後漢書
後漢書 列伝第五十上
馬融列傳 第五十上
馬融
馬融は字を季長といい、扶風郡茂陵県の人である。将作大匠の厳の子である。容貌と言葉が美しく、優れた才能を持っていた。
当初、京兆の摯恂は儒術を教授し、南山に隠棲して、朝廷からの招聘に応じず、関西で名声が高かった。馬融は彼に従って遊学し、経書や典籍に広く通じた。摯恂は馬融の才能を非凡だと思い、娘を彼の妻とした。
注[二] 厳は、援の兄の余の子である。
注[三]『三輔決録注』に曰く、「恂は字を季直といい、学問を好み文章をよくし、南山の陰に隠れた」と。
永初二年
大将軍の鄧騭が融の名を聞き、召し出して舎人としたが、それは彼の好みではなかったので、ついに命令に応じず、涼州の武都・漢陽の境界に客居した。ちょうど羌の虜が蜂起し、辺境が騒擾し、米穀の価格が高騰し、関以西では、道端に餓死者が相望んだ。融はすでに飢え困窮していたので、後悔して嘆息し、友人に言った。「古人に言う、『左手で天下の地図を押さえ、右手で自分の喉を刎ねる、愚かな者でもそんなことはしない』と。そうである理由は、生命が天下よりも貴いからだ。今、世俗のわずかな恥辱のために、計り知れない価値ある身体を滅ぼすのは、おそらく老荘の言うところではないだろう。」そこでかつて鄧騭の召しに応じた。
注[二]荘子に曰く、名を以て其の生を害せざる者を言うと。
四年、校書郎中に任命され、東観に赴いて秘書を校訂・管理した。この時、鄧太后が臨朝し、鄧騭兄弟が政務を補佐していた。
しかし世俗の儒者や世間の士人は、文徳を興すべきで武事は廃すべきだと考え、狩猟の礼を廃し、戦陣の法を止めた。そのため狡猾な賊徒が横行し、この無防備に乗じた。馬融はこれを憤慨し、文武の道は聖賢も廃さず、五材の用い方は一つとして廃すべきではないと考えた。
元初二年、
広成頌を上奏して諫めた。
その文は次のとおりである。注[一]謝承書及び続漢書はともに校書郎となったとし、また郎中に任命されたともいう。
注[二]五才とは、金・木・水・火・土である。左伝に、宋の子罕が「天は五材を生じ、人はこれを用いる。一つでも廃すことはできない。誰が兵を去ることができようか」と言ったとある。
注[三]広成は苑で、現在の汝州梁県の西にある。
臣は孔子が「奢れば不遜となり、倹約すれば固陋となる」と言われたと聞く。奢と倹の間には、礼を境界とする。それゆえ、蟋蟀や山樞の詩を作った人々は、ともに国君を諷刺し、太康に馳駆する節度をもって諫めたのである。楽しみながらも放蕩せず、憂えながらも困窮しないこと、これが先王が府蔵を平和にし、精神を養い、それを無限に至らしめた所以である。ゆえに戛撃と鳴球は虞謨に載せられ、吉日と車攻は周詩に序されている。聖主賢君がこれによって盛美を増すのは、ただ奢淫のためだけではあるまい。伏して見るに、元年以来、厄運に遭い、陛下は災異を戒め懼れ、自ら質素に努め、禁苑を荒廃させ、楽懸を廃し、勤労憂慮して深く思いを巡らせ、十余年にわたり、礼の度を超えている。さらに皇太后は唐堯の九族を親しく篤く睦まじくする徳を体現され、陛下は有虞の烝烝たる孝を行い、外戚の諸家を捨て、憂いや病気があるたびに、聖恩が広く労わり、使者を交錯させ、稀にしか途絶えることがない。時折の安息も、また自ら楽しむ方法がなく、これは太和を迎え、万福を助けることにはならないであろう。臣の愚見では、なお蝗虫がかなりいるが、今年五月以来、雨露が時に潤い、祥瑞の兆しが至らんとしている。ちょうど冬の季節に入り、農事の閑暇な時期である。広成に行幸し、原野や湿地を見渡し、越冬麦を見て、収穫貯蔵を勧め、それに乗じて武を講じ狩猟を校閲し、官僚や庶民百姓に、再び羽旄の美しさを目にし、鐘鼓の音を聞かせ、歓喜し楽しみ、田畑の畔で鼓舞させ、和気を迎え、吉慶を招致すべきである。小臣は蟻のごとき者で、区々たる思いに耐えかねる。職務は書籍にあり、謹んで旧文に従い、狩猟の意義を重ねて述べ、頌一篇を作り、併せて封をして上奏する。浅陋で卑しく、ご覧になるに足りない。
注[一]界とは限りのこと。
注[二]詩国風の序に「蟋蟀は、晋の僖公を刺したものである。倹約が礼に中らない」とある。その詩に「已むことなき太康、職はその居を思う」とある。毛萇の注に「已は甚だしいこと」とある。鄭玄の箋に「君は自ら楽しむべきであるが、また甚だしく楽しみすぎてはならない。礼をもって節度としたいのである」とある。また序に「山に樞ありは、晋の昭公を刺したものである。才能があっても用いられない」とある。その詩に「子に車馬あり、馳せず駆らず。宛として死すれば、佗人の是を愉しむ」とある。僖公は太康をもって戒めを遺し、昭公は馳駆できずに譏られたことを言い、文武の道は折衷を要することを言う。樞の音は謳。
注[三]左伝に、呉の季札が魯に聘問した時、魯がために頌を歌った。季札が「楽しみながらも放蕩しない」と言った。衛のために歌った。曰く「憂えながらも困窮しない」。
注[四]韓詩外伝に「人は五蔵六府を持つ。何を五蔵というか。精は腎に蔵され、神は心に蔵され、魂は肝に蔵され、魄は肺に蔵され、志は脾に蔵される。これを五蔵という。何を六府というか。喉咽は、量腸の府である。胃は、五穀の府である。大腸は、転輸の府である。小腸は、受成の府である。胆は、積精の府である。旁光は、湊液の府である」とある。詩に「天は蒸民を生じ、物有り則有り」とある。
注[五]戛は敔で、音は古八反。形は伏した獣のようで、背に二十七の刻みがあり、長さ一尺の木で櫟いて、楽を止めるのに用いる。撃は柷で、桶に似ており、中に椎の柄があり、底と連ねて揺らし、楽を始めるのに用いる。三礼図に見える。球は玉磬である。虞謨は舜典である。詩小雅に「吉日は戊に維り、既に伯し既に禱る。田車は既に好く、四牡は孔阜なり」とある。また「我が車は既に攻め、我が馬は既に同ず」とある。
注[六]元年とは安帝が即位した年をいう。□運とは地震・大水・雹などの類をいう。
注[七]孟子が斉の宣王に対し「今、王がここで鼓楽をなされば、百姓は王の鐘鼓の声を聞き、皆欣欣然として喜色を帯び互いに告げて言うであろう。『我が王はほとんど病気がないのであろうか。どうして鼓楽ができるのか』と。今、王がここで田猟をなされば、百姓は羽旄の美しさを見て、欣欣然として喜色を帯び互いに告げて言うであろう。『我が王はほとんど病気がないのであろうか。どうして田猟ができるのか』と。これに他ならない、人と楽しみを共にするからである」と言った。
私は聞く、昔、弓矢を鞬櫜に納めて師を命じ、霊台で伯を休ませたことがあり、ある人はこれを称えて褒めたという。
注[一] 鞬は矢を納めるもの、櫜は弓を納めるもの。鞬の音は紀言反。櫜の音は高。礼記に孔子が言う:「武王が殷を滅ぼし、干戈を逆さに載せ、獣皮で包んで、これを建櫜と名付けた。」鄭玄の注に「建は鍵と読む」とあり、音は其蹇反、これを蔵めて閉じることを意味する。これは馬融と鄭玄の説の違いである。司馬法に言う:「古の武軍は三年間興さなければ、凱楽と凱歌を奏で、霊台で伯を休ませ、人の労苦に報い、興さないことを告げる。」偃は休むこと。伯は師節を指す。霊台は気を望む台である。
注[二] 左伝に鄭の子太叔が言う:「刑罰と威獄を作り、天の震耀殺戮に類させる。」杜預の注に言う:「雷霆の震耀は天の威である。聖人は刑獄を作ってこれに類させる。」また宋の子罕が言う:「兵の設置は久しく、不軌を威圧し文徳を明らかにするためである。聖人はこれによって興り、乱人はこれによって廃される。廃興存亡昏明の術は、皆兵によるものである。」
注[三] 酆は、周の文王が都とした所。孟子に言う:「文王の囿は七十里四方である。」爾雅に言う:「春の狩りを搜といい、夏を苗といい、秋を獮といい、冬を狩という。」
注[四] 韓詩に言う:「東に圃草あり、車を駕して行き狩りをする。」毛詩に言う:「彼の茁たる者は葭、一発で五豝を得る、ああ騶虞よ。」毛萇の注に言う:「騶虞は義獣で、白虎に黒い文様があり、生物を食わない。至信の徳があればこれに応じる。」周礼の大司楽に:「王が大射を行うと騶虞を奏する。」
注[五] 周礼に言う:「風雨の会する所、陰陽の和する所、ここに王国を建つ。」天邑とは洛陽を指す。
注[六] 揆は測ること。詩の大雅に言う:「王は霊囿に在り。」広成苑を作ってこれに比したことを言う。
注[七] □の音は眇、泱の音は烏朗反、ともに広大な様子。
注[八] 阹の音は欺於反。上林賦に言う:「江河を阹と為す。」郭璞の注に言う:「山谷に因って禽獣を遮ることを阹という。」広雅に言う:「矕は視る。」音は馬板反。三塗は山の名で、陸渾県の西南にある。
注[九] 衡陰は衡山の北。山海経に言う:「雉山、澧水ここより出づ。東は衡山といい、青□が多い。」地理志に言う:「雉県の衡山、澧水の出づる所。」今の鄧州向城県の北にある。王屋は山で、今の王屋県の北にある。周礼に言う:「豫州、その浸は波・溠、その川は滎・洛。」水経注に言う「溠水は黄山より出づ」。今の随州棗陽県の東北にある。また言う「波水は歇馬嶺より出づ」、これは応劭の言う孤山で波水の出づる所である。今の汝州魯山県の西北にある。滎水は滎陽県の東にある。
注[一〇] 金山は金門山である。水経注に言う澠池県の南にある。石林は大石山で、一名を万安山といい、河南郡の境にあり、簿に「洛陽県南の大石山中に雑樹木あり、祠あり名は大石祠、山の高さ二百丈」とある。殷の音は於謹反、磑の音は五来反、□の音は徂回反、嵎の音は隅、峗の音は魚軌反、ともに高峻な様子。
注[一一] 爾雅に言う:「氿泉は穴より出づ。穴出は側より出づること。」丹水・涅水は今の鄧州にある。怪石は、怪異で玉に似た良い石。浮磬は、泗水中の石のようで、磬とすることができる。耀焜は光である。
注[一二] 毛は草である。左伝に楚の芋尹無宇が言う:「土の毛を食む者、誰か君臣ならざる者あらんや?」搉は、伝えられる音は角。搉牧は未詳。荘子に言う:「麋鹿は薦を食む。」一説に、草が稠いことを薦という。茹は菜である。爾雅に言う:「荼は苦菜である。」詩に言う:「堇荼飴の如し。」飴もまた甘い。
注[一三] 茈の音は紫。萁の音は其。爾雅に言う:「藄は月爾。」郭璞の注に言う:「即ち紫藄で、蕨に似て食べられる。」芸は香草である。説文に言う:「苜蓿に似る。」蒩の音は資都反。広雅に言う:「蕺は蒩である。その根は茅根に似て、食べられる。」昌本は昌蒱の根である。深蒱は蒱の白いものが深水の中に生じることを言う。
注[一四] 芝荋は草である。礼記に言う:「芝栭菱椇。」荋の音は而。堇は菜で、花は紫、葉は食べられて滑らかである。荁の音は戸官反。礼記に言う:「堇荁枌榆。」鄭玄の注に言う:「苣は堇の類である。」蘘荷は苗が姜に似て、根の色は紅紫で芙蓉に似て、食べられる。芋渠は即ち芋魁で、一名を蹲鴟といい、葉が大きく、根は食べられる。
注[一五]『爾雅』に「蘇は桂荏なり」とある。『方言』に「蘇もまた荏なり」とある。『爾雅』に「茆は鳧葵なり」とある。葉は丸く蓴に似て、水中に生じ、今俗に水葵という。『爾雅』に「茖は山□なり」とある。格と茖は古字で通じる。菹は子閭反と読み、すなわち巴苴で、一名を芭蕉という。於は軒於で、一名を蕕といい、水辺に生える。
注[一六]玄は幽と同じ。包は叢生する。『爾雅』に「大なる阜を陵といい、絶高なるを京という」とある。藩もまた蔽う。建木は長い木。
注[一七]いずれも木の名。櫃は矩と読む。楊は、□韻では以征反と読む。
注[一八]いずれも林木の様子。對は徒對反と読む。崟は吟と読む。槮は所金反と読む。爽は、□韻では生と読む。
注[一九]舖は敷と読む。蓶は以揆反と読む。郭璞が『爾雅』に注して「草木の花の初めに出るものを髭という」とある。蓶と通じ、その字は「唯」に従う。本来「荏」に従うものは誤り。扈は戸と読む。蘳は胡瓦反と読み、字は「圭」に従い、ともに花や葉の様子。本によっては□と作る。『説文』に「蘳は黄花なり」とある。『広雅』に「好色なり」とある。熒は光。悪は何ぞやの意で、烏と読む。
陽月に至ると、陰の害気が起こり、百草はことごとく落ち、林衡が田猟を戒め、草を焼き木を伐つ。その後、天網を挙げ、八紘を整え、九藪の動物を集め収め、四方の野の飛走するものを網羅し袋に入れる。これをこの園囿の中に集めると、山のように積み雲のように移り、群れが鳴き騒ぎ、鄙騃な獣が騒ぎ叫び、子野は聴き驚き、離朱は目を眩ませ、隷首は計算を乱し、陳子は籌策を昏ます。この時、包囲は広大に拡がり、川谷に充満し、雉網・兎網・猪網が坑沢に満ち渡り、牢籠が山を覆う。校隊は部署を定め、前後に屯し、甲乙は順次に並び、戊己が中堅となる。
注[一]『爾雅』に「十月を陽という」とある。孫炎の注に「純陰が用事するが、陽無きを嫌い、故に名づく」とある。『左伝』に「唯だ正月の朔、慝未だ作らず」とある。杜預の注に「慝は陰気なり。害作は陰気が厳しく殺伐となり、百草を害することを言う」とある。『周礼』に「林衡は林麓の禁令を巡り掌る」とある。また「牧師は牧地を掌り、凡そ田事に焚萊を賛す」とある。草を除くこと。柞は士雅反と読み、斜めに木を伐つ。『周礼』に「柞氏は草木及び林麓を攻むることを掌る」とある。
注[二]揫は聚めることで、子由反と読む。『周礼』職方氏が九藪を掌る:楊州は具区、荊州は雲夢、豫州は圃田、青州は孟諸、兗州は大野、雍州は弦蒲、幽州は貕養、冀州は楊紆、并州は昭余祁。
鄭玄の注に「水無き沢を藪という」とある。動物とは禽獣をいう。繯は胡犬反、また胡串反と読む。『説文』に「繯は落とすなり」とある。『国語』に「山に繯するに罕あり」とある。賈逵の注に「繯は還るなり」とある。橐は囊で、托と読む。四野は四方の野。飛征は飛走するもの。
注[三]鳩は集める。敦は屯と読み、また積聚。鄙騃は獣の奮迅する様子。鄙は普美反、騃は俟と読む。『韓詩』に「駓駓俟俟、或は群れ或は友す」とある。眩は乱れることで、□韻では玄と読む。隷首は黄帝の時、算術に優れた者。陳子は陳平で、籌策に優れる。昏は乱れる。禽獣が多く計算しきれないことを言う。
注[四]罦は浮と読み、雉の網。罝は兎の網。羉は猪の網で、力官反と読む。いずれも『爾雅』に見える。坑は苦庚反と読む。『蒼頡篇』に「坑は壑なり」とある。□牢は牢籠と同じ。孫卿子に「天下を□牢してこれを制するは、子孫を制するがごとし」とある。諸本に牢柵と作るものがあるが、誤り。
注[五]『周礼』司馬職に「前後に屯あり」とある。甲乙は順次をいう。伍は伍長。戊己は中に居り中堅となる。
乗輿は吉月の陽朔に、疏鏤の金路に登り、六頭の驌獮の玄龍を駆り、雄虹の旌夏を建て、鳴鳶の修橦を掲げる。
長庚の飛髾を曳き、日月の太常を載せ、招搖と玄弋を棲ませ、枉矢を天狼に注ぐ。羽毛は紛然と髟鼬し、金亨を揚げて玉瓖を払う。田車を平原に屯し、同徒を高岡に播き、旃旝は林の如くに摻き、五色を錯えて光を摛す。清らかに氛埃を払い、野場を掃き、六師に誓い、鑈良を搜す。司徒は卒を勒し、司馬は行を平らかにし、車は攻め馬は同じく、教えは達し戒めは通ず。咎鼓を伐ち、華鐘を撞き、猟徒は縦に、榛叢に赴く。徽嫿霍奕として、別れ騖ぎ分かれて奔り、騒擾聿皇として、往来交舛し、紛紛回回として、南北東西す。
風行き雲転じ、匈糝隱訇として、黄塵勃滃し、闇くして霧の昏むが如し。日月これがために籠光し、列宿これがために翳昧し、僄狡は才を課し、勁勇は気を程す。狗馬角逐し、鷹□競鷙し、驍騎は旁らに佐け、軽車は横に厲し、相与に陸梁し、聿皇として中原にあり。猑を絹ぎ、特肩を鏦し、完羝の脰を切り、介鮮を撝し、毛族を散らし、羽群を梏す。その後、飛鋋は電の如く激し、流矢は雨の如く墜ち、各々指す所の質に向かい、期せずして俱に殪れ、竄伏して輪を扔げ、発作して梧羆す。祋殳狂撃し、頭は陥み顱は砕け、獣は猭するを得ず、禽は瞥するを得ず。或いは夷由して未だ殊れず、顛狽頓躓し、蝡蝡蟫蟫として、衢を充たし隧を塞ぎ、葩華□布して、勝ちて計うべからず。
注[一]陽朔とは十月の初めのことである。疏鏤とは彫刻することである。周遷の『輿服雑記』に「玉路は重輅である。金路・玉路の形制は同じである。六とは六頭の馬を駕することである」とある。『続漢志』に「天子の五路は六頭の馬を駕する」とある。驌獮は馬の名である。『左伝』に、唐の成公に二頭の驌獮馬があったとある。『周礼』に「馬の高さ八尺を龍という」とある。『礼記』に「孟冬には玄輅に乗り、鉄驪を駕する」とある。ここでも冬の気に順じて玄に乗るのである。郭璞が『爾雅』に注して「虹で二重に出て色鮮やかなものを雄という」とある。『左伝』に「舞師は旌夏を題す」とある。杜預の注に「旌夏は大旌である」とある。掲とは掲げることである。音は渠列反。『礼記』に「前に塵埃があれば、鳴鳶を載せる」とある。鳶は鳶である。音は縁。鳴けば風が動くので、旌旗にこれを描いて塵埃を待つのである。橦とは旗の竿である。音は直江反。
注[二]長庚はすなわち太白星である。髾の音は所交反、すなわち旌旗に垂らす羽毛である。太常は天子が立てる大旗で、日月を描く。『周礼』に「日月を常とする」とある。招搖・玄弋・天狼はともに星の名である。枉矢は妖星で、蛇のように尾があり目があり、これも旌旗に描くのである。
注[三]髟鼬とは、羽旄が飛揚するさまである。髟の音は必由反。鼬の音は羊救反。蔡邕の『独断』に「金亨とは馬冠で、高さ広さ各四寸、馬の□の前にある」とある。亨の音は無犯反、一音は子公反。瓖とは、馬の帯を玉で飾ったものである。音は襄。
注[四]『詩経』小雅に「我が車は既に良し」とある。また「射夫は既に同ず」とある。徒衆が斉同することを言う。旝もまた旃である。音は古会反。『左伝』に「旝動いて鼓す」とある。摻の音は所金反、「森」の字と同じ。
注[五]野場とは草萊を取り除き、駆け回れるようにすることである。『左伝』に「天子は六軍」とある。鑈良とは馬の善きものである。
注[六]『周礼』に「司徒はもし軍旅・会同・田役の戒めがあれば、法を司馬より受け、その衆を作す」とある。また「司馬は狩田に、旌を以て左右の和の門とする。前後に屯があり、百歩ごとに司があり、その前後を巡る」とある。鄭の注に「その士の行列を正す」とある。『詩経』小雅に「我が車は既に攻め、我が馬は既に同ず」とある。毛萇の注に「攻は堅いこと。同は斉しいこと。戎事は力を斉しくし、強さを尚ぶ。田猟は足を斉しくし、速さを尚ぶ」とある。
注[七]咎鼓は大鼓である。音は公刀反。『周礼』に「□鼓の長さは尋に四尺を有す」とある。
注[八]嫿の音は呼獲反、ともに奔走するさまである。
注[九]糝の音は苦蓋反、訇の音は火宏反、ともに音声である。滃の音は烏董反。
注[一〇]僄狡とは勇猛敏捷である。僄の音は匹妙反。
注[一一]絹とはかけることで、罥と通じる。音は工犬反。猑縞は野馬である。『爾雅』に「猑縞跰は、よく甗に登る」とある。猑の音は昆。鏦は撞くことである。楊雄の『方言』に「呉楚の間では、矛を鏦ということがある」とある。音は楚江反。『韓詩』斉風に「並び駆けて両肩に従う」とある。薛君の伝に「獣の三歳を肩という」とある。脰は首筋で、その首筋を射ることを言う。脰の音は豆。完羝は野羊である。臣賢が案ずるに、字書では「羦」と作り、音は戸官反、「完」と通じる。梏は諸家ともに古酷反としている。字書を案ずると「梏」は「手」に従い、すなわち古文の「攪」の字で、攪擾することを言う。
注[一二]鋋は矛である。音は巿延反。『周礼』に「王弓を以て甲革・椹質を射る者に授く」とある。鄭の注に「質は正なり」とある。正の音は征。扔の音は人証反。『声類』に「扔は摧なり」とある。車輪に摧かれることを言う。梧は支えることである。音は悟。車に支えることを言う。羆は車軸の頭である。音は衛、車軸を□にして殺すことを言う。
注[一三]祋もまた殳である。音は丁外反。顱は額である。音は盧。猭は走ることである。音は丑恋反。瞥は見ることである。□韻の音は疋例反。殳の音は殊。
注[一四]夷由は進まないことである。『楚辞』に「君行かずして夷由す」とある。未殊とはまだ死んでいないこと。蝡の音は而兗反。『説文』に「動くことなり」とある。蟫の音は似林反、これも動くさまである。
もしも猛獣や毒虫が、牙を曲げ口を黒くし、大きな胸をして後ろを尖らせ、うろうろと曲がりくねり、隅に背を向け険阻に依り、敢えて立ち向かう者もいない。そこで鄭叔や晋婦の徒をして、離れ離れに刺し殺させ、裸で肌を露わにする。□や柘を冒し、棘や枳を切り払い、深い谷の底まで行き、幽邃な山峡の底に至り、虎を暴れさせ、狂った犀を捕らえ、熊を獄にし、封狶を捕らえる。あるいは軽捷で悍猛な者が、細身で首筋が長く、嵩や巒を犯し越え、高い松を陵ぎ、長い樠を踏み、伸びた枝を跳び越え、梢の先端に至り、蒼い蜼の尾を掴み、玄譸を引き倒し、木に住むものは尽き、仮住まいのものは単独となる。網を張る者は部を合わせ、弓矢を射る者は同じ曲に従い、類を同じくして並び駆け、星のように並び麗しく連なり、曹や伍は互いに保ち合い、それぞれに分かれた区域を持つ。矰碆が飛び流れ、細かい網が絡み合い、遊ぶ雉は群れ驚き、朝の鳧は次々と飛び立ち、翬然と雲が立ち昇り、霅爾と雹が落ちる。
注[一]『爾雅』に「駁は馬の如く、倨牙にして虎豹を食う」とある。黔は黒いこと。『周礼』考工記に「大匈、耀後、力有りて走ること能わず」とある。鄭玄の注に「耀は哨と読む」とある。哨は小さいこと、音は稍。縕巡は並んで行く様子。縕の音は於粉反。『孟子』に「觿有りて虎を逐う、虎隅に負う、之を敢えて攖える者莫し」とある。攖は迫る。御は扞う。
注[二]鄭叔は、鄭の荘公の弟の太叔段。『詩』鄭風に「太叔田に於いて、馬に乗り、襢裼して虎を暴にし、公の所に献ず」とある。『孟子』に「晋人に馮婦という者有り、善く虎を搏ち、臂を攘げて車を下り、觿皆之を悦ぶ」とある。睽は離れる。孤は独り。身を挺して獣を刺すことをいう。刲もまた刺す、音は苦圭反。『爾雅』に「袒裼は肉袒なり」とある。『孟子』に「袒裼裸裎我が側に於いてす」とある。『説文』に「裎は、裸なり」とある。その字は「衣」に従う。
注[三]『爾雅』に「□は山桑なり」とある。音は一染反。槎は斫つ、音は仕雅反。嶰は山澗をいう。『蒼頡篇』に「斥は大なり」とある。□もまた狂う、音は吉曳反。『説文』に「兕は野牛に似て青色なり」とある。抾の音は劫、古字通ず。封は大なり。狶は質、音は虚起反。
注[四]訬は軽捷、音は初稍反。趬の音は丘昭反。『説文』に「趬は行くに軽き貌」とある。廋疏は猶お搜索。廋の音は所由反。『字林』に「婁は山の顛なり」、音は力於反。『爾雅』に「山大にして高きを嵩と曰い、山小にして高く鋭きを巒と曰う」とある。樠の音は莫寒反。踔は跳ねる、音は□教反。攳の音は尋、長い枝をいう。杪の音は亡小反、標の音は必遙反、ともに木の末。蜼の音は以□反。『爾雅』に「蜼は鼻を卬げて尾長し」とある。郭璞の注に「獮猴に似て大、黄黒色、尾長さ数尺、末に両歧有り、雨なれば則ち自ら樹に懸かり、尾を以て鼻を塞ぐ。零陵・南康の人これを呼ぶ音は『余』、建平の人これを呼ぶ音は『相贈遺』の『遺』、又音は余救反、皆土俗の軽重同じからざるのみ」とある。掎の音は居蟻反。『説文』に「偏に一足を引くなり」とある。木産は巣棲の類をいう。寓属は穴居の属をいう。
注[五]罕もまた網。司馬相如の『上林賦』に「雲罕を載す」とある。『続漢書』志に「将軍に部有り、部下に曲有り」とある。□は魚網、音は増。弋は繳射。分の音は扶問反。
注[六]矰は弋の矢。碆は磻と同じ、音は補何反、又は補佐反。『説文』に「石を以て隿繳に著するなり」とある。絡縸は羅を張る様子。縸は幕に通ず。翬は飛ぶ、音は揮。霅の音は素洽反。『広雅』に「霅は雨なり」とある。鳥が繳に中たる様を雹の落つるに譬える。
ここにおいて遠く観て高く蹈み、車を改め轅を回らし、大いなる方に溯り、馮夷を撫で、句芒に策し、荒忽を超え、重陽を出で、雲漢を厲し、天潢を横たう。鬼の区を導き、神の場を径て、霊保に詔し、方相を召し、厲疫を駆り、蜮祥を走らす。罔両を捎げ、游光を払い、天狗を枷し、墳羊を増す。然る後に節を緩め容を舒べ、裴回して安歩し、降りて波□に集い、川衡・沢虞、魚に矢し罟を陳ぶ。茲飛・宿沙、田開・古蠱、終葵を翬し、関斧を揚げ、重氷を刊し、蟄戸を撥き、潜鱗を測り、介旅を踵く。湍瀬に逆らい獵り、汾橈に渀薄し、潭淵を淪滅し、左に夔龍を挈げ、右に蛟鼉を提げ、春には王鮪を献じ、夏には□黿を薦む。ここにおいて流覽し遍く照らし、変を殫くし態を極め、上下究竟し、山谷蕭条、原野嵺愀、上に飛鳥無く、下に走獣無く、虞人は旍を植え、獵者は具を□し、車弊れ田罷み、旋りて禁囿に入る。昭明の観に棲□し、高光の榭に休息し、以て宏池に臨む。瑤台を以て鎮め、金堤を以て純にし、蒱柳を以て樹え、緑莎を以て被い、瀇瀁沆漭、錯紾盤委、天地虹洞、固より端涯無く、大明東に生じ、月朔西陂す。ここにおいて壺涿を命じ、水蠱を駆り、罔・螭を逐い、短狐を滅ぼし、鯨・鯢を簎す。然る後に余皇を方し、舼舟を連ね、雲帆を張り、蜺幬を施し、颸風に靡き、迅流に陵ぎ、棹歌を発し、水謳を縦にし、淫魚出で、蓍蔡浮かび、湘霊下り、漢女游ぶ。水禽鴻鵠、鴛鴦・鷗・鷖、鶬鴰・鸕・鷁、鷺・鴈・鷿□、乃ち斯の涯に安んじて寝し、翮を戢える。魴・鱮・釬・□、鰋・鯉・鱨・魦、我が純徳を楽しみ、騰踴相随う、霊沼の白鳥、孟津の躍魚と雖も、斯に方べて蔑し。然れども猶お伶蕭に詠歌し、方策に載陳す、豈に哀しまざらんや!
注[一]□は遠い、音は名小反。田獵既に罷みたる故、車を改め轅を回らす。『左伝』に「轅を改めて之を北す」とある。泝は上る。恢は大いなる。馮夷は河伯。句芒は東方の神。荒忽は幽遠。重陽は天。雲漢は天河。天潢は星。
注[二]霊保は神巫。『楚辞』九歌に「霊保を思う兮賢姱」とある。『周礼』「方相氏は戈を執り楯を揚げて掌り、百隸を帥いて以て疫を駆る」。『洪範』五行伝に「蜮は人を射る、南越に生ず、之を短狐と謂う」とある。『詩』虫魚疏に「一名射景、□の如く三足、今俗に之を水弩と謂う」とある。
注[三]捎の音は所交反。鄭玄の『周礼』注に「捎は除く」とある。『国語』に「木石の怪を夔・罔両と曰う」とある。游光は神、兄弟八人。天狗は星の名。『春秋』元命包に「天狗は財を守るを主る」とある。増は繋ぐ、音は息列反。墳羊は土の怪、その形羊に似る。『家語』に見ゆ。
注[四]波□は池□。前書音義に「□は池中に室を作り、以て鳥を棲ましむるに可用、入れば則ち之を捕う」とある。又「竹を折りて以て繩に綿連し、禁御して人をして往来するを得ざらしむ」とある。『周礼』「川衡は川沢の禁令を掌る。沢虞は国沢の政令を掌る」。
『左伝』に「魯の隠公、棠に於いて魚に矢す」とある。矢もまた陳ぶ。『国語』に「魯の宣公、夏に濫□を泗川にす、裡革其の□を断ちて之を□きて曰く『古者は大寒降り、水虞ここに於いて川禽を登りて之を廟に嘗め、諸国に行いて気の宣わるを助く。今魚方に孕み、又□を行い、貪りて蓺無し』。公曰く『吾が過ちなり』」とある。□の音は圉。
注[五]音は冶。
注[六] 茲飛とは佽飛のことである。『呂氏春秋』に言う。「荊の佽飛が、江を渡る途中、二匹の蛟が船を取り巻いた。佽飛は剣を抜いて江に飛び込み、蛟を刺し殺した。」『魯連子』に言う。「古の漁の上手な者に宿沙渠子がいた。彼を山の側で漁をさせたが、十日の間でも魚を得られなかった。宿沙が漁の道に暗かったのではなく、あの山は魚の生息する場所ではなかったからである。」『晏子春秋』に言う。「公孫捷、田開強、古冶子の三人が勇をもって景公に仕えた。晏子が景公に勧めて二つの桃を賜り、『功績を計ってこれを食べよ』と言った。公孫捷が言った。『私は楯を持って再び乳虎と格闘した。私の功績は桃を食べるに値する。』田開強が言った。『私は武器を手に三軍を二度防いだ。桃を食べるに値する。』古冶子が言った。『私はかつて黄河を渡った時、大亀が左の驂馬をくわえて砥柱の急流に入った。私は逆流を百歩、順流を九里追い、亀の頭を得て、鶴のように跳躍して出てきた。桃を食べるに値する。』二人は皆、自分の桃を返し、首を切って死んだ。古冶子は言った。『二人が死んだのに、私だけが生きるのは不仁である。』これもまた首を切って死んだ。」「蠱」は「冶」と通じる。翬もまた揮と同じである。『広雅』に言う。「終葵は椎である。」関斧は斧の名である。刊は除くことである。踵は尋ねるような意味である。介は鱗虫の類をいう。旅は觿である。
注[七] 渀は音蒲艮反、橈は音奴教反、ともに水中の怪物である。淪滅とは水中に没することである。鼉の音は□。鮪は鱣の類で、大きいものを王鮪、小さいものを叔鮪という。『礼記』に「季春の月、天子初めて舟に乗り、鮪を寝廟に薦める。季夏の月、漁師に命じて黿を取らせる」とある。
注[八] 流覽とは周流して観覧することである。『周礼』に言う。「虞旌を植えて禽に属す。」鄭玄の注に言う。「植は樹てるようなもの。田猟の場に旗を立て、獲物を得た者に皆その禽を致させる。」また言う。「車弊して禽を献じ、以て礿を享く。」注に言う。「車弊は車を止めること。」嵺は音力救反、愀は音七救反、これもまた蕭条とした様子である。
注[九] 宏は大きいこと。
注[一〇] 純は縁取り、音は之尹反。蒱もまた柳である。瀇は音胡廣反、瀁は音養、沆は音胡朗反、漭は音莽、いずれも水の広大な様子である。錯紾は交錯して結びつくこと。紾は音之忍反。委は音於危反。虹洞は連なり続くこと。虹は音胡貢反。朔は生じること。『礼記』に言う。「大明は東に生じ、月は西に生ず。」鄭玄の注に言う。「大明は日である。」池水が広大で、日月がその中から出るという意味である。
注[一一] 『周礼』に「壺涿氏は水蠱を除くことを掌る。」涿は音丁角反。蠱は音公戶反。罔とは罔両をいう。螭は龍の類。短狐はすなわち蜮である。簎は音七亦反。『説文』に言う。「刺すこと。」『周礼』に「□人は時に従って魚□龜蜃を簎することを掌る。」鄭衆の注に言う。「簎とは杖で泥中を刺して捕らえることをいう。」
注[一二] 方は並ぶような意味。余皇は呉の船の名。『左伝』に見える。舼は小さな舟、音は渠恭反。『淮南子』に言う。「越の舼、蜀の艇といえども、水なくして浮かぶことはできない。」帆は音凡。幬は帳、音は直由反。颸は疾風、音は楚疑反。武帝の秋風詞に言う。「蕭鼓鳴いて棹歌を発す。」劉向の『列女伝』に言う。「津更の女、中流で河激の歌を奏す。」『韓詩外伝』に言う。「瓠巴が琴を鼓すと、淫魚出でて聴く。」『淮南子』に言う。「上に叢蓍あれば、下に伏龜あり。」『論語』に言う。「臧文仲は蔡に居す。」注に言う。「龜は蔡の地に出るので、これを以て名とする。」湘霊は舜の妃で、湘水に溺れて湘夫人となった。『楚辞』に見える。漢女は漢水の神女。『詩』に言う。「漢に游女あり。」
注[一三] 鴛鴦はつがいの鳥。鷗は白鷗。鷖は鳧の類。『爾雅』に「鶬は麋鴰」とある。今これを鴰鹿という。鴰は音括。鸕は鸕帚。楊孚の『異物誌』に言う。「深水に潜ることができ、魚を取って食べる。卵を生まずに池沢の間に雛を孕み、胎となってまた吐き出して生む。多いときは八九羽、少ないときは五六羽を、連なって出し、糸の緒のようである。水鳥でありながら高い木の上に巣を作る。」鷁は白鶂。鷺は白鷺。鷿は音歩歴反。□は音梯。楊雄の『方言』に言う。「野鳧で、非常に小さく、水中に潜るのを好む。その脂は刀剣を磨くのに用いることができる。」寢は宿る。『詩』に言う。「乃ち安んずるこの寢。」涯は水辺。
注[一四] 鱮は音緒、魴に似て鱗が弱い。釬は音徐林反、口が頷の下にあり、大きいものは長さ七八尺。□は音卑連反、魴の類。鰋は音匽、今の鰋額白魚である。鱨は音嘗、『詩』の虫魚疏に「今の黄頰魚」とある。魦は音沙、或いは「鯊」と作る。郭義恭の『広志』に言う。「吹沙魚、指ほどの大きさで、砂中を行く。」『詩』大雅に言う。「王霊沼に在りて、魚躍るに於て牣る。」鄭玄の注に言う。「霊沼の水に、魚が満ち溢れている様子で、皆跳躍している。」また言う。「白鳥翯翯たり。」翯は肥えてつやつやしている様子。翯は音学。皆その場所を得ているという意味。『尚書中候』に「武王が孟津を渡ると、白魚が躍りて王の舟の中に入った」とある。
注[一五] 伶は楽官。『詩』国風の序に言う。「衛の賢者は、伶官に仕える。」『礼記』に言う。「文武の道は、方策に布く。」また言う。「百名以上はこれを策に書き、百名に満たないものはこれを方に書く。」鄭玄の注に言う。「方は板である。」
こうして宗廟への供えも済み、厨房も満たされ、車と兵士も選び分けられ、武器も整えられた。
注[一] 『礼記』に言う。「天子は年に三度田猟を行う。一つは干豆(祭祀用の干し肉)のため、二つは賓客のため、三つは君主の厨房を満たすためである。」
注[二] 『広雅』に言う。「捭は開くこと。」字書に「擺もまた捭の字、音は捕買反。」班固の『西都賦』に言う。「互を置き牲を擺す。」班は布くこと。淤は飫と同じ。『左伝』に言う。「軹を加うれば則ち飫賜す。」犒は労うこと。山罍は山の文様が描かれている。『礼記』に言う。「山罍は夏后氏の樽である。」また言う。「周は房俎を用いる。」鄭玄の注に言う。「房とは足の下の跗(台)をいい、堂の房に似ているところから名づけられた。」
注[三]周礼には「酒正は中士で、五斉の名と三酒の物を弁じる。膳夫は上士で、王の食飲膳羞を掌る」とある。説文には「醪は汁滓のある酒である」とある。大雅には「或いは燔き、或いは炙る」とある。将は行くこと。既は尽きること。流俗本では「爵」の字が「爝」に、「既」の字が「暨」になっているが、いずれも誤りである。
注[四]淮南子には「採菱の歌を歌い、陽阿を発する」とある。礼記には「嘽諧慢易の音が作られて人は康楽となる」とある。鶡冠子には「南方の万物は華やかな羽を持つので、羽で調べるのである」とある。
注[五]越は散ずること。蘊慉は積聚と同じ。慉は畜に通じる。恫は洞と読む。底伏は滞伏と同じ。呂氏春秋には「昔、陰康氏の始め、陰多く滞伏湛積したので、舞を作ってこれを宣導した」とある。ここに楽を作ることも、滞伏の象を疏散させるためであると言っている。
注[六]鍠鍠鎗鎗は鐘鼓の音である。鍠は撗と読む。鎗は測庚反と読む。孟子が斉の宣王に言った「今、王が百姓とその楽しみを同じくすれば、王となるであろう」。農郊は田野である。
注[七]入享とは来て祭りを助けることを言う。孔安国が尚書に注して「西旅は西戎の遠国である」と言う。□嶺は西域の山である。西河旧事には「嶺上に□が多いので、これによって名付けた」とある。徼は塞の道である。九訳は九重の訳語を通して中国に通じることである。尚書大伝には「周の成王の時、越裳氏が九重訳して白雉を貢いだ」とある。朔狄は北狄である。周礼には「象胥は蛮・夷・戎・翟の国を掌り、王の言葉を伝えて諭説し、もって和親させる」とある。鄭の注に「夷狄の言葉を通じる者を象胥と言い、才智ある者である。この類の本名は、東方を寄、南方を象、西方を狄鞮、北方を訳と言う。この官が正に象とされるのは、周が始めて南越が重訳して来貢したので、言語を通じる官を象胥と名付けたのである」とある。胥は諝と読む。
注[八]晏子春秋には「晋の平公が斉を攻めようとし、范昭に観察させた。景公が彼に酒を勧めた。范昭が『君の□酌を請いたい』と言うと、景公は『諾』と答えた。范昭が飲んだ後、晏子が命じて尊を撤去し別のものに替えた。范昭が帰り、晋の平公に報告して『斉は伐つべからず、私はその君を辱めようとしたが晏子がそれを見抜いた』と言った。仲尼がこれを聞いて『尊俎の間に起こり、千里の外で衝を折る』と言った」とある。
注[一]盤は楽しむこと。虞は娛と同じ。
注[二]周礼の八法の四は官常で、もって官の理を聴く。天府は祖廟の守蔵を掌り、その禁令とともに、群吏の理を察する。左伝に「晋の趙盾が国政を行うに、政は質要による」とある。杜預の注に「由は用いること。質要は契券である」とある。刊は苦寒反と読む。
注[三]清原は地で河東聞喜県の北にある。左伝に「晋が清原で狩りを行い、五軍を作った」とある。また楚の椒挙が「周の武王には孟津の誓いがあり、成王には岐陽の狩りがあった」と言った。礼記月令に「孟夏、太尉に命じて傑俊を賛し、賢良を遂げさせる」とある。左伝に楚の平王が「奸慝を詰め、淹滞を挙げる」とある。杜預の注に「淹滞は才徳ある者でまだ登用されていない者である」とある。
注[四]華誉は虚誉である。介特とは孤介で特立していることを言う。畎畝とは隴畝の中に隠れていることを言う。司馬相如の上林賦に「群雅を掩う」とある。音義に「大雅・小雅の人を言う」とある。潜龍は賢人の隠れていることを譬える。
注[五]□は視ること、所解反と読む。鼎俎とは伊尹が鼎を負って湯に干したことを言う。墨子に「湯は伊尹を庖厨の中から挙げた」とある。康衢とは寧戚のことである。説苑に「寧戚が康衢で牛に飯を食わせ、車輻を打って碩鼠を歌った」とある。傅説は胥靡の刑人に代わって傅巖の野で築き、高宗が夢で彼を得た。孟子に「膠鬲は魚塩の中から挙げられた」とある。
注[六]俾は使うこと。昌は当たること。宏は大きいこと。前書の楊雄に「宏言崇議」とある。軼は過ぎること。三家は三皇である。
注[七]韓詩外伝には「黄帝の時、鳳凰が帝の東園に止まり、帝の梧桐に集まり、帝の竹実を食べた」とある。尚書中侯には「黄帝の時、麒麟が園にいた」とある。帝王紀には「堯の時、憔僥氏が来貢して没羽を献じた。西王母は舜の徳を慕い、来て白環を献じた」とある。
注[八]論語で孔子が「堯が君たること、煥乎としてその文章あり、巍巍としてその成功あり」と言った。
注[九]詩大雅に「天は百禄を錫い、子孫は千億なり」とある。
注釈[一〇]闋は止めることで、音は苦穴反。新城は県で、河南郡に属し、現在の伊闕県である。
頌を奏上したが、鄧氏に逆らい、東観に滞在し、十年間も官職の異動がなかった。兄の子の喪に際して自らを弾劾して帰郷した。[一]太后はこれを聞いて怒り、馬融が詔による任命を軽んじて恥じ、州郡の官職を望んでいると言い、ついに彼を禁錮に処した。[二]
注釈[二]馬融の文集によると、当時左将が馬融が兄の子の喪に遭い、自らを弾劾して帰郷し、官署を離れたため免官すべきであると上奏した。詔勅は「馬融は秘書を校訂する職務にありながら、忠誠を尽くして節義を推し進めず、かえって詔による任命を軽んじて恥じ、州郡の官職を望んでいる。官職を免ぜよ、ただし罪には問わない」と言った。禁錮は六年に及んだ。
太后が崩御し、安帝が親政を行うと、郎署に召し戻され、再び講部に在った。河間王の長史として出向した。時に皇帝が東巡して岱宗に行幸した際、[一]馬融は東巡頌を上奏し、皇帝はその文章を珍しいと思い、郎中に任命して召し出した。北郷侯が即位すると、馬融は病気を理由に官を去り、郡の功曹となった。
陽嘉二年
注釈[二]埋根とは退かないことを言う。
注釈[三]毛遂は、趙の平原君趙勝の食客である。門下に三年いた。時に平原君が楚と合従しようとした際、毛遂を二十人の人数に加えたが、他の十九人は互いに彼を笑った。楚に到着すると、毛遂は果たして剣を握って楚と合従を定め、楚は直ちに兵を発して趙を救った。事は史記に見える。廝養は賤しい者である。
注釈[四]左伝によると、鄭が高克に軍を率いて河上に駐屯させたが、長く召還せず、軍は潰走して帰国し、高克は陳に奔った。
三度転任し、桓帝の時に南郡太守となった。以前、馬融が事を起こして大将軍梁冀の意に逆らったため、梁冀は役人に諷して馬融が郡守の時に貪欲で汚職があったと上奏させ、免官し、髪を剃り朔方に流罪とした。自害したが死にきれず、赦されて帰還し、再び議郎に任命され、東観で著述に重きを置いたが、病気で官を去った。
馬融は才能が高く学識が広く、世の通儒とされ、多くの学生を教え養い、常に千人の数がいた。涿郡の盧植、北海の鄭玄は皆その弟子である。琴を弾くのが上手で、笛を吹くのを好み、達観して生を楽しみ、本性のままに振る舞い、儒者の礼節に拘らなかった。住居や器物、衣服には、多く贅沢な装飾が残されていた。常に高堂に座り、深紅色の紗の帳を張り、前で生徒に教え授け、後ろに女楽を並べ、弟子は順番に教えを受け継ぎ、彼の部屋に入る者はほとんどいなかった。かつて左氏春秋を訓詁しようとしたが、賈逵と鄭衆の注釈を見て、言った。「賈君は精緻だが広くなく、鄭君は広いが精緻でない。既に精緻で広いなら、私に何を加えられようか!」ただ三伝の異同を論じた説を著した。孝経、論語、詩、易、三礼、尚書、列女伝、老子、淮南子、離騷に注釈を加え、著した賦、頌、碑、誄、書、記、表、奏、七言、琴歌、対策、遺令は、合わせて二十一篇。
初め、馬融は鄧氏に懲りて、再び権勢のある家に逆らうことを敢えてせず、ついに梁冀のために李固を弾劾する上奏文の草稿を書き、また大将軍西第頌を作った。このため、正しい人々からはかなり恥じられた。八十八歳で、
延熹九年
家で死去した。遺言で薄葬を命じた。一族の孫の馬日磾は、献帝の時に太傅の位に至った。[一]
論
論じて言う。馬融が鄧氏の任命を辞退し、隴漢の間を逡巡したのは、貞節を守って住まう意思があったのだろうか?[一]その後、偏狭な者の節義を恥じ、計り知れないほどの身を惜しみ、[二]ついには奢侈と享楽に性を恣にし、党派に与して成り上がりを嘲笑され、確かに知識があっても欲望を正せる者は少ないことが分かる。[三]事が苦しければ、慎んで全うしようとする心情は薄くなる。生活が豊かであれば、安泰に存続しようとする考慮は深くなる。[四]高みに登っても恐れない者は、罪人である。[五]堂の端に座らない者は、千金の子である。[六]その大略を推し量れば、それぞれの安心できるところに帰着するだけである。物と我は見方が異なり、また互いに笑い合うのである。
注[二]荘子は言う、「曲士は道について語ることができないのは、教えに束縛されているからである」。
注[三]識は、生まれつきの性質である。匡は、正すことである。
注[四]老子は言う、「人が死を軽んじるのは、その生を求めるがゆえである。生を厚くするがゆえに、死を軽んじるのである」。
注[五]前書の音義に言う、「胥は、互いに。靡は、従う。互いに従って刑罰を受ける人をいう」。荘子は言う、「胥靡は高所に登っても恐れない、死生を忘れているからである」。これは、慎んで全うしようとする心情が薄いことを指す。
注[六]前書の□錯は言う、「千金の子は、堂の端に座らない」。これは、安泰に存続しようとする配慮が深いことを指す。
校勘記
一九五三頁一〇行
会ったとき羌の賊が突然蜂起した
按ずるに:「坎」の原字は「蹲」であり、汲古閣本に基づいて直接改めた。
一九五四頁三行
校書郎中に任命された
「校」の原字は「挍」であり、汲古閣本・殿本に基づいて直接改めた。按ずるに:校と挍は本来通用するが、各版本は皆「校」とし、かつ注文も「校」としているため、改めた。
一九五四頁七行
謝承の『後漢書』及び『続漢書』
「承」の原字は「丞」であり、直接訂正した。按ずるに:『謝承書及続漢書』とすべきであり、謝承の『後漢書』及び司馬彪の『続漢書』を指す。今「書」の字を補った。
一九五五頁三行
*[勸]*收藏
汲本、殿本に基づいて補う。
一九五五頁三行
歡嬉喜樂
按:汲本、殿本では「嬉」を「欣」と作る。
一九五五頁八行
有才不能用
按:刊誤は「才」は「財」とすべきであるという。
一九五六頁三行
今王*(頗)*鼓樂於此
刊誤に基づいて削除。これは現在の孟子の版本と合致する。
一九五六頁八行
詩詠*(囿)**[圃]*草
汲本に基づいて改める。注も同じ。按:集解が引用する錢大昕の説によれば、「囿」は閩本に従って「圃」と作るべきであるという。詩の「東有甫草」において、鄭氏は「甫」を「圃」のように読んでいる。
一九五六頁一〇行
恢胎曠蕩
校勘記:「恢」の原字は「□」(俗体字)であり、直接に正字に改めた。下の「營圍恢廓」も同じ。
一九五六頁一〇行
寥豁鬱泱
校勘記:「寥」の原字は「寒」であり、汲古閣本・武英殿本に基づき直接に改正した。
一九五六頁一一行
左概嵩獄
校勘記:王念孫『讀書雜誌余編』によれば、「概」は「枕」とすべきであり、字の誤りである。『水経』汝水注・『太平御覧』地部がこれを引用する際、いずれも「左枕嵩岳」としている。
一九五六頁一一行
箕背王屋
校勘記:王念孫によれば、「箕背」は「背箕」とすべきであり、「面據」と対句をなす。箕は基と読み、基もまた據の意である。前に衡陰に據り、後に王屋に據ることを言う。『水経』汝水注がこれを引用する際、正しく「背基王屋」としている。
一九五六頁一三行
昌本深蒱
校勘記:武英殿本は「蒱」を「蒲」とし、注も同じ。按ずるに、蒱と蒲は通用する。
一九五六頁一五行
豊彤対蔚
注:「彤」の原字は「肜」であったが、汲本・殿本に従い改めた。
一九五七頁一五行
東は衡山と言い、青*(懼)**[□]*が多い。
注:引用文は山海経中次八経に見える。善丹を雘と言い、□丹である。善青を□と言い、□青である。山海経で「青□」と言う箇所は全て、□青を「□」と作っている。これに基づき改めた。
一九五七頁一七行
応劭
注:「劭」の原字は「邵」であったが、正しく改めた。
一九五八頁二行
*(薄)**[簿]*雲
集解本に基づき改めた。注:張森楷は、簿とは河南十二県簿のことであり、太平御覧にしばしば引用されていると述べている。
一九五八頁五行
*(汍)**[氿]*泉穴出
各本とも誤っている。爾雅に基づき改めた。
1958ページ13行
『爾雅』に言う、茆は鳧葵である。
注:『爾雅』は『廣雅』の誤りである。沈欽韓は、爾雅にはこの語句はなく、廣雅の釈草篇に見えると指摘している。
1958ページ14行目
水辺で生まれた。
殿本に基づいて改めた。
一九五九年二月
本はあるいは蘳(□)と作る。
汲本に基づいて改める。按ずるに、汲本には「或」の字がない。
1959ページ5行目
愚かで騒がしく喚き立てる。
注:李慈銘は「鄙」は「駓」とすべきであると述べている。注が引く韓詩の「駓駓俟俟」は、すなわち毛詩の「□□俟俟」である。
1959年、13行目
繯は山にありて罕あり。
注:現在の『国語』斉語では「繯山於有牢」とある。一九六〇年で四行棲招搖と玄弋}} 注:沈欽韓は「玄弋」は「玄戈」とすべきだと述べている。『隋書』天文志には「玄戈一星,在招搖北」とある。『新唐書』兵志には「武徳三年、関中富平道を改めて玄弋軍とし、軍には将と副将を各一人置いた」とあり、いずれも星の名を取って号としたものである。
一九六〇頁五行
揚金亨而扦玉瓖
注釈:沈家本は「亨」は「□」とすべきだとしている。説文解字によれば、「□は□蓋なり」とある。読みは「范」に似て、大徐本では亡范切とある。注中の「無犯反」は、大徐本の「亡范切」と同じ音であり、その音は正しい。しかしまた「一説に子公反」とあるのは、唐の時代にはすでに誤って「亨」と書かれていたため、注釈家がこの音を出したが、それが誤りであることを知らなかったのであろう。
一九六〇頁九行
狗馬角逐
注釈:汲古閣本では「角」が「爭」となっている。
一九六〇頁一一行
祋殳狂擊
注釈:「祋」は原本では「□」とあるが、直接に訂正した。注も同様。
一九六〇頁一四行
玉路重*(較)**[輅]*也
殿本に基づいて改めた。
一九六一頁五行
蛇行有尾目*(赤)**[亦]*畫於旌旗也
注釈:刊誤は、妖星は尾と目があるだけで、さらにその赤いと言うのは誤りだとしている。「蛇行有尾目,亦畫於旌旗也」とすべきである。上文で太常が日月を画いているので、「亦畫」と言うのである。今これに基づいて改めた。
一九六一頁六行
高さと幅はそれぞれ四寸で、馬の鬣の前に置く。
校訂:『続漢書』輿服志の注に引く『独断』では、「四寸」を「五寸」とし、「馬□」を「馬髦」としている。
一九六一頁八行
我が車は既に良し
『刊誤』は「我」は「田」とすべきであるとしている。校訂:『詩経』小雅の車攻篇では「田」と作る。
一九六二頁一行
猑縞趼
殿本では「猑」を「騉」と作る。校訂:現行本の『爾雅』では「騉」と作る。
一九六二頁一一行
獄□態
校訂:『集解』に引く銭大昕の説によれば、「□」は「猘」とすべきである。
一九六二頁一二行
杪標端
校訂:「標」は原本では「摽」と作っており、直接に訂正した。注も同じ。
一九六三頁四行
裎は(袒)すなわち裸のことである
汲本と殿本に基づいて改める。
一九六四頁一行
導鬼區
按:刊誤は「導」は「道」とすべきとしている。
一九六四頁七行
樹以蒱柳
汲本と殿本では「蒱」を「蒲」とし、注も同じ。按:蒲と蒱は通じる。
一九六四頁一二行
詠歌於伶蕭
按:汲本では「蕭」を「簫」とする。
一九六四頁一五行
帥百隸以驅疫
按:「驅」は原本では「歐」とあり、直接に改正した。
一九六五頁一一行
公孫捷(名は捷)は楯を持って再び乳虎と格闘した。
汲古閣本に基づいて補う。按ずるに、宋本の注には「曰捷」の二字がなく、故に劉攽の『刊誤』は、下文のようであるならば、ここには「曰吾」の二字が欠けていると論じている。この「曰捷」の二字は、毛子晉(毛晋)が意図的に補ったものと疑われる。張森楷の『校勘記』は、下の二人の子が皆「吾」と言い、自ら名を称していないことから、捷もまた単独で自ら名を称すべきではないとし、劉が「曰吾」の二字が欠けているというのは正しいと論じ、子晉が何に基づいて「捷」と改めたかは不明である。
一九六六頁七行
螭龍(属するもの)
汲古閣本に基づいて改める。
一九六六頁一〇行
簫鼓鳴りて
按ずるに、汲古閣本では「蕭」を「簫」と作る。
一九六六頁一二行
漢水の神女
汲古閣本、武英殿本に基づいて補う。
一九六六頁一四行
鷗は白鷗なり
按ずるに、汲古閣本では「白鷗」を「白鷴」と作る。
一九六六頁一六行
白野鳧也
汲本と殿本に基づいて改める。
一九六七頁一行
今鰋額白魚也
汲本と殿本に基づいて改める。
一九六七頁一五行
擺もまた捭の字である。
按:「捭」は原本では「裨」とあるが、直接に改正した。
一九六七頁一五行
班固の西都賦に曰く、互を置き牲を擺すと。
按:沈欽韓は、これは張衡の西京賦の語であり、注が誤って班固のものとしたという。
一九六八頁八行
孟子が斉宣王に謂いて曰く、
汲本と殿本に基づいて補う。
一九六八頁一四行
それゆえ、言語を通じさせる官を象胥と名付けた。
刊誤は「名通」は「通名」とすべきであり、言語の官を総称して象胥というのだと述べている。按ずるに、周礼の鄭注には「是因通言語之官為象胥雲」とあり、阮元の校勘記によれば大字本には「因」の下に「名」の字があるので、刊誤の説は誤りである。
一九六九頁三行
岐陽を嘉した。
按ずるに、「岐」の原字は「歧」であったが、直接に改正した。注も同じ。
一九七〇頁一五行
時に左将が融が兄の子の喪に遭ったことを奏上した。
殿本に基づいて改めた。
一九七一頁一行
出て河間王の廄長史となった。
按ずるに、刊誤は廄長がすでに官名であり、「史」の字は衍字であると述べている。