後漢書

巻五十一

巻五十一

孝明八王列伝

原文孝明八王列傳

李陳龐陳橋列伝

原文李陳龐陳橋列傳

第四十一

原文第四十一

崔駰列伝

原文崔駰列傳

李恂

原文李恂

李恂は字あざなを叔英といい、安定郡臨涇県の人である。若い頃に韓詩を学び、数百人の学生を常に教授していた。太守の潁川郡出身の李鴻が功曹に任命しようと請うたが、赴任する前に、州から従事に辟召された。ちょうど李鴻が死去したため、李恂は州の命令に応じず、李鴻の喪を送って故郷に帰った。葬儀が終わると、墓のそばに留まり、喪に服すること三年に及んだ。注[一]韓嬰が伝えた詩である。

原文李恂字叔英,安定臨涇人也。少習韓詩,[一]教授諸生常數百人。太守穎川李鴻請署功曹,未及到,而州闢為從事。會鴻卒,恂不應州命,而送鴻喪還鄉里。既葬,留起頤墳,持喪三年。  注[一]韓嬰所傳詩也。

司徒桓虞の府に辟召された。後に侍御史に任ぜられ、節を持って幽州に使いし、恩沢を宣布し、北狄を慰撫した。通過した土地の山川、屯田、集落をすべて図面に写し、百余巻にまとめてことごとく封をして上奏した。粛宗はこれを賞賛した。兗州刺史に任ぜられた。清廉倹約をもって下を率い、常に羊皮を敷き、布の衾を用いた。張掖太守に転じ、威厳と重みのある名声があった。当時、大将軍竇憲が兵を率いて武威に駐屯しており、天下の州郡は遠近を問わず礼を整えて贈り物をしたが、李恂は公に奉じてへつらわず、竇憲によって奏上され免官された。

原文辟司徒桓虞府。後拜侍御史,持節使幽州,宣佈恩澤,慰撫北狄,所過皆圖寫山川、屯田、聚落百餘卷,悉封奏上,肅宗嘉之。拜兗州刺史。以清約率下,常席羊皮,服布被。遷張掖太守,有威重名。時大將軍竇憲將兵屯武威,天下州郡遠近莫不修禮遺,恂奉公不阿,為憲所奏免。

後に再び謁者に征召され、節を持って西域副校尉を兼任した。西域は豊かで、珍しい宝物が多く、諸国の侍子や督使、胡人の商人たちがしばしば李恂に奴婢、大宛の馬、金銀、香、毛織物などを贈ったが、一切受け取らなかった。北匈奴がたびたび西域の車師、伊吾を遮断し、隴沙以西への使者の往来を妨げたため、李恂は懸賞を設け、ついに敵の将帥を斬り、その首を軍門にさらした。これ以来、道路は平穏になり、威厳と恩恵がともに行き渡った。注[一]督使は、蕃国の使者を主管する者である。賈胡は、胡人の商人である。

原文後復征拜謁者,使持節領西域副校尉。西域殷富,多珍寶,諸國侍子及督使賈胡[一]數遺恂奴婢、宛馬、金銀、香罽之屬,一無所受。[二]北匈奴數斷西域車師、伊吾,隴沙以西使命不得通,[三]恂設購賞,遂斬虜帥,縣首軍門。自是道路夷清,威恩並行。  注[一]督使,主蕃國之使也。賈胡,胡之商賈也。

注[二]袁山松の書によると、「西域は諸種の香、石蜜を産出する。」罽とは、毛を織って布にしたものである。

原文注[二]袁山松書曰:「西域出諸香、石蜜。」罽,織毛為布者。

注[三]前書によると、「車師前国の王は交河城に居住した。」伊吾の故城は現在の瓜州晋昌県の北にある。広志によると、「流沙は玉門関の外にあり、東西数百里にわたり、三つの断絶があるので三隴という。」

原文注[三]前書曰:「車師前國王居交河城。」伊吾故城在今瓜州晉昌縣北。廣志曰:「流沙在玉門關外,東西數百里,有三斷名曰三隴也。」

武威太守に転じた。後に事に連座して免官され、歩いて故郷に帰り、山沢に隠れ住み、草を結んで小屋を作り、ただ学生たちと共に蓆を織って自活した。

原文遷武威太守。後坐事免,步歸鄉里,潛居山澤,結草為廬,獨與諸生織席自給。

ちょうど西羌が反乱を起こし、李恂が田舎の家に行ったところを捕らえられた。羌はもとより彼の名声を聞いていたので、釈放して帰した。李恂はこれにより洛陽に赴いて謝罪した。その年は凶作で、司空の張敏、司徒の魯恭らがそれぞれ息子を遣わして食糧を贈ったが、一切受け取らなかった。新安の関の下に移り住み、どんぐりを拾って自活した。九十六歳で死去した。注[一]橡とは、櫟の実である。武帝の元鼎三年に函谷関を新安に移した。

原文會西羌反畔,恂到田舍,為所執獲。羌素聞其名,放遣之。恂因詣洛陽謝。時歲荒,司空張敏、司徒魯恭等各遣子饋糧,悉無所受。徙居新安關下,拾橡實以自資。[一]年九十六卒。  注[一]橡,櫟實也。武帝元鼎三年徙函谷關於新安也。

陳禪

原文陳禪

陳禪は字を紀山といい、巴郡安漢県の人である。郡の功曹に仕え、善人を推挙し悪人を退けることで、郡内の人々から畏敬された。孝廉に察挙され、州から治中従事に辟召された。当時、刺史が上告を受けて賄賂を受け取った罪で、陳禪は取り調べのために護送されることになったが、彼は他の荷物は何も持たず、喪に服するための衣類と棺桶を収める道具だけを持っていた。護送先に到着すると、数え切れないほどの鞭打ちが加えられ、五種類の拷問がすべて行われたが、陳禪の精神と表情は泰然自若としており、供述と応答に変化はなく、結局事件は取り下げられ釈放された。車騎将軍の鄧騭はその名を聞いて彼を辟召し、茂才に推挙した。その頃、漢中の蛮夷が反乱を起こしたため、陳禪を漢中太守に任命した。

原文陳禪字紀山,巴郡安漢人也。仕郡功曹,舉善黜惡,為邦內所畏。察孝廉,州辟治中從事。[一]時刺史為人所上受納臧賂,禪當傳考,[二]無它所繼,但持喪斂之具而已。及至,笞掠無筭,五毒畢加,禪神意自若,辭對無變,事遂散釋。車騎將軍鄧騭聞其名而辟焉,舉茂才。時漢中蠻夷反畔,以禪為漢中太守。

夷賊は平素よりその名声を聞いており、即時に降服した。左馮翊に転任し、入朝して諫議大夫に任じられた。

原文夷賊素聞其聲,實時降服。遷左馮翊,入拜諫議大夫。  注[一]續漢志曰,每州有持中從事也。

注[二]「傳」とは逮捕して取り調べることをいう。

原文注[二]傳謂逮捕而考之也。

永寧元年、西南夷の撣国の王が楽と幻術師を献上した。彼らは火を吐き、自ら体を切り離し、牛や馬の頭を入れ替えることができた。翌年の元会では、庭でこれを演じさせ、安帝と群臣が共に見物し、大いに驚いた。陳禅だけは席を離れて手を挙げ、大声で言った。「昔、斉と魯が夾谷で会合した時、斉が侏儒の楽を演じると、仲尼(孔子)はこれを誅した。また、『鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ』とも言う。帝王の庭に、夷狄の技芸を設けるべきではない。」尚書の陳忠は陳禅を弾劾して上奏した。「古より、合歓の楽は堂で舞い、四夷の楽は門に陳べる。故に詩に『雅をもってし、南をもってし、□任朱離』と云う。今、撣国は流沙を越え、県度を超え、万里を隔てて貢献してきた。これは鄭衛の淫声や佞人の類いではない。それなのに陳禅は朝廷で朝政を誹謗した。陳禅を弾劾し、獄に下すことを請う。」詔があり、収監はせず、左遷して玄菟郡候城の障尉とした。詔して「敢えて任地に赴かぬ者は、妻子と従者の名を上申せよ」と言った。陳禅が赴任した後、朝廷では彼を弁護する声が多かった。折しも北匈奴が遼東に侵入したため、急ぎ陳禅を遼東太守に任命した。胡族はその威厳と強さを恐れ、数百里退却した。陳禅は兵を加えず、ただ役人と兵卒を遣わして慰撫し、道理を説かせた。単于は使者に従って郡に帰還した。陳禅は学宮で礼を行い、道義を説いて彼らを感化した。

原文永寧元年,西南夷撣國王[一]獻樂及幻人,能吐火,自支解,易牛馬頭。明年元會,作之於庭,安帝與腢臣共觀,大奇之。禪獨離席舉手大言曰:「昔齊魯為夾谷之會,齊作侏儒之樂,仲尼誅之。[二]又曰:『放鄭聲,遠佞人。』[三]帝王之庭,不宜設夷狄之技。」尚書陳忠劾奏禪曰:「古者合歡之樂舞於堂,四夷之樂陳於門,故詩云『以雅以南,□任朱離』。[四]今撣國越流沙,踰縣度,[五]  萬里貢獻,非鄭□之聲,佞人之比,而禪廷訕朝政,[六]請劾禪下獄。」有詔勿收,左轉為玄菟候城障尉,[七]詔「敢不之官,上妻子從者名」。禪既行,朝廷多訟之。會北匈奴入遼東,追拜禪遼東太守。胡憚其威強,退還數百里。禪不加兵,但使吏卒往曉慰之,單于隨使還郡。禪於學行禮,為說道義以感化之。

単于は心服し、胡中の珍しい宝物を贈って去った。

原文單于懷服,遺以胡中珍貨而去。  注[一]撣音徒丹反。

『孔子家語』によると、魯の定公が斉の侯と夾谷で会盟した際、孔子が宰相の職務を代行した。斉が宮中の音楽を奏し、俳優や侏儒が王の前で戯れた。孔子は進み出て言った。「庶民が諸侯を侮辱するのは、誅殺に値する罪である。」そこで侏儒を斬り、手足を別々の場所にした。

原文注[二]家語曰,魯定公與齊侯會於夾谷,孔子攝相事。齊奏中宮之樂,倡優侏儒戲於前。孔子趨曰:「匹夫而侮諸侯,罪應誅。」於是斬侏儒,手足異處。

注[三]は論語の孔子の言葉である。

原文注[三]論語孔子之言。

注[四]『詩経』小雅の鼓鐘の詩に「雅と南とを以てし、鑰を以てして僭せず」とある。薛君は「南夷の楽を南という」と述べている。

原文注[四]詩小雅鼓鐘之詩曰:「以雅以南,以鑰不僭。」薛君云:「南夷之樂曰南。

四夷の楽のうち、ただ南方のものだけが雅楽と調和させることができるのは、その人々の音声および籥が過不足なく整っているからである。」周礼によれば、鞮鞻氏が四夷の楽を掌った。鄭玄の注に云う、「東方のものを韎といい、南方のものを任といい、西方のものを朱離といい、北方のものを禁という。」毛詩には「韎任朱離」の文はなく、おそらくは斉や魯の詩に見えたものであろうが、今は失われている。韎の音は昧である。礼記によれば、九夷、八蠻、六戎、五狄が来朝し、明堂の四門の外に立ったという。

原文四夷之樂唯南可以和於雅者,以其人聲音及鑰不僭差也。」周禮,鞮鞻氏掌四夷之樂。鄭玄注云:「東方曰韎,南方曰任,西方曰朱離,北方曰禁。」毛詩無「韎任朱離」之文,蓋見齊、魯之詩也,今亡。韎音昧。禮記曰,九夷、八蠻、六戎、五狄來朝,立於明堂四門之外也。

注[五]前漢書西域伝によると、「県度とは山の名である。渓谷は通じず、縄や索を用いて互いに引き合って渡る。陽関から五千八百八十里の距離にある」という。

原文注[五]前書西域傳曰:「縣度者,山名也。溪谷不通,以繩索相引而度,去陽關五千八百八十里。」

注[六]訕とは、謗ることである。

原文注[六]訕,謗也。

注[七]候城は、県であり、遼東にある。

原文注[七]候城,縣,在遼東。

鄧騭が誅殺され廃された際、禅はかつての部下であったため免職となった。その後、車騎将軍閻顕の長史に復帰した。順帝が即位すると、司隷校尉に昇進した。

原文及鄧騭誅廢,禪以故吏免。復為車騎將軍閻顯長史。順帝即位,遷司隸校尉。

翌年、官職のまま死去した。

原文明年,卒於官。

子澄は清廉な名声があり、官は漢中太守に至った。

原文子澄,有清名,官至漢中太守。

禅の曾孫の宝もまた剛健で壮健であり、禅の風格があり、州の別駕従事となり、州内で名声を顕わした。

原文禪曾孫寶,亦剛壯有禪風,為州別駕從事,顯名州裡。

注[二] 両手で互いに打ち合うことで、策がないことを言う。

原文注[二]兩手相搏,言無計也。

注[三] □の音は如深の反切。杜預が左伝に注して言う:「織□とは、織繒布のことである。」

原文注[三]□音如深反。杜預注左傳云:「織□,織繒布也。」

注[四] 前漢書の鄒陽が呉王を諫めた言葉である。鶚は大鵰である。

原文注[四]前書鄒陽諫吳王之辭也。鶚,大鵰也。

注[五] 前漢書に馮唐が文帝に言ったこと:「臣は聞く、魏尚が雲中の太守となった時、匈奴は遠く避けて、雲中の塞に近づかなかった。功績を上申する文書に一言合わないところがあれば、文吏が法によって彼を裁いた。愚かにも陛下の法はあまりに厳明で、賞はあまりに軽いと考える。」文帝は喜び、その日に馮唐に節を持たせて魏尚を赦し、再び雲中の太守とした。

原文注[五]前書馮唐謂文帝曰:「臣聞魏尚為雲中守,匈奴遠避,不近雲中之塞。上功莫府,一言不相應,文吏以法繩之。愚以為陛下法太明而賞太輕。」文帝悅,是日令唐持節赦魏尚,復以為雲中守也。

注[二] 羌の寇賊によって傷つけられたこと。

原文注[二]為羌寇所傷也。

注[三] 恤は憂えること。不使之人とは、戎虜が凶暴で獰猛で、用いるに堪えないということを言う。

原文注[三]恤,憂也。不使之人謂戎虜凶獷,不堪為用。

注[四] 軍を労して遠方を救うことは、親戚の憂慮となると言う。

原文注[四]言勞師救遠,以為親戚之憂慮。

注[五] 丘は空のこと。

原文注[五]丘,空也。

注[二] 湟は水の名で、今は鄯州にある。

原文注[二]湟,水名,今在鄯州。

注[三] 詩経小雅六月の詩に言う:「鎬及び方を侵し、涇陽に至る。」鄭玄の注に言う:「鎬、方は皆北方の地名である。」

原文注[三]詩小雅六月之詩曰:「侵鎬及方,至於涇陽。」鄭玄注云:「鎬、方皆北方地名。」

注[四] 詩経に言う:「公侯は干城なり。」また言う:「闞として虓虎の如し。」干は扞(防ぐ)こと。虓虎は怒った様子。

原文注[四]詩曰:「公侯干城。」又曰:「闞如虓虎。」干,扞也。虓虎,怒貌也。

注[五] 詩経に言う:「赫赫たる南仲、薄く西戎を伐つ。」周亜夫は漢の将軍であった。赳赳は武勇の様子。

原文注[五]詩曰:「赫赫南仲,薄伐西戎。」周亞夫為漢將。赳赳,武貌。

注[六] 左伝に言う、晋の荀林父が楚の軍と邲で戦い、晋軍は大敗した。林父は死を請うたが、晋侯はそれを許そうとした。

原文注[六]左傳曰,晉荀林父及楚師戰於邲,晉師敗績。林父請死,晉侯欲許之。

士貞子が諫めて言った。「いけない。その敗北は、日月の食のようであり、何が光明を損なうというのか?」晋侯は彼を元の地位に復帰させた。

原文士貞子諫曰:「不可。夫其敗也,如日月之食,何損於明?」晉侯使復其位。

注[七]左伝によると、晋が崤で秦軍を破り、百里孟明視を捕らえたが、後に赦免して帰した。秦伯は言った。「これは私の罪である。」孟明を解任しなかった。

原文注[七]左傳曰,晉敗秦師於崤,獲百里孟明視,後赦而歸之。秦伯曰:「孤之罪也。」不替孟明。

注[八]左伝によると、晋の荀林父が赤狄を破り、遂にこれを滅ぼした。晋侯は林父に狄の臣民千室を賞し、また士貞子に瓜衍の県を賞して言った。「私が狄の土地を得たのは、あなたの功績である。」また言った。「秦伯が晋を討ち、遂に西戎を覇者としたのは、孟明を用いたからである。」

原文注[八]左傳曰,晉荀林父敗赤狄,遂滅之。晉侯賞林父狄臣千室,亦賞士貞子瓜衍之縣,曰:「吾獲狄土,子之功也。」又曰:「秦伯伐晉,遂霸西戎,用孟明也。」

陳龜

原文陳龜

陳龜は字を叔珍といい、上党郡泫氏県の人である。[一]家は代々辺境の将軍であり、弓馬に習熟し、北州で雄を誇った。注[一]泫氏の故城は、現在の沢州高平県である。泫の音は公玄の反切。

原文陳龜字叔珍,上黨泫氏人也。[一]家世邊將,便習弓馬,雄於北州。  注[一]泫氏故城,今澤州高平縣也。泫音公玄反。

陳龜は若い頃から志気があった。永建年間に孝廉に推挙され、五度の昇進を経て五原太守となった。永和五年、使匈奴中郎将に任命された。

原文龜少有志氣。永建中,舉孝廉,五遷五原太守。永和五年,拜使匈奴中郎將。

当時、南匈奴の左部が反乱を起こした。陳龜は単于が部下を制御できず、外見は従順でも内実は背いているとして、急いで自殺を命じた。このことで罪に問われ、獄に下され免官となった。

原文時南匈奴左部反亂,龜以單于不能制下,外順內畔,促令自殺,坐征下獄免。

後に再び昇進し、京兆尹に任命された。当時、三輔の強豪の一族は、多くが小民を侵害し不当な扱いをしていた。陳龜が着任すると、威厳を厳しくし、怨みや理不尽を訴える者を全て公平に処理したので、郡内は大いに喜んだ。

原文後再遷,拜京兆尹。時三輔強豪之族,多侵枉小民。龜到,厲威嚴,悉平理其怨屈者,郡內大悅。

ちょうど羌や胡が辺境を侵し、長吏を殺し、百姓を略奪し駆り立てた。桓帝は陳龜が代々辺境の風俗に通じているとして、度遼将軍に任命した。陳龜は出発に際し、上疏して言った。「臣、陳龜は累代の恩寵を受け、辺境を駆け巡りましたが、たとえ鷹犬としての用を果たし、胡虜の庭で倒れ死に、魂魄と骸骨が戻らず、狐狸に供物とされても、なお厚い責務を果たすことはできず、万分の一にもお答えできません。臣は頑愚で鈍く、器量には鉛刀一割の用もなく、過分に国恩を受け、栄誉と官位の両方を優遇され、生きている間も死ぬ日も、報いることができないことを常に恐れています。臣は聞きます。三辰(日月星)が軌道を外れれば、士を抜擢して宰相とし、

原文會羌胡寇邊,殺長吏,驅略百姓。桓帝以龜世諳邊俗,拜為度遼將軍。龜臨行,上疏曰:「臣龜蒙恩累世,馳騁邊垂,雖展鷹犬之用,頓斃胡虜之庭,魂骸不返,薦享狐狸,猶無以塞厚責,荅萬分也。*(至)*臣*[至]*頑駑,器無鈆刀一割之用,過受國恩,榮秩兼優,生年死日,永懼不報。臣聞三辰不軌,擢士為相;

蛮夷が恭順しなければ、兵卒を抜擢して将軍とすると。臣には文武の才がなく、鷹揚(勇猛)の任を辱うけている。[一]上は聖明な朝廷を辱め、下は素餐(無為徒食)を恐れ、[二]たとえ身を滅ぼしても、何の補いにもなりません。今、西州の辺境は、土地が痩せて硬く、鞍馬を住まいとし、射猟を生業とし、男は耕作の利益に乏しく、女は機織りの豊かさに欠け、塞を守り見張り、命を鋒鏑(刃先や矢先)に懸け、急報を聞けば長駆し、去って戻ることを図りません。近年以来、匈奴はたびたび営郡を攻撃し、[四]長吏を惨殺し、善良な庶民を侮辱し略奪しています。戦士は身を沙漠の肥やしとし、住民は首を馬鞍に繋がれます。あるいは国中が戸を閉ざされ、種族がことごとく滅び、孤児寡婦が空城で号泣し、野に青草なく、家は懸磬(逆さに吊るした磬のように空っぽ)のようです。[五]生気を含んではいても、実は枯れ朽ちたのと同じです。往年、并州では水害と雨害、蝗害こうがいと螟害が相次いで発生し、農作物は荒れ果てて消耗し、租税と更賦(労役代納金)は空しく欠乏しました。[六]老人は一年を全うできないことを憂え、少壮は困窮と苦役を恐れています。陛下は百姓を子とし、万民は陛下を父としています。どうして一日も心を労し、[七]撫循(慰め慈しむ)の恩を垂れられないことがありましょうか!唐堯が自らの子を親しく捨てて虞舜に禅譲したのは、民に聖君に遭わせ、悪い君主に遭わせないようにするためです。[八]ゆえに古公亶父が杖策(策を執って)移住すると、その民は五倍になり、[九]文王が西伯となると、天下は彼に帰しました。[一〇]どうして再び金や宝を車に載せて運び、民への恵みとする必要がありましょうか!近くは孝文皇帝が一人の女子の言葉に感じて、肉刑の法を廃止し、[一一]徳行と仁を体現し、漢の賢主となりました。陛下は中興の正統を継ぎ、光武帝の業績を受け継ぎ、朝廷に臨んで政務を聴かれていますが、まだ聖意を留められていません。しかも州牧や太守が良くないのは、ある者は宦官から出ており、上意に逆らうことを恐れ、目前の過失を取り繕っているからです。

原文蠻夷不恭,拔卒為將。臣無文武之才,而忝鷹揚之任,[一]上籩聖*(朝)**[明]*,下懼素餐,[二]雖歿軀體,無所云補。今西州邊鄙,土地塉埆,[三]鞍馬為居,射獵為業,男寡耕稼之利,女乏機杼之饒,守塞候望,懸命鋒鏑,聞急長驅,去不圖反。自頃年以來,匈奴數攻營郡,[四]殘殺長吏,侮略良細。戰夫身膏沙漠,居人首繫馬鞍。或舉國掩戶,盡種灰滅,孤兒寡婦,號哭空城,野無青草,室如懸磬。[五]雖含生氣,實同枯朽。往歲并州水雨,災螟互生,稼穡荒耗,租更空闕。[六]老者慮不終年,少壯懼於困□。陛下以百姓為子,品庶以陛下為父,焉可不日□勞神,[七]垂撫循之恩哉!唐堯親捨其子以禪虞舜者,是欲民遭聖君,不令遇惡主也。[八]故古公杖策,其民五倍;[九]  文王西伯,天下歸之。[一0]豈復輿金輦寶,以為民惠乎!近孝文皇帝感一女子之言,除肉刑之法,[一一]體德行仁,為漢賢主。陛下繼中興之統,承光武之業,臨朝聽政,而未留聖意。且牧守不良,或出中官,懼逆上旨,取過目前。

嘆き悲しむ声が災害を招き、胡虜の凶悍さが衰勢と隙に乗じています。そして倉庫を豺狼の口に委ね、功業に銖両の重みもなく、全て将帥の不忠と奸悪の輩が集まったことによるものです。前の涼州刺史祝良は、初めて州に任命されてから、多くを糾弾し処罰し、太守や県令・県長の半分近くを貶黜し、政務が時を経ないうちに、功績が卓然と現れました。実に異例の賞を与え、功績と能力を勧奨し、州牧や太守を改任し、奸悪で残忍な者を斥けるべきです。また、匈奴・烏桓・護羌の中郎将や校尉を改めて選び、文武の者を精選し練成し、法令を授け、并州と涼州の今年の租税と更賦を免除し、罪人や奴隷を寛大に赦し、更始(刷新)を行い掃除すべきです。そうすれば善良な官吏は公務に奉ずる福佑を知り、悪い者は私利を図る禍いを悟り、胡馬は長城を窺わず、塞下に見張りの憂いがなくなります。」帝は悟り、幽州・并州の刺史を改めて選び、営郡の太守・都尉以下を多く改革・交代させ、詔を下して「陳将軍のために并州・涼州の一年分の租税を免除し、吏民に賜う」とした。陳龜が職務に就くと、州郡は重足して震え慄き、鮮卑は塞に近づかず、経費は節減され、年間で億単位の節約となった。[一二]注[一]詩経に「維れ師尚父、時に惟れ鷹揚」とある。

原文呼嗟之聲,招致災害,胡虜凶悍,因衰緣隙。而令倉庫單于豺狼之口,功業無銖兩之□,皆由將帥不忠,聚奸所致。前涼州刺史祝良,初除到州,多所糾罰,太守令長,貶黜將半,政未踰時,功□卓然。實應賞異,以勸功能,改任牧守,去斥奸殘。又宜更選匈奴烏桓護羌中郎將校尉,簡練文武,授之法令,除並涼二州今年租更,寬赦罪隸,埽除更始。則善吏知奉公之佑,惡者覺營私之禍,胡馬可不窺長城,塞下無候望之患矣。」帝覺悟,乃更選幽、井刺史,自營郡太守都尉以下,多所革易,下詔「為陳將軍除並、涼一年租賦,以賜吏民」。龜既到職,州郡重足震慄,鮮卑不敢近塞,省息經用,歲以億計。[一二]  注[一]詩曰「維師尚父,時惟鷹揚」也。

注[二]素は空の意。功なくして禄を受けることを素餐という。

原文注[二]素,空也。無功受祿為素餐。

注[三]埆の音は覚、また確。薄い土地をいう。

原文注[三]埆音覺,又音確,謂薄土也。

注[四]郡に屯兵があるものをいう。すなわち護羌校尉が金城に屯し、烏桓校尉が上谷に屯する類い。

原文注[四]謂郡有屯兵者,即護羌校尉屯金城,烏桓校尉屯上谷之類。

注[五]左伝に「室は懸磬の如く、野に青草無し」とある。その家屋が磬を懸けたように何もなく、下に所有するものがないことを言う。

原文注[五]左傳曰:「室如懸磬,野無青草。」言其屋居如磬之懸,下無所有。

注[六]「更」とは卒更銭のことである。

原文注[六]更謂卒更錢也。

注[七]書経に「文王は日中に至るまで、暇を食ういとまがない」とある。

原文注[七]書曰「文王至於日中□,不遑暇食」也。

注[八]史記に「堯は子の丹朱が不肖で、天下を授けるに足りないと知り、舜に譲った。*[舜に授ければ]*天下はその利を得て丹朱は損害を受け、丹朱に授ければ天下は損害を受け丹朱はその利を得る。堯は言った:『ついに天下の損害をもって一人を利することはしない。』ついに舜に天下を授けた」とある。

原文注[八]史記曰「堯知子丹朱不肖,不足授天下,乃推授舜。*[授舜]*則天下得其利而丹朱病,授丹朱則天下病而丹朱得其利。堯曰:『終不以天下之病而利一人。』卒授舜以天下」也。

注[九]帝王世紀に「古公亶父、これが太王であり、百姓に慕われた。狄人が攻めてきて、皮幣や玉帛を贈って事としたが、免れることができなかった。王はついに杖を執って去り、梁山を越え、岐山の南に留まり、周の地に都した。豳の人が従う者は市に帰るようで、一年で邑ができ、二年で都ができ、三年でその初めの五倍になった」とある。

原文注[九]帝王世紀曰「古公但甫,是為太王,為百姓所附。狄人攻之,事之以皮幣玉帛,不能免焉。王遂杖策而去,踰梁山,止於岐山之陽,邑於周地。豳人從者如歸巿,一年成邑,二年成都,三年五倍其初」也。

注[一〇]帝王世紀に西伯(周の文王)は至仁であり、百姓は幼児を背負ってやって来た。

原文注[一0]帝王世紀曰西伯至仁,百姓襁負而至。

注[一一]女子とは太倉令淳于公の娘の緹縈のことである。事績は前漢書に見える。

原文注[一一]女子即太倉令淳于公之女緹縈也。事見前書。

注[一二]経とは、常のことである。

原文注[一二]經,常也。

大将軍梁冀はもとより陳亀と不和があり、彼が国威を損ない、功績と名誉を独り占めにしたと讒言し、胡虜に畏れられていないと訴えた。罪に問われて召還され、そこで骸骨を乞うて郷里に帰った。再び尚書として召された。梁冀の暴虐が日増しに甚だしくなったので、陳亀は上疏してその罪状を述べ、誅殺を請うた。

原文大將軍梁冀與龜素有隙,譖其沮毀國威,挑取功譽,[一]不為胡虜所畏。坐征還,遂乞骸骨歸田裡。復征為尚書。冀暴虐日甚,龜上疏言其罪狀,請誅之。

帝は省みなかった。自ら必ず梁冀に害されることを知り、七日間食事をせずに死んだ。西域の胡夷や、并州・涼州の民衆は皆、哀悼の意を表し、その墓を弔祭した。  注[一]挑取とは独りで取るようなものである。独りでその名を取るのは、挑戦の意味に似ている。

原文帝不省。自知必為冀所害,不食七日而死。西域胡夷,並、涼民庶,鹹為舉哀,吊祭其墓。  注[一]挑取猶獨取也。獨取其名,如挑戰之義。

橋玄

原文橋玄

橋玄は字を公祖といい、梁国睢陽の人である。七世の祖の仁は、同郡の戴徳に学び、礼記章句四十九篇を著し、「橋君学」と号された。成帝の時に大鴻臚となった。祖父の基は広陵太守、父の肅は東萊太守であった。

原文橋玄字公祖,梁國睢陽人也。七世祖仁,從同郡戴德學,著禮記章句四十九篇,號曰「橋君學」。成帝時為大鴻臚。祖父基,廣陵太守。父肅,東萊太守。

橋玄は若くして県の功曹となった。時に豫州刺史の周景が管区巡行で梁国に来たとき、橋玄は周景に謁見し、地に伏して陳国の相である羊昌の罪悪を述べ、部陳従事として任命を請い、その奸悪を徹底的に糾明しようとした。周景は橋玄の志に感心し、職に任じて派遣した。橋玄が到着すると、羊昌の賓客をことごとく捕らえ、収賄の罪を詳細に取り調べた。羊昌はもとより大将軍梁冀に厚遇されていたので、梁冀は急使を走らせて救おうとした。周景はその意を受けて橋玄を召還したが、橋玄は檄文を返送して開封せず、取り調べをますます厳しくした。羊昌は檻車で召還される罪に問われ、橋玄はこれによって著名になった。  注[一]部とは領することである。

原文玄少為縣功曹。時豫州刺史周景行部到梁國,玄謁景,因伏地言陳相羊昌罪惡,乞為部陳從事,[一]窮案其奸。景壯玄意,署而遣之。玄到,悉收昌賓客,具考臧罪。昌素為大將軍梁冀所厚,冀為馳檄救之。景承旨召玄,玄還檄不發,案之益急。昌坐檻車征,玄由是著名。  注[一]部猶領也。

孝廉に挙げられ、洛陽左尉を補任した。時に梁不疑が河南尹であったが、橋玄は公務で府に赴き対決しなければならず、その侮辱を受けることを恥じて、官を辞して郷里に帰った。後に四度の昇進を経て斉の相となったが、事件に連座して城旦の刑に処された。刑期が終わると召還され、再び昇進して上谷太守となり、また漢陽太守となった。時に上邽県令の皇甫禎に収賄の罪があり、橋玄は彼を捕らえて取り調べ、髪を剃り笞打ちにし、冀県の市で死なせたので、一帯が震え上がった。

原文舉孝廉,補洛陽左尉。[一]時梁不疑為河南尹,玄以公事當詣府受對,恥為所辱,□官還鄉里。後四遷為齊相,坐事為城旦。刑竟,征,再遷上谷太守,又為漢陽太守。時上邽令皇甫禎有臧罪,玄收考髡笞,死於冀巿,[二]一境皆震。

郡の者で上邽の姜岐は、道を守り隠居しており、西州に名声が聞こえていた。橋玄は彼を召し出して吏としようとしたが、病気を理由に就任しなかった。橋玄は怒り、督郵の尹益に命じて強制的に連行させ、「姜岐が来なければ、その母を嫁がせよ」と言った。尹益は固く争ったが聞き入れられず、急いで姜岐に事情を説明した。姜岐は堅く臥して起きなかった。郡内の士大夫も競って諫めたので、橋玄はやっと止めた。当時、かなり嘲笑された。後に病気を理由に辞任し、再び公車で召されて司徒長史となり、将作大匠に任命された。  注[一]左部尉のことである。

原文郡人上邽姜岐,守道隱居,名聞西州。玄召以為吏,稱疾不就。玄怒,□督郵尹益逼致之,曰:「岐若不至,趣嫁其母。」[三]益固爭不能得,遽曉譬岐。岐堅臥不起。郡內士大夫亦競往諫,玄乃止。時頗以為譏。後謝病免,復公車征為司徒長史,拜將作大匠。  注[一]左部尉也。

注[二]冀は県名で、漢陽郡に属する。

原文注[二]冀,縣名,屬漢陽郡。

注釈[三] 趣の音は促。

原文注[三]趣音促。

桓帝の末、鮮卑、南匈奴および高句驪の嗣子伯固がともに背き、寇掠を行ったため、四府は橋玄を推挙して度遼将軍とし、黄鉞を仮授した。橋玄が任地に着くと、兵士を休養させた後、諸将を督率して守備・討伐にあたり、胡虜および伯固らを撃破して敗走させた。

原文桓帝末,鮮卑、南匈奴及高句驪嗣子伯固並畔,為寇鈔,四府舉玄為度遼將軍,假黃鉞。玄至鎮,休兵養士,然後督諸將守討擊胡虜及伯固等,皆破散退走。

在職三年、辺境は平穏であった。

原文在職三年,邊境安靜。

霊帝の初め、召されて河南尹となり、少府、大鴻臚に転じた。建寧三年、司空に昇進し、司徒に転じた。もともと南陽太守の陳球と不和であったが、公の地位に就くと、陳球を廷尉に推薦した。橋玄は国家が弱体化しているとみて、自らの力が役に立たないと考え、病気と称して上疏し、災異を引き合いに出して自らを弾劾した。そこで策書により罷免された。一年余り後、尚書令に任じられた。当時、太中大夫の蓋升は帝と旧恩があり、以前南陽太守であった時、数億以上の賄賂を収めていた。橋玄は蓋升を免官し禁錮に処し、財貨を没収するよう上奏したが、帝は従わず、かえって蓋升を侍中に昇進させた。橋玄は病気を理由に免職を願い出て、光禄大夫に任じられた。光和元年、太尉に昇進した。数か月後、再び病気で罷免され、太中大夫に任じられ、自宅で治療を受けた。

原文靈帝初,征入為河南尹,轉少府、大鴻臚。建寧三年,遷司空,轉司徒。素與南陽太守陳球有隙,及在公位,而薦球為廷尉。玄以國家方弱,自度力無所用,乃稱疾上疏,引觿災以自劾。遂策罷。歲餘,拜尚書令。時太中大夫蓋升與帝有舊恩,前為南陽太守,臧數億以上。玄奏免升禁錮,沒入財賄。帝不從,而遷升侍中。玄托病免,拜光祿大夫。光和元年,遷太尉。數月,復以疾罷,拜太中大夫,就醫裡捨。

橋玄の末子は十歳で、一人で門の辺りで遊んでいたところ、突然三人の者が杖を持って彼を捕らえ、家に入り楼に登り、橋玄に金品を要求したが、橋玄は与えなかった。

原文玄少子十歲,獨遊門次,卒有三人持杖劫執之,入捨登樓,就玄求貨,玄不與。

しばらくして、司隸校尉の陽球が河南尹、洛陽令を率いて橋玄の家を包囲した。陽球らは彼の子もろとも殺すことを恐れ、急いで攻撃しようとしなかった。

原文有頃,司隸校尉陽球率河南尹、洛陽令圍守玄家。球等恐並殺其子,未欲迫之。

橋玄は目を怒らせて叫んだ。「奸人は道理をわきまえぬ。橋玄が一人の子の命のために国賊を逃がすことがあろうか!」兵士に進撃を促した。そこで攻撃し、橋玄の子も死んだ。橋玄は宮門に赴き罪を謝し、天下に布告するよう請願した。「人質を取る者があれば、皆殺しにせよ。財宝で身代金を払ってはならず、奸人の道を開いてはならない。」詔書により彼の上奏文が下された。初め、安帝以後、法禁は次第に緩み、都では人質を取ることが横行し、豪族や貴人をも避けなかったが、これ以後絶えた。

原文玄瞋目呼曰:「奸人無狀,玄豈以一子之命而縱國賊乎!」促令兵進。於是攻之,玄子亦死。玄乃詣闕謝罪,乞下天下:「凡有劫質,皆並殺之,不得贖以財寶,開張奸路。」詔書下其章。初自安帝以後,法禁稍□,京師劫質,不避豪貴,自是遂絕。

橋玄は光和六年に死去した。七十五歳であった。橋玄は性質が剛直で短気で大局観に欠けたが、謙虚で倹約し、士人を尊重し、子弟や親族で大官になった者はなかった。死去した時、家に財産はなく、葬儀を行う場所もなかった。当時の人々は彼を称えた。

原文玄以光和六年卒,時年七十五。玄性剛急無大體,然謙儉下士,子弟親宗無在大官者。及卒,家無居業,喪無所殯,當時稱之。

初め、曹操が微賤の時、人々は彼を知らなかったが、かつて橋玄を訪ねたことがあり、橋玄は彼を見て異才を感じ、「今、天下は乱れようとしている。民を安んずる者は、あなたであろうか」と言った。曹操は常にこの知己の言葉に感謝していた。後に橋玄の墓の前を通るたびに、悲しみ慟哭して祭礼を行った。自らその文を作り、次のように言った。

原文初,曹操微時,人莫知者,嘗往候玄,玄見而異焉,謂曰:「今天下將亂,安生民,者其在君乎!」操常感其知己。及後經過玄墓,輒淒愴致祭。自為其文曰:

「故太尉橋公は、美しい徳と高い行いを持ち、広く人を愛し寛容であった。国はその明らかな教訓を思い、士人はその立派な謀略を慕う。その霊魂はひっそりと隠れ、はるか遠くにある。曹操は幼少の頃、堂室に昇る機会を得、特に頑なな資質ながら、君子に受け入れられた。栄誉を増し、見識を深めたのは、すべてあなたの助けによるものであり、仲尼が顔淵に及ばないと言い、李生が賈復を深く賞賛したのと同じである。士は知己のために死ぬ。この思いを忘れない。また、かつての穏やかな約束の言葉を承っている。『私が死んだ後、道すがら私の墓を通る時、一盃の酒と一羽の鶏でもって酒を注いでくれ。車が三歩通り過ぎたら、腹痛が起きても怨むなよ。』これは一時の戯れの言葉ではあるが、至親の篤い親しみがなければ、どうしてこのような言葉を言えようか。昔を思い懐かしみ、思うと悲しみに沈む。

原文「故太尉橋公,懿德高軌,泛愛博容。國念明訓,士思令謨。幽靈潛翳,□哉緬矣!操以幼年,逮升堂室,特以頑質,見納君子。增榮益觀,皆由□助,猶仲尼稱不如顏淵,[一]李生厚歎賈復。[二]士死知己,懷此無忘。又承從容約誓之言:『徂沒之後,路有經由,不以鬥酒隻雞過相沃酹,車過三步,腹痛勿怨。』雖臨時戲笑之言,非至親之篤好,胡肯為此辭哉?懷舊惟顧,念之淒愴。[三]  奉命東征,屯次鄉里,北望貴土,乃心陵墓。裁致薄奠,公其享之!」[四]  注[一]論語孔子謂子貢曰:「汝與回也孰愈?」子貢曰:「賜也何敢望回。」子曰:「吾與汝俱不如也。」

注釈[二] 賈復は若くして学問を好み、舞陰の李生に師事した。李生は彼を奇異とし、「賈君は国の器である」と言った。

原文注[二]復少好學,師事舞陰李生。李生奇之,曰:「賈君國器也。」

注釈[三] 惟は思うの意。

原文注[三]惟,思也。

注釈[四] 魏志に「建安七年、曹公は譙に軍を進め、ついで浚儀に至り、使者を遣わして太牢をもって橋玄を祀り、官度に進軍した」とある。

原文注[四]魏志曰「建安七年,曹公軍譙,遂至浚儀,遣使以太牢祀橋玄,進軍官度」也。

橋玄の子の羽は、任城相の官に至った。

原文玄子羽,官至任城相。

史論

原文史論

注[二]易経に言う、「道を履むこと坦坦たり、幽人貞吉なり」と。

原文注[二]易曰:「履道坦坦,幽人貞吉。」

注[三]橋玄が姜岐を捨てたのは、道が背くべからざるものであるため、威力をもって強いることができなかったからである。

原文注[三]橋玄之捨姜岐,以道不可違,故不得以威力逼也。

注[四]鄭玄が論語に注して言う、「匹夫の志を守ることは、三軍の死将よりも重いものである」と。

原文注[四]鄭玄注論語云:「匹夫之守志,重於三軍之死將者也。」

注[五]高士伝に言う、段干木は晋の人である。道を守り仕官しなかった。魏の文侯がその門を訪れると、段干木は垣を越えて避けた。

原文注[五]高士傳曰,段干木者,晉人也。守道不仕。魏文侯造其門,段干木踰牆而避之。

注[六]洩柳は魯の賢人である。魯の穆公の時、彼に会おうと請うたが、洩柳は門を閉じて受け入れなかった。事は孟子に見える。

原文注[六]洩柳,魯之賢人也。魯穆公時,請見之,洩柳閉門而不納。事見孟子。

校勘記

原文校勘記

一六八四頁一〇行 州が治中従事に辟召した。按ずるに、集解が引く銭大昕の説によれば、章懐(李賢)は唐の諱いみなを避け、凡そ「治」の字を「理」と改め、あるいは「化」と改め、あるいは「持」と改めた。この「治中」の字も必ず改易されたものであり、宋の時代の校書者がまた元に戻して改めたものである。

原文一六八四頁一0行州辟治中從事按:集解引錢大昕說,謂章懷避唐諱,凡「治」字或改為「理」,或改為「化」,或改為「持」,此「治中」字亦必改易,宋人校書者又回改耳。

一六八四頁一三行 夷賊は元よりその名声を聞いていた。按ずるに、汲古閣本、殿本では「聲」の上に「名」の字がある。

原文一六八四頁一三行夷賊素聞其聲按:汲本、殿本「聲」上有「名」字。

一六八五頁七行 韎任朱離。按ずるに、集解が引く銭大昕の説によれば、この句の上下には脱落した文があるはずで、必ずしも詩にこの語があるとは限らない。

原文一六八五頁七行韎任朱離按:集解引錢大昕說,謂此句上下當有脫文,未必詩有此語。

一六八五頁一五行 手足が別々の場所に。刊誤は「手」は「首」とすべきだと言う。今按ずるに、史記孔子世家も「手足異處」と作し、ただ穀梁伝は「首足異門而出」と作す。劉氏はおそらく穀梁伝に拠って言ったのであろう。

原文一六八五頁一五行手足異處刊誤謂「手」當作「首」。今按:史記孔子世家亦作「手足異處」,惟谷梁傳作「首足異門而出」,劉氏殆據谷梁傳言也。

一六八六頁三行 毛詩には韎任朱離の文がない。按ずるに、集解が引く黄山の説によれば、賢注が引く薛君の韓詩説には「韎任朱離」に及んでおらず、これは韓詩にもこの句がないことを示し、毛詩だけではない。今「毛詩に無し」と言うが、「毛」の字は後人の妄改であろう。注が毛伝に及んでいないならば、必ずや韓詩を捨てて毛詩を論じることはない。

原文一六八六頁三行毛詩無韎任朱離之文按:集解引黃山說,謂賢注引薛君韓詩說,不及「韎任朱離」,是韓詩亦無此句,不獨毛詩也。今曰毛詩無,「毛」字當為後人妄改。注不及毛傳,必不捨韓而計毛也。

一六八六頁六行 県度とは山の名である。按ずるに、前漢書西域伝では「山名也」を「石山也」と作し、これは食い違う。

原文一六八六頁六行縣度者山名也按:前書西域傳「山名也」作「石山也」,此鬥。

章帝紀の注が引くところでは「石山也」と作し、食い違わない。

原文章帝紀注引作「石山也」,不鬥。

一六八六頁六行 陽関を去ること五千八百八十里。按ずるに、前漢書では「八十里」を「八十八里」と作す。

原文一六八六頁六行去陽關五千八百八十里按:前書「八十里」作「八十八里」。

一六八九頁一〇行 ようやく再び都令居に戻ることができた。按ずるに、集解が引く黄山の説によれば、通鑑では「都」を「治」と作し、これは唐の諱を避けて改めたものである。

原文一六八九頁一0行始復得還都令居按:集解引黃山說,謂通鑒「都」作「治」,此避唐諱改。

一六九一頁一行(順帝時)とあるが、沈欽韓は、上に永建元年の事があるので、この「順帝時」の三字は衍文であるという。今これに従って削除する。

原文一六九一頁一行*(順帝時)*以為太尉沈欽韓謂上有永建元年事,此「順帝時」三字衍文。今據刪。

一六九一頁五行「夫國以賢化」とあるが、集解が引く惠棟の説によれば、「化」は「治」とすべきであるという。按ずるに、これも章懐太子が避諱のために改めたものであろう。

原文一六九一頁五行夫國以賢化集解引惠棟說,謂「化」當作「治」。按:此亦章懷避諱改。

一六九一頁九行「言其來歸」とあるが、刊誤は「言其」は「其言」とすべきであるという。按ずるに、今本の公羊伝は「其言」と作る。

原文一六九一頁九行言其來歸何刊誤謂「言其」當作「其言」。按:今本公羊傳作「其言」。

一六九一頁一三行「良字邵平」とあるが、按ずるに、集解が引く惠棟の説によれば、長沙耆舊伝は「字邵卿」とし、水経注も「邵卿」と作るので、章懐注が誤っているという。

原文一六九一頁一三行良字邵平按:集解引惠棟說,謂長沙耆舊傳作「字邵卿」,水經注亦作「邵卿」,章懷注誤。

一六九二頁八行「(至)臣[至]頑駑」とあるが、刊誤に従って改める。

原文一六九二頁八行*(至)*臣*[至]*頑駑據刊誤改。

一六九二頁一0行「上籩聖(朝)[明]」とあるが、汲本・殿本に従って改める。

原文一六九二頁一0行上籩聖*(朝)**[明]*據汲本﹑殿本改。

一六九四頁四行「乃推授舜[授舜]則天下得其利而丹朱病」とあるが、刊誤は史記本文を案ずると、さらに「授舜」の二字があるという。今これに従って補う。

原文一六九四頁四行乃推授舜*[授舜]*則天下得其利而丹朱病刊誤謂案史記本文,更有「授舜」二字。今據補。

一六九五頁一行「七世祖仁從同郡戴德學」とあるが、按ずるに、「戴德」は「戴聖」とすべきである。集解が引く朱彝尊の説によれば、前書儒林伝を案ずると、仁は小戴の学を伝えたのであり、ここに「戴德」とあるのは誤りであろうという。

原文一六九五頁一行七世祖仁從同郡戴德學按:「戴德」當作「戴聖」。集解引朱彝尊說,謂案前書儒林傳,仁傳小戴之學,此云「戴德」,恐誤。

一六九五頁二行「成帝時為大鴻臚」とあるが、按ずるに、集解が引く洪亮吉の説によれば、前書百官表を案ずると、平帝の元始元年に初めて大鴻臚橋仁とあるので、ここに「成帝時」とあるのは誤りであるという。

原文一六九五頁二行成帝時為大鴻臚按:集解引洪亮吉說,謂案前書百官表,平帝元始元年始雲大鴻臚橋仁,今言「成帝時」,誤。

一六九五頁三行「陳相羊昌」とあるが、按ずるに、集解が引く何焯の説によれば、「羊」は旧抄の広川書跋では「芊」と作るという。

原文一六九五頁三行陳相羊昌按:集解引何焯說,謂「羊」舊抄廣川書跋作「芊」。

一六九六頁一四行「玄以光和六年卒時年七十五」とあるが、集解が引く惠棟の説によれば、橋公廟碑には「七年五月甲寅、以太中大夫薨於京師」とある。橋公の二つの碑はいずれも光和七年と云うので、伝が誤っているのであろうと疑う。また侯康の説を引けば、玄が七十五歳で卒したのに、蔡伯喈の西鼎銘が光和元年に玄について「犬馬齒七十」と載せていることからすれば、実際には六年に卒したのであり、伝は誤っていないという。今按ずるに、光和七年十二月己巳に中平と改元したので、もし橋公廟碑に従うならば、「中平元年」と書くべきであろう。

原文一六九六頁一四行玄以光和六年卒時年七十五集解引惠棟說,謂橋公廟碑「七年五月甲寅,以太中大夫薨於京師」。案橋公二碑皆雲光和七年,疑傳誤也。又引侯康說,謂玄卒時年七十五,而蔡伯喈西鼎銘載玄於光和元年有「犬馬齒七十」之語,則實卒於六年,傳不誤。今按:光和七年十二月己巳改元中平,如依橋公廟碑,則當書「中平元年」。

一六九六頁一五行「家無居業」とあるが、按ずるに、集解が引く惠棟の説によれば、張璠の漢記では「居業」を「余業」と作るという。

原文一六九六頁一五行家無居業按:集解引惠棟說,謂張璠漢記「居業」作「余業」。

一六九七頁二行「懿德高軌」とあるが、三国志魏志注では「誕敷明德」と作る。

原文一六九七頁二行懿德高軌按:三國魏志注作「誕敷明德」。

一六九七頁三行「幽靈潛翳□哉緬矣」とあるが、魏志注では「靈幽體翳、邈哉晞矣」と作る。

原文一六九七頁三行幽靈潛翳□哉緬矣按:魏志注作「靈幽體翳,邈哉晞矣」。

一六九七頁三行「特以頑質見納君子」とあるが、魏志注では「特以頑鄙之姿、為大君子所納」と作る。

原文一六九七頁三行特以頑質見納君子按:魏志注作「特以頑鄙之姿,為大君子所納」。

一六九七頁四行目、すべて□助によるものとある。按:魏志注も同じ。汲本・殿本では「助」を「勖」と作る。

原文一六九七頁四行皆由□助按:魏志注同,汲本﹑殿本「助」作「勖」。

一六九七頁五行目、徂沒之後とある。按:魏志注では「沒」を「逝」と作る。

原文一六九七頁五行徂沒之後按:魏志注「沒」作「逝」。

一六九七頁五行目、腹痛勿怨とある。按:魏志注では「怨」を「怪」と作る。

原文一六九七頁五行腹痛勿怨按:魏志注「怨」作「怪」。