周黄徐姜申屠列伝
楊震列伝
第四十四
章帝八王伝
附:長子の牧〈曾孫の奇〉
少子の奉〈孫の敷、曾孫の觿〉
中子の秉〈孫の賜、曾孫の彪、玄孫の修〉
楊震
楊震は字を伯起といい、弘農郡華陰県の人である。八世の祖の喜は、高祖(劉邦)の時代に功績があり、赤泉侯に封ぜられた。
高祖の敞は、昭帝の時代に丞相となり、安平侯に封ぜられた。父の宝は、欧陽尚書を学んだ。哀帝・平帝の時代、隠居して教授した。居摂二年、両龔(龔勝・龔捨)と蔣詡とともに招聘されたが、逃げ隠れ、どこにいたかわからなかった。光武帝はその節義を高く評価した。建武年間、公車が特に招聘したが、老病のため赴かず、家で死去した。
注[二]『続斉諧記』にいう。「宝が九歳の時、華陰山の北に行き、一羽の黄雀が鴟梟に襲われて木の下に落ち、蟻に困っているのを見た。宝はそれを持ち帰り、巾箱の中に置いた。黄花だけを食べさせ、百余日で羽毛が生え揃い、飛び去った。その夜、黄衣の童子が宝に再拝して言った。『私は西王母の使者です。あなたの仁愛と救済に心から感謝します。』白い環四枚を宝に与え、『あなたの子孫が潔白で、三公の位に登ることは、この環のようになるでしょう』と言った。」注[三]龔勝は字を君賓、龔捨は字を君倩、蔣詡は字を元卿といい、ともに高節で著名であった。前漢書に見える。
楊震は若くして学問を好み、太常の桓郁に欧陽尚書を学び、経書に明るく広く博覧し、究めないものはなかった。諸儒は彼について「関西の孔子、楊伯起」と言った。常に湖県に客居し、数十年にわたり州郡の礼遇と招聘に応じず、人々は遅すぎると言ったが、楊震の志はますます篤くなった。後に冠雀が三匹の鱣魚をくわえて飛来し、講堂の前に集まった。都講が魚を取って進み出て言った。「蛇や鱣は、卿大夫の服の象徴です。数が三であるのは、三台の法に則っています。先生はここから昇進されるでしょう。」五十歳になって、初めて州郡に出仕した。
注[一]現在の湖城県。
注[二]『続漢書』に「二十余年にわたり教授し、州が召し出そうとしたが、たびたび病気を理由に応じなかった。幼くして孤貧で、母と二人で暮らし、土地を借りて耕作し、生計を立てた。かつて門人たちが藍の種を植えて助けようとしたが、楊震はすぐに抜き去り、後にそれを拒絶した。郷里では孝行と称えられた」とある。
注[三]冠は貫と読み、すなわち鸛雀のこと。鱣は善と読む。韓子に「鱣は蛇に似る」とある。臣の賢が調べたところ、『続漢書』及び謝承の書では「鱣」の字はすべて「釧」と作っている。よって「鱣」と「釧」は古字で通用する。鱣魚の長いものでも三尺を超えず、黄色い地に黒い文様がある。だから都講が「蛇釧は卿大夫の服の象徴である」と言ったのである。郭璞は「鱣魚は長さ二三丈、音は知然反」と言っているが、鸛雀がどうして二三丈のものをくわえられようか。これは鱣であることが明らかである。
大将軍の鄧騭はその賢さを聞いて召し出し、茂才に推挙し、四度の昇進を経て荊州刺史・東萊太守となった。郡に赴任する途中、昌邑を通りかかった。かつて荊州で茂才に推挙した王密が昌邑の令となっており、謁見に来て、夜に至り懐から金十斤を取り出して楊震に贈った。楊震は言った。「私はあなたを知っているが、あなたは私を知らないのか。どうしてか。」王密は言った。「夜の闇には知る者はいません。」楊震は言った。「天が知り、神が知り、私が知り、あなたが知る。どうして知る者がいないと言えようか!」王密は恥じて退出した。後に涿郡太守に転任した。性質は公正で清廉であり、私的な請託を受けなかった。子孫は常に粗食で徒歩であり、旧知の長老たちの中には産業を興すよう勧める者もいたが、楊震は肯んじず、言った。「後世に『清廉な官吏の子孫』と呼ばれるように、これを遺産として与えるのは、十分ではないか。」
注[一]昌邑の故城は現在の兗州金郷県の西北にある。
元初四年、召されて太僕となり、太常に昇進した。これ以前、博士の選挙は多く実態に合わなかったが、楊震は明経の名士である陳留の楊倫らを推挙し、学業を顕彰して儒者たちに称賛された。
注[一]楊倫は字を仲桓という。謝承の書に「楊仲桓ら五人を推薦し、それぞれ家から博士に任命された」とある。
永寧元年、劉愷に代わって司徒となった。翌年、鄧太后が崩御し、内寵(宮中の寵臣)が初めて横暴になった。安帝の乳母である王聖は、養育の労苦を理由に恩寵に甘えて放恣に振る舞った。王聖の子女である伯栄は宮中に出入りし、賄賂を取り次いで姦通した。楊震は上疏して言った。
臣は聞く。政治は賢者を得ることを根本とし、統治は穢れを除くことを務めとする。それゆえ、唐虞の時代には俊乂が官にあり、四凶は流放され、天下は皆服し、和やかな治世がもたらされた。今、九徳はまだ事とされず、寵愛された者たちが朝廷に満ちている。阿母の王聖は賤しい身分から出て、千載一遇の機会に遭い、聖体を奉養した。乾いた所を推しやり自ら湿った所に居るような労苦はあったが、前後の賞賜と恩恵は労苦への報いを過ぎており、飽くことのない心は限度を知らない。外では付き合いや依頼を行い、天下をかき乱し、清らかな朝廷を損ない辱め、日月に塵を点じている。書経は牝鶏が牡のように鳴くことを戒め、詩経は聡明な婦人が国を喪うことを諷刺している。昔、鄭の厳公は母の欲望に従い、驕慢な弟の感情を恣にしたため、危うく国を危うくし、その後で討伐を加えた。春秋はこれを貶し、教えを失ったものとした。女子と小人は近づければ喜び、遠ざければ怨み、実に養い難いものである。易経に言う。『遂げる所なく、中饋に在る』。これは婦人が政事に関与してはならないということである。速やかに阿母を出して外の屋敷に住まわせ、伯栄との関係を断ち切り、往来させないようにすべきである。そうすれば恩徳が両方とも盛んになり、上下ともに美しくなる。陛下には婉孌たる私情を絶ち、忍びない心を断ち切り、万機に留意し、爵位授与を戒め慎み、献上物を減らし省き、徴発を抑制し節減されるよう願う。そうすれば野に鶴鳴の嘆きがなく、朝廷に小明の悔いがなく、大東の詩が今起こらず、労止の怨みが下に生じないであろう。往古の跡を擬し、哲王の徳に比べるなら、なんと素晴らしいことではないか。
奏上されると、帝は阿母らに見せた。内幸(宮中の寵臣)たちは皆、憤りと恨みを抱いた。そして伯栄は特に驕慢で淫らであり、故朝陽侯劉護の従兄である劉纓と交際し、劉纓は彼女を妻とし、劉護の爵位を継承することができ、侍中の位に至った。
楊震はこれを深く憎み、再び宮門に赴いて上疏した。
臣は聞く。高祖は群臣と約束し、功臣でなければ封じられないと。それゆえ、制度として父が死ねば子が継ぎ、兄が亡ければ弟が及ぶようにし、簒奪を防いだのである。詔書を見るに、故朝陽侯劉護の再従兄である劉纓が劉護の爵位を継承して侯となるとある。劉護の同母弟である劉威は、今なお存命である。臣は聞く。天子は専ら功ある者を封じ、諸侯は専ら徳ある者に爵を授けると。今、劉纓には他の功績や行いがなく、ただ阿母の娘と婚姻しただけである。一時の間に、既に侍中の位にあり、さらに封侯にまで至った。旧制を考慮せず、経義にも合わない。行路の人は喧嘩し、百姓は安らかでない。陛下には過去を鏡として顧み、先帝の法則に従われるべきである。
上疏は奏上されたが、省みられなかった。
注[一]墨子に「賢者を尊ぶことは政治の根本である」とある。左伝に「国を治める者は、農夫が草を除くことに務めるようなものである」とある。
注[二]尚書に「四つの罪を罰して天下は皆服した」とある。また「民は時に和らぎ変じ、多くの功績は皆広がった」とある。雍は和。熙は広。
注[三]尚書の皐陶謨に「また行いには九徳がある。寛大で厳か、柔和で自立、慎み深く恭順、乱れて敬虔、従順で剛毅、正直で温和、簡素で廉潔、剛健で充実、強健で義に厚い」とある。また「九徳が皆事とされ、俊乂が官にいる」とある。
注[四]『謚法』に「賤しくして愛を得るを嬖という」とある。
注[五]『孝経援神契』に「母の子に対するや、鞠養殷勤にして、燥きを推し湿きに居り、少なきを絶ち甘きを分かつ」とある。
注[六]『左伝』に、縉雲氏に不材の子あり、聚斂積実して、紀極を知らず、とある。
注[七]牝は雌、牡は雄。『尚書』に「古人言う有り、牝雞晨なる無し、牝雞の晨は、唯だ家の索ぶるのみ」とある。
注[八]『詩経』大雅に「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く」とある。
注[九]厳公は荘公。明帝の諱を避けて改めた。『左伝』に、鄭の荘公が同母弟の段を殺したことを鄭伯と称し、教えを失ったことを譏っている。
注[一〇]『論語』に「唯だ女子と小人と養い難しと為す、之に近づけば則ち遜らず、之を遠ざくれば則ち怨む」とある。
注[一一]家人卦の六二爻の爻辞。鄭玄の注に「二は陰爻にして内に正を得、五は陽爻にして外に正を得る。婦人が内に自ら修正し、丈夫が外に修正するに猶る。攸に遂ぐ無しとは、婦人敢えて自ら遂ぐる無きを言う。爻の体は離、又互体は坎、火の位は下に在り、水は上に在り、餁の象なり。饋は食なり、故に中饋に在りと云う」とある。
注[一二]『詩経』国風候人篇の序に「曹の共公、君子を遠ざけ小人に近づく」とある。その詩に「婉兮孌兮、季女斯に饑う」とある。婉は少き貌、孌は好き貌。
注[一三]『詩経』小雅の序に「鶴鳴は宣王を誨う」とある。鄭玄の注に「周の宣王に仕えざる賢人を求むるを教う」とある。その詩に「鶴九皐に鳴き、声野に聞こゆ」とある。身は隠れながら名は著わる、賢者は隠居すとも人皆之を知るを喩える。
注[一四]『詩経』小雅の序に「小明は、大夫乱に仕うるを悔ゆ」とある。小明とは、周の幽王が日にその明を小さくし、その政事を損ない、以て乱に至るを言う。
注[一五]『詩経』小雅の序「大東は乱を刺す」とある。その詩に「小東大東、杼柚其れ空し」とある。鄭玄の注に「小も亦た東に於いて、大も亦た東に於いて、賦斂の多きを言う」とある。
注[一六]『詩経』大雅の序に「人労は厲王を刺す」とある。その詩に「人亦た労し止めん、迨くば小康すべし」とある。注[一七]護は、泗水王劉歙の従曾孫。
注[一八]『公羊伝』に「劉子・単子、王猛を以て王城に入るとは何ぞや? 西周なり。其の言う入るとは何ぞ? 篡の辞なり。冬十月、王子猛卒す。此れ未だ年を踰えざるの君、其の王子猛卒すと称するは何ぞ? 当たるを与えざるなり。当たるを与えざるとは、父死し子継ぎ、兄亡び弟及ぶに与せざるなり」とある。
延光二年、劉愷に代わって太尉となった。帝の舅である大鴻臚の耿寶が中常侍の李閏の兄を楊震に推薦したが、楊震は従わなかった。耿寶は自ら楊震を訪ねて言った。「李常侍は国家が重んじる者で、公にその兄を辟召させたいと願っている。私はただ上の意を伝えるだけだ。」楊震は言った。「もし朝廷が三府に辟召させたいのであれば、当然尚書の命令があるはずだ。」遂に拒絶して許さず、耿宝は大いに恨んで去った。皇后の兄である執金吾の閻顕も親しい者を楊震に推薦したが、楊震はまた従わなかった。司空の劉授がこれを聞くと、すぐにこの二人を辟召し、十日ほどの間に皆抜擢された。これによって楊震はますます怨まれるようになった。
注[一]は、言葉が自分の本心ではなく、上意を伝えたものであることを言う。注[二]漢官儀には、「授は字を孟春といい、武原の人である」とある。
その時、詔により使者が派遣され、阿母のために大規模に邸宅を造営することとなり、中常侍の樊豊と侍中の周広・謝惲らが互いに煽動し合い、朝廷を揺るがしていた。楊震は再び上疏して言った。
臣は聞く、古の時代には九年耕作すれば必ず三年分の蓄えがあるので、堯の時に洪水が起こっても、人々に飢えた顔色はなかったと[一]。臣が思うに、今は災害が発生し、次第に甚だしくなり[二]、百姓は空しく貧しく、自らを養うことができない。さらに蝗害があり、羌族や虜が略奪し、三方の辺境が震動して騒ぎ、戦闘は今も止まず、兵士や武器、軍糧を再び供給することができない。大司農の財庫は乏しく、これは国家が安寧である時ではない。詔書を見ると、阿母のために津城門の内側に邸宅を建てることとし[三]、二つの区画を一つに合わせ[四]、街路にまで連なり、彫刻や修繕、飾り付けを極め、技巧を尽くしている。今は盛夏で土気が旺じる時期なのに、山を切り石を採り、大匠左校別部将作が合わせて数十か所で[五]、互いに急き立て合い、費用は巨億に上る。周広・謝惲兄弟は、国と心臓や枝葉のような深い関係もなく、近習の奸佞の者に依りかかり、樊豊・王永らと権威を分かち権力を共にし、州郡に依頼し、大臣を動揺させている。宰司が官吏を召し出す時は、その意向を伺い、海内の貪汚な者を招き寄せ、その賄賂を受け取り、収賄で追放された者さえ再び顕職に就くことさえある[六]。白黒が混濁し、清濁が同じ源となり、天下が騒ぎ、皆が財貨が上流に流れ、朝廷が非難を招いていると言う。臣は師の言葉を聞く。『上に立つ者が取り立てれば、財が尽きれば怨み、力が尽きれば背く』と。怨み背く者を、再び使うことはできない。故に『百姓が足りなければ、君は誰と足りようか』[七]と言う。どうか陛下がご考慮ください。
樊豊・謝惲らは、楊震が繰り返し強く諫めても聞き入れられないのを見て、何の顧みもなく、遂に詔書を偽造し、司農の銭穀や大匠の現役の囚人や材木を徴発し、それぞれ邸宅・庭園・池・別荘・楼閣を建て、労役と費用は数知れなかった。
注[一]は、蓄えがあれば、人々が野菜を食べるような飢えた顔色にならないことを言う。注[二]は、彌彌は少しずつの意。韋孟の詩に「彌彌其失」とある。
注[三]は、津城門は、洛陽の南面西端の門である。注[四]は、二つの坊を合わせて一つの邸宅とした。裡とは坊のことである。
注[五]は、続漢志によれば、将作大匠は秩二千石。左校令は秩六百石。
注[六]は、収賄により禁錮された者のことである。注[七]は、論語にある有若が魯の哀公に答えた言葉。
楊震は地震を機に、再び上疏して言った。
臣は恩寵を受けて台輔の任に備えながら、政教を宣べ陰陽を調和することができず、去年十二月四日、京師で地震があった。臣は師の言葉を聞く。『地は陰の精であり、静かにして陽を受けるべきである』と。今動揺するのは、陰の道が盛んであるからだ。その日は戊辰で、戊も辰も土に属し、位は中宮にある[一]。これは中臣や近習の官が権力を握り事を行うことが盛んである象徴である。
臣が考えるに、陛下は辺境が未だ寧かでないため、自ら質素にし、宮殿や垣や屋根が傾き、支柱で支えているだけで[二]、何も造営せず、遠近に政教の清らかな流れと、商邑の整然たる様[三]を知らしめようとされている。しかし、親しい近習の幸臣は、断金の和を尊ばず[四]、驕り高ぶって法を越え、多くの囚人を請い出し、盛んに邸宅を建て、威福をほしいままにしている。道路では騒ぎが聞こえ、多くの者が見聞きしている。地震の変異は、城郭の近くで起こり、おそらくこのためであろう。また、冬に積雪がなく、春に雨が降らず、百官は心を焦がしているのに、修繕が止まないのは、まさに旱魃を招く兆候である。書経に言う。『僭れば常に陽の如し。臣は威福を作し玉食を作すこと無かれ』[五]と。どうか陛下は乾の剛健な徳を奮い起こし[六]、驕奢な臣を退け、妖しい言葉の口を封じ、皇天の戒めを奉じ、威福が久しく下に移ることを許さないでください。
注[一]は、戊の干も辰の支もともに土であり、地震と合わせて三者と言う。注[二]は、倚は傾いていること。注音は竹主反。
注[三]は、詩経商頌の「商邑翼翼、四方之極」である。注[四]は、易経繋辞に「二人心を同じくすれば、其の利は金を断つ」とある。邪佞の臣は、上と心を同じくしないことを言う。
注[五]は、尚書洪範の言葉である。僭は過ち。若は従う。君の行いが過てば、常に陽がそれに従う。君のみが威福を専らにし、美食をすることができると言う。
注[六]は、易経に「大なるかな乾や!剛健中正、純粋精なり」とある。
楊震が前後して上奏した内容は、次第に厳しく核心を突くものとなり、皇帝はすでにこれを快く思わず、樊豊らも皆、横目で睨み憤り怨んだが、いずれも彼が名高い儒者であるため、敢えて危害を加えることはできなかった。やがて河間の男子趙騰が宮門に赴き上書し、政治の得失を指摘して述べた。皇帝は怒りを発し、ついに彼を捕らえて詔獄に下し取り調べ、君主を欺く不道の罪で結審した。楊震は再び上疏して彼を救おうとして言った。「臣は聞きます。堯や舜の世には、諫言の太鼓と誹謗の木が朝廷に立てられました。殷や周の賢明な君主は、小人が怨み罵れば、かえって自らの徳を敬い修めました。これによって聡明さを広げ、忌憚なく意見を開き、賤しい者からも広く採り上げ、下情をことごとく極めるのです。今、趙騰が罪に問われているのは、激しく直言し誹謗する言葉による罪であり、手ずから刃物で法を犯すのとは違いがあります。どうか刑を減じて除き、趙騰の命を全うさせ、草を刈る者や衆人の言葉を引き出すきっかけとしていただきたい。」皇帝は省みず、趙騰はついに市中で処刑された。
注釈[一]『帝王紀』に「堯は敢えて諫める者のための太鼓を置き、舜は誹謗のための木を立てた」とある。
注釈[二]『尚書』に「殷王の中宗および高宗および祖甲および我が周の文王、この四人は明哲であった。もし誰かが彼らに告げて『小人が汝を怨み汝を罵る』と言えば、かえって自らの徳を敬った」とある。
注釈[三]輿は、衆である。『詩経』に「草刈りに尋ねる」とある。『左氏伝』に「衆人の謀を聴く」とある。
ちょうど三年の春、皇帝が東方に巡行して岱宗に至った時、樊豊らは乗輿が外にあるのを機に、競って邸宅を造営した。楊震の部掾である高舒が大匠令史を召してこれを調査させたところ、樊豊らが偽って下した詔書を入手し、詳細に上奏文を整え、行幸から戻るのを待って上奏しようとした。樊豊らはこれを聞き、恐れおののいた。ちょうど太史が星の異変と逆行を言上したので、共に楊震を讒言して言った。「趙騰が死んで以来、深く怨み懟んでいる。かつて鄧氏の故吏であり、恨みの心がある。」車駕が行幸から戻り、吉時に合わせて太学に寄った時、夜間に使者を遣わして策書を持たせ楊震の太尉の印綬を没収した。そこで楊震は柴門を閉ざして賓客を絶った。樊豊らはさらにこれを憎み、大将軍の耿宝に奏上させて、楊震が大臣として罪に服さず、恨みを抱いて望んでいる、と述べさせた。詔により本郡に帰還させられることとなった。楊震が城西の幾陽亭まで行くと、慷慨としてその諸子や門人たちに言った。「死は士の常である。私は恩を受けて上司の地位にありながら、奸臣の狡猾を憎んで誅することができず、悪しき寵姫の傾乱を憎んで禁ずることができなかった。何の面目あって再び日月(天子)を見ようか。身が死ぬ日には、雑木で棺とし、布の単被を体を覆うのに足りるだけ裁ち、墓域に帰葬せず、祭祠を設けるな。」そして毒を飲んで死去した。時に七十余歳であった。弘農太守の移良は樊豊らの意を受けて、役人を陝県に遣わし楊震の喪を留め止めさせ、棺を道端に露わに放置し、楊震の諸子を流刑として駅逓の文書伝達の労役に就かせた。道行く人々は皆、涙を流した。
注釈[一]史とは府吏のことである。 注釈[二]懟は怨み怒ることである。 注釈[三]楊震は初め鄧騭に召し出されたので、故吏という。
注釈[四]まず太学で吉時を待ってから入るので、便時という。前漢書に「便時に上林延寿門に至る」とある。
注釈[五]慷慨は悲しみ嘆くこと。 注釈[六]『風俗通』に「斉の公子雍が移に食邑され、その後裔が氏とした」とある。
注釈[七]謝承の『後漢書』に「楊震は臨終に際し、諸子に牛車と薄い簀を用い、柩を載せて帰還せよと言った」とある。 注釈[八]『説文』に「郵は、境上の文書伝達の宿駅である」とある。『広雅』に「郵は駅である」とある。
一年余り後、順帝が即位すると、樊豊や周広らは誅殺され、楊震の門生である虞放と陳翼が宮門に赴き楊震の事を追って訴訟した。朝廷は皆その忠を称え、詔を下して二人の子を郎に任じ、百万の銭を贈り、礼をもって華陰の潼亭に改葬した。遠近から人々がことごとく参列した。埋葬の十余日前、一丈余りの高さの大鳥が楊震の喪の前に集まり、うつむき仰ぎ悲しげに鳴き、涙を流して地を濡らした。埋葬が終わると飛び去った。郡はこの状況を上奏した。当時、災異が相次いでいたため、皇帝は楊震の無実を感じ、詔策を下して言った。「故太尉楊震は、正直とともにある者であり、時政を補佐させたのに、青蠅が白絹を汚すように、讒言が彼を汚した。上天が威を下し、災いが屡々起こるのは、占いによれば全て楊震の故である。朕の不徳によって、その咎が明らかになった。山が崩れ棟が折れるとは、我が身の危うきことよ。今、太守丞に中牢の礼具で祭祀を行わせる。魂にして霊あらば、どうかこれを歓び受け給え。」そこで当時の人々はその墓所に石の鳥の像を立てた。
注釈[一]墓は現在の潼関の西、大道の北にあり、その碑はまだ残っている。
注釈[二]『続漢書』に「大鳥が来て亭の木に止まり、地面に下りて安らかに歩いて柩の前に行き、まっすぐに立ち頭を垂れて涙を流した。人々が代わる代わる撫で抱きしめたが、ついに驚かなかった」とある。謝承の『後漢書』に「その鳥は五色で、高さ一丈余り、両翼の長さは二丈三尺あり、人はその名を知らなかった」とある。
注釈[三]藩は樊(籬)である。『詩経』に「営営たる青蠅、樊に止まる。愷悌たる君子、讒言を信ずるなかれ」とある。青蠅は白を汚して黒にし、黒を汚して白にする。佞人が善悪を変乱させることに譬えている。
注釈[四]『礼記』に「孔子が臨終に際し、歌って『泰山その頽けんか、梁木その壊れんか』と言った」とある。楊震が讒言された時、高舒もまた罪を得て、死刑を減じる判決を受けた。楊震の事が明らかになると、高舒は侍御史に拝され、荊州刺史に至った。
楊震には五人の子がいた。
長男の牧
長男の牧は、富波の相となった。
注釈[一]富波は県であり、汝南郡に属する。
牧の孫の奇
牧の孫の奇は、霊帝の時に侍中となり、帝がかつて気軽に奇に尋ねて言った。「朕は桓帝と比べてどうか。」答えて言った。「陛下と桓帝との関係は、虞舜が唐堯と徳を比べるようなものです。」帝は不機嫌になり言った。「卿は強情だ。まさに楊震の子孫だ。死後は必ずまた大鳥を招くことになるだろう。」汝南太守として出された。帝が崩御した後、再び入朝して侍中衛尉となり、献帝に従って西遷し、功労があった。李傕が帝を脅してその陣営に帰還させた時、奇は黄門侍郎の鍾繇と共に李傕の部曲将の宋曄と楊昂を誘い、李傕に背かせた。これにより李傕は孤立して弱体化し、帝は東へ向かうことができた。後に都が許に移ると、奇の子の亮を追封して陽成亭侯とした。
注釈[一]強項とは、頭を低く屈めないことを言う。光武帝が董宣を「強項令」と呼んだ故事による。
注釈[二]魏志によると、鍾繇は黄門侍郎となり、李傕が天子を脅した時、鍾繇は尚書郎の韓斌と共に策謀を巡らせた。天子が長安を脱出できたのは、鍾繇の力によるものがあった。
注釈[三]亮の旧宅は閿郷県の西南にあった。
末子の奉
奉の子の敷
楊震の末子の奉、奉の子の敷は、志を厚くし博く聞き、議論する者は彼が家を継ぐことができると見なした。
敷の子の觿
敷は早世し、子の觿もまた先祖の業を伝え、謁者僕射として献帝に従って関中に入り、累進して御史中丞となった。帝が東還する際、夜に逃れて黄河を渡ると、觿は諸官属を率いて徒歩で従い太陽まで至り、侍中に任じられた。建安二年、以前の功績を追認して蓩亭侯に封じられた。
注釈[一]太陽は県であり、河東郡に属する。 注釈[二]郡国志によると桃林県に蓩郷があり、音は莫老の反切。
次男の秉
楊震の子は楊秉である。楊秉は字を叔節といい、幼い頃から父の学問を受け継ぎ、京氏易を兼ねて明らかにし、書物や伝記に広く通じ、常に隠居して教授していた。四十歳を過ぎてから、司空の招聘に応じ、侍御史に任じられ、頻繁に豫州・荊州・徐州・兗州の四州刺史として出向し、任城相に転任した。刺史や二千石の官に就いて以来、在職日数に応じて俸禄を受け取り、余分な禄は私邸に入れなかった。旧部下が百万銭を贈ろうとしたが、門を閉めて受け取らなかった。廉潔で知られた。
桓帝が即位すると、尚書に明るいとして召し出されて侍講に加わり、太中大夫・左中郎将に任じられ、侍中・尚書に昇進した。帝が当時微行し、ひそかに河南尹の梁胤の邸宅を訪れた。その日は大風が木を抜き、昼間も暗くなったので、楊秉は上疏して諫めた。
臣は聞く、祥瑞は徳によってもたらされ、災害は事柄に応じて生じると。伝に言う、『禍福に門はなく、ただ人が招くところである』と。天は言葉を発しないが、災異をもって譴責し警告する。それゆえ孔子は迅雷や烈風があれば必ず態度を改めた。詩に云う、『天の威を敬い、あえて駆け巡らせず』と。王者は至って尊く、出入りには定まった作法があり、警蹕して行進し、清められた宮室に留まる。郊祀や宗廟の祭祀でない限り、鑾旗を掲げた車駕は出さない。故に詩は『郊から宮へ』と称し、易は『王、廟に至る、孝を致し享けるなり』と言う。諸侯が臣下の家を訪れることさえ、春秋はその戒めを列記している。ましてや先王の定めた礼服を着て私的に出遊することは、尊卑の秩序を乱し、威儀の等差を無くす。侍衛は空の宮殿を守り、綬と璽は女妾に委ねられる。もし非常の変事や任章のような謀略があれば、上は先帝に背き、下は悔いても及ばない。臣は代々恩を受けており、納言の職に備え、また浅学ながら講義の任に充てられ、特に哀れみと識別を蒙り、日月のごとくお見守りいただいている。恩は重く命は軽い。義は士をして死なしめる。敢えて挫折を恐れず、わずかにその愚見を陳べる。
帝は受け入れなかった。楊秉は病気を理由に退任を願い出て、右扶風として出向した。太尉の黄瓊は彼が朝廷を去るのを惜しみ、楊秉が帷幄で侍講していたことを上奏し、外任させるべきでないとして、留任させて光禄大夫に任じた。この時、大将軍の梁冀が権力を握っており、楊秉は病気と称した。六年後、梁冀が誅殺された後、太僕に任じられ、太常に転任した。
注[一] 勸講は、侍講と同じである。注[二] 梁胤は、梁冀の子である。
注[四] 詩経大雅に「天の怒りを敬い、あえて戯れ遊ばず、天の変わりを敬い、あえて駆け巡らせず」とあり、この文とは少し異なる。
注[五] 蹕は、行人を止めること。静室とは、先に宮室を清めることを言う。前書音義によれば、漢に静室令という官があった。注[六] 漢官儀によれば、「前駆に雲罕、皮軒、鑾旗の車がある」という。
注[七] 詩経大雅雲漢の言葉である。郊は、天を祭ること。注[八] 易経萃卦の言葉である。假は、至る。假の音は格。
注[九] 左伝によれば、斉の荘公が崔杼の家に行き、杼に殺された。注[一0] 法服とは天子の服で、日・月・星辰・山・龍・華蟲・藻・火・粉・米・黼・黻の十二章からなる。
注[一一] 等威とは、威儀に等差があることを言う。左伝に「貴きには常の尊さあり、賤しきには等威あり」とある。
注[一二] 前書によれば、代郡太守の任宣が謀反の罪で誅殺され、その子の任章は公車丞となり、渭城の境界内に逃亡し、夜に黒服で廟に入り、郎の間に居座り、戟を執って廟門に立ち、帝の到来を待ち、逆を謀ろうとしたが、発覚して誅殺された。
注[一三] 奕は重なるの意。注[一四] 納言は、尚書である。
延熹三年、白馬令の李雲が諫言のために罪を受け、楊秉は彼を弁護したが叶わず、連座して免官され、郷里に帰った。その年の冬、再び召されて河南尹に任じられた。以前、中常侍の単超の弟の単匡が済陰太守であったが、収賄の罪で刺史の第五種に弾劾され、窮地に陥り、刺客の任方に賄賂を贈って兗州従事の衛羽を刺殺させた。事件の詳細は第五種伝に見える。任方を捕らえて洛陽に囚禁した後、単匡は楊秉が事件を徹底追及することを懸念し、密かに任方らに脱獄逃亡させた。尚書が楊秉を召して詰問すると、楊秉は答えて言った。「春秋は黎比を誅さなかったので魯に盗賊が多かった。任方らの不行跡は、原因は単匡にある。法を執行する吏を刺し、公務に奉ずる臣を害し、さらに逃亡させ、罪人自身を寛大に扱うのは、大悪人であり、結局は国の害となる。檻車で単匡を召し出して審問すれば、奸悪の手がかりは必ず直ちに得られるだろう。」しかし楊秉は結局連座して左校での労役刑に処せられたが、長い旱魃のため赦免されて出獄した。
注[一] 謝承の後漢書によれば、「楊秉は免官されて帰郷し、質素で清廉・倹約であり、家は極貧で、二日に一度食事をした。任城の旧孝廉の景慮が百余万銭を贈り、楊秉に与えようとしたが、楊秉は門を閉めて拒絶し受け取らなかった。」
注[二] 左伝に「邾の庶其が漆と閭丘を携えて亡命してきたため、この時魯に盗賊が多かった」とある。臣の李賢が案ずるに、黎比は莒国の君主であり、おそらく別の根拠があるのだろう。
日食が起こった時、太山太守の皇甫規らが楊秉の忠正を訴え、長く抑えて用いないのは不適当だと主張した。詔があり、公車が楊秉と処士の韋著を徴したが、二人はそれぞれ病気と称して来なかった。役人は楊秉と韋著を大不敬として弾劾し、所属する役所に罪を正すよう求めた。尚書令の周景と尚書の辺韶が議して上奏した。「楊秉は儒学を侍講し、常に謙虚であり、韋著は隠居して行義を行い、退譲を節としています。ともに徴されて来ないのは、確かに側席の望みに背きますが、逶迤として退食し、苟も進む風潮を抑えるに足ります。明王の世には、必ず召されざる臣があり、聖朝が弘く養うには、優游の礼を用いるべきです。所属する役所に告げ、朝廷の恩意を諭すのがよいでしょう。もしそれでも来なければ、その罰を詳しく議すべきです。」そこで重ねて徴すると、ようやく到着し、太常に任命された。
注釈[一]詩経国風の羔羊の詩に「退食自公、委憨委憨」とある。退食とは膳を減らすことを言う。公に従うとは、事に正直に順うことを言う。委憨とは、委曲自得の様子である。
注釈[二]堯の時の許由、禹の時の伯成子高、湯の時の務光らである。
五年の冬、劉矩に代わって太尉となった。この時、宦官の勢力が盛んで、任人やその子弟を官とし、天下に満ち溢れ、貪欲で淫らなことを競い、朝廷と民間は嘆き怨んだ。楊秉は司空の周景と上言した。「内外の官吏の職は、多くはその人に非ず、近頃徴する者は、皆特別に任命され試験を受けず、盗みや放恣を招き、怨みや訴訟が紛錯しています。旧典では、中臣の子弟は位に居て勢いを握ることを得ず、今では枝葉の賓客が職署に布列し、あるいは年少の凡人で、守宰を典拠し、上下は憤り患い、四方は愁毒しています。旧章を遵用し、貪残を退け、災謗を塞ぐべきです。司隸校尉、中二千石、二千石、城門五営校尉、北軍中候に下し、それぞれ所部を実核させ、斥罷すべき者は、自ら状をもって言わせ、三府が廉察して遺漏があれば、続けて上らせてください。」帝はこれに従った。
そこで楊秉は牧守以下、匈奴中郎将の燕瑗、青州刺史の羊亮、遼東太守の孫諠ら五十余人を条奏し、ある者は死に、ある者は免職され、天下は粛然としない者はなかった。
注釈[一]任とは保任を言う。
当時、郡国の計吏は多く留め置かれて郎に任命されていた。楊秉は上言し、三署に見る郎は七百余人で、国庫は空虚で、浮食する者が多く、不良な守相は、国を池とし、衅穢を洗い流そうと欲している。横拜を絶ち、覬覦の端を塞ぐべきである。これ以降、桓帝の世が終わるまで、計吏が留め置かれて任命されることはなくなった。
注釈[一]三署郎の解釈は安帝紀に見える。注釈[二]左伝に「下に覬覦無し」とある。杜預の注に「上位を冀望せず」とある。
七年、南巡して園陵に至り、特に詔して楊秉に従わせた。南陽太守の張彪は帝が微時に旧恩があり、車駕が至るはずなので、傍らに発調し、多くを私に入れた。楊秉はこれを聞き、書を下して荊州刺史を責め、状を副えて公府に言った。行って南陽に至ると、左右はともに奸利を通じ、詔書で多くが除拜された。楊秉は再び上疏して諫めた。「臣は聞く、先王は国を建て、天に順って官を制すと。太微に積む星は、名を郎位とし、入っては宿衛を奉じ、出ては百姓を牧す。戲陶が虞を誡めるのは、官人にある。近頃、道路上で拜除し、恩を豎隸に加え、爵は貨によって成り、化はここから敗れる。これが俗夫が巷で議し、白駒が遠く逝き、穆穆たる清朝も、遠近に見られない所以です。忍びざるの恩を割き、欲を求めるの路を断つべきです。」そこで詔による除拜は止んだ。
注釈[一]南陽郡は、荊州の所部である。
注釈[二]尚書に「明王は天道を奉若し、邦を建て都を設く」とある。孔安国の注に「天に日、月、北斗、五星、二十八宿があり、皆尊卑相正の法あり。明王はこの道を奉順し、国を建て都を設く」とある。
注釈[三]史記天官書に、太微宮に五帝坐があり、後に二十五星が蔚然として聚まり、郎位と言う。積とは聚まることである。
注釈[四]尚書で戲陶が舜を誡めて「知人に在り、官人に在り」と言う。
注釈[五]孔子は「天下に道あれば、庶人は議せず」と言う。詩経小雅に「皎皎たる白駒、我が場の苗を食む、所謂伊人、焉に於いてか逍遥す」とある。宣王の官がその人を失い、賢者が白駒に乗って去ったことを言う。
尚書は詰問できなかった。帝は已むを得ず、ついに侯覧の官を免じ、具瑗の封国を削った。朝廷に得失があるごとに、常に忠を尽くして規諫し、多くは採用された。
注[三]左伝によると、「斉の懿公が公子であった時、邴歜の父と田を争って勝てなかった。即位すると、その父の墓を掘り起こして足を切り、邴歜を御者にした。閻職の妻を奪って自分のものとし、閻職を車の右の乗車手にした。夏の五月、公が申池で遊んだ時、邴歜が鞭で閻職を打つと、閻職は怒った。邴歜が言うには、『人がお前の妻を奪っても怒らないのに、一度打たれたくらいで何が傷つくというのか』。閻職は言った、『父の足を切られても何とも思わなかった者と比べてどうか』。そこで二人は謀って懿公を殺し、竹の中に遺体を隠し、帰って酒を酌み交わしてから逃げた」という。
注[四]公羊伝に「鄭の詹が斉から逃げて来た。なぜ記録するのか。甚だ佞(口先が巧みで心がねじけている)であるからで、『佞人が来た』と言った」とある。後に魯の荘公が斉の淫乱な女を娶り、ついに後患となった。四佞とは四凶のことである。
注[五]畀は「与える」の意。詩経小雅に「あの讒言する者を捕らえ、豺虎に投げ与えよ」とある。 注[六]楊秉は掾属を召してこれを問うた。
注[七]公羊伝に「趙鞅が晋陽の兵を率いて、荀寅と士吉射を追放した。なぜこれをしたのか。君主の側近の悪人を追放するためである」とある。
注[八]左伝にある晋の寺人(宦官)披の言葉である。
注[九]前漢書によると、鄧通は文帝の寵臣で、太中大夫となり、皇帝の傍らにいて怠慢な態度をとった。丞相の申屠嘉が朝を退き、役所に座って鄧通を呼び出しても礼をせず、責めて言った。「鄧通は小臣であり、殿上で戯れたのは大不敬であり、斬るべきである」。鄧通は頓首し、額から血が出るほどだった。帝は使者に節を持たせて鄧通を召し出し、丞相に謝って言った。「これは朕の弄臣(寵愛する臣)である。卿は許してやれ」。
楊秉は酒を飲まない性質で、また早くに夫人に先立たれたため、再び娶らず、任地では淳朴で清廉であると称された。かつてゆったりと言った。「私には三つの惑わされないものがある。酒と色と財である」。八年に死去した。七十四歳であった。墓所を帝陵のそばに賜った。子に楊賜がいる。
楊秉の子、楊賜。
楊賜は字を伯献という。幼少時から家学を伝え、志を固くし広く学んだ。常に身を引いて隠れ住み、門徒を教授し、州郡からの礼遇や招聘には応じなかった。後に大将軍梁冀の府に辟召されたが、好ましいことではなかった。出されて陳倉県令に任じられたが、病気のため赴任しなかった。公車で徴召されても応じず、三公からの招聘も繰り返し辞退した。後に司空の高第(優秀な成績)により、再び昇進して侍中・越騎校尉となった。
建寧初年、霊帝が学問を受けることになり、詔によって太傅と三公に、尚書桓氏章句に通じ、以前から重い名声のある者を選ぶよう命じた。三公が楊賜を推挙したので、華光殿において侍講(帝王に学問を講義する役)となった。[一]少府・光禄勲に転じた。
注[一]洛陽宮殿名に「華光殿は崇光殿の北にある」とある。
熹平元年、青い虹が御座に見えた。帝が楊賜に問うと、楊賜は封事(密封した上奏文)を奉って言った。
臣は聞く。和やかな気は吉祥を招き、乱れた気は災いを招く。善い兆しには五福が応じ、悪い兆しには六極が至ると。善はむやみに来ず、災いは空しく起こらない。王者が心に思うこと、意に想うことがあれば、まだ顔色に表れていなくても、五星はそれによって推移し、陰陽はそのために変動する。これによって見れば、天と人とは、符合しないことがあろうか。尚書に『天は人と一致し、我に一日を仮す』とある。これが明らかな証拠である。[三]皇極(帝王の大法)が建てられないと、蛇や龍の妖異が起こる。[四]詩経に『あれは蛇だ、あれは蛇だ、女子の兆しだ』とある。[五]ゆえに春秋では、二匹の蛇が鄭の城門で争い、昭公はほぼ女によって敗れた。[六]康王が一朝(ある朝)遅く起きたことで、関雎が機を見て作られた。[七]女の請託が行われると讒言する者が栄え、讒言する者が栄えると贈賄が通じる。ゆえに殷の湯王はこれを自ら戒め、ついに大旱の災いを救った。[八]願わくは陛下が剛健な道を考え、内外の分け目を明らかにし、帝乙の制度を尊び、大いなる吉の福を受け、[九]皇甫らの権勢を抑え、艶やかな妻への愛を断ち切られたい。[一〇]そうすれば蛇の異変は消え、吉祥が直ちに応じるでしょう。殷の太戊や宋の景公の事跡は、そのことが甚だ明らかである。[一一]
注[一]休は美。征は験。五福とは、第一は寿、第二は富、第三は康寧、第四は好徳(徳を好むこと)、第五は考終命(天寿を全うすること)である。
注[二]咎は悪。六極とは、第一は凶短折(早死に)、第二は疾、第三は憂、第四は貧、第五は悪(醜い容貌)、第六は弱である。いずれも尚書に見える。
注[三]「我」とは君を指す。天意が人を整えようとするならば、必ず君を媒介とする。現在の尚書の文では「假」を「俾」としている。俾は使うという意味で、意味も通じる。
注[四]洪範五行伝に言う。皇は大、極は中、建は立てる、孽は災いである。君が大中に合わないのは、これを「不立」という。蛇と龍は陰の類である。
注[五]詩経小雅にある。虺蛇は穴に住み、陰の類であるため、女子の兆しとなる。
注[六]洪範五行伝に言う:「初め、鄭の厲公が相の祭仲を脅迫して兄の昭公を簒奪し、鄭の君として立てられた。後に雍愨の難があり、厲公は出奔し、鄭人は昭公を立てた。即位後、内側の蛇と外側の蛇が鄭の南門の中で闘い、内側の蛇が死んだ。この時、傅瑕が鄭に仕えており、厲公を内に迎え入れようとしたため、内側の蛇が死んだのは、昭公が敗れ、厲公が勝つ兆しであった。この時、昭公は恩恵を施し、百姓を慰撫し、賢者を挙げて徳を崇め、群臣を励まし、左右を観察して奸謀を省みるべきであった。そうすれば内変は生じず、外からの謀略も起こりようがない。昭公は気づかず、果たして傅瑕に殺され、二人の子は死に、厲公が入国した。これがその証拠である。詩に云う:『惟虺惟蛇、女子之祥』。鄭の昭公はほぼ女子によって敗れたのである。」
注[七]前漢書に言う:「佩玉晏鳴、關睢歎之。」音義に言う:「后夫人が、鶏が鳴く時に佩玉をして君の元を去る。周の康王の后はそうではなかったため、詩人が歎き傷んだ。この事は魯詩に見えるが、今は失われている。」
注[八]説苑に言う:「湯が桀を討伐した後、七年間大旱が続き、洛川が枯れた。湯は人に三足の鼎を持たせて山川に祈らせて言った:『政が節度を失っているのか?人々を苦しめているのか?贈賄が行われているのか?讒言する者が栄えているのか?宮室が華美なのか?女の請託が行われているのか?なぜ雨が降らないのか!』言い終わらないうちに大雨が降った。」
注[九]易経泰卦の六五に「帝乙、妹を帰す、以て祉し元吉」とある。
注[一〇]艶妻は、周の幽王の后である褎姒である。皇甫卿士らは皆、后の党で、后の寵愛によって地位に居る。詩に「皇甫卿士、艶妻煽方に処る」とある。
注[一一]殷の王太戊の時、桑と穀が朝廷に共生したが、徳を修めると桑穀は死んだ。景公の時、熒惑が心宿にとどまったが、徳を修めると星は退いた。ともに史記に見える。
二年、唐珍に代わって司空となり、災異のため免官された。再び光禄大夫に任じられ、秩禄は中二千石となった。五年、袁隗に代わって司徒となった。この時、朝廷の爵位授与は多く順序に従わず、帝は微行を好み、外苑に遊幸した。賜覆は上疏して言った:
臣は聞く、天が衆民を生み、自ら治めることができないので、[一]君長を立てて司牧させた。[二]このため唐虞は兢兢業業とし、[三]周の文王は日が傾くまで暇がなく、[四]あらゆる官職を明らかに慎重にし、俊乂を職に就かせ、三年ごとに考績を行い、[五]その成果を見た。しかし今、任用される者は他に徳がなく、勢力のある者は十日で累進し、真実を守る者は何年経っても転任せず、労苦と安逸の区別がなく、善悪が同じ流れにあり、北山の詩が訓戒として作られた所以である。[六]また、しばしば微行して苑囿に出幸し、鷹犬の勢いを見、遊楽の極みに至り、[七]政事は日々廃れ、[八]大いなる教化は衰えていると聞く。陛下は二祖の勤労を顧みず、[九]五宗の美しい跡を追慕せず、[一〇]太平を望もうとすることは、曲がった日時計で真っ直ぐな影を求め、後退しながら前に進もうとする者に及ぼうとするようなものである。[一一]慢傲な遊戯を絶ち、官人を重んじることを思い、板を用いる恩恵を断ち切り、貫魚の順序を慎み、[一二]醜女に四殆の嘆きを起こさせず、[一三]遠近に憤怨の声が起こらないようにすべきである。臣は偏って特別な恩恵を受け、師傅の任に辱むき、凡臣と同じく自らをせず、口を閉じて咎を避けることはできない。[一四]謹んで自ら手書して密かに上奏する。
注[一]蒸は衆である。注[二]司は主、牧は養う。
注[三]兢兢は戒慎、業業は危惧。尚書皐陶謨に「兢兢業業、一日二日萬機」とある。
注[四]尚書に「文王、朝より日中仄に至るまで、暇食する遑ひ無し」とある。注[五]尚書に「三載考績、幽明を黜陟す」とある。
注[六]詩経小雅に「彼の北山に陟り、言わく其の杞を采る。偕偕たる士子、朝夕に事に従う。大夫均しからず、我が事に従うこと独り賢し」とある。
注[七]盤とは楽しむことである。詩に「盤於游田」とある。書に「内作色荒、外作禽荒」とある。 注[八]許規反。
注[九]二祖とは、高祖と光武帝である。詩に「文王既勤止」とある。 注[一0]文帝太宗、武帝世宗、宣帝中宗、明帝顕宗、章帝粛宗である。
注[一一]孫卿子に「猶立枉木而求其影之直也」とある。韓詩外伝に「夫明鏡所以照形也、往古所以知今也。夫知悪往古之悪而不知修今之善、悪往古之所以危亡而不知襲積其所以安存、則無以異乎卻行而求逮於前人也」とある。
注[一二]板とは詔書を指す。易の剥卦に「貫魚、以宮人寵」とある。王者が宮人を御するのは、貫いた魚のように順序があるという意味である。
注[一三]劉向の列女伝に「鍾離春は、斉の無塩邑の女で、斉の宣王の正后となった。その容貌は、極めて醜く比類なく、臼頭深目、長大で骨格が大きく、鼻が高く喉仏が突出し、首が太く髪が少なく、腰が折れ胸が突き出て、皮膚は漆のようであった。四十歳になっても嫁に行けず、自ら宣王に謁見し、手を挙げて膝を叩いて言った。『危うい!危うい!』と。『今、王の国は、西に衡秦の患いがあり、南に強楚の仇敵があり、外に二国の難がある。一旦、山陵が崩れれば、社稷は安泰でなくなる。これが一つの危うさである。漸台は五重で、万人が疲れ果てている。これが二つの危うさである。賢者は山林に隠れ、諂諛の者が左右に勢力を振るっている。これが三つの危うさである。酒に沈溺し、夜を日に継いで、外には諸侯の礼を修めず、内には国家の政務を執らない。これが四つの危うさである』と」。
注[一四]括とは結ぶことである。易に「括囊無咎無誉」とある。
後に党人を庇った罪で免職された。再び光禄大夫に任命された。光和元年、虹蜺が昼間に嘉徳殿前に降りた。帝はこれを嫌い、楊賜と議郎の蔡邕らを金商門の崇徳署に招き入れ、中常侍の曹節と王甫に命じて、祥瑞や災異、禍福の所在を問わせた。楊賜は天を仰いで嘆息し、曹節らに言った。「私は張禹伝を読むたびに、憤慨し嘆息せずにはいられない。忠を尽くし真情を極めて、その要点を極言することができず、かえって末子に心を留め、娘婿の帰還を願い出た。朱游が尚方の斬馬剣を得てこれを正そうとしたのは、まことに当然である。私は微薄な学識をもって、先師の末席を汚し、累世にわたって寵愛を受けながら、国に報いることができなかった。辱くも重大な質問を受け、死して後やむであろう」。そこで上奏文を書いて答えた。
臣が経伝で聞くところによれば、ある者は神を得て栄え、ある者は神を得て滅びる。国家が清明であれば、その徳を鑑とし、邪悪で混乱していれば、その禍を見る。今、殿前の気は、虹蜺に応じたもので、いずれも妖邪が生み出した、正しくない象である。詩人がいうところの蝃蝀である。中孚経に『蜺の比は、徳なくして色をもって親しむ』とある。方今、内には多くの寵愛を受けた者たちがおり、外には小臣を任用し、上下ともに怨み、喧噪が道に満ちている。このため災異がたびたび現れ、前後して警告されている。
今また蜺が現れたのは、熟したと言えよう。春秋讖を調べると『天が蜺を投ずれば、天下は怨み、海内は乱れる』とある。四百の期限もまた、まさに迫っている。昔、虹が牛山を貫いたとき、管仲は桓公に妃嬪の宮殿に近づかないよう諫めた。易に『天は象を垂れ、吉凶を見せ、聖人はこれに則る』とある。今、妾媵、寵臣、宦官の類が共に国政を専断し、日月を欺いている。また、鴻都門の下で、群小を招集し、賦や説を作り、虫篆のような小技をもって時に寵愛を受けている。驩兜や共工のように互いに推薦し合い、旬月の間にそれぞれ抜擢され、楽松は常伯の地位にあり、任芝は納言の地位にある。
郄儉と梁鵠はともに、へつらい巧みな性質と、口先の巧みな心をもって、それぞれ豊かな爵位と破格の寵愛を受けている。一方、紳士たちは田畑に伏して、口では堯舜の言葉を誦しながら、身では世俗を絶った行いを実践し、溝壑に捨てられ、顧みられることがない。冠と履が逆転し、丘陵と谷が入れ替わるような状態である。小人の邪な意に従い、無知な私欲に順って、板や蕩の詩が作られた戒めや、虺や蜴の警告を顧みない。危ういこと、今より甚だしいことはない。幸いにも皇天が象を垂れて譴責し警告している。周書に『天子は怪を見れば徳を修め、諸侯は怪を見れば政を修め、卿大夫は怪を見れば職を修め、士庶人は怪を見れば身を修める』とある。どうか陛下には、経典の戒めを慎み、変革と回復の道を図り、佞巧の臣を遠ざけ、鶴鳴の士を速やかに召し出し、内には張仲を親しみ、外には山甫を任用し、詔書(尺一)の発布を断ち、遊猟を抑止し、万政に心を留め、怠り遅れることのないようにされたい。上天が威を返し、多くの異変が鎮まることを願う。老臣は過分にも師傅の任を受け、たびたび寵愛と特別な恩恵に浴してきた。どうして没しようとする年の身を惜しんで、その誠実な心を尽くさないことがあろうか。
上奏文が奏上されると、曹節らに甚だ逆らう内容であった。蔡邕は直言して罪に抵触し、朔方に流罪となった。楊賜は師傅の恩があったため、咎を免れることができた。
注[一]洛陽記によれば、この殿は九龍門内にある。郭景純が爾雅に注して「二つ現れ、色が鮮やかで盛んなものを雄といい虹という。暗いものを雌といい蜺という」とある。
注[二]戴延之の西征記に「太極殿の西に金商門がある」とある。
注[三]張禹は成帝の時に丞相となり、師傅の恩により、張禹が病気になるたびに、その起居を聞き、皇帝の車駕が日々見舞いに訪れ、張禹の寝床の下で拝礼した。張禹は頓首して恩に謝し、「老臣には四男一女がおり、娘を男よりも愛しており、遠く張掖太守の蕭咸の妻に嫁がせたが、父子の私情に耐えかね、娘と近くにいたい」と言った。皇帝はすぐに蕭咸を弘農太守に転任させた。また、張禹の末子はまだ官がなく、皇帝が張禹を見舞った時、張禹はたびたびその末子を見たので、皇帝は張禹の寝床の下で末子を黄門給事中に任命した。
注[四]朱雲は字を游という。張禹は帝師として尊重されていたが、朱雲は上書して謁見を求め、公卿が前にいる中で言った。「今、朝廷の大臣は主君を補佐することができない。臣は尚方の斬馬剣を得て、佞臣一人の首を断ち、その余を戒めたい」。上(皇帝)が「それは誰か」と問うと、「安昌侯の張禹です」と答えた。尚方は少府の属官で、供御の器物を作るため、斬馬剣があり、その切れ味は馬を斬ることができるほど鋭い。ともに前漢書に見える。
注[五]左伝に言う、「神が莘に降りた。周の内史過が言った、『国が興ろうとする時は、明神が降りてその徳を監察する。滅びようとする時は、神がまた降りてその悪を観察する。だから神を得て興ることもあり、また滅びることもある』」と。国語に言う、「昔、夏が興った時は、祝融が崇山に降りた。その滅びた時は、回禄が黔遂に留まった。商が興った時は、檮杌が丕山に止まった。その滅びた時は、夷羊が牧に現れた。周が興った時は、鸑鷟が岐山で鳴いた。その衰えた時は、杜伯が王を鄗で射た」と。
注[六]韓詩序に言う、「蝃蝀は奔女を刺した詩である。『蝃蝀在東、莫之敢指』とあるのは、詩人が蝃蝀が東にあると言うのは、邪色が陽に乗じ、人君の淫佚の徴である。臣子は君父のために隠すので、敢えて指す者がないと言うのである」と。蝃は音で帝。蝀は音で董。
注[七]易稽覧図の中孚経の文である。比は類である。鄭玄の注に言う、「霓は邪気である。陰に徳がなく、好色によって陽に親幸を得るのである」と。 注[八]孰は成である。
注[九]春秋演孔図に言う、「霓は斗の乱精である。度を失って霓に投ずる(応ずる)と現れる」と。宋均の注に言う、「投霓は投応である」と。
注[一〇]漢は四百年で終わる。解は献帝紀に見える。
注[一一]春秋文曜鉤に言う、「白虹が牛山を貫いた。管仲が諫めて言った、『妃宮に近づかないでください。君は権を失う恐れがあります』と。斉侯は大いに恐れ、色党を退け、更に賢輔を立て、後に出て望祭を行い、牛山に登って四方を聞き、以て神を鎮めた」と。宋均の注に言う、「山は君位である。虹蜺は陰気である。陰気がこれを貫くのは、君が妻党に惑わされる象である。望とは祭りを以て過ちを謝することである」と。流俗本で「山」を「升」とするのは誤りである。
注[一二]上系の詞である。則は効である。 注[一三]法言に言う「賦は童子の彫虫篆刻であり、壮夫は為さない」と。
注[一四]尚書の驩兜が言う、「都、共工は方(並行して)鳩(集めて)僝(具現する)功(事業)をなす」と。 注[一五]楚詞に言う、「冠履兮雑処」と。詩に言う「高岸為谷、深谷為陵」と。
注[一六]詩大雅の序に言う、「板は凡伯が厲王を刺した詩である」と。その詩に言う、「上帝板板、下人卒癉」と。蕩は邵穆公が周室の大いに壊れるを傷んだ詩である。その詩に言う、「蕩蕩上帝、下人之辟」と。また言う、「哀今之人、胡為虺蜴」と。注に言う、「蜴は蠑螈である。虺蜴の性は人を見ると走る。哀れなるかな、今の人何ぞかくの如くせん!時政を傷むのである」と。
注[一七]無塩の言葉である。解は上に見える。 注[一八]変改してこれを銷復(消して回復)することを言う。
注[一九]詩に言う、「張仲孝友」と。また言う、「袞職有闕、仲山甫補之」と。皆、周の宣王の賢臣である。
注[二〇]慺慺は猶お勤勤である。音は力侯反。
その冬、辟雍の礼を行い、楊賜を引いて三老とした。再び少府・光禄勲に拝し、劉合に代わって司徒となった。帝は畢圭霊琨苑を造ろうとし、楊賜が上疏して諫めて言った、「窃かに聞く、使者が並び出て、城南の民の田を規度し、以て苑としようとしていると。昔、先王が囿を造ったのは、三駆の礼を修めるに足るだけの大きさで、薪・萊・芻・牧は皆そこに行った。先帝の制は、左に鴻池を開き、右に上林を作り、奢らず約せず、以て礼の中に合った。今、猥りに郊城の地を規して苑囿とし、沃衍を壊し、田園を廃し、居人を駆り、禽獣を畜うのは、殆ど所謂『赤子を保つが若し』の義ではない。今、城外の苑は既に五六あり、以て情意を逞しくし、四節に順うことができる。宜しく夏禹の卑宮、太宗の露台の意を思い、以て下民の労を慰めるべきである」と。書が奏上され、帝は止めようとしたが、侍中の任芝・中常侍の楽松に問うた。松らが言った、「昔、文王の囿は百里で、人は小さいと思い、斉宣王の五里で、人は大きいと思った。今、百姓とこれを共にするのは、政に害はありません」と。帝は悦び、遂に苑を築かせた。
注[一]鴻池は洛陽の東にあり、上林は西にある。 注[二]杜預が左伝に注して言う、「衍沃は平美の地である」と。
注[三]書に言う「赤子を保つが若く、唯だ人其れ康乂(安らかに治める)せん」と。
注[四]陽嘉元年に西苑を造営し、延熹二年に顕陽苑を造営した。洛陽の宮殿名には平楽苑・上林苑がある。桓帝の延熹元年に鴻徳苑を設置した。
注[五]逞は快の意。四節とは春の搜・夏の苗・秋の獮・冬の狩をいう。注[六]孔子が「禹は衣服を粗末にし、宮室を低くした」と言った。
注[七]文帝が露台を作ろうとし、工匠を召して費用を計算させたところ、百金に相当した。帝は「百金は中流の家十戸分の財産である。私は先帝の宮室を継いでおり、常にそれを辱めることを恐れている。どうして台を作ろうか」と言った。
注[八]孟子で斉の宣王が「文王の苑は七十里四方であるのに、人はなお小さいと思う。私の苑は四十里四方であるのに、人はなお大きいと思う。なぜか」と問うた。孟子は「文王の苑は七十里四方であるが、草を刈る者も、雉や兎を獲る者もそこへ行く。人々と共有するので、人々が小さいと思うのは、当然ではないか」と答えた。ここで文王の苑を百里、斉宣王の苑を五里としているのは、孟子の記述と異なる。
四年、病気を理由に罷免された。しばらくして太常に任命され、詔により御府の衣服一襲、自ら着用していた冠・幘・綬、玉壺の革帯、金錯の鉤佩を賜った。
注[一]衣の単衣と複衣が一揃いであることを襲という。注[二]金錯とは、金を交えて文様を錯綜させること。
五年の冬、再び太尉に任命された。中平元年、黄巾の賊が起こり、楊賜は会議に召されて省閣に赴いたが、厳しく諫めて旨に逆らい、賊徒のためという名目で免官された。
以前から黄巾の首領張角らは邪道を用い、大賢と称して百姓を欺き惑わし、天下の者が幼児を背負ってまで帰依していた。楊賜は当時司徒の職にあり、属官の劉陶を召して告げた。「張角らは赦免を受けても悔い改めず、かえって次第に勢力を拡大している。今もし州郡に命じて捕らえ討伐させれば、かえって騒擾を引き起こし、速やかに禍患を成就させてしまう恐れがある。まず厳しく刺史・二千石に命じ、流民を選別してそれぞれ本郡に護送帰郷させ、その党を孤立・弱体化させた後、渠帥を誅すれば、労せずして平定できるのではないか」。劉陶は答えて言った。「これは孫子のいう戦わずして人の兵を屈する、廟堂での勝算の術です」。楊賜はそこで上書してこのことを述べた。ちょうどその職を去ったため、事案は禁中に留め置かれた。後に霊帝が南宮に移り、過去の記録を閲覧した際、楊賜が上奏した張角に関する奏上と以前侍講を務めた際の注記された名簿を得て、ようやく感づき悟り、詔を下して楊賜を臨晋侯に封じ、邑千五百戸を賜った。初め、楊賜は太尉の劉寛・司空の張済と共に侍講に入ったため、自分一人が封賞を受けるのはふさわしくないと考え、上書して戸邑を劉寛・張済と分け与えたいと願った。帝はこれを嘉し賞賛し、改めて劉寛と張済の子を封じ、楊賜を尚書令に任命した。数日後に廷尉として出向することとなったが、楊賜は自分が法家の家系を継ぐ者ではないと考え、言った。「三後の功績は、民を豊かにすることにあったが、皐陶はその中に入っていない。おそらくそれを恥じたのであろう」。そこで固辞し、特進として邸宅に退いた。
注[一]孫子に言う。「未だ戦わずして廟堂で勝算があれば、得る算が多い。未だ戦わずして廟堂で勝算がなければ、得る算が少ない」。注[二]論じた事案が禁中に留め置かれ、まだ施行されなかったことをいう。
注[三]注記された名簿の記録。注[四]臨晋は県で、馮翊に属する。故城は現在の同州朝邑県の西南にある。
注[五]張済は字を元江といい、細陽の人である。張酺の曾孫。
注[六]吝は恥じる意。殷は盛んにする意。尚書に「伯夷は法典を下し、人を裁くのは刑による。禹は水土を平らげ、山川の名を定めた。稷は播種を下し、農耕により良穀を育てた。三後の功績は、人を豊かにすることにあった」とある。皐陶がその数に入っていないのは、おそらくそれを恥じたからであると言っている。
二年九月、再び張温に代わって司空となった。その月に薨去した。天子は素服を着し、三日間朝政を臨まず、東園の梓器と襚服を贈り、銭三百万、布五百匹を賜った。策文は次のとおり。
故司空臨晋侯楊賜は、華岳が生み出したものであり、九徳を純粋に備え、三代にわたり宰相となり、忠をもって国を補佐した。朕が昔、初めて位についた時、帷幄の中で道を授けられ、それによって功績を成し、大道に登ることができた。師範としての功績は内外に明らかであり、百官の務めにも労苦を惜しまなかった。七たび卿校の職にあり、殊位の特進となり、五たび三公の職に登り、災難を鎮め国を治めた。茅土を受けたとはいえ、その勲功に報いることはできなかった。哲人が萎えた今、誰に諮り計らえばよいのか。朕は甚だ恐れる。礼には等級の差別が設けられ、物には服章がある。今、左中郎将の郭儀に節を持たせて追って位を特進とし、司空驃騎将軍の印綬を追贈する。
葬儀の際には、また侍御史に節を持たせて喪を送らせ、蘭台令史十人に羽林騎・軽車・介士を発させ、前後の部に鼓吹を立て、また驃騎将軍の官属に司空の法駕を以て、旧塋まで送るよう命じた。公卿以下が会葬した。諡して文烈侯といった。小祥の際にもまた会葬が行われた。子の楊彪が後を嗣いだ。
注[一]挺は生ずるの意。九徳とは即ち皐陶謨の九徳である。注[二]詩経大雅に「文王初載」とある。毛萇の注に「載は識なり」とある。
注[三]礼記に「孔子、手を負ひ杖を曳き、門に消搖し、歌ひて曰く『太山其れ頽けんか、梁木其れ壊れんか、哲人其れ萎れんか』」とある。
注[四]前漢書に、張禹が丞相となり、老齢により罷免されて邸に退き、列侯として朔望に朝見し、位は特進、礼遇は丞相の如しとある。漢雑事に「諸侯で功徳優盛、朝廷の敬異する所たる者、位を特進賜ひ、三公の下に在る」とある。
注[五]続漢志に「軽車は古の戦車なり、朱輪輿を洞らし、巾せず蓋せず、菑矛戟幢麾す」とある。菑は側事反と音す。菑は挿すの意。
注[六]続漢志に「三公・列侯の車は、鹿に倚り熊を伏せ、轓は黒く、班輪は朱、鹿文の飛軨、九游の降龍。騎吏四人、皆剣を帯び棨戟を持ちて前列と為し、三百石の長が導従し、門下五吏を置き、賊曹・功曹は皆剣を帯び車道し、主簿・主記の両車が従う」とある。
注[七]礼に「開けて小祥」「又開けて大祥」とある。鄭玄の注に「祥は吉なり、其の漸く吉に即くを言ふ」とある。
子の彪に賜ふ
彪は字を文先といい、幼くして家学を伝へた。初め孝廉に挙げられ、州は茂才に挙げ、公府に辟せられたが、皆応じなかった。熹平年間、博く旧聞に習ひしことを以て、公車にて徴され議郎に拝され、侍中・京兆尹に遷った。光和年間、黄門令王甫が門生をして郡界に於て官財物七千余万を辜榷せしめた。彪は其の奸を発し、司隸に之を言上した。司隸校尉陽球は此れに因り王甫を誅すことを奏し、天下愜心せざる者無し。征されて侍中・五官中郎将に還り、穎川・南陽太守に遷り、復た侍中に拝され、三遷して永楽少府・太僕・衛尉となった。
注[一]華嶠の書に「馬日磾・盧植・蔡邕等と東観に著作す」とある。注[二]華嶠の書に「王甫、門生の王翹をして辜榷せしむ」とある。解は霊帝紀に見ゆ。
中平六年、董卓に代はり司空となり、其の冬、黄琬に代はり司徒となった。明年、関東に兵起こり、董卓懼れ、都を遷して其の難を避けんと欲した。乃ち公卿を大会して議して曰く「高祖関中に都すること十有一世、光武洛陽に宮す、今に於ても亦十世なり。石包の讖を案ずるに、宜しく長安に都を徙し、以て天人の意に応ずべし」と。百官敢へて言ふ者無し。彪曰く「都を移し制を改むるは、天下の大事なり、故に盤庚五遷し、殷民胥に怨みたり。昔関中王莽の変乱に遭ひ、宮室焚蕩し、民庶塗炭し、百に一在らず。光武命を受けて、更に洛邑に都す。今天下虞る無く、百姓安んずるを楽む。明公聖主を建立し、漢祚を光隆せしむ。故無く宗廟を捐て園陵を棄てば、恐らくは百姓驚動し、必ず糜沸の乱有らん。石包室の讖は、妖邪の書なり、豈に信用す可けんや」と。
卓曰く「関中肥饒なれば、故に秦六国を併吞し得たり。且つ隴右材木自ら出で、之を致すこと甚だ易し。又杜陵南山の下に武帝の故瓦陶醋数千所有り、並び功を営めば、一朝にして辨ふ可し。百姓何ぞ足らんや議ふに与るに!若し前卻有らば、我大兵を以て之を駆り、滄海に詣らしむ可し」と。彪曰く「天下之を動かすは至って易く、之を安んずるは甚だ難し、惟れ明公之を慮れ」と。卓色を為して曰く「公国計を沮まんと欲するか」と。太尉黄琬曰く「此れ国の大事なり、楊公の言得無く思ふ可からざるか」と。卓答へず。司空荀爽、卓の意壮なるを見て、彪等を害せんことを恐れ、因り従容として言ひて曰く「相国豈に此れを楽しまんや?山東兵起こり、一日に禁ず可からざれば、故に当に遷り以て之を図るべし、此れ秦・漢の埶なり」と。卓の意稍解く。爽私に彪に謂ひて曰く「諸君堅く争ひ止まず、禍必ず帰有らん、故に吾為さざるなり」と。議罷み、卓司隸校尉宣播をして災異を以て琬・彪等の免を奏せしめ、闕に詣り謝せしめ、即ち光禄大夫に拝す。十余日、大鴻臚に遷る。関に入るに従ひ、少府・太常に転じ、病を以て免ぜらる。復た京兆尹・光禄勲となり、再び光禄大夫に遷る。
三年秋、淳於嘉に代はり司空となり、地震を以て免ぜらる。復た太常に拝す。興平元年、朱儁に代はり太尉となり、尚書事を録す。及ひ李傕・郭汜の乱に、彪は節を尽くして主を衛ひ、崎嶇危難の間、幾くんか害を免れざらんとす。語は董卓伝に在り。車駕洛陽に還るに及び、復た尚書令を守る。
注[一]違は避くの意。
注[二]盤庚は殷王の名なり。胥は相の意。亳に都を遷す、殷人相与に怨恨す。湯亳に遷り、仲丁囂に遷り、河但甲相に居り、祖乙耿に居り、並びに般庚を合わせて五なり。
注[三]虞は度の意。度るべき事無きを言ふ。書に「四方虞る無し」とある。注[四]麋粥の沸くが如し。詩に「沸くが如く羹の如し」とある。
注[五]は、険難を避けずに言うことを敢えてしたという意味である。注[六]の沮は、止めるという意味である。
建安元年、東都の許に従った。当時、天子は新たに遷都したばかりで、公卿を大いに集めた。兗州刺史の曹操が殿上に上がると、楊彪の顔色が喜ばしくないのを見て、ここで自分を謀ろうとしているのではないかと恐れ、宴席に着く前に、病気を理由に厠に行くと称して退出し、そのまま陣営に戻った。楊彪は病気を理由に罷免された。当時、袁術が僭乱を起こしていたが、曹操は楊彪が袁術と婚姻関係にあることを口実に、廃立を謀ろうとしたと誣告し、収監を上奏し、大逆の罪で弾劾した。将作大匠の孔融はこれを聞くと、朝服に着替える暇もなく、曹操に会いに行って言った。[一]「楊公は四代にわたって清徳を積み、海内の敬仰の的であります。周書には父子兄弟の罪は互いに及ばないとあります。[二]ましてや袁氏の罪を楊公に帰するなどということがありましょうか。易経に『善を積めば余慶あり』とありますが、それは人を欺くだけの言葉でしょうか。」[三]曹操は言った。「これは国家の意向である。」孔融は言った。「仮に成王が邵公を殺したとして、周公が知らなかったと言えましょうか。今、天下の纓緌搢紳[四]が明公を仰ぎ見るのは、公が聡明仁智で、漢朝を輔相し、直きを挙げて枉わきを措き、雍熙の世をもたらすからであります。今、無辜を横に殺せば、海内の耳目は、誰が離反しないでしょうか![五]孔融は魯国の一男子に過ぎません。明日には衣を払って立ち去り、二度と朝参することはありません。」[六]曹操はやむを得ず、楊彪の罪を取り調べて釈放した。
注[一]献帝春秋に言う。「[孔融が]曹操に[会って]言った。『刑を濫用しないのは、君の明徳である。楊彪が罪を得たことで、恐れる者は多い。』」
注[二]左伝に言う。「康誥に曰く、『父慈まず、子祗まず、兄友せず、弟恭しまず、相及ばず』と。」注[三]易経の文言に言う。「善を積む家には、必ず余慶あり。」
注[四]説文に言う。「纓は、冠の索(ひも)なり。」鄭玄が礼記に注して言う。「緌は、冠の飾りなり。紳は、帯なり。搢は、插すなり、笏を紳に插すなり。」あるいは「縉」と作るものは、浅赤、帯の色を言う。
注[五]左伝に、季文子が晋の韓穿に言った。「四方の諸侯、誰か解体せざらんや!」杜預が注して言う。「再び肅敬しなくなるという意味である。」
注[六]もし無実の罪で楊彪を殺すならば、孔融はただ魯国の一男子に戻り、二度と朝参することはないという意味である。
四年、再び太常に任命されたが、十年で免官された。十一年、恩沢によって侯となった者たちは皆、封を奪われた。[一]楊彪は漢の天命がまさに尽きようとしているのを見て、遂に脚の攣ったふりをして出仕せず、十年を過ごした。後に子の楊修が曹操に殺されると、曹操は楊彪に会って尋ねた。「公はどうしてそんなに痩せられたのか?」楊彪は答えて言った。「日磾のような先見の明がなく、老牛が子牛を舐めるような愛しさをまだ懐いていることを恥じているのです。」[二]曹操はその言葉に顔色を変えた。
注[一]楊彪の父の楊賜は、師傅として臨晉侯に封ぜられた。
注[二]前漢書に言う。金日磾の二人の子は、武帝に愛され、弄兒とされた。その後、弄兒が成長し、慎みなく、殿下で宮人と戯れているのを、日磾がたまたま見て、その淫乱を憎み、遂に弄児を殺した。
楊彪の子、楊修
楊修は字を徳祖といい、学問を好み、俊才があり、丞相曹操の主簿となり、[一]曹氏に仕えて権勢を振るった。曹操が漢中を平定した後、劉備を討伐しようとしたが進軍できず、守ろうとしても功を立てるのが難しい状況で、護軍は進退の判断に迷っていた。曹操はそこで教令を出したが、ただ「鶏肋」とだけ言った。外部の官曹は誰も理解できなかったが、楊修だけが言った。「鶏肋とは、食べても得るものはなく、捨てるには惜しいものだ。公の帰還の決意は固まったのだ。」そこで外部に少しずつ厳重な準備をさせると、曹操はここで軍を返した。楊修の機微の判断は、このようなものが多かった。楊修はまたかつて外出した時、曹操が外部のことを尋ねるだろうと予測して、あらかじめ返答の文書を作り、留守番の者に命じた。「もし命令が出たら、順番にこれを伝えよ。」果たしてその通りになった。このようなことが三度あり、曹操はその速さを怪しみ、調べさせて、事情を知り、[二]ここで楊修を忌み嫌うようになった。かつて袁術の甥であることを理由に、後患となることを憂慮し、遂にある事件を口実に彼を殺した。[三]
注[一]典略に言う。「楊修は、建安年間に孝廉に挙げられ、郎中に除され、丞相が請うて倉曹属主簿に任じられた。この時、軍国多事であり、楊修は内外の事柄を総べて知り、全て意に適った。魏の太子以下、皆争って彼と交好を結んだ。」
注[二]廉は、察することである。注[三]続漢書に言う。「ある人が楊修が臨淄侯曹植と酒に酔って共に車に乗り、司馬門から出て、鄢陵侯曹彰を謗訕したと告げた。太祖(曹操)はこれを聞いて大いに怒り、故に遂に捕らえて殺した。時に四十五歳であった。」
楊修の著した賦、頌、碑、贊、詩、哀辭、表、記、書は合わせて十五篇である。
魏の文帝が禅譲を受けた時、楊彪を太尉に任じようとし、まず使者を遣わして意向を示した。楊彪は辞退して言った。「私は漢の三公の一人を務めましたが、世が傾き乱れている中で、何ら補益することができませんでした。年老いて病を抱えている身で、どうして新たな朝廷を助けることができましょうか。」こうして固く辞退した。そこで光禄大夫を授け、几杖と衣袍を賜り、朝会の際に引見され、楊彪に布の単衣を着せ、鹿皮の冠をかぶらせ、杖をついて入朝させ、賓客の礼をもって遇した。
八十四歳で、黄初六年に自宅で死去した。楊震から楊彪に至るまで、四代にわたって太尉を務め、徳と業績が相継ぎ、袁氏とともに東京の名族と称された。
注[一]『続漢書』に「魏の文帝の詔に『先王が几杖を賜う制度は、年老いた者を賓客として礼遇するためである。太尉楊彪は、その先祖以来、代々著名な功績を挙げてきた。よって公に延年杖を賜う。延請の日には杖をついて入朝させよ』とある」という。
注[二]華嶠の『書』に「東京の楊氏と袁氏は、累世宰相となり、漢の名族となった。しかし袁氏は車馬や衣服が極めて奢侈で分を超えていた。家風を守り、世に重んじられた点では、楊氏には及ばなかった」とある。
史論
論じて言う。孔子は「危ういのに支えず、倒れそうなのに扶けなければ、どうしてその補佐役が必要だろうか」と言った。まことに負託された重任は、虚しく冒すことはできず、崇高な地位は、憂いが重く責務が深いのである。延光の間、楊震は上相として、直方の徳を以て権勢を振るう邪曲な者に臨み、公の道を先にして己の名声を後回しにした。これは王臣の節操を抱き、任された者の本分をわきまえていたと言えよう。こうして累代にわたり徳を積み、宰相の地位を継いだ。まことに「善を積んだ家には、必ず余慶がある」という。先代の韋賢・平当の父子も、これに比べれば取るに足らない。
注[一]『論語』に載る孔子の言葉である。相(補佐役)が扶持するとは、臣下が君主を補佐すべきことを譬えたものである。注[二]負荷の寄託とは、周公や霍光の類である。
注[三]『易経』坤卦の六二に「直く方く大にして習わずとも利無からず」とある。注[四]『易経』に「王臣は謇謇(忠実)たり、躬(自分自身)の故に非ず」とある。
注[五]『易経』に「徳積みて載す」とある。載は重なる意。注[六]韋賢と平当は父子ともに相継いで丞相となった。
賛して言う。楊氏は徳を積み、代々国家の柱石となった。楊震は四知を畏れ、楊秉は三惑を去った。楊賜もまた隠すところなく直言し、楊彪の誠実さは誤りがなかった。楊修は才子ではあったが、我が淳朴な規範を変えてしまった。
注[一]代々国の柱石となる臣下であったという意。注[二]忒は誤り、差違い。注[三]渝は変える意。
校勘記
一七五九頁三行目「八世祖喜」について。集解が引く恵棟の説によれば、太尉楊震碑では「熹」と作っており、喜は熹と読むという。
一七六〇頁四行目「続漢*(志)**[書]*曰」。集解が引く沈欽韓の説によれば、「志」は「書」とすべきであり、これに従って改めた。なお、『太平御覧』巻九百九十六が引くところでは「謝承後漢書」とある。
一七六一頁二行目「倫字仲桓」について。集解が引く恵棟の説によれば、儒林伝によると、倫の字は仲理で、東昏の人である。倫と理は名と字が対応している。「桓」と作るものは詳らかでない。
一七六三頁八行目「篡辭也」の箇所について。注記:『辭』は元来『亂』であったが、汲古閣本と殿本に基づいて直接に訂正した。
一七六五頁四行目「去年十*(一)**[二]*月四日京師地動」の箇所について。注記:延光二年十二月戊辰に、京師および郡国三か所で地震があった。『通鑒考異』は、下文の「其日戊辰」について、十一月丙申朔であり、戊辰は十二月四日に当たると述べている。これに基づいて改めた。
一七六六頁四行目「小人怨詈則還自敬德」の箇所について。汲古閣本では「還自敬德」を「皇自敬德」とし、『群書治要』では「洗目改聽」としている。注記:李慈銘は、『無逸』篇の「皇自敬德」は今文尚書では「況自敬德」であり、『隸釋』に収録される漢の熹平石経尚書残碑では「況」を「兄」としていると指摘する。兄は古い「況」の字であり、王肅の尚書注では「滋益」(ますます増す)と解釈している。石経は今文を用いており、楊震は欧陽尚書を受けたので、この上疏では今文を用いて「況自敬德」としたが、字形が近いために誤って「洗目改聽」となった。章懐太子の注は古文尚書の「皇自敬德」のみを引用しており、後人が「況」の字を理解できず、遂に「還」の字に改めた。幸い『治要』では四字とも誤っているため、かえって推求して正しい形を得ることができる。
一七六六頁一四行目「震行至城西幾陽亭」の箇所について。汲古閣本と殿本では「幾」を「夕」としている。『集解』は惠棟の説を引き、『東観漢記』では「洛陽都亭」、袁宏の『後漢紀』では「洛陽沈亭」、『資治通鑑』では「幾陽亭」としていると述べる。今、清の胡克家が翻刻した元刊胡三省注本『資治通鑑』では「夕陽亭」とし、章鈺が校訂した宋刊本『資治通鑑』三種および明の孔天胤本では、いずれも「幾陽亭」としていることを注記する。
一七六八頁一0行目「帝嘗從容問奇曰」の箇所について。注記:「嘗」は元来「常」であったが、汲古閣本と殿本に基づいて直接に改めた。
一七六九頁六行目「桃林縣有蓩鄉」の箇所について。注記:「桃林」は「弘農」とすべきである。『集解』は惠棟の説を引き、『郡国志』によれば宏農郡宏農県に桃邱聚があり、これがかつての桃林であり、蓩郷があると述べる。桃林は県名ではないので、注は誤っている。
一七六九頁八行目「秉字叔節」の箇所について。『校補』は柳従辰の説を引き、『太平御覧』巻二百七が引く張璠の『漢紀』では「字叔卿」としていると述べる。
一七六九頁一二行目「私過幸河南尹梁胤府捨」の箇所について。『集解』は沈欽韓の説を引き、袁宏の『後漢紀』では梁不疑の府を幸したと述べており、梁冀の子が河南尹となったのは元嘉元年の後であるので、袁紀の方が正しいと述べる。
一七七0頁四行目「特蒙哀識」の箇所について。『集解』は王補の説を引き、袁紀では「哀識」を「光識」としていると述べる。注記:『校補』は「哀」の字はおそらく「表」とすべきであろうと述べる。
一七七0頁五行目「太尉黃瓊」の箇所について。『校補』は柳従辰の説を引き、袁紀では「太尉」を「太常」としており、また袁紀が楊秉の上疏を元嘉元年に載せているのに対し、黄瓊が太尉となったのは永興二年であるので、「太常」としている方が正しいと述べる。
一七七0頁一六行目「日月星辰山龍華蟲藻火粉米*[黼黻]*十二章」の箇所について。汲古閣本と殿本に基づいて補った。
一七七一頁二行目「居郎閒」の箇所について。汲古閣本と殿本では「郎」を「廊」としている。注記:『漢書』顔師古注によれば、郎は皁衣を着るので、章玄はその服を着て廁ったのである。
一七七一頁七行目「中常侍單超弟匡」の箇所について。『集解』は銭大昕の説を引き、第五種伝では匡を単超の兄の子とし、宦者伝では単超の弟の子としていると述べる。
一七七二頁一行目「可告在所屬」の箇所について。『刊誤』は、文意からして「在」の字が一つ多いと述べる。
一七七四頁四行目「覽顧知釁重」の箇所について。汲古閣本と殿本では「顧」を「固」としている。注記:顧と固は通じる。
一七七四頁七行「投畀有虎」の誤りを訂正し、「有」は「豺」とすべきであると刊誤が述べ、注に他の説はなく、詩と同じであることを知る。今これに拠って改める。
一七七五頁一〇行『左伝』に曰く、晋の寺人披の言なり。「言」は原本「吉」と誤り、直ちに正す。按ずるに、「曰」の字は衍字か。
一七七五頁一五行賜、字は伯献。按ずるに、集解が引く惠棟の説によれば、太尉楊公碑及び文烈楊公碑は皆「字は伯猷」とし、袁宏の紀は「字は子猷」とする。また引く沉欽韓の説によれば、謝承の書は「伯欽」とする。また校補が引く柳従辰の説によれば、今の袁紀は「字は子献」とし、また東観記は「字は伯献」として、これと同じである。
一七七七頁六行「布恩施惠」。「惠」は原本「志」と誤り、直ちに正す。
一七七七頁一四行景公の時。按ずるに、陳景雲は「景公」の上に「宋」の字が脱けているという。
一七七八頁一行周文、日昃にして暇あらず。汲本、殿本は「昃」を「昃」とする。按ずるに、昃は本𣅦と作り、𣅦は□の或字である。
一七七八頁一一行文王、朝より日中仄に至るまで。汲本、殿本は「仄」を「昃」とする。按ずるに、仄と昃は通ず。
一七七九頁五行長くして大節に壮し。集解が引く沉欽韓の説によれば、列女伝は「壮」を「指」とする。今按ずるに、初学記が引くものは「壮」とする。
一七七九頁六行腰を折りて匈を出す。汲本、殿本は「出」を「凸」とする。按ずるに、列女伝は「出」と作り、初学記が引くものも同じ。
一七七九頁六行年四十。按ずるに、集解が引く沉欽韓の説によれば、「四十」は新序及び初学記ともに「三十」とする。
一七七九頁六行嫁に行くも售れず。按ずるに、集解が引く沉欽韓の説によれば、列女伝は「行」を「衒」とする。
一七八一頁四行禹、数えしばしば其の少子を視る。「少」は原本「小」と誤り、直ちに正す。
一七八一頁九行檮杌、丕山に次ぐ。殿本に拠って改む。
一七八一頁一二行蝀の音は董。汲本は「董」を「東」とする。
一七八三頁四行斉、宣して五里。按ずるに、集解が引く惠棟の説によれば、王懋が世説に挙げる楽松の語に、斉は五十里なりと云い、五里にあらざることを知る。当時の史文は「五」の字の下に「十」の一字を脱している。蓋し七十里は百里に近く、四十里は五十里に近し。楽松はその大要を挙げたのみである。