後漢書

巻三十五・張曹鄭列傳 第二十五

巻三十五・張曹鄭列傳 第二十五

張純

原文張純

張純は字あざなを伯仁といい、京兆杜陵の人である。高祖父の安世は、宣帝の時に大司馬衛将軍となり、富平侯に封ぜられた。父の放は、成帝の侍中となった。張純は若くして爵位と封土を継承し、哀帝・平帝の間に侍中となり、王莽の時代には列卿に至った。王莽の簒奪に遭い、多くの者が爵位と封土を失ったが、張純は篤実で慎み深く、節約を守ったため、以前の封土を保全した。

原文張純字伯仁,京兆杜陵人也。高祖父安世,宣帝時為大司馬衛將軍,封富平侯。父放,為成帝侍中。純少襲爵士,哀、平間為侍中,王莽時至列卿。遭值篡偽,多亡爵士,純以敦謹守約,保全前封。

建武の初め、いち早く朝廷に参じたため、故国を回復することができた。五年、太中大夫に任命され、潁川の突騎を率いて荊州、徐州、楊州の地域を安んじ集め、輸送を監督し、諸将の陣営を監察することを命じられた。また、兵を率いて南陽に屯田し、五官中郎将に転任した。役人が上奏して、列侯で宗室でない者は封国を回復すべきでないと述べた。光武帝は言った。『張純は十有余年にわたり宮中を警護してきた。これを廃してはならない。改めて武始侯に封じ、富平侯の封土の半分を食邑とせよ。』

原文建武初,先來詣闕,故得復國。五年,拜太中大夫,使將潁川突騎安集荊、徐、楊部,督委輸,監諸將營。反又將兵屯田南陽,遷五官中郎將。有司奏,列侯非宗室不宜復國。光武曰:『張純宿衛十有餘年,其勿廢,更封武始侯,食富平之半。』

張純は朝廷に仕えて数代を経て、故事に明るく習熟していた。建武の初め、旧来の制度は多く欠けていたため、疑わしい議論があるたびに、いつも張純に諮問し、郊祀・宗廟・婚礼・冠礼・喪礼などの礼儀や意義について、多くが正しく定められた。帝は彼を非常に重んじ、張純を兼ねて虎賁中郎将とし、しばしば引見され、一日に四度も及ぶことがあった。張純は宗廟が未だ定まらず、昭穆の順序が乱れていることを憂い、十九年、太僕の朱浮と共に上奏して言った。『陛下は庶民から興り、天下を清め、暴乱を誅伐し、祖宗の業を継ぎ興されました。臣がひそかに経書の義に照らし、人事と衆人の心を考えますに、実態としては創業と変革に等しいものの、名目としては中興であり、先帝を奉り、恭しく祭祀を承け継ぐべきであります。元帝以来、宗廟では高皇帝を受命の祖として奉祀し、孝文皇帝を太宗、孝武皇帝を世宗として、いずれも旧制の通りです。さらに、親廟を四世立て、南頓君より上を舂陵節侯まで遡っています。礼によれば、人の後を継ぐ者はその子となるのであり、大宗に仕えるならば、その私的な親族は格下げされます。今、高廟で禘祭と祫祭を行い、昭穆を陳列して順序を立てるのに、舂陵の四世が君臣と並列し、卑しい者が尊い者の中に混じるのは、礼の趣旨に合いません。仮に王莽の乱がなく、国嗣が絶えた場合、宗室を推し求めて陛下が統を継がれたとして、どうして再び私的な親族を顧みて、礼制に背くことができましょうか。昔、高帝は自ら天命を受けたため、太上皇(父)を祖とせず、宣帝は孫として祖の後を継いだため、私的な親族(実父)を立てることを敢えてせず、故に実父のために廟を立て、群臣だけが侍祠しました。臣の愚見では、今の親廟を除き、二帝の旧典に則るべきであると考えます。どうか役人に下して広く議論を採り上げてください。』詔が公卿に下されると、大司徒の戴涉と大司空の竇融が議して言った。『宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝の五帝四代を以て今の親廟とすべきです。宣帝、元帝は祖、父として尊び、親しく奉祀し、成帝以下は役人が祭祀を行い、別に南頓君のために皇考廟を立てます。その祭祀は上は舂陵節侯に至り、群臣が奉祀して、尊ぶべきを尊ぶ敬意と、親しい者を親しむ恩情を明らかにすべきです。』帝はこれに従った。この時、宗廟はまだ整備されておらず、元帝以上は洛陽の高廟で祭祀し、成帝以下は長安の高廟で祭祀し、南頓君以下の四世は、それぞれ所在の地で祭祀した。

原文純在朝歷世,明習故事。建武初,舊章多闕,每有疑議,輒以訪純,自郊廟婚冠喪紀禮儀義,多所正定。帝甚重之,以純兼虎賁中郎將,數被引見,一日或至數四。純以宗廟未定,昭穆失序,十九年,乃與太仆朱浮共奏言:『陛下興於匹庶,蕩滌天下,誅鋤暴亂,興繼祖宗。竊以經義所紀,人事眾心,雖實同創革,而名為中興,宜奉先帝,恭承祭祀者也。元帝以來,宗廟奉祠高皇帝為受命祖,孝文皇帝為太宗,孝武皇帝為世宗,皆如舊制。又立親廟四世,推南頓君以上盡於舂陵節侯。禮,為人後者則為之子,既事大宗,則降其私親。今禘祫高廟,陳序昭穆,而舂陵四世,君臣並列,以卑廁尊,不合禮意,設不遭王莽,而國嗣無寄,推求宗室,以陛下繼統者,安得復顧私親,違禮制乎?昔高帝以自受命,不由太上,宣帝以孫後祖,不敢私親,故為父立廟,獨群臣侍祠。臣愚謂宜除今親廟,以則二帝舊典,願下有司博采其議。』詔下公卿,大司徒戴涉、大司空竇融議:『宜以宣、元、成、哀、平五帝四世代今親廟,宣、元皇帝尊為祖、父,可親奉祠,成帝以下,有司行事,別為南頓君立皇考廟。其祭上至舂陵節侯,群臣奉祠,以明尊尊之敬,親親之恩。』帝從之。是時宗廟未備,自元帝以上,祭於洛陽高廟,成帝以下,祠於長安高廟,其南頓四世,隨所在而祭焉。

翌年、張純は朱浮に代わって太僕となった。二十三年、杜林に代わって大司空となった。在任中は曹参の跡を慕い、無為を旨とし、辟召した属官や史は、皆名高い大儒であった。翌年、陽渠を開鑿して洛水を引き、漕運に用い、百姓はその利益を得た。

原文明年,純代朱浮為太仆。二十三年,代杜林為大司空。在位慕曹參之跡,務於無為,選辟椽史,皆知名大儒。明年,上穿陽渠,引洛水為漕,百姓得其利。

二十六年、詔が張純に下された。『禘祭と祫祭は、行われないこと久しい。「三年礼を行わなければ、礼は必ず廃れる。三年楽を行わなければ、楽は必ず崩れる」。経典に基づき、詳しくその制度を定めるべきである。』張純は上奏して言った。『『礼』によれば、三年に一度祫祭、五年に一度禘祭を行います。『春秋伝』に言います。「大祫とは何か。合祭である。」毀廟(親等が遠くなり廟を撤去した先祖)および未だ毀廟せざる廟の神主を皆登らせ、太祖と共に合食します。五年に二度の盛大な祭りとなります。漢の旧制では三年に一度祫祭を行い、毀廟の神主は高廟に合祀し、存廟の神主は未だ合祭したことはありませんでした。元始五年、諸王・公・列侯の廟会で、初めて禘祭を行いました。また、以前の十八年に陛下が長安に行幸された時も、この礼を行われました。礼説では、三年に一度閏月があり、天の気が小さく備わり、五年に二度閏月があれば、天の気が大きく備わるとされます。故に三年に一度祫祭、五年に一度禘祭とするのです。禘という言葉は諦(明らかにする)の意味で、昭穆と尊卑の義を明らかに定めることです。禘祭は夏の四月に行います。夏は陽気が上にあり、陰気が下にあるため、尊卑の義を正すのです。祫祭は冬の十月に行います。冬は五穀が成熟し、物が備わり礼が成るため、合わさって飲食を共にするのです。この典礼が廃されてから、既に八年になります。礼に従って施行し、時宜に合わせて議を定めるべきであると考えます。』帝はこれを認め、これ以降、禘祭と祫祭は遂に定められた。

原文二十六年,詔純曰:『禘、祫之祭,不行已久矣。「三年不為禮,禮必壞;三年不為樂,樂必崩」。宜據經典,詳為其制。』純奏曰:『《禮》,三年一祫,五年一禘。《春秋傳》曰:「大祫者何?合祭也。」毀廟及未毀廟之主皆登,合食乎太祖,五年而再殷。漢舊制三年一祫,毀廟主合良高廟,存廟主未嘗合祭。元始五年,諸王公列侯廟會,始為禘祭。又前十八年親幸長安,亦行此禮。禮說三年一閏,天氣小備;五年再閏,天氣大備。故三年一祫,五年一禘。禘之為言諦,諦定昭穆尊卑之義也。禘祭以夏四月,夏者陽氣在上,陰氣在下,故正尊卑之義也。祫祭以冬十月,冬者五谷成孰,物備禮成,故合聚飲食也。斯典之廢,於茲八年,謂可如禮施行,以時定議。』定從之,自是禘、祫遂定。

当時、南単于と烏桓が降伏し、边境に事がなく、百姓は戦乱から脱したばかりで、毎年豊作が続き、家には物が満ち人は足りていた。張純は、聖王が辟雍を建てるのは、礼義を尊崇するためであり、富んだ後に教えを施すものだと考えた。そこで、七経の讖緯書、明堂図、河間献王の『古辟雍記』、孝武帝の泰山明堂の制度、および平帝の時の議論を調べ、詳しく上奏しようとした。まだ上奏しないうちに、博士の桓栄が辟雍と明堂を立てるべきであると上言した。上奏文が三公と太常に下され、張純の意見は桓栄と同じであったため、帝はこれを許した。

原文時,南單於及烏桓來降,邊境無事,百姓新去兵革,歲仍有年,家給人足。純以聖王之建辟雍,所以崇尊禮義,既富而教者也。乃案七經讖、明堂圖、河間《古辟雍記》、孝武太山明堂制度,及平帝時議,欲具奏之。未及上,會博士桓榮上言宜立辟雍、明堂,章下三公、太常,而純議同榮,帝乃許之。

三十年、張純は封禅を行うべきであると上奏して言った。『古より天命を受けて帝となる者で、治世が隆盛な時は、必ず封禅を行い、成功を告げてきました。『楽動声儀』に言います。「『雅』をもって人を治め、『風』は『頌』によって成る。」周の盛時、成王・康王の間には、郊祀と封禅が行われたことが見られます。書に言います。「歳二月、東に巡狩し、岱宗に至り、柴を祀る」。これが封禅の意義です。臣が拝見しますに、陛下は中興の天命を受け、海内の乱を平定し、祖宗の業を修復し、万姓を撫でて存し、天下は広々として、皆新たに生まれ変わったかのようで、恩徳は雲のように行き渡り、恵沢は雨のように施され、民衆は安寧し、夷狄は義を慕っております。『詩』に言います。「天の祐けを受け、四方来たりて賀す。」今、摂提の歳(寅年)、倉龍甲寅(太歳が寅宮にある年)で、徳は東宮(春)にあります。この佳き時に乗じ、唐堯の典に従い、孝武帝の業を継ぎ、二月に東に巡狩し、岱宗で封禅を行い、中興を明らかにし、功勲を刻み、祖統を回復し、天神に報い、梁父で禅を行い、地祇を祀り、福祚を子孫に伝え、万世の基とすべきです。』中元元年、帝はついに東巡して岱宗に至り、張純を御史大夫の待遇で従わせ、元封年間の旧儀と刻石の文を上奏させた。三月、張純は死去し、諡を節候といった。

原文三十年,純奏上宜封禪,曰:『自古受命而帝,治世之隆,必有封禪,以告成功焉。《樂動聲儀》曰:「以《雅》治人,《風》成於《頌》。」有周之盛,成、康之間,郊配封禪,皆可見也。書曰:「歲二月,東巡狩,至於岱宗,祡」,則封禪之義也。臣伏見陛下受中興之命,平海內之亂,修復祖宗,撫存萬姓,天下曠然,咸蒙更生,恩德雲行,惠澤雨施,黎元安寧,夷狄慕義。《詩》云:『受天之祜,四方來賀。」今攝提之歲,倉龍甲寅,德在東宮。宜及嘉時,遵唐帝之典,繼孝武之業,以二月東巡狩,封於岱宗,明中興,勒功勛,復祖統,報天神,禪梁父,祀地祇,傳祚子孫,萬世之基也。』中元元年,帝乃東巡岱宗,以純視禦史大夫從,並上元封舊儀及刻石文。三月,薨,謚曰節候。

子の奮

原文子 奮

奮は字を稚通という。父の張純は臨終に家丞に命じて言った。『司空(張純)は時に功績がなく、みだりに爵位と封土を蒙った。身の死んだ後は、封国を伝えることを議してはならない。』奮の兄の根は、若くして病に罹り、光武帝は奮に爵位を継がせようと詔したが、奮は張純の遺命を称えて、固く受けようとしなかった。帝は奮が詔に背いたとして、収監して獄に下すよう命じた。奮は恐れおののき、やむなく封を継承した。永平四年、定例に従って封国に帰った。

原文奮字稚通。父純,臨終敕家丞曰:『司空無功於時,猥蒙爵士,身死之後,勿議傳國。』奮兄根,少被病,光武詔奮嗣爵,奮稱純遺敕,固不肯受。帝以奮違詔,敕收下獄,奮惶怖,乃襲封。永平四年,隨例歸國。

奮は若くして学問を好み、倹約して義を行い、常に租税収入の一部を減らして、宗族や親族を養い救済し、たとえ困窮に陥っても、施しを与えることを怠らなかった。十七年、儋耳が降伏し、奮は朝廷に来て寿を祝い、宣平殿で引見され、応対が帝の意に適った。顕宗(明帝)はその才能を異とし、侍祠侯に任じた。建初元年、左中郎将に任命され、転じて五官中郎将となり、長水校尉に昇進した。七年、将作大匠となり、章和元年に免官された。永元元年、再び城門校尉に任命された。四年、長楽衛尉に転任した。翌年、桓郁に代わって太常となった。六年、劉方に代わって司空となった。

原文奮少好學,節儉行義,常分損租奉,贍恤宗親,雖至傾匱,而施與不怠。十七年,儋耳降附,奮來朝上壽,引見宣平殿,應對合旨,顯宗異其才,以為侍祠侯。建初元年,拜左中郎將,轉五官中郎將,遷長水校尉。七年,為將作大匠,章和元年,免。永元元年,復拜城門校尉。四年,遷長樂衛尉。明年,代桓郁為太常。六年,代劉方為司空。

その時、歳は旱魃の災害に見舞われ、雨乞いをしても応じなかったので、彼は上表して言った。『近年は収穫がなく、人々は飢えに苦しんでいます。今また長く旱魃が続き、秋の作物はまだ育たず、陽気は尽きようとしており、歳月が迫っています。国は民を本とし、民は穀物を命とします。政治の急務であり、憂うべき最も重要なことです。臣は特に深く恩寵を受け、職務を任され過ぎており、日夜憂慮し恐れています。章奏では心を尽くして述べることができませんので、中常侍に対面して疏を奏上したいと願います。』即座に引見され、さらに口頭で時政の適切な方策を述べた。翌日、和帝は太尉と司徒を召し、洛陽の獄に臨幸して囚徒を記録し、洛陽令の陳歆を収監したところ、たちまち三日間大雨が降った。

原文時歲災旱,祈雨不應,乃上表曰:『比年不登,人用饑匱,今復久旱,秋稼未立,陽氣垂盡,歲月迫促。夫國以民為本,民以谷為命,政之急務,憂之重者也。臣蒙恩尤深,受職過任,夙夜憂懼,章奏不能敘心,願對中常侍疏奏。』即時引見,復口陳時政之宜。明日,和帝召太尉、司徒幸洛陽獄,錄囚徒,收洛陽令陳歆,即大雨三日。

曹奮は在職中は清廉潔白であったが、他に特に優れた業績はなかった。九年、病気を理由に罷免された。家で上疏して言った。『聖人が称賛する政治の道の最も重要な根本は、礼楽にある。『五経』は同じ帰結を示しているが、礼楽の実用は特に急務である。孔子は言われた。「上を安んじ民を治めるには、礼に優るものはない。風俗を移し変えるには、楽に優るものはない。」また言われた。「譲り合って天下を教化するとは、礼楽のことを言うのである。」先王の道において、礼楽は盛んであると言えよう。孔子は子夏に言われた。「礼は外を修め、楽は内を制する。丘(私)はもうこれで終わりだ!」また言われた。「礼楽が興らなければ、刑罰は当を得ない。刑罰が当を得なければ、民は手足の置き所に困る。」臣は、漢は礼楽を制作すべきであると考えます。それゆえ先帝は聖徳をもって、たびたび詔書を下し、崩壊・欠落を憂い悲しまれたのですが、多くの儒者は理解せず、議論は多くが食い違い異なっています。臣は累世にわたり台輔の任にありながら、大典が定まっておらず、ひそかに憂慮し、寝食を忘れません。臣の犬馬の齢も尽きようとしており、誠に先に死ぬ前に礼楽が定まるのを見たいと願っています。』十三年、再び召されて太常に任命された。また上疏して言った。『漢は礼楽を改作すべきであり、図書にも明らかである。王者は教化が定まって礼を制定し、功業が成って楽を作る。謹んで礼楽に関する異議三事を条陳します。願わくは有司に下して、時宜に合わせて考定させてください。昔、孝武皇帝と光武皇帝は封禅を成し遂げて報告されましたが、礼楽は定まらず、事柄が相応しませんでした。先帝はすでに曹褒に詔を下されました。今、陛下はただそれを奉じて完成させればよいのです。それは周公が文王・武王の道を斟酌したようなもので、自ら制作するのではなく、誠に疑うべきところはありません。長く謙譲を執り続け、大漢の業を時を移さずに成し遂げないのは、祖宗の功徳を顕彰し、太平の基を建て、後世の模範とするためではありません。』帝はその意見を良しとしたが、まだ施行しなかった。その冬、また病気で罷免された。翌年、家で死去した。

原文奮在位清白,無他異績。九年,以病罷。在家上疏曰:『聖人所美,政道至要,本在禮樂。《五經》同歸,而禮樂之用尤急。孔子曰:「安上治民,莫善於禮;移風易俗,莫善於樂。」又曰:「揖讓而化天下者,禮樂之謂也。」先王之道,禮樂可謂盛矣。孔子謂子夏曰:「禮以修外,樂以制內,丘已矣夫!」又曰:「禮樂不興,則刑罰不中;刑罰不中,則民無所厝其手足。」臣以為漢當制作禮樂,是以先帝聖德,數下詔書,湣傷崩缺,而眾儒不達,議多駁異。臣累世臺輔,而大典未定,私竊惟憂,不忘寢食。臣犬馬齒盡,誠冀先死見禮樂之定。』十三年,更召拜太常。復上疏曰:『漢當改作禮樂,圖書著明。王者化定制禮,功成作樂。謹條禮樂異議三事,願下有司,以時考定。昔者孝武皇帝、光武皇帝封禪告成,而禮樂不定,事不相副。先帝已詔曹褒,今陛下但奉而成之,猶周公斟酌文武之道,非自為制,誠無所疑。久執謙謙,令大漢之業不以時成,非所以章顯祖宗功德,建太平之基,為後世法。』帝雖善之,猶未施行。其冬,復以病罷。明年,卒於家。

子の曹甫が後を嗣ぎ、官は津城門候に至った。曹甫が卒すると、子の曹吉が嗣いだ。永初三年、曹吉が卒し、子がなかったため、封国は除かれた。昭帝が曹安世を封じて以来、曹吉に至るまで、封国は八世伝わり、簒奪と乱を経験したが、二百年の間一度も譴責や罷免を受けることがなく、封じられた者の中でこれに並ぶ者はなかった。

原文子甫嗣,官至津城門候。甫卒,子吉嗣。永初三年,吉卒,無子,國除。自昭帝封安世,至吉,傳國八世,經歷篡亂,二百年間未嘗譴黜,封者莫與為此。

曹褒

原文曹褒

曹褒は字を叔通といい、魯国薛の人である。父の曹充は『慶氏礼』を奉じ、建武年間に博士となり、帝に従って岱宗に巡狩し、封禅の礼を定め、帰還後、詔を受けて七郊・三雍・大射・養老の礼儀を議立した。顕宗が即位すると、曹充は上言した。『漢は再び天命を受け、なお封禅の事を行うが、礼楽は崩壊・欠落しており、後嗣の法とすることができません。五帝は楽を沿襲せず、三王は礼を襲用しません。大漢は自ら礼を制定し、百世に示すべきです。』帝が問うた。『礼楽を制定するとはどういうことか。』曹充は答えた。『『河図括地象』に「漢の世に礼楽文雅出ず」とあります。『尚書璇機鈐』に「帝漢出で、徳洽いて楽を作し、名づけて予とす」とあります。』帝はこれを良しとし、詔を下して言った。『今しばらく太楽官を太予楽と改称し、歌詩曲操は君子を待つこととする。』曹充を侍中に任命した。章句を作り弁難したため、ここに慶氏学が生まれた。

原文曹褒字叔通,魯國薛人也。父充,持《慶氏禮》,建武中為博士,從巡狩岱宗,定封禪禮,還,受詔議立七郊、三雍、大射、養老禮儀。顯宗即位,充上言:『漢再受命,仍有封禪之事,而禮樂崩闕,不可為後嗣法。五帝不相沿樂,三王不相襲禮,大漢當自制禮,以示百世。』帝問:『制禮樂云何?』充對曰:『《河圖括地象》曰:「有漢世禮樂文雅出。」《尚書璇機鈐》曰:「有帝漢出,德洽作樂,名予。」』帝善之,下詔曰:『今且改太樂官曰太予樂,歌詩曲操,以俟君子。』拜充侍中。作章句辯難,於是遂有慶氏學。

曹褒は若い頃から志を篤くし、大度であり、元服して父の曹充の学業を継承し、博雅で物事に通じ、特に礼の事を好んだ。常に朝廷の制度が整備されていないことを感じ、叔孫通が漢の礼儀を作ったことを慕い、昼夜を分かたず研究に精を出し、沈吟して専ら考え、寝るときは筆と札を抱き、歩くときは文書を誦習し、思い至るときには、自分がどこへ向かっているのかも忘れた。

原文褒少篤誌,有大度,結發傳充業,博雅疏通,尤好禮事。常感朝廷制度未備,慕叔孫通為漢禮儀,晝夜研精,沈吟專思,寢則懷抱筆劄,行則誦習文書,當其念至,忘所之適。

初め孝廉に挙げられ、再び遷って圉県令となった。礼をもって人を治め、徳をもって俗を教化した。時、他の郡の盗賊の徒五人圉県の境界内に入ってきた。役人が捕らえて連行すると、陳留太守の馬厳はこれを聞いて憎悪し、県に風聞して殺すよう命じた。曹褒は役人に命じて言った。『人の命を絶つ者は、天もまたその者を絶つ。皐陶は盗賊のために死刑を制定せず、管仲は盗賊に出会ってこれを公に昇進させた。今、命令を受けてこれを殺すのは、天の心に逆らい、府の意に順うことであり、その罰は重い。もしこの人の命を全うさせて自分が罪に坐するならば、それが私の願いである。』遂に殺さなかった。馬厳は曹褒が柔弱であると上奏し、曹褒は官を免ぜられて郡に帰り、功曹となった。

原文初舉孝廉,再遷圉令,以禮理人,以德化俗。時它郡盜徒五人來入圉界,吏捕得入,陳留太守馬嚴聞而疾惡,風縣殺之。褒敕吏曰:『夫絕人命者,天亦絕之。臯陶不為盜制死刑,管仲遇盜而升諸公。今承旨而殺之,是逆天心,順府意也,其罰重矣。如得全此人命而身坐之,吾所願也。』遂不為殺。嚴奏褒耎弱,免官歸郡,為功曹。

博士に徴聘された。ちょうど粛宗が礼楽を制定しようとし、元和二年に詔を下して言った。『『河図』は「赤九会昌し、十世以て光り、十一以て興る」と称する。『尚書璇機鈐』は「堯を述べて世を理め、礼楽を平らかに制し、唐の文を放つ」と言う。予末小子、数終に託り、何を以て継ぎ興し、祖宗を崇弘し、元元を仁済せんや。『帝命驗』は「堯に順い徳を考へ、期を題し象を立つ」と言う。かつ三皇五帝の歩みは、優劣軌を殊にす。況んや予頑陋にして、克く堪ふる無く、従はんと欲すと雖も、末だ由る無し。図書を見る毎に、中心恧む。』曹褒は帝の意図が興作にあることを知り、上疏して言った。『昔、聖人は天命を受けて王となる者は、みな礼楽を制定して功徳を顕著にしました。功業が成って楽を作り、教化が定まって礼を制定するのは、世俗を救い、禎祥を招き、万姓が皇天から福を獲るためです。今、皇天が祉を降し、嘉瑞が並び至り、制作の符徴は言葉以上に明らかです。文制を定め、漢の礼を成文化し、祖宗の盛徳の美を大いに顕彰すべきです。』上奏文は太常に下されたが、太常の巣堪は、一世の大典は曹褒が定めるべきではないとして、許可すべきでないと考えた。

原文征拜博士。會肅宗欲制定禮樂,元和二年下詔曰:『《河圖》稱「赤九會昌,十世以光,十一以興」。《尚書璇機鈐》曰:「述堯理世,平制禮樂,放唐之文。」予末小子,托於數終,曷以纘興,崇弘祖宗,仁濟元元?《帝命驗》曰:「順堯考德,題期立象。」且三五步驟,優劣殊軌,況予頑陋,無以克堪,雖欲從之,末由也已。每見圖書,中心恧焉。』褒知帝旨欲有興作,乃上疏曰:『昔者聖人受命而王,莫不制禮作樂,以著功德。功成作樂,化定制禮,所以救世俗,致禎祥,為萬姓獲福於皇天者也。今皇天降祉,嘉瑞並臻,制作之符,甚於言語。宜定文制,著成漢禮,丕顯祖宗盛德之美。』章下太常,太常巢堪以為一世大典,非褒所定,不可許。

帝は群僚が因循にとらわれ、始めを図るのが難しいことを知り、朝廷の礼憲は時宜に合わせて制定すべきであると考え、翌年また詔を下して言った。『朕は不徳をもって、祖宗の弘烈を担っている。先ごろ鸞鳳がたびたび集まり、麟龍が並び至り、甘露が夜に降り、嘉谷が滋生し、赤草の類が史官に記録された。朕は日夜畏れ敬い、上は先人の功績を顕彰できず、下は霊物に称えることができない。漢は秦の余弊に遭い、礼は壊れ楽は崩れ、かつ故事に因循しており、省みるに値しない。その説を知る者は、各々その能力を尽くせ。』曹褒は詔を拝読し、嘆息して諸生に言った。『昔、奚斯は魯を頌し、考甫は殷を詠んだ。人臣が義に依って君を顕し、忠を尽くして主を彰すことは、行いの美である。仁に当たって譲らず、私は何を辞しようか。』遂にまた上疏し、礼楽の根本と制改の意図を詳しく陳述した。曹褒を侍中に任命し、帝の南巡に従駕した。帰還後、事が三公に下されたが、奏上される前に、詔によって玄武司馬の班固を召し、礼制を改定する適宜を問うた。班固は言った。『京師の諸儒は多く礼を説くことができます。広く招集し、共に得失を議論すべきです。』帝は言った。『諺に「道端に舎を作れば、三年成らず」と言う。礼を会する家は、名は聚訟といい、互いに疑異を生じ、筆を下すことができない。昔、堯が『大章』を作った時、夔一人で十分であった。』

原文帝知群僚拘攣,難與圖始,朝廷禮憲,宜時刊立,明年復下詔曰:『朕以不德,膺祖宗弘烈。乃者鸞鳳仍集,麟龍並臻,甘露宵降,嘉谷滋生,赤草之類,紀於史官。朕夙夜祗畏,上無以彰於先功,下無以克稱靈物。漢遭秦餘,禮壞樂崩,且因循故事,未可觀省,有知其說者,各盡所能。』褒省詔,乃嘆息謂諸生曰:『昔奚斯頌魯,考甫詠殷。夫人臣依義顯君,竭忠彰主,行之美也。當仁不讓,吾何辭哉!』遂復上疏,具陳禮樂之本,制改之意。拜褒侍中,從駕南巡,既還,以事下三公,未及奏,詔召玄武司馬班固,問改定禮制之宜。固曰:『京師諸儒,多能說禮,宜廣招集,共議得失。』帝曰:『諺言「作舍道邊,三年不成」。會禮之家,名為聚訟,互生疑異,筆不得下。昔堯作《大章》,一夔足矣。』

章和元年正月、帝は曹褒を嘉徳門に召し出し、小黄門に班固が上呈した叔孫通の『漢儀』十二篇を持たせ、曹褒に命じて言った。『この制度は散逸して粗略で、多く経典に合わない。今、礼に依って条項を正し、施行可能なものとすべきである。南宮と東観で心を尽くして集め編纂せよ。』曹褒は命を受け、礼事の順序を整え、旧典を基準とし、『五経』や讖記の文を交え、天子から庶人に至るまでの冠婚吉凶の始まりから終わりまでの制度を撰述し、百五十篇とした。二尺四寸の簡に書き記した。その年十二月に上奏した。帝は諸論が一つにまとまらないのを難じたため、ただこれを納めるだけで、再び有司に評議上奏させなかった。ちょうど帝が崩御し、和帝が即位すると、曹褒はこれに章句を作り、帝は遂に『新礼』二篇を冠とした。曹褒を抜擢して羽林左騎を監させた。永元四年、射声校尉に転任した。後に太尉の張酺、尚書の張敏らが上奏し、曹褒が勝手に『漢礼』を制定し、聖人の術を破壊混乱させたとして、刑罰による誅殺を加えるべきだと訴えた。帝はその上奏を留め置いたが、『漢礼』は遂に行われなかった。

原文章和元年正月,乃召褒詣嘉德門,令小黃門持班固所上叔孫通《漢儀》十二篇,敕褒曰:『此制散略,多不合經,今宜依禮條正,使可族行。於南宮、東觀盡心集作。』褒既受命,及次序禮事,依準舊典,雜以《五經》讖記之文,撰次天子至於庶人冠婚吉兇終始制度,以為百五十篇,寫以二尺四寸簡。其年十二月奏上。帝以眾論難一,故但納之,不復令有司平奏。會帝崩,和帝即位,褒乃為作章句,帝遂以《新禮》二篇冠。擢褒監羽林左騎。永元四年,遷射聲校尉。後太尉張酺、尚書張敏等奏褒擅制《漢禮》,破亂聖術,宜加刑誅。帝雖寢其奏,而《漢禮》遂不行。

曹褒が射声校尉にあった時、営舎に埋葬されずに放置されている棺が百余りあった。曹褒は自ら巡行し、その理由を尋ねた。役人が答えて言った。『これらは多くが建武以来、後継ぎが絶えた者で、埋葬することができないのです。』曹褒は悲しみ、空地を買い求め、主のない者を全て葬り、祭を設けて祀った。城門校尉、将作大匠に転任した。当時疫病が流行し、曹褒は病んだ囚徒を巡視し、医薬を手配し、粥の供給を管理し、多くが救済され生き延びた。七年、河内太守として出向した。当時春夏に大旱魃があり、穀物の価格が高騰した。曹褒が到着すると、官吏を削減して職務を統合し、奸悪で残忍な者を退け、慈雨が幾度も降った。その秋は大豊作となり、百姓は豊かになり、流浪していた者も皆帰還した。後に災害の報告が事実でないとして免職された。しばらくして召還され、再び転任し、侍中に復帰した。

原文褒在射聲,營舍有停棺不葬者百餘所,褒親自履行,問其意故。吏對曰:『此等多是建武以來絕無後者,不得埋掩。』褒乃愴然,為買空地,悉葬其無主者,設祭以祀之。遷城門校尉、將作大匠。時有疾疫,褒巡行病徒,為致醫藥,經理饘粥,多蒙濟活。七年,出為河內太守。時春夏大旱,糧谷踴貴。褒到,乃省吏並職,退去奸殘,澍雨數降。其秋大孰,百姓給足,流冗皆還。後坐上災害不實免。有頃征,再遷,復為侍中。

曹褒は広く物事を知り古事に通じ、儒者の宗とされた。十四年、官の任上で死去した。『通義』十二篇を作り、経書を敷衍し雑論を百二十篇著し、また『礼記』四十九篇を伝え、諸生千余人を教授し、慶氏の学は遂に世に行われるようになった。

原文褒博物識古,為儒者宗。十四年,卒官。作《通義》十二篇,演經雜論百二十篇,又傳《禮記》四十九篇,教授諸生千餘人,慶氏學遂行於世。

論じて言う。『漢の初め、天下は創め定められたが、朝廷の制度には文がなく、叔孫通は経礼を多く採り、秦の法を参酌した。物事に適い時勢を見るには適していたが、崩壊した弊害を救うことはあった。しかし先王の儀礼典章は多く欠けていた。それ故に賈誼、董仲舒、王吉、劉向の徒は、憤り嘆息して已むことができなかった。文帝、宣帝の遠大な計画と明らかな美徳を頼みとしたが、結局用いられることはなかった。故に燕から観れば、尽きないものがあると知る。孝章帝は常に前の王者を語り、夜明けに起きて事業を興し、礼臣に専命し、国の憲法を撰定させた。洋洋たる盛徳の事である。しかし業は天の計らいで絶え、異端の議論は退けられ、この道は結局また墜ちてしまった。三王は礼を襲用せず、五帝は楽を踏襲しない。それ故に『咸池』と『六莖』は調子が異なり、中都の音楽も全く異なる。況や物事の運勢は巡り変わり、情勢は万化する。制度はその流れの変化に随うことができず、品度はその増え広がる様を定めるには足りない。これは固より世の主が損益すべきところである。しかも楽は夔や師襄でなくても新音は代々起こり、律は臯陶や蘇秦でなくても制令は頻繁に変わる。旧い文章を修補することだけを、どうして疑う必要があろうか。礼よ礼よ、どうしてそうなのか。

原文論曰:『漢初天下創定,朝制無文,叔孫通頗采經禮,參酌秦法,雖適物觀時,有救崩敝,然先王之容典蓋多闕矣,是以賈誼、仲舒、王吉、劉向之徒,懷憤嘆息所不能已也。資文、宣之遠圖明懿,而終莫或用,故知自燕而觀,有不盡矣。孝章永言前王,明發興作,專命禮臣,撰定國憲,洋洋乎盛德之事焉。而業絕天算,議黜異端,斯道竟復墜矣。夫三王不相襲禮,五帝不相㳂樂,所以《咸》、《莖》異調,中都殊絕。況物運遷回,情數萬化,制則不能隨其流變,品度未足定其滋章,斯固世主所當損益者也。且樂非夔、襄,而新音代起,律謝臯、蘇,而制令亟易,修補舊文,獨何猜焉?禮云禮云,曷其然哉!

鄭玄

原文鄭玄

鄭玄、字は康成、北海郡高密県の人である。八世の祖の鄭崇は、哀帝の時に尚書僕射であった。鄭玄は若くして郷の嗇夫となったが、休暇で帰郷した時、学官に赴き、吏となることを好まず、父は幾度も怒ったが、禁じることができなかった。遂に太学に赴き学業を受け、京兆の第五元先に師事し、初めて『京氏易』、『公羊春秋』、『三統暦』、『九章算術』に通じた。また東郡の張恭祖に従って『周官』、『礼記』、『左氏春秋』、『韓詩』、『古文尚書』を学んだ。山東には質問できる者がいないため、西に関に入り、涿郡の盧植を介して、扶風の馬融に師事した。

原文鄭玄字康成,北海高密人也。八世祖崇,哀帝時尚書僕射。玄少為鄉嗇夫,得休歸,嘗詣學官,不樂為吏,父數怒之,不能禁。遂造太學受業,師事京兆第五元先,始通《京氏易》、《公羊春秋》、《三統曆》、《九章算術》。又從東郡張恭祖受《周官》、《禮記》、《左氏春秋》、《韓詩》、《古文尚書》。以山東無兄問者,乃西入關,因涿郡盧植,事扶風馬融。

馬融の門徒は四百余人おり、堂に昇って進む者は五十余人いた。馬融は元より驕り高ぶって尊大であり、鄭玄は門下にあって、三年間も面会できず、遂に優れた弟子に鄭玄への伝授をさせた。鄭玄は日夜探求し誦読し、怠り倦むことがなかった。ちょうど馬融が諸生を集めて図緯を考論する際、鄭玄が算術に優れていると聞き、楼上で召し出して面会した。鄭玄はこれに因って諸々の疑義を質し、質問を終えると辞去して帰った。馬融は慨嘆して門人に言った。『鄭生が今去れば、我が道は東へ行くであろう。』

原文融門徒四百餘人,升堂進者五十餘生。融素驕貴,玄在門下,三年不得見,乃使高業弟子傳授於玄。玄日夜尋誦,未嘗怠倦。會融集諸生考論圖緯,聞玄善算,乃召見於樓上,玄因從質諸疑義,問畢辭歸。融喟然謂門人曰:『鄭生今去,吾道東矣。』

鄭玄は遊学してから、十余年して郷里に帰った。家は貧しく、東萊で客耕し、学徒が従うものは既に数百千人に及んだ。党錮の事件が起こると、同郡の孫嵩ら四十余人と共に禁錮され、遂に経学の業を隠れて修め、門を閉ざして出なかった。当時、任城の何休は『公羊』学を好み、『公羊墨守』、『左氏膏肓』、『穀梁廃疾』を著した。鄭玄はこれに対し『墨守』を発き、『膏肓』を鍼し、『廃疾』を起こした。何休はこれを見て嘆いて言った。『康成は我が室に入り、我が矛を操り、我を伐つのか。』初め、光武中興の後、范升、陳元、李育、賈逵の徒が古今の学を争論したが、後に馬融が北地太守の劉瑰に答え、鄭玄が何休に答えたことで、義拠が通暁深遠となり、これによって古学は遂に明らかになった。

原文玄自遊學,十餘年乃歸鄉里。家貧,客耕東萊,學徒相隨已數百千人。及黨事起,乃與同郡孫嵩等四十餘人俱被禁錮,遂隱修經業,杜門不出。時任城何休好《公羊》學,遂著《公羊墨守》、《左氏膏肓》、《穀梁廢疾》;玄乃發《墨守》,針《膏肓》,起《廢疾》。休見而嘆曰:『康成入吾室,操吾矛,以伐我乎!』初,中興之後,范升、陳元、李育、賈逵之徒爭論古今學,後馬融答北地太守劉瑰及玄答何休,義據通深,由是古學遂明。

霊帝の末、党禁が解かれると、大将軍の何進はこれを聞いて召し出した。州郡は何進の権威を恐れ、その意に逆らえず、遂に鄭玄を脅迫し、已むなく彼の許へ赴いた。何進は机と杖を設け、礼遇して非常に厚く接した。鄭玄は朝服を受けず、幅巾で面会した。一晩で逃げ去った。当時六十歳で、弟子の河内の趙商ら遠方から来た者は数千人に及んだ。後将軍の袁隗が侍中に推薦したが、父の喪のため赴任しなかった。国相の孔融は鄭玄を深く敬い、履を履いてその門を訪れた。高密県に告げて鄭玄のため特別に一つの郷を立て、言った。『昔、斉は「士郷」を置き、越には「君子軍」があった。皆、賢者を異にする意味である。鄭君は学を好み、実に明徳を抱いている。昔、太史公、廷尉の呉公、謁者僕射の鄧公は、皆、漢の名臣である。また南山の四皓には園公、夏黄公がおり、光を潜め輝きを隠し、世はその高潔を称え、皆、公と称した。然らば公とは仁徳の正しい称号であり、必ずしも三事の大夫である必要はない。今、鄭君の郷は宜しく「鄭公郷」と称すべきである。昔、東海の於公は僅か一つの節義があっただけで、尚お郷人にその門閭を広くするよう戒めた。ましてや鄭公の徳において、四頭立ての馬車の通る路がないことがあろうか。広く門前の道を開き、高車を通せるようにし、「通徳門」と号すべきである。』

原文靈帝末,黨禁解,大將軍何進聞而辟之。州郡以進權威,不敢違意,遂迫脅玄,不得已而詣之。進為設几杖,禮待甚優。玄不受朝服,而以幅巾見。一宿逃去。時年六十,弟子河內趙商等自遠方至者數千。後將軍袁隗表為侍中,以父喪不行。國相孔融深敬於玄,履履造門。告高密縣為玄特立一鄉,曰:『昔齊置「士鄉」,越有「君子軍」,皆異賢之意也。鄭君好學,實懷明德。昔太史公、廷尉吳公、謁者僕射鄧公,皆漢之名臣。又南山四皓有園公、夏黃公,潛光隱耀,世嘉其高,皆悉稱公。然則公者仁德之正號,不必三事大夫也。今鄭君鄉宜曰「鄭公鄉」。昔東海於公僅有一節,猶或戒鄉人侈其門閭,矧乃鄭公之德,而無駟牡之路!可廣開門衢,令容高車,號為「通德門」。』

董卓が都を長安に遷すと、公卿は鄭玄を趙の相に推挙したが、道が断絶して到着できなかった。ちょうど黄巾賊が青州を寇すると、徐州に避難し、徐州牧の陶謙は師友の礼をもって迎えた。建安元年、徐州から高密に帰る途中、数万人の黄巾賊に遭遇したが、鄭玄を見ると皆拝礼し、互いに約束して県境に入らないようにした。鄭玄は後に病が重くなった時、自ら慮り、手紙をして子の益恩に戒めて言った。

原文董卓遷都長安,公卿舉玄為趙相,道斷不至。會黃巾寇青部,乃避地徐州,徐州牧陶謙接以師友之禮。建安元年,自徐州還高密,道遇黃巾賊數萬人,見玄皆拜,相約不敢入縣境。玄後嘗疾篤,自慮,以書戒子益恩曰:

我が家は昔から貧しく、父母や兄弟たちに容れられず、下役の吏の職を去り、周や秦の都に遊学し、幽州、并州、兗州、豫州の地域を往来し、在職する通人や隠逸の大儒に謁見する機会を得た。理解を得た者には皆、手を捧げて教えを受け、学ぶところがあった。そこで広く『六藝』を研究し、大まかに伝記を読み、時に秘書や緯書の術の奥義を目にした。四十歳を過ぎてから、ようやく帰郷して父母の供養に当たり、田を借りて耕作し、朝夕を楽しんで過ごした。宦官が権勢をほしいままにした際に、党錮の禁に連座して禁錮され、十四年を経て赦令を受け、賢良方正有道に推挙され、大将軍三司府に召し出された。公車が再び召し出し、名簿に並び名を連ね、早くも宰相となるべきところであった。あの数人の方々は、美しい徳と大らかな風格を持ち、王臣としての任に堪えうるので、当然序列に加えられるべきである。私は自らを考えてみて、この任に堪えることはできないが、ただ先聖の本来の意図を述べ、百家の不揃いな説を整理したいと思い、またほぼ自分の才能を尽くすことができるだろうと考えたので、命令を聞きながらも従わなかった。そして黄巾の賊が害をなすようになり、南北を漂い浮き草のように過ごし、再び故郷に帰った。この年齢に至って、すでに七十歳である。以前からの学力は衰え、なおも誤りがあるが、礼典に照らし合わせれば、すでに家を伝えるべき時である。今、私は老いたことをお前に告げ、家事をお前に任せ、閑居して心を安らかにし、思索を深めて学業を終えようと思う。国君の命令を拝受するのでもなく、族親の心配事を問うのでもなく、墓参りをして敬意を表し、野の事物を見て回るのでもない限り、どうして杖をついて門を出ることがあろうか!家の大小の事は、お前がすべて引き受けよ。ああ、孤独な一人の男よ、共に生まれた兄弟もいない。君子の道を求め励み、研究を怠らず、威儀を敬い慎み、有徳者に近づくようにせよ。顕著な名誉は同僚や友人によって成り立ち、德行は自らの志によって立つ。もし名声を得れば、生みの親にとっても栄誉となる。深く考えなければならない!深く考えなければならない!私は官位の継承はないが、爵位を譲る高潔さはかなりある。自ら論賛の功績を楽しみ、後世の人々に恥をかかせないようにしたい。最後に心残りなのは、亡き親の墳墓がまだ完成しておらず、好きな多くの書物がほとんど腐って傷んでいることで、礼堂で書き定めて、それを伝えるべき人に伝えることができないことだ。日は西に傾き暮れようとしている。どうにかできるだろうか!家は今、昔よりいくらか豊かになっている。勤勉に力を尽くし時を大切にし、飢えや寒さを気にかけるな。粗末な食事、薄い衣服、この二つを節約すれば、まだ私の恨みは少なくなる。もし忘れてしまい、わからなくなっても、それもまたやむを得ない!

原文:吾家舊貧,不為父母群弟所容,去廝役之吏,遊學周、秦之都,往來幽、并、兗、豫之域,獲覲乎在位通人,處逸大儒,得意者咸從捧手,有所受焉。遂博稽《六藝》,粗覽傳記,時睹秘書緯術之奧。年過四十,乃歸供養,假田播殖,以娛朝夕。遇閹尹擅勢,坐黨禁錮,十有四年,而蒙赦令,舉賢良方正有道,辟大將軍三司府。公車再召,比牒並名,早為宰相。惟彼數公,懿德大雅,克堪王臣,故宜式序。吾自忖度,無任於此,但念述先聖之元意,思整百家之不齊,亦庶幾以竭吾才,故聞命罔從。而黃巾為害,萍浮南北,復歸邦鄉。入此歲來,已七十矣。宿素衰落,仍有失誤,案之禮典,便合傳家。今我告爾以老,歸爾以事,將閑居以安性,賈思以終業。自非拜國君之命,問族親之憂,展敬墳墓,觀省野物,胡嘗扶杖出門乎!家事大小,汝一承之。咨爾焭焭一夫,曾無同生相依。其勖求君子之道,研鉆勿替,敬慎威儀,以近有德。顯譽成於僚友,德行立於已誌。若致聲稱,亦有榮於所生,可不深念邪!可不深念邪!吾雖無紱冕之緒,頗有讓爵之高。自樂以論贊之功,庶不遺後人之羞,末所憤憤者,徒以亡親墳壟未成,所好群書率皆腐敝,不得於禮堂寫定,傳與其人。日西方暮,其可圖乎!家今差多於昔,勤力務時,無恤饑寒。菲饑食,薄衣服,節夫二者,尚令吾寡恨。若忽忘不識,亦已焉哉!

その時、大将軍袁紹が冀州で兵を総括し、使者を遣わして鄭玄を招き、大いに賓客を集めた。鄭玄は最後に到着したが、袁紹は彼を招き入れて上座に昇らせた。身長は八尺、酒を一斛こく飲み、美しい眉と明るい目を持ち、容貌は温和で立派であった。袁紹の客には豪傑が多く、皆才弁があったが、鄭玄が儒者であるのを見て、通人として認めず、競って異端の説を立て、百家の説が互いに起こった。鄭玄はそれぞれの説に応じて弁論で応対し、皆が問うた内容を超えて答え、聞いたことのないことを全て得たので、誰もが感嘆して敬服した。その時、汝南の応劭も袁紹のもとに帰順しており、自ら進んで言った。『元泰山太守の応中遠が、北面して弟子となったらどうでしょうか。』鄭玄は笑って言った。『孔子の門では四科によって評価し、顔回や子貢の徒は官職の家柄を称えなかった。』応劭は恥じ入った顔色をした。袁紹はそこで鄭玄を茂才に推挙し、左中郎将に上表したが、鄭玄はどちらも就任しなかった。公車が大司農に徴召し、安車一乗を与え、通過する地域の長吏が送迎した。鄭玄は病気を理由に自ら帰郷を願い出た。

原文時,大將軍袁紹總兵冀州,遣使要玄,大會賓客,玄最後至,乃延升上坐。身長八尺,飲酒一斛,秀眉明目,容儀溫偉。紹客多豪俊,並有才說,見玄儒者,未以通人許之,競設異端,百家互起。玄依方辯對,咸出問表,皆得所未聞,莫不嗟服。時汝南應劭亦歸於紹,因自贊曰:『故太山太守應中遠,北面稱弟子何如?』玄笑曰:『仲尼之門考以四科,回、賜之徒不稱官閥。』劭有慚色。紹乃舉玄茂才,表為左中郎將,皆不就。公車徵為大司農,給安車一乘,所過長吏送迎。玄乃以病自乞還家。

五年の春、孔子が夢に現れて告げた。『起きよ、起きよ、今年の歳は辰にあり、来年の歳は巳にある。』目が覚めた後、讖緯の説と照らし合わせて、寿命が尽きることを知り、しばらくして病に臥した。その時、袁紹と曹操が官渡で対峙しており、袁紹は息子の袁譚に使者を遣わして鄭玄に軍に随行するよう迫らせた。鄭玄はやむなく、病気を押して元城県に到着したが、病状が重く進むことができず、その年の六月に死去した。七十四歳であった。遺言で薄葬を命じた。郡守以下かつて学問を受けた者で、喪服を着て会葬に赴いた者は千余人に及んだ。

原文五年春,夢孔子告之曰:『起,起,今年歲在辰,來年歲在巳。』既寤,以讖合之,知命當終,有頃寢疾。時袁紹與曹操相拒於官度,令其子譚遣使逼玄隨軍,不得已,載病到元城縣,疾篤不進,其年六月卒,年七十四。遺令薄葬。自郡守以下嘗受業者,缞绖赴會千餘人。

門人たちは互いに協力して、鄭玄が諸弟子の『五経』に関する質問に答えたものをまとめ、『論語』に倣って『鄭志』八篇を作成した。鄭玄が注釈した『周易』、『尚書』、『毛詩』、『儀礼』、『礼記』、『論語』、『孝経』、『尚書大伝』、『中候』、『乾象暦』、また著した『天文七政論』、『魯礼禘祫義』、『六芸論』、『毛詩譜』、『駁許慎五経異義』、『答臨孝存周礼難』など、合わせて百余万言に及ぶ。

原文門人相與撰玄答諸弟子問《五經》,依《論語》作《鄭志》八篇。凡玄所註《周易》、《尚書》、《毛詩》、《儀禮》、《禮記》、《論語》、《孝經》、《尚書大傳》、《中候》、《乾象曆》,又著《天文七政論》、《魯禮禘祫義》、《六藝論》、《毛詩譜》、《駁許慎五經異義》、《答臨孝存周禮難》,凡百餘萬言。

鄭玄は訓詁にこだわり、通人たちはその煩雑さをかなり批判した。しかし経伝に精通し熟達している点では、純粋な儒者と称され、斉や魯の地域で尊ばれた。その門人の山陽の郗慮は御史大夫に至り、東萊の王基、清河の崔琰は世に著名であった。また楽安の国淵、任嘏は、当時まだ幼かったが、鄭玄は国淵を国の宝器と称し、任嘏は道徳があると評した。その他にも多くを見抜き登用し、皆その言葉の通りになった。鄭玄には益恩という一人の子だけがいた。孔融が北海にいた時、孝廉に推挙した。孔融が黄巾賊に包囲された時、益恩は難に赴いて命を落とした。遺腹子がおり、鄭玄はその手の文様が自分に似ているとして、小同と名付けた。(一説には、この遺腹の子は丁卯日に生まれ、鄭玄も丁卯年に生まれたため、それにちなんで名付けたという。)

原文玄質於辭訓,通人頗譏其繁。至於經傳洽孰,稱為純儒,齊、魯間宗之。其門人山陽郗慮至御史大夫,東萊王基、清河崔琰著名於世。又樂安國淵、任嘏,時並童幼,玄稱淵為國器,嘏有道德,其餘亦多所鑒拔,皆如其言。玄唯有一子益恩,孔融在北海,舉為孝廉;及融為黃巾所圍,益恩赴難損身。有遺腹子,玄以其手文似己,名之曰小同〈一說此「遗腹子,以丁卯日生;而玄以丁卯岁生,故名」。〉。

史評

原文史評

論じて言う。秦が『六経』を焚書して以来、聖人の文章は塵に埋もれて消えうせた。漢が興ると、諸儒は芸文を修めることに努めた。後漢になると、学者たちもそれぞれ一家を成した。しかし文章に固執する者たちは、受け継いだ学説に凝り固まり、異端の説が紛々として起こり、互いに奇抜で過激な説を競わせた。そのため経書には数家の説があり、各家には数説あり、章句の多いものは百余万言にもなり、学徒は労多くして功少なく、後生は疑いを抱いて正すことができなかった。鄭玄は主要な経典を包括し、諸家の説を網羅し、煩雑で虚偽の部分を削除し、漏れや誤りを訂正した。これ以来、学者たちはおおよそ帰するべきところを知るようになった。私の祖父の豫章君は、先儒の経訓を考証するたびに鄭玄を高く評価し、常に孔子の門弟でもこれを超えることはできないと考えていた。そして生徒に伝授する時は、専ら鄭氏の家法に依ったという。

原文論曰:自秦焚《六經》,聖文埃滅。漢興,諸儒頗修藝文;及東京,學者亦各名家。而守文之徒,滯固所稟,異端紛紜,互相詭激,遂令經有數家,家有數說,章句多者或乃百餘萬言,學徒勞而少功,後生疑而莫正。鄭玄括囊大典,網羅眾家,刪裁繁誣,刊改漏失,自是學者略知所歸。王父豫章君每考先儒經訓,而長於玄,常以為仲尼之門不能過也。及傳授生徒,並專以鄭氏家法云。

賛して言う。富平侯(鄭玄の先祖)の系譜は、家を継ぎ代々伝わった。伯仁(鄭玄の先祖鄭衆)は先に帰順し、我が国の祭祀を整えた。鄭玄は経義の誤りを正し、褒賞と礼制の欠けた部分を修めた。孔子の書はついに明らかになり、漢代の章句の学は中途で途絶えた。

原文贊曰:富平之緒,承家載世。伯仁先歸,厘我國祭。玄定義乖,褒修禮缺。孔書遂明,漢章中輟。