郎顗
郎顗は字を雅光といい、北海郡安丘県の人である。父の郎宗は字を仲綏といい、『京氏易』を学び、風角・星算・六日七分に長じ、気を望んで吉凶を占い、常に卜筮を売って生計を立てていた。安帝が彼を召し出し、策問に答えたところ諸儒の模範となり、後に呉県令に任命された。ある時、突然暴風が起こり、郎宗は占って都で大火事があることを知り、日時を記録しておき、人をやって確かめさせたところ、果たしてその言う通りになった。諸公はこれを聞いて上表し、博士として召し出そうとした。郎宗は占いの技で知られることを恥じ、召し出しの文書が届いたと聞くと、夜のうちに印綬を県の役所に掛けて逃げ去り、ついに一生仕官しなかった。
上書が奏上されると、帝は再び尚書に対面して答えさせた。郎顗は答えて言った。
尚書台が郎顗を詰問して言った。『あなたの答えに「白虹が日を貫くのは、政事が常道を変えたからだ」とある。朝廷は旧来の法規に従っているのに、どこを変えたというのか、常道を変えたと言うのか。また「法令を大いに廃止し、官号を改易すべきだ」とも言う。あるいは常道を変えたから災異が起こったと言い、あるいは旧制を改めて異変を除こうと言う。これはどういうことか。また陽嘉の初めに建てた年号を、また改元しようとしているが、どの経典に基づくのか。実状を以て答えよ。』郎顗は答えて言った。
上書が奏上されると、特別に詔を下して郎中に任命したが、病気を理由に辞退して応じず、すぐに帰郷した。四月に都で地震が起こり、地面が陥没した。その夏は大旱魃となった。秋には鮮卑が馬邑城に入り、代郡の兵を破った。翌年、西羌が隴右を侵した。いずれもほぼ郎顗の言った通りであった。後にまた公車が徴召したが、行かなかった。
同県の孫礼という者は、悪事を重ねて凶暴で、任侠を好み、同郷の人と共に常に郎顗の名声と徳を慕い、親しく交わろうとした。郎顗が顧みなかったため、これによって恨みを買い、ついに孫礼に殺害された。
襄楷
襄楷は字を公矩といい、平原郡隰陰県の人である。学問を好み古事に博く通じ、天文陰陽の術に長じていた。
桓帝の時、宦官が朝廷を専断し、政事と刑罰が暴虐で乱れ、また皇子を相次いで失い、災異が特に頻発した。延熹九年、襄楷は自宅から宮廷に赴き上疏して言った。
上書が奏上されたが、省みられなかった。
十数日後、再び上書して言った。
上書が奉られると、すぐに召し出して尚書に赴き事情を問いただした。襄楷は言った。『臣は聞く、古にはもともと宦官という官はなく、武帝の末年、年齢が高くなり、しばしば後宮を遊行するようになって、初めて置かれたのである。後には次第に任用されるようになり、順帝に至っては、ますます繁栄した。今、陛下は彼らに爵位を与え、以前の十倍にしている。今、後継ぎがないのは、ただ彼らを好んだからそうなったのではないでしょうか。』尚書はその答弁を上奏し、詔を下して関係官庁に処断させた。尚書は旨を受けて上奏して言った。『宦官の官は、近世に設置されたものではない。漢初、張沢が大謁者となり、絳侯を助けて諸呂を誅殺した。孝文帝は趙談に参乗させ、その子孫は繁栄した。襄楷は道理を正さず、要務を指摘せず、言葉を弄して法律を破り、経書の教えに背き、星宿を借り、神霊を偽り、私意を合わせて作り、上を誣し事実を欺いている。司隷に下して、襄楷の罪法を正し、洛陽の獄に収監するよう請う。』帝は襄楷の言葉が激しいものではあったが、いずれも天文の常象の理数であるとして、誅殺はせず、司寇の刑に論じた。
初め、順帝の時、琅邪郡の宮崇が宮廷に赴き、その師である干吉が曲陽の泉水のほとりで得たという神書百七十巻を奉った。いずれも青白い絹に朱の界線、青い題簽に朱の目次があり、『太平清領書』と号した。その内容は陰陽五行を家とし、多くは巫覡の雑語であった。関係官庁が宮崇の奉ったものは妖妄で経典に合わないと上奏したため、没収して蔵した。後に張角がこの書をかなり所有していた。
霊帝が即位すると、襄楷の上書を正しいとした。太傅の陳蕃が方正に推挙したが、応じなかった。郷里の人々は彼を尊び、太守が着任するたびに、礼を尽くして清浄を保った。中平年間、荀爽・鄭玄と共に博士として召し出されたが、赴かず、家で死去した。
史論
論者は言う。古人に云うところがある。『天について善く言う者は、必ず人に於いて験証がある』と。また張衡も云う。『天文・暦数・陰陽・占候は、今まさに急ぐべきものである』と。郎顗と襄楷は、仰ぎ見て俯して観察し、人事と照らし合わせ、禍福吉凶が既に応じた後、それを教義に引きつけて明らかにした。これは道術が時に補うところがあり、後人が取って鑑とすべき所以である。しかしながら、その弊害は巫を好むことにある。故に君子はこれに専心しないのである。
賛に曰く。仲桓は術深く、蒲車しばしば尋ねる。蘇竟は書を飛ばし、我が旧陰を清む。襄・郎の災戒は、実に政の淫より由る。