班固下
主人は深く嘆息して言った。「ああ、風俗が人を移し変えるとは痛ましいことだ!あなたはまさに秦の人であり、故郷の館室を誇り、河山の険を守って境界とし、確かに昭王・襄王を知り、始皇を知っているが、どうして大漢の雲のごとき偉業を見たことがあろうか。そもそも大漢がその源を開いたのは、布衣の身から奮起して皇極に登り、数年の歳月を経て万世の基を創り上げたのであり、六経が語り得ず、前代の聖人も言い得なかったことである。この時、功績は横暴ながら天に応じ、討伐は逆臣ながら民に順った。ゆえに婁敬は形勢を測ってその説を献じ、蕭何は臨機応変にその制度を拡大した。当時はどうして泰平で安泰だったと言えようか。やむを得ない計略であったのだ。あなたはかつてこれを見ず、かえって後世の末代の造営を誇示するとは、あまりにも暗愚ではないか。今、あなたに建武の治、永平の事績を語り、太清のありさまを鑑として、あなたの惑いし志を変えよう。」
(注[一]喟は嘆息の様子。前漢書に曰く、「人には剛柔緩急があり、音声が異なるのは、水土の風気によるもので、これを風という。好悪取捨、動静が常ならざるのは、君主の情欲に従うもので、これを俗という。」保は守ることで、河山の険を守って境界とすることを言う。昭、襄は昭王、襄王である。悪は安、音は烏。)
(注[二]漢の高祖は言った、「私は布衣の身から、三尺の剣を提げて天下を取った。」高祖が兵を起こして五年で帝位に即いたので、数年の歳月を経てと言う。繇は即ち由である。孔安国が尚書に注して言う、「四時をめぐることを開という。」万代は、盛大に言ったもの。六籍は六経である。)
(注[三]横の音は胡孟反。高祖が関に入ると、秦の王子嬰が降伏し、五星が東井に集まった。これが功が横暴ながら天に応じたことである。逆とは臣下が君主を討つこと。前漢書に陸賈が言う、「湯武は逆に取って順に守った。」また高祖が関に入ると、秦の民が争って牛酒を献じた。これが討伐が逆臣ながら民に順ったことである。婁敬は既に上に見える。また言う、「蕭何が未央宮を修築し、皇帝がその壮麗さを見て大いに怒った。何が答えて言った、『天下未だ定まらず、故にこれに因りて宮室を成すことができます。かつ天子は四海を家とし、壮麗でなければ威厳を示すことができず、また後代にこれに加える余地を残さないためです。』」当時はどうして奢侈で安泰だったと言えようか。天下が初めて定まり、都を西京に定める計略を止めることができなかったことを言う。)
(注[四]顧は反対に。耀は誇示すること。あなたが形勢を測り臨機応変の理由を見ず、かえって後嗣の子孫の末代の造営を誇示するとは、盛んに武帝や成帝の神仙、昭陽の事績を称えることではない、と言う。)
(注[五]淮南子に言う、「太清の化は、和順にして寂漠、質直にして素樸である。」高誘が注して言う、「太清は無為の化である。」)
(注[一]天人とは天意と人事が共に誅伐を加えること。)
(注[二]人は神の主である。生きた人が既に亡ければ、鬼神もまた絶える。揚子の法言に言う、「秦の将白起の長平の戦いでは、四十万人を坑に埋め、原野は人の肉で満ち、川谷は人の血で流れた」という。)
(注[三]上帝は天である。聖皇は光武帝。懐は憐れみ思うこと。降は下すこと。鑒は視ること。上天が下民の上訴を憐れみ思う故に、四海を見下ろして君主となるべき者に天命を下し、光武帝に命じたことを言う。)
(注[四]干符、坤珍は天地の符瑞を言う。皇図、帝文は図緯の文を言う。霆は疾雷。昆陽に発するとは王尋、王邑を破ったこと。憑は盛んなこと。盛怒が雷の震えるようであると言う。協韻で音は真。)
(注[五]跨は拠えること。光武帝が河を渡り北嶽を拠え、遂に鄗で即位し、鄗を高邑と改めたことを言う。)
(注[六]紹は継ぐこと。屯は困難。高誘が淮南子に注して言う、「造化は天地である。」滌は除くこと。作は起こすこと。杜預が左伝に注して言う、「凡そ人君即位するは、元を体して正に居らんと欲する。」谷梁伝に曰く、「天下の主たる者は天なり。天を継ぐ者は君なり。」)
(注[七]爾雅に曰く、「系は継ぐなり。緒は業なり。」前漢書に曰く、「漢帝の本系は唐帝より出づ。」光武帝が唐堯の統業を継ぐことができたことを言う。恢は大いにする。三五は三皇五帝。)
注[八]軌とは轍のこと。紛綸とは雑踏する様子。爾雅に「後、辟は君なり」とある。険易とは治乱のこと。光武帝の功徳と勤労は、前代の百王を兼ね備え、ただ一人の聖帝に留まらないことを言う。
注[九]易に「天地が革まり四時が成る」とある。また「湯武は革命す」ともある。爾雅に「九夷、八狄、七戎、六蠻を四海と謂う」とある。基とは始まり。帝王紀に「庖犧氏は風姓なり。嫁娶の礼を制し、犠牲を取って庖厨に充て、以て天下に食わせ、故に庖犧と号す。後或いは伏犧と謂う」とある。光武帝が夫婦の道を伏犧の時代のように再興したことを言う。
注[一〇]黄帝は軒轅氏と号す。前書に「昔し黄帝に在りて、野を画し州を分つ」とある。易繋辞に「神農氏は日中を市と為す。黄帝、堯、舜は衣裳を垂れて天下を治む。木を刳りて舟と為し、木を剡りて楫と為し、牛に服し馬に乗り、重きを引き遠きを致し、以て天下を利す。木に弦して弧と為し、木を剡りて矢と為し、弧矢の利を以て天下を威す」とある。光武帝が人々を利することを軒轅のようであったことを言う。
注[一一]尚書で武王が「今、予惟だ天の罰を龔行す」と言う。易に「湯武の革命は、天に順い人に応ず」とある。光武帝の征伐が湯や武王のようであったことを言う。
注[一二]尚書に「盤庚、殷に遷る」とある。史記に「帝陽甲の時、殷衰え、諸侯朝する者なし。陽甲崩じ、弟盤庚立つ。河北より河南に渡り、湯の故地に居り、湯の政を行い、殷の道復興す」とある。尚書に「王来たりて上帝を紹ぎ、自ら土中に服す」とある。孔安国が「洛邑は地勢の中なり」と注す。春秋命歴序に「成康の隆盛、醴泉湧き出づ」とある。洛陽に都したことが殷の高宗や周の成王の制度のようであったことを言う。
注[一三]孟子に「紂は武丁より去ること未だ久しからず、尺の地も其の有に非ざるはなく、一人も其の臣に非ざるはなし」とある。また「舜と文王は相去ること千有餘歳、符契を合するが若し」とある。
注[一四]左伝で仲尼が「古に志有り、己に克ち礼に復るは仁なり」と言う。孫卿子に「生は人の始め、死は人の終わりなり。終始倶に善くすれば、人道畢る」とある。尚書に「允に恭しく譲を克す」とある。自ら倹約し、文帝と同じであったことを言う。
注[一五]憲章とは法則の如し。礼記に「仲尼は文武を憲章す」とある。尚書に「古の帝堯を稽へるが若し」とある。古を考証して法則とし、泰山を封じ、石に刻んで成功を記したことを言う。炳とは明らかなことで、その礼儀が武帝の時のように明らかであったことを言う。
注[一六]六経とは詩、書、礼、楽、易、春秋をいう。妙とは美。或いは「眇」と作り、眇は遠い意。該は備わる意。
永平の時代に至っては、重ねて光明を積み重ね治績を重ね、三雍の盛大な儀式を整え、袞龍の礼装を修め、広大な文藻を敷き、輝かしい功績を信じ、世祖廟を称揚し、予楽を正した。人と神の和合はまことに調い、君臣の秩序は既に厳かであった。そこで大路を動かし、皇衢に従い、地方を巡視し、万国の有無を窮め尽くして見渡し、声教の及ぶ所を考察し、皇明を散じて幽暗を照らした。その後、周の旧制を増補し、洛邑を修築し、軽やかで高く聳え、顕著で整然とし、漢の都を諸夏において輝かせ、八方を総括してその極みとした。それ故に皇城の内では、宮室は明るく輝き、宮門と庭は神々しく麗しく、奢っても限度を超えず、倹約しても粗末にならなかった。外では原野に因って苑を造り、流れる泉に順って沼とし、蘋藻を生やして魚を潜ませ、園の草を豊かにして獣を育て、その制度は梁騶と同じく、その意義は霊囿に合致した。
もし季節に順って狩猟を行い、車馬と兵士を選んで武事を講じる時には、必ず王制に則って臨み、風雅によって考察した。騶虞の詩を経て、四驖の詩を覧て、車攻の詩を賞賛し、吉日の詩を採り、礼官が儀式を正し、乗輿が出発した。そこで鯨魚の形をした杵を動かし、華鐘を鳴らし、玉輅に登り、時龍に乗り、鳳蓋は颯爽と翻り、和鸞は玲瓏と響き、天官のごとき臣下が影のように従い、威厳に満ちた盛んな姿であった。山の霊が野を護り、属御が四方の神を従え、雨師が広く雨を降らせ、風伯が塵を清め、千乗の車が雷のように起こり、万騎が入り乱れ、大軍が野原を埋め尽くし、戈や鋋が彗星のように雲をなす。羽旄は虹を掃い、旌旗は天を払う。炎々と燃え上がり、光を揚げ文を飛ばし、焔を吐き風を生じ、野を吹き山を焼き、日月はそのために明かりを失い、丘陵はそのために揺れ震えた。そこで中囿に集まり、軍勢を陳列し駐屯させ、部曲を並べ、校隊を列ね、三軍を統率し、将帥に誓いを立てた。その後、烽火を上げ太鼓を打ち鳴らして三度の追い込みを命じ、軽車は雷霆のように発進し、驍騎は電光のように疾走し、養由基のように矢を放ち、王良のように御し、弦を引いて禽獣を逃さず、手綱を取って正道を外れず、飛ぶ者はまだ翔び立つ暇もなく、走る者はまだ去る暇もなかった。
注[二]大路は玉路なり。皇衢は馳道なり。易に「先王は方を省み人を観て教えを設く」とある。尚書に「歳二月東に巡狩す」とある。また「朔南および声教」とある。皇は大なり。燭は照らすなり。
注[三]周の成王が洛邑に都し、漢がさらに増築して修めたので、増焉という。翩翩・巍巍・顕顕・翼翼は、いずれも宮闕の顕盛なる様子をいう。論語に「諸夏の亡きに如かず」とある。詩商頌に「商邑翼翼、四方の極」とある。極は中なり。洛陽は土の中なり。
注[四]奢儉が礼に合うことをいう。
注[五]蘋・藻はともに水草なり。詩小雅に「魚在り在り藻に」とある。韓詩に「東に圃草有り、駕りて行き狩る」とある。薛君伝に「圃は博なり、博大の茂草有りなり」という。毓もまた育なり。魯詩伝に「古に梁鄒有り、是れ天子の田なり」とある。詩大雅に「王霊囿に在り、麀鹿攸に伏す」とある。毛萇の注に「囿は以て禽獣を域養する所以なり」という。ここに魚獣各々その所を得るとは、文王の霊囿の如きをいう。
注[六]左伝臧僖伯に「春は搜、夏は苗、秋は獮、冬は狩、皆農隙を以て事を講ず」とある。杜預の注に「各々時の間によるなり」という。礼記王制に「天子諸侯、事無ければ則ち歳に三たび田す。礼を以てせずして田するを天物を暴すと曰う」とある。
注[七]詩国風序に「騶虞は、田を搜するに時を以てし、仁騶虞の如し」とある。毛萇の注に「騶虞は義獣、白虎黒文、生物を食わず」という。また「四驖は、襄公を美すなり、始めて田狩の事有るを命ず」とある。その詩に「駟驖孔阜」とある。注に「驖は驪なり。阜は大なり」という。また小雅序に「車攻は、宣王の古に復するなり、車馬を修め、器械を備え、復た諸侯を東都に会し、田猟に因りて車徒を選ぶ」とある。その詩に「我が車既に攻れ、我が馬既に同ず」とある。注に「攻は堅なり」という。また吉日の詩に「田車既に好し、四牡孔阜」とある。宣帝の詔に「礼官礼儀を具えよ」とある。
注[八]鯨魚とは杵を刻んで鯨魚の形に作ることをいう。鏗とはこれを撃つことをいう。音は苦耕反。尚書大伝に「天子将に出ずれば則ち黄鐘を撞き、右五鐘皆応ず」とある。薛綜の西京賦注に「海中に大魚名けて鯨と曰い、また獣名けて蒲牢と曰う有り。蒲牢は素より鯨魚を畏る。鯨魚蒲牢を撃てば、蒲牢は輒ち大いに鳴呼す。凡そ鐘その声を大ならしめんと欲する者は、故に蒲牢を其の上に作り、鐘を撞く者を鯨魚と名づく。鐘に篆刻の文有り、故に華と曰う」という。爾雅に「馬八尺以上を龍と曰う」とある。月令に「春は蒼龍に駕す」とある。各々四時の色に随う、故に時という。玲瓏は声なり。蔡邕独断に「百官小吏を天官と曰う」とある。祲もまた盛んなり。
注[九]山霊は山神なり。属は連なるなり。音は燭。方は四方なり。雨師は畢星なり。風伯は箕星なり。韓子に師曠が晋の平公に謂いて「黄帝太山に於いて鬼神を合す、風伯進みて掃し、雨師道を灑ぐ」という。蔡邕独断に「天子大駕、千乗万騎を備う」とある。元戎は戎車なり。詩小雅に「元戎十乗、以て先だち行を啓く」とある。毛萇の注に「元は大なり。夏后氏は鉤車と曰い、先正なり;殷は寅車と曰い、先疾なり;周は元戎と曰い、先良なり」という。説文に「鋋は小矛なり」とある。音は市延反。彗は掃うなり。音は似鋭反。
注[一〇]焱焱、炎炎。ともに戈矛車馬の光なり。説文に「焱は火の華なり」とある。音は以贍反。震は真と読む。
注[一一]中囿は囿中なり。続漢志に「大将軍営五部、部校尉一人。部下に曲有り、曲下に屯長一人有り」とある。駢は猶お陳列するなり。杜預の左伝注に「百人を隊と為す」という。鄭玄の周礼注に「天子六軍、三つ一偏に居す」という。故にここに三軍を勒すという。周礼に「群吏前に於いて誓を聴き、牲を斬りて以て陳に徇し、命を用いざる者は之を斬ると曰う」とある。鄭玄の注に「群吏は将帥なり」という。
注[一二]穀梁伝に「三駆の礼、一には干豆の為、二には賓客の為、三には君の庖を充すの為」とある。霆激、電騖、ともに疾きを言う。游基は養由基なり。淮南子に「楚に神白譸有り、王自ら之を射れば、則ち搏ちて嬉え、養由基をして之を射らしむ。始めて弓を調え矢を矯め、未だ発せざるに譸木に擁して号す」とある。范氏は趙の御人なり。孟子に「趙簡子王良に御せしむ、終日一禽をも獲ず、反って曰く『天下の賤工なり』。王良曰く『吾范氏が為に馳駆す、終日一をも獲ず、之が為に詭遇す、一朝にして十を獲たり』」とある。趙岐の注に「范は法なり、法度の御を為し、礼の射に応ずれば、終日一を得ず。詭遇は礼ならざる射なり、則ち能く十を獲たり」という。弦禽を失わざるは、由基を謂う。轡詭遇せざるは、范氏を謂う。
注[一三]高唐賦に「功を挙げて先んじて得、車を獲て已に実る」とある。爾雅に「般は楽なり」とある。礼記に「楽極むべからず」とある。踠は猶お屈するなり。方言に「洩は歇むなり」とある。漢官儀に「大駕、属車八十一乗」とある。子虚賦に「節を案じて未だ舒ばず」とある。節を駐めて徐行するを謂う。
注[一四]左伝鄭の子太叔に「五牲三犧を為す」とある。杜預の注に「五牲は麋・鹿・志・狼・兔なり。三犧は天地宗廟を祭るの犧なり」という。郊は天を祭るなり。天神を神と曰い、地神を祇と曰う。百霊は百神なり。詩に「百神を懐柔す」とある。覲は朝するなり。諸侯を明堂に朝するを謂う。詩大雅に「維れ清く緝熙、文王の典」とある。鄭玄の注に「緝熙は光明なり」という。尚書に「休征」とある。孔安国の注に「美行の験を叙ぶ」という。
注[一五]『易経』繋辞伝に言う、「仰いでは天象を観察し、俯しては地法を観察し、近くは自らの身体から取り、遠くは万物から取る」と。聖躬とは天子を指す。中夏とは中国のこと。瞰は音、苦暫の反切。四裔とは四夷のこと。稜とは威のこと。『左伝』に「徳をもって中国を柔らげ、刑をもって四夷を威す」とある。
注[一六]蕩は洗い流すこと。河源は崑崙山にある。『前漢書』に「威稜は隣国に澹ぐ」とある。音義に「澹は動くが如し、音は徒濫の反切」とある。漘は水際、音は唇。郭璞の『爾雅』注に「岸上が平坦で下に水深い所を漘という」とある。趯は躍る、音は它歴の反切。『説文解字』に「垠は境なり」とあり、音は銀。
注[一七]『爾雅』に「讋は懼るるなり」とある。音は之涉の反切。
注[一九]春王とは『左伝』の「春王正月」と同じ。三朝とは元日のこと。朝の音は陟遙の反切。歳の朝、月の朝、日の朝をいう。『前漢書』谷永が言う「今年正月の朔日、三朝の会に日食あり」と。『周礼』に「時見を会といい、殷眺を同という」とある。賈逵の『国語』注に「膺は受くると同じ」とある。『詩経』に「時に因りて百蛮を(従える)」とある。
注[二〇]供帳とは帷帳を供え設けること。供の音は九用の反切。『前漢書』に「三輔の長、供帳の労無し」とある。戴延之の記に「端門の東に崇賢門があり、その外に雲龍門がある」とある。贊は導くこと。
注[二一]庭実とは貢献の品物。『左伝』孟献子が言う「臣聞く、聘して物を献ずれば、ここに庭実旅百ありと」。千品は多いことを言う。『説文解字』に「鐘は器なり」とある。『孔叢子』に「堯は千鐘を飲む」とある。罍は酒器。『詩経』に「我姑く彼の金罍を酌む」とある。珍は八珍。太牢は牛・羊・豚。饗は協韻で音は香。
注[二二]食挙とは食事の際に楽を奏することをいう。蔡邕の『礼楽志』に「大予楽は郊祀・陵廟・殿中における諸々の食挙の楽である」とある。雍は『詩経』の篇名。食事が終わって雍の詩を歌って膳を下げることをいう。『論語』に「三家の者は雍を以て徹す」とある。太師は楽官。『周礼』に、太師は六律・六呂を掌り、陰陽の声を合わせるとある。鏗の音は苦耕の反切。鎗の音は楚庚の反切。曄煜は盛んな様子。煜の音は育。
注[二三]『左伝』晏子が言う「五声六律」。杜預の注に「五声は宮・商・角・徴・羽。六律は黄鐘・太蔟・姑洗・蕤賓・夷則・無射」とある。『尚書』に「九功惟れ序あり、九序惟れ歌う」とある。九功とは金・木・水・火・土・穀・正徳・利用・厚生。佾は舞の行列。『穀梁伝』に「天子は八佾」とある。韶は舜の楽の名。武は武王の楽の名。太古は遠い古代。
注[二四]閒は代わる代わる。音は古莧の反切。『詩経』国風に「漢広」とあり、徳の広く及ぶところをいう。鄭玄の『周礼』注に「四夷の楽は、東方を韎といい、南方を任といい、西方を株離といい、北方を禁という」とある。「禁」は字書では「仱」と作り、音は渠禁の反切。韎の音は摩葛の反切。『周礼』では「仱」を「禁」とし、「韎」を「韎」とし、「株」を「株」とする。
注[二五]万楽・百礼は盛大に言ったもの。暨は至る。『易経』に「天地絪縕し、万物化醇す」とある。『礼統』に「天地は元気の生ずるところ、万物の祖なり」とある。『尚書大伝』に「天子将に入らんとす、蕤賓の鐘を撞けば、左の五鐘皆応ず」とある。撞の音は直江の反切。)
そこで聖上は万方の歓楽を(自ら)楽しみ、長く恩沢に浴していたが、奢侈の心が芽生え、春の耕作を怠ることを恐れ、[一] 旧来の規程を再確認し、明らかな詔を下し、役人に命じて法度を公布させ、節倹を明らかにし、質素の根本を示した。[二] 後宮の華美な装飾を廃し、乗り物や衣服の贅沢を減らし、工商の過剰な産業を除き、農桑の重要な事業を興した。こうして海内に末業を捨てて本業に戻り、虚飾を背にして真実に帰ることを命じ、女は機織りに励み、男は耕作に務め、器物は陶器やひさごを用い、衣服は白や黒の質素なものを尊び、細やかで華美なものを恥じて身に着けず、珍奇で麗しいものを卑しんで貴ばず、金を山に捨て、珠を淵に沈めた。[三] そこで百姓は瑕穢を洗い流して極めて清らかな鏡のようになり、形と心は静寂で、耳目は外物を求めず、嗜欲の根源は滅び、廉正の心が生まれ、誰もが悠々として自得し、玉のように潤い、金のように清らかな音を響かせた。[四] このため四海の内では、学校が林立し、庠序(学校)には門いっぱいに人があふれ、献酬(酒宴でのやりとり)が交錯し、俎豆(祭器)が多く並び、下では舞い、上では歌い、徳を踏み仁を詠んだ。[五] 昇降や饗宴の礼が終わると、互いに玄徳(深遠な徳)を称え嘆き、正しい言葉と広大な論説を述べ、皆が和気を含んで吐息し、頌して言うには「盛んなることよ、この世は」と![六]
(注[一]『尚書』に「東作を平秩(整える)す」とある。注に「歳は春に起こり、耕作を始めて成す」とある。
注[二]『詩経』大雅に「旧章に率う」とある。鄭玄の注に「旧典の文章なり」とある。『左伝』臧哀伯が言う「大路(天子の車)に越席(蒲の敷物)を用い、大羹(肉汁)に調味を加えず、その倹を昭かにす」と。『列子』に「大素は質の始めなり」とある。
注[三]『前漢書』文帝の詔に「農は天下の本なり。しかるに人あるいは本を務めずして末に事う」とある。音義に「本は農なり。末は賈(商い)なり」とある。背偽とは彫飾を去ること。帰真とは質素を尊ぶこと。杜預の『左伝』注に「織紝は繒布を織ることなり」とある。『礼記』に「器用は陶匏を用う」とある。陶は瓦器。匏はひさご。陸賈の『新語』に「聖人は珠玉を用いずしてその身を宝とす。故に舜は黄金を崭巖の山に棄て、珠玉を五湖の川に捐て、以て淫邪の欲を杜ぐ」とある。
注[四]瑕穢は過悪の意。楊雄の集に「瑕穢を滌ぎ蕩す」とある。淮南子に「形は生の舎なり、神は生の制なり」とある。また「和順にして寂寞を以てす」とある。尚書に「耳目を役せず、百度惟れ貞なり」とある。淮南子に「吾の天下有りと謂う所の者は、自得するのみ」とある。礼記に孔子が「君子は玉に徳を比す、温潤にして沢く、仁なり」と言う。孟子に孔子が「徳は金声の如し」と言う。
注[五]前書に平帝が学官を立てたとある。郡国では学、県・道・邑及び侯国では校、郷では庠、聚では序という。詩に「献酬交錯す」とある。莘莘は多い様子。音は所巾の反切。礼記に「歌者は上に在り、人声を貴ぶなり」とある。また「嗟歎するも足らず、故に手之を舞い、足之を蹈む」とある。
注[六]詩に「飲酒の飫」とある。毛萇の注に「屨を脱がずして堂に升るを飫と謂う」とある。飫は私宴の意。尚書に「玄徳升り聞こゆ」とある。字林に「讜は美言なり。音は黨」とある。)
今、論者はただ虞・夏の書を誦し、殷・周の詩を詠じ、伏羲・文王の易を講じ、孔子の春秋を論ずるのみで、古今の清濁を精しく知り、漢の徳の由来を究める者は稀である。[一]ただあなたは少し旧典を識り、また徒らに末流を馳騁するに過ぎない。故きを温ねて新しきを知ることは既に難しく、徳を知る者は少ない![二]そもそも西戎を遠く隔て、険阻で四方を塞がれ、その防御を修めるのと、地の中央に位置し、平坦で広く通じ、万方が輻湊するのとでは、どちらが優れているか?[三]秦の嶺や九嵕、涇渭の川と、四瀆五嶽、黄河を帯び洛水に溯り、図書の淵源たる地とでは、どちらが優れているか?[四]建章宮や甘泉宮に列仙を館御するのと、霊台や明堂で天人を統和するのとでは、どちらが優れているか?[五]太液池や昆明池のような鳥獣の苑と、辟雍が海のように流れ、道徳の豊かさを備えるのとでは、どちらが優れているか?[六]遊侠が奢侈を越え、義を犯し礼を侵すのと、共に法度を履み、翼翼として済々たるのとでは、どちらが優れているか?[七]あなたはただ秦の阿房宮が天に届く造りであることを習い知るだけで、京洛に制度があることを知らず、函谷関が閉ざし得ることを識るだけで、王者に外無きことを知らない。」[八]
(注[一]伏羲が八卦を画き、文王が卦辞を作り、孔子が春秋を作った。清濁は善悪の意。
注[二]末流は下流の意。諸子を指す。前書に「道德に入らず、末流に放縱す」とある。論語に孔子が「故きを温ねて新しきを知れば、以て師と為すべし」と言う。また「由よ、徳を知る者は鮮なし」と言う。
注[三]辟は遠い意。音は匹亦の反切。戦国策に蘇秦が孟嘗君に説いて「秦は四塞の国なり」と言う。高誘の注に「四面に関山の固め有り、故に四塞の国と曰う」とある。防御は関禁を指す。輻湊は、轂に輻が集まる如し。前書に武帝が吾丘寿王に詔して「子が朕の前に在る時、知略輻湊せり」と言う。
注[四]四瀆は江・河・淮・済。河図に「天は四表有りて以て精魄を布き、地は四瀆有りて以て図書を出す」とある。爾雅に「太山は東嶽と為し、衡山は南嶽と為し、華山は西嶽と為し、恒山は北嶽と為し、嵩山は中岳と為す」とある。図書の泉は河洛を指す。易繋辞に「河は図を出だし、洛は書を出だす」とある。
注[五]館御は台を設けて神仙を進御する意。礼含文嘉に「礼、天子の霊台は、以て天人の際を考観し、陰陽の会を法す」とある。
注[六]三輔黄図に「辟雍は、水外に周囲し、四海に象る」とある。
注[七]遊侠は、即ち西賓の言う「郷曲の豪俊、遊侠の雄」。踰侈は「列肆が姫・姜に侈る」等を指す。爾雅に「翼翼は敬なり」とある。詩に「済々たる多士」とある。毛萇の注に「済済は多き威儀なり」とある。
注[八]史記に、秦始皇が阿房宮を作ったとある。造は至る意。公羊伝に「王者に外無し」とある。)
主人の言葉が終わらないうちに、西都賓は矍然として顔色を失い、逡巡して階を降り、惵然として意気が沈み、手を捧げて辞そうとした。主人は言った。「元の席に戻れ。今、あなたに五篇の詩を告げよう。」[一]賓が読み終えると、称えて言った。「この詩は何と美しいことか!その義は楊雄よりも正しく、事実は相如に勝る。ただ主人が好学であるばかりでなく、まさにこの時代に遭遇したからである。[二]私は狂簡で、どう裁くべきか知らず、正道を聞いた以上、終身これを誦することとしよう。」その詩は以下の通りである:[三]
(注[一]説文に「矍は視の遽き貌なり」とある。音は許縛の反切。周書に「臨摂は威を以てして惵む」とある。惵は恐懼する様子。音は徒頰の反切。喻は告げる意。
注[二]楊雄は長楊賦・羽獵賦を作り、司馬相如は子虚賦・上林賦を作った。いずれも文は藻麗であるが、その事は迂遠で荒唐であり、主人の言葉のように義が正しく事実に即しているわけではない。
注釈[三] 論語で孔子は言った。「我が郷党の若者たちは狂簡で、文采が華やかに成章しているが、どう裁くべきかわからない。」また言った。「ねたまず、貪らなければ、何を用いても善くないことがあろうか。子路は終身これを誦した。」)
明堂の詩:ああ輝く明堂よ、明堂は甚だ明るい。聖皇が宗祀を行えば、厳かで美しい。[一] 上帝が宴饗を受け、五位が時序に従う。誰がこれに配するか、世祖光武帝である。[二] 普天率土、各々その職に従い。ああ輝き、誠に多くの福を招く。[三]
(注[一] 「於」は音「ウ」で、嘆美の辞である。詩経周頌に「ああ天に輝く」とある。「孔」は甚だ、「陽」は明るいの意。国風に「我が朱は甚だ明るい」とある。「聖皇宗祀」とは、明堂で光武帝を祭ることをいう。詩経に「厳かで美しく、君に宜しく王に宜しい」とある。「穆穆」は敬う様、「煌煌」は美しい様である。
注[二] 前漢書に「天神の貴い者は太一で、太一の佐は五帝という」とある。「五位」は五帝である。河図に「蒼帝は霊威仰、赤帝は赤熛怒、黄帝は含樞紐、白帝は白招矩、黒帝は葉光紀」とある。楊雄の河東賦に「霊祇が既に饗を受け、五位が時序に従う」とあり、各々その方角に従って祭ることをいう。
注[三] 詩経小雅に「普天の下、王土ならざるはなく、率土の濱、王臣ならざるはない」とある。「溥」も「普」と同じ。孝経に「四海の内、各々その職をもって来たりて祭を助く」とある。詩経商頌に「ああ美しいことよ」とある。「猗」は美しい、「允」は誠に、「懷」は来るの意。詩経大雅に「多くの福を招く」とある。)
辟雍の詩:流れるは辟雍、辟雍は湯湯たり。聖皇臨み止まり、舟を造りて梁と為す。[一] 皤皤たる国老、父のごとく兄のごとく。抑抑たる威儀、孝友にして光明。[二] ああ赫なる太上、我に漢の行いを示す。鴻化は惟れ神のごとく、永くその成るを観る。[三]
(注[一] 「湯湯」は水流の様子。「馬」は臨むの意。詩経小雅に「方叔臨み止まる」とある。大雅に「舟を造りて梁と為す」とある。毛萇の注に「天子は舟を造る」とある。「造」は至るの意で、舟を連ねて浮き橋とすることをいう。
注[二] 説文に「皤皤は老人の貌」とある。音は「歩何」の反切。孝経援神契に「天子は三老を尊び事え、五更を兄事す」とある。「抑抑」は美しいの意。詩経に「威儀抑抑たり」とある。爾雅に「父母に善くするを孝と為し、兄弟に善くするを友と為す」とある。
注[三] 「於赫」は嘆美の辞。「太上」とは太古に徳を立てた賢聖の人をいう。皆、養老の礼を明らかにし、今、我が漢家はこれに従って行うのである。「鴻」は大いなるの意。文子に「玄徳を心に執り、化は馳せて神のごとし」とある。詩経周頌に「我が客至り、永くその成るを観る」とある。爾雅に「観は示すなり」とある。)
霊台の詩:経営す霊台、霊台は既に高し。帝勤めて時に登り、爰に休征を考う。[一] 三光は精を宣べ、五行は序を布く。習習たる祥風、祁祁たる甘雨。[二] 百谷は溱溱たり、庶卉は蕃蕪たり。屡たび豊年を惟い、ああ皇なる楽胥。[三]
(注[一] 詩経大雅に「霊台を経始す」とある。「崇」は高いの意。「時登」は時に従って登ること。「休」は美しい、「征」は験の意。
注[二] 「三光」は日・月・星。「宣」は布く、「精」は明るいの意。「五行」は水・火・金・木・土。「布序」とは各々その性に順い、謬沴がないことをいう。「習習」は和やかな様。詩経小雅に「習習たる谷風」とある。礼斗威儀に「君の政が頌平ならば、則ち祥風至る」とある。宋均の注に「即ち景風なり」とある。「祁祁」はゆるやかな様。詩経小雅に「雨興る祁祁たり」とある。尚書考霊耀に「熒惑順行すれば、甘雨時にす」とある。
注[三] 「百」は一でないことを言う。尚書洪範に「百谷用いて成る」とある。「溱溱」は盛んな様。尚書に「庶草蕃蕪たり」とある。爾雅に「蕃蕪は豊かなり」とある。詩経周頌に「万邦を綏べ、屡たび豊年」とある。また「ああ皇なる時周」とある。「於」の音は「ウ」。詩経小雅に「君子楽胥、天の祜を受く」とある。注に「胥は才智有るの名なり」とある。)
宝鼎の詩:岳は貢を修め川は珍を效く、金景を吐き浮雲を歊く。宝鼎現れて色紛縕、煥として炳たり龍文を被る。[一] 祖廟に登り聖神を享け、霊徳を昭かにして億年に弥る。[二]
(注[一] 永平六年に王雒山で宝鼎を得て、廬江太守がこれを献じたことをいう。「景」は光の意。説文に「歊は気の出る貌」とある。音は「火驕」の反切。史記に「秦の武王が孟悦と龍文の鼎を挙げた」とある。
注[二]当時、明帝は詔を下して言った。「禴祭の日に、鼎を廟に陳列し、器用を備えよ。」弥は終わりを意味する。万万を億という。尚書に言う。「公は、予が億万年にわたり天の美を敬うことを以てせよ。」
白雉の詩:霊篇を開きて瑞図を披き、白雉を獲て素烏を献ず。[一]皓き羽を発し翹英を奮い、容は絜朗にして淳精に於く。[二]皇徳を章らかにして周成に侔ひ、永く延長して天慶を膺く。[三]
(注[一]霊篇とは河図・洛書を指す。班固がこの題で編んだ篇に「白雉素烏歌」とあるので、兼ねて「素烏を献ず」と言及した。
注[二]皓は白いこと。翹は尾。春秋元命包に言う。「烏は陽の精である。」
注[三]章は明らかにする。侔は等しい。孝経援神契に言う。「周の成王の時、越裳が白雉を献じた。」慶は卿と読む。)
そして粛宗(章帝)は文章を大いに好んだので、班固はますます寵愛を受け、しばしば宮中に召されて書を読み、ある時は連日徹夜した。皇帝が巡幸するたびに、必ず賦や頌を献上し、朝廷に重大な議事があると、公卿を詰問させ、その面前で論議させ、賞賜と恩寵は非常に厚かった。班固は自ら、二代にわたる才能と学術を持ちながら、官位は郎を超えなかったことを思い、[一]東方朔や揚雄が自らを論じた故事に感じ入り、蘇秦・張儀・范雎・蔡沢の時代に遭遇しなかったことをもって、『賓戯』を作って自らの考えを述べた。[二]後に玄武司馬に昇進した。[三]天子が諸儒を集めて五経を講論し、『白虎通徳論』を作った時、班固にその事柄を撰集させた。[四]
(注[一]二代とは班彪と班固を指す。
注[二]東方朔の『客難に答う』に言う。「蘇秦・張儀を僕と並べて生まれさせたとしても、掌故の官さえ得られず、どうして侍郎を望めようか。」揚雄の『解嘲』に言う。「范雎は魏の亡命者である。蔡沢は山東の一匹夫である。許氏・史氏の間で范雎・蔡沢のことを論じる者がいれば、それは狂気である。」班固の作った『賓戯』は、事柄は前漢書に見える。
注[三]続漢志に言う。「宮掖門には、各門に司馬一人を置き、秩禄は千石に相当する。玄武司馬は玄武門を主管する。」
注[四]章帝の建初四年、諸王と諸儒に詔して白虎観に会し、五経の同異を講議させた。)
その時、北匈奴の単于が使者を遣わして貢物を献上し、和親を求めたいと申し出た。詔によって群臣に意見を求めた。議論する者の中には、「匈奴は変詐に富んだ国であり、心から内向く意思はなく、ただ漢の威霊を畏れ、南の敵(南匈奴)に脅かされているだけである。[一]だから返答を期待して、その離反を鎮めようとしているのだ。今もし使者を遣わせば、南匈奴の親附する歓びを失い、北狄の猜疑と詐りの計略を成就させることになり、よろしくない」と考える者もいた。班固は議論して言った。「ひそかに考えますに、漢が興って以来、長い年月を経て、兵は夷狄に絡みつき、特に匈奴に力を注いできました。鎮撫し統御する方法は、その道筋が一様ではなく、ある時は文教を修めて和し、ある時は武力を用いて征伐し、ある時は卑下してこれに就き、[二]ある時は臣服させてこれを招致しました。[三]屈服と伸長は常ならず、その時々の状況によって異なりますが、しかし拒絶し放棄して、交際しないということはありませんでした。だから建武の世以来、旧典を再び修め、重い使者を数多く出し、前後相継ぎ、[四]その末期になって、ようやく一時的に絶えたのです。永平八年、再び通交を議論しました。そして朝廷で連日争論し、異同が紛然として入り乱れ、多くはその難しさを主張し、その容易さを言う者は少なかった。先帝(明帝)は聖徳をもって遠くを見通し、前後を顧みて、遂に再び使者を出し、前世と同じ事を行いました。[五]これによって推し量れば、一世でも欠けて修められなかったことはありません。今、烏桓は朝廷に来朝し、訳官の前で額づき、康居・月氏は遠方から到来し、匈奴は離散し、名王が来降し、三方から帰服していますが、これは兵威によるものではありません。これは誠に国家が神明に通じ、自然の徴験が現れたものです。臣の愚見では、故事に依って、再び使者を派遣すべきだと思います。上は五鳳・甘露の遠方の人々を集めた会合を継ぐことができ、[六]下は建武・永平の羈縻の義を失いません。虜の使者が再び来てから、こちらから一度往けば、中国の主たる者が忠信にあることを明らかにし、かつ聖朝の礼義には常道があることを知らしめることができます。どうして逆詐りの心を示して猜疑し、その善意を孤立させることができましょうか。絶つことの利益は分からず、通じることの害は聞きません。仮に後日、北虜がやや強くなり、戦塵を起こすことができたとして、その時になって再び交通を求めたとして、どうして間に合うでしょうか。今、恩恵を施すことを契機とするのが、近くて長い策です。」
(注[一]南匈奴を指す。
注[二]文帝は匈奴と関市を通じ、漢の女を妻とし、その賂を厚くした。
注[三]宣帝の時、匈奴は額づいて臣服し、子を遣わして侍らせた。
注[五]先帝とは明帝を指す。永平八年、越騎司馬の鄭觿を派遣して北匈奴に使いを報じた。
注[七]互いに侵擾すれば風塵が起こる。)
班固はまた『典引篇』を作り、漢の徳を述べ叙べた。[一]司馬相如の封禅の文は華美であるが典拠に合わず、[二]揚雄の『劇秦美新』は典拠に合うが事実に基づかない、[三]とし、おそらく自らその極致を得たと称した。その文は次のようである。
(注[一]典とは『堯典』を指し、引とは続けること。漢は堯の後を継いだので、漢の徳を述べて『堯典』を続けた。
注[二]文章は華麗であるが、体裁に古典の規範がない。
注[三]体裁は古典の規範に合うが、その事柄が虚偽である。王莽の事柄が事実に基づかないことを指す。)
太極の根源から、両儀が分かれ始め、絪縕として、沈んで奥深いものがあり、浮かんで清らかなものがある。[一]沈むものと浮かぶものが交錯し、万物が混然一体となって成る。[二]人主に天命が始まり、五徳が初めに始まるのは、草創の暗昧な時、玄妙混沌の中と同じである。[三]結縄や書契を超えた、寂寥として誥命のない時代は、易の系辞でも綴り連ねることができない。[四]その氏号があり、天を継いで道理を開き述べる者は、[五]みな大昊(伏羲)の皇初の始めに元を開き、そのはるか上代において、その書(易)をなお修めることができる。[六]これに次ぐ時代(少昊・顓頊・高辛など)は、変通と神化に通じていたが、光を内包してまだ輝いていなかった。[七]
(注[一]易の系辞に「易に太極あり、これ両儀を生ず」と言い、また「天地絪縕し、万物化醇す」と言う。蔡邕は「絪縕とは、陰陽が和合し一体となって互いに支え合う様子である」と言う。奥とは濁りのこと。易の干鑿度に「清く軽い者は天となり、濁り沈む者は地となる」とある。
注[二]庶類とは万物。混とは同じくする意。老子に「物有り混成し、天地に先だって生ず」とある。
注[三]人主とは天子。尚書に、成湯が夏に代わって人主となったとある。五徳とは五行。初始とは伏犧が初めて木徳をもって王となったことを指す。木は火を生むので、神農は火徳をもって王となった。五行は相生し、巡り巡って始めに戻る。草昧とは草創で暗昧なこと。易に「天地草昧」とある。幽玄混沌の中とは三皇が初めに起こった時を指す。
注[四]易の系辞に「上古は結縄して治め、後代の聖人はこれを改めて書契に易えた」とある。踰・越はともに超える意。詔とは誥命。結縄や書契以前には文字がなかったので、寂寥として文誥がないと言う。系とは易の系辞を指し、だから易の系辞でも綴り連ねることができないのである。
注[五]氏号とは太昊が庖羲氏と号し、炎帝が神農氏と号し、黄帝が軒轅氏と号する類。紹は継ぐこと。王者が天を継いで起こることを指す。闡は開くこと。繹は述べること。
注[六]易に「帝は震より出ず」とある。初めに木徳をもって天下に王となったので、皇初の首と言う。また「古えに庖犧氏の天下に王たるや、仰いでは天に象を観、俯しては地に法を観る」とある。これがその書(易)を得て修めることができる所以である。
注[七]これに次ぐ時代とは少昊・顓頊・高辛などを指す。変通と神化に通じていたが、易の系辞にその事が記載されていないので、「光を内包してまだ輝いていなかった」と言う。)
そもそも上は天の法則を考察し、下は龍の翼(賢臣)を受け継ぎ、それを典謨に明らかにして、徳の冠首となり、卓抜した事跡を記すものは、陶唐(堯)より崇高なものはない。陶唐は子孫を捨てて有虞(舜)に禅譲し、虞もまた夏后(禹)に命じ、稷と契は功業を広め、ついに成湯・武王に至った。股肱(賢臣)がすでに周遍すると、天は元首(堯)に功績を帰し、漢の劉氏に授けようとした。それによって三季(夏・殷・周の末世)の荒廃した末を受け継がせ、亢龍の災いと厄に遭わせ、天象は暗く常道の文は乱れ、人倫は壊れて旧来の章典は欠けた。そこで先に玄聖(孔子)に命じ、学問を継承させ制度を立てさせ、宏大な大業を輝かせ、祖宗を顕彰し補佐し、哲智の君主を称揚し、完備して燦然とし、まさに神明の規範となった。かつての聖人である皐陶・夔・伊尹・周公の尽力による補佐も、これ(孔子)に比べれば狭小である。このため高祖・光武の二聖は、北辰のようにその位置に居り、時が至り気が動くと、龍が淵から躍り出て現れた。翼を打ちながらまだ飛び立たずとも、威霊は盛んに立ち込め、海内は雲のように沸き立ち、雷が動き電光が走り、胡亥は縊死し王莽は分裂し、彼らが誅殺されるのを待たなかった。その後、上下(天地)を敬い順い、諸侯を恭しく迎え、正位に就き宗廟を定め、徳が嗣ぐに足りないという淵深で厳粛な譲りを示し、号令して師を陳べ、武力を奮い旌旗を揮うような様子はなかった。これは天の正統を受け、譲りをよくする帰運を受けて、炎上する烈しい精気を蓄え、孔子の補佐による宏大な陳述を内包していたからである。
(注[一]稽は考察、干は天。論語で孔子は「唯だ天を大と為し、唯だ堯これに則る」と言った。龍翼とは稷・契らが堯の羽翼であることを指す。易の乾卦上九に「用九、群龍首無きを見る、吉」とある。鄭玄の注に「六爻皆な龍を体す、群龍の象なり、禹と稷・契・咎陶の属並びに朝に在るを謂う」とある。炳は明らか。典・謨は堯典・皐陶謨を指す。道德の冠首となり、事跡が卓抜しているものは、陶唐より高いものはない。爾雅に「崇は高し」とある。)
注[二]捨胤とは堯がその胤子である丹朱を捨てて舜に禅譲したこと、舜もまたその子商均を捨てて禹に禅譲したことを指す。書経に「熙く帝の載を」とある。孔安国の注に「熙は広、載は事」とある。稷と契がともに堯舜の朝で広く功事を立てたことを言う。越は「於て」の意。ここにおいてその子孫である湯・武の業を成し、ともに天子となることを得た。湯は契の後裔、武王は後稷の後裔である。
注[三]股肱は稷・契を指す。既周とはその子孫が周遍して天子となることを得たこと。元首は堯。天がさらに功績を堯に帰し、また漢に帝位を授けようとしたことを言う。
注[四]俾は使う。三季は三王(夏・殷・周)の末世。易の乾卦文言に「亢龍悔い有り、窮の災いなり」とある。孽も災い。易に「懸象著明なるは、日月より大なるは莫し」とある。乖は常度を失うこと。倫は理。斁は敗れる。尚書に「彝倫攸斁る」とある。旧章缺は秦が詩書を焼いたことを指す。
注[五]玄聖は孔丘(孔子)を指す。春秋演孔図に「孔子の母徴在、夢に黒帝を感じて生む、故に玄聖と曰う」とある。荘子に「恬澹玄聖、素王の道」とある。綴学立制は漢家の法制を立てることを指す。宏と洪はともに大。亮は信。表は明らかにする。相は助ける。迪は踏み行う。哲は智。踏み行い哲智の君(高祖ら)を称揚することを言う。尚書に「茲の四人迪哲」とある。燦爛は盛んに明らか。式は法。
注[六]戲は皐陶。夔は舜の典楽官。衡は阿衡、すなわち伊尹。旦は周公。密勿は黽勉(努力)と同じ。茲は孔子を指し、皐陶・夔らがこれに比べて狭小であることを言う。
注[七]論語で孔子は「譬えば北辰の其の所に居りて衆星之に共うが如し」と言った。時至気動は高祖が碭山に彤雲を集め、光武が白水から佳気を発したことを指す。易の乾卦九二に「龍田に在るを見る」、九四に「或いは淵に躍る」とあり、ともに漢の初めの興起を譬えている。
注[八]拊翼は鶏に譬え、夜が明けようとすると翼を打って鳴くことを知る。前漢書に「張・陳の交わり、拊翼倶に起つ」とあり、高祖・光武を譬えている。紛紜は盛んな様子。雲の蒸すようで、天下の英傑が漢に与する者が多いことを言う。熛は光。胡縊は胡亥が縊死したこと。莽分は公賓就が王莽を斬ったこと。馬は臨む。天下が先に漢のために彼らを誅し、高祖・光武は親臨しなかったことを言う。
注[九]尚書に「欽んで昊天に若う」とある。欽は敬、若は順。上下は天地を指し、書経に「上下に格る」とある。群後は諸侯。易に「君子位を正しくして命を凝らす」とある。尚書に「延でて翼室に入り宗を度りて恤う」とある。度は居る。宗は尊ぶ。前漢書に「舜徳に譲りて嗣がず」とある。音義に「台は嗣と読む」とある。
二祖(高祖・光武)が初めて即位して尊位に就いた時、ともに徳が帝功を嗣ぐに足りないと謙遜して言い、この淵深で厳粛な譲りを示した。高祖は初即位の時、「寡人は聞く、帝たる者は賢者に有り、虚言実無きの名は、取る所に非ず」と言った。光武は即位に際し、固辞して再三に及んだ。靡は無。矢は陳べる。敦は迫逼(せり迫る)の意。詩経に「矢ぬる牧野」、また「敷きて敦む淮濆」とある。漢が天下を取るに、号令して師を陳べ、武力を奮い旌旗を揮うような様子がなかったことを言う。詩経に「奮い伐つ荊楚」、尚書に「王白旄を秉りて以て麾う」とある。撝も麾の意。ともに天と人の推すところであり、威力を尚ばなかったことを言う。
注[一〇]正統は漢が周を承けて火徳となったことを指す。尚書堯典に「允に恭しくして譲るに克く」とある。漢が堯の克譲の後を承けたことを言う。帰運は堯が運を漢に帰したこと。炎上は火徳、烈精は盛んなことを言う。蘊は蔵する。孔佐は孔丘が春秋及び緯書を制作して漢を補佐したことを指す。春秋演孔図に「卯金刀、名は劉と為す、中国東南荊州より出ず、赤帝の后、次いで周に代わる」とあるのがそれで、漢の期運を大いに陳べたことを言う。)
その徳の広大なること、帝者の上儀(最上の規範)のようであり、誥誓(誓いの文)の及ぶところではない。夏殷二代の大小の法度を広く観れば、その深遠なところを探ることができる。ともに一つの櫃から多くを開き、同じく侯甸の服する所を受け、代々民に勤め、方伯として牧を統治した。その命により賜った彤弓・黄鉞の威を用いて、韋・顧・黎・崇の従わぬ者を討った。三皇五帝から華夏に至り、京を鎬・亳に遷し、ついに北面(臣下)の立場から、師を率いて虎のように離れ、天邑(天子の都)を革め滅ぼした。このため義士は偉大ではあるが厚くはなく、武の称は尽きず、護(擁護)には籩(軽薄)の徳があり、そうではないか? しかしなお美しく和やかで、音調が調和し明瞭に続き、祖考を厳かに崇め、盛大に宗祀を薦めて帝に配し、祥瑞を発し慶福を流し、天地に対越して、千載にわたって連綿と続いた。まさに自ら神明たることをよくしたと言えようか! 大略は常にあり、言行を篇籍に審らかにし、光沢ある文藻は明らかで変わらないのである。
(注[一]洋洋は美。若は如。儀は法。このような美德は、五帝の上法と言える。穀梁伝に「誥誓は五帝に及ばず、盟詛は三王に及ばず、交質は二伯に及ばず」とある。上下が互いに信服せず、初めて誥誓がある。五帝の時は上下和睦していたので、誓いは及ばなかった。)
注[二]舗とは、広く行き渡ることである。二代とは、殷と周である。洪纖とは大小のようなものである。度とは法度である。賾とは幽深である。殷・周の大小の法を広く観察し、その幽深なところを探り知ることができるという意味である。
注[三]孔子は言った。「例えば平地に土を盛る場合、たとえ一籠の土を覆せたとしても(続けることで山となる)。」鄭玄の注に「匱とは土を盛る籠である」とある。侯服・甸服とは諸侯を指す。湯は桀の諸侯であり、文王は紂の諸侯であった。奕とは重なることである。契から湯まで十四代、後稷から文王まで十五代、いずれも人々のために勤労を積み重ねた。伯方とは方伯と同じである。湯は夏の伯、文王は殷の伯であり、ともに州牧を統領したという意味である。
注[四]周礼に九命で伯となる、とある。彤弧は赤い弓。黄戚は黄金で飾った斧である。礼記に「諸侯は弓矢を賜わられて初めて征伐を専断でき、斧鉞を賜わられて初めて殺戮できる」とある。韋と顧はともに国名で、湯が滅ぼした。詩経の殷頌に「韋と顧を既に伐った」とある。黎と崇も国名である。史記に「文王が崇を伐った」とある。尚書に「西伯(文王)が黎を平定した」とある。格とは来る(従う)ことである。
注[五]三五は詳らかでない。京師とは京都である。武王は鎬に都し、湯は亳に都した。詩経に「この鎬京に住み、武王がこれを成した」とある。尚書に「湯は初め亳に住み、先王の住んだ地に従った」とある。自とは従うことである。北面とは臣下のことである。湯と武王はともに臣下として君主を討った。史記に「虎の如く、羆の如く、豺の如く、離の如く、商の郊に於いて」とある。音義に「離は螭と同じ」とある。革とは改めることである。易経に「湯武革命」とある。天邑とは天子の都である。尚書に「我は敢えて天邑商において汝を求める」とある。
注[六]左伝に「武王が商を平定し、九鼎を洛邑に遷した時、義士はなお薄徳であると言った」とある。杜預の注に「伯夷の類である」とある。史記によれば、伯夷と叔齊は武王が紂を討つ時に出会い、馬の轡を押さえて諫めて言った。「臣下として君主を弑することを、仁と言えるだろうか?」偉とは異なること。敦とは厚いこと。武とは周の武王の楽である。論語で孔子は言った。「武は完全に美しいが、まだ完全に善ではないと言える」護とは湯の楽である。左伝に、延陵季子が魯に聘問し、楽を観賞し、大護の舞を見て言った。「聖人の宏大さであるが、なお慙徳(恥じるべき点)がある」とある。
注[七]於は感嘆の辞である。穆は美であり、周家の徳を嘆美する。詩経の周頌に「於穆たる清廟」とある。猗もまた感嘆の辞である。那は多いこと。湯の徳の多いことを嘆美する。殷頌に「猗歟那歟」とある。論語で孔子が魯の太師に楽について語った。「楽はその様子が知られる。始めは翕如として盛んであり、続けて純如として和諧し、皦如として音節が明瞭であり、繹如として調和が続き、完成する」何晏の注に「翕は盛ん。純は和諧。皦はその音節が明瞭」とある。鄭玄の注に「繹は調和が通達する様子」とある。これは殷・周の時代に、なお於穆・猗那の頌があり、翕・純・皦・繹の楽にのせて伝えられ、祖を尊び父を厳かにし、宗廟で祀って天に配し明堂の中で行われたことを言う。詩経の商頌に「浚哲なるは惟れ商、長く其の祥を発す」とある。これは禎祥を発して子孫に慶福を流すことを言う。周頌に「文の徳を秉り、天に對越す」とある。舃奕とは蝉聯して絶えないことである。
注[八]誕は大きいこと。殷・周二代の政化が多いが、大略は常道があるという意味である。篇籍とは詩経・尚書を指す。朗は明らか。渝は変わること。光彩と文藻が明らかで変わらないことを言い、その他の殊異な点は漢に及ばないのである。)
ましてや赫々たる聖漢、巍々たる唐(堯)の基業は、その源流を溯って測れば、先ず虞を孕み夏を育み、殷を甄し周を陶し、[一]それから二祖(高祖・世祖)の重光を宣べ、四宗(太宗・代宗・中宗・顯宗)の緝熙を襲ぐ。神霊は日に照らし、光は六幽(天地四方の幽遠)に被い、仁風は海表に翔け、威霊は鬼区(遠方)に行き渡り、悪は遠くして滅びざるはなく、微細なものは瑣末であって養われざるはない。[二]故に、三才(天地人)を顕定し昭登(昇天)する功績は、堯でなければ興らず、遺策(堯典)を布聞し子孫への訓戒は、漢でなければ弘まらない。[三]その道は乾坤を経緯し、三光(日月星)を出入し、外には混元(天地)を運び、内には豪芒(極微)に浸透し、性類は理に循い、品物は皆亨るに至り、それは既に久しいのである。[四]
(注[一]矧はましてや。漢は唐堯の基業を承けた。逆流することを泝という。孕は懐く。育は養う。甄・陶とは造成すること。前書音義に「陶人が瓦器を作ることを甄という」とある。虞・夏・殷・周の先祖は、皆かつて堯の臣下であったという意味である。
注[二]二祖は高祖と世祖である。尚書に「重光を宣べる」とある。襲は重ねる。四宗は文帝が太宗、武帝が代宗、宣帝が中宗、明帝が顯宗である。燭は照らすことで、日の照らすようであるという意味。六幽は六合(天地四方)の幽遠な地。鬼区は遠方である。易経に「高宗、鬼方を伐つ」とある。慝は悪。迥は遠い。泯は滅びる。瑣は小さい。頤は養う。凶悪な者は遠くても滅びず、微細な者は小さくても養われないことはないという意味である。
注[三]三才は天・地・人である。易経に「三才を兼ねてこれを両にする」とある。登は昇る。績は功績。天に昇る功績は、堯でなければ興せないという意味。尚書に「上に昭かに昇る」とある。舗は布く。遺策は堯の残した策、すなわち堯典を指す。在下とは後代の子孫。堯典が子孫への訓戒となることは、漢でなければ弘大にできないという意味である。
注[四]天地を経緯するとは、陰陽が交わり泰平であることを言う。三光を出入するとは、日月星がその度を失わないことを言う。渾元は天地の総称。豪芒は繊微。老子に「陰陽を和し、四時を節し、草木を潤し、金石に浸み、毫毛潤沢す」とある。性は生。循は順う。命ある類は皆、理に順う。尚書に「生を別ち類を分け、品物万殊」とある。亨は通じる。易経に「弘大を包含し光輝を発し、品物皆亨る」とある。)
盛んなことよ!皇家の帝世(漢代)は、徳は歴代帝王を臣とし、功は百王を君とし、栄光は宇宙を鏡のように照らし、尊厳は比類するものがない。[一]そこで初めて虔鞏(けんきょう、固く慎む)に労謙(謙虚に労する)し、兢兢業業として戒め慎み、成功を貶し定めを抑えて、敢えて制作(礼楽制定)を論じようとしない。[二]その結果、正統を遷し色服を黜け賓礼監国の事柄が宇内に煥揚される一方で、礼官や儒林の屯朋(群れ集う)篤論の士が祖宗の彷彿(おおよその事績)を伝えず、優慎(慎重すぎる)とは言え、それは葸ことではないか![三]
(注[一]皇家帝代とは漢家の歴代を指す。列辟とは昔の帝王を指す。漢家の徳はあの歴代帝王を臣下とし、功はあの百王を君主とすることができるという意味。司馬相如の封禅書に「歴代の帝王を選ぶ」とある。鏡とは光明のようなもの。抗とは敵対することで、読は康と同じ。
注[二]爾雅に「虔鞏とは固いこと」とある。易経に「労謙の君子は終わりに吉あり」とある。帝が固く労謙であるという意味。兢兢は戒め慎むこと。業業は危惧すること。礼記に「王者は功成って楽を作り、理定まって礼を制す」とある。今、制礼作楽のことを敢えて論じないのは、謙虚の極みであるという意味である。
注[三]遷正とは、正朔を改めることである。黜色とは、服色を改めることである。賓とは、殷・周の二王の後裔を指し、漢の賓客となった者をいう。監とは、見ることである。殷・周の事跡を見て戒めとする。論語で孔子は言う。「周は二代を監る。」屯とは、集まること。朋とは、群れである。不伝とは、篇籍を作らず、もって功德を記録しないことをいう。彷彿とは、おおよその様子である。論語で孔子は言う。「慎みて礼無ければ則ち葸しむ。」鄭玄の注に「葸とは、質朴で謹直な様子」とある。言わんとするところは、たとえ優遊として謙虚で慎み深くとも、あまりにも質朴で謹直すぎるのではないか、ということである。
そこで三公や岳牧の官僚たちは、皆そろって進み出て言った。「陛下は上は唐(堯)の典範を監て、中には祖宗の法則を述べ、下には宗廟の軌範に従われた。[一] 自ら天の経(孝)を奉じ、厚く親しみ分け明らかにする教化は行き渡った。[二] 民衆を巡り慰撫して安んじ、鰥寡孤独を思いやり保護する恵みは隅々まで及んだ。[三] 燔柴・瘞埋・庋懸・浮沈の祭祀を行い、群神に対して恭しく敬う礼は整った。[四] このため、鳳凰が来儀し、羽族の鳥たちが門闕に集まり、肉角の麒麟が外苑で毛族を従え、郊外では緇文皓質の騶虞が馴らされ、沼では黄の輝きを放つ鱗を持つ黄龍が昇り、甘露が夜に豊かな草に降り、三本足の烏が茂った木の上で飛び交った。[五] また、嘉谷や霊草、奇獣や神禽が、瑞図に応じ史諜に合い、祥瑞の極みを示すものが、朝夕に郊野に現れ、日月の下の都の周辺に満ち、方州においては卓抜し、要荒の地にまであふれんばかりである。[六] 昔、周の時代には素雉・朱烏・玄秬・黄婺といった事柄があっただけで、君臣は顔色を動かし、左右の者は互いに走り寄り、威儀整って盛んな様子で、高く聳えるようであった。[七] これは、明らかに敬虔な心を示し、天の思し召しによる福を承け、また文王・武王の徳を光栄あるものとし、子孫に安寧を遺し、重ねて美しく輝かせるためであり、どうして自分自身のために専有する言葉などあっただろうか?[八] もしこのように(瑞祥を)受けているならば、また勤めて力を尽くし、その道を充実させ、恭館の金縢を開き、東序の秘宝を陳べて、その占いを広めるべきではありますまいか。[九]
(注[一]三事とは、三公である。僉とは、皆である。
注[二]天経とは、孝をいう。孔子は言う。「孝は天の経なり。」章帝が即位した初め、四時に禘祫の祭を行い、明堂で宗祀したことを指す。尚書に「九族を惇叙す」とあり、また「九族既に睦み、百姓を辯章す」とある。鄭玄は「辯は別ける、章は明らかにする、惇は厚くする、睦は親しむ」と注している。章帝は情が篤く愛深く、諸王と離れることを忍びず、皆を京師に留めた。
注[三]巡とは、撫でること。靖とは、安んずること。黎・蒸は、ともに衆をいう。懷とは、思うこと。保とは、安んずること。浹とは、行き渡ること。尚書に「小人を懷保し、鰥寡に惠鮮す」とある。章帝が在位中に四度巡狩し、人々に爵位を賜い、鰥・寡・孤・独で自活できない者に粟を与えたことを指す。
注[四]爾雅に「天を祭るを燔柴といい、地を祭るを瘞埋といい、山を祭るを庋縣といい、川を祭るを浮沈という」とある。肅祗とは、恭しく敬うこと。封禪書に「湯武の至尊たるも、肅敬を失わず」とある。元和中の詔に「朕、岱宗に巡狩し、山川に柴望す」とある。庋の音は居毀反。
注[七]孝經援神契に「周成王の時、越裳来たりて白雉を献ず」とある。朱烏とは、赤烏をいう。尚書中候に「太子發、孟津を渡るに、火天より起こり王屋に止まり、流れて赤烏となる」とある。玄秬とは、黒黍である。詩大雅に「嘉種を降し誕す、惟れ秬惟れ秠」とある。黃婺とは、麦である。赤烏が牟麦を銜えて来たことをいう。詩頌に「我に来牟を貽る」とある。詩大雅に「濟濟たる多士」とあり、また「惟れ此の文王、小心翼翼」とあり、また「璋を奉じて峨峨たり」とある。
注[八]詩大雅に「昭明として融らかなり」とある。寅とは、敬うこと。尚書に「嚴恭寅畏」とある。聿とは、述べること。懷とは、思うこと。詩大雅に「上帝に昭事し、聿べて多福を懷う」とある。貽とは、遺すこと。燕とは、安んずること。後昆とは、子孫である。これは文王・武王の徳を光栄ある神霊とし、子孫に安寧を遺すことを言っている。詩大雅に「厥の孫に謀を貽し、以て子を燕翼ぶ」とある。覆とは、重ねる意。懿・鑠は、ともに美しいこと。詩大雅に「我懿德を求む」とあり、また「於鑠ける王師」とある。詩人が周の盛徳を歌頌したのは、成康の時代であった。その成王・康王が、どうして自分自身のために専有する言葉などあっただろうか、上は文武の業を光栄あるものとし、下は子孫の基を遺したのである。今、章帝が既に符瑞の応を得たならば、また成康の事跡と同じくすべきであると言っている。
注[九]受之とは、漢がこの符瑞を受けることをいう。說文に「恁は、念ずるなり」とある。音は人甚反。旅とは、並べること。充とは、当てはめること。恭肅之館とは、廟中をいう。金縢とは、金で緘した櫃で、符瑞の書をその中に蔵すること。御とは、陳べる意。東序とは、東廂である。秘宝とは、河図の類をいう。尚書に「天球河圖東序に在り」とある。孔安國注に「河圖は、八卦これなり」とある。金縢の書と河図の卦を開いて占うと言っている。流とは、広く行き渡らせる意。
そもそも図書が明らかに示すのは、天の知恵である。孔子の謀が先に命じるのは、聖人の信頼である。徳の根本を行うのは、正しい本性である。吉に逢い辰に当たるのは、大いなる天命である。[一] 天命に順って制度を創始し、本性を定めて神と和し、三霊の豊かな福に答え、唐(堯)の明らかな文を広げる。この事はまことに重大で適切であり、聖心は日夜これに心を砕いている。前を顧み後を望めば、どうして清廟を軽んじ、天の来臨を恐れることがあろうか?[二] 遠い古代から考えば、今に至るまで、作者は七十四人いた。天命に従わずに仮の記録を残し、光輝を放たずに文章を遺した者はいるが、今、どうしてただこれだけが欠けているのだろうか![三]
(注[一]図書とは、河図と洛書のことである。亮は信、章は明、哲は智を意味する。天が図書を授けた者は、天子に知られるという意味である。孔とは孔丘のことである。猷は図、孚は信を意味する。孔丘の図は、先に漢家が封禅を行うべきであると命じており、これは聖人の信であるという意味である。体行とは躬行と同じである。孔子は言う、「孝は徳の根本である」と。易経には、「幹道が変化し、それぞれが性命を正す」とある。丁は当、辰は時、景は大を意味する。吉なる時代に逢い、封禅の時に当たる、これは天子の大命である。
注[二]命とは符瑞を指す。荅は対、三霊は天地人の神を指す。繁は多、祉は福、展は陳、放は效(音は甫往反)を意味する。唐堯の文を效するとは、封禅を指す。尚書琁璣鈐には、「礼楽を平らかに制し、唐の文に於いて」とある。茲事とは封禅のことで、大いにしてかつ信である。次は止、寤寐は常に聖心に止まる、忘れてはならないという意味である。前は前代の帝王、後は子孫を指す。蔑は軽、憚は難、来は正を意味する。封禅の事は皆祖宗の徳を述べるもので、今推譲するのは、清廟を軽んじ天命を正すことを難じるのか、という意味である。尚書には、「来天之命、惟時惟幾」とある。
注[三]伊は維、邃古は遠古と同じ。楚詞には「邃古之初」とある。戾は至、邃古以来ここに至るまでを意味する。作者とは諸々の封禅を行う者。史記管仲は「古より封禅七十二君」と言う。武帝及び光武を合わせて七十四君となる。俾は使、天下を有しながら封禅を行わせず、竹素の文を仮とする者、法度を光揚しその文章を棄てる者、封禅を行わない者は無い。台は我、今その我に何故独り欠けるのか、という意味である。)
この時、聖上(章帝)は既に精神を集中し遊心し、芸文を包み挙げ、群儒を屡々訪ね、故老に諮問し、彼らと共に道德の淵源を斟酌し、仁義の林藪を肴核し、元符の臻ることを望んでいた。[一]既に群後の讜辞を成し、又悉く五繇の碩慮を経た。将に万嗣を絣ぎ、洪暉を煬し、景炎を奮い起こし、遺風を扇ぎ、芳烈を播き、久しくして愈々新たに、用いても竭きず、汪汪乎として丕天の大律、誰がこれを異にできようか?唐なるかな皇なるかな、皇なるかな唐なるかな![二]
(注[一]聖上は章帝を指す。諭は告、咨は謨。道德仁義は人の常に行うところなので、酒食に譬えた。淵源、林藪は深遠さの譬え。元は天、符は瑞。詩経に「餚核惟旅」とある。核も核で、果実の類を指す。
注[二]讜は直言。繇は兆辞(音は冑)。左伝に「先王は征を卜し五年にして歳其の祥を習う。習わざれば則ち其の徳を増修して改めて卜す」とある。碩は大、慮は思。広雅に「絣は続く(音は方萌反)」とある。景は大、炎は火徳を指す。汪汪は深い様。今文尚書太誓篇に「功を立て事を立てば、永年を以てすべし、丕天の大律」とある。鄭玄注に「丕は大、律は法」とある。疇は誰。亘は竟。唐哉は堯を指し、皇哉は漢を指す。ただ唐と漢、ただ漢と唐のみ、という意味である。)
班固は後に母の喪のため官を去った。永元初年、大将軍竇憲が匈奴征伐に出ると、班固を中護軍とし、参議させた。北単于は漢軍の出動を聞き、使者を居延塞に遣わして款き、呼韓邪の故事を修めようとし、天子に朝見し、大使を請うた。竇憲は上奏して班固を行中郎将事とし、数百騎を率いて虜の使者と共に居延塞を出てこれを迎えさせた。ちょうど南匈奴が北庭を掩い破ったため、[一]班固が私渠海に至った時、虜の中で乱が起こったと聞き、引き返した。竇憲が敗れると、班固は先に坐して官を免じられた。
班固は諸子を教え導かず、諸子は多く法度に従わず、吏人はこれを苦しめた。初め、洛陽令の種兢が行った時、班固の奴がその車騎を干渉し、吏が椎って呼んだが、奴は酔って罵り、種兢は大いに怒った。竇憲を恐れて発せず、心に恨みを抱いた。竇氏の賓客が皆逮捕審問されると、種兢はこれにより班固を捕らえて獄に繋ぎ、遂に獄中で死んだ。時に六十一歳。詔により種兢を譴責し、主たる吏の罪に当てた。
班固の著した典引、賓戲、應譏、詩、賦、銘、誄、頌、書、文、記、論、議、六言は、現存するもの凡そ四十一篇。
史論
論じて曰く、司馬遷、班固父子は、その言う史官載籍の作は、大義が燦然として著しい。議者は皆二人に良史の才があると称する。司馬遷の文は直にして事は核実、班固の文は贍にして事は詳しい。もし班固の序事は、激しく詭せず、抑えず抗せず、[一]贍にして穢れず、詳しくして体有り、読む者をして亹亹として厭わず、まことにその成名する所以である。[二]班彪、班固は司馬遷を譏り、その是非は聖人に頗る謬れると為した。[三]しかしその論議は常に死節を排し、正直を否み、殺身成仁の美を為すことを叙さず、[四]則ち仁義を軽んじ、守節を賤しむこと愈々甚だしい。[五]班固は司馬遷が博物洽聞でありながら、智をもって極刑を免れなかったことを傷んだが、[六]しかしまた自ら大戮に陷り、[七]智は及んだが守ることができなかった。[八]嗚呼、古人が目睫について論じた所以である![九]
(注[一]激は揚、詭は毀、抑は退、抗は進。
注[二]爾雅に、亹亹は勉と同じとある。
注[三]司馬遷の是非は皆聖人と乖謬している、即ち黄老を崇め五経を薄し、仁義を軽んじ守節を賤しむことである、という意味。
注[四]班固が『遊俠伝』の序で述べたことには、「劇孟や郭解の徒は、里巷を駆け巡り、たとえ刑罰に陥っても、自ら身を殺して名を成すことを選び、季路や仇牧のように死しても悔いない。古代の正しい法では、五覇は三王の罪人であり、六国は五覇の罪人であり、四豪(戦国四公子)はまた六国の罪人である。ましてや郭解の類いが、一介の匹夫の微細な身でありながら、生殺与奪の権を窃取するなど、その罪は誅殺をもってしても容赦されない」とある。
注[五]「愈」は「甚だしい」の意。
注[六]蚕室に入れられることを指す。
注[七]これより上は華嶠の言葉を略述したもの。
注[八]『論語』にある孔子の言葉である。知恵があっても自らの身を守ることができないことを言う。
注[九]『史記』に、斉の使者が越に至り、「幸いなことに越は滅びなかった。私はその知恵が目のようであることを貴ばない。細かい毛は見えるが自分の睫毛は見えない。今、越王は晋の失策を知っているが、越人の過ちを自ら知らない。これが『目論』である」と言ったとある。班固が司馬遷が刑罰を受けたことを讒しているが、自らが禍いに遭ったことを知らないことを言う。)
賛に曰く:二班(班彪・班固)は文を懐き、帝王の典籍を裁成した。[一]司馬遷や董狐に比肩し、[二]司馬相如や揚雄の麗しさを兼ね備えた。[三]班彪は天命を識ったが、班固は世の紛れに迷った。
(注[一]沈約の『宋書』に、「初め、謝儼がこの賛を作り、『裁成典墳』とし、範曄に見せたところ、曄は『帝墳』と改めた」とある。
注[二]司馬遷と董狐を指す。『左伝』に「董狐は古の良史なり」とある。
注[三]司馬長卿(相如)と楊子雲(雄)を指す。)
校勘記
一三五九頁三行目「主人喟然而歎曰」について。文選では「主人」の上に「東都」の二字がある。張森楷の校勘記によれば、上巻の小題の下に「『東都主人』以下より下巻に分つ」と称しているので、本来は「東都」の字があるはずであり、なぜか逸脱したのか分からないという。
一三五九頁四行目「奮布衣以登皇極」について。校補によれば、文選では「極」は「位」となっている。
一三五九頁五行目「前聖靡得而言焉」について。校補によれば、文選には「而」の字はない。
一三五九頁五行目「討有逆而順人」について。「討」は原本では「計」と誤っており、汲古閣本と殿本に基づき直接訂正した。注も同じ。
一三五九頁七行、監乎太清。按:『泰』は『太』とすべきであり、これは後人が回改した誤りである。文選は正しく『太』と作る。今これに拠って改める。
一三五九頁八行、以變子之或志。按:李慈銘は文選の『或』を『惑』と作ると言う。或と惑は古字で通じる。
一三五九頁一〇行、昭襄昭王襄王也。按:文選注は史記を引き、『秦武王卒,無子,立異母弟,是為昭襄王』とある。張森楷の校勘記は、秦には昭襄王、莊襄王があり、昭襄は単に『昭王』と称されることもあるが、単に『襄王』と称されることはないと言う。この『昭襄』は昭襄王であり、文選注が正しく、これは誤りである。
一三六〇頁四行、時豈奢泰而安之哉。按:汲本、殿本は『泰』を『侈』と作る。
一三六一頁一行、作舟車。按:校補は文選の『車』を『輿』と作ると言う。
一三六一頁一行、斯軒轅氏之所以開帝功也。按:校補は文選に『斯』の下に『乃』の字があると言う。
一三六一頁二行、應天順人。按:『民』は『人』とすべきであり、これは後人が回改した誤りである。文選は正しく『人』と作る。今これに拠って改める。
一三六一頁二行、有殷宗中興之則焉。按:『宗』は原『室』と作るが、汲本、殿本に拠って直ちに改正する。
一三六一頁四行、妙古昔而論功。按:文選は『妙』を『眇』と作る。
一三六二頁一二行、洛邑地埶之中也。按:陳景雲は偽孔伝に拠れば、『之中』は『正中』とすべきだと言う。
一三六三頁五行、翩翩巍巍顯顯翼翼。按:王先謙は文選が『扇巍巍,顯翼翼』と作ると言う。
一三六三頁七行、順流泉而為沼。按:校補は文選の『順』を『填』と作ると言う。注に昭明(太子)が順を諱んだため、『填』に改めたとある。
一三六三頁一〇行、鳳蓋颯灑。按:文選は『颯灑』を『棽麗』と作る。
一三六三頁一〇行、祲威盛容。按:集解は沉欽韓の説を引き、『祲』は文選に拠って『寢』とすべきであり、兵威を寢めて礼容を盛んにすることを言うと言う。
一三六三頁一二行、吐爓生風。按:『爓』は原『爛』と作るが、殿本、集解本に拠って直ちに改正する。
一三六三頁一二行、吹野燎山について注記する。校補は、文選では「欱野歕山」とあると述べている。
一三六三頁一四行、以命三驅について注記する。王先謙は、文選では「以命」が「申令」となっていると述べている。
一三六三頁一四行、輕車霆發について注記する。校補は、文選では「輶車霆激」とあると述べている。
一三六三頁一四行、遊基發射について注記する。校補は、文選では「游」が「由」となっており、游と由は同じであると述べている。
一三六三頁一四行、轡不詭遇について注記する。汲本と殿本では「轡」が「彎」となっており、注も同じである。この文は前文の「范氏施御」を受けており、「轡」が正しく、文選も「轡」としている。
一三六四頁一行、*(御)**[覲]*明堂について注記する。殿本に基づいて改めた。注に従えば「覲」とすべきであり、文選も「覲」としている。
一三六四頁三行、瞰四裔而抗稜について注記する。汲本と殿本では「稜」が「稜」となっており、文選も「稜」としている。注も同じである。
一三六四頁三行、南趯朱垠について注記する。校補は、文選では「趯」が「耀」となっていると述べている。
一三六四頁四行、自孝武所不能征孝宣所不能臣について注記する。校補は、文選では「自孝武之所不征,孝宣之所未臣」となっていると述べている。
一三六四頁六行、外接百蠻について注記する。校補は、文選では「接」が「綏」となっていると述べている。
一三六四頁六行、乃盛禮樂供帳置乎雲龍之庭について注記する。李慈銘は、文選では「爾乃盛禮興樂」となっており、楽の字で句読する、と述べている。
一三六四頁八行、太師奏樂について注記する。「太」は元来「泰」と誤っていたが、殿本に基づいて直接に改正した。
一三六四頁九行、仱樹兜離について注記する。李慈銘は、文選では「仱樹」が「僸樹」となっていると述べている。
一三六四頁一二行、始服*(冕)*冠*[冕]*衣裳について注記する。汲本に基づいて改め、明帝紀と合致する。
一三六四頁一三行、敷布也について注記する。「敷」は元来「舖」と誤っていたが、直接に改正した。
一三六六頁一〇行、霆激電騖はともに迅速さを言う。汲本・殿本は「霆激」を「霆發」と作る。按ずるに、正文「輕車霆發」、文選は「輶車霆激」と作る。この注を見ると、章懐の見た本の正文も「霆激」と作っていたようである。
一三六六頁一一行、則ち*(揮)**[搏]*いて嬉う。汲本・殿本に拠り改む。
一三六六頁一一行、范氏は趙の御人なり。按ずるに、集解は惠棟の説を引き、文選李善注が括地図を引いて云う、夏の徳が盛んな時、二龍が降り、禹は范氏に命じてこれを御し南方を行かしめたと。章懐は范氏を趙の御人とし、孟子を引いてこれを証するは、誤り甚だしい。また按ずるに、校補は范氏は自ら夏の御人であるべきで、この「趙」の字は下の「趙簡子」に連なって誤ったのであろうと言う。
一三六六頁一二行、吾れは范氏のために駆馳す。汲本・殿本は「范氏」を「范我」と作る。校補は侯康の説を引き、「『范我』は『范氏』と作るべきで、章懐がこれを引くのは、正に『范氏施御』の句を注するためである。孫宣公の孟子音義は『范我』或いは『范氏』と作ると云う。
孟堅(班固)のこの賦は皆孟子を用いているので、章懐は孟子を引いてこれを証するのである」。今按ずるに、趙岐本の孟子は今本の孟子と同じく「范我」と作り、かつ下に趙岐の注「范は法なり」を引くからには、章懐の注も元は「范我」と作っていたのであろう。校補は「侯氏が孟堅が実際に孟子の或る本を用いたというのは正しいが、当時はまた趙岐本もなかったのである。章懐が孟子を引き、併せて趙注を引いて『范』の字を解釈するのは、実は依然として『范我』のためであり、決して『范氏』のためではない。ただこれを引くのは専ら下の『轡不詭遇』を説くためで、元来は別の一義である」と言う。
一三六六頁一三行、趙岐の注に曰く、范は法なり。按ずるに、「范」は「范」と作るべきである。上条の校記を参照せよ。
一三六七頁一〇行、*[日]*食を三朝の会に於いてす。汲本・殿本に拠り補う。
一三六七頁一六行、食挙*(為)**[謂]*は食を挙げるに当たり楽を挙ぐるを謂うなり。汲本・殿本に拠り改む。按ずるに、為と謂は本より通ずるが、ここは「謂」と作るのが正しい。
一三六七頁一七行、太師は六律六呂を掌る。按ずるに、「呂」は原刻では「同」に作る。汲本・殿本に拠り直ちに改正す。
一三六八頁四行、太古は遠古なり。按ずるに、「太」は原刻では「泰」に作る。汲本・殿本に拠り直ちに改正す。
一三六八頁九行、ここに於いて聖上は*(親)**[鶯]*に万方の歓娛をす。按ずるに、文選は「親」を「鶯」と作る。王先謙は「鶯」と作るのが正しいと言う。今これに拠り改む。
一三六八頁九行、久しく膏沢に沐浴す。按ずるに、校補は文選が「久」を「又」と、「乎」を「於」と作ると言う。
一三六八頁一一行、工商の淫業を除き、農桑の上務を興す。按ずるに、校補は文選が「除」を「抑」と、「上」を「盛」と作ると言う。
一三六八頁一二行、奇麗を賤しみて珍しまず。按ずるに、校補は文選が「不」を「弗」と作ると言う。
一三六八頁一三行、耳目は営まない。按ずるに、校補は文選が「不」を「弗」と作ると言う。
一三六九頁六行 珠玉を五湖の川に投げ捨てる。按:「湖」は元は「胡」と誤っており、直接に訂正した。
一三六九頁一〇行 平帝が学官を立てる。*(挙)* 刊誤に基づいて削除。
一三七〇頁一行 図書の泉。按:「泉」は本来「淵」と作るが、唐の諱を避けて改めたものであり、殿本は元に戻して「淵」としている。
一三七一頁二行 今、子に五篇の詩を告げようとする。按:校補は文選が「今將授子以五篇之詩」と作ると言う。
一三七一頁一四行 率土の賓。按:汲本、殿本は「賓」を「濱」と作る。
一三七四頁一四行 どうして*(同)**[可]*逆に詐りを示して猜疑心を見せられようか。殿本は「同」を「可」と作る。王先謙は「可」と作るのが正しいと言う。今これに従って改める。
一三七五頁八行 典拠はあるが実態がない。按:校補は文選が「不」を「亡」と作ると言う。
一三七五頁一四行 草昧と同じである。按:汲本、殿本は「於」を「乎」と作る。文選は「於」と作る。
一三七五頁一五行 氏号があり、天の道を継ぎ開き繹る者がいた。按:校補は文選に「者」の字がないと言う。
一三七六頁一行 蔡邕が言うには*(鞭)**[絪]*縕。汲本、殿本に従って改める。
一三七六頁一二行 徳を冠とする卓抜な足跡を持つ者によって。按:校補は文選が「蹤」を「絕」と作ると言う。
一三七六頁一三行 虞もまた夏后に命じた。按:校補は文選に「虞」の上にまだ「有」の字があると言う。
一三七六頁一六行 かつての*[聖]*なる戯、夔、衡、旦のような密やかに務める補佐の臣であっても。汲本、殿本に従って補う。按:文選には「前聖」の二字はない。
一三七六頁一六行 辰(天子)がその域に居る。文選は「辰」を「宸」と作る。按:校補は「辰居」は本来論語にあるもので、「宸」と作るのは借用による通仮字であり、その本字はやはり「辰」と作るべきだと言う。
一三七八頁三行 高祖が碭山に彤雲を集めた。按:「碭」は元は「碭」と誤っており、直接に訂正した。
一三七九頁一行、同じく侯甸の服する所を受く。按ずるに、校補は文選に「所」の字なしと謂う。
一三七九頁一行、伯方を以て牧を統ぶ。按ずるに、校補は文選に「伯方」を「方伯」と作すと謂う。
一三七九頁一行、その命賜の彤弧・黄戚の威に乗じ、韋・顧・黎・崇の格せざるを討つに用う。按ずるに、校補は文選に「戚」を「鉞」と、「格」を「恪」と作すと謂う。
一三七九頁三行、是の故に義士は偉にして敦からず。按ずるに、校補は文選に「偉」を「華」と作すと謂う。
一三七九頁三行、然れども猶お於穆・猗那たり。按ずるに、校補は文選に「然」を「亦」と作すと謂う。
一三七九頁一四行、京*(師)*は京都なり。刊誤に據りて刪す。
一三八〇頁一二行、慝は亡くして迥らずして泯びず。按ずるに、校補は文選に「慝」を「匿」と、「迥」を「回」と作すと謂う。
一三八〇頁一四行、厥の道、乾坤を経緯するに至る。按ずるに、校補は文選に「厥道」の二字は上に連ねて句とし、「乎」を「於」と作すと謂う。
一三八〇頁一四行、内に豪芒に浸る。按ずるに、校補は文選に「浸」を「沾」と作すと謂う。
一三八〇頁一六行、漢は唐*(虞)**[堯]*の基を承く。按ずるに、刊誤は註解は「唐基」のみで、何ぞ故に輒ち「虞」の字を出すや、明らかに「堯」と作すべしと謂う。今、これに據りて改む。
一三八一頁九行、品物萬殊なり。按ずるに、「殊」原斗「物」、逕に改正す。
一三八一頁一〇行、乃ち始めて虔鞏勞*(讓)**[謙]*たり。汲本・殿本に據りて改む。
一三八一頁一一行、而して禮官・儒林屯朋篤論の士にして祖宗の彷彿を傳えず。按ずるに、校補は文選に「朋」を「用」と、「論」を「誨」と作すと謂う。又、毛刻文選蔡邕注本は「屯」を「純」と作し、「不傳」の上に「而」の字なし。又按ずるに、「彷彿」汲本・殿本は「彷彿」と作し、注同じ、文選は「髣□」と作す。
一三八二頁六行、是を以て*(鳳皇)*來儀し、羽族を観魏に集む。文選に「鳳皇」の二字なし。沈家本は以下の文例之に、無き者は是なりと謂う。今、これに據りて刪す。
一三八二頁八行、羨溢すること要荒に乎る。按ずるに、校補は文選に「羨」を「洋」と作すと謂う。
一三八二頁一一行「宜亦勸恁旅力」の注:校補は文選では「宜亦」を「亦宜」としていると述べている。
一三八三頁四行「肉角」とは麟のことである。注:「麟」は原本では「鱗」と誤っており、直接に訂正した。
一三八四頁七行「定性以和神」の注:校補は文選では「因定以和神」としていると述べている。
一三八四頁八行「憚□天乎」の注:校補は文選では「天」の下に「命」の字があると述べている。
一三八四頁八行「伊考自邃古」の注:「邃」は原本では「遂」と誤っており、汲本、殿本に基づいて直接に訂正した。注も同じ。
一三八五頁四行「與之乎斟酌道德之淵源」の注:校補は文選には「乎」の字がないと述べている。
一三八五頁五行「既成腢後之讜辭」の注:校補は文選では「成」を「感」としていると述べている。
一三八五頁六行「奮景炎」汲本、殿本では「景炎」を「炎景」としている。注:文選では「景炎」としている。