後漢書
粛宗孝章帝紀第三
粛宗孝章皇帝の諱は炟、顕宗の第五子である。
母は賈貴人。
永平三年
、皇太子に立てられた。若い頃から寛容で、儒術を好み、顕宗に重んじられた。
十八年八月壬子の日、皇帝の位に即き、十九歳であった。皇后を尊んで皇太后とした。
壬戌の日、孝明皇帝を顕節陵に葬った。
冬十月丁未の日、天下に大赦を行った。民に爵位を賜い、一人につき二級、父の後継ぎおよび孝悌・力田の者には一人につき三級、名籍のない者および流民で登録を望む者には一人につき一級、爵位が公乗を超える者は子または同産の子に移すことができるとした。鰥・寡・孤・独・重病・貧しく自活できない者には粟を、一人につき三斛賜った。詔して言った。「朕は微末の身をもって、王侯の上に託かり、万機を統理するが、その中正を失うことを恐れ、兢兢業業として、何によって救われるかを知らない。深く思うに、文を守る君主は、必ず師傅の官を建てる。詩に云わないか、『過ちなく忘れず、旧章に従う』と。
太尉の事務を行った節郷侯の趙憙は三代にわたり在位し、国の元老である。
司空の牟融は職務を司ること六年、
勤労して怠ることがなかった。趙憙を太傅とし、牟融を太尉とし、ともに尚書事を録させよ。
『三事の大夫、夙夜を肯んぜず』とは、小雅が傷んだところである。
『我が道に違うときは汝、弼けよ、汝、面従するなかれ』(これは『尚書』益稷篇の文である。孔安国注に「我が道に違うときは、汝は義をもって我を輔け正すべし、我に面従してはならない」とある)。
これは股肱の臣の正しい道である。諸侯百官はその職務に励み考え、それぞれ忠誠を尽くして、朕の及ばぬところを補佐せよ。四方に命を下し、朕の意に従うようにせよ。」
十一月戊戌、蜀郡太守の第五倫が司空となった。
詔して征西将軍耿秉に酒泉に駐屯させた(酒泉は現在の粛州の県である。『前書音義』に「城下に泉あり、その味が酒のようであるため、酒泉と名付けた」とある)。
酒泉太守段彭を派遣し、戊己校尉耿恭を救援させた。
甲辰の晦、日食があった。このため正殿を避け、兵を休め、五日間政務を聴かなかった。有司に詔して、それぞれ封事を上奏させた。
十二月癸巳、有司が上奏して言った。「孝明皇帝の聖徳は純朴で盛んであり、日が傾くまで勤労された(日昃は日が西に傾くこと。『尚書』に「文王は朝から日中・日昃に至るまで、暇を取って食事をするいとまもなかった」とある)。
ご自身は洗いざらしの衣を着用され、食事には二品以上の珍味を求められなかった。恩恵は四方の果てにまで及び(『尚書』に「光、四表に被わる」とある)、
遠方の人々はその教化を慕い、僬僥・儋耳が自ら関門を叩いて来朝した(款は叩くこと。僬僥・儋耳の解説は明帝紀に見える)。
鬼方を討伐し(鬼方は遠方の意。『易経』に「高宗、鬼方を伐つ、三年にしてこれを克つ」とある)、
西域への道を開き、威霊は広く行き渡り、服従しない者はなかった。民衆を憂いとし、天下を楽しみとされなかった。三雍の教えを整え、自ら養老の礼を行われた。登歌を作り、予楽を正し、六芸を広く貫通された(『周礼』保氏が教える六芸は、一に礼、二に楽、三に射、四に馭、五に書、六に数である。『前書』芸文志では礼・楽・春秋・易・詩・書を六芸とする。博貫とは深遠なところまで究明したことをいう)。
昼夜を惜しまず(学問に励まれた)。聡明で深遠な徳は、図讖の中にも著されている(河図に「図は代より出で、九天開明、受用嗣興、十代以て光る」とある。また括地象に「十代の礼楽、文雅並びに出づ」とある。明帝を指す)。
至徳の感ずるところは、神明に通じた。功績は四海に輝き、仁風は千載にわたって行き渡った。しかし深く謙譲を執られ、自ら不徳を称え、陵廟を建てず、地を掃いて祭祀を行い、日祀の法を除き(『春秋外伝』に「日祭、月祀、時享。祖禰には則ち日祭し、高曾には則ち月祀し、三祧には則ち時享す」とある。ここで日祀の法を除くのは、時祭・月祭に従うためである)、
送終の礼を簡略化され、ついに御神体を光烈皇后の更衣別室に納められた。天下の者がこれを聞いて、悲しみ嘆かない者はなかった。陛下の至孝は厚く、聖徳に奉じ順っている。臣の愚見では、更衣の室は中門の外にあり、場所が特別に異なっているため、廟号を顕宗と尊称し、その四時の禘祭・祫祭は光武帝の廟堂で行い、間祀はすべて更衣の室に戻し(『続漢書』に「五年に再び殷祭あり、三年に一祫、五年に一禘す。父を昭とし、南向き;子を穆とし、北向き。禘は夏四月に行い、祫は冬十月に行う。禘とは諦の意味で、昭穆尊卑の義を審らかにする。祫とは合の意味である。冬十月に五穀が実るので、骨肉が祖廟で飲食を共にする。これを殷祭という。四時の正祭の外に、五月に麦を嘗め、三伏や立秋に粢盛や酎酒を嘗め、十月に稲を嘗めるなどがあり、これを間祀といい、それぞれ更衣の殿で行う。更衣とは、正殿ではない。園中には寝殿と便殿がある。寝殿は陵上の正殿である。便殿は寝殿の側の別殿、すなわち更衣の室である」とある)、
武徳の舞を共に奉げ、孝文皇帝が高廟で祫祭を行った故事のようになさるべきです」(『前書』に高廟で武徳・文始・五行の舞を奏したとある)。
詔書が下された。「よろしい。」
この年、牛の疫病が流行った。京師と三州で大旱魃があり、詔を下して兗州、豫州、徐州の田租と飼料用の草を徴収せず、現存する穀物で貧しい人々を救済することとした。
建初元年
春正月、三州の郡国に詔を下した。「今は春の耕作の季節であるが、人々が少しずつ食糧の支給を受け、
行き来が煩雑で、耕作の妨げになることを恐れる。それぞれ特に貧しい者を実態調査し、貸し与える分を計算して一括して与えよ。
流浪の民で故郷に帰りたい者は、郡県が十分な食糧を支給し、帰還できるようにせよ。官営の宿駅で滞在することを許可し、宿泊費を払わせてはならない。長吏は自ら関与し、貧弱な者が取り残されたり、下級役人や豪族が奸悪な行いをする隙を与えてはならない。
詔書が下されたら、遅滞させてはならない。刺史は特に悪質な者を明らかに監督せよ。」
丙寅の日、詔を下した。「近年、牛に疫病が多く、開墾する田畑が減少し、穀物の価格がかなり高騰し、人々が流浪している。今は春の耕作の季節であり、時宜にかなった政務を行うべきである。二千石の官は農桑を奨励し、労力を惜しまず人々を招き寄せよ。諸公や百官の長は、それぞれ誠意を尽くし、人事に専念して急務とせよ。死刑に当たらない罪は、立秋まで審理・検証を待て。役人は選挙を慎重に行い、柔和で善良な者を登用し、貪欲で狡猾な者を退け、季節の命令に従い、冤罪を審理せよ。『五つの教えは寛大にある』とは、帝舜の典籍が称えるところである。
『楽しみやすき君子』とは、大雅が賞賛するところである。
天下に布告して、朕の意を明らかに知らしめよ。」
酒泉太守の段彭が車師を討伐し、大いにこれを打ち破った。戊己校尉の官を廃止した。
二月、武陵郡の澧中の蛮が反乱した。
三月甲寅の日、山陽、東平で地震があった。己巳の日、詔を下した。「朕は徳がなく、大業を継承し、日夜慄慄として、安逸に耽ることを敢えてしない。
それなのに災異が相次いで現れ、政治と相応している。朕はすでに明らかでなく、道を歩む日が浅い。さらに選挙が実態にそぐわず、俗吏が人々を傷つけ、官職は乱れ、刑罰は適切でない。憂えるべきではないか!昔、仲弓は季氏の家臣であり、子游は武城の小さな長官であったが、孔子はなお賢才について教え、人材を得たかどうかを問うた。
明らかな政治には大小なく、人材を得ることが根本である。郷里で推挙選抜するには、必ず功労を積まねばならない。今、刺史や守相は真偽を明らかにせず、茂才や孝廉が毎年数百人もいるが、才能を顕著に示すわけでもないのに、政事を授けようとしている。まったく無意味である。しばしば前世の挙人や貢士を考えてみると、畑仕事から出てきた者もおり、門閥には拘らなかった。
言葉を述べて奏上させれば、その文章は採用できるものであり、功績によって明らかに試せば、政治には特筆すべき事績が現れる。
文と質がほどよく調和している。
朕は大いにこれを称賛する。太傅、三公、中二千石、二千石、郡国の守相に命じて、賢良方正で、直言極諫できる士をそれぞれ一人ずつ推挙させよ。」
夏五月辛酉、初めて孝廉、郎中で度量が広く思慮深く謀略があり、城邑を治める任務に堪える者を推挙し、県長や侯相の補任に充てた。
秋七月辛亥、詔を下して上林苑の池や禁苑の田地の租税を貧しい者に与えた。
八月庚寅、星が天市に彗星のように現れた。
九月、永昌郡の哀牢夷が反乱を起こした。
冬十月、武陵郡の兵が反乱した蛮族を討伐し、これを撃破して降伏させた。
十一月、阜陵王の劉延が謀反を企てたため、阜陵侯に降格された。
二年春三月辛丑、詔を下して言った。「近年、陰陽が調和せず、飢饉がたびたび訪れている。先帝が人々を憂う根本を深く思うに、
詔書
に『財を傷つけず、人を害さず』とあるのは、まさに民衆が末業を去って本業に帰ることを望んでのことである。
しかし今、貴戚や近親は、奢侈と放縦に度がなく、嫁娶や葬送の儀礼において、特に分を超えた贅沢をしている。担当官は法規を廃し、誰もこれを取り調べようとしない。春秋の大義は、貴をもって賤を治めることにある。今、三公より始めて、皆で非合法を明らかに糾弾し、威風を振るうべきである。朕は弱冠にあり、農耕の艱難を知らず、わずかな管窺の見識では、どうして一隅を照らすことができようか!
その科条制度として施行すべきことは、担当者が十分に禁令を設け、まず京師から始め、その後諸夏に及ぼすこと。」
甲辰、伊吾盧の屯兵を廃止した。
永昌、越巂、益州の三郡の民と夷が哀牢を討ち、これを破って平定した。
夏四月戊子、詔して楚・淮陽の事件に連座して流刑となった四百余家を帰還させ、本郡に帰らせることを命じた。
癸巳、詔して斉の相に命じ、氷紈・方空縠・吹綸絮を廃止させた。
六月、焼当羌が反乱し、金城太守の郝崇がこれを討伐したが、敗北した。羌はついに漢陽を侵犯した。秋八月、行車騎将軍の馬防を派遣して討伐し、これを平定した。
十二月戊寅、星が紫宮に彗星のように現れた。
三年春正月己酉、明堂で宗祀を行った。礼が終わると、霊台に登り、雲や気象を望見した。天下に大赦を行った。
三月癸巳、貴人竇氏を立てて皇后とした。爵位を賜い、一般民には二級、三老・孝悌・力田には三級、戸籍のない民および流民で戸籍に登録しようとする者には一級を授けた。鰥・寡・孤・独・重病者・貧しく自活できない者には粟を賜い、一人あたり五斛とした。
夏四月己巳、常山の呼沲石臼河の水運を廃止した。
行車騎将軍の馬防が臨洮において焼当羌を撃破した。
閏月、西域の仮司馬である班超が姑墨を攻撃し、これを大破した。
冬十二月丁酉、馬防を車騎将軍に任じた。
武陵郡の漊中の蛮が反乱した。
この年、零陵郡が芝草を献上した。
四年春二月庚寅、太尉の牟融が薨去した。
夏四月戊子、皇子の慶を立てて皇太子とした。爵位を賜い、一般民には二級、三老・孝悌・力田には三級、戸籍のない民および流民で自ら登録しようとする者には一級を授けた。鰥・寡・孤・独・重病者・貧しく自活できない者には粟を賜い、一人あたり五斛とした。
己丑の日、鉅鹿王の劉恭を江陵王に移し、汝南王の劉暢を梁王に、常山王の劉昞を淮陽王とした。辛卯の日、皇子の劉伉を千乗王に封じた。
劉全を平春王に封じた。
五月丙辰の日、車騎将軍の馬防が罷免された。
甲戌の日、司徒の鮑昱が太尉となり、南陽太守の桓虞が司徒となった。
六月癸丑の日、皇太后の馬氏が崩御した。秋七月壬戌の日、明徳皇太后を葬った。
冬、牛に大規模な疫病が発生した。
十一月壬戌の日、詔を下して言った。「そもそも三代が人を導くには、教学を根本とした。
漢は暴虐な秦を継ぎ、儒術を褒め顕彰し、五経を立てて、博士を置いた。その後、学者は精進し、師承を受けたとはいえ、それぞれ一家を成した。
孝宣皇帝は、聖人から遠く隔たった時が久しく、学問は博くて飽きることがないと考えたので、ついに大夏侯・小夏侯尚書を立て、後にまた京氏易を立てた。
建武年間に至って、さらに顔氏・厳氏春秋、大戴・小戴礼の博士を置いた。
これらは皆、微細な学問を扶け進め、道芸を尊び広めるためのものである。
中元元年の
詔書には、五経の章句が煩雑で多いので、これを減省しようと議した。
永平元年に
至り、長水校尉の樊鯈が、
先帝の大業について上奏し、時宜に応じて施行すべきであると述べた。諸儒に経典の義を共に正させ、学者たちが自ら学ぶ助けとなるようにしたいと考えた。孔子は言われた。『学びてこれを講ぜざるは、これ吾が憂いなり。』また言われた。『博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁はその中にあり。』(論語の文である。講とは習うことである。篤とは厚いこと。志とは記すことである。人は広く学問に通じた後にそれを理解し、自分がまだ悟っていない事柄について切実に問い、自分が及ぶことのできる事柄について身近に考える。学問を好むことも仁の一端であるから、仁はその中にあるというのである。)
ああ、互いに励まし合おうではないか!」そこで太常に命じ、将軍、大夫、博士、(博士は太常に属するので、「下す」と言う。)
議郎、郎官および諸生、諸儒を白虎観に集めさせ、五経の異同について講義議論させ、五官中郎将の魏応に制命を受けて質問させ、(『続漢志』に言う。「五官中郎将は、比二千石である。」)
侍中の淳于恭に上奏させ、帝自ら称制して臨席し決裁された。孝宣帝の甘露年間の石渠閣の故事のようであった。(『前書』に「甘露二年、諸儒に詔して五経の異同を講義させ、蕭望之らがその議論を公平に上奏し、上(皇帝)自ら制して臨席し決裁された」とある。また「施讎は、甘露年間に石渠閣で五経について論じた」とある。『三輔故事』に言う。「石渠閣は未央殿の北にあり、秘書を蔵する所である。」)
白虎議奏を作成した。(現在の『白虎通』である。)
この年、甘露が泉陵、洮陽の二県に降った。(二県は零陵郡に属する。泉陵城は現在の永州零陵県の北にある。洮陽故城は現在の湘源県の西北にある。)
五年春二月庚辰の朔、日食があった。詔して言った。「朕は新たに供養(母后)を失い、(去年、馬太后が崩御した。)
過失と咎が多く現れ、上天が異変を降し、大きな災変がそれに続いた。『詩経』に言うではないか、『また甚だ醜い』と。(詩経小雅に言う。「朔月辛卯、日これに食らわる、また甚だ醜し。」孔は甚だである。醜は悪である。)
また長く旱魃が続き麦を損ない、憂慮の心は痛切である。公卿以下は、直言極諫し、朕の過失を指摘できる者をそれぞれ一人挙げ、公車に派遣せよ。朕自ら閲覧し尋ねるつもりである。山林に隠棲する者を優先せよ。(『前書』鄒陽に「巖穴の士を顕わす」とある。)
浮華な者を取ってはならない。」
甲申、詔して言った。「春秋に『麦苗なし』と書くのは、それを重んじるからである。(春秋荘公七年:「秋、大水、麦苗なし。」『公羊伝』に言う。「一つの災害は書かない。麦がなくなるのを待って、その後で苗がないと書く。」何休の注に言う。「穀物は書かないが、麦苗だけは特に書く。人の食料として最も重要だからである。」)
去秋は雨の恵みが適わず、今また旱魃が続き、炎のごとく焚くがごとし。(炎、焚は熱気が甚だしいことを言う。韓詩に「旱魃虐を為す、炎のごとく焚くがごとし」とある。)
凶作の年は時期を定めず、備えが至らない。朕の不徳により、上は三光(日月星)に累を及ぼし、震え慄き心を痛め、頭を病むほどに痛心している。(忉は音刀。『詩経』に「憂心忉忉」とある。また「疢疾首の如し」とある。)
前代の聖君は、広く思慮を巡らし諮詢し、(咨諏は謀ることで、音は子余反。)
たとえ災いの咎が降っても、常に金匱を開き風が反転するような応報があった。(武王が病気になった時、周公が請命の書を作り、金の匱に蔵した。後に管叔、蔡叔が流言を飛ばし、成王が周公を疑うと、天は大風を起こし、禾や木が全て倒れた。成王が金匱を開けて書を得、郊天して過ちを謝すると、天は風を反転させて禾を起こした。事は尚書に見える。)
私の未熟な身には、ただ悲嘆に暮れるばかりである。二千石の官に命じて冤罪を審理させ、軽微な罪で拘束されている者を記録せよ。五嶽四瀆および名山で雲を起こし雨を降らすことができるものを祀り、一日のうちに天下に雨が行き渡るという報いを蒙ることを願う。
必ず厳粛かつ敬虔に行うように。」
三月甲寅の日、詔を下して言った。「孔子は言った、『刑罰が適切でなければ、人は手足の置きどころに困る』と。今、官吏の多くは良くなく、勝手に喜怒の感情を働かせ、あるいは罪に当たらないことを取り調べ、無辜の者を脅迫し、自殺に追いやる者が、一年のうちに判決を下す件数よりも多い。これはまことに民の父母たる者の心ではない。
役人はこれを糾弾し告発することを議論せよ。」
荊州、豫州の諸郡の兵が武陵郡漊中の反乱した蛮族を討ち破った。
夏五月辛亥の日、詔を下して言った。「朕は正直な士人を待ち望み、席を正さずに(側席して)異なる意見を聞くことを切望している。
先に到着した者は、それぞれ憤りを発し鬱憤を吐露し、大夫たちの志を少し聞くことができた。皆を左右に置き、顧みて問い、省みて受け入れたい。建武の詔書にもまた、堯は職務をもって臣を試し、言葉や文書だけではなかったと言っている。
今、地方官に欠員が多い。皆、補任することができる。」
戊辰の日、太傅趙憙が薨去した。
冬、初めて月令に従って気を迎える楽(迎気楽)を行った。
この年、零陵郡が芝草を献上した。八匹の黄龍が泉陵に現れた。
西域の仮司馬班超が疏勒を攻撃し、これを破った。
六年春二月辛卯の日、琅邪王劉京が薨去した。
夏五月辛酉の日、趙王劉盱が薨去した。
六月丙辰の日、太尉鮑昱が薨去した。
辛未の晦日、日食があった。
秋七月癸巳、大司農の鄧彪を太尉とした。
七年春正月、沛王輔・済南王康・東平王蒼・中山王焉・東海王政・琅邪王宇が来朝した。
夏六月甲寅、皇太子慶を廃して清河王とし、皇子肈を立てて皇太子とした。
己未、広平王羨を西平王に移封した。
秋八月、高廟で酎酒を飲み、光武皇帝・孝明皇帝を禘祭した。
甲辰、詔を下した。
『書経』に、
『祖考来格』とある。これは明哲な祭祀である。
私は末の小さい者で、資質も薄く、先帝の篤厚な情を仰ぎ見て、以前に禘祭を修め、孝と敬を尽くした。私は昭穆の順序を知り、遠祖の思いを寄せることができた。今年、大礼が再び行われ、先帝の神座が加えられた。
悲しみと感懐を抱く。楽をもって迎え、哀をもって送る。祭祀は亡き者が在るが如く行うが、空虚でどう裁断すべきか分からず、あるいは饗いてくれることを願う。慎み敬い和やかな臣、諸侯の助けが、
皆、私の慕う思いを助けてくれる。
今、公には銭四十万を賜い、卿にはその半分を賜い、百官執事にはそれぞれ差等がある。
九月甲戌、偃師に行幸し、東に進んで巻津を渡り、
河内に至った。詔を下した。「車駕は秋の作物を行き、収穫を見、郡界を渡る。皆、精鋭の騎兵で軽装行軍し、他の輜重はない。勝手に道や橋を修繕したり、城郭から遠く離れたり、役人を遣わして出迎えたり、起居を探ったりしてはならない。
出入の前後が煩わしいと感じられる。動務を簡素化し、ただ粟を脱穀して食べ、瓢箪で水を飲む生活さえできればよいと願うばかりである。
通過する地域では貧弱な者に利益をもたらすよう命じ、詔書に背かないようにせよ。」こうして淇園を視察した。
己酉の日、鄴に進んで幸し、魏郡の守・令以下から三老、門闌、走卒に至るまで労い饗応し、それぞれ差等をつけて銭を賜った。常山・趙国の官吏と民人を労い賜い、元氏県の租賦を三年間免除した。辛卯の日、車駕は宮に還った。詔して天下の囚人を死刑一等減じ、笞刑を科さず、辺境の戍に赴かせよ。妻子は自ら従うことを許し、所在の地に籍を置け。父母や兄弟で従いたい者は、自由に従うことを許せ。これに従わない者は、すべて軍興を妨げた罪として論ずる。
殊死に当たる罪を犯した者は、すべて蚕室に下ることを募る。女子は宮刑に処す。囚人で鬼薪・白粲以上の者は、
いずれも本罪を各一等減じ、司寇の作役に輸す。亡命者は贖罪を許す。死罪は縑二十匹を納め、右趾から髡鉗城旦舂は十匹、完城旦から司寇は三匹とする。官吏や民人で罪がありながら未発覚で、詔書が到着した時点で自首する者は、半額を納めて贖罪とする。
冬十月癸丑の日、西に巡狩し、長安に幸した。丙辰の日、高廟を祠り、ついで十一陵に祭祀を行った。使者を遣わして太上皇を万年県で祠った。
中牢をもって蕭何と霍光を祠った。槐里に進んで幸した。岐山で銅器を得た。形は酒罇に似ており、これを献上した。また白鹿を獲た。帝は言った。「上には明らかな天子がなく、下には賢い方伯もいない。
『人の無良なる、一方に相怨む』と。
この器もまた何のために来たのか?」
また長平に幸し、池陽宮に御した。
東は高陵に至り、涇水で舟を造り、還った。
幸する所ごとに、必ず郡県の官吏と民人を集め、労い賜い、音楽を奏させた。十一月、詔して河東の守・令・掾以下を労い賜った。十二月丁亥の日、車駕は宮に還った。
この年、京師および郡国に螟が発生した。
八年春正月壬辰の日、東平王劉蒼が薨去した。三月辛卯の日、東平憲王を葬り、鑾輅と龍旂を賜った。
夏六月、北匈奴の大人が率いる集団が塞に款き降伏した。
冬十二月甲午、帝は東方を巡狩し、陳留・梁国・淮陽・潁陽に行幸した。戊申、車駕は宮中に帰還した。
詔して言った。「五経が分かれて解釈され、聖人の時代から遠ざかるにつれ、章句の遺文は誤りや疑義が多く正すことが難しい。先師の微妙な言葉がついに廃絶することを恐れる。これは古えを重んじ、道の真実を求めることにはならない。群儒に命じて高才の生徒を選び、左氏春秋・穀梁春秋・古文尚書・毛詩を学ばせ、微かな学問を支え、異なる義を広めよ。」
この年、京師および郡国に螟の害があった。
元和元年
春正月、中山王劉焉が来朝した。日南の境外の蛮夷が生きた犀と白雉を献上した。
閏月辛丑、済陰王劉長が薨去した。
二月甲戌、詔して言った。「王者の八政において、食を根本とする。
それゆえ古の者は耕作の業を急ぎ、耒耜の勤めを尽くし、
費用を節約して蓄えを貯め、凶災に備えた。そのため年は豊作でなくとも人々に飢えた顔色はなかった。牛疫以来、穀物の収穫が連続して少ないのは、まさに官吏の教化が行き届かず、刺史・二千石がこれを憂いとしないからである。
郡国に命じて、田畑がなく他界の肥沃な土地に移住したい者を募り、自由にそれを許すこと。移住先では公田を与え、耕傭を雇い、種子と食糧を貸し与え、
田器を貸し与え、五年間は租税を徴収せず、三年間は算賦を免除する。その後、本郷に戻りたい者は禁じない。」
夏四月己卯、東平国を分割し、憲王劉蒼の子である劉尚を任城王に封じた。
六月辛酉、沛王劉輔が薨去した。
秋七月丁未、詔して言った。「律には『掠(拷問)する者はただ榜・笞・立のみを許す』とある。
また令丙には、箠の長短に規定がある。」
以前の大獄以来、拷問は多くが残酷で、鉆や鑽の類いが、
悲惨で苦痛は極まりない。その痛みと毒苦を思うと、恐れおののき心が動揺する。
『書経』
に『鞭は官刑と為す』とあるが、まさかこのようなことを言っているのではないだろうか?
秋冬に刑獄を処理する際には、明確に禁令を設けるべきである。」
八月甲子、太尉の鄧彪が罷免され、大司農の鄭弘が太尉となった。
癸酉、詔して言う。「朕の道による教化は徳に至らず、官吏の政治は調和を失い、民衆は理解せず、下の者が罪に当たる。賊寇の争う心は止まず、辺境や村落の家屋は整備されない。
常に諸々の事柄を思い、その道理を考察し、すべての君子と共に、この道を広めたい。心の中ははるか遠く、何によって託そうか?
建初九年を
改めて
元和元年と
する。郡国や中都官の囚人で死刑を一等減じる者は、笞打ちせず、辺境の県へ送る。妻子は自ら従い、在所に籍を置く。殊死の罪を犯した者は、すべて募って蠶室へ下す。女子は宮刑とする。囚人で鬼薪・白粲以上の者は、皆本罪を一等減じ、司寇の作業に輸する。亡命者は贖罪し、それぞれ差がある。」
丁酉、南へ巡狩し、詔して経由する道筋の郡県に、儲えや設備を設けてはならないと命じた。
司空に命じて自ら人夫を率い、橋梁の支柱を補修させた。
使者を派遣して奉迎し、起居を探知した者は、二千石が罪に当たる。鰥・寡・孤・独で自活できない者には粟を賜い、一人あたり五斛とする。
九月乙未の日、東平王の劉忠が薨去した。
辛丑の日、章陵に行幸し、旧宅の園廟を祀り、宗室の故人と会い、それぞれに差をつけて賞賜を与えた。冬十月己未の日、進んで江陵に行幸し、詔を下して廬江太守に南嶽を祀らせ、また詔を下して長沙太守と零陵太守に長沙定王、舂陵節侯、鬱林府君を祀らせた。帰途、宛に行幸した。十一月己丑の日、車駕は宮中に戻り、従者にそれぞれ差をつけて賜物を与えた。
十二月壬子の日、詔を下して言った。「『書経』に言う:『父が慈しみでなくとも、子が敬わないわけではなく、兄が友愛でなくとも、弟が恭順でないわけではなく、互いに及ばないものである』と。
かつての妖言による大獄は、及ぶ範囲が広く遠く、一人が犯罪を犯すと、三属にまで禁錮が及び、
王朝に仕官して冠の纓を垂れることができなかった。もし賢才があっても生涯用いられないのであれば、朕は甚だこれを憐れむ。これでは更始を与えるとは言えない。以前、妖悪の罪で禁錮された者は、全てこれを免除する。
過ちを捨てる道を明らかにするためである。ただし宿衛に就くことはできないだけである。」
二年春正月乙酉の日、詔を下して言った。「法令に『子を産んだ者は賦役を免除し、三年間は算賦を課さない』とある。今、妊婦全てに、
胎養の穀物として一人当たり三斛を賜い、その夫の賦役を免除し、一年間は算賦を課さない。これを法令として定めよ。」また三公に詔して言った。「今は春の生養の時節で、万物が莩甲している。
萌芽する陽気を助け、時節の物を育成すべきである。司る官吏に命じる。死罪以外の罪は取り調べず、また吏民が事条を書き連ねて告訴しても受理してはならない。
事を静め人を安んじ、天の気を敬って奉ることを願うためである。立秋以降は従来通りとする。俗吏は外見を飾り立て、似てはいるが非なるものであり、人事の尺度で測れば耳に快いが、陰陽の理で論じれば教化を損なう。朕はこれを甚だ厭い、甚だ苦しむ。安静な官吏は誠実で華美がなく、
一日単位では不足に見えても、一月単位では余りがある。
襄城県令の劉方のように、
吏民が声を揃えて煩わしくないと言う者は、他に特段の異績がなくとも、これに近いと言えよう。折に触れて二千石にそれぞれ寛容で明察であることを求めているのに、今、富める奸人が下で賄賂を行い、貪欲な官吏が上で法を曲げ、罪ある者が論ぜられず、過ちのない者が刑罰を受けるのは、甚だ大逆である。厳しいことを明察とし、酷薄なことを聡明とし、軽いことを徳とし、重いことを威厳とする、この四つのことが一つでも起これば、下には怨みの心が生じる。朕は詔書を幾度も下し、使者の冠蓋が道に連なっているのに、官吏は治めず、民は職を失うことがある。その過ちはどこにあるのか?旧い法令をよく考え、朕の意にかなうようにせよ。」
二月甲寅の日、初めて四分暦を用いた。
詔して言う。「今、山川の鬼神で典礼に応じるものは、まだ全て秩序立てられていない。
そのため、群祀を増やし修めることを議し、豊年を祈るように。」
丙辰の日、東へ巡狩する。己未の日、鳳凰が肥城に集まった。
乙丑の日、帝は定陶で耕作した。詔して言う。「三老は年長者を敬うことである。孝悌は善行である。力田は勤労である。国家はこれを大いに喜ぶ。その者たちに帛を一人一匹ずつ賜う。農事に励み、率先して成果を上げよ。」使者を遣わし、成陽の霊台で唐堯を祀らせた。
辛未の日、泰山に行幸し、柴を焚いて岱宗に告げた。黄色い鵠が三十羽、西南から飛来し、祠壇の上を経て、東北の宮屋の上を過ぎ、高く舞い上がったり降りたりした。進んで奉高に行幸した。壬申の日、汶上の明堂で五帝を宗祀した。
癸酉の日、二祖と四宗に告げ祀った。
内外の群臣を大いに集めた。丙子の日、詔して言う。「朕は岱宗を巡狩し、柴を焚いて山川を望祭し、明堂に告げ祀り、先人の功績を顕彰した。その二王の後裔、
先聖の子孫、
東方の諸侯(藩衛)、
伯父・伯兄、仲叔・季弟、幼子・童孫、
百官の従臣、宗室の衆子、要服・荒服の四裔、
沙漠の北、葱嶺の西、
髭面を覆うような者たち、
跋渉し懸度を越えて来た者たち、
陵墓や険阻な地を踏み越え、郊畤に疾走して駆けつけ、
皆が祭りを助けに来た。祖宗の功績と徳は、朕の身にまで及んでいる。朕は空虚で病が多く、尊い明君の後を継いで、
手を洗い供物を捧げるが、恥ずかしくて恐れおののく。詩に言うではないか、『君子が福を授ければ、乱は早く止む』と。
天命の順序が従われ、霊妙な光輝が明らかに現れ、
また士大夫と心を一つにして自ら新たにしたいと思う。天下に大赦を行う。諸々の罪で赦されるべきでない者も、全て赦免する。博、奉高、嬴の租税を免除し、今年の田租と飼料用の草は徴収しない。戊寅の日、済南に進んで行幸した。
三月己丑の日、魯に進んで行幸し、東海恭王の陵を祀った。庚寅の日、闕里で孔子と七十二弟子を祀り、襃成侯と孔家の男女に絹を賜った。壬辰の日、東平に進んで行幸し、憲王の陵を祀った。
甲午の日、使者を遣わして定陶太后と恭王の陵を祀った。
乙未の日、東阿に行幸し、北に太行山に登り、天井関に至った。
夏四月乙巳の日、客星が紫宮に入った。乙卯の日、車駕が宮に還った。庚申の日、祖廟と父廟に至り、
高祖廟に告げ祀った。
五月戊申の日、詔を下して言った。「近頃、鳳凰、黄龍、鸞鳥が七つの郡に頻繁に集まり、
ある郡では二度現れ、また白烏、神雀、甘露がたびたび到来した。祖宗の旧例に従い、恩恵を施す。
天下の官吏に爵位を賜い、人ごとに三級進める。高齢者、鰥夫、寡婦、孤児、独り者には絹を賜い、人ごとに一匹。経典に言う、『鰥寡を侮らず、この煢独を恵め』。さらに河南の女子百戸に牛と酒を加えて賜い、
天下に五日間の大酒宴を許す。公卿以下にそれぞれ差等に応じて銭と絹を賜う。また洛陽で酒宴に参加する者には布を賜い、戸ごとに一匹、城外では三戸で一匹を共にする。太学に在籍する博士の弟子員に布を賜い、人ごとに三匹。郡国に命じて明経を推薦させ、人口十万以上の郡国は五人、十万未満は三人とする。」
廬江を六安国に改め、江陵を再び南郡とした。
江陵王の劉恭を六安王に移封した。
秋七月庚子の日、詔を下して言った。「春秋は春の各月に『王』と記すが、これは三正を重んじ、三微を慎むためである。
律では十二月に立春がある場合、囚人を判決しない。
月令には冬至の後に、陽気に順って万物の生長を助ける記述があるが、
獄を審理し刑を断ずる政務は記されていない。朕は儒雅の士に諮問し、典籍を調べたところ、王者が生殺を行うには、時気に順うべきであると考えた。今後は律を定め、十一月・十二月に囚人を判決してはならない。」
九月壬辰の日、詔を下した。「鳳凰と黄龍が出現した亭部では、二年分の租賦を免除する。
男子には爵位を加賜し、人ごとに二級とする。先に祥瑞を見た者には帛二十匹、近くで見た者には三匹を賜う。太守には三十匹、県令・県長には十五匹、県丞・県尉にはその半分を賜う。
詩経
に言う。『たとえ汝に大いなる徳はなくとも、歌い且つ舞うべし』と。
その他のことは、爵位を賜う先例に従え。」
丙申の日、済南王の劉康と中山王の劉焉を召し、烝祭に参列させた。
冬十一月壬辰の日、冬至であり、関所と橋梁を閉鎖することを初めて行った。
三年春正月乙酉の日、詔を下して言った。「およそ人民を治める者は、民を父母のように見て、痛み憂うる心を持ち、忠と和の教えを施し、這ってでも救おうとするものである。
父母や親族のいない嬰児、および子を養い育てることができない者については、律の規定通りに食糧を給与せよ。」
丙申の日、北へ巡狩し、済南王劉康、中山王劉焉、西平王劉羨、六安王劉恭、楽成王劉黨、淮陽王劉昞、任城王劉尚、沛王劉定が皆従った。辛丑の日、帝は懐県で籍田の礼を行った。
二月壬寅の日、常山、魏郡、清河、鉅鹿、平原、東平の各郡の太守と相に告げて言った。「朕は巡狩の制度について考えるに、それは声教を宣べ、遠近を同じくして考査し、怨みの結びつきを解きほぐすためのものである。今、『四方の国に善政がなく、その良材を用いない』(詩経小雅に言う。「日月は凶を告げ、その運行を用いない。四方の国に善政がなく、その良材を用いない。」四方の国に善政がないのは、天子が善人を用いないからであるという意味)。
車に乗って出遊しようとし、自らその困難さやすさを知りたい。先に園陵を祠り、ついで華山と霍山を望んで祭祀を行った(華、霍は山の名である。現在の廬江郡灊県の西南にあり、天柱山ともいう。《爾雅》によれば、華山は西嶽、霍山は南嶽である)。
東は岱宗(泰山)で柴を焚いて祭祀を行い、人のために福を祈った。今、常山で礼を行い、ついで北の地へ赴き、魏郡を経由し、平原を通り、堤防に登って踏みしめ、古老を訪ねて尋ねたところ、皆が言うには『かつて汴門(汴水の水門)が築かれる前は、深いところは淵となり、浅いところは泥の道であった』と。先帝が民を労わる徳を追い想うと(永平十二年に汴渠を修築したことを指す)。
功績を成し遂げ、遠大な計画を立て、禹の宏大な業績を復興させた(《尚書》に「覃懷に功績を置く」とある。孔安国の注に「厎は置く、績は功なり」とある。遠図とは長い計画の意。禹の治水という大功績を復興させることができたと言う)。
聖なる業績は広く流布して、海の外にまで及んだ。(先帝の業績を)堂を築くことすらできず、朕は甚だ慙愧に思う(《尚書》に「もし父が家屋を建て、すでに法を定めたならば、その子は堂を築くことすら肯まず、ましてや組み立てることを肯うだろうか」とある)。
月令によれば、孟春の月には丘陵や土地の適性をよく観察する(月令:「孟春の月には、丘陵、坂や険しい所、原野や湿地の土地の適性、五穀の植え付けをよく観察し、人を教え導き、必ず自ら躬行し、農事を整える」)。
今、肥沃な田はまだ多く、開墾されていないものがある。それらをすべて貧民に賦与し、糧食と種を与え、地力を尽くすことに務め、遊手好閑の者を出さぬようにせよ。朕が通過する県邑では、今年の田租の半分を納入免除することを許し、農夫の労苦をねぎらう。」
乙丑の日、侍御史と司空に勅して言った。「今は春である。通過する場所では、伐採や殺生をしてはならない。車が避けられるならば、避けよ。騑馬(外側の馬)を外せるならば、外せ(車轅に挟まれた馬が服馬で、服馬の外側が騑馬である)。
《詩経》に言う。『道端の葦は茂り、牛羊は踏みつけるな』
(詩経大雅の文。鄭玄の注に言う。「道端の葦が茂っている様子。牛羊を放牧する者は踏みつけて折り傷つけさせてはならない。ましてや人においておや!」)。
礼によれば、君主が一草一木を時ならず伐採することは、不孝と呼ばれる。
〈礼記に孔子が言う:「一本の木を伐り、一頭の獣を殺すにも、その時節をわきまえなければ、孝ではない」。〉
世間の者は人に順うことを知るが、天に順うことを知る者はない。そのことを明らかにして朕の意にかなえよ。」
戊辰の日、進んで中山に幸し、使者を遣わして北嶽を祠り、長城を出た。
〈史記によれば、蒙恬が秦のために長城を築き、西は臨洮から始まり、東は海に至った。〉
癸酉の日、還って元氏に幸し、県舎の正堂で光武帝と顕宗を祠った。翌日、また始生堂で顕宗を祠った。
〈明帝は常山国の元氏県の伝舎で生まれた。〉
皆、楽を奏した。三月丙子の日、詔して高邑県令に即位壇で光武帝を祠らせた。元氏県の七年分の徭役を免除した。己卯の日、進んで趙に幸した。庚辰の日、霊寿で房山を祠った。
〈霊寿は県名で、常山郡に属し、現在の恒州の県である。房山は現在の恒州房山県の西北にあり、俗に王母山と呼ばれ、その上に王母祠がある。
(段落開始記号)
辛卯の日、皇帝の車駕が宮殿に帰還した。従った者たちにそれぞれ等級に応じて賜物を与えた。
夏四月丙寅、太尉の鄭弘が免職となり、大司農の宋由が太尉となった。
(段落終了記号)
宋由は字を叔路といい、長安の人である。
(段落開始記号)
五月丙子、司空の第五倫が罷免され、太僕の袁安が司空となった。
秋八月乙丑、安邑に行幸し、塩池を見物した。
(段落終了記号)
許慎が言うには、「河東の塩池は、長さ五十一里、幅七里、周囲百十六里である。」と。現在の蒲州虞郷県の西にある。
(段落開始記号)
九月、安邑から帰還した。
冬十月、北海王の劉基が薨去した。
焼当羌が反乱し、隴西を侵犯した。
この年、西域長史の班超が疏勒王を撃ち斬った。
章和元年
春三月、護羌校尉の傅育が反乱した羌を追撃し、戦死した。
夏四月丙子、郡・国・中都官の囚人に対し死刑を一等減じて、金城に赴いて守備に当たらせる詔を下した。
六月戊辰、司徒の桓虞が免官された。癸卯、司空の袁安が司徒となり、光禄勲の任隗が司空となった。
(桓虞は字を仲春といい、馮翊郡万年県の人である。隗は字を仲和といい、南陽郡宛県の人である。)
秋七月癸卯、斉王の晃が罪を得て、蕪湖侯に降格された。
(蕪湖は県名で、丹陽郡に属し、その故城は現在の宣州当塗県の東南にある。)
壬子、淮陽王の昞が薨去した。
鮮卑が北単于を撃破し、これを斬った。
焼当羌が金城を寇掠したため、護羌校尉の劉盱がこれを討ち、その渠帥を斬った。
壬戌、詔を下して言った。「朕は聞く、明君の徳は、大いなる教化を啓発し、光明を集めて安寧を治め、六幽(天地四方の奥深いところ)を照らすものであると。
後漢書
緝熙とは、光明である。六幽とは、六合の幽隠の処をいう。〉
人々の顔は皆、従順に従い、仁徳の風は海の外まで広がり、威厳の雷鳴は鬼神の領域にまで響き渡った。
〈鬼區とは鬼方のことである。〉
その後、敬虔に明らかな祭祀を執り行い、五福の慶びを受け、来儀の賜物を得た。
〈尚書の五福とは、第一は長寿、第二は富、第三は健康で安寧、第四は善徳を好むこと、第五は天寿を全うして命を終えることである。来儀とは鳳凰のことを指す。
書
(書経)に言う、「鳳凰が来て舞い踊る」と。〉
朕は不徳をもって、祖宗の弘大な功業を受け継いだ。かつて鳳凰が引き続き集まり、麒麟が共に至り、甘露が夜に降り、嘉穀が生い茂り、芝草の類が年月を経ても絶えることがなかった。朕は日夜、天を畏れ敬い、先人の功績を顕彰する方法がなかった。今、改元する。
元和四年
為
章和元年
。」
秋、この月に衰老を養い、几杖を授け、糜粥飲食を行わせる。
〈月令の仲秋の令。〉
高年の者二人に布帛をそれぞれ一匹ずつ賜い、醴酪とする。死罪囚で法を犯したのが丙子の赦の前であり、その後捕らえられた者は、皆死罪を減じ、笞刑にせず、金城に赴いて守備に当たらせる。
八月癸酉、南巡狩を行う。壬午、使者を遣わして小黄園で昭霊后を祀る。
〈小黄は県で、陳留郡に属し、故城は現在の汴州陳留県の東北にある。漢旧儀に「昭霊后は高祖の母で、起兵時に小黄の北で死に、後に小黄の柵に園廟を作った」とある。陳留風俗伝に「沛公が起兵して野戦し、皇妣を黄郷で喪った。天下平定後、使者を遣わして梓宮で幽野に招魂した。すると丹蛇が水にいて自ら洒濯し、梓宮に入った。その浴びた所に遺髪があったので、謚して昭霊夫人といった」とある。〉
甲申、任城王尚を召して睢陽で会う。戊子、梁に行幸する。己丑、使者を遣わして沛の高原廟と豊の枌榆社を祀る。
〈《『前漢書音義』
に言う。「枌は白い榆である。高祖の里社は豊県の北東十五里にある。》原廟については、光武帝紀の解説を参照。〉
乙未の日、沛に行幸し、献王の陵を祀り、東海王の劉政を招集した。乙未の晦、日食があった。九月庚子の日、彭城に行幸し、東海王の劉政、沛王の劉定、任城王の劉尚が皆従った。辛亥の日、寿春に行幸した。壬子の日、詔を下して郡国及び中都官の囚人で死罪以下の者は一等を減じ、金城に赴いて守備に当たらせた。殊死(斬首刑)に当たる罪を犯した者は、全て蚕室に入ることを募った。女子は宮刑とした。囚人で鬼薪、白粲以上の者は罪一等を減じ、司寇の労役に就かせた。逃亡者は贖罪を許す。死罪は縑二十匹、右趾から髡鉗城旦舂までは七匹、完城旦から司寇までは三匹。官吏・民で罪を犯したが発覚しておらず、詔書が到着した後に自首した者は、贖罪額の半分を納める。阜陵侯の劉延を再び阜陵王に封じた。己未の日、汝陰に行幸した。
〈県名、汝南郡に属する。現在の潁川県。〉
冬十月丙子の日、車駕は宮中に帰還した。
北匈奴の屋蘭儲らが率いる衆が降伏した。
この年、西域長史の班超が莎車を攻撃し、これを大破した。月氏国が使者を遣わして扶抜と獅子を献上した。
〈扶抜は、麒麟に似ているが角がない。抜の音は歩末反。〉
二年春正月、済南王の劉康、阜陵王の劉延、中山王の劉焉が来朝した。
壬辰の日、帝は章徳前殿で崩御した。享年三十三。遺詔には、寝廟を建てず、全て先帝の法制に従うようにとあった。
論者は言う。魏の文帝が「明帝は細かく厳しく、章帝は長者である》と評したと。
〈以上が華嶠の言葉である。>
章帝はもとより、人々が明帝の厳格で峻烈な政治を嫌っていることを知っており、事を処理するにあたっては寛大で温厚な態度をとった。陳寵の上奏に感銘し、残酷な刑罰に関する法令を廃止した。
〈陳寵は当時尚書であったが、官吏の政務が厳しく峻烈であることを憂い、上書して残酷な科条五十余条を廃止させた。詳細は彼の本伝に記されている。〉
深く元元の愛を尽くし、胎養の令を著した。
〈元和二年の詔令により、妊娠中の者には穀物を賜り、一人あたり三斛を与えた。〉
明德太后に仕え、孝道を尽くし、名高い都を分割して、周の親族を崇め建てた。
〈周とは、至るという意味である。
後漢書
租税を軽減し、賦役を簡素化したので、人々はその恩恵に頼ることができた。また、忠恕の精神を体現し、礼楽によって教化した。そのため、諸侯はよく調和し、諸侯たちは互いに徳を譲り合った。彼を長者と呼ぶのは、まさにふさわしいことではないか。在位十三年の間に、郡国から報告された瑞祥は、図書に合致するものが数百千件に及んだ。ああ、盛大なことよ。
〈懋とは、美しいという意味である。〉
賛に曰く、粛宗は威儀あり、天性は穏やかで親しみ深い。
〈
於穆は、美を称えること。『
尚書
』に「聖は広く深い」とある。
〉
左右に文芸を重んじ、律令と礼制を斟酌した。
〈
文芸とは諸儒が五経の異同を講じ、帝が自ら称制して論決したことをいう。律とは詔に「立春には囚人を処刑しない」とあることをいう。礼とは禘祫を修め、霊台に登るなどのことをいう。
〉
帝道を思慕し、この長き善政を広めた。儒館では歌が献じられ、辺境の亭候は虚しく待つ。
〈
献歌とは崔駰が太学に遊学した時に四巡などの頌を上ったことをいう。
〉
気候は時に和らぎ、法は平らかで民は豊かであった。