後漢書

巻五十二

崔駰列傳 第四十二

 

崔駰

崔駰はあざなを亭伯といい、涿郡安平の人である。高祖父の崔朝は、昭帝の時に幽州の従事となり、刺史に諫めて燕剌王と通じないようにさせた。そして剌王が敗れると、侍御史に抜擢された。子の崔舒を生み、四郡の太守を任し、任地ごとに有能な名声があった。

注釈:燕剌王劉旦は武帝の子で、上官桀らと謀反を企てた罪により自殺した。剌は、力割の反切である。

崔舒の末子の崔篆は、王莽の時に郡の文学となり、明経によって公車に召し出された。太保の甄豊が彼を歩兵校尉に推挙したが、崔篆は辞退して言った。「私は聞く、国を討つには仁人に問わず、戦陣には儒士に尋ねないと。この推挙はどうして私に及んだのか。」そして辞表を提出して帰郷した。

注釈:前漢書に董仲舒が言う。「昔、魯の君主が柳下惠に『斉を討伐したいが、どうか』と問うた。柳下惠は『できません』と答えた。帰って憂いの色を見せ、『私は聞く、国を討つには仁人に問わないと。この言葉がどうして私に及んだのか』と言った。」

注釈:論語に言う。「衛の霊公が孔子に陣のっとを問うた。孔子は答えて言った。『俎豆の祭祀のことはかつて聞いたことがありますが、軍旅の戦いのことはまだ学んでおりません』と。」

注釈:辞表を提出して自ら過失を認め、推挙に応じる資格がないとした。

王莽は自分に従わない者たちを嫌い、多くは法律を用いて中傷した。当時、崔篆の兄の崔発は巧みな弁舌で王莽に寵愛され、位は大司空に至った。母の師氏は経学や百家の言説に通じており、王莽は特別な礼をもって寵愛し、義成夫人の号と金印紫綬、文軒丹轂を賜り、新の世に顕著であった。

その後、王莽は崔篆を建新大尹に任命した。[一]崔篆はやむを得ず、嘆息して言った。「私は無妄の世に生まれ、澆や羿のような暴君の時代に遭い、[二]上には老いた母がおり、下には兄弟がいる。どうして自分一人だけが潔白を保ち、親族を危険にさらすことができようか?」そこで単身で任地に赴き、病気を理由に政務を執らず、三年間は県内を巡回しなかった。[三]配下の属官である倪敞が諫めたので、崔篆はようやく無理をして起き上がり、春の農耕奨励の巡行を行った。[四]訪れた県では、牢獄が囚人で満ちあふれていた。[五]崔篆は涙を流して言った。「ああ、刑罰が適切でないために、人々を牢獄に陥れている。これらはみな、いったいどんな罪があって、このような目に遭うのだ!」

ついに公平に処理し、二千人余りを釈放した。掾吏が頭を地面に叩きつけて諫めて言った。「朝廷は新政権の初期であり、州牧は厳格な処罰を求めています。過ちを許し冤罪を晴らすのは、確かに仁者の心ではありますが、ただ一人で君子の道を貫こうとすれば、後悔することになるのではないでしょうか!」崔篆は言った。「邾の文公は一人の命のために自身の身を危険にさらすことをしなかったが、君子はそれを天命を知っていると評した。もし私が一人の大尹を殺して二千人を救うことができるなら、それは私の願いだ。」こうして病気を理由に辞職した。

注[一]王莽は千乗郡を建新と改たたし、太守を大尹と改めた。

注[二]『易経』に「無妄の行は、窮まりて災いなり」とある。『左伝』に「昔、夏の衰え始めた時、后羿が鉏から窮石に遷り、夏の人々を頼りに夏の政権を代行したが、原野の獣に耽溺した。寒浞を用いたが、これは伯明氏の讒言する子弟であった。そして羿を田猟に誘い出して、その国家を奪った。浞は羿の妻室を娶り、澆と□を生んだ。彼らはその讒慝詐偽を恃み、人々に徳を施さなかった」とある。澆の音は五吊反。□の音は許既反。

注[三]『続漢書』志によると、「郡国は常に春に行って県を巡り、人々に農桑を勧め、困窮者を救済する」とある。

注[四] 春の政令を公布する。

注[五]犴の音は岸である。前書音義に曰く、「郷亭の獄を犴という。」

注[六]初政とは王莽が即位したことを指す。

注[七]左伝に「邾の文公が繹への遷都を占った。史官が言うには、『民には利がありますが、君には利がありません』。邾子(文公)は言った、『もし民に利があるなら、それは孤の利益である。民がすでに利益を得るなら、孤も必ずそれにあずかるのだ』。そこで繹に遷都した。五月、邾の文公が卒去した。君子は命を知る者であると言った」とある。

建武の初め、朝廷には彼を推薦する者が多く、幽州刺史もまた篆を賢良として推挙した。篆は自ら、一族が王莽の偽りの寵愛を受け、漢朝に対して恥ずかしい思いをしたと考え、辞退して帰郷し、仕官しなかった。滎陽けいように客居し、門を閉じて深く思もとにふけり、『周易林』六十四篇を著し、吉凶を判断するのに用い、多く占いが的中した。臨終に際しては賦を作って自らを悼み、『慰志』と名付けた。その文は次の通りである。

昔の人が好機に巡り合ったことを称え、伊尹や傅説が時を得たことを賞賛する。規矩に合う優れた素質を持ち、公輸班や工倕を超えて裁断した。準縄や矩尺に合う正しい法度を調やわらさせ、断金の深遠な計略と同じくした。どうして太平の世に天の道が開かれたのか、千年を超えて功績を残した。これは果たして徳を修める極致なのか、それとも天の授けるところがそこに適っていたのか?

注[一]遘は遇うこと、辰は時のことである。

注[二]伊尹は湯王に仕え、傅説は高宗に遇った。爾雅に「□は遇なり」とある。音は五故反。

注[三]公輸班は魯の人である。倕は舜の時代に共工の官職にあった。いずれも巧みな人物である。湯と高宗を喩えたものである。

注[四]准は水準器、矱は定規、貞は正しいことである。易経に「二人心を同じくすれば、その利は金を断つ」とある。玄策とは妙なる計略のことである。

注釈[五]易経の大畜卦は、干が下に、艮が上にあり、その上九の爻辞に「天のみちいかになう、とおる」とある。鄭玄は「艮は手を表し、手は肩の上にある。干は頭を表す。頭と肩の間に物を担ぐ場所がある。干は天を表し、艮は小道を表す。天の衢の象である」と述べている。

我が生の成らざるを悲しむかな、漢王朝の中衰に当たる。凶気の雲が鬱然と立ち込めて横暴に猛り、太陽は忽然と隠れて輝きを潜める。六つの権柄が家門に制せられ、帝王の綱紀は崩れ落ちて衰微する。九黎と共工が奮い立って跋扈し、羿と寒浞は狂ったように恣睢する。軽慢な蔵(財貨)を見て隙に乗じ、帝王の位と万機の政務を窃む。補佐していやしくも存続を図ろうとすれば、また号泣して憂い嘆く。ああ、三公の職にあった私が責めを負うとは、天の威厳をもって私を迫るのか。どうして熊宜僚のような微力ながらも耿介な士がいないことがあろうか?我が生(母)が滅び傷つくことを悼む。賢明なさと人の遺風を望みつつ、大雅の詩に戒められることを恐れる。ついに翼を閉じて運命に委ね、符節を受け守って東北の地に赴く。閉ざされた世に遭いながら隠れられぬことを恨み、石門の高士の行跡に背く。復関に蛾眉を揚げて現れ、孔子の戒めである「冶容(美しく飾った容貌)は淫を教える」に触れる。民衆の愚かさが悟り悔いることを美とし、白駒の詩に詠まれる賢者の去るのを慕う。そこで病と称して繰り返し辞退し、三年を経てようやく許される。

悠々と身を軽くして遠く遁れ、険しい山に身を寄せて幽邃な所に住む。静かに深く思索を極めて精妙な理を探り、六経の奥深い府庫を駆け巡る。皇天が再び命じて憂いを継ぎ、ついに建武の世を顧みられる。彗星すいせいを電光のように掃き清め、天地四方の国土を清める。聖なる徳は広く横たわって覆い、民衆は喜び踊り鼓舞する。四方の門を開いて広く人材を招き、あの幽州の牧守が私を推挙する。区画が定まり計画が決まるのは、どうして老いたいなかの私が飾り立てられることなどあろうか。ついに車を吊るして馬を繋ぎ、世俗の出世の道を断つ。暮春の服が完成するのを嘆き、衡門を閉じて車の轍を掃う。しばし優遊して長い日を過ごし、天命と本性を守って天寿を全うする。身体を大切にして全きままに帰ることを貴び、祖先に恥じないようにしたい。

注釈[一]造は、成る。

注釈[二]丁は、当たる。

注釈[三]氛は、妖気。霓は、太陽の傍らの気。横厲とは気が盛んになって天を凌ぐこと。羲和は、太陽。気が盛んで日光が微かになるのは、王莽が漢を簒奪したことを譬えている。

注釈[四]國語に管仲が齊桓公に答えて言う「昔、聖人が天下を治めた時、その六つの柄を慎んで用いた」。韋昭の注に「六柄とは、生・殺・貧・賤・富・貴である」とある。漼は摧落(崩れ落ちる)の意。音は千隗反。

注釈[五]國語に「昔、少皞の衰えた時、九黎が徳を乱し、人と神が入り混じり、物事の区別がつかなくなった」とある。淮南子に「昔、共工が顓頊と帝位を争い、怒って不周の山に触れ、天柱が折れ、地維が絶えた」とある。跋扈は、強梁。恣睢は、我が儘に振る舞う様子。恣の音は訾。睢の音は許維反。羿と浞は上に既出。

注釈[六]易経に「蔵(財貨)を軽んじれば盗みを教える」とある。釁は、隙。神器は、帝王の位。老子に「天下の神器は、為すべからず」とある。書経に「兢兢業業、一日二日萬機」とある。

注釈[七]輔弼とは王莽が政を輔けること。偷は、苟且。号咷は、哀しみ叫ぶこと。前漢書に王莽が孺子嬰を定安公に策命し、王莽自ら孺子の手を執り、涙を流して歔欷したとある。

注釈[八]三事とは三公。負とは太保甄豐が推挙したこと。

注釈[九]左伝に「楚の白公勝が乱を起こした。石乞が言う『市の南に熊相宜僚という者がいる。彼を得れば、五百人に匹敵する』。白公に従って彼に会う。話をすると、気に入る。理由を告げると、辞退する。剣を向けても、動じない。勝は言う『利益のために諂わず、威嚇に恐れず、人に媚びるために言葉を漏らさない者だ』。去った」とある。介は、耿介。我生とは母。殲は、滅びる。夷は、傷つく。母が年老いており、禍が及ぶことを恐れたことを言う。

注釈[一〇]詩経の大雅に「既に明らかで且つ哲くして、以て其の身を保つ」とある。

注釈[一一]艮は、東北の方角。篆が千乗太守となったことを指す。

注釈[一二]易経に「天地閉じて賢人隠る」とある。論語に「子路が石門に宿った。晨門(門番)が『どこからか?』と問う。子路が『孔氏から』と答える。曰く『それはその不可能を知りながら為す者か?』」とある。注[一三]楚辞に「觿女皆余が蛾眉を妒む」とある。詩経国風の序に「氓は、時を刺す。淫風が大いに行き、男女の別がなくなる。故にその事を序して以て風刺する」とある。その詩に「彼の垝垣に乗り、以て復関を望む」とある。毛萇の注に「垝は毀つ。復関は君子の近づく所」とある。易経系辞に「冶容は淫を誨う」とある。鄭玄は「その容姿を飾って外に現すことを冶という」と述べている。

注[一四]詩経に「氓之蚩蚩、布を抱きて絲を貿う。匪來貿絲、來即我謀」とある。注に「氓は人なり。蚩蚩は殷厚の貌。布は幣なり。即は就なり。この人の言うところは、絲を買いに来たるにあらず、我に就きて室家とならんと謀るなり」とある。また「及爾偕老、老使我怨」とある。注に「我は汝とともに老いに至らんと欲す、汝は反って我を薄くして怨ませしむなり」とある。また「皎皎たる白駒」とある。賢人を諭したものである。

注[一五]復は白と同じ意味である。

注[一六]峻峗は山をいう。峗の音は魚委反。

注[一七]さくは深いこと。

注[一八]皇は天なり。紹は継ぐこと。恤は憂うること。天が憂恤し眷顧して漢家を顧み、光武帝に再び天命を与えたことをいう。

注[一九]欃槍は彗星である。

注[二0]四方の門を開闢し、広く賢者を求めること。幽牧とは幽州刺史に挙げられたことをいう。

注[二一]賁は飾ること。易に「束帛戔戔たり、丘園に賁す」とある。

注[二二]論語で曾點が「暮春*[者]*、春服既に成る」と言った。衡は横なり、横木を門としたことをいう。軌は跡なり。

注[二三]齒は年齢のこと。

注[二四]論語に「曾子疾あり、門弟子を召して曰く『余が足を啓け』」とある。注に「父母は己を全うして生み、また全うして帰すべし」とある。忝は辱しめること。先子とは先人のこと。孟子で曾西が「吾が先子の畏れたる所なり」と言った。

篆は毅を生み、病を理由に身を隠して仕えなかった。

毅は駰を生み、十三歳で詩・易・春秋に通じ、博学で偉才があり、古今の訓詁百家の言をことごとく通じ、文章をよくした。若くして太学に遊学し、班固・傅毅と同時に名を並べた。常に典籍を業とし、仕進の事には及ばなかった。時に人はそのあまりに玄静であることを譏り、後世の名声が実を失うのではないかと言った。駰は楊雄の解嘲にならって、達旨を作って答えた。

華嶠の書に「駰は楊雄を譏り、范雎・蔡沢・鄒衍の徒は隙に乗じて相い傾き、諸侯を誑かし耀かした者であるのに、『彼と我とは時を異にする』と言い、また『卓氏に資を窃み、細君に炙を割く』と言ったが、これは士の贅行であり、『この数公と同じくすること能わず』と言うのは、類を失して改めたものと思われる」とある。

ある人が私に言った。「易に『物を備えて用を致す』『観るべきものありて合する所あり』と称する。故に陽を扶けて出で、陰に順じて入ることができる。春にはその華を発し、秋にはその実を収め、始めあり極まりあり、ついにその質に登る。今、あなたは六経を櫃に蔵め、道術を胸に抱き、世を歴て遊び、高談すること久しく、下には重淵の深きをり、上には九千の遠きを探り、幽微の極みを窮め、潜隠の無源を測る。しかし、下っては卿相の廷に歩まず、上っては王公の門に登らず、進んでは徒党を組んで己を賛せず、退いては庸人に濫り交わらない。ただ師友は道徳とし、古の真実に符節を合わせ、影を抱いて特立し、士と群れをなさない。高い樹には陰なく、独木は林とならず、時にしたがうのが宜しく、道はつねに従うことを貴ぶ。今、太上は天徳を運らして世に君臨し、王の僚を憲として官を布き、雍泮に臨んで儒を恢め、軒冕を疏にして賢を崇め、惇徳を率いて忠孝を励まし、茂化を揚げて仁義を砥とし、良材の中から利器を選び、明智の中から鏌□を求める。この時に当たって台階に攀じ、紫闥を窺い、高軒に据わり、朱闕を望まないのは、千里を行かんと欲しながら尺も発たないようなもので、私はひそかに惑う。故に英人はこの時に乗じて、逸禽の深林に赴くが如く、□ぜいの大沛に趣くが如くである。どうして黙々として久しく沈滞しているのか」と。

注[一]「備物致用」は、易経の繋辞伝の文である。「可觀而有所合」は、序卦伝の文である。鄭玄が易緯乾鑿度に注して言うには、「陽は子に起こり、陰は午に起こる。これが天の数の大きな区分である。陽は離を出て、陰は坎に入る。坎は中男、離は中女である。太一の運行は、出る時は中男に従い、入る時は中女に従う。陰陽男女の対を因って終始とするのである」。

注[二]韞ははこである。櫝はひつである。論語に言う、「美玉有り、韞櫝して之をかくす」。

注[三]易経に言う、「賾を探り隠を索め、深きを鉤き遠きを致す」。九干とは天に九重有りという意味である。離騷の天問に言う、「えんは則ち九重、たれか之を営度えいどする」。

注[四]贊とは称えるという意味である。

注[五]華嶠の書では「高樹不庇」と作る。易経に言う、「時に随うの義大いなるかな」。老子に言う、「其の光を和げて其のちりに同ず」。故に道は凡に従うことを貴ぶと言うのである。

注[六]太上とは明帝のことである。伝に言う、「太上は徳を立つ」。天徳とは、含弘光大がんこうこうだいである。易経に言う、「乃ち天徳に位す」。たっと書に言う、「唐虞は古にかんがえ、官を建つるにれ百、夏商は官倍ばいす、亦克く用いておさむ」。憲は法である。僚は官である。三王に法って官を建てたと言うのである。

注[七]天子のものは辟雍、諸侯のものは頖宮である。璧雍とは、水を以て之をめぐらし、円くして璧の如きものである。頖は半である。諸侯は天子の宮の半分である。皆、学を立て教えを垂れるために用いられるのである。

注[八]砥はみがくことである。

注[九]呉越春秋に言う、「干将は呉の人である。二つの剣を造り、一つを干将、二つを莫邪と言う。莫邪とは、干将の妻の名である。干将が剣を作る時、五山の精を採り、六金の英を合わせ、百神が臨観し、遂に以て剣を成す」。説苑に言う、「干将・莫邪を尚ぶ所以は、其の立断りったんを貴ぶからである。騏驎を尚ぶ所以は、其の立至りっしを貴ぶからである。必ずや日を歴て久しくむなしければ、絲犛しりも猶お石をきざむことができ、駑馬も亦く遠きに致すことができる。是を以て聡明敏捷は、人の美材である」。

注[一〇]三台を三階と言い、三公の象徴である。

注[一一]八寸を咫と言う。

注[一二]文子に言う、「智万人に過ぐるを英と謂い、千人に過ぐるを俊と謂う」。

注[一三]蚋は小虫で、蚊の類である。蚋の音はぜい。説文に言う、「秦に之を蚋と謂い、楚に之を蚊と謂う」。孟子に言う、「污池沛沢」。劉熙が言うには、「沛とは、水と草が相半ばするもの」。

答えて言う、「そのような言葉があるのか? あなたがもし世の道(世路)で私を励まそうとするならば、その道がつまずいて私の法度を失うことを知らないのである。古、陰陽が始めて分かれ、天地が初めて制せられた時、皇綱は雲の緒の如く、帝紀は乃ち設けられ、伝序は歴数を伝え、三代は興滅した。昔の大庭氏は遠く、赫胥氏はる由もない。

淳朴な気風が散り離れ、人物はみだそむいた。高辛氏が降臨され、その志趣は各々違った。道には常に拠るべき定まったものはなく、時と共に張り弛みする。仁を失えば非となり、義を得れば是となる。君子は変通し、各々その踏み行う所をつまびらかにする。故に士は或いは目をおおって淵に潜み、或いは耳をすすいで山に棲み、或いは草を耕して僅かに飽き、或いは木をって長く飢え、或いは重ねて招聘されても来ず、或いは屡々罷免されても去らず、或いは冠の紐(紘)を冒して進み出を求め、或いは顔色を望んでこれに応じ、或いは役夫が王公に夢を発し、或いは漁父が元亀に兆を見るのである。

注[二]大庭氏と赫胥氏はともに古代の帝王の号である。尚は遠いこと。罔は無いこと。識は記すこと。

注[三]高辛氏は、帝嚳である。

注[四]時勢に合わせて張り巡らし、常道によって考証しないこと。

注[五]老子に言う。「道を失って後に徳があり、徳を失って後に仁があり、仁を失って後に義があり、義を失って後に礼がある。」

注[六]荘子に「北人無沢は舜と友となり、舜は天下を彼に譲ろうとしたが、無沢は自ら清泠の淵に身を投げ、終身帰らなかった」とある。

注[七]盥は洗うこと。許由は字を武仲といい、沛沢の中に隠れていた。堯がこれを聞き、天下を致して譲ろうとした。由はこれを汚れたことと思い、池に臨んで耳を洗った。その友の巣父が犢に水を飲ませていたが、由が堯に譲られたことを聞き、「どうしてわが犢の口を汚すのか!」と言い、上流に牽いて水を飲ませた。荘子及び高士伝に見える。

注[八]伯成子高は、唐虞の時代に諸侯であった。禹の時に至り、去って耕作した。禹が会いに行くと、野で耕作していた。呂氏春秋に見える。

注[九]説苑に「鮑焦は木の皮を衣とし、木の実を食した」とある。韓詩外伝に「焦はその野菜を□し、立ち枯れて洛水のほとりで死んだ」とある。

注[一〇]狂接輿は、楚の人である。耕して食った。楚王がその賢さを聞き、使者に金百溢、車二駟を持たせて招聘し、「願わくは先生に江南を治めていただきたい」と言った。接輿は笑って応じなかった。使者が去ると遠くに移り住み、どこに行ったか分からなくなった。荘子に見える。

注[一一]論語に「柳下惠が士師となったが、三度罷免された。人が『去ることができます』と言うと、『直道をもって人に仕えれば、どこへ行っても三度罷免されないことがあろうか』と言った」とある。

注[一二]紘は辱められることで、音は火豆反。新序に「伊尹は恥辱を蒙り、鼎俎を背負って湯に干した」とある。論語に「色を見て挙がり、翔って後に集まる」とある。挙は、韻を合わせて音は據。

注[一三]高宗が夢で傅説を得たので、百工に命じて野に求めて探させ、傅巖で彼を得た。孔安国は「傅氏の巖は、虞と虢の境界にあり、信道が通じている。澗水が道を壊すので、常に胥靡の刑人を使ってこの道を築き護らせていた。説は賢者で隠れていたが、代わって胥靡が築くのを手伝い食を供した」と言う。事は尚書に見える。王公は、総称して言う。爾雅に「皇、王、後、辟、公、侯は、みな君である」とある。

注[一四]戦国策に「呂尚が文王に遇った時は、身は漁父であった」とある。史記に「太公は釣りで周の西伯に干した。西伯が狩りに出ようとした時、占うと、『獲るものは龍でも螭でもなく、熊でも羆でもない。獲るものは霸王の輔佐である』と言った。そこで西伯が狩りをすると、果たして渭水の陽で太公に遇い、語り合って大いに喜んだ」とある。元は大いなること。

注[一五]方言に「□は盛んで多いこと」とある。音は奴董反。

注[一六]尚書に「下民は昏墊す」とある。孔安国は「昏瞀と墊溺は、皆水害に困っていること」と言う。また「帝が言う。ああ、洪水が天を滔き、浩浩として山を懐き陵を襄む。よくこれを治める者はいないか」とある。

注[一七]藟は藤である。音は壘。詩経に「南に樛木有り、葛藟之を累す」とある。

注[一八]孟子に「天下溺るれば則ち之を道を以て援く、嫂溺るれば則ち之を手を以て援く」とある。

注[一九]草中を行くことを跋という。

注[二〇]謨は謀である。堯が洪水に遭い、嘆き憂い、下の人に能く治める者を訪ねたところ、皋陶と大禹がその謀を陳べた。尚書に見える。史記に、高祖が項羽に敗れ、馬から下りて鞍に腰掛けて子房に問うて言うには、「関以東を棄てようと思うが、誰と共に功を為すことができようか」と。子房が言うには、「九江王の布、彭越、韓信である。即ちこれを棄てようとするならばこの三人であり、楚を破ることができる」とある。

注[二二]高祖が匈奴を撃ち、白登に至り、七日間包囲されたが、陳平の計を用いて脱出した。

注[二三]珪は玉である。詩含神霧に「之を玉版に刻み、之を金匱に蔵す」とある。

注[二四]墨子に「昔、夏后開が飛廉に命じて山で金を析き、以て昆吾で鼎を鋳た」とある。蔡邕の銘論に「呂尚が周の太師となり、その功は昆吾の鼎に銘せられた」とある。

注[二五]国語に「晋の魏顆がその身を以て秦の師を輔氏で退け、その勲は景鐘に銘せられた」とある。これは襄をも兼ねて言っている。

注[二六]褰裳は水を渡ることである。新序に「今、濡足の故に、人の溺るるを救わないのは、可であろうか」とある。淮南子に「禹の時に趨るや、冠が掛かっても顧みず、履を遺しても取らなかった」とある。

注[二七]躐の音は呂涉反。躐は践むことである。この字は「手」偏に従うのが適当である。広雅に「擸は持つなり」とある。纓を整え襟を正し、その容止を修めることを言う。史記に「纓を摂め襟を整う」とある。華嶠の書では「躐」を「摂」と作っている。

注[一]孔子が言うには「大なるかな、堯の君たるや、煥乎として其れ文章有り」と。故に唐文と言う。

注[二]壞は、土器でまだ焼かれていないものである。郭璞が爾雅に注して「壞胎は物の始めなり」と言う。壞の音は普才反。

注[三]凝は成るである。

注[三]械とは器械や甲兵の類をいう。厝とはこれを置いて用いないことをいう。周礼に「太宰の職は、邦を建てる六典を掌り、以て王を佐けて邦国を理むるなり。一に曰く理典、二に曰く教典、三に曰く礼典、四に曰く政典、五に曰く刑典、六に曰く事典」とある。左伝に「周に乱政有りて九刑を作る」とある。杜預が注して「周の衰え、刑書を作る、之を九刑と謂う」と言う。

注[五]力牧は黄帝の臣である。史記に、尚父の呂望が武王を相いて以て紂を伐つ。厲とは威容が厳しいことをいう。

注[六]伊尹、皋陶、范雎、蔡沢。

注[七]広大な屋敷が既に完成すれば、材木を求めないので、林の木々は枝が伸び伸びとしている。遠くから求めるとは、遠方の珍しい物を指す。存は止息の意。求める物が既に止められれば、良馬の力を借りる必要がない。

注[九]爾雅に「心は大火である」とある。詩経の豳風に「七月に火(大火星)が流れる」とある。また「九月に場や畑を築く」ともある。

注[一〇]山の南側を陽、北側を陰という。穀梁伝に「林が山に属するのを麓という」とある。

注[一一]八尺を尋という。蓺は植えること。両手で掬うのを拱という。数は密の意。数は疏角反と読む。

注[一二]悠悠は多いこと。罔極は無窮と同じ。亦各有得は、皆それぞれ自分が得ていると思うこと。

注[一三]彼は、あの多くの人々を指す。論語に「用いられれば行い、捨てられれば身を隠す」とある。

注[一四]呂氏春秋に「伍員を得た者は執珪の位に就く」とある。前書音義に「古い爵位の名である」とある。また「柱国は楚の官で、秦の相国に相当する」ともある。

「君子は仕官を望まないわけではない。へつらって推挙を求めることを恥じるのである。[一]家を持たないわけではない。塀を乗り越えて娘を引きずり出すことを嫌うのである。[二]大声で呼び、売り込み、旗を掲げて自らを誇示するのは、随侯の珠や和氏の璧のような宝ではない。知恵をひけらかして世に知られ、それによって禄を求めるのは、孔子の道ではない。[三]交遊に等類や党派を選ばず、ただ己の利益のために行動し、[四]血と汗を流して時流に競い、利益が合致すれば友とする。[五]あなたは私の沈滞を笑い、私もまたあなたの止まぬ(奔走)を憂う。[六]先人に規範があれば私はそれを損なわず、行いに曲がった道があれば私はそれに従わない。[七]善悪の判断は私にあり、ただ世間がどう論じるかだけだ。固より天与の素質に従い、先哲の高邁な教えを誦し、太平の清らかな風を詠じ、天下の最も順当な道を行おう。

わが身の穢れた行いを恐れ、百畝の田を耕さないことを心配する。[八]わが馬を繋いでゆっくり歩き、天命の存するところを待つ。[九]昔、孔子は夾谷で威厳を示し、[一〇]晏嬰は崔杼に対して勇気を発揮した。[一一]曹劌は柯の盟約で節義を挙げ、[一二]卞荘子は強敵に対して勝利を収めた。[一三]范蠡は会稽で形勢を転換し、[一四]伍員は柏挙で功績を立てた。[一五]魯仲連は弁舌で燕軍を退け、[一六]申包胥は一つの言葉で楚を存続させた。[一七]唐且は白髪の頭で秦王を悟らせ、[一八]甘羅は幼い年齢で趙に報いた。[一九]原憲は一壺の粥で清廉を示し、[二〇]趙盾は一束の干し肉で徳を収めた。[二一]季札は丘の木に信を結び、[二二]柳下恵は門前の女に対して節操を守った。[二三]顔回は穀物の升で仁を明らかにし、程嬰は趙武に対して義を顕わにした。[二四]私は確かにこれら数人の徳を編むことはできないが、ひそかに古人が記したことを慕う。」

注[一]夸毗とは、へつらう者が十分に恭しく、進退を巧みにすること。

注[二]孟子に「東の隣家の塀を乗り越えてその処女を引きずり出せば妻を得、引きずり出さなければ得られない。引きずり出そうとするか?」とある。趙岐の注に「摟は引くこと。その字は『手』に従う。処子は処女である」とある。

注[三]華嶠の書では「因」の字を「回」としている。回は邪なこと。

注[四]倫は等類、党は朋党を指す。徇は営むこと。交わりがその類でなく、ただ己を営むだけだという。

注[五]汗血は労力を費やすこと。競時は時流に乗ること。利が合致すれば友とし、道義によるのではない。

注[六]□□は猶お区々たるなり。

注[七]枉は曲なり。徑は道なり。

注[八]尚書に曰く「穢德彰聞」と。禮記に曰く「夫人情は、聖王の田なり。禮を修めて以て之を耕し、義を陳べて以て之を種え、學を講じて以て之を耨う」と。古者は夫の田百畝。耘は草を除くなり。

注[九]安行は奔馳せざるなり。天命之を性と謂う。隠居して以て命を体するを言う。

注[一〇]解は陳禪傳に見ゆ。

注[一一]解は馮衍傳に見ゆ。

注[一二]曹劌は曹沬なり。史記に曰く、曹沬は勇を以て魯莊公に事え、魯の将となり、齊と戦い、三たび敗る。莊公懼れ、乃ち遂邑の地を献じて以て和し、猶お将と為す。齊桓公と莊公、柯に会して盟す。桓公と莊公、既に壇上に盟す。曹沬、匕首を執りて齊桓公を劫す。左右敢えて動く者莫く、乃ち魯の侵地を還す。

注[一三]新序に曰く「卞莊子、母を養い、戦いて三たび北す。交遊之を非とし、國君之を辱しむ。母死すること三年に及び、齊と魯と戦う。莊子従うことを請い、遂に敵に赴いて□し、三たび甲首を獲る。曰く『夫れ三たび北するは、以て母を養わんが為なり。今志節小具し、而して責塞がる。吾聞く、節士は辱を以て生ぜずと。』遂に敵に反し、十人を殺して死す。君子曰く、三北已に塞がり、世を滅ぼし宗を断つは、孝に於いて未だ終わらず」と。

注[一四]錯は置くなり。音は七故の反。埶は謀略を謂う。史記に曰く、吳王、越を夫椒に敗る。越王乃ち余兵五千人を以て會稽に保つ。吳師追いて之を囲む。越王、范蠡に謂いて曰く「奈何」と。范蠡対えて曰く「卑辭厚禮を以て之に遺わん」と。句踐乃ち大夫種を命じて吳に行成せしむ。膝行頓首して曰く「句踐、臣と為らんことを請い、妻は妾と為らん」と。吳王乃ち越王を赦す。越王、國に反り、其の士を拊循す。范蠡曰く「可なり」と。乃ち吳を伐つ。吳師敗れ、越復た吳王を姑蘇の山に棲ます」と。

注[一五]伍子胥、名は員、楚の人なり。子胥の父、楚に誅さる。子胥、弓矢を挾みて吳王闔閭に干る。闔閭甚だ之を勇とし、師を興して楚を伐たしめ、柏挙に戦う。楚師敗績す。事は谷梁傳に見ゆ。

注[一六]史記に曰く、魯仲連、齊の人なり。燕将、齊の聊城を攻め下し、固く之を保守す。田單之を攻めて下さず。魯仲連乃ち書を為りて燕将に遺わす。燕将書を見て、三日泣き、乃ち自殺す。遂に聊城を平ぐ。

注[一七]左傳に曰く、楚昭王、吳の為に敗られ、隨に奔る。申包胥、秦に如きて師を乞う。曰く「吳は封豕長憨と為り、以て上國を薦食す。寡君草莽に越在し、下臣をして告急せしむ」と。庭牆に依りて立ちて哭し、日夜声を絶やさず、勺飲も口に入れず、七日にして、秦師乃ち出づ。軍、吳を敗りて楚國を復す。

注[一八]唐且は即ち唐睢なり。戰國策に曰く「齊・楚、魏を伐つ。魏、人をして*[秦に]*救いを請わしむも、至らず。

魏の人に唐睢有り、年九十餘なり。西して秦王に見ゆ。秦王曰く『丈人忙然として乃ち遠く*此に至る。*[魏より]*来る者数たび矣。寡人魏の急を知る』と。唐且曰く『夫れ魏は萬乗の國なり。東藩と称するは、秦の強きを以ての故なり。今齊・楚の兵已に魏の郊に在り。大王の救い至らず、魏急なれば、且つ地を割きて從を約せん。是れ王、一の萬乗の魏を亡ぼし、而して二敵の齊・楚を強うするなり』と。秦王悟り、遽に兵を発して魏を救う」と。爾雅に曰く「顛は頂なり」と。華顛は白首を謂う。

注[一九]甘羅は下蔡の人、甘茂の孫なり。年十二、秦の相呂不韋に事う。秦、張唐をして燕に相たらしめんと使わす。羅曰く「臣に車五乘を借り、張唐に先立ち趙に報ぜんことを請う」と。不韋乃ち之を始皇に言う。召見し、甘羅をして趙に使わしむ。趙襄王、郊迎す。事は史記に見ゆ。童牙は幼小を謂う。

注[二〇]昔、趙衰が原大夫であったので、原衰と呼ばれた。左伝によると、晋侯が寺人勃鞮に原の守備を誰にするか尋ねたところ、勃鞮は答えて言った。「昔、趙衰は壷に入れた飯を持って近道を行き、空腹であったが食べずにいた。だから彼を原に置いたのである。」見の音は胡殿反。

注[二一]呂覧によると、昔、趙宣孟が絳に行こうとした時、桑の木の下に飢えた人を見つけた。宣孟は車を止めて降り、食べ物を与えて食べさせた。その人は二度飲み込んでやっと目が見えるようになった。宣孟が尋ねた。「お前はどうしてこんなに飢えているのか?」答えて言った。「私は絳で役人をしていましたが、帰る途中で食糧が尽き、物乞いをするのは恥ずかしく、ここまで来てしまいました。」宣子は干し肉三切れを与えた。彼は拝礼して受け取ったが、食べようとしなかった。その理由を尋ねると、言った。「私は年老いた母がおり、これを彼女に贈ろうと思っています。」宣孟は言った。「食べなさい。私はさらに与えよう。」そこでさらに干し肉二束を与えた。

注[二二]史記によると。「呉の公子季札が使いで通りかかり、徐の国に立ち寄った。徐の君は季札の剣を気に入ったが、口に出しては言わなかった。季札はそれと知りながら、上国の使者としての任務中だったので、献上しなかった。帰りに徐に戻ると、徐の君はすでに死去していた。そこで彼は自分の宝剣を解き、徐の君の墓の木に掛けて去った。」

注[二三]展季は柳下惠である。韓詩外伝によると。「魯に一人で暮らす男がいた。夜、暴風雨が来て、ある婦人が走り寄って彼に身を寄せようとした。男は戸を閉めて入れず、言った。『私は男は六十歳にならなければ一人で住まないと聞いている。』婦人は言った。『あなたはどうして柳下惠のようにしないのですか?彼は門に届かない女(=家に入れない女)を抱きしめて温めても、国中の人が彼が淫らだとは言わなかったのに。』」注[二四]程嬰のことは馮衍伝の注釈を見よ。度轂は詳らかでない。

元和年間、粛宗が初めて古礼を修め、方岳を巡狩した。崔駰は四巡頌を献上して漢の徳を称え、その文辞は非常に典雅で美しかったが、文章が長いのでここには載せない。帝はもともと文章を好み、崔駰の頌を見てから、常に感嘆し、侍中の竇憲に言った。「卿は崔駰を知っているか?」答えて言った。「班固が何度も私に話してくれましたが、まだ会ったことはありません。」帝は言った。「公は班固を愛しながら崔駰を軽んじる。これは葉公の好龍のようなものだ。試しに会ってみるがよい。」崔駰はこれによって竇憲を訪ねた。竇憲は慌てて履を引きずりながら門に出迎え、笑って崔駰に言った。「亭伯よ、私は詔を受けてあなたと交わることになったのに、あなたはどうして私を疎んじるのか?」そこで揖して入室させ、上客とした。ほどなくして、帝が竇憲の邸に行幸した。その時、崔駰はちょうど竇憲のところにいた。帝はそれを聞いて召し出して会おうとした。竇憲が諫めて、白衣の者と会うのはふさわしくないと言った。帝は悟って言った。「私が崔駰を朝夕そばに置くようにすればよい。どうしてここで会う必要があろうか!」ちょうど官職を与えようとした時、帝が崩御した。

注[一]按ずるに、崔駰の文集には東、西、南、北の四巡頌がある。流布本では「四」を「西」としているものが多いが、誤りである。

注[二]劉向の新序によると。「子張が魯の哀公に会いに行き、七日経っても哀公が礼遇しなかったので去り、言った。『君主の士を好むのは、葉公子高が龍を好むのに似ている。天の龍がそれを聞いて降りてきて、窓から頭を覗かせ、堂に尾を引きずった。葉公はそれを見て魂魄を失い、顔色が定まらなかった。これは葉公が龍を好んだのではなく、龍に似ているが龍ではないものを好んだのである。』」注[三]屣履とは、履を履いて引きずって歩くことで、慌てていることを言う。屣の音は山爾反。

竇太后が臨朝し、竇憲は重い外戚として詔命を出し入れした。崔駰は書を献じてこれを戒めて言った。

私は聞く。交わりが浅いのに言葉が深いのは愚かであり、賤しい身分で貴いことを望むのは惑いであり、信頼されていないのに忠誠を納めるのは誹謗である。この三つはどれもふさわしくないことであるが、ある者がそれを踏み行うのは、その誠実な思いが憤りで満ち溢れ、やめることができないからである。ひそかにご覧になれば、足下は純朴で善良な資質を持ち、高潔で度量の大きい器量を備え、志は美しく励ましがあり、上賢の風格がある。私は幸いにも下館に充てられ、後列に並ぶことができた。だからこそ、その真心を尽くし、あえて一言を進言するのである。

注[一]陳は列のこと。

伝に言う。「生まれながらにして富んでいる者は驕り、生まれながらにして貴い者は傲る。」生まれながら富貴でありながら驕り傲らない者は、いまだかつていない。今、寵愛と禄が初めて盛んになり、百官がその行いを見ている。堯や舜のような盛世にあり、光り輝く顕著な時に処しているのだから、どうして朝夕努力して、長く衆人の称賛を保ち、申伯の美しさを広め、周公や邵公のような事業を成し遂げようとしないことがあろうか。論語に言う。「地位がないことを憂えるな。その地位に立つための徳がないことを憂えよ。」昔、馮野王は外戚として地位にあり、賢臣と呼ばれた。近くでは陰衛尉が己に克ち礼に復し、ついに多くの福を受けた。郯氏の宗族は尊くないわけではない。陽平の一族は盛んでないわけではない。重ねて侯となり将軍となり、天の枢機を建て、北斗の柄を執った。それなのに、なぜ当時に非難を受け、後に過ちを残すことになったのか。それは満ちていながら抑えず、地位は余っているが仁が足りないからである。漢が興って以来、哀帝、平帝に至るまで、外戚は二十家あったが、一族を保ち身を全うしたのは、わずか四人だけである。書経に言う。「殷を鑑とせよ。」

慎まざるべけんや。

注[一]尚書大伝によると。「舜の時、百工が互いに和して卿雲の歌を作った。『卿雲は爛漫とし、誠実さは広がり、日の光と月の光は華やかに、朝また朝と続く。』」

注[二]申伯は周の宣王の元舅(母方の伯父)である。周公、邵公はいずれも周王室を補佐した。

注[三]論語にある孔子の言葉である。ただ、身を立てるのに仁義に立脚していないことを憂えよ、という意味である。

注[四]前漢書によると、馮野王は字を君卿といい、妹は元帝の昭儀となり、野王は左馮翊となった。御史大夫の欠員があったとき、皇帝は尚書に命じて中二千石の中から選ばせたところ、野王の行いと才能が第一であった。

注[五]陰□尉とは、光烈皇后の同母弟の陰興である。謹直であったため寵愛を受けた。

注[六]史丹は郯に封じられたので、郯氏と称した。前漢書によると、史丹は字を君仲といい、魯国の人である。祖父の史恭には妹がおり、武帝の時に□太子の良娣となった。成帝が即位すると、丹を長楽尉に抜擢し、右将軍に昇進させ、武陽侯に封じた。封地は東海郡郯県の武強聚であり、旧恩によって賞され、累千金を賜った。

注[七]王氏には九侯と五大司馬がいた。春秋運斗樞によると、「北斗七星の第一星は天樞、第二から第四星までが魁、第五から第七星までが杓である。杓は柄である」。前漢書に「斗が中央を運行し、四海を制御する」とある。

注[八]外家とは、後家(皇后の実家)のことである。二十とは、高祖の呂后の産や禄が謀反を起こして誅殺され、恵帝の張皇后が廃され、文帝の母薄太后の弟薄昭が殺され、孝文帝の竇皇后の従兄弟の子の竇嬰が誅殺され、景帝の薄皇后、武帝の陳皇后がともに廃され、□皇后が自殺し、昭帝の上官皇后の家族が誅殺され、宣帝の祖母の史良娣が巫蠱の罪で死に、宣帝の母王夫人の弟の子の王商が獄死し、霍皇后の家が破れ、元帝の王皇后の弟の王莽が帝位を簒奪し、成帝の許皇后が賜死し、趙皇后が廃されて自殺し、哀帝の祖母傅太后の家族が合浦に流され、平帝の母□姫の家族が誅殺され、昭帝の趙太后が憂死したことを指す。四人とは、哀帝の母丁姫、景帝の王皇后、宣帝の許皇后、王皇后であり、その家族はみな全うした。

竇氏の興隆は、孝文帝の時に始まった。二人の君子(竇長君・竇少君)は淳朴で淑やかに道を守り、以前から名声があった。安豊侯(竇融)は創業を補佐して徳を顕わし、中興の時に顕著となった。内には忠誠をもって自らを固め、外には法度をもって自らを守り、ついに封国を享受し、その福は今日にまで及んでいる。謙譲の徳の輝きは、周易が称賛するところであり、満ち溢れる地位は、道家が戒めるところである。ゆえに君子は福が大きいほどいっそう恐れ、爵位が高いほどいっそう恭しくする。遠くを察し近くを覧て、俯仰(日常の行動)に法則があり、それを机や杖に銘じ、盤や杅(杯)に刻む。慎み深く勤勉に、怠ることなく疎かにすることなく、このようにすれば、百の福を担い、慶びの流れは尽きることがない。

注[一]前漢書によると、竇嬰は字を王孫といい、孝文皇后の従兄の子である。孝文帝の時は呉の相、孝景帝の時は詹事であった。

注[二]竇太后の弟の長君と少君は、謙遜した君子であり、富貴を以て人に驕ることがなかったので、淳朴で淑やかに道を守ったというのである。

注[三]竇融は安豊侯に封じられた。

注[四]易経に「謙遜は尊ばれて光り、卑下しても越えられない」とある。老子に「富貴で驕る者は、自ら災いを招く。功を成し名を遂げて身を退くのは、天の道である」とある。

注[五]太公金匱に「武王が言った、『私は起居の戒めを作り、身に従わせたい』。机に書く言葉は、『安泰の時も危険を忘れず、存続の時も滅亡を忘れず、この二つを心に留めれば、必ず後に凶事はない』。杖に書く言葉は、『人を補佐するのに軽率であってはならず、人を扶けるのに咎があってはならない』」とある。墨子に「堯、舜、禹、湯はその事績を竹帛に書き、盤や盂に刻んだ」とある。杅も盂(杯)である。

竇憲が車騎将軍となると、崔駰を掾に辟召した。竇憲の府は権勢が重く、掾属は三十人おり、皆かつての刺史や二千石であったが、崔駰だけは処士で年少であったにもかかわらず、その中に抜擢された。竇憲は権力を専断し驕り高ぶったので、崔駰はたびたび諫めた。匈奴を討伐に出撃した時は、道中の行いがますます不法となり、崔駰は主簿として、前後数十回にわたり奏記をし、その長短を指摘した。竇憲はこれを受け容れることができず、次第に疎んじ、崔駰の考課成績が上位であったことを理由に、長岑県の長として出向させた。崔駰は遠くへ去ることを思い、意に沿わず、ついに任地へ赴かずに帰郷した。永元四年、家で死去した。著した詩、賦、銘、頌、書、記、表、七依、婚礼結言、達旨、酒警は合わせて二十一篇。次男の崔瑗。

注[一]長岑は県で、楽浪郡に属し、その地は遼東にある。

子の崔瑗

崔瑗は字を子玉といい、早くに孤児となり、ひたむきに志を立て学問を好み、父の学業をことごとく伝授することができた。十八歳の時、都へ赴き、侍中の賈逵に付いて経書の大義を質正し、賈逵は彼を厚遇した。崔瑗はそこで留まって遊学し、ついに天官、暦数、京房の易伝、六日七分を明らかにした。諸儒は彼を師と仰いだ。扶風の馬融、南陽の張衡とは特に親しく友好であった。初め、崔瑗の兄の崔章が州人に殺された時、崔瑗は自ら刃をとって仇を討ち、逃亡した。赦令が出たので、帰郷した。家は貧しく、兄弟は数十年同居し、郷里の人々はその行いを見習った。

注釈[一]の解釈は郎顗伝に見える。

四十歳を過ぎてから、初めて郡の役人となった。ある事件で東郡発乾県の獄に繋がれた。獄掾が礼に詳しかったので、崔瑗が取り調べを受けている間も、しばしば礼の説を尋ねた。その一心に学問を好む様は、たとえ困窮の中にあっても必ずこれを実践した。後に事件が解決して帰宅し、度遼将軍鄧遵に召し出された。しばらくして鄧遵が誅殺されると、崔瑗は免職となって帰郷した。

注釈[一]発乾県の獄のこと。

注釈[一]呂后が恵帝の後宮の子を立てて少帝としたが、周勃がこれを廃したこと。

注釈[二]元は大きいの意。書経に「元悪大憝」とある。

注釈[三]史記で蔡沢が范雎に説いて言った、「あなたは博打をする者を見たことがないのですか?ある者は大勝負をしようとし、ある者は利益を分け合おうとする。今あなたが秦の宰相となり、座して諸侯を制し、天下をして皆秦を恐れさせている。これこそ秦が利益を分かち合う時です」。

注釈[四]第はただの意。司馬相如伝に「第如臨邛」とある。

しばらくして、大将軍梁商が初めて幕府を開くと、また真っ先に崔瑗を召し出した。自らは二度も貴戚の役人となりながら、重用されずに斥けられたと考え、病気を理由に固辞した。その年のうちに茂才に推挙され、汲県令に昇進した。在任中に数々の有益な意見を述べ、人々のために数百頃の水田を開いた。七年間職務に当たり、民衆は彼を称える歌を歌った。

注釈[一]汲は県名、河内郡に属する。

漢安帝の初年、大司農胡広と少府竇章が共に崔瑗を、老成の大儒者で、政治に参与して多くの実績があり、長く下位に置くべきではないと推薦した。これにより済北国の相に昇進した。当時李固が泰山太守であり、崔瑗の文雅を称賛し、丁重な礼を尽くして書簡を送った。一年余り後、光禄大夫杜喬が八使の一人として郡国を巡察し、収賄の罪で崔瑗を弾劾し、廷尉に召喚させた。崔瑗は上書して自らを弁明し、無罪となって釈放された。

ちょうど病気で死去した。六十六歳。臨終に際し、子の崔寔に遺言して言った、「人は天地の気を受けて生まれ、その終わりには、精気は天に帰り、骨は地に還る。どの土地であれ骸を埋めるのに差し支えはない。故郷に帰葬してはならない。贈り物や、羊や豚の供え物は、一切受け取ってはならない」。崔寔は遺言に従い、そのまま洛陽に葬った。

注釈[一]八使は周挙伝に見える。

崔瑗は文章に優れ、特に書簡・記録・箴・銘をよくし、著した賦・碑・銘・箴・頌・七蘇・南陽文学官志・歎辞・移社文・悔祈・草書埶・七言は、合わせて五十七篇に及ぶ。その『南陽文学官志』は後世に称えられ、文章をよくする者は皆、自分は及ばないと思った。崔瑗は士人を愛し、賓客を好み、盛大に料理を整え、滋味を極め、余財を顧みなかった。普段は粗食と野菜の汁物だけで過ごした。家には一石の蓄えもなく、当時の人々は彼を清らかだと評した。

注釈[一]崔瑗の文集にその文が載っており、枚乗の『七発』の流れをくむもの。

注釈[二]華嶠の書に「崔瑗は士人を愛し、賓客を好み、盛大に料理を整えた。ある者が彼の贅沢すぎると言った。崔瑗はこれを聞いて怒り、妻子に『私は二日分を一日で食べて賓客をもてなしているのに、かえって非難されるとは。士大夫を養うのはこれほど難しいのか。以後は粗末な食事で構わない。子供たちに笑われぬように』と言った。しかし結局改めることはできず、俸禄はすべて賓客のもてなしに費やされた」とある。

瑗の子は寔。

寔は字を子真といい、一名は台、字は元始である。幼い頃から沈着で落ち着きがあり、典籍を好んだ。父が亡くなると、墓の傍らに隠居した。喪が明けると、三公がこぞって召し出そうとしたが、いずれも就任しなかった。

桓帝の初め、詔により公卿や郡国に対し、至孝で独行の士を推挙させた。寔は郡の推挙により、公車に召し出されたが、病気のため策問に対応できず、郎に任じられた。政体に明るく、吏才に富み、当世の便益となる事柄数十条について論じ、『政論』と名付けた。時勢の要点を指摘し、言葉は明晰で確固としており、当時の人々に称賛された。仲長統は言った。「およそ君主たる者は、一通を書き写し、座右に置くべきである。」その文は次のとおりである。

注[一] 確とは、堅固で正しいこと。音は口角反。

堯や舜の帝、湯や武の王でさえも、皆、明哲な補佐、博識な臣下に頼った。だからこそ、皋陶が謀を述べて唐虞は興り、伊尹や箕子が訓戒を作って殷周は隆盛したのである。継体の君主で、中興の功績を立てようとする者は、いったい誰が賢哲の謀略に頼らなかったというのか。天下が治まらない原因は、常に君主が太平の世を長く受け継ぎ、風俗が次第に弊害を帯びても悟らず、政治が徐々に衰えても改めず、乱れた状態に慣れ、安泰と危険を区別せず、自らを省みないことにある。ある者は享楽に耽り、万機を顧みない。ある者は忠告の言葉に耳を塞ぎ、偽りに飽きて真実を軽んじる。ある者は岐路で躊躇し、どこに向かうべきか分からない。ある者は信頼されている補佐官が、口を閉ざして禄を守るだけである。ある者は疎遠にされた臣下が、身分が低いためにその言葉が廃棄される。このようにして、王綱は上で弛緩し、智士は下で鬱屈する。悲しいことだ。

注[一] 伊尹が『伊訓』を作り、箕子が『洪範』を作った。

注[二] 怢の音は他沒反。怢とは、忘れ去ること。

注[三] 奸偽に飽き足り、至真を軽んじる。

注[四] 『易経』に「口を結んだ袋は咎もなく誉れもない」とある。括とは結ぶこと。袋の口を結んで語らず、禄を保つだけである。

注[五] 郁伊とは、伸びやかでない様子。『楚辞』に「独り鬱伊として誰に語らん」とある。

漢が興って以来、三百五十余年が経過した。政令は汚れ、軽んじられ、上下ともに怠惰で弛緩している。風俗は衰え弊害し、民衆は巧みで偽りが多く、百姓は騒然として、皆、中興による救済を再び望んでいる。そもそも時世を救い、世を助ける方法は、必ずしも堯や舜のやり方を踏襲しなければ治まらないというものだろうか。欠けた部分を補い、壊れた部分を修復し、邪な傾きを支え、形に応じて裁断し、要はこの世を安寧の領域に置くことだけである。だから聖人は権変を執り、時勢に遭って制度を定める。歩調の差はそれぞれに設けがある。人にできないことを強要せず、差し迫った事態に背を向けて、聞きかじったことを慕うようなことはしない。孔子が葉公には遠方を来させることで、哀公には民に臨むことで、景公には礼を節することによって答えたのは、その答えが同じでないからではなく、急務とする事柄が異なるからである。このように、天命を受けた君主は、しばしば新たな制度を創始し、中興の主もまた、時勢の過失を正す。昔、盤庚は殷を憂い、都を移し民を変えた。周穆王に過失があれば、甫侯が刑罰を正した。俗人は文字に拘泥し古いものに引きずられ、権宜の制度を理解せず、聞いた奇抜なことばかりを珍重し、目の前のことを軽んじる。どうして国家の大事について論じることができようか。だから事を論じる者は、たとえ聖人の徳に合致していても、すぐに引き裂かれてしまうのである。なぜか。頑迷な士人は時勢の権変に暗く、慣れ親しんだ見解に安住し、成功の喜びを知らない。ましてや事の始めを慮ることなどできるはずがない。ただ旧章に従うだけだと軽々しく言うのである。達者な者は名声を誇り才能を妬み、自分の策でないことを恥じ、筆をふるい言葉を奮い起こして、その意義を破壊する。少数は多数に勝てず、ついに排斥されてしまう。稷や契が再び現れたとしても、やはり困窮するであろう。これが賈生が絳侯や灌嬰に排斥され、屈原がその幽憤を述べた所以である。文帝のような明君、賈生のような賢者、絳侯や灌嬰のような忠臣でさえ、このような憂いがあった。ましてやその他の者においてはなおさらである。

注[一] 垢とは、悪いこと。

注[二] □の音は直莧反。『礼記』に「衣裳が□裂したら針と糸で補綴を請う」とある。柱の音は陟主反。

注[三] 権とは変化をいう。その時勢に遭遇して法制を定め、旧来のものに従わないこと。

注[四] 当時の差し迫った事態に背を向け、聞きかじった事柄を慕うのは、時世を救う要諦ではない。

注[五]韓非子に言う、葉公が政を仲尼に問うた。仲尼は言った、「政は近きを悦ばし遠きを来たすに在り。」魯の哀公が政を仲尼に問うた。仲尼は言った、「政は賢を選ぶに在り。」斉の景公が政を仲尼に問うた。仲尼は言った、「政は財を節するに在り。」ここに「人に臨む」「礼を節す」と言うのは、文が同じでないのである。

注[六]盤庚は、殷の王である。耿から亳邑に遷り、書三篇を作ってこれを告げた。

注[七]甫侯は即ち呂侯である。周の穆王のために夏の禹が用いた刑罰の法を訓じた。ともに尚書に見える。

注[八]掎の音は居蟻反。賈逵が国語に注して言う、「後より牽くを掎と曰う。」

注[九]前漢書に劉歆が言う、「夫れ成りを楽しむとともにすることは可なり、始めを慮うとともにすることは難し、此れ乃ち衆庶の為す所のものなり。」

注[一0]孝文帝の時、賈誼が律を更定することを請い、列侯に国に就くことを命じたが、周勃、灌嬰らがこれを毀った。屈原は楚の三閭大夫となり、上官靳尚がその才能を妬み害し、憂愁憤懣し、遂に離騷経を作った。

注[一]左氏伝に言う、息侯が鄭を伐つに、「徳を度らず、力を量らず」。

注[二]八代とは三皇、五帝をいう。覇政とは斉の桓公、晋の文公をいう。

注[三]密とは、静かなことである。

注[四]墮は隳と読む。

注[五]左伝に、斉の桓公が楚を伐ち、包茅を貢さず、王の祭りに供えざることを責めた。晋の文公が王を召し、践土で諸侯と盟した。管仲が公子糾に仕えて桓公を射た。これらはみな権変の道である。

注[六]楚辞の漁父に「聖人は物に凝滞せず、時に従って推移す」と言う。

注[七]易に言う、「上古は結縄して化し、後世の聖人はこれを書契に易えし。」干は盾である。戚は鉞である。

尚書に言う、苗人が命に逆らい、禹は乃ち干羽を両階に舞い、七旬にして苗が来たる。前漢書に、高祖が匈奴に平城で囲まれ、陳平の計を用いて解かれた。干戚の舞いは、平城の用いたものではないと言うのである。

夫れ熊経鳥伸は、延命の術ではあるが、傷寒の理ではない。呼吸吐納は、寿命を延ばす道ではあるが、骨を継ぐ膏ではない。国を治める法は、身を治めることに似て、平穏であれば養生し、病があればこれを攻めるのである。夫れ刑罰とは、乱れを治める薬石である。

徳による教化は、太平の世における美味しい食事のようなものである。徳による教化で残虐な者を除くのは、美味しい食事で病気を治すようなものであり、刑罰で太平を治めるのは、薬や石で養生するようなものである。今は歴代の君主の弊害を受け継ぎ、天命の変革の時期に当たっている。数世代以来、政治は恩赦が多く、手綱を緩めて御者が轡を委ね、馬は銜を外して走り、四頭の馬が横に走り出し、天子の道は危険に傾いている。今まさに轡を引き締め車轅を束ねてこれを救おうとしているのであって、どうして和鑾の音を鳴らし、行進のリズムを整える余裕があろうか。昔、高祖は蕭何に九章の律を作らせ、三族を滅ぼす法令があり、黥・劓・斬趾・断舌・梟首の刑があったので、これを具五刑と呼んだ。文帝は肉刑を廃止したが、劓に当たる者は笞三百、左足の趾を斬るに当たる者は笞五百、右足の趾を斬るに当たる者は死刑に処した。右足の趾を斬られる者はすでに命を落とし、笞打たれる者はしばしば死に至り、軽い刑罰という名目はあっても、実質は殺害であった。この時、民衆は皆、肉刑の復活を望んだ。景帝元年になって、ようやく詔を下して言った。「笞を加えることは重罪と変わらず、幸いにも死ななくても、人間として生きられない。」そこで法律を定め、笞を減らして軽く打つようにした。これ以降、笞を受ける者は命を全うできるようになった。このことから言えば、文帝は刑罰を重くしたのであって、軽くしたのではない。厳格さによって太平をもたらしたのであって、寛容によって太平をもたらしたのではない。もしその言葉を実行したいならば、根本をしっかりと定め、君主に五帝を師とし三王を範とするようにすべきである。秦の滅びた風俗を一掃し、先聖の風に従い、一時しのぎの政治を捨て、古を考察した道を踏み、五等の爵位を復活させ、井田の制を確立すべきである。そうしてから稷や契を選んで補佐とし、伊尹や呂尚を輔弼とし、音楽が奏でられて鳳凰が舞い降り、石を打ち鳴らして百獣が舞うようにすべきである。そうでなければ、ただ煩わしさを増すだけである。

注釈[一] 荘子に言う。「息を吹き吐き、古いものを吐き出し新しいものを取り入れ、熊のようにぶら下がり鳥のように伸びる、これらは導引を行う者、身体を養う人である。」黄帝素問に言う。「人は寒さで傷つき熱に転じるのはなぜか。寒さが極まると熱が生じるからである。」度紀とは延年と同じ意味である。鳥のように伸びても傷寒を治療できず、気を吸い込んでも折れた骨を継げないという意味である。

注釈[二] 家語に言う。「古の天子は徳と法を銜勒とし、百官を轡策とした。馬を上手く御する者は、銜勒を正しくし、轡策を揃え、馬の力を均等にし、馬の心を和らげるので、口で声を出さずに千里を極める。人を上手く御する者は、その徳法を統一し、その百官を正しくし、人物を均等にし、人の心を和らげ安んじるので、刑罰を用いずに天下が教化される。」説文に言う。「駘とは、馬の銜が外れることである。」音は達來の反切。皇路とは、天子の道である。

注釈[三] 何休が公羊伝に注して言う。「柑とは、木でその口をはめることである。」柑の音は巨炎の反切。勒は馬の轡。輈は車の轅。鞬は束ねるような意味である。説苑に言う。「鑾は鑣に設け、和は軾に設ける。馬が動けば鑾が鳴り、鑾が鳴れば和が応じ、行進のリズムである。」

注釈[四] これより前は全て前書の刑法志に見える。

注釈[五] 式とは、手本とすることである。

注釈[六] 百畝を一夫とし、九夫を一井とする。

注釈[七] 尚書に言う。「簫韶の楽が九度奏でられると、鳳凰が来て舞い降りる。」また「夔が言う。『私は石を打ち鳴らし、百獣がみな舞う。』」その後、太尉袁湯、大将軍梁冀の府に招聘されたが、いずれも応じなかった。大司農羊傅、少府何豹が上書して崔寔の才能が優れ能力が高いことを推薦し、朝廷にいるべきだと述べた。召されて議郎に任命され、大将軍梁冀の司馬に昇進し、辺韶、延篤らと共に東観で著作に従事した。

地方に出て五原太守となった。五原の土地は麻の栽培に適していたが、風俗として機織りを知らず、民衆は冬に衣服がなく、細かい草を積んでその中に寝ており、役人に会う時は草を着て出てきた。崔寔が着任すると、蓄えを売り払い、紡績、織布、粗末な麻の衣服を作る道具を用意して教え、民衆は寒さの苦しみから免れることができた。この時、胡の賊が相次いで雲中、朔方に侵入し、役人や民衆を殺害略奪し、一年に九度も緊急出動する事態となった。崔寔は兵士と馬を整え鍛え、烽火の見張りを厳重にし、賊は侵犯できず、常に辺境で最も優れた成果を上げた。

注釈[一] 杜預が左伝に注して言う。「織□とは、布を織る者である。」孔安国が論語に注して言う。「縕とは、麻である。」

注釈[二] 第一であること。

病気のために召還され、議郎に任命され、再び諸儒の博士と共に五経を雑に校定した。梁冀が誅殺された時、崔寔は旧臣であったため官を免じられ、数年間出仕を禁じられた。

当時、鮮卑がたびたび辺境を侵犯したため、詔によって三公に武勇と謀略に優れた士を推薦させ、司空黄瓊が崔寔を推薦し、遼東太守に任命された。赴任途中、母の劉氏が病死したため、上疏して帰って葬儀と喪に服することを求めた。母は母としての威儀と淑やかな徳を持ち、書物や伝記を広く読んでいた。かつて、崔寔が五原にいた時、常に民に臨む政治について訓戒し、崔寔の善政は、母の助力があった。喪が明けると、召されて尚書に任命された。崔寔は世の中が混乱しているのを見て、病気と称して政務を見ず、数か月で免官されて帰郷した。

かつて、崔寔の父が亡くなった時、田畑や家屋を売り払い、立派な墓を築き、碑を立てて功績を称えた。葬儀が終わると資産は尽き、貧困に陥り、酒造りや物売りを生業とした。当時の人々はこれを嘲笑したが、崔寔は終始改めなかった。生活に足りる分だけを得て、余剰を求めなかった。官に就いてからも、辺境の郡を歴任したが、ますます貧しくなった。建寧年間に病死した。家には壁が四方に立つのみで、葬儀の費用もなく、光禄勲楊賜、太僕袁逢、少府段熲が棺や副葬品を整え、大鴻臚袁隗が碑を立ててその徳を称えた。著した碑、論、箴、銘、答、七言、祠、文、表、記、書は合わせて十五篇である。

注釈[一] 広雅に言う。「剽とは、削ることである。音は匹妙の反切。」一説には「標」とする。

崔寔の従兄の崔烈

崔寔の従兄の崔烈は、北州において重い名声があり、郡守・九卿の官位を歴任した。霊帝の時、鴻都門を開いて官爵を掲示して売り、公卿・州郡から下は黄綬に至るまでそれぞれ差があった。その富める者は先に金を納め、貧しい者は官に就いてから倍額を納めさせ、あるいは常侍・阿保を通じて別途に取り次ぎを頼んだ。[一]この時、段熲・樊陵・張温らは功労と名誉があったが、皆まず財貨を納めてから公位に登った。崔烈はこの時、傅母を通じて五百万銭を納め、司徒となることができた。拝命の日、天子が軒前に臨み、百官がことごとく参集した。

帝は側近の者に向かって言った。「少し惜しんだことを後悔している。千万まで行けたかもしれないのに。」[二]程夫人が傍らで応じて言った。「崔公は冀州の名士です。どうして官を買おうなどなさいますか。私のおかげでこの位を得たのに、かえってその良さが分からないのですか!」[三]崔烈はこれによって声望が衰えた。久しくして自ら安らかでなくなり、落ち着いてその子の崔鈞に尋ねた。「私は三公の位にあるが、議論する者たちはどう思っているか。」鈞は言った。「父上は若い頃から英名があり、卿守の官位を歴任され、論者は三公となるのにふさわしくないとは言いませんでした。しかし今その位に登られ、天下は失望しています。」烈は言った。「なぜそうなのか。」

鈞は言った。「論者はその銅臭を嫌っているのです。」烈は怒り、杖を挙げて彼を打った。鈞は当時虎賁中郎将であり、武弁を着け、鶡の尾を冠っていたが、狼狽して逃げた。烈は罵って言った。「死にぞこないめ、父が打つのに逃げるとは、孝と言えるか。」[四]鈞は言った。「舜が父に仕えた時、小さな杖なら受け、大きな杖なら逃げました。不孝ではないのです。」[五]烈は恥じてやめた。烈は後に太尉に拝命された。

注[一]阿保とは傅母のことである。

注[二]靳とは、固く惜しむことである。靳は「傿」と作ることもある。説文に曰く、「傿とは、価を引き上げることなり」と。音は一建反。

注[三]姝とは、美しいことである。かえってこの事の良さを知らないという意味である。姝は「株」と作ることもある。株とは、根本のことである。

注[四]彼が武官であるため、卒と罵ったのである。あるいは「孔卒」と作るものがあるが、誤りである。

崔鈞は若い頃から英豪と交わり、名声があり、西河太守となった。献帝の初め、崔鈞は袁紹とともに山東で兵を起こし、董卓はこれによって崔烈を捕らえて郿の獄に預け、監禁し、鉄鎖をかけた。[一]董卓が誅殺された後、崔烈は城門校尉に拝命された。李傕が長安に入った時、乱兵に殺された。

注[一]説文に曰く、「鋃鐺とは、鎖なり」と。前書に曰く、「人が銭鋳造を犯せば、鉄鎖でその首に鋃鐺をかける」と。鋃の音は郎、鐺の音は當。

崔烈には文才があり、著した詩・書・教・頌など合わせて四篇。

史論

論じて曰く、崔氏は代々美才があり、さらに典籍に沈潜したため、遂に儒家の文林となった。崔駰・崔瑗は先に貴戚に心を尽くしたが、終わりを正しく居ることで全うできた。その帰する旨は、進んで趣く者とは異なるであろう。李固は高潔の士であり、崔瑗と同じ郡の出で、贄を奉って友好を結んだ。[一]これによって杜喬の弾劾は、おそらくその過ちであったと知られる。崔寔の政論は、当世の治乱を論じ、晁錯の徒でも及ばないところがある。

注[一]儀礼に曰く、「士が相見する礼では、贄は冬には雉を用い、夏には腒を用い、これを奉って『某、見たいが由って達するすべなし』と言う」と。腒とは、干し肉(腒)[朐]である。音は渠。

賛に曰く、崔氏は文宗たり、世々に雕龍を禅ぐ。新を建てて潔を恥じ、志を摧きて容を求む。永きかな長岑、遼の陰に在り。直道有らざれば、何ぞ泥沈を取らん。瑗は禄を言わず、亦た冤辱を離る。子真は論を持し、昏俗を感起す。

注[一]史記に曰く、「天を談ずるは衍、龍を雕るは奭なり。」劉向別録に曰く、「鄒奭の修飾する文は龍文を雕るが若しと謂う。」禅とは相伝授するを謂う。