後漢書

後漢書 巻四十上 班彪列伝 第三十上

後漢書 巻四十上 班彪列伝 第三十上

班彪

原文班彪

班彪は字あざなを叔皮といい、扶風郡安陵県の人である。祖父の班況は成帝の時に越騎校尉となった。父の班稚は哀帝の時に広平太守となった。

原文班彪字叔皮,扶風安陵人也。祖況,成帝時爲越騎校尉。父稚,哀帝時爲廣平太守。[一]

(注[一]広平は郡であり、現在の洺州永年県である。隋の朝廷が広の字を避諱いみなして改めた。)

原文(注[一]廣平,郡,今洺州永*(平)**[年]*縣也,隋室諱廣改焉。)

班彪は性格が沈着で古風を好んだ。二十歳を過ぎた頃、更始帝が敗れ、三輔の地は大混乱に陥った。当時、隗囂が天水で兵を擁していたので、班彪は難を避けて彼に従った。隗囂が班彪に尋ねて言った。「昔、周が滅びた時、戦国が並び争い、天下は分裂し、数世代を経てようやく平定された。今また合従連衡の事態が起こると思うか?それとも天命を受け継いで次々に興るのは、一人の人物によるものか?あなたの考えを聞かせてほしい。」班彪は答えて言った。「周の廃興と漢とは事情が異なります。昔、周は五等の爵位を設け、諸侯が政治を行いました。根本が既に弱く、枝葉が強大になったため、その末流に合従連衡の事態が生じたのは、情勢の必然でした。漢は秦の制度を継承し、郡県制に改めて立てました。君主には専断の威があり、臣下には百年続く権柄はありません。成帝に至っては、外戚に権力を委ね、哀帝、平帝は在位が短く、皇位継承が三度絶えました。そのため王氏が朝廷を専横し、ついに帝位を簒奪したのです。危機は上から起こり、傷は下に及びませんでした。そのため、王莽が真の皇帝となった後、天下の誰もが首を長くして嘆いたのです。十数年の間に、朝廷内外は騒擾し、遠近ともに蜂起ほうきし、偽りの称号が雲のように集まり、皆が劉氏を称し、謀らずして同じ言葉を口にしました。現在、州域を支配する英雄豪傑たちは、みな七国のような代々の基盤を持っておらず、民衆は歌い吟じて漢の徳を慕い仰いでいます。これで既に分かることです。」隗囂は言った。「あなたが周と漢の情勢を論じるのは結構だが、ただ愚かな人々が劉氏の姓と称号に慣れ親しんでいるからという理由で、漢が復興するなどと言うのは、浅はかだ。昔、秦がその鹿(天下)を失い、劉季(劉邦)がそれを追って捕らえた時、当時の人々は漢のことを知っていただろうか?」

原文彪性沉重好古。年二十餘,更始敗,三輔大亂。時隗囂擁觿天水,彪乃避難從之。囂問彪曰:「往者周亡,戰國並爭,天下分裂,數世然後定。意者從橫之事復起於今乎?將承運迭興,在於一人也?願生試論之。」對曰:「周之廢興,與漢殊異。昔周爵五等,諸侯從政,本根既微,枝葉強大,故其末流有從橫之事,埶數然也。漢承秦制,改立郡縣,主有專己之威,臣無百年之柄。至於成帝,假借外家,[一]哀、平短祚,國嗣三絕,[二]故王氏擅朝,因竊號位。危自上起,傷不及下,[三]是以即真之後,天下莫不引領而歎。十餘年閒,中外搔擾,遠近俱發,假號雲合,咸稱劉氏,不謀同辭。[四]方今雄桀帶州域者,皆無七國世業之資,而百姓謳吟,思仰漢德,已可知矣。」囂曰:「生言周、漢之埶可也;至於但見愚人習識劉氏姓號之故,而謂漢家復興,疏矣。昔秦失其鹿,劉季逐而羈之,時人復知漢乎?」[五]

(注[一]外家とは王鳳・王商らのことで、いずれも政務を補佐し尚書事を統轄した者である。)

原文(注[一]外家謂王鳳、王商等,並輔政領尚書事也。

注[二]哀帝は在位六年、平帝は在位五年であったため、短い在位期間と言われる。成帝、哀帝、平帝はいずれも子がなく、これが三つの断絶である。

原文注[二]哀帝在位六年,平帝在位五年,故曰短祚。成、哀、平俱無子,是三絕也。

注[三]成帝の威権は外戚に借り、これは危険が上から起こったのである。漢の徳は百姓を害することなく、これは傷が下に及ばなかったのである。

原文注[三]成帝威權借於外家,是危自上起也。漢德無害於百姓,是傷不及下也。

注[四]は、王郎や盧芳らがともに劉氏を詐称したことを指す。

原文注[四]謂王郎、盧芳等並詐稱劉氏也。

注[五]太公六韜に曰く、「天下を取るは鹿を逐うが如し、鹿を得れば、天下其の肉を共に分つ」と。

原文注[五]太公六韜曰:「取天下如逐鹿,鹿得,天下共分其肉也。」)

班彪は隗囂の言説を憎むとともに、時勢の困難さを憂い、『王命論』を著して、漢の徳は堯を継ぎ、天命の符瑞があること、王者の興隆は詐術や武力によるものではないと論じ、隗囂を感化しようとしたが、隗囂はついに悟らず、そこで班彪は河西へ避難した。河西の大将軍竇融は彼を従事に任じ、深く敬って師友の礼をもって遇した。班彪はそこで竇融のために策をめぐらし、漢に仕えて西河を統率し、隗囂に抵抗するよう助言した。

原文彪既疾囂言,又傷時方艱,乃著王命論,以爲漢德承堯,有靈命之符,王者興祚,非詐力所致,欲以感之,而囂終不寤,遂避河西。河西大將軍竇融以爲從事,深敬待之,接以師友之道。彪乃爲融畫策事漢,總西河以拒隗囂。

融が征討から帰還して京師に戻ると、光武帝が尋ねた。「上奏した章奏は、誰と参画したのか?」融は答えた。「すべては従事の班彪が行ったことです。」帝はかねてより彪の才能を聞き知っていたので、彼を召し入れて面会し、司隸茂才に推挙し、徐県令に任命したが、病気のため免官となった。その後、三公からの招聘に数度応じたが、そのたびに去った。

原文及融征還京師,光武問曰:「所上章奏,誰與參之?」融對曰:「皆從事班彪所爲。」帝雅聞彪才,因召入見,舉司隸茂才,拜徐令,以病免。[一]後數應三公之命,輒去。

(注[一]司隸が茂才に推挙した。徐は県で、臨淮郡に属する。)

原文(注[一]司隸舉爲茂才也。徐,縣,屬臨淮郡。)

班彪は既に才が高く、著述を好んだので、遂に心を史籍に専念した。武帝の時、司馬遷が『史記』を著したが、太初以後については欠けて記録しておらず、[一]後世の好事者がしばしば時事を綴り集めたが、多くは鄙俗で、その書に続くには足りなかった。[二]班彪はそこで前史の遺事を継ぎ採り、傍ら異聞を貫いて、後伝数十篇を作り、前史を斟酌して得失を譏り正した。その略論に言う。

原文彪既才高而好述作,遂專心史籍之閒。武帝時,司馬遷著史記,自太初以後,闕而不錄,[一]後好事者頗或綴集時事,然多鄙俗,不足以踵繼其書。[二]彪乃繼采前史遺事,傍貫異聞,作後傳數十篇,因斟酌前史而譏正得失。其略論曰:

(注[一]太初は武帝の年号。

原文(注[一]太初,武帝年號。

注[二]好事者とは楊雄、劉歆、陽城衡、褚少孫、史孝山の徒を指す。)

原文注[二]好事者謂楊雄、劉歆、陽城衡、褚少孫、史孝山之徒也。)

唐虞三代は、詩書の及ぶところ、代々史官がいて典籍を司り、[一]諸侯に至っては、国ごとに史があった。[二] 故に孟子が「楚の檮杌、晋の乗、魯の春秋、その事は一なり」と言った所以である。[三]定公と哀公の間、[四]魯の君子左丘明がその文を論じ集め、『左氏伝』三十篇を作り、また異同を撰して『国語』と号し、二十一篇、これによって乗や檮杌の事は遂に闇となり、[五]左氏と国語のみが顕彰された。また黄帝以来から春秋時の帝王・公侯・卿大夫を記録したものがあり、『世本』と号し、十五篇。春秋の後、七国が並び争い、秦が諸侯を併せると、『戦国策』三十三篇があった。漢が興って天下を定めると、太中大夫陸賈が時の功績を記録し、『楚漢春秋』九篇を作った。孝武帝の世、太史令司馬遷が左氏伝、国語を採り、世本、戦国策を削り、楚、漢、列国の時事に拠り、上は黄帝から始め、下は獲麟に至り、[六]本紀、世家、列伝、書、表合わせて百三十篇を作ったが、十篇は欠けている。[七]司馬遷の記したところ、漢の初めから武帝に至るまでを絶やさず記したことは、その功績である。経伝を採り集め、百家の事を分散させた点については、甚だ多くが疎略で、その本に及ばず、多くを聞き広く載せることを功としようと務め、論議は浅く篤実でない。その術学を論ずるには、黄老を崇めて五経を軽んじ;[八]貨殖を序するには、仁義を軽んじて貧窮を恥じ;[九]遊侠を道くには、節を守ることを賤しみ俗功を貴んだ:[一〇]これがその大いなる弊害で道を傷つけるところであり、極刑の咎に遇った所以である。[一一]しかし事理を述べ序するのが巧みで、弁じても華美でなく、質朴でも野卑でなく、文と質が相称しており、良史の才と言えよう。もし司馬遷に五経の法言に依り、聖人の是非と同じくさせたならば、その志もほぼ及んだであろう。[一二]

原文唐虞三代,詩書所及,世有史官,以司典籍,[一]暨於諸侯,國自有史,[二] 故孟子曰「楚之檮杌,晉之乘,魯之春秋,其事一也」。[三]定哀之閒,[四]魯君子左丘明論集其文,作左氏傳三十篇,又撰異同,號曰國語,二十一篇,由是乘、檮杌之事遂闇,[五]而左氏、國語獨章。又有記錄黃帝以來至春秋時帝王公侯卿大夫,號曰世本,一十五篇。春秋之後,七國並爭,秦並諸侯,則有戰國策三十三篇。漢興定天下,太中大夫陸賈記錄時功,作楚漢春秋九篇。孝武之世,太史令司馬遷采左氏、國語,刪世本、戰國策,據楚、漢列國時事,上自黃帝,下訖獲麟,[六]作本紀、世家、列傳、書、表凡百三十篇,而十篇缺焉。[七]遷之所記,從漢元至武以絕,則其功也。至於采經摭傳,分散百家之事,甚多疏略,不如其本,務欲以多聞廣載爲功,論議淺而不篤。其論術學,則崇黃老而薄五經;[八]序貨殖,則輕仁義而羞貧窮;[九]道遊俠,則賤守節而貴俗功:[一0]此其大敝傷道,所以遇極刑之咎也。[一一]然善述序事理,辯而不華,質而不野,文質相稱,蓋良史之才也。誠令遷依五經之法言,同聖人之是非,意亦庶幾矣。[一二]

(注[一]礼記に「動けば則ち左史これを書き、言えば則ち右史これを書く」とある。史籍に見える者は、夏の太史終古、殷の太史向摯、周の太史儋である。呂氏春秋に見える。

原文(注[一]禮記曰:「動則左史書之,言則右史書之。」見於史籍者,夏太史終古、殷太史向摯、周太史儋也。見呂氏春秋。

注[二]左伝に、魯の季孫が外史を召して悪臣を掌らせた。衛の史華龍滑が「我は太史なり」と言った。楚に左史倚相がいた。

原文注[二]左傳,魯季孫召外史掌惡臣。衛史華龍滑「曰我太史」也。楚有左史倚相。

注[三]乗とは、田賦乗馬の事に興ったもの。檮杌とは、嚚凶の類で、悪を記す戒めに興ったもの。春秋は二始(歳首・月首)をもって四時を挙げ、万事を記すので、遂に各々これによって名とし、その記事は一つである。趙岐の孟子注に見える。

原文注[三]乘者,興於田賦乘馬之事。檮杌者,嚚凶之類,興於記惡之誡。春秋以二始舉四時,以記萬事,遂各因以爲名,其記事一也。見趙岐孟子注。

注[四]魯の定公、哀公である。注[五]時に行われないことを闇という。その書は今亡ぶ。

原文注[四]魯定公、哀公也注[五]不行於時爲闇也。其書今亡。

注[六]武帝の太始二年、隴首に登り、白麟を獲た。司馬遷は史記を作り、この年に絶筆した。

原文注[六]武帝太始二年,登隴首,獲白麟,遷作史記,絕筆於此年也。

注[七]十篇とは、司馬遷の没後、景紀、武紀、礼書、楽書、兵書、将相年表、日者伝、三王世家、亀策伝、傅靳列伝が亡失したことを指す。

原文注[七]十篇謂遷歿之後,亡景紀、武紀、禮書、樂書、兵書、將相年表、日者傳、三王世家、龜策傳、傅靳列傳。

注[八]黄帝、老子は道家である。五経は儒家である。司馬遷の序伝に「道家は人の精神を専一にさせ、動きは無形に合い、万物を贍足させる」とある。これが黄老を崇めるという意味である。また「儒者は博にして要寡く、労して功少なし」とある。これが五経を軽んじるという意味である。

原文注[八]黃帝、老子,道家也。五經,儒家也。遷序傳曰:「道家使人精神專一,動合無形,贍足萬物。」此謂崇黃老也。又曰:「儒者博而寡要,勞而少功。」此爲薄五經也。

注[九]史記貨殖伝序に「家貧しく親老い、妻子剁弱く、歳時に祭祀するものなく、飲食被服自ら適うに足らず、かくの如くにして恥じざれば、則ち比ぶる所なし。巌処の奇士の行なくして、長く貧賤に在り、仁義を語るも、亦た羞ずるに足る」とある。

原文注[九]史記貨殖傳序曰:「家貧親老,妻子剁弱,歲時無以祭祀,飲食被服不足以自適,如此不籩恥,則無所比矣。無巖處奇士之行,而長貧賤,語仁義,亦足羞也。」

注[一〇]史記遊侠伝序に「季次、原憲は君子の徳を行い、義苟くも当世に合わず、当世も亦たこれを笑う。終身空室蓬戸、褐衣疏食飽くことなし。今の遊侠は、その行い正義に軌せざるも、然れどもその言必ず信、行い必ず果たし、已に諾して必ず誠にし、その躯を愛せず、士の厄に赴く、蓋し足るに多き者有り。今の拘学或いは咫尺の義を抱き、久しく世に孤なるは、豈に卑論俗に斉しくし、世と沈浮して栄名を取るに若くんや!」とある。

原文注[一0]史記遊俠傳序曰:「季次、原憲行君子之德,義不苟合當世,當世亦笑之。終身空室蓬戶,褐衣疏食不饜。今遊俠,其行雖不軌於正義,然其言必信,於行必果,已諾必誠,不愛其軀,赴士之厄,蓋有足多者。今拘學或抱咫尺之義,久孤於世,豈若卑論齊俗,與世沉浮而取榮名哉!」

注[一一]極刑とは司馬遷が腐刑に処されたことを指す。司馬遷が任安に与えた書に「最下は腐刑、極まりたり!」とある。

原文注[一一]極刑謂遷被腐刑也。遷與任安書曰:「最下腐刑,極矣!」

注[一二]易経に言う、「顔氏の子、その殆ど庶おお幾からんか!」と。

原文注[一二]易曰:「顏氏之子,其殆庶幾乎!」)

およそ百家の書は、なおも法とすることができる。左氏伝、国語、世本、戦国策、楚漢春秋、太史公書(史記)のようなものは、今の者が古を知るためのものであり、後の者が前を観るよりどころであり、聖人の耳目である。司馬遷は帝王を序列づけるのに本紀と称し、公侯が国を伝えるのに世家と称し、卿士が特に起こった者を列伝と称した。さらに項羽と陳渉を進めて淮南王・衡山王を退け、[一]細やかな意図と委曲を尽くし、条理立てて経典に依らない。司馬遷の著作は、古今を採り獲り、経伝を貫通し、極めて広博である。一人の精力では、文章が重複し思考が煩雑になるため、その書は削り落とし尽くせず、なおも余分な言辞があり、多くが統一されていない。[二]例えば司馬相如を序するのに、郡県を挙げ、その字を著しているが、蕭何、曹参、陳平の類や、董仲舒のべるなど同時代の人については、その字を記さず、あるいは県のみで郡を記さないのは、おそらく手が回らなかったためである。[三]今この後篇(後漢書)は、その事柄を慎重に検証し、その文章を整え斉え、世家とせず、ただ紀と伝のみとする。

原文夫百家之書,猶可法也。若左氏、國語、世本、戰國策、楚漢春秋、太史公書,今之所以知古,後之所由觀前,聖人之耳目也。司馬遷序帝王則曰本紀,公侯傳國則曰世家,卿士特起則曰列傳。又進項羽、陳涉而黜淮南、衡山,[一]細意委曲,條列不經。若遷之著作,采獲古今,貫穿經傳,至廣博也。一人之精,文重思煩,故其書刊落不盡,尚有盈辭,多不齊一。[二]若序司馬相如,舉郡縣,著其字,至蕭、曹、陳平之屬,及董仲舒並時之人,不記其字,或縣而不郡者,蓋不暇也。[三]今此後篇,慎核其事,整齊其文,不爲世家,唯紀、傳而已。

伝に言う、「史を殺して極を見せ、平易で正直であるのは、春秋の義である」と。

原文傳曰:「殺史見極,平易正直,春秋之義也。」

(注[一]司馬遷が項羽本紀を著したことを指す。また陳渉は田畑から起こり、数か月で殺され、子孫が相続することはなかったが、世家として著し、淮南王、衡山王は漢室の王の子孫であり、世家とすべきところを列伝に編しているのは、進退の誤りを言うのである。

原文(注[一]謂遷著項羽本紀。又陳涉起於壟畝,數月被殺,無子孫相繼,著爲世家,淮南、衡山,漢室之王胤,當世家而編之列傳,言進退之失也。

注[二]刊は削ること。繁蕪を削り落とすが、なおも尽きないものがあったという意味。

原文注[二]刊,削也。謂削落繁蕪,仍有不盡。

注[三]史記に「衛青は平陽の人である」「張釈之は堵陽の人である」とあり、いずれも郡を明示していない類である。)

原文注[三]史記「衛青者,平陽人也」,「張釋之,堵陽人」,並不顯郡之類也。)

班彪は再び司徒の玉況の府に辟召された。[一]当時、皇太子宮が初めて建てられ、諸王国もともに開設されたが、[二]官属はまだ整っておらず、師保の多くが欠けていた。班彪は上言して言った。

原文彪復辟司徒玉況府。[一]時東宮初建,諸王國並開,[二]而官屬未備,師保多闕。彪上言曰:

(注[一]玉は音は「粛」。

原文(注[一]玉音肅。

注[二]建武二十三年に玉況が司徒となり、十九年に明帝が皇太子に立てられ、十七年に諸王が封ぜられた。)

原文注[二]建武二十三年玉況爲司徒,十九年建明帝爲太子,十七年封諸王。)

孔子は「性は相近く、習いは相遠し」と称した。[一]賈誼は「善人と共に住む習慣があれば、善を行わないわけにはいかない。ちょうど斉で生長すれば、斉の言葉を話さないわけにはいかないのと同じである。悪人と共に住む習慣があれば、悪を行わないわけにはいかない。ちょうど楚で生長すれば、楚の言葉を話さないわけにはいかないのと同じである」と考えた。[二]このため、聖人は誰と共に住むかを審らかにし、慣れ親しむものを戒め慎む。昔、成王が幼少の頃、外出すれば周公、邵公、太史佚が付き、入内すれば大顛、閎夭、南宮括、散宜生が付き、左右前後、礼に違う者はなく、[三] それゆえ成王が一日で即位すると、天下は広々として太平となった。このため春秋は「愛する子には義の道を教え、邪に陥らせない。驕り奢り淫らで怠ることは、邪の始まりである」と説く。[四]詩経に言う、「その孫に謀を遺し、以て子を翼く(助け守る)ことを安んず」と。これは武王が子孫に謀を遺したことを言うのである。[五]

原文孔子稱「性相近,習相遠也」。[一]賈誼以爲「習與善人居,不能無爲善,猶生長於齊,不能無齊言也。習與惡人居,不能無*[爲]*惡,猶生長於楚,不能無楚言也」。[二]是以聖人審所與居,而戒慎所習。昔成王之爲孺子,出則周公、邵公、太*(公)*史佚,入則大顛、閎夭、南宮括、散宜生,左右前後,禮無違者,[三] 故成王一日即位,天下曠然太平。是以春秋「愛子教以義方,不納於邪。驕奢淫佚,所自邪也」。[四]詩云:「詒厥孫謀,以宴翼子。」言武王之謀遺子孫也。[五]

(注[一]論語に見える。

原文(注[一]見論語。

注[二]賈誼が上疏した言葉。

原文注[二]賈誼上疏之辭。

注[三]左伝に言う、「郊での慰労から贈賄に至るまで、礼に違う者はなかった」と。

原文注[三]左傳曰:「自郊勞至於贈賄,禮無違者。」

注[四]左伝にある、衛の大夫石碏が衛の荘公を諫めた言葉である。

原文注[四]左傳衛大夫石碏諫衛莊公之辭也。

注[五]詩経大雅である。詒は遺す。宴は安んずる。翼は敬う。文王がその孫に善い謀略を遺し、武王が安んじて敬う道をその子に遺したことを言う。子は成王を指す。)

原文注[五]詩大雅也。詒,遺也。宴,安也。翼,敬也。言文王遺其孫以善謀,武王以安敬之道遺其子。子謂成王也。)

漢が興ると、太宗(文帝)は鼂錯に命じて法術をもって太子を導かせ、賈誼に詩書をもって梁王を教えさせた。中宗(宣帝)に至ってもまた、劉向、王褒、蕭望之、周堪らをして、文章と儒学をもって東宮以下の者を保ち訓導させ、その人材を簡抜して崇め、徳器を成し遂げさせた。今、皇太子や諸王は、幼い頃から学問を始め、礼楽を修習しているが、傅や相にはまだ賢才が当たらず、官属には旧来の典制が多く欠けている。広く名高く威厳があり、政事に明通した名儒を選び、太子太傅とし、東宮および諸王国には官属を備え置くべきである。また旧制では、太子は湯沐邑として十県を食み、周囲に衛兵を置き交戟を設け、五日に一度朝見し、その際に東廂に座って膳食を省み視察した。朝見でない日は、太子僕や中允が毎朝毎夕、問安するだけであった。これは軽んじることなく、敬意を広くするためである。

原文漢興,太宗使黾錯導太子以法術,[一]賈誼教梁王以詩書。[二]及至中宗,亦令劉向、王褒、蕭望之、周堪之徒,以文章儒學保訓東宮以下,[三]莫不崇簡其人,就成德器。今皇太子諸王,雖結髮學問,修習禮樂,而傅相未值賢才,官屬多闕舊典。宜博選名儒有威重明通政事者,以爲太子太傅,東宮及諸王國,備置官屬。又舊制,太子食湯沐十縣,設周衛交戟,五日一朝,因坐東箱,省視膳食,其非朝日,使僕、中允旦旦請問而已,明不媟黷,廣其敬也。[四]

(注[一] 文帝の時、鼂錯は博士となり、上言して言った。「人主が功を顕わし名を揚げる所以は、術数を知っているからです。今、皇太子の読む書物は多いですが、術数はまだ知りません。願わくは陛下、聖人の術を選んで太子に賜わりますように。」帝はこれを善しとし、錯を太子家令に任じた。)

原文(注[一]文帝時黾錯爲博士,上言曰:「人主所以顯功揚名者,以知術數也。今皇太子所讀書多矣,而未知術數。願陛下擇聖人之術以賜太子。」上善之,拜錯爲太子家令。

(注[二] 賈誼は梁王の太傅となった。梁王は文帝の末子で、名は揖、愛され書を好んだので、誼に傅させた。)

原文注[二]賈誼爲梁王太傅。梁王,文帝之少子,名揖,愛而好書,故令誼傅之。

(注[三] 中宗は宣帝である。当時、元帝が太子であったが、宣帝は王褒、劉向、張子僑らを太子の宮に遣わし、朝夕に読誦して太子に侍らせ楽しませ、蕭望之を太傅とし、周堪を少傅とした。いずれも前漢書に見える。)

原文注[三]中宗,宣帝也。時元帝爲太子,宣帝使王褒、劉向、張子僑等之太子宮,娛侍太子朝夕讀誦,蕭望之爲太傅,周堪爲少傅。並見前書。

(注[四] 漢官儀に言う。「皇太子は五日に一度、台に至り、東廂に座って、膳食を省み視察し、法をもって太官尚食宰吏を制する。朝見でない日は、太子僕、中允が毎朝毎夕問安する。軽んじることなく、広く敬意を示すためである。太子僕一人、秩千石。中允一人、四百石、門衛と巡察を主管する。」)

原文注[四]漢官儀曰:「皇太子五日一至台,因坐東箱,省視膳食,以法制來太官尚食宰吏,其非朝日,使僕、中允旦旦請問,明不媟黷,所以廣敬也。太子僕一人,秩千石;中允一人,四百石,主門衛徼巡。」)

上書が奏上されると、帝はこれを採用した。

原文書奏,帝納之。

後に、司徒の廉として推挙され望都の長となり、官吏と民衆に愛された。建武三十年、五十二歳で官の任上で死去した。著した賦、論、書、記、奏事は合わせて九篇。

原文後察司徒廉爲望都長,吏民愛之。[一]建武三十年,年五十二,卒官。所著賦、論、書、記、奏事合九篇。

(注[一] 察は推挙すること。司徒が廉として推薦した。)

原文(注[一]察,舉也。司徒薦爲廉。)

二人の子、固と超。超については別に伝がある。

原文二子:固,超。超別有傳。

論じて言う。班彪は通儒の上才をもって、危乱の世に身を置きながら、行いは道を越えず、言は正を失わず、仕官には急いで進まず、貞節を守っても人に背かず、文華を敷いて国典を緯とし、賤薄な身分を守って悶える様子もなかった。彼は世の運がまだ広まっていないと考えたのだろうか、いわゆる賤であることを恥じるところではなかったのか。なんとその道を守り恬淡であることの篤いことよ。

原文論曰:班彪以通儒上才,傾側危亂之閒,行不踰方,[一]言不失正,仕不急進,貞不違人,敷文華以緯國典,守賤薄而無悶容。彼將以世運未弘,非所謂賤焉恥乎?何其守道恬淡之篤也![二]

(注[一] 論語で孔子が言う。「仁の道ということができる。」鄭玄の注に云う。「方は道のようなものである。」)

原文(注[一]論語孔子曰:「可謂仁之方。」鄭玄注云:「方猶道也。」

(注[二] 孔子が言う。「国に道がある時に、貧しくかつ賤しいのは恥である。」彪は中興の初めに当たり、時運がまだ泰平でなかったので、貧賤を恥としなかったという。なんと道を守り清静であることの固いことよ。恬淡は清静のようなものである。篤は固いこと。)

原文注[二]孔子曰:「邦有道,貧且賤焉恥也。」言彪當中興之初,時運未泰,故不以貧賤爲恥,何守道清靜之固也!恬淡猶清靜也。篤,固也。)

班固

原文班固

固は字を孟堅という。九歳の時、文を綴り詩賦を誦することができ、成長するに及んで、ついに載籍に博く通じ、九流百家の言を究めないものはなかった。学ぶところに常師はなく、章句の解釈に拘らず、大義を挙げるだけであった。性質は寛和で衆人を受け容れ、才能をもって人を見下すことはなく、諸儒はこのことで彼を慕った。

原文固字孟堅。年九歲,能屬文誦詩賦,及長,遂博貫載籍,九流百家之言,無不窮究。[一]所學無常師,不爲章句,舉大義而已。性寬和容觿,不以才能高人,諸儒以此慕之。[二]

(注[一] 九流とは、道、儒、墨、名、法、陰陽、農、雑、縦横をいう。)

原文(注[一]九流謂道﹑儒﹑墨﹑名﹑法﹑陰陽﹑農﹑雜﹑縱橫。

注釈[二]謝承の『後漢書』に言う。「固は十三歳の時、王充が彼を見て、その背中を撫でながら彪に言った。『この子は必ず漢の歴史を記録するだろう。』」永平の初め、東平王劉蒼は至親として驃騎将軍となり政務を補佐し、東閣を開いて英雄を招いた。その時、固はちょうど弱冠であり、上書して蒼に進言した。

原文注[二]謝承書曰:「固年十三,王充見之,拊其背謂彪曰:『此兒必記漢事。』」永平初,東平王蒼以至戚爲驃騎將軍輔政,開東合,延英雄。時固始弱冠,奏記說蒼曰:[一] 注[一]奏,進也。記,書也。前書待詔鄭朋奏記於蕭望之,奏記自朋始也。)

将軍は周の周公旦や召公奭のような徳を持ち、朝廷に立ち、優れた明るい策を承け、威霊の称号を立てられた。かつて周公がいたが、今は将軍であり、詩書に記されている中で、これに並ぶものは三つもない。伝に言う。「必ず並外れた人がいて、その後で並外れた事があり、並外れた事があって、その後で並外れた功績がある。」固は幸いにも清明な世に生まれ、見聞きする末席に預かり、私心から螻蟻のような微力でひそかに国政を観察しているが、誠に将軍が千年の重任を抱え、先聖の足跡を踏み、宏大で美しい資質を体現し、高い地位にあり、あらゆる事柄に通じ、六芸を心に銘記し、白黒を心で区別し、善を求めて飽くことなく、狂った者の言葉も採択し、薪を負う者の議論にも逆らわないことを称賛する。ひそかに見るに、幕府が新たに開かれ、広く多くの俊才を招き、四方の士は慌てて駆けつけている。将軍は唐の堯や殷の湯の挙用を詳らかにし、伊尹や皐陶の推薦を察し、遠近に偏りなく、隠れた者も必ず取り上げ、賢才を総覧し、明智を集め、国のために人材を得て、朝廷を安寧にされるべきである。そうすれば将軍は志を養い精神を和らげ、朝廷で悠々とし、光栄な名声を当世に宣べ、遺した功績を永遠に輝かせるだろう。

原文將軍以周﹑邵之德,立乎本朝,承休明之策,建威靈之號,[一]昔在周公,今也將軍,詩書所載,未有三此者也。[二]傳曰:「必有非常之人,然後有非常之事;有非常之事,然後有非常之功。」[三]固幸得生於清明之世,豫在視聽之末,私以螻蟻,竊觀國政,[四] 誠美將軍擁千載之任,躡先聖之蹤,[五]體弘懿之姿,據高明之埶,博貫庶事,服膺六蓺,白黑簡心,求善無猒,[六]采擇狂夫之言,不逆負薪之議。[七]竊見幕府新開,廣延腢俊,四方之士,顛倒衣裳。[八]將軍宜詳唐﹑殷之舉,察伊﹑戲之薦,[九]令遠近無偏,幽隱必達,期於總覽賢才,收集明智,爲國得人,以寧本朝。則將軍養志和神,優遊廟堂,光名宣於當世,遺烈著於無窮。

(注[一]驃騎将軍という称号のこと。

原文(注[一]號驃騎將軍也。

注[二]ただ劉蒼と周公の二人だけである。

原文注[二]唯蒼與周公二人而已。

注[三]司馬相如が蜀を諭した言葉。

原文注[三]司馬相如喻蜀之辭。

注[四]螻蟻とは微細なもののたとえ。

原文注[四]螻蟻謂細微也。

注[五]千載とは周公から明帝の時まで千余年のこと。先聖とは周公のこと。

原文注[五]千載謂自周公至明帝時千餘載也。先聖謂周公也。

注[六]『淮南子』に言う。「聖人は是非を見るのに、目の前で白黒を区別するようにはっきりしている。」『左伝』に「善を求めて飽きない」とある。

原文注[六]淮南子曰:「聖人見是非,若白黑之別於目。」左傳曰「求善不猒」也。

注[七]負薪とは賤しい者のこと。『三略』に「薪を負う者の言葉も、朝廷の言葉である」とある。

原文注[七]負薪,賤人也。三略曰「負新之諾,廊廟之言」也。

注[八]『詩経』に言う。「東方未だ明けず、衣裳を顛倒す。」士が争って帰服する慌ただしさを言う。

原文注[八]詩曰:「東方未明,顛倒衣裳。」言士爭歸之匆遽也。

注[九]堯は皐陶を挙用し、湯は伊尹を挙用した。)

原文注[九]堯舉戲陶,湯舉伊尹。)

ひそかに見るに、故司空掾の桓梁は、老練な儒者で名声が高く、州里で冠たる存在であり、七十歳で心のままに行動しても規範を越えず、清廟の光輝であり、当世の俊英である。京兆祭酒の晉馮は、幼い頃から身を修め、白髪になっても過ちがなく、古を好み道を楽しみ、沈黙して自らを守り、古人の美しい行いを持ち、時俗の及ぶところではない。扶風掾の李育は、経学に明るく行いが顕著で、百人を教授し、杜陵に客居し、茅葺きの家に土の階段である。京兆・扶風の二郡が交替で招聘したが、ただ家が貧しいため、たびたび病気を理由に辞去した。古きを温めて新しきを知り、議論は通明で、廉潔で清く行い純粋に備わり、前世の名儒で国家が重んじた韋賢、平当、孔光、翟方進をも超えるものはない。その考績を調べて、あらゆる政事に参与させるべきである。京兆督郵の郭基は、孝行が州里に顕著で、経学が師門で称賛され、政務の実績には並外れた効果がある。もし明るい時代に遇い、下僚として職務を執れば、進んでは羽を奮って翔ける用があり、退いては杞梁のような一介の死がある。涼州従事の王雍は、卞厳のような節義を躬行し、学芸でそれを飾り、涼州の冠蓋の中で、雍に先んじるべき者はない。昔、周公が一度挙用すると三方から怨まれたが、それは「なぜ自分たちの後なのか」と言うためである。幕府が開かれるのに合わせて、遠方を慰めるべきである。弘農功曹史の殷肅は、学識が広く見聞が豊かで、才能は比類なく、詩三百篇を誦し、使命を受けて独自に対応できる。この六人は皆、並外れた行いと絶倫の才能を持ち、徳は当世で高く、もし招聘されて高明を補佐すれば、これは山梁の秋に、夫子が嘆いたところである。昔、卞和が宝玉を献じて足を切られる罰を受け、霊均(屈原)が忠誠を納めてついに身を沈めたが、和氏の璧は千年に光を垂れ、屈子の文章は万世に善を帰する。願わくば将軍は微かなものを見る明を盛んにし、日が傾いてもなお聴く信を厚くし、少し威光を屈して、下問を諮り、塵埃の中から永遠に荊山や汨羅の恨みがないようにしてほしい。

原文竊見故司空掾桓梁,宿儒盛名,冠德州裡,七十從心,行不踰矩,[一]蓋清廟之光暉,當世之俊彥也。[二]京兆祭酒晉馮,結髮修身,白首無違,好古樂道,玄默自守,古人之美行,時俗所莫及。扶風掾李育,[三]經明行著,教授百人,客居杜陵,茅室土階。京兆﹑扶風二郡更請,徒以家貧,數辭病去。溫故知新,論議通明,廉清修絜,行能純備,雖前世名儒,國家所器,韋﹑平﹑孔﹑翟,無以加焉。[四] 宜令考續,以參萬事。京兆督郵郭基,孝行著於州裡,經學稱於師門,政務之績,有絕異之效。如得及明時,秉事下僚,進有羽翮奮翔之用,退有杞梁一介之死。[五]涼州從事王雍,躬卞嚴之節,文之以術蓺,[六]涼州冠蓋,未有宜先雍者也。古者周公一舉則三方怨,曰「奚爲而後己」。[七]宜及府開,以慰遠方。弘農功曹史殷肅,[八]達學洽聞,才能絕倫,誦詩三百,奉使專對。此六子者,皆有殊行絕才,德隆當世,如蒙徵納,以輔高明,此山梁之秋,夫子所爲歎也。[九]昔卞和獻寶,以離斷趾,[一0]靈均納忠,終於沉身,[一一]而和氏之璧,千載垂光,屈子之篇,萬世歸善。願將軍隆照微之明,信日昃之聽,[一二]少屈威神,咨嗟下問,令塵埃之中,永無荊山﹑汨羅之恨。

(注[一]『論語』で孔子が言う。「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず。」心のままに行動しても、すべて法則に暗合することを言う。

原文(注[一]論語孔子曰:「七十而縱心所欲,不踰矩。」言恣心之所爲,皆闇合於法則。

注[二]『詩経』周頌に言う。「於穆たる清廟、肅雍として顯相たり、濟濟たる多士、文の德を執る。」鄭玄の注に言う。「顯は光なり。」桓梁が多くの士に加わり、清廟で祭祀を助けて光輝となることができると言う。『爾雅』に言う。「髦は俊なり。」美しい士を彥と言う。

原文注[二]詩周頌曰:「於穆清廟,肅雍顯相,濟濟多士,執文之德。」鄭玄注曰:「顯,光也。」言桓梁可參多士,助祭於清廟爲光暉也。爾雅曰:「髦,俊也。」美士爲彥。

注[三]育は字を元春といい、儒林伝に見える。

原文注[三]育字符春,見儒林傳。

注[四] 韋賢、平當、孔光、翟方進である。俗本では「平」の字を「玄」としているが誤りである。

原文注[四]韋賢﹑平當﹑孔光﹑翟方進也。流俗本「平」字作「玄」,誤。

注[五] 説苑に言う。「趙簡子が西河に遊んで嘆いて言った。『どうして賢士を得て共に過ごすことができようか?』船頭の吉桑が答えて言った。『鴻鵠が高く飛ぶのは、頼りとするのは六つの羽根である。背中の毛や腹の下の柔らかい毛を、たとえ満手に加えても、飛ぶ高さをそれ以上にすることはできない。あなたの門下の左右の客千人も、六つの羽根のような役割を持つ者がいるだろうか?それとも皆、ただの毛や柔らかい毛に過ぎないのだろうか?』」また言う。「齊の荘公が莒を攻めた時、杞梁と華周が進んで戦い、敵陣を破り陥落させ、三軍もこれに当たることができなかった。莒の城下に至り、二十七人を殺して死んだ」という。

原文注[五]說苑曰:「趙簡子游於西河而歎曰:『安得賢士而與處焉?』舟人吉桑對曰:『鴻鵠高飛,所恃者六翮也。背上之毛,腹下之毳,加之滿把,飛不能爲之益高。不知門下左右客千人,亦有六翮之用乎?將盡毛毳也?』」又曰「齊莊公攻莒,杞梁與華周進斗,壞軍陷陣,三軍不敢當。至莒城下,殺二十七人而死」也。

注[六] 卞厳は、卞莊子である。新序に言う。「卞莊子は勇を好み、母を養っていたが、戦って三度敗走した。交遊はこれを非難し、国君も彼を辱めた。莊子は命を受け、顔色を変えなかった。母が死んで三年後、斉と魯が戦った時、莊子は従軍を願い出た。将軍に謁見して言った。『以前はただ母と共にいたので、戦って三度敗走したのです。今、母は亡くなりました。責任を果たさせてください。』そこで敵に赴いて戦い、敵の甲士こうしの首級を獲って献上し、言った。『三度の敗走は、母を養うためでした。私は聞いています。節義の士は辱めを受けて生きることはしない、と。』遂に十人を殺して死んだ。」論語で孔子は言う。「卞莊子の勇、冉求の技芸、礼楽をもってこれを文飾する。」

原文注[六]卞嚴,卞莊子也。新序曰:「卞莊子好勇,養母,戰而三北,交遊非之,國君辱之。莊子受命,顏色不變。及母死三年,齊與魯戰,莊子請從。至,見於將軍曰:『初獨與母處,是以戰而三北。今母沒矣,請塞責。』遂赴敵而斗,獲甲首而獻,曰:『夫三北,以養母也。吾聞之,節士不以辱生。』遂殺十人而死。」論語孔子曰:「卞莊子之勇,冉求之蓺,文之以禮樂。」

注[七] 孫卿子に言う。「周公が東征すると、西の国々は怨んで言った。『なぜ我々のところだけ来ないのか!』南征すると、北の国々は怨んで言った。『なぜ我々のところだけ後なのか!』」注[八] 班固の文集では「殷」を「段」としている。

原文注[七]孫卿子曰:「周公東征,西國怨,曰:『何獨不來也!』南征而北國怨,曰:『何獨後我也!』」注[八]固集「殷」作「段」。

注[九] 秋は時と同じ意味である。論語で孔子は言う。「山の梁の雌雉よ、時を得ていることよ!」

原文注[九]秋猶時也。論語孔子曰:「山梁雌雉,時哉!」

注[一〇] 離は、被る(こうむる)こと。断趾は、足を切る刑(刖刑)である。事は韓子に見える。

原文注[一0]離,被也。斷趾,刖足也。事見韓子。

注[一一] 屈原は字を霊均といい、楚に忠誠を尽くしたが、ついに信じられず、汨羅の水に身を投じて死んだ。

原文注[一一]屈原字靈均,納忠於楚,終不見信,自沉於汨羅之水而死。

注[一二] 信は音申。

原文注[一二]信音申。)

班蒼はこれを受け入れた。

原文蒼納之。

父の班彪が亡くなると、故郷に帰った。班固は、班彪が続けて書いた前の歴史書が詳しくないと考え、ひそかに精神を集中し研究思索を重ね、その事業を完成させようとした。その後、ある者が顕宗(明帝)に上書し、班固が私的に国史を改作したと告発した。詔が郡に下り、班固は逮捕されて京兆の獄に繋がれ、家の書物はすべて没収された。以前、扶風の人蘇朗が図讖としんに関して偽りのことを言い、獄に下されて死んでいた。班固の弟の班超は、班固が郡で取り調べられ、自らを弁明できないことを恐れ、急いで宮廷に馳せ参じて上書し、召見を受けた。班固が著述した意図を詳しく述べ、郡もまた班固の書物を上奏した。顕宗は大いにこれを奇異とし、校書部に召し出し、

原文父彪卒,歸鄉里。固以彪所續前史未詳,乃潛精研思,欲就其業。既而有人上書顯宗,告固私改作國史者,有詔下郡,收固系京兆獄,盡取其家書。先是扶風人蘇朗偽言圖讖事,下獄死。固弟超恐固爲郡所核考,不能自明,乃馳詣闕上書,得召見,具言固所著述意,而郡亦上其書。顯宗甚奇之,召詣校書部,[一]除蘭台令史,[二]與前睢陽令陳宗﹑長陵令尹敏﹑司隸從事孟異共成世祖本紀。遷爲郎,典校秘書。固又撰功臣﹑平林﹑新市﹑公孫述事,作列傳﹑載記二十八篇,奏之。帝乃復使終成前所著書。

(注[一] 前漢書の班固叙伝に言う。「永平年間に郎となり、秘書を校訂した。」

原文(注[一]前書固敘傳曰:「永平中爲郎,典校秘書。」

注[二] 漢官儀に言う。「蘭台令史は六人、秩百石で、上奏文書の記録と弾劾文書を掌る。」)

原文注[二]漢官儀曰:「蘭台令史六人,秩百石,掌書劾奏。」)

蘭台令史に任命し、前の睢陽県令陳宗、長陵県令尹敏、司隷従事孟異と共に世祖(光武帝)本紀を完成させた。郎に昇進し、秘書の校訂を主管した。班固はさらに功臣、平林、新市、公孫述に関する事績を撰述し、列伝、載記二十八篇を作り、奏上した。帝はそこで再び彼に以前に著していた書を完成させるよう命じた。

原文固以爲漢紹堯運,以建帝業,至於六世,史臣乃追述功德,[一]私作本紀,編於百王之末,廁於秦﹑項之列,[二]太初以後,闕而不錄,故探撰前記,綴集所聞,以爲'''《漢書》'''。起元高祖,終於孝平王莽之誅,十有二世,二百三十年,[三] 綜其行事,傍貫五經,上下洽通,爲春秋考紀﹑表﹑志﹑傳凡百篇。[四]固自永平中始受詔,潛精積思二十餘年,至建初中乃成。當世甚重其書,學者莫不諷誦焉。

班固は、漢が堯の運命を継ぎ、帝業を建てたと考えた。六代(武帝)に至り、史臣(司馬遷)が功徳を追述し、

原文(段落全体)(注[一]六代謂武帝,史臣謂司馬遷也。

(注[一] 六代は武帝を指す。史臣は司馬遷を指す。注[二] 史記は黄帝から始まり、漢は最もその末に位置している。

原文(段落全体)(注[一]六代謂武帝,史臣謂司馬遷也。

注[三]高祖、恵帝、呂后、文帝、景帝、武帝、昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝の十二代である。王莽を合わせて二百三十年。

原文注[三]高﹑惠﹑呂後﹑文﹑景﹑武﹑昭﹑宣﹑元﹑成﹑哀﹑平十二代也。並王莽合二百三十年。

注[四]本紀十二、表八、志十、列伝七十、合わせて百篇。前書音義に言う。「春秋考紀とは帝紀をいう。時事を考核し、四時を具えて以て言を立てることを言い、春秋の経の如し。」)

原文注[四]紀十二,表八,志十,列傳七十,合百篇。前書音義曰:「春秋考紀謂帝紀也。言考核時事,具四時以立言,如春秋之經。」)

郎となって以来、次第に親しく近侍するようになった。当時、京師では宮室を修築し、城壁と堀を浚渫・修繕していたが、関中の古老たちはなお朝廷が西を顧みることを望んでいた。

原文自爲郎後,遂見親近。時京師修起宮室,浚繕城隍,而關中耆老猶望朝廷西顧。

班固は、前代の司馬相如・吾丘寿王・東方朔らが文辞を構築し、結局は諷諫と勧告に帰したことを感じて、[一] そこで『両都賦』を上奏し、洛邑の制度の美を大いに称え、西都の賓客の淫侈な議論を論破した。その文辞は次の通りである:

原文固感前世相如﹑壽王﹑東方之徒,造構文辭,終以諷勸,[一]乃上兩都賦,盛稱洛邑制度之美,以折西賓淫侈之論。其辭曰:

(注[一]司馬相如は『上林賦』『子虚賦』を作り、吾丘寿王は『士大夫論』及び『驃騎将軍頌』を作り、東方朔は『客難』及び『非有先生論』を作った。その文辞はいずれも諷喩を主としている。)

原文(注[一]相如作上林﹑子虛賦,吾丘壽王作士大夫論及驃騎將軍頌,東方朔作客難及非有先生論,其辭並以諷喻爲主也。)

西都の賓客が東都の主人に問うて言う:[一]「聞くところによれば、大いなる漢朝の初めに経営された時、かつて河洛に都を置こうと考えられたそうだ。しかしそれは中止され、安泰ではなかったので、実際に西遷して、我が上都を作られた。主人はその理由を聞き、その制度を知りたいか?」[二] 主人は言う。「まだだ。賓客よ、懐旧の蓄積された思いを述べ、古を思う幽かな情を発揮し、[三] 皇道をもって私を広く教え、漢京をもって私を大きくしてほしい。」賓客は言う。「はい、はい。」

原文有西都賓問於東都主人曰:[一]「蓋聞皇漢之初經營也,嘗有意乎都河洛矣。輟而弗康,寔用西遷,作我上都。主人聞其故而鶯其制乎?」[二]主人曰:「未也。願賓攄懷舊之蓄念,發思古之幽情,[三]博我以皇道,弘我以漢京。」賓曰:「唯唯。」

(注[一]中興して洛陽に都したので、東都を主人とし、西都を賓客としたのである。

原文(注[一]中興都洛陽,故以東都爲主,而謂西都爲賓也。

注[二]皇は大である。尚書に言う。「吉卜を得れば則ち経営す。」高祖五年、劉敬が関中に都するよう説いたが、皇帝は疑った。左右の大臣は皆山東の人で、多くが洛陽に都するよう勧めた。これが河洛に都しようと考えたことである。張良が言う。「洛陽はその中が小さく、数百里を超えず、四面敵を受ける。武を用いる国ではない。関中は金城千里、天府の国である。」そこで皇帝は即日に関中に西都した。これが中止して安泰ではなかったことである。輟は止める。康は安らか。

原文注[二]皇,大也。尚書曰:「厥既得吉卜則經營。」高祖五年,劉敬說上都關中,上疑之。左右大臣皆山東人,多勸都洛陽,此爲有意都河洛矣。張良曰:「洛陽其中小不過數百里,四面受敵,非用武之國。關中金城千里,天府之國也。」於是上即日西都關中,此爲輟而弗康也。輟,止也。康,安也。

注[三]広雅に言う。攄は舒である。)

原文注[三]廣雅曰攄,舒也。)

漢の西都は、雍州にあり、実に長安という。[一] 左には函谷・二崤の険阻を拠り所とし、太華・終南の山を外郭とする。[二] 右は褒斜・隴首の険を境とし、大河・涇・渭の川を帯びる。[三] 草木の実りは、九州の最も肥沃な土地であり;防禦の険阻は、天下の奥深い区域である。[四] このゆえに横に六合を覆い、三度帝都となった。[五] 周は龍のように興り、秦は虎のように睨んだ。そして大漢が天命を受けてここに都した時、[六] 上には東井の精星を悟り、下には河図の霊瑞に協和し、[七] 奉春君が策を建て、留侯がそれを推し進めて完成させ、[八] 天と人が合応して、大いなる明君を発現させ、ついに西を顧みて、実にここを都としたのである。[九] そこで秦嶺を望み、北の丘陵を見渡し、酆水・霸水を挟み、龍首山を拠る。[一0] 皇基を億載に図り、宏規を測って大いに起こし、高祖から始まり平帝に終わり、代々に飾りを増して崇高華麗とし、十二代の長きにわたり、故に窮奢極侈に至った。[一一] 金城を建ててその万雉に及び、深い周池を開いて淵とし、三条の広路を開き、十二の通門を立てた。[一二] 内には街路が四方に通じ、里門は千近くあり、九つの市が開かれ、商品は通りごとに区別され、人は振り返ることもできず、車は回転することもできず、城に満ち郭に溢れ、周囲に百の店舗が並び、赤い塵埃が四方から立ち込め、煙と雲が相連なった。[一三] こうして人口が多く豊かになり、娯楽は限りなく、都の人士と女たちは、五方の地とは異なり、遊士は公侯に比し、店舗は姫氏・姜氏の国よりも贅沢であった。[一四] 郷里の豪傑や遊侠の雄は、節義は平原君・孟嘗君を慕い、名声は春申君・信陵君に次ぎ、交わりを結び徒党を組み、その中を駆け巡った。[一五]

原文漢之西都,在於雍州,寔曰長安。[一]左據函谷﹑二崤之阻,表以*(泰)**[太]*華﹑終南之山。[二]右界褒斜﹑隴首之險,帶以洪河﹑涇﹑渭之川。[三]華實之毛,則九州之上腴焉;防禦之阻,則天下之奧區焉。[四]是故橫被六合,三成帝畿,[五]周以龍興,秦以虎視。及至大漢受命而都之也,[六]仰寤東井之精,俯協河圖之靈,[七] 奉春建策,留侯演成,[八]天人合應,以發皇明,乃眷西顧,寔惟作京。[九] 於是睎秦領,睋北阜,挾酆霸,據龍首。[一0]圖皇基於億載,度宏規而大起,肇自高而終平,世增飾以崇麗,歷十二之延祚,故窮奢而極侈。[一一]建金城其萬雉,呀周池而成淵,披三條之廣路,立十二之通門。[一二]內則街衢洞達,閭閻且千,九市開場,貨別隧分,人不得顧,車不得旋,闐城溢郭,傍流百廛,紅塵四合,煙雲相連。[一三]於是既庶且富,娛樂無疆,都人士女,殊異乎五方,游士擬於公侯,列肆侈於姬﹑姜。[一四]鄉曲豪俊遊俠之雄,節慕原﹑嘗,名亞春﹑陵,連交合觿,騁騖乎其中。[一五]

(注[一]前書音義に言う。「長安は本来秦の郷の名で、高祖がここに都した。」

原文(注[一]前書音義曰:「長安本秦之鄉名,高祖都焉。」

注[二]函谷は関の名。左伝に言う「崤に二陵あり、その南陵は夏后戯の墓、その北陵は文王の風雨を避けた所」、故に二崤という。太華は山。山海経に言う、華首の西六十里を太華という。終南は長安の南山。詩経に言う。「終南には何があるか。」注に云う。「終南は周の名山、中南である。」

原文注[二]函谷,關名也。左傳曰「崤有二陵,其南陵夏後戲之墓,其北陵文王之所避風雨」,故曰二崤。太華,山也,山海經曰,華首之西六十里曰太華。終南,長安南山也。詩曰:「終南何有。」注云:「終南,周之名山中南也。」

注[三]褒斜は谷の名、南口を褒、北口を斜といい、現在の梁州にある。隴首は山の名、現在の秦州にある。洪は大。

原文注[三]褒斜,谷名,南口曰褒,北口曰斜,在今梁州。隴首,山名,在今秦州。洪,大也。

注[四]華実の毛とは草木をいう。左伝に言う。「土の毛を食う。」前書に言う。「秦の地は九州の膏腴。」尚書雍州に「厥の田は上上」。防禦とは関禁をいう。楊雄の衛尉箴に言う。「山険を設置し、尽く防禦と為す。」奥は深い。秦の地の険固は、天下の深奥なる区域であると言う。

原文注[四]華實之毛謂草木也。左傳曰:「食土之毛。」前書曰:「秦地九州膏腴。」尚書雍州「厥田上上」。防禦謂關禁也。楊雄衛尉箴曰:「設置山險,盡爲防禦。」奧,深也。言秦地險固,爲天下深奧之區域。

注[五]前書音義に言う。「関西を横という。」被は及ぶに同じ。呂氏春秋に言う。「神明は六合に通ず。」高誘注に云う。「四方上下を六合という。」周礼に言う。「方千里を王畿という。」三成とは周・秦・漢が並びにここに都したことをいう。

原文注[五]前書音義曰:「關西爲橫。」被猶及也。呂氏春秋曰:「神明通於六合。」高誘注云:「四方上下爲六合。」周禮曰:「方千里曰王畿。」三成謂周﹑秦﹑漢並都之也。

注[六]龍興虎視は、盛んで強いことを喩えている。孔安国の尚書序に「漢室龍興」とある。易経に「虎視眈眈」とある。

原文注[六]龍興虎視,喻盛強也。孔安國尚書序曰:「漢室龍興。」易曰:「虎視眈眈。」

注[七]寤は曉わかると同じ意味。協は合うこと。高祖が霸上に至った時、五星が東井に集まった。また河図に「帝劉季、日角に勝を戴き、斗匈龍股、長七尺八寸。昌光軫より出で、五星井に聚まり、期の興、天は図を授け、地は道を出だし、予は兵鈐を張り劉季起こる」とある。東井は秦の分野であり、漢が秦に代わって関中に都することを明らかにしている。

原文注[七]寤猶曉也。協,合也。高祖至霸上,五星聚於東井。又河圖曰:「帝劉季,日角戴勝,斗匈龍股,長七尺八寸。昌光出軫,五星聚井,期之興,天授圖,地出道,予張兵鈐劉季起。」東井,秦之分野,明漢當代秦都關中。

注[八]奉春君は婁敬である。春は四時の始まりである。婁敬もまた遷都の策を最初に建てたので、この号で呼んだ。留侯は張良である。蒼頡篇に「演とは引くことなり」とある。

原文注[八]奉春君,婁敬也。春者,四時之始。婁敬亦始建遷都之策,故以號焉。留侯,張良也。蒼頡篇曰:「演者引也。」

注[九]天とは五星が東井に集まったことを指す。人とは婁敬らが進言したことを指す。皇明とは高祖を指す。西顧とは関に入ることを指す。詩経に「乃ち眷みて西を顧みる」とある。

原文注[九]天謂五星聚東井也。人謂婁敬等進說也。皇明謂高祖也。西顧謂入關也。詩云:「乃眷西顧。」

注[一0]睎は望むこと、音は希。睋は視ること、音は蛾。秦領は現在の藍田県東南にある。北阜は現在の三原県北にある高阜で、東西に横たわるものである。豊水は鄠県南山の豊谷から出る。霸水は藍田谷から出る。三秦記に「龍首山六十里、頭は渭水に入り、尾は樊川に達す」とある。傍にあることを挾といい、上にあることを據という。

原文注[一0]睎,望也,音希。睋,視也,音蛾。秦領在今藍田東南。北阜即今三原縣北有高阜,東西橫亘者是也。豐水出鄠縣南山豐谷。霸水出藍田谷。三秦記曰:「龍首山六十里,頭入渭水,尾達樊川。」在傍曰挾,在上曰據也。

注[一一]肇は始まり。高祖から始まり、平帝で終わる、十二代である。

原文注[一一]肇,始也。始自高祖,終於平帝,爲十二代也。

注[一二]金城は堅固であることを言う。張良が「金城千里」と言った。杜預が左伝に注して「方丈を堵と為し、三堵を雉と為す」と言う。字林に「呀は大空なり」とある。音は火加反。周礼に「国は方九里、旁三門」とある。各門に大路があるので、三條という。鄭玄が周礼に注して「天子の城は十二門、十二子に通ず」と言う。

原文注[一二]金城言堅固也。張良曰:「金城千里。」杜預注左傳云:「方丈爲堵,三堵爲雉。」字林曰:「呀,大空也。」音火加反。周禮:「國方九里,旁三門。」每門有大路,故曰三條。鄭玄注周禮云「天子城十二門,通十二子」也。

注[一三]字林に「閭は里の門なり。閻は裡の中門なり」とある。且千は多いことを言う。漢宮閣疏に「長安に九市あり、その六は道の西に、三は道の東にある」とある。隧は列肆の道である。鄭玄が礼記に注して「廛は市の物の邸舎なり」と言う。

原文注[一三]字林曰:「閭,里門也。閻,裡中門也。」且千,言多也。漢宮閣疏曰:「長安九市,其六在道西,三在道東。」隧,列肆道也。鄭玄注禮記曰:「廛,市物邸捨也。」

注[一四]論語に「子衛に適く、冉有僕たり。子曰く『庶いかな』。冉有曰く『既に庶し、又何をか加えん』。曰く『之を富まさん』」とある。詩経周頌に「我に恵みて疆かぎり無し」とある。疆は境である。詩経小雅に「彼の都の人士」とある。毛萇が注して「城郭の域を都と曰う」と言う。五方は四方及び中央を指す。前漢書に「秦の地は五方雑錯す」とある。鄭玄が周礼に注して「肆は市中の物を陳列する処なり」と言う。杜元凱が左伝に注して「姬・姜は大国の女なり」と言う。

原文注[一四]論語:「子適衛,冉有僕。子曰:『庶矣哉!』冉有曰:『既庶矣,又何加焉?』曰:『富之。』」詩周頌云:「惠我無疆。」疆,境也。詩小雅曰:「彼都人士。」毛萇注云:「城郭之域曰都。」五方謂四方及中央也。前書曰:「秦地五方雜錯。」鄭玄注周禮曰:「肆,市中陳物處也。」杜元凱注左傳云「姬﹑姜大國之女」也。

注[一五]豪俊遊俠は朱家・郭解・原涉の類を指す。原・嘗は平原君趙勝・孟嘗君田文を指し、春・陵は春申君黄歇・信陵君無忌を指す。いずれも賓客を招致し、天下に名高かった。

原文注[一五]豪俊遊俠謂朱家﹑郭解﹑原涉之類也。原﹑嘗*[謂]*平原君趙勝﹑孟嘗君田文也,春、陵謂春申君黃歇﹑信陵君無忌也,並招致賓客,名高天下也。)

もしその四郊を観察し、近県を浮遊すれば、南には杜・霸を望み、北には五陵を眺め、名都は城郭に対し、邑居は相承き、英俊の域、黻冕の興る所、冠蓋雲の如く、七相五公がある。州郡の豪傑、五都の貨殖とともに、三選七遷し、陵邑に充奉し、強幹弱枝を以て、上都を隆盛させて万国を観せしめるのである。封畿の内、その土千里、諸夏を逴犖し、その所有を兼ねる。その陽には崇山天を隠し、幽林穹谷、陸海の珍藏、藍田の美玉があり、商・洛はその隈に縁り、鄠・杜はその足に濱する。源泉は灌注し、陂池は交属し、竹林果園、芳草甘木、郊野の富、近蜀と号す。その陰には九嵕を冠とし、甘泉を陪え、霊宮その中に起こる。秦・漢の極観、淵・雲の頌歎、ここに存する。下には鄭・白の沃野、衣食の源があり、堤封五万、疆埸は綺麗に分かれ、溝塍は刻鏤の如く、原隰は龍鱗の如く、渠を決すれば雨を降らし、臿を荷えば雲を成し、五穀は穎を垂れ、桑麻は棻を敷く。東郊には通溝大漕があり、渭を潰し河に洞き、舟を山東に泛べば、淮・湖を控引し、海と波を通ず。西郊には上囿禁苑があり、林麓藪澤、陂池は蜀・漢に連なり、周牆を以て繚らされ、四百余里、離宮別館三十六所、神池霊沼、往々にして在り。その中には九真の麟、大宛の馬、黄支の犀、條枝の鳥があり、崑崙を踰え、巨海を越え、殊方異類、三万里に至る。

原文若乃觀其四郊,浮游近縣,則南望杜﹑霸,北眺五陵,名都對郭,邑居相承,英俊之域,黻冕所興,冠蓋如雲,七相五公。[一]與乎州郡之豪桀,五都之貨殖,三選七遷,充奉陵邑,蓋以強幹弱枝,隆上都而觀萬國。[二]封畿之內,厥土千里,逴犖諸夏,兼其所有。[三]其陽則崇山隱天,幽林穹谷,陸海珍藏,藍田美玉,商﹑洛緣其隈,鄠﹑杜濱其足,[四]源泉灌注,陂池交屬,竹林果園,芳草甘木,郊野之富,號曰近蜀。[五]其陰則冠以九嵕,陪以甘泉,乃有靈宮起乎其中。秦﹑漢之所極觀,淵﹑雲之所頌歎,於是乎存焉。[六]下有鄭﹑白之沃,衣食之源,堤封五萬,疆埸綺分,溝塍刻鏤,原隰龍鱗,決渠降雨,荷臿成雲,五穀垂穎,桑麻敷棻。[七]東郊則有通溝大漕,潰渭洞河,泛舟山東,控引淮﹑湖,與海通波。[八]西郊則有上囿禁苑,林麓藪澤,陂池連乎蜀﹑漢,繚以周牆,四百餘里,離宮別館,三十六所,神池靈沼,往往而在。[九] 其中乃有九真之麟,大宛之馬,黃支之犀,條枝之鳥,踰崑崙,越巨海,殊方異類,至三萬里。[一0]

注[一]浮游とは周流すること。杜・霸とは杜陵・霸陵を指し、城南にあるので南望する。五陵とは長陵・安陵・陽陵・茂陵・平陵を指し、渭北にあるので北眺する。いずれも人を移して県邑を置いたので、名都が城郭に対すると言う。蒼頡篇に「黻は綬なり。冕は冠なり」とある。移された者は皆豪右・富貲・吏二千石であったので、英俊冠蓋の人が多い。如雲は多いことを言う。詩経に「其の東門を出づれば、女有り雲の如し」とある。七相とは丞相の車千秋(長陵の人)、黄霸・王商(共に杜陵の人)、韋賢・平當・魏相・王嘉(共に平陵の人)を指す。五公とは田蚡(太尉、長陵の人)、張安世(大司馬、杜陵の人)、朱博(司空、杜陵の人)、平晏(司徒、平陵の人)、韋賞(大司馬、平陵の人)を指す。

原文(注[一]浮游謂周流也。杜﹑霸謂杜陵﹑霸陵,在城南,故南望也。五陵謂長陵﹑安陵﹑陽陵﹑茂陵﹑平陵,在渭北,故北眺也。並徙人以置縣邑,故雲名都對郭。蒼頡篇曰:「黻,綬也。冕,冠也。」其所徙者皆豪右﹑富貲﹑吏二千石,故多英俊冠蓋之人。如雲,言多也。詩曰:「出其東門,有女如雲。」七相謂丞相車千秋,長陵人,黃霸﹑王商,並杜陵人也,韋賢﹑平當﹑魏相﹑王嘉,並平陵人也。五公謂田蚡爲太尉,長陵人,張安世爲大司馬,朱博爲司空,並杜陵人,平晏爲司徒,韋賞爲大司馬,並平陵人也。

注[二]前漢書音義に「五都とは洛陽・邯鄲・臨淄・宛・成都を謂う」とある。三選とは三等の人を選ぶことで、吏二千石及び高貲の富人及び豪傑並びに兼併の家を諸陵に移すことを指す。強幹弱枝を以て、山園を奉ずるためだけではない。前漢書に見える。元帝以後は移さないので、七のみである。爾雅に「観は指示するなり」とある。「選」は或いは「徙」ともし、意味も通じる。

原文注[二]前書音義曰:「五都謂洛陽﹑邯鄲﹑臨淄﹑宛﹑成都也。」三選,選三等之人,謂徙吏二千石及高貲富人及豪桀並兼之家於諸陵,蓋以強幹弱枝,非獨爲奉山園也。見前書。自元帝已後不遷,故唯七焉。爾雅曰:「觀,指示也。」「選」或爲「徙」,義亦通。

注[三]前漢書に「秦の地は沃野千里、人以て富饒なり」とある。逴犖は超絶と同じ。逴の音は卓。犖の音は呂角反。諸夏は中国を指す。

原文注[三]前書曰:「秦地沃野千里,人以富饒。」逴犖猶超絕也。逴音卓。犖音呂角反。諸夏謂中國也。

注[四]穹谷は深い谷。東方朔が「漢興り、三河の地を去り、灞・滻の西に止まり、涇・渭の南に都す。此れ天下の陸海の地を謂う」と言った。范子計然に「玉は藍田より出づ」とある。商及び上洛は皆県名。隈は山の曲がった所。濱は近いと同じ。鄠・杜は二つの県名で、南山の足に近い。爾雅に「麓は山の足なり」とある。

原文注[四]穹谷,深谷。東方朔曰:「漢興,去三河之地,止灞﹑滻之西,都涇﹑渭之南,此謂天下陸海之地也。」范子計然曰:「玉出藍田。」商及上洛皆縣名。隈,山曲也。濱猶近也。鄠﹑杜,二縣名,近南山之足。爾雅云:「麓,山足也。」

注[五]孔安国が『尚書』に注釈して言うには、「水を堰き止めるものを陂、水を溜めるものを池という」。『前書』(漢書)に言うには、「巴・蜀の土地は肥沃で、山林・竹樹・野菜・果実の豊富さがある」。今、南山にもこれがあり、巴・蜀と似ているので、蜀に近いと言う。『爾雅』に言うには、「邑の外を郊といい、郊の外を野という」。

原文注[五]孔安國注尚書曰:「澤障曰陂,停水曰池。」前書曰:「巴﹑蜀土地肥美,有山林竹樹蔬食果實之饒。」今南山亦有之,與巴﹑蜀相類,故曰近蜀。爾雅曰:「邑外曰郊,郊外曰野。」

注[六]陰とは北をいう。九嵕山は特に高く険しいので、雲の冠と称される。甘泉山は雲陽の北にあり、秦の始皇帝はその上に林光宮を置き、漢ではさらに甘泉宮・益寿館・延寿館・通天台を建てたので、「秦・漢の極めて壮観なもの」と言う。王褒(字は子泉)が『甘泉頌』を作り、楊雄(字は子雲)が『甘泉賦』を作ったので、「泉・雲(王褒と楊雄)が賞賛した」と言う。

原文注[六]陰謂北也。九嵕山尤高峻,故稱冠雲。甘泉山在雲陽北,秦始皇於上置林光宮,漢又起甘泉宮﹑益壽﹑延壽館﹑通天台,故云「秦﹑漢之所極觀」。王褒字子泉,作甘泉頌,楊子雲作甘泉賦,故云「泉﹑雲頌歎」。

注[七]『史記』に言うには、「韓が水工の鄭国を遣わして秦を説得し、涇水を引いて渠とし、北山に沿って東に洛水に注ぎ、四万余頃の田を灌漑させ、鄭国渠と名付けた」。武帝の時、趙の中大夫の白公が上奏して渠を穿ち涇水を引き、谷口に始まり、櫟陽に入り、四千余頃の田を灌漑し、それゆえ白渠と名付けた。当時の人が歌った。「田はどこにあるか?池陽の谷口。鄭国が前、白渠が後。鍬を上げれば雲となり、渠を決すれば雨となる。涇水一石に、その泥数斗。灌漑しつつ肥やし、我が禾黍を育てる。京師に衣食を供え、億万の口を養う」。『前書』(漢書)に言うには、「天子の畿内は方千里、堤封は百万井」。音義に言うには、「堤とは土を積んで封の限りとすることをいう。音は丁奚反」。『広雅』に言うには、「埸は界なり」。音は亦。『周礼』に言うには、「夫の間に遂あり、十夫に溝あり」。『説文』に言うには、「塍は田の畦なり」。塍の音は繩。刻鏤とは交錯して鏤のようであることをいう。『爾雅』に言うには、「高く平らなものを原といい、低く湿ったものを隰という」。龍の鱗のような五色であると言う。五穀は、黍・稷・菽・麦・稻である。『小爾雅』に言うには、「禾の穂を穎という」。『小爾雅』に言うには、「敷は布なり」。棻は茂盛なること。音は芬。

原文注[七]史記曰:「韓使水工鄭國說秦,令引涇水爲渠,傍北山,東注洛,溉田四萬余頃,名曰鄭國渠。」武帝時,趙中大夫白公奏穿渠引涇水,首起谷口,尾入櫟陽,溉田四千餘頃,因名白渠。時人歌之曰:「田於何所?池陽谷口。鄭國在前,白渠起後。舉臿爲雲,決渠爲雨。涇水一石,其泥數鬥。且溉且糞,長我禾黍。衣食京師,億萬之口。」前書曰:「天子畿方千里,堤封百萬井。」音義曰:「堤謂積土爲封限也,音丁奚反。」廣雅曰:「埸,界也。」音亦。周禮曰:「夫閒有遂,十夫有溝。」說文曰:「塍,田畦也。」塍音繩。刻鏤謂交錯如鏤也。爾雅曰:「高平曰原,下濕曰隰。」言如龍鱗之五色也。五穀,黍、稷、菽、麥、稻也。*[小]*爾雅曰:「禾穗謂之穎。」*[小]*爾雅曰:「敷,布也。」棻,茂盛也,音芬。

注[八]漕は水運である。『蒼頡篇』に言うには、「潰は傍らに決するなり」。『前書』(漢書)に武帝が漕渠を穿ち渭水を通じたとある。『史記』に言うには、「滎陽けいようで下り、河を東南に引いて鴻溝とし、これをもって淮・泗と合流させた」。

原文注[八]漕,水運也。蒼頡篇曰:「潰,傍決也。」前書武帝穿漕渠通渭。史記曰:「滎陽下引河東南爲鴻溝,以與淮、泗會。」

注[九]上囿とは林苑をいう。『穀梁伝』に言うには、「林が山に属するものを麓という」。鄭玄が『周礼』に注釈して言うには、「水のない沢を藪という」。繚は繞くようなもの。音は了。『三輔黄図』に言うには、「上林に建章宮・承光宮など十一宮、平楽観・繭観など二十五があり、合わせて三十六所」。『三秦記』に言うには、「昆明池の中に神池があり、白鹿原に通じる」。『詩経』に言うには、「王は霊沼にあり」。

原文注[九]上囿謂林苑也。谷梁傳曰:「林屬於山爲麓。」鄭玄注周禮曰:「澤無水曰藪。」繚猶繞也,音了。三輔黃圖曰:「上林有建章、承光等一十一宮,平樂、繭觀等二十五,凡三十六所。」三秦記曰:「昆明池中有神池,通白鹿原。」詩曰:「王在靈沼。」

注[一〇]宣帝の詔に言うには、「九真郡が奇獣を献上した」。晋灼の『漢書』注に言うには、「駒の形、麟の色、牛の角」。武帝の時、李広利が大宛王の首を斬り、汗血馬を獲て来た。また黄支国が三万里の彼方から生きた犀を貢いだ。条支国は西海に臨み、大鳥がいて、卵は甕のようである。条支は安息と接しており、武帝の時、安息国が使者を発してこれを献上した。また言うには、「崑崙山は高さ二千五百里」。いずれも『前書』(漢書)に見える。

原文注[一0]宣帝詔曰:「九真郡獻奇獸。」晉灼漢書注云:「駒形,麟色,牛角。」武帝時,李廣利斬大宛王首,獲汗血馬來。又黃支國自三萬里貢生犀。條支國臨西海,有大鳥,卵如甕。條支與安息接,武帝時,安息國發使來獻之。又曰:「崑崙山高二千五百里。」並見前書。)

その宮殿は、天地を体象し、陰陽を経緯し、大地の霊気の正位に拠り、太微・紫宮の円方に倣った。中天に聳える華麗な闕を建て、山を冠する朱塗りの堂を豊かにし、珍奇な材木を用いて奇を究め、応龍の虹梁を高く掲げ、重なる棼橑を並べて翼を広げ、棟と桴を担いで高くそびえさせた。玉を彫って楹の礎とし、金璧を裁って璫を飾り、五色の豊かな光彩を放ち、輝きは明るく照り映えた。ここに左は階段、右は平らな道とし、重なる軒と三つの階、閨房は周囲に通じ、門戸は大きく開かれ、鐘虡を中庭に並べ、金人を端闈に立て、さらに崖を増して門限を横たえ、峻路に臨んで扉を開いた。離殿と別寢を巡らせ、高台と閑館で受け継ぎ、星のように輝き、紫宮を取り囲んだ。清涼・宣温・神仙・長年・金華・玉堂・白虎・麒麟といった区画はこのようであり、尽くすことはできない。盤を重ねて高く聳え、昇降する光は爛漫で、形も制もそれぞれ異なり、見るごとに異なる景観を呈し、茵に乗り輦に歩み、ただ休み宴するにふさわしい。後宮には掖庭・椒房、后妃の室、合歓・増成・安処・常寧・茞若・椒風・披香・発越・蘭林・蕙草・鴛鸞飛翔の列がある。昭陽殿は特に盛大で、孝成皇帝の時代に隆盛を極め、屋根は材木を見せず、壁は形を露わさず、藻繡で包み、綸連で絡め、随侯の明月珠がその間に錯落し、金釭が璧を銜み、これが列銭であり、翡翠と火斉が流れる光に英を含み、懸黎と垂棘、夜光珠がそこにある。ここに玄墀を叩き、玉階と彤庭、礝磩は彩りが細やかで、琳禄は青く輝き、珊瑚と碧樹が周囲の隅に生い茂る。紅羅は颯纚とし、綺組は繽紛で、精妙な輝きは華燭のようで、俯仰すること神の如し。後宮の称号は十四の位階があり、窈窕で繁華、次々に盛んになり貴ばれ、この列にいる者はおよそ百数を数える。左右の廷中には、朝堂に百官の位があり、蕭何・曹参・魏相・邴吉らがその上で謀議ぼうぎをめぐらす。佐命の臣は統を垂れ、輔翼の臣は化を成し、大漢の愷悌を流布し、亡秦の毒螫を蕩除した。故にこの人々に楽和の声を揚げさせ、画一の歌を作らせ、功績は祖宗に顕著で、恩沢は黎民に潤う。また天禄・石渠には、典籍の府があり、諄々と教える故老や名儒の師傅を命じ、六芸について講論し、同異を考合する。また承明・金馬には、著作の庭があり、大雅宏達の士がここに群れ、元元本本とし、周く見聞し、篇章を啓発し、秘文を校理する。周囲には鉤陳の位を配し、厳更の署で衛り、礼官の甲科を総べ、百郡の廉孝を集める。虎賁と贅衣、閹尹と閽寺、陛戟は百重に及び、それぞれに司る所がある。周囲の廬舎は千列をなし、巡察の道は綺羅のように錯綜する。輦路は巡り、長い道と飛閣がある。未央宮から桂宮に連なり、北は明光宮に及び長楽宮に至り、陵道を越えて西の城壁を超え、建章宮と混然一体となり外に属し、璧門の鳳闕を設け、上は柧稜に金雀を棲ませる。内には別風の嶕嶢があり、麗しく巧みに高く聳え、千の門を張り万の戸を立て、陰陽に順じて開閉する。ここに正殿は崔巍として、層構はその高さ、未央宮に臨み、駘蕩宮を経て馺娑宮に出、枍詣宮と天梁宮を貫き、上は反り返った軒で覆い、日影を反射して光を取り込む。神明台は鬱然と特出し、遂に高くそびえて上り、雲雨を大半も越え、虹霓が棼楣に回り帯び、たとえ軽迅で僄狡な者でも、なお愕然として階を上ろうとはしない。井干楼に攀じてもまだ半分に至らず、目は眩み心は迷い、欞檻を離れて後ろに寄りかかると、まるで墜落しそうでまた踏みとどまり、魂は恍惚として度を失い、回り道をして下がる。登って望むことに戒め懼れた後、下りて周りを彷徨い、甬道を歩いて紆余曲折し、また深く暗くて陽の光を見ない。飛闥を押し開いて上に出ると、まるで天の表を遊覧するようで、頼るものなく広々としている。前に唐中池、後に太液池があり、滄海の湯湯たる様を掬い、碣石に波濤を揚げ、神岳の嶈嶈たる様を激し、瀛洲と方壺を広げ、蓬萊が中央に起きる。ここに霊草は冬にも栄え、神木は叢生し、岩は峻く崔崒として、金石は崢嶸としている。仙掌を掲げて承露を支え、双立する金莖を抜き出し、埃壒の混濁を超越し、鮮やかな顥気の清英を帯びる。文成将軍の大いなる虚誕を駆り、五利将軍の刑罰を馳せ、松子・喬のような群仙の類が、時にここに遊び従うことを願うが、実に列仙の宿る館であり、我々人間の安寧の地ではない。

原文其宮室也,體象乎天地,經緯乎陰陽,據坤靈之正位,放*(泰)**[太]*、紫之圓方。[一]樹中天之華闕,豐冠山之朱堂,因瑰材而究奇,抗應龍之虹梁,列棼橑以布翼,荷棟桴而高驤。[二]雕玉瑱以居楹,裁金璧以飾璫,發五色之渥采,光爓朗以景彰。[三]於是左墄右平,重軒三階,閨房周通,門闥洞開,列鐘虡於中庭,立金人於端闈,仍增崖而衡閾,臨峻路而啟扉。[四] 徇以離殿別寢,承以崇台閒豫,煥若列星,紫宮是環。[五]清涼宣溫,神仙長年,金華玉堂,白虎麒麟,區宇若茲,不可殫論。[六]增盤業峨,登降照爛,殊形詭制,每各異觀,乘茵步輦,唯所息宴。[七]後宮則有掖庭椒房,后妃之室,合歡增成,安處常寧,茞若椒風,披香發越,蘭林蕙草,鴛鸞飛翔之列。[八]昭陽特盛,隆乎孝成,屋不呈材,牆不露形,裛以藻繡,絡以綸連,隨侯明月,錯落其閒,金釭銜璧,是爲列錢,翡翠火齊,流耀含英,懸黎垂棘,夜光在焉。[九]於是玄墀扣切,玉階彤庭,礝磩采緻,琳禄青熒,珊瑚碧樹,周阿而生。[一0]紅羅颯纚,綺組繽紛,精曜華燭,俯仰如神。[一一] 後宮之號,十有四位,窈窕繁華,更盛迭貴,處乎斯列者,蓋以百數。[一二] 左右廷中,朝堂百僚之位,蕭曹魏邴,謀謨乎其上。[一三]佐命則垂統,輔翼則成化,流大漢之愷悌,蕩亡秦之毒螫。[一四]故令斯人揚樂和之聲,作畫一之歌,功德著於祖宗,膏澤洽於黎庶。[一五]又有天祿石渠,典籍之府,命夫諄誨故老,名儒師傅,講論乎六蓺,稽合乎同異。[一六]又有承明金馬,著作之庭,大雅宏達,於茲爲腢,元元本本,周見洽聞,啟發篇章,校理秘文。[一七]周以鉤陳之位,衛以嚴更之署,總禮官之甲科,腢百郡之廉孝。[一八]虎賁贅衣,閹尹閽寺,陛戟百重,各有攸司。[一九]周廬千列,徼道綺錯。[二0] 輦路經營,修塗飛閣。[二一]自未央而連桂宮,北彌明光而戇長樂,陵墱道而超西墉,混建章而外屬,設璧門之鳳闕,上柧稜而棲金雀。[二二]內則別風之嶕嶢,眇麗巧而竦擢,張千門而立萬戶,順陰陽以開闔。[二三]爾乃正殿崔巍,層構厥高,臨乎未央,經駘蕩而出馺娑,洞枍詣與天梁,上反宇以蓋戴,激日景而納光。[二四]神明郁其特起,遂偃蹇而上躋,軼雲雨於太半,虹霓回帶於棼楣,雖輕迅與僄狡,猶愕眙而不敢階。[二五]攀井干而未半,目眴轉而意迷,捨欞檻而卻倚,若顛墜而復稽,魂怳怳以失度,巡迴塗而下低。[二六]既懲懼於登望,降周流以彷徨,步甬道以縈紆,又杳窱而不見陽。[二七]排飛闥而上出,若遊目於天表,似無依*(之)**[而]*洋洋。[二八]前唐中而後太液,攬滄海之湯湯,揚波濤於碣石,激神岳之嶈嶈,濫瀛洲與方壺,蓬萊起乎中央。[二九]於是靈草冬榮,神木叢生,巖峻崔崒,金石崢嶸。[三0]抗仙掌*(與)**[以]*承露,擢雙立之金莖,軼埃壒之混濁,鮮顥氣之清英。[三一]騁文成之丕誕,馳五利之所刑,庶松喬之腢類,時游從乎斯庭,實列仙之攸館,匪吾人之所寧。[三二]

(注[一]円は天を象り、方は地を象る。南北を経とし、東西を緯とする。楊雄の司空箴に「普く彼の坤霊に侔い、天と合を作す」とある。放は倣うこと。太・紫は太微・紫宮を指す。劉向の七略に「明堂の制:内に太室あり、紫宮に象る;南に出でて明堂、太微に象る」とある。春秋合誠図に「太微、その星十二、四方」とある。史記天官書に「これを環らして匡衛十二星、藩臣、皆曰く紫宮」とある。これが太微は方で紫宮は円である所以である。

原文(注[一]圓象天,方象地。南北爲經,東西爲緯。楊雄司空箴曰:「普彼坤靈,侔天作合。」放,像也。太、紫謂太微、紫宮也。劉向七略曰:「明堂之制:內有太室,像紫宮;南出明堂,像太微。」春秋合誠圖曰:「太微,其星十二,四方。」史記天官書曰:「環之匡衛十二星,藩臣,皆曰紫宮。」是太微方而紫宮圓也。

注[二]列子に「周穆王、中天の台を作る」とある。説文に「闕、門観なり」とある。前漢書に蕭何が東闕・北闕を作ったとある。豊は大きい。冠山とは山の上にあることをいう。埤蒼に「瑰瑋、珍奇なり」とある。広雅に「翼あるを応龍と曰う」とある。梁は応龍の形を作り、また曲がって虹のようである。説文に「棼、復屋の棟なり」とある。橑は椽。翼は屋の四阿。荷は負う。驤は挙げる。爾雅に「棟を桴と謂う」とある。音は浮。

原文注[二]列子曰:「周穆王作中天之台。」說文曰:「闕,門觀也。」前書蕭何作東闕、北闕。豐,大也。冠山謂在山之上也。埤蒼曰:「瑰瑋,珍奇也。」廣雅曰:「有翼曰應龍。」梁作應龍之形,而又曲如虹也。說文曰:「棼,復屋之棟。」橑,椽也。翼,屋之四阿也。荷,負也。驤,舉也。爾雅曰:「棟謂之桴。」音浮。

注[三]広雅に「磌、礩なり」とある。音は田。「瑱」は「磌」と通ず。楹は柱。玉を彫って礩とし、柱を承ける。上林賦に「華榱璧璫」とある。韋昭注に「璫、榱頭なり」とある。渥は光潤。爓の音は艷。

原文注[三]廣雅曰:「磌,礩也。」音田。「瑱」與「磌」通。楹,柱也。雕玉爲礩以承柱也。上林賦曰:「華榱璧璫。」韋昭注曰:「璫,榱頭也。」渥,光潤也。爓音艷。

注[四]摯虞の決疑要注に「腆なる者は階級と為し、平なる者は文磚を以て相い次ぐ」とある。「域」もまた「腆」と作る。階級が腆然としていることを言う。音は七則反。王逸の楚辞注に「軒、楼板なり」とある。周礼夏后氏に「世室九階」とあり、鄭玄注に「南面三階、三面各二」と云う。爾雅に「宮中の門を闈と謂い、小なる者を閨と謂う」とある。広く鐘を懸けるためである。史記に「秦始皇、天下の兵器を収め、之を咸陽に聚め、銷して以て金人十二と為し、宮中に置く」とある。端闈は宮の正門。三輔黄図に「秦宮殿端門四達、以て紫宮を則る」とある。仍は因る。衡は横たわる。閾は門限。

原文注[四]摯虞決疑要注曰:「腆者爲階級,平者以文磚相亞次也。」「域」亦作「腆」。言階級勒腆然,音七則反。王逸楚辭注曰:「軒,樓板也。」周禮夏後氏「世室九階」,鄭玄注云「南面三階,三面各二」也。爾雅曰:「宮中之門謂之闈,小者謂之閨。」廣以懸鐘也。史記:「秦始皇收天下兵器,聚之咸陽,銷以爲金人十二,置宮中。」端闈,宮正門也。三輔黃圖曰:「秦宮殿端門四達,以則紫宮。」仍,因也。衡,橫也。閾,門限。

注[五]徇は巡るが如し。崇は高い。閒の音は閒。煥は明るい。周回する宮館が、明るく列星が紫宮を環繞するようであることを言う。環は韻を協わせて音は宦。

原文注[五]徇猶繞也。崇,高也。閒音閒。煥,明也。言周回宮館,明若列星之環繞紫宮也。環,協韻音宦。

注[六]三輔黄図に「未央宮に清涼殿・宣室殿・中温室殿・金華殿・大玉堂殿・中白虎殿・麒麟殿あり、長楽宮に神仙殿あり」とある。殫は尽くす。

原文注[六]三輔黃圖曰:「未央宮有清涼殿、宣室殿、中溫室殿、金華殿、大玉堂殿、中白虎殿、麒麟殿,長樂宮有神仙殿。」殫,盡也。

注[七]「増」は重ねる意。「盤」は屈曲する意。「業峨」は高い意。「業」は音が五臘反、「峨」は音が我。「詭」は異なる意。「茵」は敷物。人を引いて運ぶ車を輦という。

原文注[七]增,重也。盤,屈也。業峨,高也。業音五臘反。峨音我。詭,異也。茵,褥也。駕人曰輦。

注[八]『漢官儀』に「婕妤以下は皆掖庭に住む」とある。『三輔黄図』に「長楽宮に椒房殿がある」とある。『前書』に「班婕妤は増成舎に住んだ」とある。桓譚『新論』に「董賢の妹が昭儀となり、住む舎を椒風と号した」とある。『漢宮閣名』に長安に披香殿・鴛鸞殿・飛翔殿がある。その他は詳らかでない。

原文注[八]漢官儀曰:「婕妤以下皆居掖庭。」三輔黃圖曰:「長樂宮有椒房殿。」前書曰:「班婕妤居增成捨。」桓譚新論曰:「董賢女弟爲昭儀,居捨號曰椒風。」漢宮閣名長安有披香殿、鴛鸞殿、飛翔殿。余未詳。

注[九]昭陽殿は成帝の趙昭儀が住んだ殿。『説文』に「裛は纏うこと」とある。音は於業反。「綸」は糾、青い糸の綬。「綸」は或いは「編」と作る。『淮南子』に「随侯の珠、和氏の璧」とある。高誘注に「随侯が行って大蛇の傷を見て、薬を塗った。後に蛇が珠を銜えて報いたので、随侯珠と言う」とある。『説文』に「釭は轂の鉄」とある。音は江、また音は工。黄金で釭を作り、その中に璧を銜ませ、壁帯に納め、行列のように歴々と銭のようであることを言う。『前書』に「昭陽殿の壁帯には、往々にして黄金の釭があり、藍田の玉璧を函に収め、明珠と翠羽で飾った」とある。『異物誌』に「翠鳥は形が燕のようで、赤くて雄を翡、青くて雌を翠といい、その羽で帷帳を飾ることができる」とある。『韻集』に「火斉は珠である」とある。『戦国策』に「応侯が秦王に『梁には懸黎がある』と言った」とある。『左伝』に「晋の荀息が垂棘の璧を以て虞に道を借りることを請うた」とある。懸黎・垂棘の玉は、ともに夜に光輝があるという。

原文注[九]昭陽殿,成帝趙昭儀所居也。說文曰:「裛,纏也。」音於業反。綸,糾,青絲綬也。「綸」或作「編」。淮南子曰:「隨侯之珠,和氏之璧。」高誘注云:「隨侯行見大蛇傷,以藥傅之。後蛇銜珠以報之,因曰隨侯珠。」說文曰:「釭,轂鐵也。」音江,又音工。謂以黃金爲釭,其中銜璧,納之於*(璧)**[壁]*帶,爲行列歷歷如錢也。前書曰:「昭陽殿璧帶,往往爲黃金釭,函藍田玉璧,明珠翠羽飾之。」異物誌曰:「翠鳥形如燕,赤而雄曰翡,青而雌曰翠,其羽可以飾幃帳。」韻集曰:「火齊,珠也。」戰國策曰:「應侯謂秦王曰『梁有縣黎』。」左傳曰:「晉荀息請以垂棘之璧假道於虞。」言懸黎、垂棘之玉,並夜有光輝也。

注[一〇]『前書』に「昭陽殿の中庭は彤朱で、殿上は髹漆である」とある。髹の音は休。漆で黒く塗るので玄という。墀は殿上の地。また「切れ目は皆銅沓で、黄金を塗り、白玉の階」とある。扣の音は口。碝・磩、琳・珉は、いずれも玉に次ぐ石。筻の音は而兗反、磩の音は戚。彩致はその文理が密なこと。青熒はその光色。『漢武故事』に「武帝が神堂を建て、玉樹を植え、珊瑚を葺いて枝とし、碧玉を葉とした」とある。『淮南子』に「崑崙山に碧樹がその北にある」とある。高誘注に「碧は青石である」とある。珠玉を仮に樹として作り、殿の曲に植えたことを言う。阿は曲がりくねった所。

原文注[一0]前書曰:「昭陽殿中庭彤朱,而殿上髹漆。」髹音休。漆黑故曰玄。墀,殿上地也。又曰;「切皆銅沓,黃金塗,白玉階。」扣音口。碝、磩,琳、珉,並石次玉者。筻音而兗反,磩音戚。彩致,其文理密也。青熒,其光色也。漢武故事曰:「武帝起神堂,植玉樹,葺珊瑚爲枝,以碧玉爲葉。」淮南子曰:「崑崙山有碧樹在其北。」高誘注云:「碧,青石也。」謂以珠玉假爲樹而植之於殿曲。阿,曲也。

注[一一]薛綜の『西京賦』注に「颯纚は長袖の様。颯の音は素合反、纚の音は山綺反」とある。綺は文様のある絹。組は綬。繽紛は盛んな様。燭は照らすこと。精彩ある華やかな飾りが照耀することを言う。『戦国策』で張儀が秦王に言う「あの周・鄭の女は、粉白く黛黒くして衢に立ち、知って見る者でなければ神と思ったであろう」。

原文注[一一]薛綜注西京賦曰:「颯纚,長袖貌。颯音素合反,纚音山綺反。」綺,文繒也。組,綬也。繽紛,盛魍。燭,照也。言精彩華飾照耀也。戰國策張儀謂秦王曰:「彼周、鄭之女,粉白黛黑立於衢,非知而見之者以爲神也。」

注[一二]『前書』に「漢が興り、秦の称号を因み、正嫡を皇后と称し、妾は皆夫人と称した。凡そ十四等あり、昭儀・婕妤・娙娥・傛華・美人・八子・充衣・七子・良人・長使・少使・五官・順常があり、これが十三等である。また無涓・共和・娛霊・保林・良使・夜者があり、秩禄は同じで、合わせて一等とし、合計十四位である」とある。窈窕は幽かでしとやかなこと。繁華は美しく麗しいこと。百数は百をもって数えること。

原文注[一二]前書曰:「漢興,因秦之稱號,正嫡稱皇后,妾皆稱夫人。凡十四等,有昭儀、婕妤、娙娥、傛華、美人、八子、充衣、七子、良人、長使、少使、五官、順常,是爲十三等;又有無涓、共和、娛靈、保林、良使、夜者,秩祿同,共爲一等,合十四位也。」窈窕,幽閒也。繁華,美麗也。百數謂以百而數之也。

注[一三]蕭何と曹参はともに沛の人、魏相は字を弱翁といい済陰の人、邴吉は字を少卿といい魯国の人で、いずれも丞相となった。

原文注[一三]蕭何、曹參並沛人,魏相字弱翁,濟陰人,邴吉字少卿,魯國人,並爲丞相。

注[一四]李陵の書に「その余の佐命立功の士」とある。司馬相如に「統を垂れて理に順い、継ぐことが易い」とある。統は業。『礼記』に「保者はその身を慎んで以てこれを輔翼する」とある。愷は楽しみ。悌は易しいこと。楊雄の『長楊賦』に「今朝廷は愷悌を出し、簡易を行なう」とある。王褒の『四子講徳論』に「秦の位に処り政を任ずる者は、並びに毒螫を施す」とある。『前書』に「孝恵・高後の時、海内は戦国の苦しみから離れることができ、君臣ともに無為を欲し、天下は晏然として衣食が滋殖した」とある。また「近く漢の相を観るに、高祖は基を開き、蕭・曹が冠たる。孝宣は中興し、丙・魏に声あり」とある。この時は黜陟に序があり、衆職は修理され、公卿は多くその位に称し、海内は礼譲によって興った。

原文注[一四]李陵書曰:「其餘佐命立功之士。」司馬相如曰:「垂統理順易繼也。」統,業也。禮記曰:「保者慎其身以輔翼之。」愷,樂也。悌,易也。楊雄長楊賦曰:「今朝廷出愷悌,行簡易。」王褒四子講德論曰:「秦之處位任政者,並施毒螫。」前書曰:「孝惠、高後之時,海內得離戰國之苦,君臣俱欲無爲,而天下晏然,衣食滋殖。」又曰:「近觀漢相,高祖開基,蕭、曹爲冠。孝宣中興,丙、魏有聲。」是時黜陟有序,觿職修理,公卿多稱其位,海內興於禮讓也。

注[一五]『孔叢子』に「古の帝王は、功成って楽を作り、その功の善き者はその楽和らぐ」とある。『前書』に、蕭何が薨じ、曹参が代わると、百姓が歌って「蕭何が法を作り、較(明)らかに画一の如し、曹参が代わり、守って失わず」と言ったとある。祖宗は高祖・中宗を指す。

原文注[一五]孔叢子曰:「古之帝王,功成作樂,其功善者其樂和。」前書曰,蕭何薨,曹參代之,百姓歌之曰:「蕭何爲法,較若畫一,曹參代之,守而勿失。」祖宗謂高祖、中宗也。

注[一六]『三輔故事』に「天禄・石渠はともに閣の名で、未央宮の北にあり、秘書を閣する」とある。諄誨は殷勤に教え告げること。『詩』大雅に「爾に諄諄として誨う」とある。鄭玄注に「我が王に教え告ぐるに、口語諄諄然たり」とある。諄の音は之純反。六蓺は詩・書・礼・楽・易・春秋。稽は考へる。『前書』に、甘露年中に諸儒に詔して五経の同異を講ぜしめ、蕭望之にその議を平らかに奏せしめたとある。

原文注[一六]三輔故事曰:「天祿、石渠並閣名,在未央宮北,以閣秘書。」諄誨謂殷勤教告也。詩大雅曰:「誨爾諄諄。」鄭玄注云:「我教告王,口語諄諄然。」諄音之純反。六蓺謂詩、書、禮、樂、易、春秋也。稽,考也。前書,甘露中詔諸儒講五經同異,令蕭望之平奏其議。

注[一七]承明は殿前の廬。金馬は署の名。門に銅馬があるので金馬門と名付け、待詔者は皆ここに住んだ。宏もまた大なる意。元その元、本その本。秘文は秘書。『孝経鉤命決』に「丘、秘文を掇(拾)う」とある。

原文注[一七]承明,殿前之廬也。金馬,署名也。門有銅馬,故名金馬門,待詔者皆居之。宏亦大也。元其元,本其本。秘文,秘書也。孝經鉤命決曰「丘掇秘文」也。

注[一八]周は巡らすこと。『前書』音義に「鉤陳は紫宮の外星で、宮衛の位もまたこれを象る」とある。厳更の署は夜行いの司。礼官は奉常で、博士が試策を掌り、その優劣を考へて甲乙の科とし、すなわち『前書』に「太常、公孫弘を下第とす」とあるのがこれ。百郡と言うのは全数を挙げたもの。『前書』にまた「廉を興し孝を挙ぐ」とある。

原文注[一八]周,環也。前書音義曰:「鉤陳,紫宮外星也,宮衛之位亦象之。」嚴更之署,行夜之司也。禮官,奉常也,有博士掌試策,考其優劣,爲甲乙之科,即前書曰「太常以公孫弘爲下第」是也。言百郡,舉全數。前書又曰:「興廉舉孝。」

注[一九]虎賁は宿衛の臣。贅衣は衣を主る官。贅は綴る意、音は之鋭反。『尚書』に「衣を綴り虎賁」とある。閹尹・閽寺はともに宦官、周礼に閹人・寺人有り。陛戟は陛に戟を執ること。百重は多いことを言う。攸は所。司は主る、協韻で音は伺。

原文注[一九]虎賁,宿衛之臣。贅衣,主衣之官。贅,綴也,音之銳反。尚書曰:「綴衣虎賁。」閹尹、閽寺並宦官,周禮有閹人、寺人。陛戟,執戟於陛也。百重,言多也。攸,所也。司,主也,協韻音伺。

注[二〇]廬は宿衛の廬を言い、宮に周る。千列は多いことを言う。『史記』に「衛令が周廬と言い、卒を設けて甚だ謹む」とある。徼道は徼巡の道。綺錯は交錯。『前書』に「中尉は京師を徼巡することを掌る」とある。

原文注[二0]廬謂宿衛之廬,周於宮也。千列,言多也。史記:「衛令曰周廬,設卒甚謹。」徼道,徼巡之道。綺錯,交錯也。前書曰「中尉掌徼巡京師」也。

注[二一]『前書』音義に「輦道は閣道である」とある。「塗」もまた「途」で、古字は通用する。

原文注[二一]前書音義曰:「輦道,閣道也。」「塗」亦「塗」也,古字通用。

注[二二]未央宮は西にあり、長楽宮は東にあり、桂宮、明光宮は北にある。飛閣が互いに連なっていることを言う。墱は階段の段差で、音は丁鄧反。墉は城壁。混は同じくする。建章宮は城の西にある。屬は連なる。前書に言う:「建章宮、その東には鳳闕があり、高さ二十余丈、その南には璧門の類がある。」説文に言う「柧稜は、殿堂の最も高いところ。」柧の音は孤、稜の音は力登反。その上に金雀が棲んでいる。三輔故事に言う「建章宮の闕の上に銅鳳皇がある」、これが金雀である。

原文注[二二]未央宮在西,長樂宮在東,桂宮、明光宮在北,言飛閣相連也。墱,陛級也,音丁鄧反。墉,城也。混,同也。建章宮在城西。屬,連也。前書曰:「建章宮,其東則鳳闕,*(門)*高二十餘丈,其南有璧門之屬。」說文曰「柧稜,殿堂上最高之處也。」柧音孤,稜音力登反。其上棲金雀焉。三輔故事曰「建章宮闕上有銅鳳皇」,即金雀也。

注[二三]三輔故事に言う:「建章宮の東に折風闕がある。」関中記に言う:「折風は別風ともいう。」嶕嶢は高いこと。嶕の音は焦、嶢の音は堯。前書に言う、建章宮は千門萬戸をなす。閉じることを陰といい、開くことを陽という。易に言う:「戸を閉じることを坤といい、戸を開くことを乾という。」

原文注[二三]三輔故事曰:「建章宮東有折風闕。」關中記曰:「折風一名別風。」嶕嶢,高也。嶕音焦,嶢音堯。前書曰,建章宮度爲千門萬戶。合謂之陰,開謂之陽。易曰:「闔戶謂之坤,辟戶謂之干。」

注[二四]正殿は前殿のこと。層は重なる。未央宮に臨むとは、高さの極みを言う。関中記に建章宮には駘蕩、馺娑、枍詣の殿がある。天梁も宮殿の名。駘の音は殆、蕩の音は蕩。馺の音は素合反、娑の音は素可反。枍の音は烏計反。小雅に言う:「蓋戴は覆うこと。」反宇とは飛簷が上に反り返ること。激日とは日影が殿内に激しく差し込むこと。

原文注[二四]正殿即前殿也。層,重也。臨乎未央,言高之極也。關中記建章宮有駘蕩、馺娑、枍詣殿。天梁亦宮名也。駘音殆,蕩音蕩。馺音素合反,娑音素可反。枍音烏計反。小雅曰:「蓋戴,覆也。」反宇謂飛簷上反也。激日謂日影激入於殿內也。

注[二五]神明は台の名。躋は昇る。偃蹇は高い様子。軼は越える。前書音義に言う:「凡そ数、三分の二を太半という。」説文に言う:「棼は棟。」爾雅に言う:「楣を梁という。」郭璞の注に:「門戸上の横梁。」方言に言う:「僄は軽い。」音は匹妙反。鄭玄の礼記注に:「狡は速い。」字書に言う:「愕は驚く。」音は五各反。字林に言う:「眙は驚いた様子。」音は丑吏反。

原文注[二五]神明,台名也。躋,升也。偃蹇,高貌也。軼,過也。前書音義曰:「凡數三分有二爲太半。」說文曰:「棼,棟也。」爾雅曰:「楣謂之梁。」郭璞云:「門戶上橫樑也。」方言曰:「僄,輕也。」音匹妙反。鄭玄注禮記曰:「狡,疾也。」字書曰:「愕,驚也。」音五各反。字林曰:「眙,驚貌也。」音丑吏反。

注[二六]井干は楼の名。前書に言う:「武帝が井干楼を作り、高さ五十丈、輦道が連なっている。」蒼頡篇に言う:「眴は視界がはっきりしない。」音は眩。欞檻は楼上の欄干。欞の音は零。稽は留まる。

原文注[二六]井干,樓名也。前書曰:「武帝作井干樓,高五十丈,輦道相屬焉。」蒼頡篇曰:「眴,視不明也。」音眩。欞檻,樓上欄楯也。欞音零。稽,留也。

注[二七]淮南子に言う:「甬道が相連なる。」高誘の注に:「甬道は飛閣復道。」広雅に言う:「窈窱は深い。」「杳」は「窈」と通じる。窱の音は它鳥反。陽は明るい。先に登って望んだ後、復道を下って巡る。宮殿は深く、また明るいところが見えない。

原文注[二七]淮南子曰:「甬道相連。」高誘注云:「甬道,飛閣復道也。」廣雅曰:「窈窱,深也。」「杳」與「窈」通。窱音它鳥反。陽,明也。既創前之登望,乃下巡於復道,宮宇深邃,又不見明者。

注[二八]飛闥は閣上の門。王逸の楚辞注に:「洋洋は帰る所がない様子。」

原文注[二八]飛闥,閣上門也。王逸注楚辭曰:「洋洋,無所歸魍。」

注[二九]前書に言う:「建章宮、その西の唐中は数十里。」音義に言う:「唐は庭。」その北の太液池の中に蓬萊、方丈、瀛洲、壺梁があり、海中の神山に似せている。湯湯は流れる様子。蒼頡篇に言う:「濤は大波。」碣石は海辺の山。説文に言う:「濫は泛ぶ。」列子に言う:「海の中に神山あり、一つは岱輿、二つは員嶠、三つは方壺、四つは瀛洲、五つは蓬萊。」

原文注[二九]前書曰:「建章宮,其西唐中數十里。」音義曰:「唐,庭也。」其北太液池中有蓬萊、方丈、瀛洲、壺梁,像海中神山。湯湯,流貌也。蒼頡篇曰:「濤,大波也。」碣石,海畔山也。說文曰:「濫,泛也。」列子曰:「海中有神山,一曰岱輿,二曰員嶠,三曰方壺,四曰瀛洲,五曰蓬萊。」

注[三0]霊草、神本は不死薬を指す。史記に言う:「海中の神山に、仙人の不死薬がある。」崢嶸は高く険しい。崔の音は徂回反、崒の音は才律反。崢の音は仕耕反、嶸の音は宏。

原文注[三0]靈草、神本謂不死藥也。史記曰:「海中神山,仙人不死藥在焉。」崢嶸,高峻也。崔音徂回反,崒音才律反。崢音仕耕反,嶸音宏。

注[三一]前書に言う、武帝の時に銅柱の承露仙人掌などを作った。三輔故事に言う:「建章宮の承露盤は、高さ二十丈、太さ七囲、銅で作る。上に仙人の掌があって露を受け、玉屑と和して飲む。」金莖は銅柱。軼は越える。埃壒は塵。鮮は清らか。説文に言う:「顥は白い様子。」音は皓。

原文注[三一]前書曰,武帝時作銅柱承露僊人掌之屬。三輔故事云:「建章宮承露盤,高二十丈,大七圍,以銅爲之。上有仙人掌承露,和玉屑飲之。」金莖即銅柱也。軼,過也。埃壒,塵也。鮮,絜也。說文曰:「顥,白魍。」音皓。

注[三二]丕は大きい。誕は欺く。前書に言う:「斉人の李少翁が方士として皇帝に謁見し、文成将軍に任じられ、皇帝に言う:『神と通じようとするならば、宮室や衣服が神を象っていなければ、神物は来ない。』そこで甘泉宮を作り、中に台を設け、天、地、泰一の諸鬼神を描き、祭具を置いて天神を招いた。」また言う:「膠東人の欒大は方略が多く大言を吐くことを敢えてし、言う:『臣は常に東海に行き、安期、羨門の類を見た。』そこで五利将軍に任じられた。」刑は法。列仙伝に言う:「赤松子は、神農の時の雨師で、水玉を服して神農を教えた。」また言う:「王子喬は、周の霊王の太子晋で、道士の浮丘公が嵩山に連れ上げた。」

原文注[三二]丕,大也。誕,欺也。前書曰:「齊人李少翁以方士見上,上拜爲文成將軍,言於上曰:『即欲與神通,宮室被服非象神,神物不至。』乃作甘泉宮,中爲台,畫天、地、泰一諸鬼神,而置祭具以致天神。」又曰:「膠東人欒大多方略而敢爲大言,言曰:『臣常往東海中,見安期、羨門之屬。』乃拜爲五利將軍。」刑,法也。列仙傳曰:「赤松子者,神農時雨師也,服水玉以教神農。」又曰:「王子喬者,周靈王太子晉,道士浮丘公接以上嵩山。」)

そこで盛大な遊楽の壮観を展開し、上林苑で大いに武事を奮い起こし、これによって戎狄を威圧し誇示し、威勢を輝かせて軍事演習を行った。荊州の者に命じて鳥を追い立てさせ、梁野の者に詔して獣を駆り立てさせると、毛皮の獣は内に満ち、飛ぶ鳥は上を覆い、翼を接し足を並べて、禁苑の林に集まり屯した。水衡都尉の虞人がその営地の標識を整え、種類別に群れを分け、部曲ぶきょくごとに部署を定めた。網は連なり綱を張り、山を覆い野を絡め、兵卒を並べて周囲を取り囲み、星のように散らばり雲のように広がった。そこで天子は鑾輿に乗り法駕を整え、群臣を率い、飛廉館を過ぎ、苑門に入った。そして酆・鎬を巡り、上蘭観を経て、六軍が甲冑を発し、百獣が驚き尽くし、震動し光り輝き、雷のごとく奔り電のごとく激しく、草木は地を塗り、山や淵がひっくり返るようで、その十二三を踏みつけ轢き、怒りを抑えて少し休んだ。

原文(段落全体)爾乃盛娛游之壯觀,奮大武乎上囿,因茲以威戎誇狄,耀威而講事。[一]命荊州使起鳥,詔梁野而驅獸,毛腢內闐,飛羽上覆,接翼側足,集禁林而屯聚。[二] 水衡虞人,理其營表,種別腢分,部曲有署。[三]罘罔連紘,籠山絡野,列卒周幣,星羅雲布。[四]於是乘*(鑾)*輿備法駕,帥腢臣,披飛廉,入苑門。[五] 遂繞酆鎬,歷上蘭,六師發冑,百獸駭殫,震震爚爚,雷奔電激,草木塗地,山淵反覆,蹂蹸其十二三,乃拗怒而少息。[六]爾乃期門佽飛,列刃鑽鍭,要趹追蹤,鳥驚觸絲,獸駭值鋒,機不鸪掎,弦不再控,矢無單殺,中必疊雙,颮颮紛紛,矰繳相纏,風毛雨血,灑野蔽天。[七]平原赤,勇士厲,譸狖失木,豺狼攝竄。[八]爾乃移師趨險,並蹈潛穢,窮虎奔突,狂兕觸蹶。[九]許少施巧,秦成力折,掎僄狡,診猛噬,脫角挫脰,徒搏獨殺。[一0]挾師豹,拖熊螭,頓犀犛,曳豪羆,超迥壑,越峻崖,蹶巉巖,鉅石隤,松柏仆,叢林摧,草木無餘,禽獸殄夷。[一一]於是天子乃登屬玉之館,歷長楊之榭,覽山川之體埶,觀三軍之殺獲,原野蕭條,目極四裔,禽相鎮厭,獸相枕藉。[一二]然後收禽會觿,論功賜胙,陳輕騎以行炰,騰酒車而斟酌,割鮮野食,舉燧命爵。[一三] 饗賜畢,勞逸齊,大輅鳴鸞,容與裴回,集乎豫章之宇,臨乎昆明之池。[一四] 左牽牛而右織女,似雲漢之無崖,茂樹蔭蔚,芳草被堤,蘭茞髮色,曄曄猗猗,若摛錦布繡,燭耀乎其陂。[一五]玄鶴白鷺,黃鵠鵁鸛,鶬鴰鴇鶂,鳧鷖鴻鴈,朝發河海,夕宿江漢,沉浮往來,雲集霧散。[一六]於是後宮乘輚路,登龍舟,張鳳蓋,建華旗,袪黼帷,鏡清流,靡微風,澹淡浮。[一七]棹女謳,鼓吹震,聲激越,謍厲天,鳥腢翔,魚窺淵。[一八]招白閒,下雙鵠,揄文竿,出比目。

そこで期門・佽飛の兵が刃を並べ矢を集め、疾走するものを遮り跡を追い、鳥は驚いて網に触れ、獣は恐れて刃に当たり、弩の牙は一度も引かず、弦は二度と引き絞らず、矢は一発で殺さず、当たれば必ず二匹重ねて、ひしめき合い乱れ飛び、矰繳が互いに絡み合い、風のように毛が舞い雨のように血が降り、野に撒き散らし天を覆った。平原は赤く染まり、勇士は勇み立ち、狒狒は木を失い、豺狼は恐れて逃げ隠れた。そこで軍勢を移して険しい場所へ向かい、ともに潜む藪の中へ踏み込み、窮した虎は奔り突き、狂った犀は突進して跳ねた。許少は巧みを施し、秦成は力を尽くして折り、素早い者を引き留め、猛々しく噛みつく者を制し、角を外し首を挫き、素手で格闘し単独で仕留めた。師豹を脇に抱え、熊や螭を引きずり、犀や犛牛を倒し、豪猪や羆を引きずり、深い谷を飛び越え、険しい崖を越え、険しい岩を踏み砕き、大きな石を崩し、松柏を倒し、叢林を押し倒し、草木は残らず、禽獣は絶滅した。

原文(段落全体)爾乃盛娛游之壯觀,奮大武乎上囿,因茲以威戎誇狄,耀威而講事。[一]命荊州使起鳥,詔梁野而驅獸,毛腢內闐,飛羽上覆,接翼側足,集禁林而屯聚。[二] 水衡虞人,理其營表,種別腢分,部曲有署。[三]罘罔連紘,籠山絡野,列卒周幣,星羅雲布。[四]於是乘*(鑾)*輿備法駕,帥腢臣,披飛廉,入苑門。[五] 遂繞酆鎬,歷上蘭,六師發冑,百獸駭殫,震震爚爚,雷奔電激,草木塗地,山淵反覆,蹂蹸其十二三,乃拗怒而少息。[六]爾乃期門佽飛,列刃鑽鍭,要趹追蹤,鳥驚觸絲,獸駭值鋒,機不鸪掎,弦不再控,矢無單殺,中必疊雙,颮颮紛紛,矰繳相纏,風毛雨血,灑野蔽天。[七]平原赤,勇士厲,譸狖失木,豺狼攝竄。[八]爾乃移師趨險,並蹈潛穢,窮虎奔突,狂兕觸蹶。[九]許少施巧,秦成力折,掎僄狡,診猛噬,脫角挫脰,徒搏獨殺。[一0]挾師豹,拖熊螭,頓犀犛,曳豪羆,超迥壑,越峻崖,蹶巉巖,鉅石隤,松柏仆,叢林摧,草木無餘,禽獸殄夷。[一一]於是天子乃登屬玉之館,歷長楊之榭,覽山川之體埶,觀三軍之殺獲,原野蕭條,目極四裔,禽相鎮厭,獸相枕藉。[一二]然後收禽會觿,論功賜胙,陳輕騎以行炰,騰酒車而斟酌,割鮮野食,舉燧命爵。[一三] 饗賜畢,勞逸齊,大輅鳴鸞,容與裴回,集乎豫章之宇,臨乎昆明之池。[一四] 左牽牛而右織女,似雲漢之無崖,茂樹蔭蔚,芳草被堤,蘭茞髮色,曄曄猗猗,若摛錦布繡,燭耀乎其陂。[一五]玄鶴白鷺,黃鵠鵁鸛,鶬鴰鴇鶂,鳧鷖鴻鴈,朝發河海,夕宿江漢,沉浮往來,雲集霧散。[一六]於是後宮乘輚路,登龍舟,張鳳蓋,建華旗,袪黼帷,鏡清流,靡微風,澹淡浮。[一七]棹女謳,鼓吹震,聲激越,謍厲天,鳥腢翔,魚窺淵。[一八]招白閒,下雙鵠,揄文竿,出比目。

そこで天子は属玉の館に登り、長楊の榭を経て、山川の地形を眺め、三軍の殺戮と捕獲を見渡し、原野は荒れ果て、目は四方の果てまで届き、禽は互いに押し潰され、獣は互いに枕にしていた。その後、捕らえた禽獣を集め、功績を論じて胙肉を賜り、軽騎を配置して焼き肉を振る舞い、酒車を走らせて酌み交わし、新鮮な肉を切り分けて野で食べ、烽火を上げて杯を命じた。饗宴と賜物が終わり、労りと休息が整い、大輅は鸞鈴を鳴らし、ゆったりと徘徊し、豫章の館に集まり、昆明の池に臨んだ。左に牽牛、右に織女を配し、まるで天の川に岸がないかのようで、茂った木々は陰を生い茂らせ、芳しい草は堤を覆い、蘭や茞は色を放ち、鮮やかに美しく、まるで錦を広げ刺繍を敷いたかのようで、その岸辺を照らし輝かせた。

原文(段落全体)爾乃盛娛游之壯觀,奮大武乎上囿,因茲以威戎誇狄,耀威而講事。[一]命荊州使起鳥,詔梁野而驅獸,毛腢內闐,飛羽上覆,接翼側足,集禁林而屯聚。[二] 水衡虞人,理其營表,種別腢分,部曲有署。[三]罘罔連紘,籠山絡野,列卒周幣,星羅雲布。[四]於是乘*(鑾)*輿備法駕,帥腢臣,披飛廉,入苑門。[五] 遂繞酆鎬,歷上蘭,六師發冑,百獸駭殫,震震爚爚,雷奔電激,草木塗地,山淵反覆,蹂蹸其十二三,乃拗怒而少息。[六]爾乃期門佽飛,列刃鑽鍭,要趹追蹤,鳥驚觸絲,獸駭值鋒,機不鸪掎,弦不再控,矢無單殺,中必疊雙,颮颮紛紛,矰繳相纏,風毛雨血,灑野蔽天。[七]平原赤,勇士厲,譸狖失木,豺狼攝竄。[八]爾乃移師趨險,並蹈潛穢,窮虎奔突,狂兕觸蹶。[九]許少施巧,秦成力折,掎僄狡,診猛噬,脫角挫脰,徒搏獨殺。[一0]挾師豹,拖熊螭,頓犀犛,曳豪羆,超迥壑,越峻崖,蹶巉巖,鉅石隤,松柏仆,叢林摧,草木無餘,禽獸殄夷。[一一]於是天子乃登屬玉之館,歷長楊之榭,覽山川之體埶,觀三軍之殺獲,原野蕭條,目極四裔,禽相鎮厭,獸相枕藉。[一二]然後收禽會觿,論功賜胙,陳輕騎以行炰,騰酒車而斟酌,割鮮野食,舉燧命爵。[一三] 饗賜畢,勞逸齊,大輅鳴鸞,容與裴回,集乎豫章之宇,臨乎昆明之池。[一四] 左牽牛而右織女,似雲漢之無崖,茂樹蔭蔚,芳草被堤,蘭茞髮色,曄曄猗猗,若摛錦布繡,燭耀乎其陂。[一五]玄鶴白鷺,黃鵠鵁鸛,鶬鴰鴇鶂,鳧鷖鴻鴈,朝發河海,夕宿江漢,沉浮往來,雲集霧散。[一六]於是後宮乘輚路,登龍舟,張鳳蓋,建華旗,袪黼帷,鏡清流,靡微風,澹淡浮。[一七]棹女謳,鼓吹震,聲激越,謍厲天,鳥腢翔,魚窺淵。[一八]招白閒,下雙鵠,揄文竿,出比目。

玄鶴や白鷺、黄鵠や鵁鸛、鶬鴰や鴇や鶂、鳧や鷖や鴻や雁が、朝に河海を発ち、夕に江漢に宿り、浮き沈み往来し、雲のように集まり霧のように散った。そこで後宮は輚路に乗り、龍舟に登り、鳳蓋を張り、華旗を立て、黼帷を払い、清流を鏡とし、微風に靡き、ゆったりと浮かんだ。櫂を漕ぐ女が歌い、鼓吹が響き渡り、声は激しく高く、天を震わせ、鳥の群れは舞い、魚は淵を覗いた。白閒を招き、双鵠を射落とし、文様の釣竿を操り、比目魚を釣り上げた。

原文(段落全体)爾乃盛娛游之壯觀,奮大武乎上囿,因茲以威戎誇狄,耀威而講事。[一]命荊州使起鳥,詔梁野而驅獸,毛腢內闐,飛羽上覆,接翼側足,集禁林而屯聚。[二] 水衡虞人,理其營表,種別腢分,部曲有署。[三]罘罔連紘,籠山絡野,列卒周幣,星羅雲布。[四]於是乘*(鑾)*輿備法駕,帥腢臣,披飛廉,入苑門。[五] 遂繞酆鎬,歷上蘭,六師發冑,百獸駭殫,震震爚爚,雷奔電激,草木塗地,山淵反覆,蹂蹸其十二三,乃拗怒而少息。[六]爾乃期門佽飛,列刃鑽鍭,要趹追蹤,鳥驚觸絲,獸駭值鋒,機不鸪掎,弦不再控,矢無單殺,中必疊雙,颮颮紛紛,矰繳相纏,風毛雨血,灑野蔽天。[七]平原赤,勇士厲,譸狖失木,豺狼攝竄。[八]爾乃移師趨險,並蹈潛穢,窮虎奔突,狂兕觸蹶。[九]許少施巧,秦成力折,掎僄狡,診猛噬,脫角挫脰,徒搏獨殺。[一0]挾師豹,拖熊螭,頓犀犛,曳豪羆,超迥壑,越峻崖,蹶巉巖,鉅石隤,松柏仆,叢林摧,草木無餘,禽獸殄夷。[一一]於是天子乃登屬玉之館,歷長楊之榭,覽山川之體埶,觀三軍之殺獲,原野蕭條,目極四裔,禽相鎮厭,獸相枕藉。[一二]然後收禽會觿,論功賜胙,陳輕騎以行炰,騰酒車而斟酌,割鮮野食,舉燧命爵。[一三] 饗賜畢,勞逸齊,大輅鳴鸞,容與裴回,集乎豫章之宇,臨乎昆明之池。[一四] 左牽牛而右織女,似雲漢之無崖,茂樹蔭蔚,芳草被堤,蘭茞髮色,曄曄猗猗,若摛錦布繡,燭耀乎其陂。[一五]玄鶴白鷺,黃鵠鵁鸛,鶬鴰鴇鶂,鳧鷖鴻鴈,朝發河海,夕宿江漢,沉浮往來,雲集霧散。[一六]於是後宮乘輚路,登龍舟,張鳳蓋,建華旗,袪黼帷,鏡清流,靡微風,澹淡浮。[一七]棹女謳,鼓吹震,聲激越,謍厲天,鳥腢翔,魚窺淵。[一八]招白閒,下雙鵠,揄文竿,出比目。

鴻幢を撫で、矰繳を操り、方舟を並べて走らせ、俯仰して極楽を尽くした。そして風に乗り雲に揺られ、浮遊して広く見渡し、前に秦嶺を乗り越え、後に九嵕を越え、東は河・華に迫り、西は岐・雍に渡り、宮殿や館が経たところは百余区に及び、行くところ朝夕、蓄えは供給を変えなかった。上下の礼を行い山川に接し、福祐の用いられる所を究め、遊ぶ童子の歓びの歌を採り、従臣の嘉き頌を順位づけた。この時、都は互いに望み見え、邑は互いに連なり、国は十代の基盤を頼り、家は百年の業を受け継ぎ、士は旧徳の名族の禄を食み、農は先祖の田畑の畝に従事し、商は一族代々の売り物を修め、工は高祖父や曾祖父の規矩を用い、鮮やかにひそやかに、それぞれがその所を得ていた。

原文[一九]撫鴻幢,御矰繳,方舟並騖,俛仰極樂。[二0]遂風舉雲搖,浮游普覽,前乘秦領,後越九嵕,[二一]東薄河華,西涉岐雍,宮館所歷,百有餘區,行所朝夕,儲不改供。[二二]禮上下而接山川,究休佑之所用,采游童之歡謠,第從臣之嘉頌。[二三]於斯之時,都都相望,邑邑相屬,國藉十世之基,家承百年之業,士食舊德之名氏,農服先疇之畎畝,商修族世之所鬻,工用高曾之規矩,粲乎隱隱,各得其所。[二四]

(注[一]大武とは大いに武事を陳べることをいう。月令に「孟冬の月、天子は将帥に命じて武を講じ、射御を習わしめる」とある。)

原文(注[一]大武謂大陳武事也。月令「孟冬之月,天子乃命將帥講武,習射御」也。

注[二]荊州は江・湘の地で、その俗は鳥を捕ることに慣れているので、彼らに追い立てさせた。梁野は巴・漢の人で、その俗は獣を追うことに慣れているので、その人々に駆り立てさせた。闐の音は田。聚の音は才諭反。

原文注[二]荊州,江、湘之地,其俗習於捕鳥,故使起之。梁野,巴、漢之人,其俗習於逐獸,故使其人驅之。闐音田。聚音才諭反。

注[三]前書に「上林苑は水衡都尉に属する。虞人は山沢を掌る官である」とある。周礼に「虞人は狩りの野に草を刈り、表を立てる」とある。鄭司農は「表は正しい行列を識別するためのものである」という。続漢書に「将軍が軍を率いるには皆部があり、大将軍の営は五部、部には校尉一人、部下には曲があり、曲には軍候一人がいる」とある。

原文注[三]前書曰:「上林苑屬水衡都尉。虞人,掌山澤之官。」周禮曰:「虞人萊所田之野爲表。」鄭司農曰:「表,所以識正行列也。」續漢書「將軍領軍皆有部,大將軍營五部,部校尉一人,部下有曲,曲有軍候一人」也。

注[四]鄭玄が礼記に注して「獣を捕る網を罘という」とある。音は浮。紘は罘の綱である。

原文注[四]鄭玄注禮記曰:「獸罟曰罘。」音浮。紘,罘之綱。

注[五]蔡邕の独断に「天子は至尊であるため、軽々しく言うことを憚り、乗輿に託して言う。天子の車駕には大駕・法駕・小駕がある。大駕では公卿が奉引し、千乗万騎を備える。法駕では公卿は鹵簿の中におらず、執金吾のみが奉引し、侍中が驂乗する」とある。飛廉は館の名で、武帝が作った。前書音義に「飛廉は神禽で、風気を招くことができ、体は鹿に似て、頭は雀のようで、角があり蛇の尾で、文様は豹のようである。館の上にこれを作ったため、名付けた」とある。

原文注[五]蔡邕獨斷曰:「天子至尊,不敢渫瀆言之,故托於乘輿。天子車駕有大駕、法駕、小駕。大駕則公卿奉引,備千乘萬騎。法駕,公*[卿]*不在鹵簿中,唯執金吾奉引,侍中驂乘。」飛廉,館名也,武帝所作。前書音義曰:「飛廉,神禽,能致風氣,身似鹿,頭如雀,有角而蛇尾,文如豹文。於館上作之,因以名焉。」

注[六]酆は文王の都で、鄠県の東にある。鎬は武王の都で、上林苑の中にある。三輔黃図に、上林苑には上蘭観があるとある。尚書に「司馬は邦政を掌り、六師を統率する」とある。また「百獣率いて舞う」とある。駭殫は驚き恐れることをいう。震震爚爚は奔走する様子。爚の音は躍。塗は汚すこと。反覆は傾き動くこと。車騎が既に多く、見ると眩暈がして、傾き動くようである。蹂は踏むこと、音は汝九反。蹸は轢くこと、音は力刃反。拗は抑えること、音は於六反。六軍の怒りを抑えて少し停めることをいう。

原文注[六]酆,文王所都,在鄠縣東。鎬,武王所都,在上林苑中。三輔黃圖雲,上林苑有上蘭觀。尚書曰:「司馬掌邦政,統六師。」又曰:「百獸率舞。」駭殫,言驚懼也。震震爚爚,奔走之貌。爚音躍。塗,污也。反覆猶傾動也。車騎既多,視之眩亂,有似傾動。蹂,踐也,音汝九反。蹸,轢也,音力刃反。拗猶抑也,音於六反。言且抑六師之怒而少停也。

注[七]前書に、武帝が北地の良家子と殿門で期したので、「期門」と号したとある。また「佽飛射士を募る」とある。音義に「佽飛は本来秦の左弋官である。武帝が佽飛官に改め、一令九丞があり、上林苑の中にある。矰繳を紡ぎ、鳧雁を弋り、歳に万頭を供して宗廟に奉る」とある。蒼頡篇に「攢は集めること」とある。「鑽」は「攢」に通じる。爾雅に「金の鏃で羽を切り揃えたものを鍭という」とある。音は侯。広雅に「趹は奔ること」とある。音は決。機は弩の牙である。説文に「掎は偏に引くこと」とある。音は居綺反。颮颮紛紛は多いこと。説文に「颮は古い坎の字である」とある。鄭玄が周礼に注して「矢に繳を結びつけたものを矰という」とある。矰は高いこと。

原文紡矰繳,弋鳧鴈,歲萬頭,以供宗廟。」蒼頡篇曰:「攢,聚也。」「鑽」與「攢」通。爾雅曰:「金鏃翦羽謂之鍭。」音侯。廣雅曰:「趹,奔也。」音決。機,弩牙也。說文曰:「掎,偏引也。」音居綺反。颮颮紛紛,觿多也。說文曰:「颮,古坎字。」鄭玄注周禮曰:「結繳於矢謂之矰。」矰,高也。

注[一〇]許少、秦成、ともに詳細は不明。僄狡とは、獣のうち軽捷なもの。説文に「搤は捉なり」とある。音は厄。「搤」は「診」と通ず。噬は噛むこと。挫は折ること。脰は首。徒は空の意。空手でこれを搏ち殺すことをいう。爾雅に「暴虎は徒搏なり」とある。殺の音は所界反。

原文注[一0]許少、秦成,並未詳。僄狡,獸之輕捷者。說文曰:「搤,捉也。」音厄。「搤」與「診」通。噬,囓也。挫,折也。脰,頸也。徒,空也。謂空手搏殺之也。爾雅曰:「暴虎,徒搏也。」殺音所界反。

注[一一]師は獅子。説文に「拖は曳なり」とある。音は徒可反。杜預の左伝注に「螭は山神、獣の形」とある。郭璞の山海経注に「犀は牛に似て質頭、黒色、三角あり、一は頂上に、一は額上に、一は鼻上にある。犛牛は黒色、西南徼外より出ず」とある。犛の音は力之反。爾雅に「羆は熊に似て黄色」とある。巉巖は山石の高峻なる様。殄は尽くすこと。夷もまた殺す意。

原文注[一一]師,師子也。說文曰:「拖,曳也。」音徒可反。杜預注左傳云:「螭,山神,獸形。」郭璞注山海經曰:「犀似牛而質頭,黑色,有三角,一在頂上,一在額上,一在鼻上。犛牛黑色,出西南徼外。」犛音力之反。爾雅曰:「羆似熊而黃。」巉巖,山石高峻之貌也。殄,盡也。夷猶殺也。

注[一二]前書に、宣帝が萯陽宮の属玉観に幸すとある。音義に「属玉は水鳥なり、鵁鶄に似、観上にこれを作るにより、もって名とす」とある。三輔黄図に「上林に長揚宮あり」とある。鄭玄の礼記注に「土高きを台と曰い、木あるを榭と曰う」とある。獲は、協韻で音は胡卦反。楚詞に「山蕭条として獣無し」とある。

原文注[一二]前書,宣帝幸萯陽宮屬玉觀。音義曰:「屬玉,水鳥也,似鵁鶄,於觀上作之,因以名焉。」三輔黃圖曰:「上林有長揚宮。」鄭玄注禮記曰:「土高曰台,有木曰榭。」獲,協韻音胡卦反。楚詞曰:「山蕭條而無獸。」

注[一三]胙は余った肉。左伝に「胙を公に帰す」とある。詩小雅に「之を炰し之を燔す」とある。毛萇注に「毛を以てするを炰と曰う」とある。音は歩交反。子虚賦に「鮮を割き輪に染む」とある。孔安国の尚書注に「鳥獣新たに殺すを鮮と曰う」とある。

原文注[一三]胙,余肉也。左傳曰:「歸胙於公。」詩小雅曰:「炰之燔之。」毛萇注曰:「以毛曰炰。」音步交反。子虛賦曰:「割鮮染輪。」孔安國注尚書曰:「鳥獸新殺曰鮮。」

注[一四]大輅は玉輅。周礼に「凡そ輅を馭するに儀は鑾和を以て節とす」とある。鄭玄注に「鑾は衡に在り、和は軾に在り、皆金鈴なり」とある。三輔黄図に「上林苑に豫章観あり」とある。

原文注[一四]大輅,玉輅也。周禮曰:「凡馭輅儀以鑾和爲節。」鄭玄注曰:「鑾在衡,和在軾,皆金鈴也。」三輔黃圖曰:「上林苑有豫章觀。」

注[一五]漢宮閣疏に「昆明池に二石人有り、牽牛・織女の象なり」とある。雲漢は天河。郭璞の爾雅注に「茝は香草」とある。音は昌改反。曄曄猗猗は美茂の様。説文に「摛は舒なり」とある。

原文注[一五]漢宮閣疏曰:「昆明池有二石人,牽牛、織女之象也。」雲漢,天河也。郭璞注爾雅云:「茝,香草。」音昌改反。曄曄猗猗,美茂之貌。說文曰:「摛,舒也。」

注[一六]郭璞の爾雅注に「鵁は鳧に似、恭は尾に近く、略して地を行く能わず、江東これを魚鵁と謂う」とある。音は火交反。説文に「鸛は鸛雀なり」とある。爾雅に「鶬は麋鴰」とある。音は括。郭璞注に「即ち鶬鴰なり、今関西これを鴰鹿と呼ぶ」とある。鴇は鴈に似て大、指無し。音は保。鶂は水鳥。荘子に「白鷁の相視るや、眸子運ばずして風化す」とある。李巡の爾雅注に「野に在るを鳧と曰い、家に在るを鶩と曰う」とある。ともに鴨。鄭玄の詩注に「鷖は鳧の属なり」とある。音は一兮反。周処の風土記に「鷖は鷖{鸟由}なり、名を以て自ら呼び、鶏の如く大、荷葉上に卵を生ず」とある。毛萇の詩注に「大なるを鴻と曰い、小なるを鴈と曰う」とある。

原文注[一六]郭璞注爾雅云:「鵁似鳧,恭近尾,略不能地行,江東謂之魚鵁。」音火交反。說文曰:「鸛,鸛雀也。」爾雅曰:「鶬,麋鴰。」音括。郭璞注曰:「即鶬鴰也,今關西呼爲鴰鹿。」鴇似鴈而大,無指。音保。鶂,水鳥也。莊子曰:「白鷁之相視,眸子不運而風化。」李巡注爾雅曰:「在野曰鳧,在家曰鶩。」並鴨也。鄭玄注詩云:「鷖,鳧屬也。」音一兮反。周處風土記曰:「鷖,鷖{鸟由}也,以名自呼,大如雞,生卵於荷葉上。」毛萇注詩云:「大曰鴻,小曰鴈。」

注[一七]埤蒼に「輚は臥車なり」とある。音は仕板反。淮南子に「龍舟鷁首、浮吹を以て虞す」とある。桓譚の新論に「乗車、玉爪・華芝及び鳳皇三蓋」とある。上林賦に「法駕に乗じ、華旗を建つ」とある。高誘の淮南子注に「袪は挙ぐるなり」とある。澹は風に随う様。澹の音は徒濫反。淡の音は徒敢反。

原文注[一七]埤蒼曰:「輚,臥車也。」音仕板反。淮南子曰:「龍舟鷁首,浮吹以虞。」桓譚新論曰:「乘車,玉爪、華芝及鳳皇三蓋。」上林賦曰:「乘法駕,建華旗。」高誘注淮南子曰:「袪,舉也。」澹,隨風之貌也。澹音徒濫反。淡音徒敢反。

注[一八]棹は楫。謳は歌。震は、協韻で音は真。謍は声。音は火宏反。

原文注[一八]棹,楫也。謳,歌也。震,協韻音真。謍,聲也,音火宏反。

注[一九]招は挙ぐるに同じ。弩に黄閒の名あり、ここに白閒とあるは、蓋し弓弩の属。本或いは「白鷴」と作るは、鳥を謂う。西京雑記に「越王、高帝に白鷴・黒鷴各一雙を献ず」とある。説文に「揄は引くなり」とある。音は投。文竿は翠羽を以て文飾とす。闞子に「魯人に釣を好む者有り、桂を以て餌と為し、黄金の鉤を鍛え、銀碧を錯り、翡翠の綸を垂る」とある。爾雅に「東方に比目魚有り、比さずば行かず」とある。

原文注[一九]招猶舉也。弩有黃閒之名,此言白閒,蓋弓弩之屬。本或作「白鷴」,謂鳥也。西京雜記曰:「越王獻高帝白鷴、黑鷴各一雙。」說文曰:「揄,引也。」音投。文竿,以翠羽爲文飾也。*(闕)**[闞]*子曰:「魯人有好釣者,以桂爲餌,鍛黃金之鉤,錯以銀碧,垂翡翠之綸。」爾雅曰:「東方有比目魚,不比不行。」

注[二〇]広雅に「幢を幬と謂う」とある。幢の音は直江反、即ち舟中の幢蓋。本或いは「罿」と作る。罿は鳥網。音は磨。矰は弋矢。繳は以て箭に係う。方舟は両舟を並べる。

原文注[二0]廣雅曰:「幢謂之幬。」幢音直江反,即舟中之幢蓋也。本或作「罿」。罿,鳥網也,音磨。矰,弋矢也。繳,以系箭也。方舟,並兩舟也。

注[二一]協韻で音は綜。

原文注[二一]協韻音綜。

注[二二]薄は迫る。岐は山、雍は県。扶風に在り。儲は積む。供は、協韻で音は九用反。

原文注[二二]薄,迫也。岐,山;雍,縣。在扶風。儲,積也。供,協韻音九用反。

注[二三]上下は天地を謂う。接もまた祭。究は尽くす。用は犧牷玉帛の物を謂う。列子に「堯、天下を理むること五十年、天下の理むるや乱るるやを知らず。堯乃ち微服して康衢に游び、童謡を聞くに曰く『我が蒸人を立て、爾の極に匪る莫し、識らず知らず、帝の則に順う』と」とある。今の堯と同じきを言う。前書に「宣帝は頗る神仙を好み、王褒・張子僑等並びに待詔し、幸する宮館には、輒ち歌頌を為し、其の高下を第し、以て差に帛を賜う」とある。

原文注[二三]上下謂天地也。接亦祭也。究,盡也。用謂犧牷玉帛之物也。列子曰:「堯理天下五十年,不知天下理歟?亂歟?堯乃微服游於康衢,聞兒童謠曰:『立我蒸人,莫匪爾極,不識不知,順帝之則。』」言今同於堯也。前書曰:「宣帝頗好神仙,王褒、張子僑等並待詔,所幸宮館,輒爲歌頌,第其高下,以差賜帛焉。」

注[二四]十代・百年、ともに全数を挙ぐ。易に「旧徳を食らい、貞厲にして終に吉」とある。谷梁伝に「古者に士人・商人・農人・工人有り」とある。淮南子に「古者至徳の時、賈は其の肆を便にし、農は其の業に安んじ、大夫は其の職に安んじ、而して処士は其の道を修む」とある。

原文注[二四]十代、百年,並舉全數也。易曰:「食舊德,貞厲終吉。」谷梁傳曰:「古者有士人、商人、農人、工人。」淮南子曰「古者至德之時,賈便其肆,農安其業,大夫安其職,而處士修其道」也。)

私のような者は、ただ古い廃墟を多く見て、古老から話を聞くだけで、十分の一も理解できず、その一端さえ得られないので、すべてを挙げることはできない。

原文若臣者,徒觀多乎舊墟,聞之乎故老,什分而未得其一端,故不能遍舉也。

一三三八頁一行の「原嘗」は平原君趙勝と孟嘗君田文を指す。汲本と殿本に基づいて補う。

原文一三三八頁一行原嘗*[謂]*平原君趙勝孟嘗君田文也據汲本、殿本補。

一三三八頁五行の「逴犖諸夏」について。李慈銘は『文選』では「犖」を「躒」としていると述べている。

原文一三三八頁五行逴犖諸夏按:李慈銘謂「犖」文選作「躒」。

一三三九頁一三行の「王□字子泉」について。汲本と殿本では「泉」を「淵」とし、下の「泉雲頌歎」の「泉」も「淵」としている。按ずるに、「淵」を「泉」としたのは、章懐太子が唐の諱を避けて改めたものであろう。

原文一三三九頁一三行王□字子泉汲本、殿本「泉」作「淵」,下「泉雲頌歎」之「泉」亦作「淵」。按:「淵」作「泉」,當是章懷避唐諱改。

一三四0頁二行の「*[小]*爾雅曰禾穗謂之穎」について。校補は、これは『小爾雅』広物篇に見え、『文選』李善注では「小雅曰」と引いていると述べる。『文選』注では『小爾雅』を省いて「小雅」と称し、ここでは「小」の字が脱落したのである。

原文一三四0頁二行*[小]*爾雅曰禾穗謂之穎按:校補謂此見小爾雅廣物篇,文選李善注引作「小雅曰」,文選注於小爾雅皆省稱「小雅」,此則脫去「小」字也。

今、これに基づいて補う。

原文一三四0頁二行*[小]*爾雅曰禾穗謂之穎按:校補謂此見小爾雅廣物篇,文選李善注引作「小雅曰」,文選注於小爾雅皆省稱「小雅」,此則脫去「小」字也。

一三四0頁二行の「*[小]*爾雅曰敷布也」について。『爾雅』には「敷布也」という訓はない。これは『小爾雅』広詁篇に見える。今、これに基づいて補う。

原文一三四0頁二行*[小]*爾雅曰敷布也按:爾雅無「敷布也」之訓,此見小爾雅廣詁篇。今據補。

一三四0頁一二行の「放*(泰)**[太]*紫之圓方」について。「泰」は「太」とすべきである。今、改める。上記の「表以*(泰)*[太]華終南之山」の条を参照のこと。

原文一三四0頁二行*[小]*爾雅曰敷布也按:爾雅無「敷布也」之訓,此見小爾雅廣詁篇。今據補。

一三四0頁一四行の「於是左*(□)**[腆]*右平」について。殿本に基づいて改める。按ずるに、集解が引く柳従辰の説によれば、字書の玉部に□の字はなく、土偏にすべきであるという。

原文一三四0頁一四行於是左*(□)**[腆]*右平據殿本改。按:集解引柳從辰說,謂字書玉部無□字,應從土。

一三四0頁一六行の「徇以離殿別寢」について。校補は『文選』では「殿」を「宮」としていると述べる。

原文一三四0頁一六行徇以離殿別寢按:校補謂文選「殿」作「宮」。

一三四一頁一行の「增盤業峨」について。『文選』では「增盤崔嵬」と作る。

原文一三四一頁一行增盤業峨按:文選作「增盤崔嵬」。

一三四一頁五行の「玄墀扣切」について。『文選』では「切」を「砌」と作る。

原文一三四一頁五行玄墀扣切按:文選「切」作「砌」。

一三四一頁一一行の「周見洽聞」について。校補は『文選』では「周」を「殫」としていると述べる。

原文一三四一頁一一行周見洽聞按:校補謂文選「周」作「殫」。

一三四一頁一四行の「修塗飛閣」について。校補は『文選』では「塗」を「除」とし、注に「除,樓陛也」とあると述べる。

原文一三四一頁一四行修塗飛閣按:校補謂文選「塗」作「除」,注「除,樓陛也」。

一三四一頁一四行の「混建章而外屬」について。校補は『文選』では「而」の下に「連」の字があると述べる。

原文一三四一頁一四行修塗飛閣按:校補謂文選「塗」作「除」,注「除,樓陛也」。

一三四二頁六行の「似無依*(之)**[而]*洋洋」について。『文選』では「之」を「而」と作る。王先謙は「而」と作るのが正しいと述べている。今、これに基づいて改める。

原文一三四二頁六行似無依*(之)**[而]*洋洋文選「之」作「而」,王先謙謂作「而」是。今據改。

一三四二頁八行「抗仙掌以承露」は汲本・殿本に従って改める。

原文一三四二頁八行抗仙掌*(與)**[以]*承露據汲本、殿本改。

一三四三頁四行「域」は「腆」とも作る。按:刊誤は文を案ずるに「腆亦作域」とすべきとし、「腆」の字に「域」と作るものがあるという。

原文一三四三頁四行域亦作腆按:刊誤謂案文當作「腆亦作域」,言「腆」字有作「域」者也。

一三四三頁一六行「納之於壁帶」按:校補は前書音義に「壁帶謂壁中之帶也」とあるから、この「壁」の字は土偏であるべきで、各本は皆玉偏に作るのは、上の「銜璧」に引きずられて誤ったものだという。今これに従って改める。

原文一三四三頁一六行納之於*(璧)**[壁]*帶按:校補雲前書音義「壁帶謂壁中之帶也」,此「壁」字當從土,各本皆從玉,涉上「銜璧」而誤。今據改。

一三四四頁四行「其光色也」按:張森楷校勘記は「色」の下に一字の脱文があるべきで、上文の「其文理密也」によって知られるという。

原文一三四四頁四行其光色也按:張森楷校勘記謂「色」下當有脫文一字,據上文「其文理密也」知之。

一三四四頁一0行「順常」按:「順」は原刻では「須」に作る。汲本・殿本に従って直ちに改める。

原文一三四四頁一0行順常按:「順」原斗「須」,逕據汲本、殿本改正。

一三四五頁一六行「高二十餘丈」は刊誤に従って「門」の字を削除する。

原文一三四五頁一六行*(門)*高二十餘丈據刊誤刪。

一三四六頁四行「小雅曰」按:小雅とは小爾雅の略称であり、下に引くのは小爾雅広詁の文である。

原文一三四六頁四行小雅曰按:小雅即小爾雅之省稱,下所引乃小爾雅廣詁文。

一三四七頁八行「耀威而講事」按:王先謙は文選が「耀威靈而講武事」と作ると言う。

原文一三四七頁八行耀威而講事按:王先謙謂文選作「耀威靈而講武事」。

一三四七頁一一行「於是乘輿備法駕」刊誤は注に解く乗輿の義を案ずると、ここに「鑾」の字が多いという。今これに従って削除する。按:上林賦に「於是乘輿弭節徘徊」、甘泉賦に「於是乘輿乃登夫鳳皇兮」とあり、句例が似ており、班固の賦の出典である。

原文一三四七頁一一行於是乘*(鑾)*輿備法駕刊誤謂案注所解乘輿之義,則此多「鑾」字。今據刪。按:上林賦「於是乘輿弭節徘徊」,甘泉賦「於是乘輿乃登夫鳳皇兮」,句例相似,班賦之所出也。

一三四七頁一一行「六師發冑」按:文選は「冑」を「逐」に作る。近人高歩瀛の文選李注義疏は胡紹煐の説を引き、「逐」と「冑」は音が同じで、文選が「逐」と作り、後漢書が「冑」と作るのは、ともに「駎」の仮借であり、玉篇に「駎、徐救切、競馳也」とあるという。

原文一三四七頁一一行於是乘*(鑾)*輿備法駕刊誤謂案注所解乘輿之義,則此多「鑾」字。今據刪。按:上林賦「於是乘輿弭節徘徊」,甘泉賦「於是乘輿乃登夫鳳皇兮」,句例相似,班賦之所出也。

一三四八頁三行「歷長楊之榭」按:「楊」は原刻では「揚」に作る。汲本・殿本に従って直ちに改める。注も同じ。

原文一三四八頁三行歷長楊之榭按:「楊」原作「揚」,逕據汲本、殿本改,注同。

一三四八頁五行「舉燧命爵」按:校補は文選が「舉烽命釂」と作ると言う。

原文一三四八頁五行舉燧命爵按:校補謂文選作「舉烽命釂」。

一三四八頁七行「玄鶴白鷺」按:校補は文選の句の上に「鳥則」の二字があると言う。

原文一三四八頁七行玄鶴白鷺按:校補謂文選句上有「鳥則」二字。

一三四八頁七行「鶬鴰鴇鶂」按:「鴇」は原刻では「鳵」に作る。文選に従って直ちに改める。注も同じ。

原文一三四八頁七行玄鶴白鷺按:校補謂文選句上有「鳥則」二字。

一三四九頁八行「法駕公卿不在鹵簿中」は汲本・殿本に従って「卿」の字を補う。

原文一三四九頁八行法駕公*[卿]*不在鹵簿中據汲本、殿本補。

一三五一頁九行(欠けている)[闞]子曰、殿本により改める。

原文一三五一頁九行*(闕)**[闞]*子曰據殿本改。