後漢書

巻三十九・劉趙淳于江劉周趙列傳 第二十九

巻三十九・劉趙淳于江劉周趙列傳 第二十九

孔子は言った。「孝というものは、父を敬うことより大きなものはなく、父を敬うことは、天に配することより大きなものはない。そうすれば周公がその人である。」[一]子路は言った。

原文孔子曰:「夫孝莫大於嚴父,嚴父莫大於配天,則周公其人也。」[一]子路曰:

「悲しいことだ、貧しさは!生きている間は養うことができず、死んだ後は葬ることができない。」孔子は言った。「豆を食べ水を飲むこと、それが孝である。」[二]鐘や鼓は音楽の根本ではないが、その器をなくすことはできない。[三]三牲(牛・羊・豚)は孝を尽くす主要なものではないが、養いを廃することはできない。[四]器を保存して根本を忘れるのは、音楽の本質を失うことである。[五]器を調律して音を調和させるのが、音楽の完成である。養いを重んじて行いを損なうのは、孝の妨げである。[六]己を修めて俸禄を得るのが、養いの大きな道である。だから、大いに養うことができると言えば、周公の祭祀のように、四海の祭りを招来する。義によって養うと言えば、仲由(子路)の豆でさえ、東隣の犠牲よりも甘美である。[七]豆や水の粗末さを憂え、俸禄を求めて養おうとする者は、それによって俸禄で親を恥じさせるのである。[八]誠を保って行いを尽くし、孝を積んで俸禄が厚くなる者、これこそ義によって養うことができるのである。

原文「傷哉貧也!生無以養,死無以葬。」子曰:「啜菽飲水,孝也。」[二]夫鐘鼓非樂雲之本,而器不可去;[三]三牲非致孝之主,而養不可廢。[四]存器而忘本,樂之遁也;[五]調器以和聲,樂之成也。崇養以傷行,孝之累也;[六]修己以致祿,養之大也。故言能大養,則周公之祀,致四海之祭;言以義養,則仲由之菽,甘於東鄰之牲。[七]夫患水菽之薄,干祿以求養者,是以恥祿親也。[八]存誠以盡行,孝積而祿厚者,此能以義養也。

(注[一]配天とは、文王を明堂で宗祀し、上帝に配すること。

原文(注[一]配天謂宗祀文王於明堂,以配上帝。

注[二]事は礼記に見える。啜の音は昌悅の反切。広雅に曰く、「啜は食うなり」。

原文注[二]事見禮記。啜音昌悅反。廣雅曰:「啜,食也。」

注[三]論語に孔子曰く、「楽雲楽雲、鐘鼓雲乎哉?」。楽の貴ぶところは、風俗を移し易えることであると言い、鐘鼓だけを指すのではないが、しかし鐘鼓をなくすことはできない。去の音は丘呂の反切。

原文注[三]論語孔子曰:「樂雲樂雲,鐘鼓雲乎哉?」言樂之所貴者,移風易俗也,非謂鐘鼓而已,然而不可去鐘鼓。去音丘呂反。

注[四]孝経に曰く、「日用三牲と雖も、猶ほ孝ならずと為す」。孝子たる者は、和やかな顔色を保つことが難しいと言い、三牲だけを指すのではないが、しかし旨いものを欠くことはできない。

原文注[四]孝經曰:「雖日用三牲,猶為不孝。」言孝子者,以和顏悅色為難也,非謂三牲而已,然不可闕甘旨。

注[五]遁は失うこと。鐘や鼓の器を盛大に飾り立てて風俗を移す根本を忘れるのは、楽の意味を失うことである。

原文注[五]遁,失也。言盛飾鐘廣之器而忘移風之本,是失樂之意也。

注[六]義に反して養いを重んじれば、かえって親を憂わせることになり、孝の妨げとなる。

原文注[六]不義而崇養,更為親憂,是孝之累也。

注[七]易に「東隣が牛を殺すは、西隣の禴祭に如かず」とある。

原文注[七]易曰「東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭」也。

注[八]干は求めること。道によらずに俸禄を求めることを言い、恥ずべきことである。)

原文注[八]干,求也。謂不以道求祿,故可恥也。)

後漢の中興期、廬江の毛義(字あざなは少節)は家が貧しかったが、孝行で知られていた。南陽の人張奉はその名を慕い、訪ねて行った。座が定まったところで、ちょうど郡の府からの徴召の文書が届き、毛義を県令に任命するというものだった。[一]毛義は文書を受け取って奥に入り、喜びの色を顔に浮かべた。張奉は志の高い士であり、心の中で毛義を軽蔑し、来たことを後悔し、固く辞去して去った。後に毛義の母が死ぬと、官を辞して喪に服した。何度も公府に招聘され、県令となったが、進退は必ず礼に従った。

原文中興,廬江毛義少節,家貧,以孝行稱。南陽人張奉慕其名,往候之。坐定而府檄適至,以義守令,[一]義奉檄而入,喜動顏色。奉者,志尚士也,心賤之,自恨來,固辭而去。及義母死,去官行服。數辟公府,為縣令,進退必以禮。

後に賢良に推挙され、公車で招聘されたが、遂に応じなかった。張奉は嘆いて言った。「賢者はやはり測り知れないものだ。あの時の喜びは、親のために屈したのであった。これはまさに『家が貧しく親が老いているときは、官を選ばずに仕える』というものだろう。」[二]建初年間(章帝の時)、章帝は詔を下して毛義を褒め称え、千斛こくの穀物を賜い、常に八月に長吏がその安否を尋ね、羊と酒を加えて賜うようにした。家で天寿を全うした。

原文後舉賢良,公車征,遂不至。張奉歎曰:「賢者固不可測。往日之喜,乃為親屈也。斯蓋所謂『家貧親老,不擇官而仕』者也。」[二]建初中,章帝下詔褒寵義,賜谷千斛,常以八月長吏問起居,加賜羊酒。壽終於家。

(注[一]檄とは、召喚の文書である。東観記に「義は安陽尉であったが、府の檄が届き、守令を担当することになった」とある。)

原文(注[一]檄,召書也。東觀記曰:「義為安陽尉,府檄到,當守令」也。

注[二]韓詩外傳に曾子が言った。「任重く道遠し、地を選ばずして息まず。家貧しく親老い、官を選ばずして仕える。」)

原文注[二]韓詩外傳曾子曰:「任重道遠,不擇地而息。家貧親老,不擇官而仕。」)

安帝の時、汝南の薛包(字は孟嘗)は、学問を好み行いを篤くし、母を喪い、至孝をもって知られた。父が後妻を娶り薛包を憎むようになると、分かれて出て行かせようとしたが、薛包は日夜号泣し、去ることができず、ついには殴られ杖で打たれるに至った。やむを得ず、家の外に小屋を建てて住み、朝になると入って掃除をした。父は怒り、また彼を追い出した。そこで里の門のところに小屋を建て、朝夕の礼を欠かさなかった。一年余りが過ぎると、父母は恥じて彼を呼び戻した。その後、六年の喪に服し、喪は哀しみを越えていた。その後、弟子たちが財産を分けて別居することを求めたが、薛包は止めることができず、財産を半分に分けた。奴婢では年老いた者を引き取り、「私と共に長く働いてきたので、あなたがたには使いこなせないだろう」と言った。田畑や家屋は荒れ果てたものを取り、「私が若い時に耕したもので、心が慕っている」と言った。器物は朽ち果てたものを取り、「私が普段使い慣れ、身も口も安心するものだ」と言った。弟子たちが何度も財産を失うと、すぐにまた救済して与えた。建光年間、公車が特に招聘し、到着すると侍中に任命された。薛包は性質が恬淡で虚無を好み、病気と称して起きず、死をもって自ら乞うた。詔により賜告して帰郷を許され、毛義と同様の礼遇を加えられた。八十余歳で、天寿を全うして亡くなった。

原文安帝時,汝南薛包孟嘗,好學篤行,喪母,以至孝聞。及父娶後妻而憎包,分出之,包日夜號泣,不能去,至被歐杖。不得已,廬於捨外,旦入而灑掃,父怒,又逐之。乃廬於里門,昏晨不廢。積歲餘,父母籩而還之。後行六年服,喪過乎哀。既而弟子求分財異居,包不能止,乃中分其財。奴婢引其老者,曰:「與我共事久,若不能使也。」田廬取其荒頓者,[一]曰:「吾少時所理,意所戀也。」器物取朽敗者,曰:「我素所服食,身口所安也。」弟子數破其產,輒復賑給。建光中,公車特徵,至,拜侍中。包性恬虛,稱疾不起,以死自乞。有詔賜告歸,加禮如毛義。[二]年八十餘,以壽終。

(注[一]頓とは、廃れるの意。

原文(注[一]頓猶廢也。

注[二]告とは、休暇を請うこと。漢の制度では、官吏が病気で三ヶ月満たすと免職となるが、天下に優れて賜告を与え、印綬を帯びさせ、官属を率いて、家に帰って養病させることを賜告という。)

原文注[二]告,請假也。漢制,吏病滿三月當免,天下優賜其告,使得帶印綬,將官屬,歸家養病,謂之賜告也。)

この二人のような者は、至誠を推し進めて行いとし、心に信じられ人に感応され、名声を得て禄を受け礼遇されるに至った。これは孝をもって養うことができると言えよう。江革、劉般ら数人の公の義行も、この志と同じである。彼らの事跡を撰んでこの篇に著す。

原文若二子者,推至誠以為行,行信於心而感於人,以成名受祿致禮,斯可謂能以孝養也。若夫江革、劉般數公者之義行,猶斯志也。撰其行事著於篇。[一]

(注[一]これより上は、すべて華嶠の言葉を略したものである。)

原文(注[一]自此已上,並略華嶠之詞也。)

劉平

原文劉平

劉平は字を公子といい、楚郡彭城の人である。本名は曠といったが、顕宗(明帝)の後に平と改めた。王莽の時に郡吏となり、菑丘長を守り、政令と教化が大いに行われた。その後、属県に手強い賊がいるたびに、いつも劉平に守らせたが、赴任先ではすべて治まった。これによって一郡でその才能を称賛された。

原文劉平字公子,楚郡彭城人也。本名曠,顯宗後改為平。王莽時為郡吏,守菑丘長,[一]政教大行。其後每屬縣有劇賊,輒令平守之,所至皆理,由是一郡稱其能。 注[一]菑丘,縣,屬彭城國。

更始帝の時、天下は乱れ、劉平の弟の劉仲が賊に殺された。その後、賊がまた突然やって来たので、劉平は母を扶け侍り、奔走して難を逃れた。劉仲の遺腹の娘がちょうど一歳で、劉平は劉仲の娘を抱き、自分の子を捨てた。母が戻って取ってくるよう願ったが、劉平は聞き入れず、「力では両方とも生きられません。劉仲の血筋を絶やしてはなりません」と言った。遂に去って顧みず、母とともに野原や沢に隠れた。劉平が朝に出て食糧を求めると、飢えた賊に出会い、煮て食べようとした。劉平は叩頭して言った。「今朝は老母のために野菜を求めております。老母は私の命にかかっております。どうか先に帰り、母に食事をさせてから、戻って死に就かせてください。」

原文更始時,天下亂,平弟仲為賊所殺。其後賊復忽然而至,平扶侍其母,奔走逃難。仲遺腹女始一歲,平抱仲女而棄其子。母欲還取之,平不聽,曰:「力不能兩活,仲不可以絕類。」遂去不顧,與母俱匿野澤中。平朝出求食,逢餓賊,將亨*[之]*,平叩頭曰:「今旦為老母求菜,老母待曠為命,願得先歸,食母異,還就死。」

涙を流した。賊はその至誠を見て哀れに思い、彼を帰した。劉平は戻り、母に食事を済ませた後、言上した。「賊と約束しました。義として欺くことはできません。」遂に賊のもとに戻った。賊の衆は皆大いに驚き、互いに言った。「常に烈士のことを聞いていたが、今ようやく見た。お前は行け。お前を食べるに忍びない。」こうして命を全うした。

原文[一]因涕泣。賊見其至誠,哀而遣之。平還,既食母訖,因白曰:「屬與賊期,義不可欺。」遂還詣賊。觿皆大驚,相謂曰:「常聞烈士,乃今見之。子去矣,吾不忍食子。」於是得全。

(注[一]食は飼と読む。以下同じ。)

原文(注[一]食音飼。下同。

建武初年、平狄将軍の龐萌が彭城で反乱を起こし、郡守の孫萌を攻め破った。劉平は当時また郡吏となっており、白刃を冒して龐萌の体の上に伏せ、七ヶ所の傷を受け、疲労困憊してどうしていいかわからず、号泣して請うた。「どうか私の身をもって府君(孫萌)の代わりとさせてください。」賊はそこで兵を収めて止め、「これは義士だ。殺すな」と言った。そして解き去った。孫萌は傷がひどく気絶したが、しばらくして蘇生し、渇いて飲み物を求めた。劉平は自分の傷口の血を傾けて彼に飲ませた。数日後、孫萌はついに死んだ。劉平は傷を包帯で巻き、孫萌の遺体を扶けて喪を送り、その本県まで行った。

原文建武初,平狄將軍龐萌反於彭城,攻敗郡守孫萌。平時復為郡吏,冒白刃伏萌身上,被七創,困頓不知所為,號泣請曰:「願以身代府君。」賊乃斂兵止,曰:「此義士也,勿殺。」遂解去。萌傷甚氣絕,有頃蘇,渴求飲。平傾其創血以飲之。後數日萌竟死,平乃裹創,扶送萌喪,至其本縣。

後に孝廉に推挙され、済陰郡丞に任命された。太守の劉育は彼を非常に重んじ、郡の職務を任せ、上書して劉平を推薦した。ちょうど劉平が父の喪に遭い官を去った。喪が明けると、全椒長に任命された。政治には恩恵があり、百姓は懐き感謝し、ある人は財産を増やして賦税に応じ、ある人は年齢を減らして徭役ようえきに従った。刺史や太守が巡察に来ても、獄に繋がれた囚人はおらず、人々は自らが適所を得ていると思い、何を問えばよいかわからず、ただ詔書を公布して去るだけであった。後に病気で免官となった。

原文後舉孝廉,拜濟陰郡丞,太守劉育甚重之,任以郡職,上書薦平。會平遭父喪去官。服闋,拜全椒長,[一]政有恩惠,百姓懷感,人或增貲就賦,或減年從役。刺史、太守行部,獄無系囚,人自以得所,不知所問,[二]唯班詔書而去。後以病免。 注[一]全椒,縣,屬九江郡也。

注[二]「所」はある本では「何」となっている。)

原文注[二]「所」或作「何」。)

顕宗(明帝)の初め、尚書僕射の鐘離意が上書して劉平および琅邪の王望、東萊の王扶を推薦し、言った。「臣がひそかに見るところ、琅邪の王望、楚国の劉曠、東萊の王扶は、いずれも七十歳で、性質は恬淡であり、居住する所では郷里の人々を感化し、身を修め義を行い、朝廷に列するにふさわしい。臣は誠に人を知るに足りませんが、ひそかに士を推挙し賢者を進める義を慕います。」上書が奏上されると、詔があり劉平らを徴用し、特に旅装の費用を賜った。到着すると皆、議郎に任じられ、しばしば引見された。劉平は再び侍中に昇進し、永平三年に宗正に任じられ、しばしば名士の承宮、郇恁らを推薦して朝廷に達せしめた。在位八年で、老病を理由に上疏して骸骨を乞い、家で死去した。

原文顯宗初,尚書僕射鐘離意上書薦平及琅邪王望、東萊王扶曰:「臣竊見琅邪王望、楚國劉曠、東萊王扶,皆年七十,執性恬淡,所居之處,邑裡化之,修身行義,應在朝次。臣誠不足知人,竊慕推士進賢之義。」書奏,有詔征平等,特賜辦裝錢。至皆拜議郎,並數引見。平再遷侍中,永平三年,拜宗正,數薦達名士承宮、郇恁等。[一]在位八年,以老病上疏乞骸骨,卒於家。

(注[一] 恁の字は君大、黄憲伝に見える。恁の音は人甚の反切。)

原文(注[一]恁字君大,見黃憲傳。恁音人甚反。)

王望の字は慈卿、会稽で客として教授し、議郎から青州刺史に昇進し、非常に威名があった。この時、州郡に災害と旱魃があり、百姓は窮乏していた。王望が部内を巡行し、道中で飢えた者たちが裸で歩き草を食らっているのを五百余人見て、哀れに思い、便宜を図って所在の布と粟を出し、彼らに食糧を与え、粗末な衣服を作ってやった。事が終わって上言すると、帝は王望が先に上表して請願しなかったことを問題とし、その上書を百官に示して、その罪を詳しく議論させた。当時、公卿は皆、王望が独断専行したのは法に定められた条項があると認めた。鐘離意だけが言った。「昔、華元と子反は、楚と宋の良臣であり、君命を承けずに二国を和睦させたが、春秋の義はこれを美談としている。今、王望は義を思い罪を忘れ、仁に当たって譲らず、もし法でこれを裁けば、その本心を軽んじることになり、聖朝が民を愛し育てる旨に背くことになるでしょう。」帝は鐘離意の議論を嘉し、赦して罪に問わなかった。

原文王望字慈卿,客授會稽,自議郎遷青州刺史,甚有威名。是時州郡災旱,百姓窮荒,望行部,道見饑者,裸行草食,五百餘人,愍然哀之,因以便宜出所在布粟,給其*(廩)**[稟]*糧,為作褐衣。[一]事畢上言,帝以望不先表請,章示百官,詳議其罪。時公卿皆以為望之專命,法有常條。鐘離意獨曰:「昔華元、子反,楚、宋之良臣,不稟君命,擅平二國,春秋之義,以為美談。[二]今望懷義忘罪,當仁不讓,若繩之以法,忽其本情,將乖聖朝愛育之旨。」帝嘉意議,赦而不罪。

(注[一] 許慎が淮南子に注して言う。「楚人は袍を短褐と言う。」

原文(注[一]許慎注淮南子曰:「楚人謂袍為短褐。」

注[二] 春秋:「楚子が宋を囲み、宋人と楚人が和睦した。」公羊伝に言う。「外国の和睦は書かないのに、これはなぜ書くのか?

原文注[二]春秋:「楚子圍宋,宋人及楚人平。」公羊傳曰:「外平不書,此何以書?

その和睦が当事者自身によってなされたことを大いに評価するからである。なぜ当事者自身による和睦を大いに評価するのか?荘王が宋を囲んだ時、七日分の食糧しかなく、これを使い果たしても勝てなければ、引き上げて帰ろうとしていた。そこで司馬の子反を堙に乗せて宋の城を窺わせたところ、宋の華元もまた堙に乗って出てこれに会った。子反が言った。『あなたの国はどうか?』華元は言った。『疲弊しました。』『どういうことか?』『子供を取り替えて食べ、骨を割いて炊いています。』子反は言った。『よろしい。我が軍には七日分の食糧がある。

原文大其平乎己也。何大其平乎己?莊王圍宋,有七日之糧爾,盡此不勝,將去而歸爾,於是使司馬子反乘堙而窺宋城,宋華元亦乘堙而出見之。子反曰:『子之國何如?』華元曰:『憊矣。』曰:『何如?』曰:『易子而食之,析骸而炊之。』子反曰:『諾。吾軍有七日之糧爾。

これを使い果たしても勝てなければ、引き上げて帰ろう。』揖して去り、荘王のもとに戻った。荘王は怒って言った。『お前を行かせて様子を見させたのに、お前はなぜ彼らに告げたのか!』子反は言った。『小さな宋でさえ、人を欺かない臣がいるのに、楚にそれが無いことがあろうか?それゆえに告げました。』王は言った。『よろしい。』軍を引き上げて去った。ゆえに君子はその和睦が当事者自身によってなされたことを大いに評価するのである。」)

原文盡此不勝,將去而歸爾。』揖而去之,反於莊王。莊王怒曰:『吾使子往視之,子曷為告之!』子反曰:『以區區之宋,猶有不欺人之臣,可以楚而無乎?是以告之。』王曰:『諾。』引師而去之。故君子大其平乎己也。」)

王扶の字は子元、掖県の人である。若い頃から節操と行いを修め、琅邪の不其県に客居し、居住した集落はその徳に感化された。国相の張宗が謁見を請うたが応じず、無理に招こうとしたので、杖を執って故郷に帰った。何度も招聘されたが、固く病気と称して起きなかった。太傅の鄧禹が辟召したが、赴かなかった。後に議郎に任じられ、会見の際には恭順でまるで口が利けないようであった。しかし性質は沈着で正しく、非道なことで動かすことはできず、当時の人々は彼を高く評価した。永平年間、臨邑侯の劉復が漢徳頌を著し、王扶を名臣として大いに称えたという。

原文王扶字子元,掖人也。[一]少修節行,客居琅邪不其縣,所止聚落化其德。[二] 國相張宗謁請,不應,欲強致之,遂杖策歸鄉里。連請,固病不起。太傅鄧禹辟,不至。後拜議郎,會見,恂恂似不能言。[三]然性沉正,不可干以非義,當世高之。永平中,臨邑侯劉復[四]著漢德頌,盛稱扶為名臣雲。

(注[一] 掖は、今の萊州の県。

原文(注[一]掖,今萊州縣。

注[二] 郷より小さいものを聚という。広雅に言う。「落は居る所である。」

原文注[二]小於鄉曰聚。廣雅曰:「落,居也。」

注[三] 恂恂は、恭順の様子。

原文注[三]恂恂,恭順之魍。

注[四] 復は、光武帝の兄の伯升の孫、北海王の劉興の子である。)

原文注[四]復,光武兄伯升之孫,北海王興之子也。)

趙孝

原文趙孝

趙孝の字は長平、沛国蘄県の人である。父の趙普は、王莽の時に田禾将軍となり、趙孝を郎に任じた。告帰するたびに、常に白衣で徒歩で荷を担いだ。かつて長安から帰る途中、郵亭に泊まろうとした。亭長は事前に趙孝が通ると聞き、長者の客が来ると、掃除をして待っていた。

原文趙孝字長平,沛國蘄人也。[一]父普,王莽時為田禾將軍,[二]任孝為郎。每告歸,常白衣步擔。嘗從長安還,欲止郵亭。亭長先時聞孝當過,以有長者客,掃灑待之。

趙孝が到着しても、自分から名乗らず、亭長は中に入れようとせず、そこで尋ねた。「田禾将軍の子が長安から来ると聞いたが、いつ着くのか?」趙孝は言った。「すぐに着くだろう。」そこで立ち去った。天下が乱れ、人々が互いに食らうようになると、趙孝の弟の趙礼が飢えた賊に捕らえられた。趙孝はこれを聞き、すぐに自ら縛られて賊のもとに行き、言った。「趙礼は長く飢えて痩せ衰えているので、私の肥えている満腹な者には及ばない。」賊は大いに驚き、二人とも釈放し、言った。「ひとまず帰り、米の干飯を持って来い。」趙孝は求めたが得られず、再び賊のもとに行き、煮られることを願った。賊たちは彼を異様に思い、ついに害さなかった。郷里の人々はその義に感服した。州郡が辟召したが、進退は必ず礼に従った。孝廉に推挙されたが応じなかった。

原文[三]孝既至,不自名,[四]長不肯內,因問曰:「聞田禾將軍子當從長安來,何時至乎?」孝曰:「尋到矣。」於是遂去。[五]及天下亂,人相食。孝弟禮為餓賊所得,孝聞之,即自縛詣賊,曰:「禮久餓羸瘦,不如孝肥飽。」賊大驚,並放之,謂曰:「可且歸,更持米糒來。」孝求不能得,復往報賊,願就亨。觿異之,遂不害。鄉黨服其義。州郡辟召,進退必以禮。舉孝廉,不應。

注[一]蘄の音は機。

原文(注[一]蘄音機。

注[二]王莽の時代に田禾将軍を置き、北辺で屯田した。

原文注[二]王莽時置田禾將軍,屯田北邊。

注[三]平素から劉孝の高名を聞いていたので、長者の客として遇したのである。「灑」は「灑」に通じ、音は所買の反切。

原文注[三]素聞孝高名,故以為長者客也。「灑」與「灑」通,音所買反。

注[四]名を称していない。

原文注[四]不稱名也。

注[五]華嶠の書には「劉孝は三日内に到着すると報告した」とある。

原文注[五]華嶠書曰:「孝報雲三日至矣。」)

永平年間(58-75年)に、太尉府に召し出され、顕宗(明帝)は平素から彼の品行を聞いていたので、詔を下して諫議大夫に任じ、侍中に昇進し、さらに長楽衛尉に昇進した。

原文永平中,辟太尉府,顯宗素聞其行,詔拜諫議大夫,遷侍中,又遷長樂衛尉。

さらに弟の劉礼を御史中丞に徴用した。劉礼もまた恭謙に身を持し、劉孝に似ていた。帝は彼ら兄弟の篤実な行いを嘉し、特別な寵遇を与えようとし、詔を下して劉礼に十日に一度衛尉府に赴かせ、太官が食器や食物を送り、兄弟で向かい合って心ゆくまで歓談することを許した。数年後、劉礼が死去すると、帝は劉孝に官属を従わせて葬儀を行い、故郷に葬らせた。その後一年余りして、また衛尉の官に在ったまま病気休暇を与えて帰郷させたが、家で死去した。劉孝には子がなく、劉礼の二人の子を郎に任じた。

原文復征弟禮為御史中丞。禮亦恭謙行己,類於孝。帝嘉其兄弟篤行,欲寵異之,詔禮十日一就衛尉府,太官送供具,令共相對盡歡。數年,禮卒,帝令孝從官屬送喪歸葬。後歲餘,復以衛尉賜告歸,卒於家。孝無子,拜禮兩子為郎。

当時、汝南に王琳(字は巨尉)という者がいた。十余歳で父母を亡くした。大乱に遭い、百姓は逃げ惑ったが、王琳兄弟だけは墓の傍らの小屋を守り、声をあげて泣き続けた。弟の王季が外に出て赤眉軍に出会い、食べられそうになった。王琳は自ら縛られて、弟に先立って死ぬことを願い出た。賊はその義心に感じて二人を釈放した。これによって郷里で名が知られるようになった。後に司徒府に召し出されたが、人材を推薦して退いた。注[一]哺は、食べさせること。哺の音は補胡の反切。

原文時汝南有王琳巨尉者,年十餘歲喪父母。因遭大亂,百姓奔逃,唯琳兄弟獨守塚廬,號泣不絕。弟季,出遇赤眉,將為所哺,[一]琳自縛,請先季死,賊鄉而放遣,由是顯名鄉邑。後辟司徒府,薦士而退。 注[一]哺,食之也。哺音補胡反。

琅邪の魏譚(字は少閒)は、当時飢えた賊寇に捕らえられた。同輩数十人ともども縛られ、順番に煮られようとしていた。賊は魏譚が謹厚きんこうそうに見えたので、一人だけに炊事を担当させ、夜になると縛り上げた。賊の中に夷長公という者がおり、特に魏譚を哀れに思い、密かにその縄を解き、「お前たちは皆食べられる運命だ。急いでここから逃げろ」と言った。魏譚は答えて言った。「私は皆様の炊事を担当し、常に残り物をもらっています。他の者は皆草や野菜を食べています。私を食べたほうがよいでしょう。」長公はその言葉に義を感じ、皆に説得して赦し釈放し、全員がともに免れることができた。魏譚は永平年間に主家令となった。

原文琅邪魏譚少閒者,時亦為饑寇所獲,等輩數十人皆束縛,以次當亨。賊見譚似謹厚,獨令主戏,暮輒執縛。賊有夷長公,[一]特哀念譚,密解其縛,語曰:「汝曹皆應就食,急從此去。」對曰:「譚為諸君戏,恆得遺余,餘人皆茹草萊,不如食我。」長公義之,相曉赦遣,並得俱免。譚永平中為主家令。[二]

注[一]夷は姓である。

原文(注[一]夷,姓也。

注[二]公主の家令である。

原文注[二]公主家令也。)

また、斉国の兒萌(字は子明)、梁郡の車成(字は子威)の二人は、兄弟ともども赤眉軍に捕らえられ、食べられようとした。兒萌と車成は頭を地に叩きつけ、自分の身をもって代わることを乞うた。賊もまた哀れに思い、二人とも釈放した。

原文又齊國兒萌子明、[一]梁郡車成子威二人,兄弟並見執於赤眉,將食之,萌、成叩頭,乞以身代,賊亦哀而兩釋焉。

注[一]兒の音は五兮の反切。

原文(注[一]兒音五兮反。)

淳于恭

原文淳于恭

淳于恭は字を孟孫といい、北海郡淳于県の人である。老子の説をよくし、清静で栄誉や名声を慕わなかった。家には山田や果樹園があったが、人が侵して盗むことがあれば、かえって収穫を手伝った。また、こっそり稲を刈る者を見ると、淳于恭はその者が恥じ入るだろうと思い、草むらに伏せて隠れ、盗人が去ってから起き上がった。里の人々は彼の行いを見習うようになった。

原文淳於恭字孟孫,北海淳於人也。[一]善說老子,清靜不慕榮名。家有山田果樹,人或侵盜,輒助為收采。又見偷刈禾者,恭念其愧,因伏草中,盜去乃起,裡落化之。

(注)淳於は県で、旧城は現在の密州安丘県の東北にあり、かつての淳於国である。

原文(注[一]淳於,縣,故城*(今)*在*[今]*密州安丘縣東北,故淳於國也。)

王莽の末、飢饉が起こり兵乱が起きると、淳於恭の兄の淳於崇が盗賊に捕らえられて煮殺されそうになった。恭は身代わりになることを願い出て、二人とも免れることができた。後に崇が亡くなると、恭は孤児を養育し、学問を教え諭した。もし法に従わないことがあれば、逆に杖を取って自分を打ち、それによって子供たちを感化させようとした。子供たちは恥じて過ちを改めた。当初、賊寇に遭い、百姓たちは誰も農耕に従事しなかった。恭は常に独りで田を耕し、郷人が止めて言った。「時世は混乱しており、生死も定まっていないのに、どうして無駄に苦労するのか」。

原文王莽末,歲饑兵起,恭兄崇將為盜所亨,恭請代,得俱免。後崇卒,恭養孤幼,教誨學問,有不如法,輒反用杖自棰,以感悟之,兒籩而改過。初遭賊寇,百姓莫事農桑。恭常獨力田耕,鄉人止之曰:「時方淆亂,死生未分,何空自苦為?」

恭は言った。「たとえ私が得られなくても、他の人に何の害があろうか」。耕し草取りをやめなかった。後に州郡が相次いで召し出したが応じず、幽居して志を養い、山沢に隠れた。行動や立ち振る舞いは、必ず礼の規範に従った。建武年間、郡が孝廉に推挙し、司空が辟召したが、いずれも応じず、琅邪郡の黔陬山に客として隠れ、数十年を過ごした。

原文恭曰:「縱我不得,它人何傷。」墾耨不輟。後州郡連召,不應,遂幽居養志,潛於山澤。舉動周旋,必由禮度。建武中,郡舉孝廉,司空辟,皆不應,客隱琅邪黔陬山,遂數十年。[一]

(注)黔陬県の山である。黔陬の旧城は現在の密州諸城県の東北にある。

原文(注[一]黔陬縣之山也。黔陬故城在今密州諸城縣東北也。)

建初元年、粛宗(章帝)は詔を下して淳於恭の素行を称え、郡に告げて絹二十匹を賜り、公車に派遣し、議郎に任命した。引見して終日話し、政事について諮問し、侍中騎都尉に昇進させ、礼遇は非常に厚かった。彼が推薦した名士賢人は、みな召し出されて任用された。進み出て政事を述べる時は、すべて道徳を根本とし、帝と話す時、帝は常に善いと称賛した。五年、病が重くなると、使者がたびたび見舞い、官職のまま亡くなった。

原文建初元年,肅宗下詔美恭素行,告郡賜帛二十匹,遣詣公車,除為議郎。引見極日,訪以政事,遷侍中騎都尉,禮待甚優。其所薦名賢,無不徵用。進對陳政,皆本道德,帝與之言,未嘗不稱善。五年,病篤,使者數存問,卒於官。

詔書で褒め称え、穀物千斛を賜り、石碑を立てて里門を表彰した。子の淳於孝を太子舎人に任命した。

原文詔書褒歎,賜穀千斛,刻石表閭。除子孝為太子舍人。

江革

原文江革

江革は字を次翁といい、斉国臨淄の人である。幼くして父を失い、母と二人で暮らした。天下が乱れ、盗賊が一斉に起こると、革は母を背負って難を逃れ、あらゆる険阻を経験し、常に採集拾いをして生計を立てた。たびたび賊に遭遇し、時には連れ去られそうになったが、革はいつも涙を流して哀願し、老いた母がいると言い、言葉と態度は謹み深く誠実で、人を感動させるに足るものがあった。賊はそれゆえに彼を害するに忍びず、あるいは避難する道筋を教え、こうして難を共に全うすることができた。革は転じて下邳に客居し、貧窮して裸足で、雇われ仕事をして母を養い、身の回りの品は、必要なものはすべて与えた。

原文江革字次翁,齊國臨淄人也。少失父,獨與母居。遭天下亂,盜賊並起,革負母逃難,備經阻險,常採拾以為養。數遇賊,或劫欲將去,革輒涕泣求哀,言有老母,辭氣願款,有足感動人者。[一]賊以是不忍犯之,或乃指避兵之方,[二] 遂得俱全於難。革轉客下邳,窮貧裸跣,行傭以供母,便身之物,莫不必給。

(注)願は謹み深いこと。款は誠実であること。

原文(注[一]願,謹也。款,誠也。

注)華嶠の書には「避難の道を教えた」とある。

原文注[二]華嶠書曰「語以避兵道」也。)

建武末年、母と共に故郷に帰った。毎年、歳時(戸籍調査)の時期になると、県は照合調査を行うが、革は母が年老いているため、揺り動かしたくないと思い、自ら轅の中に入って車を引き、牛馬を使わなかった。これによって郷里の人々は彼を「江巨孝」と称えた。太守がかつて礼を整えて召し出したが、革は母が年老いているとして応じなかった。母が亡くなると、天性の孝心はほとんど消え入るほどで、常に墓舎に伏して過ごし、喪服の期間が終わっても、脱ぐことを忍ばなかった。郡守は丞や掾を遣わして喪服を脱がせ、その上で吏として任用しようと請うた。

原文建武末年,與母歸鄉里。每至歲時,縣當案比,[一]革以母老,不欲搖動,自在轅中挽車,不用牛馬,由是鄉里稱之曰「江巨孝」。[二]太守嘗備禮召,革以母老不應。及母終,至性殆滅,嘗寢伏頤廬,服竟,不忍除。郡守遣丞掾釋服,因請以為吏。

(注)案じて照合すること、今で言う閲覧のようなものである。

原文(注[一]案驗以比之,猶今魍閱也。

注)巨は大である。華嶠の書には「臨淄県令の楊音が彼を高く評価し、特別な席を設け、大勢の人々の中で巨孝を顕彰し、自ら銭を奉じて供養を助けた」とある。

原文注[二]巨,大也。華嶠書曰「臨淄令楊音高之,設特席,顯異巨孝於稠人廣觿中,親奉錢以助供養」也。)

永平初年、孝廉に推挙されて郎となり、楚の太僕に補任された。一か月余りで、自ら罪を認めて去った。楚王の劉英は急いで官属を遣わして追わせたが、遂に戻ろうとしなかった。また中傅を遣わして贈り物をしたが、辞退して受け取らなかった。後にたびたび三公の命令に応じたが、すぐに去った。

原文永平初,舉孝廉為郎,補楚太僕。月餘,自劾去。楚王英馳遣官屬追之,遂不肯還。復使中傅贈送,辭不受。後數應三公命,輒去。

建初初年、太尉の牟融が賢良方正に推挙し、再び司空長史に昇進した。粛宗(章帝)は彼を非常に尊重して礼遇し、五官中郎将に昇進させた。

原文建初初,太尉牟融舉賢良方正,再遷司空長史。肅宗甚崇禮之,遷五官中郎將。

朝会のたびに、皇帝は常に虎賁に命じて彼を扶けさせ、拝礼の際には常に目礼をした。

原文每朝會,帝常使虎賁扶侍,及進拜,恆目禮焉。[一]時有疾不會,輒太官送醪膳,恩寵有殊。於是京師貴戚衛尉馬廖、侍中竇憲慕其行,各奉書致禮,革無所報受。[二]帝聞而益善之。後上書乞骸骨,轉拜諫議大夫,賜告歸,因謝病稱篤。

(注:独り彼を見つめること。)

原文(注[一]獨視之也。

(注:華嶠の書によると、「終に返書せず、何一つ受け取らなかった。」)

原文注[二]華嶠書曰:「終不報書,一無所受。」)

元和年間、天子は江革の至高の行いを思い、詔を下して斉の相に言った。「諫議大夫江革は、以前病気で帰郷したが、今の起居はどうか。孝は百行の冠であり、あらゆる善の始まりである。国家は志士を思うたびに、常に江革のことを考えている。県は現物の穀物千斛を『巨孝』に賜い、常に八月に長吏が慰問し、羊と酒を届けて、その身の終わりまで続けよ。もし不幸があれば、中牢の礼で祭祀せよ。」これにより「巨孝」の称は天下に行き渡った。彼が亡くなると、詔によりさらに穀物千斛を賜った。

原文元和中,天子思革至行,制詔齊相曰:「諫議大夫江革,前以病歸,今起居何如?夫孝,百行之冠,觿善之始也。國家每惟志士,未嘗不及革。縣以見谷千斛賜『巨孝』,常以八月長吏存問,致羊酒,以終厥身。[一]如有不幸,祠以中牢。」由是「巨孝」之稱,行於天下。及卒,詔復賜谷千斛。

(注:華嶠の書によると、「羊一頭、酒二斛を届けた。」)

原文(注[一]華嶠書曰:「致羊一頭,酒二斛。」)

劉般

原文劉般

劉般は字を伯興といい、宣帝の玄孫である。宣帝は子の囂を楚に封じ、これが孝王となった。孝王は思王衍を生み、衍は王紆を生み、紆は劉般を生んだ。囂から劉般に至るまで、仁義を積み重ね、代々名声と節操があり、特に紆は慈愛に篤かった。早くに母を失い、同母弟の原郷侯平がまだ幼かったので、紆は自ら養育し、常に共に寝起きし飲食した。成人しても、左右を離れたことはなかった。平が病死すると、紆は泣き血を吐き、数ヶ月後にも亡くなった。初め、紆は王の封を襲ったが、王莽の簒位に遭い、庶人に落とされ、彭城に家を構えた。

原文劉般字伯興,宣帝之玄孫也。宣帝封子囂於楚,是為孝王。孝王生思王衍,衍生王紆,紆生般。自囂至般,積累仁義,世有名節,而紆尤慈篤。早失母,同產弟原鄉侯平尚幼,紆親自鞠養,常與共臥起飲食。及成人,未嘗離左右。平病卒,紆哭泣歐血,數月亦歿。初,紆襲王封,因值王莽篡位,廢為庶人,因家於彭城。

劉般は数歳で孤児となり、母と二人で暮らした。王莽が敗れ、天下が乱れると、太夫人(劉般の母)は更始帝が即位したと聞き、劉般を連れて長安へ逃れた。ちょうど更始帝が敗れたので、再び劉般と共に戦乱の中を転々とし、西へ行って隴に上り、遂に武威まで流れ着いた。劉般はまだ幼かったが、志を篤くし行いを修め、講義と誦読を怠らなかった。その母や諸舅は、身を絶域に寄せ、生死も定かでないのに、このように精神を苦しめるべきではないと考え、たびたび劉般を諭したが、劉般はなおもその業を改めなかった。

原文般數歲而孤,獨與母居。王莽敗,天下亂,太夫人聞更始即位,[一]乃將般俱奔長安。會更始敗,復與般轉側兵革中,西行上隴,遂流至武威。般雖尚少,而篤志修行,講誦不怠。其母及諸舅,以為身寄絕域,死生未必,[二]不宜苦精若此,數以曉般,般猶不改其業。

(注:太夫人は劉般の母である。前書音義によると、「列侯の妻は夫人と称し、母は太夫人と称する。」)

原文(注[一]太夫人,般之母也。前書音義曰:「列侯之妻稱夫人,母稱太夫人。」

(注:「必」はある本では「分」と作る。)

原文注[二]「必」或作「分」也。)

建武八年、隗囂が敗れ、河西の道が初めて開通すると、劉般はすぐに家族を連れて東の洛陽へ至り、師の門で経学を修めた。翌年、光武帝は詔を下し、劉般を菑丘侯に封じて孝王の祭祀を奉じさせ、国へ赴かせた。後にその国が楚王に属することとなり、封地を杼秋侯に移した。

原文建武八年,隗囂敗,河西始通,般即將家屬東至洛陽,修經學於師門。明年,光武下詔,封般為菑丘侯,奉孝王祀,使就國。後以國屬楚王,徙封杼秋侯。[一]

(注:杼秋は県で、梁国に属する。杼の音は是與反。)

原文(注[一]杼秋,縣,屬梁國。杼音是與反。)

十九年、皇帝が沛に行幸した際、詔で郡中の諸侯の行いと才能を問うた。太守は劉般を推薦し、謹んで身を修め至高の行いがあり、諸侯の師表となると言った。皇帝はこれを聞いて賞賛し、劉般に綬、銭百万、繒二百匹を賜った。二十年、再び車駕と沛で会い、これに従って洛陽に戻り、穀物や什器を賜り、侍祠侯として留まった。

原文十九年,行幸沛,詔問郡中諸侯行能。太守薦言般束修至行,為諸侯師。[一] 帝聞而嘉之,乃賜般綬,錢百萬,繒二百匹。二十年,復與車駕會沛,因從還洛陽,賜谷什物,留為侍祠侯。

(注:束修とは謹んで身を修め清潔にすることをいう。)

原文(注[一]束修謂謹束修絜也。)

永平元年、その国が沛に属することとなり、封地を居巣侯に移し、再び諸侯に従って国へ赴いた。数年後、楊州刺史の観恂が劉般を推薦し、国において口に選ぶ言葉がなく、行いに怨みや憎しみがなく、表彰されるべきであると言った。顕宗はこれを賞賛した。十年、劉般を召し出して執金吾の職務を行わせ、南陽への行幸に従い、戻って朝侯となった。翌年、屯騎校尉を兼ねた。当時、五校の官は顕職で閑職であり、役所は広々としており、車や服は華麗で、技芸や工巧がすべて整っていたので、多くは宗室や肺腑の者がこれを占めた。皇帝が郡国に行幸するたび、劉般は常に長水胡騎を率いて従った。

原文永平元年,以國屬沛,徙封居巢侯,[一]復隨諸侯就國。數年,楊州刺史觀恂薦般在國口無擇言,行無怨惡,宜蒙旌顯。顯宗嘉之。十年,征般行執金吾事,從至南陽,還為朝侯。明年,兼屯騎校尉。時五校官顯職閒,而府寺寬敞,輿服光麗,伎巧畢給,故多以宗室肺腑居之。[二]每行幸郡國,般常將長水胡騎從。

(注[一]居巢は県で、廬江郡に属する。

原文(注[一]居巢,縣,屬廬江郡也。

注[二]肺腑とは、天子の親族のことである。)

原文注[二]肺腑,天子之親屬也。)

皇帝はかつて常平倉を設置しようとし、[一]公卿の議論する者は多く便利だと考えた。劉般はこれに対し、「常平倉は外には民に利益があるという名目があるが、内実は百姓を侵害し、豪族がこれに乗じて悪事を働き、小民は公平を得ることができず、設置するのは不便である」と答えた。皇帝はそこでやめた。この時、民に二業を禁じる命令が下され、[二]また郡国で牛疫が流行したため、区種法を通達して耕作を増やさせたが、[三]役人が検査して報告する際、多くが実態を失い、百姓はこれを憂えた。劉般が上言した。「郡国は官の禁令で二業を禁じ、田を持つ者が漁猟できないことさえある。今、江湖に臨む郡は概して養蚕が少なく、民は漁労や採集を頼りに食糧を補っている。しかも冬春の農閑期には農事の妨げにならない。漁猟の利益は、田の害を除き、穀物の収穫を助けるものであり、二業には当たらない。また郡国は牛疫や水害・旱害のため、開墾田が多く減少しているので、詔勅で区種法を命じ、耕作面積を増やそうとしているのは民のためである。ところが役人が田畑を測量する際、前年より多く見せようとし、[四]耕作していない場所までも租税の対象に含めている。刺史や二千石に厳命し、必ず実態を調査させるべきである。増加分がある者は、皆、田畑を奪ったのと同じ罪に処すように。」皇帝はすべてこれに従った。[五]

原文帝曾欲置常平倉,[一]公卿議者多以為便。般對以「常平倉外有利民之名,而內實侵刻百姓,豪右因緣為奸,小民不能得其平,置之不便」。帝乃止。是時下令禁民二業,[二]又以郡國牛疫,通使區種增耕,[三]而吏下檢結,多失其實,百姓患之。般上言:「郡國以官禁二業,至有田者不得漁捕。今濱江湖郡率少蠶桑,民資漁采以助口實,且以冬春閒月,不妨農事。夫漁獵之利,為田除害,有助谷食,無關二業也。又郡國以牛疫、水旱,墾田多減,故詔敕區種,增進頃畝,以為民也。而吏舉度田,欲令多前,[四]至於不種之處,亦通為租。可申敕刺史、二千石,務令實核,其有增加,皆使與奪田同罪。」帝悉從之。[五]

(注[一]宣帝の時、大司農の耿壽昌が辺境の郡すべてに倉を築かせ、穀物が安い時に価格を上げて買い入れ農民を利し、穀物が高い時に価格を下げて売り出すことを請願し、常平倉と名付けた。

原文(注[一]宣帝時,大司農耿壽昌請令邊郡皆築倉,以谷賤時增其價而糴之以利農,谷貴時減價而糶之,名曰常平倉。

注[二]農民が商売をしてはならないという意味。

原文注[二]謂農者不得商賈也。

注[三]氾勝之書に言う。「上農の区田法は、区の一辺と深さがそれぞれ六寸、間隔は七寸離し、一畝に三千七百区、成年男女が十畝を耕すと、秋の収穫時には一区あたり三升の粟を得、一畝で百斛を得る。中農の区田法は、一辺七寸、深さ六寸、間隔二尺、一畝千二十七区、成年男女が十畝を耕すと、秋に粟を一畝あたり五十一石得る。下農の区田法は、一辺九寸、深さ六寸、間隔三尺、秋に一畝あたり二十八石を得る。旱魃の時は水をかけて湿らせる。」

原文注[三]泛勝之書曰:「上農區田*(大)**[法]*,區方深各六寸,閒相去七寸,一畝三千七百區,丁男女種十畝,至秋收區三升粟,畝得百斛。中農區田法,方七寸,深六寸,閒相去二尺,一畝千二十七區,丁男女種十畝,秋收粟畝得五十一石。下農區田法,方九寸,深六寸,閒相去三尺,秋收畝得二十八石。旱即以水沃之。」

注[四]前年の数値より多くすること。

原文注[四]多於前歲。

注[五]華嶠の書では「奪」を「脱」としている。)

原文注[五]華嶠書*(曰)*「奪」作「脫」也。)

粛宗(章帝)が即位すると、劉般を長楽少府に任じた。建初二年、宗正に転任した。劉般の妻が亡くなると、手厚く贈り物を贈り、また顕節陵の下に墓地を賜った。劉般は在職中にたびたび政事について意見を述べた。九族を収容し慈しむ行いは特に顕著で、当時の人々に称賛された。六十歳で、建初三年に亡くなった。子の劉憲が後を継いだ。劉憲が亡くなると、子の劉重が後を継いだ。劉憲の兄に劉愷がいる。

原文肅宗即位,以為長樂少府。建初二年,遷宗正。般妻卒,厚加賵贈,及賜頤塋地於顯節陵下。般在位數言政事。其收恤九族,行義尤著,時人稱之。年六十,建初三年卒。子憲嗣。憲卒,子重嗣。憲兄愷。

劉愷は字を伯豫といい、劉般の爵位を継ぐべき立場にあったが、弟の劉憲に譲り、逃亡して封を避けた。長い間が過ぎ、章和年間に、役人が劉愷の封国を取り上げるよう上奏した。粛宗はその義を称え、特に寛大に扱い、[一]劉愷はなおも出仕しなかった。十数年が経ち、永元十年に、役人が再びこのことを上奏した。侍中の賈逵がこれに乗じて上書した。「孔子は『礼譲をもって国を治めることができれば、政治を行うのに何の困難があろうか』と称えました。[二]私見では、居巣侯劉般の嗣子である劉愷は、平素から孝行で友愛に厚く、謙遜し清廉で、封を弟の劉憲に譲り、身を潜めて遠くに逃れました。役人は善を喜ぶ心を推し量らず、常套の法で縛ろうとしており、[三]長く譲り合いの風を保ち、包容広大な教化を成すことにはならないと危惧します。前代には扶陽侯の韋玄成が、[四]近くには陵陽侯の丁鴻、鄳侯の鄧彪が、[五]いずれも高い行いと清廉な身を持って爵位を辞し、貶削されたとは聞かず、皆、三公の地位に登りました。今、劉愷は前人の立派な行いを仰ぎ見て、伯夷のような節操を持っています。[六]憐れみ許すに値し、その先祖の功績を全うさせ、聖朝の徳を尊ぶ美しさを増すべきです。」和帝はこれを受け入れ、詔を下した。「故に居巣侯劉般の嗣子である劉愷は、劉般の爵位を継ぐべきであったが、父の遺志を称え、国を弟の劉憲に譲り、七年間逃亡し、守る志はますます固かった。そもそも王法は善を尊び、人の美事を成し遂げるものである。劉憲に爵位を継がせることを認める。

原文愷字伯豫,以當襲般爵,讓與弟憲,遁逃避封。久之,章和中,有司奏請絕愷國,肅宗美其義,特優假之,[一]愷猶不出。積十餘歲,至永元十年,有司復奏之,侍中賈逵因上書曰:「孔子稱『能以禮讓為國,於從政乎何有』。[二]竊見居巢侯劉般嗣子愷,素行孝友,謙遜絜清,讓封弟憲,潛身遠多。有司不原樂善之心,而繩以循常之法,[三]懼非長克讓之風,成含弘之化。前世扶陽侯韋玄成,[四]近有陵陽侯丁鴻、鄳侯鄧彪,[五]並以高行絜身辭爵,未聞貶削,而皆登三事。今愷景仰前修,有伯夷之節,[六]宜蒙矜宥,全其先功,以增聖朝尚德之美。」和帝納之,下詔曰:「故居巢侯劉般嗣子愷,當襲般爵,而稱父遺意,致國弟憲,遁亡七年,所守彌篤。蓋王法崇善,成人之美。其聽憲嗣爵。

事に遭った際の適切な処置であり、後世の例としてはならない。」そこで劉愷を召し出し、郎に任じ、次第に侍中に昇進した。

原文遭事之宜,後不得以為比。」乃征愷,拜為郎,稍遷侍中。

(注[一]假は借りる(寛大に扱う)の意。

原文(注[一]假,借也。

注[二]論語の文である。何有とは、何の難しいことがあろうか、という意味である。

原文注[二]論語之文也。何有者,言*(善無)**[何難之]*有也。

注[三]原は本(推し量る)の意。繩は正す(規準に従わせる)の意。

原文注[三]原,本也。繩,政也。

注[四]玄成は字を少翁といい、韋賢が亡くなると、封を兄の韋弘に譲った。宣帝はその節操を高く評価し、河南太守とした。元帝の時に御史大夫となり、また丞相となった。前漢書に見える。

原文注[四]玄成字少翁,韋賢薨,讓封于兄弘。宣帝高其節,以為河南太守。元帝時為御史大夫,又為丞相。見前書也。

注[五] 劉鴻は封国を弟の劉盛に譲り、和帝の時に司徒となった。劉彪は封国を弟の劉荊、劉鳳に譲り、明帝の時に太尉となった。鄳は音は盲。

原文注[五]鴻讓國於弟盛,和帝時為司徒。彪讓國於弟荊、鳳,明帝時為太尉。鄳音盲。

注[六] 景は慕と同じ意味である。詩経に「景行行止(高き行いに従って行う)」とある。前修とは、前の賢者のことである。楚辞に「蹇吾法夫前修(私はかたくなに前の賢者に倣う)」とある。)

原文注[六]景猶慕也。詩云:「景行行止。」前修,前賢也。楚辭曰:「蹇吾法夫前修。」)

劉愷が朝廷に入ると、在職する者は皆その風範と行いに敬服した。步兵校尉に転任した。十三年、宗正に転任し、免官された。再び侍中に任命され、長水校尉に転任した。永初元年、周章に代わって太常となった。劉愷は古風を重んじる性格で、隠士を尊び、徴用や推挙があるたびに、必ずまず山林の隠者を優先した。議論は正道を引き、言葉遣いは高雅であった。永初六年、張敏に代わって司空となった。元初二年、夏勤に代わって司徒となった。

原文愷之入朝,在位者莫不仰其風行。遷步兵校尉。十三年,遷宗正,免。復拜侍中,遷長水校尉。永初元年,代周章為太常。愷性篤古,貴處士,每有征舉,必先巖穴。論議引正,辭氣高雅。*(永初)*六年,代張敏為司空。元初二年,代夏勤為司徒。

旧制では、公卿、二千石、刺史は三年の喪に服すことができず、これによって朝廷内外の多くの官職で喪礼が廃されていた。元初年間、鄧太后は詔を下し、長吏以下の官で親の喪に服さない者は、都市を治めたり官吏を選挙したりする資格がないとした。当時、州牧や太守も同様の制に従うべきだという上奏があり、詔が公卿に下され議論されたが、論者は不便であると考えた。劉愷だけが異議を唱えて言った。「詔書が喪服の規定を設けたのは、教化を崇め風俗を励まし、孝道を広めるためです。今、刺史は一州の模範、二千石は千里の師表であり、その職務は百姓を弁別し明らかにし、風俗を美しく宣揚することにあります。特に典礼を尊重し、自ら率先すべきです。ところが論者はその根本を探らず、牧守については適さないと言うのは、源を濁らせて流れが清くなることを望み、形を曲げて影が直くなることを欲するようなもので、得られるものではありません。」太后はこれに従った。

原文舊制,公卿、二千石、刺史不得行三年喪,由是內外觿職並廢喪禮。元初中,鄧太後詔長吏以下不為親行服者,不得典城選舉。時有上言牧守宜同此制,詔下公卿,議者以為不便。愷獨議曰:「詔書所以為制服之科者,蓋崇化厲俗,以弘孝道也。今刺史一州之表,二千石千里之師,[一]職在辯章百姓,宣美風俗,[二]尤宜尊重典禮,以身先之。而議者不尋其端,至於牧守則雲不宜,是猶濁其源而望流清,曲其形而欲景直,不可得也。」[三]太后從之。

(注[一] 前漢書に杜欽が「すなわち二千石が千里の地を守り、兵馬の重責を担う者は、郡を離れるべきではない」と言った。

原文(注[一]前書杜欽曰「即以二千石守千里之地,任兵馬之重,不宜去郡」也。

注[二] 尚書に「九族既睦,辯章百姓(九族がすでに睦まじくなったので、百姓を弁別し明らかにする)」とある。鄭玄の注に「辯は別、章は明らかにする」とある。

原文注[二]尚書曰:「九族既睦,辯章百姓。」鄭玄注云:「辯,別也。章,明也。」

注[三] 前漢書に杜欽が「今、淫らで邪な教化が流布しているのに、黎民が質朴であることを求めるのは、源を濁らせて流れが清くなることを求めるようなものだ」と言った。)

原文注[三]前書*[杜欽]*曰:「今淫僻之化流,而欲黎庶敦樸,猶濁其源而求流清也。」)

当時、征西校尉の任尚が私利を貪った罪で徴発され罪に当たった。任尚はかつて大将軍鄧騭の副官を務めており、鄧騭は彼を党として庇護した。そして太尉の馬英、司空の李合は鄧騭の意向を忖度し、まず上奏することなく、ただちに独断で任尚の贓罪による官職追放を解除した。劉愷はこの議論に加わろうとしなかった。後に尚書がこの事案を審査し、二府(太尉府と司空府)はともに譴責を受けた。朝廷はこのことで劉愷を称賛した。 注[一] 二府とは馬英と李合のこと。

原文時征西校尉任尚以奸利被征抵罪。尚曾副大將軍鄧騭,騭黨護之,而太尉馬英、司空李合承望騭旨,不復先請,即獨解尚臧錮,愷不肯與議。後尚書案其事,二府並受譴咎,[一]朝廷以此稱之。 注[一]二府即馬英、李合。

職務について五年後、永寧元年、病気を理由に上書して致仕を願い出た。詔があり優遇してこれを許し、加えて銭三十万を賜り、千石の禄で帰郷して養老することとなった。河南尹は常に毎年八月に羊と酒を贈った。当時、安帝が初めて政事に親政し始め、朝廷では劉愷の徳を称える者が多かった。帝は使者を遣わして起居を問わせ、手厚く賞賜を加えた。ちょうど馬英が策免された時、尚書の陳忠が上疏して劉愷を推薦した。「臣は聞きます。三公は上は天の階段(台階)に、下は山岳に象り、天子の股肱として鼎の足のように職に就き、陰陽を調和し、五品(五常の教え)を調理・教化し、功績を考課し才能を量り、多くの官僚を序列づけます。烈風に遭っても迷わず、激しい雨に遭っても惑わない。位はこれ以上に重いものはありません。ところが今、上司(三公)の職が欠員であり、その人選が議論されていません。臣はひそかに諸卿を比較検討し、衆議を考察して合わせると、皆が太常の朱倀と少府の荀遷を称えています。臣の父の陳寵は以前、司空を辱めましたが、朱倀と荀遷はともにその属官であり、その能力をよく知っています。朱倀は経書を説くことはできますが、心が狭量です。荀遷は厳格で剛直ですが、学芸に浅薄です。伏して見ますに、前司徒の劉愷は、沈着で深遠な美徳を持ち、道徳が広く備わり、爵位と封土を譲り、その福を弱い弟に与え、浮雲のような志を躬行し、浩然の気を兼ね備え、頻繁に二司(司徒・司空)を歴任し、挙措が礼に適っています。病気により致仕し、里巷に身を置き、質素な生活の中で純粋な思いを持ち、進退に節度があり、百官の模範となり、海内の帰依する対象となっています。過去の孔光、師丹、近世の鄧彪、張酺は皆、宰相の職を去った後、再び上司(三公)の序列に加えられました。誠に卓抜した人物を簡抜・練達し、衆望に応えるべきです。」上書が奏上されると、詔により劉愷は召し出されて太尉に任命された。安帝の初め、清河相の叔孫光が贓罪に坐して罪に当たり、そのため二世にわたる官職追放が追加され、その子にまで禍が及んだ。この時、居延都尉の范邠が再び贓罪を犯し、詔が三公と廷尉に下されて議論された。司徒の楊震、司空の陳褒、廷尉の張皓は、叔孫光の前例に倣うべきと議した。劉愷だけが「春秋の義は、『善はその子孫にまで及び、悪はその身で止まる』というもので、人を善に導くためのものです。尚書に『上刑は軽いものを挟み、下刑は重いものを挟む』とあります。今、贓罪を犯した官吏の子孫を禁錮するのは、軽い罪から重い罰に及ぼすことで、善人にまで及ぶことを恐れます。これは先王が刑罰を詳らかにした意図ではありません。」と考えた。詔があり、「太尉の議が正しい。」とした。

原文視事五歲,永寧元年,稱病上書致仕,有詔優許焉,加賜錢三十萬,以千石祿歸養,河南尹常以歲八月致羊酒。時安帝始親政事,朝廷多稱愷之德,帝乃遣問起居,厚加賞賜。會馬英策罷,尚書陳忠上疏薦愷曰:「臣聞三公上則台階,下象山嶽,[一]股肱元首,鼎足居職,[二]協和陰陽,調訓五品,[三]考功量才,以序庶僚,遭烈風不迷,遇迅雨不惑,位莫重焉。[四]而今上司缺職,未議其人。臣竊差次諸卿,考合觿議,咸稱太常朱倀、少府荀遷。臣父寵,前忝司空,倀、遷並為掾屬,具知其能。倀能說經書而用心褊狹,遷嚴毅剛直而薄於藝文。伏見前司徒劉愷,沉重淵懿,道德博備,克讓爵土,致祚弱弟,躬浮雲之志,兼浩然之氣,[五]頻歷二司,舉動得禮。[六]以疾致仕,側身里巷,處約思純,進退有度,百僚景式,[七]海內歸懷。往者孔光、師丹,近世鄧彪、張酺,皆去宰相,復序上司。[八]誠宜簡練卓異,以猒觿望。」書奏,詔引愷拜太尉。安帝初,清河相叔孫光坐臧抵罪,遂增錮二世,釁及其子。[九]是時居延都尉范邠復犯臧罪,詔下三公、廷尉議。司徒楊震、司空陳褒、廷尉張皓議依光比。[一0]愷獨以為「春秋之義,『善善及子孫,惡惡止其身』,所以進人於善也。[一一]尚書曰:『上刑挾輕,下刑挾重。』[一二]如今使臧吏禁錮子孫,以輕從重,懼及善人,[一三]非先王詳刑之意也」。[一四]有詔:「太尉議是。」

(注[一] 前漢書音義に「泰階とは、天の三階である。上階は天子、中階は諸侯・公卿・大夫、下階は士・庶人である。」春秋漢含孳に「三公は五嶽に象る」とある。

原文(注[一]前書音義曰:「泰階者,天之三階也。上階為天子,中階為諸侯、公卿、大夫,下階為士、庶人。」春秋漢含孳曰:「三公象五嶽。」

注[二] 易経に「鼎の足が折れると、公の食物(餗)が覆る」とある。鼎の足は三公の象徴である。

原文注[二]易曰:「鼎折足,覆公餗。」鼎足,三公之象。

注[三] 五品とは、五常(仁義礼智信)の教えである。三公は陰陽を調和し、五教を敬って布くのである。

原文注[三]五品,五常之教也。三公燮理陰陽,敬敷五教也。

注[四] 尚書に「舜を大麓(山林)に納れるも、烈風雷雨迷わず」とある。史記に「堯が舜を山林川沢に入らせたところ、暴風雨が起こったが、舜は迷わずに行ったので、堯は聖であると考えた」とある。

原文注[四]尚書:「納舜於大麓,烈風雷雨不迷。」史記曰「堯使舜入山林川澤,暴風雨,舜行不迷,堯以為聖」也。

注[五] 孔子が「不義にして富み且つ貴きは、我にとって浮雲の如し」と言った。孟子が「我は善く浩然の気を養い、怨み害する所がなければ、天地の間に満ちる」と言った。劉愷に仲尼や孟軻の徳があるというのである。

原文注[五]孔子曰:「不義而富*[且貴]*,於我如浮雲。」孟子曰「我善養浩然之氣,而無怨害,則塞乎天地之閒」也。言愷有仲尼、孟軻之德也。

注[六] 二司とは司徒と司空を指す。

原文注[六]二司謂為司徒、司空。

注[七]景慕はこれをもって法式とした。

原文注[七]景慕以為法式。

注[八]孔光は成帝の時の丞相で、哀帝の時に免官され、後に日食のため公車に召されて、再び丞相となった。師丹は哀帝の時に王莽に代わって大司馬となり、後に大司空となった。鄧彪は明帝の時に太尉となり、章帝の元和元年に策を賜って罷免されたが、和帝が即位すると、鄧彪を太傅とし、尚書事を録させた。張酺は和帝の永元五年に太尉となり、後に策免され、十六年に再び司徒となった。

原文注[八]孔光,成帝時丞相,哀帝時免,後以日食征詣公車,復為丞相。師丹,哀帝時代王莽為大司馬,後為大司空。鄧彪,明帝時為太尉,章帝元和元年賜策罷,和帝即位,以彪為太傅,錄尚書事。張酺,和帝永元五年為太尉,後策免,十六年復為司徒。

注[九]二代とは父子ともに禁錮されたことをいう。

原文注[九]二代謂父子俱禁錮。

注[一〇]比は類の意。邠を叔孫光に類するとして、子にも及んで禁錮したのである。比の音は庇。

原文注[一0]比,類也。以邠類叔孫光,亦錮及子也。比音庇。

注[一一]公羊伝に「曹の公孫会が鄸より出奔して宋に至った。これは反逆である。なぜ反逆と言わないのか。公子喜時の後であることを諱いみなったのである。春秋は賢者を諱る。公子喜時の何が賢いのか。国を譲ったことである。君子の善を善とするのは長く、悪を悪とするのは短い。悪を悪とするのはその身に止め、善を善とするのは子孫に及ぶ。賢者の子孫であるから、君子はそのことを諱るのである」とある。

原文注[一一]公羊傳曰:「曹公孫會自鄸出奔宋,畔也。曷為不言畔?為公子喜時之後諱也,春秋為賢者諱也。何賢乎公子喜時?讓國也。君子之善善也長,惡惡也短。惡惡止其身,善善及子孫。賢者子孫,故君子為其諱也。」

注[一二]今の尚書呂刑篇に「上刑にして軽きに適うは下服し、下刑にして重きに適うは上服す」とある。二つの罪がともに発覚した場合、その本来の事情を推し量り、減軽すべきところがあれば、それに応じて軽くあるいは重くする、という意味である。ここで「軽きを挟み重きを挟む」と言っているのは、意図は同じだが、ただ今の尚書の文とは異なるだけである。

原文注[一二]今尚書呂刑篇曰:「上刑適輕下服,下刑適重上服。」謂二罪俱發,原其本情,須有虧減,故言適輕適重。此言「挾輕挾重」,意亦不殊,但與今尚書不同耳。

注[一三]左伝に「刑が濫用されると善人までが害を被ることを恐れる」とある。

原文注[一三]左傳曰:「刑濫則懼及善人。」

注[一四]尚書周穆王に「邦あり土ある者よ、汝に詳刑を告げる」とある。鄭玄の注に「詳は審らかに察するなり」とある。)

原文注[一四]尚書周穆王曰:「有邦有土,告汝詳刑。」鄭玄注云:「詳,審察之也。」)

三年間職務に当たり、病気を理由に骸骨を乞うたところ、ようやく許され、河南尹に下され、礼秩は以前の通りとした。一年余りして、家で死去した。詔により使者が喪事を監督し、東園の秘器と銭五十万、布千匹を賜った。

原文視事三年,以疾乞骸骨,久乃許之,下河南尹禮秩如前。歲餘,卒於家。詔使者護喪事,賜東園秘器,錢五十萬,布千匹。

末子の茂は字を叔盛といい、これも礼譲を好み、出納の官を歴任し、桓帝の時に司空となった。ちょうど司隸校尉の李膺らが罪に当たった時、南陽太守の成瑨と太原太守の劉瓚が獄に下され死罪に当たったので、茂は太尉の陳蕃、司徒の劉矩とともに上書して彼らを弁護した。帝は喜ばず、役人がその意を受けて三公を弾劾したので、茂はついに連座して免官された。建寧年間に、再び太中大夫となり、官で死去した。

原文少子茂,字叔盛,亦好禮讓,歷位出納,[一]桓帝時為司空。會司隸校尉李膺等抵罪,而南陽太守成档、太原太守劉暧下獄當死,茂與太尉陳蕃、司徒劉矩共上書訟之。帝不悅,有司承旨劾奏三公,茂遂坐免。建寧中,復為太中大夫,卒於官。

(注[一]出納とは尚書を指し、喉舌の官である。出とは上の言葉を受けて下に宣べることで、納とは下の言葉を聞いて上に伝えることである。)

原文(注[一]出納謂尚書,喉舌之官也。出謂受上言宣於下,納謂聽下言傳於上。)

周盤

原文周盤

周盤は字を堅伯といい、汝南郡安成県の人で、征士の周燮の同族である。祖父の周業は、建武初年に天水太守となった。

原文周盤字堅伯,汝南安成人,征士燮之宗也。[一]祖父業,建武初為天水太守。

周盤は若い頃に京師に遊学し、古文尚書、洪範五行、左氏伝を学び、礼を好み品行方正で、典謨(聖人の教え)でないことは語らず、諸儒に尊ばれた。貧しく暮らし母を養ったが、倹約して質素で生活が満たされなかった。かつて詩経の汝墳の最終章を誦して、慨然と嘆息し、韋帯(貧者の帯)を解き、孝廉に挙げられることを受けた。和帝の初年に謁者に拝され、任城長に任じられ、陽夏・重合の県令に転じた。三つの城を頻繁に歴任し、いずれも恵み深い政治を行った。後に母を思い、官を棄てて郷里に帰った。母が亡くなると、哀痛のあまりほとんど身を滅ぼすほどで、喪が明けると、墓の側に廬を結んだ。

原文盤少游京師,學古文尚書、洪範五行、左氏傳,好禮有行,非典謨不言,諸儒宗之。居貧養母,儉薄不充。嘗誦詩至汝墳之卒章,慨然而歎,[二]乃解韋帶,就孝廉之舉。[三]和帝初,拜謁者,除任城長,遷陽夏、重合令,[四]頻歷三城,皆有惠政。後思母,棄官還鄉里。及母歿,哀至幾於毀滅,服終,遂廬於頤側。

門徒を教授し、常に千人を数えた。

原文教授門徒常千人。

(注[一]燮には独自の伝がある。

原文(注[一]燮自有傳。

注[二]韓詩に言う:「汝墳は、家を辞する詩である。」その卒章は言う:「魴魚赬尾、王室如毀、雖則如娓、父母孔邇。」薛君の章句:「赬は赤なり。毀は烈火なり。孔は甚だしきなり。邇は近し。

原文注[二]韓詩曰:「汝墳,辭家也。」其卒章曰:「魴魚赬尾,王室如毀,雖則如娓,父母孔邇。」薛君章句:「赬,赤也。毀,烈火也。孔,甚也。邇,近也。

魴魚は労すれば尾が赤くなり、君子は労苦すれば顔色が変わるという。王室の政教が烈火の如くであるのに、なお触れ冒して仕える者は、父母が飢え寒さの憂いが甚だしく迫っているため、この禄仕をするのである。」

原文言魴魚勞則尾赤,君子勞苦則顏色變。以王室政教如烈火矣,猶觸冒而仕者,以父母甚迫近饑寒之憂,為此祿仕。」

注[三]韋皮で帯とし、仕えていない者の服である。仕官を求めるなら革帯を着けるので、これを解くのである。賈山の上書に「布衣韋帯の士」とある。

原文注[三]以韋皮為帶,未仕之服也。求仕則服革帶,故解之。賈山上書曰「布衣韋帶之士」也。

注[四]陽夏は淮南郡に属す。重合は勃海郡に属す。)

原文注[四]陽夏屬淮南郡。重合屬勃海郡。)

公府から三度招聘され、いずれも有道として特に徴召されたが、盤は友人に語って言った。「昔、方回や支父は精神を愛し和を養い、栄利をもってその生きる術を乱さなかった。[一] 我が親はすでに亡くなった。物事に従ってどうしようというのか?」遂に応じなかった。[二] 建光元年、七十三歳の時、歳旦に諸生を集めて会し、終日講論し、[三] そこで二人の子に命じて言った。「私は先日、先師の東裡先生の夢を見て、陰堂の奥で私と講義をした。」[四] やがて長く嘆息して言った。「まさか私の寿命が尽きるということか!もし命が終わる日が来たら、桐の棺で体を覆うのに十分、外の覆いで棺を覆うのに十分、形を整えて衣で覆い、棺をまっすぐ下ろして墓道を作らず、洗った衣と幅巾でよい。[五] 二尺四寸の簡を編み、堯典一篇を書き写し、刀と筆をそれぞれ一つずつ添えて、棺の前に置きなさい。聖人の道を忘れないということを示すためだ。」その月の十五日、病気もなく突然亡くなった。学ぶ者たちは天命を知っていたのだと考えた。

原文公府三辟,皆以有道特徵,盤語友人曰:「昔方回、支父嗇神養和,不以榮利滑其生術。[一]吾親以沒矣,從物何為?」遂不應。[二]建光元年,年七十三,歲朝會集諸生,講論終日,[三]因令其二子曰:「吾日者夢見先師東裡先生,與我講於陰堂之奧。」[四]既而長歎:「豈吾齒之盡乎!若命終之日,桐棺足以週身,外幟足以周棺,斂形懸封,濯衣幅巾。[五]編二尺四寸簡,寫堯典一篇,並刀筆各一,以置棺前,雲不忘聖道。」其月望日,無病忽終,學者以為知命焉。

(注[一]嗇は愛惜する意。滑は乱す意。列仙伝に言う:「方回は、堯の時代の隠者である。堯が招聘したが、雲母を練って食し、五柞山に隠れた。夏の啓の末年に至り、人に襲われ、室に閉じ込められ、道を求めたが、回は化して去った。」

原文(注[一]嗇,愛惜也。滑,亂也。列仙傳曰:「方回,堯時隱人也。堯聘之,練食雲母,隱於五柞山。至夏啟末,為人所劫,閉之室中,從求道,回化而去。」

高士伝に言う:「堯と舜はそれぞれ天下を支父に譲ろうとしたが、支父は言った:『私はちょうど労憂の病にかかっており、今まさにそれを治療しているところで、天下を治める暇はない。』」荘子では「支伯」と作る。

原文高士傳曰:「堯舜各以天下讓支父,支父曰:『予適有勞憂之病,方且療之,未暇理天下也。』」莊子作「支伯」。

注[二]物は事と同じ。

原文注[二]物猶事也。

注[三]歳朝は歳旦。

原文注[三]歲朝,歲旦。

注[四]東南の隅を奥と言い、陰堂は幽暗の室。さらにその奥に入るのは、死の象徴である。

原文注[四]東南隅謂之奧,陰堂幽暗之室。又入其奧,死之象也。

注[五]斂形とは衣でその形を覆うこと。懸封とは棺をまっすぐ下ろし、埏道を作らないこと。濯衣は衣を洗うことで、新しく作らない。幅巾は冠を加えないこと。封の音は窆。)

原文注[五]斂形謂衣覆其形。懸封謂直下棺,不為埏道也。濯衣,浣衣也,不更新制。幅巾,不加冠也。封音窆。)

盤と同じ郡の蔡順、字は君仲も、至孝をもって称えられた。[一] 順は幼くして孤児となり、母を養った。かつて薪を求めて出かけた時、客が突然訪れた。[二] 母は順が帰らないのを見て、その指を噛んだ。[三] 順はすぐに心が動き、薪を棄てて駆け戻り、跪いてその理由を尋ねた。母は言った。「急な客が来たので、私は指を噛んでお前に気づかせようとしたのだ。」母は九十歳で、天寿を全うして亡くなった。まだ葬ることができないうちに、里で火災が起こり、火がその家に迫ろうとした。順は棺柩に抱きついて伏し、号哭して天に叫んだ。すると火は他の家を越えて燃え、順だけが免れた。太守の韓崇は彼を召し出して東合祭酒とした。母は生前雷を恐れていた。亡くなってから後、雷が鳴るたびに、順は墓の周りを巡って泣きながら言った。「順はここにおります。」崇はこれを聞き、雷が鳴るたびに車馬を差し向けて墓所に行かせた。後に太守の鮑觿が孝廉に推挙したが、順は墓から遠く離れることができず、遂に就任しなかった。八十歳で、家で亡くなった。

原文盤同郡蔡順,字君仲,亦以至孝稱。[一]順少孤,養母。嘗出求薪,有客卒至,[二]母望順不還,乃噬其指,[三]順即心動,棄薪馳歸,跪問其故。母曰:「有急客來,吾噬指以悟汝耳。」母年九十,以壽終。未及得葬,裡中災,火將逼其捨,順抱伏棺柩,號哭叫天,火遂越燒它室,順獨得免。太守韓崇召為東合祭酒。母平生畏雷,自亡後,每有雷震,順輒圜頤泣,曰:「順在此。」崇聞之,每雷輒為差車馬到墓所。後太守鮑觿舉孝廉,順不能遠離墳墓,遂不就。年八十,終於家。

(注[一]汝南先賢伝に言う:「蔡順は母に仕えて至孝であった。井戸の桔橰が朽ちていたが、それは母の生年にあったもので、順は心配して、修理しようとしなかった。しばらくすると扶老籐が生え、それを巻きつけて、遂に堅固になった。」

原文(注[一]汝南先賢傳曰:「蔡順事母至孝。井桔橰朽,在母生年上,而順憂,不敢理之。俄而有扶老籐生,繞之,遂堅固焉。」

注[二]卒の音は千訥反。

原文注[二]卒音千訥反。

注[三]噬は嚙むことである。

原文注[三]噬,嚙也。)

趙咨

原文趙咨

趙咨は字を文楚といい、東郡燕の人である。[一]父の暢は博士となった。咨は幼くして孤児となり、孝行があり、州郡が孝廉に召し挙げたが、いずれも就任しなかった。注[一]燕の故城は、今の滑州胙城県であり、古の南燕の国である。

原文趙咨字文楚,東郡燕人也。[一]父暢,為博士。咨少孤,有孝行,州郡召舉孝廉,並不就。 注[一]燕故城,今滑州胙城縣也,古南燕之國也。

延熹元年、大司農の陳奇が咨を至孝有道として推挙し、そのまま博士に遷任した。霊帝の初め、太傅の陳蕃と大将軍の竇武が宦官に誅殺されると、咨は病を理由に辞職して去った。太尉の楊賜が特に辟召し、巾を飾って出入りさせ、講義と議論を請うた。[一]高第に挙げられ、累進して敦煌太守となった。病気で免官されて帰還し、自ら子孫を率いて耕作し生計を立てた。

原文延熹元年,大司農陳奇舉咨至孝有道,仍遷博士。靈帝初,太傅陳蕃、大將軍竇武為宦者所誅,咨乃謝病去。太尉楊賜特辟,使飾巾出入,請與講議。[一] 舉高第,累遷敦煌太守。以病免還,躬率子孫耕農為養。

(注[一]幅巾を頭飾りとし、冠冕を加えないこと。)

原文(注[一]以幅巾為首飾,不加冠冕。)

盗賊がかつて夜に押し入って略奪しようとしたが、咨は母が驚き恐れるのを心配し、先に門まで出て盗賊を迎え、食事を用意するよう頼んだ。そして謝って言った。「老母は八十歳で、病気を抱え養う必要があり、貧しく暮らし、朝夕の蓄えもありません。どうかわずかの衣類と食糧を置いていってください。」妻子やその他の物については、一切求めなかった。盗賊たちは皆感嘆し、跪いて辞退して言った。「私たちの犯した行いは無様で、賢者を侵害しました。」言い終わると走り去り、咨は物を追いかけて与えようとしたが、追いつかなかった。これによってますます有名になった。議郎に徴聘されたが、病気を理由に辞退して赴任せず、詔書で厳しく責められ、州郡が礼をもって発遣した。前後再三のことで、やむを得ず応召した。

原文盜嘗夜往劫之,咨恐母驚懼,乃先至門迎盜,因請為設食,謝曰:「老母八十,疾病須養,居貧,朝夕無儲,乞少置衣糧。」妻子物余,一無所請。盜皆籩歎,跪而辭曰:「所犯無狀,干暴賢者。」言畢奔出,咨追以物與之,不及。由此益知名。征拜議郎,辭疾不到,詔書切讓,州郡以禮發遣,前後再三,不得已應召。

再び東海相に任命された。任地へ赴く途中、滎陽けいようを通りかかった。敦煌出身の県令曹暠は、咨がかつて孝廉に推挙した人物であった。[一]道で出迎えて挨拶したが、咨は立ち止まらなかった。暠は亭まで送り、塵を望んでも及ばず、主簿に言った。「趙君は名声が高い。今、境界を通過するのに会わなければ、必ず天下の笑いものになるだろう。」すぐに印綬を棄て、東海まで追いかけた。咨に謁見を終えると、辞して家に帰った。彼が当時の人々に重んじられたのはこのようなものであった。

原文復拜東海相。之官,道經滎陽,令敦煌曹暠,咨之故孝廉也,[一]迎路謁候,咨不為留。暠送至亭次,望塵不及,謂主簿曰:「趙君名重,今過界不見,必為天下笑!」即棄印綬,追至東海。謁咨畢,辭歸家。其為時人所貴若此。

(注[一]咨が敦煌太守であった時、暠を孝廉に推薦した。)

原文(注[一]咨為敦煌太守時,薦暠為孝廉。)

咨は在官中清廉で簡素であり、日数に応じて俸禄を受け取り、豪族や徒党はその倹約な節度を恐れた。職務に就いて三年、病気を理由に自ら退任を願い出て、議郎に徴聘された。京師で病と闘い、臨終に際し、旧吏の朱只と蕭建らに告げ、薄い葬儀と素朴な棺、黄土で屍を支えるようにし、[一]速やかに朽ちさせ、早く土に帰ることを望み、子孫がこれを改めることを許さなかった。そして子の胤に遺書を残して命じた。「気を含む生き物は、生があれば必ず終わりがある。これは天地の常なる期限であり、自然の究極の定めである。それゆえ、道理に通じた達人は、この性命を鑑み、存亡を晦明とし、死生を朝夕とし、その生も楽しみとせず、死も悲しまない。死者とは、元気が体から去り、正しい魂が遊散し、素に返り始めに復し、端のないところに帰るのである。[二]すでに消滅し、糞土に還って合する。土は棄てられる物であり、どうして性情があって、その厚薄を制し、その燥湿を調えようとするのか。ただ生きている者の心情として、形骸の毀損を見るに忍びず、骨を掩い埋める制度があるのである。易に言う:『古の葬る者は、薪で衣を包み、野中に蔵した。後世の聖人が棺と椁に改めた。』[三]棺椁の造りは、黄帝から始まる。[四]陶唐の時代から、虞・夏に至るまで、なお簡朴を尊び、瓦あるいは木を用い、殷人に至って加えられた。[五]周室はこれに因り、二代の制度を兼ねた。さらに牆翣の飾りを重ね、[六]旌銘の儀礼で表し、[七]招魂や含み納める礼、[八]殯ひんぎ葬や墓所の期限、[九]棺椁を周囲に重ねる制度、[一0]衣衾を重ね襲う数、[一一]その事は煩雑で実を害し、品物は細かくて備え難い。しかし爵位の等級が異なり、貴賤の差等が別である。成王・康王以下、その典制は次第に乱れた。戦国に至り、次第に頽廃し、[一二]法度は衰え毀れ、上下が僭越して雑然とした。ついに晋侯に隧葬を請わせ、[一三]秦伯に殉葬させ、[一四]陳の大夫に三門の木を設けさせ、宋の司馬に石の椁の奢侈を造らせた。[一五]暴秦に至っては、道に背き徳を廃し、三代の制度を滅ぼし、淫邪な法を興し、国の財貨を三泉に費やし、人力を酈墓に尽くし、玩好品を糞土に窮め、技巧を窀穸に費やした。[一六]生民以来、葬儀を厚くする弊害は、これほど甚だしいものはなかった。仲尼が周礼を重ねて明らかにし、[一七]墨子が古道をもって励ましても、なお防ぐことができなかったのである。[一八]それゆえ華夏の士は、互いに競って凌ぎ尚び、礼の根本に背き、礼の末節に事え、礼の華美に務め、礼の実質を棄て、一家の財を尽くして、互いに奔走した。生きるための事を廃して終わりを営み、養うべきものを替えて厚葬に務めるのは、[一九]果たして聖人が礼を制定した意図と言えるだろうか。記に言う:『喪には礼があっても、哀しみが主である。』また言う:『喪は、易(儀礼の整備)よりも寧ろ戚(哀しみ)である。』今はそうではない。棺を並べ椁を合わせて孝行と思い、財貨を豊かにし衣服を重ねて惻隠の情を示すが、[二0]私はこれを取らない。昔、舜は蒼梧に葬られたが、二妃は従わなかった。[二一]どうして配偶が会い、常の場所を守ることがあろうか。聖主明王でさえ、なおこのようである。ましてや庶民においては、礼が及ばない。古人は時が同じならば会い、[二二]時が違えば別れ、[二三]動静は礼に応じ、事に臨んで適宜であった。王孫は裸葬し、[二四]墨夷は骸を露にし、[二五]皆、性理に通達し、速やかに変わることを貴んだ。梁伯鸞の父が没した時、巻いた筵で葬り、自身が亡くなってもその屍を返さなかった。[二六]あの数人は、どうして至親の恩を薄くし、忠孝の道を失ったと言えようか。ましてや私のような鄙陋で、徳もなく聡明でもなく、薄い志が内に明らかで、慕うところがある者、[二七]上は古人と同じくし、下は咎められることはない。必ず実行せよ。疑い異を生じるな。お前たちが目で見ることに飽き、耳で議論することを忌み、必ず改葬しようとして、私の志に背くことを恐れる。それゆえ遠く古の聖人を採り、近く事を行って揆え、お前たちの心を悟らせよう。ただ穴を掘り、棺椁が収まるようにし、棺が帰れば即ち葬り、[二八]平地に墳を築かず、日時を卜さず、葬儀に奠を設けず、墓側に留まらず、封樹を起こさない。ああ、小子よ、努めよ。私はもはや言うことはない。」朱只と蕭建が喪を送って家に着くと、[二九]子の胤は父の体が土と合するのを忍びず、改めて殯を行おうとした。只と建が顧命を譬えて諭したので、[三0]これに従って実行した。当時、咨は明達と称された。

原文咨在官清簡,計日受奉,豪黨畏其儉節。視事三年,以疾自乞,征拜議郎。抗疾京師,將終,告其故吏朱只、蕭建等,使薄斂素棺,籍以黃壤,[一]欲令速朽,早歸后土,不聽子孫改之。乃遺書敕子胤曰:「夫含氣之倫,有生必終,蓋天地之常期,自然之至數。是以通人達士,鑒茲性命,以存亡為晦明,死生為朝夕,故其生也不為娛,亡也不知戚。夫亡者,元氣去體,貞魂遊散,反素復始,歸於無端。[二]既已消僕,還合糞土。土為棄物,豈有性情,而欲制其厚薄,調其燥濕邪?但以生者之情,不忍見形之毀,乃有掩骼埋窆之制。易曰:『古之葬者,衣以薪,藏之中野,後世聖人易之以棺幟。』[三]棺幟之造,自黃帝始。[四]爰自陶唐,逮於虞、夏,猶尚簡樸,或瓦或木,及至殷人而有加焉。[五] 周室因之,制兼二代。復重以牆翣之飾,[六]表以旌銘之儀,[七]招復含斂之禮,[八]殯葬宅兆之期,[九]棺幟周重之制,[一0]衣衾稱襲之數,[一一]其事煩而害實,品物碎而難備。然而秩爵異級,貴賤殊等。自成、康以下,其典稍乖。至於戰國,漸至頹陵,[一二]法度衰毀,上下僭雜。終使晉侯請隧,[一三]秦伯殉葬,[一四]陳大夫設參門之木,宋司馬造石幟之奢。[一五]爰暨暴秦,違道廢德,滅三代之制,興淫邪之法,國貲糜於三泉,人力單于酈墓,玩好窮於糞土,伎巧費於窀穸。[一六]自生民以來,厚終之敝,未有若此者。雖有仲尼重明周禮,[一七]墨子勉以古道,猶不能御也。[一八]是以華夏之士,爭相陵尚,違禮之本,事禮之末,務禮之華,棄禮之實,單家竭財,以相營赴。廢事生而營終亡,替所養而為厚葬,[一九]豈雲聖人制禮之意乎?記曰:『喪雖有禮,哀為主矣。』又曰:『喪與其易也寧戚。』今則不然,並棺合幟,以為孝愷,豐貲重襚,以昭惻隱,[二0]吾所不取也。昔舜葬蒼梧,二妃不從。[二一]豈有匹配之會,守常之所乎?聖主明王,其猶若斯,況於品庶,禮所不及。古人時同即會,[二二]時乖則別,[二三]動靜應禮,臨事合宜。王孫裸葬,[二四]墨夷露骸,[二五]皆達於性理,貴於速變。梁伯鸞父沒,卷席而葬,身亡不反其屍。[二六]彼數子豈薄至親之恩,亡忠孝之道邪?況我鄙闇,不德不敏,薄意內昭,志有所慕,[二七]上同古人,下不為咎。果必行之,勿生疑異。恐爾等目猒所見,耳諱所議,必欲改殯,以乖吾志,故遠采古聖,近揆行事,以悟爾心。但欲制坎,令容棺幟,棺歸即葬,[二八]平地無墳。勿卜時日,葬無設奠,勿留墓側,無起封樹。於戲小子,其勉之哉,吾蔑復有言矣!」朱只、蕭建送喪到家,[二九]子胤不忍父體與土併合,欲更改殯,只、建譬以顧命,[三0]於是奉行,時稱咨明達。

(注[一]棺の中に土を置き、それで屍を支えること。

原文(注[一]棺中置土,以籍其屍也。

注[二]元気は天の気である。貞は正である。復は巡る。端は際である。太素・太始は天地の初めである。人が死ぬと、正しい魂が遊散し、太素に返り、太始を巡り、再び端際がないことを言う。

原文注[二]元氣,天之氣也。貞,正也。復,旋也。端,際也。太素、太始,天地之初也。言人既死,正魂遊散,反於太素,旋於太始,無復端際者也。

注[三]易の系辞の文である。

原文注[三]易系辭之文也。

注[四]劉向が言う:「棺椁の作は、黄帝から始まる。」案ずるに、礼記に「殷人は棺椁を用いる」とあり、殷に至って飾りが加えられたのであろう。

原文注[四]劉向曰:「棺幟之作,自黃帝始。」案:禮記曰「殷人棺幟」,蓋至殷而加飾。

注[五]礼記:「有虞氏は瓦棺、夏後氏は堲周、殷人は棺椁を用いる。」古史考に言う:「禹は土堲を作って棺を周った。」堲の音は即七反。

原文注[五]禮記:「有虞氏之瓦棺,夏後氏之堲周、殷人棺幟。」古史考曰:「禹作土堲以周棺。」堲音即七反。

注[六]礼記に言う:「周人は牆に翣を置く。」盧植が言う:「牆は棺を載せる車の箱である。」三礼図に言う:「翣は竹で作り、高さ二尺四寸、幅三尺、白布で覆い、柄の長さ五尺。葬る時に人に命じて柩車の傍で執らせる。」

原文注[六]禮記曰:「周人牆置翣。」盧植曰:「牆,載棺車箱也。」三禮圖曰「翣,以竹為之,高二尺四寸,廣三尺,衣以白布,柄長五尺,葬時令人執之於柩車傍」也。

注[七]礼記に言う、「銘とは、明旌である。死者は区別できないため、その旗によって識別する」と。

原文注[七]禮記曰:「銘,明旌也。以死者為不可別,故以其旗識之。」

注[八]招復とは、魂を呼び戻し魄を復活させることをいう。含とは、玉や珠を口に含ませること。斂とは、衣服で遺体を包むこと。礼記に言う、「凡そ復(魂呼び)は、男子は名を称し、婦人は字を称す」と。穀梁伝に言う、「貝や玉を用いることを含という」と。礼記に言う「小斂は戸内で行い、大斂は阼(東の階段)で行う」と。

原文注[八]招復謂昭魂復魄也。含,以玉珠實口也。斂,以衣服斂屍也。禮記曰:「凡復,男子稱名,婦人稱字。」谷梁傳曰:「貝玉曰含。」禮記曰「小斂於戶內,大斂於阼」也。

注[九]期とは、諸侯は五日で殯を行い、五月で葬る。大夫は三日で殯を行い、三月で葬る。士は二日で殯を行い、一ヶ月を過ぎて葬る。宅兆とは、埋葬する塋域(墓地)のこと。

原文注[九]期謂諸侯五日而殯,五月而葬;大夫三日而殯,三月而葬;士*(三)**[二]*日而殯,踰月而葬。宅兆,葬之塋域也。

注[一〇]礼記に言う、「天子の棺は四重である」と。鄭玄の注に云う、「諸公は三重、諸侯は再重、大夫は一重、士は重ねない」と。また言う、「君は松の幟(ひつぎの外郭)、大夫は柏の幟、士は雑木の幟」と。注に云う「天子は五重、諸公は四重、諸侯は三重、大夫は再重、士は一重」と。

原文注[一0]禮記曰:「天子之棺四重。」鄭玄注云:「諸公三重,諸侯再重,大夫一重,士不重。」又曰:「君松幟,大夫柏幟,士雜木幟。」注云「天子*(七)**[五]*重,諸公四重,諸侯三重,大夫再重,士一重」也。

注[一一]凡そ小斂では、諸侯、大夫、士は皆、複衾(二重の衾)を用いる。君は錦の衾、大夫は縞の衾、士は緇(黒)の衾。また言う、天子は襲(重ね着)十二称、諸公は九称、諸侯は七称、大夫は五称、士は三称。小斂は、尊卑同じく十九称。大斂は、天子百称、上公九十称、侯伯七十称、大夫五十称、士三十称。衣が単衣と複衣を備えたものを称という。

原文注[一一]凡小斂,諸侯、大夫、士皆用復衾,君錦衾,大夫縞衾,士緇衾。又曰,天子襲十二稱,諸公九稱,諸侯七稱,大夫五稱,士三稱。小斂,尊卑同。十九稱。大斂,天子百稱,上公九十稱,侯伯七十稱,大夫五十稱,士三十稱。衣單復具曰稱。

注[一二]戦国とは、春秋の時代に当たる。頹陵とは、頽廃し陵遅(衰微わずか)することをいう。

原文注[一二]戰國,當春秋時也。頹陵謂頹廢陵遲。

注[一三]隧とは、地を掘って埏道(墓道)を作ることで、王の葬礼である。諸侯は柩を懸けて下ろすので、これを請うたのである。左伝に、晋の文公が襄王に朝見し、隧を請うたが、許されなかった。

原文注[一三]隧謂掘地為埏道,王之葬禮也。諸侯則懸柩,故請之也。左傳,晉文公朝於襄王,請隧,不許。

注[一四]左伝に「秦伯任好卒す」とある。任好は、秦の繆公の名である。子車氏の奄息、仲行、鍼虎を殉葬としたので、国人がこれを哀しみ、黄鳥の詩を賦した。

原文注[一四]左傳:「秦伯任好卒。」任好,秦繆公名也。以子車氏奄息、仲行、針虎殉葬,國人哀之,為賦黃鳥之詩也。

注[一五]宋の司馬とは、桓魋である。自ら石の幟を作り、三年経っても完成しなかった。孔子が言う、「もしこれほどに贅沢なら、死ぬよりはむしろ速く朽ちた方がましだ」と。礼記に見える。

原文注[一五]宋司馬,桓魋也。自為石幟,三年不成。孔子曰:「若是其靡也,死不如速朽之愈也。」見禮記。

注[一六]窀は厚いこと。穸は夜のこと。厚夜は長夜のようなものである。秦の始皇帝は即位するとすぐに、驪山に葬地を営み、役夫七十余万人を使役し、地下を三泉まで固め、宮観、百官、奇器、珍怪をことごとく備えた。工匠に弩矢を作らせ、穿ち近づくものがあれば、矢がただちに射るようにした。水銀で百川・江河・大海とし、上には天文を具えた。人魚の膏を燭とした。事は史記に見える。

原文注[一六]窀,厚也。穸,夜也。厚夜猶長夜也。秦始皇初即位,營葬驪山,役徒七十餘萬人,下錮三泉,宮觀、百官、奇器、珍怪莫不畢備。令匠作弩矢,有所穿近,矢輒射之。以水銀為百川江河大海,上具天文。以人魚為膏燭。事見史記。

注[一七]周公が礼を制定した後、孔子が衛から魯に帰り、またこれを定めたことをいう。

原文注[一七]謂周公制禮之後,仲尼自衛返魯,又定之也。

注[一八]御は止めることで、奢侈を止めることができないことを言う。墨子に言う、「古の聖人は葬埋の法を制定し、棺は三寸で遺体が朽ちるのに十分、衣衾は三領で遺体を覆うのに十分とした。堯は邛の山に葬られ、坑を満たして窆(下棺)せず、舜は紀市に葬られ、禹は会稽に葬られたが、皆、下は泉に及ばず、上には遺臭を残さなかった。三王は、財用が足りなかったわけではない!」と。

原文注[一八]御,止也,言猶不能止其奢侈。墨子曰:「古者聖人制為葬埋之法,棺三寸足以朽體,衣衾三領足以覆惡。堯葬邛之山,滿坎無窆,舜葬紀市,禹葬會稽,皆下不及泉,上無遺臭。三王者,豈財用不足哉!」

注[一九]替は廃すること。

原文注[一九]替,廢也。

注[二〇]穀梁伝に言う、「衣衾を贈ることを襚という」と。音は遂。

原文注[二0]谷梁傳曰:「衣衾曰襚。」音遂。

注[二一]二妃とは、娥皇と女英である。礼記に言う、「舜は蒼梧に葬られたが、二妃は従わなかったようだ」と。

原文注[二一]二妃,娥皇、女英也。禮記曰:「舜葬於蒼梧,蓋二妃未之從也。」

注[二二]呂望を太師とし、死んで周に葬られ、その子は斉に封ぜられたが、五代にわたってみな周に返葬されたことを指す。この時同じであれば会うのである。

原文注[二二]謂呂望為太師,死葬於周,其子封於齊,比五代皆反葬於周,此時同則會也。

注[二三]舜が蒼梧に葬られ、二妃は従わなかったことを指す。

原文注[二三]謂舜葬於蒼梧,二妃不從。

注[二四]王孫とは、楊王孫のことである。臨終にその子に命じて言った。「我が死んだら、布の袋で屍を包み、地中七尺に埋めよ。埋めた後、足からその袋を脱がせ、身をもって土に親しましめよ。」遂に裸葬した。前漢書に見える。

原文注[二四]王孫者,楊王孫也。臨終令其子曰:「吾死,可為布囊盛屍,入地七尺。既下,從足脫其囊,以身親土。」遂裸葬。見前書。

注[二五]墨夷とは、墨子の学を修める者で名を夷之という。孟子に会おうとした。孟子は言った。「私は聞く、墨家の喪を治めるのは、薄葬をその道とする。そもそも上古には、その親を葬らなかった者がいた。その親が死ぬと、挙げてこれを壑に委ねた。」と。孟子に見える。

原文注[二五]墨夷謂為墨子之學者名夷之。欲見孟子。孟子曰:「吾聞墨之治喪,以薄為其道也。蓋上世嘗有不葬其親者,其親死,則舉而委之於壑。」見孟子。

注[二六]梁伯鸞(梁鴻)の父の梁護が北地に寓居して亡くなり、筵を巻いて葬った。鴻は後に関を出て呉に赴き、亡くなると、呉の要離の墓の傍らに葬られた。

原文注[二六]梁伯鸞父護寓於北地而卒,卷席而葬。鴻後出關適吳,及卒,葬於吳要離頤傍。

注[二七]薄とは、微である。

原文注[二七]薄,微也。

注[二八]東郡に帰ったことを指す。

原文注[二八]歸到東郡也。

注[二九]謝承の書に曰く。「趙咨は京師で病に臥せり、旧吏の蕭建が世話をした。咨はあらかじめ自ら小さな素棺を買い、人に乾いた黄土を細かく搗き篩いさせ、二十石を集めた。臨終に、建に言った。『死後は自ら所有の古い巾と単衣を着せ、先に土を棺の中に置き、その中に屍を入れ、その上を土で覆え。』」

原文注[二九]謝承書曰:「咨在京師病困,故吏蕭建經營之。咨豫自買小素棺,使人取干黃土細搗篩之,聚二十石。臨卒,謂建曰:『亡後自著所有故巾單衣,先置土於棺,內屍其中以擁其上。』」

注[三〇]譬とは、明らかにすることである。)

原文注[三0]譬,曉也。)

賛

原文贊

賛に曰く。公子(劉平)と長平(趙孝)は、賊に臨んで生を譲った。淳於(淳於恭)は仁悌、「巨孝」(江革)はそれで名を知られた。居巣(劉般)は読書を好み、遂に家禄を継いだ。伯豫(周磐)は逡巡し、方に孤竹(伯夷・叔斉)が多い。文楚(趙咨)は葬りを薄く終え、喪は朽ちるのみ速かった。周(周磐)は親を思い、神を惜しみ福を養った。[一]

原文贊曰:公子、長平,臨寇讓生。淳於仁悌,「巨孝」以名。居巢好讀,遂承家祿。伯豫逡巡,方多孤竹。文楚薄終,喪朽惟速。周能感親,嗇神養福。[一]

(注[一]感とは、思うこと。詩経の汝墳を誦して、親を養おうと思い仕官を求めたことを指す。嗇神養福とは、辟召に応じず、寿を全うして終わったことを指す。左伝に曰く「能ある者はこれをもって福を養う」と。)

原文(注[一]感,思也。謂誦詩至汝墳,思養親而求仕也。嗇神養福謂不應辟召,以壽終也。左傳曰:「能者養之以福。」)

一二九六頁七行に、平狄将軍の龐萌が彭城で反乱を起こし、郡守の孫萌を攻め破った。按:校補は銭大昭の説を引き、当時彭城は郡ではなく、守はありえないとし、本紀では「楚郡太守」と作るとする。

原文一二九六頁七行平狄將軍龐萌反於彭城攻敗郡守孫萌按:校補引錢大昭說,謂是時彭城非郡,不得有守,本紀作「楚郡太守」。

一二九六頁七行に、七ヶ所の傷を負った。汲本、殿本では「七」を「十」と作る。按:校補は銭大昭の説を引き、閩本では「七」と作るとする。

原文一二九六頁七行平狄將軍龐萌反於彭城攻敗郡守孫萌按:校補引錢大昭說,謂是時彭城非郡,不得有守,本紀作「楚郡太守」。

一二九七頁四行に、数回にわたり名士の承宮、郇恁らを推薦し登用した。殿本考証は「郇」の一本を「荀」と作るとする。今按:周黄徐姜申屠伝序では「荀」と作る。

原文一二九七頁四行數薦達名士承宮郇恁等殿本考證謂「郇」一本作「荀」。今按:周黃徐姜申屠傳序作「荀」。

一二九七頁八行に、その稟糧を給した。刊誤に拠り改む。

原文一二九七頁八行給其*(廩)**[稟]*糧據刊誤改。

一二九七頁一〇行に、春秋の義。按:刊誤は文を案ずるに「義之」と作るべきとする。「春秋の義」は他の箇所では用いることができるが、この文脈では不安である。

原文一二九七頁一0行春秋之義按:刊誤謂案文當作「義之」。「春秋之義」它處可用,此據上下文則不安也。

一二九八頁六行に、固は病で起き上がれなかった。按:刊誤は文を案ずるに「固以病不起」と作るべきとする。

原文一二九八頁六行固病不起按:刊誤謂案文當作「固以病不起」。

一二九九頁八行に、音は所買の反。按:「買」は原字「賈」であったが、汲本、殿本に拠り直接に改正する。

原文一二九九頁八行音所買反按:「買」原斗「賈」,逕據汲本、殿本改正。

一三〇〇頁二行に、賊を憐れんで放ち遣わした。「鄉」は汲本、殿本ともに「矜」と作る。按:馬□倫は段本説文の「矜」字を「鄉」と作り、矛に従い令声とし、華厳音義巻二十が同じく引くのは、この鄉と憐が通じうる証拠であるとする。

原文一三00頁二行賊鄉而放遣「鄉」汲本、殿本並作「矜」。按:馬□倫謂段本說文「矜」字作「鄉」,從矛令聲,華嚴音義卷二十引同,此鄉憐可通之證。

一三〇〇頁七行に、他の者は皆、草や萊を食べた。按:「萊」は原字「菜」であったが、汲本、殿本に拠り直接に改正する。

原文一三00頁七行餘人皆茹草萊按:「萊」原斗「菜」,逕據汲本、殿本改正。

一三〇〇頁七行に、ともに免れることができた。按:校補は「並」は「遂」の字の誤りであるとする。

原文一三00頁七行並得俱免按:校補謂「並」當為「遂」字之鬥。

一三〇一頁三行に、故城は今、密州安丘県の東北にある。汲本、殿本に拠り改む。

原文一三0一頁三行故城*(今)*在*[今]*密州安丘縣東北據汲本、殿本改。

一三〇二頁一行に、江革は字を次翁という。按:校補は柳従辰の説を引き、袁紀では「次翁」を「次伯」と作るとする。

原文一三0二頁一行江革字次翁按:校補引柳從辰說,謂袁紀「次翁」作「次伯」。

一三〇二頁四行に、必ず全てを給した。殿本考証は「必」は「畢」と作るべきとする。今按:必と畢は同音で、通じる例がある。書経の康王之誥に「畢協賞罰」とあり、白虎通の諫諍篇が引くところでは「必力賞罰」と作るのがその証拠である。

原文一三0二頁四行莫不必給殿本考證謂「必」當作「畢」。今按:必畢同音,例得通□。書康王之誥「畢協賞罰」,白虎通諫諍篇引作「必力賞罰」,是其證也。

一三〇二頁六行に、兵を避ける道を告げたのである。按:「也」は原字「地」であったが、汲本、殿本に拠り直接に改正する。

原文一三0二頁六行語以避兵道也按:「也」原斗「地」,逕據汲本、殿本改正。

一三〇四頁四行に、列侯の妻は夫人と称する。按:汲本、殿本の注にはこの下に「列侯死子復為列侯」の八字がある。

原文一三0四頁四行列侯之妻稱夫人按:汲本、殿本注此下有「列侯死子復為列侯」八字。

一三〇五頁一三行、汜勝之按:『汜』の各本はすべて『汜』とあるが、直接に改正する。

原文一三0五頁一三行泛勝之按:「泛」各本皆斗「汜」,逕改正。

一三〇五頁一三行、上農區田法、區方深各六寸。汲本、殿本に拠って改める。

原文一三0五頁一三行上農區田*(大)**[法]*區方深各六寸據汲本、殿本改。

一三〇六頁一行、華嶠書に奪は脱と作すとある。殿本考証に拠って削除する。

原文一三0六頁一行華嶠書*(曰)*奪作脫也據殿本考證刪。

一三〇六頁一一行、遁亡七年。按:集解が蘇輿の説を引くに、章帝の建初三年から和帝の永元十年まで、すでに二十年であるから、故に上文に『積十餘歲』と言う。この『七』の字は誤りがあり、『積』の字と声が近いために訛ったのではないかと疑う。

原文一三0六頁一一行遁亡七年按:集解引蘇輿說,謂自章帝建初三年至和帝永元十年,已二十年矣,故上文言「積十餘歲」。此「七」字有誤,疑是「積」字聲近而訛。

一三〇七頁一行、言うに何難之有やとある。汲本に拠って改める。按:殿本にはこの注はない。

原文一三0七頁一行言*(善無)**[何難之]*有也據汲本改。按:殿本無此注。

一三〇七頁八行、六年、張敏に代わって司空となる。按:集解が蘇輿の説を引くに、上にすでに『永初』が出ているから、明らかに二字が衍っている。今これに拠って削除する。

原文一三0七頁八行*(永初)*六年代張敏為司空按:集解引蘇輿說,謂上已出「永初」,明衍二字。今據刪。

一三〇七頁一六行、前書に杜欽曰くとある。汲本に拠って補う。

原文一三0七頁一六行前書*[杜欽]*曰據汲本補。

一三〇八頁一一行、浩然の気を兼ねる。按:『浩』は原『皓』と誤る。汲本、殿本に拠って直接に改正する。注同じ。

原文一三0八頁一一行兼浩然之氣按:「浩」原斗「皓」,逕據汲本、殿本改正。注同。

一三〇九頁二行、今臧吏をして子孫を禁錮せしむるが如し。汲本、殿本は『今』を『令』と作す。按:刊誤は文に『如』の字が一つ多いと謂う。

原文一三0九頁二行如今使臧吏禁錮子孫汲本、殿本「今」作「令」。按:刊誤謂案文多一「如」字。

一三〇九頁九行、不義にして富み且つ貴きこと。殿本に拠って補う。

原文一三0九頁九行不義而富*[且貴]*據殿本補。

一三〇九頁一二行、景慕して以て法式と為す。按:この注は原『帰懐』の下にあったが、殿本に拠って正しい位置に移す。

原文一三0九頁一二行景慕以為法式按:此注原在「歸懷」下,據殿本移正。

一三一〇頁一一行、太守劉□。按:校補が柳従辰の説を引くに、桓紀では『□』を『質』と作す。

原文一三一0頁一一行太守劉□按:校補引柳從辰說,謂桓紀「□」作「質」。

一三一〇頁一一行、司徒劉矩。按:集解が銭大昕の説を引くに、本紀に拠れば、この時の司徒は胡広であって、劉矩ではない。陳蕃伝も同じくこの誤りがある。

原文一三一0頁一一行司徒劉矩按:集解引錢大昕說,謂據本紀,是時為司徒者乃胡廣,非劉矩也。陳蕃傳亦同此誤。

一三一一頁二行、汝墳の卒章。按:『墳』は原『濆』と誤る。汲本、殿本に拠って直接に改正する。

原文一三一一頁二行汝墳之卒章按:「墳」原斗「濆」,逕據汲本、殿本改正。

一三一三頁六行、大司農陳奇。按:汲本は『奇』を『狶』と作し、殿本は『豨』と作す。

原文一三一三頁六行大司農陳奇按:汲本「奇」作「狶」,殿本作「豨」。

一三一三頁一一行「妻子物余」、集解が引用する恵棟の説に、蒋杲が「物余」は「余物」とすべきと云う。今按ずるに、東観記は「余物」と作り、御覧四一二が引用する東観記も同じ。しかし御覧八四七が引用する范書も「物余」と作る。

原文一三一三頁一一行妻子物余集解引惠棟說,謂蔣杲云「物余」當作「余物」。今按:東觀記作「余物」,御覽四一二引東觀記同。然御覽八四七引范書亦作「物余」。

一三一三頁一一行「干暴賢者」、按ずるに、校補が引用する銭大昭の説に、閩本は「暴」を「冒」と作ると云う。

原文一三一三頁一一行妻子物余集解引惠棟說,謂蔣杲云「物余」當作「余物」。今按:東觀記作「余物」,御覽四一二引東觀記同。然御覽八四七引范書亦作「物余」。

一三一四頁五行「抗疾京師」、按ずるに、刊誤が「抗」は意味がなく、おそらく「被」の字であると云う。

原文一三一四頁五行抗疾京師按:刊誤謂「抗」無義,當是「被」字。

一三一四頁六行「告其故吏朱只」、按ずるに、「只」はおそらく「祗」とすべきであろう。朱の名は本伝に三度見え、汲本では前の一つは左が禾偏、後の二つは左が衣偏、殿本では前の一つと後の一つは左が示偏、中の一つは禾偏であり、右が氐であることは同じである。

原文一三一四頁六行告其故吏朱只按:「只」疑當作「祗」。朱名本傳凡三見,汲本前一左從禾,後二左從衣,殿本前一後一左均從示,中一從禾,其右從氐則同。

一三一六頁八行「故以其旗識之」、按ずるに、汲本は「旗」を「旌」と作る。

原文一三一六頁八行故以其旗識之按:汲本「旗」作「旌」。

一三一六頁一一行「士*(三)**[二]*日而殯」、汲本、殿本に拠って改める。

原文一三一六頁一一行士*(三)**[二]*日而殯據汲本、殿本改。

一三一六頁一三行「天子*(七)**[五]*重」、集解が引用する沈欽韓の説に拠って改め、礼喪服大記の鄭注と合致する。

原文一三一六頁一三行天子*(七)**[五]*重據集解引沉欽韓說改,與禮喪服大記鄭注合。

一三一七頁五行「以人魚為膏燭」、按ずるに、刊誤が文を案ずると「膏」は「為」の字の上にあるべきだと云う。

原文一三一七頁五行以人魚為膏燭按:刊誤謂案文「膏」當在「為」字上。

一三一七頁八行「堯葬邛之山」、按ずるに、「邛」は原字が「滘」であったが、直接に改正した。

原文一三一七頁八行堯葬邛之山按:「邛」原斗「滘」,逕改正。