李陳龐陳橋列伝
崔駰列伝
第四十二
周黄徐姜申屠列伝
崔駰
崔駰は字を亭伯といい、涿郡安平の人である。高祖父の崔朝は、昭帝の時に幽州の従事となり、刺史に諫めて燕剌王と通じないようにさせた。剌王が敗れると、侍御史に抜擢された。子の崔舒を生み、四郡の太守を歴任し、任地ごとに有能な名声があった。
注釈:燕剌王劉旦は武帝の子で、上官桀らと謀反を企てた罪により自殺した。剌は、力割反。
崔舒の末子の崔篆は、王莽の時に郡の文学となり、明経によって公車に召し出された。太保の甄豊が彼を歩兵校尉に推挙したが、崔篆は辞退して言った。「私は聞く、国を討つには仁人に問わず、戦陣には儒士に尋ねないと。この推挙はどうして私にまで及んだのか。」そして辞表を提出して帰郷した。
注釈:前漢書に董仲舒が言う。「昔、魯の国君が柳下惠に『斉を討伐したいが、どうか』と問うた。柳下惠は『できません』と答えた。帰って憂いの色を見せ、『国を討つには仁人に問わないと聞くが、この言葉がどうして私にまで及んだのか』と言った。」
注釈:論語に「衛の霊公が孔子に陣法を問うた。孔子は答えて『俎豆の礼のことはかつて聞きましたが、軍旅のことはまだ学んでおりません』と言った。」
注釈:辞表を提出して自ら過ちを認め、推挙に応じる資格がないとした。
王莽は自分に従わない者たちを嫌い、多くは法律を用いて中傷した。当時、崔篆の兄の崔発は巧みな弁舌で王莽に寵愛され、位は大司空に至った。母の師氏は経学や百家の言説に通じており、王莽は特別な礼遇をもって寵愛し、義成夫人の称号と金印紫綬、文軒丹轂を賜り、新の世に顕著であった。
その後、王莽は崔篆を建新大尹に任命した。崔篆はやむを得ず、嘆いて言った。「私は無実の世に生まれ、暴虐な君主に仕えている。上には老いた母がおり、下には兄弟がいる。どうして自分だけが潔白を保ち、家族を危険にさらすことができようか。」そこで単身で任地に赴き、病気を理由に政務を執らず、三年間も県内を巡回しなかった。配下の属官である倪敞が諫めたので、崔篆はようやく無理をして出仕し、春の農耕奨励の儀礼を行った。赴任した県では、牢獄が囚人で満ちあふれていた。崔篆は涙を流して言った。「ああ、刑罰が適切でないために、人々が牢獄に落とされている。これらはみな、いったい何の罪があって、このような目に遭うのだろうか!」
遂いて平理し、出したところ二千余人。掾吏が頭を叩いて諫めて言うには、「朝廷は初政であり、州牧は峻刻です。[六]過ちを宥め、枉げられた者を申し立てるのは、誠に仁者の心です。しかし、独り君子となるならば、後悔することがあるでしょう」と。篆は言う、「邾の文公は一人のためにその身を易えず、君子はこれを知命と謂う。[七]もし一大尹を殺して二千人を贖うならば、蓋し願うところである」と。遂に疾を称して去った。
注[一]王莽は千乗郡を建新と改称し、太守を大尹と改めた。
注[二]易経に「無妄の行は、窮まりて災いなり」とある。左伝に「昔、夏の衰えし時、后羿が鉏より窮石に遷り、夏の人に因りて夏の政を代え、原獣に淫す。寒浞を用う。伯明氏の讒める子弟なり。而して羿を田に虞り、以て其の国家を取る。浞、羿の室に因り、澆及び□を生む。其の讒慝詐偽を恃みて、人に徳せず」とある。澆の音は五吊反。□の音は許既反。
注[三]『続漢志』にいう。「郡国は常に春に行って県を巡り、人々に農桑を勧め、困窮者を救済する。」
注[四] 春の政令を公布する。
注[五]犴の音は岸である。前書音義に言う:「郷亭の獄を犴という。」
注[六]初政とは王莽が即位したことを指す。
注[七]左伝に「邾の文公が繹への遷都を占った。史官が言うには、『民には利があるが、君には利がない』。邾子(文公)は言った、『もし民に利があるなら、それは孤の利益である。民がすでに利益を得るなら、孤も必ずそれにあずかるのだ』。そこで繹に遷都した。五月、邾の文公が卒去した。君子は命を知っていたという」とある。
建武の初め、朝廷には彼を推薦する者が多く、幽州刺史もまた篆を賢良として推挙した。篆は自ら、宗門が王莽の偽りの寵愛を受け、漢朝に対して恥じ入る思いがあったため、辞退して帰郷し仕官しなかった。滎陽に客居し、門を閉じて深く思索にふけり、『周易林』六十四篇を著し、吉凶を判断するのに用い、多くが占いの結果と一致した。臨終に際して賦を作り自らを悼み、名付けて『慰志』といった。その文は次のとおりである。
昔の人が好機に巡り合ったことを称え、伊尹や傅説が時を得たことを賞賛する。規矩に合う優れた素質を持ち、公輸班や工倕を超えて裁断する。準縄や矩尺のような正しい法度に調和し、断金の深遠な計略と同じである。どうして太平の世に天の道が開かれるのか、千年を超えて功績を残す。これは果たして徳を修める極致なのか、それとも天の授けるところがそこに適うのか?
注[一]遘は遇うこと、辰は時のことである。
注[二]伊尹は湯王に仕え、傅説は高宗に遇った。爾雅に「□は遇なり」とある。音は五故反。
注[三]公輸班は魯の人である。倕は舜の時代に共工の官職にあった。いずれも巧みな人物である。湯と高宗を喩えたものである。
注[四]准は縄であり、矱は尺である。貞は正である。易経に「二人心を同じくすれば、その利は金を断つ」とある。玄策は妙策と同じである。
注[五]易経の大畜卦は、干が下に、艮が上にあり、その上九の爻辞に「何ぞ天の衢の如き、亨る」とある。鄭玄は「艮は手を表し、手は肩の上にある。干は頭を表す。頭と肩の間に物を担ぐところがある。干は天を表し、艮は径路を表す。天の衢の象である」と述べている。
我が生の成らざるを悲しむことよ、漢王朝の中衰に当たって。凶気の雲が鬱然と立ち込めて横暴に猛り、太陽が忽然と隠れて光を潜める。六つの権柄が家門に制せられ、帝王の綱紀は崩れ落ちて衰微する。九黎や共工が奮い立って跋扈し、羿や寒浞が狂ったように恣睢する。軽慢な蔵物を見て隙に乗じ、帝王の位という神器と万機の政務を窃む。補佐して苟くも生き延びようと考えるも、また号泣して憂い嘆く。三公の職にあった我が身を責めることよ、天の威厳をもって我を迫る。どうして熊宜僚のような微力ながらも耿介な士がいないことがあろうか?我が生(母)が滅び傷つくことを悼む。賢明な哲人の遺風を願いながらも、大雅に讒けられることを恐れる。ついに翼を閉じて運命に委ね、符節を受け守って艮(東北)の地に赴く。閉ざされた境遇に遭いながら隠れられぬことを恨み、石門の高士の行跡に背く。復関にて蛾眉を揚げて現れ、孔子の戒めである「冶容は淫を誨う」に触れる。民衆の愚かさが悟り悔いることを美とし、白駒の去るに従うことを慕う。そこで病と称して繰り返し辞退し、三年を経てようやく許される。
軽やかに挙って遠く遁れ、峻険な山に身を寄せて幽邃なところに住む。静かに深く思索を極め、六経の奥深い府庫を駆け巡る。皇帝が再び命じて憂いを継ぎ、ついに建武の世を顧みられる。彗星を電光のように掃き清め、天地四方の国土を清める。聖なる徳は広く横たわって覆い、民衆は喜び踊り鼓舞する。四方の門を開いて広く招き、あの幽州の牧守が我を推挙する。区画が定まり計画が決まるも、どうして老いた鄙びた者を飾り立てようというのか。ついに車を懸けて馬を繋ぎ、世俗の進取の道を断つ。暮春の服が完成するのを嘆き、衡門を閉じて車の轍を掃う。しばし優游して日を永く過ごし、性命を守って天寿を全うする。身体を大切にして全き状態で帰ることを貴び、先人に恥じぬようにしたい。
注[一]造は、成る。
注[二]丁は、当たる。
注[三]氛は、妖気。霓は、太陽の傍らの気。横厲とは気が盛んになって天を陵ぐこと。羲和は、太陽。気が盛んで日光が微かであるのは、王莽が漢を簒奪したことを喩える。
注[四]国語で管仲が斉の桓公に答えて言う「昔、聖人が天下を治めた時、その六柄を慎んで用いた」。韋昭の注に「六柄とは、生・殺・貧・賤・富・貴である」とある。漼は摧落(崩れ落ちる)の意、音は千隗反。
注[五]国語に「昔、少皞の衰えた時、九黎が徳を乱し、人と神が雑然と混じり、物事の区別がつかなくなった」とある。淮南子に「昔、共工が顓頊と帝位を争い、怒って不周の山に触れ、天柱が折れ、地維が絶えた」とある。跋扈は、強梁。恣睢は、我が儘に振る舞う様子。恣の音は訾。睢の音は許維反。羿・浞は上に既出。
注[六]易経に「蔵物を軽慢にすると盗みを招く」とある。釁は、隙。神器は、帝王の位。老子に「天下の神器は、為すべからざるものなり」とある。書経に「兢兢業業として、一日二日にして万機(多くの政務)を処理する」とある。
注[七]輔弼とは王莽が政務を補佐したことを指す。偷は、苟且(一時しのぎ)。号咷は、哀しみ叫ぶこと。前漢書に王莽が孺子嬰を定安公に策命した時、王莽自ら孺子の手を執り、涙を流して歔欷したとある。
注[八]三事とは三公を指す。負とは太保の甄豊が推挙したことを指す。
注[九]左伝に「楚の白公勝が乱を起こした。石乞が言う『市の南に熊相宜僚という者がいる。彼を得れば、五百人に匹敵する』。白公に従って彼に会いに行く。話をすると、喜んだ。理由を告げると、辞退した。剣を向けても動じなかった。勝は言う『利益のために諂わず、威圧に恐れず、他人の言葉を漏らして媚びを売らない者だ』。去った」とある。介は、耿介(意志が固く正直)。我生とは母を指す。殲は、滅びる。夷は、傷つく。母が年老いており、禍が及ぶことを恐れたことを言う。
注[一〇]詩経の大雅に「既に明らかで且つ哲くして、以て其の身を保つ」とある。
注[一一]艮は、東北の方角。篆が千乗太守となったことを指す。
注[一二]易経に「天地閉じて賢人隠る」とある。論語に「子路が石門に宿った。晨門(門番)が『どこから来たのか?』と尋ねた。子路が『孔氏からです』と答えると、『あの、それができないと知りながらも行う者か?』と言った」とある。注[一三]楚辞に「美女たちは皆、我が蛾眉を妬む」とある。詩経の国風の序に「氓は、時を刺す。淫風が大いに流行し、男女の別がなくなるので、その事を序して風刺した」とある。その詩に「彼の毀れた垣に乗り、復関を望む」とある。毛萇の注に「垝は、毀れる。復関は、君子の近づくところである」とある。易経の繋辞に「冶容は淫を誨う」とある。鄭玄は「その容姿を飾って外に現すことを冶という」と述べている。
注[一四]詩経に「氓之蚩蚩、布を抱きて絲を貿う。匪來貿絲、來即我謀」とある。注に「氓は人なり。蚩蚩は殷厚の貌。布は幣なり。即は就なり。この人の、絲を買いに來たるに非ず、我に就きて室家を為さんとするなりと言う」とある。また「及爾偕老、老使我怨」とある。注に「我は汝と倶に老いに至らんと欲す、汝反って我を薄くして怨ませしむなり」とある。また「皎皎たる白駒」とある。賢人を諭したものである。
注[一五]復は猶お白くするなり。
注[一六]峻峗は山を謂う。峗の音は魚委反。
注[一七]賾は深なり。
注[一八]皇は天なり。紹は継ぐなり。恤は憂えなり。天が憂恤し眷顧して漢家を顧み、光武を再命した所以なりと言う。
注[一九]欃槍は彗なり。
注[二〇]四方の門を開闢し、賢を広く求むるなり。幽牧は幽州刺史に挙げられたことを謂う。
注[二一]賁は飾るなり。易に「束帛戔戔たり、丘園に賁す」とある。
注[二二]論語に曾點曰く「暮春*[者]*、春服既に成る」とある。衡は横なり、横木を以て門と為すを謂う。軌は跡なり。
注[二三]齒は年なり。
注[二四]論語に曰く「曾子疾あり、門弟子を召して曰く『余が足を啓け』」とある。注に「父母己を全うして生む、亦た全うして之に帰すべし」とある。忝は辱しむるなり。先子は先人を謂う。孟子に曾西曰く「吾が先子の畏るる所なり」とある。
篆は毅を生み、疾を以て身を隠し仕えず。
毅は駰を生み、年十三にして詩・易・春秋を通じ、博学にして偉才有り、古今の訓詁百家の言を尽く通じ、文を属するに善し。少くして太学に遊び、班固・傅毅と同時に斉名す。常に典籍を以て業と為し、仕進の事に遑あらず。時に人或いは其の太玄静なるを譏り、以て後名実を失わんとす。駰は楊雄の解嘲に擬い、達旨を作りて以て之に答う。
注[一]華嶠の書に曰く「駰は楊雄を譏り、范・蔡・鄒衍の徒は、釁に乗じて相傾き、諸侯を誑曜する者なりと為し、而して『彼我時を異にす』と云う。又曰く、卓氏の資を窃み、細君に炙を割く、斯れ蓋し士の贅行なり、而して『此の数公者と同じくすること能わず』と云う。以て類を失うと為して之を改む」とある。
或る人己に説いて曰く「易に『物を備えて用を致す』、『観るべくして合する所有り』と称す、故に能く陽を扶けて以て出で、陰に順いて以て入る。春其の華を発し、秋其の実を収む、始め有り極まり有り、爰に其の質に登る。今子は六経を櫝に韞み、道術に服膺し、世を歴て遊び、高談日有り、俯いて深きを重淵に鉤し、仰ぎて遠きを九干に探る。至賾を幽微に窮め、潜隠の源無きを測る。然るに下は卿相の廷に歩まず、上は王公の門に登らず、進みては党して以て己を賛せず、退きては庸人に黷せず。独り師友は道德、曩真に符を合し、景を抱きて特立し、士と群せず。蓋し高樹は陰靡く、独木は林を成さず、時に随うの宜しき有り、道は凡に従うを貴ぶ。時に太上は天徳を運らして以て世に君たり、王僚に憲して以て官を布く。雍泮に臨みて以て儒を恢め、軒冕を疏かにして以て賢を崇ぶ。惇徳を率いて以て忠孝を厲し、茂化を揚げて以て仁義を砥ぐ。利器を良材に選び、鏌□を明智に求む。此の時に当たりて台階に攀じ、紫闥を窺わず、高軒に拠り、朱闕を望まざるは、夫れ千里を欲して咫尺未だ発せざるが如し、蒙窃かに惑う。故に英人は此の時に乗ずるや、猶お逸禽の深林に赴くが如く、□蚋の大沛に趣くが如し。何為れぞ嘿嘿として久しく沈滞するや」と。
注[一]「備物致用」は、易経の繫辞伝の文である。「可觀而有所合」は、序卦伝の文である。鄭玄が易緯乾鑿度に注して言う。「陽は子に起こり、陰は午に起こる。これが天の数の大きな区分である。陽は離を出て、陰は坎に入る。坎は中男、離は中女である。太一の運行は、出る時は中男に従い、入る時は中女に従う。陰陽男女の対を因って終始とするのである。」
注[二]韞は匣である。櫝は匱である。論語に言う。「美玉有り、韞櫝して之を臧す。」
注[三]易経に言う。「賾を探り隠を索め、深きを鉤き遠きを致す。」九干とは天に九重有りという意味である。離騷の天問に言う。「円は則ち九重、孰か之を営度せしや?」
注[四]贊とは称えるという意味である。
注[五]華嶠の書では「高樹不庇」と作る。易経に言う。「時に随うの義、大いなるかな!」老子に言う。「其の光を和し、其の塵に同ず。」故に道は凡に従うことを貴ぶと言うのである。
注[六]太上は明帝を指す。伝に言う。「太上は徳を立つ。」天徳とは、含弘光大である。易経に言う。「乃ち位は天徳に乎る。」尚書に言う。「唐虞は古に稽え、官を建つるに惟れ百、夏商は官倍す、亦克く用いて乂と為す。」憲は法である。僚は官である。三王に法って官を建てたと言うのである。
注[七]天子の学校は辟雍、諸侯の学校は頖宮である。璧雍とは、水を以て之を環らし、円くして璧の如きものである。頖は半である。諸侯は天子の宮の半分である。皆、学を立て教えを垂れるために用いられるのである。
注[八]砥は礪くことである。
注[九]呉越春秋に言う。「干将は呉の人である。二つの剣を造り、一つを干将、二つを莫邪と言う。莫邪とは、干将の妻の名である。干将が剣を作る時、五山の精を採り、六金の英を合わせ、百神が臨観し、遂に以て剣を成す。」説苑に言う。「干将・莫邪を尚ぶ所以は、其の立断(たちどころに断つ)を貴ぶからである。騏驎を尚ぶ所以は、其の立至(たちどころに至る)を貴ぶからである。必ずや日を歴て久しく曠しくとも、絲犛猶能く石を栔み、駑馬亦能く遠きを致す。是を以て、聰明敏捷は人の美材である。」
注[一〇]三台を三階と言い、三公の象徴である。
注[一一]八寸を咫と言う。
注[一二]文子に言う。「智万人に過ぐるを英と謂い、千人を俊と謂う。」
注[一三]蚋は小虫、蚊の類である。蚋の音は芮。説文に言う。「秦では之を蚋と謂い、楚では之を蚊と謂う。」孟子に言う。「污池沛沢。」劉熙が言う。「沛は水草相半ばする。」
答えて言う。「そのような言葉があるのか?あなたがもし世の道で私を励まそうとするなら、その道がつまずいて私の法度を失うことを知らないのである。古、陰陽が始めて分かれ、天地が初めて制せられた時、皇綱は雲の如く緒をなし、帝紀が設けられ、歴数が伝え継がれ、三代が興り滅んだ。昔の大庭氏は遠く、赫胥氏は識る由もない。純朴な気風が散り離れ、人物は錯れ乖いた。高辛氏が降臨されても、その志趣はそれぞれに違っていた。道には常に拠るべき定則がなく、時と共に張り弛みする。仁を失えば非となり、義を得れば是となる。君子は変通し、それぞれ自らの踏むところを審らかにする。故に士は或いは目を掩って淵に潜み、或いは耳を盥いで山に棲み、或いは草を耕して僅かに飽き、或いは木の実を茹って長く飢え、或いは重ねて招聘されても来ず、或いは屡々罷免されても去らず、或いは冠の紐を冒して進み出ようとし、或いは顔色を望んでこれに応じ、或いは役夫が王公に夢を発し、或いは漁父が元亀に兆しを見せたのである。もしも紛糾が道を塞ぎ、凶虐が流布し、民に水害の苦しみがあり、主に人材を求める憂いがある時は、蔓草の条が垂れ下がるように、上下互いに求め合う。そこで賢人が手を差し伸べ、世の災いを救い、跋渉して俗世に赴く。これが時を急ぐ所以である。昔、堯帝が憂戚を含んで咎繇に諮り、高祖が歎息して子房に慮らせた。禍が散じずに曹参・周勃が奮い立ち、結び目が解けずに陳平が権謀を巡らした。そしてその策が道に合い、乱を克服し衝きを鎮めると、玄珪を鏤め、功績を顕彰する冊書を作り、昆吾の冶に銘を刻み、景公・襄公の鐘に勒んだのである。事有る時は、裳を褰げ足を濡らし、冠が掛かっても顧みず、人が溺れても救わなければ仁ではない。事無き時は、冠の纓を整え襟を正し、歩みを規矩に合わせる。徳と譲りを修めなければ忠ではない。故に険しい時は俗を救い、平穏な時は礼を守り、公心を以て挙げ、その身を私しないのである。
注[一]制は、協韻で音は之設反。
注[二]大庭氏と赫胥氏はともに古代の帝王の号である。尚は遠いこと。罔は無いこと。識は記すこと。
注[三]高辛氏は帝嚳である。
注[四]時勢に応じて張り巡らし、常道によって考証しないこと。
注[五]老子に「道を失えば後に徳あり、徳を失えば後に仁あり、仁を失えば後に義あり、義を失えば後に礼あり」とある。
注[六]荘子に「北人無沢は舜と友となり、舜は天下を譲ろうとしたが、無沢は清泠の淵に身を投げ、終身帰らなかった」とある。
注[七]盥は洗うこと。許由は字を武仲といい、沛沢の中に隠れていた。堯がこれを聞き、天下を致して譲ろうとした。由はこれを汚れたことと思い、池に臨んで耳を洗った。その友の巣父が牛の子に水を飲ませようとし、由が堯に譲られたことを聞き、「どうしてわが牛の子の口を汚すのか」と言い、上流に牽いて水を飲ませた。荘子及び高士伝に見える。
注[八]伯成子高は、唐虞の時代に諸侯であった。禹の時代になると、去って耕作した。禹が会いに行くと、野で耕作していた。呂氏春秋に見える。
注[九]説苑に「鮑焦は木の皮を衣とし、木の実を食した」とある。韓詩外伝に「焦はその野菜を□し、立ち枯れて洛水のほとりで死んだ」とある。
注[一〇]狂接輿は楚の人である。耕作して食った。楚王がその賢さを聞き、使者に金百溢、車二駟を持たせて招聘し、「願わくは先生に江南を治めていただきたい」と言った。接輿は笑って応じなかった。使者が去ると遠くに移り住み、どこに行ったか分からなくなった。荘子に見える。
注[一一]論語に「柳下惠が士師となったが、三度罷免された。人が『去ることができます』と言うと、『直道をもって人に仕えれば、どこへ行っても三度罷免されないことがあろうか』と言った」とある。
注[一二]紘は辱められることで、音は火豆の反切。新序に「伊尹は恥辱を蒙り、鼎俎を背負って湯に干した」とある。論語に「色を見て挙がり、翔び回って後に集まる」とある。挙は協韻で音は據。
注[一三]高宗は夢で傅説を得たので、百工に命じて野に求めて探させ、傅巖で彼を得た。孔安国は「傅氏の巖は虞と虢の境界にあり、通路が通じている所で、澗水が道を壊すため、常に胥靡の刑人を使ってこの道を築き護らせていた。説は賢者で隠れていたが、代わって胥靡が築くのを手伝い食を供した」と言う。事は尚書に見える。王公は総称である。爾雅に「皇、王、後、辟、公、侯は、みな君である」とある。
注[一四]戦国策に「呂尚が文王に遇った時は、身は漁父であった」とある。史記に「太公は釣りをして周の西伯に干した。西伯が狩りに出ようとし、占うと、『獲るものは龍でも螭でもなく、熊でも羆でもない。獲るものは霸王の補佐である』と言った。そこで西伯が狩りをすると、果たして渭水の北で太公に遇い、語り合って大いに喜んだ」とある。元は大きいこと。
注[一五]方言に「□は盛んで多いこと」とある。音は奴董の反切。
注[一六]尚書に「下民は昏墊す」とある。孔安国は「昏瞀と墊溺は、皆水害に困っていることである」と言う。また「帝が言うには、ああ洪水が天を滔き、浩浩として山を懐き陵を襄む。よくこれを治める者はいないか」とある。
注[一七]藟は蔓である。音は壘。詩に「南に樛木有り、葛藟之に累す」とある。
注[一八]孟子に「天下溺るれば則ち之を援くに道を以てし、嫂溺るれば則ち之を援くに手を以てす」とある。
注[一九]草を行くを跋という。
注[二〇]謨は謀である。堯が洪水に遭い、嘆き憂い、下の人に能く治める者を訪ねたところ、皋陶と大禹がその謀を陳べた。尚書に見える。史記に、高祖が項羽に敗れ、馬から下りて鞍に腰掛けて子房に問うて言うには、「関以東を棄てようと思うが、誰と共に功を為すことができようか」と。子房が言うには、「九江王の布、彭越、韓信である。即ちこれを棄てようと思うならこの三人であり、楚を破ることができる」とある。
注[二二]高祖が匈奴を撃ち、白登に至り、七日間包囲されたが、陳平の計を用いて脱出した。
注[二三]珪は玉である。詩含神霧に「之を玉版に刻み、之を金匱に蔵す」とある。
注[二四]墨子に「昔、夏后開が飛廉に命じて山で金を析き、昆吾で鼎を鋳造させた」とある。蔡邕の銘論に「呂尚が周の太師となり、その功は昆吾の鼎に銘せられた」とある。
注[二五]国語に「晋の魏顆がその身を以て秦の師を輔氏で退け、その勲は景鐘に銘せられた」とある。これは襄をも兼ねて言っている。
注[二六]褰裳は水を渡ることである。新序に「今、濡足の故に、人の溺るるを救わないのは、可であろうか」とある。淮南子に「禹の時に趨るや、冠が掛かっても顧みず、履を遺しても取らなかった」とある。
注[二七]躐の音は呂涉反。躐は踏むことである。この字は「手」偏にすべきである。広雅に「擸は持つなり」とある。纓を整え襟を正し、その容止を修めることを言う。史記に「纓を摂め襟を整う」とある。華嶠の書では「躐」を「摂」と作っている。
注[一]孔子が言うには「大なるかな、堯の君たるや、煥乎として其れ文章有り」と。故に唐文と言う。
注[二]壞は、土器でまだ焼かれていないものである。郭璞が爾雅に注して「壞胎は物の始めなり」と言う。壞の音は普才反。
注[三]凝は成るである。
注[三]械とは器械や甲兵の類をいう。厝とはこれを置いて用いないことをいう。周礼に「太宰の職は、邦を建てる六典を掌り、以て王を佐けて邦国を理む。一に曰く理典、二に曰く教典、三に曰く礼典、四に曰く政典、五に曰く刑典、六に曰く事典」とある。左伝に「周に乱政有りて九刑を作る」とある。杜預の注に「周の衰え、刑書を為し、之を九刑と謂う」とある。
注[五]力牧は黄帝の臣である。史記に、尚父の呂望が武王を相いて以て紂を伐ったとある。厲とは威容が厳しいことをいう。
注[六]伊尹、皋陶、范雎、蔡沢。
注[七]広大な建物が完成すれば、木材を求めないので、林の木々は枝葉が伸び伸びとしている。遠方から求めるとは、遠方の珍しい物を指す。存は止息の意。求める物が既に止められれば、良馬の力を借りる必要がない。
注[九]爾雅に「心は大火である」とある。詩経の豳風に「七月に火(大火星)が流れる」とある。また「九月に場や畑を築く」ともある。
注[一〇]山の南側を陽、北側を陰という。穀梁伝に「林が山に属するのを麓という」とある。
注[一一]八尺を尋という。蓺は植えること。両手で掬うのを拱という。数は密の意。数は疏角反と読む。
注[一二]悠悠は多い様子。罔極は無窮と同じ。亦各有得は、皆それぞれ自分が得ていると思うこと。
注[一三]彼は、あの多くの人々を指す。論語に「用いられれば行い、捨てられれば身を隠す」とある。
注[一四]呂氏春秋に「伍員を得た者は執珪の位につく」とある。前書音義に「古代の爵位名である」とある。また「柱国は楚の官職で、秦の相国に相当する」ともある。
「君子は仕官を望まないわけではない。へつらって推挙を求めることを恥じるのである。家を持たないわけではない。垣根を乗り越えて娘を引き寄せることを嫌うのである。叫び売りつけ、旗を掲げて自らを誇示するのは、随侯の珠や和氏の璧のような宝物ではない。知恵を誇って世に耀き、それによって禄を求めるのは、孔子の道ではない。交遊に等類や朋党を選ばず、ただ己の利益のために行動し、血と汗を流して時流に競い、利益が合致すれば友とする。あなたは私の沈滞を笑うが、私もあなたが止むことなく(欠落)するのを問題視する。先人に規範があっても私はそれを損なわず、行いに邪な道があっても私はそれに従わない。善悪の判断は私にあり、ただ世間がどう論じるかだけである。固より天与の素質に従い、先哲の高邁な教えを誦し、太平の清らかな風を詠じ、天下の最も順当な道を行おう。
わが身の穢れた行いを恐れ、百畝の田を耕さないことを心配する。わが馬を繋いで安らかに歩み、天命の存するところを待つ。昔、孔子は夾谷で威厳を示し、晏嬰は崔杼に対して勇気を発揮した。曹劌は柯の盟約で節義を挙げ、卞厳は強敵に対して勝利を収めた。范蠡は会稽で形勢を転換し、伍員は柏挙で功績を樹立した。魯仲連は弁舌をもって燕軍を退け、申包胥は一つの言葉で楚を存続させた。唐且は白髪の頭で秦王を悟らせ、甘羅は幼い年齢で趙に報いた。原衰は一壺の飯で廉潔を示し、趙盾は一束の干し肉で徳を収めた。季札は丘の木に信を結び、柳下恵は門の女に対して貞節を守った。顔回は度轂において仁を明らかにし、程嬰は趙武に対して義を顕わした。私は確かにこれら数人の徳を編むことはできないが、ひそかに古人が記したことを慕っている。」
注[一]夸毗とは、へつらう者が十分に恭しく、進退を巧みに行うこと。
注[二]孟子に「東の隣家の垣根を乗り越えてその処女を引き寄せれば妻を得るが、引き寄せなければ得られない。引き寄せるべきか?」とある。趙岐の注に「摟は牽くこと。その字は『手』に従う。処子は処女である」とある。
注[三]華嶠の書では「因」の字を「回」としている。回は邪の意。
注[四]倫は等類、党は朋党。徇は営むこと。交わりがその類でなく、ただ己を営むだけであると言う。
注[五]汗血は労力を費やすこと。競時は時流に乗ること。利が合致して友となるのは、道義によるのではない。
注[六]□□は猶お区々たるなり。
注[七]枉は曲なり。徑は道なり。
注[八]尚書に曰く「穢德彰聞」と。禮記に曰く「夫人情は、聖王の田なり。禮を修めて以て之を耕し、義を陳べて以て之を種え、學を講じて以て之を耨う」と。古者は夫田百畝。耘は草を除くなり。
注[九]安行は奔馳せざるなり。天命之を性と謂う。隠居して以て命を体するを言う。
注[一〇]解は陳禪傳に見ゆ。
注[一一]解は馮衍傳に見ゆ。
注[一二]曹劌は曹沬なり。史記に曰く、曹沬は勇を以て魯莊公に事え、魯の将となり、齊と戦い、三たび敗れ、莊公懼れ、乃ち遂邑の地を献じて以て和し、猶お将と為す。齊桓公と莊公と柯に会して盟す。桓公と莊公と壇上に既に盟し、曹沬は匕首を執りて齊桓公を劫し、左右敢えて動く者莫く、乃ち魯の侵地を還す。
注[一三]新序に曰く「卞莊子は母を養い、戦いて三たび北し、交遊之を非とし、國君之を辱しむ。母死して三年に及び、齊と魯と戦う。莊子従うを請い、遂に敵に赴いて□し、三たび甲首を獲たり。曰く『夫れ三たび北するは、以て母を養わんが為なり。今志節小具わり、而して責塞がる。吾聞く、節士は辱を以て生ぜずと。』遂に敵に反し、十人を殺して死す。君子曰く、三北已に塞がり、世を滅ぼし宗を断つは、孝に於いて未だ終わらず」と。
注[一四]錯は置くなり、音は七故の反。埶は謀略を謂うなり。史記に曰く、吳王は夫椒にて越を敗り、越王は乃ち余兵五千人を以て會稽に保つ。吳師追いて之を囲む。越王、范蠡に謂いて曰く「奈何」と。范蠡対えて曰く「卑辭厚禮を以て之に遺わん」と。句踐は乃ち大夫種を命じて吳に行成せしむ。膝行頓首して曰く「句踐は臣と為らんことを請い、妻は妾と為らん」と。吳王は乃ち越王を赦す。越王國に反り、其の士を拊循す。范蠡曰く「可なり」と。乃ち吳を伐つ。吳師敗れ、越復た吳王を姑蘇の山に棲ます」と。
注[一五]伍子胥は名は員、楚の人なり。子胥の父は楚に誅せらる。子胥は弓矢を挟みて吳王闔閭に干き、闔閭甚だ之を勇とし、師を興して楚を伐たしめ、柏挙に戦い、楚師敗績す。事は谷梁傳に見ゆ。
注[一六]史記に曰く、魯仲連は齊の人なり。燕将は齊の聊城を攻め下し、固く之を保守す。田單之を攻めて下さず。魯仲連は乃ち書を為りて燕将に遺わす。燕将書を見て、三日泣き、乃ち自殺す。遂に聊城を平ぐ。
注[一七]左傳に曰く、楚昭王は吳の為に敗れ、隨に奔る。申包胥は秦に如きて師を乞い、曰く「吳は封豕長憨と為り、以て上國を薦食す。寡君は草莽に越在し、下臣をして告急せしむ」と。庭牆に依りて立ちて哭し、日夜声を絶やさず、勺飲も口に入れず、七日にして、秦師乃ち出で、軍は吳を敗りて楚國を復す」と。
注[一八]唐且は即ち唐睢なり。戰國策に曰く「齊・楚、魏を伐つ。魏、人をして*[秦に]*救いを請わしむも、至らず。
魏の人に唐睢有り、年九十餘なり。西して秦王に見ゆ。秦王曰く『丈人忙然として乃ち遠く*此に至る、*[魏より]*来る者数たび矣。寡人は魏の急を知る』と。唐且曰く『夫れ魏は、萬乗の國なり。東藩と称するは、秦の強きを以ての故なり。今齊・楚の兵已に魏の郊に在り。大王の救い至らず、魏急なれば、且つ地を割きて從を約せん。是れ王は一の萬乗の魏を亡ぼし、而して二敵の齊・楚を強からしむ』と。秦王悟り、遽に兵を発して魏を救う」と。爾雅に曰く「顛は頂なり」と。華顛は白首を謂う。
注[一九]甘羅は下蔡の人、甘茂の孫なり。年十二、秦の相呂不韋に事う。秦は張唐をして燕に相たらしめんと使わす。羅曰く「臣に車五乘を借り、張唐に先立ちて趙に報ぜんことを請わん」と。不韋は乃ち之を始皇に言い、召見し、甘羅を趙に使わす。趙襄王は郊迎す。事は史記に見ゆ。童牙は幼小を謂うなり。
注[二〇]昔、趙衰が原大夫であったので、原衰と呼ばれた。左伝によると、晋侯が寺人勃鞮に原の守備を誰に任せるべきか尋ねたところ、勃鞮は答えて言った。「昔、趙衰は壷に入れた飯を持って近道を行き、空腹であったが食べずにいた。だから原の地を治めさせたのである。」見の音は胡殿反。
注[二一]呂覧によると、昔、趙宣孟が絳に行こうとした時、桑の木の下に飢えた人を見つけた。宣孟は車を止めて降り、食べ物を与えて食べさせた。その人は二度飲み込んでやっと目が見えるようになった。宣孟が尋ねた。「お前はどうしてこんなに飢えているのか?」答えて言った。「私は絳で役人をしていましたが、帰る途中で食糧が尽き、物乞いをするのは恥ずかしく、ここまで来てしまいました。」宣子は干し肉三切れを与えた。彼は拝礼して受け取ったが、食べようとしなかった。その理由を尋ねると、言った。「私は年老いた母がおり、これを母に贈ろうと思っています。」宣孟は言った。「食べなさい。私はさらに与えよう。」そこで再び干し肉二束を与えた。
注[二二]史記によると。「呉の公子季札が使いで通りかかった時、徐の君が季札の剣を好んだが、口に出しては言わなかった。季札はそれを知っていたが、上国の使者としての任務中だったので、献上しなかった。帰りに徐に戻ると、徐の君はすでに死去していた。そこで彼はその宝剣を解き、徐の君の墓の木に掛けて去った。」
注[二三]展季は、柳下惠である。韓詩外伝によると。「魯に一人で暮らす男がいた。夜、暴風雨が来て、ある婦人が急いで彼の家に身を寄せようとした。男は戸を閉めて入れず、言った。『私は聞く、男は六十歳になるまでは一人で家にいないものだと。』婦人は言った。『あなたはどうして柳下惠のようにしないのですか?彼は門に届かない女(=家に入れない女)を抱きしめて温めても、国中の人が彼が淫らだとは言わなかったのですよ。』」注[二四]程嬰のことは馮衍伝の注釈を見よ。度轂は、詳細不明。
元和年間、章帝が初めて古礼を修め、方岳を巡狩した。崔駰は四巡頌を献上して漢の徳を称え、その文辞は非常に典雅で美しかったが、文章が長いのでここには載せない。皇帝はもともと文章を好み、崔駰の頌を見てから、常に感嘆し、侍中の竇憲に言った。「卿は崔駰を知っているか?」竇憲は答えた。「班固が何度も私に話してくれましたが、まだ会ったことはありません。」帝は言った。「公は班固を愛しながら崔駰を軽んじる。これは葉公の好龍のようなものだ。試しに会ってみるがよい。」崔駰はこれによって竇憲を訪ねた。竇憲は慌てて履を引きずりながら門に出迎え、笑って崔駰に言った。「亭伯(崔駰の字)よ、私は詔を受けてあなたと交わることになったのに、あなたはどうして私を疎遠にするのか?」そこで揖して招き入れ、上客とした。それから間もなく、帝が竇憲の邸に行幸した。その時、崔駰はちょうど竇憲の所にいた。帝はそれを聞いて召し出して会おうとした。竇憲が諫めて、白衣(官職のない者)と会うのは適切でないと述べた。帝は悟って言った。「私は崔駰を朝夕そばに置くことができるのだから、ここで会う必要はない!」ちょうど崔駰を官職に就けようとした時、帝が崩御した。
注[一]按ずるに、崔駰の文集には東、西、南、北の四巡頌がある。流布本では「四」を「西」としているものが多いが、誤りである。
注[二]劉向の新序によると。「子張が魯の哀公に会いに行き、七日経っても哀公が礼遇しなかったので去り、言った。『君主の士を好むのは、葉公子高が龍を好むのに似ている。天の龍がそれを聞いて降りてきて、窓から頭を覗かせ、堂に尾を引きずった。葉公はそれを見て、魂魄を失い、顔色が青ざめて落ち着きを失った。これは葉公が龍を好んだのではなく、龍に似ているが龍ではないものを好んだのである。』」注[三]屣履とは、履を履いたまま引きずって歩くことで、慌てている様子を言う。屣の音は山爾反。
竇太后が臨朝し、竇憲は重い外戚として詔命の出入りを司った。崔駰は書を献上して彼を戒めて言った。
私は聞く。交わりが浅いのに言葉を深くする者は愚かであり、賤しい身分で貴いことを望む者は惑いであり、信頼されていないのに忠誠を納める者は誹謗される者である、と。この三つはどれも適切ではないが、それでもそれを行う者がいるのは、その誠実な思いが胸に満ちて、やむことができないからである。私はひそかにあなたが純朴で善良な資質を持ち、高潔で度量の大きい器量を備え、志は美しく意志は奮い立っており、すぐれた賢者の風格があるのを見ています。私は幸いにもあなたの館舎の末席に連なり、後列に並ぶことができました。それゆえに、その真心を尽くして、あえて一言を進言いたします。
注[一]陳とは、列なること。
伝に言う。「生まれながらにして富んでいる者は驕り、生まれながらにして貴い者は傲る。」生まれながら富貴でありながら驕り傲らない者は、いまだにいない。今、あなたは寵愛と禄が初めて盛んになり、百官がその行いを見守っている。堯や舜のような盛世にあり、光り輝く顕著な時に処しているのだから、どうして朝夕努力して、長く衆人の称賛を保ち、申伯の美徳を広め、周公や邵公のような事業を成し遂げようとしないことがあろうか。語に言う。「地位のないことを憂えず、その地位に立つための徳がないことを憂えよ。」昔、馮野王は外戚として地位にあり、賢臣と呼ばれた。近くでは、衛尉の陰興が己に克ち礼に復し、ついに多くの福を受けた。郯氏の宗族は、尊くないわけではない。陽平の一族は、盛んでないわけではない。侯が重なり将軍が連なり、天の枢機を建て、北斗の柄を執った。それなのに、なぜ当時に非難を受け、後世に過ちを残すことになったのか?それは満ちていながら抑えることを知らず、地位には余裕があっても仁徳が足りなかったからである。漢が興って以来、哀帝、平帝に至るまで、外戚は二十家あったが、一族を保ち身を全うしたのは、わずか四家だけである。書経に言う。「殷を鑑とせよ。」
慎まないことがあろうか!
注[一]尚書大伝によると。「舜の時、百工が互いに和して卿雲の歌を作った。『卿雲は爛漫とし、誠実さは広がり、日の光、月の光は輝き、朝また朝と続く。』」
注[二]申伯は、周の宣王の長姉の夫(元舅)である。周公、邵公はいずれも周王室を補佐した。
注[三]論語にある孔子の言葉である。ただ、身を立てるのに仁義を処さないことを憂えよ、という意味である。
注[四]前漢書によると、馮野王は字を君卿といい、妹は元帝の昭儀となり、野王は左馮翊となった。御史大夫の職が空いたとき、皇帝は尚書に命じて中二千石の中から選ばせたところ、野王の行いと才能が第一であった。
注[五]陰□尉は、光烈皇后の同母弟の陰興である。謹直であったため寵愛を受けた。
注[六]史丹は郯に封じられたので、郯氏と称した。前漢書によると、史丹は字を君仲といい、魯国の人である。祖父の史恭には妹がおり、武帝の時に□太子の良娣となった。成帝が即位すると、丹を長楽尉に抜擢し、右将軍に昇進させ、武陽侯に封じた。封地は東海郡郯県の武強聚であり、旧恩により厚く賞され、累計千金を賜った。
注[七]王氏には九侯と五大司馬がいた。春秋運斗樞によると、「北斗七星の第一星は天樞、第二から第四星は魁、第五から第七星は杓である。杓は柄である」。前漢書に「斗が中央を運行し、四海を制御する」とある。
注[八]外家とは、後家(皇后の実家)のことである。二十の例とは、高祖の呂后の産や禄が謀反を起こして誅殺され、恵帝の張皇后が廃され、文帝の母薄太后の弟薄昭が殺され、孝文帝の竇皇后の従兄弟の子の竇嬰が誅殺され、景帝の薄皇后、武帝の陳皇后がともに廃され、□皇后が自殺し、昭帝の上官皇后の家族が誅殺され、宣帝の祖母の史良娣が巫蠱の罪で死に、宣帝の母王夫人の弟の子の王商が獄死し、霍皇后の家が滅び、元帝の王皇后の弟の王莽が帝位を簒奪し、成帝の許皇后が死を賜り、趙皇后が廃されて自殺し、哀帝の祖母の傅太后の家族が合浦に流され、平帝の母の□姫の家族が誅殺され、昭帝の趙太后が憂死したことである。四人の例とは、哀帝の母の丁姫、景帝の王皇后、宣帝の許皇后、王皇后であり、その家族はともに全うした。
竇氏の興隆は、孝文帝の時に始まった。二君(竇長君・竇少君)は淳朴で淑やかに道を守り、以前から名声があった。安豊侯(竇融)は創業を補佐して徳を顕わし、中興の時期に顕著となった。内には忠誠をもって自らを固め、外には法度をもって自らを守り、ついに封国を享受し、その福は今日にまで及んでいる。謙譲の徳の輝きは、周易が称賛するところであり、満ち溢れる地位は、道家が戒めるところである。ゆえに君子は福が大きいほどいっそう恐れ、爵位が高いほどいっそう恭しくする。遠くを察し近くを覧て、俯仰(日常の行動)に法則があり、それを机や杖に銘じ、盤や杅(杯)に刻む。慎み深く勤勉に、怠ることなく疎かにすることなく、このようにすれば、百の福を担い、慶事は限りなく流れていくのである。
注[一]前漢書によると、竇嬰は字を王孫といい、孝文皇后の従兄の子である。孝文帝の時は呉の国相、孝景帝の時は詹事となった。
注[二]竇太后の弟の長君と少君は、謙譲の君子であり、富貴を以て人に驕ることがなかったので、淳淑に道を守ったというのである。
注[三]竇融は安豊侯に封じられた。
注[四]易経に「謙譲は尊ばれて光り、卑下しても越えられない」とある。老子に「富貴で驕る者は、自ら災いを招く。功を成し名を遂げて身を退くは、天の道である」とある。
注[五]太公金匱に「武王が言った、『私は起居の戒めを作り、身に従わせたい』。机に書く言葉は、『安泰の時も危険を忘れず、存続の時も滅亡を忘れず、この二つを心に留めれば、必ず後に凶事はない』。杖に書く言葉は、『人を輔けるに苟ならず、人を扶けるに咎なし』」とある。墨子に「堯、舜、禹、湯はその事績を竹帛に書き、盤や盂に刻んだ」とある。杅も盂(杯)である。
竇憲が車騎将軍となった時、崔駰を掾に辟召した。竇憲の府は権勢が重く、掾属は三十人おり、皆かつての刺史や二千石であったが、崔駰だけは処士で年少であったにもかかわらず、その中に抜擢された。竇憲は権力を専断し驕り高ぶったので、崔駰はたびたび諫めた。匈奴を討伐に出撃した時も、道中の行いはいっそう不法なことが多かった。崔駰は主簿として、前後数十回にわたり上奏文を書き、その長短得失を指摘した。竇憲はこれを受け容れることができず、次第に疎んじ、崔駰を成績優秀者として察挙し、長岑県の長として出向させた。崔駰は遠くへ去ることになり、意に沿わないと考え、ついに任地へ赴かずに帰郷した。永元四年、家で死去した。著した詩、賦、銘、頌、書、記、表、七依、婚礼結言、達旨、酒警は合わせて二十一篇。次男は崔瑗。
注[一]長岑は県で、楽浪郡に属し、その地は遼東にある。
子の崔瑗
崔瑗は字を子玉といい、早くに孤児となり、ひたむきに志を立て学問を好み、父の学業をことごとく伝授することができた。十八歳の時、都へ赴き、侍中の賈逵に付いて経書の大義を質正し、賈逵は彼を厚遇した。崔瑗はそこで留まって遊学し、ついに天官、暦数、京房の易伝、六日七分を明らかにした。諸儒は彼を師と仰いだ。扶風の馬融、南陽の張衡とは特に親しく友好であった。初め、崔瑗の兄の崔章が州人に殺された時、崔瑗は自ら刃を執って仇討ちをし、そのため逃亡した。赦令が出たので、帰郷した。家は貧しく、兄弟は数十年同居し、郷里の人々はその行いを見習った。
注[一]の解釈は郎顗伝に見える。
四十歳を過ぎてから、初めて郡の役人となった。ある事件で東郡発乾県の獄に繋がれた。[一]獄掾が礼に詳しかったので、崔瑗が取り調べを受ける際、しばしば礼の説を尋ねた。その一心に学問を好む様は、たとえ困窮の中にあっても必ずこれを実践した。後に事件が解決して帰宅し、度遼将軍鄧遵に召し出された。しばらくして鄧遵が誅殺されると、崔瑗は免職となって帰郷した。
注[一]発乾県の獄のこと。
注[一]呂后が恵帝の後宮の子を立てて少帝としたが、周勃がこれを廃したこと。
注[二]元は大の意。書経に「元悪大憝」とある。
注[三]史記で蔡沢が范睢を説いて言った、「あなたは博打をする者を見たことがないのですか?ある者は大勝負をしようとし、ある者は利益を分け合おうとします。今あなたが秦の宰相として、座して諸侯を制し、天下をして皆秦を畏れさせている。これこそ秦が利益を分かち合う時です」。
注[四]第は但の意。司馬相如伝に「第如臨邛」とある。
長い時を経て、大将軍梁商が初めて幕府を開くと、再び真っ先に崔瑗を召し出した。自らは二度も貴戚の役人となりながら、重用されずに斥けられたと考え、病気を理由に固辞した。その年のうちに茂才に推挙され、汲県令に昇進した。[一]在任中に数々の有益な意見を述べ、人々のために数百頃の水田を開いた。七年間職務に当たり、民衆は彼を称える歌を歌った。
注[一]汲は県名、河内郡に属す。
漢安帝の初年、大司農胡広と少府竇章が共に崔瑗を、古くからの徳望ある大儒者で、政治に参与して多くの実績があり、長く下位に置くべきではないと推薦した。これにより済北国の相に昇進した。当時李固が泰山太守であり、崔瑗の文雅を賞賛し、書簡を奉じて礼を尽くし懇ろに招いた。一年余り後、光禄大夫杜喬が八使の一人として、郡国を巡行し、[一]収賄の罪で崔瑗を弾劾し、廷尉に召喚させた。崔瑗は上書して自らを弁明し、無罪となって釈放された。
ちょうど病気で死去した。六十六歳。臨終に際し、子の崔寔に遺言して言った、「人は天地の気を受けて生まれ、その終わりには、精気は天に帰し、骨は地に還る。どの土地であれ形骸を埋めるのに差し支えはない。故郷に帰葬してはならない。贈り物や、羊や豚の供え物は、一切受け取ってはならない」。崔寔は遺言に従い、洛陽に留まって埋葬した。
注[一]八使は周挙伝に見える。
崔瑗は文章に優れ、特に書簡、記録、箴言、銘文を善くし、著した賦、碑文、銘、箴、頌、七蘇、[一]『南陽文学官志』、歎辞、移社文、悔祈、草書埶、七言は、合わせて五十七篇に及ぶ。その『南陽文学官志』は後世に称えられ、文章を能くする者は皆、自分は及ばないと認めた。崔瑗は士人を愛し、賓客を好み、盛大に料理を整え、滋味を極め、余財を顧みなかった。普段は粗食と野菜の汁物だけで過ごした。家には一石の蓄えもなく、当時の人々は彼を清廉と評した。[二]
注[一]崔瑗の文集にその文が載っており、枚乗の『七発』の流れをくむもの。
注[二]華嶠の書に「崔瑗は士人を愛し、賓客を好み、盛大に料理を整えた。ある者が彼の贅沢すぎると言った。崔瑗はこれを聞いて怒り、妻子に『私は二日分の食事を一日で済ませて賓客をもてなしているのに、かえって非難されるとは。士大夫を養うのはこれほど難しいのか。以後は粗末な食事で構わない。子供たちに笑われぬように』と言った。しかし結局改めることはできず、俸禄はすべて賓客のもてなしに費やされた」とある。
瑗の子は寔。
寔は字を子真といい、一名は台、字を元始という。幼い頃から沈着で静かであり、典籍を好んだ。父が亡くなると、墓の傍らに隠居した。喪が明けると、三公がこぞって召し出したが、いずれも就任しなかった。
桓帝の初め、詔により公卿や郡国に対し、至孝で独行の士を推挙させた。寔は郡の推挙により、公車に召し出されたが、病のため策問に対応できず、郎に任じられた。政体に明るく、吏才に余裕があり、当世の便益となる事柄数十条について論じ、『政論』と名付けた。時勢の要点を指摘し、言葉は明晰で確固としており、当世の人々に称賛された。仲長統は言った。「およそ君主たる者は、一通を書き写し、座右に置くべきである。」その文は次のとおりである。
注[一]確とは、堅固で正しいこと。音は口角反。
堯や舜の帝、湯や武の王でさえも、皆、明哲な補佐、博識な臣下に頼った。だから皋陶が謀を陳べて唐虞は興り、伊尹や箕子が訓を作って殷周は隆盛した。そして後を継いだ君主で、中興の功績を立てようとする者は、いったい誰が賢哲の謀略に頼らなかっただろうか。天下が治まらない原因は、常に君主が太平の世を長く受け継ぎ、風俗が次第に弊害を帯びても悟らず、政治が徐々に衰えても改めず、乱れた状態に慣れ、安泰と危険を区別せず、自らを顧みないことにある。ある者は享楽と欲望に耽り、万機を顧みない。ある者は忠告の言葉に耳を塞ぎ、偽りに飽きて真実を軽んじる。ある者は岐路で躊躇し、どこに向かうべきか分からない。ある者は信頼されている補佐が、口を閉ざして禄を守るだけである。ある者は疎遠にされた臣下が、身分が低いためにその言葉が廃棄される。このようにして、王綱は上で弛緩し、智士は下で鬱屈する。悲しいことだ。
注[一]伊尹が『伊訓』を作り、箕子が『洪範』を作った。
注[二]怢の音は他沒反。怢とは、忘れ去ること。
注[三]奸偽に飽き満ち、至真を軽んじる。
注[四]易に「口を結んだ袋は咎もなく誉れもない」とある。括とは結ぶこと。袋の口を結んで語らず、禄を保つだけである。
注[五]郁伊とは、伸びやかでない様子。楚詞に「独り郁伊として誰に語らん」とある。
漢が興って以来、三百五十余年になる。政令は汚れていて軽んじられ、上下とも怠惰で弛緩している。風俗は衰え弊害し、民衆は巧みで偽り、百姓は騒然として、皆また中興による救済を思っている。そもそも時世を救い助ける方法は、必ずしも堯や舜のやり方を踏襲しなければ治まらないというものだろうか。欠けた部分を補い、壊れた部分を修繕し、邪な傾きを支え、形に応じて裁断し、要はこの世を安寧の領域に置くことだけである。だから聖人は権変を執り、時勢に遭って制度を定める。歩調の差はそれぞれに設けがある。人にできないことを強要せず、差し迫った事態に背を向けて聞きかじったことを慕うことはしない。孔子が葉公には遠方を来させることで答え、哀公には人に臨むことで答え、景公には礼を節することによって答えたのは、その答えが同じでないからではなく、急務とする事柄が異なるからである。このようにして、天命を受けた君主は、しばしば新たな制度を創始し、中興の主もまた時勢の過失を正す。昔、盤庚は殷を憂い、都を移し民を変えた。周穆王に過失があれば、甫侯が刑を正した。俗人は文字に拘泥し古いものに引きずられ、権宜の制度を理解せず、聞いた奇抜な事柄を重視し、目の前の事柄を軽んじる。どうして国家の大事について論じることができようか。だから事を論じる者は、たとえ聖人の徳に合致していても、しばしば引き裂かれる。なぜか。頑迷な士人は時勢の権変に暗く、慣れ親しんだ見解に安住し、成功の喜びを知らない。ましてや事の始めを慮ることなどできず、ただ旧章に従うだけと言う。達者な者は名声を誇り才能を妬み、自分の策でないことを恥じ、筆を振るい言葉を奮ってその意義を破り、少数が多数に勝てず、ついに排斥される。たとえ稷や契が再び現れても、なお困窮するであろう。これが賈生が絳侯や灌嬰に排斥され、屈子がその幽憤を述べた所以である。文帝のような明君、賈生のような賢者、絳侯や灌嬰のような忠臣でさえ、このような患いがあった。ましてやその他の者においておや。
注[一]垢とは、悪いこと。
注[二]□の音は直莧反。礼記に「衣裳が□裂したら針で縫い、補綴を請う」とある。柱の音は陟主反。
注[三]権とは変化をいう。その時勢に遭遇して法制を定め、旧習に従わないこと。
注[四]当時の差し迫った事態に背を向け、聞きかじった事柄を慕うならば、それは時世を救う要諦ではない。
注[五]韓非子に曰く、葉公が政を仲尼に問う。仲尼曰く、「政は近きを悦ばし遠きを来たすに在り。」魯の哀公が政を仲尼に問う。仲尼曰く、「政は賢を選ぶに在り。」斉の景公が政を仲尼に問う。仲尼曰く、「政は財を節するに在り。」ここに「人に臨む」「礼を節す」と云うは、文が同じからざるなり。
注[六]盤庚は、殷の王なり。耿より亳邑に遷り、書三篇を作りて以て之を告ぐ。
注[七]甫侯は即ち呂侯なり。周の穆王のために夏の禹の刑を用いる法を訓む。並びに尚書に見ゆ。
注[八]掎の音は居蟻反。賈逵の国語注に曰く、「後より牽くを掎と曰う。」
注[九]前漢書に劉歆曰く、「夫れ与に楽成を共にすべく、与に慮始を謀り難し、此れ乃ち觿庶の為す所のもののみ。」
注[一〇]孝文帝の時、賈誼は律を更定することを請い、列侯をして国に就かしめんとす。周勃、灌嬰等之を毀つ。屈原は楚の三閭大夫たり、上官靳尚其の能を妬み害し、憂愁憤懣し、遂に離騷経を作る。
注[一]左氏伝に曰く、息侯鄭を伐つ、「徳を度らず、力を量らず」。
注[二]八代とは三皇、五帝を謂う。覇政とは斉の桓公、晋の文公を謂う。
注[三]密は、静かなり。
注[四]墮は隳と読む。
注[五]左伝に、斉の桓公楚を伐ち、包茅貢せず、王の祭り供へざるを責む。晋の文公王を召し諸侯と践土に盟わしむ。管仲公子糾に相たりて桓公を射る。此れ並びに権変の道なり。
注[六]楚辞の漁父に曰く「聖人は物に凝滞せず、時に与に推移す」なり。
注[七]易に曰く、「上古は結繩して化し、後世の聖人書契を以て之に易う。」干は盾なり。戚は鉞なり。
尚書に曰く、苗人命に逆らう。禹乃ち干羽を両階に舞わし、七旬にして苗格る。前漢書に、高祖匈奴に囲まれて平城に在り、陳平の計を用いて解かる。干戚の舞は、平城の用いるところに非ざるを言うなり。
夫れ熊経鳥伸は、延歴の術と雖も、傷寒の理に非ず。呼吸吐納は、度紀の道と雖も、続骨の膏に非ず。国を為すの法は、身を理むるに似たり。平なれば則ち養を致し、疾あれば則ち之を攻む。夫れ刑罰は、乱を治むるの薬石なり。
徳による教化は、太平の世における美味しい食事のようなものである。徳による教化で残虐な者を除くのは、美味しい食事で病気を治すようなものであり、刑罰で太平を治めるのは、薬や石で養生するようなものである。今は歴代の君主の弊害を受け継ぎ、厄運の時期に遭遇している。数世代以来、政治は恩赦が多く、手綱を緩め、馬は銜を外し、四頭の馬が横暴に走り、天子の道は危険に傾いている。今まさに手綱を引き締め車轅を束ねてこれを救おうとしているのであって、どうして和鑾の音を鳴らし、節奏を整える余裕があろうか。昔、高祖は蕭何に九章の律を作らせ、三族を誅する法令があり、黥・劓・斬趾・断舌・梟首があったので、これを具五刑といった。文帝は肉刑を廃止したが、劓に当たる者は笞三百、左足の趾を斬るに当たる者は笞五百、右足の趾を斬るに当たる者は市で斬刑に処せられた。右足の趾を斬られる者はすでに命を落とし、笞打たれる者はしばしば死に至り、軽い刑罰という名目はあっても、実質は殺害であった。この時、民は皆、肉刑の復活を望んだ。景帝元年になって、詔を下して言った。「笞を加えることは重罪と変わらず、幸いにして死ななくても、人として生きられない。」そこで律を定め、笞を減らし軽く打つようにした。これ以降、笞を受ける者は命を全うできるようになった。このことから言えば、文帝は刑罰を重くしたのであって、軽くしたのではない。厳格さによって太平をもたらしたのであって、寛容によって太平をもたらしたのではない。もしその言葉を実行しようとするならば、根本をしっかりと定め、君主が五帝を師とし三王を範とするようにすべきである。秦の滅んだ悪習を一掃し、先聖の風に従い、一時しのぎの政治を捨て、古を考察した道を歩み、五等の爵位を復活させ、井田の制度を確立する。その後に稷や契を補佐として選び、伊尹や呂尚を輔弼とし、音楽が奏でられて鳳凰が舞い降り、石を打てば百獣が舞うようにするのである。そうでなければ、ただ煩わしさを増すだけである。
注釈一、荘子に言う。「吹いて吐き、吸って新たな気を取り入れ、熊のようにぶら下がり鳥のように伸びる、これが導引の術を行う者、身体を養う者である。」黄帝素問に言う。「人は寒さで傷つき熱に転じるのはなぜか。寒さが極まれば熱が生じるからである。」度紀とは延年と同じ意味である。鳥のように伸びても傷寒を治療できず、気を吸っても折れた骨を継げないという意味である。
注釈二、家語に言う。「古の天子は徳と法を銜勒とし、百官を轡策とした。馬を巧みに御する者は、銜勒を正しくし、轡策を整え、馬の力を均等にし、馬の心を和らげるので、口に声を出さずに千里を極める。人を巧みに御する者は、その徳法を統一し、その百官を正しくし、人物を均等にし、人の心を和らげ安んじるので、刑を用いずに天下が教化される。」説文に言う。「駘とは、馬の銜が外れることである。」音は達來の反切。皇路とは、天子の道である。
注釈三、何休が公羊伝に注して言う。「柑とは、木でその口を銜えることである。」柑の音は巨炎の反切。勒は馬の轡。輈は車の轅。鞬は束ねるような意味である。説苑に言う。「鑾は鑣に設け、和は軾に設ける。馬が動けば鑾が鳴り、鑾が鳴れば和が応じ、行進の節奏となる。」
注釈四、これ以上は全て前書の刑法志に見える。
注釈五、式とは、手本とすることである。
注釈六、百畝を一夫とし、九夫を一井とする。
注釈七、尚書に言う。「簫韶の楽が九成に至ると、鳳凰が来て舞い降りた。」また「夔が言った。『さあ、私は石を打ち石を叩き、百獣がみな舞う。』」その後、太尉袁湯や大将軍梁冀の府に招聘されたが、いずれも応じなかった。大司農の羊傅と少府の何豹が上書して崔寔の才能の優れ能力の高さを推薦し、朝廷にいるべきだと述べた。召されて議郎に任命され、大将軍梁冀の司馬に転任し、辺韶や延篤らと東観で著作に従事した。
五原太守として出向した。五原の土地は麻の栽培に適していたが、習俗として機織りを知らず、民は冬に衣服がなく、細かい草を積んでその中に寝ており、役人に会う時は草をまとって出てきた。崔寔が着任すると、蓄えていた物資を売り払い、紡績や織布、粗い麻の衣服を作る道具を用意して民に教え、民は寒さの苦しみから免れることができた。この時、胡の賊がたびたび雲中や朔方に侵入し、役人や民を殺害略奪し、一年に九回も緊急出動する事態となった。崔寔は兵士と馬を整え鍛え、烽火の見張りを厳重にし、賊は侵犯できず、常に辺境で最も優れた成果を上げた。
注釈一、杜預が左伝に注して言う。「織□とは、布を織る者である。」孔安国が論語に注して言う。「縕とは、麻である。」
注釈二、最も優れ第一であること。
病気を理由に召還され、議郎に任命され、再び諸儒や博士と共に五経の校定に参与した。梁冀が誅殺された時、崔寔は旧臣であったため官を免ぜられ、数年間出仕を禁じられた。
当時、鮮卑がたびたび辺境を侵犯したため、詔によって三公に武勇と謀略に優れた者を推薦させ、司空の黄瓊が崔寔を推薦し、遼東太守に任命された。赴任途中、母の劉氏が病死したため、上疏して帰郷して葬儀と喪に服することを求めた。母は母としての威儀と淑やかな徳を持ち、書物や伝記を広く読んでいた。かつて、崔寔が五原にいた時、常に民に臨む政治について訓戒し、崔寔の善政は、母の助力によるものがあった。喪が明けると、召されて尚書に任命された。崔寔は世の中が混乱しているのを見て、病気と称して政務を見ず、数か月で免官されて帰郷した。
かつて、崔寔の父が亡くなった時、田畑や家屋を売り払い、墓を築き、碑を立てて頌徳した。葬儀が終わると資産を使い果たし、貧困に陥り、酒造りや物売りを生業とした。当時の人々はこれを嘲笑したが、崔寔は終始改めなかった。また、生活に足りる分だけを得て、余剰を求めなかった。官に就いてからは、辺境の郡を歴任したが、ますます貧しくなった。建寧年間に病死した。家には壁が四面立つのみで、葬儀の費用もなく、光禄勲の楊賜、太僕の袁逢、少府の段熲が棺や埋葬の道具を整え、大鴻臚の袁隗が碑を立ててその徳を称えた。著した碑、論、箴、銘、答、七言、祠、文、表、記、書は合わせて十五篇である。
注釈一、広雅に言う。「剽とは、削ることである。音は匹妙の反切。」一説に「標」とする。
崔寔の従兄の崔烈
崔寔の従兄の崔烈は、北方の州で重い名声があり、郡太守や九卿の官位を歴任した。霊帝の時、鴻都門を開いて官爵を掲示して売り、公卿・州郡から下は黄綬に至るまでそれぞれ等級があった。そのうち富者はまず金銭を納め、貧者は官に就いてから倍額を納め、あるいは常侍や阿保を通じて別途に取り次いでもらった。[一]この時、段熲・樊陵・張温らは功労や名誉があったが、皆まず財貨を納めてから公の位に登った。崔烈はこの時、傅母を通じて五百万銭を納め、司徒となることができた。拝命の日、天子が軒前に臨み、百官がことごとく参集した。
帝は側近の者に向かって言った。「少し惜しんで、千万までにできなかったことを悔やむ。」[二]程夫人が傍らで応じて言った。「崔公は冀州の名士です。どうして官を買おうなどなさいますか。私のおかげでこの位を得たのに、かえってその良さが分からないのですか!」[三]崔烈はこれによって声望が衰えた。久しくして自ら安らかでなく、落ち着いて息子の崔鈞に尋ねた。「私は三公の位にあるが、議論する者たちはどう思っているか。」鈞は言った。「父上は若い頃から英名があり、卿や太守の位を歴任され、論者は三公となるのにふさわしくないとは言いませんでした。しかし今その位に登られ、天下は失望しています。」烈は言った。「なぜそうなのか。」
鈞は言った。「論者はその銅臭を嫌っているのです。」烈は怒り、杖を挙げて彼を打った。鈞は当時虎賁中郎将であり、武弁を着け、鶡の尾を冠り、狼狽して逃げた。烈は罵って言った。「死にぞこないめ、父が打つのに逃げるとは、孝と言えるか。」[四]鈞は言った。「舜が父に仕えた時、小さな杖なら受け、大きな杖なら逃げました。不孝ではないのです。」[五]烈は恥じてやめた。烈は後に太尉に任じられた。
注[一]阿保とは傅母のことである。
注[二]靳とは、固く惜しむことである。靳はあるいは「傿」と作る。説文に言う。「傿とは、価を引き上げることである。」音は一建反。
注[三]姝とは、美である。この事の美しさを知らないという意味である。姝はあるいは「株」と作る。株とは、根本である。
注[四]彼が武官であるため、卒と罵ったのである。あるいは「孔卒」と作るものがあるが、誤りである。
崔鈞は若い頃から英豪と交わり、名声があり、西河太守となった。献帝の初め、崔鈞は袁紹とともに山東で兵を起こし、董卓はこれによって崔烈を捕らえて郿の獄に預け、監禁し、鋃鐺の鉄鎖をかけた。[一]董卓が誅殺された後、崔烈は城門校尉に任じられた。李傕が長安に入った時、乱兵に殺された。
注[一]説文に言う。「鋃鐺とは、鎖である。」前書に言う。「人が銭鋳造を犯すと、鉄鎖でその首に鋃鐺をかける。」鋃の音は郎、鐺の音は當。
崔烈は文才があり、著した詩・書・教・頌など合わせて四篇。
史論
論して言う。崔氏は代々美才があり、さらに典籍に沈潜したので、儒家の文林となった。崔駰・崔瑗はまず貴戚に心を尽くしたが、終わりを居正によって全うできた。その帰する旨は進趣する者とは異なるであろう。李固は高潔の士であり、崔瑗と同郡であり、贄を奉じて結び好んだ。[一]これによって杜喬の弾劾は、おそらくその過ちであったと知る。崔寔の政論は、当世の治乱を論じ、晁錯の徒でも及ばないところがある。
注[一]儀礼に言う。「士が相見する礼では、贄は冬は雉を用い、夏は腒を用い、これを奉って言う。『某はお目にかかりたいが、よるべきすべがありません。』」腒とは、干した朐、音は渠。
賛して言う。崔氏は文の宗となり、代々雕龍を継いだ。崔建新は潔白を恥じ、志を摧いて容れられんことを求めた。永く長岑にあり、遼の陰に在り。直道がなければ、どうして泥沈を取ることができようか。崔瑗は禄を言わず、また冤辱に遭った。子真(崔寔)が論を執り、昏き俗を感起させた。
史記に言う、「談天衍、雕龍奭」。劉向の別録に言う、「鄒奭が修飾した文章は、まるで龍の文様を彫るようであると言う」。禅とは、相伝授することをいう。
校勘記
一七〇三頁三行目「諫刺史無與燕剌王通」について。按ずるに、「刺史」の「刺」は朿に従い、「剌王」の「剌」は束に従う。二字の音と意味はともに異なり、各版本でしばしば混同されている。
一七〇三頁六行目「太保甄豐」について。按ずるに、集解が黄山の説を引いて言うには、前書の王莽伝では甄邯が太保であり、甄豐は太阿であり、太保にはなっていない。「保」と「豊」の二字のいずれかに誤りがあるはずだ。
一七〇三頁八行目「昔*(在)**[者]*魯君問柳下惠曰」について。汲本に従って改め、前書の董仲舒伝と合致させる。
一七〇四頁五行目「掾吏叩頭諫曰」について。按ずるに、刊誤は「吏」は「史」とすべきだと言う。総称するときは掾・史ともに吏であるが、単独で言うときは史と言うべきである。
一七〇四頁一二行目「郡國常以春行*(至)**[主]*縣」について。陳景雲は「至」は続志の本文に従って「主」とすべきだと言う。主縣とは、主管する県のことである。按ずるに、百官志に「春に行くべき所主の県」とある。陳説は正しいので、これに従って改める。
一七〇六頁九行目「闔衡門以埽軌」について。按ずるに、「埽」は原版で誤って「歸」となっている。汲本・殿本に従って直接に改め正す。
一七〇七頁五行目「偷苟且也」について。按ずるに、汲本・殿本では「偷」を「偷」としている。本文と合致するが、偷と偷は同じ字なので、一律に改める必要はない。今はそのままとする。
一七〇七頁八行目「不為利*(□)**[諂]*」について。集解本に従って改める。
一七〇八頁一〇行目「暮春*[者]*春服既成」について。汲本・殿本に従って補い、論語と合致させる。
一七〇八頁一二行目「啟余足」について。按ずるに、汲本・殿本では「余」を「予」としている。論語と合致する。
一七〇八頁一二行目「父母全己生之」について。按ずるに、汲本・殿本では「己」を「而」としている。
一七一〇頁九行目「所以尚騏驎者」について。汲本・殿本では「驎」を「驥」としている。按ずるに、騏驥も騏驎も良馬を指す。
一七一一頁四行目「紛□塞路」について。「□」は汲本・殿本では「繷」としている。集解が惠棟の説を引いて言うには、「繷」は方言に従って「□」とし、「南楚では凡そ大きくて多いものを郺と言い、あるいは□と言う」とある。郭璞は「□は音、奴動反」と言う。按ずるに、惠説によれば、字は「□」とすべきである。
一七一ページ八行目「與其有事」の注:刊誤は「與」は「噹」に作るべきであり、上にまた「故」の字があるべきだとし、楊雄、蔡邕が同じくこの律を用いていると述べている。
一七一三ページ五行目「楚可破*(之)**[也]*」は刊誤に基づいて改めた。
一七一三ページ一〇行目「昔夏後開*(冶)*使飛廉析金於山」の注:沈欽韓は「冶」の字は衍文であるとし、墨子耕柱篇に見えると述べている。今これに基づいて削除した。注:墨子では「析」を「折」としており、王念孫は「折」とするのが正しいと述べている。
一七一五ページ一四行目「五員樹功於柏舉」の注:汲本、殿本では「五」を「伍」としている。注:五と伍は通じる。
一七一六ページ一行目「原衰見廉於壺飧」の注:「衰」は原本では「襄」と誤っており、直接に改正した。
一七一六ページ七行目「華嶠書*(曰)*因字作回」の注:「曰」の字は衍文であるべきであり、今削除した。
一七一六ページ九行目「利合而友」の注:「利」は原本では「時」と誤っており、直接に改正した。
一七一七ページ一四行目「奔隨」の注:「隨」は原本では「遺」と誤っており、殿本では「隋」と誤っている。汲本に基づいて直接に改正した。
一七一七ページ一五行目「軍敗吳而復楚國」の注:「軍」の字は衍文である疑いがある。
一七一七ページ一六行目「唐且即唐雎也」の注:「雎」の字は各本すべて「睢」と誤っており、直接に改正した。
一七一七ページ一六行目「魏使人請救*[於秦]*」は汲本、殿本に基づいて補った。
一七一七ページ一七行目「丈人忙然乃遠至*(魏)*此*[魏]*來者數矣」は汲本に基づいて改めた。注:現在の戦国策の本では「丈人芒然乃遠至此,甚苦矣,魏來求救數矣」としている。
一七一八ページ五行目「昔趙衰為原大夫」の注:陳景雲は「昔」は「晉」とすべきであると述べている。
一七一八ページ一六行目「*(帝)**[常]*嗟歎之」は汲本に基づいて改めた。
一七二〇ページ二行目「陽*(侯)**[平]*之族」の注:刊誤は本文を案ずると「侯」は「平」とすべきであり、王鳳は陽平侯に封ぜられ、前書もまた陽平の王と称していると述べている。今これに基づいて改めた。注:集解は黄山の説を引き、鳳は侯を嗣ぎ、陽平に初めて封ぜられたのは鳳の父の頃侯禁であると述べている。
一七二〇頁六行 「禮」は殿本に従い「愨」に改める。按ずるに、「愨」が先に「禮」と誤って作られ、転写の際にさらに「禮」と誤ったものと思われる。
一七二〇頁八行 論語の「曰」は孔子の言葉であるため、校補に従い削除する。
一七二一頁一行 元帝王皇后の弟「王」は「子」の誤りであり、王莽が帝位を簒奪した。校補は「王」が「子」の誤りであり、莽は後弟の曼の子であるとし、諸本は皆正されていないと述べている。今これに従い改める。
一七二一頁七行 「矜矜業業」について。汲本では「矜矜」を「兢兢」と作る。
一七二一頁一三行 「扶人無容」は殿本に従い「扶人無咎」に改める。按ずるに、集解が引く銭大昭の説によれば、「容」は「咎」とすべきであるという。
一七二三頁七行 「第聽只上書」の「第」は原字が「弟」であり、殿本も同じ。これは汲本に従い改め、注も同じ。按ずるに、「第」と「弟」は通じる。
一七二三頁一四行 「司馬相如曰」は集解が引く黄山の説に従い「司馬相如傳曰」に改める。按ずるに、これは司馬相如の言葉ではなく、文君が相如に言った言葉である。
一七二四頁一一行 「單極滋味」について。御覧九七六が引くところでは「單」を「殫」と作る。
一七二六頁一〇行 「雖合聖德」について。張森楷の校勘記は、治要では「德」を「聽」と作るとし、「聽」の字が正しいのではないかと疑っている。
一七二七頁一二行 「故宜」は量力度徳の前にあり、刊誤は文に「故宜」の二字が多いとし、下文に自ら「故宜」の字を用いる箇所があると述べている。今これに従い削除する。
一七二七頁一二行 「純法八世」の「世」は刊誤が「代」とすべきであるとし、集解が引く恵棟の説は、文選注が「八代」を引くと述べている。按ずるに、これは転写改竄の誤りである。今これに従い改め、注も同じ。
一七二八頁八行 「管仲相公子糾而射桓公」について。集解が引く黄山の説によれば、原注の「射桓公」の下に「卒乃相桓公」の句があるべきであるという。
一七二八頁一四行 「平則致養」について。殿本には「致」の字がない。
一七二九頁一行 「豈暇鳴和鑾清節奏哉」の「清」は原字が「請」であったが、汲本・殿本に従い直ちに「清」に改める。
一七二九頁四行 「笞與重罪無異」は汲本・殿本に従い「加」の字を補い、前志と合致させる。
一七二九頁五行「不可為民」とあるが、校補案によれば前志は本来「不可為人」と作っており、これは転写改訂の際の誤りである。今これに拠って改める。
一七二九頁一四行「皇路」は天路のことである。汲本では「天」を「大」と作る。
一七三0頁一行「馬動則鑾鳴、鑾鳴則和応」とあるが、汲本・殿本に拠って補う。
一七三0頁一行「行之節也」とあるが、今本『説苑』に拠って「之」の字を補う。汲本・殿本では「節也」の上に「行」の字がない。
一七三一頁四行「時人多以此譏之」とあるが、汲本・殿本に拠って補う。
一七三一頁四行「及仕宦」とあるが、汲本・殿本は「官」を「宦」と作る。勘誤は文意から「宦」は「官」と作るべきだとしている。集解が引く王會汾の説によれば、古書に「仕宦」とある例は多く、「仕官」は文理に合わず、これは伝写の際に互いに誤ったものであり、伝及び注の「宦」の字は本来「官」と作るべきで、劉注は本来「官は宦と作るべき」とあるはずだという。
一七三一頁七行「一作標」とあるが、「標」は原本では「摽」と作っていたので、直接に改正した。
一七三二頁一行「父檛而走」とあるが、汲本では「檛」を「撾」と作る。