荀
荀淑
荀淑は字を季和といい、潁川郡潁陰県の人である。荀卿の十一世の孫である。(荀卿は名を況といい、趙の人である。楚の蘭陵県令となった。著書二十二篇があり、荀卿子と号した。宣帝の諱を避けたため、後に「孫」と改めた。)若い頃から高い品行を持ち、博学であったが章句の学を好まず、多くの俗儒から非難されたが、郷里では人を見抜く眼力があると称賛された。
安帝の時、郎中に任命され、後に再び当塗県の長となった。(当塗は県名で、故城は現在の宣州にある。)官職を辞して郷里に戻った。当時の名賢である李固や李膺らは皆、彼を師と仰いだ。梁太后が臨朝した時、日食や地震の変異があり、詔によって公卿に賢良方正を推薦させたところ、光禄勲の杜喬と少府の房植が荀淑を推挙して対策を述べさせたが、その内容が権貴や寵臣を風刺したため、大将軍梁冀に憎まれ、朗陵侯の相に左遷された。(『続漢書』によれば、荀淑が対策で梁氏を風刺したため、左遷されたのである。職務を明らかに道理に従って行い、「神君」と称された。)間もなく官を棄てて帰郷し、閑居して志を養った。財産が増えるたびに、宗族や知人友人を援助した。六十七歳で、建和三年に死去した。李膺は当時尚書であったが、自ら師の喪に服することを上表した。(『礼記』に「師に仕えては犯さず隠さず、左右に就いて養い方なく、勤めに服して心を尽くし、心の喪を三年する」とある。)二県(潁陰と朗陵か)は皆、彼のために祠を建てた。八人の子があった:儉、緄、靖、燾、汪、爽、肅、専。皆名声があり、当時の人は「八龍」と呼んだ。(緄の音は昆。燾の音は道。汪の音は烏光の反切。『説文』によれば「汪は深く広いこと」という。俗本が「注」と改めるのは誤り。「専」はある本では「敷」と作る。)
かつて、荀氏の旧里は西豪里と呼ばれていた。(現在の許州城内の西南に荀淑の故宅があり、伝承では旧西豪里であるという。)潁陰県令の勃海郡の苑康は、昔高陽氏に八人の才子があった(『左伝』に「昔、高陽氏に才子八人がいた:蒼舒、隤敳、檮戭、大臨、尨降、庭堅、仲容、叔達」とある)ことから、今荀氏にも八人の子がいるので、その里の名を高陽里と改めた。
荀靖は至高の品行を持ち、仕官せず、五十歳で亡くなり、玄行先生と号された。(皇甫謐の『高士伝』によれば「靖は字を叔慈といい、若い頃から優れた才能があり、行動は礼に従った。靖の弟の爽も才能で当時に名声を顕した。ある人が汝南の許章に『爽と靖とではどちらが賢いか』と尋ねた。章は言った『どちらも玉である。慈明(爽)は外に輝き、叔慈(靖)は内に潤いがある』と。靖が死去した時、学問を志す者たちは彼を惜しみ、靖のために誄を書いた者は二十六人に及んだ。潁陰県令の丘禎が靖を追号して玄行先生とした」という。)
荀淑の兄の子に荀昱(字は伯條)と荀曇(字は元智)がいた。荀昱は沛国の相となり、荀曇は広陵太守となった。兄弟ともに身を正し悪を憎み、宦官を除くことを志した。その一派や賓客で二郡にいる者は、些細な罪でも必ず誅罰した。荀昱は後に大将軍竇武と共に宦官誅滅を謀り、李膺と共に死んだ。荀曇も終身にわたり禁錮された。
荀爽
爽は字を慈明といい、一名を諝といった。(音は息汝の反切。)幼い頃から学問を好み、十二歳で『春秋』と『論語』に通じた。太尉の杜喬は彼を見て称賛し、「人の師となることができる」と言った。爽はそこで経書の思索に耽り、慶弔の行事にも行かず、朝廷からの招聘にも応じなかった。潁川では彼について「荀氏の八龍、慈明は比類なし」と言う謡が生まれた。
延熹九年、太常の趙典が爽を至孝として推挙し、郎中に任命された。爽は対策を上奏して便宜を述べた:
臣が師から聞いたところによりますと、「漢は火徳であり、火は木から生じ、木は火によって盛んとなるので、その徳は孝である(火は木の子であり、夏は火の位である。木は夏に至って盛んとなるので、孝となる。その象は『周易』の離卦にある)。」地にあるものは火であり、天にあるものは日である(『易』説卦伝に「離は火であり、日である」という)。天にあるものはその精を用い、地にあるものはその形を用いる。夏には火が旺じ、その精は天にあり、温暖の気は百木を養い育てる。これが孝である。冬の時には廃れ、その形は地にあり、酷烈の気は山林を焼き払う。これが不孝である。それゆえ漢の制度では天下に『孝経』を誦読させ、官吏を選ぶ際には孝廉を推挙するのである(平帝の時、王莽が子孫を戒める書八篇を作り、学官に教授させ、官吏でこれを誦読できる者は『孝経』と同等とみなした。音義によれば「これを用いて選挙を得ることを言う」という)。喪に服して親に自ら尽くすことは、孝の極みである(尽くすとは、その哀戚を尽くすことを言う)。今の公卿および二千石の官は、三年の喪に服してもすぐに職務を離れることができない。これはおそらく孝道を増し崇めることにも、火徳に相応しいことにもならないであろう。かつて孝文皇帝は労して謙り、行いは倹約に過ぎた(『易』謙卦の九三爻に「労して謙る君子は終わりに吉あり」という)ため、日をもって月に代えるという遺詔を出した。これは当時の適宜の措置であって、万世に貫くべきものではない。古今の制度には損益があっても、諒闇の礼は改め移されたことはなく、天下に親を忘れないことを示してきたのである(遺は忘れること)。今、公卿百官は皆、政治と教化の模範となるべき存在であるのに、父母の喪があっても駆けつけることができない。仁義の行いは、上から始まるものであり、敦厚な風俗は、下に応じて起こるものである。伝に言う「喪祭の礼が欠ければ、人臣の恩は薄くなり、死者を背き生者を忘れる者が多くなる」と。曾子は言った「人は自ら極めることはないが、必ずや親の喪においてはそうするであろう」(『論語』に見える。致は尽くす、極めるの意)。春秋伝に言う「上の行うところは、民の帰するところである」(『左氏伝』臧武仲の言葉)。上もしないことを民がするならば、刑罰を加えるのである。もし上の行うことを民も行うならば、どうして誅罰できようか。昔、丞相の翟方進は、自ら宰相であることを備え、制度を越えることを敢えてしなかった。母の憂いに遭った時、三十六日で喪を除いた(『前漢書』に翟方進が丞相となり、継母の憂いに遭い、喪服を着て三十六日で視事に就き、「国の制度を越えることはできない」と言ったとある)。礼を失う源は、上から始まるのである。古くは大喪の時には三年間その門を呼ばなかった(『公羊伝』の文である。何休の注に「孝子の恩を重んじて奪うことを避ける」という)。これは国を崇め風俗を厚くし教化を篤くする道である。事が宜しからざる時は正すべきであり、過ちがあれば改めることを恐れてはならない(憚は困難とする意)。天下の通ずる喪は、旧来の礼の通りにすべきである(『礼記』に「三年の喪は、天下の通ずる喪である」という)。
私は聞く、夫婦があって後に父子があり、父子があって後に君臣があり、君臣があって後に上下があり、上下があって後に礼義があると。礼義が備われば、人は身を置くべきところを知るのである。(語は易序卦に見える。)夫婦は人倫の始まりであり、王化の端緒である。だから文王が易を作ったとき、上経は乾・坤を冒頭とし、下経は咸・恒を冒頭とした。(易では乾・坤から離までが上経、咸・恒から未済までが下経である。)孔子は言う。「天は尊く地は卑しい、乾坤が定まるのである。」(易繋辞の文。)夫婦の道は、いわゆる順である。堯典に言う。「二女を媯汭に降嫁させ、虞に嫁がせた。」降とは下ること、嬪とは嫁ぐことである。帝堯の娘であっても、虞に下嫁するときは、なお身を屈めて降下し、婦道を勤め修めたのである。易に言う。「帝乙が妹を嫁がせ、福をもたらし大いに吉である。」(易泰卦六五爻の辞。王輔嗣の注に言う。「婦人は嫁ぐことを帰という。泰は陰陽が通じ合う時である。女が尊位にあり、中を履み順に居り、身を降して二に応ずる。帝乙が妹を嫁がせるのは、まさにこの義に合致する。」案ずるに《史記》では紂の父の名は帝乙であるが、この文では帝乙を湯とし、湯の名は天乙である。)婦人が嫁ぐことを帰というのは、湯が婚礼の礼をもってその妹を諸侯に嫁がせたことを言う。春秋の義では、王姫が斉に嫁ぐとき、魯に主とさせ、天子の尊さを諸侯に加えなかった。(《公羊伝》に言う。「夏の単伯が王姫を迎えた。単伯とは何か。我が大夫で天子から命を受けた者である。なぜ使と称さないのか。天子が召して迎えさせたからである。迎えるとはどういうことか。我に主とさせたのである。なぜ我に主とさせるのか。天子が諸侯に娘を嫁がせるには、必ず同姓の諸侯に主とさせるからである。」何休の注に言う。「自ら主とならないのは、尊卑が対等でないからである。」)今、漢は秦の法を継承し、公主を娶る儀礼を設け、妻が夫を制し、卑しい者が尊い者に臨む。これは乾坤の道に背き、陽が唱えるという義を失っている。(易緯に「陽が唱え陰が和す」とある。)
孔子は言う。「昔、聖人が易を作ったとき、仰いでは天に象を観、俯しては地に法を察し、鳥獣の文と地の宜を観た。近くは身に取り、遠くは物に取り、神明の徳を通じさせ、万物の情を類推した。」(いずれも易繋辞の文である。)今、天に法を観れば、北極が最も尊く、四星が妃后である。(北極は北辰。軒轅四星は女主の象である。)地に法を察すれば、高い山は夫に象り、低い沢は妻に象る。(櫫は高いの意。易で艮下兌上が咸。艮は山で夫の象。兌は沢で妻の象。咸は感。山沢は気を通じ、夫婦が互いに感ずるのである。)鳥獣の文を観れば、鳥では雄が鳴き、雌が順服する。獣では牡が唱導し、牝が相従う。近く身に取れば、乾は人の首、坤は人の腹である。(易説卦の文。)遠く物に取れば、木の実は天に属し、根は地に属する。(荄の音は該。)陽は尊く陰は卑しいのは、およそ天性である。また詩の初篇はまさに関雎を冒頭とし、礼では冠礼・婚礼を始めとし、まず夫婦を正す。(儀礼では士冠礼が始め、士婚礼がそれに次ぐ。)天地と六経は、その主旨は一つである。公主を娶る制度を改め、乾坤の性にふさわしくすべきである。堯・湯の法に従い、周・孔の道を範とせよ。(式は法とする意。)天地に合わせても誤りなく、鬼神に質しても疑いがない。人事がこのようであれば、嘉瑞が天から降り、吉符が地から出て、五つの善い徴候がすべて備わり、それぞれその順序に従うであろう。(韙は是。《史記》に言う。「善い徴候:肅であれば、時に雨が順調に降る;乂であれば、時に日が順調に照る;哲であれば、時に暖かさが順調である;謀であれば、時に寒さが順調である;聖であれば、時に風が順調に吹く。」五つの善い徴候が来て備わり、それぞれその順序に従うのである。)
昔、聖人は天地の中を立てて礼と称した。礼とは、福祥を興す根本であり、禍乱を止める源である。人が欲望を曲げて礼に従えば、福はこれに帰する。情に順じて礼を廃すれば、禍はこれに帰する。禍福の応ずる所を推し、興廃の由来を知るのである。多くの礼の中で、婚礼が第一である。だから天子は十二人を娶る。これは天の数である。諸侯以下はそれぞれ等差があり、事が降るのである。(《白虎通》に言う。「天子が十二人を娶るのは天に法り、十二月があり、百物がすべて生ずるからである。」また「諸侯は九人の女を娶る」ともある。)陽の性は純粋で施すことができ、陰の体は順で化すことができる。礼をもって楽を助け、その気を節度をもって発散させる。(《左伝》に、昔晋侯が病気になり、医和が診て言った。「病気は治せません。これは女に近づきすぎたためで、病気は蠱のようであり、鬼でも食物でもなく、惑って志を失ったのです。」公が言った。「女に近づいてはならないのか。」答えて言った。「節度をもってすべきです。先王の楽は、百事を節度づけるためのものです。天には六気があり、過ぎれば災いとなります。」そこでその気を節度をもって発散させるのである。)だから子孫の祥を豊かにし、老寿の福を招くことができる。三代の末期になると、淫らで節度がなくなった。瑤台・傾宮に、妾を数百人並べた。(列女伝に、夏の桀は琁室・瑤台を造り、雲雨に臨んだ。紂は傾宮を造った。解釈は桓帝紀に見える。)陽は上で尽き、陰は下で隔てられた。だから周公の戒めに言う。「農耕の艱難を知らず、小人の労苦を聞かず、ただ耽楽に従うばかりでは、時に長寿を保つ者もいない。」これが明らかな戒めである。(事は《尚書無逸篇》に見え、その言葉はこれとわずかに異なる。)後世の人々は、福を好みながらその根本に努めず、禍を憎みながらその軌道を改めない。伝に言う。「足を削って履に合わせる、誰が愚かだと言えようか。この人たちと比べて、欲望を追って身を喪うのはどうか。」まことに痛むべきことである。(適は従う意。身を喪う愚かさは、足を削るよりも甚だしいと言う。)
私はひそかに聞く、後宮の采女は五、六千人おり、従官や侍使がさらにその外にいる。冬夏の衣服、朝夕の食糧供給は、絹帛を消耗し、府庫を空しくし、徴発と調達は倍増し、十分の一の税を課し、罪のない民に空しい賦役を課して、無用の女を養っている。百姓は外で窮困し、陰陽は内で隔て塞がれている。だから和気を動かし、災異がしばしば至るのである。私の愚見では、礼に則った聘礼を受けず、いまだ寵幸を受けていない者は、すべて遣い出して、妃匹を成させてはどうか。第一に、怨みと空しさを通じさせ、陰陽を和らげる。第二に、財用を省き、府庫を充実させる。第三に、礼制を修め、長寿を安らかにする。第四に、陽の施しに配し、螽斯を祈る。(螽斯は蚣蝑で、その性は嫉妬せず、だから子孫が多く生まれる。詩に言う。「螽斯の羽、詵詵たり。宜しく爾の子孫、振振たり。」)第五に、役賦を緩め、黎民を安んじる。これはまさに国家の大きな利益であり、天人の大いなる福である。
寒さと暑さ、暗さと明るさがあるからこそ一年が成り立ち、尊卑と奢りと倹約があるからこそ礼が成り立つ。すなわち、暗明寒暑の気と、尊卑侈約の礼がその節度なのである。易経に言う、「天地に節度があって四時が成る」。春秋伝に言う、「器と名だけは人に貸してはならない」。孝経に言う、「上を安んじ民を治めるには、礼に優るものはない」。礼とは、尊卑の差別、上下の制度である。昔、季氏が八佾の舞を庭で舞ったが、人や物を害して困らせたわけではないのに、孔子はなお「これを忍ぶならば、何を忍ばないことがあろうか」と言った。洪範に言う、「君主だけが威を示し、君主だけが福を与え、君主だけが玉のような食事をとる」。この三つはすべて、君主だけが行い臣下が同じにしてはならないことである。今、臣下が君主の服を僭称し、下の者が上の者の珍味を食らうのは、いわゆる家を害し国に凶事をもたらすものである。おおよそ古礼の尊卑の差別と、董仲舒の制度の区別に依拠し、厳しく有司を監督して、必ずその命令を行わせるべきである。これこそが乱を禁じ俗を善くし用を足らしめる要諦である。
上奏して聞かせると、すぐに官を棄てて去った。
後に党錮の禍に遭い、海上に隠れ、さらに南へ漢水のほとりに逃れ、十余年を積み重ね、著述を事とし、ついに碩儒と称された。党禁が解けると、五府がこぞって辟召し、司空の袁逢が有道として推挙したが、応じなかった。袁逢が亡くなると、爽は喪服を着て三年間喪に服し、当時の人々はしばしばこれを見習って習俗とした。当時、多くの人は妻の喪服を着ることを行わず、親の憂いの中にあってもなお喪や病気を見舞う者がおり、また私的にその君主や父や諸名士に諡を贈っていたが、爽はみな大義を引き据え、経典によってこれを正した。すべてが変わるわけではなかったが、かなり改められた。
後に公車が徴して大将軍何進の従事中郎とした。何進は彼が来ないことを恐れ、迎えて侍中に推薦したが、何進が敗れると詔命は中途で絶えた。献帝が即位すると、董卓が政を輔け、再び彼を徴した。爽は徴命を逃れようとしたが、役人が厳しく拘束したため、去ることができず、やむなく就任して平原の相に任ぜられた。宛陵まで行くと、再び追って光禄勲に任ぜられた。職務について三日で、司空に進んだ。爽が徴命を受けてから台司に登るまで、九十五日であった。これに従って長安に遷都した。
爽は董卓の残忍暴虐がますます甚だしくなり、必ずや社稷を危うくすると見て、彼が辟挙する者はみな才略のある士を選び、共にこれを図ろうとした。また司徒の王允や董卓の長史の何顒らと内々に謀った。病気で薨じ、六十三歳であった。
礼、易伝、詩伝、尚書正経、春秋条例を著し、また漢代の事柄で成敗の鑑戒となるべきものを集めて『漢語』と称した。また公羊問及び弁讖を作り、その他の論述とともに、『新書』と題した。合わせて百余篇あったが、今は多くが散逸欠落している。
兄の子の悦と彧はともに名を知られた。彧は別に伝がある。
論じて言う。荀爽、鄭玄、申屠蟠はともに儒行をもって処士とし、累次徴召されてもみな病気と称して赴かなかった。董卓が朝政を執ると、再び礼を整えて召し出した。蟠と玄はついに屈せず、その高潔を全うした。爽はすでに黄髪の年齢であり、ただ一人で赴き、百日と経たないうちに卿相の位を得た。その趣向の違いを疑う者もいるが、私はひそかにその心情を推し量るに、出処進退は君子の大筋であり、平穏な世運であれば道を弘めて志を求め、世が衰えれば跡を濡らして時を匡すものだ。荀公の急ぎ自らを励ますのは、その跡を濡らすことではなかったか。そうでなければ、どうして貞吉に背いて虎の尾を踏むようなことをしたのか。その遷都の議を控えめに述べて、楊彪、黄琬の禍を救おうとしたことを見よ。後にひそかに董氏を図り、ほとんど国命を振るわんとしたのは、いわゆる「大いなる直は屈するが如し」であり、道はもとより曲折しているのである。
荀悦
悦は字を仲豫といい、儉の子である。儉は早くに亡くなった。悦は十二歳で春秋を説くことができた。家は貧しく書物がなく、たびたび人里に出て、目にした書簡を一覧して多くを暗誦記憶した。性格は沈静で、姿容が美しく、特に著述を好んだ。霊帝の時、宦官が権力を用い、士人は多く身を退いて窮地に処したが、悦は病気と称して隠居し、当時の人々は彼を知らず、従弟の彧だけが特に敬い称えた。初め鎮東将軍曹操の府に辟召され、黄門侍郎に遷った。献帝は文学を好み、悦は彧及び少府の孔融とともに禁中で侍講し、朝夕談論した。累進して秘書監、侍中となった。
時には政権が曹氏に移り、天子はただ己を恭しくするのみであった。悦は献替の志があったが、謀を用いることができず、そこで申鑑五篇を作った。その論弁は政体に通じ、完成するとこれを上奏した。その大略は次の通りである。
道の根本は、仁義に過ぎない。五典によってこれを経とし、群籍によってこれを緯とし、詠じ歌い、弦にし舞い、前の鑑戒が明らかになった後、再びこれを繰り返し述べる。だから古代の聖王は、仁義について、繰り返し重ねるだけであった。
政治を成し遂げる方法は、まず四つの患いを除き、それから五つの政を尊ぶことである。
一つは偽り、二つは私心、三つは放縦、四つは奢侈である。偽りは俗を乱し、私心は法を壊し、放縦は軌道を越え、奢侈は制度を敗る。この四つが除かれなければ、政治は行われる道がない。俗が乱れれば道は荒廃し、天地といえどもその本性を保つことができない。法が壊れれば世は傾き、君主といえどもその法度を守ることができない。軌道を越えれば礼は亡び、聖人といえどもその道を全うすることができない。制度が敗れれば欲望がほしいままになり、四方といえどもその要求を満たすことができない。これを四患という。
農桑を興してその生を養い、好悪を審らかにしてその俗を正し、文教を宣べてその教化を明らかにし、武備を立ててその威を執り、賞罰を明らかにしてその法を統べる。これを五政という。
人は死を恐れなければ、罪で脅すことはできない。人は生きることを喜ばなければ、善で勧めることはできない。たとえ契が五教を布き、皐陶が刑官となっても、政治は行われないであろう。(尚書で舜が契に言うには、「汝は司徒となり、五教を敬って敷くには寛容であれ」と。皐陶に言うには、「汝は士となり、五刑を明らかにせよ」と。)それゆえ、上に立つ者はまず人々の財産を豊かにしてその志を定め、帝は籍田を耕し、后は蚕室で桑を採る。(籍田のことは、明帝紀の解釈に見える。礼記に言う、「季春の月、后妃は斎戒し、東に向かって自ら桑を採り、蚕事を勧める」と。古の天子諸侯には必ず公桑蚕室があり、川の近くに造り、宮の高さは三尺ある。)国に遊び人はなく、野に荒れた業はなく、財は買って用いる必要がなく、(自足しているという意味である。)力はむやみに加えず、人事に応じて用いる。これを養生という。(周は、給するという意味である。)
君子が天地を動かし、神明に応じ、万物を正して王化を成す所以は、必ずや真実の定めによるのみである。それゆえ、上に立つ者は善悪の区別を審らかに定める。善悪は功罪に要約され、毀誉は実証によって検証される。言葉を聞いて事績を責め、名声を挙げて実態を察し、詐偽に惑わされることなく、衆人の心を乱さない。それゆえ事には全て核があり、物には全て切実さがあり、善は全て顕れ、悪は全て明らかになり、俗に奸怪なく、民に淫風なし。百姓上下は利害が己にあることを知るので、心を恭しく慎み、行いを慎んで修め、内に迷い惑わず、外に異なる望みがなければ、民の志は平らかになる。これを正俗という。
君子には情によって働きかけ、小人には刑によって働きかける。栄辱とは、賞罰の精華である。それゆえ礼教と栄辱は、君子に加えて、その情を教化するのである。桎梏と鞭撲は、小人に加えて、その刑を教化するのである。君子は辱めを受けることすらしない、まして刑罰など受けるはずがない。小人は刑罰すら憚らない、まして辱めなど憚るはずがない。もし教化が廃れれば、中材の人を推して小人の域に落とす。教化が行われれば、中材の人を導いて君子の道に納める。これを章化という。(章は、明らかにするという意味である。)小人の情は、緩やかであれば驕り、驕れば恣に、恣になれば怨み、怨めば叛き、危険であれば乱を謀り、安泰であれば欲望を思う。威強でなければこれを懲らしめることはできない。それゆえ、上に立つ者は必ず武備を持ち、不測の事態に備え、寇虐を抑止する。平穏な時は内政に託し、有事の時は軍旅に用いる。(『国語』で斉の桓公が管仲に問うた、「国は安泰にできるか」と。管仲が言うには、「まだできません。君がもし卒伍を正し、甲兵を修めれば、大国もまたこれを修め、小国は設備し、内政を行いつつ軍令を託することができます」と。注に言う、「(正)[政]は国政である。国政を修めて軍令を託せば、隣国は知らない」と。)これを秉威という。
賞罰は、政治の柄である。(『韓子』に言う、「二柄とは、刑と徳である。殺戮するのを刑といい、慶賞するのを徳という」と。)賞を明らかにし罰を必ず行い、信を審らかにし令を慎み、賞は善を勧めるために、罰は悪を懲らしめるために行う。人主が妄りに賞を与えないのは、ただその財を惜しむからではなく、賞が妄りに行われれば善が勧められなくなるからである。妄りに罰しないのは、その人を哀れむからではなく、罰が妄りに行われれば悪が懲らしめられなくなるからである。賞が勧めにならないのは善を止めるということであり、罰が懲らしめにならないのは悪を放縦するということである。上に立つ者が下の者が善を行うのを止めさせず、下の者が悪を行うのを放縦させなければ、国法は立つ。これを統法という。
四患が既に除かれ、五政がまた立ち、誠をもってこれを行い、固くこれを持守し、簡素であって怠らず、疎らであって失わず、無為にして為し、自らに施させ、無事にして事とし、自らに交わらせる。(『老子』に言う、「無為を為し、無事を事とす」と。また「故に徳は交わりて帰す」とも言う。)厳しくしなくても成り立ち、厳格でなくても教化され、拱手して揖譲するだけで、海内は平らかになる。これを為政の方という。
また言う。
公主を娶る制度は古くない。二女を降嫁させたのは、陶唐の典である。妹を嫁がせて大吉なのは、帝乙の訓である。王姫が斉に嫁いだのは、宗周の礼である。陰が陽に乗るのは天に背き、婦が夫を陵ぐのは人に背く。天に背けば不祥であり、人に背けば不義である。また古の天子諸侯には事があれば、必ず廟に告げた。朝廷には二史がおり、左史は言葉を記し、右史は事績を書いた。(『礼記』に言う、「天子は東門の外で朝日を拝し、南門の外で朔を聴き、閏月には門の左扉を閉ざし、その中に立ち、行動は左史がこれを書き、言葉は右史がこれを書く」と。)事績は春秋となり、言葉は尚書となる。君の挙動は必ず記録され、善悪成敗は全てそこに存する。下は士庶に及び、もし優れた者がいれば、皆載籍に記される。あるいは顕れようとしてできず、あるいは隠そうとして名が明らかになる。得失は一朝のうちに、栄辱は千載にわたる。善人は勧められ、過ちを犯した人は恐れる。(淫は、過ちという意味である。『左氏伝』に言う、「あるいは名を求めても得られず、あるいは隠そうとして名が明らかになる。書は斉豹を盗とし三叛人の名を記して、不義を懲らしめる」と。)今において適切なのは、史官を備え置き、その典文を掌り、その行動を記録させることである。毎年終わりに、尚書に挙げる。賞罰を助け、法教を弘めるためである。
帝はこれを見て善しとした。
帝は典籍を好み、常に班固の『漢書』が文が煩雑で省みにくいと感じ、そこで荀悦に命じて左氏伝の体裁に倣って『漢紀』三十篇を作らせ、詔を下して尚書に筆札を与えさせた。言葉は簡約で事績は詳細であり、論弁は多く美しい。その序に言う、「昔の上聖は、ただ皇極を建て、天地を経緯し、象を観て法を立て、そこで書契を作り、宇宙を通じ、王庭に揚げた。その用は大いなるものであった。先王は大業を光演し、この夏に陳べた。(『詩経』周頌に言う、「我は懿徳を求め、この夏に陳ぶ」と。鄭玄の注に言う、「懿は美である。肆は陳べるである。我は武王である。美徳の士を求めて任用したので、この夏に陳べてこれを歌ったのである」と。)またその後の世のため、永世の典を作った。典を立てるには五志がある。第一は道義を通達させること、第二は法式を明らかにすること、第三は古今を通じさせること、第四は功勲を顕著にすること、第五は賢能を表彰することである。ここにおいて天人の間、事物の宜しきが、燦然と顕著になり、備わらないものはない。世はその軌を継ぎ、その業を墜とさない。(済は、成すという意味である。)損益盈虚は、時とともに消息する。善悪は異なるが、その道理は一つである。漢は四百六年、乱を撥ねて反正し、武を統べ文を興し、ひたすら祖宗の洪業を思い、万世に光を啓かんとする。聖上は穆然として、ただ文を憂い、前を瞻み後を顧み、これを継ぎこれを承け、大猷を闡明し、国典を立てることを命じた。そこで旧書を綴じ、漢紀を述べる。中興以前の、明主賢臣の得失の軌跡も、十分に見ることができるであろう」。
また崇徳、正論および諸論数十篇を著した。六十二歳、建安十四年に卒した。
韓
韓韶
韓韶、字は仲黄、潁川郡舞陽県の人である。若くして郡に仕え、司徒府に辟召された。当時、泰山の賊公孫挙が偽号を称えて数年が経ち、守令はこれを打ち破り散らすことができず、多くは法に坐した。尚書は三府の掾で劇務を処理できる者を選び、そこで韓韶を嬴県の長とした。(嬴は県で、故城は現在の兗州博城県の東北にある。)賊はその賢さを聞き、互いに戒めて嬴県の境に入らなかった。他の県は多く寇盗に遭い、耕桑が廃れ、その流民が県境に入って衣糧を求める者が非常に多かった。韓韶はその飢えと困窮を哀れみ、倉を開いて賑済し、救済したのは一万余戸に及んだ。主管者は争って不可と言った。韓韶は言った、「溝壑に死ぬはずの人を長く生かしておき、これで罪に伏すなら、笑って地に入ろう」。太守はもとより韓韶の名声と徳行を知っており、結局何の罪にも問われなかった。病で官のまま卒した。同郡の李膺、陳寔、杜密、荀淑らが碑を立てて頌えた。
子の融、字は元長。若くして道理を弁えることができたが、章句の学はしなかった。声名は甚だ盛んで、五府がともに辟召した。献帝の初め、太僕に至った。七十歳で卒した。
鍾
鍾皓
鍾皓は字を季明といい、潁川郡長社県の人である。郡内の名門の出身で、代々刑法に通じていた。鍾皓は若い頃から篤実な行いで知られ、公府からたびたび招聘されたが、二人の兄がまだ官に就いていないことを理由に、密山に身を隠し(密県の山である)、詩経と法律を教えて門徒千余人を抱えた。同郡の陳寔は、年齢が鍾皓に及ばなかったが、鍾皓は彼を引き立てて友人とした。鍾皓が郡の功曹となった時、たまたま司徒府に招聘されることになり、辞去する際に太守が「誰があなたの後任に適任か」と尋ねた。鍾皓は「明府が必ず適任者をお求めなら、西門の亭長である陳寔がよろしいでしょう」と答えた。陳寔はこれを聞いて、「鍾君は人を見る目がないようだが、どうして私だけは見抜いたのだろうか」と言った。鍾皓はしばらくして自ら辞任して去った。前後九回にわたり公府から招聘され、廷尉正、博士、林慮県令に任命されたが、いずれも就任しなかった。当時、鍾皓と荀淑はともに士大夫の憧れの的であった。李膺は常々嘆いて言った。「荀君の清い識見には及ぶべくもなく、鍾君の至高の徳は師とすべきである」。
鍾皓の兄の子である鍾瑾の母は、李膺の叔母である。鍾瑾は学問を好み古風を慕い、謙譲の気風があり、李膺と同年で、ともに名声があった。李膺の祖父で太尉であった李修は、常々「鍾瑾は我が家の気質に似ており、国に道があれば用いられ、国に道がなければ刑罰を免れるだろう」と言った。また李膺の妹を鍾瑾に娶わせた。鍾瑾は州府から招聘されたが、一度も志を曲げなかった。李膺は彼に言った。「孟子は『人に是非の心がなければ、人ではない』と考えている(『孟子』に「人に惻隠の心がなければ、人ではない。羞悪の心がなければ、人ではない。辞譲の心がなければ、人ではない。是非の心がなければ、人ではない」とある)。弟はどうして孟子と同じではないのか」。鍾瑾は常々李膺の言葉を鍾皓に伝えた。鍾皓は言った。「昔、国武子は人の過ちを明らかにすることを好み、それが怨みの原因となった(国武子は斉の大夫である。斉の慶克が斉の君主の母と密通したのを国武子が知り、慶克を責めたため、夫人は武子を讒言して追放させた。事は『左伝』に見える)。結局は身を保ち家を全うしたが、あなたの道こそ貴いのだ」。彼が教訓として安心させたのは、多くこのようなことであった。
六十九歳で家で亡くなった。諸儒は彼を称えて言った。「林慮の美徳、礼に非ざれば処さず。この詩書を悦び、弦琴を弾じて古を楽しむ。五度州の招きに就き、九度台輔に応ず。王命に逡巡し、歳を終えて容与す」。
鍾皓の孫の鍾繇は、建安年間に司隸校尉となった(『海内先賢傳』によると「繇は字を元常といい、郡主簿の鍾迪の子である」とある。『魏志』によると「孝廉に挙げられて尚書郎となり、三府に招聘されて廷尉正、黄門侍郎となった」とある)。
陳
陳寔
陳寔は字を仲弓といい、潁川郡許県の人である。微賤な家柄の出身であった。子供の頃から、遊びの中にあっても、同輩たちの中心となった。若くして県の役人となり、常に雑役に従事していたが、後に都亭の佐吏となった。しかし志を立てて学問を好み、座っても立っても書物を読んだ。県令の鄧邵が試しに話をしてみると、彼を異才と認め、太学で学ぶことを許した。後に県令が再び役人に召そうとしたが、彼は陽城山中に身を隠した。当時殺人事件があり、同県の楊という役人が陳寔を疑ったため、県は彼を逮捕して拘束し、拷問したが証拠がなく、後に釈放された。督郵となった時、密かに許県令に頼み、礼をもって楊役人を招聘した。遠近でこれを聞いた者は、皆感嘆して敬服した。
家が貧しかったため、再び郡の西門亭長となり、まもなく功曹に転じた。当時、中常侍の侯覧が太守の高倫に役人の任用を依頼し、高倫は教令を出して文学掾に任命しようとした。陳寔はその人物が適任でないことを知り、教令を板に書いて懐にしまい(檄とは板に書いた文書のこと。高倫の教令を檄に書いて懐に入れたのは、事が漏れるのを恐れたためである)、面会を求めて言った。「この人物は任用すべきではありませんが、侯常侍の意向に逆らうこともできません。私は外署(郡府外での任用)に従うことをお願いします。これで明徳を汚すことにはならないでしょう」。高倫はこれに従った(外署での任用を請うたのは、高倫が請託に陥るのを避けるためである)。そこで郷里の議論はこの任用を不適切だと怪しんだが、陳寔は終始何も言わなかった。後に高倫が尚書に任命されるとき、郡内の士大夫が輪氏県の伝舎まで見送った(輪氏は県名で、潁川郡に属し、現在の故高陽県である)。高倫は一同に向かって言った。「私は以前、侯常侍のために役人を任用しようとしたが、陳君は密かに教令を持ち帰り、外で白状して任用した。近頃、議論する者がこれをもって彼を軽んじていると聞くが、この過ちは旧友である私が権勢を恐れたためである。陳君はまさに善は君に帰し、過ちは己に帰する者と言えよう」。陳寔は固く自ら過ちを引き受け、聞いていた者たちはようやく嘆息し、これによって天下はその徳に服した。
司空の黄瓊が難事を処理する者を招聘して選んだ時、陳寔は聞喜県令に補され、一ヶ月ほどで喪に服すため官を去った。再び転任して太丘県令に任命された(太丘は県名で、沛国に属し、故城は現在の亳州永城県の西北にある)。徳を修めて清静を保ち、百姓は安らぎを得た。隣県から人々が帰属して来ると、陳寔はすぐに訓導して譬え諭し、それぞれ本籍の主管官庁に戻るよう発遣した(司官とは主管する官のことをいう)。役人は訴訟が出ることを心配し、禁止したいと申し出た。陳寔は言った。「訴訟は正しさを求めるものであり、禁止すれば道理はどうして明らかになるのか。拘束することはない」。主管官はこれを聞いて嘆息し、「陳君の言うことがこのようであれば、どうして人に怨まれることがあろうか」と言い、結局訴訟を起こす者はいなかった。沛国の相が賦斂を違法に行ったため、印綬を解いて去ったが、官吏や民衆は彼を追慕した。
後に党人が逮捕されると、事件は陳寔にも連座した。他の多くは逃避して免れようとしたが、陳寔は「私が獄に就かなければ、人々は頼る所がない」と言い、自ら囚人となることを請うた。赦令にあって釈放された。霊帝の初め、大将軍の竇武が彼を招聘して掾属とした。当時、中常侍の張譲は天下に権勢を振るっていた。張譲の父が死に、潁川に帰葬する際、郡中はこぞって参列したが、名士は一人も訪れず、張譲はこれを大いに恥じた。陳寔はただ一人で弔問した。その後、再び党人が誅殺されることになった時、張譲は陳寔に感じ入り、多くの者を救って罪を赦した。
陳寔は郷里において、公平な心で物事に接した。争訟があると、人々は判決を正しく求めて彼の下に来た。彼は曲直を明らかにして諭し、去る者に怨みを抱く者はなかった。人々はついに「刑罰を受ける方がましだ、陳君に非難されるよりは」と嘆くほどであった。ある年、凶作で民が貧しく、盗賊が夜に彼の家に侵入し、梁の上に隠れていた。陳寔はそれに気づき、そっと起き上がって身なりを整え、子孫を呼び集め、厳しい顔で訓戒した。「人は自ら努めなければならない。不善の人も元から悪いわけではなく、習慣が本性となり、ついにこのようになってしまったのだ。梁の上の君子がそうである」。盗賊は大いに驚き、自ら地面に飛び降り、額を地に付けて罪を悔いた。陳寔はゆっくりと諭して言った。「あなたの様子を見ると、悪人には見えない。深く己に克って善に戻るべきだ。しかしこれは貧困によるものだろう」。そして絹二匹を与えて帰らせた。これ以来、県内では盗みがなくなった。
太尉の楊賜、司徒の陳耽は、公卿に任命されるたびに、官僚たちがこぞって祝賀したが、楊賜らは常々陳寔が高位に登っていないことを嘆き、自分たちが先になったことを恥じた。党禁が解かれると、大将軍の何進、司徒の袁隗は人を遣わして陳寔を勧誘し(敦は勧める意)、破格の地位に特別に推薦しようとした。陳寔は使者に謝って言った。「私は久しく人事を絶ち、ただ飾り巾をして終わりを待つだけです」。当時、三公の職が空くたびに、議論する者は彼に帰し、たびたび招聘の命を受けたが、遂に起き上がらず、門を閉めて車を吊るし、隠棲して老いを養った。中平四年、八十四歳で家で亡くなった。何進は使者を遣わして弔祭し、海内から参列した者は三万人余り、喪服を着た者は数百人に及んだ。共に石碑を刻んで立て、文範先生と諡した(『先賢行狀』によると「将軍の何進が官属を遣わして弔祠し、諡を贈った」とある)。
六人の子があり、陳紀、陳諶が最も賢かった。
陳紀
紀は字を字符方といい、また至徳をもって称された。兄弟は孝養を尽くし、閨門は和やかで、後進の士人たちは皆その風を推し慕った。党錮の禍に遭うと、発憤して数万言の書を著し、陳子と号した。党禁が解けると、四府がともに命を下したが、屈して就くことはなかった。父の喪に遭い、悲しみが募るたびに、血を吐き気を絶やし、喪服を脱いだ後も、積もる毀損と衰弱で、ほとんど命を絶つほどであった。豫州刺史はその至高の行いを称え、尚書に上表し、百城にその画像を掲げて、風俗を励ました。董卓が洛陽に入ると、家に赴いて五官中郎将に任命したが、やむなく京師に到着し、侍中に遷った。
平原相として出向し、董卓を謁見した。当時、董卓は長安への遷都を考えていた。そこで紀に言った。「三輔の地は平坦で開け、四方は険固、土地は肥沃で、陸海と号されている。(《前書》に、東方朔が言うには『三輔の地は、南に江・淮があり、北に河・渭があり、汧・隴より東、商・洛より西、その土壌は肥沃で、これこそいわゆる天府陸海の地である』。)今、関東で兵が起こり、洛陽は長く居られない恐れがある。長安にはまだ宮室がある。今、西遷しようと思うが、どうか?」紀は言った。「天下に道がある時は、四夷を守る。(《左伝》に、楚の沈尹戍が言うには『古の天子は四夷を守る。天子が卑しくなれば、諸侯を守る』。)徳政を修めて、服従しない者を懐柔すべきです。至尊を遷移させるのは、誠に計略の末節です。愚かながら、公は公卿に政務を委ね、外任に専念されるべきだと思います。命令に背く者があれば、武力をもって威圧すべきです。今、関東で兵が起こり、民は命令に耐えられません。もし朝政から謙って遠ざかり、師を率いて討伐すれば、塗炭の苦しみにある民は、ほぼ全うできるでしょう。もし万乗を遷して自ら安泰を図ろうとすれば、累卵の危うき、崢嶸の険しきに陥るでしょう。(累卵は、皇后紀に解釈がある。崢の音は士耕の反切。)」董卓の意は甚だ逆らったが、紀の名声と行いを敬い、それ以上は何も言わなかった。当時、司徒に任じようとする議論があったが、紀は禍乱がまさに起こらんとしているのを見て、再び装いを整えず、即座に郡に赴いた。璽書が追って太僕に任命し、また尚書令に徴した。建安初年、袁紹が太尉となったが、紀に譲ろうとした。紀は受けず、大鴻臚に任命された。七十一歳で官にて卒した。
子の羣は、魏の司空となった。(羣は字を長文という。《魏志》に「魯国の孔融は才高く倨傲で、年齢は羣と紀の中間であった。先に紀と友となり、後に羣と交わり、さらに紀に拝礼したため、これによって名を顕した」という。)天下は「公は卿に恥じ、卿は長に恥じる」と思った。
弟の諶は、字を季方という。紀と徳を同じくし行いを共にし、父子ともに高名を著し、当時は三君と号された。宰府が辟召するたびに、常に同時に旌命され、羔や雁が群れをなした。(古の諸侯が天子に朝する時、卿は羔を執り、大夫は雁を執り、士は雉を執った。成羣とは多いことを言う。)当時の者はこれを栄誉としなかった者はなかった。諶は早くに亡くなった。(先賢行状に曰く、「豫州の百城は、皆、寔、紀、諶の形像を図画した」という。)
史論
論じて言う。漢は中世以降、宦官が恣に振る舞ったため、俗は遂に身を隠し行いを矯正し潔くし、放言することを高しとするようになった。(その言を放肆し、節制に拘らないこと。《論語》に「隠居して言を放つ」とある。)士人でこれを語らない者は、草取りの農夫や牧童ですら既に叫んで嘲笑した。(叫呼とは、これを譏笑すること。芸とは草を除くこと。)故に時政はますます暗く、その風潮はますます進んだ。ただ陳先生の進退の節度は、必ずや測ることができる。徳に拠るゆえに物は犯さず、仁に安んずるゆえに群を離れず、行いが身に成り道が天下を訓するので、凶邪な者は権力をもって奪うことができず、王公は貴さをもって驕ることができなかった。これによって声教は上で廃れても、風俗は下で清らかであったのである。
賛して言う。二李は淑に師事し、陳君は皓を友とした。韓韶は吏に就き、贏寇は道を懐いた。太丘は奥深く広く、我が彝倫の模範となった。これこそ淵の軌跡であり、薄夫を以て淳とす。(曾とは「則」の意味である。)慶基は既に開かれ、蔚然たる穎濱あり、二方は則を承け、八慈が塵を継いだ。(二方とは、元方と季方である。荀淑の八子は皆、慈を字とし、《荀氏家伝》に見える。)