後漢書

巻三十三

巻三十三

樊宏と陰識の列伝

原文樊宏陰識列傳

朱馮虞鄭周列傳

原文朱馮虞鄭周列傳

第二十三

原文第二十三

梁統列傳

原文梁統列傳

朱浮

原文朱浮

朱浮は字あざなを叔元といい、沛国蕭県の人である。初め光武帝に従って大司馬主簿となり、偏将軍に昇進し、光武帝に従って邯鄲を攻め落とした。光武帝が呉漢を派遣して更始帝の幽州牧苗曾を誅殺すると、朱浮を大將軍幽州牧に任命し、薊城を守備させ、ついに北方の辺境を討伐平定させた。建武二年、舞陽侯に封ぜられ、三県を食邑とした。

原文朱浮字叔元,沛國蕭人也。初從光武為大司馬主簿,遷偏將軍,從破邯鄲。光武遣吳漢誅更始幽州牧苗曾,乃拜浮為大將軍幽州牧,守薊城,遂討定北邊。建武二年,封舞陽侯,食三縣。

朱浮は若くして才能があり、大いに風紀を正し士人の心を収めようとし、州内の名士である涿郡の王岑らを招聘して従事とし、また王莽の時代の旧臣で二千石の官にあった者たちを皆幕府に引き入れた。そして多くの郡の倉庫の穀物を徴発して、彼らの妻子に給与した。漁陽太守の彭寵は、天下がまだ定まらず、軍隊がちょうど動き出したばかりであるのに、多くの官属を置いて軍需物資を損なうのは適切でないと考え、その実情に従わなかった。朱浮は性格が傲慢でせっかちで自惚れが強く、大いに不満を抱き、厳しい文章で誹謗した。彭寵もまた強情で、自分の功績に満足せず、恨みと不満が次第に積もっていった。朱浮は密かに上奏して、彭寵が役人をやって妻を迎えに行かせたのに母を迎えに行かせなかったこと、また賄賂を受け取り友人を殺害したこと、多くの兵士と穀物を集めており、その意図は計り知れないと述べた。彭寵はもともと恨みを積んでいたが、これを聞いて大いに怒り、兵を挙げて朱浮を攻撃した。朱浮は手紙を送って彼を責めて言った。

原文浮年少有才能,頗欲厲風跡,收士心,辟召州中名宿涿郡王岑之屬,以為從事,及王莽時故吏二千石,皆引置幕府,乃多發諸郡倉穀,稟贍其妻子。漁陽太守彭寵以為天下未定,師旅方起,不宜多置官屬,以損軍實,不從其實。浮性矜急自多,頗有不平,因以峻文詆,寵亦狠強,歉負其功,嫌怨轉積。浮密奏寵遣吏迎妻而不迎其母,又受貨賄,殺害友人,多聚兵穀,意計難量。寵既積怨,聞之,遂大怒,而舉兵攻浮。浮以書質責之曰:

聞くところによれば、知者は時勢に順応して謀り、愚者は道理に逆らって動くという。私は常にひそかに、京城の太叔(共叔段)が足ることを知らず、賢い補佐もいなかったために、ついに鄭国において自滅したことを悲しんでいた。

原文蓋聞知者順時而謀,愚者逆理而動,常竊悲京城太叔以不知足而無賢輔,卒自棄於鄭也。

伯通(彭寵の字)は名声をもって郡を治め、天子即位を助ける功績があり、民に臨み職務に親しみ、倉庫を愛惜している。一方、私(朱浮)は征伐の任を執り、一時的な権宜で危急を救おうとしている。両者とも国のためである。もし私があなたを讒言したと疑うなら、どうして宮廷に赴いて自ら陳述せず、一族滅亡の計略を立てるのか。朝廷の伯通に対する恩もまた厚い。大郡を委ね、威武の任を負わせ、事には柱石としての信頼を寄せ、情けは子孫に対する親愛の情と同じである。一介の男や下女でさえ、一食の恩に命を懸けることができるのに、どうして三つの綬を帯び、大邦を治める職務にありながら、恩義を顧みず、外に叛く心を起こす者があろうか。伯通が役人や民衆と話すとき、どのような顔をすればよいのか。歩き、拝礼し、起き上がるとき、どのような容貌を保てばよいのか。座り臥して考えるとき、どのような心でいればよいのか。鏡を手に取り影を覗くとき、どのように眉目を施せばよいのか。行動を起こし功績を立てる時、どのように人として振る舞えばよいのか。惜しいことだ、美しい名声を捨てて、梟や鴟のような逆賊の謀略を企て、代々伝わる幸運な地位を投げ捨てて、破滅という重い災いを招き、堯や舜の道を高らかに論じながら、桀や紂の性質を忍ぶことができず、生きている間は世の笑いものとなり、死んでからは愚かな鬼となるとは、哀れではないか。

原文伯通以名字典郡,有佐命之功,臨人親職,愛惜倉庫,而浮秉征伐之任,欲權時救急,二者皆為國耳。即疑浮相譖,何不詣闕自陳,而為族滅之計乎?朝廷之於伯通,恩亦厚矣,委以大郡,任以威武,事有柱石之寄,情同子孫之親。匹夫媵母尚能致命一餐,豈有身帶三綬,職典大邦,而不顧恩義,生心外畔者乎!伯通與吏人語,何以為顏?行步拜起,何以為容?坐臥念之,何以為心?引鏡窺影,何施眉目?舉措建功,何以為人?惜乎棄休令之嘉名,造梟鴟之逆謀,捐傳世之慶祚,招破敗之重災,高論堯、舜之道,不忍桀、紂之性,生為世笑,死為愚鬼,不亦哀乎!

伯通は耿俠遊(耿況)と共に立ち上がって天子即位を助け、同じく国の恩恵を受けた。俠遊は清廉で謙譲し、何度も謙遜した言葉を述べている。しかし伯通は自ら功績を誇り、天下で自分の功績が高いと思っている。昔、遼東に豚がいて、白い頭の子を産み、珍しいと思って献上しようとした。河東まで行くと、群れをなす豚が皆白いのを見て、恥ずかしさを抱いて帰ってきた。もしあなたの功績を朝廷で論じれば、それは遼東の豚のようなものだ。今、あなたは愚かにも妄りに、自分を戦国六国に比している。六国の時代は、その勢力がそれぞれ盛んで、数千里の土地を広げ、勝兵は百万に近く、それゆえに国を拠って互いに持ちこたえ、多くの年月を経ることができた。今、天下はどれほどの広さか。郡はいくつ、城はいくつあるのか。どうしてわずかな漁陽をもって天子と怨みを結ぶのか。これはちょうど、黄河のほとりの人が土を捧げて孟津を塞ごうとするようなもので、その量を知らないことがよく分かる。

原文伯通與耿俠遊俱起佐命,同被國恩。俠遊廉讓,屢有降挹之言;而伯通自伐,以為功高天下。往時遼東有豕,生子白頭,異而獻之,行至河東,見群豕皆白,懷慚而還。若以子之功論於朝廷,則為遼東豕也。今乃愚妄,自比六國。六國之時,其勢各盛,廓土數千里,勝兵將百萬,故能據國相持,多歷年世。今天下幾里,列郡幾城,奈何以區區漁陽而結怨天子?此猶河濱之人捧土以塞孟津,多見其不知量也!

今、天下はちょうど平定され、海内は安寧を願っており、士人は賢者も不肖者も皆、世に名を立てることを喜んでいる。しかし伯通だけが狂ったように走り回り、自ら盛んな時代を捨て、内では驕った妻の誤った計画を聞き入れ、外では讒言する邪な追従の言葉を信じ、長く諸侯の悪しき手本となり、永遠に功臣の戒めとなろうとしている。なんと誤っていることか。天下を平定する者に私的な恨みはない。以前の事柄で自らを誤らせないでほしい。どうか老いた母と幼い弟のことを顧みてほしい。およそ事を起こすにあたっては、親しい者に痛まれるようなことをせず、仇敵に快哉を叫ばせるようなことをしてはならない。

原文方今天下適定,海內願安,士無賢不肖,皆樂立名於世。而伯通獨中風狂走,自捐盛時,內聽驕婦之失計,外信讒邪之諛言,長為群後惡法,永為功臣鑒戒,豈不誤哉!定海內者無私仇,勿以前事自誤,願留意顧老母幼弟。凡舉事無為親厚者所痛,而為見仇者所快。

彭寵は手紙を受け取るとますます怒り、朱浮への攻撃を一層激しくした。翌年、涿郡太守の張豊もまた兵を挙げて反乱した。

原文寵得書愈怒,攻浮轉急。明年,涿郡太守張豐亦舉兵反。

当時、二郡が背き反抗し、北方の州は憂い恐れた。朱浮は天子が必ず自ら兵を率いて討伐に来ると考えていたが、ただ遊撃将軍の鄧隆がひそかに朱浮を助けるために派遣されただけだった。朱浮は恐れを抱き、皇帝が敵に対して怠慢で、自分を救えないと考え、上疏して言った。

原文時,二郡畔戾,北州憂恐,浮以為天子必自將兵討之,而但遣遊擊將軍鄧隆陰助浮。浮懷懼,以為帝怠於敵,不能救之,乃上疏曰:

昔、楚と宋は列国であり、ともに諸侯であったが、荘王は宋が使者を拘束したことを理由に、袖を振るって出陣する軍を起こした。魏の公子は友人の要請を顧みて、強秦の矛先に身をさらした。楚や魏には、職分を分けて匡正する大義があったわけではなく、荘王はただ強さを争って憤りを発しただけであり、公子は一言で信義を立てたに過ぎない。今、彭寵は反乱を起こし、張豊は節義に背いているのに、陛下は必ず他の事を捨てて、時機をとらえて彼らを滅ぼすだろうと思っていたが、すでに月日が経っても、音沙汰がない。城を包囲されても救わず、逆賊を放って討伐しないのは、臣は誠に理解に苦しむ。昔、高祖は聖武であり、天下が平定された後も、なお自ら征伐に赴き、安穏に過ごしたことはなかった。陛下は大業を興されたが、海内はまだまとまっておらず、ただ安逸を貪り、北方の辺境を顧みないので、百姓は不安で、心のよりどころがない。三河や冀州の地が、どうして後世に伝えられるだろうか。今、秋の穀物はすでに実っているのに、また漁陽に掠奪されている。張豊は狂乱して道理に背き、奸党は日増しに増え、連年防戦を続け、官吏や兵士は疲労し、甲冑にはシラミがわき、弓弩を使うこともできず、上下とも心を焦がし、救護を待ち望み、陛下の生かしてくださる恩恵を仰ぎ望んでいる。

原文昔楚、宋列國,俱為諸侯,莊王以宋執其使,遂有投袂之師。魏公子顧朋友之要,觸冒強秦之鋒。夫楚、魏非有分職匡正之大義也,莊王但為爭強而發忿,公子以一言而立信耳。今彭寵反畔,張豐逆節,以為陛下必棄捐它事,以時滅之,既歷時月,寂寞無音。從圍城而不救,放逆虜而不討,臣誠惑之。昔高祖聖武,天下既定,猶身自征伐,未嘗寧居。陛下雖興大業,海內未集,而獨逸豫,不顧北垂,百姓遑遑,無所繫心。三河、冀州,曷足以傳後哉!今秋稼已熟,復為漁陽所掠。張豐狂悖,姦黨日增,連年拒守,吏士疲勞,甲冑生蟣蝨,弓弩不得施,上下焦心,相望救護,仰希陛下生活之恩。

詔書で答えて言った。『往年、赤眉が長安で跋扈した時、私は彼らが食糧がなく必ず東へ来ると予測し、果たして帰順してきた。今、この反逆者たちの情勢を考えると、長くは保たないだろう。その中には必ず内部で互いに斬り合う者がいるはずだ。今、軍の物資がまだ十分でないので、麦の収穫を待たねばならないのだ。』朱浮の城中では食糧が尽き、人々は互いに食い合った。ちょうど上谷太守の耿況が騎兵を派遣して朱浮を救いに来たので、朱浮はようやく逃げ出すことができた。南へ良郷に至ると、その兵士の長が逆に遮ったので、朱浮は逃げられないと思い、馬から下りて妻を刺し殺し、かろうじて身一つで免れた。城は彭寵に降伏した。尚書令の侯霸が上奏して、朱浮が幽州を敗乱させ、彭寵の罪をでっち上げ、軍師を徒労させ、節義を守って死ななかった罪は、誅殺に値するとした。帝は忍びず、朱浮を賈復に代えて執金吾とし、父城侯に封じ替えた。後に張豊と彭寵はともに自滅した。

原文詔報曰:『往年赤眉跋扈長安,吾策其無穀必東,果來歸降。今度此反虜,勢無久全,其中必有內相斬者。今軍資未充,故須後麥耳。』浮城中糧盡,人相食。會上谷太守耿況遣騎來救浮,浮乃得遁走。南至良鄉,其兵長反遮之,浮恐不得脫,乃下馬刺殺其妻,僅以身免,城降於寵,尚書令侯霸奏浮敗亂幽州,構成寵罪,徒勞軍師,不能死節,罪當伏誅。帝不忍,以浮代賈復為執金吾,徙封父城侯。後豐、寵並自敗。

帝は、二千石の長吏の多くが職務に堪えられず、時に些細な過ちがあれば必ず罷免されるため、人事の交代が頻繁で混乱し、百姓が安寧でないことを憂いた。建武六年、日食の異変があったので、朱浮は上疏して言った。

原文帝以二千石長吏多不勝任,時有纖微之過者,必見斥罷,交易紛擾,百姓不寧。六年,有日食之異,浮因上疏曰:

臣は聞く。太陽は衆陽の宗であり、君主の位である。およそ官に就いて民を治め、郡を治め県を治める者は、皆陽であり上であり、尊であり長である。もし陽上(君主)が明らかでなく、尊長が十分でなければ、三光(日月星)を干犯し動かし、王者に示す。五典は国家の政を記し、『洪範』は災異の文を区別し、皆天道を明らかに宣べて、来るべき事を徴するものである。陛下は海内が新たに禍毒に遭ったことを哀れみ、生民を保護し赦して、蘇生させておられる。しかし今、民を治める官吏は多くが職にふさわしくなく、わずかに道理や実情に背いただけで、すぐに罷免される。これはまさに白黒がはっきりしていると言えよう。しかし、堯や舜の盛んな時代でも、なお三度の考課を行い、大漢が興った時も、功績を積み重ね、官吏は皆長く在職し、官職で老いを養い、ついには子孫の名とし、氏姓としたのである。当時の官吏の職務が、どうしてすべて道理にかなっていただろうか。議論する者たちが、騒がしくなかっただろうか。およそ天地の功業は急に成し遂げられるものではなく、困難な事業は日を重ねるべきものと考えられていたからである。ところが近ごろは太守や県令がたびたび交代し、新しい者を迎えて代え、道路を疲労させる。その職務に就いて日が浅く、まだその職務ぶりが十分に明らかでないうちに、厳しく追及されれば、人は自らを保てず、それぞれ顧みて望み、自ら安んじる心がない。役人は時に些細な恨みで私怨を晴らし、無理に長所短所を求め、上の意に媚びる。二千石や長吏は挙劾を迫られ、誹謗を恐れるので、争って詐偽を飾り、虚誉を求める。これらは皆、群陽が騒動し、日月が運行を失った応報である。物事が急激に成長するものは必ず夭折し、功績が突然完成するものは必ずすぐに壊れる。長く続く事業を壊して、速成の功績を作ることは、陛下の福ではない。天下は一時の用のためではなく、海内は一日の功業ではない。願わくば陛下には、数年先に思いを巡らせ、一世の後に教化の達成を望まれますように。天下は幸甚である。

原文臣聞日者眾陽之所宗,君上之位也。凡居官治民,據郡典縣,皆為陽為上,為尊為長。若陽上不明,尊長不足,則干動三光,垂示王者。五典紀國家之政,《鴻範》別災異之文,皆宣明天道,以徵來事者也。陛下哀憫海內新罹禍毒,保宥生人,使得蘇息。而今牧人之吏,多未稱職,小違理實,輒見斥罷,豈不粲然黑白分明哉!然以堯、舜之盛,猶如三考,大漢之興,亦累功效,吏皆積久,養老於官,至名子孫,因為氏姓。當時吏職,何能悉理;論議之徒,豈不喧嘩。蓋以為天地之功不可倉卒,艱難之業當累日也。而間者守宰數見換易,迎新相代,疲勞道路。尋其視事日淺,未足昭見其職,既加嚴切,人不自保,各自顧望,無自安之心。有司或因睚眥以騁私怨,苟求長短,求媚上意。二千石及長吏迫於舉劾,懼於刺譏,故爭飾詐偽,以希虛譽。斯皆群陽騷動,日月失行之應。夫物暴長者必夭折,功卒成者必亟壞,如摧長久之業,而造速成之功,非陛下之福也。天下非一時之用也,海內非一旦之功也。願陛下遊意於經年之外,望化於一世之後,天下幸甚。

帝はこの議論を臣下に下し、群臣の多くは朱浮に同調した。これ以後、州牧や太守の交代はかなり簡素化された。

原文帝下其議,群臣多同於浮,自是牧守易代頗簡。

旧制では、州牧が二千石の長吏が職務に堪えないと上奏する場合、事柄はすべてまず三公に下され、三公が掾史を派遣して調査検証し、その後罷免した。帝の時代は明察を用い、もはや三府に委任せず、権限は刺挙を行う官吏に帰した。朱浮はまた上疏して言った。『陛下は清明で約束を守り、礼に従って背くことがなく、宗室の諸王から外戚の後親に至るまで、皆規矩に従い、党派や勢力の名はない。ある者は牛車に乗り、平民と同等である。これはまさに法令が整い、下の者が威張ることがないからである。事を求めるなら、平和であるべきなのに、災異がなお現れるのは、どうして無意味だろうか。天道は誠実であり、よく察する必要がある。臣はひそかに、陛下が以前は上の威令が行き届かず、国命が専断されなかったことを憂い、即位以来、旧典を用いず、刺挙の官を信頼し、鼎輔(三公)の任を退け、弾劾上奏があればすぐに免職し、再審査も三府に関わらず、罪の譴責も明らかに調査されないことを見ております。陛下は使者を腹心とし、使者は従事を耳目とする。これは尚書の公平な判断が、百石の小吏に決せられることであり、だから臣下は厳しく、各自が才能を競う。さらに私情で長所を容認し、憎愛が職務に影響し、皆競って空虚なことを誇張して、時の利益を求める。だから罪ある者は心から服さず、咎のない者は理由なく文書で罪に落とされ、盛衰を経ることができず、後世の王に禍根を残す。事柄は積み重なれば自然に重みを増し、官吏が安らかであれば人々は自然に静かになる。伝に言う。「五年に再び閏月があって、天道は備わる。」天地の霊妙さをもってしても、なお五年かけてその化育を成すのに、まして人道においてはどうだろうか。臣の朱浮は愚かで頑なですが、倦むことなく願います。陛下には千里の任に心を留め、偏った言い分の上奏をよくお調べください。』

原文舊制,州牧奏二千石長吏不任位者,事皆先下三公,三公遣掾史案驗,然後黜退。帝時用明察,不復委任三府,而權歸刺舉之吏。浮復上疏曰:『陛下清明履約,率禮無違,自宗室諸王、外家後親,皆奉遵繩墨,無黨勢之名。至或乘牛車,齊於編人。斯固法令整齊,下無作威者也。求之於事,宜以和平,而災異猶見者,而豈徒然?天道信誠,不可不察。竊見陛下疾往者上威不行,不專國命,即位以來,不用舊典,信刺舉之官,黜鼎輔之任,至於有所劾奏,便加免退,覆案不關三府,罪譴不蒙澄察。陛下以使者為腹心,而使者以從事為耳目,是為尚書之平,決於百石之吏,故群下苛刻,各自為能。兼以私情容長,憎愛在職,皆競張空虛,以要時利,故有罪者心不厭服,無咎者坐被空文,不可經盛衰,貽後王也。夫事積久則自重,吏安則人自靜。傳曰:「五年再閏,天道乃備。」夫以天地之靈,猶五載以成其化,況人道哉!臣浮愚戇,不勝惓惓,願陛下留心千里之任,省察偏言之奏。』

建武七年、太僕に転任した。朱浮はまた、国学がすでに興ったので、博士の選抜を広げるべきだと上書して言った。

原文七年,轉太僕。浮又以國學既興,宜廣博士之選,乃上書曰:

太学というものは、礼義の官であり、教化が起こる所である。陛下は先聖を尊敬し、古典に心を留められ、宮室はまだ飾られず、干戈はまだ休まないのに、まず太学を建て、学舎を進めて立てられ、連日車駕を親しく臨ませて観覧し饗宴され、時世を和らげる教化を広め、勉学を進める功績を顕わそうとされている。思うに博士の官は、天下の宗師であり、孔聖の言葉を伝えて絶やさないようにするものである。旧来の慣例では、博士を策試する時は、必ず広く求め詳しく選び、京畿から四方にまで及んだ。それゆえ博く明経を挙げ、賢者だけを登用し、学者は精励し、遠近ともに同じく慕った。詔書でさらに五人を試験すると聞いたが、ただ現在洛陽城にいる者だけを取るとのことである。臣は恐れる。これから先、失うものがあるのではないかと。近くで求めるだけでは、あるいは十分でないかもしれず、四方の学問に励む者に、何の励みも楽しみもない。およそ策試の根本は、真実を得ることを貴び、期日を決めて遠方の者を除外するものではない。また、諸々の徴用試験は、皆私的に発遣するのであって、事柄に損害や煩わしさがあるわけではない。言葉に言う。「中国で礼を失えば、野に求める。」臣の朱浮は幸いにも図讖としんの講義に与ることができたので、敢えて職分を越えて申し上げる。

原文夫太學者,禮義之官,教化所由興也。陛下尊敬先聖,垂意古典,宮室未飾,干戈未休,而先建太學,進立橫舍,比日車駕親臨觀饗,將以弘時雍之化,顯勉進之功也。尋博士之官,為天下宗師,使孔聖之言傳而不絕。舊事,策試博士,必廣求詳選,爰自畿夏,延及四方,是以博舉明經,惟賢是登,學者精勵,遠近同慕,伏聞詔書更試五人,惟取見在洛陽城者。臣恐自今以往,將有所失。求之密邇,容或未盡,而四方之學,無所勸樂。凡策試之本,貴得其真,非有期會,不及遠方也。又諸所徵試,皆私自發遣,非有傷費煩擾於事也。語曰:『中國失禮,求之於野。』臣浮幸得與講圖讖,故敢越職。

帝はこれを認めた。

原文帝然之。

建武二十年、竇融に代わって大司空となった。二十二年、国恩を売り弄いだ罪で免職された。二十五年、新息侯に封じ替えられた。

原文二十年,代竇融為大司空,二十二年,坐賣弄國恩免。二十五年,徙封新息侯。

帝は朱浮が同列を陵轢するのを、常に恨みに思っていたが、その功績と能力を惜しみ、罪を加えるに忍びなかった。永平年間、ある者が単独の言葉で朱浮のことを告発した。顕宗は大いに怒り、朱浮に死を賜った。長水校尉の樊鯈が帝に言った。『唐堯のような大聖人でも、兆民がその所を得た後、なお四凶の獄事を悠々と行い、海内の心を服させ、天下に皆知らせた後で、ようやく誅罰した。朱浮の事は明らかではあるが、まだ人々の耳に達していない。廷尉に下し、その事柄を文書で明らかにすべきです。』帝もまたこれを悔いた。

原文帝以浮陵轢同列,每銜之,惜其功能,不忍加罪。永平中,有人單辭告浮事者,顯宗大怒,賜浮死。長水校尉樊鯈言於帝曰:『唐堯大聖,兆人獲所,尚優遊四凶之獄,厭服海內之心,使天下咸知,然後殛罰。浮事雖昭明,而未達人聽,宜下廷尉,章著其事。』帝亦悔之。

論じるに、呉起が田文と功績を論じた際、田文が及ばない点が三つあり、朱買臣が公孫弘に十の策を難じたが、公孫弘はその一つも得られなかった。しかし結局、田文は魏の宰相となり、公孫弘は漢の宰相となった。まことに宰相にはそれ相応の在り方があることを知っていたのである。故に曾子は言った、『君子が道において貴ぶところは三つあり、籩豆(祭祀の器)のような細事は役人が担当する』と。ところが光武帝と明帝は自ら吏事を好み、また三公を考課・査定したため、その人物が失脚すると礼遇も次第に薄くなり、誅殺・斥退・詰責・侮辱の憂き目に遭う者さえ出た。職務を任せて過失を責めることが、ここまで至ったのである。賈誼の論を追想すれば、その言はまことに重いと言わざるを得ない。朱浮が苛察で性急な弊害を風刺したのは、もっともなことであるが、どうして長者の言葉を得ることができようか。

原文論曰:吳起與田文論功,文不及者三,朱買臣難公孫弘十策,弘不得其一,終之田文相魏,公孫宰漢,誠知宰相自有體也。故曾子曰:『君子所貴乎道者三,籩豆之事則有司存。』而光武、明帝躬好吏事,亦以課核三公,其人或失而其禮稍薄,至有誅斥詰辱之累。任職責過,一至於此,追感賈生之論,不亦篤乎!朱浮譏諷苛察欲速之弊,然矣,焉得長者之言哉!

馮魴

原文馮魴

馮魴は字を孝孫といい、南陽郡湖陽県の人である。その祖先は魏の分家で、馮城に采邑を与えられ、それによって馮氏を名乗った。秦が魏を滅ぼすと、湖陽に移住し、郡内の名族となった。

原文馮魴字孝孫,南陽湖陽人也。其先魏之支別,食采馮城,因以氏焉。秦滅魏,遷於湖陽,為郡族姓。

王莽の末期、四方で反乱が起こると、馮魴は賓客を集め、豪傑を招き、塁壕を築いて営を構え、帰依すべき所を待った。この時、湖陽の大姓である虞都尉が城で反旗を翻し、まず同県の申屠季と仇があり、その兄を殺し、季の一族を滅ぼそうと謀った。季は逃亡して馮魴のもとに帰った。馮魴は季を連れてその家に戻ろうとしたが、途中で都尉の従弟の長卿が来て、季を捕らえようとした。馮魴は長卿を叱って言った、『私は季と以前からの付き合いはないが、士が窮して帰って来た以上、命をかけて引き受けるべきだ。お前は何を言うのか』。そして季とともに帰った。季は謝して言った、『恩を受けて命が助かりました。死んでも報いることができません。牛馬や財物がありますので、全て献上したいと思います』。馮魴は顔色を変えて言った、『私の年老いた親と幼い弟は皆、賊の城の中にいる。今日、君と共にいることすら顧みる余裕がないのに、どうして財物のことを言うのか』。季は恥じて二度と言わなかった。馮魴はこれによって県や邑から敬われ信頼されるようになり、故に営を拠点として自らを固守することができた。

原文王莽末,四方潰畔,魴乃聚賓客,招豪桀,作營塹,以待所歸。是時湖陽大姓虞都尉反城稱兵,先與同縣申屠季有仇,而殺其兄,謀滅季族。季亡歸魴,魴將季欲還其宮,道逢都尉從弟長卿來,欲執季。魴叱長卿曰:『我與季雖無素故,士窮想歸,要當以死任之,卿為何言?』遂與俱歸。季謝曰:『蒙恩得全,死無以為報,有牛馬財物,願悉獻之。』魴作色曰:『吾老親弱弟皆在賊城中,今日相與,尚無所顧,何云財物乎?』季慚不敢復言。魴自是為縣邑所敬信,故能據營自固。

当時、天下はまだ定まっておらず、四方の士で兵を擁して勝手に名乗りを上げる者は非常に多かったが、馮魴だけは自らを守り、さらに方策にも長けていた。光武帝はこれを聞いて賞賛し、建武三年に皇帝の行在所に召し出し、雲台で謁見させ、虞県の令に任命した。政治においては敢然と殺伐を行い、威厳と信義で称えられた。郟県の令に転任した。後に皇帝の車駕が西征して隗囂を討つと、潁川で盗賊が群起し、郟県の賊である延褒ら三千余人が県舎を包囲攻撃した。馮魴は吏士七十人ほどを率いて連日力戦したが、弩矢が尽き、城は陥落し、馮魴は逃げ去った。帝は郡国が反乱したと聞くと、すぐに潁川へ駆けつけ、馮魴は行在所に赴いた。帝は戦闘の跡を検分し、馮魴が力戦したことを知ると、これを賞賛して言った、『これは健気な令である。討伐すべき対象については、州郡の制約に拘るな』。延褒らは帝が到着したと聞くと、皆自ら髪を剃り、斧と鉄の台を背負い、その配下を率いて罪を請うた。帝は一旦これを赦し、馮魴に命じて諸々の集落を転々と説得させて降伏させ、県内が平定された後、詔によって延褒らを全て馮魴に返して誅殺させた。馮魴は軍法に基づいて責め立てると、彼らは皆叩頭して言った、『今日誅殺されても、死んでも恨みはありません』。馮魴は言った、『お前たちが悔い改めて罪に服することを知った。今、一切を赦す。それぞれ農耕に戻り、この令の耳目となれ』。皆は万歳と叫んだ。この時以来、盗賊が起こるたびに、皆、延褒らが密告したため、敢えて動く者はいなくなり、県内は清らかで静かになった。

原文時天下未定,而四方之士擁兵矯稱者甚眾,唯魴自守,兼有方略。光武聞而嘉之,建武三年,徵詣行在所,見於雲臺,拜虞令。為政敢殺伐,以威信稱。遷郟令。後車駕西征隗囂,潁川盜賊群起,郟賊延褒等眾三千餘人,攻圍縣舍,魴率吏士七十許人,力戰連日,弩矢盡,城陷,魴乃遁去。帝聞郡國反,即馳赴潁川,魴詣行在所。帝案行鬥處,知魴力戰,乃嘉之曰:『此健令也。所當討擊,勿拘州郡。』褒等聞帝至,皆自髡剔,負鈇鑕,將其眾請罪。帝且赦之,使魴轉降諸聚落,縣中平定,詔乃悉以褒等還魴誅之。魴責讓以行軍法,皆叩頭曰:『今日受誅,死無所恨。』魴曰:『汝知悔過伏罪,今一切相赦,聽各反農桑,為令作耳目。』皆稱萬歲。是時每有盜賊,並為褒等所發,無敢動者,縣界清靜。

建武十三年、魏郡太守に転任した。二十七年、高い評価を得て趙憙に代わり太僕となった。中元元年、東の泰山で封禅の儀に従い、衛尉の職務を代行した。帰還後、張純に代わって司空となり、関内侯の爵位を賜った。二年、帝が崩御すると、馮魴に節を持たせて原陵の造営を監督させ、さらに楊邑郷侯に封じられ、三百五十戸を食邑とした。永平四年、隴西太守の鄧融を考課した際、姦吏の言いなりになったことを問われて策書により免官され、爵位と食邑を削られた。六年、顕宗(明帝)が魯に幸すると、再び衛尉の職務を代行した。七年、陰嵩に代わって執金吾となった。

原文十三年,遷魏郡太守。二十七年,以高等入代趙憙為太僕。中元元年,從東封岱宗,行衛尉事。還,代張純為司空,賜爵關內侯。二年,帝崩,使魴持節起原陵,更封楊邑鄉侯,食三百五十戶。永平四年,坐考隴西太守鄧融,聽任姦吏,策免,削爵士。六年,顯宗幸魯,復行衛尉事。七年,代陰嵩為執金吾。

馮魴は性格が厳格で公正であり、在職中に数々の忠言を進言し、多くが採用された。永平十四年、詔によって爵位と食邑を回復した。翌年、帝が郡国を東巡する際、馮魴を南宮に留めて宿衛させた。建初三年、老病を理由に引退を願い出て、粛宗(章帝)がこれを許した。その冬、五更に任じられ、詔によって馮魴は朝賀に参加し、列侯の位に就いた。元和二年、八十六歳で死去した。

原文魴性矜嚴公正,在位數進忠言,多見納用。十四年,詔復爵士。明年,東巡郡國,留魴宿衛南宮。建初三年,以老病乞身,肅宗許之。其冬為五更,詔魴朝賀,就列侯位。元和二年,卒,時年八十六。

子の馮柱が後を嗣いだ。顕宗(明帝)の娘である獲嘉長公主を娶り、若くして侍中となり、恭順で厳粛、謙虚で倹約であると称えられ、将作大匠の位に至った。馮柱が没すると、子の馮定が後を嗣ぎ、羽林中郎将の官に至った。馮定が没し、子がなかったため、封国は除かれた。

原文子柱嗣。尚顯宗女獲嘉長公主,少為侍中,以恭肅謙約稱,位至將作大匠。柱卒,子定嗣,官至羽林中郎將。定卒,無子,國除。

馮石の弟の馮光は、和帝の時に詔によって楊邑侯に封じられ、また馮石の寵愛によるものであり、城門校尉の官に至った。没すると、子の馮粛が後を嗣ぎ、黄門侍郎となった。

原文石弟光,和帝時詔封楊邑侯,亦以石寵,官至城門校尉。卒,子肅嗣,為黃門侍郎。

虞延

原文虞延

虞延は字を子大といい、陳留郡東昏県の人である。虞延が生まれた時、その上に一匹の練のような物があり、それが上へ昇っていった。占い師はこれを吉兆とした。成長すると、身長八尺六寸、腰回り十囲じゅうい、鼎を持ち上げるほどの力があった。若くして戸牖亭長となった。当時、王莽の貴人である魏氏の賓客が勝手気ままに振る舞っていたので、虞延は吏卒を率いてその家に突入して捕らえ、これによって恨みを買い、故に官位が上がらなかった。性格は質朴で、細かいことにこだわらず、また郷里での評判もなかった。王莽の末期、天下が大乱すると、虞延は常に甲冑を身につけ、親族を守護し、略奪者を防ぎ、そのおかげで命を全うした者は非常に多かった。虞延の従妹がまだ乳飲み子の時、その母が養育できず、溝に捨てた。虞延はその泣き声を聞き、哀れに思って拾い上げ、成人するまで育てた。建武初年、執金吾の府に仕え、細陽県令に任命された。毎年、伏祭や臘祭の時節になると、囚人を休暇で帰宅させ、それぞれ家に帰らせた。彼らは皆その恩徳に感じ入り、期日通りに戻ってきた。ある囚人が家で病気にかかり、自ら車に乗って獄に来たが、到着すると死んでしまった。虞延は掾史を率いて、獄門の外で葬儀を行い、民衆は感動して喜んだ。

原文虞延字子大,陳留東昏人也。延初生,其上有物若一匹練,遂上升上,占者以為吉。及長,長八尺六寸,要帶十圍,力能扛鼎。少為戶牖亭長。時王莽貴人魏氏賓客放從,延率吏卒突入其家捕之,以此見怨,故位不升。性敦樸,不拘小節,又無鄉曲之譽。王莽末,天下大亂,延常嬰甲冑,擁衛親族,扞禦抄盜,賴其全者甚眾。延從女弟年在孩乳,其母不能活之,棄於溝中,延聞其號聲,哀而收之,養至成人。建武初,仕執金吾府,除細陽令。每至歲時伏臘,輒休遣徒繫,各使歸家,並感其恩德,應期而還。有囚於家被病,自載詣獄,既至而死,延率掾史,殯於門外,百姓感悅之。

後に官を辞して故郷に戻ると、太守の富宗が虞延の名を聞き、功曹に任命した。富宗は性格が奢侈で、車や衣服、器物の多くが節度を超えていた。虞延は諫めて言った、『昔、晏嬰が斉を補佐した時、鹿の皮衣も完全ではなく、季文子が魯の宰相となった時、妾に絹の衣服を着せなかった。倹約によって失敗することは稀である』。富宗は不機嫌になり、虞延はすぐに辞職した。しばらくして、富宗は果たして奢侈の行いによって誅殺され、刑が執行される直前、涙をぬぐいながら嘆いて言った、『功曹の虞延の諫めを用いなかったことを悔いる』。光武帝はこれを聞いて虞延を異才と認めた。建武二十年、帝が東巡し、小黄を通りかかった。高祖(劉邦)の母である昭霊后の園陵がそこにあった。当時、虞延は部督郵であった。詔によって呼び出され謁見し、園陵のことを尋ねられた。虞延の進退は落ち着きがあり、拝礼の様子も見事で、その陵墓の樹木の本数や新芽に至るまで全てその数を熟知し、祭祀の器や犠牲についてもその礼をよく理解していた。帝はこれを良しとし、虞延に命じて魯まで車駕に従わせた。帰路、封丘の城門を通ると、門が小さく羽蓋が通らなかった。帝は怒り、侍御史を鞭打たせようとした。虞延は降りて進み出て罪を引き受け、罪は督郵にあるとした。その言葉は激しく、帝の心を動かし、詔を下して言った、『陳留の督郵虞延の故をもって、御史の罪を赦す』。虞延は車駕を見送って郡の境界まで西へ行き、銭と剣帯、佩刀を賜って郡に戻った。これによって名声は大いに高まった。

原文後去官還鄉里,太守富宗聞延名,召署功曹。宗性奢靡,車服器物,多不中節。延諫曰:『昔晏嬰輔齊,鹿裘不完,季文子相魯,妾不衣帛,以約失之者鮮矣。』宗不悅,延即辭退。居有頃,宗果以侈從被誅,臨當伏刑,攬涕而歎曰:『恨不用功曹虞延之諫!』光武聞而奇之。二十年東巡,路過小黃,高帝母昭靈后園陵在焉,時延為部督郵,詔呼引見,問園陵之事。延進止從容,占拜可觀,其陵樹株櫱,皆諳其數,俎豆犧牲,頗曉其禮。帝善之,敕延從駕到魯。還經封丘城門,門下小,不容羽蓋,帝怒,使撻侍御史,延因下見引咎,以為罪在督郵。言辭激揚,有感帝意,乃制誥曰:『以陳留督郵虞延故,貰御史罪。』延從送車駕西盡郡界,賜錢及劍帶佩刀還郡,於是聲名遂振。

建武二十三年、司徒の玉況が彼を召し出した。元旦の朝賀の時、帝は遠くから虞延を見て覚えており、小黄門を走らせて尋ねさせ、その日に公車令に任命した。翌年、洛陽令に転任した。この時、陰氏に客の馬成という者がおり、常に姦盗を働いていたので、虞延は彼を捕らえて取り調べた。陰氏が度々請願したが、請願の手紙が一通来るたびに二百回の鞭打ちを加えた。信陽侯の陰就は帝に訴え、虞延が多くの無実の者を罪に陥れていると讒言した。帝は御道の館に臨み、自ら囚人を記録した。虞延は、獄状で論ずるべき者を東に、理のない者を西に並べさせた。馬成は振り返って東へ向かおうとした。虞延は前に進んで彼を捕らえ、言った、『お前は人間の大害虫で、長く城壁や社(土地神)に依って、煙で燻されることを恐れない。今、取り調べが終わっていない。法を尽くすべきだ』。馬成は大声で無実を叫んだ。陛戟郎が戟で虞延を刺そうとしたが、虞延が叱りつけてやめさせた。帝は虞延が私心がないことを知り、馬成に言った、『お前は王法を犯し、自らその身を取ったのだ』。叱りつけて速やかに去らせた。数日後に馬成は誅殺され、これによって外戚は手を引き、法を犯す者は誰もいなくなった。県で三年間務め、南陽太守に転任した。

原文二十三年,司徒玉況辟焉。時元正朝賀,帝望而識延,遣小黃門馳問之,即日召拜公車令。明年,遷洛陽令。是時,陰氏有客馬成者,常為姦盜,延收考之。陰氏屢請,獲一書輒加篣二百。信陽侯陰就乃訴帝,譖延多所冤枉。帝乃臨御道之館,親錄囚徒。延陳其獄狀可論者在東,無理者居西。成乃回欲趨東,延前執之,謂曰:『爾人之巨蠹,久依城社,不畏熏燒。今考實未竟,宜當盡法!』成大呼稱枉,陛戟郎以戟刺延,叱使置之。帝知延不私,謂成曰:『汝犯王法,身自取之!』呵使速去。後數日伏誅,於是外戚斂手,莫敢干法。在縣三年,遷南陽太守。

永平の初め、新野の功曹鄧衍という者がいた。外戚の小侯としてしばしば朝会に参列し、その容貌や歩き方は群を抜いていた。顕宗(明帝)は彼を見て、左右の者を顧みて言った。『朕の儀容は、どうしてこの人のようであろうか。』特に車馬や衣服を賜った。しかし朱暉は、鄧衍には容姿はあるが実行が伴わないと考え、礼を加えることはなかった。帝は彼を異例に扱い、詔を下して鄧衍に南陽の功曹として自らを称し、宮門に参上するよう命じた。到着すると郎中に任じ、玄武司馬に昇進した。鄧衍は在職中に父の喪に服さなかった。帝はこれを聞き、嘆いて言った。『「人を知ることは哲であり、ただ帝だけがこれを難しくする。」この言葉は真実だ。』鄧衍は恥じて退き、これによって朱暉は明察ある者とされた。

原文永平初,有新野功曹鄧衍,以外戚小侯每豫朝會,而容姿趨步,有出於眾,顯宗目之,顧左右曰:『朕之儀貌,豈若此人!』特賜輿馬衣服。延以衍雖有容儀而無實行,未嘗加禮。帝既異之,乃詔衍令自稱南陽功曹詣闕。既到,拜郎中,遷玄武司馬。衍在職不服父喪,帝聞之,乃歎曰:『「知人則哲,惟帝難之。」信哉斯言!』衍慚而退,由是以延為明。

三年、召されて趙憙に代わって太尉となった。八年、范遷に代わって司徒となり、二府(太尉府・司徒府)の職を歴任し、十数年も特に優れた政績はなかった。ちょうど楚王劉英が謀反を企てた時、陰氏(陰皇后の一族か)が朱暉を陥れようとし、人を使って楚王の謀略に朱暉が関与していると密告した。朱暉は劉英が藩王で外戚の至親であることから、その言葉を信じず、また幽州の従事公孫弘を召し抱えようとしたが、公孫弘が楚王と通じているとして取りやめ、いずれも上奏しなかった。劉英の事件が発覚すると、詔書で厳しく責められ、朱暉は自殺した。家は非常に清貧で、子孫は寒さと飢えを免れなかった。

原文三年,徵代趙憙為太尉;八年,代范遷為司徒,歷位二府,十餘年無異政績。會楚王英謀反,陰氏欲中傷之,使人私之楚謀告延,延以英藩戚至親,不然其言,又欲辟幽州從事公孫弘,以弘交通楚王而止,並不奏聞。及英事發覺,詔書切讓,延遂自殺。家至清貧,子孫不免寒餒。

朱暉の従曾孫の朱放、字は子仲。若くして太尉楊震の門徒となり、楊震が讒言を受けて自殺すると、順帝の初め、朱放は宮門に赴き楊震の罪を追って訴えたため、これによって名を知られた。桓帝の時に尚書となり、大将軍梁冀誅殺の議論における功績により都亭侯に封じられた。後に司空となったが、水害の責任を問われて免官された。性質として宦官を憎悪したため、ついに彼らに陥れられ、霊帝の初め、長楽少府李膺らとともに党錮の事件で誅殺された。

原文延從曾孫放,字子仲。少為太尉楊震門徒,及震被讒自殺,順帝初,放詣闕追訟震罪,由是知名。桓帝時為尚書,以議誅大將軍梁冀功封都亭侯,後為司空,坐水災免。性疾惡宦官,遂為所陷,靈帝初,與長樂少府李膺等俱以黨事誅。

鄭弘

原文鄭弘

鄭弘、字は巨君、会稽郡山陰県の人である。従祖父の鄭吉は、宣帝の時に西域都護となった。鄭弘は若くして郷の嗇夫となった。太守の第五倫が春の巡行(行春)の際、彼を見て深く異才を認め、督郵に任命し、孝廉に推挙した。

原文鄭弘字巨君,會稽山陰人也。從祖吉,宣帝時為西域都護。弘少為鄉嗇夫,太守第五倫行春,見而深奇之,召署督郵,舉孝廉。

鄭弘は同郡の河東太守焦貺に師事した。楚王劉英の謀反が発覚し、上奏文に焦貺の名が引き合いに出され、焦貺は逮捕され、護送中に病気で死亡した。妻子は詔獄に閉じ込められ、数年にもわたって拷問を受けた。かつての門人や友人たちは連座を恐れ、皆名前を変えて災いを逃れようとした。しかし鄭弘だけは髪を剃り、斧と鉄の台(刑具)を背負って宮門に赴き上書し、焦貺の無罪を訴えた。顕宗(明帝)は悟り、すぐにその家族を赦した。鄭弘は自ら焦貺の遺体と妻子を送って故郷に帰し、これによって名声を高めた。

原文弘師同郡河東太守焦貺。楚王英謀反發覺,以疏引貺,貺被收捕,疾病於道亡沒,妻子閉繫詔獄,掠考連年。諸生故人懼相連及,皆改變名姓,以逃其禍,弘獨髡頭負鈇鑕,詣闕上章,為貺訟罪。顯宗覺悟,即赦其家屬,弘躬送貺喪及妻子還鄉里,由是顯名。

騶県の県令に任じられ、政治に仁恵があり、民は息をつくことができたと称賛した。淮陰太守に転任した。四度の転任を経て、建初の初め、尚書令となった。旧制では、尚書郎は任期が満了すると県長・令史・丞・尉に補任された。鄭弘は上奏して、尚書台の職務は尊いが報酬が非常に薄く、選任の際にも志望する者が少ないとし、郎を千石の県令に補任し、令史を県長とするよう請願した。帝はその意見に従った。鄭弘が前後して上奏した、王政に有益な建議はすべて南宮に記録され、故事(先例)とされた。

原文拜為騶令,政有仁惠,民稱蘇息。遷淮陰太守。四遷,建初初,為尚書令。舊制,尚書郎限滿補縣長令史丞尉。弘奏以為臺職雖尊,而酬賞甚薄,至於開選,多無樂者,請使郎補千石令,令史為長。帝從其議。弘前後所陳有補益王政者,皆著之南宮,以為故事。

平原国の相として出向し、召されて侍中に任じられた。建初八年、鄭衆に代わって大司農となった。以前、交阯七郡の貢物の輸送はすべて東冶から海路を経て行われ、風波が険しく、船の沈没が相次いでいた。鄭弘は零陵・桂陽の山道(嶠道)を開くよう上奏し、これによって平坦な道が通じ、今日に至るまで常路となった。在職二年で、節約できた費用は三億万にのぼった。当時、天下は旱魃に見舞われ、辺境では警報があり、人々の食糧は不足していたが、国庫は豊かだった。鄭弘はさらに、貢物を減らし、徭役ようえきの費用を削減して飢えた人々を救うべきだと上奏した。帝はその意見に従った。

原文出為平原相,徵拜侍中。建初八年,代鄭眾為大司農。舊交阯七郡貢獻轉運,皆從東冶汎海而至,風波艱阻,沈溺相繫。弘奏開零陵、桂陽嶠道,於是夷通,至今遂為常路。在職二年,所息省三億萬計。時歲天下遭旱,邊方有警,人食不足,而帑藏殷積。弘又奏宜省貢獻,減徭費,以利饑人。帝順其議。

元和元年、鄧彪に代わって太尉となった。当時、かつての推挙者である第五倫が司空となっており、序列が鄭弘より下だった。毎月朔日の朝見の際、鄭弘は腰を曲めて自らを卑下した。帝がその理由を尋ねて知ると、雲母の屏風を置いて両者を隔てることを許し、これによって故事となった。在職四年の時、尚書の張林が侍中竇憲に阿附し、平素から汚れた行いをしていること、また洛陽令の楊光が竇憲の賓客で、在官中に貪欲で残忍であること、ともにその地位にふさわしくないと上奏した。上奏文が提出されると、役人が楊光と旧知であったため、これを楊光に告げた。楊光が竇憲に報告し、竇憲は鄭弘が大臣として機密を漏洩したと上奏した。帝は鄭弘を詰問し、印綬を没収した。鄭弘は自ら廷尉に出頭したが、詔によって赦され出獄した。そこで骸骨を乞うて帰郷を願い出たが、許されなかった。病が重くなり、上書して陳謝し、あわせて竇憲の短所を述べた。帝は上奏文を読み、医者を遣わして鄭弘の病状を診させたが、到着した時にはすでに死去していた。臨終に際し、賜られた物をすべて返還し、妻子に命じて粗末な布衣と素木の棺で葬儀を行い、故郷に帰るよう遺言した。

原文元和元年,代鄧彪為太尉。時舉將第五倫為司空,班次在下,每正朔朝見,弘曲躬而自卑。帝問知其故,遂聽置雲母屏風,分隔其間,由此以為故事。在位四年,奏尚書張林阿附侍中竇憲,而素行臧穢,又上洛陽令楊光,憲之賓客,在官貪殘,並不宜處位。書奏,吏與光故舊,因以告之。光報憲,憲奏弘大臣漏洩密事。帝詰讓弘,收上印綬。弘自詣廷尉,詔敕出之,因乞骸骨歸,未許。病篤,上書陳謝,並言竇憲之短。帝省章,遣醫占弘病,比至已卒。臨歿悉還賜物,敕妻子褐巾布衣素棺殯殮,以還鄉里。

周章

原文周章

周章、字は次叔、南陽郡随県の人である。初め郡の功曹として仕えた。当時大将軍竇憲が免官され、冠軍侯として封国に赴いた。周章は太守に従って春の巡行(行春)で冠軍県に来たが、太守はまだ竇憲に謁見しようとした。周章が進み出て諫めて言った。『今日は公務で巡行しておられるのに、どうして儀礼を越えて私的な交際ができましょうか。しかも竇憲は后宮の親戚で、その勢いは王室を凌いでいましたが、今は退いて封国にあります。禍福は測りがたいものです。明府(太守)は大臣として割符を受けており、千里の重任を負っておられます。ご行動は軽率でよろしいでしょうか。』太守は聞き入れず、車に乗ろうとした。周章は前に進み佩刀を抜いて馬の頸革(鞅)を断ち切ったので、太守はやっと止まった。後に竇憲が誅殺されると、公卿以下多くが彼と交際したことで罪に問われたが、太守は幸いにも免れ、これによって周章を重んじた。孝廉に推挙され、六度の転任を経て五官中郎将となった。延平元年、光禄勲となった。

原文周章字次叔,南陽隨人也。初仕郡為功曹。時大將軍竇憲免,封冠軍侯就國。章從太守行春到冠軍,太守猶欲謁之。章進諫曰:『今日公行春,豈可越儀私交。且憲椒房之親,勢傾王室,而退就藩國,禍福難量。明府剖符大臣,千里重任,舉止進退,其可輕乎?』太守不聽,遂便升車。章前拔佩刀絕馬鞅,於是乃止。及憲被誅,公卿以下多以交關得罪,太守幸免,以此重章。舉孝廉,六遷為五官中郎將。延平元年,為光祿勳。

永初元年、魏霸に代わって太常となった。その冬、尹勤に代わって司空となった。この時、中常侍の鄭衆や蔡倫らが皆権勢を握り政事に参与しており、周章はたびたび直言を進めた。初め、和帝が崩御すると、鄧太后は皇子の劉勝に持病があり、宗廟を継承できないと考え、殤帝が幼いのをいいことに、自分の子として養育したため、彼を立てて劉勝を平原王とした。殤帝が崩御すると、群臣は劉勝の病気が不治のものではないと考え、皆彼に帰順しようとした。太后は以前に彼を立てなかったため、後々怨まれることを恐れ、和帝の兄である清河孝王の子の劉祐を立てた。これが安帝である。周章は衆心が劉祐に附いていないと考え、密かに宮門を閉ざし、車騎将軍鄧騭兄弟と鄭衆・蔡倫を誅殺し、尚書を脅迫し、太后を南宮に廃して帝を遠国の王に封じ、平原王劉勝を立てようと謀った。事が発覚し、策書によって免官され、周章は自殺した。家には余財がなく、子供たちは着物を交換して外出し、二日に一度の食事をした。

原文永初元年,代魏霸為太常。其冬,代尹勤為司空。是時中常侍鄭眾,蔡倫等皆秉勢豫政,章數進直言。初,和帝崩,鄧太后以皇子勝有痼疾,不可奉承宗廟,貪殤帝孩抱,養為己子,故立之,以勝為平原王。及殤帝崩,群臣以勝疾非痼、意咸歸之,太后以前既不立,恐後為怨,乃立和帝兄清河孝王子祐,是為安帝。章以眾心不附,遂密謀閉宮門,誅車騎將軍鄧騭兄弟及鄭眾、蔡倫,劫尚書,廢太后於南宮,封帝為遠國王,而立平原王勝。事覺,策免,章自殺。家無餘財,諸子易衣而出,並日而食。

論じて言う。孔子は『ともに立ち得ても、ともに権変を為すことはできない』と称した。権変とは、常道に反するものである。常道に反する事を行おうとするならば、必ず非常の機会を頼りとし、その行動に誤りがなく、志を遂げ名声を全うするようにしなければならない。周章は身分は図録を託されるほどの者ではなく、徳は万民の望みを集めるほどでもなく、主君に天を絶つほどの過失はなく、地にはすでに安定した状態があったのに、難事を図り、道理から外れた功績を望んだ。これではあまりにも道理に悖っているのではないか。もし君主の器量が軽く、下の者の議論で動くならば、取るに足らない者でも必ずや天の業を貪り、狂った臣下や小者も自ら奮起するだろう。孟軻が言った。『伊尹のような心があればよいが、伊尹のような心がなければ簒奪である。』ああ、将来の人々よ、これを戒めよ。

原文論曰:孔子稱『可與立,未可與權』。權也者,反常者也。將從反常之事,必資非常之會,使夫舉無違妄,志行名全。周章身非負圖之託,德乏萬夫之望,主無絕天之舋?地有既安之執,而創慮於難圖,希功於理絕,不已悖乎!如令君器易以下議,即斗筲必能叨天業,狂夫豎臣亦自奮矣。孟軻有言曰:『有伊尹之心則可,無伊尹之心則篡矣。』於戲,方來之人戒之哉!

【贊】

原文【贊】

贊して言う。朱暉は北州を定め、寵愛と罪過を招いた。朱鮪は降伏者を利用し、朱浮は帰順した囚人に感銘を受けた。鄭弘と竇憲は怨み合う間柄で、代わる代わる仇となった。周章は道に反し、小さな知恵で大きな謀を企てた。

原文贊曰:朱定北州,激成寵尤。魴用降帑,延感歸囚。鄭、竇怨偶,代相為仇,周章反道,小智大謀。