漢書かんじょごかんじょ

巻五十・巻五十 孝明八王列伝 第四十

千乗哀王劉建

千乗哀王劉建は、永平三年に封ぜられた。翌年に薨去した。年少で子がなく、国は除かれた。

陳敬王劉羨

陳敬王劉羨は、永平三年に広平王に封ぜられた。建初三年、役人が上奏して、劉羨を鉅鹿王劉恭、楽成王劉党とともに国へ赴かせるよう求めた。粛宗(章帝)は情愛が厚く、諸王との別離を忍びず、結局みな京師に留めた。翌年、地図を調べて、諸王国の戸口数をすべて等しくし、租税の歳入をそれぞれ八千万銭とした。劉羨は経書に広く通じ、威厳があり、諸儒と白虎殿で講論した。

七年、帝は広平が北にあり、辺境の費用が多いとして、劉羨を西平王に移封し、汝南郡の八県を分けて国とした。帝が崩御すると、遺詔により陳王に移封され、淮陽郡を食邑とし、その年に国へ赴いた。三十七年間王位にあり、薨去した。子の思王劉鈞が嗣いだ。

(注[一]広平は県で、故城は現在の洺州永年県の北にある。)

(注[二]西平は県で、汝南郡に属する。)

劉鈞が立つと、多くの不法行為を行い、ついに天子の大射の礼を執り行った。性質は陰険で残忍、法律の条文を好み、国相や二千石の官で自分と気が合わない者は、ひそかに陥れた。敬王の夫人李儀らを憎み怨み、永元十一年、ついに食客の隗久に命じて李儀の家族を殺害させた。

役人が隗久を捕らえ、長平の獄につないだ。劉鈞は証言を断ち切ろうと、また食客に命じて隗久を奪い出して殺させた。事が発覚し、役人が上奏して弾劾した。劉鈞は西華、項、新陽の三県を削られる罪に問われた。十二年、劉鈞の六人の弟を列侯に封じた。後に劉鈞が掖庭から出された女の李嬈を側室にしたことで、また圉、宜祿、扶溝の三県を削られる罪に問われた。永初七年、敬王の孫の安国を耕亭侯に封じた。

(注[一]天子が祭祀を行う前に、士を選んで射ることを大射という。大射の礼では、三つの侯(的)を張る。虎侯、熊侯、豹侯で、猛獣を服させることを示し、いずれもその皮を方形に切って作る。楽には騶虞の曲を用い、九節ある。謝承の『後漢書』に「陳国の戸曹史高慎が国相に諫めて言った。『諸侯は猪を射、天子は熊を射る。八彝六樽、礼の数は同じではない。昔、季氏が朱干(赤い盾)と玉戚(玉飾りの斧)を設けて大夏の舞を舞わせた。左伝に言う。「名と器だけは、人に貸してはならない。」奢り僭上の兆しは、聞き入れるべきではない。』そこで諫争が合わず、王に非難され、司寇の罪に問われた」とある。)

(注[二]「久」はある本では「文」と作る。)

(注[三]長平は県で、陳国に属する。)

(注[四]西華の故城は現在の陳州項水県の西北にある。項は現在の陳州項城県である。新陽の故城は現在の州真陽県の西南にある。)

(注[五]伏侯の『古今注』に「劉番は陽都郷侯、劉千秋は新平侯、劉参は周亭侯、劉寿は楽陽亭侯、劉宝は博平侯、劉旦は高亭侯となった」とある。)

(注[六]嬈の音は寧了の反切。)

(注[七]圉と扶溝はともに陳留郡に属する。宜祿は汝南郡に属する。)

鈞は二十一年間在位して薨去し、子の懐王竦が後を嗣いだ。二年間在位して薨去し、子がなく、国は絶えた。

永寧元年、敬王の子である安壽亭侯崇を立てて陳王とした。これが頃王である。五年間在位して薨去し、子の孝王承が後を嗣いだ。

承が薨去すると、子の愍王寵が後を嗣いだ。熹平二年、国相の師遷が前の相である魏愔と寵が共に天神を祭り、非分の幸いを願ったと追奏し、その罪は不道に至るとした。有司は使者を派遣して取り調べるよう上奏した。この時は勃海王悝を誅殺したばかりであり、霊帝は再び法を加えるに忍びず、詔を下して檻車で愔と遷を北寺詔獄に送り、中常侍の王酺に尚書令しょうしょれい・侍御史と共に審問させた。愔は王と共に黄老君を祭り、長寿の福を求めただけで、他に非分の望みはなかったと述べた。酺らは、愔の職務は匡正にあるのにその行いが正しくなく、遷はその王を誣告し、不道の罪で欺いたと上奏し、皆誅殺された。詔があり、寵は取り調べずに赦免された。

(注[一]霊帝の熹平元年、悝は謀反を誣告され自殺した。)

(注[二]華嶠の書及び宦者伝の諸本は皆「甫」としているが、ここでは「酺」としている。どちらが正しいかは詳らかでない。)

寵は弩の射撃が巧みで、十発十中し、命中箇所は皆同じ場所であった。中平年間、黄巾の賊が起こり、郡県は皆城を捨てて逃走したが、寵は強弩数千張を持ち、軍を出して都亭に駐屯した。国人は元より王が射撃に巧みであると聞いていたため、反叛しようとせず、故に陳国だけが無事であり、百姓で帰順する者は十余万人に及んだ。献帝の初め、義兵が起こると、寵は兵を率いて陽夏に駐屯し、自ら輔漢大将軍と称した。国相の会稽人駱俊は平素から威厳と恩恵があり、当時天下は飢饉で、隣郡の民は多く彼のもとに帰り就いた。俊は資産を傾けて救済し、皆が全活できた。後に袁術が陳国に食糧を求めたが、俊はこれを拒絶した。術は憤慨し、刺客を遣わして俊と寵を騙し討ちで殺害させた。陳国はこれにより破敗した。

(注[一]華嶠の書に曰く、「寵の射撃は、その秘法は天が覆い地が載せるようにし、参連を奇とする。また三微・三小がある。三微を経とし、三小を緯とし、経緯が相将い、万勝の方である。しかし要は機牙にある」という。)

(注[二]軍営を国の都亭に置いた。)

(注[三]県の名。淮陽国に属する。夏の音は公雅の反切。)

(注[四]謝承の書に曰く、「俊は字を孝遠といい、烏傷の人である。孝廉に察挙され、尚書侍郎を補い、抜擢されて陳国相に拝された。人が子を産むと、厚く米肉を贈り、府主の意に通じ、男女を生んだ者は、駱を名とした。袁術が部曲将の張闓に命じ、陽(偽)って私行で陳国に行かせ、俊の所に至らせた。俊は行って酒を飲み、そこで騙し討ちで俊を殺害した。一郡の吏人は父母を喪ったように哀号した」という。)

この時、諸侯国は租禄が復活せず、しばしば略奪に遭い、数日分の食糧を一日で食べ、溝壑に転死する者が非常に多かった。夫人や姬妾の多くは丹陽兵や烏桓に略奪されたという。

彭城靖王恭

彭城靖王恭は、永平九年に霊寿王の号を賜った。十五年、鉅鹿王に封ぜられた。建初三年、江陵王に転封され、南郡を国に改めた。元和二年、三公が江陵は京師の真南にあり、封ずるに適さないと上言したため、六安王に転封され、廬江郡を国とした。粛宗が崩御すると、遺詔により彭城王に転封され、楚郡を食邑とし、その年に国に就いた。

恭は敦厚で威厳があり、挙動に節度があり、吏人は彼を敬愛した。永初六年、恭の子の阿奴を竹邑侯に封じた。

(注[一]美しい名を取ったのであり、下の重熹王も同じである。東観記に「称号を賜ったが、国邑はまだない」とある。)

(注[二]竹邑は県で、はい郡に属し、故城は現在の徐州符離県にある。「竹邑」が「邕」の字になっているものもあるが、転写の誤りである。)

元初三年、劉恭は事があって子の劉酺を怒らせ、劉酺は自殺した。国相の趙牧が状況を上奏し、それに乗じて劉恭が祠祀で悪言を吐き、大逆不道であると誣告して上奏した。有司が誅殺を請うた。劉恭は上書して自らを弁明した。朝廷は彼が平素から行義に優れていることを認め、事実を調査させたが、証拠はなく、趙牧は罪に問われて獄に下された。赦令に会って死罪を免れた。

(注[一]東観記に「劉恭の子の男丁の前妻が物故し、劉酺が丁の小妻を侮慢したので、劉恭は怒り、劉酺を馬小屋に閉じ込めた。劉酺は逃げ出し、夜に彭城県に赴いて上書しようとした。劉恭は従官の倉頭を遣わして帰るよう説得させ、幾度も責めたところ、劉酺は自殺した」とある。)

(注[二]決録注に「趙牧は字を仲師といい、長安ちょうあんの人である。若くして名を知られ、公正をもって称された。春秋を修め、楽恢に師事した。楽恢が直諫して死んだ時、趙牧はその冤罪を陳べて晴らさせた。高第で侍御史・会稽太守となり、いずれも称賛すべき治績を挙げた。劉恭を誣告して上奏した時、安帝はその侵害を疑い、御史の母丘歆を遣わして事実を覆案させた。趙牧は廷尉に下され、赦令に会って誅殺されず、家で没した」とある。)

劉恭は立って四十六年で薨じ、子の考王劉道が嗣いだ。元初五年、劉道の弟三人を郷侯に封じ、劉恭の孫の劉順を東安亭侯に封じた。

(注[一]東観記に「劉丙を都郷侯に、劉国を安郷侯に、劉丁を魯陽郷侯に封じた」とある。)

劉道は立って二十八年で薨じ、子の頃王劉定が嗣いだ。本初元年、劉定の兄弟九人を皆、亭侯に封じた。

(注[一]東観記に「劉定の兄の劉拠を卞亭侯に、弟の劉光を昭陽亭侯に、劉固を公梁亭侯に、劉興を蒲亭侯に、劉延を昌城亭侯に、劉祀を梁父亭侯に、劉堅を西安亭侯に、劉代を林亭侯に封じた」とある。)

劉定は立って四年で薨じ、子の孝王劉和が嗣いだ。劉和は性、至孝であり、太夫人が薨じると、陵のそばで喪に服し、哀毀して礼を過ぎた。傅相がこれを聞かせた。桓帝は詔を下し、牛酒を奉じて王を迎え、宮に還らせた。劉和は賢者を敬い施しを好み、国中から愛された。初平年中、天下大乱となり、劉和は賊の昌務に攻められ、東阿に避難して奔ったが、後に国に還ることができた。

立って六十四年で薨じ、孫の劉祗が嗣いだ。立って七年、魏が禅譲を受けると、崇徳侯に封じられた。

楽成靖王劉党

楽成靖王劉党は、永平九年に重熹王の号を賜り、十五年に楽成王に封じられた。劉党は聡明で、史書に通じ、文字を正すことを好んだ。粛宗(章帝)と同年生まれで、特に親愛した。建初四年、清河郡の遊県・観津県、勃海郡の東光県・成平県、涿郡の中水県・饒陽県・安平県・南深沢県の八県を楽成国に加増した。帝が崩御すると、その年に国に就いた。劉党は苛酷で法度を遵守しなかった。旧来の禁令で宮人は出嫁しても、諸侯国に嫁ぐことはできなかった。かつての掖庭の技人(芸能を持つ女官)の哀置という者がおり、男子の章初の妻となっていたが、劉党は哀置を召し入れて宮中で通じた。章初が上書して告げようとしたので、劉党は恐れ、密かに哀置の姉の焦に賄賂を贈って章初を殺させた。事が発覚すると、劉党は内侍三人を縊り殺して口を封じた。また、かつての中山簡王の傅婢(乳母の類)の李羽生を娶って小妻とした。永元七年、国相がこれを挙奏した。和帝は詔を下し、東光県と鄡県の二県を削った。

(注[一]前漢書及び郡国志によれば、清河郡に游県はない。観津の故城は現在の德州蓨県の東北にあり、東光は滄州東光県の南に、成平は景城県の南に、中水は現在の瀛州楽寿県の西北に、南深沢は現在の定州深沢県の東にある。)

(注[二]哀は姓、置は名である。男子と称するのは、官爵がないためである。)

(注[三]鄡県は鉅鹿郡に属する。鄡の音は羌堯の反切。)

二十五年間在位して薨去し、子の哀王劉崇が後を嗣いだ。二か月間在位して薨去し、子がなく、国は絶えた。

翌年、和帝は劉崇の兄である修侯劉巡を立てて楽成王とした。これが釐王である。十五年間在位して薨去し、子の隠王劉賓が後を嗣いだ。八年在位して薨去し、子がなく、国は絶えた。

(注[一]修県は(及び)[即ち]條県であり、(皆)勃海郡に属する。條の字は或いは「修」と作る。)

翌年、再び済北恵王の子の劉萇を立てて楽成王の後継とした。劉萇が国に到着して数か月後、驕慢で淫らで法に従わず、過失が累積した。冀州刺史と国相が劉萇の罪が不道に至ると上奏した。安帝は詔して言った。「劉萇はその顔には恥じるところがあるが、その心は放逸である。陵廟が最も重んずべきものであり、継承には礼があることを知りながら、敬意を表す節度や厳粛で慎み深い態度を思うことなく、敢えて勝手に犠牲を損ない、芳しい香りを備えなかった。大姫を軽んじ侮り、その教えを畏れなかった。出入りは転覆し、家の中で淫らな行いをし、他人の妻を娶り、婢妾に贈り物をした。役人を殴打し、自分勝手に凶暴であった。過ちと罪はこれ以上なく、甚だ恥ずべきことである。朕は八辟の議を覧て、法に照らして処断するに忍びない。その爵位を臨湖侯に貶す。朕には『則哲』の明がなく、統治が簡略で秩序を失い、大姫を慰め承けることができず、深く嘆息する思いを増すばかりである。」

(注[一]靦は、姡である。顔に姡然として恥じることがないという意味。姡の音は胡八の反切。)

(注[二]『詩経』小雅に「苾苾芬芬、祀事孔明」とある。)

(注[三]大姫とは、劉萇が継いだ母のこと。震は、懼れること。)

(注[四]『周礼』司寇に「八辟をもって邦法に麗す。一に曰く議親の辟、二に曰く議故の辟、三に曰く議賢の辟、四に曰く議能の辟、五に曰く議功の辟、六に曰く議貴の辟、七に曰く議勤の辟、八に曰く議賓の辟」とある。)

(注[五]臨湖は廬江郡に属する。)

(注[六]袁宏の『後漢紀』に「尚書侍郎の冷宏が議して、聖人でなければ過ちがないことはできないので、王太子が生まれると、賢い師傅を立てて訓導する。それゆえ目に悪を見ず、耳に非を聞かず、その社稷を保ち、高明で終わりを全うすることができる。劉萇は藩国で成長し、内には過庭の訓えがなく、外には師傅の道がなく、血気盛んで、突然栄爵を受け、些細な過ちが生じて、遂に不義に陥った。臣は聞く、周官は親族を議し、愚かさを見て赦すと。劉萇は無辜を殺しておらず、譴呵を非とし、赫々たる大悪はない。その租賦を削減し奪って損じ、改過自新させ、心を改めて道に向かわせるべきである」とある。黄香の文集を案ずるに、黄香と冷宏が共に上奏しており、これは黄香の言葉である。)

延光元年、河間孝王の子の劉得を立てて靖王の後を嗣がせた。楽成国が度々廃絶したことに比して、国名を安平と改めた。これが安平孝王である。

三十年在位して薨去し、子の劉続が立った。中平元年、黄巾の賊が起こり、人質に取られ、広宗に囚われた。賊が平定されて国に復した。その年の秋、不道の罪に坐して誅殺された。三十四年間在位し、国は除かれた。

(注[一]現在の貝州宗城県である。隋室の諱を避けて改めた。)

下邳恵王劉衍

下邳恵王劉衍は、永平十五年(72年)に封じられた。劉衍は容貌に優れ、粛宗(章帝)が即位すると、常に側近に仕えた。建初元年(76年)に元服し、詔により劉衍の師傅以下の官属に金帛をそれぞれ差等を付けて賜った。四年(79年)、臨淮郡と九江郡の鍾離・当塗・東城・歴陽・全椒の合わせて十七県を下邳国に加増した。帝が崩御すると、その年に封国に赴いた。劉衍は後に精神錯乱の病にかかり、太子の劉卬が罪を得て廃されると、諸姫妾がこぞって自分の子を後継ぎに立てようと争い、互いに上書して訴えあった。和帝はこれを哀れみ、彭城靖王劉恭を下邳に遣わして嫡庶の別を正させ、子の劉成を太子に立てた。

(注[一] 鍾離は現在の豪州鍾離県の東にある。当塗は県の西南にある。東城は定遠県の東南にある。歴陽は和州の県である。全椒は現在の滁州の県である。)

(注[二] 『東観漢記』に劉恭に賜った詔書を記載している。「皇帝、彭城王に問う。初夏、恙なきや。聞くところによれば、堯は九族を親しみ、万国は協和したとあり、これは書典が称えるところである。下邳王は重篤な病にかかり、精神が混乱して明瞭でなく、家内は平穏でなく、姫妾と嫡庶の間で、諸子が争いを分かち、紛糾して今日に至っている。前太子の劉卬は頑迷で凶悪、道を失い、大辟の刑に陥った。その後、諸子が互いに誣告し合い、今に至るも嫡嗣が誰か定まらず、朕は甚だこれを傷んでいる。ただ王と下邳王とは恩義至親の間柄であり、この国の後嗣を正すのは、王をおいて他に誰があろうか。礼は嫡庶の序を重んじ、春秋の義は大いに正統に居ることを尊ぶ。孔子は言われた。『仁者のみが人を好み、人を憎むことができる』と。仁者を貴ぶのは、その好悪が中正を得ているからである。太子は国の儲嗣である。慎まざるべけんや!王は下邳王の諸子の中で太子となるに足る者を順序立てて名簿に上奏せよ。景風の節に及んで印綬を拝授させよう。」)

劉衍は五十四年間在位して薨去し、子の貞王劉成が後を嗣いだ。永建元年(126年)、劉成の兄二人と恵王の孫二人を皆、列侯に封じた。

劉成は二年間在位して薨去し、子の愍王劉意が後を嗣いだ。陽嘉元年(132年)、劉意の弟八人を郷侯・亭侯に封じた。中平元年(184年)、劉意は黄巾賊に遭い、封国を捨てて逃走した。賊が平定された後、封国に戻り、数ヶ月で薨去した。五十七年間在位し、九十歳であった。

子の哀王劉宜が後を嗣いだが、数ヶ月で薨去し、子がなかったため、建安十一年(206年)に封国は除かれた。

梁節王劉暢

梁節王劉暢は、永平十五年(72年)に汝南王として封じられた。母の陰貴人は寵愛を受け、劉暢は特に愛幸され、封国の租税収入は他の諸侯国の倍であった。粛宗(章帝)が即位すると、先帝の意向に沿って、賞賜と恩寵は甚だ篤かった。建初二年(77年)、劉暢の母方の叔父である陰棠を西陵侯に封じた。四年(79年)、梁王に転封され、陳留郡の郾・寧陵、済陰郡の薄・単父・己氏・成武、合わせて六県を梁国に加増した。帝が崩御すると、その年に封国に赴いた。

(注[一] 西陵は県で、江夏郡に属する。)

(注[二] 郾は現在の許州郾陵県である。寧陵は現在の宋州の県である。薄の故城は現在の曹州考城県の東北にある。単父は現在の宋州の県である。己氏は現在の宋州楚丘県である。成武は現在の曹州の県である。)

劉暢は性質聡明であったが、幼少より貴公子として驕慢で、法度を遵守しないことが多かった。封国に帰った後、悪夢を繰り返し見たため、従官の卞忌が自ら六丁を使役できると称し、夢占いを得意としたので、劉暢はしばしば彼に卜筮させた。また、劉暢の乳母の王礼らも、これに乗じて自ら鬼神の事を見通せると言い、遂に共に気を占い、祠祭して福を求めた。卞忌らは諂媚して、神が「王は天子となるべきである」と告げたと言った。劉暢は内心喜び、彼らと応答した。永元五年(93年)、豫州刺史の梁相が劉暢の不道を上奏し、取り調べたが、供述は服罪しなかった。有司は劉暢を廷尉の詔獄に召還するよう請うたが、和帝は許さなかった。有司が重ねて劉暢の封国を除き、九真に流すよう上奏すると、帝は忍びず、ただ成武・単父の二県を削減しただけだった。劉暢は深く恐れ、上疏して謝罪した。

「臣は天性狂愚で、深宮に生まれ、傅母の手で養育され、左右の者の言葉を信じて惑わされました。封国に帰ってからも、防禁を知りませんでした。従官や侍史が臣の財物を貪り、臣劉暢を惑わしました。臣劉暢には見識がなく、彼らと約束を交わし、自ら死罪に陥っていることを知らず、取り調べに至りました。身震いし、心臓は悸動し、自ら悔いても取り返しがつきません。自らは即座に顕誅に伏すべきものと思い、魂魄は身を離れ、黄泉に分け入る覚悟でした。思いがけず陛下の聖徳により、法を曲げて恩を施し、有司の言を聞き入れず、横に臣を赦免してくださいました。数ヶ月にわたり戦慄し、自ら安んじることができませんでした。上には先帝に背き、陛下に天下の汚れを収めさせたことを思い、誠に息をする気力もなく、筋骨も連ならぬ思いです。臣劉暢は大いなる赦しが二度と得られぬことを知り、自ら誓って身を律し妻子を制約し、二度と出入りして規矩を失わず、二度と横領や浪費を致しません。租税収入に余裕がありますので、睢陽・谷孰・虞・蒙・寧陵の五県の食邑を削減し、残りの四県の食邑をお返ししたいと存じます。臣劉暢には側室三十七人がおりますが、子のない者は本家に帰したいと願います。自ら謹直な奴婢二百人を選び、その他に受領した虎賁・官騎及び諸工技・鼓吹・倉頭・奴婢・兵弩・廄馬は全て元の官署にお返しします。臣劉暢は骨肉の近親として、聖なる教化を乱し、清流を汚し、既に生き長らえることを得て、誠に凶悪な面目をもって再び大宮に住み、大国の食邑を受け、官属を設け、什物を蔵する心はございません。願わくは陛下が大恩を加え、臣が自ら悔いる門を開き、臣に小善を行う道を仮わせてくださり、天下に臣が恩を蒙り、死を去って生に就き、幾分か自ら悔いることができることを知らしめてください。臣は公卿が上奏した臣の罪状の詔書を常に前に置き、昼夜誦読いたします。臣は小人であり、明時を貪り見たい思いから、即座に自ら引退することができません。ただ陛下が臣を哀れみ、わずかな時でも息をつかせてくださいますよう。もしお聞き届けくださらなければ、臣は実に長く生きる顔がなく、地下の黄泉に入り、先帝にお目にかかることもできません。これこそ臣の至誠の心でございます。臣は受領したものの多くをお返ししたいと存じますが、天恩がお許しくださらない恐れがあり、留める分を節量すれば、臣劉暢にとっては十分に余裕があります。」詔書で答えた。「朕は王が至親の一族であり、淳淑の美質を持つことを思う。傅相が不良で、邪を防ぐことができず、有司が紛々と言上するに至った。今、王が深く思い悔い過ちを改め、端直に自らを責めているのを、朕は惻然として傷む。その志は王によるものではなく、過ちはあの小輩にある。一日己に克ち礼に復れば、天下仁に帰す。王は安心静意し、盛んに善徳を率いよ。易に云わないか。『一たび謙れば四つの益あり。小言有りとも終に吉なり』と。強いて食し自ら愛せよ。」

劉暢は固く辞退し、上奏を繰り返したが、結局許されなかった。

(注[一] 六丁とは六甲中の丁神のことである。例えば甲子旬中では、丁卯が神となり、甲寅旬中では、丁巳が神となる類である。役使する方法は、まず斎戒し、その後その神が至り、遠方の物を致させ、吉凶を知ることができる。)

(注[二] 曲平とは、法を曲げて恩を申し、その罪を平らかに処することである。

(注[三]「污」は悪いこと。天下の人々は帝が王を赦免したことを悪いことと見なしたので、天下の悪を収めたと言う。)

(注[四]卞忌と王禮らによることを指す。)

(注[五]易経の謙卦に「天道は盈ちるものを損ない謙を益し、地道は盈ちるものを変えて謙に流れ、鬼神は盈ちるものを害し謙に福し、人道は盈ちるものを憎み謙を好む」とある。謙であることは一つであり、天地神人すべてがこれを益するので、「一謙にして四益」と言う。訟卦の初六に「小言有り、終に吉」とある。王は少し訴訟の言葉はあったが、結局は吉であると言う。)

二十七年間在位して薨去し、子の恭王劉堅が後を嗣いだ。永元十六年、劉堅の弟二人を郷侯・亭侯に封じた。

劉堅は二十六年間在位して薨去し、子の懐王劉匡が後を嗣いだ。永建二年、劉匡の兄弟七人を郷侯・亭侯に封じた。

劉匡は十一年間在位して薨去し、子がなかった。順帝は劉匡の弟で孝陽亭侯の劉成を梁王に封じた。これが夷王である。

二十九年間在位して薨去し、子の敬王劉元が後を嗣いだ。

十六年間在位して薨去し、子の劉彌が後を嗣いだ。四十年間在位し、魏が禅譲を受けると、崇徳侯とされた。

淮陽頃王劉昞

淮陽頃王劉昞は、永平十五年に常山王に封じられ、建初四年に淮陽王に移封され、汝南郡の新安・西華を淮陽国に加増された。

十六年間在位して薨去し、後継者を立てる前に永元二年、和帝が劉昞の末子の劉側を再び常山王に立て、劉昞の後を嗣がせた。これが殤王である。

十三年間在位して薨去した。父子ともに国に行くことはなく、ともに京師に葬られた。劉側には子がなく、その月に兄の劉防の子で侯であった劉章が常山王に立てられた。

和帝は劉章が早く孤児となったことを哀れみ、たびたび賞賜を加えた。延平元年に国に赴いた。

二十五年間在位して薨去した。これが靖王である。子の頃王劉儀が後を嗣いだ。永建二年、劉儀の兄二人を亭侯に封じた。

劉儀は十七年間在位して薨去し、子の節王劉豹が後を嗣いだ。元嘉元年、劉豹の兄四人を亭侯に封じた。

劉豹は八年間在位して死去し、子の劉暠が後を継いだ。三十二年後、黄巾の賊に遭い、国を捨てて逃亡し、建安十一年に封国は除かれた。

済陰悼王劉長

済陰悼王劉長は、永平十五年(72年)に封じられた。建初四年(79年)、東郡の離狐と陳留郡の長垣を済陰国に加増された。十三年間在位し、京師で死去した。子がなかったため、封国は除かれた。

【史論】

論じて言う。晏子は「人は生まれつき豊かで利益を用いるので、それゆえに正しい徳をもってこれを制限し、これを幅利という」と称した。人の情は節度をもってその徳を正す必要があり、それは布帛が幅をもってその規格を成すのと同じである。明帝が諸子を封じた際、租税の歳入は二千万を超えず、馬皇后が増やすよう言っても叶わなかった。賢明であることよ! ただ倹約しただけではない。驕り高ぶって飽くことを知らず、嗜欲は極めることが難しいことを知っていたので、東京(洛陽らくよう)の諸侯で禍敗に至る者はほとんどいなかったのである。

(注[一]左伝によると、斉の景公が晏子に邶殿の邑六十を与えようとしたが、晏子は受けず、言った。「富というものは布帛に幅があるようなもので、それに限度を設けて移り変わらないようにするのです。人は生まれつき豊かで利益を用いるので、それゆえに正しい徳をもってこれを制限し、これを幅利といいます。度を過ぎれば敗亡します。私は多くを貪ることを敢えてしません。これが所謂幅というものです。」)

(注[二]東観明紀によると。「皇子の封は、皆旧制を減じた。かつて輿地図を調べた際、皇后が傍らにいて、鉅鹿・楽成・広平がそれぞれ数県で租穀百万石と述べたが、帝は二千万石で止めるよう命じた。諸小王は皆、おおよそ楚・淮陽と比べて、十のうち三、四を減ずるべきである。『我が子は先帝の子と同等であるべきではない』と。」)

賛して言う。孝明帝は子孫を伝え、城を守る八国を立てた。陳敬王は謹厳で重厚、彭城王は徳が厚かった。下邳王は病に苦しみ、梁節王は邪な事に惑わされた。三藩は若くして亡くなり、ただ荒廃と過ちに陥ったのみである。

(注[一]千乗王・淮陽王・済陰王が共に早世したことを指す。)

校勘記

一六六七頁四行 本書は東観記を指すという。按ずるに、「東」はもと「雲」と誤っており、汲古閣本・殿本に基づいて直接に改正した。

一六六七頁八行 諸儒と白虎殿で講論した。按ずるに、張森楷の校勘記は何焯の説を引いて「殿」は「観」の誤りかと疑う。

一六七〇頁八行 多くが丹陵の兵となる。汲古閣本・殿本に基づいて改めた。按ずるに、殿本考証は監本が「陵」を誤って「陽」としているとし、今改正したという。

一六七一頁五行 劉恭の子の男丁前の妻が物故した。按ずるに、王先謙は今本の東観記に「前」の下に「妻」の字があるのは正しいという。下にまた東観記を引いて、丁が魯陽郷侯となったとあるので、丁は物故しておらず、物故したのはその妻である。今これに基づいて補う。

一六七一頁一二行 劉定の兄弟九人を皆亭侯に封じた。按ずるに、校補は銭大昭の説を引いて、東観記によれば「兄弟八人」とすべきだという。

一六七二頁七行「嫁為男子章初妻」の箇所で、「初」は元々「諸」と誤っており、汲古閣本と武英殿本に基づいて直接訂正した。

一六七三頁四行「修縣*(及)**[即]*條縣*(皆)*屬勃海」の箇所で、集解は沈欽韓の説を引用し、注の「及」は「即」とすべきであり、さらに「皆」の字が衍字であるとしている。今、漢書地理志では「修」とあり、景帝紀と周亞夫傳では「條」とあり、師古は「修音條」と注していることから、修縣は即ち條縣である。沈説が正しいので、これに従って訂正した。

一六七三頁八行「毆擊吏人」の箇所で、「毆」は元々「驅」と誤っており、集解本に基づいて直接訂正した。

一六七四頁二行「尚書侍郎冷宏」の箇所で、汲古閣本では「冷」を「泠」としている。

一六七四頁七行「子續立」の箇所で、汲古閣本では「續」を「績」としている。

一六七四頁一四行「在今豪州」の箇所で、武英殿本では「豪」を「濠」としている。

一六七六頁一行「□今許州郾陵縣也」の箇所で、「□」は汲古閣本では「鄢」、武英殿本では「郾」としている。集解は惠棟の説を引用し、正文の「郾」も注に従って「鄢」とすべきであるとしている。また錢大昕の説を引用し、郡國志では「郾」を「□」としているが、この字も誤りで、「鄢」とすべきであるとしている。校補は、光武紀に「三月,光武別與諸將徇昆陽、定陵、郾,皆下之」とある。その注に「郾,今豫州郾城縣也」とある。章懐太子が既に郾を豫州の郾城と解釈しているので、ここで許州郾陵と言うのは、当然「鄢」であって「郾」ではない。武英殿本の注が「郾」としているのは誤りであるだけでなく、各本の正文が「郾」としているのも全て誤りである。ただ、「鄢」が「□」と表記されるのは、直ちに誤りと指摘すべきではないようである。鄢陵は前漢書地理志と後漢書郡國志のいずれも潁川郡に属し、鄢は前漢書地理志では陳留郡に属し、後漢書郡國志では梁國に属する。字は前漢書地理志ではどちらも「傿」とし、後漢書郡國志ではどちらも「□」としており、「鄢」としているものはない。もしこれを誤りとするならば、前漢書地理志も誤りということになってしまう。

一六七六頁一一行「而令陛下為臣收污天下」の箇所で、集解は顧炎武の説を引用し、「收污」は袁宏の後漢紀では「收恥」、資治通鑑では「受污」としている。

一六七六頁一五行「誠無心面目以凶惡復居大宮」の箇所で、集解は蘇輿の説を引用し、「心」の字は衍字の疑いがあるとしている。

一六七七頁一行「假臣小善之路」の箇所で、武英殿本では「小」を「遷」としている。今、袁宏の後漢紀も「小」としている。

一六七七頁五行「志匪由*(於)**[王]*咎在彼小子」の箇所で、校補は柳從辰の説を引用し、「於」の字は「王」の字の誤りであり、「咎」の字は下に続けて読むべきであるとしている。また、「於」は「王」とすべきであり、錢大昭も既に同様の説を唱えているとしている。これに従って訂正した。

一六七八頁五行「永平*[十]*五年封常山王」の箇所で、校補は錢大昭の説を引用し、「五年」は「十五年」とすべきであり、「十」の字が脱落しているとしている。これに従って補った。

一六七八頁五行「以汝南之新安西華益淮陽國」の箇所で、集解は錢大昕の説を引用し、汝南郡には新安県はなく、「新陽」の誤りの疑いがあるとしている。