漢書かんじょごかんじょ

巻四・帝紀第四 孝和 孝殤皇帝

和帝

孝和皇帝の諱は肈である。(《謚法》に「剛からず柔ならず、これを和という」とある。《伏侯古今注》に「肈の字は始という。肈の音は兆」とある。臣の賢が案ずるに、許慎の『説文解字』では「肈の音は大可反、上諱なり」とある。ただ伏侯と許慎はともに漢代の人であるのに、帝の諱が異なるのは、おそらく別の根拠があったのであろう。)肅宗(章帝)の第四子である。母は梁貴人で、竇皇后の讒言にあい、憂いのうちに死去した。竇后は帝を養子として自分の子とした。建初七年、皇太子に立てられた。

章和二年二月壬辰、皇帝の位につき、年齢は十歳であった。皇后を尊んで皇太后と称し、太后が臨朝した。

三月丁酉、淮陽を陳国に改め、(現在の陳州。)楚郡を彭城国に改め、(現在の徐州。)西平を汝南郡に併合し、(西平は県で、かつての柏子国である。現在の州呉房県の西北にある。)六安を再び廬江郡とした。(現在の廬州廬江県西の故舒城にあたる。)遺詔により西平王の羨を陳王に、六安王の恭を彭城王に移封した。

癸卯、孝章皇帝を敬陵に葬った。(洛陽らくよう城の東南三十九里にある。《古今注》に「陵の周囲は三百歩、高さは六丈二尺」とある。)

庚戌、皇太后は詔して言った。「先帝は明聖をもって、祖宗の至徳要道を奉承し、天下は清静で、諸事すべて安寧であった。今、皇帝は幼年であり、煢煢として憂病の中にある。(疚は病のこと。煢煢然として憂病の中にある様子。「煢」は「嬛」とも作る。詩経周頌に「嬛嬛として疚に在り」とある。)朕はしばらく補佐して政務を聴くこととする。外には大国の賢王がおり、ともに藩屏となり、内には公卿大夫がいて本朝を統理している。恭己して成し遂げられたものを受けるだけであって、何を憂えようか。(孔子は「舜は何をなしたか。己を恭しくして南面するのみである」と言った。《尚書》に「予小子は垂拱して成るを仰ぐ」とある。)しかしながら、文を守る際には、必ず内輔があって聴断に参与する必要がある。侍中の憲は、朕の長兄であり、行いと才能を兼ね備え、忠孝に特に篤く、先帝が重んじられ、遺詔を直接受けられ、旧典に従ってこの職務を補佐すべきである。憲は固く謙譲を執り、節操を変えることはできない。今、両宮を供養し、(両宮とは帝の宮と太后の宮を指す。)左右で宿衛し、その職務はすでに重く、また政事で煩わせることもできない。故太尉の鄧彪は、元功の一族であり、三度譲ることでますます高潔さを増し、(元功とは高密侯の禹を指す。彪の父の邯は、中興の初めに功績があり、鄳侯に封じられた。父が没すると、彪は国を異母弟の鳳に譲った。《論語》で孔子は「太伯は三たび天下を以て譲るも、民に得て称する所無し」と言った。鄭玄の注に「太伯は周の太王の長子で、弟の季歴に譲ろうとした。太王が病気になると、太伯は呉・越に行って薬を採り、太王が薨去しても帰らず、季歴が喪主となった。これが一たびの譲りである。季歴が喪に赴いても、来て喪に服さなかった。これが二たびの譲りである。喪が終わった後、ついに髪を切り身体に入れ墨をした。これが三たびの譲りである」とある。彪が封を弟に譲ったので、これに比したのである。鄳の音は莫杏反。)海内が仁に帰し、群賢の首位にあり、先帝は褒め称えられ、教化を崇めようとされた。今、彪は聡明で健康強壮であり、老成の黄耇と言えよう。(老成とは老いて成徳のあることを言う。詩経大雅に「老成人無しと雖も」とある。黄とは髪が抜け落ちて再び生えた黄髪の者を指す。耇もまた老いのこと。詩経の序に「外に尊んで黄耇に事う」とある。)彪を太傅とし、関内侯の爵位を賜い、尚書事を録させ、百官はそれぞれ己の職務を総べてこれに従うこととする。(古くは君主が諒闇にある時、百官はそれぞれ己の職務を総べて冢宰に聴いた。尚書事を録することは冢宰の任にあたる。)朕は内位に専心することができるであろう。ああ、群公はよく百官を率い励まし、それぞれその職務を修め、元元(民)を愛養し、中和をもって安んじ、朕の意にかなうようにせよ。」

辛酉、有司が上奏した。「孝章皇帝は鴻業を崇め弘め、徳化は広く行き渡り、黎民に心を留め、農耕を念われた。文は殊俗に加わり、武は方表に暢び、境界は人面ある者に及び、服さざるを思わないものはなかった。巍巍として蕩蕩、これに比べて隆んなるものはない。(「巍巍乎たり其の成功有り、蕩蕩乎たり人能く名づくる無し」は、孔子が帝堯を称えた言葉で、《論語》に見える。)周頌に『於穆たる清廟、肅雝たる顯相』とある。(清廟は文王の廟。於穆は嘆美の言葉で、助祭する者が礼儀を敬いかつ和やかにすることを言う。)尊廟を上って肅宗と称し、武徳の舞を共に進めることを請う。」詔を下して言った。「よろしい。」

癸亥、陳王の羨、彭城王の恭、楽成王の党、下邳王の衍、梁王の暢が初めて封国に赴いた。(建初三年、章帝は諸王と離れることを忍びず、皆を京師に留めていたが、今、国に遣わしたのである。)

夏四月丙子、高廟に謁見した。丁丑、世祖廟に謁見した。

戊寅、詔して言った。「昔、孝武皇帝は胡・越を誅伐するに至り、やむを得ず塩鉄の利を収め、(武帝は孔僅と東郭咸陽に命じて伝車に乗り天下の塩鉄を巡行させ、官府を設けてその利を収め、私家ではもはや鉄を鋳造し塩を煮ることを禁じた。)軍旅の費用に充てた。中興以来、匈奴は未だ賓服せず、永平末年、再び征伐を行った。先帝が即位されると、労役を休めることに務められたが、それでもなお深く考え遠く慮り、安んじて危険を忘れず、旧典を探り観て、再び塩鉄を収め、不測の事態に備え、辺境を安寧にしようとされた。しかし官吏の多くは不良で、動くごとにその便を失い、上意に背いた。先帝はこれを恨まれ、故に郡国に遺戒して塩鉄の禁令を廃止し、民に煮鋳を許し、従来の通りに天子に税を納めるようにされた。(《前書音義》に「県官とは天子を指す」とある。)刺史・二千石に申し勅し、聖旨を奉じて順じ、徳化を弘めることに努め、天下に布告して、朕の意を明らかに知らしめよ。」

五月、京師は旱魃に見舞われた。長楽少府の桓郁に命じて禁中で侍講させた。(長楽宮の少府である。郁は桓栄の子である。)

冬十月乙亥、侍中の竇憲を車騎將軍とし、北匈奴を討伐させた。

安息国が使者を遣わして獅子と扶拔を献上した。(扶拔の解釈は章帝紀に見える。)

永元元年春三月甲辰、初めて郎官で詔によって任命された者が丞・尉を占めることを許し、比秩をもって真の官とすることを命じた。(《漢官儀》に「羽林郎は出て三百石の丞・尉を補うことを自ら占める。丞・尉は小県の丞尉は三百石、次は四百石、比秩をもって真とし、皆これをもって優遇する」とある。)

夏六月、車騎將軍の竇憲が鶏鹿塞から出撃し、(現在は朔方郡窳渾県の北にある。闞駰の《十三州志》に「窳渾県には大道があり、西北に鶏鹿塞に出る」とある。窳の音は羊主反。)度遼將軍の鄧鴻が棝陽塞から出撃し、(棝陽は県で、九原郡に属し、故城は現在の勝州銀城県の界にある。棝の音は固。)南単于が満夷谷から出撃し、(満夷谷は不詳。)北匈奴と稽落山で戦い、これを大破し、和渠北の鞮海まで追撃した。竇憲はついに燕然山に登り、石に刻んで功を勒して還った。北単于は弟の右温禺鞮王を遣わして奏上し貢献した。(鞮の音は丁兮反。)

秋七月乙未、会稽山が崩壊した。

閏月丙子、詔を下して言った。「匈奴が背き叛き、害をなすこと久遠である。祖宗の霊に頼り、軍は勝利を得、醜悪な虜は破砕され、ついにその庭を掃討した。(『詩経』に「なお醜虜を執る」とある。庭とは単于が常に居住する所をいう。)兵役を再び徴発することなく、(再び挙兵することを籍しないという意味。)万里が清く平らぎ、朕のような小さな身でよく堪えうるものではない。有司は旧典に照らし、類祭を行い功績を進告し、もって優れた業績を顕彰せよ。」(類は天を祭ること。『書経』に「上帝に類す」とある。薦は進めることで、功績をもって天に進告すること。)

九月庚申、車騎将軍の竇憲を大将軍とし、中郎将の劉尚を車騎将軍とした。

冬十月、郡国に命じて刑罰を緩め、軍営に労役を送らせた。塞外に移住させられた者で、刑期がまだ終わっていない者も、皆赦免して郷里に帰した。

庚子、阜陵王の劉延が薨去した。

この年、九つの郡国で大きな水害があった。

二年春正月丁丑、天下に大赦を行った。

二月壬午、日食があった。(『東観漢記』に「史官は気づかず、涿郡が言上した」とある。)

己亥、西河・上郡の属国都尉官を再び設置した。(『漢書』によれば、西河郡美稷県と上郡亀茲県にそれぞれ属国都尉があり、その秩禄は比二千石であった。『十三州志』に「典属国は武帝が設置し、匈奴の降伏者を管掌したが、哀帝の時に省廃され大鴻臚に併合された」とある。ゆえに今再びこれを置く。)

夏五月庚戌、太山を分割して済北国とし、楽成・涿郡・勃海を分割して河間国とした。丙辰、皇弟の劉寿を済北王に、劉開を河間王に、劉淑を城陽王に封じ、故淮陽王の劉昞の子である劉側を常山王に紹封した。公卿以下から佐史に至るまで、銭と布をそれぞれ差等を設けて賜った。

己未、副校尉こういの閻磐を派遣して北匈奴を討伐させ、伊吾盧の地を奪取した。

丁卯、故斉王の劉晃の子である劉無忌を斉王に、北海王の劉睦の子である劉威を北海王に紹封した。

車師の前王と後王がともに子を入侍させた。(車師には後王と前王があり、前王はすなわち後王の子で、その庭は五百里離れている。)

月氏国が兵を派遣して西域長史の班超を攻撃したが、班超はこれを撃退して降伏させた。

六月辛卯、中山王の劉焉が薨去した。

秋七月乙卯、大将軍竇憲が涼州に出て駐屯した。九月、北匈奴が使者を遣わして臣下を称した。

冬十月、行中郎将班固を派遣して南単于に返答の命を伝えさせた。左谷蠡王師子を派遣して鶏鹿塞から出撃させ、(左谷蠡は匈奴の王号で、師子はその名である。谷の音は鹿。蠡の音は離。)北匈奴を河雲の北で攻撃し、これを大いに破った。

三年春正月甲子、皇帝が元服した。(元は首の意。冠を首に加えることを言う。《儀礼》に「冠者は先ず日を筮い、後に賓を筮う」とある。《東観記》に「時に太后が詔して袁安を賓とし、束帛と乗馬を賜った」とある。)諸侯王、公、将軍、特進、(《漢官儀》に「諸侯で功徳が優れて盛んで、朝廷が敬い異とする者に、位を特進として賜い、三公の下に置く」とある。)中二千石、列侯、宗室の子孫で京師にあって奉朝請する者に黄金を賜い、(奉朝請は定員がなく、三公、外戚、宗室、諸侯の多くが奉朝請する。漢律に「春を朝と言い、秋を請と言う」とある。)将、大夫、郎吏、従官に帛を賜った。(将とは五官及び左右郎将を言う。大夫とは光禄、太中、中散、諫議大夫を言う。《十三州志》に「大夫は皆、顧問、応対、言議を掌る。夫の言は扶であり、君父を扶持できることを言う」とある。)民に爵及び粟帛を賜い、それぞれ差等があり、大酺を五日間行った。郡国中都官の囚人で死罪の者は縑を贖い、司寇及び亡命に至るまで、それぞれ差等があった。庚辰、京師の民に酺を賜い、布は二戸で一匹を共にした。

二月、大将軍竇憲が左校尉耿夔を派遣して居延塞から出撃させ、(居延は県で、張掖郡に属し、居延沢は東北にある。武帝が伏波将軍路博徳に命じて居延城に遮虜障を築かせた。)北単于を金微山で包囲し、これを大いに破り、その母閼氏を捕らえた。(閼氏は匈奴の后の号で、音は焉支。)

夏六月辛卯、皇太后の母比陽公主(東海恭王劉彊の娘。)を長公主として尊んだ。

辛丑、阜陵王劉种が薨去した。(阜陵王劉延の子。)

冬十月癸未、行幸して長安ちょうあんに至った。詔して言った。「北狄が破滅し、名王が頻りに降伏し、(仍は頻りの意。)西域諸国が人質を納めて内属した。これはまさに祖宗が明智を踏み行い、重光の大いなる功業によるものではないか。(迪は蹈の意。祖宗が明智を踏み行い、重光累聖の徳があり、この大業を成したことを言う。《書経》に「この四人は迪哲である」とあり、また「重光を宣べる」ともある。)日夜ため息をつき、旧京を想い慕う。行幸の経由地の二千石長吏以下及び三老、官属に銭帛を賜い、それぞれ差等があるように。鰥、寡、孤、独、篤癃、貧しく自活できない者には粟を賜い、一人につき三斛とする。」

十一月癸卯、高廟を祀り、ついで十一陵に祭祀を行った。詔して言った。「高祖こうその功臣では、蕭何しょうか曹参そうしんが首位であり、世々伝わって絶えない義理がある。曹相国の後裔である容城侯には嗣子がない。朕は長陵の東門を望み、二臣の塚を見る。(《東観記》に「蕭何の墓は長陵の東司馬門の道の北百歩にある」とある。廟記に「曹参の冢は長陵の傍らの道の北にあり、蕭何の冢に近い」とある。)その遠大な節義を思い、常に感ずるところがある。忠義が寵愛を得るのは、古今を通じて同じである。使者を遣わして中牢で祭祀を行わせ、大鴻臚に近親で嗣となるに相応しい者を求めさせ、景風の時に紹封し、その功績を顕彰すべきである。」(《続漢志》に「大鴻臚は諸侯及びその嗣子の封拜を掌る」とある。春秋考異郵に「夏至より四十五日目に景風が至ると、功ある者を封ずる」とある。)

十二月、西域都護、騎都尉、戊己校尉の官を再び置いた。

庚辰、長安から帰還し、従駕した弛刑徒の刑期を五月減じた。

四年春正月、北匈奴の右谷蠡王於除鞬が自ら立って単于となり、塞に款いて降伏を乞うた。(於除鞬はその名である。鞬の音は九言反。)大将軍左校尉耿夔を派遣して璽綬を授けさせた。(《東観記》に「玉具剣、羽蓋車一駟を賜い、中郎将が節を持って護衛した」とある。)

三月癸丑、司徒しと袁安が薨去した。閏月丁丑、太常丁鴻が司徒となった。

夏四月丙辰、大将軍竇憲が京師に帰還した。

六月戊戌朔、日食があった。丙辰、十三の郡国で地震があった。

竇憲が密かにしいしいぎゃくを謀った。庚申、北宮に行幸した。詔して竇憲の党与である射声校尉郭璜を捕らえさせ、(郭況の子である。《東観記》では「璜」を「瑝」とし、音は同じ。)郭璜の子で侍中の郭挙、衛尉鄧疊、鄧疊の弟で歩兵校尉の鄧磊を、皆獄に下して死なせた。謁者僕射に命じて(《続漢書》に「謁者僕射一人、秩千石、謁者台の率となり、謁者を主る。天子が出るとき、奉引する」とある。)竇憲の大将軍の印綬を収めさせ、竇憲及びその弟の竇篤、竇景を封国に赴かせ、到着すると皆自殺した。

この夏、旱魃と蝗害が発生した。

秋七月己丑、太尉宋由が竇憲の与党に連座して自殺した。

八月辛亥、司空しくう任隗が薨去した。(任隗は任光の子である。)

癸丑、大司農尹睦が太尉となり、尚書事を録した。(録とは総領することである。尚書を録するのは牟融に始まる。)

丁巳、公卿以下から佐史に至るまで、それぞれ差等を設けて銭と穀物を賜った。

冬十月己亥、宗正劉方が司空となった。

十二月壬辰、詔を下した。「今年、郡国の秋の穀物は旱魃と蝗害によって損害を受けた。そのうち十分の四以上の損害があった所は田租と芻稾を徴収しない。十分の四に満たない所は、実際の損害分を免除する。」(損害が十分の四に満たない者は、現状の損害分を免除する。)

武陵郡零陵県の澧中の蛮族が反乱した。焼当羌が金城を寇掠した。

五年春正月乙亥、明堂で五帝を宗祀し、そのまま霊台に登り、雲気を望んだ。天下に大赦を行った。

戊子、千乗王劉伉が薨去した。

辛卯、皇弟劉万歳を広宗王に封じた。(広宗は県名で、現在の貝州宗城県である。隋の煬帝が諱を広としたため、宗城と改称された。)

二月戊戌、有司に詔して内外の厩及び涼州の諸苑の馬を省減させた。(『説文』に「厩は馬舎なり」とある。『漢官儀』に「未央大厩、長楽、承華などの厩令は、みな秩六百石である」とある。また「牧師諸苑三十六所を西北辺に分置し、馬三十万頭を分養する」とある。)京師の離宮、果園、上林苑、広成苑を貧民にすべて貸し与え、自由に採捕させ、税を徴収しない。

丁未、詔を下した。「去年の秋麦の収穫が少なく、民の食糧が不足することを恐れる。特に貧しく自給できない者の戸口人数を上申せよ。かつて郡国が貧民を上申する際、衣服や履物、釜や甑を資産として計上したため、豪族がその利益を得ていた。(鬵の音は尋。『方言』に「甑は関より東では鬵という」とある。貧民はすでに釜や甑を資産として計上し、賦役の重さを恐れ、多くはこれを売って課税を避けた。豪富の家は安値で買い、故にその利益を得たのである。)詔書は実情を調査し、(『説文』に「覈は実事を考うるなり」とある。)彼らを助けようとしたが、長吏が自ら躬行せず、かえって召集や会合を行い、農作業を失わせ、百姓を愁苦させ擾乱させた。今後もし再び違反する者がいれば、二千石がまず連座する。」

甲寅、太傅鄧彪が薨去した。

戊午、隴西で地震が発生した。

三月戊子の日、詔を下して言った。「良才を選挙することは、政治の根本である。行いと能力を科目別に分け、必ず郷曲から行わなければならない。(『周礼』に「郷大夫はその郷の政教を掌り、その德行を考査し、その道藝を察し、三年にして賢能なる者を王に挙げる」とある。)ところが郡国が官吏を挙げる際、選別を加えず、故に先帝は在所に明らかに勅し、職務をもって試すことを命じ、それによって充選を得させた。(『漢官儀』に「建初八年十二月己未、詔書にて士を辟く四科を定む。一は德行高妙、志節清白なる者。二は経明行修、博士に任じ得る者。三は法律を明曉し、決疑に足り、章を案じて覆問し、文をもって御史に任じ得る者。四は剛毅多略、事に遭いて惑わず、明らかにして姦を照らすに足り、勇決断に足り、才をもって三輔令に任じ得る者。皆孝悌清公の行いを存する者なり。今より以後、四科を審らかにして辟召し、及び刺史・二千石が茂才尤異・孝廉吏を察挙するに、務めて実を校試し職をもってすべし。その人に非ざる者あり、曹事に習わざる者は、正に挙げる者故に実を以てせざるを法とす」とある。)また德行が特に優れ、経職を必要としない者は、別に状を署して上奏せよ。ところが宣布されて以来、出入り九年、二千石はかつて承奉せず、心のままに好みに従い、司隷・刺史は終わりに糾察することがなかった。(訖は竟の意。)今、新たに赦令を蒙り、且つまた勅を申し、後に犯す者あれば、その罰を顕明にする。在位の者が選挙を憂いとせず、督察の者が発覚を負いとしないのは、(負も憂いの意。)州郡だけではない。これにより多くの官がその人に非ず。下民が姦邪の傷を受けるのは、法が行われない故である。」

庚寅の日、使者を分遣して貧民を巡行させ、実情を挙げて流散の民を救済し、(宂は散の意。流散する者についてその実情を挙げ案じて給与する。)倉を開いて三十余郡に穀物を賑給した。

夏四月壬子の日、阜陵王劉种の兄の劉魴を阜陵王に封じた。(刘种に嗣子がなかったため、劉魴に襲封させた。)

六月丁酉の日、郡国で雹が三度降った。(『東観記』に「雁の卵ほどの大きさであった」とある。)

秋九月辛酉の日、広宗王劉万歳が薨じた。子がなく、封国は除かれた。

匈奴の単于於除鞬が叛き、中郎将の任尚を派遣してこれを討ち滅ぼした。

壬午の日、郡県に命じて民を勧め、野菜や食料を蓄えさせて五穀を助けさせた。(蓄は積む意。)官に陂池がある場合は、採取することを許し、二年間は仮の税を収めさせない。(仮は租賃の意。)

冬十月辛未の日、太尉の尹睦が薨じた。(『漢官儀』に「睦は字を伯師といい、鞏の人である」とある。)十一月乙丑の日、太僕の張酺が太尉となった。

この年、武陵郡の兵が叛いた蛮を撃破し、これを降した。護羌校尉の貫友が焼当羌を討ち、羌はついに遁走した。南匈奴の単于安国が叛き、骨都侯の喜がこれを斬った。

六年の春正月、永昌郡の徼外の夷が使者と通訳を遣わして犀牛と大象を献上した。

己卯の日、司徒の丁鴻が薨じた。

二月乙未の日、謁者を分遣して三河・兗・冀・青州の貧民に穀物を貸し与えた。

許陽侯の馬光が自殺した。(『東観記』に「馬光は以前に竇憲に党附した罪に坐し、封国に帰っていたが、竇憲の客奴に誣告されたため、自殺した」とある。)

丁未の日、司空の劉方が司徒となり、太常の張奮が司空となった。

三月庚寅の日、詔して流民が通過する郡国は皆実情に応じて穀物を給与せよ、また販売を行う者には租税を課さないこと、(漢は周の法を循り、商賈には税があったが、流民が販売するのは哀れむべきことなので免除した。)また安い土地に移り住もうとする者や帰郷しようとする者には、一年分の田租と更賦を免除する。(復は音が福。)

丙寅の日、詔を下して言った。「朕は微末の身をもって、大業を継承し奉じている。陰陽が調和せず、水害や旱害が度を越え、済水と黄河の間の地域では、凶作と飢饉により民が流浪している(『尚書』に『済河惟れ兗州』とあるのは、東南は済水に接し、西北は黄河に至ることを言う)。しかし、まだ忠言や至謀、すなわちこれを匡正し救うための策を得ていない。日夜、深く嘆息し、思い悩んで病んでいる(孔は甚だしい、疚は病むこと。『詩』に『憂心孔疚』とある)。ただ、上には官人が得られず、下には黎民が安らかでなく、役人は寛和を考えず、競って苛酷なことを行い、緊急でない事件を審理して(不急とは重要でないことをいう)、民事を妨げている。これはまさに上は天心に応え、下は民衆を救うべき道ではない。忠良の士を得て、朕の及ばないところを補佐させたいと思う。三公、中二千石、二千石、内郡の守・相に命じて、賢良方正、直言極諫の士をそれぞれ一人ずつ推挙させよ。岩穴に隠れた者を明らかにし、幽隠の地に潜む者を探し出し、公車に派遣せよ(『前書音義』に『公車は署名である。公車がある所なので、これをもって名とした』とある。『漢官儀』に『公車令一人、秩六百石、殿門を掌る。諸々の上書して闕下に詣でる者は、皆ここに集めて奏上する。凡そ徴召する者も、総べてこれを統領する』とある)。朕はすべてを聞き入れよう。」帝は自ら臨んで策問し、郎吏を選んで補任した。

夏四月、しょく郡の徼外の羌が種族を率いて使者を遣わし、内附した。

五月、城陽王劉淑が薨去した。子がなく、国は除かれた(章帝の子である)。

六月己酉の日、初めて伏日には終日閉門することを命じた(漢官旧儀に『伏日には万鬼が行くので、終日閉門し、他の事を干さない』とある)。

秋七月、京師は旱魃に見舞われた。詔して中都官の徒刑囚はそれぞれ刑を半減し、未決の流刑以下の者は、刑期五月以下の者はすべて赦免して放免することとした。丁巳の日、洛陽寺に行幸し(寺は官舎である。風俗通に『寺は嗣である。事を治める吏が、その中で嗣続する』とある)、囚徒を記録し、冤罪を挙げて審理した。洛陽令を収監して獄に下し罪に当て、司隷校尉と河南尹はともに左遷された。宮中に戻らないうちに慈雨が降った。

西域都護の班超が焉耆と尉犂を大破し、その王を斬った。これより西域は降服し、人質を納める国は五十余国に及んだ。

南単于の安国の従弟の子である逢侯が叛いた胡人を率いて塞外に逃亡した。九月癸丑の日、光禄勲の鄧鴻を行車騎将軍事とし、越騎校尉の馮柱、行度遼将軍の朱徽、使匈奴中郎将の杜崇とともにこれを討伐させた。冬十一月、護烏桓校尉の任尚が烏桓と鮮卑を率いて、逢侯を大破した(闞駰『十三州志』に『護烏丸は節を擁し、秩は比二千石、武帝が設置し、内附した烏丸を護るためであったが、後に匈奴中郎将に併合された。中興の初め、班彪がこの官を復活させて東胡を招き附けるべきだと上言し、そこで再び設置された』とある)。馮柱が兵を派遣して追撃し、再びこれを破った。

詔して勃海郡を冀州に属させることとした。

武陵郡の漊中の蛮が叛き、郡兵が討伐して平定した。

七年の春正月、行車騎将軍の鄧鴻、度遼将軍の朱徽、中郎将の杜崇は皆、獄に下されて死んだ(この時、南単于の安国は杜崇と仲が悪く、上書して杜崇を告発した。杜崇はその上書を途中で遮断させたため、これによって驚いて叛き、安国はついに殺された。帝は後になってこのことを知り、皆を召還して獄に下した)。

夏四月辛亥の朔、日食があった。帝は公卿を引見して得失を問い、将軍、大夫、御史、謁者、博士、議郎、郎官に命じて廷中に会し、それぞれ封事を言わせた(『十三州志』に『侍御史は周の官で、すなわち柱下史である。秩六百石、言行を注記し、諸々の不法を糾弾し、員数十五人。出て案ずる所があれば、使者と称する。謁者は秦の官である。員数七十人、皆、孝廉で年五十未満、賓客の接待に通暁する者を選ぶ。年の終わりに県令・長および都官府の丞・長史に任命される。博士は秦の官である。古今に博通し、秩は皆六百石。孝武帝の初めに五経博士を設置し、後に次第に十四員に増員した。聡明で威厳のある者一人を祭酒とし、これを主領させる。議郎、郎官は皆、秦の官である。冗官で特に掌る所はなく、秩は六百石または四百石』とある)。詔して言った。「元首が明らかでないため、教化が流れて良民を得ず、政治が民に失われ、天に譴責が現れた(讁は譴責である。『礼』に『陽事を得ずして、讁天に見る、日之を為して食らう』とある)。深く諸事を考え、五教は寛大にあるべきである。それゆえ旧典により孝廉の推挙によって、その人材を求める(武帝の元光元年、董仲舒が初めてこの議を開き、詔して郡国に孝廉を各一人挙げさせた)。役人は詳しく、郎官の中で寛博で謀略があり、才能が城邑を治めるに堪える者三十人を選べ(任は堪えることで、音は仁林の反切)。」やがて選ばれた郎官をすべて出して県長や侯相に補任した(長は県長、相は侯相である。『十三州志』に『県が侯の邑である場合は、令・長が相となり、その秩はもとの令・長の本秩に従う』とある)。

五月辛卯の日、千乗国を楽安国に改めた(千乗の故城は現在の淄州高苑県の北にある。楽安の故城は現在の青州博昌県の南にある)。

六月丙寅の日、はい王の劉定が薨去した。

秋七月乙巳の日、易陽で地割れが起こった(易陽は県で、易水の陽にある。現在の易州である)。九月癸卯の日、京師で地震があった。

八年の春二月己丑の日、貴人の陰氏を立てて皇后とした。天下の男子に爵を賜い、人ごとに二級、三老、孝悌、力田には三級、民で名数に登録されていない者および流民で登録を望む者には一級を賜うこととした。鰥、寡、孤、独、篤癃、貧しく自活できない者には粟を賜い、人ごとに五斛とした。

夏四月癸亥、楽成王劉党が薨去した。

甲子、詔を下してへい州の四郡の貧民に賑貸を行った。

五月、河内郡と陳留郡で蝗害が発生した。

南匈奴の右温禺犢王が反乱し、寇掠を行った。秋七月、行度遼将軍の龐奮と越騎校尉の馮柱が追討し、右温禺犢王を斬った。

車師後王が反乱し、その前王を攻撃した。

八月辛酉、酎祭を行った。詔を下して郡国・中都官の囚人で死罪を一等減じた者を敦煌に赴かせて戍守させた。大逆の罪を犯した者は、蚕室に入ることを募る。女子は宮刑に処す。死罪以下から司寇および亡命者に至るまで、それぞれ差等を設けて贖罪を許した。

九月、京師で蝗害が発生した。吏民で事を言上する者は多く有司を責めるものとなった。詔して言う。「蝗虫の異変は、おそらく根拠なく生じたものではない。(『礼記』月令に言う、『孟夏に春令を行えば、則ち蝗虫災いとなる』と。『洪範』五行伝に言う、『貪利して人を傷つければ、則ち蝗虫稼を損なう』と。)万方に罪あれば、それは朕一人にある。しかるに事を言上する者が専ら下の者を咎めるのは、朕を助ける者ではない。朕は日夜痛み病み、憂いと禍いを消し止めようと考える。(『尚書』に『恫矜乃身』とある。孔安国注に『恫は痛み、矜は病なり。痛病身にあるが如く、これを除かんと欲するなり』とある。矜の音は古頑反。)昔、楚の厳王は災いなくして懼れ、(解釈は明帝紀に見える。)成王は郊外に出て風が反転した。(成王が周公を疑うと、天は大風を起こし、禾はことごとく倒れた。王が郊外に出て祭祀を行うと、天は風を反転させて禾を起こした。事は『尚書』に見える。)どうすれば朕の及ばぬところを正し、災変を塞ぐことができるのか。百官の師尹は努めてその職務を修め、刺史・二千石は刑辟を詳らかにし、冤虐を理め、鰥寡を恤れ、孤弱を憐れみ、災いを招き蝗害を興す咎の原因を思惟せよ。」

庚子、広陽郡を再び設置した。(高帝の時の燕国である。昭帝の元鳳元年に広陽郡となり、宣帝の本始元年に国に改められた。)

冬十月乙丑、北海王劉威が罪ありとして自殺した。(北海は郡で、現在の青州の県である。)

十二月辛亥、陳王劉羨が薨去した。

丁巳、南宮の宣室殿が火災に遭った。

九年春正月、永昌の徼外の蛮夷および撣国が重訳して貢を奉じた。(撣の音は擅。『東観記』は「擅」と作る。俗本は「禅」の字が類似しているためか、あるいは「禅」と作るものがあるが、誤りである。『説文』に言う、「訳は四夷の語を伝えるなり」と。)

三月庚辰、隴西で地震が発生した。

癸巳、済南王劉康が薨去した。

西域長史の王林が車師後王を撃ち、これを斬った。

夏四月丁卯、楽成王劉黨の子の劉巡を楽成王に封じた。

六月、蝗害と旱魃があった。戊辰、詔を下した。「今年の秋の穀物は蝗虫に害されたので、すべて租税・更賦・芻稾を収めないこと。もし損失があった場合は、実情に応じて免除し、残りで租税を収めるべきものも半額とする。山林の豊かな利益や、池沼での漁労・採集は、民衆を養うために用い、仮税を徴収してはならない。」秋七月、蝗虫が京師の上空を飛び越えた。

八月、鮮卑が肥如を侵犯した。(肥如は県で、遼西郡に属する。《前書音義》に「肥子が燕に奔り、ここに封じられた」とある。現在の平州である。)遼東太守の祭参が獄に下され死んだ。(《東観記》に「鮮卑の千余騎が肥如城を攻め、官吏・人民を殺害・略奪した。祭参は敗北を招いた罪で、獄に下され誅殺された」とある。)

閏月辛巳、皇太后竇氏が崩御した。丙申、章徳皇后として葬った。

焼当羌が隴西を侵犯し、長吏を殺害した。行征西将軍の劉尚、越騎校尉の趙世らを派遣して討伐し、これを撃破した。

九月庚申、司徒の劉方が策書により免官され、自殺した。

甲子、皇妣梁貴人を皇太后として追尊した。冬十月乙酉、恭懐梁皇后を西陵に改葬した。(《謚法》に「正徳美容を恭と曰い、義を執り善を揚ぐるを懐と曰う」とある。《東観記》に「承光宮で改めて殯し、儀礼は敬園に比した。初め、后の葬儀には不備があり、竇后が崩御した後、改葬を議した」とある。)

十一月癸卯、光禄勲の河南の呂蓋が司徒となった。(蓋は字を君上といい、宛陵の人である。)十二月丙寅、司空の張奮が罷免された。壬申、太僕の韓稜が司空となった。

己丑、若盧獄官を再び設置した。(《前書》に、若盧獄は少府に属するとある。漢旧儀に「将相大臣を審理することを主る」とある。)

十年春三月壬戌、詔を下した。「堤防と溝渠は、地理に順い助け、塞がりを開通し利益を通じさせるものである。(礼記月令に「季春の月、堤防を修め利し、溝瀆を導き達し、道路を開通し、障塞するもの無からしむ」とある。)今、廃れ緩み懈怠し、負担としない。刺史・二千石は適宜に疏導せよ。縁故に乗じて妄りに発動し、煩擾とすることなく、罰を明らかに行うであろう。」

夏五月、京師で大水があった。(《東観記》に「京師で大雨が降り、南山の水が流れ出て東郊に至り、人家を壊した」とある。)

秋七月己巳、司空の韓稜が薨去した。八月丙子、太常の太山の巣堪が司空となった。(堪は字を次郎といい、太山南城の人である。)

九月庚戌、廩犧官を再び設置した。(《漢官儀》に「廩犧令一人、秩六百石」とある。)

冬十月、五州で雨水があった。

十二月、焼当羌の豪族の迷唐らが種族の人々を率いて宮闕に詣で、貢献した。

戊寅の日、梁王の劉暢が薨去した。

十一年の春二月、使者を郡国に派遣して巡行させ、災害を受け自活できない者に食糧を貸し与え、山林や池沢で漁労や採集を行わせ、仮税を徴収しないこととした。

丙午の日、詔を下して郡国や中都官の刑徒、および重病の者や老幼の女囚についてはそれぞれ刑期を半減し、残り三ヶ月未満の者は全て赦免して郷里に帰らせた。

夏四月丙寅の日、天下に大赦を行った。

己巳の日、右校尉の官職を再設置した。(『東観記』によると、「西河郡鵠沢県に設置した」という。)

秋七月辛卯の日、詔を下して言った。「官吏や民衆が分を越え、葬儀を厚くし生計を損なうので、旧来の法令で制度を節制している。近ごろ貴戚や近親、百官や師尹は率先して従おうとせず、担当官庁も取り締まらず、怠慢放任が日増しにひどくなっている。また商人や小民の中には法禁を忘れ、珍奇な技巧の贅沢品が公然と流通し蓄積されている。在位する者が犯した場合は、まず糾弾し正すべきである。市井の小民に対しては、ただ法令の綱紀を明らかにするだけで、法令を理由に弱い者を虐待してはならない。」

十二年春二月、旄牛の辺境外の白狼、貗薄の夷が種族を率いて帰属した。(闞駰『十三州志』によると、「旄牛県は蜀郡に属する」という。『前漢書』によると、旄牛の尾を産出し、毎年貢納して節の飾りに用いたという。)

被災した諸郡の民に種子と食糧を貸し与える詔を下した。貧しい者、鰥夫、寡婦、孤児、独り身、自活できない者、および郡国の流民に対しては、ため池で漁労や採集を行うことを許可し、野菜や食糧の助けとした。

三月丙申の日、詔を下して言った。「連年不作で、百姓は空しく困窮している。都では去る冬に積雪がなく、今春には慈雨もなく、民衆は離散流亡し、路上で困窮している。朕は心を痛め頭を悩ませ、どう救えばよいかわからない。『昊天を仰ぎ見るに、今の人々に何の罪があろうか?』(『詩経』大雅の周の宣王が旱魃に遭った時の詩。今の人々に何の罪があって、天が飢饉をもたらすのか、という意味。)三公は朕の腹心であるのに、天意を受け民を安んずる策を得ていない。たびたび担当官庁に詔して、良吏を選ぶよう務めさせた。今なお改めず、苛酷で暴虐な政治を競い、小民を侵し苦しめて虚名を求め、下吏に任せて権勢を借りて邪を行わせている。それゆえ法令が下れば奸が生じ、禁令が至れば詐りが起こる。巧みに法を曲げ律を解釈し、文飾を施し言葉を増やし、言葉で賄賂が行われ、手で罪が成る。朕はこれを非常に憂いている。公卿が善悪を明らかにするのを助けようとしなければ、どうしてその咎と罰を救えようか。咎と罰が既に下り、さらに災いが小民に及んでいる。もし上下が心を一つにすれば、あるいは救われるかもしれない。天下の男子に爵位を賜い、各人二級、三老、孝悌、力田には三級、戸籍に名のない者や流民で登録を望む者には各人一級を与える。鰥夫、寡婦、孤児、独り身、重病の者、貧しく自活できない者には粟を賜い、各人三斛とする。」

壬子の日、太学に在籍する博士の弟子員に布を賜い、各人三匹とした。(武帝の時に博士弟子を設置し、太常が十八歳以上で容姿端正な者を選んで補った。昭帝は員数を増やして百人とし、宣帝はそれを倍にし、元帝はさらに員数を千人とし、成帝はさらに員数を三千人に増やした。)

夏四月、日南郡象林県の蛮夷が反乱を起こし、郡兵が討伐してこれを撃破した。

閏月、敦煌、張掖、五原の民で貧しい者に穀物を貸し与え、施しを与えた。

戊辰の日、秭帰で山崩れが起こった。(秭帰は県で、南郡に属し、古の夔国であり、現在の帰州である。袁山松は言う。「屈原はこの県の人で、流放された後、突然一時帰郷し、その姉も来たので、その地を秭帰と名付けた。」秭も姉の意である。『東観記』によると、「秭帰の山は高さ四百余丈で、崩れて渓流を埋め、百余人を圧死させた」という。)

六月、舞陽で大水が起こり、水害を受け特に貧しい者に穀物を賜い、各人三斛とした。

秋七月辛亥の朔日、日食があった。

九月戊午、太尉張酺が免官された。丙寅、大司農張禹が太尉となった。

冬十一月、西域の蒙奇・兜勒の二国が使者を遣わして内属し、その王に金印紫綬を賜った。

この年、焼当羌が再び叛いた。

十三年春正月丁丑、帝は東観に行幸し、書林を閲覧し、篇籍を閲し、広く術芸の士を選抜してその官に充てた。

二月、任城王尚が薨去した。

丙午、張掖・居延・朔方・日南の貧民および孤・寡・羸弱で自活できない者に賑貸した。

秋八月、詔して象林の民で農桑の業を失った者には、種糧を賑貸し、下貧の者には穀食を稟賜するとした。

己亥、北宮の盛饌門閣が火災にあった。

護羌校尉周鮪が焼当羌を撃ち、これを破った。

荊州で雨水があった。九月壬子、詔して言った。「荊州は近年節度がなく、今度は淫水が害をなした。残りの地域はかなり収穫があったが、多くは行き渡っていない。四民の農食の根本を深く思い、惨然として憐れみを抱く。天下に今年の田租・芻稾を半減することを命じる。実情に応じて免除すべきものは、故事の通りとする。貧民が種や食糧を借りたものは、すべて取り立ててはならない。」

冬十一月、安息国が使者を遣わして獅子および条枝の大爵を献上した。

丙辰、詔して言った。「幽・并・涼州は戸口が概して少なく、辺境の役務が多く厳しく、束脩の良吏であっても、進んで仕える道が狭い。夷狄を撫接するには、人を本とする。辺境の郡で口数十万以上のところは毎年孝廉一人を挙げ、十万に満たないところは二年に一人、五万以下のところは三年に一人を挙げることを命じる。」

鮮卑が右北平を寇し、ついに漁陽に入ったが、漁陽太守がこれを撃破した。

戊辰、司徒呂蓋が罷免された。十二月丁丑、光禄勲魯恭が司徒となった。

辛卯、巫蛮が叛き、南郡を寇した。

十四年の春二月乙卯、東海王劉政が薨去した。

かつての西海郡を修復し、(平帝の時、金城塞外の羌が地を献じて西海郡とした。光武帝建武年間に金城を省いて隴西郡に編入し、この時に至って再び修復した。金城はすなわち今の蘭州県である。)金城西部都尉を移してこれを守備させた。

三月戊辰、辟雍に臨み、饗射の礼を行い、天下に大赦を施行した。

夏四月、使者を派遣して荊州の兵を督し、巫蛮を討伐し、これを撃破して降伏させた。

庚辰、張掖、居延、敦煌、五原、漢陽、会稽の流民および下層貧民に穀物を賑給・貸与し、それぞれ差等をつけた。

五月丁未、初めて象林将兵長史官を設置した。(闞駰『十三州志』にいう、「将兵長史は日南郡に駐在し、また将兵司馬があり、雒陽から九千六百三十里離れている」)。

六月辛卯、皇后陰氏を廃し、后の父特進の陰綱は自殺した。

秋七月甲寅、詔して象林県の更賦・田租・芻稾を二年間免除した。

壬子、常山王劉側が薨去した。

この秋、三州で雨水が多かった。冬十月甲申、詔して言う、「兖州、豫州、荊州は今年水雨が過度に多く、農作業を損なうことが多い。被害が十分の四以上に及ぶ者は皆、田租・芻稾を半減する。それに満たない者は、実情に応じて免除する」。

辛卯、貴人鄧氏を立てて皇后とした。

丁酉、司空の巢堪が罷免された。十一月癸卯、大司農の徐防が司空となった。

この年、初めて郡国の上計吏が郎官に補任される制度を復活させた。(上計は、今の計吏である。『前書音義』にいう、「旧制では、郡丞に命じて歳計を奉じさせた。武帝の元朔年間に郡国に命じて孝廉を各一人挙げさせ、計吏とともに上京させ、郎中に拝した」。途中で廃止されていたが、今これを復活させた)。

十五年春閏月乙未、詔して、流民で本籍地に帰還したいが食糧がない者は、通過地で実情に応じて食糧を支給し、病気の者はさらに医薬を加えて与える。帰還を望まない者は、強制しない。

二月、詔して潁川、汝南、陳留、江夏、梁国、敦煌の貧民に食糧を支給・貸与した。(『前書音義』にいう、「陳留はもともと鄭の邑であったが、後に陳に併合されたので、陳留という」。今の汴州県である。江夏郡は高帝が設置した。沔水が長江から分かれて南郡華容に至り夏水となり、郡内を通って長江に入るので、江夏という)。

夏四月甲子晦(月末)、日食があった。五月戊寅、南陽で大風が吹いた。

六月、詔を下し、百姓の鰥寡(やもめや独り者)が池沼で漁労や採集を行う場合、二年間は仮税を徴収しないこととした。

秋七月丙寅、済南王劉錯が薨去した。(錯の音は七故反。)

涿郡の故安鉄官を再設置した。(『続漢書』によると、「その郡県に塩官・鉄官がある場合、事の大小に応じて令・長および丞を置き、その秩次はすべて県と同じである」という。)

九月壬午、南巡狩を行い、清河王劉慶・済北王劉寿・河間王劉開がともに従った。通過した地の二千石・長吏以下、三老・官属および百歳以上の民に銭や布を賜り、それぞれ差等があった。この秋、四州で雨水が多かった。冬十月戊申、章陵に行幸し、旧宅を祀った。癸丑、園廟を祀り、旧廬で宗室を集め、労をねぎらい賜物を与え、音楽を奏した。戊午、進んで雲夢に行幸し、漢水に臨んでから還った。(雲夢は現在の安州県であり、雲夢沢の中にある。)十一月甲申、車駕は宮中に還り、従臣および留まった公卿以下に銭や布を賜り、それぞれ差等があった。

十二月庚子、琅邪王劉宇が薨去した。

有司が上奏し、夏至には微陰が起こり、靡草(なびく草)が枯れるので、小事を決することができると論じた。(『礼記』月令に「孟夏の月、靡草死に、麦秋至り、薄刑を断ち、小罪を決す」とある。鄭玄の注に「靡草とは、薺・亭歴の類である」とある。臣の賢が案ずるに、五月に一陰爻が生じるので、微陰と言えるが、今の月令に「孟夏」とあるのは純陽の月である。ここに「夏至」と言うのは、月令と異なる。)

この年、初めて郡国に命じて、日北至(夏至)の時に薄刑を審理させた。

十六年春正月己卯、詔を下し、田業を持ちながら貧困で自ら農耕できない貧民には、種と食糧を貸し与えることとした。

二月己未、詔を下し、兗・豫・徐・冀の四州はここ数年雨が多く農作物を損なっているので、酒の売買を禁じた。夏四月、三府の掾を派遣して四州を分け巡行させ、耕す手段のない貧民には、犂牛の代価を雇い与えることとした。

五月壬午、趙王劉商が薨去した。

秋七月、旱魃があった。戊午、詔を下して言った。「今、秋の穀物がちょうど穂を出しているのに旱魃が起こり、雲雨が潤さない。これは疑わしくは官吏が残酷で厳しく、恩沢を宣べず、無罪の者を妄りに拘束し、善良な者を幽閉したことによるものであろう。一切の囚徒で法に疑いのある者は決断せず、秋の令に奉じよ。(『礼記』月令に「孟秋の月、有司に命じて法制を修め、囹圄を繕い、桎梏を具え、薄刑を断ち、小罪を決す」とある。)今まさに煩瑣で苛酷な官吏を明らかにし、その罰を顕わにする。」

辛酉、司徒の魯恭が免官された。庚午、光禄勲の張酺が司徒となった。

辛巳、詔を下し、天下すべて今年の田租・芻稾(飼料と藁)を半額納入することとし、災害を受けた者は実情に応じて免除することとした。貧民が貸し与えられた種糧および田租・芻稾は、すべて徴収を求めないこととした。

八月己酉、司徒の張酺が薨去した。冬十月辛卯、司空の徐防が司徒となり、大鴻臚の陳寵が司空となった。

十一月己丑、帝は緱氏に行幸し、百岯山に登った。(百岯山は柏岯山のことで、洛州緱氏県の南にある。《爾雅》に「山一成を岯という」とあり、東観記では「坯」と作る。いずれも音は平眉反である。流俗本に「杯」とあるものは誤りである。)従臣の百官に布を賜い、それぞれ差があった。

北匈奴が使者を遣わして臣下を称し、貢ぎ物を献上した。

十二月、遼東西部都尉の官を再び設置した。(西部都尉は、安帝の時に属国都尉とされたもので、遼東郡の昌黎城にある。)

元興元年春正月戊午、三署の郎を引き連れて禁中に召見した。(漢官儀によれば、「三署とは五官署と左署、右署をいう。それぞれ中郎将を置いてこれを司る。郡国は孝廉を挙げて三署郎を補い、五十歳以上は五官に属し、次は左署・右署に分かれる。中郎・議郎・侍郎・郎中の四等があり、定員はない。」禁中とは、門戸に禁があり、侍御する者でなければ入ることができないので、禁中という。)七十五人を選抜任用し、謁者・長・相を補った。

高句が郡の境界を侵犯した。

夏四月庚午、天下に大赦を行い、元号を元興と改めた。宗室で罪によって籍を絶たれていた者は、すべて再び属籍に復した。

五月癸酉、雍の地が裂けた。(《東観記》に「右扶風雍の地裂く」とあり、流俗本に「雍」の下に「州」があるものは誤りである。)

秋九月、遼東太守の耿夔が貊人を撃ち、これを破った。

冬十二月辛未、帝は章徳前殿で崩御した。二十七歳であった。皇子の隆を立てて皇太子とした。天下の男子に爵を賜い、人ごとに二級、三老・孝悌・力田には人ごとに三級、民で名数がなく流民で占めようとする者には人ごとに一級を賜った。鰥・寡・孤・独・篤癃・貧しく自活できない者には粟を賜い、人ごとに三斛とした。

竇憲が誅殺されて以来、帝はみずから万機を親裁した。災異があるたびに、公卿を招いて問い、得失を極言させた。前後八十一か所の符瑞があったが、自ら徳が薄いと称し、すべて抑えて宣べなかった。旧例では南海が龍眼・荔枝を献上し、十里ごとに駅を置き、五里ごとに斥候を置いていた。(南海は郡で、秦が設置し、現在の広州の県である。《広雅》に「益智は龍眼なり」という。交州記に「龍眼の樹は高さ五六丈、荔枝に似て小さい」という。広州記に「実は荔枝に似て丸く、七月に熟す。荔枝の樹は高さ五六丈、桂樹のように大きく、実は鶏卵のようで、甘く汁が多く、安石榴に似る。甘酸っぱいものがあり、日が禺中(午前)になると、一斉に赤くなり、すぐ食べられる」という。置とは駅のことである。)険阻な道を奔騰し、死者が道に絶えなかった。当時、臨武県長の汝南唐羌は、県が南海に接していたので、(臨武は県で、桂陽郡に属し、現在の郴州の県である。)上書して状況を述べた。帝は詔を下して言った。「遠国の珍味は、本来宗廟に奉るためのものである。もし害があるならば、どうして民を愛する根本と言えようか。太官に命じて今後は献上を受け取らせないようにせよ。」これによって遂に廃止された。(謝承《書》に「唐羌は字を伯游といい、公府に辟召され、臨武長を補った。県は交州に接し、旧例として龍眼・荔枝および生鮮を献上し、これを献ずるのに駅馬が昼夜伝送し、虎狼の毒害に遭い、倒れ死ぬ者が絶えなかった。道が臨武を経由するので、羌は上書して諫めて言った。『臣は聞く、上は滋味を以て徳とせず、下は貢膳を以て功とせず、故に天子は太牢を食することを尊しとし、果実を以て珍としない。伏して見るに、交阯七郡が生の龍眼などを献上し、鳥が驚き風が発する。南州の土地は、悪虫猛獣が道に絶えず、触犯して死亡の害に至る。死者は再び生き返らせることはできず、来る者はまだ救うことができる。この二物が殿に昇っても、必ずしも延年益寿にはならない。』帝はこれに従った。上奏の返答が届くと、羌はすぐに官を棄てて家に帰り、徴召に応ぜず、唐子三十余篇を著した。」という。)

論じて言う。中興以後から永元に至るまで、やや弛張はあったが、ともに存して擾わず、それゆえに平民は年ごとに増え、開墾地は代々広がった。(斉は平の意。)偏師を出して塞外に至れば、漠北の地は空となり、都護が西を指せば、通訳は四万里に及んだ。(《西域伝》に「班超が西域五十余国を平定し、すべて降服し、西は海辺に至る四万里、すべて重訳して貢献した」という。)まさかその道が三代より遠く、術が前世より長かったというわけではあるまい。服する者と叛く者の去来は、もとより数があるのであろうか?

殤帝

孝殤皇帝は諱を隆という。(《謚法》に「短折して成らずを殤という」。《古今注》に「隆の字は盛という」という。)和帝の少子である。元興元年十二月辛未の夜、皇帝の位に即いた。この時、生まれて百余日であった。(誕は大の意。詩大雅に「誕んで厥の月を彌ぎ、先生すること達の如し」とある。鄭玄注に「大いなるかな后稷のその母の懐に在り、終に人道十月にして生まる」という。詩にまた「載せ生み載せ育てる」とある。育は長の意。達の音は它末反。)皇后を尊んで皇太后とし、太后が朝政に臨んだ。(儀礼は皇后紀に見える。)

北匈奴が使者を遣わして臣下を称し、敦煌に至って貢ぎ物を献上した。

延平元年春正月辛卯、太尉の張禹を太傅とした。司徒の徐防を太尉とし、尚書事に参録させ、百官はみな己を緫べてこれに従った。皇兄の勝を平原王に封じた。癸卯、光禄勲の梁鮪を司徒とした。(《漢官儀》に「鮪は字を伯元といい、河東平陽の人である」という。)

三月甲申、孝和皇帝を慎陵に葬る。(洛陽の東南三十里にある。俗本に「順」とあるのは誤りである。)廟を尊んで穆宗と称す。

丙戌、清河王慶・済北王寿・河間王開・常山王章が初めて封国に赴く。

夏四月庚申、祀典にない祀官を廃止する詔を下す。(『東観記』に「鄧太后は元来淫祀を好まない性質であった」とある。)

鮮卑が漁陽を寇す。漁陽太守張顯が追撃し、戦死する。

丙寅、虎賁中郎将鄧隲を車騎将軍とする。

司空陳寵が薨ずる。

五月辛卯、皇太后詔して曰く、「皇帝は幼少にして、大業を継承された。私は暫く補佐して政務を聴き、慎み畏れ敬い、どうすればよいか分からない。至治の根本を深く考えれば、道徳による教化が先にあり、刑罰は後にある。中和を求め、広く慶びと恵みを施し、官吏・民衆と共に新たな出発をしたい。天下に大赦を行う。建武以来、禁錮に処せられた者たちは、詔書で解かれたにもかかわらず、役人が慎重を期して多くは実行されなかったが、皆を平民に復帰させる。」

壬辰、河東郡垣県で山が崩れる。(垣は県名、現在の絳州垣県である。『古今注』に「山崩れの長さ七丈、幅四丈」とある。)

六月丁未、太常尹勤を司空とする。

三十七の郡国で雨が降る。己未、詔して曰く、「夏以来、陰雨が度を過ぎ、暖気が効験を示さず、災いが起こるであろう。日夜憂い恐れ、原因を知らない。昔、夏后氏は衣服を粗末にし、飲食を質素にし、孔子は『私は非の打ち所がない』と言われた。(菲は薄いこと。閒は非難すること。)今、大きな喪に遭い、しかも季節の気候が調和せず、食事を減らし衣服を質素にすれば、あるいは補えるであろう。太官・導官・尚方・内署の諸々の服飾・珍膳・豪華で作りにくい物を減らすこと。」(太官令は周の官で、秩千石、天子の厨房・食事を司る。導官は御米を選ぶことを掌る。導は選ぶこと。尚方は御用の刀剣・諸器物を作ることを掌る。内署は内府の衣物を掌る。秩はいずれも六百石。いずれも『続漢書』に見える。)

丁卯、司徒・大司農・長楽少府に詔して曰く、「私は徳なくして統治を補佐し、日夜心を砕き、その本旨を失うことを恐れている。治道を考えるに、近くから遠くへ、内を先にして外を後にする。建武の初めから今日まで八十余年、宮人は年々増え、後宮はますます広がった。また、宗室で罪に坐して没収された者たちは、なお公族の名を託しているが、甚だ哀れむべきである。今、全て免じて帰し、及び掖庭の宮人も皆、庶民とし、隔てられ鬱屈した心情を晴らす。(抒は舒と同義、食汝反。)諸官府・郡国・王侯家の奴婢で姓が劉の者及び病弱で老いた者は、その名を上申し、必ず実情を全て把握させること。」

秋七月庚寅、司隷校尉・部刺史に勅して曰く、(秦には監御史があり諸郡を監察したが、漢の興りにこれを廃止し、ただ丞相史を派遣して諸州を巡察させ、常置の官ではなかった。孝武帝が初めて刺史十三人を置き、秩六百石とした。成帝が牧と改め、秩二千石とした。建武十八年に再び刺史とし、十二人、各々一州を主管し、その一州は司隷校尉に属する。諸州は常に八月に管轄する郡国を巡行し、囚徒を記録し、成績の優劣を考課する。当初は年末に京都に赴いて奏事したが、中興後は計吏に任せた。『続漢書』に見える。)「天が災いを降すのは、政治に応じて起こるものである。近頃、郡国によっては水害があり、秋の作物を妨害している。朝廷はただ自らを責め、憂い恐れ悼み懼れている。ところが郡国は豊穣の虚飾された名誉を得ようと、災害を覆い隠し、墾田の数を多く報告し、流亡者の数を推し量らず、(揣の音は初委反。)競って戸口を増やし、盗賊を隠蔽し、姦悪な者が罰せられないようにし、任用が順序を乱し、選挙が道理に外れ、貪婪で苛酷な毒害が平民にまで及んでいる。(平民は善人のこと。『書経』に「平民にまで及ぶ」とある。)刺史はうつむき耳を塞ぎ、私情に阿り下と結託し、『天を畏れず、人に愧じない』。(『詩経』小雅の句。)貸し与えるような恩恵は、何度も頼れるものではない。今後はその罰を糾明する。二千石の長吏はそれぞれ被害の実情を調査確認し、田租・芻稾を免除すること。」

八月辛亥、帝が崩御する。癸丑、崇徳前殿に殯する。年二歳。

賛に曰く、孝和帝は沈着で烈々しく、前人の法則に従った。王の威光は内から赫々と発し、強き悪人に誅罰を下した。(慝は悪。竇憲らを誅したことを指す。)瑞祥の符を抑え、時の有徳者を登用して顕わにした。(鄧彪らを用いて政務を委ねたことを指す。)殤帝の世は何と早く、平原王は大任を果たせなかった。(平原王劉勝はもとより病のため立てられなかった。『左伝』に「荷うに堪えず」とある。)