後漢書

巻三十四

梁統列傳 第二十四

 

梁統

子:梁松、梁竦、曾孫:梁商、玄孫:梁冀

梁統

梁統はあざなを仲寧といい、安定郡烏氏県の人である。晋の大夫梁益耳がその先祖である。梁統の高祖父の子都は、河東から北地に移り住み、子都の子の橋は、資産千万を以て茂陵に移住し、哀帝・平帝の末年に至って安定に帰った。

梁統は性質が剛毅で法律を好んだ。初め州郡に仕えた。

更始二年

召されて中郎将に補され、涼州を安集させるため派遣され、酒泉太守に任じられた。ちょうど更始帝が敗れ、赤眉軍が長安に入ると、梁統は竇融および諸郡の太守と共に兵を起こして境域を守り、共に将帥を立てることを謀った。初めは位の順序によって、皆が梁統を推挙したが、梁統は固く辞して言った。『昔、陳嬰が王号を受けなかったのは、老母がいたからである。今、私には尊い親がおり、また徳は薄く才能は乏しい。誠にその任に当たるには足りない。』そこで共に竇融を河西大将軍に推挙し、代わりに梁統を武威太守とした。政治は厳しく猛であり、威勢は隣郡に及んだ。

建武五年

梁統らはそれぞれ使者を竇融の長史劉鈞に随行させて宮闕に赴かせ貢物を奉り、行在所に詣でることを願った。詔して梁統に宣徳将軍を加えた。八年の夏、光武帝が自ら隗囂を征伐すると、梁統は竇融らと共に兵を率いて車駕に会した。隗囂が敗れると、梁統を成義侯に封じ、同産の兄の梁巡、従弟の梁騰を共に関内侯とし、梁騰を酒泉典農部尉に任じ、皆を河西に帰還させた。十二年、梁統は竇融らと共に京師に詣で、列侯として朝請に奉じ、改めて高山侯に封じられ、太中大夫に任じられ、四人の子を郎とした。

梁統は朝廷において、しばしば便宜を述べた。法令が軽すぎて、下々の奸悪を抑えきれないと考え、刑罰を重くして旧典に従うべきだとし、上疏して言った。

臣がひそかに見るに、元帝と哀帝の二代は、殊死しゅしの刑を軽減することを123件も行い、手ずから人を殺した者も死刑一等を減じた。これ以来、常法として定着したため、人は軽々しく法を犯し、役人は容易に人を殺すようになった。

臣が聞くところでは、君主を立てる道は仁義を主とし、仁とは人を愛すること、義とは政治の道理である。人を愛するには残虐を取り除くことを務めとし、政治の道理は乱れを除くことを心がける。刑罰は中正であるべきで、軽くすることを取るべきではない。それゆえ五帝には流刑・誅殺・放逐・殺戮の誅罰があり、三王には大辟・刻肌の法があった。だから孔子は『仁者は必ず勇あり』と称え、また『財を理め辞を正し、民が非を行うことを禁ずることを義という』と言われた。高祖は天命を受けて暴虐を誅し、天下を平定し、法令を簡約し法律を定めたが、まさにその宜しきを得ていた。文帝は寛大で慈恵深く柔和であったが、世は康平に遭い、肉刑と連座の法を除いただけで、他はすべて旧章に従い、改めなかった。武帝は中国が隆盛で、財力に余裕があり、遠方を征伐し、軍役がたびたび起こり、豪傑が禁令を犯し、奸吏が法を弄んだため、首謀者を匿う科条を重くし、従犯を知る法律を明記して、朋党を破り、隠匿を懲らしめた。宣帝は聡明で正直であり、海内を統御し、臣下は憲法を奉じて失墜することがなく、先典を因循したので、天下は治まったと称えられた。哀帝・平帝が継承したが、即位して日が浅く、裁断はまだ少なく、丞相の王嘉が軽率に穿鑿し、先帝の旧約と成律を損ない除いたため、数年で百有余件に及び、あるいは道理に不便であり、あるいは民心を満たさなかった。謹んでその中でも特に体制に害のあるものを表にして左に傅奏する。

伏して考えるに、陛下は天の徳を包み履み、時勢を権衡して乱を撥ね除け、功績は文王・武王を超え、徳は高祖に等しい。誠に末世の衰微した軌跡を因循すべきではない。神明の如きお察しをもって、得失を考量し、有司に詔を下し、その善きものを詳しく選び、不変の法典を定め、窮まりない法を施行されれば、天下は幸いである。

事は三公と廷尉に下され、議論する者は厳刑峻法は明王の急務ではなく、施行が久しいものを一朝に改めることはできないと考え、梁統の今定めるところは採用すべきではないとした。

梁統は再び上言して言った。『有司は臣の今言うところを施行できないとする。臣の奏上したことを尋ねれば、厳刑と言うのではない。ひそかに考えるに、高祖以後、孝宣帝に至るまで、その施行したところは多く経伝に合致しており、今の事柄に比べ、往古に照らし、前典に従うべきであり、事を改めるのは難しくない。願わくば召し出され、尚書の近臣に対面して、口頭でその要点を陳述させていただきたい。』帝は尚書に命じて状況を問わせた。梁統は答えて言った。

聖帝明王は刑罰を制定したと聞く。だから堯・舜の盛んな時でも、なお四凶を誅したのである。経書に『天は罪ある者を討ち、五刑五用を行う』とあり、また『百姓を刑の中正によって制する』と言う。孔子は『刑罰が中正でなければ、人は手足の置き所がない』と言われた。『衷』というのは、軽からず重からずという意味である。《春秋》の誅罰は親戚をも避けず、それは患いを防ぎ乱れを救い、衆庶を全うし安んずるためであり、仁愛の恩がなかったわけではない。残賊の道を断つことを貴んだのである。

高祖の興りから孝宣帝に至るまで、君は明らかで臣は忠実であり、謀議ぼうぎは深く広かったが、なお旧章を因循し、軽々しく改革せず、海内は治まったと称えられ、獄を断ずることはますます少なかった。初元・建平の頃に至り、減刑した条項は百余条に及んだが、盗賊は次第に増え、年に万数を数えた。近ごろ三輔では徒党が横行し、群輩が一斉に起こり、ついには茂陵を焼き、火の気が未央宮に見えるほどであった。その後、隴西・北地・西河の賊は、州を越え郡を渡り、万里を交結し、武器庫の兵器を攻め取り、役人や民を略奪した。詔書で討伐捕縛を命じたが、連年捕らえられなかった。この時、天下に難なく、百姓は安平であったのに、狂狡の勢いがなおここに至ったのは、すべて刑罰が中正でなく、愚人が犯しやすかったことによるのである。

これを見れば、刑が軽いことこそ、かえって大いなる禍患を生み、奸悪な者に恵みを加えることで、善良な者に害が及ぶのである。それゆえ臣の梁統は、陛下が賢臣の孔光・師丹らの議論を採択されることを願う。

議論が上奏されたが、遂に寝かされ返答がなかった。

後に出向して九江太守となり、陵郷侯に封ぜられた。梁統は郡でも治績があり、役人や民は彼を畏れ敬愛した。官の任上で没した。子の梁松が後を嗣いだ。

梁統の子、梁松。

梁松は字を伯孫といい、若くして郎となり、光武帝の娘の舞陰長公主を娶り、再び虎賁中郎将に遷った。梁松は経書に広く通じ、故事に明るく習熟し、諸儒とともに明堂・辟雍・郊祀・封禅の礼儀を整え、常に論議に参与し、寵幸は比べる者もなかった。光武帝が崩御すると、遺詔を受けて政を補佐した。永平元年、太僕に遷った。

梁松はたびたび私信で郡県に請託した。二年、発覚して免官され、怨みを抱いた。四年の冬、匿名の文書を掲げて誹謗した罪で、獄に下され死に、封国は除かれた。

子の梁扈は、後に恭懐皇后の従兄として、永元年間に黄門侍郎に抜擢され、卿・校尉の官を歴任した。温厚で恭しく謙譲し、また『詩経』『書経』に厚かった。永初年間、長楽少府となった。

松の弟の竦。

松の弟の竦。竦は字を叔敬といい、若い頃に『孟氏易』を学び、弱冠にして教授することができた。後に兄の松の事件に連座し、弟の恭と共に九真に流された。南方の地に赴き、長江や湖を渡り、沅水や湘水を渡るうちに、無実の罪で身を沈めた子胥や屈原を悼み、『悼騷賦』を作り、玄石に結びつけて沈めた。

顕宗は後に詔を下して本郡への帰還を許した。竦は門を閉ざして自らを養い、経籍を楽しみとし、数篇の書を著して『七序』と名付けた。班固はこれを見て称賛して言った。『孔子が『春秋』を著して乱臣賊子を恐れさせ、梁竦が『七序』を作って窃位素餐の者を恥じ入らせた。』性格は施しを好み、産業には従事しなかった。長兄の嫁である舞陰公主が梁一族を養い、親疎の区別を秩序立てて行い、特に竦を重んじて敬い、衣食や器物であっても必ず特別なものを与えた。竦はそれを全て親族に分け与え、自分自身の分け前は取らなかった。

竦は京師で育ち、故郷を好まず、その才能を抱きながらも、鬱々として意を得なかった。かつて高みに登って遠くを眺め、嘆息して言った。『大丈夫が世に生きるには、生きているうちに封侯となり、死んでからは廟に祀られて祭祀を受けるべきだ。もしそれが叶わないなら、閑居して志を養い、『詩』や『書』をもって自らを楽しむに足りる。州郡の官職などは、人を徒労させるだけだ。』後に辟召の命令が次々と来たが、いずれも就任しなかった。三男三女があり、粛宗がその二人の娘を後宮に入れ、ともに貴人となった。小貴人は和帝を生んだが、竇皇后がこれを養子としたため、竦の家ではひそかに慶賀した。後に諸竇がこれを聞き、梁氏が志を得て、結局は自分たちの害となることを恐れ、建初八年、ついに二貴人を讒言して殺害し、竦らを悪逆の罪に陥れた。詔によって漢陽太守の鄭據が竦の罪を取り調べるよう命じられ、獄中で死に、家族は再び九真に流された。供述は舞陰公主にも及び、連座して新城に流され、使者が監視した。宮中の事柄は秘密であり、和帝が梁氏の生んだ子であることを知る者は誰もいなかった。

永元九年、

竇太后が崩御すると、松の子の扈が従兄の禪を遣わして三府に奏記を提出し、漢家の旧典では母方の一族を尊貴とするのに、和帝を産んだ梁貴人が尊号を蒙らないのは不当であるとして、審議を求めた。太尉の張酺が禪を引見して事情を尋ねたところ、ちょうど帝が召し出したので、禪の奏記の内容を報告した。帝は長く悲しみ慟哭し、言った。『卿の意見はどうか。』酺は答えた。『『春秋』の義によれば、母は子によって貴くなる。漢が興って以来、母方の一族は皆顕栄している。臣の愚見では、尊号を奉り、聖霊を慰め、諸舅を記録して取り立て、親族を親しむことを明らかにすべきです。』帝は悲しみ泣いて言った。『卿でなければ誰が朕のために考えてくれようか。』ちょうど貴人の姉で南陽の樊調の妻である嫕が上書して自ら訴えた。

妾の同腹の妹である貴人は、かつて後宮に仕え、先帝の厚恩を蒙り、寵愛を受けることができました。皇天が命を授け、聖明なる天子をお生みになりました。しかし竇憲兄弟によって讒訴され、妾の父の竦は冤罪で牢獄に死に、骸骨も埋められませんでした。老いた母と孤児の弟たちは、万里の遠方に流されました。ただ妾一人だけが逃れ、草野に隠れ伏し、常に命を失うことを恐れ、自ら訴えるすべもありませんでした。今、陛下の神聖なる御運に遭い、自ら万機を統べられ、万物がその所を得ています。憲兄弟の奸悪は既に罪を得て誅殺され、海内は広々として、それぞれがその宜しきを得ています。妾は息を吹き返し、目を拭って改めて見るようになり、ようやく死を冒して天たる陛下に自ら訴えることができます。妾は聞きます。太宗が即位すると薄氏が栄誉を蒙り、宣帝が統を継ぐと史氏の一族が復興したと。妾の家門には薄氏や史氏のような縁戚はありますが、ただ外戚としての余恩はなく、誠に自ら悼み傷んでおります。妾の父は既に冤罪で、生き返ることはできません。母は七十歳を超える高齢であり、弟の棠らは絶域の遠方におり、生死さえ分かりません。どうか竦の朽ちた骨を収め、母と弟たちを本郡に帰らせてください。そうすればその恩恵は天地を超え、生きている者も亡き者も幸いを頼むことができます。

帝は上書を読んで感銘を受け、中常侍と掖庭令に命じて尋問させた。嫕の供述は明白で詳細であったため、ついに引見され、詳しく事情を述べた。帝は嫕を宮中に留め置き、数ヶ月後に出し、衣類・布団・銭・絹・邸宅・奴婢を賜い、十日一ヶ月の間に資産は千万に累積した。嫕は元来品行方正であったため、帝はますます彼女を愛し、梁夫人の号を加え、樊調を羽林左監に抜擢した。調は、光禄大夫の宏の兄の曾孫である。

そこで恭懐皇后を追尊した。その冬、三公と大鴻臚に制詔を下した。『孝の道で最も大切なのは尊ぶべき者を尊び、親しむべき者を親しむことであり、その道理は一つである。『詩』に云う。「父よ我を生み、母よ我を育て、我を撫で養い、我を大きく育て、我を顧み返り、出入りする度に我を抱きしめた。その恩に報いようとするも、その徳は昊天のように果てしがない。」朕は軽々しく事を起こすことはしないが、前世を見るに、太宗、中宗には確かに旧典があり、外祖父を追命して、親族を親しむことを篤くした。皇太后の父である竦を追封して褒親湣侯と諡し、霊文侯、順成侯、恩成侯に準じる。魂あらば、この寵栄を喜び、良い爵位と顕著な服飾をもって、母の心を慰めよ。』中謁者を遣わし、嫕および扈と共に礼を整えて西へ竦の遺骸を迎え、京師に至って改めて殯を行い、東園の画館・玉匣・衣衾を賜い、恭懐皇后の陵の傍らに塋域を建てた。帝は自ら送葬に臨み、百官が皆参列した。

竦の妻子を召還し、子の棠を楽平侯に、棠の弟の雍を乗氏侯に、雍の弟の翟を単父侯に封じ、邑はそれぞれ五千戸とし、位は皆特進とし、邸宅・奴婢・車馬・兵弩へいど・什物を巨万の計りで賜い、寵遇は当世に光り輝いた。諸梁の内外の者は親疎に応じて皆、郎や謁者に補された。

棠は官は大鴻臚に至り、雍は少府となった。棠が卒すると、子の安国が嗣ぎ、延光年間に侍中となったが、罪があって免官され、諸梁で郎吏であった者は皆連座して免官された。

竦の孫の商。

商は字を伯夏といい、雍の子である。若くして外戚として郎中に任じられ、黄門侍郎に遷った。永建元年、父の封を襲い乗氏侯となった。三年、順帝は商の娘と妹を選んで掖庭に入れ、商は侍中・屯騎校尉に遷った。陽嘉元年、娘が皇后に立てられ、妹が貴人となると、商に位特進を加え、さらに封土を増やし、安車駟馬を賜い、その年に執金吾に任じられた。二年、子の冀を襄邑侯に封じようとしたが、商は辞退して受けなかった。三年、商を大将軍としようとしたが、固く病気と称して起き上がらなかった。四年、太常の桓焉に策を持たせて邸宅に赴きその場で拝命させたので、商はようやく宮門に赴いて任命を受けた。翌年、夫人の陰氏が薨じ、開封君と追号し、印綬を贈られた。

商は自ら外戚として高位に居ることを自覚し、常に謙虚で柔和な態度を保ち、己を虚しくして賢者を推挙し、漢陽の巨覧、上党の陳龜を椽属に辟召した。李固、周挙を從事中郎とし、これにより京師は一致して良き補佐役と称し、帝は重く委任した。飢饉がある度に、租穀を城門に運び、貧しく飢えた者に賑恤し、自分の恵みであると宣伝しなかった。一族を統制し、権勢を頼んで法を犯すことはなかった。しかし性格は慎重で柔弱で威厳ある決断力に欠け、内豎(宦官)に溺れるところがかなりあった。小黄門の曹節らが宮中で権力を握っていたため、子の冀や不疑を遣わして彼らと交友関係を結んだが、宦官たちは商の寵任を妬み、かえって彼を陥れようとした。永和四年、中常侍の張逵、蘧政、内者令の石光、尚方令の傅福、冗従僕射の杜永が共謀し、一緒に商と中常侍の曹騰、孟賁を讒訴し、諸王子を召し寄せて、廃立を謀議しているとし、商らを収監して罪を問うよう求めた。帝は言った。『大将軍父子は朕が親しい者であり、騰、賁は朕が愛する者である。必ずそんなことはない、ただお前たちが共に妬んでいるだけだ。』逵らは言葉が用いられないと知り、恐れ迫って、ついに詔を偽って省中で騰と賁を収監し縛り上げた。

帝はこれを聞いて激怒し、宦官の李歙に命じて急いで梁冀と梁不疑を呼び出し、彼らを釈放させて、張逵らを捕らえ、ことごとく誅殺させた。供述が連座して現職の大臣にまで及んだため、梁商は多くの無実の者が侵害されることを恐れ、上疏して言った。『『春秋』の義によれば、功績は元帥にあり、罪は首謀者に止まる。ゆえに賞は過剰にならず、刑は濫用されない。これが五帝・三王がともに太平を実現した所以である。ひそかに聞くところでは、中常侍張逵らの取り調べにおいて、供述が多く他者に及んでいるという。大きな獄が起こると、無辜の者が多く、死囚が長く拘禁され、些細なことが大きな事件に発展する。これは和気を迎え、政治を平穏にし教化を成すものではない。早く結審し、逮捕の煩わしさを止めるべきです。』帝はこれを受け入れ、罪は当事者のみに限定した。

六年の秋、梁商は病が重篤となり、子の梁冀らに命じて言った。『私は不徳の身でありながら多くの福を享受した。生きて朝廷を補佐し益することができず、死して必ず国庫を浪費し、衣衾・飯唅・玉匣・珠貝の類は、朽ちた骨に何の益があろうか。百官を煩わせ、道中を華美に飾り立てることは、ただ塵埃を増すだけで、礼制とはいえ、時宜に応じた対応もある。今、辺境は平穏でなく、盗賊も鎮まっていない。どうして重ねて国の損害となるべきか。私が息絶えた後は、墓所まで運び、直ちに殯を行い、埋葬せよ。埋葬には当世の衣服を用い、すべて古い衣とし、新たに裁断しないこと。殯が終われば墓を開け、墓を開けたら即座に葬れ。祭祀の供物は生前の食事とし、三牲を用いるな。孝子は父の志をよく継ぐものであり、私の言葉に背くべきではない。』梁商が薨去すると、帝は自ら喪に臨み、諸子はその教えに従おうとしたが、朝廷は聞き入れず、東園の朱寿器・銀鏤・黄腸題湊・玉匣・什物二十八種、銭二百万、布三千匹を賜った。皇后は銭五百万、布一万匹を賜った。埋葬の際には、軽車と甲士こうしを贈られ、諡して忠侯とされた。皇后が自ら見送り、帝は宣陽亭に臨幸し、車騎を眺め見送った。子の梁冀が後を嗣いだ。

梁商の子、梁冀。

梁冀は字を伯車という。鳶肩(肩が上がっている)豺目(目つきが鋭い)の風貌で、目は鋭く、口ごもり舌足らずで、かろうじて書計ができる程度であった。若くして貴戚となり、放逸に遊び、自ら勝手に振る舞った。性来酒を好み、弓を引き絞ること、弾棋、格五、六博、蹴鞠、意銭といった遊戯ができ、また鷹を腕に止め、犬を走らせ、馬を駆けさせ、闘鶏を好んだ。初め黄門侍郎となり、侍中、虎賁中郎将、越騎校尉、歩兵校尉、執金吾と転任した。

永和元年、

河南尹に任命された。梁冀は職務において暴虐で勝手、多くの法に反する行為を行い、父の梁商が親しくしていた客の洛陽令呂放が、梁商に梁冀の短所をしばしば話したため、梁商が梁冀を責めた。梁冀はすぐに人を遣わし、道中で呂放を刺殺させた。梁商に知られるのを恐れ、呂放の怨敵に嫌疑をかぶせ、呂放の弟の呂禹を洛陽令に任じるよう請願し、彼に捕らえさせ、その宗族・親族・賓客百余人を皆殺しにした。

梁商が薨去し、まだ埋葬されないうちに、順帝は梁冀を大将軍に任命し、弟の侍中梁不疑を河南尹に任命した。

沖帝がまた崩御すると、梁冀は質帝を擁立した。帝は幼くして聡明で、梁冀の驕慢横暴を知っており、かつて群臣を朝見させた際、梁冀を見て言った。『これが跋扈将軍だ。』梁冀はこれを聞き、深く憎み、左右の者に命じて毒を加えた煮餅を進めさせ、帝はその日に崩御した。

再び桓帝を擁立し、李固および前太尉杜喬を無実の罪で害した。天下は嘆き恐れ、その詳細は『李固伝』にある。建和元年、梁冀に一万三千戸を加増して封じ、大将軍府が高第茂才を推挙することを増やし、その官属は三公の倍とした。また梁不疑を潁陽侯に、梁不疑の弟の梁蒙を西平侯に、梁冀の子の梁胤を襄邑侯に封じ、それぞれ一万戸とした。和平元年、重ねて梁冀に一万戸を加増し、以前に継承した分と合わせて三万户となった。

弘農郡の宰宣は元来諂い邪な性質で、梁冀に媚びようとし、上言して大将軍には周公の功績がある、今その諸子を封じたならば、その妻も邑君とすべきであると言った。詔により梁冀の妻の孫寿を襄城君に封じ、陽翟の租税を併せて領有させ、歳入は五千万、赤綬を加えて賜り、長公主に準じた。孫寿は色美しく、妖艶な姿態を作るのが巧みで、愁眉、啼妝、墮馬髻、折腰歩、齲歯笑を作り、媚惑の手段とした。梁冀もまた輿服の制度を改め、平上軿車を作り、埤さく、狭冠、折上巾、擁身扇、狐尾単衣を用いた。孫寿の性格は猜疑心が強く嫉妬深く、梁冀を制御することができ、梁冀は彼女を非常に寵愛し恐れた。

初め、父の梁商が美人の友通期を順帝に献上したが、友通期に些細な過失があり、帝は彼女を梁商に返した。梁商は留め置くことを敢えず、彼女を嫁がせた。梁冀はすぐに客を遣わし、友通期を盗み戻した。ちょうど梁商が薨去し、梁冀が喪に服している時、城西で密かに彼女と同居した。孫寿は梁冀が出かけるのを待ち、多くの下僕を連れ、友通期を奪い取り連れ帰り、髪を切り顔を傷つけ、鞭打って、このことを上書して告げようとした。梁冀は大いに恐れ、孫寿の母に頓首して請うたため、孫寿もやむを得ず止めた。梁冀はなおも密かに通じ、子の伯玉を産ませたが、隠して外に出さなかった。孫寿はやがてこれを知り、子の梁胤に命じて友氏を誅滅させた。梁冀は孫寿が伯玉を害することを慮り、常に二重壁の中に置いた。梁冀は監奴の秦宮を寵愛し、官は太倉令に至り、孫寿の居所に出入りすることができた。孫寿は秦宮を見ると、すぐに侍従を退け、用事があると偽り、密かに情を通じた。秦宮は内外で寵愛を兼ね、威権は大いに震い、刺史や二千石の官も彼に謁見して辞去した。

梁冀は孫寿の言葉を用い、梁氏一族で在位する者の多くを排斥し奪い、外見は謙譲を装いながら、実は孫氏の宗族を重用した。名を冒して侍中・卿・校尉・郡守・長吏となった者は十余人おり、皆貪欲で凶暴淫らであり、それぞれ私的な客を遣わして属県の富人を名簿に登録させ、別の罪を着せ、獄に閉じ込めて拷問し、金を出して自ら贖うようにさせ、財産が少ない者は死罪や流刑に至った。扶風郡の人士孫奮は富んでいたが性格が吝嗇であった。梁冀は馬車を贈り、五千万銭を貸してくれと頼んだ。士孫奮は三千万銭を与えた。梁冀は大いに怒り、郡県に告げ、士孫奮の母が梁冀の蔵を守る婢であったと偽り、白珠十こく、紫金千斤を盗んで逃亡したと主張し、士孫奮兄弟を捕らえて取り調べ、獄死させ、資産一億七千余万をすべて没収した。

四方からの調達物や、季節ごとの貢ぎ物は、すべてまず最上級のものを梁冀に送り、皇帝の分はその次であった。官吏や人が賄賂を贈って官職を求め罪を許してもらう者は、道に絶え間がなかった。梁冀はまた客を遣わして塞外に出て、外国と交わり、広く珍しい物を求めた。道中で、芸妓や御者を徴発し、また使者が勢いに乗って横暴を働き、婦女を略奪し、吏卒を殴打したため、その所在する所では怨嗟の的となった。

梁冀は大規模に邸宅を建て、孫寿もまた通りを挟んで向かい側に屋敷を構え、土木工事を極限まで尽くし、互いに豪華さを競い誇った。堂や寝室にはすべて陰陽の奥深い部屋があり、部屋は連なり戸口は通じ合っていた。柱や壁には彫刻が施され、さらに銅や漆で装飾され、窓には綾織りの格子と青瑣(青い透かし彫り)があり、雲気や仙人の姿が描かれていた。楼閣は周囲に通じ、互いに見渡し合い、空中に架け渡した橋や石段が水路を跨いでいた。金・玉・真珠・宝玉、異国の珍奇な宝物が蔵室に満ちあふれていた。遠くから汗血の名馬を手に入れた。また広大な庭園や苑を開き、土を採って山を築き、十里に九つの坂を作り、二崤(崤山の二つの峰)を模し、深い林や断崖絶壁の渓谷は自然そのもののようで、珍しい鳥や飼いならされた獣がその間を飛び走っていた。梁冀と孫寿は共に輦車に乗り、羽根の蓋を張り、金銀で飾り、邸内を遊覧し、多くの倡優や楽人を従え、鐘を鳴らし管楽器を吹き、道いっぱいに酒を飲み歌い騒いだ。ある時は昼夜を問わず続け、楽しみを極めて気ままに振る舞った。客が門に来ても通してもらえず、皆門番に礼を請い、門番は千金を蓄積した。さらに多くの林苑を拡張し、王家と同じく禁制を敷き、西は弘農から、東は滎陽けいようの境界、南は魯陽の果て、北は黄河・淇水に至るまで、山や藪を含み、遠く丘や荒地にまで及び、巡る封域はほぼ千里に及んだ。また河南城の西に兎苑を造営し、数十里にわたって広がり、所属する県の兵卒や労役者を徴発し、楼閣や観覧施設を修築し、数年かけて完成させた。檄を発して各地に命じ、生きた兎を調達させ、その毛に刻印をして目印とし、これに違反する者は、刑死に至る罪に処せられた。かつて西域の胡人の商人が、禁忌を知らずに誤って一羽の兎を殺し、それが伝わり言い広められ、連座して死んだ者が十数人に上った。梁冀の二人の弟がかつて密かに人を上党に狩猟に出したことがあり、梁冀はそれを聞いて彼らの賓客を捕らえ、一度に三十余人を殺し、生きて帰った者はいなかった。梁冀はまた城西に別邸を建て、奸悪な逃亡者を受け入れた。あるいは善良な民を捕らえ、ことごとく奴婢とし、数千人に及び、『自売人』と名付けた。

元嘉元年、

帝は梁冀に擁立の功があるとして、特別な典例で尊ぼうと考え、公卿を大いに集め、その礼儀について共に議論させた。そこで役人が上奏し、梁冀が朝廷に入るときに小走りにならず、履を脱いで殿上に上がり、謁見の際に名を呼ばれず、礼儀は蕭何に比すべきであるとした。定陶と成陽の余剰戸をすべて加えて四県に増封し、鄧禹に比すべきであるとした。金銭、奴婢、彩帛、車馬、衣服、豪邸を賞賜し、霍光に比すべきであるとした。これをもって特別な元勲とした。毎回の朝会では、三公と席を隔てた。十日に一度、尚書の事務を平らげる(総覧する)。天下に宣布し、万世の法とする。梁冀はなおも上奏された礼が薄いと考え、内心喜ばなかった。権力を専断し、凶暴な振る舞いが日々積もり、大小の機密事項は、すべて彼に諮って決断された。宮中の警護や近侍は、すべて彼が親しく任命した者たちであった。禁中の起居は、些細なことまで必ず知っていた。百官の昇進や召喚は、皆まず梁冀の門に赴き書簡を奉って謝恩し、その後で敢えて尚書省に行った。下邳の人吳樹が宛県の令となり、赴任するにあたり梁冀に別れを告げた。梁冀の賓客が県内に広くおり、私情を託して吳樹に頼んだ。吳樹は答えて言った。『小人どもは奸悪で、家ごとに誅殺すべきです。明将軍は后族としての重みを持ち、上将の位にあり、賢者や善人を尊び、朝廷の欠点を補うべきです。宛は大都会であり、人材の集まる地ですが、私が侍坐して以来、一人の長者を称える話も聞かず、多くは不適切な者に頼っておられます。まことに聞くに堪えません』梁冀は黙って不愉快になった。吳樹が県に着くと、梁冀の客で人に害をなす者数十人を誅殺した。これによって梁冀は深く恨んだ。吳樹は後に荊州刺史となり、去る際に梁冀に別れを告げた。梁冀は酒宴を設け、その機に毒を盛った。吳樹は出て、車上で死んだ。また遼東太守の侯猛は、初めて任命された時に梁冀に謁見せず、梁冀は別の事を口実にして腰斬に処した。

その時、郎中の汝南の袁著は十九歳で、梁冀の凶暴な振る舞いを見て、憤りに耐えかね、宮門に赴いて上書した。

臣は聞きます。仲尼(孔子)が鳳凰が来ず、黄河から図が出ないことを嘆き、自ら卑賤を悲しみ、それをもたらすことができなかったと。今、陛下はそれを実現できる位にあり、また実現できる資質をお持ちですが、和気がまだ応じず、賢愚の順序が乱れているのは、権力が権臣に分かれ、上下が遮断されているためです。四時の運行は、功を成せば退くものです。高い爵位と厚い寵愛は、災いを招かないことは稀です。今、大将軍は位の極みに達し功を成しました。至戒とすべきであり、懸車(引退)の礼に従い、高枕して精神を養うべきです。伝に言います。『木の実が繁る者は、枝を裂き心を害す』と。もし権勢の盛んなのを抑え損なわなければ、その身を全うする術がなくなるでしょう。側近が臣の言葉を聞けば、横目で睨み歯ぎしりするでしょうが、臣は特に幼少の頃から抜擢されたので、敢えて忌憚を忘れて申し上げます。昔、舜と禹は互いに丹朱のようであってはならないと戒め、周公は成王に殷の王紂のようであってはならないと戒めました。誹謗の罪を除き、天下の口を開かれることを願います。

上書が皇帝に奏上されると、梁冀はそれを聞き、密かに人を遣わして袁著を捕らえさせた。袁著は姓名を変え、後に病気と偽って死んだとし、蒲で人形を作り、棺を買って葬儀を行った。梁冀は探りを入れてその偽りを知り、密かに捕らえさせ、鞭打ち殺し、その事実を隠蔽した。学生の桂陽の劉常は当世の名儒で、元より袁著と親しかったが、梁冀は彼を召し出して令史に補任して辱めた。その時、太原の郝絜と胡武は、皆厳しい言葉で高い議論をし、袁著と親しかった。以前、郝絜らは連名で三府に奏記し、天下の高士を推薦したが、梁冀のところには行かなかった。梁冀は怒りを募らせ、また袁著の仲間と疑い、中部官に命じて檄を移し、以前の奏記者を捕らえて共に殺させ、ついに胡武の一家を誅し、死者は六十余人に上った。郝絜は最初逃亡したが、免れられないと悟り、棺車に乗って梁冀の門前で上書した。上書が中に入ると、仰いで毒を飲んで死に、家族はようやく全うされた。梁冀が誅殺された後、詔があり礼をもって袁著らを祀った。梁冀の残忍で猜疑心の強いことは、皆この類いであった。

梁不疑は経書を好み、士人を厚く遇した。梁冀は内心これを憎み、中常侍を通じて帝に言い、光禄勲に転任させ、さらに人々に勧めて共にその子の梁胤を河南尹に推薦させた。梁胤は別名を胡狗といい、当時十六歳で、容貌は甚だ醜く、冠帯を着けるに耐えず、道で見る者は、あざ笑わない者はいなかった。梁不疑は兄弟に不和があることを自ら恥じ、遂に官位を譲って邸に帰り、弟の梁蒙と共に門を閉じて自らを守った。梁冀は彼らが賓客と交際するのを望まず、密かに人に変装させて門に行かせ、往来する者を記録させた。南郡太守の馬融と江夏太守の田明は、初めて任命された時、梁不疑を訪ねて挨拶した。梁冀は州郡に勧めて別の事で彼らを陥れ、皆髪を剃り鞭打ちの刑に処し朔方に流した。馬融は自ら刺して死なず、田明は遂に道中で死んだ。

永興二年、

梁不疑の子の梁馬を潁陰侯に、梁胤の子の梁桃を城父侯に封じた。梁冀の一門は前後七人が侯に封ぜられ、三人が皇后、六人が貴人、二人が大将軍、夫人や女で食邑を称する君が七人、公主を娶った者が三人、その他卿、将、尹、校が五十七人に上った。在位二十余年、極限まで満ち栄え、威勢は内外に行き渡り、百官は横目で見るだけで、敢えて命令に背く者はなく、天子は恭しく自らを慎むだけで、親しく関与することができなかった。

帝はすでにこれを快く思わなかった。延熹元年、太史令の陳授が小黄門の徐璜を通じて、災異や日食の変異を述べ、その咎は大将軍にあると陳べた。梁冀はこれを聞き、洛陽令に勧めて陳授を捕らえ尋問させ、獄中で死なせた。帝はこれによって怒りを発した。

初め、掖庭の人鄧香の妻の宣が娘の猛を生んだ。鄧香が死ぬと、宣はさらに梁紀に再嫁した。梁紀とは、梁冀の妻の孫寿の母方の叔父である。孫寿は猛を引き入れて掖庭に入れ、寵愛を受けて貴人となった。梁冀は猛を自分の娘と認めようとして自らの地位を固めようとし、猛の姓を梁に変えさせた。その時、猛の姉の夫の邴尊が議郎であった。梁冀は邴尊が宣の意思を挫くのを恐れ、偃城で刺客を雇い、邴尊を刺殺し、さらに宣をも殺そうとした。宣の家は延熹里にあり、中常侍の袁赦と隣り合っていた。梁冀は刺客に袁赦の屋根に登らせ、宣の家に入ろうとした。袁赦がそれに気づき、太鼓を鳴らして人々を集め宣に知らせた。宣は急いで宮中に入り帝に報告した。帝は大いに怒り、遂に中常侍の単超、具瑗、唐衡、左悺、徐璜ら五人と謀りを成して梁冀を誅殺することにした。詳細は『宦者伝』にある。

梁冀は超らを疑い、中黄門の張惲を派遣して宮中に入り宿直させ、変事を防ごうとした。具瑗は役人に命じて張惲を逮捕させ、外から勝手に入り込んで不軌を図ったとして、帝はこれにより前殿に臨み、諸尚書を召し入れて事を発し、尚書令の尹勛に節を持たせて丞郎以下に命じ、皆武器を取って省閣を守らせ、諸々の符節を集めて省中に送らせた。黄門令の具瑗に左右の厩騶・虎賁・羽林・都候の戟士を率いさせ、合わせて千余人とし、司隸校尉の張彪と共に梁冀の邸宅を包囲させた。光禄勲の袁盱に節を持たせて梁冀の大将軍の印綬を没収させ、比景都郷侯に移封させた。梁冀と妻の孫寿は即日ともに自殺した。子の河南尹の梁胤、叔父の屯騎校尉の梁譲、および親族の従兄弟である衛尉の梁淑、越騎校尉の梁忠、長水校尉の梁戟らをことごとく捕らえ、諸梁および孫氏の内外の宗族親戚を詔獄に送り、老若を問わず皆市で処刑した。梁不疑と梁蒙は先に死去していた。その他連座して処刑された公卿・列校・尉刺史・二千石は数十人に上り、故吏や賓客で免職・罷免された者は三百余人に及び、朝廷は空となり、ただ尹勛・袁盱および廷尉の邯鄲義だけが残った。この時、事変は突然宮中から起こり、使者が行き交い、公卿は平常心を失い、官府や市街は沸き立ち、数日してようやく鎮まり、百姓はこぞって慶賀した。

梁冀の財貨を没収し、朝廷が売り払った総額は三十余億万に上り、これを王府の財源とし、天下の税租を半減するのに充てた。その苑囿を開放して、貧民の生業とした。梁冀誅殺の功績を記録し、尚書令の尹勛以下数十人を封じた。

史論

論じて言う。順帝の世、梁商は賢明な補佐役と称えられたが、それはその地位が高く満ちていたにもかかわらず、謹んで自らの終わりを全うできたからであろうか。宰相は枢機を動かし、天と人を感応させ、道に適えば政を興すのは容易だが、務めに背けば物事を治めるのは難しい。梁商は天を回す勢いを合わせ持ち、衰微の時期に当たったが、朝廷を正し患いを憂えることについては、優れた事績を聞かず、憔悴した声だけが人々の口に謡われた。たとえ車に積んだ粟が門に満ちても、飢饉の苦難を救うことなどできず、終生の制度を語っても、職務を怠る罪を解くことはできない。ましてや傾いて佞臣に与し、寵愛を凶悪な後継者に伝え、ついには家を破り国を傷つけるに至ったのである。これは決して偶然ではなかった。

史贊

賛に曰く、河西において漢を輔け、統もまた謀を定む。褒親は幽憤を抱き、高きに昇りて累ねて嘆く。商は善柔を恨み、冀は遂に貪乱す。