後漢書

巻四十二・巻四十二 光武十王列伝 第三十二

巻四十二・巻四十二 光武十王列伝 第三十二

東海恭王劉彊

原文東海恭王彊

東海恭王劉彊。建武二年、母の郭氏が皇后に立てられ、劉彊は皇太子となった。十七年、郭后が廃されると、劉彊は常に憂い、不安を抱き、しばしば側近や諸王を通じて誠意を述べ、藩国としての役割を果たしたいと願った。光武帝は忍びず、数年ためらった後、ようやく許した。十九年、東海王に封ぜられ、二十八年、封国に赴いた。帝は劉彊が過失なく廃され、去就に礼をわきまえていたため、大封をもって優遇した。魯郡も合わせて食邑とし、合わせて二十九県。虎賁・旄頭を賜り、宮殿には鐘虡を設け、天子の乗り物に準じた。劉彊が封国に臨むにあたり、しばしば上書して東海の地を返上しようとし、また皇太子を通じて固辞した。帝は許さず、深く賞賛してその上奏文を公卿に示した。初め、魯恭王は宮室を好み、霊光殿を建てたが、非常に壮麗で、この時もまだ残っていた。そこで詔して劉彊に魯を都とさせた。中元元年、入朝し、泰山封禅に従い、そのまま京師に留まった。翌年春、帝が崩御した。冬、封国に帰った。(虎賁・旄頭・鐘虡の解説は光武紀に見える。県の音は「玄」。魯恭王の名は余、景帝の子。霊光殿は現在の兗州曲阜城の中にあり、旧基は東西二十丈、南北十二丈、高さ一丈余り。)

原文'''東海恭王彊'''。建武二年,立母郭氏為*[皇]*后,彊為皇太子。十七年而郭后廢,彊常戚戚不自安,數因左右及諸王陳其懇誠,願備蕃國。光武不忍,遲囘者數歲,乃許焉。十九年,封為東海王,二十八年,就國。帝以彊廢不以過,去就有禮,故優以大封。兼食魯郡,合二十九縣。賜虎賁旄頭,宮殿設鐘虡之縣,擬於乘輿。〈虎賁、旄頭、鐘虡解見光武紀。縣音玄。〉彊臨之國,數上書讓還東海,又因皇太子固辭。帝不許,深嘉歎之,以彊章宣示公卿。初,魯恭王好宮室,起靈光殿,甚壯麗,是時猶存,〈恭王名余,景帝之子。殿在今兗州曲阜城中,故基東西二十丈,南北十二丈,高丈餘也。〉故詔彊都魯。中元元年入朝,從封岱山,因留京師。明年春,帝崩。冬,歸國。

永平元年、劉彊が病に伏せると、顕宗(明帝)は中常侍鉤盾令に太医を率いさせ、駅伝で病気を見舞わせ、詔して沛王劉輔、済南王劉康、淮陽王劉延を魯に赴かせた。薨去の際、臨終の上疏を奉って謝した。

原文永平元年,彊病,顯宗遣中常侍鉤盾令將太醫乘驛視疾,詔沛王輔、濟南王康、淮陽王延詣魯。及薨,臨命上疏謝曰:

天子はその上書を覧て悲慟し、太后に従って津門亭に出て哀悼の意を表した。司空に節を持たせて喪事を監督させ、大鴻臚を副え、宗正、将作大匠に喪事を見させ、殊礼をもって贈り、升龍・旄頭・鸞輅・龍旗・虎賁百人を加えた。詔して楚王劉英、趙王劉栩、北海王劉興、館陶公主、比陽公主および京師の親戚である四姓の夫人、小侯を皆会葬させた。帝は劉彊が深く謙譲と倹約を守り、厚葬を望まなかったその意志に思いを致し、そこで特に中常侍杜岑と東海国の傅相に詔して言った。「王は恭謙で礼を好み、徳をもって生涯を終えた。葬送の品は、必ず倹約を旨とし、衣は形を覆うに足り、茅車・瓦器とし、品物は定めより減らして、王の卓然として独り行う志を顕彰せよ。将作大匠は留まって陵廟を建てよ。」(津門は洛陽の南面西端の門で、別名を津陽門という。各門には亭がある。四姓の小侯の解説は明帝紀に見える。夫人とは、おそらく小侯の母を指す。前書に「卓獣不群なる者は、河間献王がこれに近い」とある。)

原文天子覽書悲慟,從太后出幸津門亭發哀。〈津門,洛陽南面西頭門也,一名津陽門。每門皆有亭。〉使*(大)*司空持節護喪事,大鴻臚副,宗正、將作大匠視喪事,贈以殊禮,升龍、旄頭、鸞輅、龍旗、虎賁百人。〈解並見光武及明帝紀。〉詔楚王英、趙王栩、北海王興、館陶公主、比陽公主及京師親戚四姓夫人、小侯皆會葬。〈四姓小侯,解見明帝紀。夫人,蓋小侯之母也。〉帝追惟彊深執謙儉,不欲厚葬以違其意,於是特詔中常侍杜岑及東海傅相曰:「王恭謙好禮,以德自終,遣送之物,務從約省,衣足斂形,茅車瓦器,物減於制,以彰王卓爾獨行之志。〈前書曰:「卓獸不腢者,河閒獻王近之矣。」〉將作大匠留起陵廟。」

劉彊は王位に十八年、三十四歳で没した。子の靖王劉政が嗣いだ。劉政は淫欲にふけり行いが卑しい。後に中山簡王が薨じると、劉政は中山に会葬に赴き、密かに簡王の妃徐氏を娶り、また掖庭から出された女を盗み迎えた。豫州刺史と魯相が上奏して劉政の誅罰を請うたが、詔により薛県を削られた。

原文彊立十八年,年三十四。子靖王政嗣。政淫慾薄行。後中山簡王薨,政詣中山會葬,私取簡王姬徐妃,又盜迎掖庭出女。豫州刺史、魯相奏請誅政,有詔削薛縣。

四十四年在位して薨じ、子の頃王劉粛が嗣いだ。永元十六年、劉粛の弟二十一人を皆列侯に封じた。劉粛は謙虚で倹約な性質で、恭王の法度に従った。永初年間、西羌が未だ平定されないため、銭二千万を献上した。元初年間、また絹一万匹を献上して国費を助けた。鄧太后は詔を下して褒め受け入れた。

原文立四十四年薨,子頃王肅嗣。永元十六年,封肅弟二十一人皆為列侯。肅性謙儉,循恭王法度。永初中,以西羌未平,上錢二千萬。元初中,復上縑萬匹,以助國費,鄧太后下詔襃納焉。

二十三年在位して薨じ、子の孝王劉臻が嗣いだ。永建二年、劉臻の二人の弟、劉敏と劉儉を郷侯に封じた。劉臻と弟の蒸郷侯劉儉は共に篤実な行いがあり、母が亡くなると、皆血を吐き目を衰えさせた。喪服を練服(祥後の服)に替える時期になっても、兄弟は父が亡くなった当初を思い、幼かったため哀礼に欠けがあったとして、再び喪制を重ねて行った。劉臻は性質が温厚で恩情があり、常に租税の収入を分けて諸父や兄弟たちを救済した。国相の籍襃が状況を詳細に上聞すると、順帝はこれを称え、大將軍、三公、大鴻臚に詔を下して言った。「東海王劉臻は近い藩国としての尊位にあり、幼くして王爵を襲い、多くの福を受けたが、艱難を知らず、よく己を克し礼に従い、孝敬は自然であり、親に仕えて愛を尽くし、送終には哀しみを極め、身分を下げて士に従い、三年間喪に服した。兄弟と和睦し、孤弱を養い恤れみ、至孝は純粋で完備し、仁義を兼ねて広く行き渡っている。朕は甚だ嘉する。善を勧め俗を励ますことは、国の優先すべきことである。かつて東平孝王劉敞兄弟が孝行し、母の喪を礼に従って行い、戸数を増やす封を受けた。詩に云う『永世に孝を能くし、この皇祖を念う』と。今、劉臻の封を五千戸増やし、劉儉を五百戸増やし、国土を広く啓き、その徳に報いよ。」(眥は「瘠」とする異本もある。祥の後に行う練服のこと。礼記に「練衣は黄裏に縓縁」とある。縓はすなわち紅である。縓の音は七絹反。鄭玄の周礼注に「浅絳なり」とある。左氏伝に「晏桓子が卒した時、晏嬰は麤衰斬、苴絰帯、杖、菅屨、粥を食し、倚廬に居り、苫に寝て草を枕とした。その家老が『これは大夫の礼ではありません』と言った」とある。杜預注に「当時、士と大夫の衰服はそれぞれ異なっていた」とある。詩は周頌の文。克は「能くする」の意。)

原文立二十三年薨,子孝王臻嗣。永建二年|127年,封臻二弟敏、儉為鄉侯。臻及弟蒸鄉侯儉並有篤行,母卒,皆吐血毀眥。〈眥或為瘠。〉至服練紅,兄弟追念初喪父,幼小,哀禮有闕,因復重行喪制。〈既祥之後而服練也。禮記曰:「練衣黃裡縓緣。」縓即紅也。縓音七絹反。鄭玄注周禮曰:「淺絳也。」〉臻性敦厚有恩,常分租秩賑給諸父昆弟。國相籍襃具以狀聞,順帝美之,制詔大將軍、三公、大鴻臚曰:「東海王臻以近蕃之尊,少襲王爵,膺受多福,未知艱難,而能克己率禮,孝敬自然,事親盡愛,送終竭哀,降儀從士,寢苫三年。〈左氏傳曰:「晏桓子卒,晏嬰麤衰斬,苴絰帶,杖,菅屨,食粥,居倚廬,寢苫枕草。其家老曰:『非大夫之禮也。』」杜預注云:「時士及大夫衰服各有不同。」〉和睦兄弟,恤養孤弱,至孝純備,仁義兼弘,朕甚嘉焉。夫勸善厲俗,為國所先。曩者東平孝王敞兄弟行孝,喪母如禮,有增戶之封。詩云:『永世克孝,念茲皇祖。』〈詩周頌之文。克,能也。〉今增臻封五千戶,儉五百戶,光啟土宇,以酬厥德。」

三十一年在位して薨じ、子の懿王劉祗が嗣いだ。初平四年、子の劉琬を長安に遣わして上奏文を奉らせた。献帝は劉琬を汶陽侯に封じ、平原相に任じた。

原文立三十一年薨,子懿王祗嗣。初平四年,遣子琬至長安奉章,獻帝封琬汶陽侯,拜為平原相。

劉祗は四十四年在位して薨じ、子の劉羨が嗣いだ。二十年後、魏が禅譲を受けると、崇徳侯とされた。

原文祗立四十四年薨,子羨嗣。二十年,魏受禪,以為崇德侯。

沛献王劉輔

原文沛獻王輔

沛献王劉輔。建武十五年、右馮翊公に封ぜられた。十七年、郭后が廃されて中山太后となったため、劉輔を中山王に徙封し、常山郡も合わせて食邑とした。二十年、再び沛王に徙封した。

原文'''沛獻王輔''',建武十五年封右*(馮)*翊公。十七年,郭后廢為中山太后,故徙輔為中山王,並食常山郡。二十年,復徙封沛王。

当時、禁令の網目はまだ粗く、諸王は皆京師におり、名声を修めようと競い、四方の賓客への礼を争った。寿光侯劉鯉は、更始帝の子で、劉輔の寵愛を受けた。劉鯉は劉盆子がその父を害したことを怨み、劉輔を通じて客を結び、劉盆子の兄である故式侯劉恭を報復殺害した。劉輔は連座して詔獄に繋がれ、三日後にようやく出ることができた。この後より、諸王の賓客は多く刑罰に坐し、それぞれ法度に従うようになった。二十八年、封国に赴いた。

原文時禁網尚疏,諸王皆在京師,競修名譽,爭禮四方賓客。壽光侯劉鯉,更始子也,得幸於輔。鯉怨劉盆子害其父,因輔結客,報殺盆子兄故式侯恭,輔坐系詔獄,三日乃得出。自是後,諸王賓客多坐刑罰,各循法度。二十八年,就國。

中元二年、劉輔の子劉宝を沛侯に封じた。永平元年、劉宝の弟劉嘉を僮侯に封じた。(僮は県で、臨淮郡に属し、旧城は現在の泗州宿預県の西南にある。)

原文中元二年|57年,封輔子寶為沛侯。永平元年|58年,封寶弟嘉為僮侯。〈僮,縣,屬臨淮郡,故城在今泗州宿預縣西南。〉

輔は威厳があり法度を重んじ、経書を好み、京氏易・孝経・論語伝及び図讖としんを説くことに長け、五経論を著し、当時は沛王通論と称された。国にあっては謹厳に節度を守り、終始一貫しており、賢王と称された。顕宗は彼を敬重し、たびたび賞賜を加えた。

原文輔矜嚴有法度,好經書,善說京氏易、孝經、論語傳及圖讖,作五經論,時號之曰沛王通論。在國謹節,終始如一,稱為賢王。顯宗敬重,數加賞賜。

立って四十六年で薨去し、子の釐王定が嗣いだ。元和二年(85年)、定の弟十二人を郷侯に封じた。

原文立四十六年薨,子釐王定嗣。〈釐音僖,下皆同。〉元和二年|85年,封定弟十二人為鄉侯。

定は立って十一年で薨去し、子の節王正が嗣いだ。元興元年(105年)、正の弟二人を県侯に封じた。

原文定立十一年薨,子節王正嗣。元興元年|105年,封正弟二人為縣侯。

正は立って十四年で薨去し、子の孝王広が嗣いだ。広は持病があった。安帝は詔を下し、広の祖母の周に王家の事を統轄させた。周は公正で法礼に明るく、漢安年間に薨去した。順帝は詔を下して言った。「沛王の祖母である太夫人周は、心を正しく慎み深く保ち、仁をもって王を導き、光禄大夫に妃の印綬を贈らせた。」

原文正立十四年薨,子孝王廣嗣。有固疾。安帝詔廣祖母周領王家事。周明正有法禮,漢安中薨,順帝下詔曰:「沛王祖母太夫人周,秉心淑慎,導王以仁,使光祿大夫贈以妃印綬。」

広は立って三十五年で薨去し、子の幽王栄が嗣いだ。栄は立って二十年で薨去し、子の孝王琮が嗣いだ。琮が薨去すると、子の恭王曜が嗣いだ。曜が薨去すると、子の契が嗣いだ。魏が禅譲を受けると、契は崇徳侯とされた。

原文廣立三十五年薨,子幽王榮嗣。立二十年薨,子孝王琮嗣。薨,子恭王曜嗣。薨,子契嗣;魏受禪,以為崇德侯。

楚王英

原文楚王英

楚王英は、建武十五年に楚公に封ぜられ、十七年に爵位を進めて王となり、二十八年に国に就いた。母の許氏は寵愛を受けなかったため、楚の国は最も貧しく小さかった。三十年、臨淮郡の取慮・須昌の二県を楚の国に加増した。顕宗が太子であった時から、英は常に太子に帰依し、太子は特に彼を親愛した。即位すると、たびたび賞賜を受けた。永平元年、特に英の母方の従兄弟である許昌を龍舒侯に封じた。(取慮は県で、旧城は現在の泗州下邳県の西南にある。案ずるに、臨淮に須昌はなく、昌陽県があるので、おそらく誤りである。取慮の音は「秋閭」。龍舒は県で、廬江郡に属し、旧城は現在の廬州廬江県の西にある。)

原文'''楚王英''',以建武十五年封為楚公,十七年進爵為王,二十八年就國。母許氏無寵,故英國最貧小。三十年,以臨淮之取慮、須昌二縣益楚國。〈取慮,縣,故城在今泗州下邳縣西南。案:臨淮無須昌,有昌陽縣,蓋誤也。取慮音秋閭。〉自顯宗為太子時,英常獨歸附太子,太子特親愛之。及即位,數受賞賜。永平元年,特封英舅子許昌為龍舒侯。〈龍舒,縣,屬廬江郡,故城在今廬州廬江縣西也。〉

英は若い頃は遊侠を好み、賓客と交際したが、晩年はさらに黄老を好み、浮屠(仏陀)の斎戒祭祀を学んだ。八年、詔により天下の死罪は皆、縑を納めて贖罪できることとなった。英は郎中令を遣わし、黄縑と白紈三十匹を国相に奉じて言った。「藩輔に託されている身でありながら、過ちと悪行を積み重ねてきました。大恩を喜び、縑帛を奉送し、罪過を贖いたいと思います。」国相はこれを上聞した。詔は答えて言った。「楚王は黄老の微言を誦し、浮屠の仁祠を尊び、三ヶ月の潔斎を行い、神と誓いを立てている。何の嫌疑があろうか、悔やむようなことがあろうか?その贖罪の品は返し、伊蒲塞(在家信者)や沙門(出家者)の盛大な饗宴の助けとせよ。」これにより、諸国の傅(補佐官)たちに示し知らせた。英はその後、大いに方士と交際し、金の亀と玉の鶴を作り、文字あざなを刻んで符瑞とした。(袁宏漢紀に「浮屠とは仏であり、西域の天竺国に仏道がある。仏とは漢語で『覚』といい、衆生を覚悟させるものである。その教えは修善と慈心を主とし、殺生をせず、もっぱら清静を務める。その精進する者を沙門という。沙門とは漢語で『息』といい、意を息め欲を去って無為に帰することをいう。また人は死しても精神は滅びず、再び形を受けて生まれ、生前の善悪には皆報応があると考える。ゆえに善を行い道を修め、精神を錬って無生に至り仏となることを貴ぶ。仏は丈六尺、黄金色で、項に日月光を佩び、変化に方なく、入らざる所なく、大いに衆生を済う。初め、明帝が金人の長大で項に日月光のあるものを夢見て、群臣に問うた。ある者が『西方に神あり、その名を仏という。陛下の夢見たものは、これではないでしょうか』と言った。そこで使者を天竺に遣わし、その道術を問い、その形像を図画させた」とある。伊蒲塞はすなわち優婆塞で、中華では「近住」と訳し、戒を受けて行い、僧に近づいて住するに堪えることをいう。桑門はすなわち沙門。)

原文英少時好遊俠,交通賓客,晚節更喜黃老,學為浮屠齋戒祭祀。〈袁宏漢紀:「浮屠,佛也,西域天竺國有佛道焉。佛者,漢言覺也,將以覺悟腢生也。其教以修善慈心為主,不殺生,專務清靜。其精者為沙門。沙門,漢言息也,蓋息意去欲而歸於無為。又以為人死精神不滅,隨復受形,生時善惡皆有報應,故貴行善修道,以煉精神,以至無生而得為佛也。佛長丈六尺,黃金色,項中佩日月光,變化無方,無所不入,而大濟腢生。初,明帝夢見金人長大,項有日月光,以問腢臣。或曰:『西方有神,其名曰佛。陛下所夢,得無是乎?』於是遣使天竺,問其道術而圖其形像焉。」〉八年,詔令天下死罪皆入縑贖。英遣郎中令奉黃縑白紈三十匹詣國相曰:「托在蕃輔,過惡累積,歡喜大恩,奉送縑帛,以贖愆罪。」國相以聞。詔報曰:「楚王誦黃老之微言,尚浮屠之仁祠,絜齋三月,與神為誓,何嫌何疑,當有悔吝?其還贖,以助伊蒲塞桑門之盛饌。」〈伊蒲塞即優婆塞也,中華翻為近住,言受戒行堪近僧住也。桑門即沙門。〉因以班示諸國中傅。英後遂大交通方士,作金龜玉鶴,刻文字以為符瑞。

十三年、男子の燕広が、英が漁陽の王平・顔忠らと図書を造作し、謀反の計画があると告発した。事は下って取り調べられた。有司が上奏したところによれば、英は奸猾の徒を招き集め、図讖を造作し、勝手に官秩を授け、諸侯・王公・将軍・二千石を置き、大逆不道であるとして、誅殺を請うた。帝は親族を思う情から忍びず、英を廃して丹陽郡涇県に移し、湯沐邑五百戸を賜った。大鴻臚に節を持たせて護送させ、伎人・奴婢・工技・鼓吹を全て従わせ、輜軿(隠し車)に乗ることを許し、武器や弩を持ち、道中で射猟し、心ゆくまで自ら楽しむことを許した。男女で侯や主となっている者は、食邑を従前通りとした。楚の太后には璽綬じじゅを上納させず、楚の宮殿に留まらせた。(現在の宣州の県。湯沐の解説は皇后紀に見える。軿は「屏」のごとく、自らを隠蔽する車。蒼頡篇に「衣車なり」とある。)

原文十三年,男子燕廣告英與漁陽王平、顏忠等造作圖書,有逆謀,事下案驗。有司奏英招聚姦猾,造作圖讖,擅相官秩,置諸侯王公將軍二千石,大逆不道,請誅之。帝以親親不忍,乃廢英,徙丹陽涇縣,〈今宣州縣也。〉賜湯沐邑五百戶。〈湯沐,解見皇后紀也。〉遣大鴻臚持節護送,使伎人奴婢*(妓士)**〔工技〕*鼓吹悉從,得乘輜軿,〈軿猶屏也,自隱蔽之車。蒼頡篇曰:「衣車也。」〉持兵弩,行道射獵,極意自娛。男女為侯主者,食邑如故。楚太后勿上璽綬,留住楚宮。

翌年、英は丹陽に到着し、自殺した。立って三十三年、国は除かれた。詔により光禄大夫が節を持って弔問し、法に従って贈賵を贈り、列侯の印綬を加賜し、諸侯の礼をもって涇に葬った。中黄門を遣わしてその妻子を守護させた。楚の官属で無関係な者は全て出した。

原文明年,英至丹陽,自殺。立三十三年,國除。詔遣光祿大夫持節吊祠,贈賵如法,加賜列侯印綬,以諸侯禮葬於涇。遣中黃門占護其妻子。〈占護猶守護也。〉悉出楚官屬無辭語者。

許太后に制詔を下して言った。「国家は初めて楚の事を聞いた時、そうでないことを願った。既に審らかな事実を知り、悼み痛む思いで、王の身を宥し全うさせ、天寿を全うさせようとしたが、王は太后を顧みず、ついに自ら免れることができなかった。これは天命であり、どうしようもない!太后は幼弱な者を保養し、努めて飲食せよ。諸許が王の富貴を願うのは、人情である。既に有司に詔し、謀りごとに関わった者を出させ、田宅を安んじさせた。」ここにおいて燕広を折奸侯に封じた。楚の獄は累年に及び、その供述が連座し、京師の親戚・諸侯・州郡の豪傑から取り調べの吏に至るまで、阿附して陥れ合い、死罪や流刑に坐する者は千数を数えた。

原文制詔許太后曰:「國家始聞楚事,幸其不然。既知審實,懷用悼灼,庶欲宥全王身,令保卒天年,而王不念顧太后,竟不自免。此天命也,無可柰何!太后其保養幼弱,勉強飲食。諸許願王富貴,人情也。已詔有司,出其有謀者,令安田宅。」於是封燕廣為折奸侯。楚獄遂至累年,其辭語相連,自京師親戚諸侯州郡豪桀及考案吏,阿附相陷,坐死徙者以千數。

十五年、帝は彭城に行幸し、内殿で許太后と英の妻子に会い、悲しみ泣き、左右を感動させた。建初二年、粛宗は英の子の種を楚侯に封じ、五人の弟を皆列侯としたが、いずれも相臣や吏人を置くことは許されなかった。元和三年、許太后が薨去すると、再び光禄大夫に節を持たせて弔問させ、そのまま留まらせて喪事を護らせ、賻銭五百万を贈った。また謁者を遣わして王の官属を整えさせ、英の遺骸を迎え、彭城に改葬し、王の赤綬・羽蓋・華藻を加え、嗣王の儀礼に従い、爵を追って、諡を楚厲侯とした。章和元年、帝は彭城に行幸し、英の夫人と六人の子に会い、厚く贈賜を加えた。(『続漢輿服志』に曰く、諸侯王は赤綬で四采、長さ二丈一尺。皇子の安車は青蓋に金華藻。)

原文十五年,帝幸彭城,見許太后及英妻子於內殿,悲泣,感動左右。建初二年,肅宗封英子*[種]*楚侯*(種)*,五弟皆為列侯,並不得置相臣吏人。元和三年,許太后薨,復遣光祿大夫持節吊祠,因留護喪事,賻錢五百萬。又遣謁者備王官屬迎英喪,改葬彭城,加王赤綬羽蓋華藻,如嗣王儀,〈續漢輿服志曰:「諸侯王赤綬四采,長二丈一尺。皇子安車,青蓋金華藻。」〉追爵,謚曰楚厲侯。章和元年,帝幸彭城,見英夫人及六子,厚加贈賜。

種は後に六侯に転封された。卒去し、子の度が嗣いだ。度が卒去し、子の拘が嗣ぎ、国は後世に伝えられた。

原文種後徙封六侯。〈六,縣名,屬廬江郡。〉卒,子度嗣。度卒,子拘嗣,傳國於後。

済南安王康

原文濟南安王康

済南安王康は、建武十五年に済南公に封ぜられ、十七年に爵位を進めて王となり、二十八年に国に就いた。三十年、平原郡の祝阿・安德・朝陽・平昌・隰陰・重丘の六県を済南国に加増した。中元二年(57年)、康の子の徳を東武城侯に封じた。

原文'''濟南安王康''',建武十五年封濟南公,十七年進爵為王,二十八年就國。三十年,以平原之祝阿、安德、朝陽、平昌、隰陰、重丘六縣益濟南國。中元二年|57年,封康子德為東武城侯。〈東武城屬清河郡,今貝州武城縣是。〉

康は国において法度に従わず、賓客と交際した。その後、人が上書して康が州郡の奸猾な者である漁陽の顔忠・劉子産らを招き寄せ、また多く彼らに繒帛を贈り、図書を調べ、不軌を謀議ぼうぎしたと告げた。事が取り調べに下され、有司がこれを挙奏した。顕宗は親族であることを理由に、その事を徹底的に追及するに忍びず、ただ祝阿・隰陰・東朝陽・安德・西平昌の五県を削減した。(東朝陽は今の斉州臨済県の東。西平昌は今の徳州般県。般の音は補満反。)

原文康在國不循法度,交通賓客。其後,人上書告康招來州郡姦猾漁陽顏忠、劉子產等,又多遺其繒帛,案圖書,謀議不軌。事下考,有司舉奏之,顯宗以親親故,不忍窮竟其事,但削祝阿、隰陰、東朝陽、安德、西平昌五縣。〈東朝陽在今齊州臨濟縣東。西平昌,今德州般縣也。般音補滿反。〉

建初八年(83年)、粛宗は削減した地を再び返還した。康はそこで財貨を多く殖やし、宮室を大いに修築し、奴婢は千四百人に至り、厩舎の馬は千二百匹、私田は八百頃に及び、奢侈に欲望を恣にし、遊覧観覧に節度がなかった。永元初め、国の傅である何敞が上疏して康を諫めて言った。「諸侯の義は、節度を制し度を謹み、それからその社稷を保ち、その民人を和することができると聞いております。大王は骨肉の親として、茅土を享け食し、政令を施し張り、その典法を明らかにし、出入進止には期度があり、輿馬や臺隸には科品があるべきです。ところが今、奴婢や厩馬は皆千余りあり、無用の口を増やして自らを蚕食しています。宮婢は閉ざされ隔てられ、その天性を失い、和気を惑乱させています。また多く内第を建て、防禁に触犯し、巨万の費を要し、しかも工事はまだ半分にも達していません。文が繁ければ質は荒廃し、木が勝てば人は亡びます。これらは皆、礼を奉じて上を承け、福を伝えて窮まりなくするものではありません。だから楚は章華を作って凶に遭い、呉は姑蘇を興して滅び、景公は千駟を持っても民に称えられることがありませんでした。今、数々の第を遊覧し、晨夜に節度がなく、また未然を遠く防ぎ、深淵に臨み薄氷を踏む方法でもありません。願わくは大王が恭儉を修め、古制に遵い、奴婢の口を省き、乗馬の数を減らし、私田の富を斥け、遊観の宴を節し、礼をもって起居されれば、敞はようやく安心して自らを保つことができます。どうか大王には愚言を深くお考えください。」康は平素から何敞を敬重しており、嫌啎することはなかったが、結局改めることはできなかった。(『孝経』諸侯章の義。臺・隸は賤職。『左氏伝』に曰く、人に十等あり、王は公を臣とし、公は卿を臣とし、卿は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は皁を臣とし、皁は輿を臣とし、輿は隸を臣とし、隸は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とする。蚕が食らうように、次第に衰え尽きることを言う。巨は大。大万は万々を謂う。荒は廃。文彩が繁多なら質が廃れ、土木の構築が増えれば人は力を尽くすので人亡と言う。『左氏伝』に、楚霊王は章華の台を成し、後に殺された。杜預注に、台は今の南郡華容県にある。姑蘇台は一名姑胥台。『越絶書』に、胥門の外に九曲の路があり、闔廬が姑蘇の台に遊び、湖中を望んだ。顧夷『呉地記』に、横山の北に小山があり、俗に姑蘇台と呼ぶ。今の蘇州呉県の西にある。闔廬は後に越に殺された。『論語』に、斉の景公は馬千駟あり、死ぬ日、人に徳として称える者なし。千駟は四千匹。)

原文建初八年|83年,肅宗復還所削地,康遂多殖財貨,大修宮室,奴婢至千四百人,廄馬千二百匹,私田八百頃,奢侈恣欲,遊觀無節。永元初,國傅何敞上疏諫康曰:「蓋聞諸侯之義,制節謹度,然後能保其社稷,和其民人。〈孝經諸侯章之義也。〉大王以骨肉之親,享食茅土,當施張政令,明其典法,出入進止,宜有期度,輿馬臺隸,應為科品。〈臺、隸賤職也,左氏傳曰:「人有十等,王臣公,公臣卿,卿臣大夫,大夫臣士,士臣皁,皁臣輿,輿臣隸,隸臣僚,僚臣僕,僕臣臺」也。〉而今奴婢廄馬皆有千餘,增無用之口,以自蠶食。〈言如蠶之食,漸至衰盡也。〉宮婢閉隔,失其天性,惑亂和氣。又多起內第,觸犯防禁,費以巨萬,〈巨,大也。大萬謂萬萬。〉而功猶未半。夫文繁者質荒,木勝者人亡,〈荒,廢也。文彩繁多,則質以之廢,土木增構,則人殫其力,故云人亡。〉皆非所以奉禮承上,傳福無窮者也。故楚作章華以凶,〈左氏傳,楚靈王成章華之臺,後卒被殺。杜預注云「臺在今南郡華容縣」也。〉吳興姑蘇而滅,〈姑蘇臺一名姑胥臺。越絕書曰:「胥門外有九曲路,闔廬以游姑蘇之臺,以望湖中。」顧夷*(吾)**[吳]*地記云:「橫山北有小山,俗謂姑蘇臺。」在今蘇州吳縣西。闔廬後被越殺之。〉景公千駟,民無稱焉。〈論語:「齊景公有馬千駟,死之日,人無德而稱焉。」千駟,四千匹。〉今數遊諸第,晨夜無節,又非所以遠防未然,臨深履薄之法也。願大王修恭儉,遵古制,省奴婢之口,減乘馬之數,斥私田之富,節遊觀之宴,以禮起居,則敞乃敢安心自保。惟大王深慮愚言。」康素敬重敞,雖無所嫌啎,然終不能改。

五十九年間王位に立って薨去し、子の簡王錯が嗣いだ。錯が太子の時、康の鼓吹妓女である宋閏を愛し、医者の張尊に彼女を招かせたが得られず、錯は怒り、自ら剣で張尊を刺殺した。国相が挙奏したが、詔があり取り調べないこととなった。永元十一年、錯の弟七人を列侯に封じた。

原文立五十九年薨,子簡王錯嗣。〈錯音七故反。〉錯為太子時,愛康鼓吹妓女宋閏,使醫張尊招之不得,錯怒,自以劒刺殺尊。國相舉奏,有詔勿案。永元十一年,封錯弟七人為列侯。

錯は六年間王位に立って薨去し、子の孝王香が嗣いだ。永初二年(108年)、香の弟四人を列侯に封じた。香は篤実な行いを持ち、経書を好んだ。

原文錯立六年薨,子孝王香嗣。永初二年|108年,封香弟四人為列侯。香篤行,好經書。

初め、叔父の篤が罪を得て封じられず、西平昌侯昱が法に坐して侯を失った。香はそこで爵土を分けて篤の子の丸と昱の子の嵩を封じるよう上書し、二人とも列侯とした。

原文初,叔父篤有罪不得封,西平昌侯昱坐法失侯,香乃上書分爵土封篤子丸、昱子嵩,皆為列侯。

香は二十年間王位に立って薨去し、子がなく、国は絶えた。

原文香立二十年薨,無子,國絕。

永建元年(126年)、順帝は錯の子の阜陽侯顕を嗣ぎとし、これが釐王である。三年間王位に立って薨去し、子の悼王広が嗣いだ。永建五年、広の弟の文を楽城亭侯に封じた。

原文永建元年|126年,順帝立錯子阜陽侯顯為嗣,是為釐王。立三年薨,子悼王廣嗣。永建五年,封廣弟文為樂城亭侯。

広は二十五年間王位に立ち、永興元年(153年)に薨去し、子がなく、国は除かれた。

原文廣立二十五年,永興元年|153年薨,無子,國除。

東平憲王蒼

原文東平憲王蒼

東平憲王蒼は、建武十五年に東平公に封じられ、十七年に爵を進めて王となった。

原文'''東平憲王蒼''',建武十五年封東平公,十七年進爵為王。

蒼は若い頃から経書を好み、風雅で智思があり、人は美しい鬚髯を持ち、腰帯は八圍で、顕宗は彼を非常に愛重した。即位すると、驃騎將軍に拝し、長史掾史員四十人を置き、位は三公の上とした。

原文蒼少好經書,雅有智思,為人美鬚髯,要帶八圍,顯宗甚愛重之。及即位,拜為驃騎將軍,置長史掾史員四十人,位在三公上。〈四府掾史皆無四十人,今特置以優之也。〉

永平元年(58年)、蒼の子二人を県侯に封じた。二年、東郡の寿張・須昌、山陽の南平陽・橐・湖陵の五県を東平国に加増した。この時、中興して三十余年、四方に憂いがなく、蒼は天下が化平したので、礼楽を修めるべきと考え、公卿と共に南北郊の冠冕車服制度、及び光武廟の登歌八佾舞の数を議定した。その話は礼楽志・輿服志にある。帝が巡狩するたびに、蒼は常に留まって鎮守し、皇太后に侍衛した。(南平陽県の故城は今の兗州鄒県。橐県は一名高平、故城は鄒県の西南。湖陵の故城は今の兗州防与県の東南。その志は今は亡佚。)

原文永平元年|58年,封蒼子二人為縣侯。二年,以東郡之壽張、須昌,山陽之南平陽、*(稾)**[橐]*、湖陵五縣益東平國。〈南平陽,縣,故城今兗州鄒縣也。*(稾)**[橐]*,縣,一名高平,故城在鄒縣西南。湖陵故城在今兗州防與縣東南。〉是時中興三十餘年,四方無虞,蒼以天下化平,宜修禮樂,乃與公卿共議定南北郊冠冕車服制度,及光武廟登歌八佾舞數,語在禮樂、輿服志。〈其志今亡。〉帝每巡狩,蒼常留鎮,侍衞皇太后。

四年の春、皇帝が近くに出て城の邸宅を見物し、やがて河内で狩猟を行うと聞くと、蒼はすぐに上書して諫めて言った。「臣は時令を聞いております。盛んな春の農事の時期には、大衆を集めて工事を起こしてはなりません。伝に言います。『狩猟を前もって準備せず、飲食を神に捧げず、出入りに節度がなければ、木は曲がらず直らずとなる』と。これは春の令を失うものです。臣は、車駕が今出られるのは、事を簡素にされるからであり、通られる官吏や民は甘棠の徳を称えるでしょう。しかしながら、礼に従わずに行動することは、四方に示すべきことではありません。どうか陛下には、田野を行き、農作物を巡視され、ゆったりと逍遥し、車の速度を緩めてお帰りください。秋冬になってから、威霊を振るい、法駕を整え、周囲の護衛を備え、羽旄を設けられるのです。詩に言います。『抑抑たる威儀は、惟れ徳の隅なり』と。臣は憤懣に耐えず、伏して自ら手書きし、行在所に参上し、誠意を極めて陳述することを乞います。」帝は奏上を覧て、すぐに宮に戻った。(第は宅。甲乙の次があるので第と言う。『礼記』月令に、孟春の月、大衆を集めず、城郭を置かず。仲春の月、大事を作さず、農事を妨げるを防ぐ。『尚書』五行伝に、田猟に宿せず、飲食に享せず、出入に節なく、人の農時を奪い、及び奸謀があれば、木は曲直ならず。鄭玄注に、木の性は曲または直、人が用いて器とするもの。故なく生じて暢茂せず、折槁すること多きを不曲直と為す。『前書』音義に、宿せずとは、前もって日を戒めないこと。皆遊散の意。『詩』に、於焉消揺。『左氏伝』に、横流而仿佯。『前書』音義に、弭節は節を按ずるが如し、意を尽くして馳駆しないことを言う。旄は竿首に旄を注ぐことを謂う。『詩』大雅の文。抑抑は密。隅は廉。人が威儀を審密に抑抑たる者は、その徳必ず厳正、宮室の制の如く、内縄直なれば外に廉隅がある。)

原文四年春,車駕近出,觀覽城第,〈第,宅也。有甲乙之次,故曰第。〉尋聞當遂校獵河內,蒼即上書諫曰:「臣聞時令,盛春農事,不聚觿興功。〈禮記月令曰「孟春之月,無聚大觿,無置城郭。仲春之月,無作大事,以防農事」也。〉傳曰:『田獵不宿,食飲不享,出入不節,則木不曲直。』此失春令者也。〈尚書五行傳曰:「田獵不宿,飲食不享,出入不節,奪人農時,及有奸謀,則木不曲直。」鄭玄注云:「木性或曲或直,人所用為器者也。無故生不暢茂,多有折槁,是為不曲直也。」前書音義曰:「不宿,不預戒日也。」〉臣知車駕今出,事從約省,所過吏人諷誦甘棠之德。雖然,動不以禮,非所以示四方也。惟陛下因行田野,循視稼穡,消搖仿佯,弭節而旋。〈皆游散之意。詩曰:「於焉消搖。」左氏傳曰:「橫流而仿佯。」前書音義曰:「弭節猶按節也,言不盡意馳驅也。」〉至秋冬,乃振威靈,整法駕,備周衞,設羽旄。〈旄謂注旄於竿首。〉詩云:『抑抑威儀,惟德之隅。』〈詩大雅之文也。抑抑,密也。隅,廉也。言人審密於威儀抑抑然者,其德必嚴正,如宮室之制,內繩直則外有廉隅。〉臣不勝憤懣,伏自手書,乞詣行在所,極陳至誠。」帝覽奏,即還宮。

蒼は朝廷に数年間在り、多くの益をもたらしたが、自ら至親として政を補佐し、声望が日に日に重くなり、心が安らかでなく、上疏して職を返上して言った。

原文蒼在朝數載,多所隆益,而自以至親輔政,聲望日重,意不自安,上疏歸職曰:

帝は優れた詔を下して聞き入れなかった。

原文帝優詔不聽。

その後、数回にわたり陳乞し、言葉は非常に懇切であった。五年、ようやく国に戻ることを許されたが、上将軍の印綬を返上することを聞き入れなかった。驃騎長史を東平太傅とし、掾を中大夫とし、令史を王家郎とした。さらに銭五千万、布十万匹を賜った。(『漢官儀』に、将軍の掾属二十九人、中大夫は員なく、令史四十一人。)

原文其後數陳乞,辭甚懇切。五年,乃許還國,而不聽上將軍印綬。以驃騎長史為東平太傅,掾為中大夫,令史為王家郎。〈漢官儀「將軍掾屬二十九人,中大夫無員,令史四十一人」也。〉加賜錢五千萬,布十萬匹。

六年の冬、帝は魯に行幸し、蒼を召し出して従わせて京師に戻った。翌年、皇太后が崩御した。葬儀が終わると、蒼は国に帰ったが、特に宮人奴婢五百人、布二十五万匹、および珍宝や服御の器物を賜った。

原文六年冬,帝幸魯,徵蒼從還京師。明年,皇太后崩。既葬,蒼乃歸國,特賜宮人奴婢五百人,布二十五萬匹,及珍寶服御器物。

十一年、蒼は諸王と共に京師に朝見した。一か月余りで国に戻った。帝は送り出して宮に帰る際、寂しく思いを寄せ、使者を遣わして国中の傅に手詔を下して言った。「別れの後、独り座って楽しまず、車に乗って帰り、軾に伏して吟じ、遠くを望んで思いをはせ、実にわが心を労する。采菽の詩を誦して、ますます嘆息を増す。先日、東平王に家で何が最も楽しいかと尋ねたところ、王は善を行うことが最も楽しいと言った。その言葉は非常に大きく、まさにその腹にふさわしい。今、列侯の印十九枚を送る。諸王子で五歳以上で走って拝礼できる者は、皆これを持たせよ。」(采菽は『詩』小雅の章。その詩に曰く、采菽采菽、筐之筥之、君子来朝、何錫与之。毛萇注に、菽は大牢を芼して君子を待つ所以。)

原文十一年,蒼與諸王朝京師。月餘,還國。帝臨送歸宮,淒然懷思,乃遣使手詔國中傅曰:「辭別之後,獨坐不樂,因就車歸,伏軾而吟,瞻望永懷,實勞我心,誦及采菽,以增歎息。〈采菽,詩小雅之章也。其詩曰:「采菽采菽,筐之筥之,君子來朝,何錫與之?」毛萇注云:「菽所以芼大牢而待君子也。」〉日者問東平王處家何等最樂,王言為善最樂,其言甚大,副是要腹矣。今送列侯印十九枚,諸王子年五歲已上能趨拜者,皆令帶之。」

十五年春、行幸して東平に行き、蒼に銭千五百万、布四万匹を賜った。帝は自らが作った光武本紀を蒼に示した。蒼はそれに応じて光武受命中興頌を上った。帝は非常にこれを善しとし、その文が典雅であるため、特に校書郎の賈逵に命じて訓詁を作らせた。

原文十五年春,行幸東平,賜蒼錢千五百萬,布四萬匹。帝以所作光武本紀示蒼,蒼因上光武受命中興頌。帝甚善之,以其文典雅,特令校書郎賈逵為之訓詁。

粛宗が即位すると、尊重と恩礼は前世を超え、諸王で比べる者はいなかった。建初元年、地震があり、蒼は便宜を上奏したが、その事は留中された。帝は返書して言った。

原文肅宗即位,尊重恩禮踰於前世,諸王莫與為比。建初元年,地震,蒼上便宜,其事留中。〈留禁中也。〉帝報書曰:

後に帝は原陵と顕節陵のために県邑を建てようとした。蒼はこれを聞き、急いで上疏して諫めて言った。「伏して聞くに、二陵のために郭邑を建てられるとのことです。臣は以前、道端の噂話と聞き、真偽を疑っていましたが、近ごろ従官の古霸に命じて湼陽主の病気を問わせたところ、使いが戻ってきて、詔書がすでに下ったことを知りました。窃かに見るに、光武皇帝は自ら倹約の行いを実践され、終始の分け目を深く考えられ、勤め懇ろに、葬制について語られました。そのため陵地を営建するに当たり、古典に具合うようにし、詔して『山陵を作らず、陂池はただ流水を流すだけにせよ』と言われました。孝明皇帝は大孝に背かず、奉承して一貫して行いました。自らが営み創られたものについては、特に倹約され、謙譲の徳の美は、ここに至って盛んでした。臣の愚見では、園邑の興りは強秦に始まります。古くは丘や塚さえも目立たせようとせず、ましてや郭邑を築き、都の外郭を建てるなどということがありましょうか。上は先帝の聖心に背き、下は益のない工事を作り、国費を虚費し、百姓を動揺させ、和気を招き、豊年を祈るものではありません。また、吉凶の俗説から言っても、理由なく丘墓を修繕し、何かを興すことを欲しません。古法に照らせば合わず、時宜に照らせば人に背き、吉凶を求めてもその福を見出せません。陛下は有虞氏のような至孝の性をお持ちで、祖先の深い思いを追われていますが、左右の過った議論を恐れ、聖心を煩わせることをお憂いです。臣の蒼は誠に二帝の純粋な徳の美が、無限に広まらないことを悲しみます。どうか哀れみをもってご覧くださいますよう。」(『風俗通』に、古は姓、周に古公但父あり、その後に氏となす。湼陽主は光武の女、竇固の妻。貫行は一に皆遵奉するを謂う。谷永に、一以貫行、固執無違。『易』に、謙徳之柄。『礼記』に、古者は墓して墳せず。故に著明を欲せずと言う。『穀梁伝』に、人の聚まる所を都と曰う。杜預『左伝』注に、郛は郭。)

原文後帝欲為原陵、顯節陵起縣邑,蒼聞之,遽上疏諫曰:「伏聞當為二陵起立郭邑,臣前頗謂道路之言,疑不審實,近令從官古霸問湼陽主疾,〈風俗通曰:「古姓,周有古公但父,其後氏焉。」湼陽主,光武女,竇固之妻也。〉使還,乃知詔書已下。竊見光武皇帝躬履儉約之行,深鶯始終之分,勤勤懇懇,以葬制為言,故營建陵地,具稱古典,詔曰『無為山陵,陂池裁令流水而已』。孝明皇帝大孝無違,奉承貫行。〈貫行謂一皆遵奉也。谷永曰「一以貫行,固執無違」也。〉至於自所營創,尤為儉省,謙德之美,於斯為盛。〈易曰:「謙德之柄。」〉臣愚以園邑之興,始自強秦。古者丘隴且不欲其著明,〈禮記曰:「古者墓而不墳。」故言不欲其著明。〉豈況築郭邑,建都郛哉!〈穀梁傳曰:「人之所聚曰都。」杜預注左傳曰:「郛,郭也。」〉上違先帝聖心,下造無益之功,虛費國用,動搖百姓,非所以致和氣,祈豐年也。又以吉凶俗數言之,亦不欲無故繕修丘墓,有所興起。考之古法則不合,稽之時宜則違人,求之吉凶復未見其福。陛下履有虞之至性,追祖檷之深思,然懼左右過議,以累聖心。臣蒼誠傷二帝純德之美,不暢於無窮也。惟蒙哀覽。」

三年、帝は南宮で衛士を饗応し、それに従って皇太后と共に掖庭の池閣を巡行した。そこで陰太后の昔の器物や衣服を閲覧し、悲しみに動かされ、五時の衣をそれぞれ一襲ずつ残すよう命じ、また常に着用していた衣服合わせて五十篋を残し、残りは在京の諸王・公主および子孫にそれぞれ差をつけて分配した。特に劉蒼と琅邪王劉京に書を賜って言った。「中大夫が使者として参り、動静を親しく聞き、喜びは尽きない。年月は早く過ぎ、山陵(陵墓)は次第に遠ざかり、孤の心は悲しく痛む。いかんせん、いかんせん。先ごろ南宮で衛士を饗応し、ついで昔の衣服や器物を閲覧した。師から聞いた言葉がある。『その物は存し、その人は亡し。哀しみを言わずとも哀しみ自ずから至る』と。まことにその通りである。王の孝友の徳も、またどうしてそうでないことがあろうか。今、光烈皇后の仮髻と帛巾(あるいは皁巾)をそれぞれ一つ、および衣服一篋を送る。時折これを見つめ、凱風寒泉の思いを慰めよ。また、后の生んだ子孫に先代皇后の衣服の制式を見せたいと思う。今、魯国の孔氏には、なお仲尼の車輿・冠・履が残っている。明徳が盛んな者は、その光霊が遠くまで及ぶのである。光武皇帝の器物や衣服は、中元二年(57年)にすでに諸国に分け与えたので、今は送らない。」(五時衣とは春は青、夏は朱、季夏は黄、秋は白、冬は黒をいう。単衣と複衣を備えた一揃いを襲という。『周礼』に「追師は王后の首服である副編を掌る」とあり、鄭玄は「副は婦人の首服で、三輔ではこれを仮紒と呼ぶ」という。『続漢書』では「帛」の字を「皁」に作る。詩の国風に「凱風は孝子を美わすなり」「凱風南より吹き、彼の棘心を吹く。棘心夭夭として、母氏劬労す。爰に寒泉あり、浚の下に在り。子七人あり、母氏労苦す」とある。寒泉は今の濮州濮陽県にある。孔子の廟は魯の曲阜城中にあり、伍緝之の『従征記』に「魯人は孔子の乗った車を廟中に蔵した。これは顔路が請うたものである。献帝の時、廟は火災に遭い、焼けた」という。冠履については鍾離意伝に解が見える。)

原文三年,帝饗衞士於南宮,因從皇太后周行掖庭池閣,乃閱陰太后舊時器服,愴然動容,乃命留五時衣各一襲,〈五時衣謂春青,夏朱,季夏黃,秋白,冬黑也。衣單復具曰襲。〉及常所御衣合五十篋,餘悉分佈諸王主及子孫在京師者各有差。特賜蒼及琅邪王京書曰:「中大夫奉使,親聞動靜,嘉之何已!歲月騖過,山陵浸遠,孤心淒愴,如何如何!閒饗衞士於南宮,因閱視舊時衣物,聞於師曰:『其物存,其人亡,不言哀而哀自至。』信矣。惟王孝友之德,亦豈不然!今送光烈皇后假紒帛巾各一,〈周禮:「追師掌王后之首服為副編。」鄭玄云:「副,婦人首服,三輔謂之假紒。」續漢書「帛」字作「皁」。〉及衣一篋,可時奉瞻,以慰凱風寒泉之思,〈詩國風曰:「凱風,美孝子也。」「凱風自南,吹彼棘心,棘心夭夭,母氏劬勞。爰有寒泉,在浚之下,有子七人,母氏勞苦。」寒泉在今濮州濮陽縣。〉又欲令后生子孫得見先后衣服之制。今魯國孔氏,尚有仲尼車輿冠履,明德盛者光靈遠也。〈孔子廟在魯曲阜城中。伍緝之從征記曰:「魯人藏孔子所乘車於廟中,是顏路所請者也。獻帝時,廟遇火,燒之。」冠履解見鐘離意傳。〉其光武皇帝器服,中元二年|57年已賦諸國,故不復送。

併せて宛馬一匹を贈る。その馬は血が前膊の上の小孔から出る。常に武帝の天馬の歌で『赤い汗を染める』と聞いていたが、今、親しくその様を見た。近ごろ反逆の賊がなお屯集し、将帥は外におり、憂慮は忙しく、まだ安寧の時がない。願わくは王は精神を大切にし、養生を加えられよ。苦言をもって至戒とし、それを待ち望むこと渇くが如し。」(『漢書』の天馬歌に「太一況として、天馬下り、赤汗を沾し、沫は赭を流す」とある。閒は「閑」に音を同じくする。)

原文並遺宛馬一匹,血從前髆上小孔中出。常聞武帝歌天馬,沾赤汗,今親見其然也。〈前書天馬歌曰「太一況,天馬下,沾赤汗,沫流赭」也。〉頃反虜尚屯,將帥在外,憂念遑遑,未有閒寧。〈閒音閒。〉願王寶精神,加供養。苦言至戒,望之如渴。」

六年の冬、劉蒼は上疏して朝見を求めた。翌年正月、帝はこれを許した。特に装束の費用として千五百万銭を賜り、その他の諸王にはそれぞれ千万銭を賜った。帝は劉蒼が寒露を冒して来朝するのを慮り、謁者を遣わして貂裘、および太官の食物や珍果を賜り、大鴻臚の竇固に節を持たせて郊外で出迎えさせた。帝は自ら邸宅を巡行し、あらかじめ帷帳を設け、その銭・帛・器物は充実しないものはなかった。詔を下して言った。「礼に云う、『伯父は国に帰り安んぜよ』と。詩に云う、『叔父よ、汝が元子を立てよ』と。これは敬の極みである。昔、蕭相国には名を呼ばない礼を加え、忠賢を優遇した。ましてや親族であり尊い者を兼ねているならばなおさらである。その沛王・済南王・東平王・中山王の四王については、礼賛する際に皆、名を唱えるな。」(『儀礼』に「覲礼では、諸侯が郊に至ると、王は皮弁の使者を遣わし璧を用いて労わる。侯氏もまた皮弁で帷門の外に迎え、再拝する。天子は舎を賜い、『伯父に舎を賜う』と言う。同姓は西面し北上し、異姓は東面し北上する。侯氏は裨冕を着け、幣を檷に釈き、墨車に乗り、龍旗・弧韣を載せ、乃ち朝して瑞玉を以てし、繅がある。天子は斧扆を負い、『伯父実に来たれり、余一人これを嘉す』と言う。束帛と匹馬を奉り、卓上には九馬がこれに随い、幣を奠して再拝する。侯氏が降りると、天子は侯氏に辞して『伯父無事なれ、国に帰り寧んぜよ』と言う。侯氏は再拝稽首して出る」とある。詩は魯頌の文であり、叔父は周公をいい、元子を建てるとは伯禽を封じたことをいう。これは王莽伝に見える。傅は「敷」に音を同じくし、敷は布くの意。『書経』に「明徳を慎み、下に敷聞す」とある。俾は使なり。屏は蔽なり。『左氏伝』に「昊天吊まず、老を憖遺せず、余一人を俾屏し、殺殺として余疚に在り」とある。離は被るの意で、憲王でなければ誰がこの恩を蒙るであろうか、というのである。)

原文六年冬,蒼上疏求朝。明年正月,帝許之。特賜裝錢千五百萬,其餘諸王各千萬。帝以蒼冒涉寒露,遣謁者賜貂裘,〈說文曰:「貂,鼠屬也,大而黃黑,出丁零國。」〉及太官食物珍果,使大鴻臚竇固持節郊迎。帝乃親自循行邸第,豫設帷默,其錢帛器物無不充備。下詔曰:「*〔禮云〕*伯父歸寧乃國,〈儀禮曰「覲禮,諸侯至於郊,王使皮弁用璧勞,侯氏亦皮弁迎於帷門之外,再拜。天子賜舍,曰:『賜伯父舍。』同姓西面,北上;異姓東面,北上。侯氏裨冕,釋幣於檷,乘墨車,載龍旗、弧韣,乃朝以瑞玉,有繅。天子負斧扆,曰:『伯父實來,余一人嘉之。』奉束帛匹馬,卓上九馬隨之,奠幣再拜。侯氏降,天子辭於侯氏曰:『伯父無事,歸寧乃邦。』侯氏再拜稽首而出」也。〉詩云叔父建爾元子,〈詩魯頌之文也。叔父謂周公也。建元子謂封伯禽也。〉敬之至也。昔蕭相國加以不名,優忠賢也。〈見前書王莽傳。〉況兼親尊者乎!其沛、濟南、東平、中山四王,贊皆勿名。」

(注:賛とは、賛者がその名を唱えないこと。)劉蒼が到着すると、殿上に昇って拝礼し、天子は親しく答礼した。その後、諸王が宮中に入る時は、常に輦で迎え、省閣に至ってから下りさせた。劉蒼は恩寵が礼を過ぎていることを受け、心中安らかでなく、上疏して辞退して言った。「臣は聞く、貴きには常の尊さがあり、賤しきには等しい威儀があり、卑高は序列をなし、上下は理によって定まると。陛下は至徳を広く施し、骨肉を慈愛され、すでに奉朝請を賜り、天子の儀容に近くありながら、親しく至尊を屈し、礼を下臣に降ろされ、毎回宴見を賜うたびに、席を起こし容色を改め、中宮が親しく拝礼される。事は典故を過ぎています。臣は惶恐戦慄し、誠に自ら安んぜず、会見のたびに、謹んでどうしてよいかわからない。これは群下に示し、臣子を安んずる道ではありません。」

原文〈贊謂贊者不唱其名。〉蒼既至,升殿乃拜,天子親荅之。其後諸王入宮,輒以輦迎,至省合乃下。蒼以受恩過禮,情不自寧,上疏辭曰:「臣聞貴有常尊,賤有等威,〈左傳隨武子之辭也。等威,威儀有等差也。〉卑高列序,上下以理。陛下至德廣施,慈愛骨肉,既賜奉朝請,咫尺天儀,而親屈至尊,降禮下臣,每賜燕見,輒興席改容,中宮親拜,事過典故。臣惶怖戰慄,誠不自安,每會見,踧踖無所措置。〈踧踖,謙讓貌也。〉此非所以章示腢下,安臣子也。」

帝は上奏を読み嘆息し、ますます劉蒼を褒め貴んだ。旧典では、諸王の娘は皆、郷主に封じられていたが、ここに至って特に劉蒼の五人の娘を県公主に封じた。

原文帝省奏歎息,愈襃貴焉。舊典,諸王女皆封鄉主,乃獨封蒼五女為縣公主。

三月、大鴻臚が諸王を帰国させるよう上奏したが、帝は特に劉蒼を留め、秘書・列仙図・道術の秘方を賜った。八月に飲酎の礼が終わると、有司が再び劉蒼を帰国させるよう上奏したので、ようやくこれを許した。手詔を劉蒼に賜って言った。「骨肉の天性は、誠に遠近によって親疏を分けるものではないが、たびたび顔色を見るにつけ、昔よりも情が深くなる。王の長きにわたる労苦を思い、帰って休養を得たいと思うが、大鴻臚の上奏に署名しようとしても筆を下すに忍びず、ただ小黄門に授けるのみである。心中恋々として、悲しみのあまり言葉も出ない。」(注:大鴻臚は王の帰国を上奏し、小黄門が詔を受ける者。)そこで車駕は送別の宴を設け、涙を流して別れを告げた。また乗輿の服御・珍宝・輿馬・銭布を億万の数で賜った。

原文三月,大鴻臚奏遣諸王歸國,帝特留蒼,賜以秘書、列僊圖、道術秘方。至八月飲酎畢,〈飲酎,解見章紀。〉有司復奏遣蒼,乃許之。手詔賜蒼曰:「骨肉天性,誠不以遠近為親疏,然數見顏色,情重昔時。念王久勞,思得還休,欲署大鴻臚奏,不忍下筆,顧授小黃門,中心戀戀,惻然不能言。」〈大鴻臚奏王歸國,小黃門受詔者。〉於是車駕祖送,流涕而訣。復賜乘輿服御,珍寶輿馬,錢布以億萬計。

蒼が国に戻ると病気になり、帝は名医を急派し、小黄門に看病させ、使者の車馬が道に絶えることがなかった。また千里の駅馬を置き、起居を伝え問わせた。翌年正月に薨去すると、詔を下して中傅に告げ、蒼が建武以来上奏した章奏および著した書、記、賦、頌、七言、別字、歌詩を封じて上進させ、すべて閲覧した。大鴻臚に節を持たせ、五官中郎将を副監喪とし、将作使者合わせて六人を派遣し、四姓小侯と諸国の王・主にことごとく東平に会して奔喪するよう命じ、前後合わせて一億の銭、九万匹の布を賜った。葬儀の際、策文を下した。「建初八年三月己卯、皇帝が言う。王よ、その功績は顕著であり、王室に勤労し、親しく策命を受け、前世に明らかである。外に出て藩輔となり、慎んで明徳を保ち、礼に従って越えることなく、その名声は下民にまで伝わった。昊天は哀れまず、この上仁なる者に報いず、私一人を守る者を失わせ、日夜憂い悲しみ、終わりなき思いである。今、有司に命じて鸞輅と乗馬を加賜し、龍旗九旒、虎賁百人を添え、王の行き先を奉送させる。我が憲王でなければ、誰がこの恩寵を受けることができようか!魂に霊あれば、この寵栄を保て。嗚呼哀しいかな!」

原文蒼還國,疾病,帝馳遣名醫,小黃門侍疾,使者冠蓋不絕於道。又置驛馬千里,傳問起居。明年正月薨,詔告中傅,封上蒼自建武以來章奏及所作書、記、賦、頌、七言、別字、歌詩,並集覽焉。遣大鴻臚持節,五官中郎將副監喪,及將作使者凡六人,令四姓小侯諸國王主悉會詣東平奔喪,賜錢前後一億,布九萬匹。及葬,策曰:「惟建初八年三月己卯,皇帝曰:咨王丕顯,勤勞王室,親受策命,昭於前世。出作蕃輔,克慎明德,率禮不越,〈率,循也。越,違也。〉傅聞在下。〈傅音敷。敷,布也。書曰:「克慎明德,敷聞在下。」〉昊天不吊,不報上仁,俾屏余一人,夙夜殺殺,靡有所終。〈俾,使也。屏,蔽也。左氏傳曰「昊天不吊,不憖遺老,俾屏余一人,殺殺余在疚」也。〉今詔有司加賜鸞輅乘馬,龍旗九旒,虎賁百人,奉送王行。匪我憲王,其孰離之!〈離,被也。言非憲王誰更被蒙此恩也。〉魂而有靈,保茲寵榮。嗚呼哀哉!」

四十五年在位し、子の懐王忠が嗣いだ。翌年、帝は東平国を分けて忠の弟尚を任城王とし、残る五人を列侯とした。

原文立四十五年,子懷王忠嗣。明年,帝乃分東平國封忠弟尚為任城王,餘五人為列侯。

忠は十一年在位して薨去し、子の孝王敞が嗣いだ。元和三年、帝が東巡守を行い、東平宮に幸した際、蒼を追憶し、その諸子に言った。「その人を思えば、その郷に至る。その居場所はあるが、その人はいない。」 涙が襟を濡らし、蒼の陵に幸し、虎賁、鸞輅、龍旗を陳列してその功績を顕彰し、太牢で祠り、自ら祠の座に拝礼し、泣いて哀しみを尽くし、陵前に御剣を賜った。初め、蒼が国に帰った時、驃騎将軍時代の属吏であった丁牧と周栩は、蒼が賢者を敬い士を下る態度に心打たれ、去りがたく、王家の大夫となり、数十年にわたり祖父(蒼)から孫(敞)に至るまで仕えた。帝はこれを聞き、二人を前に引見し、その長年の不遇を憐れむとともに、蒼の徳の美しさを顕揚しようと、直ちに議郎に抜擢した。牧は斉の相に至り、栩は上蔡の令となった。永元十年、蒼の孫の梁を矜陽亭侯に封じ、敞の弟六人を列侯とした。敞は母の喪に服して至孝であり、国相の陳珍がその行状を上奏した。永寧元年、鄧太后は邑五千戸を加増し、さらに蒼の孫二人を亭侯に封じた。

原文忠立*(十)*一年薨,子孝王敞嗣。元和三年,行東巡守,幸東平宮,帝追感念蒼,謂其諸子曰:「思其人,至其鄉;其處在,其人亡。」因泣下沾襟,遂幸蒼陵,為陳虎賁、鸞輅、龍旗,以章顯之,祠以太牢,親拜祠坐,哭泣盡哀,賜御劒於陵前。〈陵在今鄲州東峗山南。峗音魚委反。〉初,蒼歸國,驃騎時吏丁牧、周栩以蒼敬賢下士,不忍去之,遂為王家大夫,數十年事祖及孫。帝聞,皆引見於前,既愍其淹滯,且欲揚蒼德美,即皆擢拜議郎。牧至齊相,栩上蔡令。永元十年,封蒼孫梁為矜陽亭侯,敞弟六人為列侯。敞喪母至孝,國相陳珍上其行狀。永寧元年,鄧太后增邑五千戶,又封蒼孫二人為亭侯。

敞は四十八年在位して薨去し、子の頃王端が嗣いだ。四十七年在位して薨去し、子の凱が嗣いだ。凱は四十一年在位し、魏が禅譲を受けると、崇徳侯とされた。

原文敞立四十八年薨,子頃王端嗣。立四十七年薨,子凱嗣;立四十一年,魏受禪,以為崇德侯。

論じて言う。孔子は「貧しくて諂わず、富んで驕らず、未だ貧しくして楽しみ、富んで礼を好む者には及ばない」と言った。東平憲王のような者は、礼を好む者と言えよう。彼が至親を辞し、母后から離れたのは、ただ名行を立てようとして親を忘れ義を捨てたのだろうか。位が疑わしければ隙が生じ、近くに累があれば喪失は大きくなる。これは明哲な者が嘆息する所以である。嗚呼!隙を遠ざけて忠を全うし、累を解いて孝を成す。これが果たして憲王の本志であっただろうか!東海恭王は譲って廃されることを知り、「呉の太伯となる、それも良くはないか」と言った。(『左伝』の晋の大夫士蒍の言葉である。呉の太伯は周の太王の長子で、その弟季歴に譲り、呉・越に赴いて薬を採り、太王が没しても帰らなかった。事は『史記』に見える。)

原文論曰:孔子稱「貧而無諂,富而無驕,未若貧而樂,富而好禮者也」。若東平憲王,可謂好禮者也。若其辭至戚,去母后,豈欲苟立名行而忘親遺義哉!蓋位疑則隙生,累近則喪大,〈憂累既近,所喪必大。〉斯蓋明哲之所為歎息。嗚呼!遠隙以全忠,釋累以成孝,夫豈憲王之志哉!〈言其本志然也。〉東海恭王遜而知廢,〈遜,讓也。〉「為吳太伯,不亦可乎」!〈左傳*(曰)*晉大夫士蒍之辭也。吳太伯,周太王之長子,讓其弟季歷,因適吳、越採藥,大王沒而不反,事見史記也。〉

子に任城孝王尚あり。

原文子 任城孝王尚

任城孝王尚は、元和元年に封ぜられ、任城、亢父、樊の三県を食邑とした。(亢父と樊はともに東平国に属す。亢父の故城は今の兗州任城県の南にあり、樊の故城は今の瑕丘県の西南にある。)

原文任城孝王尚,元和元年|封,食任城、亢父、樊三縣。〈亢父、樊並屬東平國。亢父故城在今兗州任城縣南。樊故城在今瑕丘縣西南也。〉

十八年在位して薨去し、子の貞王安が嗣いだ。永元十四年、同母弟の福を桃郷侯に封じた。永初四年、福の弟の亢を当塗郷侯に封じた。安は軽率で貪欲かつ吝嗇であり、しばしば微行して出入りし、国中を遊覧し、官属の車馬刀剣から下は衛士の米肉に至るまで、皆代金を支払わなかった。元初六年、国相の行弘が上奏して廃位を請うた。安帝は忍びず、一年分の租税の五分の一で罪を贖わせた。

原文立十八年薨,子貞王安嗣。永元十四年,封母弟福為桃鄉侯。永初四年,封福弟亢為當塗鄉侯。安性輕易貪吝,數微服出入,遊觀國中,取官屬車馬刀劒,下至衛士米肉,皆不與直。元初六年,國相行弘奏請廢之。安帝不忍,以一歲租五分之一贖罪。

安は十九年在位して薨去し、子の節王崇が嗣いだ。順帝の時、羌虜がたびたび反乱を起こすと、崇はたびたび銭帛を献上して辺境の費用を補助した。帝が崩御すると、さらに三百万銭を献上して山陵の費用を助けたが、朝廷はその志を嘉して受け取らなかった。三十一年在位して薨去し、子がなく、国は絶えた。

原文安立十九年薨,子節王崇嗣。順帝時,羌虜數反,崇輒上錢帛佐邊費。及帝崩,復上錢三百萬助山陵用度,朝廷嘉而不受。立三十一年薨,無子,國絕。

延熹四年、桓帝は河間孝王の子で参戸亭侯の博を任城王に立て、その祭祀を奉じさせた。(杜預の『左伝』注に「今の丹水県の北に三戸亭がある」という。故城は今の鄧州内郷県の西南にある。)

原文延熹四年,桓帝立河閒孝王子*(恭為)*參戶亭侯博為任城王,以奉其祀。〈杜預注左傳曰:「今丹水縣北有三戶亭。」故城在今鄧州內鄉縣西南也。〉

博は孝行があり、母の喪に服する際の礼制を遵守し、三千戸を加増された。十三年在位して薨去し、子がなく、国は絶えた。

原文博有孝行,喪母服制如禮,增封三千戶。立十三年薨,無子,國絕。

熹平四年、霊帝は再び河間貞王の子で新昌侯の佗を任城王に立て、孝王の後を奉じさせた。四十六年在位し、魏が禅譲を受けると、崇徳侯とされた。

原文熹平四年,靈帝復立河閒貞王*(遜)**[建]**[子]*新昌侯*(子)*佗為任城王,奉孝王后。立四十六年,魏受禪,以為崇德侯。

阜陵質王延

原文阜陵質王延

阜陵質王延は、建武十五年淮陽公に封ぜられ、十七年に王に進爵し、二十八年に国に就いた。三十年、汝南郡の長平、西華、新陽、扶楽の四県を淮陽国に加増した。(長平の故城は今の陳州宛丘県の西北にあり、西華の故城は今の溵水県の西北にあり、新陽の故城は今の豫州真陽の西南にあり、扶楽の故城は今の陳州太康県の北にある。)

原文'''阜陵質王延''',建武十五年封淮陽公,十七年進爵為王,二十八年就國。三十年,以汝南之長平、西華、新陽、扶樂四縣益淮陽國。〈長平故城在今陳州宛丘縣西北,西華故城在今溵水縣西北,新陽故城在今豫州真陽西南,扶樂故城在今陳州太康縣北也。〉

延は性驕慢で奢侈であり、臣下に対する扱いは厳格で苛烈であった。永平年間、上書して延が寵姫の兄の謝弇および姉の館陶公主の婿である駙馬都尉韓光と共に奸猾の徒を招き、図讖を作り、祠祭して呪詛したと告発する者があった。事が下って取り調べられ、光と弇は殺され、供述で連座した者は多くが死罪または流刑となった。有司は延の誅殺を上奏した。顕宗は延の罪が楚王英より軽いとして、特に恩を加え、阜陵王に移封し、二県を食邑とした。

原文延性驕奢而遇下嚴烈。永平中,有上書告延與姬兄謝弇及姊館陶主婿駙馬都尉韓光招奸猾,作圖讖,祠祭祝詛。事下案驗,光、弇被殺,辭所連及,死徙者甚觿。有司奏請誅延。顯宗以延罪薄於楚王英,故特加恩,徙為阜陵王,食二縣。

延は封を移された後、しばしば怨望を抱いた。建初年間(76-84年)、再び延とその子の魴が謀反を企てていると告発する者があり、役人は檻車で廷尉の詔獄に護送するよう上奏した。章帝は詔を下して言った。「王は以前に大逆の罪を犯し、その罪悪は特に深く、周の管叔・蔡叔、漢の淮南王に等しい。経典には正義があり、法律には明らかな刑罰がある。先帝は親族への恩情に耐えかね、大法を曲げて、王のために過ちを引き受けられたので、臣下たちは皆、惑わされた。今、王は少しも悔い改めることなく、悖逆の心を変えず、内側から謀反が露見し、自らの子の魴から発覚したことは、まことに朝廷の喜んで聞くところではない。朕は心を痛め悲しみ、王を法に委ねるに忍びない。今、爵位を貶めて阜陵侯とし、一県を食邑とする。このような罪を得たのは、侯が自ら招いたことである。ああ、戒めよ!」魴らの罪は取り調べずに赦し、謁者一人を遣わして延の国を監護させ、官吏や民衆と通じることを許さなかった。(『公羊伝』に「君主や親に対して謀反の心を抱いてはならない。企てたなら必ず誅殺する」とある。『漢書』に「大逆無道の罪は、父母・妻子・同産の者を老幼を問わず皆棄市に処す」とある。愆は過ちの意。謀反を企てながら誅殺しなかったのは先帝の過ちである。)

原文延既徙封,數懷怨望。建初中,復有告延與子男魴造逆謀者,有司奏請檻車徵詣廷尉詔獄。肅宗下詔曰:「王前犯大逆,罪惡尤深,有同周之管、蔡,漢之淮南。〈淮南厲王長,高帝子,文帝時反,被遷於蜀而死也。〉經有正義,律有明刑。〈公羊傳曰:「君親無將,將而必誅。」前書曰:「大逆無道,父母、妻子、同產無少長皆棄市。」〉先帝不忍親親之恩,枉屈大法,為王受愆,〈愆,過也。反而不誅,先帝之過,故言為王受過也。〉腢下莫不惑焉。今王曾莫悔悟,悖心不移,逆謀內潰,自子魴發,誠非本朝之所樂聞。朕惻然傷心,不忍致王於理,今貶爵為阜陵侯,食一縣。獲斯辜者,侯自取焉。於戲誡哉!」赦魴等罪勿驗,使謁者一人監護延國,不得與吏人通。

章和元年(87年)、帝は九江に行幸し、延に書を与えて車駕と寿春で会うように命じた。帝は延とその妻子を見て、哀れに思い悲しみ、詔を下して言った。「昔、周が千八百の爵封を行い、その半分を姫姓が占めたのは、王室の柱石とするためであった。朕が南巡し、淮水と海を望んだのは、阜陵を思ってのことである。ついに侯と相見えたが、侯の志意は衰え、体つきも以前とは変わっており、見るにつけ感慨を覚え、喜びと悲しみが入り交じる。今、再び侯を阜陵王とし、四県を増封し、前と合わせて五県とする。」阜陵は低湿であったため、都を寿春に移し、さらに銭千万、布一万匹、安車一乗を賜い、夫人や諸子にもそれぞれ差等をつけて賞賜を与えた。翌年、入朝した。

原文章和元年|87年,行幸九江,賜延書與車駕會壽春。帝見延及妻子,愍然傷之,乃下詔曰:「昔周之爵封千有八百,而姬姓居半者,所以楨榦王室也。朕南巡,望淮、海,意在阜陵,遂與侯相見。侯志意衰落,形體非故,瞻省懷感,以喜以悲。今復侯為阜陵王,增封四縣,並前為五縣。」以阜陵下濕,徙都壽春,加賜錢千萬,布萬匹,安車一乘,夫人諸子賞賜各有差。明年入朝。

王位に五十一年いて没し、子の殤王沖が嗣いだ。永元二年(90年)、詔を下して以前に延に関して下された文書を全て削除するよう命じた。

原文立五十一年薨,子殤王沖嗣。永元二年|90年,下詔盡削除前班下延事。

沖は二年で没し、後嗣がなかった。和帝は再び沖の兄の魴を封じ、これが頃王である。永元八年、魴の弟十二人を郷侯・亭侯に封じた。

原文沖立二年薨,無嗣。和帝復封沖兄魴,是為頃王。永元八年,封魴弟十二人為鄉、亭侯。

魴は三十年で没し、子の懐王恢が嗣いだ。延光三年、恢の兄弟五人を郷侯・亭侯に封じた。

原文魴立三十年薨,子懷王恢嗣。延光三年,封恢兄弟五人為鄉、亭侯。

恢は十年で没し、子の節王代が嗣いだ。陽嘉二年、代の兄の便親を勃遒亭侯に封じた。

原文恢立十年薨,子節王代嗣。陽嘉二年,封代兄便親為勃遒亭侯。

代は十四年で没し、子がなく、国は絶えた。

原文代立十四年薨,無子,國絕。

建和元年(147年)、桓帝は勃遒亭侯便親を立てて恢の後嗣とし、これが恭王である。十三年で没し、子の孝王統が嗣いだ。八年で没し、子の王赦が立った。建安年間に没し、子がなく、国は除かれた。

原文建和元年|147年,桓帝立勃遒亭侯便親為恢嗣,是為恭王。立十三年薨,子孝王統嗣。立八年薨,子王赦立;建安中薨,無子,國除。

広陵思王荊

原文廣陵思王荊

広陵思王荊は、建武十五年に山陽公に封ぜられ、十七年に進爵して王となった。

原文'''廣陵思王荊''',建武十五年封山陽公,十七年進爵為王。

荊は性質が厳しく陰険で、才能はあったが法律の条文を好んだ。光武帝が崩御し、大行皇帝の御霊が前殿にある時、荊は哀しげに泣かず、匿名の手紙を書き、方底の袋に入れて封じ、下僕に命じて東海王彊の母方の伯父である大鴻臚郭況からの手紙と偽って彊に与えさせた。その文は次の通り。「君王には罪がなく、不当に廃斥され、兄弟の中には縛られて牢獄に入れられた者さえいます。太后はその地位を失い、別に北宮を守り、年老いてからは遠く辺境に斥けられました。天下の人は深く痛み、見る者は鼻を酸ませます。太后の御棺がまだ堂にある時、洛陽の役人が次々と賓客を捕らえて斬り、一家で三つの屍が堂に伏したことさえあり、痛ましいことこの上ありません。今、天下に喪があり、弓弩が厳重に備えられています。近頃、梁松が虎賁史に命じて言ったそうです。『役人は便宜を見て非があれば、何も拘泥せずに行動せよ。封侯は二度と得難い。』と。郎官たちはひそかに悲しみ、王のために寒心し息を詰めています。今、天下の者は競って王を賊と刻んで功を求めようとしており、その量り知れぬことでしょう。もし二国の民衆を合わせて帰属させれば、百万を集めることができ、君王がその主となり、進軍して前に向かうならば、功は泰山で卵を破るよりも易く、四頭の馬が鴻毛を載せるよりも軽いでしょう。これは湯王・武王の兵です。今年、軒轅星に白気があり、星占い師や好事家は皆、白気は喪を意味し、軒轅は女主の位置であると言っています。(隠害とは人を陰で害すること。方底囊は書物を入れる袋。『漢書』に「緑綈方底」とある。太后とは郭后のこと。職は常の意。常の位を失い、別に北宮へ移された。魯に封じられた。便宜の事で非があれば、直ちに行い、常制に拘るな。累息は息を重ねること。喜事は好事と同じ。喜の音は許気反。)

原文荊性刻急隱害,〈隱害謂陰害於人也。〉有才能而喜文法。光武崩,大行在前殿,荊哭不哀,而作飛書,封以方底,〈方底囊,所以盛書也。前書曰:「綠綈方底。」〉令蒼頭詐稱東海王彊舅大鴻臚郭況書與彊曰:「君王無罪,猥被斥廢,而兄弟至有束縛入牢獄者。太后失職,別守北宮,〈太后,郭后也。職,常也。失其常位,別遷北宮。〉及至年老,遠斥居邊,〈封之於魯。〉海內深痛,觀者鼻酸。及太后屍柩在堂,洛陽吏以次捕斬賓客,至有一家三屍伏堂者,痛甚矣!今天下有喪,弓弩張設甚備。間梁松勑虎賁史曰:『吏以便宜見非,勿有所拘,〈以便宜之事而有非者,當即行之,勿拘常制也。〉封侯難再得也。』郎官竊悲之,為王寒心累息。〈累息猶疊息也。〉今天下爭欲思刻賊王以求功,寧有量邪!若歸並二國之觿,可聚百萬,君王為之主,鼓行無前,功易於太山破雞子,輕於四馬載鴻毛,此湯、武兵也。今年軒轅星有白氣,星家及喜事者,〈喜事猶好事也。喜音許氣反。〉皆云白氣者喪,軒轅女主之位。

また太白星が以前に西方に出て、午の方向に至れば兵が起こるはずです。また太子星の色が黒く、辰の日になるとすぐに赤に変わります。黒は病を、赤は兵を意味します。王よ、努めて事を成し遂げてください。高祖は亭長から起こり、陛下は白水から興りました。ましてや王は陛下の長子で、副主であるのにどうでしょう。上は天下の事を必ず成就させ、下は沈んだ恥を雪ぎ、亡き母の仇を報いるためです。精誠が加われば、金石も開きます。秋霜となって物を粛清すべきであり、檻の中の羊となってはなりません。たとえ檻の中の羊になろうとしても、果たしてできるでしょうか。私は諸々の相工が王の貴いことを言うのを見ましたが、それは天子の相法です。人主が崩御すれば、市井の者たちでさえ盗賊となり、何かを望もうとするのです。まして王においておや。天命を受けた君主は、天が立てたものであり、謀ることはできません。今の新帝は人が立てたもので、強い者が勝つのです。願わくば君王は高祖や陛下が志したところを行い、扶蘇や将閭のように天に向かって叫ぶことのないように。」彊はこの手紙を得て恐れおののき、すぐにその使者を捕らえ、手紙を封じて上奏した。(『洪范五行伝』に「太白は少陰の星で、己未を境とし、天を経て行くことはできない。太白が天を経て行くのは不臣の行いである」とある。今、午に至るのは天を経ることである。『天官書』に「心前の星は太子の位」とある。『韓詩外伝』に「昔、楚の熊渠子が夜行し、寝石を見て伏虎と思い、弓を引いて射ると、金に没し羽を飲んだ。下りて見ると石と知り、再び射たが、矢は摧けて跡がなかった。熊渠子の誠心により金石が開いた。まして人においておや」とある。秋霜は物を粛殺する。檻羊は人に制せられる。陛下とは光武のこと。扶蘇は秦始皇の太子。将閭は庶子。扶蘇はたびたび始皇を諫めたため、蒙恬と共に北辺を守らされた。始皇が沙丘で死ぬと、少子胡亥が詐って立ち、扶蘇に死を賜った。将閭の兄弟三人は内宮に囚われた。胡亥は将閭に「公子は不臣で、罪は死に当たる」と言わせた。将閭は仰いで天を三度大呼びして「天よ、我に罪はない」と言い、兄弟三人は皆涙を流して剣に伏して自殺した。事は『史記』に見える。)

原文又太白前出西方,至午兵當起。〈*(鴻)**[洪]*范五行傳曰:「太白,少陰之星,以己未為界,不得經天而行。太白經天而行為不臣。」今至午,是為經天也。〉又太子星色黑,至辰日輒變赤。〈天官書曰「心前星,太子之位」也。〉夫黑為病,赤為兵,王努力卒事。高祖起亭長,陛下興白水,何況於王陛下長子,故副主哉!上以求天下事必舉,下以雪除沉沒之恥,報死母之讎。精誠所加,金石為開。〈韓詩外傳曰:「昔者楚熊渠子夜行,見寢石,以為伏虎,彎弓而射之,沒金飲羽。下視,知其石也,因復射之,矢摧無跡。熊渠子見其誠心而金石為之開,而況人乎。」〉當為秋霜,無為檻羊。〈秋霜,肅殺於物。檻羊,受制於人。〉雖欲為檻羊,又可得乎!竊見諸相工言王貴,天子法也。人主崩亡,閭閻之伍尚為盜賊,欲有所望,何況王邪!夫受命之君,天之所立,不可謀也。今新帝人之所置,強者為右。願君王為高祖、陛下所志,〈陛下即光武也。〉無為扶蘇、將閭叫呼天也。」〈扶蘇,秦始皇之太子。將閭,庶子也。扶蘇以數諫始皇,使與蒙恬守北邊。始皇死於沙丘,少子胡亥詐立,賜扶蘇死。將閭昆弟三人囚於內宮。胡亥使謂將閭曰:「公子不臣,罪當死。」將閭乃仰天而大呼天者三,曰:「天乎!吾無罪。」昆弟三人皆流涕,伏劒自殺。事見史記。〉強得書惶怖,即執其使,封書上之。

顕宗は劉荊が同母弟であったため、その事を秘密にし、劉荊を出して河南宮に住まわせた。当時、西羌が反乱を起こし、劉荊は志を得られず、天下が羌の動乱に驚いて変事が起こることを期待し、密かに星占いのできる者を迎えて謀議した。帝はこれを聞き、劉荊を広陵王に封じ替えて国へ赴かせた。その後、劉荊は再び人相見を呼んで言った。「私の容貌は先帝に似ている。先帝は三十歳で天下を得た。私は今も三十歳だ。兵を起こすことはできないか?」人相見が役人に告げたので、劉荊は恐れおののき、自ら進んで獄につながれた。帝は再び恩を加え、その事を徹底的に追及せず、詔を下して官吏や民を臣下とすることを禁じたが、従来通り租税を食むことは許し、相と中尉に謹んで宿衛させた。劉荊はなお改めなかった。その後、巫女を使わせて祭祀を行い呪詛したので、有司が挙奏して誅殺を請うた。劉荊は自殺した。王位に立って二十九年で死んだ。帝は哀れみ傷み、諡を思王と賜った。

原文顯宗以荊母弟,秘其事,遣荊出止河南宮。時西羌反,荊不得志,冀天下因羌驚動有變,私迎能為星者與謀議。帝聞之,乃徙封荊廣陵王,遣之國。其後荊復呼相工謂曰:「我貌類先帝。先帝三十得天下,我今亦三十,可起兵未?」相者詣吏告之,荊惶恐,自繫獄。帝復加恩,不考極其事,下詔不得臣屬吏人,唯食租如故,使相、中尉謹宿衛之。荊猶不改。其後使巫祭祀祝詛,有司舉奏,請誅之,荊自殺。立二十九年死。帝憐傷之,賜謚曰思王。

十四年、劉荊の子の劉元寿を広陵侯に封じ、王の璽綬を用いることを許し、劉荊の旧国の六県の租税を食ませた。また劉元寿の弟三人を郷侯に封じた。翌年、帝が東方を巡狩した際、劉元寿兄弟を召して東平宮で会い、御服や器物を分け与え、さらに皇子の車馬を取ってすべて彼らに与えた。建初七年(82年)、粛宗は詔を下し、劉元寿兄弟に諸王とともに朝廷に参朝させた。

原文十四年,封荊子元壽為廣陵侯,服王璽綬,食荊故國六縣;又封元壽弟三人為鄉侯。明年,帝東巡狩,徵元壽兄弟會東平宮,班賜御服器物,又取皇子輿馬,悉以與之。建初七年|82年,肅宗詔元壽兄弟與諸王俱朝京師。

劉元寿が卒去すると、子の劉商が嗣いだ。劉商が卒去すると、子の劉条が嗣ぎ、国は後世に伝えられた。

原文元壽卒,子商嗣。商卒,子條嗣,傳國於後。

臨淮懐公劉衡

原文臨淮懷公衡

臨淮懐公劉衡は、建武十五年(39年)に立てられたが、王に進爵される前に薨去し、子がなかったため、国は除かれた。

原文'''臨淮懷公衡''',建武十五年立,未及進爵為王而薨,無子,國除。

中山簡王劉焉

原文中山簡王焉

中山簡王劉焉は、建武十五年(39年)に左馮翊公に封じられ、十七年(41年)に王に進爵された。劉焉は郭太后の末子であったため、ただ一人都に留まった。三十年(54年)、中山王に転封された。永平二年(59年)冬、諸王が辟雍に会したが、事が終わって藩国に帰る際、詔により劉焉もともに国に就くこととなり、虎賁や官騎が従った。劉焉が上疏して辞退すると、顕宗は答えて言った。「およそ諸侯が国境を出るには、必ず左右を備えるものである。ゆえに夾谷の会では、司馬が従ったのである。今、五国はそれぞれ官騎百人を有し、整然と行列をなして進む。これらは皆、北軍の胡騎で、武芸に長け弓術に優れ、弓は空しく発せず、必ず目尻を射抜く。文事があれば必ず武備がある。これが藩国の職務を重んじる所以である。王は辞退されるな。」帝は劉焉が郭太后に偏愛されているため、特に恩寵を加え、ただ一人往来して都にいることを許した。十五年(72年)、劉焉の側室の韓序が過失を犯したので、劉焉は彼女を絞殺した。国相が挙奏したため、安険県を削封される罪に坐した。元和年間(84-87年)、粛宗は再び安険県を中山に戻した。(『漢官儀』に「騶騎、王家の名は官騎」とある。『穀梁伝』に、公が斉侯と頰谷で会し、斉人が鼓噪して魯君を捕らえようとした。孔子が階を歴て上り、司馬に命じて止めさせた。『左氏伝』では「頰谷」を「夾谷」に作る。娖の音は楚角反。称娖は斉整と同じ。行の音は胡郎反。司馬相如の『子虚賦』の文。安険は中山郡に属す。)

原文'''中山簡王焉''',建武十五年封左*(馮)*翊公,十七年進爵為王。焉以郭太后少子故,獨留京師。三十年,徙封中山王。永平二年|59年冬,諸王來會辟雍,事畢歸蕃,詔焉與俱就國,從以虎賁官騎。〈漢官儀:「騶騎,王家名官騎。」〉焉上疏辭讓,顯宗報曰:「凡諸侯出境,必備左右,故夾谷之會,司馬以從。〈穀梁傳曰,公會齊侯於頰谷,齊人鼓噪,欲以執魯君。孔子歷階而上,命司馬止之。左氏傳「頰谷」作「夾谷」。〉今五國各官騎百人,稱娖前行,〈娖音楚角反。稱娖猶齊整也。行音胡郎反。〉皆北軍胡騎,便兵善射,弓不空發,中必決眥。〈司馬相如子虛之文。〉夫有文事必有武備,所以重蕃職也。王其勿辭。」帝以焉郭太后偏愛,特加恩寵,獨得往來京師。十五年,焉姬韓序有過,焉縊殺之,國相舉奏,坐削安險縣。〈安險屬中山郡。〉元和中,肅宗復以安險還中山。

五十二年王位に在り、永元二年(90年)に薨去した。中興以来和帝の時代まで、皇子で初封のまま薨去した者は、皆、賻として銭三千万、布三万匹を賜った。嗣王が薨去した場合は、銭千万、布一万匹を賜った。この時、竇太后が臨朝し、竇憲兄弟が権力を擅にしていた。太后と竇憲らは、東海王劉彊の出であるため、劉焉と親しくし礼を重んじ、賻銭を一億加えた。詔により済南王と東海王の二王も皆、会葬した。大いに陵墓を修築し、神道を開き、平らにするために官吏や民の墓を数千も動かし、工事に従事する者は一万人余りに及んだ。常山、鉅鹿、涿郡の柏の黄腸や雑木を徴発したが、三郡では調達できず、さらに他の州郡の工徒や送致する者数千人を徴発した。すべて徴発して動揺させたのは六州十八郡に及び、その制度・規模は他の国々の及ぶところではなかった。(『爾雅』に「女子の子を出と為す」とある。墓前に道を開き、石柱を建てて標とし、これを神道と謂う。黄腸は柏木の黄心。)

原文立五十二年,永元二年|90年薨。自中興至和帝時,皇子始封薨者,皆賻錢三千萬,布三萬疋;嗣王薨,賻錢千萬、布萬疋。是時竇太后臨朝,竇憲兄弟擅權,太后及憲等,東海出也,〈爾雅曰「女子之子為出」也。〉故睦於焉而重於禮,加賻錢一億。詔濟南、東海二王皆會。大為修頤塋,開神道,〈墓前開道,建石柱以為標,謂之神道。〉平夷吏人頤墓以千數,作者萬餘人。發常山、鉅鹿、涿郡柏黃腸雜木,〈黃腸,柏木黃心。〉三郡不能備,復調餘州郡工徒及送致者數千人。凡征發搖動六州十八郡,制度餘國莫及。

子の夷王劉憲が嗣いだ。永元四年(92年)、劉憲の弟十一人を列侯に封じた。

原文子夷王憲嗣。永元四年,封憲弟十一人為列侯。

劉憲は二十二年王位に在って薨去し、子の孝王劉弘が嗣いだ。永寧元年(120年)、劉弘の二人の弟を亭侯に封じた。

原文憲立二十二年薨,子孝王弘嗣。永寧元年|120年,封弘二弟為亭侯。

劉弘は二十八年王位に在って薨去し、子の穆王劉暢が嗣いだ。永和六年(141年)、劉暢の弟の劉荊を南郷侯に封じた。

原文弘立二十八年薨,子穆王暢嗣。永和六年|141年,封暢弟荊為南鄉侯。

劉暢は三十四年王位に在って薨去し、子の節王劉稚が嗣いだが、子がなく、国は除かれた。

原文暢立三十四年薨,子節王稚嗣,無子,國除。

琅邪孝王劉京

原文琅邪孝王京

琅邪孝王劉京は、建武十五年(39年)に琅邪公に封じられ、十七年(41年)に王に進爵された。

原文'''琅邪孝王京''',建武十五年封琅邪公,十七年進爵為王。

劉京は性質が恭順で孝行であり、経学を好んだ。顕宗は特に寵愛し、賞賜と恩寵は格別で、比べる者はいなかった。永平二年(59年)、泰山郡の蓋県、南武陽県、華県、東萊郡の昌陽県、盧郷県、東牟県の六県を琅邪国に加増した。五年(62年)、国に就いた。光烈皇后が崩御すると、帝は太后の遺した金宝財物をすべて劉京に賜った。劉京の都は莒にあったが、宮室を修築することを好み、技巧を極め、殿館の壁帯をすべて金銀で飾った。しばしば詩賦を献上して徳を称え、帝はこれを嘉して賞美し、史官に下した。劉京の国中には城陽景王の祠があり、官吏や民が祭祀を奉じていた。神がたびたび託宣を下し、宮中が多くの点で不便であると言ったので、劉京は上書して宮を開陽に移し、華、蓋、南武陽、厚丘、贛榆の五県と引き換えに東海郡の開陽、臨沂を得たいと願い出た。粛宗はこれを許した。三十一年王位に在って薨去し、東海郡即丘県の広平亭に葬られた。詔により、この亭を開陽県に割り属させた。(蓋県の故城は今の沂州沂水県の西北にある。南武陽県の故城は今の沂州費県の西にあり、また華県の故城は費県の東北にある。昌陽は今の萊州の県で、故城は今の聞登県の西南にある。盧郷の故城は今の昌陽県の西北にある。東牟の故城は聞登県の西北にある。壁帯は壁中の横木で、金銀で釭を作り、その上を飾る。華県・蓋県・南武陽は泰山郡に属し、厚丘は東海郡に属し、贛榆は琅邪郡に属す。開陽は県で、東海郡に属し、故城は今の沂州臨沂県の北にある。)

原文京性恭孝,好經學,顯宗尤愛幸,賞賜恩寵殊異,莫與為比。永平二年|59年,以太山之蓋、南武陽、華,〈蓋縣故城在今沂州沂水縣西北。南武陽縣故城在今沂州費縣西,又華縣故城在費縣東北也。〉東萊之昌陽、盧鄉、東牟六縣益琅邪。〈昌陽,今萊州縣也,故城在今聞登縣西南。盧鄉故城今昌陽縣西北。東牟故城在聞登縣西北也。〉五年,乃就國。光烈皇后崩,帝悉以太后遺金寶財物賜京。京都莒,好修宮室,窮極伎巧,殿館壁帶皆飾以金銀。〈壁帶,壁中之橫木也,以金銀為釭,飾其上。〉數上詩賦頌德,帝嘉美,下之史官。京國中有城陽景王祠,吏人奉祠。神數下言,宮中多不便利,京上書願徙宮開陽,以華、蓋、南武陽、厚丘、贛榆五縣〈華縣、蓋縣、南武陽屬泰山郡,厚丘屬東海郡,贛榆屬琅邪郡。〉易東海之開陽、臨沂,肅宗許之。立三十一年薨,葬東海即丘廣平亭,有詔割亭屬開陽。〈開陽,縣,屬東海郡,故城在今沂州臨沂縣北。〉

子の夷王劉宇が後を嗣いだ。建初七年(82年)、劉宇の弟十三人を列侯に封じた。元和元年(84年)、孝王の孫二人を列侯に封じた。

原文子夷王宇嗣。建初七年|82年,封宇弟十三人為列侯。元和元年|84年,封孝王孫二人為列侯。

劉宇は二十年間在位して薨去し、子の恭王劉壽が後を嗣いだ。永初元年(107年)、劉壽の弟八人を列侯に封じた。

原文宇立二十年薨,子恭王壽嗣。永初元年|107年,封壽弟八人為列侯。

十七年間在位して薨去し、子の貞王劉尊が後を嗣いだ。延光二年、劉尊の弟四人を郷侯に封じた。

原文立十七年薨,子貞王尊嗣。延光二年,封尊弟四人為鄉侯。

劉尊は十八年間在位して薨去し、子の安王劉據が後を嗣いだ。永和五年(140年)、劉據の弟三人を郷侯に封じた。

原文尊立十八年薨,子安王據嗣。永和五年|140年,封據弟三人為鄉侯。

劉據は四十七年間在位して薨去し、子の順王劉容が後を嗣いだ。初平元年、弟の劉邈を長安に遣わして上奏文と貢物を献上させた。帝は劉邈を九江太守とし、陽都侯に封じた。(陽都は県で、城陽国に属し、故城は今の沂州承県の南にある。承の音は常証反。)

原文據立四十七年薨,子順王容嗣。初平元年,遣弟邈至長安奉章貢獻,帝以邈為九江太守,封陽都侯。〈陽都,縣,屬城陽國,故城在今沂州承縣南。承音常證反。〉

劉容は八年間在位して薨去し、封国は絶えた。

原文容立八年薨,國絕。

初め、劉邈が長安に至った時、東郡太守曹操が帝に対して忠誠であると盛んに称えたため、曹操はこのことで劉邈に恩義を感じた。建安十一年、再び劉容の子劉熙を王に立てた。在位十一年、江を渡ろうと謀った罪に坐し、誅殺され、封国は除かれた。

原文初,邈至長安,盛稱東郡太守曹操忠誠於帝,操以此德於邈。建安十一年,復立容子熙為王。在位十一年,坐謀欲過江,被誅,國除。

【贊】

原文【贊】

贊に曰く:光武帝の十人の子は、封土を賜り分かれて王となった。沛獻王は節度を尊び、楚英王は流刑に処された。劉延は既に怨み呪い、劉荊もまた不満を抱いた。済南王は陰謀を企て、琅邪王は驕り高ぶった。中山王、臨淮王は、夭折したという話は聞かれない。東平王は善を好み、辞して宰相の任を委ねた。謙譲の恭王は、まことに三度の譲位を行った。(尊の音は祖本反。『礼記』に「恭敬撙節」とある。鄭玄の注に「撙は趨なり」とある。二王は早くに終わり、名聞はまだ著れなかった。)

原文贊曰:光武十子,胙土分王。沛獻尊節,楚英流放。〈尊音祖本反。禮記曰:「恭敬撙節。」鄭玄注云:「撙,趨也。」〉延既怨詛,荊亦觖望。濟南陰謀,琅邪驕宕。中山、臨淮,無聞夭喪。〈二王早終,名聞未著也。〉東平好善,辭中委相。謙謙恭王,寔惟三讓。

一四三一頁二行 隰陰 按:集解が引用する恵棟の説によれば、本志および宗俱碑は「濕陰」と作っており、前書の志は「漯陰」と作っている。また、銭大昕の説を引用すると、「隰」はおそらく「漯」の誤りであるという。

原文一四三一頁二行 隰陰 按:集解引惠棟說,謂本志及宗俱碑作「濕陰」,前書志作「漯陰」。又引錢大昕說,謂「隰」蓋「漯」之鬥。

一四三一頁一二行 惑亂和氣 按:汲本と殿本では「惑」を「感」と作っている。

原文一四三一頁一二行 惑亂和氣 按:汲本、殿本「惑」作「感」。

一四三二頁一〇行 顧夷*(吾)**[吳]*地記云 集解が引用する恵棟の説によれば、これは顧夷が撰した呉地記であるが、「呉」が「吾」と誤っている。今これに拠って改める。

原文一四三二頁一〇行 顧夷*(吾)**[吳]*地記云 集解引惠棟說,謂此顧夷所撰吳地記也,「吳」訛「吾」。今據改。

一四三二頁一三行 鼓吹妓女宋閏 按:「妓」の字は「伎」と作るべきであり、各本はすべて正していない。梁冀伝の校記を参照のこと。

原文一四三二頁一〇行 顧夷*(吾)**[吳]*地記云 集解引惠棟說,謂此顧夷所撰吳地記也,「吳」訛「吾」。今據改。

一四三二頁一四行 永元十一年に錯の弟七人を列侯に封ずる 按:汲本は「十二年」と作っている。

原文一四三二頁一四行 永元十一年封錯弟七人為列侯 按:汲本作「十二年」。

一四三三頁七行 要帶八圍 汲本と殿本は「十圍」と作っている。今按ずるに、御覽三七一、三七八の引用は、ともに「八圍」と作っており、「十圍」と作るものは誤りであると疑われる。

原文一四三三頁七行 要帶八圍 汲本、殿本作「十圍」。今按:御覽三七一、三七八引,並作「八圍」,疑作「十圍」者誤也。

一四三三頁一〇行 山陽の南平陽*(稾)**[橐]*湖陵五県 殿本考證および集解が引用する沈欽韓の説に拠って改める。注も同じ。

原文一四三三頁一〇行 山陽之南平陽*(稾)**[橐]*湖陵五縣 據殿本考證及集解引沉欽韓說改。注同。

一四三五頁一四行 宦三年矣 按:「三」は原斗で「二」となっており、逕に改正する。

原文一四三五頁一四行 宦三年矣 按:「三」原斗「二」,逕改正。

一四三五頁一四行 而為簞食*[與肉以]*與之 汲本と殿本に拠って補う。

原文一四三五頁一四行 宦三年矣 按:「三」原斗「二」,逕改正。

一四三五頁一四行 既而*(與)**[輒]*為公介*[士]* 汲本と殿本に拠って削除・補足する。

原文一四三五頁一四行 宦三年矣 按:「三」原斗「二」,逕改正。

一四三七頁四行 快然意解 按:校補が引用する銭大昭の説によれば、「快」は通鑒では「恢」と作っており、注に云う、恢然は猶お廓然なりと。

原文一四三七頁四行 快然意解 按:校補引錢大昭說,謂「快」通鑒作「恢」,注云恢然猶廓然也。

一四三九頁一四行 *[禮云]*伯父歸寧乃國 汲本に拠って補う。按ずるに、殿本は「禮伯父歸寧乃國」と作っている。刊誤は謂う、この語は本来儀礼に出ており、既に下文に「詩云」の字があるので、ここにも「禮云」の字があるべきであると。

原文一四三九頁一四行 *[禮云]*伯父歸寧乃國 據汲本補。按:殿本作「禮伯父歸寧乃國」。刊誤謂此語本出儀禮,既下文有「詩云」字,既此亦當有「禮云」字。

一四四〇頁四行 乃獨封蒼五女為縣公主 按:袁紀は云う、女三人を封じて皆公主としたと。

原文一四四〇頁四行 乃獨封蒼五女為縣公主 按:袁紀云封女三人皆為公主。

一四四一頁三行 輿馬 按:校補が引用する柳従辰の説によれば、東観記は「賾馬」と作っている。

原文一四四一頁三行 輿馬 按:校補引柳從辰說,謂東觀記作「賾馬」。

一四四一頁九行 惟建初八年三月己卯 按:校補が引用する銭大昭の説によれば、紀は「辛卯」と作っている。

原文一四四一頁九行 惟建初八年三月己卯 按:校補引錢大昭說,謂紀作「辛卯」。

一四四二ページ四行目「忠立*(十)*一年薨」の箇所について、集解が洪頤煊の説を引用し、憲王は建初八年に薨じ、忠はその年に嗣いだとし、章帝紀の元和元年九月乙未に東平王忠が薨じたとあることから、忠の在位はわずか一年であり、「十」の字は衍字であるとしている。これに従って削除した。

原文一四四二頁四行 忠立*(十)*一年薨 集解引洪頤粻說,謂憲王建初八年薨,忠即以是年嗣,章帝紀元和元年九月乙未東平王忠薨,忠立僅一年,「十」字衍。今據刪。

一四四二ページ六行目「驃騎時吏」について、殿本考証は「時」の字は通鑑に従って「府」とすべきであるとしている。ここでは、蒼が驃騎将軍であった時の掾属を指しているのであり、「時」の字も間違いではないが、通鑑が「府吏」と改めている方がより明確であると考える。

原文一四四二頁六行 驃騎時吏 殿本考證謂「時」字應從通鑒作「府」。今按:此謂蒼為驃騎將軍時之掾屬,「時」字亦非鬥,特通鑒改云「府吏」,較為明確耳。

一四四三ページ七行目「左傳*(曰)*晉大夫士蒍之辭也」の「曰」の字は衍字であり、諸本はいずれも正していない。ここで削除した。

原文一四四三頁七行 左傳*(曰)*晉大夫士蒍之辭也 「曰」字衍,各本皆未正,今刪。

一四四四ページ一行目「桓帝立河閒孝王子*(恭為)*參戶亭侯博為任城王」について、刊誤は「桓帝立河閒孝王恭子參戶亭侯博為任城王」とすべきであるとしている。校補は、河閒孝王の名は開であって恭ではなく、また諡は名を避けるものであり、諸王は既に諡で称されているので必ずしもその名を記す必要はなく、「恭為」の二字はともに誤って衍っているとしている。校補の説に従って削除した。

原文一四四四頁四行 靈帝復立河閒貞王*(遜)**[建]**[子]*新昌侯*(子)*佗為任城王 校補謂貞王名建,靈帝紀及河閒孝王傳皆同,此作「遜」,誤。又汲本、殿本「子」字在「新昌侯」上。今據改。

一四四四ページ四行目「靈帝復立河閒貞王*(遜)**[建]**[子]*新昌侯*(子)*佗為任城王」について、校補は貞王の名は建であり、霊帝紀及び河閒孝王伝も同じであるとし、ここで「遜」としているのは誤りであるとしている。また汲本、殿本では「子」の字が「新昌侯」の上にある。これに従って改めた。

原文一四四四頁四行 靈帝復立河閒貞王*(遜)**[建]**[子]*新昌侯*(子)*佗為任城王 校補謂貞王名建,靈帝紀及河閒孝王傳皆同,此作「遜」,誤。又汲本、殿本「子」字在「新昌侯」上。今據改。

一四四七ページ一六行目「*(鴻)**[洪]*范五行傳」は、汲本、殿本に従って改めた。

原文一四四七頁一六行 *(鴻)**[洪]*范五行傳 據汲本、殿本改。

一四四九ページ四行目「封左*(馮)*翊公」について、刊誤は光武帝紀において焉を左翊公に封じたとあり、右翊公と対をなしているとしている。ここでは「馮」の字が衍っているので削除した。前の「封右翊公」の条の校記を参照のこと。

原文一四四九頁五行 諸王來會辟雍 按:「辟」原斗「璧」,逕據汲本、殿本改正。

一四四九ページ五行目「諸王來會辟雍」について、「辟」の字が原刻では「璧」と誤っている。汲本、殿本に従って直ちに改めた。

原文一四四九頁五行 諸王來會辟雍 按:「辟」原斗「璧」,逕據汲本、殿本改正。

一四五〇ページ九行目「爾雅曰女子之子為出也」について、汲本、殿本では「為」を「謂」としている。爾雅には「男子謂姊妹之子為出」とある。

原文一四五〇頁九行 爾雅曰女子之子為出也 汲本、殿本「為」作「謂」。按:爾雅云「男子謂姊妹之子為出」。

注釈

原文註釋