後漢書

巻三十下・郎顗襄楷列傳 第二十下

巻三十下・郎顗襄楷列傳 第二十下

郎顗

原文郎顗

郎顗は字あざなを雅光といい、北海郡安丘県の人である。父の郎宗は字を仲綏といい、『京氏易』を学び、風角・星算・六日七分に精通し、気を望み見て吉凶を占うことができ、常に卜筮を売って生計を立てていた。安帝が彼を召し出し、対策を問うと、諸儒の模範となる回答をした。後に呉県令に任命された。その時、突然暴風が起こり、郎宗が占ったところ、京師で大火事があることを知り、日時を記録しておいて人をやって確かめさせたが、果たしてその言う通りになった。諸公はこれを聞いて上表し、博士として召し出そうとした。郎宗は占いの験しで知られることを恥じ、召し出しの文書が届いたと聞くと、夜に印綬を県の役所に掛けて逃げ去り、ついに一生仕官しなかった。

原文郎顗字雅光,北海安丘人也。父宗,字仲綏,學《京氏易》,善風角、星算、六日七分,能望氣占候吉凶,常賣卜自奉。安帝徵之,對策為諸儒表,後拜吳令。時卒有暴風,宗占知京師當有大火,記識時日,遣人參候,果如其言。諸公聞而表上,以博士徵之。宗恥以占驗見知,聞徵書到,夜縣印綬於縣廷而遁去,遂終身不仕。

郎顗は若くして父の学業を受け継ぎ、経典にも通暁し、海辺に隠居して、学徒を招き集めると常に数百人に及んだ。昼は精義を研究し、夜は星象と度数を占い、心を勤め思慮を鋭くし、朝夕倦むことがなかった。州郡から召し出され、有道・方正に推挙されたが、就任しなかった。順帝の時、災異がしばしば現れた。陽嘉二年正月、公府が正式に召し出そうとしたので、郎顗は宮門に赴き上奏文を奉った。その文は以下の通りである。

原文顗少傳父業,兼明經典,隱居海畔,延致學徒常數百人。晝研精義,夜占象度,勤心銳思,朝夕無倦。州郡辟召,舉有道、方正,不就。順帝時,災異屢見,陽嘉二年正月,公正徵,顗乃詣闕拜章曰:

上書が奏上されると、帝は再び尚書に対させた。郎顗は次のように答えた。

原文書奏,帝復使對尚書。顗對曰:

尚書台は郎顗を詰問して言った。『お前の答えに「白虹が日を貫くのは、政事が常道を変えたためである」とある。朝廷は旧来の法規に従っているのに、どこを変えたというのか、常道を変えたと言うのか。また「大いに法令を廃止し、官号を改革せよ」と言う。あるいは常道を変えたために災いを招いたと言い、あるいは旧制を改めて異変を除けと言う。これはどういうことか。また陽嘉の初めに元号を建てたばかりなのに、また元号を改めようとするのは、どの経典に基づくのか。事実に基づいて答えよ。』郎顗は次のように答えた。

原文臺詰顗曰:『對云「白虹貫日,政變常也。」朝廷率由舊章,何所變易而言變常?又言「當大蠲法令,革易官號」。或云變常以致災,或改舊以除異,何也?又陽嘉初建,復欲改元,據何經典?其以實對。』顗對曰:

上書が奏上されると、特別に詔を下して郎中に任命したが、病気を理由に辞退して就任せず、すぐに去って帰郷した。四月に至って京師で地震が起こり、地面が陥没した。その夏は大旱魃となった。秋には、鮮卑が馬邑城に入り、代郡の兵を破った。翌年、西羌が隴右を寇した。これらはすべてほぼ郎顗の言った通りであった。後にまた公車で召し出されたが、行かなかった。

原文書奏,特詔拜郎中,辭病不就,即去歸家。至四月京師地震,遂陷。其夏大旱。秋,鮮卑入馬邑城,破代郡兵。明年,西羌寇隴右。皆略如顗言。後復公車徵,不行。

同県の孫礼という者は、悪事を重ねて凶暴で、任侠を好み、同じ里の者と共に常に郎顗の名声と徳行を慕い、親しく交わろうとした。郎顗が顧みなかったので、これによって怨みを結び、ついに孫礼に殺された。

原文同縣孫禮者,積惡凶暴,好遊俠,與其同里人常慕顗名德,欲與親善。顗不顧,以此結怨,遂為禮所殺。

襄楷

原文襄楷

襄楷は字を公矩といい、平原郡隰陰県の人である。学問を好み古事に博く通じ、天文陰陽の術に長けていた。

原文襄楷字公矩,平原隰陰人也。好學博古,善天文陰陽之術。

桓帝の時、宦官が朝廷を専断し、政事と刑罰が暴虐で濫りが多く、また引き続いて皇子を失い、災異が特に頻繁であった。延熹九年、襄楷は自宅から宮門に赴き上疏して言った。

原文桓帝時,宦官專朝,政刑暴濫,又比失皇子,災異尤數。延熹九年,楷自家詣闕上疏曰:

上書が奏上されたが、省みられなかった。

原文書奏不省。

十数日後、再び上書して言った。

原文十餘日,復上書曰:

上書が奉られると、すぐに召し出して尚書に問わせて状況を尋ねた。襄楷は言った。『臣は聞く、古にはもともと宦官という官はなく、武帝の末年に、年が高くなり、しばしば後宮を遊行するようになって、初めてこれを置いたのである。後には次第に任用されるようになり、順帝に至って、ますます繁栄した。今、陛下は彼らに爵位を与え、以前の十倍にしている。今に至って後継ぎがないのは、ただ彼らを好んだためにそうなったのではないか。』尚書はその答えを上奏し、詔を下して関係官庁に処断させた。尚書は旨を受けて上奏して言った。『宦官の官は、近世に設置されたものではない。漢の初め、張沢が大謁者となり、絳侯を助けて諸呂を誅殺した。孝文帝は趙談に参乗させたが、その子孫は繁栄した。襄楷は道理を正さず、要務を指摘せず、言葉を弄して法律を破り、経書の教えに背き、星宿を仮借し、神霊に偽托し、私意に合わせて作り上げ、上を誣い事実を欺いている。司隷に下して、襄楷の罪法を正し、洛陽の獄に収監するよう請う。』帝は襄楷の言葉が激切ではあるが、すべて天文の恒常的な象の数理であるとして、誅殺せず、司寇の刑に論じた。

原文書上,即召詣尚書問狀。楷曰:『臣聞古者本無宦臣,武帝末,春秋高,數遊後宮,始置之耳。後稍見任,至於順帝,遂益繁熾。今陛下爵之,十倍於前。至今無繼嗣者,豈獨好之而使之然乎?』尚書上其對,詔下有司處正。尚書承旨奏曰:『其宦者之官,非近世所置。漢初張澤為大謁者,佐絳侯誅諸呂;孝文使趙談參乘,而子孫昌盛。楷不正辭理,指陳要務,而析言破律,違背經藝,假借星宿,偽托神靈,造合私意,誣上罔事。請下司隸,正楷罪法,收送洛陽獄。』帝以楷言雖激切,然皆天文恒象之數,故不誅,猶司寇論刑。

初めに、順帝の時、瑯邪の宮崇が朝廷に赴き、その師である干吉が曲陽の泉水のほとりで得た神書百七十巻を献上した。それはすべて青白い絹に朱の界線、青い題簽に朱の目次があり、『太平清領書』と号した。その内容は陰陽五行を家とし、多くは巫覡の雑語であった。有司が宮崇の献上したものは妖妄で経典に合わないと上奏したため、これを収蔵した。後に張角がこの書をかなり所有していた。

原文初,順帝時,瑯邪宮崇詣闕,上其師干吉於曲陽泉水上所得神書百七十卷,皆縹白素朱介青首朱目,號《太平清領書》。其言以陰陽五行為家,而多巫覡雜語。有司奏崇所上妖妄不經,乃收臧之。後張角頗有其書焉。

霊帝が即位すると、楷の上書を正しいものとした。太傅の陳蕃が方正に推挙したが、就任しなかった。郷里の人々は彼を尊び、太守が着任するたびに、礼を尽くして清浄を保った。中平年間、荀爽、鄭玄とともに博士として招聘されたが、赴かず、家で死去した。

原文及靈帝即位,以楷書為然。太傅陳蕃舉方正,不就。鄉里宗之,每太守至,輒致禮清。中平中,與荀爽、鄭玄俱以博士徵,不至,卒於家。

【史論】

原文【史論】

論じて言う。古人の言葉に、『天について善く言う者は、必ず人に験がある』とある。また張衡も言う。『天文暦数、陰陽占候は、今急ぐべきものである』と。郎顗と襄楷は、上を仰ぎ見下を観察し、人事と照らし合わせ、禍福吉凶が既に応じたことを引き、教義を明らかにした。これは道術が時に補うところがあり、後人が取って鑑とすべき所以である。しかしその弊害は巫を好むことにある。故に君子はこれに専心しないのである。

原文論曰:古人有云:『善言天者,必有驗於人。』而張衡亦云:『天文歷數,陰陽占候,今所宜急也。』郎顗、襄楷能仰瞻俯察,參諸人事,禍福吉凶既應,引之教義亦明。此蓋道術所以有補於時,後人所當取鑒者也。然而其敝好巫,故君子不以專心焉。

賛して言う。仲桓は術深く、蒲車しばしば尋ねる。蘇竟は飛書し、我が旧陰を清む。襄楷、郎顗の災戒は、実に政の淫による。

原文贊曰:仲桓術深,蒲車屢尋。蘇竟飛書,清我舊陰。襄、郎災戒,實由政淫。