後漢書
第六十二
荀韓鍾陳列伝第五十二
荀
荀淑
荀淑は字を季和といい、潁川郡潁陰県の人であり、荀卿の十一世の孫である。
若い頃から高い品行を持ち、博学であったが章句の学を好まず、多くの俗儒から非難されたが、郷里では人を見抜く眼力があると称賛された。
安帝の時代に、郎中に任命され、後に再び当塗県の長となった。
官職を辞して故郷に戻った。当時の名高い賢人である李固や李膺らは皆、彼を師と仰いだ。梁太后が摂政となった時、日食や地震の異変があり、詔によって公卿に賢良方正を推薦させたところ、光禄勲の杜喬と少府の房植が荀淑を推挙して対策を述べさせたが、その内容が権勢を誇る者を風刺したため、大将軍梁冀の忌諱に触れ、朗陵侯の相に左遷された。
間もなく、官を棄てて帰郷し、閑居して志を養った。財産が増えるたびに、宗族や知人友人を援助した。六十七歳の時、
建和三年
に死去した。李膺は当時尚書であったが、自ら師の喪に服することを上表した。
二県(朗陵と当塗)はいずれも祠を建立した。八人の息子がいた:儉、緄、靖、燾、汪、爽、肅、專で、皆名声があり、当時の人々は彼らを「八龍」と呼んだ。
かつて、荀氏の旧里は西豪と呼ばれていた。
潁陰県令の勃海郡の苑康は、昔高陽氏に八人の才子がいたことから、
今の荀氏にも八人の子がいるとして、その里の名を高陽里と改めた。
荀靖は至極の品行を持ち、仕官せず、五十歳で亡くなり、玄行先生と号された。
荀淑の兄の子の荀昱は字を伯條といい、荀曇は字を元智といった。荀昱は沛国の相となり、荀曇は広陵太守となった。兄弟ともに身を正し悪を憎み、宦官を除くことを志した。その一派の賓客で二郡にいる者は、些細な罪でも必ず誅罰した。荀昱は後に大将軍の竇武と共に宦官誅殺を謀り、李膺と共に死んだ。荀曇も終身にわたり官途を閉ざされた。
荀爽
爽は字を慈明といい、一名を諝といった。
幼い頃から学問を好み、年十二で、『春秋』、『論語』に通じた。太尉の杜喬はこれを見て称賛し、「人の師となることができる」と言った。爽は経書に耽溺し思索を深め、慶弔の行事にも行かず、招聘にも応じなかった。潁川では彼について「荀氏の八龍、慈明に並ぶ者なし」と言った。
延熹九年
、太常の趙典が爽を至孝として推挙し、郎中に任命された。彼は対策を上奏して便宜を述べた。
臣が師から聞いたところによると、「漢は火徳であり、火は木から生じ、木は火によって盛んとなる。故にその徳は孝である。」地にあっては火であり、天にあっては日である。
天にあるものはその精を用い、地にあるものはその形を用いる。夏は火が王となり、その精は天にあり、温暖の気は百木を養い、これが孝である。冬になると廃れ、その形は地にあり、酷烈の気は山林を焚焼し、これが不孝である。ゆえに漢の制度では天下に孝経を誦させ、官吏を選抜し孝廉を推挙した。〈平帝の時、王莽が書八篇を作って子孫を戒め、学官に教授させ、官吏でこれを誦できる者は『孝経』と同等とした。音義に云う、「これを用いることで選挙を得るという意味である」〉
喪に服し親に自ら尽くすことは、孝の終わりである。〈尽くすとは、その哀戚を尽くすことをいう。〉
今の公卿および二千石の官は、三年の喪に服してもすぐに職務を離れることができず、これは孝道を増し崇めることや火徳に相応しいとは言い難い。かつて孝文帝は労謙で、行いは倹約を過ぎた。〈『易』謙卦の九三爻に「労謙の君子は終わり有り吉」とある。〉
ゆえに遺詔で日をもって月に代えた。これは当時の適宜であって、万世に貫くことはできない。古今の制度には損益はあるが、諒闇の礼は改め移されたことはなく、天下に親を忘れないことを示している。〈遺は忘れること。〉
今、公卿群僚は皆、政教の模範となるべき存在であるのに、父母の喪に際して駆けつけることができない。仁義の行いは上から始まり、敦厚の俗は下に応じる。伝に曰く、「喪祭の礼が欠ければ、人臣の恩は薄くなり、死者を背き生者を忘れる者が多くなる」と。曾子は言った、「人に自ら極めることはないが、必ずあるとすれば親の喪であろう!」〈事は『論語』に見える。致は尽くす、極めるの意。〉
春秋伝に曰く、「上のなすところ、民の帰するところである」と。〈『左氏伝』臧武仲の言葉。〉
上もしないことを民がするならば、刑罰を加える。もし上のなすことを民もするならば、どうして誅罰できようか?昔、丞相の翟方進は、自ら宰相を備えているとして、制を越えることを敢えてしなかった。母の憂いに遭った時、三十六日で喪を除いた。〈前漢書に、翟方進が丞相となり、後母の憂いに遭い、喪服を着て三十六日で視事に就き、「国の制を越えることはできない」と言ったとある。〉
礼を失う源は、上から始まる。古、大喪の時は三年間その門を呼ばなかった。〈『公羊伝』の文である。何休の注に云う、「孝子の恩を重ねて奪うことを重んじるためである」。〉
これは国を崇め俗を厚くし教化を篤くする道である。事が宜しきを失えば正すべきであり、過ちは改めることを恐れてはならない。〈憚は難しいとする意。〉
天下の通ずる喪は、旧礼の通りにすべきである。〈『礼記』に曰く、「三年の喪は、天下の通喪である」。〉
臣は聞く、夫婦があって後に父子があり、父子があって後に君臣があり、君臣があって後に上下があり、上下があって後に礼義があると。礼義が備われば、人はおくべき所を知る。〈語は易の序卦に見える。〉
夫婦は人倫の始まり、王化の端緒である。ゆえに文王が易を作った時、上経は乾・坤を首とし、下経は咸・恒を首とした。〈易では乾・坤から離までが上経、咸・恒から未済までが下経である。〉
孔子は言った、「天は尊く地は卑し、乾坤定まる」。〈易の系辞にある。〉
夫婦の道は、いわゆる順である。堯典に曰く、「二女を媯汭に降し、虞に嬪せしむ」と。降は下すことであり、嬪は婦となることである。帝堯の娘であっても、虞に下嫁し、なお体を屈めて降下し、婦道を勤め修めたことを言う。易に曰く、「帝乙、妹を帰し、以て祉し元吉なり」と。〈易の泰卦六五爻の辞である。王輔嗣の注に云う、「婦人は嫁ぐことを帰という。泰は陰陽の交通する時であり、女が尊位に処し、中を履き順に居り、身を降して二に応ずる。帝乙が妹を帰すことは、誠にこの義に合う」。案ずるに『史記』では紂の父の名は帝乙であるが、この文では帝乙を湯とし、湯の名は天乙である。〉
婦人が嫁ぐことを帰といい、湯が娶りの礼をもってその妹を諸侯に帰したことを言う。春秋の義では、王姫が斉に嫁ぐ時、魯にこれを主させ、天子の尊をもって諸侯に加えない。〈『公羊伝』に曰く、「夏の単伯が王姫を迎えた。単伯とは何か?我が大夫で天子より命を受けた者である。なぜ使と称さないのか?天子が召して迎えさせたからである。迎えるとはどういうことか?我にこれを主させたのである。なぜ我に主させるのか?天子が諸侯に娘を嫁がせる時は、必ず同姓の諸侯にこれを主させるからである」。何休の注に云う、「自ら主とならないのは、尊卑が対等でないためである」。〉
現在、漢は秦の法を継承し、公主を娶る儀礼を設け、妻が夫を制し、卑しい者が尊い者に臨むこととなり、乾坤の道に背き、陽が唱え陰が和するという道理を失っている。
孔子は言った。「昔、聖人が易を作ったとき、仰いでは天象を観察し、俯しては地の法則を考察し、鳥獣の文様と土地の適性を明らかにした。近くは自らの身体から取り、遠くは万物から取り、神明の徳を通じさせ、万物の情を類推した。」
今、天の法則を観察すれば、北極星が最も尊く、四星が妃后である。
地の法則を考察すれば、高い山は夫を象徴し、低い沢は妻を象徴する。
鳥獣の文様を明らかにすれば、鳥では雄が鳴き、雌がそれに順従し、獣では牡が先導し、牝がそれに従う。近く身体から取れば、乾は人の頭、坤は人の腹である。
遠く万物から取れば、木の実は天に属し、根は地に属する。
陽は尊く陰は卑しいのは、およそ天性である。また詩経の最初の篇は実際に関雎を冒頭とし、礼では冠礼・婚礼を始めとし、まず夫婦の関係を正す。
天地と六経の主旨は、その趣旨が一つである。公主を娶る制度を改め、乾坤の本性に合致させるべきである。堯や湯の法に従い、周公や孔子の道を範とする。
天地の理に合致して誤りがなく、鬼神に質しても疑いがない。人事がこのようであれば、嘉瑞が天から降り、吉符が地から現れ、五つの善い兆候がすべて備わり、それぞれその順序に従うであろう。
昔、聖人は天地の中和を確立して礼と呼んだ。礼とは、福祥を興す根本であり、禍乱を止める源である。人が欲望を曲げて礼に従えば、福はその者に帰する。情に順じて礼を廃すれば、禍はその者に帰する。禍福の応じる所を推し、興廃の由来を知るのである。多くの礼の中でも、婚礼が首位である。ゆえに天子は十二人を娶るが、これは天の数である。諸侯以下はそれぞれ等差があり、事柄が降るのである。
陽の性質は純粋で施すことができ、陰の体は順従で化育することができる。礼をもって楽しみを調節し、その気を節度をもって発散させる。
ゆえに子孫の繁栄の祥を豊かにし、長寿の福を招くことができる。夏・殷・周三代の末期になると、淫らで節度がなくなった。瑤台や傾宮には、数百人の妾が並べられた。
陽は上で枯渇し、陰は下で隔てられた。ゆえに周公の戒めに言う。「農作業の艱難を知らず、小人の労苦を聞かず、ただ耽楽に従う者は、時に長寿を保つことができないこともある。」これがその明らかな戒めである。
後世の人々は、福を好みながらその根本に努めず、禍を憎みながらその軌道を改めない。伝に言う。「足を削って履に合わせるのは、誰が愚かだと言えようか。どうしてこのような人々が、欲望を追い求めて身を滅ぼすことと比べられようか。」誠に痛ましいことである。
臣はひそかに聞くところでは、後宮の采女は五、六千人おり、従官や侍使がさらにその外にいる。冬夏の衣服、朝夕の食糧支給により、絹帛を浪費し、府庫を空しくし、徴発と調達は倍増し、十分の一の税を課し、罪のない民に空しい賦役を課して、無用の女たちを養っている。百姓は外で窮困し、陰陽は内で隔絶している。ゆえに和気を動揺させ、災異がしばしば到来する。臣の愚見では、礼に則った聘礼を受けていない者で、いまだ寵幸を受けていない者は、すべて遣い出して、妃匹を成すべきである。第一に、怨みと孤独を通じさせ、陰陽を和らげる。第二に、財用を省き、府庫を充実させる。第三に、礼制を修め、長寿を安らかにする。第四に、陽の施しに配し、子孫繁栄を祈る。
第五は労役と租税を軽減し、民衆を安んずることである。これはまさに国家にとっての大きな利益であり、天と人との大いなる福である。
寒さと暑さ、暗さと明るさがあるからこそ一年が成り立ち、尊卑と奢りと倹約があるからこそ礼が成り立つ。だからこそ、暗明寒暑の気と、尊卑侈約の礼をその節度とするのである。易経に言う、「天地に節度があって四季が成る」。
春秋左氏伝に言う、「ただ器物と名分だけは人に貸してはならない」。
『孝経』に言う、「上を安んじ民を治めるには、礼に優るものはない」。礼とは、尊卑の差別、上下の制度である。昔、季氏が八佾の舞を庭で舞わせたが、人や物を害して困らせたわけではないのに、孔子はなお「これが我慢できるなら、何が我慢できないことがあろうか」と言った。洪範に言う、「ただ君主だけが威を示し、ただ君主だけが福を与え、ただ君主だけが玉のような美食をとる」。この三つはすべて、君主だけが行い臣下が同じにしてはならないものである。今、臣下が君主の服を僭称し、下の者が上の者の珍味を食らうのは、いわゆる家を害し国を凶にするものである。おおよそ古礼の尊卑の差別、および董仲舒の制度の区別に依拠し、
(『前漢書』に董仲舒が言う、「王者は法度の適切さを正し、上下の秩序を区別して、欲望を防ぐ」。)
有司を厳しく監督し、必ずその命令を行わせるべきである。これこそが乱を禁じ俗を善くし、用に足る要諦である。
上奏して聞かせると、すぐに官を棄てて去った。
後に党錮の禍に遭い、海上に隠れ、さらに南へ漢水のほとりに逃れ、十余年を積み重ね、著述を事とし、ついに碩儒と称された。党禁が解けると、五府がこぞって招聘し、司空の袁逢が有道に推挙したが、応じなかった。袁逢が亡くなると、爽は喪服を着て三年間喪に服し、当時の人々はしばしばこれを見習って習俗とした。当時、多くの人は妻の喪服を着ることを行わず、親の喪中であってもなお弔問や病気見舞いをする者がおり、また私的に君主や父や諸名士に諡号を贈る者がいたが、爽はみな大義を引き、経典によってこれを正したので、すべてが変わったわけではないが、かなり改められた。
(喪服には『夫は妻のために斉縗の杖を開く』とある。礼記には『曾子が問うた。「三年の喪の期間に弔問するのか?」孔子が答えた。「礼は情を飾るものである。三年の喪の最中に弔問して哭するのは、虚しいことではないか!」』とある。〉
その後、公車に召されて大将軍何進の従事中郎となった。何進は彼が来ないことを恐れ、迎えて侍中に推薦したが、何進が敗れると詔命は中途で絶えた。献帝が即位し、董卓が政を補佐すると、再び召し出された。荀爽は詔命を逃れようとしたが、役人が厳しく取り立てたため、去ることができず、やむなく就任して平原の相に任ぜられた。宛陵まで赴任の途上で、また追って光禄勲に任ぜられた。職務について三日で、さらに司空に昇進した。荀爽が徴命を受けてから台司(三公)に登るまで、九十五日であった。これに従って都を長安に遷した。
荀爽は董卓の残忍で暴虐な行為がますます甚だしくなり、必ずや社稷を危うくすると見て、彼が辟挙する人物は皆、才略に優れた士を選び、共に董卓を除こうと図り、司徒の王允や董卓の長史である何顒らとも内々に謀議をした。ちょうどその時、病で死去した。六十三歳。
礼、易伝、詩伝、尚書正経、春秋条例を著し、また漢代の事柄で成敗の鑑戒とすべきものを集めて『漢語』と称した。また公羊問及び弁讖を作り、その他の論述と合わせて、新書と題した。合わせて百余篇あったが、現在は多くが散逸している。
兄の子である荀悦、荀彧はいずれも名を知られた。荀彧は
別に伝がある。
。
論じて言う。荀爽、鄭玄、申屠蟠は皆、儒行をもって処士として、累次にわたって徴召されたが、いずれも病気を理由に辞退して赴かなかった。そして董卓が朝廷の実権を握ると、改めて礼を尽くして彼らを召し出した。申屠蟠と鄭玄はついに屈せず、その高潔を全うした。荀爽はすでに黄髪(年老いた)の身であったが、ただ一人で赴いた。そして十旬(百日)も経たないうちに卿相の位を得た。このことを疑う者は、彼の志趣の選択が一貫していないと考えるかもしれない。私はひそかにその心情を推し量るに、出処進退は君子の大筋である。世が平穏であれば道を弘めて志を求め、世が衰えれば跡を濡らして(世俗に身を置いて)時勢を匡正する。
〈濡跡の解釈は崔駰伝を参照。〉
荀公が急ぎ自らを励ましたのは、その濡跡(世俗に身を置くこと)であったのか?そうでなければ、どうして貞吉(正道による吉)に背き、虎の尾を踏むような危険を冒したのか?
〈《『易経』
履卦に言う。「履道は坦坦たり、幽人は貞にして吉。」また言う。「虎の尾を履むも、人を咥えずして亨る。」王輔嗣の注に云う。「虎の尾を履むとは、その危うきを言う。」〉
その遜言遷都の議を観れば、楊・黄の禍を救わんとするものなり。
〈楊彪と黄琬のことである。〉
後に董氏を潜かに図り、ほとんど国命を振るわんとした。いわゆる「大直は屈するが若く」、道は固より逶迤たり。
〈『老子』に云う。「大直は屈するが若く、大巧は拙なるが若し。」逶迤とは、曲がることである。〉
荀悦
悦は字を仲豫といい、儉の子である。儉は早くに亡くなった。悦は十二歳の時、春秋を説くことができた。家は貧しく書物がなく、たびたび人里に出て、目にした書簡や木簡を、一覧しただけで多く暗誦記憶できた。性格は沈着で静か、容姿は美しく、特に著述を好んだ。霊帝の時、宦官が権力を握り、士人の多くは身を退いて窮地に処したが、悦は病と称して隠居し、当時の人々は彼を知らず、従弟の彧だけが特に敬服して称えた。初め鎮東将軍曹操の府に召され、黄門侍郎に転じた。献帝は文学を好み、悦は彧および少府の孔融と共に禁中で侍講し、朝夕談論した。累進して秘書監、侍中となった。
時勢は曹氏に移り、天子はただ己を恭しくするのみであった。荀悦は献替(君主への進言)の志があったが、謀略を用いる場がなく、そこで『申鑒』五篇を作った。その論弁は、政治の根本に通じており、完成するとこれを上奏した。その大略は次の通りである。
道の根本は、仁義のみである。
〈『易経』に言う、「人の道を立てるを仁と義と曰う」。〉
五典(五経)でこれを縦糸とし、群籍でこれを横糸とし、詠い歌い、弦楽にし舞踊にし、前の鑑(手本)が既に明らかであるなら、後世またこれを繰り返し述べる。だから古代の聖王は、仁義について、繰り返し重ねて述べたのである。
政治を成し遂げる方法は、まず四つの患いを除き、それから五つの政を尊ぶ。
一つは偽り、二つは私心、三つは放縦、四つは奢侈である。偽りは風俗を乱し、私心は法を壊し、放縦は軌道を越え、奢侈は制度を損なう。この四つが除かれなければ、政治は行われる道がない。風俗が乱れれば道は荒廃し、天地といえどもその本性を保つことができない。法が壊れれば世は傾き、君主といえどもその法度を守ることができない。軌道を越えれば礼は滅び、聖人といえどもその道を全うすることができない。制度が損なわれれば欲望がほしいままになり、四方の果てといえどもその要求を満たすことができない。
〈肆は、ほしいままにする意。〉
これを四患という。
農桑を興してその生計を養い、好悪を審らかにしてその風俗を正し、文教を宣べてその教化を明らかにし、武備を立ててその威を執り、賞罰を明らかにしてその法を統べる。これを五政という。
人が死を恐れなければ、罪で脅すことはできない。人が生きることを喜ばなければ、善で勧めることはできない。たとえ契が五教を布き、皋陶が刑官となっても、政治は行われないだろう。
後漢書
尚書の舜は契に言った。「汝は司徒となり、五教を敬って敷くにあたっては寛容を旨とせよ。」また皐陶に言った。「汝は士となり、五刑を明らかにせよ。」>
それゆえ、上位に立つ者はまず人々の財産を豊かにしてその志を定め、帝は籍田を耕し、后は蚕宮で桑を採る。
〈籍田の儀式については、明帝紀の注釈に説明がある。礼記には、「季春の月に、后妃は斎戒し、自ら東に向かって桑を採り、養蚕を勧める」とある。古くは天子や諸侯には必ず公桑の蚕室があり、川の近くに設けられ、宮の高さは一仞三尺であった。>
国には遊民がなく、野には荒れた産業がなく、財貨は無駄に費やされることがなかった。
〈言葉はそれで十分である。〉
力を妄りに加えず、人事に周到であれ。これを養生という。
〈周は、給である。
後漢書
君子が天地を動かし、神明に応じ、万物を正して王化を成す所以は、必ず真実と確固たる定めにあるだけである。それゆえ、上に立つ者は善悪の区別を審らかに定める。善悪は功績と罪過に要約され、毀誉褒貶は基準と検証によって効果が現れる。言葉を聞いてその事績を問い、名を挙げて実態を察し、欺瞞や偽りに惑わされることなく、民衆の心を清らかにする。それゆえ事柄は全て検証され、物事は全て適切に扱われ、善は全て明らかにされ、悪は全て顕わになり、世間に奸悪な怪しさはなく、民衆に淫らな風俗はない。百姓の上下は利害が己に存することを知るので、心を厳かに恭しくし、行いを慎んで修め、内には迷い惑うことがなく、外には異なる望みを持たず、民の志は平穏となる。これを正俗という。
君子は情によって用いられ、小人は刑によって用いられる。栄誉と恥辱とは、賞罰の精華である。ゆえに礼教と栄辱とを君子に加えて、その情を教化するのであり、手枷足枷や鞭打ちの刑を小人に加えて、その刑を教化するのである。君子は恥辱を犯すことすらない、まして刑罰においてはなおさらである!小人は刑罰を忌憚しない、まして恥辱においてはなおさらである!もし教化が廃れれば、中才の人を推し進めて小人の領域に墜ちさせ、教化が行われれば、中才の人を引き入れて君子の道に納める。これを教化を明らかにするというのである。
〈章とは、明らかであることを意味する。〉
小人の心情は、緩やかであれば驕り、驕れば放恣になり、放恣になれば怨み、怨めば反逆し、危険な状況では謀反を企て、安泰な状況では欲望を思い巡らす。威厳と強力さがなければこれを懲らしめることはできない。それゆえ、上位に立つ者は必ず武備を整え、不測の事態に備え、寇賊の暴虐を阻止しなければならない。平穏な時は内政に託し、事変があれば軍旅に用いるのである。
〈『国語
斉の桓公が管仲に尋ねた。「国を安泰にすることはできるか?」管仲は答えた。「まだできません。君主がもし兵卒の編成を整え、甲冑や兵器を整備すれば、大国もまたそれを整備し、小国は防備を固めるでしょう。内政を整えつつ軍令を託すことができるのです。」注に云う。「(正)[政]とは国政のことである。国政を整えつつ軍令を託すので、隣国は知らないのである。」〉
これを威を執るという。
賞罰は政治の柄である。
〈『韓非子』に言う。「二つの柄とは、刑と徳である。殺戮するのを刑といい、慶賞するのを徳という。」〉
賞を明らかにし罰を必ず行い、信を審らかにし令を慎み、賞をもって善を勧め、罰をもって悪を懲らしめる。君主がみだりに賞を与えないのは、ただその財を惜しむからではなく、賞がみだりに行われると善が勧められなくなるからである。みだりに罰しないのは、その人を哀れむからではなく、罰がみだりに行われると悪が懲らしめられなくなるからである。賞が勧めとならないのは善を止めるといい、罰が懲らしめとならないのは悪を放任するという。上に立つ者が下の者の善を止めず、下の者の悪を放任しなければ、国法は確立する。これを統法という。
四つの患いが既に除かれ、五つの政がまた立てられ、誠をもってこれを行い、固くこれを持守し、簡素であって怠らず、疎らであって失わず、無為にして為し、自らに施させ、無事にして事とし、自らに交わらせる。
〈『老子』に言う。「無為を為し、無事を事とする。」また「故に徳は交わり帰す」とも言う。〉
厳しくしなくても成し遂げられ、威圧しなくても教化され、拱手して揖譲するだけで、海内は平らかになる。これを為政の方という。
また言う。
公主を娶る制度は古制ではない。二女を嫁がせたのは、陶唐(堯)の典である。妹を嫁がせて大吉であったのは、帝乙の教えである。王姫が斉に嫁いだのは、周王朝の礼である。陰が陽に乗るのは天に背き、婦が夫を陵ぐのは人に背く。天に背けば不祥であり、人に背けば不義である。また古の天子・諸侯は事があれば、必ず廟に告げた。朝廷には二人の史官がおり、左史は言葉を記し、右史は事柄を書いた。
〈『礼記』に「天子は朝日を東門の外で拝し、朔を聴くことを南門の外で行い、閏月には門の左扉を閉ざし、その中に立ち、行動は左史がこれを記し、言論は右史がこれを記す」とある。』
事柄は春秋となり、言論は尚書となる。君主の挙動は必ず記録され、善悪成敗、記されないものはない。下は士や庶民に及び、もし優れた異才があれば、皆が典籍に載せられる。ある者は顕彰しようとしてもできず、ある者は隠そうとしても名が明らかになる。得失は一朝のうちに決まり、栄辱は千年にわたって伝わる。善人は励まされ、悪人は恐れる。
『悪とは、過ちである。『左氏伝』に「ある者は名を求めても得られず、ある者は覆い隠そうとしても名が明らかになる。書物は斉豹や三叛人の名を盗賊として記し、不義を懲らしめる」とある。』
今に適したものとして史官を備え置き、その典文を掌らせ、その行いを記録させるべきである。毎年終わりごとに、これを尚書に挙げる。賞罰を助け、法教を広めるためである。
帝はこれを覧て善しとした。
帝は典籍を好み、常に班固の『漢書』が文が煩雑で理解しにくいと感じ、そこで荀悦に命じて左氏伝の体裁に倣って
『漢紀』三十篇
を、詔により尚書が筆札を給した。その文は簡潔で事柄は詳細であり、論弁は多く美しい。その序文に言う。「昔、上古の聖王は、ただ皇極を建て、天地を経緯し、天象を観て法を立て、ついに書契を作り、もって宇宙を通じ、王庭に揚げた。その用は大いなるものであった。先王は大業を光演し、この夏の世に陳べた。
(『詩経
周頌』に「我は懿徳を求め、これを時夏に陳ぶ」とある。鄭玄の注に「懿は美なり。肆は陳ぶなり。我は武王なり。美徳の士を求めてこれを任用する。故に是の夏に陳べてこれを歌うなり」と。)
またその後の世も、永く典を作った。典を立てるには五つの志がある。第一は道義を通達させること、第二は法式を明らかにすること、第三は古今を通じさせること、第四は功勲を顕著にすること、第五は賢能を表彰することである。ここにおいて天と人の間、事物の宜しきは、燦然として顕著となり、備わらぬものはない。世はその軌道を成し、その業を墜とさない。
(済は成すなり。)
損益盈虚は、時とともに消息する。善悪は同じからずとも、その測る道理は一つである。漢は四百六年、乱を撥ねて反正し、武を統べ文を興し、ひたすら祖宗の洪業を思い、万世の子孫を啓発せんことを思う。聖上は穆然として、ただ文を憂い、前を瞻り後を顧み、これを紹ぎこれを継ぎ、大猷を闡明し崇め、国典を立てることを命じた。ここにおいて旧書を綴り、もって漢紀を述べる。中興以前の、明主賢臣の得失の軌跡も、また以て観るに足るであろう。」
また崇徳、正論および諸論数十篇を著した。年六十二、
建安十四年
死去した。
韓
韓韶
韓韶は字を仲黃といい、潁川郡舞陽県の人である。若くして郡に仕え、司徒府に召し出された。当時、泰山の賊の公孫挙が偽の年号を称して数年が経ち、太守や県令らはこれを打ち破って解散させることができず、多くは法に問われた。尚書は三府の属官の中から難治の地を治められる者を選び、そこで韓韶を嬴県の長とした。
(嬴は県であり、その故城は現在の兗州博城県の東北にある。)
賊は彼の賢さを聞き、互いに戒め合って嬴県の境内に入らなかった。他の県は多くが賊の侵寇を受け、農耕や養蚕が廃れ、その流民が県の境界内に流入して衣服や食糧を求める者が非常に多かった。韓韶は彼らの飢えと困窮を哀れみ、倉を開いて救済し、救済を受けたのは一万余戸に及んだ。主管官は争ってそれはできないと言った。韓韶は言った。「溝壑に倒れる人々を長く生かしておきながら、これによって罪に服するなら、笑みを浮かべて地に入ろう。」太守はもともと韓韶の名声と徳行を知っており、結局何の罪にも問われなかった。病気のため官のまま死去した。同郡の李膺、陳寔、杜密、荀淑らが碑を立ててその功績を称えた。
子の融は、字を元長という。若くして道理を弁えることができたが、章句の学問はしなかった。名声が非常に高く、五府がともに召し出した。献帝の初め、太僕に至った。七十歳で死去した。
鍾
鍾皓
鍾皓は字を季明といい、潁川郡長社県の人である。郡の名門の家柄で、代々刑律に通じていた。鍾皓は若い頃から篤実な行いで称えられ、公府からたびたび召し出されたが、二人の兄がまだ仕官していなかったため、密山に身を隠して、
(密県の山である。
後漢書
詩経と礼記を教授し、門徒は千余人に及んだ。同郡の陳寔は、年齢が鍾皓に及ばなかったが、鍾皓は彼を引き立てて友とした。鍾皓が郡の功曹となった時、たまたま司徒府に招聘されることになり、辞去する際に太守が「誰があなたの代わりを務められるか」と問うと、鍾皓は「明府が必ず適任者を得たいとお考えなら、西門の亭長である陳寔が適任です」と答えた。陳寔はこれを聞いて、「鍾君は人を見る目がないようだが、どうして私だけは見抜いたのだろうか」と言った。鍾皓は間もなく自らを弾劾して職を去った。前後九回にわたり公府に招聘され、廷尉正、博士、林慮長に徴されたが、いずれも就任しなかった。当時、鍾皓と荀淑はともに士大夫から慕われ帰依された。李膺は常に嘆じて言った。「荀君の清らかな識見には及ぶべくもなく、鍾君の至高の徳は師とすべきである」と。
皓の兄の子である瑾の母は、膺の叔母である。瑾は学問を好み古を慕い、退譲の風があり、膺と同年で、ともに名声があった。膺の祖父の太尉修は、常に言った。「瑾は我が家の性質に似ており、国に道があれば廃されず、国に道がなければ刑戮を免れるだろう」と。また膺の妹を娶らせた。瑾は州府に辟召されたが、志を屈したことはなかった。膺は彼に言った。「孟子は『人に是非の心がなければ、人ではない』と考えている。
〈『孟子
孟子は言った。『人に惻隠の心がなければ、人ではない。羞悪の心がなければ、人ではない。辞譲の心がなければ、人ではない。是非の心がなければ、人ではない。』〉
弟の何期がどうして孟軻と同じでないことがあろうか?」と。瑾は常に膺の言葉を皓に伝えた。皓は言った。「昔、国武子は人の過ちを明らかにすることを好み、それによって怨みの原因を招いた。
〈国武子は、斉の大夫である。斉の慶克が斉の君主の母と私通したが、国武子はそれを知って慶克を責めた。すると夫人は武子を讒言して追放させた。事は『左伝」〉
ついに身を保ち家を全うし、その道こそ貴しとす。」その訓戒の趣旨は、多くこのようなものであった。
六十九歳で、家で亡くなった。諸儒は彼を称えて言った。「林慮の美しい徳は、礼に合わないところにはいない。この詩書を喜び、琴を弾いて古を楽しむ。五度州の招きに応じ、九度台輔の任に応じた。王命を躊躇し、ついに歳月を穏やかに過ごした。」
皓の孫の繇は、建安年間に司隸校尉となった。
〈海內先賢傳に言う。「繇は字を元常といい、郡主簿迪の子である。」
魏志
に言う。「孝廉に挙げられて尚書郎となり、三府に辟召されて廷尉正、黄門侍郎となった。」〉
陳
陳寔
陳寔は字を仲弓といい、穎川郡許県の人である。単微な家柄から出た。子供の頃から、遊びの最中でも、同輩たちの中心となった。若くして県吏となり、常に雑役に従事したが、後に都亭の佐吏となった。しかし志を立て学問を好み、坐っている時も立っている時も書物を読んだ。県令の鄧邵が試しに話をしてみると、彼を異才と認め、太学で学業を受けることを許した。後の県令が再び吏として召し出そうとしたが、彼は陽城山中に隠れて避けた。時に殺人事件があり、同県の楊という吏が陳寔を疑ったため、県は彼を逮捕拘束し、拷問したが証拠はなく、後に釈放された。督郵となった時、密かに許県令に頼み、礼をもって楊吏を召し出した。遠近でこれを聞いた者は皆、感歎して服した。
家が貧しく、また郡の西門亭長となり、まもなく功曹に転じた。時に中常侍の侯覽が太守の高倫に吏の任用を依頼し、高倫は彼を文学掾に任命するよう指示した。陳寔はその人物が適任でないと知り、任命書を懐にして面会を求めた。
〈檄とは、板に書いた文書のこと。高倫の指示を檄に書いて懐にしたのは、事が漏れるのを恐れたためである。〉
言うには、「この人は任用すべきではないが、侯常侍の意に逆らうことはできません。私は外署(正式な任命手続きを経ない仮の任用)に従うことをお願いします。これで明徳を汚すことにはならないでしょう。」高倫はこれに従った。
(外部の部署から推薦するよう請うたのは、陳寔が請託に陥ることを望まなかったからである。)
そこで郷里の議論は彼の推薦が不当であると怪しんだが、陳寔は終始何も言わなかった。後に第五倫が尚書に徴されると、郡中の士大夫たちは輪氏の伝舎まで見送った。
(輪氏は県名で、潁川郡に属し、現在の旧高陽県である。)
第五倫は一同に向かって言った。「私は以前、侯常侍が官吏を任用する際、陳君(陳寔)が密かに教令を持ち帰り、外部で勝手に任用した。近頃、議論する者がこれをもって彼を軽んじていると聞くが、この過ちは旧友が強権を恐れたためである。陳君はまさに、善は君に帰し、過ちは己に帰する者と言えよう。」陳寔は固より自ら過失を引き受けていたので、聞いた者は嘆息し、これによって天下はその徳に服した。
司空の黄瓊が政務煩雑な地を治める者を辟召して選んだ時、陳寔は聞喜県令に補され、一ヶ月ほどで喪に服すため官を去った。再び遷任されて太丘県令に任じられた。
(太丘は県で、沛国に属し、故城は現在の亳州永城県の西北にある。)
徳を修め清静無為を旨とし、百姓は安寧を得た。隣県から戸籍を移して帰附してくる者があれば、陳寔はすぐに訓導し譬え諭して解き、発遣してそれぞれ本籍の主管官庁に戻らせた。
(司官とは主管する官のことをいう。
後漢書
役人は訴訟があることを懸念し、禁止したいと申し出た。陳寔は言った。「訴訟は公正を求めるものであり、禁止すれば道理はどうして明らかになるだろうか。拘束することはない。」上司の役人はこれを聞いて嘆息し、「陳君の言うことがこのようであれば、どうして人に恨まれることがあろうか」と言った。結局、訴訟を起こす者もいなかった。沛国の相としての賦役の取り立てが法律に違反していたため、印綬を解いて去ったが、役人や民衆は彼を追慕した。
その後、党人逮捕が行われた際、事件は陳寔にも連座した。他の人々の多くは逃げ隠れて免罪を求めたが、陳寔は言った。「私が牢に入らなければ、人々は頼りとするものがなくなる。」そこで自ら囚人となることを願い出た。赦令に遇って釈放された。霊帝の初め、大将軍の竇武が彼を召し出して掾属とした。当時、中常侍の張譲は天下に権勢を振るっていた。張譲の父が死去し、穎川に帰葬することになったが、郡中の者は皆参列したものの、名士たちは誰も訪れなかった。張譲はこれを非常に恥じたが、陳寔だけが一人で弔問に訪れた。その後、再び党人の誅殺が行われた際、張譲は陳寔のことを恩に感じていたため、多くを助け、罪を許した。
陳寔は郷里において、公平な心で人々と接した。争いや訴訟があれば、彼に判決を求め、道理の曲直を明らかにして諭し、去る者に恨みを残すことはなかった。人々はついに嘆いて言った。「刑罰を受ける方がましだ。陳君に非難されるよりは。」ある年、凶作で民は貧しく、盗賊が夜に彼の家に忍び込み、梁の上に潜んでいた。陳寔はそれに気づきながらも、そっと起き上がって身なりを整え、子孫を呼び集め、厳しい表情で訓戒した。「人は自ら努めなければならない。悪い人間も、もともと悪人とは限らない。習慣が本性となり、ついにこのようなことになるのだ。梁の上の君子がそうである。」盗賊は大いに驚き、自ら地面に飛び降り、額を地面に擦りつけて罪を認めた。陳寔はゆっくりと諭した。「あなたの様子を見ると、悪人には見えない。深く己を律して善に立ち返るべきだ。しかし、これは貧困によるものだろう。》そして絹二匹を与えるよう命じた。これ以来、県内では盗みはなくなった。
太尉の楊賜と司徒の陳耽は、公卿が任命されるたびに官僚たちがこぞって祝賀する際、楊賜らは常に陳寔が高位に登っていないことを嘆き、自分たちが先に登ったことを恥じた。党錮の禁が解かれると、大将軍の何進と司徒の袁隗は人を遣わして陳寔を招聘した。
〈敦とは、勧めることである。〉
私は彼を特別に抜擢して、通常の序列を超えた地位に就けようとした。寔は使者に辞退して言った、「私は長らく世間との交わりを絶ち、ただ頭巾を整えて死を待つだけです》と。当時、三公の地位が空くたびに、議論する者は彼に帰属させようとし、何度も招聘の命令を受けたが、ついに起ち上がらず、門を閉ざして車を吊るし、隠棲して老後を養った。
中平四年
八十四歳で自宅で亡くなった。何進は使者を遣わして弔問と祭祀を行い、天下から参列した者は三万人余りに及び、喪服を着た者は数百人にのぼった。一同は石碑を刻んで建立し、文範先生と諡した。
〈先賢行状には、「将軍の何進が官属を派遣して弔問し、祠を建てて諡を贈った》とある。〉
六人の子があり、紀と諶が最も賢明であった。
陳紀
紀の字は字符方であり、また至徳をもって称された。兄弟は孝行で親を養い、家門は和やかであり、後進の士人たちは皆その風範を推し慕った。党錮の禍に遭うと、憤りを発して数万言の書物を著し、『陳子』と号した。党禁が解けると、四府がともに任命したが、屈して就くことはなかった。父の喪に遭い、悲しみが募るたびに、血を吐き気を失い、喪服を脱いだ後も、積もる悲しみで痩せ衰え、ほとんど命を絶つほどであった。豫州刺史はその至高の行いを称え、尚書に上表し、百城にその肖像を掲げて、風俗を励ました。董卓が洛陽に入ると、家に赴いて五官中郎将に任命したが、やむを得ず、京師に赴き、侍中に遷った。
平原相として出向し、董卓を訪ねて謁見した。当時、董卓は都を長安に遷そうとしていた。そこで紀に言った。「三輔の地は平坦で広く、四方は険しく堅固で、土地は肥沃で美しく、陸海と号されている。
〈《前書》に曰く、東方朔が言うには、「三輔の地は、南に江・淮があり、北に河・渭があり、汧・隴より東、商・洛より西、その土地は肥沃で豊饒であり、これこそいわゆる天府陸海の地である」。〉
今、関東で兵が起こり、洛陽は長く居られない恐れがある。長安にはまだ宮室がある。今、西遷しようと思うが、どうか?」紀は言った。「天下に道があれば、四夷を守る。
〈《左伝》に曰く、楚の沈尹戍が言うには、「古の天子は四夷を守る。天子が卑しくなれば、諸侯を守る」と。〉
徳政を修めて、服従しない者を懐柔すべきである。至尊を遷移させるのは、誠に計略の末節である。愚かながら、公は公卿に政務を委ね、外任に専念すべきだと思う。命令に背く者がいれば、武力をもって威圧する。今、関東で兵が起こり、民は命令に耐えられない。もし謙虚に朝政から遠ざかり、軍を率いて討伐すれば、塗炭の苦しみにある民は、ほぼ全うできるであろう。もし万乗の身を遷して自ら安泰を図ろうとすれば、累卵の危うき、崢嶸の険しきを招くことになろう。」
(累卵の危険については、皇后紀の解釈を参照。崢の音は士耕の反切。)
董卓の意向は甚だ逆らうものであったが、紀の名声と行いを敬い、これ以上何も言わなかった。当時の議論では司徒に任じようとしたが、紀は禍乱がまさに起こらんとしているのを見て、再び装いを整えようとせず、
(厳は装と読む。)
すぐに郡へ赴いた。璽書で追って太僕に任命され、また尚書令として召し出された。建安初年、袁紹が太尉となったとき、紀に譲ろうとしたが、紀は受けず、大鴻臚に任命された。七十一歳で官にあったまま死去した。
子の羣は、魏の司空となった。
(羣は字を長文という。《魏志》に「魯国の孔融は才が高く傲慢で、年齢は羣と紀の中間であったが、先に紀と友となり、後に羣と交わり、さらに紀に拝礼したため、これによって名が顕著になった」とある。)
天下の人は、公が卿に恥じ、卿が長に恥じたと思った。
弟の諶は、字を季方という。紀と徳行を同じくし、父子ともに高い名声を博し、当時は三君と称された。宰府が召し出しを出すたびに、常に同時に招聘され、贈り物の羊や雁が群れをなした。
〈古くは諸侯が天子に朝見する際、卿は羊を、大夫は雁を、士は雉を手にした。群れをなすとは数が多いことを言う。〉
当時の人々はこれを栄誉としなかった者はなかった。諶は早世した。
〈先賢行状に言う:「豫州の百城は、みな寔、紀、諶の姿を描いて図画にした。」〉
史論
論じて言う。漢は中世以降、宦官がほしいままに振る舞ったため、世間の風潮は身を隠し、行いを偽って清らかにし、言論を放縦にすることを高尚とするようになった。
〈その言論を放縦にし、節度を拘束しないこと。『論語』に「隠居して放言す」とある。〉
士人でこれを語らない者がいれば、農夫や牧童でさえもすでに嘲笑して叫ぶほどである。
〈叫呼とは、嘲笑することである。芸とは、草を除くことである。〉
だから時政がますます暗くなれば、その風潮はますます進んでいく。ただ陳先生の進退の節度は、必ずや測ることができる。徳に拠っているから物事が侵犯せず、仁に安んじているから群れから離れず、行いが身に成って道が天下を訓導する。だから凶悪な邪悪な者も権力で奪うことができず、王公も貴さで驕ることができない。これが、声教が上で廃れても、風俗が下で清らかである所以である。
賛に曰く、二李は師淑、陳君は友皓。韓韶は吏に就き、贏寇は道を懐く。太丘は奥広、我が彝倫を模す。曾つて是れ淵軌、薄夫以て淳し。
〈
曾は則を言う。
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慶基既に啓き、蔚穎濱有り、二方は則を承け、八慈は塵を継ぐ。
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二方とは、元方と季方のことである。荀淑の八人の子は、皆「慈」を字とし、『荀氏家伝』に見える。
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