後漢書
巻六十下
蔡邕列傳 第五十下
蔡邕
蔡邕は字を伯喈といい、陳留郡圉県の人である。
六世の祖は蔡勲。
彼は黄老の学を好み、平帝の時に郿県令となった。王莽の初期、厭戎連率の官を授けられた。
蔡勲は印綬を前にして天を仰ぎ嘆いて言った。「私は漢王朝に名を記し、死してその正統に帰する。昔、曾子は季孫の賜り物を受けなかった。ましてや二姓に仕えることなどできようか。」
そこで家族を連れて深山に逃げ込み、鮑宣や卓茂らと同様に新室に仕えなかった。父の蔡稜もまた清廉潔白な行いがあり、貞定公と諡された。
蔡邕は生来篤実で孝行であり、母が長く病気で三年間臥せっていた時、蔡邕は寒暑の季節の変わり目以外は、襟帯を解かず、七十日間も寝ずに看病した。母が亡くなると、墓の傍らに小屋を建てて住み、立ち居振る舞いを礼に従わせた。すると、ウサギがその家の傍らに馴れ従い、また木が連理となって生えた。遠近の人々はこれを奇異とし、多く見物に来た。叔父や従弟と同居し、三世にわたって財産を分けず、郷里の人々はその義を高く評価した。若い頃から博学で、太傅の胡広に師事した。文章、数術、天文を好み、音律に巧みであった。
桓帝の時、中常侍の徐璜、左悺ら五侯が勝手気ままに振る舞い、蔡邕が琴を弾くのが上手だと聞き、天子に奏上して、陳留太守に督促させて上京させようとした。蔡邕はやむを得ず出発し、偃師まで来たところで病気を理由に帰った。世間と交わらずに古書を玩味して過ごした。東方朔の『客難』や楊雄、班固、崔駰らが疑問を設けて自らを弁明したのに感銘を受け、
また諸家の言説を斟酌し、その正しいところを是とし、誤りを正し、
『解釈と訓戒
これを戒め励ますために述べる。
世を務める公子が、白髪の胡老に問うて言った。
「聞くところによれば、聖人の最も大切なものは位であるという。ゆえに仁をもって位を守り、財をもって人を集める。
そうであれば、位があってこそ貴く、財があってこそ富み、義を行い道に達することは、士のつとめである。ゆえに伊摯には鼎を背負って売り込んだ話があり、仲尼には鞭を執ることを望む言葉があり、
寧子には清商の歌があり、百里奚には牛を飼う事跡があった。
このように、聖哲の通ずる趣向、古人の明らかな志というものである。先生は清らかで静かな世に生まれ、純粋で和やかな霊気を受け、典籍に深く思いをめぐらし、六経を箱に収めて大切にし、貧しさに安んじて賤しさを楽しみ、世と争うことなく、精神を深淵に沈め、志を高く冥界に掲げ、あらゆるものを包括し、形のないものを総合分析されて、すでに久しい。それなのに、いまだに群を抜いて出で、芳しい文を飛ばし、
天の朝廷に登り、人倫の秩序を整え、天地四方の穢れた悪を掃き清め、宇宙の塵埃を清め、その輝きを白日に連ね、その炎の気を景雲に属させることができない。
時は過ぎ歳は暮れ、黙して聞こえるところがない。私は惑っている。それゆえに申し上げるのである。今、聖上の御心は寛大で明らかであり、補佐する者は賢く知恵があり、英傑で偉大な者を尊び、地に落ちることを許さず、徳が広大な者は宰相に立てられて領土を分け与えられ、才能に富む者は栄誉ある禄を担って恩賜を受ける。
どうしてまた道を戻って要所に至り、身をかがめたり伸ばしたりして受け入れられ、
当世の利益を集め、揺るぎない功績を定め、この時に家や宗族を栄えさせ、滅びることのない美しい跡を残そうとされないのか?
ただそれを考えられないだけなのか、どうしてあれを守ってこれに通じないのか?」
胡老は傲然として笑い、「そなた公子は、いわゆる暗い利益に目がくらんで、明らかな害を忘れ、必ず成し遂げられると思い込んだ功績に専念して、つまずいて転ぶ失敗を軽んじる者であるな」と言った。公子は急に立ち上がって袖を整え、「どうしてそう言われるのか?」と言った。
胡老は言った。「座れ、私がそなたに解き明かしてやろう。
昔、太極から、君臣の関係が始まった。
伏羲の世のような大いなる安寧、唐虞の時代のような至治があった。
夏・殷・周三代の隆盛もまた光明に満ち、五覇は衰微を支え、勤めてこれを慰撫した。この時代以降、天の網目は緩み、人の綱紀は弛み、王道の道は崩れ、太極の理は乱れ、
君臣の関係は土のように崩れ、上下の秩序は瓦解した。
そこで智者は詐術を駆使し、弁者は説を巡らせ、武夫は謀略を奮い起こし、戦士は鋭気を競った。
雷のように激しく風のように疾く、霧のように散り雲のように裂け、変詐と詭計を弄して時勢に合わせた。ある者は一つの策を描いて万金を手にし、ある者は朝のうちに談じて瑞珪を賜った。
連衡を唱える者は六つの印が連なり、合従を説く者は組紐が輝き乱れた。
高貴な者は群れ集い、富を積む者は際限なく、巧みに機に乗じて、その危険を忘れた。花は萼から離れて萎え、枝は幹から去って枯れる。女は艶姿を飾って淫らになり、士は道に背いて罪を得る。人はその満ち足りた状態を毀ち、神はその邪な心を憎む。利益の端緒が萌すと、害悪もまた芽生える。速やかに車輪が回り、夭折が加えられ、
家を豊かにしようとして、かえって家を暗くする。
それゆえ天地は塞がり閉ざされ、聖哲は姿を潜め、
石門で朝を守り、長沮と桀溺が並んで耕し、
顔歜は璞を抱き、蘧瑗は生を保ち、
斉人が女楽を贈ると、孔子はそれゆえに立ち去り、雍渠が驂乗すると、去って軽んじられた。
どうして主君を侮り国に背いたというのか?道は傾けることができないからである。
「かつて私は聞いた。冬至には黄鐘が応じ、東風が吹くと魚が氷を上がり、蕤賓の月になると微陰が萌し、葦が青く茂ると白露が凝る。
寒暑は互いに推し移り、陰陽は代わる代わる興る。運が極まれば変化し、治乱は相継ぐ。今、大漢は陶唐の大いなる業績を継ぎ、四海に残る災いを払い、天を隠すほどの高みを築き、地を縛る基を切り開いた。
皇道はただ融和し、帝の謀猷は顕著に大いなるものがあり、広大無辺な万物は、甘美を味わい滋養を吸う。
六合のあらゆる品物を検べ、それらを和やかな繁栄のうちに救済し、群臣は職務において己を恭しくし、聖主は両楹の間に垂拱して治める。君臣は和やかで美しく、平穏をもってこれを守り、多くの士は威儀正しく、礼服を整え冠帯を垂れる。
鴻が階段に満ちるように、振鷺が庭に充ちる。
ちょうど鐘山の玉、泗水のほとりの石のように、圭璧を積み重ねてもそれで満ちることはなく、浮磬を採ってもそれで尽きることはない。
昔、大いなる源が開かれて四方の奥地が集まり、武功が定まって干戈が収まり、獫狁が退けられて吉甫が宴を開き、城濮で勝利して晋軍が凱旋した。
ゆえに事あるときには、蓑笠をともに載せ、鎧を着て鋒を揚げ、務めに間に合わないほどであった。
事なきときには、帯をゆるめ佩玉を鳴らして歩み、ゆとりがあり余るほどであった。
世臣や門子、近侍の一族は、
天がその福を厚くし、主がその禄を豊かにする。胸を抱いてゆったりとし、爵位は自然に従い、ひげを整え髪を整え、余分な官職は貴人に委ねる。その進み方は、傾いた円を転がすようで、その便利さを喩えるのに十分でなく、ためらいながら靴を脱ぐようで、その容易さを比喩するのに足りない。群を抜く才能を持つ者は、誰もが優れた豊かな知恵を持つ。童子は老成に疑いを問わず、幼い者は先生に謀を尋ねない。心は高い地位を守ることに恬淡とし、意は満ち足りた状態を保つことに無為である。
鮮やかで輝かしく、華やかな栄えでないものはない。明哲な者は淡泊であり、安らぎを失わない。
狂った淫らな振る舞いが激しく揺れ動き、ついにその心情を乱す。貪欲な者は財に殉じ、虚栄を張る者は権力に死ぬ。
これらの事柄を仰ぎ見ると、体は焦燥し心は煩わしい。謙虚と満ち足りることの効果を暗くし、損益の道理に迷う。
長い道で駑馬を駆り立て、騏驥を慕ってさらに駆り立て、外戚の門に卑屈にうつむき、近しい貴人の称賛に助けを乞う。栄華と顕達はまだ伴わず、従って転倒し、
下は連座の罪を被り、上は家を滅ぼす誅罰を受ける。
前の車はすでに覆り、その軌跡を踏襲して疾走し、かつて禍を鑑みることなく、畏れを知るに至らない。私はただ悼む、害がこのようであることを!
天は高く地は厚いが、人は身をかがめて慎ましく歩む。
怨みは明らかなところにあるとは限らず、災いは思いがけないところから生じる。戦々兢々として、必ずその過ちを慎む。
「かつて用いられれば行い、捨てられれば隠れる、これが聖人の教えであり、最も順応した態度である。
九河が満ち溢れるのは、
一つの
土嚢で防げるものではない。
鎧を着た百万の兵は、一人の勇者の力で抗えるものではない。
今、あなたが一人の者に宇宙を清めることを求めるのは、どうして水害や旱魃のせいで堯や湯を責めることができようか。煙や炎が焼き尽くすのを恐れて、どうして光芒を敢えて輝かせることができようか。
また、地が震えようとするときには北極星が真っ直ぐになり、井戸に影がなければ日食が起こる。
君主が寛大であれば月は満ち、諸侯や王が厳粛であれば月は欠ける。
それゆえ君子は微細なことから顕著なことを推し量り、端緒を尋ねて糸口を見出し、霜を踏めば氷の来ることを知り、露を踏めば暑さの来ることを知る。時が行くなら行い、時が止まるなら止まり、消長と満ち欠けは天の法則に従う。
時勢が泰平に遭えばそれに従い、否運にあってもそれと共に処し、天を楽しみ命を知り、精神を保ち己に任せる。多くの車が険しい道を疾走しているときに、どうしてそれと軌を一にすることができようか。危難を思って自ら備えれば、賤しい身分にあっても恥じることはない。今まさに典籍の高い道を駆け巡り、仁義の深い淵で休息し、
周や孔子の庭園を巡り歩き、儒者や墨者に揖して友と為さんとしている。広げれば四方を照らすに足り、収めればその所有するものを知る者もない。もし千年に一度の運に遭い、神霊の符に応じて、閶闔の門を開き、天の大路に乗り、華蓋を擁して皇極を奉じ、
聖なる徳に玄妙な策を納め、中区に太平を宣べ伝えることができたならば、計略が合い謀りごとが従うのは己の図りであり、勲績が立てられないのは私の罪である。
亀や鳳凰は山に隠れ、霧や露は除かれず、草むらで躍り上がっても、ただその愚かさを見せるだけである。私を知らない者は、私を迂遠だと言うだろう。
学問を修め真理を思い、この世を捨ててどこへ行こうか。静かに天命を待ち、飽きることなく変わることもない。
『百年の後には、その住まいに帰ろう。』
幸いにも称賛を得たのは、天が導いたからである。
漠然としただけで、自分の過ちではない。
昔、伯翳は鳥の声を総合して理解し、葛盧は鳴く牛の音を弁別し、董父は竜を飼うことで氏を受け、奚仲は車の衡と轅にその徳を捧げた。
倕氏は巧みな工芸で政治を興し、造父は驊騮の御者として登用され、非子は馬の飼育に優れて領土を享受し、狼瞫は捕虜を捕らえて右側の地位を得た。
弓父は筋と角にその精髄を尽くし、佽非は激流に飛び込む勇気を明らかにし、寿王は格五という遊戯を創始し、東方朔は談笑と芸能で寵愛を得た。
そこで公子は顔を上げて階段を降り、恥ずかしそうに退いた。
胡老は眉を上げて笑みを浮かべ、琴を取って歌った。
歌に曰く、「わが心を練りて太清に浸し、穢濁を洗い流して正しい霊を保とう。和やかな気液が巡り神気は安らぎ、情志は淡泊で心は聳え立ち、嗜欲は止んで生じることもない。宇宙を超越して俗世を捨て、高く舞い上がって一人で征くのだ。」
建寧三年
、司徒の橋玄の府に召され、橋玄は大いに敬意をもって彼を遇した。出て河平の長を補任した。召されて郎中に任じられ、東観で校書を行った。
議郎に昇進した。蔡邕は経籍が聖人から遠く隔たり、文字に多くの誤りがあり、俗儒が穿鑿を加えて後学を疑わせ誤らせていると考え、熹平四年、五官中郎将の堂溪典、光禄大夫の楊賜、諫議大夫の馬日磾、議郎の張馴、韓説、太史令の単揚らとともに、
六経の文字を正しく定めることを上奏して求めた。霊帝がこれを許したので、蔡邕は自ら碑文を朱で書き、工人に刻ませて太学の門外に立てさせた。
これにより後世の儒者や学問を志す者は、皆これによって正しいものを得た。碑が初めて立てられた時、それを見物し模写する者の車は一日に千余台にも及び、道路を埋め尽くした。
当初、朝廷の議論では、州や郡が互いに結託し、人情が偏って結びつくことを理由に、婚姻関係にある家や二つの州の出身者が互いに監臨の職に就くことを禁止する制度を定めた。この時さらに三互法が復活し、
禁忌がますます厳密になり、人材の選抜任用が困難となった。幽州と冀州の二州は、長期間欠員のまま補充されなかった。蔡邕は上疏して言った。「臣が拝見しますに、幽州・冀州の旧来の領土は、鎧や馬の産地であり、
近年は戦乱と飢饉が続き、次第に空しく消耗しております。今、民衆は村落を離れ、万里の地が寂寥としており、
官職が長期間空いたままで、官吏や民衆が待ち望んでおりますが、三府の選挙は一ヶ月以上経っても決定しません。臣は以前からこの事態を不思議に思っておりましたが、論ずる者は『三互を避けている』と言います。十一州に禁忌があるとはいえ、実際に問題となるのはこの二州だけです。また、二州の人士に対しては、さらに年月による制限を加え、狐疑逡巡して遅延させ、機会を失わせております。愚考しますに、三互の禁令は、禁止の中でも軽微なものであり、今ただ威霊を示し、その法令を明らかにすれば、在任の者はどうして戒め恐れないことがありましょうか。それなのに、わざわざ三互を設けて、自ら障壁を作る必要があるでしょうか。昔、韓安国は刑徒の中から起用され、朱買臣は卑賤の身から抜擢され、ともにその才能に適って、故郷の邦を守りました。
また張敞は逃亡の身でありながら、重要な州の長官に抜擢されました。どうして三互を顧みて、末節の制度に従ったでしょうか。
三公は二州の重要性を明らかに知りながら、速やかに人選を定めるべきであり、禁忌を越えて有能な者を抜擢し、時弊を救うべきです。それなのに、諫争の臣としての義を顧みず、軽微な規程をただ避けることだけを考え、選抜任用を遅滞させ、適任者を失わせております。臣は願わくば、陛下には先帝の例に則り、近年の禁令を廃除され、諸州刺史で器用があり交代可能な者については、日月や三互に拘泥せず、適切に任命されますよう。」上疏は奏上されたが、取り上げられなかった。
当初、霊帝は学問を好み、自ら『皇羲篇』五十章を作り、それによって諸生で文賦を作れる者を引き寄せた。本来は経学によって招くことが多かったが、後に尺牘(書簡文)に巧みな者や、鳥篆(書体の一種)に優れた者も皆引き抜き召し出し、ついに数十人に及んだ。
侍中祭酒の楽松と賈護は、多く品行の劣った趨勢に迎合する者たちを引き入れ、ともに鴻都門の下で待制とし、世俗や里巷の小事を述べるのを好んでいたが、帝はこれを大いに喜び、順序を飛び越えた地位で待遇した。
また、市井の商人や小民で、宣陵の孝子となった者がさらに数十人おり、皆郎中や太子舎人に任じられた。この時、頻繁に雷霆や疾風があり、木を傷つけ引き抜き、地震、雹の降下、蝗虫の害があった。また鮮卑が国境を侵犯し、労役や賦税が民衆に及んだ。熹平六年七月、詔書を下して自らの過ちを認め、群臣にそれぞれ施すべき政治の要諦を述べるよう命じた。蔡邕は封事(密封した上奏文)を奉って言った。
臣が謹んで聖旨を拝読しますに、周の成王が風変わりな災いに遭って執事の臣に問うたことや、周の宣王が旱魃に遭って慎み畏れたことにも、これに勝るものはありません。
臣は聞きます。天が災異を降すのは、その象徴に縁って起こると。雷が頻繁に起こるのは、
おそらく刑罰や誅殺が繁多であることから生じるものです。風は天の号令であり、人を教えるためのものです。
上帝(天帝)に明らかに仕えるならば、自ずから多くの福がもたらされます。
宗廟に敬意を表して祭祀すれば、鬼神はその存在を顕わにします。
国家の大事は、実に祭祀の典を第一とします。
天子の聖なる御身は、恭しく奉仕すべきものである。臣が宰府に在職して以来、朱衣を備えて、
五郊で気を迎える儀礼に参加しているが、車駕が外出することは稀で、四時の至敬の礼も、
しばしば有司に委ねられ、解除の儀式があっても、なお疎かにされている。
それゆえ皇天は喜ばず、これらの様々な異常を顕わにされたのである。鴻範伝に言う:『政が悖り徳が隠れると、その風は屋を発し木を折る。』坤は地道であり、易は安貞と称する。
陰気が憤り盛んになれば、静であるべきものが反って動き、法は下の者の叛くこととなる。権が上に在らなければ、雹が物を傷つけ、政に苛暴があれば、虎狼が人を食い、利を貪って民を傷つければ、蝗虫が稼穡を損なう。去る六月二十八日、太白と月が相迫り、兵事はこれを忌む。鮮卑が塞を犯すのは、その由来遠く、今の出師は、その利を見ない。上は天文に違い、下は人事に逆らっている。誠に広く衆議を覧て、その安んずるものに従うべきである。臣は憤満に耐えず、謹んで施行すべき七事を条陳して左に表す:
第一事:明堂月令によれば、天子は四立および季夏の節に、郊で五帝を迎え、
それによって神気を導き、福を祈り豊年を願う。清廟での祭祀は、往昔を追慕し孝を敬い、辟雍で老人を養うのは、人に礼化を示すもので、いずれも帝王の大業であり、祖宗が敬い奉ったことである。ところが有司は、しばしば蕃国の疎喪、宮内の出産、および吏卒の小さな汚れを理由に、たびたび禁忌の口実を作る。
ひそかに見るに、南郊の斎戒は、一度も廃されたことがないが、他の祭祀については、すぐに異議が起こる。南郊が卑しくて他の祭祀が尊いというわけではあるまい。孝元皇帝の策書に言う:『礼の至敬なるものは、祭よりも重いものはなく、それによって心を尽くして親しく奉り、もって厳粛な敬意を致すのである。』また元和の故事では、先の典を重ねて申し述べている。
前後の制書は、心を推し量り懇切である。しかし近ごろ以来、太史に任せきりにしている。礼敬の大切さを忘れ、禁忌の書に任せ、小さな口実に拘って、大典を損なっている。礼によれば、妻妾が出産する場合、斎戒中は側室の門に入らないだけで、祭祀を廃するという条文はない。
いわゆる宮中に卒(死)がある場合、三月間祭祀を行わないというのは、士庶人が数堵の室に、共にその中に住んでいる場合を言うのであって、
皇居の広大さや、臣妾の多さを言うものではあるまい。今後は斎制を旧典の通りに行い、風霆や災いの異変に応えるべきである。
第二事:臣は聞く、国が興ろうとする時は、至言がたびたび聞かれ、内には己の政を知り、外には民情が見える。それゆえ先帝は聖明の御姿がありながらも、なお広く得失を求めた。また災異に因んで、幽隠の者を援引し、賢良・方正・敦樸・有道の選挙を重んじ、危言極諫が朝廷で絶えることがなかった。陛下が親政されて以来、頻年にわたり災異があるが、特別に博選を行うというお言葉は聞かれない。誠に旧事を省みて修め、忠を抱く臣にその狂直を展開させ、易伝の『政が悖り徳が隠れる』という言葉を解消すべきである。
第三事:賢を求める道は、一つの方法とは限らず、あるいは徳によって顕われ、あるいは言論によって揚げられる。近ごろ、朝廷に立つ士は、忠信によって賞されることがなく、常に誹謗中傷の誅罰を受け、それによって群下は口を結び、正しい言葉を図ることがなくなった。郎中の張文が、以前ただ一人で狂言を尽くし、聖聴がこれを受け容れて、三司を責めた。臣子たちは心が開け、衆庶は喜び解けた。
臣の愚見では、張文を右職に抜擢し、忠謇を勧め、
その名声を海内に宣べ、政路を広く開くべきである。
第四の事柄:司隸校尉や諸州刺史は、奸悪と不正を監督糾察し、白黒を分別する役目である。伏して拝見するに、幽州刺史の楊憙、益州刺史の龐芝、涼州刺史の劉虔は、それぞれ公務に奉じ奸悪を憎む心があり、憙らが糾弾した効果は特に多い。その他は皆、曲げられて不正を行い、職務に相応しくない。あるいは罪や欠点を抱え、部下と同様の弊害に陥り、法網が弛緩して誰も糾弾・監察せず、公府や台閣もまた黙っている。五年の制書で、八人の使者を派遣することを議し、また三公に謠言を奏上させた。
その時、公に奉じる者は喜び志を得、邪悪で不正な者は憂い恐れて顔色を失った。この議がなぜ中止されたのか、その理由は明らかでない。昔、劉向が奏上して言った。『狐疑の計策を執る者は、多くの不正の門を開く。決断しない考えを養う者は、讒言と邪悪の口を招く』と。
今、善政が始まったと聞いたかと思うと、すぐにまた変更される。これでは天下に朝廷の政治を測り推量させることになる。八使の制度を追って確定し、非違を糾弾・挙発させ、改めて忠誠で清廉な者を選び、賞罰を公平に明らかにすべきである。
三公は年末に、その成績の優劣を評価し、官吏に公に奉じることの福と私利を営むことの禍を知らしめれば、多くの災いの根源はおおよそ塞がれるであろう。
第五の事柄:臣は聞く。古くは士を取るに、必ず諸侯に歳貢させたと。
孝武帝の時代には、郡が孝廉を推挙し、また賢良・文学の選抜があり、それによって名臣が輩出し、文と武が共に興った。漢が人材を得たのは、数えるほどの道筋だけである。
書画や辞賦は、才能の小さいものであり、国を正し政治を治める能力はない。陛下が即位された当初、まず経術に通じられ、政務を聴く余暇に文章を観覧され、気分転換に遊ばれ、当世の博奕のようなものであり、教化によって士を取る根本ではない。ところが諸生は利を競い、作者が沸き立つように現れた。その優れた者は経典の訓戒や風刺の言葉をよく引き、下位の者は俗語を連ねて対句にし、俳優の類いのようである。あるいは他人の文章を盗んで、虚偽に名を冒す者もいる。臣は毎度、盛化門で詔を受け、順位を定めて記録したが、及ばない者もまた、その仲間と共に皆、任用・抜擢された。恩恵を加えた以上、再び取り消して改めるのは難しいが、ただ俸禄を守るだけで、義理としては既に大きい。再び民を治めさせたり、州郡に仕えさせたりすべきではない。昔、孝宣帝は石渠閣で諸儒を集め、章帝は白虎観で学士を集め、経典を通じさせ義を解釈させた。その事業は優れて大きく、文武の道として従うべきである。もし小さい才能や善行があっても、見るべきところはあるが、孔子は『遠くに行こうとすれば泥にはまる』と言われた。君子は本来、大きなことを志すべきである。
第六の事柄:墨綬の長吏は、職務として民を治めることを司り、
皆、恵みと利益をもたらすことを実績とし、日々の勤労を労とするべきである。褒賞と責罰の規定は、明らかにすべきである。ところが今、在任中には省みることがなく、任を終えて帰還する者には、多くが議郎や郎中に任命される。もし器量や才能が優れているなら、閑職に置くべきではない。もし罪過があれば、当然、刑罰や誅殺を極めるべきである。どうして罪を伏して考課を恐れ、かえって転任や昇進を求め、互いに模倣し、善悪の区別が無秩序であることがあろうか。先帝の旧典には、このようなことはなかった。皆、断ち切って、真偽を検証すべきである。
第七の事柄:伏して拝見するに、以前、一律に宣陵の孝子を太子舍人とした。臣は聞く。孝文皇帝は喪服の期間を三十六日と定められた。たとえ継体の君主であっても、父子の至親であっても、公卿列臣であっても、恩を受けた重臣であっても、皆、心情を抑えて制度に従い、敢えて越えようとはしなかった。今、虚偽の小人は、本来、骨肉の親ではなく、寵愛の恩もなく、禄や官職の実もない。哀れみや慕う心情が、どうして生じようか。しかも群れをなして山陵に集まり、孝を名乗り、行いが心に隠れず、義によって拠り所がない。ついには奸悪な者がその中に混じり込むことさえある。桓思皇后の葬送の時、
東郡に他人の妻を盗んだ者が孝子の中に逃亡し、本県が追捕して、ようやくその罪を認めた。虚偽と雑多な穢れは、言い尽くせない。また、先に到着した者は任用され、後輩は見捨てられる。あるいは陵の傍らで数年を過ごし、一時帰郷したために漏れる。あるいは人を代役に立てて、やはり寵愛と栄誉を受ける。争いや恨みが、道路に満ちている。太子の官属は、令徳を探し選ぶべきであり、どうしてただ墓場の凶悪で醜い者を取るだけであろうか。その不吉さは、これより大きなものはない。田舎に帰らせ、詐偽を明らかにすべきである。
上書が奏上されると、皇帝は自ら北郊で気を迎える礼を行い、また辟雍の礼を行った。また詔して、宣陵の孝子で舍人となった者は、全て丞や尉に改めた。
光和元年
に、鴻都門学を設置し、孔子と七十二弟子の像を描いた。その諸生は皆、州郡や三公に勅して推挙・辟召させ、ある者は刺史や太守として出向し、ある者は尚書や侍中として朝廷に入り、さらには封侯や爵位を賜る者もいた。士君子は皆、彼らと同列になることを恥じた。
その時、妖異な現象が頻繁に現れ、人々は驚き騒いだ。その年の七月、詔して蔡邕と光禄大夫の楊賜、諫議大夫の馬日磾、議郎の張華、太史令の単揚を金商門に召し出し、崇德殿に導き入れた。
中常侍の曹節と王甫を遣わして災異とその消変の方法、および実施すべき事柄について問わせた。蔡邕は心を尽くして答えた。事柄は『五行志』『天文志』にある。
また特に詔を下して問うた。
「近頃災変が相次いで起こり、その咎が分からず、朝廷は焦慮し、恐れを抱いている。毎度公卿士に訪ねて、忠言を聞こうとするが、それぞれ口を閉ざし、誰も心を尽くそうとしない。
蔡邕は経学に深く通じているので、密かに特に問いただす。過失と得策を明らかにし、政務の要を指摘陳述せよ。遠慮したり疑って隠したりしてはならない。経術に基づいて答え、皁嚢に封じて上奏せよ。」
蔡邕は答えた。
臣が思うに、陛下の聖徳は明らかで、災いの咎を深く悼み、臣のような末学を褒め、特に訪ねてくださった。これは臣のような蟻のような者が担えることではありません。まさに肝胆を吐露し命を捧げる時であり、どうして禍患を顧みて害を避け、陛下に最も厳しい戒めを聞かせないことができましょうか。臣が諸々の異変を考えるに、皆亡国の怪です。天は大漢に対して殷勤にやむことがなく、故にたびたび妖変を出して譴責とし、人君に感悟させ、危険を改めて安寧に至らせようとしているのです。今の災害の発生は、他の場所ではなく、遠くは門垣、近くは寺署にあり、その監戒たるや、最も切実と言えます。虹が堕ち鶏が化するのは、皆婦人が政治に干渉したことによるものです。以前の乳母の趙嬈は、天下で貴重であり、
生きている時は財貨の蔵が天府に匹敵し、死んだ後は丘墓が園陵を超え、二人の子は封を受け、兄弟は郡を治めた。続いて永楽門史の霍玉が、城社に依って阻み、また奸邪を行った。今、巷では様々な噂が立ち、また程大人という者がいると言われている。その風聞を察するに、国患となるであろう。高く堤防を築き、明らかに禁令を設け、趙嬈と霍玉のことを深く考え、最も厳しい戒めとすべきです。
今、聖意は勤々として、邪正を明らかにしようとしている。ところが聞くところによると、太尉の張顥は霍玉によって推挙された者であり、光禄勲の姓璋は、
貪濁の名があり、また長水校尉の趙玹と、
屯騎校尉の蓋升は、ともに時に寵愛を受け、栄華富んで裕福である。小人が位にある咎を思い、身を退けて賢者を避ける福を考えるべきです。
臣が拝見するに、廷尉の郭禧は純朴で厚く老成しており、光禄大夫の橋玄は聡明で達観し方正剛直であり、故太尉の劉寵は忠実で正を守る者です。皆、謀議の主としてふさわしく、たびたび訪問して意見を聞くべきです。宰相大臣は君主の四肢であり、
委任して責めを成させれば、優劣は既に分かれる。小吏の言葉を聞き入れて大臣を非難すべきではありません。
また尚方の工技の作や、鴻都の篇賦の文は、しばらく止めて、憂いを思うことを示すべきです。詩に『天の怒りを畏れ、敢えて戯れ遊ばず』とあります。天の戒めは誠に戯れてはなりません。宰相府の孝廉は、士の中の高選です。近ごろは辟召が慎重でないとして、三公を厳しく責めたのに、今は皆小さな文才で選挙を超えて採用し、請託の門を開き、明王の典に背いています。衆人の心は満足せず、誰も敢えて言わないのです。
臣は陛下が忍んでこれを絶ち、万機を思惟して、天の望みに応えられることを願います。聖朝が既に自らを律して厳しくすれば、左右の近臣もまた従って化するでしょう。人々が自らを抑えて損ね、咎の戒めを塞げば、天道は満ちたものを損ない、鬼神は謙虚な者に福を与えます。臣は愚かで頑なですが、感激して身を忘れ、敢えて忌諱に触れ、手書きで詳しく答えを記します。君臣の間で密でなければ、上には漏言の戒めがあり、下には身を失う禍いがあります。
どうか臣の上表をしまい、忠を尽くす吏が奸悪な仇から怨みを受けることのないようにしてください。
章奏が上ると、帝は閲覧して嘆息し、そのため起きて更衣した。曹節が後ろからこっそりとそれを覗き見し、すべてを左右の者に言い広めたので、事は漏れ広まった。蔡邕によって裁断され罷免された者たちは皆、横目で睨みつけて報復を考えた。
初め、蔡邕は司徒の劉郃と元より仲が悪く、叔父の衛尉の蔡質は
また将作大匠の陽球と確執があった。陽球は中常侍の程璜の娘婿であった。程璜はそこで人を使って飛章(密告文書)を上奏させ、蔡邕と蔡質がしばしば私事を劉郃に依頼したが、劉郃が聞き入れず、蔡邕が内心恨みを抱き、害そうと志していると述べた。
そこで詔が尚書に下り、蔡邕を召して事情を詰問した。蔡邕は上書して自ら陳述した。
臣が召喚され、問われたのは、大鴻臚の劉郃が以前済陰太守であった時、臣の属吏であった張宛が百日の長休を取ったこと、
劉郃が司隸校尉であった時、また河内郡の吏である李奇を州の書佐に推挙するよう依頼したこと、
およびかつての河南尹の羊陟と侍御史の胡母班を庇護するよう頼んだが、劉郃が用いなかったため恨みを抱いたという状況についてである。
臣は恐れおののき、肝胆を地に塗らす思いで、死命がどこにあるのかわからない。ひそかに自ら事案を尋ねてみると、実際に関わったのは張宛と李奇のことであり、羊陟と胡母班には及んでいない。そもそも休暇を取った小役人など、恨みを結ぶ根本ではない。羊陟とは姻戚関係にあるが、どうしてあえて私的な仲間を助け申し上げようか?
臣は実に愚かで頑なではあるが、ただ忠誠を尽くすことだけを知っている。命を投げ出し身を忘れ、後の害を顧みず、つい公卿を諷刺し、内には寵臣にまで及んでしまった。実は聖上の御下問にお答えし、災異を消し止め、陛下のために安寧を築く計略を立てようとしたのである。陛下は忠臣の直言を顧みず、むしろ隠蔽すべきであり、誹謗が突然至ったからといって、疑い怪しむべきではない。真心を尽くす官吏が、どうして容れられようか?詔書が下るたびに、百官はそれぞれ封事を上奏し、政治を改め過ちを悔い、凶を除き吉を招こうとしているのに、意見を述べる者は受け入れられる福に恵まれず、たちまち陥れ破滅させる禍に遭う。今や皆が口を閉ざし舌を結び、臣を戒めとしている。誰が陛下のために忠孝を尽くせようか?臣の叔父の蔡質は、連続して抜擢され、上位の列に位置している。臣は恩沢に浴し、しばしば御下問を受けた。事を言う者はこれによって臣父子を陥れ、臣の家門を破壊しようとしているのであって、再び隠れた奸悪を発覚させ、国家に補益するためではない。臣は四十六歳、孤独な一身である。忠臣として名を託すことができれば、死んでもなお栄えがある。陛下がここにおいて再び最も正しい言葉を聞かれなくなることを恐れる。臣の愚かで取るに足らない存在は、当然咎と患いを受けるべきである。ただ、以前に対答した内容は、蔡質は聞いておらず、
しかも老いて白髪頭の身でありながら、不当に連座して召喚され、臣と共に打ちのめされ没落し、共に穴に落とされるのは、誠に冤罪であり痛ましい。臣が一旦牢獄に入れば、拷問に迫られ、速やかに罪状自白を飲まされよう。その時の供述の事情がどうして再び聞き届けられようか?
死期が迫っている。僭越ながら自ら陳述する。願わくはこの身が罪を負って誅殺され、蔡質が連座しないようにしていただきたい。
そうすれば、この身が死ぬ日が、新たに生きる年となるであろう。どうか陛下にはご自愛され、万民のためにご健勝であられますように。
そこで蔡邕と蔡質を洛陽の獄に下し、公務に私怨を挟み、大臣を害しようと謀り、大不敬の罪で弾劾し、棄市(市で斬首)に処すと奏上した。事が奏上されると、中常侍の呂強は蔡邕が無罪であることを哀れみ、赦免を請うた。帝もまた彼の上書を改めて思い返し、詔を下して死刑一等を減じ、家族と共に髪を剃り首枷をはめて朔方に流刑とし、赦令によって免除されないこととした。陽球は刺客を遣わして道中で蔡邕を刺させようとしたが、刺客は彼の義に感じ、誰もそれを行わなかった。陽球はまた彼の配属先の長官に賄賂を送って毒害を加えさせようとしたが、賄賂を受け取った者はかえってその内情を蔡邕に警告したので、そのたびに難を免れることができた。五原郡の安陽県に居住した。
蔡邕は以前東観にいて、盧植や韓説らと後漢記の撰補に当たっていたが、事に遭って流離し、完成に至らなかった。そこで上書して自ら陳述し、彼の著した十意(十志に相当)を奏上した。
それぞれの首目(項目)を分け、上書の左側に連ねて付記した。帝はその才能の高さを称賛した。翌年、大赦があり、蔡邕を赦して本郡に帰還させることになった。蔡邕が流刑になってから帰還するまで、合わせて九か月であった。帰路につこうとした時、五原太守の王智が餞別をした。酒が酣になった時、王智が舞を舞い蔡邕に勧めたが、蔡邕は応じなかった。
智者は、中常侍王甫の弟であり、平素から尊大で驕り高ぶり、賓客たちの間で蔡邕を罵って言った。「お前ごときが私を軽んじるとは!」蔡邕は袖を払って立ち去った。智はこれを恨みに思い、密かに蔡邕が囚われの身から解放されたことを怨み、朝廷を誹謗中傷していると告げた。内寵(宦官たち)は彼を憎んだ。蔡邕はついに免れられないと覚悟し、やむなく逃亡して各地を転々とし、遠く呉や会稽の地に身を隠した。
行く先々で太山の羊氏一族を頼り、十二年を過ごし、その間は呉にいた。
呉の人で桐を燃やして炊事をしていた者がいた。蔡邕が火の燃え盛る音を聞き、それが良質の木材であると知り、譲り受けて琴に仕立てさせた。果たして美しい音色がし、その尾部はまだ焦げていたので、当時の人々はこれを「焦尾琴」と呼んだ。
かつて、蔡邕が陳留にいた時、隣人が酒食でもてなそうと蔡邕を招いた。行ってみると酒宴はすでに盛り上がっていた。客の一人が屏風の陰で琴を弾いていた。蔡邕が門に着き、そっと耳を傾けると、言った。「あれ!
音楽で私を招きながら、殺意があるのはどういうことか?」そして引き返した。使いの者が主人に告げた。「蔡君が来られましたが、門まで来て帰られました。」
蔡邕はもともと郷里で尊敬されていたので、主人は急いで自ら追いかけてその理由を尋ねた。蔡邕は詳しく事情を話したので、一同はみな驚きあきれた。
琴を弾いていた者が言った。「さきほど弦を弾いていた時、カマキリがちょうどセミに向かっているのを見ました。セミは飛び去ろうとしているがまだ飛ばず、カマキリはそれに向かって一進一退していました。私は心が引き締まり、ただカマキリがセミを取り逃がすのではないかと恐れました。これがまさか殺意が音に表れたということでしょうか?」蔡邕はにっこりと笑って言った。
「これで十分に説明がつく。」
中平六年
霊帝が崩御し、董卓が司空となった。董卓は蔡邕の名声が高いと聞き、召し出そうとした。蔡邕は病気と称して応じなかった。董卓は大いに怒り、罵って言った。「私の力で一族を滅ぼすこともできる。蔡邕がこのように傲慢な態度をとるなら、すぐにでもそうしてやる。」また厳しく州郡に命じて蔡邕を役所に推挙させた。蔡邕はやむなく赴き、祭酒に任命され、非常に尊敬され重んじられた。高い成績で推挙され、侍御史に補任され、さらに持書御史に転じ、尚書に昇進した。三日の間に、三つの台閣(尚書台、御史台など)を歴任した。巴郡太守に転任となったが、また留まって侍中となった。
初平元年
左中郎将に任命され、献帝に従って長安に遷都し、高陽郷侯に封じられた。
董卓の賓客や配下の者たちが、董卓を太公望になぞらえて尊び、「尚父」と称しようと議論した。董卓が蔡邕に相談すると、蔡邕は言った。「太公は周を補佐し、天命を受けて商を滅ぼしました。それゆえ特別にその称号が与えられたのです。今、明公の威徳は確かに高く大きいものですが、尚父と比べるのは、愚考ではまだ適切ではないと思います。関東が平定され、御車が旧都に戻られてから、その時改めて議論されるのがよろしいでしょう。」董卓はその意見に従った。
(初平)二年六月、地震があった。董卓が蔡邕に尋ねると、蔡邕は答えた。「地動は、陰が盛んになって陽を侵し、臣下が制度を越えたことによって起こるものです。先の春の郊祀の祭天の儀で、公(董卓)が車駕を先導され、金華の青い蓋の車に乗り、車の両側の轓に爪形の模様を描かれましたが、遠近の人々はこれはふさわしくないと思っております。」
董卓はそこで皁(黒)の蓋の車に乗り換えた。
董卓は蔡邕の才学を重んじ、厚遇して遇し、宴会を開くたびに蔡邕に琴を弾かせて事を賛えさせた。蔡邕もまた常に匡正と補益の心を持っていた。しかし董卓は自らの意見を押し通すことが多く、蔡邕は自分の意見がほとんど聞き入れられないことを残念に思い、従弟の蔡谷に言った。「董公は性質が剛直で、過ちを改めようとしない。結局は事を成し遂げられないだろう。私は東の兗州へ逃げようと思うが、道が遠くてたどり着くのが難しいなら、しばらく山東に逃げ隠れて時を待とうと思う。どうだろうか?」蔡谷は言った。「あなたの風貌は普通の人とは異なり、歩くたびに見物人が群がります。これで身を隠そうというのは、難しいことではありませんか?」蔡邕はやめた。
董卓が誅殺された時、蔡邕は司徒の王允の座にいたが、全く意図せずに言葉を発して嘆息し、顔色に動揺の色があった。王允は激怒して彼を叱責した。「董卓は国家の大賊であり、漢王室をほとんど傾けようとした。あなたは王の臣である。当然共に憤るべきなのに、私的な恩遇を懐いて、大節を忘れている!今、天が罪ある者を誅したのに、逆にその死を悲しみ傷んでいる。これは共に逆賊となることではないか?」すぐに廷尉に引き渡して罪を問わせた。蔡邕は陳謝の言葉を述べ、額に墨を入れ足を切る刑で済ませ、漢の歴史書を完成させてほしいと乞うた。士大夫の多くが彼を救おうとしたが、できなかった。太尉の馬日磾が駆けつけて王允に言った。「伯喈(蔡邕)は世に並ぶ者のない逸才で、漢の事柄に詳しい。後世の歴史を継続して完成させ、一代の大典とすべきです。しかも忠孝の心は平素から顕著であり、その罪状は名目がありません。誅殺するのは人望を失うことになりませんか?」王允は言った。「昔、武帝は司馬遷を殺さず、誹謗の書を作らせ、後世に流布させた。
今、国運は中衰し、神器(帝位)は固まっていない。佞臣に筆を執らせ、幼い君主の側に置くことはできない。聖徳に益がないばかりか、我々がその誹謗を受けることになる。」馬日磾は退いて人に告げた。「王公は長く世を保てないだろう。善人は国の綱紀であり、制作(歴史編纂)は国の法典である。綱紀を滅ぼし法典を廃する者が、長く続けられようか!」蔡邕はついに獄中で死んだ。王允は後悔し、止めようとしたが間に合わなかった。時に六十一歳であった。搢紳や諸儒は涙を流さない者はいなかった。北海の鄭玄はこれを聞いて嘆き、「漢代の事柄を、誰が正すというのか!」と言った。兗州や陳留では皆、彼の画像を描いて称えた。
彼が漢の事柄を撰集したものは、後世の歴史書に継承される形で記録されることはなかった。ちょうど霊帝紀と十意(志)を作り、さらに四十二篇の列伝を補ったが、李傕の乱のために、多くが湮滅して現存しない。著した詩、賦、碑、誄、銘、贊、連珠、箴、弔、論議、独断、勧学、釈誨、叙楽、女訓、篆勢、祝文、章表、書記など、合わせて百四篇が世に伝わっている。
史論
論じて言う。意気の感じ合いは、士の忘れがたいものである。流転極まりない運命は、生きる者すべてが深く悲しむところである。
伯喈(蔡邕)が鉗(首枷)を抱え、幽遠の地に流された時、日月を仰いでもその光を見ず、風塵に臨んでも通り過ぎることができず、
その心中は、平時に幸いにも全うされた人々と語り合うことなど望めるだろうか!刑衣を解き、越の地に逃れ、船を江の谷間に潜ませ、その遠さを知らず、密林を速やかに歩いても、なお密であることを苦にし、ただ北を向いて故郷の丘に首を向け、骸骨を先祖の墓に帰したいと願ったが、それさえも叶うだろうか?董卓が一朝に朝廷に入ると、招聘の書が真っ先に下り、明らかに無実の罪を着せられていたことが結ばれ、わずか二、三日のうちに三度も官位を遷された。
匡正と導きが既に申し述べられ、狂った僭越な行いはたびたび改められ、同人(志を同じくする者)の先駆けの号泣と同じ資質を持ち、塞翁の後の福を得た。
その慶事に属する者は、心に思うところがなかったと言えようか?
君子が刑罰を執行する時でさえ、なおそのために行事を中止することがある。
ましてや国家の法が倉卒に適用され、事前に図ることが考慮されず、哀れみの情から顔色を変えただけで、邪党と同じ罰を受けるとは?執政者はかえって司馬遷(子長)の誹謗の書が後世に流れたことを怨み、
これを根拠として殺戮し、
このような刑罰は、聞いたこともないものであった。
賛に曰く、季長の戚氏は、才は通じ情は侈なり。苑囿の典文、音伎に流悅す。
邕は実に静を慕い、心精にして辞綺なり。金商を斥言し、南に徂き北に徙る。
籍梁は董を懷い、名は澆ぎ身は毀つ。