後漢書
巻五十三
周黃徐姜申屠列傳 第四十三
序
易経に言う。「君子の道は、或いは出で、或いは処り、或いは黙し、或いは語る。」[一]孔子は「蘧伯玉は邦に道あれば則ち仕え、邦に道なければ則ち巻きて懐にすべし」と称した。[二]しかし、用いられるか捨てられるかの端緒は、君子がその誠を存する所以である。[三]故にその行う時は、足を濡らし垢を蒙り、身を出して時に応じる。[四]その止まるに及べば、則ち窮して棲み菽を茹で、宝を蔵して国を迷わす。[五] 注[一]上系の詞である。賢哲の行うところ、その趣は異なるという。
注[二]論語に言う。蘧伯玉は名を瑗といい、衛の大夫である。巻きて懐にすとは、時政に預からず、人に忤わない者をいう。
注[三]誠とは、実である。孔子は言う。「之を用うれば則ち行い、之を捨つれば則ち蔵す。」易経に言う。「邪を間わくして其の誠を存す。」
注[四]新序に言う。「申徒狄は時に非ずして、将に自ら河に投ぜんとす。崔嘉聞きて之を止めて曰く、『吾聞く、聖人は天地の間に事を従う、人の父母なり。今濡足の故を為して、溺るる人を救わざるか』と。」注[五]爾雅に言う。「啜は、茹なり。」孫卿子に言う。「君子菽を啜み水を飲むも、愚なるに非ざるは、是れ節然なり。」
論語に言う。陽貨が孔子に謂いて曰く、「其の宝を懐いて其の邦を迷わす、仁と謂うべけんや」と。
太原の閔仲叔という者は、[一]世に節士と称され、周党の潔清さをもってしても、自ら及ばないと思っていた。党は彼が菽を含み水を飲むのを見て、生蒜を贈ったが、受け取っても食べなかった。[二]建武年間、司徒侯霸の辟召に応じ、到着した後、霸は政事に及ばず、ただ労苦するだけであった。[三]仲叔は恨んで言った。「初め嘉命を蒙り、且つ喜び且つ懼れた。今明公を見るに、喜懼皆去る。仲叔を以て問うに足らざると思われたのか、辟すべからざるのである。辟して問わざるは、是れ人を失うなり。」遂に辞して出で、劾状を投げて去った。[四] 再び博士として徴されたが、至らなかった。客として安邑に居た。老病で家貧しく、肉を得ることができず、日に猪の肝一片を買ったが、屠者が時に与えようとしなかった。安邑令が聞き、役人に常に給するように命じた。仲叔は怪しんで問うて、知り、乃ち歎いて言った。「閔仲叔豈に口腹を以て安邑に累を及ぼさんや?」遂に去り、沛に客居した。寿を以て終わった。 注[一]謝沈の書に言う。「閔貢、字は仲叔。」
注[二]党は仲叔と同郡であり、亦た貞介の士である。逸人伝に見える。皇甫謐の高士伝に言う。「党、仲叔の菜無くして食するを見て、之に生蒜を遺す。仲叔曰く、『我は煩わしさを省かんと欲するのみ、今更に煩わしさを作すか』と。受け取って食さず。」
注釈[三] その勤苦を労うことである。労は音が力到反。
注釈[四] 罪を案じて劾という。自らその劾状を投じて去る。投は下すようなもの。今に投辞、投牒という言葉がある。
仲叔と同じ郡の荀恁は、字を君大といい、若い頃も清節を修めた。資財は千万あったが、父の荀越が亡くなると、すべて九族に分け与えた。
山沢に隠居し、その志を求めていた。王莽の末年に、匈奴がその本県の広武を侵したが、荀恁の名節を聞き、互いに約束して荀氏の里に入らなかった。光武帝が招聘したが、病気を理由に来なかった。永平の初め、東平王の劉蒼が驃騎将軍となり、東閣を開いて賢俊を招き、辟召に応じた。後に朝会があった時、顕宗(明帝)が冗談を言った。「先帝が君を招聘しても来なかったのに、驃騎将軍が辟召すると君は来た。どうしてか?」
答えて言った。「先帝は徳を持って下を恵むので、臣は来なくてもよかったのです。驃騎将軍は法を執って下を検察するので、臣は来ざるを得なかったのです。」一か月余り後に、罷免されて帰り、家で亡くなった。注[一] 恁の音は而甚反。
注[二] 広武は県で、太原郡に属する。故城は現在の代州雁門県にある。
注[三] 検は察するようなもの。
桓帝の時、安陽の人魏桓は、字を仲英といい、やはり数回招聘された。その郷人が行くよう勧めた。魏桓は言った。「禄を求めて進むのは、その志を行うためだ。今、後宮は数千人いるが、減らせるか?厩舎の馬は万匹いるが、減らせるか?側近はすべて権力のある豪族だが、除けるか?」皆が答えて言った。「できません。」魏桓は慨然として嘆いて言った。「私が生きて行き死んで帰るとして、諸君にとって何の益があろうか!」遂に身を隠して出なかった。注[一] もし時勢に逆らって強く諫め、死んでから帰るならば、行くよう勧めた諸君にとって何の益があろうか。
この二、三の者たちは、去就の節を知り、時を待って処したと言えよう。そうではあるが、ただ枯れ木のようにみすぼらしく、いい加減に生きていただけなのか?時勢に逆らい己を量り、その道を成し遂げたのである。私はその風流を列挙し、区別して記す。注[一] □は節である。時を待って居ることは、去就を失わないことである。
注[二] 詭は違うことである。多くは時勢に逆らい、志を量り己を考えるのである。
注[三] その清潔な風は、それぞれ条流があるので、区別してこれを記す。
周燮
周燮は字を彦祖といい、汝南郡安城県の人で、決曹掾の周燕の子孫である。周燮は生まれつき顎が曲がり鼻筋が折れ、醜い姿が人を驚かせた。
その母は捨てようとしたが、父は聞き入れず、言った。「私は聞くに、賢聖は多く異なる容貌を持つと。我が宗を興すのは、この子である。」
そこで養育した。注[一] 周燕については独行篇の周嘉伝にある。
注[三]伏羲は牛の頭、女媧は蛇の体、皋陶は鳥の嘴、孔子は牛の唇であり、これらは聖賢の異なる容貌である。また蔡澤もまた顩頤(あごが突き出て)蹙頞(鼻が低く)であった。
幼少の髫鬌の頃から、廉譲を知り、[一]十歳で学問を始め、詩経と論語に通じ、成長すると、礼と易に専念した。聖人の書でないものは読まず、慶弔の交際も行わなかった。先祖伝来の草屋が岡のほとりにあり、[二]その下に田があり、常に勤労して自給していた。[三]自分で耕したり漁ったりしたものでなければ食べなかった。郷里や宗族でもめったに会うことができなかった。[四] 注[一]髫は髪のこと。礼記に「子が生まれて三月の末に、日を選んで髪を切り、男は角、女は羈とし、そうでなければ男は左、女は右とする」とある。鬌の音は徒果反。
注[二]山の背を岡という。
注[三]肆は並べる、示すの意。
注[四]謝承の書に「燮は家にいて清く処し、法に合わぬことは言わず、兄弟、父子、家族が賓客のように接し、郷里の不善な者も皆その教えに従った」とある。
孝廉、賢良方正に推挙され、特に招聘されたが、皆病気を理由に辞退した。
延光二年
、安帝は玄纁(黒と浅黄の絹)と羔(子羊)を幣として燮を招聘し、[一] 南陽の馮良と共に、二郡がそれぞれ丞掾を派遣して礼を尽くした。宗族はさらに勧めて言った。「徳を修め行いを立てるのは、国のためである。先祖以来、勲功と寵愛が代々受け継がれてきたのに、あなただけなぜ東の岡のほとりに留まっているのか。」燮は言った。「私はすでに隠れて洞穴に住み、綺季の跡を追うこともできず、[二]それでもなお明らかに父母の国から遠く離れずにいる。これはまさに泥をかき混ぜ波を立て、その流れに同調することである。[三] 道を修める者は、その時を計って行動する。時を得ずに行動して、どうして通じることができようか!」[四] そこで自ら車に乗って潁川の陽城まで行き、*[門]*生に礼を送らせ、病気を理由に辞して帰った。[五]馮良もまた病気を理由に近くの県まで車で行き、贈られた礼を送り返して帰った。[六]詔書で二郡に告げ、毎年羊と酒を送って病気を養うように命じた。 注[一]礼では、卿は羔を執る。董仲舒の春秋繁露に「凡そ卿を賛えるには羔を用いる。羔には角があるが用いないのは、仁者に類するからである;
執っても鳴かず、殺しても悲しまないのは、義のために死ぬ者に類する;羔が母の乳を飲む時は必ず跪くのは、礼を知る者に類する:故に贄とする」とある。
注[二]綺季、東園公、夏黄公、□裡先生を四皓といい、商山に隠れた。前書に見える。
注[三]滑は混じるの意。楚詞に「何ぞその泥を滑らかにしてその波を揚げざる」とある。滑の音は古沒反。
注[四]亨は通じるの意。書経に「善を慮りて以て動き、動くは惟れその時を厥にす」とある。
注[五]送敬は謝意を伝えること。
注[六]送禮とは、贈られた礼を送り返すこと。
馮良は字を君郎という。孤微(孤貧で微賤)の家に生まれ、若い頃は県の役人をしていた。三十歳の時、尉の従佐となった。[一]督郵を迎えるための檄を受け取って出発する際、慨然として、賤役に従事することを恥じ、[二]車を壊し馬を殺し、衣冠を破り裂いて、ついに犍為に逃れ、杜撫に師事して学んだ。妻子が探し求めたが、跡はほとんど絶えていた。後に草むらの中に壊れた車と死んだ馬、腐った衣服を見つけ、虎狼や盗賊に殺されたと思い、喪を発して喪服を着た。十数年ほど経ってから、ようやく郷里に戻った。志操と行いは高潔で整っており、礼に合わぬことは行わず、妻子に対しても君臣のように接し、郷里の模範とされた。燮と馮良はともに七十余歳で亡くなった。 注[一]従佐とは、単に随従するだけで、文書の処理を主管しない者をいう。
注[二] 廝とは、卑しい者である。
黄憲
黄憲は字を叔度といい、汝南郡慎陽県の人である。代々貧しく卑しい身分で、父は牛医をしていた。注[一] 慎水の南に位置するため、県名とした。南陽には順陽国があるが、俗にこの地を「順陽」と書くことがあるのは誤りである。
穎川の荀淑が慎陽に来た時、旅館で黄憲に出会った。その時黄憲は十四歳で、荀淑は畏敬の念を抱いて彼を異才と認め、拱手して語り合い、日が暮れるまで立ち去ることができなかった。そして黄憲に言った。「あなたは、私の師であり模範です。」その後、荀淑は袁閬のところへ行き、挨拶もそこそこにいきなり言った。「あなたの国には顔回のような人物がいるが、ご存知ですか。」袁閬は言った。「私の叔度(黄憲)のことでしょうか。」
この時、同郡の戴良は才能が高く傲慢であったが、黄憲に会う時は必ず顔を正し、帰るときはぼんやりとして何かを失ったかのようであった。その母が尋ねた。「またあの牛医の息子のところへ行ってきたのか。」戴良は答えた。「私は叔度に会わなければ、自分が及ばないとは思わない。しかし、ひとたびその人に会うと、彼は目の前にいるようで、突然後ろにいるようであり、到底その深さを測り知ることはできません。」同郡の陳蕃と周挙はよく互いに言い合った。「一、二月の間黄生に会わないと、卑しく貪欲な心がまた心の中に芽生えてしまう。」そして陳蕃が三公の地位に就いた時、朝廷で嘆いて言った。「叔度がもし生きていたなら、私は先に印綬を佩びることはできなかっただろう。」太守の王龔は郡にいて、賢人や名士を礼遇して招き、多くの人々を招致したが、ついに黄憲を屈服させることはできなかった。郭林宗(郭泰)は若い頃汝南を遊歴し、まず袁閬を訪れたが、一泊もせずに立ち去った。次に黄憲を訪れて従い、数日を経てようやく帰った。
ある人が郭林宗にその理由を尋ねた。郭林宗は言った。「袁奉高(袁閬)の器量は、例えるなら湧き出る泉のようで、清らかではあるが容易に汲み取ることができる。叔度(黄憲)は千頃の池のように広々としており、澄ませても清らかにならず、かき混ぜても濁らず、その深さを量ることができない。」注[一] 逆旅とは、旅館のことである。
注[二] 一説には「閬」とする。
注[三] 顔子とは、顔回のことである。
注[四] 論語にある、顔回が孔子を慕って言った言葉である。
注[五] 吝とは、貪ることである。
注[六] 郭泰別伝に言う。「当時、郭林宗が薛恭祖のところを通りかかった時、薛恭祖が尋ねて言った。『聞くところによると、あなたは袁奉高に会う時は車の軌を止めず、馬具の軶を外さず、叔度のところへ行くと却って数日も泊まるそうだが?』」注[七] 奉高は、袁閬の字である。爾雅に言う。「側面から湧き出る泉を氿泉といい、正面から湧き出る泉を濫泉という。」氿の音は軌。濫の音は檻。
注[八] 淆とは、混ぜることである。
黄憲は最初に孝廉に推挙され、また公府に招聘された。友人が仕官を勧めると、黄憲もそれを拒まず、一時的に都へ行ったが帰ってきて、結局何の官職にも就かなかった。
四十八歳で亡くなり、世間では「征君」と称された。
論じて言う。黄憲の言論や風采については、伝え聞くところはない。しかし、士君子で彼に会った者は、深遠さに心服し、欠点や貪欲さを去らない者はなかった。それは、道を全うし本性を保ち、その徳を称える言葉がないからであろうか。私の曾祖父である穆侯(范曄の曾祖父、范汪)は、黄憲について、穏やかに順境に処し、深遠で道に似ており、その深浅はその境目に至ることができず、その清濁はその境界を論じることができない、と考えた。もし孔子の門に入っていたならば、おそらく及第の域に達していただろう。
[七]かつて論を著して言った。 注[一]玼の音は此。説文に「鮮やかな色なり」とある。この文によれば「疵」であるべきで、「玼」と作るのは、古字が通じるためである。
注[二]道は周備し、性は全一である。徳を称えることができず、その徳が大きく名づけようがないことを言う。
注[三]晉書に「范汪は字を玄平といい、安北將軍となり、謚は穆侯といった。汪は寧を生み、寧は泰を生み、泰は曄を生んだ」とある。
注[四]易の系詞に「坤は隤然として人に簡を示す」とある。隤は柔順な様子。
注[五]老子に「道は沖にして之を用うるも、或は盈たず、淵乎として万物の宗に似たり」とある。淵深にして知りがたいことを言う。
注[六]廣雅に「方は所なり」とある。
注[七]易の系詞に「顔氏の子、其れ殆ど庶幾からんか!」とある。殆は近いの意。
徐穉
徐穉は字を孺子といい、豫章郡南昌県の人である。[一]家は貧しく、常に自ら耕作し、自分の労力によらないものは食べなかった。恭儉で義を譲り、住む所では人々がその徳に服した。たびたび公府に召されたが、応じなかった。 注[一]豫章は郡で、現在の洪州である。南昌は県で、現在の豫章県である。謝承の書に「穉は若くして諸生となり、厳氏春秋・京氏易・歐陽尚書を学び、風角・星官・筭歴・河図・七緯・推歩・変易を兼ね綜べ、異行をもって時俗を矯め、閭里ではその徳化に服した。物を失う者があれば、県で互いに返し、道に拾い遺すものはなかった。
四度孝廉に察挙され、五度宰府に辟召され、三度茂才に挙げられた」とある。
当時、陳蕃が太守となっており、礼をもって功曹に任命するよう請うたが、穉はこれを免れず、謁見した後は退いた。陳蕃は郡において賓客と接しなかったが、ただ穉が来た時だけ特別に一つの榻を設け、去るとそれを掛けておいた。後に有道に挙げられ、家で太原太守に任命されたが、[一]いずれも就任しなかった。 注[一]家に赴いてこれを拝命すること。
延熹二年
尚書令の陳蕃、僕射の胡広らが上疏して穉らを推薦し、次のように言った。「臣は聞く、善人は天地の紀であり、政の由って起こるところであると。[一]詩に『思皇多士、この王国に生まる』[二]とある。天は俊乂を挺出させ、陛下のために現れ、まさに明時に輔弼し、大業を左右すべき者であります。[三]伏して見るに、処士の豫章の徐穉、彭城の姜肱、汝南の袁閎、[四]京兆の韋著、[五]穎川の李曇は、德行が純粋に備わり、人々の耳に著わされております。もしこれらを三事に擢登し、天工に協亮させれば、必ずや盛美を翼宣し、日明に光を増すことができるでしょう。」桓帝はそこで安車と玄纁を用い、礼を備えて徴召したが、いずれも至らなかった。帝は陳蕃に問うて言った。「徐穉、袁閎、韋著では、誰が先で誰が後か。」
陳蕃は答えて言った。「閎は公族から生まれ、道を聞き教えを受けてきました。著は三輔の礼義の俗の中で育ち、いわゆる扶けずとも自ら直く、彫らずとも自ら彫る者です。[六]穉に至っては、江南の卑薄な地域から出て、角立して傑出しております。宜しく先とすべきでしょう。」[七] 注[一]左伝に、晉の三□が伯宗を害し、讒言して殺し、欒弗忌に及んだ。韓献子が「□氏はその免れざるか!善人は天地の紀なり。これを驟に絶つ、亡びずして何を待たん」と言ったとある。
注[二]大雅の文王の詩である。思は願う。皇は天。この王國に天が多くの賢人を生むことを願う。
注[三]左右とは、補佐することである。
注[四]閎は袁安伝に見える。謝承の書によると、「閎は若い頃から志操を磨き、世俗を矯正して高潔な行いをした」。
注[五]著は韋彪伝に見える。謝承の書によると、「三輔の名門の筆頭であった。著は若い頃から節操を磨き、京氏易と韓詩を修め、術数や技芸に広く通じていた」。
注[六]説苑に「蓬が麻の中に生えれば、支えなくても自ずから真っ直ぐになる」とある。
注[七]角のように際立って立つことである。
徐穉はかつて太尉の黄瓊に召し出されたが、応じなかった。黄瓊が亡くなって故郷に葬られる時、徐穉は食糧を背負って徒歩で江夏まで赴き、鶏と酒による質素な祭りを設け、泣き終わると去り、姓名を告げなかった。その時、四方の名士郭林宗ら数十人が会合しており、これを聞いて、それが徐穉ではないかと疑い、話の上手な書生の茅容を選んで軽騎で追わせた。道で追いつき、茅容が食事を用意して共に農耕の話をした。別れ際に、徐穉は茅容に言った。「私の代わりに郭林宗に伝えてくれ。大樹が倒れようとしている時、一本の縄で支えられるものではない。どうしてあくせくして落ち着いておれないのか」。
郭林宗が母の喪に服した時、徐穉は弔問に行き、生の草一束を喪屋の前に置いて去った。人々は怪しみ、その理由が分からなかった。郭林宗は言った。「これはきっと南州の高士、徐孺子だ。詩に言わないか、『生の草一束、その人は玉の如し』と。私にはそれに値する徳がない」。注[一]謝承の書によると、「徐穉は諸公に召し出されても応じなかったが、死喪があれば書箱を背負って弔問に赴いた。常に家で鶏一羽を焼き、一両の綿を酒に浸し、干して鶏を包み、直接、喪家の墓所の外まで行き、水で綿を湿らせて酒気を出させ、一斗の米飯を、白茅を敷いてその上に置き、鶏を前に置き、酒を注ぎ終わると、名刺を残して去り、喪主には会わなかった」。
注[二]顛は倒れること。維は繋ぐこと。時勢が衰えようとしている時、一人で救えるものか、という喩え。
注[三]小雅の白駒の詩。これは賢者を戒めたもので、行く先々で、主人の贈り物がたとえ粗末でも、賢い主人のもとに行くべきで、その徳は玉のようである、ということ。
霊帝の初め、蒲輪の車で徐穉を招聘しようとしたが、ちょうど死去した。七十二歳であった。
子の徐胤、字は季登。篤実で孝悌の行いに励み、やはり隠居して仕えなかった。太守の華歆が礼を尽くして面会を求めたが、病気と称して固辞して行かなかった。漢末に賊徒が横行したが、皆、徐胤の礼儀正しい行いを敬い、互いに約束し合って、その里を犯さなかった。建安年間に死去した。注[一]謝承の書によると、「徐胤は若くして父母の喪に遭い、哀しみのあまり憔悴し、血を吐いて病気になった。喪が明けると、山林に隠居し、自ら耕作し、暇な時は経典を読み、貧困に苦しんでも志を固く守り、人から恩恵を受けなかった」。
注[二]魏志によると、華歆は字を子魚といい、平原の人である。豫章太守となった。政治は清浄で煩わしさがなく、役人や民衆は皆、感心して彼を敬愛した。
李曇、字は雲。幼くして孤児となり、継母は厳しく冷酷であったが、李曇はますます謹んで仕え、郷里で模範と称賛された。親を養い道を行い、生涯仕官しなかった。注[一]謝承の書によると、「李曇は幼くして父を亡くし、自ら継母に仕えた。継母は冷酷で激しかったが、李曇の性質は純粋で孝行であり、朝夕の挨拶を欠かさず勤勉に努め、妻や子も恭しく仕え、寒さや苦労に耐えても怨みとはしなかった。四季折々の珍しい物を得ると、まず母に進上した。徐孺子らと共に、海内で五処士の一人として名を列ねた」。
姜肱
姜肱、字は伯淮。彭城郡広戚県の人である。家は代々の名門である。姜肱は二人の弟、仲海と季江と共に、孝行で有名であった。その友愛は天性のもので、常に一緒に寝起きした。それぞれ妻を娶ると、兄弟は互いに慕い合い、別々に寝ることができず、後継ぎを立てなければならないため、順番に妻の部屋に行った。注[一]広戚の故城は現在の徐州沛県の東にある。
注[二]謝承の書によると、「祖父は豫章太守、父は任城相であった」という。
注[三]謝承の書によると、「肱は性質が篤実で孝行であり、継母に仕えて慎み深く勤勉であった。母は若く、また厳格であった。肱は孝行の風に感じ、兄弟は同じ布団で寝て、母の部屋には入らず、母の心を慰めた」という。
肱は五経に広く通じ、星緯の学にも明るく、遠方から学びに来る士は三千余人に及んだ。諸公は争って辟命を加えたが、いずれも就任しなかった。
二人の弟も名声が相次ぎ、やはり徴聘に応じず、当時の人々は彼らを慕った。
肱はかつて季江と共に郡に謁見に行き、夜道で盗賊に遭い、殺されそうになった。肱兄弟は互いに代わって死のうと争い、賊はついに二人とも釈放し、[一]ただ衣服と財貨を奪っただけだった。郡に着くと、肱に衣服がないのを見て、怪しんでその理由を尋ねたが、肱は他の理由を口実にして、終始盗賊のことは言わなかった。
盗賊はこれを聞いて感動し後悔し、後に精廬を訪れ、[二]征君に面会を求めた。肱は彼らと会い、皆は叩頭して罪を謝し、奪った物を返した。肱は受け取らず、酒食でもてなして帰した。注[一]謝承の書によると、「肱と季江は共に車に乗って野廬に行き、賊に襲われ、衣服を奪われ、兄弟を殺そうとした。肱は盗賊に言った:『弟は幼く、父母に憐れまれ、またまだ嫁取りもしていない。私が身を殺して弟を助けたい。』季江は言った:
『兄は年齢も徳も上で、家の珍宝、国の英俊である。私が殺されることを乞い、兄の命に代えたい。』盗賊は刃を収めて言った:『お二人はまさに賢人というべきだ。我々は不良で、妄りに侵犯した。』□物して去った。肱の車中にはまだ数千銭があったが、盗賊は見つけず、従者に追わせて与えようとしたが、これも受け取らなかった。肱は物が盗賊の手を経たため、亭吏に預けて去った」という。
注[二]精廬とは精舎のことである。
後に徐穉と共に徴召されたが、応じなかった。桓帝は彭城に命じて画工にその姿を描かせた。肱は暗い部屋に寝て、布団で顔を覆い、[一]眩暈の病を患い、風に当たりたくないと言った。画工はついに彼を見ることができなかった。注[一]韜は、隠すこと。
中常侍曹節らが朝政を専断し、太傅陳蕃と大将軍竇武を誅殺したばかりで、賢徳の士を寵遇して衆望を和らげようとし、肱を太守に徴するよう上奏した。肱は詔書を得ると、ひそかに友人に告げて言った:「私は虚名によって実利を得、名声を借りてしまった。明君が上にいる時でさえ、本来の志を固く守るべきなのに、まして今は政権が宦官の手にある。何をしようというのか!」そこで身を隠して逃亡し、遠く海辺に浮かんだ。再び玄纁で招聘されたが、応じなかった。太中大夫に任命され、詔書が門に届くと、[一]肱は家人に「長患いで医者にかかっている」と答えさせた。そして痩せた服装でこっそりと出て行き、青州の地に潜伏し、占いをして生計を立てた。召命は途絶え、家族も彼の居場所を知らず、数年を経て帰った。七十七歳の時、
熹平二年に
家で亡くなった。弟子の陳留の劉操は肱の徳を追慕し、共に石碑を刻んで彼を称えた。注[一]謝承の書によると、「霊帝が自筆で詔を下して言った:『肱は凌雲の志を抗い、浩然の気を養い、朕の徳が薄いため、志を屈して降ろうとしない。昔、許由が屈せず、王道は教化された。夷・斉が撓まず、周の徳は損なわれなかった。州郡は礼をもって優遇し、その意を失わせてはならない。』」
申屠蟠
申屠蟠、字は子龍、陳留外黄の人である。九歳で父を亡くし、悲しみのあまり礼の限度を超えた。喪が明けても、十数年にわたり酒肉を口にしなかった。
毎年の命日には、三日間食事を取らなかった。[一]注[一]海内先賢伝によると、「蟠は頤の側に甘露と白雉を招き、孝行で称えられた。」
同じ郡の緱氏の娘の玉が父の仇を討ち、夫の一族を殺害した。役人が玉を捕らえて外黄県令の梁配に報告すると、梁配は玉を死刑にしようとした。申屠蟠は当時十五歳で、諸生として進み出て諫めて言った。「玉の節義は、恥知らずの孫を感動させ、辱めを忍ぶ子を奮い立たせるに足ります。明君の時代に遭わなければ、なお墓の傍らに旌表を立てるべきであり、まして清聴に及んで、哀れみを加えないことがあろうか。」梁配はその言葉を良しとし、上申して死刑を減刑する判決を得た。郷里の人々はこれを称賛した。
『続漢書』によると、「同県の大女(成年女性)緱玉が、従父の仇を討つため、夫の従母兄(母方の従兄弟)である李士を殺害し、姑が緱玉を捕らえて役人に訴えた」という。
注[三]讞とは、請うことである。
家は貧しく、漆塗りの職人として雇われていた。郭林宗は彼を見て非凡な人物と認めた。同郡の蔡邕は申蟠を非常に高く評価し、州から召し出された際、彼に辞退を勧めて言った。
申屠蟠は玄妙な気質を授かり、天性聡明で心が通じ、親を喪って礼を尽くし、ほとんど身を滅ぼすほどであった。至高の行いと美しい義は、人々がなかなか成し得ぬものである。貧しさに安んじて潜居を楽しみ、道の味わいを守り真実を保ち、燥湿や軽重によって動かされず、窮達によって節を変えなかった。蔡邕と比べれば、年齢では長く、徳では賢かった。
注[一]律暦志に曰く、「銅は物の中でも最も精妙であり、乾燥や湿気、寒さや暑さによってその節度を変えず、風雨や露にさらされてもその形を改めず、確固として常にあり、士君子の行いに似ている」と。
『易経』に言う、「窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち天下を兼ねて済わす」と。
後郡は彼を主簿に召し出したが、赴任しなかった。そこで隠居して学問に専念し、五経を広く通貫し、図緯をも兼ねて明らかにした。初め済陰の王子居とともに太学に在ったが、子居が臨終の際、自らの身を蟠に託した。蟠は自ら輦車を押し、喪を送って故郷に帰った。河と鞏の間で司隸従事に出会い、従事はその義挙を認め、通行証を発行して護送しようとしたが、蟠は受け入れず、通行証を地面に投げ捨てて去った。葬儀を終えると学問に戻った。
注[二]『百官志』に「司隸の従事史は十二人、秩は百石である」とある。
注[三] 伝とは符牒を指す。人をして監視して送らせるのである。
太尉の黄瓊が召し出したが、就任しなかった。黄瓊が死去すると、江夏に葬られようとした時、四方の名士豪傑で葬儀に参列した者は六、七千人に及び、互いに談論したが、申屠蟠に及ぶ者はなかった。ただ南郡の一書生だけが彼と応酬し、別れ際に申屠蟠の手を握って言った。「あなたは招聘か徴用を受けるでしょう。そうなれば、上京で再会しましょう。」申屠蟠は急に顔色を変えて言った。「最初、私はあなたが語り合える人物だと思ったが、どうして私を拘束して楽貴の徒のような者にしようとするのか。」そこで手を振り払って去り、二度と語らわなかった。有道に再び推挙されたが、就任しなかった。
注[二] 楽の音は五孝の反切である。
注[三]謝承の書によると、「詔書で郡に命じて礼を尽くして発遣させたが、蟠は河南の萬歳亭に到着すると、轅を折り返して帰った」という。
以前から、京師の遊士である汝南の范滂らが朝政を非難・糾弾し、公卿以下は皆、身分を低くして彼らにへりくだっていた。太学生たちは競ってその風潮を慕い、文学が盛んになり、隠逸の士が再び用いられると考えた。ただ申屠蟠だけが嘆いて言った。「昔、戦国の世には、隠逸の士が勝手に議論をし、列国の王は、箒を持って先導するまでに至ったが、結局は儒者を生き埋めにし書物を焼く禍いに至った。今の状況はまさにそれだ。」そこで、梁と碭の間の地に隠れ住み、木を利用して小屋を建て、自らを雇い人と同じようにした。二年住んだ後、范滂らは果たして党錮の禍いに遭い、死んだり刑に処されたりした者が数百人に上ったが、蟠は確固として疑いや非難を免れた。後に蟠の友人である陳郡の馮雍が事件に連座して獄に繋がれた。豫州牧の黄琬が彼を殺そうとした。ある者が蟠に馮雍を救うよう勧めたが、蟠は行こうとせず、言った。「黄子琰(黄琬)が私のためであれば、必ずしも罪に合致するわけではない。もし私の言葉を用いないなら、たとえ行ったところで何の益があろうか!」黄琬はこの話を聞き、遂に馮雍の罪を免じた。
注[二]孟子は言う。「聖王が現れず、諸侯が勝手に振る舞い、在野の士が勝手に議論する」と。前書(漢書)には「秦が帝を称した後、周の滅亡を憂い、それは在野の士の勝手な議論と諸侯の力による争いから始まったと考えた」とある。音義には「横議によって滅びたという意味である」とある。
注[三]史記によれば、鄒衍が燕に赴くと、昭王は箒を抱えて先導し、弟子の列に座らせて教えを請い、学業を受けた。碣石宮を築き、自ら赴いて彼を師と仰いだ。
注[四]梁国には碭県があった。
謝承の書には「蓬萊の室に住み、桑の樹を依りどころとして棟とした」とある。
大将軍の何進は連続して招聘したが応じず、何進はどうしても彼を招き入れたいと思い、申屠蟠と同じ郡の黄忠に手紙を書かせて勧めて言った。「以前、幕府が開設された当初、先生に対しては特に殊礼を加え、優遇して名を呼ばず、親筆の手紙で申し入れ、机と杖を設けた席を用意しました。二年が経過しましたが、先生の志はますます高く、尊ぶところはますます固くなっています。私はひそかに考えますに、先生の高潔な節操は十分にありますが、時勢に適応することはまだありません。今、潁川の荀爽は病を押して道中にあり、北海の鄭玄は北面して官職を受諾しました。彼らはどうして束縛されることを好むでしょうか、時勢が安逸を貪ることを許さないと知っているからです。昔の隠者のやり方は、時勢に遭えば名声を隠して消え、巣に棲み薇を食べました。[一] 彼らが世に遇わなければ、裸身で大笑いし、髪を振り乱して狂ったように歌いました。[二] 今、先生は平らな地に住み、[三] 人々の間を遊行し、典籍を吟詠し、衣服を身にまとっておられます。昔の人とは事が異なるのに、彼らの跡を遠く踏襲しようとされるのは、難しいことではありませんか。孔子に師事することができるのに、どうして首陽山(伯夷・叔齊)にこだわる必要がありましょうか。」[四] 申屠蟠は答えなかった。
注[二]『楚辞』に「桑扈は裸行す」とある。『史記』に「箕子は髪を被いて陽狂す」とある。歌とは、楚の狂人接輿が歌いながら孔子の前を通り過ぎたことを指す。
注[三]壤とは、土地のことである。
注[四]孔子が子路に命じて隠者に告げさせた言葉に、「仕えなければ義はない。長幼の節は廃してはならない。君臣の義はどうして廃することができようか。身を清くしようとして大倫を乱すのか」とある。首陽は、伯夷・叔齊が隠棲した山である。
中平五年
また、荀爽・袁玄および潁川の韓融・陳紀ら十四人とともに博士として招聘されたが、赴かなかった。翌年、董卓が皇帝を廃立すると、申屠蟠と荀爽・韓融・陳紀らは再び公車で招聘されたが、申屠蟠だけは応じなかった。人々は皆彼を勧めたが、蟠は笑って応じなかった。しばらくして、荀爽らは董卓に脅迫されて長安に西遷し、都は混乱した。天子の車駕が西遷すると、公卿の多くは兵乱と飢饉に遭い、家族は離散し、韓融らはかろうじて身一つで逃れた。ただ申屠蟠だけが乱世の末に身を置きながら、最後まで高い志を全うした。七十四歳で家で亡くなった。
注[二]『続漢書』志によると、征爽は司空に、融は尚書に、紀は侍中に任じられた。
【賛】
【贊】
贊に曰く、琛宝は懐くべく、貞期は対し難し。
道もし運に違わば、理用同じく廃す。その遐棲するに与るよりは、豈に蒙穢するに若かんや。
淒淒たる碩人、陵阿に窮退す。
韜伏する明姿、甘んじて是れ堙曖たり。
注釈[一]琛宝は道徳を喩える。貞期は明時を謂う。対は偶なり。