班彪
班彪は字を叔皮といい、扶風郡安陵県の人である。祖父の班況は成帝の時に越騎校尉となった。父の班稚は哀帝の時に広平太守となった。
(注[一]広平は郡であり、現在の洺州永年県である。隋の朝廷が広の字を避諱して改めた。)
班彪は性格が沈着で古風を好んだ。二十歳を過ぎた頃、更始帝が敗れ、三輔の地は大混乱に陥った。当時、隗囂が天水で兵を擁していたので、班彪は難を避けて彼に従った。隗囂が班彪に尋ねて言った。「昔、周が滅びた時、戦国が並び争い、天下は分裂し、数世代を経てようやく平定された。今また合従連衡の事態が起こると思うか?それとも天命を受け継いで次々に興るのは、一人の人物によるものか?あなたの考えを聞かせてほしい。」班彪は答えて言った。「周の廃興と漢とは事情が異なります。昔、周は五等の爵位を設け、諸侯が政治を行いました。根本が既に弱く、枝葉が強大になったため、その末流に合従連衡の事態が生じたのは、情勢の必然でした。漢は秦の制度を継承し、郡県制に改めて立てました。君主には専断の威があり、臣下には百年続く権柄はありません。成帝に至っては、外戚に権力を委ね、哀帝、平帝は在位が短く、皇位継承が三度絶えました。そのため王氏が朝廷を専横し、ついに帝位を簒奪したのです。危機は上から起こり、傷は下に及びませんでした。そのため、王莽が真の皇帝となった後、天下の誰もが首を長くして嘆いたのです。十数年の間に、朝廷内外は騒擾し、遠近ともに蜂起し、偽りの称号が雲のように集まり、皆が劉氏を称し、謀らずして同じ言葉を口にしました。現在、州域を支配する英雄豪傑たちは、みな七国のような代々の基盤を持っておらず、民衆は歌い吟じて漢の徳を慕い仰いでいます。これで既に分かることです。」隗囂は言った。「あなたが周と漢の情勢を論じるのは結構だが、ただ愚かな人々が劉氏の姓と称号に慣れ親しんでいるからという理由で、漢が復興するなどと言うのは、浅はかだ。昔、秦がその鹿(天下)を失い、劉季(劉邦)がそれを追って捕らえた時、当時の人々は漢のことを知っていただろうか?」
(注[一]外家とは王鳳・王商らのことで、いずれも政務を補佐し尚書事を統轄した者である。)
注[二]哀帝は在位六年、平帝は在位五年であったため、短い在位期間と言われる。成帝、哀帝、平帝はいずれも子がなく、これが三つの断絶である。
注[三]成帝の威権は外戚に借り、これは危険が上から起こったのである。漢の徳は百姓を害することなく、これは傷が下に及ばなかったのである。
注[四]は、王郎や盧芳らがともに劉氏を詐称したことを指す。
注[五]太公六韜に曰く、「天下を取るは鹿を逐うが如し、鹿を得れば、天下其の肉を共に分つ」と。
班彪は隗囂の言説を憎むとともに、時勢の困難さを憂い、『王命論』を著して、漢の徳は堯を継ぎ、天命の符瑞があること、王者の興隆は詐術や武力によるものではないと論じ、隗囂を感化しようとしたが、隗囂はついに悟らず、そこで班彪は河西へ避難した。河西の大将軍竇融は彼を従事に任じ、深く敬って師友の礼をもって遇した。班彪はそこで竇融のために策をめぐらし、漢に仕えて西河を統率し、隗囂に抵抗するよう助言した。
融が征討から帰還して京師に戻ると、光武帝が尋ねた。「上奏した章奏は、誰と参画したのか?」融は答えた。「すべては従事の班彪が行ったことです。」帝はかねてより彪の才能を聞き知っていたので、彼を召し入れて面会し、司隸茂才に推挙し、徐県令に任命したが、病気のため免官となった。その後、三公からの招聘に数度応じたが、そのたびに去った。
(注[一]司隸が茂才に推挙した。徐は県で、臨淮郡に属する。)
班彪は既に才が高く、著述を好んだので、遂に心を史籍に専念した。武帝の時、司馬遷が『史記』を著したが、太初以後については欠けて記録しておらず、[一]後世の好事者がしばしば時事を綴り集めたが、多くは鄙俗で、その書に続くには足りなかった。[二]班彪はそこで前史の遺事を継ぎ採り、傍ら異聞を貫いて、後伝数十篇を作り、前史を斟酌して得失を譏り正した。その略論に言う。
(注[一]太初は武帝の年号。
注[二]好事者とは楊雄、劉歆、陽城衡、褚少孫、史孝山の徒を指す。)
唐虞三代は、詩書の及ぶところ、代々史官がいて典籍を司り、[一]諸侯に至っては、国ごとに史があった。[二] 故に孟子が「楚の檮杌、晋の乗、魯の春秋、その事は一なり」と言った所以である。[三]定公と哀公の間、[四]魯の君子左丘明がその文を論じ集め、『左氏伝』三十篇を作り、また異同を撰して『国語』と号し、二十一篇、これによって乗や檮杌の事は遂に闇となり、[五]左氏と国語のみが顕彰された。また黄帝以来から春秋時の帝王・公侯・卿大夫を記録したものがあり、『世本』と号し、十五篇。春秋の後、七国が並び争い、秦が諸侯を併せると、『戦国策』三十三篇があった。漢が興って天下を定めると、太中大夫陸賈が時の功績を記録し、『楚漢春秋』九篇を作った。孝武帝の世、太史令司馬遷が左氏伝、国語を採り、世本、戦国策を削り、楚、漢、列国の時事に拠り、上は黄帝から始め、下は獲麟に至り、[六]本紀、世家、列伝、書、表合わせて百三十篇を作ったが、十篇は欠けている。[七]司馬遷の記したところ、漢の初めから武帝に至るまでを絶やさず記したことは、その功績である。経伝を採り集め、百家の事を分散させた点については、甚だ多くが疎略で、その本に及ばず、多くを聞き広く載せることを功としようと務め、論議は浅く篤実でない。その術学を論ずるには、黄老を崇めて五経を軽んじ;[八]貨殖を序するには、仁義を軽んじて貧窮を恥じ;[九]遊侠を道くには、節を守ることを賤しみ俗功を貴んだ:[一〇]これがその大いなる弊害で道を傷つけるところであり、極刑の咎に遇った所以である。[一一]しかし事理を述べ序するのが巧みで、弁じても華美でなく、質朴でも野卑でなく、文と質が相称しており、良史の才と言えよう。もし司馬遷に五経の法言に依り、聖人の是非と同じくさせたならば、その志もほぼ及んだであろう。[一二]
(注[一]礼記に「動けば則ち左史これを書き、言えば則ち右史これを書く」とある。史籍に見える者は、夏の太史終古、殷の太史向摯、周の太史儋である。呂氏春秋に見える。
注[二]左伝に、魯の季孫が外史を召して悪臣を掌らせた。衛の史華龍滑が「我は太史なり」と言った。楚に左史倚相がいた。
注[三]乗とは、田賦乗馬の事に興ったもの。檮杌とは、嚚凶の類で、悪を記す戒めに興ったもの。春秋は二始(歳首・月首)をもって四時を挙げ、万事を記すので、遂に各々これによって名とし、その記事は一つである。趙岐の孟子注に見える。
注[四]魯の定公、哀公である。注[五]時に行われないことを闇という。その書は今亡ぶ。
注[六]武帝の太始二年、隴首に登り、白麟を獲た。司馬遷は史記を作り、この年に絶筆した。
注[七]十篇とは、司馬遷の没後、景紀、武紀、礼書、楽書、兵書、将相年表、日者伝、三王世家、亀策伝、傅靳列伝が亡失したことを指す。
注[八]黄帝、老子は道家である。五経は儒家である。司馬遷の序伝に「道家は人の精神を専一にさせ、動きは無形に合い、万物を贍足させる」とある。これが黄老を崇めるという意味である。また「儒者は博にして要寡く、労して功少なし」とある。これが五経を軽んじるという意味である。
注[九]史記貨殖伝序に「家貧しく親老い、妻子剁弱く、歳時に祭祀するものなく、飲食被服自ら適うに足らず、かくの如くにして恥じざれば、則ち比ぶる所なし。巌処の奇士の行なくして、長く貧賤に在り、仁義を語るも、亦た羞ずるに足る」とある。
注[一〇]史記遊侠伝序に「季次、原憲は君子の徳を行い、義苟くも当世に合わず、当世も亦たこれを笑う。終身空室蓬戸、褐衣疏食飽くことなし。今の遊侠は、その行い正義に軌せざるも、然れどもその言必ず信、行い必ず果たし、已に諾して必ず誠にし、その躯を愛せず、士の厄に赴く、蓋し足るに多き者有り。今の拘学或いは咫尺の義を抱き、久しく世に孤なるは、豈に卑論俗に斉しくし、世と沈浮して栄名を取るに若くんや!」とある。
注[一一]極刑とは司馬遷が腐刑に処されたことを指す。司馬遷が任安に与えた書に「最下は腐刑、極まりたり!」とある。
注[一二]易経に言う、「顔氏の子、その殆ど庶幾からんか!」と。
およそ百家の書は、なおも法とすることができる。左氏伝、国語、世本、戦国策、楚漢春秋、太史公書(史記)のようなものは、今の者が古を知るためのものであり、後の者が前を観るよりどころであり、聖人の耳目である。司馬遷は帝王を序列づけるのに本紀と称し、公侯が国を伝えるのに世家と称し、卿士が特に起こった者を列伝と称した。さらに項羽と陳渉を進めて淮南王・衡山王を退け、[一]細やかな意図と委曲を尽くし、条理立てて経典に依らない。司馬遷の著作は、古今を採り獲り、経伝を貫通し、極めて広博である。一人の精力では、文章が重複し思考が煩雑になるため、その書は削り落とし尽くせず、なおも余分な言辞があり、多くが統一されていない。[二]例えば司馬相如を序するのに、郡県を挙げ、その字を著しているが、蕭何、曹参、陳平の類や、董仲舒など同時代の人については、その字を記さず、あるいは県のみで郡を記さないのは、おそらく手が回らなかったためである。[三]今この後篇(後漢書)は、その事柄を慎重に検証し、その文章を整え斉え、世家とせず、ただ紀と伝のみとする。
伝に言う、「史を殺して極を見せ、平易で正直であるのは、春秋の義である」と。
(注[一]司馬遷が項羽本紀を著したことを指す。また陳渉は田畑から起こり、数か月で殺され、子孫が相続することはなかったが、世家として著し、淮南王、衡山王は漢室の王の子孫であり、世家とすべきところを列伝に編しているのは、進退の誤りを言うのである。
注[二]刊は削ること。繁蕪を削り落とすが、なおも尽きないものがあったという意味。
注[三]史記に「衛青は平陽の人である」「張釈之は堵陽の人である」とあり、いずれも郡を明示していない類である。)
班彪は再び司徒の玉況の府に辟召された。[一]当時、皇太子宮が初めて建てられ、諸王国もともに開設されたが、[二]官属はまだ整っておらず、師保の多くが欠けていた。班彪は上言して言った。
(注[一]玉は音は「粛」。
注[二]建武二十三年に玉況が司徒となり、十九年に明帝が皇太子に立てられ、十七年に諸王が封ぜられた。)
孔子は「性は相近く、習いは相遠し」と称した。[一]賈誼は「善人と共に住む習慣があれば、善を行わないわけにはいかない。ちょうど斉で生長すれば、斉の言葉を話さないわけにはいかないのと同じである。悪人と共に住む習慣があれば、悪を行わないわけにはいかない。ちょうど楚で生長すれば、楚の言葉を話さないわけにはいかないのと同じである」と考えた。[二]このため、聖人は誰と共に住むかを審らかにし、慣れ親しむものを戒め慎む。昔、成王が幼少の頃、外出すれば周公、邵公、太史佚が付き、入内すれば大顛、閎夭、南宮括、散宜生が付き、左右前後、礼に違う者はなく、[三] それゆえ成王が一日で即位すると、天下は広々として太平となった。このため春秋は「愛する子には義の道を教え、邪に陥らせない。驕り奢り淫らで怠ることは、邪の始まりである」と説く。[四]詩経に言う、「その孫に謀を遺し、以て子を翼く(助け守る)ことを安んず」と。これは武王が子孫に謀を遺したことを言うのである。[五]
(注[一]論語に見える。
注[二]賈誼が上疏した言葉。
注[三]左伝に言う、「郊での慰労から贈賄に至るまで、礼に違う者はなかった」と。
注[四]左伝にある、衛の大夫石碏が衛の荘公を諫めた言葉である。
注[五]詩経大雅である。詒は遺す。宴は安んずる。翼は敬う。文王がその孫に善い謀略を遺し、武王が安んじて敬う道をその子に遺したことを言う。子は成王を指す。)
漢が興ると、太宗(文帝)は鼂錯に命じて法術をもって太子を導かせ、賈誼に詩書をもって梁王を教えさせた。中宗(宣帝)に至ってもまた、劉向、王褒、蕭望之、周堪らをして、文章と儒学をもって東宮以下の者を保ち訓導させ、その人材を簡抜して崇め、徳器を成し遂げさせた。今、皇太子や諸王は、幼い頃から学問を始め、礼楽を修習しているが、傅や相にはまだ賢才が当たらず、官属には旧来の典制が多く欠けている。広く名高く威厳があり、政事に明通した名儒を選び、太子太傅とし、東宮および諸王国には官属を備え置くべきである。また旧制では、太子は湯沐邑として十県を食み、周囲に衛兵を置き交戟を設け、五日に一度朝見し、その際に東廂に座って膳食を省み視察した。朝見でない日は、太子僕や中允が毎朝毎夕、問安するだけであった。これは軽んじることなく、敬意を広くするためである。
(注[一] 文帝の時、鼂錯は博士となり、上言して言った。「人主が功を顕わし名を揚げる所以は、術数を知っているからです。今、皇太子の読む書物は多いですが、術数はまだ知りません。願わくは陛下、聖人の術を選んで太子に賜わりますように。」帝はこれを善しとし、錯を太子家令に任じた。)
(注[二] 賈誼は梁王の太傅となった。梁王は文帝の末子で、名は揖、愛され書を好んだので、誼に傅させた。)
(注[三] 中宗は宣帝である。当時、元帝が太子であったが、宣帝は王褒、劉向、張子僑らを太子の宮に遣わし、朝夕に読誦して太子に侍らせ楽しませ、蕭望之を太傅とし、周堪を少傅とした。いずれも前漢書に見える。)
(注[四] 漢官儀に言う。「皇太子は五日に一度、台に至り、東廂に座って、膳食を省み視察し、法をもって太官尚食宰吏を制する。朝見でない日は、太子僕、中允が毎朝毎夕問安する。軽んじることなく、広く敬意を示すためである。太子僕一人、秩千石。中允一人、四百石、門衛と巡察を主管する。」)
上書が奏上されると、帝はこれを採用した。
後に、司徒の廉として推挙され望都の長となり、官吏と民衆に愛された。建武三十年、五十二歳で官の任上で死去した。著した賦、論、書、記、奏事は合わせて九篇。
(注[一] 察は推挙すること。司徒が廉として推薦した。)
二人の子、固と超。超については別に伝がある。
論じて言う。班彪は通儒の上才をもって、危乱の世に身を置きながら、行いは道を越えず、言は正を失わず、仕官には急いで進まず、貞節を守っても人に背かず、文華を敷いて国典を緯とし、賤薄な身分を守って悶える様子もなかった。彼は世の運がまだ広まっていないと考えたのだろうか、いわゆる賤であることを恥じるところではなかったのか。なんとその道を守り恬淡であることの篤いことよ。
(注[一] 論語で孔子が言う。「仁の道ということができる。」鄭玄の注に云う。「方は道のようなものである。」)
(注[二] 孔子が言う。「国に道がある時に、貧しくかつ賤しいのは恥である。」彪は中興の初めに当たり、時運がまだ泰平でなかったので、貧賤を恥としなかったという。なんと道を守り清静であることの固いことよ。恬淡は清静のようなものである。篤は固いこと。)
班固
固は字を孟堅という。九歳の時、文を綴り詩賦を誦することができ、成長するに及んで、ついに載籍に博く通じ、九流百家の言を究めないものはなかった。学ぶところに常師はなく、章句の解釈に拘らず、大義を挙げるだけであった。性質は寛和で衆人を受け容れ、才能をもって人を見下すことはなく、諸儒はこのことで彼を慕った。
(注[一] 九流とは、道、儒、墨、名、法、陰陽、農、雑、縦横をいう。)
注釈[二]謝承の『後漢書』に言う。「固は十三歳の時、王充が彼を見て、その背中を撫でながら彪に言った。『この子は必ず漢の歴史を記録するだろう。』」永平の初め、東平王劉蒼は至親として驃騎将軍となり政務を補佐し、東閣を開いて英雄を招いた。その時、固はちょうど弱冠であり、上書して蒼に進言した。
将軍は周の周公旦や召公奭のような徳を持ち、朝廷に立ち、優れた明るい策を承け、威霊の称号を立てられた。かつて周公がいたが、今は将軍であり、詩書に記されている中で、これに並ぶものは三つもない。伝に言う。「必ず並外れた人がいて、その後で並外れた事があり、並外れた事があって、その後で並外れた功績がある。」固は幸いにも清明な世に生まれ、見聞きする末席に預かり、私心から螻蟻のような微力でひそかに国政を観察しているが、誠に将軍が千年の重任を抱え、先聖の足跡を踏み、宏大で美しい資質を体現し、高い地位にあり、あらゆる事柄に通じ、六芸を心に銘記し、白黒を心で区別し、善を求めて飽くことなく、狂った者の言葉も採択し、薪を負う者の議論にも逆らわないことを称賛する。ひそかに見るに、幕府が新たに開かれ、広く多くの俊才を招き、四方の士は慌てて駆けつけている。将軍は唐の堯や殷の湯の挙用を詳らかにし、伊尹や皐陶の推薦を察し、遠近に偏りなく、隠れた者も必ず取り上げ、賢才を総覧し、明智を集め、国のために人材を得て、朝廷を安寧にされるべきである。そうすれば将軍は志を養い精神を和らげ、朝廷で悠々とし、光栄な名声を当世に宣べ、遺した功績を永遠に輝かせるだろう。
(注[一]驃騎将軍という称号のこと。
注[二]ただ劉蒼と周公の二人だけである。
注[三]司馬相如が蜀を諭した言葉。
注[四]螻蟻とは微細なもののたとえ。
注[五]千載とは周公から明帝の時まで千余年のこと。先聖とは周公のこと。
注[六]『淮南子』に言う。「聖人は是非を見るのに、目の前で白黒を区別するようにはっきりしている。」『左伝』に「善を求めて飽きない」とある。
注[七]負薪とは賤しい者のこと。『三略』に「薪を負う者の言葉も、朝廷の言葉である」とある。
注[八]『詩経』に言う。「東方未だ明けず、衣裳を顛倒す。」士が争って帰服する慌ただしさを言う。
注[九]堯は皐陶を挙用し、湯は伊尹を挙用した。)
ひそかに見るに、故司空掾の桓梁は、老練な儒者で名声が高く、州里で冠たる存在であり、七十歳で心のままに行動しても規範を越えず、清廟の光輝であり、当世の俊英である。京兆祭酒の晉馮は、幼い頃から身を修め、白髪になっても過ちがなく、古を好み道を楽しみ、沈黙して自らを守り、古人の美しい行いを持ち、時俗の及ぶところではない。扶風掾の李育は、経学に明るく行いが顕著で、百人を教授し、杜陵に客居し、茅葺きの家に土の階段である。京兆・扶風の二郡が交替で招聘したが、ただ家が貧しいため、たびたび病気を理由に辞去した。古きを温めて新しきを知り、議論は通明で、廉潔で清く行い純粋に備わり、前世の名儒で国家が重んじた韋賢、平当、孔光、翟方進をも超えるものはない。その考績を調べて、あらゆる政事に参与させるべきである。京兆督郵の郭基は、孝行が州里に顕著で、経学が師門で称賛され、政務の実績には並外れた効果がある。もし明るい時代に遇い、下僚として職務を執れば、進んでは羽を奮って翔ける用があり、退いては杞梁のような一介の死がある。涼州従事の王雍は、卞厳のような節義を躬行し、学芸でそれを飾り、涼州の冠蓋の中で、雍に先んじるべき者はない。昔、周公が一度挙用すると三方から怨まれたが、それは「なぜ自分たちの後なのか」と言うためである。幕府が開かれるのに合わせて、遠方を慰めるべきである。弘農功曹史の殷肅は、学識が広く見聞が豊かで、才能は比類なく、詩三百篇を誦し、使命を受けて独自に対応できる。この六人は皆、並外れた行いと絶倫の才能を持ち、徳は当世で高く、もし招聘されて高明を補佐すれば、これは山梁の秋に、夫子が嘆いたところである。昔、卞和が宝玉を献じて足を切られる罰を受け、霊均(屈原)が忠誠を納めてついに身を沈めたが、和氏の璧は千年に光を垂れ、屈子の文章は万世に善を帰する。願わくば将軍は微かなものを見る明を盛んにし、日が傾いてもなお聴く信を厚くし、少し威光を屈して、下問を諮り、塵埃の中から永遠に荊山や汨羅の恨みがないようにしてほしい。
(注[一]『論語』で孔子が言う。「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず。」心のままに行動しても、すべて法則に暗合することを言う。
注[二]『詩経』周頌に言う。「於穆たる清廟、肅雍として顯相たり、濟濟たる多士、文の德を執る。」鄭玄の注に言う。「顯は光なり。」桓梁が多くの士に加わり、清廟で祭祀を助けて光輝となることができると言う。『爾雅』に言う。「髦は俊なり。」美しい士を彥と言う。
注[三]育は字を元春といい、儒林伝に見える。
注[四] 韋賢、平當、孔光、翟方進である。俗本では「平」の字を「玄」としているが誤りである。
注[五] 説苑に言う。「趙簡子が西河に遊んで嘆いて言った。『どうして賢士を得て共に過ごすことができようか?』船頭の吉桑が答えて言った。『鴻鵠が高く飛ぶのは、頼りとするのは六つの羽根である。背中の毛や腹の下の柔らかい毛を、たとえ満手に加えても、飛ぶ高さをそれ以上にすることはできない。あなたの門下の左右の客千人も、六つの羽根のような役割を持つ者がいるだろうか?それとも皆、ただの毛や柔らかい毛に過ぎないのだろうか?』」また言う。「齊の荘公が莒を攻めた時、杞梁と華周が進んで戦い、敵陣を破り陥落させ、三軍もこれに当たることができなかった。莒の城下に至り、二十七人を殺して死んだ」という。
注[六] 卞厳は、卞莊子である。新序に言う。「卞莊子は勇を好み、母を養っていたが、戦って三度敗走した。交遊はこれを非難し、国君も彼を辱めた。莊子は命を受け、顔色を変えなかった。母が死んで三年後、斉と魯が戦った時、莊子は従軍を願い出た。将軍に謁見して言った。『以前はただ母と共にいたので、戦って三度敗走したのです。今、母は亡くなりました。責任を果たさせてください。』そこで敵に赴いて戦い、敵の甲士の首級を獲って献上し、言った。『三度の敗走は、母を養うためでした。私は聞いています。節義の士は辱めを受けて生きることはしない、と。』遂に十人を殺して死んだ。」論語で孔子は言う。「卞莊子の勇、冉求の技芸、礼楽をもってこれを文飾する。」
注[七] 孫卿子に言う。「周公が東征すると、西の国々は怨んで言った。『なぜ我々のところだけ来ないのか!』南征すると、北の国々は怨んで言った。『なぜ我々のところだけ後なのか!』」注[八] 班固の文集では「殷」を「段」としている。
注[九] 秋は時と同じ意味である。論語で孔子は言う。「山の梁の雌雉よ、時を得ていることよ!」
注[一〇] 離は、被る(こうむる)こと。断趾は、足を切る刑(刖刑)である。事は韓子に見える。
注[一一] 屈原は字を霊均といい、楚に忠誠を尽くしたが、ついに信じられず、汨羅の水に身を投じて死んだ。
注[一二] 信は音申。
班蒼はこれを受け入れた。
父の班彪が亡くなると、故郷に帰った。班固は、班彪が続けて書いた前の歴史書が詳しくないと考え、ひそかに精神を集中し研究思索を重ね、その事業を完成させようとした。その後、ある者が顕宗(明帝)に上書し、班固が私的に国史を改作したと告発した。詔が郡に下り、班固は逮捕されて京兆の獄に繋がれ、家の書物はすべて没収された。以前、扶風の人蘇朗が図讖に関して偽りのことを言い、獄に下されて死んでいた。班固の弟の班超は、班固が郡で取り調べられ、自らを弁明できないことを恐れ、急いで宮廷に馳せ参じて上書し、召見を受けた。班固が著述した意図を詳しく述べ、郡もまた班固の書物を上奏した。顕宗は大いにこれを奇異とし、校書部に召し出し、
(注[一] 前漢書の班固叙伝に言う。「永平年間に郎となり、秘書を校訂した。」
注[二] 漢官儀に言う。「蘭台令史は六人、秩百石で、上奏文書の記録と弾劾文書を掌る。」)
蘭台令史に任命し、前の睢陽県令陳宗、長陵県令尹敏、司隷従事孟異と共に世祖(光武帝)本紀を完成させた。郎に昇進し、秘書の校訂を主管した。班固はさらに功臣、平林、新市、公孫述に関する事績を撰述し、列伝、載記二十八篇を作り、奏上した。帝はそこで再び彼に以前に著していた書を完成させるよう命じた。
班固は、漢が堯の運命を継ぎ、帝業を建てたと考えた。六代(武帝)に至り、史臣(司馬遷)が功徳を追述し、
(注[一] 六代は武帝を指す。史臣は司馬遷を指す。注[二] 史記は黄帝から始まり、漢は最もその末に位置している。
注[三]高祖、恵帝、呂后、文帝、景帝、武帝、昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝の十二代である。王莽を合わせて二百三十年。
注[四]本紀十二、表八、志十、列伝七十、合わせて百篇。前書音義に言う。「春秋考紀とは帝紀をいう。時事を考核し、四時を具えて以て言を立てることを言い、春秋の経の如し。」)
郎となって以来、次第に親しく近侍するようになった。当時、京師では宮室を修築し、城壁と堀を浚渫・修繕していたが、関中の古老たちはなお朝廷が西を顧みることを望んでいた。
班固は、前代の司馬相如・吾丘寿王・東方朔らが文辞を構築し、結局は諷諫と勧告に帰したことを感じて、[一] そこで『両都賦』を上奏し、洛邑の制度の美を大いに称え、西都の賓客の淫侈な議論を論破した。その文辞は次の通りである:
(注[一]司馬相如は『上林賦』『子虚賦』を作り、吾丘寿王は『士大夫論』及び『驃騎将軍頌』を作り、東方朔は『客難』及び『非有先生論』を作った。その文辞はいずれも諷喩を主としている。)
西都の賓客が東都の主人に問うて言う:[一]「聞くところによれば、大いなる漢朝の初めに経営された時、かつて河洛に都を置こうと考えられたそうだ。しかしそれは中止され、安泰ではなかったので、実際に西遷して、我が上都を作られた。主人はその理由を聞き、その制度を知りたいか?」[二] 主人は言う。「まだだ。賓客よ、懐旧の蓄積された思いを述べ、古を思う幽かな情を発揮し、[三] 皇道をもって私を広く教え、漢京をもって私を大きくしてほしい。」賓客は言う。「はい、はい。」
(注[一]中興して洛陽に都したので、東都を主人とし、西都を賓客としたのである。
注[二]皇は大である。尚書に言う。「吉卜を得れば則ち経営す。」高祖五年、劉敬が関中に都するよう説いたが、皇帝は疑った。左右の大臣は皆山東の人で、多くが洛陽に都するよう勧めた。これが河洛に都しようと考えたことである。張良が言う。「洛陽はその中が小さく、数百里を超えず、四面敵を受ける。武を用いる国ではない。関中は金城千里、天府の国である。」そこで皇帝は即日に関中に西都した。これが中止して安泰ではなかったことである。輟は止める。康は安らか。
注[三]広雅に言う。攄は舒である。)
漢の西都は、雍州にあり、実に長安という。[一] 左には函谷・二崤の険阻を拠り所とし、太華・終南の山を外郭とする。[二] 右は褒斜・隴首の険を境とし、大河・涇・渭の川を帯びる。[三] 草木の実りは、九州の最も肥沃な土地であり;防禦の険阻は、天下の奥深い区域である。[四] このゆえに横に六合を覆い、三度帝都となった。[五] 周は龍のように興り、秦は虎のように睨んだ。そして大漢が天命を受けてここに都した時、[六] 上には東井の精星を悟り、下には河図の霊瑞に協和し、[七] 奉春君が策を建て、留侯がそれを推し進めて完成させ、[八] 天と人が合応して、大いなる明君を発現させ、ついに西を顧みて、実にここを都としたのである。[九] そこで秦嶺を望み、北の丘陵を見渡し、酆水・霸水を挟み、龍首山を拠る。[一0] 皇基を億載に図り、宏規を測って大いに起こし、高祖から始まり平帝に終わり、代々に飾りを増して崇高華麗とし、十二代の長きにわたり、故に窮奢極侈に至った。[一一] 金城を建ててその万雉に及び、深い周池を開いて淵とし、三条の広路を開き、十二の通門を立てた。[一二] 内には街路が四方に通じ、里門は千近くあり、九つの市が開かれ、商品は通りごとに区別され、人は振り返ることもできず、車は回転することもできず、城に満ち郭に溢れ、周囲に百の店舗が並び、赤い塵埃が四方から立ち込め、煙と雲が相連なった。[一三] こうして人口が多く豊かになり、娯楽は限りなく、都の人士と女たちは、五方の地とは異なり、遊士は公侯に比し、店舗は姫氏・姜氏の国よりも贅沢であった。[一四] 郷里の豪傑や遊侠の雄は、節義は平原君・孟嘗君を慕い、名声は春申君・信陵君に次ぎ、交わりを結び徒党を組み、その中を駆け巡った。[一五]
(注[一]前書音義に言う。「長安は本来秦の郷の名で、高祖がここに都した。」
注[二]函谷は関の名。左伝に言う「崤に二陵あり、その南陵は夏后戯の墓、その北陵は文王の風雨を避けた所」、故に二崤という。太華は山。山海経に言う、華首の西六十里を太華という。終南は長安の南山。詩経に言う。「終南には何があるか。」注に云う。「終南は周の名山、中南である。」
注[三]褒斜は谷の名、南口を褒、北口を斜といい、現在の梁州にある。隴首は山の名、現在の秦州にある。洪は大。
注[四]華実の毛とは草木をいう。左伝に言う。「土の毛を食う。」前書に言う。「秦の地は九州の膏腴。」尚書雍州に「厥の田は上上」。防禦とは関禁をいう。楊雄の衛尉箴に言う。「山険を設置し、尽く防禦と為す。」奥は深い。秦の地の険固は、天下の深奥なる区域であると言う。
注[五]前書音義に言う。「関西を横という。」被は及ぶに同じ。呂氏春秋に言う。「神明は六合に通ず。」高誘注に云う。「四方上下を六合という。」周礼に言う。「方千里を王畿という。」三成とは周・秦・漢が並びにここに都したことをいう。
注[六]龍興虎視は、盛んで強いことを喩えている。孔安国の尚書序に「漢室龍興」とある。易経に「虎視眈眈」とある。
注[七]寤は曉と同じ意味。協は合うこと。高祖が霸上に至った時、五星が東井に集まった。また河図に「帝劉季、日角に勝を戴き、斗匈龍股、長七尺八寸。昌光軫より出で、五星井に聚まり、期の興、天は図を授け、地は道を出だし、予は兵鈐を張り劉季起こる」とある。東井は秦の分野であり、漢が秦に代わって関中に都することを明らかにしている。
注[八]奉春君は婁敬である。春は四時の始まりである。婁敬もまた遷都の策を最初に建てたので、この号で呼んだ。留侯は張良である。蒼頡篇に「演とは引くことなり」とある。
注[九]天とは五星が東井に集まったことを指す。人とは婁敬らが進言したことを指す。皇明とは高祖を指す。西顧とは関に入ることを指す。詩経に「乃ち眷みて西を顧みる」とある。
注[一0]睎は望むこと、音は希。睋は視ること、音は蛾。秦領は現在の藍田県東南にある。北阜は現在の三原県北にある高阜で、東西に横たわるものである。豊水は鄠県南山の豊谷から出る。霸水は藍田谷から出る。三秦記に「龍首山六十里、頭は渭水に入り、尾は樊川に達す」とある。傍にあることを挾といい、上にあることを據という。
注[一一]肇は始まり。高祖から始まり、平帝で終わる、十二代である。
注[一二]金城は堅固であることを言う。張良が「金城千里」と言った。杜預が左伝に注して「方丈を堵と為し、三堵を雉と為す」と言う。字林に「呀は大空なり」とある。音は火加反。周礼に「国は方九里、旁三門」とある。各門に大路があるので、三條という。鄭玄が周礼に注して「天子の城は十二門、十二子に通ず」と言う。
注[一三]字林に「閭は里の門なり。閻は裡の中門なり」とある。且千は多いことを言う。漢宮閣疏に「長安に九市あり、その六は道の西に、三は道の東にある」とある。隧は列肆の道である。鄭玄が礼記に注して「廛は市の物の邸舎なり」と言う。
注[一四]論語に「子衛に適く、冉有僕たり。子曰く『庶いかな』。冉有曰く『既に庶し、又何をか加えん』。曰く『之を富まさん』」とある。詩経周頌に「我に恵みて疆無し」とある。疆は境である。詩経小雅に「彼の都の人士」とある。毛萇が注して「城郭の域を都と曰う」と言う。五方は四方及び中央を指す。前漢書に「秦の地は五方雑錯す」とある。鄭玄が周礼に注して「肆は市中の物を陳列する処なり」と言う。杜元凱が左伝に注して「姬・姜は大国の女なり」と言う。
注[一五]豪俊遊俠は朱家・郭解・原涉の類を指す。原・嘗は平原君趙勝・孟嘗君田文を指し、春・陵は春申君黄歇・信陵君無忌を指す。いずれも賓客を招致し、天下に名高かった。
もしその四郊を観察し、近県を浮遊すれば、南には杜・霸を望み、北には五陵を眺め、名都は城郭に対し、邑居は相承き、英俊の域、黻冕の興る所、冠蓋雲の如く、七相五公がある。州郡の豪傑、五都の貨殖とともに、三選七遷し、陵邑に充奉し、強幹弱枝を以て、上都を隆盛させて万国を観せしめるのである。封畿の内、その土千里、諸夏を逴犖し、その所有を兼ねる。その陽には崇山天を隠し、幽林穹谷、陸海の珍藏、藍田の美玉があり、商・洛はその隈に縁り、鄠・杜はその足に濱する。源泉は灌注し、陂池は交属し、竹林果園、芳草甘木、郊野の富、近蜀と号す。その陰には九嵕を冠とし、甘泉を陪え、霊宮その中に起こる。秦・漢の極観、淵・雲の頌歎、ここに存する。下には鄭・白の沃野、衣食の源があり、堤封五万、疆埸は綺麗に分かれ、溝塍は刻鏤の如く、原隰は龍鱗の如く、渠を決すれば雨を降らし、臿を荷えば雲を成し、五穀は穎を垂れ、桑麻は棻を敷く。東郊には通溝大漕があり、渭を潰し河に洞き、舟を山東に泛べば、淮・湖を控引し、海と波を通ず。西郊には上囿禁苑があり、林麓藪澤、陂池は蜀・漢に連なり、周牆を以て繚らされ、四百余里、離宮別館三十六所、神池霊沼、往々にして在り。その中には九真の麟、大宛の馬、黄支の犀、條枝の鳥があり、崑崙を踰え、巨海を越え、殊方異類、三万里に至る。
注[一]浮游とは周流すること。杜・霸とは杜陵・霸陵を指し、城南にあるので南望する。五陵とは長陵・安陵・陽陵・茂陵・平陵を指し、渭北にあるので北眺する。いずれも人を移して県邑を置いたので、名都が城郭に対すると言う。蒼頡篇に「黻は綬なり。冕は冠なり」とある。移された者は皆豪右・富貲・吏二千石であったので、英俊冠蓋の人が多い。如雲は多いことを言う。詩経に「其の東門を出づれば、女有り雲の如し」とある。七相とは丞相の車千秋(長陵の人)、黄霸・王商(共に杜陵の人)、韋賢・平當・魏相・王嘉(共に平陵の人)を指す。五公とは田蚡(太尉、長陵の人)、張安世(大司馬、杜陵の人)、朱博(司空、杜陵の人)、平晏(司徒、平陵の人)、韋賞(大司馬、平陵の人)を指す。
注[二]前漢書音義に「五都とは洛陽・邯鄲・臨淄・宛・成都を謂う」とある。三選とは三等の人を選ぶことで、吏二千石及び高貲の富人及び豪傑並びに兼併の家を諸陵に移すことを指す。強幹弱枝を以て、山園を奉ずるためだけではない。前漢書に見える。元帝以後は移さないので、七のみである。爾雅に「観は指示するなり」とある。「選」は或いは「徙」ともし、意味も通じる。
注[三]前漢書に「秦の地は沃野千里、人以て富饒なり」とある。逴犖は超絶と同じ。逴の音は卓。犖の音は呂角反。諸夏は中国を指す。
注[四]穹谷は深い谷。東方朔が「漢興り、三河の地を去り、灞・滻の西に止まり、涇・渭の南に都す。此れ天下の陸海の地を謂う」と言った。范子計然に「玉は藍田より出づ」とある。商及び上洛は皆県名。隈は山の曲がった所。濱は近いと同じ。鄠・杜は二つの県名で、南山の足に近い。爾雅に「麓は山の足なり」とある。
注[五]孔安国が『尚書』に注釈して言うには、「水を堰き止めるものを陂、水を溜めるものを池という」。『前書』(漢書)に言うには、「巴・蜀の土地は肥沃で、山林・竹樹・野菜・果実の豊富さがある」。今、南山にもこれがあり、巴・蜀と似ているので、蜀に近いと言う。『爾雅』に言うには、「邑の外を郊といい、郊の外を野という」。
注[六]陰とは北をいう。九嵕山は特に高く険しいので、雲の冠と称される。甘泉山は雲陽の北にあり、秦の始皇帝はその上に林光宮を置き、漢ではさらに甘泉宮・益寿館・延寿館・通天台を建てたので、「秦・漢の極めて壮観なもの」と言う。王褒(字は子泉)が『甘泉頌』を作り、楊雄(字は子雲)が『甘泉賦』を作ったので、「泉・雲(王褒と楊雄)が賞賛した」と言う。
注[七]『史記』に言うには、「韓が水工の鄭国を遣わして秦を説得し、涇水を引いて渠とし、北山に沿って東に洛水に注ぎ、四万余頃の田を灌漑させ、鄭国渠と名付けた」。武帝の時、趙の中大夫の白公が上奏して渠を穿ち涇水を引き、谷口に始まり、櫟陽に入り、四千余頃の田を灌漑し、それゆえ白渠と名付けた。当時の人が歌った。「田はどこにあるか?池陽の谷口。鄭国が前、白渠が後。鍬を上げれば雲となり、渠を決すれば雨となる。涇水一石に、その泥数斗。灌漑しつつ肥やし、我が禾黍を育てる。京師に衣食を供え、億万の口を養う」。『前書』(漢書)に言うには、「天子の畿内は方千里、堤封は百万井」。音義に言うには、「堤とは土を積んで封の限りとすることをいう。音は丁奚反」。『広雅』に言うには、「埸は界なり」。音は亦。『周礼』に言うには、「夫の間に遂あり、十夫に溝あり」。『説文』に言うには、「塍は田の畦なり」。塍の音は繩。刻鏤とは交錯して鏤のようであることをいう。『爾雅』に言うには、「高く平らなものを原といい、低く湿ったものを隰という」。龍の鱗のような五色であると言う。五穀は、黍・稷・菽・麦・稻である。『小爾雅』に言うには、「禾の穂を穎という」。『小爾雅』に言うには、「敷は布なり」。棻は茂盛なること。音は芬。
注[八]漕は水運である。『蒼頡篇』に言うには、「潰は傍らに決するなり」。『前書』(漢書)に武帝が漕渠を穿ち渭水を通じたとある。『史記』に言うには、「滎陽で下り、河を東南に引いて鴻溝とし、これをもって淮・泗と合流させた」。
注[九]上囿とは林苑をいう。『穀梁伝』に言うには、「林が山に属するものを麓という」。鄭玄が『周礼』に注釈して言うには、「水のない沢を藪という」。繚は繞くようなもの。音は了。『三輔黄図』に言うには、「上林に建章宮・承光宮など十一宮、平楽観・繭観など二十五があり、合わせて三十六所」。『三秦記』に言うには、「昆明池の中に神池があり、白鹿原に通じる」。『詩経』に言うには、「王は霊沼にあり」。
注[一〇]宣帝の詔に言うには、「九真郡が奇獣を献上した」。晋灼の『漢書』注に言うには、「駒の形、麟の色、牛の角」。武帝の時、李広利が大宛王の首を斬り、汗血馬を獲て来た。また黄支国が三万里の彼方から生きた犀を貢いだ。条支国は西海に臨み、大鳥がいて、卵は甕のようである。条支は安息と接しており、武帝の時、安息国が使者を発してこれを献上した。また言うには、「崑崙山は高さ二千五百里」。いずれも『前書』(漢書)に見える。
その宮殿は、天地を体象し、陰陽を経緯し、大地の霊気の正位に拠り、太微・紫宮の円方に倣った。中天に聳える華麗な闕を建て、山を冠する朱塗りの堂を豊かにし、珍奇な材木を用いて奇を究め、応龍の虹梁を高く掲げ、重なる棼橑を並べて翼を広げ、棟と桴を担いで高くそびえさせた。玉を彫って楹の礎とし、金璧を裁って璫を飾り、五色の豊かな光彩を放ち、輝きは明るく照り映えた。ここに左は階段、右は平らな道とし、重なる軒と三つの階、閨房は周囲に通じ、門戸は大きく開かれ、鐘虡を中庭に並べ、金人を端闈に立て、さらに崖を増して門限を横たえ、峻路に臨んで扉を開いた。離殿と別寢を巡らせ、高台と閑館で受け継ぎ、星のように輝き、紫宮を取り囲んだ。清涼・宣温・神仙・長年・金華・玉堂・白虎・麒麟といった区画はこのようであり、尽くすことはできない。盤を重ねて高く聳え、昇降する光は爛漫で、形も制もそれぞれ異なり、見るごとに異なる景観を呈し、茵に乗り輦に歩み、ただ休み宴するにふさわしい。後宮には掖庭・椒房、后妃の室、合歓・増成・安処・常寧・茞若・椒風・披香・発越・蘭林・蕙草・鴛鸞飛翔の列がある。昭陽殿は特に盛大で、孝成皇帝の時代に隆盛を極め、屋根は材木を見せず、壁は形を露わさず、藻繡で包み、綸連で絡め、随侯の明月珠がその間に錯落し、金釭が璧を銜み、これが列銭であり、翡翠と火斉が流れる光に英を含み、懸黎と垂棘、夜光珠がそこにある。ここに玄墀を叩き、玉階と彤庭、礝磩は彩りが細やかで、琳禄は青く輝き、珊瑚と碧樹が周囲の隅に生い茂る。紅羅は颯纚とし、綺組は繽紛で、精妙な輝きは華燭のようで、俯仰すること神の如し。後宮の称号は十四の位階があり、窈窕で繁華、次々に盛んになり貴ばれ、この列にいる者はおよそ百数を数える。左右の廷中には、朝堂に百官の位があり、蕭何・曹参・魏相・邴吉らがその上で謀議をめぐらす。佐命の臣は統を垂れ、輔翼の臣は化を成し、大漢の愷悌を流布し、亡秦の毒螫を蕩除した。故にこの人々に楽和の声を揚げさせ、画一の歌を作らせ、功績は祖宗に顕著で、恩沢は黎民に潤う。また天禄・石渠には、典籍の府があり、諄々と教える故老や名儒の師傅を命じ、六芸について講論し、同異を考合する。また承明・金馬には、著作の庭があり、大雅宏達の士がここに群れ、元元本本とし、周く見聞し、篇章を啓発し、秘文を校理する。周囲には鉤陳の位を配し、厳更の署で衛り、礼官の甲科を総べ、百郡の廉孝を集める。虎賁と贅衣、閹尹と閽寺、陛戟は百重に及び、それぞれに司る所がある。周囲の廬舎は千列をなし、巡察の道は綺羅のように錯綜する。輦路は巡り、長い道と飛閣がある。未央宮から桂宮に連なり、北は明光宮に及び長楽宮に至り、陵道を越えて西の城壁を超え、建章宮と混然一体となり外に属し、璧門の鳳闕を設け、上は柧稜に金雀を棲ませる。内には別風の嶕嶢があり、麗しく巧みに高く聳え、千の門を張り万の戸を立て、陰陽に順じて開閉する。ここに正殿は崔巍として、層構はその高さ、未央宮に臨み、駘蕩宮を経て馺娑宮に出、枍詣宮と天梁宮を貫き、上は反り返った軒で覆い、日影を反射して光を取り込む。神明台は鬱然と特出し、遂に高くそびえて上り、雲雨を大半も越え、虹霓が棼楣に回り帯び、たとえ軽迅で僄狡な者でも、なお愕然として階を上ろうとはしない。井干楼に攀じてもまだ半分に至らず、目は眩み心は迷い、欞檻を離れて後ろに寄りかかると、まるで墜落しそうでまた踏みとどまり、魂は恍惚として度を失い、回り道をして下がる。登って望むことに戒め懼れた後、下りて周りを彷徨い、甬道を歩いて紆余曲折し、また深く暗くて陽の光を見ない。飛闥を押し開いて上に出ると、まるで天の表を遊覧するようで、頼るものなく広々としている。前に唐中池、後に太液池があり、滄海の湯湯たる様を掬い、碣石に波濤を揚げ、神岳の嶈嶈たる様を激し、瀛洲と方壺を広げ、蓬萊が中央に起きる。ここに霊草は冬にも栄え、神木は叢生し、岩は峻く崔崒として、金石は崢嶸としている。仙掌を掲げて承露を支え、双立する金莖を抜き出し、埃壒の混濁を超越し、鮮やかな顥気の清英を帯びる。文成将軍の大いなる虚誕を駆り、五利将軍の刑罰を馳せ、松子・喬のような群仙の類が、時にここに遊び従うことを願うが、実に列仙の宿る館であり、我々人間の安寧の地ではない。
(注[一]円は天を象り、方は地を象る。南北を経とし、東西を緯とする。楊雄の司空箴に「普く彼の坤霊に侔い、天と合を作す」とある。放は倣うこと。太・紫は太微・紫宮を指す。劉向の七略に「明堂の制:内に太室あり、紫宮に象る;南に出でて明堂、太微に象る」とある。春秋合誠図に「太微、その星十二、四方」とある。史記天官書に「これを環らして匡衛十二星、藩臣、皆曰く紫宮」とある。これが太微は方で紫宮は円である所以である。
注[二]列子に「周穆王、中天の台を作る」とある。説文に「闕、門観なり」とある。前漢書に蕭何が東闕・北闕を作ったとある。豊は大きい。冠山とは山の上にあることをいう。埤蒼に「瑰瑋、珍奇なり」とある。広雅に「翼あるを応龍と曰う」とある。梁は応龍の形を作り、また曲がって虹のようである。説文に「棼、復屋の棟なり」とある。橑は椽。翼は屋の四阿。荷は負う。驤は挙げる。爾雅に「棟を桴と謂う」とある。音は浮。
注[三]広雅に「磌、礩なり」とある。音は田。「瑱」は「磌」と通ず。楹は柱。玉を彫って礩とし、柱を承ける。上林賦に「華榱璧璫」とある。韋昭注に「璫、榱頭なり」とある。渥は光潤。爓の音は艷。
注[四]摯虞の決疑要注に「腆なる者は階級と為し、平なる者は文磚を以て相い次ぐ」とある。「域」もまた「腆」と作る。階級が腆然としていることを言う。音は七則反。王逸の楚辞注に「軒、楼板なり」とある。周礼夏后氏に「世室九階」とあり、鄭玄注に「南面三階、三面各二」と云う。爾雅に「宮中の門を闈と謂い、小なる者を閨と謂う」とある。広く鐘を懸けるためである。史記に「秦始皇、天下の兵器を収め、之を咸陽に聚め、銷して以て金人十二と為し、宮中に置く」とある。端闈は宮の正門。三輔黄図に「秦宮殿端門四達、以て紫宮を則る」とある。仍は因る。衡は横たわる。閾は門限。
注[五]徇は巡るが如し。崇は高い。閒の音は閒。煥は明るい。周回する宮館が、明るく列星が紫宮を環繞するようであることを言う。環は韻を協わせて音は宦。
注[六]三輔黄図に「未央宮に清涼殿・宣室殿・中温室殿・金華殿・大玉堂殿・中白虎殿・麒麟殿あり、長楽宮に神仙殿あり」とある。殫は尽くす。
注[七]「増」は重ねる意。「盤」は屈曲する意。「業峨」は高い意。「業」は音が五臘反、「峨」は音が我。「詭」は異なる意。「茵」は敷物。人を引いて運ぶ車を輦という。
注[八]『漢官儀』に「婕妤以下は皆掖庭に住む」とある。『三輔黄図』に「長楽宮に椒房殿がある」とある。『前書』に「班婕妤は増成舎に住んだ」とある。桓譚『新論』に「董賢の妹が昭儀となり、住む舎を椒風と号した」とある。『漢宮閣名』に長安に披香殿・鴛鸞殿・飛翔殿がある。その他は詳らかでない。
注[九]昭陽殿は成帝の趙昭儀が住んだ殿。『説文』に「裛は纏うこと」とある。音は於業反。「綸」は糾、青い糸の綬。「綸」は或いは「編」と作る。『淮南子』に「随侯の珠、和氏の璧」とある。高誘注に「随侯が行って大蛇の傷を見て、薬を塗った。後に蛇が珠を銜えて報いたので、随侯珠と言う」とある。『説文』に「釭は轂の鉄」とある。音は江、また音は工。黄金で釭を作り、その中に璧を銜ませ、壁帯に納め、行列のように歴々と銭のようであることを言う。『前書』に「昭陽殿の壁帯には、往々にして黄金の釭があり、藍田の玉璧を函に収め、明珠と翠羽で飾った」とある。『異物誌』に「翠鳥は形が燕のようで、赤くて雄を翡、青くて雌を翠といい、その羽で帷帳を飾ることができる」とある。『韻集』に「火斉は珠である」とある。『戦国策』に「応侯が秦王に『梁には懸黎がある』と言った」とある。『左伝』に「晋の荀息が垂棘の璧を以て虞に道を借りることを請うた」とある。懸黎・垂棘の玉は、ともに夜に光輝があるという。
注[一〇]『前書』に「昭陽殿の中庭は彤朱で、殿上は髹漆である」とある。髹の音は休。漆で黒く塗るので玄という。墀は殿上の地。また「切れ目は皆銅沓で、黄金を塗り、白玉の階」とある。扣の音は口。碝・磩、琳・珉は、いずれも玉に次ぐ石。筻の音は而兗反、磩の音は戚。彩致はその文理が密なこと。青熒はその光色。『漢武故事』に「武帝が神堂を建て、玉樹を植え、珊瑚を葺いて枝とし、碧玉を葉とした」とある。『淮南子』に「崑崙山に碧樹がその北にある」とある。高誘注に「碧は青石である」とある。珠玉を仮に樹として作り、殿の曲に植えたことを言う。阿は曲がりくねった所。
注[一一]薛綜の『西京賦』注に「颯纚は長袖の様。颯の音は素合反、纚の音は山綺反」とある。綺は文様のある絹。組は綬。繽紛は盛んな様。燭は照らすこと。精彩ある華やかな飾りが照耀することを言う。『戦国策』で張儀が秦王に言う「あの周・鄭の女は、粉白く黛黒くして衢に立ち、知って見る者でなければ神と思ったであろう」。
注[一二]『前書』に「漢が興り、秦の称号を因み、正嫡を皇后と称し、妾は皆夫人と称した。凡そ十四等あり、昭儀・婕妤・娙娥・傛華・美人・八子・充衣・七子・良人・長使・少使・五官・順常があり、これが十三等である。また無涓・共和・娛霊・保林・良使・夜者があり、秩禄は同じで、合わせて一等とし、合計十四位である」とある。窈窕は幽かでしとやかなこと。繁華は美しく麗しいこと。百数は百をもって数えること。
注[一三]蕭何と曹参はともに沛の人、魏相は字を弱翁といい済陰の人、邴吉は字を少卿といい魯国の人で、いずれも丞相となった。
注[一四]李陵の書に「その余の佐命立功の士」とある。司馬相如に「統を垂れて理に順い、継ぐことが易い」とある。統は業。『礼記』に「保者はその身を慎んで以てこれを輔翼する」とある。愷は楽しみ。悌は易しいこと。楊雄の『長楊賦』に「今朝廷は愷悌を出し、簡易を行なう」とある。王褒の『四子講徳論』に「秦の位に処り政を任ずる者は、並びに毒螫を施す」とある。『前書』に「孝恵・高後の時、海内は戦国の苦しみから離れることができ、君臣ともに無為を欲し、天下は晏然として衣食が滋殖した」とある。また「近く漢の相を観るに、高祖は基を開き、蕭・曹が冠たる。孝宣は中興し、丙・魏に声あり」とある。この時は黜陟に序があり、衆職は修理され、公卿は多くその位に称し、海内は礼譲によって興った。
注[一五]『孔叢子』に「古の帝王は、功成って楽を作り、その功の善き者はその楽和らぐ」とある。『前書』に、蕭何が薨じ、曹参が代わると、百姓が歌って「蕭何が法を作り、較(明)らかに画一の如し、曹参が代わり、守って失わず」と言ったとある。祖宗は高祖・中宗を指す。
注[一六]『三輔故事』に「天禄・石渠はともに閣の名で、未央宮の北にあり、秘書を閣する」とある。諄誨は殷勤に教え告げること。『詩』大雅に「爾に諄諄として誨う」とある。鄭玄注に「我が王に教え告ぐるに、口語諄諄然たり」とある。諄の音は之純反。六蓺は詩・書・礼・楽・易・春秋。稽は考へる。『前書』に、甘露年中に諸儒に詔して五経の同異を講ぜしめ、蕭望之にその議を平らかに奏せしめたとある。
注[一七]承明は殿前の廬。金馬は署の名。門に銅馬があるので金馬門と名付け、待詔者は皆ここに住んだ。宏もまた大なる意。元その元、本その本。秘文は秘書。『孝経鉤命決』に「丘、秘文を掇(拾)う」とある。
注[一八]周は巡らすこと。『前書』音義に「鉤陳は紫宮の外星で、宮衛の位もまたこれを象る」とある。厳更の署は夜行いの司。礼官は奉常で、博士が試策を掌り、その優劣を考へて甲乙の科とし、すなわち『前書』に「太常、公孫弘を下第とす」とあるのがこれ。百郡と言うのは全数を挙げたもの。『前書』にまた「廉を興し孝を挙ぐ」とある。
注[一九]虎賁は宿衛の臣。贅衣は衣を主る官。贅は綴る意、音は之鋭反。『尚書』に「衣を綴り虎賁」とある。閹尹・閽寺はともに宦官、周礼に閹人・寺人有り。陛戟は陛に戟を執ること。百重は多いことを言う。攸は所。司は主る、協韻で音は伺。
注[二〇]廬は宿衛の廬を言い、宮に周る。千列は多いことを言う。『史記』に「衛令が周廬と言い、卒を設けて甚だ謹む」とある。徼道は徼巡の道。綺錯は交錯。『前書』に「中尉は京師を徼巡することを掌る」とある。
注[二一]『前書』音義に「輦道は閣道である」とある。「塗」もまた「途」で、古字は通用する。
注[二二]未央宮は西にあり、長楽宮は東にあり、桂宮、明光宮は北にある。飛閣が互いに連なっていることを言う。墱は階段の段差で、音は丁鄧反。墉は城壁。混は同じくする。建章宮は城の西にある。屬は連なる。前書に言う:「建章宮、その東には鳳闕があり、高さ二十余丈、その南には璧門の類がある。」説文に言う「柧稜は、殿堂の最も高いところ。」柧の音は孤、稜の音は力登反。その上に金雀が棲んでいる。三輔故事に言う「建章宮の闕の上に銅鳳皇がある」、これが金雀である。
注[二三]三輔故事に言う:「建章宮の東に折風闕がある。」関中記に言う:「折風は別風ともいう。」嶕嶢は高いこと。嶕の音は焦、嶢の音は堯。前書に言う、建章宮は千門萬戸をなす。閉じることを陰といい、開くことを陽という。易に言う:「戸を閉じることを坤といい、戸を開くことを乾という。」
注[二四]正殿は前殿のこと。層は重なる。未央宮に臨むとは、高さの極みを言う。関中記に建章宮には駘蕩、馺娑、枍詣の殿がある。天梁も宮殿の名。駘の音は殆、蕩の音は蕩。馺の音は素合反、娑の音は素可反。枍の音は烏計反。小雅に言う:「蓋戴は覆うこと。」反宇とは飛簷が上に反り返ること。激日とは日影が殿内に激しく差し込むこと。
注[二五]神明は台の名。躋は昇る。偃蹇は高い様子。軼は越える。前書音義に言う:「凡そ数、三分の二を太半という。」説文に言う:「棼は棟。」爾雅に言う:「楣を梁という。」郭璞の注に:「門戸上の横梁。」方言に言う:「僄は軽い。」音は匹妙反。鄭玄の礼記注に:「狡は速い。」字書に言う:「愕は驚く。」音は五各反。字林に言う:「眙は驚いた様子。」音は丑吏反。
注[二六]井干は楼の名。前書に言う:「武帝が井干楼を作り、高さ五十丈、輦道が連なっている。」蒼頡篇に言う:「眴は視界がはっきりしない。」音は眩。欞檻は楼上の欄干。欞の音は零。稽は留まる。
注[二七]淮南子に言う:「甬道が相連なる。」高誘の注に:「甬道は飛閣復道。」広雅に言う:「窈窱は深い。」「杳」は「窈」と通じる。窱の音は它鳥反。陽は明るい。先に登って望んだ後、復道を下って巡る。宮殿は深く、また明るいところが見えない。
注[二八]飛闥は閣上の門。王逸の楚辞注に:「洋洋は帰る所がない様子。」
注[二九]前書に言う:「建章宮、その西の唐中は数十里。」音義に言う:「唐は庭。」その北の太液池の中に蓬萊、方丈、瀛洲、壺梁があり、海中の神山に似せている。湯湯は流れる様子。蒼頡篇に言う:「濤は大波。」碣石は海辺の山。説文に言う:「濫は泛ぶ。」列子に言う:「海の中に神山あり、一つは岱輿、二つは員嶠、三つは方壺、四つは瀛洲、五つは蓬萊。」
注[三0]霊草、神本は不死薬を指す。史記に言う:「海中の神山に、仙人の不死薬がある。」崢嶸は高く険しい。崔の音は徂回反、崒の音は才律反。崢の音は仕耕反、嶸の音は宏。
注[三一]前書に言う、武帝の時に銅柱の承露仙人掌などを作った。三輔故事に言う:「建章宮の承露盤は、高さ二十丈、太さ七囲、銅で作る。上に仙人の掌があって露を受け、玉屑と和して飲む。」金莖は銅柱。軼は越える。埃壒は塵。鮮は清らか。説文に言う:「顥は白い様子。」音は皓。
注[三二]丕は大きい。誕は欺く。前書に言う:「斉人の李少翁が方士として皇帝に謁見し、文成将軍に任じられ、皇帝に言う:『神と通じようとするならば、宮室や衣服が神を象っていなければ、神物は来ない。』そこで甘泉宮を作り、中に台を設け、天、地、泰一の諸鬼神を描き、祭具を置いて天神を招いた。」また言う:「膠東人の欒大は方略が多く大言を吐くことを敢えてし、言う:『臣は常に東海に行き、安期、羨門の類を見た。』そこで五利将軍に任じられた。」刑は法。列仙伝に言う:「赤松子は、神農の時の雨師で、水玉を服して神農を教えた。」また言う:「王子喬は、周の霊王の太子晋で、道士の浮丘公が嵩山に連れ上げた。」
そこで盛大な遊楽の壮観を展開し、上林苑で大いに武事を奮い起こし、これによって戎狄を威圧し誇示し、威勢を輝かせて軍事演習を行った。荊州の者に命じて鳥を追い立てさせ、梁野の者に詔して獣を駆り立てさせると、毛皮の獣は内に満ち、飛ぶ鳥は上を覆い、翼を接し足を並べて、禁苑の林に集まり屯した。水衡都尉の虞人がその営地の標識を整え、種類別に群れを分け、部曲ごとに部署を定めた。網は連なり綱を張り、山を覆い野を絡め、兵卒を並べて周囲を取り囲み、星のように散らばり雲のように広がった。そこで天子は鑾輿に乗り法駕を整え、群臣を率い、飛廉館を過ぎ、苑門に入った。そして酆・鎬を巡り、上蘭観を経て、六軍が甲冑を発し、百獣が驚き尽くし、震動し光り輝き、雷のごとく奔り電のごとく激しく、草木は地を塗り、山や淵がひっくり返るようで、その十二三を踏みつけ轢き、怒りを抑えて少し休んだ。
そこで期門・佽飛の兵が刃を並べ矢を集め、疾走するものを遮り跡を追い、鳥は驚いて網に触れ、獣は恐れて刃に当たり、弩の牙は一度も引かず、弦は二度と引き絞らず、矢は一発で殺さず、当たれば必ず二匹重ねて、ひしめき合い乱れ飛び、矰繳が互いに絡み合い、風のように毛が舞い雨のように血が降り、野に撒き散らし天を覆った。平原は赤く染まり、勇士は勇み立ち、狒狒は木を失い、豺狼は恐れて逃げ隠れた。そこで軍勢を移して険しい場所へ向かい、ともに潜む藪の中へ踏み込み、窮した虎は奔り突き、狂った犀は突進して跳ねた。許少は巧みを施し、秦成は力を尽くして折り、素早い者を引き留め、猛々しく噛みつく者を制し、角を外し首を挫き、素手で格闘し単独で仕留めた。師豹を脇に抱え、熊や螭を引きずり、犀や犛牛を倒し、豪猪や羆を引きずり、深い谷を飛び越え、険しい崖を越え、険しい岩を踏み砕き、大きな石を崩し、松柏を倒し、叢林を押し倒し、草木は残らず、禽獣は絶滅した。
そこで天子は属玉の館に登り、長楊の榭を経て、山川の地形を眺め、三軍の殺戮と捕獲を見渡し、原野は荒れ果て、目は四方の果てまで届き、禽は互いに押し潰され、獣は互いに枕にしていた。その後、捕らえた禽獣を集め、功績を論じて胙肉を賜り、軽騎を配置して焼き肉を振る舞い、酒車を走らせて酌み交わし、新鮮な肉を切り分けて野で食べ、烽火を上げて杯を命じた。饗宴と賜物が終わり、労りと休息が整い、大輅は鸞鈴を鳴らし、ゆったりと徘徊し、豫章の館に集まり、昆明の池に臨んだ。左に牽牛、右に織女を配し、まるで天の川に岸がないかのようで、茂った木々は陰を生い茂らせ、芳しい草は堤を覆い、蘭や茞は色を放ち、鮮やかに美しく、まるで錦を広げ刺繍を敷いたかのようで、その岸辺を照らし輝かせた。
玄鶴や白鷺、黄鵠や鵁鸛、鶬鴰や鴇や鶂、鳧や鷖や鴻や雁が、朝に河海を発ち、夕に江漢に宿り、浮き沈み往来し、雲のように集まり霧のように散った。そこで後宮は輚路に乗り、龍舟に登り、鳳蓋を張り、華旗を立て、黼帷を払い、清流を鏡とし、微風に靡き、ゆったりと浮かんだ。櫂を漕ぐ女が歌い、鼓吹が響き渡り、声は激しく高く、天を震わせ、鳥の群れは舞い、魚は淵を覗いた。白閒を招き、双鵠を射落とし、文様の釣竿を操り、比目魚を釣り上げた。
鴻幢を撫で、矰繳を操り、方舟を並べて走らせ、俯仰して極楽を尽くした。そして風に乗り雲に揺られ、浮遊して広く見渡し、前に秦嶺を乗り越え、後に九嵕を越え、東は河・華に迫り、西は岐・雍に渡り、宮殿や館が経たところは百余区に及び、行くところ朝夕、蓄えは供給を変えなかった。上下の礼を行い山川に接し、福祐の用いられる所を究め、遊ぶ童子の歓びの歌を採り、従臣の嘉き頌を順位づけた。この時、都は互いに望み見え、邑は互いに連なり、国は十代の基盤を頼り、家は百年の業を受け継ぎ、士は旧徳の名族の禄を食み、農は先祖の田畑の畝に従事し、商は一族代々の売り物を修め、工は高祖父や曾祖父の規矩を用い、鮮やかにひそやかに、それぞれがその所を得ていた。
(注[一]大武とは大いに武事を陳べることをいう。月令に「孟冬の月、天子は将帥に命じて武を講じ、射御を習わしめる」とある。)
注[二]荊州は江・湘の地で、その俗は鳥を捕ることに慣れているので、彼らに追い立てさせた。梁野は巴・漢の人で、その俗は獣を追うことに慣れているので、その人々に駆り立てさせた。闐の音は田。聚の音は才諭反。
注[三]前書に「上林苑は水衡都尉に属する。虞人は山沢を掌る官である」とある。周礼に「虞人は狩りの野に草を刈り、表を立てる」とある。鄭司農は「表は正しい行列を識別するためのものである」という。続漢書に「将軍が軍を率いるには皆部があり、大将軍の営は五部、部には校尉一人、部下には曲があり、曲には軍候一人がいる」とある。
注[四]鄭玄が礼記に注して「獣を捕る網を罘という」とある。音は浮。紘は罘の綱である。
注[五]蔡邕の独断に「天子は至尊であるため、軽々しく言うことを憚り、乗輿に託して言う。天子の車駕には大駕・法駕・小駕がある。大駕では公卿が奉引し、千乗万騎を備える。法駕では公卿は鹵簿の中におらず、執金吾のみが奉引し、侍中が驂乗する」とある。飛廉は館の名で、武帝が作った。前書音義に「飛廉は神禽で、風気を招くことができ、体は鹿に似て、頭は雀のようで、角があり蛇の尾で、文様は豹のようである。館の上にこれを作ったため、名付けた」とある。
注[六]酆は文王の都で、鄠県の東にある。鎬は武王の都で、上林苑の中にある。三輔黃図に、上林苑には上蘭観があるとある。尚書に「司馬は邦政を掌り、六師を統率する」とある。また「百獣率いて舞う」とある。駭殫は驚き恐れることをいう。震震爚爚は奔走する様子。爚の音は躍。塗は汚すこと。反覆は傾き動くこと。車騎が既に多く、見ると眩暈がして、傾き動くようである。蹂は踏むこと、音は汝九反。蹸は轢くこと、音は力刃反。拗は抑えること、音は於六反。六軍の怒りを抑えて少し停めることをいう。
注[七]前書に、武帝が北地の良家子と殿門で期したので、「期門」と号したとある。また「佽飛射士を募る」とある。音義に「佽飛は本来秦の左弋官である。武帝が佽飛官に改め、一令九丞があり、上林苑の中にある。矰繳を紡ぎ、鳧雁を弋り、歳に万頭を供して宗廟に奉る」とある。蒼頡篇に「攢は集めること」とある。「鑽」は「攢」に通じる。爾雅に「金の鏃で羽を切り揃えたものを鍭という」とある。音は侯。広雅に「趹は奔ること」とある。音は決。機は弩の牙である。説文に「掎は偏に引くこと」とある。音は居綺反。颮颮紛紛は多いこと。説文に「颮は古い坎の字である」とある。鄭玄が周礼に注して「矢に繳を結びつけたものを矰という」とある。矰は高いこと。
注[一〇]許少、秦成、ともに詳細は不明。僄狡とは、獣のうち軽捷なもの。説文に「搤は捉なり」とある。音は厄。「搤」は「診」と通ず。噬は噛むこと。挫は折ること。脰は首。徒は空の意。空手でこれを搏ち殺すことをいう。爾雅に「暴虎は徒搏なり」とある。殺の音は所界反。
注[一一]師は獅子。説文に「拖は曳なり」とある。音は徒可反。杜預の左伝注に「螭は山神、獣の形」とある。郭璞の山海経注に「犀は牛に似て質頭、黒色、三角あり、一は頂上に、一は額上に、一は鼻上にある。犛牛は黒色、西南徼外より出ず」とある。犛の音は力之反。爾雅に「羆は熊に似て黄色」とある。巉巖は山石の高峻なる様。殄は尽くすこと。夷もまた殺す意。
注[一二]前書に、宣帝が萯陽宮の属玉観に幸すとある。音義に「属玉は水鳥なり、鵁鶄に似、観上にこれを作るにより、もって名とす」とある。三輔黄図に「上林に長揚宮あり」とある。鄭玄の礼記注に「土高きを台と曰い、木あるを榭と曰う」とある。獲は、協韻で音は胡卦反。楚詞に「山蕭条として獣無し」とある。
注[一三]胙は余った肉。左伝に「胙を公に帰す」とある。詩小雅に「之を炰し之を燔す」とある。毛萇注に「毛を以てするを炰と曰う」とある。音は歩交反。子虚賦に「鮮を割き輪に染む」とある。孔安国の尚書注に「鳥獣新たに殺すを鮮と曰う」とある。
注[一四]大輅は玉輅。周礼に「凡そ輅を馭するに儀は鑾和を以て節とす」とある。鄭玄注に「鑾は衡に在り、和は軾に在り、皆金鈴なり」とある。三輔黄図に「上林苑に豫章観あり」とある。
注[一五]漢宮閣疏に「昆明池に二石人有り、牽牛・織女の象なり」とある。雲漢は天河。郭璞の爾雅注に「茝は香草」とある。音は昌改反。曄曄猗猗は美茂の様。説文に「摛は舒なり」とある。
注[一六]郭璞の爾雅注に「鵁は鳧に似、恭は尾に近く、略して地を行く能わず、江東これを魚鵁と謂う」とある。音は火交反。説文に「鸛は鸛雀なり」とある。爾雅に「鶬は麋鴰」とある。音は括。郭璞注に「即ち鶬鴰なり、今関西これを鴰鹿と呼ぶ」とある。鴇は鴈に似て大、指無し。音は保。鶂は水鳥。荘子に「白鷁の相視るや、眸子運ばずして風化す」とある。李巡の爾雅注に「野に在るを鳧と曰い、家に在るを鶩と曰う」とある。ともに鴨。鄭玄の詩注に「鷖は鳧の属なり」とある。音は一兮反。周処の風土記に「鷖は鷖{鸟由}なり、名を以て自ら呼び、鶏の如く大、荷葉上に卵を生ず」とある。毛萇の詩注に「大なるを鴻と曰い、小なるを鴈と曰う」とある。
注[一七]埤蒼に「輚は臥車なり」とある。音は仕板反。淮南子に「龍舟鷁首、浮吹を以て虞す」とある。桓譚の新論に「乗車、玉爪・華芝及び鳳皇三蓋」とある。上林賦に「法駕に乗じ、華旗を建つ」とある。高誘の淮南子注に「袪は挙ぐるなり」とある。澹は風に随う様。澹の音は徒濫反。淡の音は徒敢反。
注[一八]棹は楫。謳は歌。震は、協韻で音は真。謍は声。音は火宏反。
注[一九]招は挙ぐるに同じ。弩に黄閒の名あり、ここに白閒とあるは、蓋し弓弩の属。本或いは「白鷴」と作るは、鳥を謂う。西京雑記に「越王、高帝に白鷴・黒鷴各一雙を献ず」とある。説文に「揄は引くなり」とある。音は投。文竿は翠羽を以て文飾とす。闞子に「魯人に釣を好む者有り、桂を以て餌と為し、黄金の鉤を鍛え、銀碧を錯り、翡翠の綸を垂る」とある。爾雅に「東方に比目魚有り、比さずば行かず」とある。
注[二〇]広雅に「幢を幬と謂う」とある。幢の音は直江反、即ち舟中の幢蓋。本或いは「罿」と作る。罿は鳥網。音は磨。矰は弋矢。繳は以て箭に係う。方舟は両舟を並べる。
注[二一]協韻で音は綜。
注[二二]薄は迫る。岐は山、雍は県。扶風に在り。儲は積む。供は、協韻で音は九用反。
注[二三]上下は天地を謂う。接もまた祭。究は尽くす。用は犧牷玉帛の物を謂う。列子に「堯、天下を理むること五十年、天下の理むるや乱るるやを知らず。堯乃ち微服して康衢に游び、童謡を聞くに曰く『我が蒸人を立て、爾の極に匪る莫し、識らず知らず、帝の則に順う』と」とある。今の堯と同じきを言う。前書に「宣帝は頗る神仙を好み、王褒・張子僑等並びに待詔し、幸する宮館には、輒ち歌頌を為し、其の高下を第し、以て差に帛を賜う」とある。
注[二四]十代・百年、ともに全数を挙ぐ。易に「旧徳を食らい、貞厲にして終に吉」とある。谷梁伝に「古者に士人・商人・農人・工人有り」とある。淮南子に「古者至徳の時、賈は其の肆を便にし、農は其の業に安んじ、大夫は其の職に安んじ、而して処士は其の道を修む」とある。
私のような者は、ただ古い廃墟を多く見て、古老から話を聞くだけで、十分の一も理解できず、その一端さえ得られないので、すべてを挙げることはできない。
一三三八頁一行の「原嘗」は平原君趙勝と孟嘗君田文を指す。汲本と殿本に基づいて補う。
一三三八頁五行の「逴犖諸夏」について。李慈銘は『文選』では「犖」を「躒」としていると述べている。
一三三九頁一三行の「王□字子泉」について。汲本と殿本では「泉」を「淵」とし、下の「泉雲頌歎」の「泉」も「淵」としている。按ずるに、「淵」を「泉」としたのは、章懐太子が唐の諱を避けて改めたものであろう。
一三四0頁二行の「*[小]*爾雅曰禾穗謂之穎」について。校補は、これは『小爾雅』広物篇に見え、『文選』李善注では「小雅曰」と引いていると述べる。『文選』注では『小爾雅』を省いて「小雅」と称し、ここでは「小」の字が脱落したのである。
今、これに基づいて補う。
一三四0頁二行の「*[小]*爾雅曰敷布也」について。『爾雅』には「敷布也」という訓はない。これは『小爾雅』広詁篇に見える。今、これに基づいて補う。
一三四0頁一二行の「放*(泰)**[太]*紫之圓方」について。「泰」は「太」とすべきである。今、改める。上記の「表以*(泰)*[太]華終南之山」の条を参照のこと。
一三四0頁一四行の「於是左*(□)**[腆]*右平」について。殿本に基づいて改める。按ずるに、集解が引く柳従辰の説によれば、字書の玉部に□の字はなく、土偏にすべきであるという。
一三四0頁一六行の「徇以離殿別寢」について。校補は『文選』では「殿」を「宮」としていると述べる。
一三四一頁一行の「增盤業峨」について。『文選』では「增盤崔嵬」と作る。
一三四一頁五行の「玄墀扣切」について。『文選』では「切」を「砌」と作る。
一三四一頁一一行の「周見洽聞」について。校補は『文選』では「周」を「殫」としていると述べる。
一三四一頁一四行の「修塗飛閣」について。校補は『文選』では「塗」を「除」とし、注に「除,樓陛也」とあると述べる。
一三四一頁一四行の「混建章而外屬」について。校補は『文選』では「而」の下に「連」の字があると述べる。
一三四二頁六行の「似無依*(之)**[而]*洋洋」について。『文選』では「之」を「而」と作る。王先謙は「而」と作るのが正しいと述べている。今、これに基づいて改める。
一三四二頁八行「抗仙掌以承露」は汲本・殿本に従って改める。
一三四三頁四行「域」は「腆」とも作る。按:刊誤は文を案ずるに「腆亦作域」とすべきとし、「腆」の字に「域」と作るものがあるという。
一三四三頁一六行「納之於壁帶」按:校補は前書音義に「壁帶謂壁中之帶也」とあるから、この「壁」の字は土偏であるべきで、各本は皆玉偏に作るのは、上の「銜璧」に引きずられて誤ったものだという。今これに従って改める。
一三四四頁四行「其光色也」按:張森楷校勘記は「色」の下に一字の脱文があるべきで、上文の「其文理密也」によって知られるという。
一三四四頁一0行「順常」按:「順」は原刻では「須」に作る。汲本・殿本に従って直ちに改める。
一三四五頁一六行「高二十餘丈」は刊誤に従って「門」の字を削除する。
一三四六頁四行「小雅曰」按:小雅とは小爾雅の略称であり、下に引くのは小爾雅広詁の文である。
一三四七頁八行「耀威而講事」按:王先謙は文選が「耀威靈而講武事」と作ると言う。
一三四七頁一一行「於是乘輿備法駕」刊誤は注に解く乗輿の義を案ずると、ここに「鑾」の字が多いという。今これに従って削除する。按:上林賦に「於是乘輿弭節徘徊」、甘泉賦に「於是乘輿乃登夫鳳皇兮」とあり、句例が似ており、班固の賦の出典である。
一三四七頁一一行「六師發冑」按:文選は「冑」を「逐」に作る。近人高歩瀛の文選李注義疏は胡紹煐の説を引き、「逐」と「冑」は音が同じで、文選が「逐」と作り、後漢書が「冑」と作るのは、ともに「駎」の仮借であり、玉篇に「駎、徐救切、競馳也」とあるという。
一三四八頁三行「歷長楊之榭」按:「楊」は原刻では「揚」に作る。汲本・殿本に従って直ちに改める。注も同じ。
一三四八頁五行「舉燧命爵」按:校補は文選が「舉烽命釂」と作ると言う。
一三四八頁七行「玄鶴白鷺」按:校補は文選の句の上に「鳥則」の二字があると言う。
一三四八頁七行「鶬鴰鴇鶂」按:「鴇」は原刻では「鳵」に作る。文選に従って直ちに改める。注も同じ。
一三四九頁八行「法駕公卿不在鹵簿中」は汲本・殿本に従って「卿」の字を補う。
一三五一頁九行(欠けている)[闞]子曰、殿本により改める。