後漢書

巻二十八下

馮衍伝 第十八下

 

馮衍

建武の末年に、上疏して自らを陳述して言った。

臣が思うに、高祖の謀略と陳平の策謀は、それを誹れば疎遠となり、誉めれば親密となる。文帝のような明君のもとでさえ、魏尚の忠誠は、法で裁けば罪となり、徳を施せば功となる。近世に至っては、董仲舒が道徳を説けば公孫弘に妬まれ、李広が匈奴に対して節義を奮い起こせば衛青に排斥された。これが忠臣が常に涙を流す所以である。臣、衍は、自らを考えれば微賤の臣下であり、上には無知の推薦もなく、下には馮唐のような弁舌もなく、董生の才も乏しく、李広の勢いも少ない。それでいて讒言の口を免れ、怨みと嫌疑を乗り越えようとするのは、難しいことではないか。臣、衍の先祖は、忠貞の故に、私門の禍を招いた。そして臣、衍はまたもや擾乱の時代に遭い、戦乱の時期にありながら、行いを曲げて時の利を求めることもせず、君に仕えて傾邪の謀もなく、将帥として虜掠の心もなかった。衛尉の陰興は、敬慎で周密であり、内には自らを修め整え、外には嫌疑を遠ざけたので、敢えて彼と交際した。興は臣の貧しさを知り、しばしば本業に就かせようとした。臣は自ら考えて、三益の才がないので、三損の地に身を置くことを敢えず、固く辞退して受けなかった。昔、更始帝のとき、太原で財貨の権柄を執り、突然の間に地位に就き、禄を食むこと二十余年であったが、財産は年々狭まり、住まいは日々貧しくなり、家には布帛の蓄えもなく、外出には輿馬の飾りもなかった。今、清明な時に遭い、身を整え力行すべき秋であるのに、怨み仇が叢生し、誹謗と非議が世に横たわる。およそ富貴であれば善を為しやすく、貧賤であれば事を成し難いのである。遠く離れた田舎の臣下は、高殿の下を望むこともなく、恐れ謹んで自らを陳述し、罪過を救おうとする。

上書が奏上されたが、以前の過ちによって用いられなかった。衍は志を得ず、退いて賊(賦)を作り、また自ら論じて言った。

馮子は考えるに、人の徳は、碌碌として玉のようではなく、落落として石のようである。風が起こり雲が湧き、一龍一蛇、道とともに翺翔し、時とともに変化する。どうして一つの節義だけを守るだろうか。用いられれば行い、捨てられれば身を隠す。進退に主なく、屈伸に常なし。故に言う、『法があっても法がなく、時を因って業とし、度があっても度がなく、物とともに趣き捨てる』と。常に道徳の実を務め、当世の名を求めず、些細な礼を大まかにし、世間の事を放逸にする。身を正しく行いを直くし、恬然として志を伸ばす。かつては卓抜した策を好んだが、当時はその謀を聴き用いる者がなく、喟然として長嘆し、自ら遭わなかったことを傷んだ。長く小官に留まり、その懐くところを伸ばすことができなかった。心を抑え節を折り、意は淒く情は悲しい。氷を伐る家は、鶏豚の利息を利せず、物資を蓄積する臣は、市井の利を操らない。ましてや歴任して禄を食むこと二十余年、財産はますます狭く、住まいはますます貧しい。ただ君子が仕えるのは、その道を行うためである。時務を慮る者はその徳を興すことができず、身のために求める者はその功を成すことができない。去って家に帰り、また州郡に旅人のように身を寄せ、職に就けば身はますます、家はますます窮困し、ついに飢寒の災いに遭い、長子を喪う禍いがあった。

先の将軍(馮奉世)は渭陵に葬られ、哀帝が崩御したとき、その地を園と定めた。そこで新豊の東、鴻門の上、寿安の中、地勢が高く開け、四方に広く通じ、南に酈山を望み、北は涇渭に連なり、東に河華を瞰め、龍門の南、三晉への道、西に酆鄗を顧み、周秦の丘、客観の墟、千里を見通し、旧都を覧見できるところに、ついに墓域を定めた。退いて幽居した。およそ忠臣は故墟を過ぎて歔欷し、孝子は旧室に入って哀嘆する。毎に祖考を思い、前に盛徳を著し、後に鴻烈を垂れたが、時の禍いに遭い、墳墓は荒れ穢れ、春秋の蒸嘗も、昭穆の列もなく、年老いて歳暮れ、功成らずを悼み、西の肥沃な野に田牧し、生産を殖やし、孝道を修め、宗廟を営み、祭祀を広めようとした。そして門を閉ざして道徳を講習し、孔老の論を観覧し、松・喬の福をほぼ得ようとした。隴阪に上り、高岡に登り、宇宙に精を遊ばせ、八纮に目を流す。九州の山川の体を歴観し、上古の得失の風を追覧し、道の陵遅を湣み、徳の分崩を傷む。その終わりを見れば必ずその始まりを推し量るので、その人を存しその道を詠う。九野を疆理し、五山を経営し、眇然として陵雲の意を思う。そこで賦を作って自らを励まし、その篇を『顕志』と名付けた。顕志とは、光明なる風化の情を言い、玄妙の思を昭章するものである。

その文辞は次のようである。

新年を開き春を発し、百卉は英を含む。甲子の朝、我は西征する。新豊を発軔し、鎬京を裴回す。飛廉の墓に登り太息し、平陽に登りて傷みを懐く。時俗の険厄を悲しみ、好悪の無常を哀しむ。衡石を棄てて意量し、風波に随って飛揚す。紛綸として権利に流れ、雷同に親しみて異を妬む。独り耿介にして古を慕う、豈に時の人の喜ぶところならんや。先聖の成論を沮み、名賢の高風を遠ざけ、道徳の珍麗を忽せにし、富貴の楽耽に務む。大路に遵って裴回し、孔徳の窈冥を履む。固より衆夫の眩むところ、誰か無形を観ることを得ん。勁直に行いて尤を離れ、羌として前人の所有なり。内に自ら省みて慚じず、遂に志を定めて改めず。我が党の唐・虞を欣び、我が生の愁勤を湣む。聊か憤りを発して情を揚げ、以て夫の憂心を蕩わんとす。往く者は攀援すべからず、来る者は期すべからず。世に没して称せられざるを病み、横に逝くことを願えども由なし。

雍畤に登りて消遙し、略陽を超えて反らず。人生の再びあらざるを念い、六親の日遠ざかるを悲しむ。九嵕に登りて戔嶭に臨み、涇渭の波声を聴く。鴻門を顧みて歔欷し、我が孤の早く零れるを哀しむ。何ぞ天命の純ならざる、信に我が罪の生ずるところ。誠善の無辜なるを傷み、この恨みを賫して冥に入る。嗟我が思の遠からざる、豈に則ち事の悔ゆべきあらんや。九死すとも眠らず、余殃の再びあるを恐る。淚は汍瀾として雨の集まるが如く、気は滂浡として雲の披くるが如し。心は怫郁として紆結し、意は沈抑として内に悲しむ。

太行山の険峻さを眺めよ、壷口の高くそびえる様を見よ。丘や墓の荒れ果てた様を悲しみ、昭穆の栄えないことを恨む。歳月はあっという間に過ぎ去り、寿命は徐々に尽きていく。功業が成し遂げられないことを恥じ、原野に赴いて窮地に身を置く。昔、伊尹が湯王に仕えた時、七十回説いてようやく信じられた。皋陶は雷沢で釣りをし、虞舜に頼って後に親しくされた。この二人のような出会いがなければ、忠貞を抱いても表に出ることはできない。妻子を率いて耕作し、その美徳を委ねて自ら誇らない。韓盧(名犬)は抑えられて放たれず、騏驥(駿馬)は繋がれて試されない。ただ慷慨として遠くを眺め、凡庸な者には理解されない。衛賜(子貢)の財貨を卑しみ、顏回の慕うところを尊ぶ。祖先の偉大な功績を重んじ、故にこの道で功を収める。四季の移り変わりに従い、五土(五方の土地)の刑徳を分かつ。山林や麓の産物を、水泉の育むものを味わう。神農の根本的な事業を修め、軒轅(黄帝)の奇策を採る。周の棄(后稷)の遺した教えを追い、范蠡の絶えた跡を越える。隴山に登って遠くを望めば、はるかに八荒を見渡す。風波が共に起こり、心情は惆悵として悲しみが増す。黄河と華山の広大さを眺め、秦や晉の故国を望む。馮亭の志が遂げられなかったことを憤り、去疾が惑わされたことを怒る。

山や岳を巡り歩いて周囲を見渡し、碣石と洞庭に赴く。江河を浮かび下って海に入り、淮水と済水を遡って上征する。燕や齊の旧居を眺め、宋や楚の名都を歴訪する。諸侯が祭祀されないことを哀しみ、列国が廃墟となったことを痛む。中原を駆け巡り昇降し、道は曲がりくねって多くの艱難がある。聖哲の通論を講じ、心は鬱屈して入り乱れる。天の道は同じ軌道をたどるが、帝王によって政治は異なる。堯、舜は輝かしく広大であり、禹は太平を承けて革命した。日夜を問わず深く思いを巡らせ、ついに憂い悩んで深く疑う。高陽氏(顓頊)はあまりに遠く超絶しており、世に誰がこれについて論じることができようか。甘沢で夏の啓に訊ね、帝典(堯舜の典籍)が初めて傾いたことを傷む。成王、康王の徳を載せたことを称え、『南風』の歌を詠う。唐、虞の平和な世を思い、稷や契と揖して友とする。子孫は繁茂して伸びやかであり、湯王、武王の時に勃興した。昔、三後の純粋な時代も、末世には必ず窮地と禍に陥った。南巢で夏の桀を弔い、牧野で殷の紂を哭す。亳の郊外で伊尹を詔し、酆州で呂望を饗応する。功績は日月と光を同じくし、名声は三王と競い流れる。

楊朱は衢路で号泣し、墨子は白い糸の前で泣いた。染まりやすい性質を知り、作為を思慮しないことを怨む。『関雎』が微かな兆しを見抜いたことを美とし、王道が崩れようとすることを憐れむ。周や唐の盛んな徳を抜き出し、桓公、文公の詭譎な功績を拾い集める。戦国時代の禍に遭遇したことを憤り、権臣が強権を振るうことを憎む。南郢で楚子を退け、湨梁で趙武を捕らえる。忠信が時を救うことを善とし、詐謀が妄りに行われることを悪とする。陳蔡で申叔を招聘し、虞虢で荀息を捕らえる。犁鋤が聖人を離間したことを誅し、臧倉が讒言したことを討つ。彭城で子反を赦し、夷儀で管仲に爵位を与える。兵革が浸透して広がることを憂い、攻伐が芽生えることを苦しむ。五湖で孫武を沈め、長平で白起を斬る。巧みな策謀が乱世を乱すことを悪み、縦横の術が風俗を壊すことを毒とする。洹水に蘇秦を流し、鬼谷に張儀を幽閉する。徳化が衰えることを澄まし、刑罰の峻烈さを厳しくする。商鞅の法術を焼き、韓非の説論を焼く。始皇の横暴を譏り、李斯を四裔に投げる。先王の法則を滅ぼし、禍は浸潤して大きく広がる。前の聖人を援用して中道を制し、二主(桀紂?)の驕奢を矯正する。絳臺で女齊に食事を運び、章華で椒挙を饗応する。道徳の光輝を広げ、衰えた世の微かな風潮を正す。泓谷で宋襄公を褒め、延陵で季札を表彰する。仁智の英華を拾い集め、乱国の末流を激しくする。溱洧で鄭の子産(僑)を見、営丘で晏嬰を訪ねる。日は曇り暮れようとし、ただ邑にいて煩悶し惑う。なんと九州は広大なことか、道に迷って南北もわからない。白い虯龍を四頭立てて駆け巡り、翠雲に乗って彷徨う。伯夷のもとに行って折衷し、務光を得てますます明らかになる。中野で子高に真心を尽くし、伯成に会って考えを定める。真人の徳の美しさを敬い、ためらって去ろうとしない。思いは満ちて静まらず、旋風が吹くのを待ってゆったりと過ごす。善卷のいる所を求め、負黍で許由に会う。箕山の陽で私の車を止め、潁水のほとりで私の馬に餌を与える。至言を聞いて理解し、私の故郷に戻る。

天地の深遠な奥義を観察し、万物の綱紀を統べる。陰陽の変化を究め、五徳の精妙な光を明らかにする。青龍を滄海に躍らせ、白虎を金山で飼う。岩を穿って室とし、高陽氏に託して仙人を養う。神雀が鴻崖を翔け、玄武が嬰冥(深淵)に潜む。朱楼に伏して四方を望み、三秀(霊芝)の華やかな花を摘む。前の賢者の誇る節操を継ぎ、往昔の光輝ある功績を輝かせる。綺季(四皓の一人)の麗しい服をまとって、屈原の霊妙な香りを揚げる。私の冠の高く聳える様を尊び、私の佩び物の長く揺れる様を誇る。六醴の清らかな液を飲み、五芝の茂った花を食す。

六枳を立てて籬とし、蕙や若を植えて室を築く。蘭や芷を中庭に播き、杜衡を外の道に列ねる。射幹を集め蘼蕪を混ぜ、木蘭と辛夷を組み合わせる。光は煌々と輝き、香りは豊かに漂って美しい。芳しい花は鮮やかに咲き誇るが、時は恍惚として貴ばれない。身の不遇を惜しむのではなく、多くの美しいものが憔悴することを憐れむ。精神を大いなる宅(身体・宇宙)に遊ばせ、玄妙な常の操りを高く掲げる。清静に処して志を養い、実に私の心の楽しみとする。山は高く聳えて天に届き、林は深く茂っている。鸞は旋回して群れを求め、鹿は哀鳴して友を求める。古今を誦して思いを散らし、聖賢を見て自らを鎮める。孔丘が天命を知ったことを称え、老聃が玄(道)を貴んだことを尊ぶ。徳と道のどちらが宝か。名と身のどちらが親しいか。山谷に身を置いて閑居し、寂寞を守って精神を保つ。莊周が魚を釣ったのは、卿相の顕位を辞したからだ。於陵子が園を灌漑したのは、至人に似ているからだ。およそ隠遁して道を得、窮して悟り術に入る。塵垢の深遠な闇を離れ、王子喬、赤松子の妙なる節操に匹敵する。ただ私の志の望むところは、固より世俗と異なる。すでに卓越して高く引き上げられたなら、その従容たる様を見たいと願う。

顕宗(明帝)が即位すると、また多くの者が馮衍を、その文が実態を過大に表現していると非難したため、ついに家に閑居させられた。

馮衍は北地の住氏の女を妻に娶ったが、彼女は悍ましく嫉妬深く、媵妾を置くことが許されず、子供たちは常に自ら井戸や臼の仕事をし、年老いて結局彼女に追い出され、当時は困窮した。しかし大きな志を持ち、貧賤を悲しみ嘆かなかった。普段から慷慨として嘆いて言った。『私は若い時から名高い賢者に仕え、顕位を歴任し、金印を帯び紫綬を垂れ、節を掲げて使命を奉じ、苟も得ようとは求めず、常に雲を凌ぐ志を持っていた。三公の貴さ、千金の富も、その願いを得られなければ、心に留めない。貧しくても衰えず、賤しくても恨まず、年は衰えても、なお名高い賢者の風に近づこうとする。幽冥の路で道徳を修め、終身の名を挙げ、後世の模範となる。』貧しいまま年老い、家で亡くなった。著した賦、誄、銘、説、『問交』、『徳誥』、『慎情』、書記説、自序、官録説、策五十篇があり、肅宗(章帝)はその文章を非常に重んじた。子は馮豹。

馮豹

馮豹はあざなを仲文といい、十二歳のとき、母が父によって離縁された。継母は彼を憎み、かつて馮豹が夜に眠っているときに毒を盛って害を加えようとしたが、馮豹は逃げ出して難を免れた。彼はますます謹んで仕えたが、継母の彼に対する憎しみはますます深まり、当時の人々は彼の孝行を称えた。成長すると儒学を好み、『詩経』と『春秋』を麗山のふもとで教えた。郷里の言葉に『道徳彬彬たる馮仲文』とあった。孝廉に推挙され、尚書郎に任命されると、忠実に勤勉で怠ることがなかった。上奏した事柄の返答がまだないときは、常にうつ伏せて省閤に控え、あるときは夕方から明け方までいた。粛宗(章帝)はこれを聞いて賞賛し、黄門に命じて布団を持ってきて馮豹を覆わせ、驚かせないようにと詔を下し、これによってたびたび褒美を与えた。このとき、ちょうど西域を平定していたが、馮豹に才知と謀略があるとして、河西副校尉に任命した。和帝の初め、たびたび辺境の事柄について上言し、戊己校尉を設置するよう奏上し、城郭諸国は再び旧来の職務に従った。武威太守に転任し、職務について二年、河西でその治績を称えられ、再び召し出されて尚書となった。

永元十四年

に、官の任上で死去した。

史論

論じて言う。尊貴な者は権勢を頼んで人に驕り、才知ある士は才能を頼んで行いを省みない。それはおおよそそういうものである。二人の人物(馮衍と馮豹)はそうではなかったのではないか!馮衍が妻を誘惑する譬えを引いたのは、的を射ている。妻を迎える者は皆、自分を罵る者を選ぶことを知っているのに、士を登用するとなるとそれができない。なぜか?それは、嫉妬の感情を反転させるのは易しく、義を思いやる感情は難しいからではないか。光武帝は鮑永においてはそれを得たが、馮衍においてはそれを失った。そうであるからこそ、義に正直であるがゆえに過去において屈せられ、節操を守るがゆえに将来の情実においてますます阻まれるのである。ああ!

賛に曰く、譚は讖術に非ず、衍は晩くに質を委ぬ。道は相謀わず、詭時に同じく失う。体は上才を兼ね、栄は下秩に微なり。