人々は頼る所がない」と言い、自ら囚人となることを請うた。赦令にあって釈放された。霊帝の初め、大将軍の竇武が彼を招聘して掾属とした。当時、中常侍の張譲は天下に権勢を振るっていた。張譲の父が死に、潁川に帰葬する際、郡中はこぞって参列したが、名士は一人も訪れず、張譲はこれを大いに恥じた。陳寔はただ一人で弔問した。その後、再び党人が誅殺されることになった時、張譲は陳寔に感じ入り、多くの者を救って罪を赦した。

原文及後逮捕黨人,事亦連寔。餘人多逃避求免,寔曰:「吾不就獄,眾無所恃。」乃請囚焉。遇赦得出。靈帝初,大將軍竇武辟以為掾屬。時中常侍張讓權傾天下。讓父死,歸葬穎川,雖一郡畢至,而名士無往者,讓甚恥之,寔乃獨吊焉。乃後復誅黨人,讓感寔,故多所全宥。

陳寔は郷里において、公平な心で物事に接した。争訟があると、人々は判決を正しく求めて彼の下に来た。彼は曲直を明らかにして諭し、去る者に怨みを抱く者はなかった。人々はついに「刑罰を受ける方がましだ、陳君に非難されるよりは」と嘆くほどであった。ある年、凶作で民が貧しく、盗賊が夜に彼の家に侵入し、梁の上に隠れていた。陳寔はそれに気づき、そっと起き上がって身なりを整え、子孫を呼び集め、厳しい顔で訓戒した。「人は自ら努めなければならない。不善の人も元から悪いわけではなく、習慣が本性となり、ついにこのようになってしまったのだ。梁の上の君子がそうである」。盗賊は大いに驚き、自ら地面に飛び降り、額を地に付けて罪を悔いた。陳寔はゆっくりと諭して言った。「あなたの様子を見ると、悪人には見えない。深く己に克って善に戻るべきだ。しかしこれは貧困によるものだろう」。そして絹二匹を与えて帰らせた。これ以来、県内では盗みがなくなった。

原文寔在鄉閭,平心率物。其有爭訟,輒求判正,曉譬曲直,退無怨者。至乃歎曰:「寧為刑罰所加,不為陳君所短。」時歲荒民儉,有盜夜入其室,止於樑上。寔陰見,乃起自整拂,呼命子孫,正色訓之曰:「夫人不可不自勉。不善之人未必本惡,習以性成,遂至於此。樑上君子者是矣!」盜大驚,自投於地,稽顙歸罪。寔徐譬之曰:「視君狀貌,不似惡人,宜深克己反善。然此當由貧困。」令遺絹二匹。自是一縣無復盜竊。

太尉の楊賜、司徒の陳耽は、公卿に任命されるたびに、官僚たちがこぞって祝賀したが、楊賜らは常々陳寔が高位に登っていないことを嘆き、自分たちが先になったことを恥じた。党禁が解かれると、大将軍の何進、司徒の袁隗は人を遣わして陳寔を勧誘し(敦は勧める意)、破格の地位に特別に推薦しようとした。陳寔は使者に謝って言った。「私は久しく人事を絶ち、ただ飾り巾をして終わりを待つだけです」。当時、三公の職が空くたびに、議論する者は彼に帰し、たびたび招聘の命を受けたが、遂に起き上がらず、門を閉めて車を吊るし、隠棲して老いを養った。中平四年、八十四歳で家で亡くなった。何進は使者を遣わして弔祭し、海内から参列した者は三万人余り、喪服を着た者は数百人に及んだ。共に石碑を刻んで立て、文範先生と諡した(『先賢行狀』によると「将軍の何進が官属を遣わして弔祠し、諡を贈った」とある)。

原文太尉楊賜、司徒陳耽,每拜公卿,羣僚畢賀,賜等常歎寔大位未登,愧於先之。及黨禁始解,大將軍何進、司徒袁隗遣人敦寔,(敦,勸也。)欲特表以不次之位。寔乃謝使者曰:「寔久絕人事,飾巾待終而已。」時三公每缺,議者歸之,累見征命,遂不起,閉門懸車,棲□養老。中平四年,年八十四,卒於家。何進遣使弔祭,海內赴者三萬餘人,制衰麻者以百數。共刊石立碑,謚為文范先生。(先賢行狀曰:「將軍何進遣官屬吊祠為謚。」)

六人の子があり、陳紀、陳諶が最も賢かった。

原文有六子,紀、諶最賢。

陳紀

原文陳紀

紀は字を字符方といい、また至徳をもって称された。兄弟は孝養を尽くし、閨門は和やかで、後進の士人たちは皆その風を推し慕った。党錮の禍に遭うと、発憤して数万言の書を著し、陳子と号した。党禁が解けると、四府がともに命を下したが、屈して就くことはなかった。父の喪に遭い、悲しみが募るたびに、血を吐き気を絶やし、喪服を脱いだ後も、積もる毀損と衰弱で、ほとんど命を絶つほどであった。豫州刺史はその至高の行いを称え、尚書に上表し、百城にその画像を掲げて、風俗を励ました。董卓が洛陽に入ると、家に赴いて五官中郎将に任命したが、やむなく京師に到着し、侍中に遷った。

原文紀字符方,亦以至德稱。兄弟孝養,閨門廱和,後進之士皆推慕其風。及遭黨錮,發憤著書數萬言,號曰陳子。黨禁解,四府並命,無所屈就。遭父憂,每哀至,輒歐血絕氣,雖衰服已除,而積毀消瘠,殆將滅性。豫州刺史嘉其至行,表上尚書,圖像百城,以厲風俗。董卓入洛陽,乃使就家拜五官中郎將,不得已,到京師,遷侍中。

平原相として出向し、董卓を謁見した。当時、董卓は長安への遷都を考えていた。そこで紀に言った。「三輔の地は平坦で開け、四方は険固、土地は肥沃で、陸海と号されている。(《前書》に、東方朔が言うには『三輔の地は、南に江・淮があり、北に河・渭があり、汧・隴より東、商・洛より西、その土壌は肥沃で、これこそいわゆる天府陸海の地である』。)今、関東で兵が起こり、洛陽は長く居られない恐れがある。長安にはまだ宮室がある。今、西遷しようと思うが、どうか?」紀は言った。「天下に道がある時は、四夷を守る。(《左伝》に、楚の沈尹戍が言うには『古の天子は四夷を守る。天子が卑しくなれば、諸侯を守る』。)徳政を修めて、服従しない者を懐柔すべきです。至尊を遷移させるのは、誠に計略の末節です。愚かながら、公は公卿に政務を委ね、外任に専念されるべきだと思います。命令に背く者があれば、武力をもって威圧すべきです。今、関東で兵が起こり、民は命令に耐えられません。もし朝政から謙って遠ざかり、師を率いて討伐すれば、塗炭の苦しみにある民は、ほぼ全うできるでしょう。もし万乗を遷して自ら安泰を図ろうとすれば、累卵の危うき、崢嶸の険しきに陥るでしょう。(累卵は、皇后紀に解釈がある。崢の音は士耕の反切。)」董卓の意は甚だ逆らったが、紀の名声と行いを敬い、それ以上は何も言わなかった。当時、司徒に任じようとする議論があったが、紀は禍乱がまさに起こらんとしているのを見て、再び装いを整えず、即座に郡に赴いた。璽書が追って太僕に任命し、また尚書令に徴した。建安初年、袁紹が太尉となったが、紀に譲ろうとした。紀は受けず、大鴻臚に任命された。七十一歳で官にて卒した。

原文出為平原相,往謁卓,時欲徙都長安。乃謂紀曰:「三輔平敞,四面險固,土地肥美,號為陸海。(《前書》曰,東方朔曰:「三輔之地,南有江、淮,北有河、渭,汧、隴以東,商、洛以西,厥壤肥饒,此所謂天府陸海之地。」)今關東兵起,恐洛陽不可久居。長安猶有宮室,今欲西遷何如?」紀曰:「天下有道,守在四夷。(《左傳》曰,楚沈尹戍曰「古者天子守在四夷。天子卑,守在諸侯」也。)宜修德政,以懷不附。遷移至尊,誠計之末者。愚以公宜事委公卿,專精外任。其有違命,則威之以武。今關東兵起,民不堪命。若謙遠朝政,率師討伐,則塗炭之民,庶幾可全。若欲徙萬乘以自安,將有累卵之危,崢嶸之險也。」(累卵,解見皇后紀。崢音士耕反。)卓意甚忤,而敬紀名行,無所復言。時議欲以為司徒,紀見禍亂方作,不復辨嚴,(嚴讀曰裝也。)實時之郡。璽書追拜太僕,又征為尚書令。建安初,袁紹為太尉,讓於紀;紀不受,拜大鴻臚。年七十一,卒於官。

子の羣は、魏の司空となった。(羣は字を長文という。《魏志》に「魯国の孔融は才高く倨傲で、年齢は羣と紀の中間であった。先に紀と友となり、後に羣と交わり、さらに紀に拝礼したため、これによって名を顕した」という。)天下は「公は卿に恥じ、卿は長に恥じる」と思った。

原文子羣,為魏司空。(羣字長文。《魏志》曰「魯國孔融才高倨傲,年在羣、紀之閒,先與〔紀友,後與〕羣交,更為紀拜,由是顯名」也。)天下以為公慙卿,卿慙長。

弟の諶は、字を季方という。紀と徳を同じくし行いを共にし、父子ともに高名を著し、当時は三君と号された。宰府が辟召するたびに、常に同時に旌命され、羔や雁が群れをなした。(古の諸侯が天子に朝する時、卿は羔を執り、大夫は雁を執り、士は雉を執った。成羣とは多いことを言う。)当時の者はこれを栄誉としなかった者はなかった。諶は早くに亡くなった。(先賢行状に曰く、「豫州の百城は、皆、寔、紀、諶の形像を図画した」という。)

原文弟諶,字季方。與紀齊德同行,父子並著高名,時號三君。每宰府辟召,常同時旌命,羔鴈成羣,(古者諸侯朝天子,卿執羔,大夫執鴈,士執雉。成羣言眾多也。)當世者靡不榮之。諶早終。(先賢行狀曰:「豫州百城,皆圖書寔、紀、諶形像焉。」)

史論

原文史論

論じて言う。漢は中世以降、宦官が恣に振る舞ったため、俗は遂に身を隠し行いを矯正し潔くし、放言することを高しとするようになった。(その言を放肆し、節制に拘らないこと。《論語》に「隠居して言を放つ」とある。)士人でこれを語らない者は、草取りの農夫や牧童ですら既に叫んで嘲笑した。(叫呼とは、これを譏笑すること。芸とは草を除くこと。)故に時政はますます暗く、その風潮はますます進んだ。ただ陳先生の進退の節度は、必ずや測ることができる。徳に拠るゆえに物は犯さず、仁に安んずるゆえに群を離れず、行いが身に成り道が天下を訓するので、凶邪な者は権力をもって奪うことができず、王公は貴さをもって驕ることができなかった。これによって声教は上で廃れても、風俗は下で清らかであったのである。

原文論曰:漢自中世以下,閹豎□恣,故俗遂以遁身矯絜放言為高。(放肆其言,不拘節制也。《論語》曰:「隱居放言。」)士有不談此者,則芸夫牧豎已叫呼之矣。(叫呼,譏笑之也。芸,除草也。)故時政彌惛,而其風愈往。唯陳先生進退之節,必可度也。據於德故物不犯,安於仁故不離羣,行成乎身而道訓天下,故凶邪不能以權奪,王公不能以貴驕,所以聲教廢於上,而風俗清乎下也。

賛して言う。二李は淑に師事し、陳君は皓を友とした。韓韶は吏に就き、贏寇は道を懐いた。太丘は奥深く広く、我が彝倫の模範となった。これこそ淵の軌跡であり、薄夫を以て淳とす。(曾とは「則」の意味である。)慶基は既に開かれ、蔚然たる穎濱あり、二方は則を承け、八慈が塵を継いだ。(二方とは、元方と季方である。荀淑の八子は皆、慈を字とし、《荀氏家伝》に見える。)

原文贊曰:二李師淑,陳君友皓。韓韶就吏,贏寇懷道。太丘奧廣,模我彝倫。曾是淵軌,薄夫以淳。(曾之言則也。)慶基既啟,有蔚穎濱,二方承則,八慈繼塵。(二方,元方﹑季方也。荀淑八子,皆以慈為字,見《荀氏家傳》也。)