後漢書

巻五十四

巻五十四

周黄徐姜申屠列伝

原文周黃徐姜申屠列傳

楊震列伝

原文楊震列傳

第四十四

原文第四十四

章帝八王伝

原文章帝八王傳

附:長子の牧〈曾孫の奇〉

原文附:長子牧〈曾孫奇〉

少子の奉〈孫の敷、曾孫の觿〉

原文少子奉〈孫敷曾孫觿〉

中子の秉〈孫の賜、曾孫の彪、玄孫の修〉

原文中子秉〈孫賜曾孫彪玄孫修〉

楊震

原文楊震

楊震は字あざなを伯起といい、弘農郡華陰県の人である。八世の祖の喜は、高祖(劉邦)の時代に功績があり、赤泉侯に封ぜられた。

原文楊震字伯起,弘農華陰人也。八世祖喜,高祖時有功,封赤泉侯。

高祖の敞は、昭帝の時代に丞相となり、安平侯に封ぜられた。父の宝は、欧陽尚書を学んだ。哀帝・平帝の時代、隠居して教授した。居摂二年、両龔(龔勝・龔捨)と蔣詡とともに招聘されたが、逃げ隠れ、どこにいたかわからなかった。光武帝はその節義を高く評価した。建武年間、公車が特に招聘したが、老病のため赴かず、家で死去した。

原文高祖敞,昭帝時為丞相,封安平侯。父寶,[二]習歐陽尚書。哀﹑平之世,隱居教授。居攝二年,與兩龔﹑蔣詡俱征,遂遁逃,不知所處。[三]光武高其節。建武中,公車特徵,老病不到,卒於家。

注[二]『続斉諧記』にいう。「宝が九歳の時、華陰山の北に行き、一羽の黄雀が鴟梟に襲われて木の下に落ち、蟻に困っているのを見た。宝はそれを持ち帰り、巾箱の中に置いた。黄花だけを食べさせ、百余日で羽毛が生え揃い、飛び去った。その夜、黄衣の童子が宝に再拝して言った。『私は西王母の使者です。あなたの仁愛と救済に心から感謝します。』白い環四枚を宝に与え、『あなたの子孫が潔白で、三公の位に登ることは、この環のようになるでしょう』と言った。」注[三]龔勝は字を君賓、龔捨は字を君倩、蔣詡は字を元卿といい、ともに高節で著名であった。前漢書に見える。

原文注[二]續齊諧記曰:「寶年九歲時,至華陰山北,見一黃雀為鴟梟所搏,墜於樹下,為螻蟻所困。寶取之以歸,置巾箱中,唯食黃花,百餘日毛羽成,乃飛去。其夜有黃衣童子向寶再拜曰:『我西王母使者,君仁愛救拯,實感成濟。』以白環四枚與寶:『令君子孫潔白,位登三事,當如此環矣。』」注[三]龔勝字君賓,龔捨字君倩,蔣詡字符卿,並以高節著名。見前書。

楊震は若くして学問を好み、太常の桓郁に欧陽尚書を学び、経書に明るく広く博覧し、究めないものはなかった。諸儒は彼について「関西の孔子、楊伯起」と言った。常に湖県に客居し、数十年にわたり州郡の礼遇と招聘に応じず、人々は遅すぎると言ったが、楊震の志はますます篤くなった。後に冠雀が三匹の鱣魚をくわえて飛来し、講堂の前に集まった。都講が魚を取って進み出て言った。「蛇や鱣は、卿大夫の服の象徴です。数が三であるのは、三台の法に則っています。先生はここから昇進されるでしょう。」五十歳になって、初めて州郡に出仕した。

原文震少好學,受歐陽尚書於太常桓郁,明經博覽,無不窮究。諸儒為之語曰:「關西孔子楊伯起。」常客居於湖,[一]不荅州郡禮命數十年,[二]觿人謂之晚暮,而震志愈篤。後有冠雀銜三鱣魚,飛集講堂前,[三]都講取魚進曰:「蛇鱣者,卿大夫服之象也。數三者,法三台也。先生自此升矣。」年五十,乃始仕州郡。

注[一]現在の湖城県。

原文注[一]今湖城縣。

注[二]『続漢書』に「二十余年にわたり教授し、州が召し出そうとしたが、たびたび病気を理由に応じなかった。幼くして孤貧で、母と二人で暮らし、土地を借りて耕作し、生計を立てた。かつて門人たちが藍の種を植えて助けようとしたが、楊震はすぐに抜き去り、後にそれを拒絶した。郷里では孝行と称えられた」とある。

原文注[二]續漢*(志)**[書]*曰「教授二十餘年,州請召,數稱病不就。少孤貧,獨與母居,假地種殖,以給供養,諸生嘗有助種藍者,震輒拔,更以距其後,鄉里稱孝」也。

注[三]冠は貫と読み、すなわち鸛雀のこと。鱣は善と読む。韓子に「鱣は蛇に似る」とある。臣の賢が調べたところ、『続漢書』及び謝承の書では「鱣」の字はすべて「釧」と作っている。よって「鱣」と「釧」は古字で通用する。鱣魚の長いものでも三尺を超えず、黄色い地に黒い文様がある。だから都講が「蛇釧は卿大夫の服の象徴である」と言ったのである。郭璞は「鱣魚は長さ二三丈、音は知然反」と言っているが、鸛雀がどうして二三丈のものをくわえられようか。これは鱣であることが明らかである。

原文注[三]冠音貫,即鸛雀也。鱣音善。韓子云:「鱣似蛇。」臣賢案:續漢及謝承書「鱣」字皆作「釧」,然則「鱣」「釧」古字通也。鱣魚長者不過三尺,黃地黑文,故都講云「蛇釧,卿大夫之服象也」。郭璞云「鱣魚長二三丈,音知然反」,安有鸛雀能勝二三丈乎?此為鱣明矣。

大将軍の鄧騭はその賢さを聞いて召し出し、茂才に推挙し、四度の昇進を経て荊州刺史・東萊太守となった。郡に赴任する途中、昌邑を通りかかった。かつて荊州で茂才に推挙した王密が昌邑の令となっており、謁見に来て、夜に至り懐から金十斤を取り出して楊震に贈った。楊震は言った。「私はあなたを知っているが、あなたは私を知らないのか。どうしてか。」王密は言った。「夜の闇には知る者はいません。」楊震は言った。「天が知り、神が知り、私が知り、あなたが知る。どうして知る者がいないと言えようか!」王密は恥じて退出した。後に涿郡太守に転任した。性質は公正で清廉であり、私的な請託を受けなかった。子孫は常に粗食で徒歩であり、旧知の長老たちの中には産業を興すよう勧める者もいたが、楊震は肯んじず、言った。「後世に『清廉な官吏の子孫』と呼ばれるように、これを遺産として与えるのは、十分ではないか。」

原文大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史﹑東萊太守。當之郡,道經昌邑,[一]故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,神知,我知,子知。何謂無知!」密愧而出。後轉涿郡太守。性公廉,不受私謁。子孫常蔬食步行,故舊長者或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」

注[一]昌邑の故城は現在の兗州金郷県の西北にある。

原文注[一]昌邑故城在今兗州金鄉縣西北也。

元初四年、召されて太僕となり、太常に昇進した。これ以前、博士の選挙は多く実態に合わなかったが、楊震は明経の名士である陳留の楊倫らを推挙し、学業を顕彰して儒者たちに称賛された。

原文元初四年,征入為太僕,遷太常。先是博士選舉多不以實,震舉薦明經名士陳留楊倫等,[一]顯傳學業,諸儒稱之。

注[一]楊倫は字を仲桓という。謝承の書に「楊仲桓ら五人を推薦し、それぞれ家から博士に任命された」とある。

原文注[一]倫字仲桓。謝承書云:「薦楊仲桓等五人,各從家拜博士。」

永寧元年、劉愷に代わって司徒となった。翌年、鄧太后が崩御し、内寵(宮中の寵臣)が初めて横暴になった。安帝の乳母である王聖は、養育の労苦を理由に恩寵に甘えて放恣に振る舞った。王聖の子女である伯栄は宮中に出入りし、賄賂を取り次いで姦通した。楊震は上疏して言った。

原文永寧元年,代劉愷為司徒。明年,鄧太后崩,內寵始橫。安帝乳母王聖,因保養之勤,緣恩放恣;聖子女伯榮出入宮掖,傳通姦賂。震上疏曰:

臣は聞く。政治は賢者を得ることを根本とし、統治は穢れを除くことを務めとする。それゆえ、唐虞の時代には俊乂が官にあり、四凶は流放され、天下は皆服し、和やかな治世がもたらされた。今、九徳はまだ事とされず、寵愛された者たちが朝廷に満ちている。阿母の王聖は賤しい身分から出て、千載一遇の機会に遭い、聖体を奉養した。乾いた所を推しやり自ら湿った所に居るような労苦はあったが、前後の賞賜と恩恵は労苦への報いを過ぎており、飽くことのない心は限度を知らない。外では付き合いや依頼を行い、天下をかき乱し、清らかな朝廷を損ない辱め、日月に塵を点じている。書経は牝鶏が牡のように鳴くことを戒め、詩経は聡明な婦人が国を喪うことを諷刺している。昔、鄭の厳公は母の欲望に従い、驕慢な弟の感情を恣にしたため、危うく国を危うくし、その後で討伐を加えた。春秋はこれを貶し、教えを失ったものとした。女子と小人は近づければ喜び、遠ざければ怨み、実に養い難いものである。易経に言う。『遂げる所なく、中饋に在る』。これは婦人が政事に関与してはならないということである。速やかに阿母を出して外の屋敷に住まわせ、伯栄との関係を断ち切り、往来させないようにすべきである。そうすれば恩徳が両方とも盛んになり、上下ともに美しくなる。陛下には婉孌たる私情を絶ち、忍びない心を断ち切り、万機に留意し、爵位授与を戒め慎み、献上物を減らし省き、徴発を抑制し節減されるよう願う。そうすれば野に鶴鳴の嘆きがなく、朝廷に小明の悔いがなく、大東の詩が今起こらず、労止の怨みが下に生じないであろう。往古の跡を擬し、哲王の徳に比べるなら、なんと素晴らしいことではないか。

原文臣聞政以得賢為本,理以去穢為務。[一]是以唐虞俊乂在官,四凶流放,天上咸服,以致雍熙。[二]方今九德未事,[三]嬖倖充庭。[四]阿母王聖出自賤微,得遭千載,奉養聖躬,雖有推燥居濕之勤,[五]前後賞惠,過報勞苦,而無厭之心,不知紀極,[六]外交屬托,擾亂天下,損辱清朝,塵點日月。書誡牝雞牡鳴,[七]  詩刺哲婦喪國。[八]昔鄭嚴公從母氏之欲,恣驕弟之情,幾至危國,然後加討,春秋貶之,以為失教。[九]夫女子小人,近之喜,遠之怨,實為難養。[一0]  易曰:『無攸遂,在中饋。』[一一]言婦人不得與於政事也。宜速出阿母,令居外捨,斷絕伯榮,莫使往來,令恩德兩隆,上下俱美。惟陛下絕婉孌之私,割不忍之心,[一二]留神萬機,誡慎拜爵,減省獻御,損節征發。令野無鶴鳴之歎,[一三]朝無小明之悔,[一四]大東不興於今,[一五]勞止不怨於下。[一六]  擬蹤往古,比德哲王,豈不休哉!

奏上されると、帝は阿母らに見せた。内幸(宮中の寵臣)たちは皆、憤りと恨みを抱いた。そして伯栄は特に驕慢で淫らであり、故朝陽侯劉護の従兄である劉纓と交際し、劉纓は彼女を妻とし、劉護の爵位を継承することができ、侍中の位に至った。

原文奏御,帝以示阿母等,內幸皆懷忿恚。而伯榮驕淫尤甚,與故朝陽侯劉護從兄纓交通,[一七]纓遂以為妻,得襲護爵,位至侍中。

楊震はこれを深く憎み、再び宮門に赴いて上疏した。

原文震深疾之,復詣闕上疏曰:

臣は聞く。高祖は群臣と約束し、功臣でなければ封じられないと。それゆえ、制度として父が死ねば子が継ぎ、兄が亡ければ弟が及ぶようにし、簒奪を防いだのである。詔書を見るに、故朝陽侯劉護の再従兄である劉纓が劉護の爵位を継承して侯となるとある。劉護の同母弟である劉威は、今なお存命である。臣は聞く。天子は専ら功ある者を封じ、諸侯は専ら徳ある者に爵を授けると。今、劉纓には他の功績や行いがなく、ただ阿母の娘と婚姻しただけである。一時の間に、既に侍中の位にあり、さらに封侯にまで至った。旧制を考慮せず、経義にも合わない。行路の人は喧嘩し、百姓は安らかでない。陛下には過去を鏡として顧み、先帝の法則に従われるべきである。

原文臣聞高祖與腢臣約,非功臣不得封,故經制父死子繼,兄亡弟及,以防篡也。[一八]伏見詔書封故朝陽侯劉護再從兄纓襲護爵為侯。護同產弟威,今猶見在。臣聞天子專封封有功,諸侯專爵爵有德。今纓無佗功行,但以配阿母女,一時之閒,既位侍中,又至封侯,不稽舊制,不合經義,行人諠嘩,百姓不安。陛下宜覽鏡既往,順帝之則。

上疏は奏上されたが、省みられなかった。

原文書奏不省。

注[一]墨子に「賢者を尊ぶことは政治の根本である」とある。左伝に「国を治める者は、農夫が草を除くことに務めるようなものである」とある。

原文注[一]墨子曰:「夫尚賢者,政本也。」左傳曰:「為國者,如農夫之務去草焉。」

注[二]尚書に「四つの罪を罰して天下は皆服した」とある。また「民は時に和らぎ変じ、多くの功績は皆広がった」とある。雍は和。熙は広。

原文注[二]尚書曰:「四罪而天下咸服。」又曰:「黎人於變時雍,庶績咸熙。」雍,和也。熙,廣也。

注[三]尚書の皐陶謨に「また行いには九徳がある。寛大で厳か、柔和で自立、慎み深く恭順、乱れて敬虔、従順で剛毅、正直で温和、簡素で廉潔、剛健で充実、強健で義に厚い」とある。また「九徳が皆事とされ、俊乂が官にいる」とある。

原文注[三]尚書戲繇謨曰:「亦行有九德:寬而栗,柔而立,願而龔,亂而敬,擾而毅,直而溫,簡而廉,剛而塞,強而誼。」又曰:「九德咸事,俊乂在官。」

注[四]『謚法』に「賤しくして愛を得るを嬖という」とある。

原文注[四]謚法曰:「賤而得愛曰嬖。」

注[五]『孝経援神契』に「母の子に対するや、鞠養殷勤にして、燥きを推し湿きに居り、少なきを絶ち甘きを分かつ」とある。

原文注[五]孝經援神契曰「母之於子也,鞠養殷勤,推燥居濕,絕少分甘」也。

注[六]『左伝』に、縉雲氏に不材の子あり、聚斂積実して、紀極を知らず、とある。

原文注[六]左傳曰,縉雲氏有不材子,聚斂積實,不知紀極。

注[七]牝は雌、牡は雄。『尚書』に「古人言う有り、牝雞晨なる無し、牝雞の晨は、唯だ家の索ほろぶるのみ」とある。

原文注[七]牝,雌也。牡,雄也。尚書:「古人有言,牝雞無晨,牝雞之晨,唯家之索。」

注[八]『詩経』大雅に「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く」とある。

原文注[八]詩大雅曰:「哲夫成城,哲婦傾城。」

注[九]厳公は荘公。明帝の諱いみなを避けて改めた。『左伝』に、鄭の荘公が同母弟の段を殺したことを鄭伯と称し、教えを失ったことを譏っている。

原文注[九]嚴公,莊公也,避明帝諱改焉。左傳,鄭莊公殺母弟段,稱鄭伯,譏失教也。

注[一〇]『論語』に「唯だ女子と小人と養い難しと為す、之に近づけば則ち遜らず、之を遠ざくれば則ち怨む」とある。

原文注[一0]論語曰「唯女子與小人為難養,近之則不遜,遠之則怨」也。

注[一一]家人卦の六二爻の爻辞。鄭玄の注に「二は陰爻にして内に正を得、五は陽爻にして外に正を得る。婦人が内に自ら修正し、丈夫が外に修正するに猶る。攸に遂ぐ無しとは、婦人敢えて自ら遂ぐる無きを言う。爻の体は離、又互体は坎、火の位は下に在り、水は上に在り、餁にるの象なり。饋は食なり、故に中饋に在りと云う」とある。

原文注[一一]家人卦六二爻辭也。鄭玄注曰:「二為陰爻,得正於內;五,陽爻也,得正於外。猶婦人自修正於內,丈夫修正於外。無攸遂,言婦人無敢自遂也。爻體離,又互體坎,火位在下,水在上,餁之象也。饋,食也,故云在中饋也。」

注[一二]『詩経』国風候人篇の序に「曹の共公、君子を遠ざけ小人に近づく」とある。その詩に「婉兮孌兮、季女斯に饑う」とある。婉は少き貌、孌は好き貌。

原文注[一二]詩國風候人篇序曰:「曹共公遠君子而近小人。」其詩曰:「婉兮孌兮,季女斯饑。」婉,少貌。孌,好貌也。

注[一三]『詩経』小雅の序に「鶴鳴は宣王を誨う」とある。鄭玄の注に「周の宣王に仕えざる賢人を求むるを教う」とある。その詩に「鶴九皐に鳴き、声野に聞こゆ」とある。身は隠れながら名は著わる、賢者は隠居すとも人皆之を知るを喩える。

原文注[一三]詩小雅序曰:「鶴鳴,誨宣王也。」鄭玄注云:「教周宣王求賢人之未仕者。」其詩曰:「鶴鳴於九戲,聲聞於野。」言身隱而名著,喻賢者雖隱居,人咸知之。

注[一四]『詩経』小雅の序に「小明は、大夫乱に仕うるを悔ゆ」とある。小明とは、周の幽王が日にその明を小さくし、その政事を損ない、以て乱に至るを言う。

原文注[一四]詩小雅序曰:「小明,大夫悔仕於亂也。」小明者,言周幽王日小其明,損其政事,以至於亂。

注[一五]『詩経』小雅の序「大東は乱を刺す」とある。その詩に「小東大東、杼柚其れ空し」とある。鄭玄の注に「小も亦た東に於いて、大も亦た東に於いて、賦斂の多きを言う」とある。

原文注[一五]詩小雅序:「大東,刺亂也。」其詩曰:「小東大東,杼柚其空。」鄭玄注云:「小亦於東,大亦於東,言賦斂多也。」

注[一六]『詩経』大雅の序に「人労は厲王を刺す」とある。その詩に「人亦た労し止めん、迨くば小康すべし」とある。注[一七]護は、泗水王劉歙の従曾孫。

原文注[一六]詩大雅序曰:「人勞,刺厲王也。」其詩曰「人亦勞止,迄可小康」也。  注[一七]護,泗水王歙之從曾孫。

注[一八]『公羊伝』に「劉子・単子、王猛を以て王城に入るとは何ぞや? 西周なり。其の言う入るとは何ぞ? 篡の辞なり。冬十月、王子猛卒す。此れ未だ年を踰えざるの君、其の王子猛卒すと称するは何ぞ? 当たるを与えざるなり。当たるを与えざるとは、父死し子継ぎ、兄亡び弟及ぶに与せざるなり」とある。

原文注[一八]公羊傳曰:「劉子﹑單子以王猛入於王城者何?西周也。其言入何?篡辭也。冬十月,王子猛卒。此未踰年之君,其稱王子猛卒何?不予當也。不予當者,不與當父死子繼,兄亡弟及也。」

延光二年、劉愷に代わって太尉となった。帝の舅である大鴻臚の耿寶が中常侍の李閏の兄を楊震に推薦したが、楊震は従わなかった。耿寶は自ら楊震を訪ねて言った。「李常侍は国家が重んじる者で、公にその兄を辟召させたいと願っている。私はただ上の意を伝えるだけだ。」楊震は言った。「もし朝廷が三府に辟召させたいのであれば、当然尚書の命令があるはずだ。」遂に拒絶して許さず、耿宝は大いに恨んで去った。皇后の兄である執金吾の閻顕も親しい者を楊震に推薦したが、楊震はまた従わなかった。司空の劉授がこれを聞くと、すぐにこの二人を辟召し、十日ほどの間に皆抜擢された。これによって楊震はますます怨まれるようになった。

原文延光二年,代劉愷為太尉。帝舅大鴻臚耿寶薦中常侍李閏兄於震,震不從。寶乃自往候震曰:「李常侍國家所重,欲令公辟其兄,寶唯傳上意耳。」[一]震曰:「如朝廷欲令三府辟召,故宜有尚書敕。」遂拒不許,寶大恨而去。皇后兄執金吾閻顯亦薦所親厚於震,震又不從。司空劉授聞之,[二]即辟此二人,旬日中皆見拔擢。由是震益見怨。

注[一]は、言葉が自分の本心ではなく、上意を伝えたものであることを言う。注[二]漢官儀には、「授は字を孟春といい、武原の人である」とある。

原文注[一]言非己本心,傳在上之意。  注[二]漢官儀:「授字孟春,武原人。」

その時、詔により使者が派遣され、阿母のために大規模に邸宅を造営することとなり、中常侍の樊豊と侍中の周広・謝惲らが互いに煽動し合い、朝廷を揺るがしていた。楊震は再び上疏して言った。

原文時詔遣使者大為阿母修第,中常侍樊豐及侍中周廣﹑謝惲等更相扇動,傾搖朝廷。震復上疏曰:

臣は聞く、古の時代には九年耕作すれば必ず三年分の蓄えがあるので、堯の時に洪水が起こっても、人々に飢えた顔色はなかったと[一]。臣が思うに、今は災害が発生し、次第に甚だしくなり[二]、百姓は空しく貧しく、自らを養うことができない。さらに蝗害こうがいがあり、羌族や虜が略奪し、三方の辺境が震動して騒ぎ、戦闘は今も止まず、兵士や武器、軍糧を再び供給することができない。大司農の財庫は乏しく、これは国家が安寧である時ではない。詔書を見ると、阿母のために津城門の内側に邸宅を建てることとし[三]、二つの区画を一つに合わせ[四]、街路にまで連なり、彫刻や修繕、飾り付けを極め、技巧を尽くしている。今は盛夏で土気が旺じる時期なのに、山を切り石を採り、大匠左校別部将作が合わせて数十か所で[五]、互いに急き立て合い、費用は巨億に上る。周広・謝惲兄弟は、国と心臓や枝葉のような深い関係もなく、近習の奸佞の者に依りかかり、樊豊・王永らと権威を分かち権力を共にし、州郡に依頼し、大臣を動揺させている。宰司が官吏を召し出す時は、その意向を伺い、海内の貪汚な者を招き寄せ、その賄賂を受け取り、収賄で追放された者さえ再び顕職に就くことさえある[六]。白黒が混濁し、清濁が同じ源となり、天下が騒ぎ、皆が財貨が上流に流れ、朝廷が非難を招いていると言う。臣は師の言葉を聞く。『上に立つ者が取り立てれば、財が尽きれば怨み、力が尽きれば背く』と。怨み背く者を、再び使うことはできない。故に『百姓が足りなければ、君は誰と足りようか』[七]と言う。どうか陛下がご考慮ください。

原文臣聞古者九年耕必有三年之儲,故堯遭洪水,人無菜色。[一]臣伏念方今災害發起,彌彌滋甚,[二]百姓空虛,不能自贍。重以螟蝗,羌虜鈔掠,三邊震擾,戰鬥之役至今未息,兵甲軍糧不能復給。大司農帑藏匱乏,殆非社稷安寧之時。伏見詔書為阿母興起津城門內第捨,[三]合兩為一,連裡竟街,[四]  雕修繕飾,窮極巧伎。今盛夏土王,而攻山採石,其大匠左校別部將作合數十處,[五]轉相迫促,為費巨億。周廣﹑謝惲兄弟,與國無肺腑枝葉之屬,依倚近幸奸佞之人,與樊豐﹑王永等分威共權,屬托州郡,傾動大臣。宰司辟召,承望旨意,招來海內貪污之人,受其貨賂,至有臧錮棄世之徒復得顯用。[六]  白黑溷淆,清濁同源,天下讙嘩,咸曰財貨上流,為朝結譏。臣聞師言:『上之所取,財盡則怨,力盡則叛。』怨叛之人,不可復使,故曰:『百姓不足,君誰與足?』[七]惟陛下度之。

樊豊・謝惲らは、楊震が繰り返し強く諫めても聞き入れられないのを見て、何の顧みもなく、遂に詔書を偽造し、司農の銭穀や大匠の現役の囚人や材木を徴発し、それぞれ邸宅・庭園・池・別荘・楼閣を建て、労役と費用は数知れなかった。

原文豐﹑惲等見震連切諫不從,無所顧忌,遂詐作詔書,調發司農錢穀﹑大匠見徒材木,各起家捨﹑園池﹑廬觀,役費無數。

注[一]は、蓄えがあれば、人々が野菜を食べるような飢えた顔色にならないことを言う。注[二]は、彌彌は少しずつの意。韋孟の詩に「彌彌其失」とある。

原文注[一]言有儲蓄,人無食菜之饑色也。  注[二]彌彌猶稍稍也。韋孟詩曰「彌彌其失」也。

注[三]は、津城門は、洛陽の南面西端の門である。注[四]は、二つの坊を合わせて一つの邸宅とした。裡とは坊のことである。

原文注[三]津城門,洛陽南面西頭門也。  注[四]合兩坊而為一宅。裡即坊也。

注[五]は、続漢志によれば、将作大匠は秩二千石。左校令は秩六百石。

原文注[五]續漢志將作大匠,秩二千石。左校令,秩六百石。

注[六]は、収賄により禁錮された者のことである。注[七]は、論語にある有若が魯の哀公に答えた言葉。

原文注[六]有臧賄禁錮之人也。  注[七]論語有若對魯哀公之詞。

楊震は地震を機に、再び上疏して言った。

原文震因地震,復上疏曰:

臣は恩寵を受けて台輔の任に備えながら、政教を宣べ陰陽を調和することができず、去年十二月四日、京師で地震があった。臣は師の言葉を聞く。『地は陰の精であり、静かにして陽を受けるべきである』と。今動揺するのは、陰の道が盛んであるからだ。その日は戊辰で、戊も辰も土に属し、位は中宮にある[一]。これは中臣や近習の官が権力を握り事を行うことが盛んである象徴である。

原文臣蒙恩備台輔,不能奉宣政化,調和陰陽,去年十*(一)*[二]月四日,京師地動。臣聞師言:『地者陰精,當安靜承陽。』而今動搖者,陰道盛也。其日戊辰,三者皆土,位在中宮,[一]此中臣近官盛於持權用事之象也。

臣が考えるに、陛下は辺境が未だ寧かでないため、自ら質素にし、宮殿や垣や屋根が傾き、支柱で支えているだけで[二]、何も造営せず、遠近に政教の清らかな流れと、商邑の整然たる様[三]を知らしめようとされている。しかし、親しい近習の幸臣は、断金の和を尊ばず[四]、驕り高ぶって法を越え、多くの囚人を請い出し、盛んに邸宅を建て、威福をほしいままにしている。道路では騒ぎが聞こえ、多くの者が見聞きしている。地震の変異は、城郭の近くで起こり、おそらくこのためであろう。また、冬に積雪がなく、春に雨が降らず、百官は心を焦がしているのに、修繕が止まないのは、まさに旱魃を招く兆候である。書経に言う。『僭れば常に陽の如し。臣は威福を作し玉食を作すこと無かれ』[五]と。どうか陛下は乾の剛健な徳を奮い起こし[六]、驕奢な臣を退け、妖しい言葉の口を封じ、皇天の戒めを奉じ、威福が久しく下に移ることを許さないでください。

原文臣伏惟陛下以邊境未寧,躬自菲薄,宮殿垣屋傾倚,枝柱而已,[二]無所興造,欲令遠近咸知政化之清流,商邑之翼翼也。[三]而親近幸臣,未崇斷金,[四]  驕溢踰法,多請徒士,盛修第捨,賣弄威福。道路讙嘩,觿所聞見。地動之變,近在城郭,殆為此發。又冬無宿雪,春節未雨,百僚燋心,而繕修不止,誠致旱之征也。書曰:『僭恆陽若,臣無作威作福玉食。』[五]唯陛下奮干剛之德,[六]棄驕奢之臣,以掩訞言之口,奉承皇天之戒,無令威福久移於下。

注[一]は、戊の干も辰の支もともに土であり、地震と合わせて三者と言う。注[二]は、倚は傾いていること。注音は竹主反。

原文注[一]戊干辰支皆土也,並地動,故言三者。  注[二]倚,邪也。注音竹主反。

注[三]は、詩経商頌の「商邑翼翼、四方之極」である。注[四]は、易経繋辞に「二人心を同じくすれば、其の利は金を断つ」とある。邪佞の臣は、上と心を同じくしないことを言う。

原文注[三]詩商頌「商邑翼翼,四方之極」也。  注[四]易系辭曰:「二人同心,其利斷金。」言邪佞之臣,不與上同心。

注[五]は、尚書洪範の言葉である。僭は過ち。若は従う。君の行いが過てば、常に陽がそれに従う。君のみが威福を専らにし、美食をすることができると言う。

原文注[五]尚書洪範之詞也。僭,差也。若,順也。君行僭差,則常陽順之也。言唯君得專威福,為美食。

注[六]は、易経に「大なるかな乾や!剛健中正、純粋精なり」とある。

原文注[六]易曰:「大哉干乎!剛健中正,純粹精也。」

楊震が前後して上奏した内容は、次第に厳しく核心を突くものとなり、皇帝はすでにこれを快く思わず、樊豊らも皆、横目で睨み憤り怨んだが、いずれも彼が名高い儒者であるため、敢えて危害を加えることはできなかった。やがて河間の男子趙騰が宮門に赴き上書し、政治の得失を指摘して述べた。皇帝は怒りを発し、ついに彼を捕らえて詔獄に下し取り調べ、君主を欺く不道の罪で結審した。楊震は再び上疏して彼を救おうとして言った。「臣は聞きます。堯や舜の世には、諫言の太鼓と誹謗の木が朝廷に立てられました。殷や周の賢明な君主は、小人が怨み罵れば、かえって自らの徳を敬い修めました。これによって聡明さを広げ、忌憚なく意見を開き、賤しい者からも広く採り上げ、下情をことごとく極めるのです。今、趙騰が罪に問われているのは、激しく直言し誹謗する言葉による罪であり、手ずから刃物で法を犯すのとは違いがあります。どうか刑を減じて除き、趙騰の命を全うさせ、草を刈る者や衆人の言葉を引き出すきっかけとしていただきたい。」皇帝は省みず、趙騰はついに市中で処刑された。

原文震前後所上,轉有切至,帝既不平之,而樊豐等皆側目憤怨,俱以其名儒,未敢加害。尋有河閒男子趙騰詣闕上書,指陳得失。帝發怒,遂收考詔獄,結以罔上不道。震復上疏救之曰:「臣聞堯舜之世,諫鼓謗木,立之於朝;[一]殷周哲王,小人怨詈,則還自敬德。[二]所以達聰明,開不諱,博采負薪,盡極下情也。今趙騰所坐激訐謗語為罪,與手刃犯法有差。乞為虧除,全騰之命,以誘芻蕘輿人之言。」[三]帝不省,騰竟伏屍都市。

注釈[一]『帝王紀』に「堯は敢えて諫める者のための太鼓を置き、舜は誹謗のための木を立てた」とある。

原文注[一]帝王紀曰:「堯置敢諫之鼓,舜立誹謗之木。」

注釈[二]『尚書』に「殷王の中宗および高宗および祖甲および我が周の文王、この四人は明哲であった。もし誰かが彼らに告げて『小人が汝を怨み汝を罵る』と言えば、かえって自らの徳を敬った」とある。

原文注[二]尚書曰「自殷王中宗及高宗及祖甲及我周文王,茲四人迪哲。厥或告之曰小人怨女詈女,則皇自敬德」也。

注釈[三]輿は、衆である。『詩経』に「草刈りに尋ねる」とある。『左氏伝』に「衆人の謀を聴く」とある。

原文注[三]輿,觿也。詩曰:「詢於芻蕘。」左氏傳曰「聽輿人之謀」也。

ちょうど三年の春、皇帝が東方に巡行して岱宗に至った時、樊豊らは乗輿が外にあるのを機に、競って邸宅を造営した。楊震の部掾である高舒が大匠令史を召してこれを調査させたところ、樊豊らが偽って下した詔書を入手し、詳細に上奏文を整え、行幸から戻るのを待って上奏しようとした。樊豊らはこれを聞き、恐れおののいた。ちょうど太史が星の異変と逆行を言上したので、共に楊震を讒言して言った。「趙騰が死んで以来、深く怨み懟んでいる。かつて鄧氏の故吏であり、恨みの心がある。」車駕が行幸から戻り、吉時に合わせて太学に寄った時、夜間に使者を遣わして策書を持たせ楊震の太尉の印綬を没収した。そこで楊震は柴門を閉ざして賓客を絶った。樊豊らはさらにこれを憎み、大将軍の耿宝に奏上させて、楊震が大臣として罪に服さず、恨みを抱いて望んでいる、と述べさせた。詔により本郡に帰還させられることとなった。楊震が城西の幾陽亭まで行くと、慷慨としてその諸子や門人たちに言った。「死は士の常である。私は恩を受けて上司の地位にありながら、奸臣の狡猾を憎んで誅することができず、悪しき寵姫の傾乱を憎んで禁ずることができなかった。何の面目あって再び日月(天子)を見ようか。身が死ぬ日には、雑木で棺とし、布の単被を体を覆うのに足りるだけ裁ち、墓域に帰葬せず、祭祠を設けるな。」そして毒を飲んで死去した。時に七十余歳であった。弘農太守の移良は樊豊らの意を受けて、役人を陝県に遣わし楊震の喪を留め止めさせ、棺を道端に露わに放置し、楊震の諸子を流刑として駅逓の文書伝達の労役に就かせた。道行く人々は皆、涙を流した。

原文會三年春,東巡岱宗,樊豐等因乘輿在外,競修第宅,震部掾高舒召大匠令史考校之,[一]得豐等所詐下詔書,具奏,須行還上之。豐等聞,惶怖,會太史言星變逆行,遂共譖震云:「自趙騰死後,深用怨懟;[二]且鄧氏故吏,有恚恨之心。」[三]及車駕行還,便時太學,[四]夜遣使者策收震太尉印綬,於是柴門絕賓客。豐等復惡之,乃請大將軍耿寶奏震大臣不服罪,懷恚望,有詔遣歸本郡。震行至城西幾陽亭,乃慷慨謂其諸子門人曰:[五]「死者士之常分。吾蒙恩居上司,疾奸臣狡猾而不能誅,惡嬖女傾亂而不能禁,何面目復見日月!身死之日,以雜木為棺,布單被裁足蓋形,勿歸頤次,勿設祭祠。」因飲酖而卒,時年七十餘。弘農太守移良[六]承樊豐等旨,遣吏於陝縣留停震喪,露棺道側,[七]讁震諸子代郵行書,道路皆為隕涕。[八]

注釈[一]史とは府吏のことである。  注釈[二]懟は怨み怒ることである。  注釈[三]楊震は初め鄧騭に召し出されたので、故吏という。

原文注[一]史謂府吏也。  注[二]懟,怨怒也。  注[三]震初鄧騭辟之,故曰故吏。

注釈[四]まず太学で吉時を待ってから入るので、便時という。前漢書に「便時に上林延寿門に至る」とある。

原文注[四]且於太學待吉時而後入也,故曰便時。前書「便時上林延壽門」也。

注釈[五]慷慨は悲しみ嘆くこと。  注釈[六]『風俗通』に「斉の公子雍が移に食邑され、その後裔が氏とした」とある。

原文注[五]慷慨,悲歎。  注[六]風俗通曰:「齊公子雍食菜於移,其後氏焉。」

注釈[七]謝承の『後漢書』に「楊震は臨終に際し、諸子に牛車と薄い簀を用い、柩を載せて帰還せよと言った」とある。  注釈[八]『説文』に「郵は、境上の文書伝達の宿駅である」とある。『広雅』に「郵は駅である」とある。

原文注[七]謝承書曰:「震臨沒,謂諸子以牛車薄簀,載柩還歸。」  注[八]說文:「郵,境上行書捨也。」廣雅曰:「郵,驛也。」

一年余り後、順帝が即位すると、樊豊や周広らは誅殺され、楊震の門生である虞放と陳翼が宮門に赴き楊震の事を追って訴訟した。朝廷は皆その忠を称え、詔を下して二人の子を郎に任じ、百万の銭を贈り、礼をもって華陰の潼亭に改葬した。遠近から人々がことごとく参列した。埋葬の十余日前、一丈いちじょう余りの高さの大鳥が楊震の喪の前に集まり、うつむき仰ぎ悲しげに鳴き、涙を流して地を濡らした。埋葬が終わると飛び去った。郡はこの状況を上奏した。当時、災異が相次いでいたため、皇帝は楊震の無実を感じ、詔策を下して言った。「故太尉楊震は、正直とともにある者であり、時政を補佐させたのに、青蠅が白絹を汚すように、讒言が彼を汚した。上天が威を下し、災いが屡々起こるのは、占いによれば全て楊震の故である。朕の不徳によって、その咎が明らかになった。山が崩れ棟が折れるとは、我が身の危うきことよ。今、太守丞に中牢の礼具で祭祀を行わせる。魂にして霊あらば、どうかこれを歓び受け給え。」そこで当時の人々はその墓所に石の鳥の像を立てた。

原文歲餘,順帝即位,樊豐﹑周廣等誅死,震門生虞放﹑陳翼詣闕追訟震事。朝廷咸稱其忠,乃下詔除二子為郎,贈錢百萬,以禮改葬於華陰潼亭,[一]遠近畢至。先葬十餘日,有大鳥高丈餘,集震喪前,俯仰悲鳴,淚下沾地,葬畢,乃飛去。郡以狀上。[二]時連有災異,帝感震之枉,乃下詔策曰:「故太尉震,正直是與,俾匡時政,而青蠅點素,同茲在藩。[三]上天降威,災眚屢作,爾卜爾筮,惟震之故。朕之不德,用彰厥咎,山崩棟折,我其危哉![四]今使太守丞以中牢具祠,魂而有靈,儻其歆享。」於是時人立石鳥象於其墓所。

注釈[一]墓は現在の潼関の西、大道の北にあり、その碑はまだ残っている。

原文注[一]墓在今潼關西大道之北,其碑尚存。

注釈[二]『続漢書』に「大鳥が来て亭の木に止まり、地面に下りて安らかに歩いて柩の前に行き、まっすぐに立ち頭を垂れて涙を流した。人々が代わる代わる撫で抱きしめたが、ついに驚かなかった」とある。謝承の『後漢書』に「その鳥は五色で、高さ一丈余り、両翼の長さは二丈三尺あり、人はその名を知らなかった」とある。

原文注[二]續漢書曰:「大鳥來止亭樹,下地安行到柩前,正立低頭淚出。觿人更共摩撫抱持,終不驚駭。」謝承書曰:「其鳥五色,高丈餘,兩翼長二丈三尺,人莫知其名也。」

注釈[三]藩は樊(籬)である。『詩経』に「営営たる青蠅、樊に止まる。愷悌たる君子、讒言を信ずるなかれ」とある。青蠅は白を汚して黒にし、黒を汚して白にする。佞人が善悪を変乱させることに譬えている。

原文注[三]藩,樊也。詩云:「營營青蠅,止於樊,愷悌君子,無信讒言。」青蠅,污白使黑,污黑使白,喻佞人變亂善惡也。

注釈[四]『礼記』に「孔子が臨終に際し、歌って『泰山その頽けんか、梁木その壊れんか』と言った」とある。楊震が讒言された時、高舒もまた罪を得て、死刑を減じる判決を受けた。楊震の事が明らかになると、高舒は侍御史に拝され、荊州刺史に至った。

原文注[四]禮記曰:「孔子將終,歌曰:『泰山其頹乎!梁木其壞乎!』」震之被譖也,高舒亦得罪,以減死論。及震事顯,舒拜侍御史,至荊州刺史。

楊震には五人の子がいた。

原文震五子。

長男の牧

原文長子 牧

長男の牧は、富波の相となった。

原文長子牧,富波相。[一]

注釈[一]富波は県であり、汝南郡に属する。

原文注[一]富波,縣,屬汝南郡。

牧の孫の奇

原文牧孫 奇

牧の孫の奇は、霊帝の時に侍中となり、帝がかつて気軽に奇に尋ねて言った。「朕は桓帝と比べてどうか。」答えて言った。「陛下と桓帝との関係は、虞舜が唐堯と徳を比べるようなものです。」帝は不機嫌になり言った。「卿は強情だ。まさに楊震の子孫だ。死後は必ずまた大鳥を招くことになるだろう。」汝南太守として出された。帝が崩御した後、再び入朝して侍中衛尉となり、献帝に従って西遷し、功労があった。李傕が帝を脅してその陣営に帰還させた時、奇は黄門侍郎の鍾繇と共に李傕の部曲ぶきょく将の宋曄と楊昂を誘い、李傕に背かせた。これにより李傕は孤立して弱体化し、帝は東へ向かうことができた。後に都が許に移ると、奇の子の亮を追封して陽成亭侯とした。

原文牧孫奇,靈帝時為侍中,帝嘗從容問奇曰:「朕何如桓帝?」對曰:「陛下之於桓帝,亦猶虞舜比德唐堯。」帝不悅曰:「卿強項,真楊震子孫,[一]死後必復致大鳥矣。」出為汝南太守。帝崩後,復入為侍中衛尉,從獻帝西遷,有功勤。及李傕脅帝歸其營,奇與黃門侍郎鍾繇誘傕部曲將宋曄、楊昂令反傕,傕由此孤弱,帝乃得東。[二]後徙都許,追封奇子亮為陽成亭侯。[三]

注釈[一]強項とは、頭を低く屈めないことを言う。光武帝が董宣を「強項令」と呼んだ故事による。

原文注[一]強項,言不低屈也,光武謂董宣為「強項令」也。

注釈[二]魏志によると、鍾繇は黄門侍郎となり、李傕が天子を脅した時、鍾繇は尚書郎の韓斌と共に策謀を巡らせた。天子が長安を脱出できたのは、鍾繇の力によるものがあった。

原文注[二]魏志曰,繇為黃門侍郎,傕脅天子,繇與尚書郎韓斌同策謀。天子得出長安,繇有力焉。

注釈[三]亮の旧宅は閿郷県の西南にあった。

原文注[三]亮舊宅在閿鄉縣西南。

末子の奉

原文少子 奉

奉の子の敷

原文奉子 敷

楊震の末子の奉、奉の子の敷は、志を厚くし博く聞き、議論する者は彼が家を継ぐことができると見なした。

原文震少子奉,奉子敷,篤志博聞,議者以為能世其家。

敷の子の觿

原文敷子 觿

敷は早世し、子の觿もまた先祖の業を伝え、謁者僕射として献帝に従って関中に入り、累進して御史中丞となった。帝が東還する際、夜に逃れて黄河を渡ると、觿は諸官属を率いて徒歩で従い太陽まで至り、侍中に任じられた。建安二年、以前の功績を追認して蓩亭侯に封じられた。

原文敷早卒,子觿,亦傳先業,以謁者僕射從獻帝入關,累遷御史中丞。及帝東還,夜走度河,觿率諸官屬步從至太陽,拜侍中。[一]建安二年,追前功封蓩亭侯。[二]

注釈[一]太陽は県であり、河東郡に属する。  注釈[二]郡国志によると桃林県に蓩郷があり、音は莫老の反切。

原文注[一]太陽,縣,屬河東郡。  注[二]郡國志桃林縣有蓩鄉,音莫老反。

次男の秉

原文中子 秉

楊震の子は楊秉である。楊秉は字を叔節といい、幼い頃から父の学問を受け継ぎ、京氏易を兼ねて明らかにし、書物や伝記に広く通じ、常に隠居して教授していた。四十歳を過ぎてから、司空の招聘に応じ、侍御史に任じられ、頻繁に豫州・荊州・徐州・兗州の四州刺史として出向し、任城相に転任した。刺史や二千石の官に就いて以来、在職日数に応じて俸禄を受け取り、余分な禄は私邸に入れなかった。旧部下が百万銭を贈ろうとしたが、門を閉めて受け取らなかった。廉潔で知られた。

原文震中子秉。秉字叔節,少傳父業,兼明京氏易,博通書傳,常隱居教授。年四十餘,乃應司空辟,拜待御史,頻出為豫﹑荊﹑徐﹑兗四州刺史,遷任城相。自為刺史﹑二千石,計日受奉,余祿不入私門。故吏繼錢百萬遺之,閉門不受。以廉潔稱。

桓帝が即位すると、尚書に明るいとして召し出されて侍講に加わり、太中大夫・左中郎将に任じられ、侍中・尚書に昇進した。帝が当時微行し、ひそかに河南尹の梁胤の邸宅を訪れた。その日は大風が木を抜き、昼間も暗くなったので、楊秉は上疏して諫めた。

原文桓帝即位,以明尚書征入勸講,[一]拜太中大夫﹑左中郎將,遷侍中﹑尚書。帝時微行,私過幸河南尹梁胤府捨。[二]是日大風拔樹,晝昏,秉因上疏諫曰:

臣は聞く、祥瑞は徳によってもたらされ、災害は事柄に応じて生じると。伝に言う、『禍福に門はなく、ただ人が招くところである』と。天は言葉を発しないが、災異をもって譴責し警告する。それゆえ孔子は迅雷や烈風があれば必ず態度を改めた。詩に云う、『天の威を敬い、あえて駆け巡らせず』と。王者は至って尊く、出入りには定まった作法があり、警蹕して行進し、清められた宮室に留まる。郊祀や宗廟の祭祀でない限り、鑾旗を掲げた車駕は出さない。故に詩は『郊から宮へ』と称し、易は『王、廟に至る、孝を致し享けるなり』と言う。諸侯が臣下の家を訪れることさえ、春秋はその戒めを列記している。ましてや先王の定めた礼服を着て私的に出遊することは、尊卑の秩序を乱し、威儀の等差を無くす。侍衛は空の宮殿を守り、綬と璽は女妾に委ねられる。もし非常の変事や任章のような謀略があれば、上は先帝に背き、下は悔いても及ばない。臣は代々恩を受けており、納言の職に備え、また浅学ながら講義の任に充てられ、特に哀れみと識別を蒙り、日月のごとくお見守りいただいている。恩は重く命は軽い。義は士をして死なしめる。敢えて挫折を恐れず、わずかにその愚見を陳べる。

原文臣聞瑞由德至,災應事生。傳曰:『禍福無門,唯人所召。』[三]天不言語,以災異譴告,是以孔子迅雷風烈必有變動。詩云:『敬天之威,不敢驅馳。』[四]  王者至尊,出入有常,警蹕而行,靜室而止,[五]自非郊廟之事,則鑾旗不駕。[六]故詩稱『自郊徂宮』,[七]易曰『王假有廟,致孝享也』。[八]諸侯如臣之家,春秋尚列其誡,[九]況以先王法服而私出盤遊![一0]降亂尊卑,等威無序,[一一]侍衛守空宮,紱璽委女妾,設有非常之變,任章之謀,[一二]上負先帝,下悔靡及。臣奕世受恩,[一三]得備納言,[一四]  又以薄學,充在講勤,特蒙哀識,見照日月,恩重命輕,義使士死,敢憚摧折,略陳其愚。

帝は受け入れなかった。楊秉は病気を理由に退任を願い出て、右扶風として出向した。太尉の黄瓊は彼が朝廷を去るのを惜しみ、楊秉が帷幄で侍講していたことを上奏し、外任させるべきでないとして、留任させて光禄大夫に任じた。この時、大将軍の梁冀が権力を握っており、楊秉は病気と称した。六年後、梁冀が誅殺された後、太僕に任じられ、太常に転任した。

原文帝不納。秉以病乞退,出為右扶風。太尉黃瓊惜其去朝廷,上秉勸講帷幄,不宜外遷,留拜光祿大夫。是時大將軍梁冀用權,秉稱病。六年,冀誅後,乃拜太僕,遷太常。

注[一] 勸講は、侍講と同じである。注[二] 梁胤は、梁冀の子である。

原文注[一]勸講,猶侍講也。  注[二]胤,梁冀子也。  注[三]左傳閔子馬之詞。

注[四] 詩経大雅に「天の怒りを敬い、あえて戯れ遊ばず、天の変わりを敬い、あえて駆け巡らせず」とあり、この文とは少し異なる。

原文注[四]詩大雅曰「敬天之怒,無敢戲豫,敬天之渝,無敢馳驅」,與此文稍異也。

注[五] 蹕は、行人を止めること。静室とは、先に宮室を清めることを言う。前書音義によれば、漢に静室令という官があった。注[六] 漢官儀によれば、「前駆に雲罕、皮軒、鑾旗の車がある」という。

原文注[五]蹕,止行人也。靜室謂先使清宮也。前書音義曰,漢有靜室令也。  注[六]漢官儀曰「前驅有雲罕,皮軒鑾旗車」也。

注[七] 詩経大雅雲漢の言葉である。郊は、天を祭ること。注[八] 易経萃卦の言葉である。假は、至る。假の音は格。

原文注[七]詩大雅雲漢之詞也。郊,祭天也。  注[八]萃卦詞也。假,至也。假音格。

注[九] 左伝によれば、斉の荘公が崔杼の家に行き、杼に殺された。注[一0] 法服とは天子の服で、日・月・星辰・山・龍・華蟲・藻・火・粉・米・黼・黻の十二章からなる。

原文注[九]左傳,齊莊公如崔杼之家,為杼所殺也,注[一0]法服謂天子服,日、月、星辰、山、龍、華蟲、藻、火、粉、米、*[黼、黻]*十二章。

注[一一] 等威とは、威儀に等差があることを言う。左伝に「貴きには常の尊さあり、賤しきには等威あり」とある。

原文注[一一]等威謂威儀有等差也。左傳曰「貴有常尊,賤有等威」也。

注[一二] 前書によれば、代郡太守の任宣が謀反の罪で誅殺され、その子の任章は公車丞となり、渭城の境界内に逃亡し、夜に黒服で廟に入り、郎の間に居座り、戟を執って廟門に立ち、帝の到来を待ち、逆を謀ろうとしたが、発覚して誅殺された。

原文注[一二]前書曰,代郡太守任宣坐謀反誅,宣子章為公車丞,亡在渭城界中,夜玄服入廟,居郎閒,執戟立於廟門,待上至,欲為逆,發覺伏誅也。

注[一三] 奕は重なるの意。注[一四] 納言は、尚書である。

原文注[一三]奕猶重也。  注[一四]納言,尚書。

延熹三年、白馬令の李雲が諫言のために罪を受け、楊秉は彼を弁護したが叶わず、連座して免官され、郷里に帰った。その年の冬、再び召されて河南尹に任じられた。以前、中常侍の単超の弟の単匡が済陰太守であったが、収賄の罪で刺史の第五種に弾劾され、窮地に陥り、刺客の任方に賄賂を贈って兗州従事の衛羽を刺殺させた。事件の詳細は第五種伝に見える。任方を捕らえて洛陽に囚禁した後、単匡は楊秉が事件を徹底追及することを懸念し、密かに任方らに脱獄逃亡させた。尚書が楊秉を召して詰問すると、楊秉は答えて言った。「春秋は黎比を誅さなかったので魯に盗賊が多かった。任方らの不行跡は、原因は単匡にある。法を執行する吏を刺し、公務に奉ずる臣を害し、さらに逃亡させ、罪人自身を寛大に扱うのは、大悪人であり、結局は国の害となる。檻車で単匡を召し出して審問すれば、奸悪の手がかりは必ず直ちに得られるだろう。」しかし楊秉は結局連座して左校での労役刑に処せられたが、長い旱魃のため赦免されて出獄した。

原文延熹三年,白馬令李雲以諫受罪,秉爭之不能得,坐免官,歸田裡。[一]其年冬,復徵拜河南尹。先是中常侍單超弟匡為濟陰太守,以臧罪為刺史第五種所劾,窘急,乃賂客任方刺兗州從事衛羽。事已見種傳。及捕得方,囚系洛陽,匡慮秉當窮竟其事,密令方等得突獄亡走。尚書召秉詰責,秉對曰:「春秋不誅黎比而魯多盜,[二]方等無狀,釁由單匡。刺執法之吏,害奉公之臣,復令逃竄,寬縱罪身,元惡大憝,終為國害。乞檻車征匡考核其事,則奸慝蹤緒,必可立得。」而秉竟坐輸作左校,以久旱赦出。

注[一] 謝承の後漢書によれば、「楊秉は免官されて帰郷し、質素で清廉・倹約であり、家は極貧で、二日に一度食事をした。任城の旧孝廉の景慮が百余万銭を贈り、楊秉に与えようとしたが、楊秉は門を閉めて拒絶し受け取らなかった。」

原文注[一]謝承書曰:「秉免歸,雅素清儉,家至貧窶,并日而食。任城故孝廉景慮繼錢百餘萬,就以餉秉,秉閉門距絕不受。」

注[二] 左伝に「邾の庶其が漆と閭丘を携えて亡命してきたため、この時魯に盗賊が多かった」とある。臣の李賢が案ずるに、黎比は莒国の君主であり、おそらく別の根拠があるのだろう。

原文注[二]左傳曰:「邾庶其以漆閭丘來奔,於是魯多盜。」臣賢案:黎比,莒國之君,恐別有所據也。

日食が起こった時、太山太守の皇甫規らが楊秉の忠正を訴え、長く抑えて用いないのは不適当だと主張した。詔があり、公車が楊秉と処士の韋著を徴したが、二人はそれぞれ病気と称して来なかった。役人は楊秉と韋著を大不敬として弾劾し、所属する役所に罪を正すよう求めた。尚書令の周景と尚書の辺韶が議して上奏した。「楊秉は儒学を侍講し、常に謙虚であり、韋著は隠居して行義を行い、退譲を節としています。ともに徴されて来ないのは、確かに側席の望みに背きますが、逶迤として退食し、苟も進む風潮を抑えるに足ります。明王の世には、必ず召されざる臣があり、聖朝が弘く養うには、優游の礼を用いるべきです。所属する役所に告げ、朝廷の恩意を諭すのがよいでしょう。もしそれでも来なければ、その罰を詳しく議すべきです。」そこで重ねて徴すると、ようやく到着し、太常に任命された。

原文會日食,太山太守皇甫規等訟秉忠正,不宜久抑不用。有詔公車征秉及處士韋著,二人各稱疾不至。有司並劾秉、著大不敬,請下所屬正其罪。尚書令周景與尚書邊韶議奏:「秉儒學侍講,常在謙虛;著隱居行義,以退讓為節。俱徵不至,誠違側席之望,然逶迤退食,足抑苟進之風。[一]夫明王之世,必有不召之臣,[二]聖朝弘養,宜用優游之禮。可告在所屬,喻以朝庭恩意。如遂不至,詳議其罰。」於是重征,乃到,拜太常。

注釈[一]詩経国風の羔羊の詩に「退食自公、委憨委憨」とある。退食とは膳を減らすことを言う。公に従うとは、事に正直に順うことを言う。委憨とは、委曲自得の様子である。

原文注[一]詩國風羔羊詩曰:「退食自公,委憨委憨。」退食謂減膳也。從於公謂正直順於事也。委憨,委曲自得之貌。

注釈[二]堯の時の許由、禹の時の伯成子高、湯の時の務光らである。

原文注[二]堯時許由,禹時伯成子高,湯時務光等。

五年の冬、劉矩に代わって太尉となった。この時、宦官の勢力が盛んで、任人やその子弟を官とし、天下に満ち溢れ、貪欲で淫らなことを競い、朝廷と民間は嘆き怨んだ。楊秉は司空の周景と上言した。「内外の官吏の職は、多くはその人に非ず、近頃徴する者は、皆特別に任命され試験しるしを受けず、盗みや放恣を招き、怨みや訴訟が紛錯しています。旧典では、中臣の子弟は位に居て勢いを握ることを得ず、今では枝葉の賓客が職署に布列し、あるいは年少の凡人で、守宰を典拠し、上下は憤り患い、四方は愁毒しています。旧章を遵用し、貪残を退け、災謗を塞ぐべきです。司隸校尉、中二千石、二千石、城門五営校尉、北軍中候に下し、それぞれ所部を実核させ、斥罷すべき者は、自ら状をもって言わせ、三府が廉察して遺漏があれば、続けて上らせてください。」帝はこれに従った。

原文五年冬,代劉矩為太尉。是時宦官方熾,任人及子弟為官,[一]佈滿天下,競為貪淫,朝野嗟怨。秉與司空周景上言:「內外吏職,多非其人,自頃所征,皆特拜不試,致盜竊縱恣,怨訟紛錯。舊典,中臣子弟不得居位秉埶,而今枝葉賓客布列職署,或年少庸人,典據守宰,上下忿患,四方愁毒。可遵用舊章,退貪殘,塞災謗。請下司隸校尉、中二千石、二千石、城門五營校尉、北軍中候,各實核所部,應當斥罷,自以狀言,三府廉察有遺漏,續上。」帝從之。

そこで楊秉は牧守以下、匈奴中郎将の燕瑗、青州刺史の羊亮、遼東太守の孫諠ら五十余人を条奏し、ある者は死に、ある者は免職され、天下は粛然としない者はなかった。

原文於是秉條奏牧守以下匈奴中郎將燕瑗、青州刺史羊亮、遼東太守孫諠等五十餘人,或死或免,天下莫不肅然。

注釈[一]任とは保任を言う。

原文注[一]任謂保任。

当時、郡国の計吏は多く留め置かれて郎に任命されていた。楊秉は上言し、三署に見る郎は七百余人で、国庫は空虚で、浮食する者が多く、不良な守相は、国を池とし、衅穢を洗い流そうと欲している。横拜を絶ち、覬覦の端を塞ぐべきである。これ以降、桓帝の世が終わるまで、計吏が留め置かれて任命されることはなくなった。

原文時郡國計吏多留拜為郎,秉上言三署見郎七百餘人,[一]帑臧空虛,浮食者觿,而不良守相,欲因國為池,澆濯釁穢。宜絕橫拜,以塞覬覦之端。[二]自此終桓帝世,計吏無復留拜者。

注釈[一]三署郎の解釈は安帝紀に見える。注釈[二]左伝に「下に覬覦無し」とある。杜預の注に「上位を冀望せず」とある。

原文注[一]三署郎,解見安帝紀。  注[二]左傳曰:「下無覬覦。」杜預注曰:「無冀望上位。」

七年、南巡して園陵に至り、特に詔して楊秉に従わせた。南陽太守の張彪は帝が微時に旧恩があり、車駕が至るはずなので、傍らに発調し、多くを私に入れた。楊秉はこれを聞き、書を下して荊州刺史を責め、状を副えて公府に言った。行って南陽に至ると、左右はともに奸利を通じ、詔書で多くが除拜された。楊秉は再び上疏して諫めた。「臣は聞く、先王は国を建て、天に順って官を制すと。太微に積む星は、名を郎位とし、入っては宿衛を奉じ、出ては百姓を牧す。戲陶が虞を誡めるのは、官人にある。近頃、道路上で拜除し、恩を豎隸に加え、爵は貨によって成り、化はここから敗れる。これが俗夫が巷で議し、白駒が遠く逝き、穆穆たる清朝も、遠近に見られない所以です。忍びざるの恩を割き、欲を求めるの路を断つべきです。」そこで詔による除拜は止んだ。

原文七年,南巡園陵,特詔秉從。南陽太守張彪與帝微時有舊恩,以車駕當至,因傍發調,多以入私。秉聞之,下書責讓荊州刺史,以狀副言公府。[一]及行至南陽,左右並通奸利,詔書多所除拜。秉復上疏諫曰:「臣聞先王建國,順天制官。[二]太微積星,名為郎位,[三]入奉宿衛,出牧百姓。戲陶誡虞,在於官人。[四]頃者道路拜除,恩加豎隸,爵以貨成,化由此敗,所以俗夫巷議,白駒遠逝,[五]穆穆清朝,遠近莫觀。宜割不忍之恩,以斷求欲之路。」於是詔除乃止。

注釈[一]南陽郡は、荊州の所部である。

原文注[一]南陽郡,荊州所部也。

注釈[二]尚書に「明王は天道を奉若し、邦を建て都を設く」とある。孔安国の注に「天に日、月、北斗、五星、二十八宿があり、皆尊卑相正の法あり。明王はこの道を奉順し、国を建て都を設く」とある。

原文注[二]尚書曰:「明王奉若天道,建邦設都。」孔安國注云:「天有日、月、北斗、五星、二十八宿,皆有尊卑相正之法。明王奉順此道,建國設都。」

注釈[三]史記天官書に、太微宮に五帝坐があり、後に二十五星が蔚然として聚まり、郎位と言う。積とは聚まることである。

原文注[三]史記天官書曰,太微宮五帝坐,後聚二十五星蔚然,曰郎位。積,聚也。

注釈[四]尚書で戲陶が舜を誡めて「知人に在り、官人に在り」と言う。

原文注[四]尚書戲陶誡舜曰「在知人,在官人」也。

注釈[五]孔子は「天下に道あれば、庶人は議せず」と言う。詩経小雅に「皎皎たる白駒、我が場の苗を食む、所謂伊人、焉に於いてか逍遥す」とある。宣王の官がその人を失い、賢者が白駒に乗って去ったことを言う。

原文注[五]孔子曰:「天下有道,庶人不議。」詩小雅曰:「皎皎白駒,食我場苗,所謂伊人,於焉逍遙。」言宣王官失其人,賢者乘白駒而去之。

尚書は詰問できなかった。帝は已むを得ず、ついに侯覧の官を免じ、具瑗の封国を削った。朝廷に得失があるごとに、常に忠を尽くして規諫し、多くは採用された。

原文尚書不能詰。帝不得已,竟免覽官,而削瑗國。每朝廷有得失,輒盡忠規諫,多見納用。

注[三]左伝によると、「斉の懿公が公子であった時、邴歜の父と田を争って勝てなかった。即位すると、その父の墓を掘り起こして足を切り、邴歜を御者にした。閻職の妻を奪って自分のものとし、閻職を車の右の乗車手にした。夏の五月、公が申池で遊んだ時、邴歜が鞭で閻職を打つと、閻職は怒った。邴歜が言うには、『人がお前の妻を奪っても怒らないのに、一度打たれたくらいで何が傷つくというのか』。閻職は言った、『父の足を切られても何とも思わなかった者と比べてどうか』。そこで二人は謀って懿公を殺し、竹の中に遺体を隠し、帰って酒を酌み交わしてから逃げた」という。

原文注[三]左傳曰「齊懿公之為公子也,與邴歜之父爭田弗勝。及即位,乃掘而刖之,而使歜僕。納閻職之妻,而使職驂乘。夏五月,公游於申池。歜以撲抶職,職怒,歜曰:『人奪汝妻而不怒,一抶汝,庸何傷?』職曰:『與刖其父而弗能病者何如?』乃謀殺懿公,納諸竹中,歸,捨爵而行」也。

注[四]公羊伝に「鄭の詹が斉から逃げて来た。なぜ記録するのか。甚だ佞(口先が巧みで心がねじけている)であるからで、『佞人が来た』と言った」とある。後に魯の荘公が斉の淫乱な女を娶り、ついに後患となった。四佞とは四凶のことである。

原文注[四]公羊傳曰:「鄭詹自齊逃來,何以書?甚佞也,曰佞人來矣。」後魯莊公取齊淫女,卒為後敗。四佞即四凶也。

注[五]畀は「与える」の意。詩経小雅に「あの讒言する者を捕らえ、豺虎に投げ与えよ」とある。  注[六]楊秉は掾属を召してこれを問うた。

原文注[五]畀,與也。詩小雅曰:「取彼譖人,投畀豺虎。」  注[六]召秉掾屬問之。

注[七]公羊伝に「趙鞅が晋陽の兵を率いて、荀寅と士吉射を追放した。なぜこれをしたのか。君主の側近の悪人を追放するためである」とある。

原文注[七]公羊傳曰:「趙鞅取晉陽之甲,以逐荀寅、士吉射。曷為此?逐君側之惡人也。」

注[八]左伝にある晋の寺人(宦官)披の言葉である。

原文注[八]左傳曰晉寺人披言也。

注[九]前漢書によると、鄧通は文帝の寵臣で、太中大夫となり、皇帝の傍らにいて怠慢な態度をとった。丞相の申屠嘉が朝を退き、役所に座って鄧通を呼び出しても礼をせず、責めて言った。「鄧通は小臣であり、殿上で戯れたのは大不敬であり、斬るべきである」。鄧通は頓首し、額から血が出るほどだった。帝は使者に節を持たせて鄧通を召し出し、丞相に謝って言った。「これは朕の弄臣(寵愛する臣)である。卿は許してやれ」。

原文注[九]前書鄧通,文帝幸臣,為太中大夫,居上傍怠慢。丞相申屠嘉罷朝,坐府中,召通至,不為禮,責曰:「通小臣,戲殿上,大不敬,當斬。」通頓首,首盡出血。上使使持節召通而謝丞相:「此吾弄臣,君釋之。」

楊秉は酒を飲まない性質で、また早くに夫人に先立たれたため、再び娶らず、任地では淳朴で清廉であると称された。かつてゆったりと言った。「私には三つの惑わされないものがある。酒と色と財である」。八年に死去した。七十四歳であった。墓所を帝陵のそばに賜った。子に楊賜がいる。

原文秉性不飲酒,又早喪夫人,遂不復娶,所在以淳白稱。嘗從容言曰:「我有三不惑:酒,色,財也。」八年薨,時年七十四,賜塋陪陵。子賜。

楊秉の子、楊賜。

原文秉子 賜

楊賜は字を伯献という。幼少時から家学を伝え、志を固くし広く学んだ。常に身を引いて隠れ住み、門徒を教授し、州郡からの礼遇や招聘には応じなかった。後に大将軍梁冀の府に辟召されたが、好ましいことではなかった。出されて陳倉県令に任じられたが、病気のため赴任しなかった。公車で徴召されても応じず、三公からの招聘も繰り返し辞退した。後に司空の高第(優秀な成績)により、再び昇進して侍中・越騎校尉となった。

原文賜字伯獻。少傳家學,篤志博聞。常退居隱約,教授門徒,不荅州郡禮命。後辟大將軍梁冀府,非其好也。出除陳倉令,因病不行。公車徵不至,連辭三公之命。後以司空高第,再遷侍中、越騎校尉。

建寧初年、霊帝が学問を受けることになり、詔によって太傅と三公に、尚書桓氏章句に通じ、以前から重い名声のある者を選ぶよう命じた。三公が楊賜を推挙したので、華光殿において侍講(帝王に学問を講義する役)となった。[一]少府・光禄勲に転じた。

原文建寧初,靈帝當受學,詔太傅、三公選通尚書桓君章句宿有重名者,三公舉賜,乃侍講於華光殿中。[一]遷少府、光祿勳。

注[一]洛陽宮殿名に「華光殿は崇光殿の北にある」とある。

原文注[一]洛陽宮殿名曰:「華光殿在崇光殿北。」

熹平元年、青い虹が御座に見えた。帝が楊賜に問うと、楊賜は封事(密封した上奏文)を奉って言った。

原文熹平元年,青憨見御坐,帝以問賜,賜上封事曰:

臣は聞く。和やかな気は吉祥を招き、乱れた気は災いを招く。善い兆しには五福が応じ、悪い兆しには六極が至ると。善はむやみに来ず、災いは空しく起こらない。王者が心に思うこと、意に想うことがあれば、まだ顔色に表れていなくても、五星はそれによって推移し、陰陽はそのために変動する。これによって見れば、天と人とは、符合しないことがあろうか。尚書に『天は人と一致し、我に一日を仮かす』とある。これが明らかな証拠である。[三]皇極(帝王の大法)が建てられないと、蛇や龍の妖異が起こる。[四]詩経に『あれは蛇だ、あれは蛇だ、女子の兆しだ』とある。[五]ゆえに春秋では、二匹の蛇が鄭の城門で争い、昭公はほぼ女によって敗れた。[六]康王が一朝(ある朝)遅く起きたことで、関雎が機を見て作られた。[七]女の請託が行われると讒言する者が栄え、讒言する者が栄えると贈賄が通じる。ゆえに殷の湯王はこれを自ら戒め、ついに大旱の災いを救った。[八]願わくは陛下が剛健な道を考え、内外の分け目を明らかにし、帝乙の制度を尊び、大いなる吉の福を受け、[九]皇甫らの権勢を抑え、艶やかな妻への愛を断ち切られたい。[一〇]そうすれば蛇の異変は消え、吉祥が直ちに応じるでしょう。殷の太戊や宋の景公の事跡は、そのことが甚だ明らかである。[一一]

原文臣聞和氣致祥,乖氣致災,休征則五福應,[一]咎徵則六極至。[二]夫善不妄來,災不空發。王者心有所惟,意有所想,雖未形顏色,而五星以之推移,陰陽為其變度。以此而觀,天之與人,豈不符哉?尚書曰:『天齊乎人,假我一日。』是其明征也。[三]夫皇極不建,則有蛇龍之孽。[四]詩云:『惟虺惟蛇,女子之祥。』[五]故春秋兩蛇鬥於鄭門,昭公殆以女敗;[六]康王一朝晏起,關睢見幾而作。[七]夫女謁行則讒夫昌,讒夫昌則苞苴通,故殷湯以之自戒,終濟亢旱之災。[八]惟陛下思干剛之道,別內外之宜,崇帝乙之制,受元吉之祉,[九]抑皇甫之權,割艷妻之愛,[一0]則蛇變可消,禎祥立應。殷戊、宋景,其事甚明。[一一]

注[一]休は美。征は験。五福とは、第一は寿、第二は富、第三は康寧、第四は好徳(徳を好むこと)、第五は考終命(天寿を全うすること)である。

原文注[一]休,美也。征,驗也。五福:一曰壽,二曰富,三曰康寧,四曰逌好德,五曰考終命。

注[二]咎は悪。六極とは、第一は凶短折(早死に)、第二は疾、第三は憂、第四は貧、第五は悪(醜い容貌)、第六は弱である。いずれも尚書に見える。

原文注[二]咎,惡也。六極:一曰凶短折,二曰疾,三曰憂,四曰貧,五曰惡,六曰弱。並見尚書。

注[三]「我」とは君を指す。天意が人を整えようとするならば、必ず君を媒介とする。現在の尚書の文では「假」を「俾」としている。俾は使うという意味で、意味も通じる。

原文注[三]我謂君也。天意欲整齊於人,必假於君也。今尚書文「假」作「俾」。俾,使也。義亦通。

注[四]洪範五行伝に言う。皇は大、極は中、建は立てる、孽は災いである。君が大中に合わないのは、これを「不立」という。蛇と龍は陰の類である。

原文注[四]洪範五行傳曰。皇,大也。極,中也。建,立也。孽,災也。君不合大中,是謂不立。蛇龍,陰類也。

注[五]詩経小雅にある。虺蛇は穴に住み、陰の類であるため、女子の兆しとなる。

原文注[五]詩小雅也。虺蛇,穴居,陰之類,故為女子之祥也。

注[六]洪範五行伝に言う:「初め、鄭の厲公が相の祭仲を脅迫して兄の昭公を簒奪し、鄭の君として立てられた。後に雍愨の難があり、厲公は出奔し、鄭人は昭公を立てた。即位後、内側の蛇と外側の蛇が鄭の南門の中で闘い、内側の蛇が死んだ。この時、傅瑕が鄭に仕えており、厲公を内に迎え入れようとしたため、内側の蛇が死んだのは、昭公が敗れ、厲公が勝つ兆しであった。この時、昭公は恩恵を施し、百姓を慰撫し、賢者を挙げて徳を崇め、群臣を励まし、左右を観察して奸謀を省みるべきであった。そうすれば内変は生じず、外からの謀略も起こりようがない。昭公は気づかず、果たして傅瑕に殺され、二人の子は死に、厲公が入国した。これがその証拠である。詩に云う:『惟虺惟蛇、女子之祥』。鄭の昭公はほぼ女子によって敗れたのである。」

原文注[六]洪範五行傳曰:「初,鄭厲公劫相祭仲而篡兄昭公,立為鄭君。後雍愨之難,厲公出奔,鄭人立昭公。既立,內蛇與外蛇鬥鄭南門中。內蛇死。是時傅瑕仕於鄭,欲內厲公,故內蛇死者,昭公將敗,厲公將勝之象也。是時昭公宜布恩施惠,以撫百姓,舉賢崇德,以厲腢臣,觀察左右,以省奸謀,則內變不得生,外謀無由起矣。昭公不覺,果殺於傅瑕,二子死而厲公入,此其效也。詩云:『惟虺惟蛇,女子之祥。』鄭昭公殆以女子敗矣。」

注[七]前漢書に言う:「佩玉晏鳴、關睢歎之。」音義に言う:「后夫人が、鶏が鳴く時に佩玉をして君の元を去る。周の康王の后はそうではなかったため、詩人が歎き傷んだ。この事は魯詩に見えるが、今は失われている。」

原文注[七]前書曰:「佩玉晏鳴,關睢歎之。」音義曰:「後夫人,雞鳴佩玉去君所。周康王后不然,故詩人歎而傷之。此事見魯詩,今亡失也。」

注[八]説苑に言う:「湯が桀を討伐した後、七年間大旱が続き、洛川が枯れた。湯は人に三足の鼎を持たせて山川に祈らせて言った:『政が節度を失っているのか?人々を苦しめているのか?贈賄が行われているのか?讒言する者が栄えているのか?宮室が華美なのか?女の請託が行われているのか?なぜ雨が降らないのか!』言い終わらないうちに大雨が降った。」

原文注[八]說宛曰:「湯自伐桀後,大旱七年,洛川竭,使人持三足鼎祝於山川曰:『政不節邪?使人疾邪?苞苴行邪?讒夫昌邪?宮室榮邪?女謁行邪?何不雨之極!』言未已而天大雨。」

注[九]易経泰卦の六五に「帝乙、妹を帰す、以て祉し元吉」とある。

原文注[九]易泰卦六五曰「帝乙歸妹,以祉元吉」也。

注[一〇]艶妻は、周の幽王の后である褎姒である。皇甫卿士らは皆、后の党で、后の寵愛によって地位に居る。詩に「皇甫卿士、艶妻煽方に処る」とある。

原文注[一0]艷妻,周幽王后褎姒也。皇甫卿士等皆後之黨,用後嬖寵而居位也。詩曰「皇甫卿士,艷妻煽方處」也。

注[一一]殷の王太戊の時、桑と穀が朝廷に共生したが、徳を修めると桑穀は死んだ。景公の時、熒惑が心宿にとどまったが、徳を修めると星は退いた。ともに史記に見える。

原文注[一一]殷王太戊時,桑谷共生於朝,修德而桑谷死。景公時,熒惑守心,修德而星退捨。並見史記。

二年、唐珍に代わって司空となり、災異のため免官された。再び光禄大夫に任じられ、秩禄は中二千石となった。五年、袁隗に代わって司徒となった。この時、朝廷の爵位授与は多く順序に従わず、帝は微行を好み、外苑に遊幸した。賜覆は上疏して言った:

原文二年,代唐珍為司空,以災異免。復拜光祿大夫,秩中二千石。五年,代袁隗為司徒。是時朝廷爵授,多不以次,而帝好微行,游幸外苑。賜覆上疏曰:

臣は聞く、天が衆民を生み、自ら治めることができないので、[一]君長を立てて司牧させた。[二]このため唐虞は兢兢業業とし、[三]周の文王は日が傾くまで暇がなく、[四]あらゆる官職を明らかに慎重にし、俊乂を職に就かせ、三年ごとに考績を行い、[五]その成果を見た。しかし今、任用される者は他に徳がなく、勢力のある者は十日で累進し、真実を守る者は何年経っても転任せず、労苦と安逸の区別がなく、善悪が同じ流れにあり、北山の詩が訓戒として作られた所以である。[六]また、しばしば微行して苑囿に出幸し、鷹犬の勢いを見、遊楽の極みに至り、[七]政事は日々廃れ、[八]大いなる教化は衰えていると聞く。陛下は二祖の勤労を顧みず、[九]五宗の美しい跡を追慕せず、[一〇]太平を望もうとすることは、曲がった日時計で真っ直ぐな影を求め、後退しながら前に進もうとする者に及ぼうとするようなものである。[一一]慢傲な遊戯を絶ち、官人を重んじることを思い、板を用いる恩恵を断ち切り、貫魚の順序を慎み、[一二]醜女に四殆の嘆きを起こさせず、[一三]遠近に憤怨の声が起こらないようにすべきである。臣は偏って特別な恩恵を受け、師傅の任に辱むき、凡臣と同じく自らをせず、口を閉じて咎を避けることはできない。[一四]謹んで自ら手書して密かに上奏する。

原文臣聞天生蒸民,不能自理,[一]故立君長使司牧之,[二]是以唐虞兢兢業業,[三]周文日昃不暇,[四]  明慎庶官,俊乂在職,三載考績,[五]以觀厥成。而今所序用無佗德,有形埶者,旬日累遷,守真之徒,歷載不轉,勞逸無別,善惡同流,北山之詩,所為訓作。[六]又聞數微行出幸苑囿,觀鷹犬之埶,極盤遊之荒,[七]政事日墮,[八]  大化陵遲。陛下不顧二祖之勤止,[九]追慕五宗之美蹤,[一0]而欲以望太平,是由曲表而欲直景,卻行而求及前人也。[一一]宜絕慢傲之戲,念官人之重,割用板之恩,慎貫魚之次,[一二]無令醜女有四殆之歎,[一三]遐邇有憤怨之聲。臣受恩偏特,忝任師傅,不敢自同凡臣,括囊避咎。[一四]謹自手書密上。

注[一]蒸は衆である。注[二]司は主、牧は養う。

原文注[一]蒸,觿也。  注[二]司,主也。牧,養也。

注[三]兢兢は戒慎、業業は危惧。尚書皐陶謨に「兢兢業業、一日二日萬機」とある。

原文注[三]兢兢,戒慎。業業,危懼。尚書戲陶謨曰:「兢兢業業,一日二日萬機。」

注[四]尚書に「文王、朝より日中仄に至るまで、暇食する遑ひ無し」とある。注[五]尚書に「三載考績、幽明を黜陟す」とある。

原文注[四]尚書曰:「文王自朝至於日中仄,弗遑暇食。」  注[五]尚書曰「三載考績,黜陟幽明」也。

注[六]詩経小雅に「彼の北山に陟り、言わく其の杞を采る。偕偕たる士子、朝夕に事に従う。大夫均しからず、我が事に従うこと独り賢し」とある。

原文注[六]詩小雅曰:「陟彼北山,言采其杞。偕偕士子,朝夕從事。大夫不均,我從事獨賢。」

注[七]盤とは楽しむことである。詩に「盤於游田」とある。書に「内作色荒、外作禽荒」とある。  注[八]許規反。

原文注[七]盤,樂也。詩曰:「盤於游田。」書曰:「內作色荒,外作禽荒。」  注[八]許規反。

注[九]二祖とは、高祖と光武帝である。詩に「文王既勤止」とある。  注[一0]文帝太宗、武帝世宗、宣帝中宗、明帝顕宗、章帝粛宗である。

原文注[九]二祖,高祖、光武也。詩曰:「文王既勤止。」  注[一0]文帝太宗、武帝世宗、宣帝中宗、明帝顯宗、章帝肅宗也。

注[一一]孫卿子に「猶立枉木而求其影之直也」とある。韓詩外伝に「夫明鏡所以照形也、往古所以知今也。夫知悪往古之悪而不知修今之善、悪往古之所以危亡而不知襲積其所以安存、則無以異乎卻行而求逮於前人也」とある。

原文注[一一]孫卿子曰:「猶立枉木而求其影之直也。」韓詩外傳曰:「夫明鏡所以照形也,往古所以知今也。夫知惡往古之惡而不知修今之善,惡往古之所以危亡而不知襲積其所以安存,則無以異乎卻行而求逮於前人也。」

注[一二]板とは詔書を指す。易の剥卦に「貫魚、以宮人寵」とある。王者が宮人を御するのは、貫いた魚のように順序があるという意味である。

原文注[一二]板謂詔書也。易剝卦曰:「貫魚,以宮人寵。」言王者御宮人,如貫魚之有次序也。

注[一三]劉向の列女伝に「鍾離春は、斉の無塩邑の女で、斉の宣王の正后となった。その容貌は、極めて醜く比類なく、臼頭深目、長大で骨格が大きく、鼻が高く喉仏が突出し、首が太く髪が少なく、腰が折れ胸が突き出て、皮膚は漆のようであった。四十歳になっても嫁に行けず、自ら宣王に謁見し、手を挙げて膝を叩いて言った。『危うい!危うい!』と。『今、王の国は、西に衡秦の患いがあり、南に強楚の仇敵があり、外に二国の難がある。一旦、山陵が崩れれば、社稷は安泰でなくなる。これが一つの危うさである。漸台は五重で、万人が疲れ果てている。これが二つの危うさである。賢者は山林に隠れ、諂諛の者が左右に勢力を振るっている。これが三つの危うさである。酒に沈溺し、夜を日に継いで、外には諸侯の礼を修めず、内には国家の政務を執らない。これが四つの危うさである』と」。

原文注[一三]劉向列女傳曰:「鍾離春者,齊無鹽邑之女,齊宣王之正後也。其為人也,極醜無雙,臼頭深目,長壯大節,卬鼻結喉,肥項少發,折腰出匈,皮膚若漆。年四十,行嫁不售,自謁宣王,舉手拊膝曰:『殆哉!殆哉!』曰:『今王之國,西有衡秦之患,南有強楚之讎,外有二國之難,一旦山陵崩弛,社稷不安,此一殆也。漸台五重,萬人罷極,此二殆也。賢者伏匿於山林,諂諛者強於左右,此三殆也。飲酒沉湎,以夜繼晝,外不修諸侯之禮,內不秉國家之政,此四殆也。』」

注[一四]括とは結ぶことである。易に「括囊無咎無誉」とある。

原文注[一四]括,結也。易曰:「括囊無咎無譽。」

後に党人を庇った罪で免職された。再び光禄大夫に任命された。光和元年、虹蜺が昼間に嘉徳殿前に降りた。帝はこれを嫌い、楊賜と議郎の蔡邕らを金商門の崇徳署に招き入れ、中常侍の曹節と王甫に命じて、祥瑞や災異、禍福の所在を問わせた。楊賜は天を仰いで嘆息し、曹節らに言った。「私は張禹伝を読むたびに、憤慨し嘆息せずにはいられない。忠を尽くし真情を極めて、その要点を極言することができず、かえって末子に心を留め、娘婿の帰還を願い出た。朱游が尚方の斬馬剣を得てこれを正そうとしたのは、まことに当然である。私は微薄な学識をもって、先師の末席を汚し、累世にわたって寵愛を受けながら、国に報いることができなかった。辱くも重大な質問を受け、死して後やむであろう」。そこで上奏文を書いて答えた。

原文後坐辟黨人免。復拜光祿大夫。光和元年,有虹蜺晝降於嘉德殿前,[一]帝惡之,引賜及議郎蔡邕等入金商門崇德署,[二]使中常待曹節、王甫問以祥異禍福所在。賜仰天而歎,謂節等曰:「吾每讀張禹傳,未嘗不憤恚歎息,既不能竭忠盡情,極言其要,而反留意少子,乞還女豻。[三]朱游欲得尚方斬馬劍以理之,固其宜也。[四]吾以微薄之學,充先師之末,累世見寵,無以報國。猥當大問,死而後已。」乃書對曰:

臣が経伝で聞くところによれば、ある者は神を得て栄え、ある者は神を得て滅びる。国家が清明であれば、その徳を鑑とし、邪悪で混乱していれば、その禍を見る。今、殿前の気は、虹蜺に応じたもので、いずれも妖邪が生み出した、正しくない象である。詩人がいうところの蝃蝀である。中孚経に『蜺の比は、徳なくして色をもって親しむ』とある。方今、内には多くの寵愛を受けた者たちがおり、外には小臣を任用し、上下ともに怨み、喧噪が道に満ちている。このため災異がたびたび現れ、前後して警告されている。

原文臣聞之經傳,或得神以昌,或得神以亡。[五]  國家休明,則鑒其德;邪辟昏亂,則視其禍。今殿前之氣,應為虹蜺,皆妖邪所生,不正之象,詩人所謂蝃蝀者也。[六]於中孚經曰:『蜺之比,無德以色親。』[七]  方今內多嬖倖,外任小臣,上下並怨,諠嘩盈路,是以災異屢見,前後丁寧。

今また蜺が現れたのは、熟したと言えよう。春秋讖を調べると『天が蜺を投ずれば、天下は怨み、海内は乱れる』とある。四百の期限もまた、まさに迫っている。昔、虹が牛山を貫いたとき、管仲は桓公に妃嬪の宮殿に近づかないよう諫めた。易に『天は象を垂れ、吉凶を見せ、聖人はこれに則る』とある。今、妾媵、寵臣、宦官の類が共に国政を専断し、日月を欺いている。また、鴻都門の下で、群小を招集し、賦や説を作り、虫篆のような小技をもって時に寵愛を受けている。驩兜や共工のように互いに推薦し合い、旬月の間にそれぞれ抜擢され、楽松は常伯の地位にあり、任芝は納言の地位にある。

原文今復投蜺,可謂孰矣。[八]案春秋讖曰:『天投蜺,天下怨,海內亂。』[九]加四百之期,亦復垂及。[一0]昔虹貫牛山,管仲諫桓公無近妃宮。[一一]易曰:『天垂象,見吉凶,聖人則之。』[一二]今妾媵嬖人閹尹之徒,共專國朝,欺罔日月。又鴻都門下,招會腢小,造作賦說,以蟲篆小技見寵於時,[一三]如驩兜﹑共工更相薦說,[一四]旬月之閒,並各拔擢,樂松處常伯,任芝居納言。

郄儉と梁鵠はともに、へつらい巧みな性質と、口先の巧みな心をもって、それぞれ豊かな爵位と破格の寵愛を受けている。一方、紳士たちは田畑に伏して、口では堯舜の言葉を誦しながら、身では世俗を絶った行いを実践し、溝壑に捨てられ、顧みられることがない。冠と履が逆転し、丘陵と谷が入れ替わるような状態である。小人の邪な意に従い、無知な私欲に順って、板や蕩の詩が作られた戒めや、虺や蜴の警告を顧みない。危ういこと、今より甚だしいことはない。幸いにも皇天が象を垂れて譴責し警告している。周書に『天子は怪を見れば徳を修め、諸侯は怪を見れば政を修め、卿大夫は怪を見れば職を修め、士庶人は怪を見れば身を修める』とある。どうか陛下には、経典の戒めを慎み、変革と回復の道を図り、佞巧の臣を遠ざけ、鶴鳴の士を速やかに召し出し、内には張仲を親しみ、外には山甫を任用し、詔書(尺一)の発布を断ち、遊猟を抑止し、万政に心を留め、怠り遅れることのないようにされたい。上天が威を返し、多くの異変が鎮まることを願う。老臣は過分にも師傅の任を受け、たびたび寵愛と特別な恩恵に浴してきた。どうして没しようとする年の身を惜しんで、その誠実な心を尽くさないことがあろうか。

原文郄儉﹑梁鵠俱以便辟之性,佞辯之心,各受豐爵不次之寵,而令搢紳之徒委伏毿畝,口誦堯舜之言,身蹈絕俗之行,棄捐溝壑,不見逮及。冠履倒易,陵谷代處,[一五]從小人之邪意,順無知之私慾,不念板﹑蕩之作,虺蜴之誡。[一六]殆哉之危,莫過於今。[一七]幸賴皇天垂象譴告。周書曰:『天子見怪則修德,諸侯見怪則修政,卿大夫見怪則修職,士庶人見怪則修身。』惟陛下慎經典之誡,圖變復之道,[一八]斥遠佞巧之臣,速征鶴鳴之士,內親張仲,外任山甫,[一九]斷絕尺一,抑止盤遊,留思庶政,無敢怠遑。冀上天還威,觿變可弭。老臣過受師傅之任,數蒙寵異之恩,豈敢愛惜垂沒之年,而不盡其慺慺之心哉![二0]

上奏文が奏上されると、曹節らに甚だ逆らう内容であった。蔡邕は直言して罪に抵触し、朔方に流罪となった。楊賜は師傅の恩があったため、咎を免れることができた。

原文書奏,甚忤曹節等。蔡邕坐直對抵罪,徙朔方。賜以師傅之恩,故得免咎。

注[一]洛陽記によれば、この殿は九龍門内にある。郭景純が爾雅に注して「二つ現れ、色が鮮やかで盛んなものを雄といい虹という。暗いものを雌といい蜺という」とある。

原文注[一]洛陽記,殿在九龍門內。郭景純注爾雅曰:「雙出,色鮮盛者為雄,曰虹;闇者為雌,曰蜺。」

注[二]戴延之の西征記に「太極殿の西に金商門がある」とある。

原文注[二]戴延之西征記曰:「太極殿西有金商門。」

注[三]張禹は成帝の時に丞相となり、師傅の恩により、張禹が病気になるたびに、その起居を聞き、皇帝の車駕が日々見舞いに訪れ、張禹の寝床の下で拝礼した。張禹は頓首して恩に謝し、「老臣には四男一女がおり、娘を男よりも愛しており、遠く張掖太守の蕭咸の妻に嫁がせたが、父子の私情に耐えかね、娘と近くにいたい」と言った。皇帝はすぐに蕭咸を弘農太守に転任させた。また、張禹の末子はまだ官がなく、皇帝が張禹を見舞った時、張禹はたびたびその末子を見たので、皇帝は張禹の寝床の下で末子を黄門給事中に任命した。

原文注[三]張禹,成帝時為丞相,以師傅恩,禹每疾,輒以起居聞,車駕日臨問之,拜禹默下。禹頓首謝恩,言「老臣有四男一女,愛女甚於男,遠嫁為張掖太守蕭咸妻,不勝父子私情,思與女相近」。上實時徙咸為弘農太守。又禹少子未有官,上臨候禹,禹數視其少子,上即禹默下拜為黃門給事中也。

注[四]朱雲は字を游という。張禹は帝師として尊重されていたが、朱雲は上書して謁見を求め、公卿が前にいる中で言った。「今、朝廷の大臣は主君を補佐することができない。臣は尚方の斬馬剣を得て、佞臣一人の首を断ち、その余を戒めたい」。上(皇帝)が「それは誰か」と問うと、「安昌侯の張禹です」と答えた。尚方は少府の属官で、供御の器物を作るため、斬馬剣があり、その切れ味は馬を斬ることができるほど鋭い。ともに前漢書に見える。

原文注[四]朱雲字游。張禹以帝師尊重,雲上書求見,公卿在前,雲曰:「今朝廷大臣不能匡主,臣願得尚方斬馬劍,斷佞臣一人頭,以厲其餘。」上問:「誰也?」對曰:「安昌侯張禹。」尚方,少府之屬官也,作供御器物,故有斬馬劍,利可以斬馬也。並見前書。

注[五]左伝に言う、「神が莘に降りた。周の内史過が言った、『国が興ろうとする時は、明神が降りてその徳を監察する。滅びようとする時は、神がまた降りてその悪を観察する。だから神を得て興ることもあり、また滅びることもある』」と。国語に言う、「昔、夏が興った時は、祝融が崇山に降りた。その滅びた時は、回禄が黔遂に留まった。商が興った時は、檮杌が丕山に止まった。その滅びた時は、夷羊が牧に現れた。周が興った時は、鸑鷟が岐山で鳴いた。その衰えた時は、杜伯が王を鄗で射た」と。

原文注[五]左傳曰:「有神降於莘,周內史過曰:『國之將興,明神降之,監其德也。將亡,神又降之,觀其惡也。故有得神以輿,亦有以亡。』」國語曰「昔夏之興也,祝融降於崇山;其亡也,回祿信於黔遂。商之興也,檮杌次於*(平)*[丕]山;其亡也,夷羊在牧。周之興也,鸑鷟鳴於岐山;其衰也,杜伯射王於鄗」也。

注[六]韓詩序に言う、「蝃蝀は奔女を刺した詩である。『蝃蝀在東、莫之敢指』とあるのは、詩人が蝃蝀が東にあると言うのは、邪色が陽に乗じ、人君の淫佚の徴である。臣子は君父のために隠すので、敢えて指す者がないと言うのである」と。蝃は音で帝。蝀は音で董。

原文注[六]韓詩序曰:「蝃蝀,刺奔女也。蝃蝀在東,莫之敢指,詩人言蝃蝀在東者,邪色乘陽,人君淫佚之征。臣子為君父隱臧,故言莫之敢指。」蝃音帝。蝀音董。

注[七]易稽覧図の中孚経の文である。比は類である。鄭玄の注に言う、「霓は邪気である。陰に徳がなく、好色によって陽に親幸を得るのである」と。  注[八]孰は成である。

原文注[七]易稽覽圖中孚經之文也。比,類也。鄭玄注曰:「霓,邪氣也。陰無德,以好色得親幸於陽也。」  注[八]孰,成也。

注[九]春秋演孔図に言う、「霓は斗の乱精である。度を失って霓に投ずる(応ずる)と現れる」と。宋均の注に言う、「投霓は投応である」と。

原文注[九]春秋演孔圖曰:「霓者,斗之亂精也。失度投霓見。」宋均注曰:「投霓,投應也。」

注[一〇]漢は四百年で終わる。解は献帝紀に見える。

原文注[一0]漢終於四百年,解見獻帝紀。

注[一一]春秋文曜鉤に言う、「白虹が牛山を貫いた。管仲が諫めて言った、『妃宮に近づかないでください。君は権を失う恐れがあります』と。斉侯は大いに恐れ、色党を退け、更に賢輔を立て、後に出て望祭を行い、牛山に登って四方を聞き、以て神を鎮めた」と。宋均の注に言う、「山は君位である。虹蜺は陰気である。陰気がこれを貫くのは、君が妻党に惑わされる象である。望とは祭りを以て過ちを謝することである」と。流俗本で「山」を「升」とするのは誤りである。

原文注[一一]春秋文曜鉤曰:「白虹貫牛山,管仲諫曰:『無近妃宮,君恐失權。』齊侯大懼,退去色黨,更立賢輔,使後出望,上牛山四面聽之,以厭神。」宋均注曰:「山,君位也。虹蜺,陰氣也。陰氣貫之,君惑於妻黨之象也。望謂祭以謝過也。」流俗本「山」作「升」者,誤也。

注[一二]上系の詞である。則は効である。  注[一三]法言に言う「賦は童子の彫虫篆刻であり、壮夫は為さない」と。

原文注[一二]上系之詞。則,效也。  注[一三]法言曰「賦者,童子彫蟲篆刻,壯夫不為」也。

注[一四]尚書の驩兜が言う、「都、共工は方(並行して)鳩(集めて)僝(具現する)功(事業)をなす」と。  注[一五]楚詞に言う、「冠履兮雑処」と。詩に言う「高岸為谷、深谷為陵」と。

原文注[一四]尚書驩兜曰:「都,共工方鳩僝功。」  注[一五]楚詞曰:「冠履兮雜處。」詩曰「高岸為各,深谷為陵」也。

注[一六]詩大雅の序に言う、「板は凡伯が厲王を刺した詩である」と。その詩に言う、「上帝板板、下人卒癉」と。蕩は邵穆公が周室の大いに壊れるを傷んだ詩である。その詩に言う、「蕩蕩上帝、下人之辟」と。また言う、「哀今之人、胡為虺蜴」と。注に言う、「蜴は蠑螈である。虺蜴の性は人を見ると走る。哀れなるかな、今の人何ぞかくの如くせん!時政を傷むのである」と。

原文注[一六]詩大雅序曰:「板,凡伯刺厲王也。」其詩曰:「上帝板板,下人卒癉。」蕩,邵穆公傷周室大壞也。其詩:「蕩蕩上帝,下人之辟。」又云:「哀今之人,胡為虺蜴。」注云:「蜴,蠑螈也。虺蜴之性,見人則走。哀哉,今之人何為如是!傷時政也。」

注[一七]無塩の言葉である。解は上に見える。  注[一八]変改してこれを銷復(消して回復)することを言う。

原文注[一七]無鹽之詞也,解見上。  注[一八]謂變改而銷復之。

注[一九]詩に言う、「張仲孝友」と。また言う、「袞職有闕、仲山甫補之」と。皆、周の宣王の賢臣である。

原文注[一九]詩曰:「張仲孝友。」又曰:「袞職有闕,仲山甫補之。」皆周宣王賢臣也。

注[二〇]慺慺は猶お勤勤である。音は力侯反。

原文注[二0]慺慺猶勤勤也。音力侯反。

その冬、辟雍の礼を行い、楊賜を引いて三老とした。再び少府・光禄勲に拝し、劉合に代わって司徒となった。帝は畢圭霊琨苑を造ろうとし、楊賜が上疏して諫めて言った、「窃かに聞く、使者が並び出て、城南の民の田を規度し、以て苑としようとしていると。昔、先王が囿を造ったのは、三駆の礼を修めるに足るだけの大きさで、薪・萊・芻・牧は皆そこに行った。先帝の制は、左に鴻池を開き、右に上林を作り、奢らず約せず、以て礼の中に合った。今、猥りに郊城の地を規して苑囿とし、沃衍を壊し、田園を廃し、居人を駆り、禽獣を畜うのは、殆ど所謂『赤子を保つが若し』の義ではない。今、城外の苑は既に五六あり、以て情意を逞しくし、四節に順うことができる。宜しく夏禹の卑宮、太宗の露台の意を思い、以て下民の労を慰めるべきである」と。書が奏上され、帝は止めようとしたが、侍中の任芝・中常侍の楽松に問うた。松らが言った、「昔、文王の囿は百里で、人は小さいと思い、斉宣王の五里で、人は大きいと思った。今、百姓とこれを共にするのは、政に害はありません」と。帝は悦び、遂に苑を築かせた。

原文其冬,行辟雍禮,引賜為三老。復拜少府﹑光祿勳,代劉合為司徒。帝欲造畢圭靈琨苑,賜覆上疏諫曰:「竊聞使者並出,規度城南人田,欲以為苑。昔先王造囿,裁足以修三驅之禮,薪萊芻牧,皆悉往焉。先帝之制,左開鴻池,右作上林,[一]不奢不約,以合禮中。今猥規郊城之地,以為苑囿,壞沃衍,[二]廢田園,驅居人,畜禽獸,殆非所謂『若保赤子』之義。[三]今城外之苑已有五六,[四]可以逞情意,順四節也,[五]  宜惟夏禹卑宮,[六]太宗露台之意,[七]以尉下民之勞。」書奏,帝欲止,以問侍中任芝﹑中常侍樂松。松等曰:「昔文王之囿百里,人以為小;齊宣五里,人以為大。[八]今與百姓共之,無害於政也。」帝悅,遂令築苑。

注[一]鴻池は洛陽の東にあり、上林は西にある。  注[二]杜預が左伝に注して言う、「衍沃は平美の地である」と。

原文注[一]鴻池在洛陽東,上林在西。  注[二]杜預注左傳曰:「衍沃,平美之地也。」

注[三]書に言う「赤子を保つが若く、唯だ人其れ康乂(安らかに治める)せん」と。

原文注[三]書曰「若保赤子,唯人其康乂」也。

注[四]陽嘉元年に西苑を造営し、延熹二年に顕陽苑を造営した。洛陽の宮殿名には平楽苑・上林苑がある。桓帝の延熹元年に鴻徳苑を設置した。

原文注[四]陽嘉元年起西苑,延熹二年造顯陽苑。洛陽宮殿名有平樂苑﹑上林苑。桓帝延熹元年置鴻德苑也。

注[五]逞は快の意。四節とは春の搜・夏の苗・秋の獮・冬の狩をいう。注[六]孔子が「禹は衣服を粗末にし、宮室を低くした」と言った。

原文注[五]逞,快也。四節謂春搜﹑夏苗﹑秋獮﹑冬狩也。  注[六]孔子曰「禹惡衣服,卑宮室」也。

注[七]文帝が露台を作ろうとし、工匠を召して費用を計算させたところ、百金に相当した。帝は「百金は中流の家十戸分の財産である。私は先帝の宮室を継いでおり、常にそれを辱めることを恐れている。どうして台を作ろうか」と言った。

原文注[七]文帝欲作露台,召匠計之,直百金。帝曰「百金,中人十家之產。吾奉先帝宮室,常恐羞之,何以台為」也。

注[八]孟子で斉の宣王が「文王の苑は七十里四方であるのに、人はなお小さいと思う。私の苑は四十里四方であるのに、人はなお大きいと思う。なぜか」と問うた。孟子は「文王の苑は七十里四方であるが、草を刈る者も、雉や兎を獲る者もそこへ行く。人々と共有するので、人々が小さいと思うのは、当然ではないか」と答えた。ここで文王の苑を百里、斉宣王の苑を五里としているのは、孟子の記述と異なる。

原文注[八]孟子齊宣王問曰:「文王之囿方七十里,人猶以為小;寡人之囿方四十里,人猶以為大。何也?」曰:「文王之囿方七十里,芻蕘者往焉,雉菟者往焉,與人同之,人以為小,不亦宜乎?」此雲文王百里,齊宣五里,與孟子不同也。

四年、病気を理由に罷免された。しばらくして太常に任命され、詔により御府の衣服一襲、自ら着用していた冠・幘さく・綬、玉壺の革帯、金錯の鉤佩を賜った。

原文四年,賜以病罷。居無何,拜太常,詔賜御府衣一襲,[一]自所服冠幘綬,玉壺革帶,金錯鉤佩。[二]

注[一]衣の単衣と複衣が一揃いであることを襲という。注[二]金錯とは、金を交えて文様を錯綜させること。

原文注[一]衣單復具曰襲。  注[二]金錯,以金閒錯其文。

五年の冬、再び太尉に任命された。中平元年、黄巾の賊が起こり、楊賜は会議に召されて省閣に赴いたが、厳しく諫めて旨に逆らい、賊徒のためという名目で免官された。

原文五年冬,復拜太尉。中平元年,黃巾賊起,賜被召會議詣省合,切諫忤旨,因以寇賊免。

以前から黄巾の首領張角らは邪道を用い、大賢と称して百姓を欺き惑わし、天下の者が幼児を背負ってまで帰依していた。楊賜は当時司徒の職にあり、属官の劉陶を召して告げた。「張角らは赦免を受けても悔い改めず、かえって次第に勢力を拡大している。今もし州郡に命じて捕らえ討伐させれば、かえって騒擾を引き起こし、速やかに禍患を成就させてしまう恐れがある。まず厳しく刺史・二千石に命じ、流民を選別してそれぞれ本郡に護送帰郷させ、その党を孤立・弱体化させた後、渠帥きょすいを誅すれば、労せずして平定できるのではないか」。劉陶は答えて言った。「これは孫子のいう戦わずして人の兵を屈する、廟堂での勝算の術です」。楊賜はそこで上書してこのことを述べた。ちょうどその職を去ったため、事案は禁中に留め置かれた。後に霊帝が南宮に移り、過去の記録を閲覧した際、楊賜が上奏した張角に関する奏上と以前侍講を務めた際の注記された名簿を得て、ようやく感づき悟り、詔を下して楊賜を臨晋侯に封じ、邑千五百戸を賜った。初め、楊賜は太尉の劉寛・司空の張済と共に侍講に入ったため、自分一人が封賞を受けるのはふさわしくないと考え、上書して戸邑を劉寛・張済と分け与えたいと願った。帝はこれを嘉し賞賛し、改めて劉寛と張済の子を封じ、楊賜を尚書令に任命した。数日後に廷尉として出向することとなったが、楊賜は自分が法家の家系を継ぐ者ではないと考え、言った。「三後の功績は、民を豊かにすることにあったが、皐陶はその中に入っていない。おそらくそれを恥じたのであろう」。そこで固辞し、特進として邸宅に退いた。

原文先是黃巾帥張角等執左道,稱大賢,以誑耀百姓,天下襁負歸之。賜時在司徒,召掾劉陶告曰:「張角等遭赦不悔,而稍益滋蔓,今若下州郡捕討,恐更騷擾,速成其患。且欲切敕刺史﹑二千石,簡別流人,各護歸本郡,以孤弱其黨,然後誅其渠帥,可不勞而定,何如?」陶對曰:「此孫子所謂不戰而屈人之兵,廟勝之術也。」[一]賜遂上書言之。會去位,事留中。[二]後帝徙南宮,閱錄故事,得賜所上張角奏及前侍講注籍,[三]乃感悟,下詔封賜臨晉侯,邑千五百戶。[四]初,賜與太尉劉寬﹑司空張濟[五]並入侍講,自以不宜獨受封賞,上書願分戶邑於寬﹑濟。帝嘉歎,復封寬及濟子,拜賜尚書令。數日出為廷尉,賜自以代非法家,言曰:「三後成功,惟殷於民,戲陶不與焉,蓋吝之也。」[六]  遂固辭,以特進就第。

注[一]孫子に言う。「未だ戦わずして廟堂で勝算があれば、得る算が多い。未だ戦わずして廟堂で勝算がなければ、得る算が少ない」。注[二]論じた事案が禁中に留め置かれ、まだ施行されなかったことをいう。

原文注[一]孫子曰:「未戰而廟勝,得筭多也。未戰而廟不勝,得筭少也。」  注[二]謂所論事留在禁中,未施用之。

注[三]注記された名簿の記録。注[四]臨晋は県で、馮翊に属する。故城は現在の同州朝邑県の西南にある。

原文注[三]所注之籍錄。  注[四]臨晉,縣,屬馮翊,故城在今同州朝邑縣西南。

注[五]張済は字を元江といい、細陽の人である。張酺の曾孫。

原文注[五]濟字符江,細陽人也,張*(輔)*[酺]曾孫。

注[六]吝は恥じる意。殷は盛んにする意。尚書に「伯夷は法典を下し、人を裁くのは刑による。禹は水土を平らげ、山川の名を定めた。稷は播種を下し、農耕により良穀を育てた。三後の功績は、人を豊かにすることにあった」とある。皐陶がその数に入っていないのは、おそらくそれを恥じたからであると言っている。

原文注[六]吝,恥也。殷,盛也。尚書曰:「伯夷降典,折人惟刑,禹平水土,主名山川,稷降播種,農殖嘉谷,三後成功,惟殷於人。」言戲陶不預其數者,蓋恥之。

二年九月、再び張温に代わって司空となった。その月に薨去した。天子は素服を着し、三日間朝政を臨まず、東園の梓器と襚服を贈り、銭三百万、布五百匹を賜った。策文は次のとおり。

原文二年九月,復代張溫為司空。其月薨。天子素服,三日不臨朝,贈東園梓器襚服,賜錢三百萬,布五百匹。策曰:

故司空臨晋侯楊賜は、華岳が生み出したものであり、九徳を純粋に備え、三代にわたり宰相となり、忠をもって国を補佐した。朕が昔、初めて位についた時、帷幄の中で道を授けられ、それによって功績を成し、大道に登ることができた。師範としての功績は内外に明らかであり、百官の務めにも労苦を惜しまなかった。七たび卿校の職にあり、殊位の特進となり、五たび三公の職に登り、災難を鎮め国を治めた。茅土を受けたとはいえ、その勲功に報いることはできなかった。哲人が萎えた今、誰に諮り計らえばよいのか。朕は甚だ恐れる。礼には等級の差別が設けられ、物には服章がある。今、左中郎将の郭儀に節を持たせて追って位を特進とし、司空驃騎将軍の印綬を追贈する。

原文故司空臨晉侯賜,華岳所挺,九德純備,[一]三葉宰相,輔國以忠。朕昔初載,授道帷幄,[二]遂階成勳,以陟大猷。師範之功,昭於內外,庶官之務,勞亦勤止。七在卿校,殊位特進,五登袞職,弭難乂寧。雖受茅土,未荅厥勳,哲人其萎,將誰諮度!朕甚懼焉。[三]禮設殊等,物有服章。今使左中郎將郭儀持節追位特進,[四]贈司空驃騎將軍印綬。

葬儀の際には、また侍御史に節を持たせて喪を送らせ、蘭台令史十人に羽林騎・軽車・介士を発させ、前後の部に鼓吹を立て、また驃騎将軍の官属に司空の法駕を以て、旧塋まで送るよう命じた。公卿以下が会葬した。諡して文烈侯といった。小祥の際にもまた会葬が行われた。子の楊彪が後を嗣いだ。

原文及葬,又使侍御史持節送喪,蘭台令史十人發羽林騎輕車介士,[五]前後部鼓吹,又敕驃騎將軍官屬司空法駕,送至舊塋。[六]公卿已下會葬。謚文烈侯。及小祥,又會焉。子彪嗣。[七]

注[一]挺は生ずるの意。九徳とは即ち皐陶謨の九徳である。注[二]詩経大雅に「文王初載」とある。毛萇の注に「載は識なり」とある。

原文注[一]挺,生也。九德即戲陶謨九德。  注[二]詩大雅曰:「文王初載。」毛萇注云:「載,識也。」

注[三]礼記に「孔子、手を負ひ杖を曳き、門に消搖し、歌ひて曰く『太山其れ頽けんか、梁木其れ壊れんか、哲人其れ萎れんか』」とある。

原文注[三]禮記曰;「孔子負手曳杖,消搖於門,歌曰:『太山其頹乎,梁木其壞乎,哲人其萎乎!』」

注[四]前漢書に、張禹が丞相となり、老齢により罷免されて邸に退き、列侯として朔望に朝見し、位は特進、礼遇は丞相の如しとある。漢雑事に「諸侯で功徳優盛、朝廷の敬異する所たる者、位を特進賜ひ、三公の下に在る」とある。

原文注[四]前書,張禹為丞相,以老罷就第,以列侯朝朔望,位特進,見禮如丞相。漢雜事曰:「諸侯功德優盛,朝廷所敬異,賜位特進,在三公下。」

注[五]続漢志に「軽車は古の戦車なり、朱輪輿を洞らし、巾せず蓋せず、菑矛戟幢麾す」とある。菑は側事反と音す。菑は挿すの意。

原文注[五]續漢志:「輕車,古之戰車也,洞朱輪輿,不巾不蓋,菑矛戟幢麾。」菑音側事反。菑謂插也。

注[六]続漢志に「三公・列侯の車は、鹿に倚り熊を伏せ、轓は黒く、班輪は朱、鹿文の飛軨、九游の降龍。騎吏四人、皆剣を帯び棨戟を持ちて前列と為し、三百石の長が導従し、門下五吏を置き、賊曹・功曹は皆剣を帯び車道し、主簿・主記の両車が従う」とある。

原文注[六]續漢志「三公﹑列侯車,倚鹿,伏熊,黑轓,朱班輪,鹿文飛軨,九游降龍。騎吏四人,皆帶劍持棨戟為前列,三百石長導從,置門下五吏,賊曹﹑功曹皆帶劍車道,主簿﹑主記兩車為從」也。

注[七]礼に「開けて小祥」「又開けて大祥」とある。鄭玄の注に「祥は吉なり、其の漸く吉に即くを言ふ」とある。

原文注[七]禮「開而小祥」,「又開而大祥」。鄭玄注曰:「祥,吉也,言其漸即吉也。」

子の彪に賜ふ

原文賜子 彪

彪は字を文先といい、幼くして家学を伝へた。初め孝廉に挙げられ、州は茂才に挙げ、公府に辟せられたが、皆応じなかった。熹平年間、博く旧聞に習ひしことを以て、公車にて徴され議郎に拝され、侍中・京兆尹に遷った。光和年間、黄門令王甫が門生をして郡界に於て官財物七千余万を辜榷せしめた。彪は其の奸を発し、司隸に之を言上した。司隸校尉陽球は此れに因り王甫を誅すことを奏し、天下愜心せざる者無し。征されて侍中・五官中郎将に還り、穎川・南陽太守に遷り、復た侍中に拝され、三遷して永楽少府・太僕・衛尉となった。

原文彪字文先,少傳家學。初舉孝廉,州舉茂才,辟公府,皆不應。熹平中,以博習舊聞,公車徵拜議郎,[一]遷侍中﹑京兆尹。光和中,黃門令王甫使門生於郡界辜榷官財物七千餘萬,[二]彪發其奸,言之司隸。司隸校尉陽球因此奏誅甫,天下莫不愜心。征還為侍中﹑五官中郎將,遷穎川﹑南陽太守,復拜侍中,三遷永樂少府﹑太僕﹑衛尉。

注[一]華嶠の書に「馬日磾・盧植・蔡邕等と東観に著作す」とある。注[二]華嶠の書に「王甫、門生の王翹をして辜榷せしむ」とある。解は霊帝紀に見ゆ。

原文注[一]華嶠書曰:「與馬日磾﹑盧植﹑蔡邕等著作東觀。」  注[二]華嶠書曰:「甫使門生王翹辜榷。」解見靈帝紀。

中平六年、董卓に代はり司空となり、其の冬、黄琬に代はり司徒となった。明年、関東に兵起こり、董卓懼れ、都を遷して其の難を避けんと欲した。乃ち公卿を大会して議して曰く「高祖関中に都すること十有一世、光武洛陽に宮す、今に於ても亦十世なり。石包の讖を案ずるに、宜しく長安に都を徙し、以て天人の意に応ずべし」と。百官敢へて言ふ者無し。彪曰く「都を移し制を改むるは、天下の大事なり、故に盤庚五遷し、殷民胥に怨みたり。昔関中王莽の変乱に遭ひ、宮室焚蕩し、民庶塗炭し、百に一在らず。光武命を受けて、更に洛邑に都す。今天下虞る無く、百姓安んずるを楽む。明公聖主を建立し、漢祚を光隆せしむ。故無く宗廟を捐て園陵を棄てば、恐らくは百姓驚動し、必ず糜沸の乱有らん。石包室の讖は、妖邪の書なり、豈に信用す可けんや」と。

原文中平六年,代董卓為司空,其冬,代黃琬為司徒。明年,關東兵起,董卓懼,欲遷都以違其難。[一]乃大會公卿議曰:「高祖都關中十有一世,光武宮洛陽,於今亦十世矣。案石包讖,宜徙都長安,以應天人之意。」百官無敢言者。彪曰:「移都改制,天下大事,故盤庚五遷,殷民胥怨。[二]*[昔]*關中遭王莽變亂,宮室焚蕩,民庶塗炭,百不一在。光武受命,更都洛邑。今天下無虞,[三]百姓樂安,明公建立聖主,光隆漢祚,無故捐宗廟,棄園陵,恐百姓驚動,必有糜沸之亂。[四]石包室讖,妖邪之書,豈可信用?」

卓曰く「関中肥饒なれば、故に秦六国を併吞し得たり。且つ隴右材木自ら出で、之を致すこと甚だ易し。又杜陵南山の下に武帝の故瓦陶醋数千所有り、並び功を営めば、一朝にして辨ふ可し。百姓何ぞ足らんや議ふに与るに!若し前卻有らば、我大兵を以て之を駆り、滄海に詣らしむ可し」と。彪曰く「天下之を動かすは至って易く、之を安んずるは甚だ難し、惟れ明公之を慮れ」と。卓色を為して曰く「公国計を沮まんと欲するか」と。太尉黄琬曰く「此れ国の大事なり、楊公の言得無く思ふ可からざるか」と。卓答へず。司空荀爽、卓の意壮なるを見て、彪等を害せんことを恐れ、因り従容として言ひて曰く「相国豈に此れを楽しまんや?山東兵起こり、一日に禁ず可からざれば、故に当に遷り以て之を図るべし、此れ秦・漢の埶なり」と。卓の意稍解く。爽私に彪に謂ひて曰く「諸君堅く争ひ止まず、禍必ず帰有らん、故に吾為さざるなり」と。議罷み、卓司隸校尉宣播をして災異を以て琬・彪等の免を奏せしめ、闕に詣り謝せしめ、即ち光禄大夫に拝す。十余日、大鴻臚に遷る。関に入るに従ひ、少府・太常に転じ、病を以て免ぜらる。復た京兆尹・光禄勲となり、再び光禄大夫に遷る。

原文卓曰:「關中肥饒,故秦得併吞六國。且隴右材木自出,致之甚易。又杜陵南山下有武帝故瓦陶醋數千所,並功營之,可使一朝而辨。百姓何足與議!若有前卻,我以大兵驅之,可令詣滄海。」[五]彪曰:「天下動之至易,安之甚難,惟明公慮焉。」卓作色曰:「公欲沮國計邪?」[六]太尉黃琬曰:「此國之大事,楊公之言得無可思?」卓不荅。司空荀爽見卓意壯,恐害彪等,因從容言曰:「相國豈樂此邪?山東兵起,非一日可禁,故當遷以圖之,此秦﹑漢之埶也。」卓意小解。爽私謂彪曰:「諸君堅爭不止,禍必有歸,故吾不為也。」議罷,卓使司隸校尉宣播以災異奏免琬﹑彪等,詣闕謝,即拜光祿大夫。十餘日,遷大鴻臚。從入關,轉少府﹑太常,以病免。復為京兆尹﹑光祿勳,再遷光祿大夫。

三年秋、淳於嘉に代はり司空となり、地震を以て免ぜらる。復た太常に拝す。興平元年、朱儁に代はり太尉となり、尚書事を録す。及ひ李傕・郭汜の乱に、彪は節を尽くして主を衛ひ、崎嶇危難の間、幾くんか害を免れざらんとす。語は董卓伝に在り。車駕洛陽に還るに及び、復た尚書令を守る。

原文三年秋,代淳於嘉為司空,以地震免。復拜太常。興平元年,代朱儁為太尉,錄尚書事。及李傕﹑郭汜之亂,彪盡節衛主,崎嶇危難之閒,幾不免於害。語在董卓傳。及車駕還洛陽,復守尚書令。

注[一]違は避くの意。

原文注[一]違,避也。

注[二]盤庚は殷王の名なり。胥は相の意。亳に都を遷す、殷人相与に怨恨す。湯亳に遷り、仲丁囂に遷り、河但甲相に居り、祖乙耿に居り、並びに般庚を合わせて五なり。

原文注[二]盤庚,殷王之名也。胥,相也。遷都於亳,殷人相與怨恨。湯遷亳,仲丁遷囂,河但甲居相,祖乙居耿,並般庚五也。

注[三]虞は度の意。度るべき事無きを言ふ。書に「四方虞る無し」とある。注[四]麋粥の沸くが如し。詩に「沸くが如く羹の如し」とある。

原文注[三]虞,度也。言無可度之事也。書曰:「四方無虞。」  注[四]如麋粥之沸也。詩曰:「如沸如羹。」

注[五]は、険難を避けずに言うことを敢えてしたという意味である。注[六]の沮は、止めるという意味である。

原文注[五]言不敢避險難也。  注[六]沮,止也。

建安元年、東都の許に従った。当時、天子は新たに遷都したばかりで、公卿を大いに集めた。兗州刺史の曹操が殿上に上がると、楊彪の顔色が喜ばしくないのを見て、ここで自分を謀ろうとしているのではないかと恐れ、宴席に着く前に、病気を理由に厠に行くと称して退出し、そのまま陣営に戻った。楊彪は病気を理由に罷免された。当時、袁術が僭乱を起こしていたが、曹操は楊彪が袁術と婚姻関係にあることを口実に、廃立を謀ろうとしたと誣告し、収監を上奏し、大逆の罪で弾劾した。将作大匠の孔融はこれを聞くと、朝服に着替える暇もなく、曹操に会いに行って言った。[一]「楊公は四代にわたって清徳を積み、海内の敬仰の的であります。周書には父子兄弟の罪は互いに及ばないとあります。[二]ましてや袁氏の罪を楊公に帰するなどということがありましょうか。易経に『善を積めば余慶あり』とありますが、それは人を欺くだけの言葉でしょうか。」[三]曹操は言った。「これは国家の意向である。」孔融は言った。「仮に成王が邵公を殺したとして、周公が知らなかったと言えましょうか。今、天下の纓緌搢紳[四]が明公を仰ぎ見るのは、公が聡明仁智で、漢朝を輔相し、直きを挙げて枉わきを措き、雍熙の世をもたらすからであります。今、無辜を横に殺せば、海内の耳目は、誰が離反しないでしょうか![五]孔融は魯国の一男子に過ぎません。明日には衣を払って立ち去り、二度と朝参することはありません。」[六]曹操はやむを得ず、楊彪の罪を取り調べて釈放した。

原文建安元年,從東都許。時天子新遷,大會公卿,兗州刺史曹操上殿,見彪色不悅,恐於此圖之,未得燕設,托疾如廁,因出還營。彪以疾罷。時袁術僭亂,操托彪與術婚姻,誣以欲圖廢置,奏收下獄,劾以大逆。將作大匠孔融聞之,不及朝服,往見操曰:[一]「楊公四世清德,海內所瞻。周書父子兄弟罪不相及,[二]況以袁氏歸罪楊公。易稱『積善餘慶』,徒欺人耳。」[三]操曰:「此國家之意。」融曰:「假使成王殺邵公,周公可得言不知邪?今天下纓緌搢紳[四]  所以瞻仰明公者,以公聰明仁智,輔相漢朝,舉直厝枉,致之雍熙也。今橫殺無辜,則海內觀聽,誰不解體![五]孔融魯國男子,明日便當拂衣而去,不復朝矣。」[六]操不得已,遂理出彪。

注[一]献帝春秋に言う。「[孔融が]曹操に[会って]言った。『刑を濫用しないのは、君の明徳である。楊彪が罪を得たことで、恐れる者は多い。』」

原文注[一]獻帝春秋曰:「[融見]操[曰]:『刑之不濫,君之明也。楊彪獲罪,懼者甚觿。』」

注[二]左伝に言う。「康誥に曰く、『父慈まず、子祗つつしまず、兄友せず、弟恭しまず、相及ばず』と。」注[三]易経の文言に言う。「善を積む家には、必ず余慶あり。」

原文注[二]左傳曰:「康誥曰:『父不慈,子不祗,兄不友,弟不恭,不相及也。』」注[三]易文言曰:「積善之家,必有餘慶。」

注[四]説文に言う。「纓は、冠の索(ひも)なり。」鄭玄が礼記に注して言う。「緌は、冠の飾りなり。紳は、帯なり。搢は、插さすなり、笏を紳に插すなり。」あるいは「縉」と作るものは、浅赤、帯の色を言う。

原文注[四]說文曰:「纓,冠索也。」鄭玄注禮記曰:「緌,冠飾也。紳,帶也。搢,插也,插笏於紳也。」或作「縉」者,淺赤,言帶之色。

注[五]左伝に、季文子が晋の韓穿に言った。「四方の諸侯、誰か解体せざらんや!」杜預が注して言う。「再び肅敬しなくなるという意味である。」

原文注[五]左傳曰,季文子謂晉韓穿曰:「四方諸侯,誰不解體!」杜預注曰:「言不復肅敬也。」

注[六]もし無実の罪で楊彪を殺すならば、孔融はただ魯国の一男子に戻り、二度と朝参することはないという意味である。

原文注[六]若以非罪殺彪,融則還為魯國一男子,不復更來朝也。

四年、再び太常に任命されたが、十年で免官された。十一年、恩沢によって侯となった者たちは皆、封を奪われた。[一]楊彪は漢の天命がまさに尽きようとしているのを見て、遂に脚の攣ったふりをして出仕せず、十年を過ごした。後に子の楊修が曹操に殺されると、曹操は楊彪に会って尋ねた。「公はどうしてそんなに痩せられたのか?」楊彪は答えて言った。「日磾のような先見の明がなく、老牛が子牛を舐めるような愛しさをまだ懐いていることを恥じているのです。」[二]曹操はその言葉に顔色を変えた。

原文四年,復拜太常,十年免。十一年,諸以恩澤為侯者皆奪封。[一]彪見漢祚將終,遂稱恭攣不復行,積十年。後子修為曹操所殺,操見彪問曰:「公何瘦之甚?」對曰:「愧無日磾先見之明,猶懷老牛舐犢之愛。」[二]操為之改容。

注[一]楊彪の父の楊賜は、師傅として臨晉侯に封ぜられた。

原文注[一]彪父賜,以師傅封臨晉侯。

注[二]前漢書に言う。金日磾の二人の子は、武帝に愛され、弄兒とされた。その後、弄兒が成長し、慎みなく、殿下で宮人と戯れているのを、日磾がたまたま見て、その淫乱を憎み、遂に弄児を殺した。

原文注[二]前書曰,金日磾子二人,武帝所愛,以為弄兒。其後弄兒壯大,不謹,自殿下與宮人戲,日磾適見之,惡其淫亂,遂殺弄兒。

楊彪の子、楊修

原文彪子 修

楊修は字を徳祖といい、学問を好み、俊才があり、丞相曹操の主簿となり、[一]曹氏に仕えて権勢を振るった。曹操が漢中を平定した後、劉備を討伐しようとしたが進軍できず、守ろうとしても功を立てるのが難しい状況で、護軍は進退の判断に迷っていた。曹操はそこで教令を出したが、ただ「鶏肋」とだけ言った。外部の官曹は誰も理解できなかったが、楊修だけが言った。「鶏肋とは、食べても得るものはなく、捨てるには惜しいものだ。公の帰還の決意は固まったのだ。」そこで外部に少しずつ厳重な準備をさせると、曹操はここで軍を返した。楊修の機微の判断は、このようなものが多かった。楊修はまたかつて外出した時、曹操が外部のことを尋ねるだろうと予測して、あらかじめ返答の文書を作り、留守番の者に命じた。「もし命令が出たら、順番にこれを伝えよ。」果たしてその通りになった。このようなことが三度あり、曹操はその速さを怪しみ、調べさせて、事情を知り、[二]ここで楊修を忌み嫌うようになった。かつて袁術の甥であることを理由に、後患となることを憂慮し、遂にある事件を口実に彼を殺した。[三]

原文修字德祖,好學,有俊才,為丞相曹操主簿,[一]用事曹氏。及操自平漢中,欲因討劉備而不得進,欲守之又難為功,護軍不知進止何依。操於是出教,唯曰「雞肋」而已。外曹莫能曉,修獨曰:「夫雞肋,食之則無所得,棄之則如可惜,公歸計決矣。」乃令外白稍嚴,操於此回師。修之幾決,多有此類。修又嘗出行,籌操有問外事,乃逆為荅記,敕守舍兒:「若有令出,依次通之。」既而果然。如是者三,操怪其速,使廉之,知狀,[二]於此忌修。且以袁術之甥,慮為後患,遂因事殺之。[三]

注[一]典略に言う。「楊修は、建安年間に孝廉に挙げられ、郎中に除され、丞相が請うて倉曹属主簿に任じられた。この時、軍国多事であり、楊修は内外の事柄を総べて知り、全て意に適った。魏の太子以下、皆争って彼と交好を結んだ。」

原文注[一]典略曰:「修,建安中舉孝廉,除郎中,丞相請署倉曹屬主簿。是時軍國多事,修總知內外事,皆稱意。自魏太子以下,並爭與交好。」

注[二]廉は、察することである。注[三]続漢書に言う。「ある人が楊修が臨淄侯曹植と酒に酔って共に車に乗り、司馬門から出て、鄢陵侯曹彰を謗訕したと告げた。太祖(曹操)はこれを聞いて大いに怒り、故に遂に捕らえて殺した。時に四十五歳であった。」

原文注[二]廉,察也。  注[三]續漢書曰:「人有白修與臨淄侯曹植飲醉共載,從司馬門出,謗訕鄢陵侯彰。太祖聞之大怒,故遂收殺之,時年四十五矣。」

楊修の著した賦、頌、碑、贊、詩、哀辭、表、記、書は合わせて十五篇である。

原文修所著賦、頌、碑、贊、詩、哀辭、表、記、書凡十五篇。

魏の文帝が禅譲を受けた時、楊彪を太尉に任じようとし、まず使者を遣わして意向を示した。楊彪は辞退して言った。「私は漢の三公の一人を務めましたが、世が傾き乱れている中で、何ら補益することができませんでした。年老いて病を抱えている身で、どうして新たな朝廷を助けることができましょうか。」こうして固く辞退した。そこで光禄大夫を授け、几杖と衣袍を賜り、朝会の際に引見され、楊彪に布の単衣を着せ、鹿皮の冠をかぶらせ、杖をついて入朝させ、賓客の礼をもって遇した。

原文及魏文帝受禪,欲以彪為太尉,先遣使示旨。彪辭曰:「彪備漢三公,遭世傾亂,不能有所補益。耄年被病,豈可讚惟新之朝?」遂固辭。乃授光祿大夫,賜几杖衣袍,[一]因朝會引見,令彪著布單衣、鹿皮冠,杖而入,待以賓客之禮。

八十四歳で、黄初六年に自宅で死去した。楊震から楊彪に至るまで、四代にわたって太尉を務め、徳と業績が相継ぎ、袁氏とともに東京の名族と称された。

原文年八十四,黃初六年卒於家。自震至彪,四世太尉,德業相繼,與袁氏俱為東京名族雲。[二]

注[一]『続漢書』に「魏の文帝の詔に『先王が几杖を賜う制度は、年老いた者を賓客として礼遇するためである。太尉楊彪は、その先祖以来、代々著名な功績を挙げてきた。よって公に延年杖を賜う。延請の日には杖をついて入朝させよ』とある」という。

原文注[一]續漢書曰「魏文帝詔曰:『先王制几杖之賜,所以賓禮黃耇。太尉楊彪,乃祖以來世著名績,其賜公延年杖。延請之日便使杖入』」也。

注[二]華嶠の『書』に「東京の楊氏と袁氏は、累世宰相となり、漢の名族となった。しかし袁氏は車馬や衣服が極めて奢侈で分を超えていた。家風を守り、世に重んじられた点では、楊氏には及ばなかった」とある。

原文注[二]華嶠書曰:「東京楊氏、袁氏,累世宰相,為漢名族。然袁氏車馬衣服極為奢僭;能守家風,為世所貴,不及楊氏也。」

史論

原文史論

論じて言う。孔子は「危ういのに支えず、倒れそうなのに扶けなければ、どうしてその補佐役が必要だろうか」と言った。まことに負託された重任は、虚しく冒すことはできず、崇高な地位は、憂いが重く責務が深いのである。延光の間、楊震は上相として、直方の徳を以て権勢を振るう邪曲な者に臨み、公の道を先にして己の名声を後回しにした。これは王臣の節操を抱き、任された者の本分をわきまえていたと言えよう。こうして累代にわたり徳を積み、宰相の地位を継いだ。まことに「善を積んだ家には、必ず余慶がある」という。先代の韋賢・平当の父子も、これに比べれば取るに足らない。

原文論曰:孔子稱「危而不持,顛而不扶,則將焉用彼相矣」。[一]誠以負荷之寄,不可以虛冒,[二]崇高之位,憂重責深也。延、光之閒,震為上相,抗直方以臨權枉,[三]  先公道而後身名,可謂懷王臣之節,[四]識所任之體矣。遂累葉載德,[五]繼踵宰相。信哉,「積善之家,必有餘慶」。先世韋、平,方之蔑矣。[六]

注[一]『論語』に載る孔子の言葉である。相(補佐役)が扶持するとは、臣下が君主を補佐すべきことを譬えたものである。注[二]負荷の寄託とは、周公や霍光の類である。

原文注[一]論語載孔子之言也。相扶持者,諭臣當輔君也。  注[二]負荷之寄,周公、霍光之儔。

注[三]『易経』坤卦の六二に「直く方く大にして習わずとも利無からず」とある。注[四]『易経』に「王臣は謇謇(忠実)たり、躬(自分自身)の故に非ず」とある。

原文注[三]坤六二曰「直方大不習無不利」也。  注[四]易曰:「王臣謇謇,匪躬之故。」

注[五]『易経』に「徳積みて載す」とある。載は重なる意。注[六]韋賢と平当は父子ともに相継いで丞相となった。

原文注[五]易曰:「德積載。」載,重也。  注[六]韋賢、平當父子並相繼為丞相。

賛して言う。楊氏は徳を積み、代々国家の柱石となった。楊震は四知を畏れ、楊秉は三惑を去った。楊賜もまた隠すところなく直言し、楊彪の誠実さは誤りがなかった。楊修は才子ではあったが、我が淳朴な規範を変えてしまった。

原文贊曰:楊氏載德,仍世柱國。[一]震畏四知,秉去三惑。賜亦無諱,彪誠匪忒。[二]修雖才子,渝我淳則。[三]

注[一]代々国の柱石となる臣下であったという意。注[二]忒は誤り、差違い。注[三]渝は変える意。

原文注[一]言世為國柱臣也。  注[二]忒,差也。  注[三]渝,變也。

校勘記

原文校勘記

一七五九頁三行目「八世祖喜」について。集解が引く恵棟の説によれば、太尉楊震碑では「熹」と作っており、喜は熹と読むという。

原文一七五九頁三行八世祖喜按:集解引惠棟說,謂太尉楊震碑作「熹」,喜讀為熹也。

一七六〇頁四行目「続漢*(志)**[書]*曰」。集解が引く沈欽韓の説によれば、「志」は「書」とすべきであり、これに従って改めた。なお、『太平御覧』巻九百九十六が引くところでは「謝承後漢書」とある。

原文一七六0頁四行續漢*(志)**[書]*曰集解引沉欽韓說,謂「志」當作「書」,今據改。按:御覽九百九十六引作「謝承後漢書」。

一七六一頁二行目「倫字仲桓」について。集解が引く恵棟の説によれば、儒林伝によると、倫の字は仲理で、東昏の人である。倫と理は名と字が対応している。「桓」と作るものは詳らかでない。

原文一七六一頁二行倫字仲桓按:集解引惠棟說,謂案儒林傳。倫字仲理,東昏人。倫理名字相副,作「桓」者未詳。

一七六三頁八行目「篡辭也」の箇所について。注記:『辭』は元来『亂』であったが、汲古閣本と殿本に基づいて直接に訂正した。

原文一七六三頁八行篡辭也按:「辭」原斗「亂」,逕據汲本、殿本改正。

一七六五頁四行目「去年十*(一)**[二]*月四日京師地動」の箇所について。注記:延光二年十二月戊辰に、京師および郡国三か所で地震があった。『通鑒考異』は、下文の「其日戊辰」について、十一月丙申朔であり、戊辰は十二月四日に当たると述べている。これに基づいて改めた。

原文一七六五頁四行去年十*(一)**[二]*月四日京師地動按:延光二年十二月戊辰,京師及郡國三地震。通鑒考異謂下文「其日戊辰」,十一月丙申朔,戊辰乃十二月四日也。今據改。

一七六六頁四行目「小人怨詈則還自敬德」の箇所について。汲古閣本では「還自敬德」を「皇自敬德」とし、『群書治要』では「洗目改聽」としている。注記:李慈銘は、『無逸』篇の「皇自敬德」は今文尚書では「況自敬德」であり、『隸釋』に収録される漢の熹平石経尚書残碑では「況」を「兄」としていると指摘する。兄は古い「況」の字であり、王肅の尚書注では「滋益」(ますます増す)と解釈している。石経は今文を用いており、楊震は欧陽尚書を受けたので、この上疏では今文を用いて「況自敬德」としたが、字形が近いために誤って「洗目改聽」となった。章懐太子の注は古文尚書の「皇自敬德」のみを引用しており、後人が「況」の字を理解できず、遂に「還」の字に改めた。幸い『治要』では四字とも誤っているため、かえって推求して正しい形を得ることができる。

原文一七六六頁四行小人怨詈則還自敬德汲本「還自敬德」作「皇自敬德」,腢書治要作「洗目改聽」。按:李慈銘謂案無逸「皇自敬德」今文尚書作「況自敬德」,隸釋載漢熹平石經尚書殘碑「況」作「兄」,兄即古況字,王肅尚書注訓為滋益。石經用今文,楊震受歐陽尚書,故此疏用今文作「況自敬德」,因誤作「洗目改聽」,皆因形近致鬥。章懷注僅引古文尚書「皇自敬德」,後人不解「況」字,遂改作「還」字,幸治要四字皆誤,轉可推求而得。

一七六六頁一四行目「震行至城西幾陽亭」の箇所について。汲古閣本と殿本では「幾」を「夕」としている。『集解』は惠棟の説を引き、『東観漢記』では「洛陽都亭」、袁宏の『後漢紀』では「洛陽沈亭」、『資治通鑑』では「幾陽亭」としていると述べる。今、清の胡克家が翻刻した元刊胡三省注本『資治通鑑』では「夕陽亭」とし、章鈺が校訂した宋刊本『資治通鑑』三種および明の孔天胤本では、いずれも「幾陽亭」としていることを注記する。

原文一七六六頁一四行震行至城西幾陽亭汲本、殿本「幾」作「夕」。集解引惠棟說,謂東觀記作「洛陽都亭」,袁宏紀作「洛陽沉亭」,通鑒作「幾陽亭」。今按:清胡克家翻刻元刊胡注本通鑒作「夕陽亭」,章鈺校宋刊本通鑒三種及明孔天胤本,並作「幾陽亭」。

一七六八頁一0行目「帝嘗從容問奇曰」の箇所について。注記:「嘗」は元来「常」であったが、汲古閣本と殿本に基づいて直接に改めた。

原文一七六八頁一0行帝嘗從容問奇曰按:「嘗」原作「常」,逕據汲本、殿本改。

一七六九頁六行目「桃林縣有蓩鄉」の箇所について。注記:「桃林」は「弘農」とすべきである。『集解』は惠棟の説を引き、『郡国志』によれば宏農郡宏農県に桃邱聚があり、これがかつての桃林であり、蓩郷があると述べる。桃林は県名ではないので、注は誤っている。

原文一七六九頁六行桃林縣有蓩鄉按:「桃林」當作「弘農」。集解引惠棟說,謂郡國志宏農郡宏農縣有桃邱聚,故桃林,有蓩鄉。桃林非縣名,注訛。

一七六九頁八行目「秉字叔節」の箇所について。『校補』は柳従辰の説を引き、『太平御覧』巻二百七が引く張璠の『漢紀』では「字叔卿」としていると述べる。

原文一七六九頁八行秉字叔節按:校補引柳從辰說,謂御覽二百七引張璠漢記作「字叔卿」。

一七六九頁一二行目「私過幸河南尹梁胤府捨」の箇所について。『集解』は沈欽韓の説を引き、袁宏の『後漢紀』では梁不疑の府を幸したと述べており、梁冀の子が河南尹となったのは元嘉元年の後であるので、袁紀の方が正しいと述べる。

原文一七六九頁一二行私過幸河南尹梁胤府捨按:集解引沉欽韓說,謂袁宏紀雲幸梁不疑府,梁冀子為河南尹在元嘉初元之後,袁紀是。

一七七0頁四行目「特蒙哀識」の箇所について。『集解』は王補の説を引き、袁紀では「哀識」を「光識」としていると述べる。注記:『校補』は「哀」の字はおそらく「表」とすべきであろうと述べる。

原文一七七0頁四行特蒙哀識集解引王補說,謂袁紀「哀識」作「光識」。按:校補謂「哀」字疑當作「表」。

一七七0頁五行目「太尉黃瓊」の箇所について。『校補』は柳従辰の説を引き、袁紀では「太尉」を「太常」としており、また袁紀が楊秉の上疏を元嘉元年に載せているのに対し、黄瓊が太尉となったのは永興二年であるので、「太常」としている方が正しいと述べる。

原文一七七0頁五行太尉黃瓊按:校補引柳從辰說,謂「太尉」袁紀作「太常」,又袁紀載秉上疏在元嘉元年,而瓊為太尉在永興二年,則作「太常」是也。

一七七0頁一六行目「日月星辰山龍華蟲藻火粉米*[黼黻]*十二章」の箇所について。汲古閣本と殿本に基づいて補った。

原文一七七0頁一六行日月星辰山龍華蟲藻火粉米*[黼黻]*十二章據汲本、殿本補。

一七七一頁二行目「居郎閒」の箇所について。汲古閣本と殿本では「郎」を「廊」としている。注記:『漢書』顔師古注によれば、郎は皁衣を着るので、章玄はその服を着て廁まじわったのである。

原文一七七一頁二行居郎閒汲本、殿本「郎」斗「廊」。按:前書顏注,郎著皁衣,故章玄服以廁也。

一七七一頁七行目「中常侍單超弟匡」の箇所について。『集解』は銭大昕の説を引き、第五種伝では匡を単超の兄の子とし、宦者伝では単超の弟の子としていると述べる。

原文一七七一頁七行中常侍單超弟匡按:集解引錢大昕說,謂案第五種傳以匡為超兄子,宦者傳以為超弟子。

一七七二頁一行目「可告在所屬」の箇所について。『刊誤』は、文意からして「在」の字が一つ多いと述べる。

原文一七七二頁一行可告在所屬按:刊誤謂案文多一「在」字。

一七七四頁四行目「覽顧知釁重」の箇所について。汲古閣本と殿本では「顧」を「固」としている。注記:顧と固は通じる。

原文一七七四頁四行覽顧知釁重汲本、殿本「顧」作「固」。按:顧固通。

一七七四頁七行「投畀有虎」の誤りを訂正し、「有」は「豺」とすべきであると刊誤が述べ、注に他の説はなく、詩と同じであることを知る。今これに拠って改める。

原文一七七四頁七行投畀*(有)**[豺]*虎刊誤謂「有」當作「豺」,注無它說,知與詩同。今據改。

一七七五頁一〇行『左伝』に曰く、晋の寺人披の言なり。「言」は原本「吉」と誤り、直ちに正す。按ずるに、「曰」の字は衍字か。

原文一七七五頁一0行左傳曰晉寺人披言也「言」原斗「吉」,逕改正。按:「曰」字疑衍。

一七七五頁一五行賜、字は伯献。按ずるに、集解が引く惠棟の説によれば、太尉楊公碑及び文烈楊公碑は皆「字は伯猷」とし、袁宏の紀は「字は子猷」とする。また引く沉欽韓の説によれば、謝承の書は「伯欽」とする。また校補が引く柳従辰の説によれば、今の袁紀は「字は子献」とし、また東観記は「字は伯献」として、これと同じである。

原文一七七五頁一五行賜字伯獻按:集解引惠棟說,謂太尉楊公碑及文烈楊公碑皆云字伯猷,袁宏紀字子猷。又引沉欽韓說,謂謝承書作「伯欽」。又校補引柳從辰說,謂今袁紀作「字子獻」,又東觀記作「字伯獻」,與此同。

一七七七頁六行「布恩施惠」。「惠」は原本「志」と誤り、直ちに正す。

原文一七七七頁六行布恩施惠按:「惠」原斗「志」,逕改正。

一七七七頁一四行景公の時。按ずるに、陳景雲は「景公」の上に「宋」の字が脱けているという。

原文一七七七頁一四行景公時按:陳景雲謂「景公」上脫「宋」字。

一七七八頁一行周文、日昃にして暇あらず。汲本、殿本は「昃」を「昃」とする。按ずるに、昃は本𣅦と作り、𣅦は□の或字である。

原文一七七八頁一行周文日昃不暇汲本、殿本「昃」作「昃」。按:昃本作𣅦,𣅦為□之或字。

一七七八頁一一行文王、朝より日中仄に至るまで。汲本、殿本は「仄」を「昃」とする。按ずるに、仄と昃は通ず。

原文一七七八頁一一行文王自朝至於日中仄汲本、殿本「仄」作「昃」。按:仄昃通。

一七七九頁五行長くして大節に壮し。集解が引く沉欽韓の説によれば、列女伝は「壮」を「指」とする。今按ずるに、初学記が引くものは「壮」とする。

原文一七七九頁五行長壯大節集解引沉欽韓說,謂列女傳「壯」作「指」。今按:初學記引作「壯」。

一七七九頁六行腰を折りて匈を出す。汲本、殿本は「出」を「凸」とする。按ずるに、列女伝は「出」と作り、初学記が引くものも同じ。

原文一七七九頁六行折腰出匈汲本、殿本「出」作「凸」。按:列女傳作「出」,初學記引同。

一七七九頁六行年四十。按ずるに、集解が引く沉欽韓の説によれば、「四十」は新序及び初学記ともに「三十」とする。

原文一七七九頁六行年四十按:集解引沉欽韓說,謂「四十」新序及初學記並作「三十」。

一七七九頁六行嫁に行くも售れず。按ずるに、集解が引く沉欽韓の説によれば、列女伝は「行」を「衒」とする。

原文一七七九頁六行行嫁不售按:集解引沉欽韓說,謂列女傳「行」作「衒」。

一七八一頁四行禹、数えしばしば其の少子を視る。「少」は原本「小」と誤り、直ちに正す。

原文一七八一頁四行禹數視其少子按:「少」原斗「小」,逕改正。

一七八一頁九行檮杌、丕山に次ぐ。殿本に拠って改む。

原文一七八一頁九行檮杌次於*(平)**[丕]*山據殿本改。

一七八一頁一二行蝀の音は董。汲本は「董」を「東」とする。

原文一七八一頁一二行蝀音董按:汲本「董」作「東」。

一七八三頁四行斉、宣して五里。按ずるに、集解が引く惠棟の説によれば、王懋が世説に挙げる楽松の語に、斉は五十里なりと云い、五里にあらざることを知る。当時の史文は「五」の字の下に「十」の一字を脱している。蓋し七十里は百里に近く、四十里は五十里に近し。楽松はその大要を挙げたのみである。

原文一七八三頁四行齊宣五里按:集解引惠棟說,謂王懋雲世說舉樂松之語,雲齊五十里,乃知非五里也,當時史文於「五」字下脫一「十」字。蓋七十里近於百里,四十里近於五十里。樂松舉其大要耳。