桓譚と馮衍の列伝
馮衍伝
第十八下
申屠剛、鮑永、郅惲の列伝
馮衍
建武の末年に、上疏して自ら陳述した。
臣が思うに、高祖の謀略と陳平の策謀は、それを誹謗すれば疎遠となり、称賛すれば親密となる。文帝の英明さと魏尚の忠誠も、法で裁けば罪となり、徳を施せば功績となる。後世に至っては、董仲舒が道徳を説いても公孫弘に妬まれ、李広が匈奴に対して節義を奮っても衛青に排斥された。これこそ忠臣が常に涙を流す所以である。臣、衍は自ら考えるに、微賤な臣下であり、上には無知の推薦もなく、下には馮唐の弁舌もなく、董生の才も乏しく、李広の勢いも少ない。それでいて讒言の口を免れ、怨みと嫌疑を乗り越えようとするのは、難しいことではないか。臣、衍の先祖は、忠貞の故に私門の禍を招いた。そして臣、衍はまたも擾乱の時代に遭い、戦乱の時期に値したが、敢えて行いを曲げて時の利益を求めず、君主に仕えて傾邪な謀略はなく、将帥として虜掠の心はなかった。衛尉の陰興は、敬慎で周密であり、内には自らを修め整え、外には嫌疑を遠ざけたので、敢えて彼と交際した。興は臣の貧しさを知り、しばしば本業に就かせようとした。臣は自ら考えるに、三益の才もなく、三損の地に居ることを敢えず、固く辞退して受けなかった。昔、更始帝の時、太原で財貨の権柄を執り、倉卒の間にあって、位に据わり禄を食むこと二十余年、しかし財産は年々狭まり、住まいは日々貧しくなり、家には布帛の蓄えもなく、外出には輿馬の飾りもない。今、清明な時に遭い、身を整え力行すべき秋であるのに、怨仇が叢生し、譏議が世に横たわる。およそ富貴であれば善を為しやすく、貧賤であれば事を成し難い。遠く離れた田舎の臣下は、高き宮門の下を望むこともなく、恐れ謹んで自ら陳述し、罪過を救おうとする。
上書が奏上されたが、以前の過ちを理由に用いられなかった。衍は志を得ず、退いて賊を作り、また自ら論じて言った。
馮子は考えるに、人の徳は、碌碌として玉のようではなく、落落として石のようである。風が起こり雲が湧き、一龍一蛇、道とともに翺翔し、時とともに変化する。どうして一つの節操だけを守ろうか。用いられれば行い、捨てられれば隠れる。進退に主なく、屈伸に常なし。故に言う、『法があってもなくても、時によって業とし、度があってもなくても、物によって趣捨する』と。常に道徳の実を務め、当世の名を求めず、些細な礼を粗略にし、世間の事を放逸する。身を正しく行いを直くし、恬然として志を恣にする。かつては好んで俶儻な策を好んだが、当時はその謀を聴き用いる者がなく、喟然として長嘆し、遭わなかったことを自ら傷んだ。長く小官に留まり、その懐くところを伸ばすことができなかった。心を抑え節を折り、意は淒く情は悲しい。氷を伐る家は、鶏豚の利息を利せず、物資を蓄積する臣は、市井の利を操らない。ましてや歴位して禄を食むこと二十余年、財産はますます狭く、住まいはますます貧しい。およそ君子が仕えるのは、その道を行うためである。時務を慮る者はその徳を興すことができず、身のために求める者はその功を成すことができない。去って家に帰り、また州郡に旅人として寄寓し、身はますます職に据わり、家はますます窮困し、ついに飢寒の災いに遭い、長子を喪う禍いがあった。
先の将軍は渭陵に葬られ、哀帝が崩御した時、その地を営んで園とした。そこで新豊の東、鴻門の上、寿安の中、地勢が高く開け、四方に広く通じ、南に酈山を望み、北は涇渭に連なり、東に河華を瞰め、龍門の陽、三晉への道、西に酆鄗を顧み、周秦の丘、客観の墟、千里を見通し、旧都を覧見できる地に、ついに塋域を定めた。退いて幽居した。およそ忠臣は故墟を過ぎて歔欷し、孝子は旧室に入って哀嘆する。毎に祖考を思い、前に盛徳を著し、後に鴻烈を垂れたが、時の禍いに遭い、墳墓は荒れ穢れ、春秋の蒸嘗も、昭穆の列もなく、年老いて歳暮れ、功成らずを悼み、西の肥沃な野に田牧し、生産を殖やし、孝道を修め、宗廟を営み、祭祀を広めようとした。そして門を閉じて道徳を講習し、孔老の論を観覧し、松・喬の福に近づこうとし、隴阪に上り、高岡に登り、宇宙に精を遊ばせ、八纮に目を流す。九州の山川の体を歴観し、上古の得失の風を追覧し、道の陵遅を湣み、徳の分崩を傷む。その終わりを見れば必ずその始まりを推し、故にその人を存しその道を詠う。九野を疆理し、五山を経営し、眇然として陵雲の意を思う。そこで賦を作って自らを励まし、その篇を『顕志』と名付けた。顕志とは、光明なる風化の情を言い、玄妙の思を昭章するものである。
その文辞は次のようである。
新年を開き春を発し、百卉は英を含む。甲子の朝、我は西征す。新豊より発軔し、鎬京を裴回す。飛廉に陵りて太息し、平陽に登りて傷みを懐う。時俗の険厄を悲しみ、好悪の無常を哀しむ。衡石を棄てて意量し、風波に随いて飛揚す。紛綸として権利に流れ、雷同に親しみて異を妬む。独り耿介にして古を慕う、豈に時の人の喜ぶところならんや。先聖の成論を沮み、名賢の高風を𨘷う。道徳の珍麗を忽せにし、富貴の楽耽に務む。大路に遵いて裴回し、孔徳の窈冥を履む。固より衆夫の眩むところ、誰か無形を観ることを得ん。勁直に行いて尤を離る、羌として前人の所有する所。内に自ら省みて慚じず、遂に志を定めて改めず。我が党の唐・虞を欣び、我が生の愁勤を湣む。聊か憤りを発して情を揚げ、以て夫の憂心を蕩わんとす。往く者は攀援すべからず、来る者は期すべからず。世に没して称せられざるを病み、横に逝くことを願うも由なし。
雍畤に陟りて消搖し、略陽を超えて反らず。人生の再びせざるを念い、六親の日遠ざかるを悲しむ。九嵕に陟りて戔嶭に臨み、涇渭の波声を聴く。鴻門を顧みて歔欷し、我が孤の早く零るるを哀しむ。何ぞ天命の純ならざる、信に我が罪の生ずる所。誠善の無辜を傷み、此の恨みを賫して冥に入る。嗟我が思の遠からざる、豈に則ち事の悔ゆべきあらん。九死すとも眠らず、余殃の再びあるを恐る。淚は汍瀾として雨の集まるが如く、気は滂浡として雲の披くるが如し。心は怫郁として紆結し、意は沈抑として内に悲しむ。
太行山の険峻さを眺めよ、壺口の高くそびえる様を見よ。丘や墓の荒れ果てた様を悼み、昭穆の栄えないことを恨む。歳月はあっという間に過ぎ去り、寿命は徐々に尽きていく。功業が成し遂げられぬことを恥じ、原野に赴き窮地に身を置く。昔、伊尹が湯王に仕えた時、七十回説いてようやく信じられた。皐陶が雷沢で釣りをしていた時、虞舜に頼って後に親しくされた。この二人のような出会いがなければ、忠貞を抱いても表に出ることはできない。妻子を率いて耕作し、その美徳を委ねて誇らない。韓盧(名犬)は抑えられて放たれず、騏驥(駿馬)は繋がれて試されない。ただ一人慷慨として遠くを見渡すが、凡庸な者には理解できない。衛賜(子貢)の財貨を卑しみ、顏回の慕うところを尊ぶ。祖先の偉大な功績を重んじるので、この道で功を収める。四季の移り変わりに従い、五土(五方の土地)の刑徳を分かつ。山林や麓の産物を、水泉の育むものを味わう。神農の根本的な事業を修め、軒轅(黄帝)の奇策を採る。周の始祖・棄の遺教を追い、范蠡の絶えた跡を越える。隴山に登って遠くを望めば、はるかに八荒を見渡す。風波が共に起こり、心情は惆悵として傷みを増す。黄河と華山の広大さを眺め、秦・晋の故国を望む。馮亭の志が遂げられなかったことを憤り、去疾が惑わされたことを怒る。
山や岳を巡り歩いて見渡し、碣石と洞庭に赴く。江河を浮かび海に入り、淮水・済水を遡って上征する。燕・斉の旧居を仰ぎ見、宋・楚の名都を歴訪する。諸侯が祀られなくなったことを哀しみ、列国が廃墟となったことを痛む。中原を駆け巡り昇降するが、道は曲がりくねって困難が多い。聖哲の通論を講じるが、心は鬱屈して混乱する。天の道は同じ軌をたどるが、帝王によって政治は異なる。堯・舜は輝かしく広大であり、禹は太平を承けて革命した。日夜を問わず深く思いを巡らせるが、結局は憂い悩んで深く疑う。高陽氏(顓頊)はあまりに遠く、世に誰がこれについて論じられようか?甘沢で夏の啓に訊ね、帝典(堯舜の典籍)が初めて傾いたことを傷む。成王・康王の徳を載せたことを称え、『南風』の歌を詠う。唐・虞の平和な世を思い、稷・契に揖して友とする。子孫は繁茂して伸び広がり、湯王・武王の時に勃興した。昔、三後の純粋な時代も、末世には必ず窮地と災いに陥った。南巢で夏の桀王を弔い、牧野で殷の紂王を哭す。亳の郊外で伊尹を詔し、酆州で呂望を饗応する。功績は日月と光を同じくし、名声は三王と競い流れる。
楊朱は衢路で号泣し、墨子は白い糸のために泣いた。染まりやすい性質を知り、作為を思わないことを怨む。『関雎』の微かな道理を見抜くことを美とし、王道が崩れようとすることを憂う。周・唐の盛徳を抜き出し、桓公・文公の詭詐な功績を拾い集める。戦国時代の禍いを憤り、権臣が強権を振るうことを憎む。南郢で楚王を退け、湨梁で趙武を捕らえる。忠信が時を救うことを善とし、詐謀が妄りに行われることを悪とする。陳・蔡で申叔を招聘し、虞・虢で荀息を捕らえる。犁鋤が聖人を離間したことを誅し、臧倉が讒言したことを討つ。彭城で子反を赦し、夷儀で管仲に爵位を与える。兵革が次第に広がることを憂い、攻伐が生じることを苦しむ。五湖で孫武を沈め、長平で白起を斬る。巧みな策謀が乱世を乱すことを悪み、合従連衡が風俗を壊すことを毒とする。洹水に蘇秦を流し、鬼谷に張儀を幽閉する。徳化が衰えることを澄まし、刑罰の厳しさを烈しくする。商鞅の法術を焼き、韓非の説論を焼く。始皇の横暴を誚り、李斯を四裔に投げる。先王の法則を滅ぼし、禍いは浸潤して大きく広がる。前の聖人を援用して中道を制し、二主(桀・紂?)の驕奢を矯正する。絳臺で女齊に食事を運び、章華で椒挙を饗応する。道徳の光輝を広げ、衰えた世の微かな風俗を正す。泓谷で宋襄公を褒め、延陵で季札を表彰する。仁智の英華を拾い集め、乱国の末流を激しくする。溱洧で鄭の子産(僑)を見、営丘で晏嬰を訪ねる。日は曇り暮れようとし、ただ一人邑にいて煩悶し惑う。なんと九州は広大で、道が南北どちらかも分からず迷う。白い虯龍を四頭立てて駆け巡り、翠雲に乗って彷徨う。伯夷のもとに行って折衷し、務光を得てますます明らかになる。中野で子高に真心を尽くし、伯成に会って考えを定める。真人の徳の美しさを敬い、躊躇して留まり去らない。思いは満ちて薄くならず、旋風が吹くのを待ってゆったりとする。善卷のいる所を求め、負黍で許由に会う。箕山の陽で私の車の轍を止め、潁水のほとりで私の馬に秣をやる。至言を聞いて理解し、私の故郷に戻る。
天地の深遠な奥義を観察し、万物の綱紀を統べる。陰陽の変化を究め、五徳の精妙な光を明らかにする。青龍を滄海に躍らせ、白虎を金山で飼う。岩を穿って室とし、高陽氏に託して仙人を養う。神雀が鴻崖を翔け、玄武が嬰冥(深淵)に潜む。朱楼に伏して四方を望み、三秀(霊芝)の華やかな花を摘む。前の賢者の誇る節操を継ぎ、往昔の光輝ある功績を輝かせる。綺季(四皓の一人)の麗しい服をまとって、屈原の霊妙な香りを揚げる。私の冠の高く聳える様を高くし、私の佩び物の長く揺れる様を長くする。六醴の清らかな液を飲み、五芝の茂った花を食す。
六枳を立てて籬とし、蕙と若を植えて室を築く。蘭と芷を中庭に播き、杜衡を外の道に列ねる。射幹を集め蘼蕪を混ぜ、木蘭と辛夷を組み合わせる。光は輝き煌めき、香りは豊かに漂って美しい。芳しい花は鮮やかに咲き誇るが、時は恍惚として貴ばれない。身の不遇を惜しむのではなく、多くの美しいものが憔悴するのを憐れむ。精神を大いなる宅(宇宙)に遊ばせ、玄妙な常の操りを抗う。清静に処して志を養うことが、実に私の心の楽しみである。山は高く聳えて天に届き、林は深く茂っている。鸞鳥は旋回して群れを求め、鹿は哀鳴して友を求める。古今を誦して思いを散らし、聖賢を観て自らを鎮める。孔丘の天命を知ることを賞賛し、老聃の玄(道)を貴ぶことを尊ぶ。徳と道のどちらが宝か?名と身のどちらが親しいか?山谷に身を置いて閑居し、寂寞を守って精神を存える。荘周が魚を釣ったのは、卿相の顕位を辞したからだ。於陵子が園を灌漑したのは、至人に似ているからだ。およそ隠遁して道を得、窮地で悟って術に入る。塵垢の深遠な闇を離れ、王子喬・赤松子の妙なる節操に匹敵する。ただ私の志の望むところは、固より俗と異なる。すでに卓越して高く引き上げられたので、その従容たる様を見たいと思う。
顕宗(明帝)が即位すると、また多くの者が馮衍を、その文が実態を誇張していると短所として挙げたため、ついに家に閑居させられた。
馮衍は北地の住氏の女を妻に娶ったが、彼女は悍ましく嫉妬深く、媵妾を置くことが許されず、子供たちは常に自ら井戸や臼の仕事をし、年老いて遂に彼女に追い出されたため、当時は困窮した。しかし大きな志を持ち、貧賤を悲しんではいなかった。普段から慷慨として嘆いて言った。『私は若い時から名高い賢者に仕え、顕著な地位を歴任し、金印を帯び紫綬を垂れ、節を掲げて使命を奉じ、苟も得ようとは求めず、常に雲を凌ぐ志を持っていた。三公の貴さ、千金の富も、その願いを得られなければ、心に留めない。貧しくても衰えず、賤しくても恨まず、年は疲れていても、なお名高い賢者の風に近づこうとする。幽冥の路で道徳を修め、終身の名を以て、後世の模範とする。』貧しい中で年老い、家で亡くなった。著した賦・誄・銘・説・『問交』・『徳誥』・『慎情』・書記説・自序・官録説・策五十篇があり、粛宗(章帝)はその文章を非常に重んじた。子に馮豹がいる。
馮豹
馮豹は字を仲文といい、十二歳のとき、母が父によって離縁された。継母は彼を憎み、かつて馮豹が夜に眠っているときに毒を盛って害を加えようとしたが、馮豹は逃げ出して難を免れた。彼はますます謹んで仕えたが、継母の憎しみはますます深まり、当時の人々は彼の孝行を称えた。成長すると儒学を好み、『詩経』と『春秋』を麗山のふもとで教えた。郷里の言葉に、『道徳彬彬たる馮仲文』とあった。孝廉に推挙され、尚書郎に任じられると、忠実に勤勉で怠ることがなかった。上奏した事柄の返答がまだないときは、常に尚書省の門の前にうつ伏せており、夕方から明け方までいることもあった。粛宗(章帝)はこれを聞いて賞賛し、黄門に命じて布団を持ってきて馮豹を覆わせ、驚かせてはならないと命じた。これによってたびたび褒美を与えられた。このとき、ちょうど西域を平定していたが、馮豹に才知と謀略があるとして、河西副校尉に任じた。和帝の初め、たびたび辺境の事柄について上奏し、戊己校尉を設置するよう奏上し、城郭諸国が再び旧来の職務に従うようになった。武威太守に転任し、職務について二年、河西でその治績を称えられ、再び召し出されて尚書となった。
永元十四年
、官の任上で死去した。
史論
論じて言う。貴い者は権勢を頼んで人に驕り、才ある士は能力を頼んで行いを省みない。それはおおよそそういうものである。二人(馮衍と馮豹)はそうではなかったのか。馮衍が妻を誘惑する譬えを引いたのは、的を射ている。妻をめとる者は皆、自分を罵る者を選ぶことを知っているのに、士を登用するとなるとそれができない。なぜか。それは、嫉妬の感情を反転させるのは易く、義を思いやる情けは難しいからではないか。光武帝は鮑永についてはそれを得たが、馮衍についてはそれを失った。そうであるからこそ、義に正直であるがゆえに過去において屈せられ、節操を守るがゆえに将来の情勢においてますます阻まれるのである。ああ。
賛して言う。馮譚は讖緯の術に非ず、馮衍は晩年に身を委ねた。道は互いに謀らず、時勢に逆らい同じく失った。上才を兼ね備えた体でありながら、栄誉は微かな下位の官職であった。