後漢書

巻二十七・宣張二王杜郭呉承鄭趙列傳 第十七

巻二十七・宣張二王杜郭呉承鄭趙列傳 第十七

宣秉

原文宣秉

宣秉は字あざなを巨公といい、馮翊郡雲陽県の人である。若い頃から高潔な節操を修め、三輔で名声を顕わした。哀帝・平帝の時代、王氏が権力を握り専横し、宗室を侵食し削り、逆乱の兆しがあるのを見て、遂に深山に隠遁し、州郡が連続して召し出したが、常に病気を称して仕えなかった。王莽が宰衡となった時、召し出しの命令に応じなかった。王莽が帝位を簒奪すると、また使者を遣わして彼を徴したが、宣秉は固く病気を称した。更始帝が即位すると、侍中として徴された。建武元年、御史中丞に任命された。光武帝は特に詔を下し、御史中丞と司隸校尉、尚書令が会同して共に専用の席に座ることを許したので、都では『三独坐』と号した。翌年、司隸校尉に転じた。大綱を挙げることに努め、煩瑣な細事を簡略化し、百官は彼を敬った。

原文宣秉字巨公,馮翊雲陽人也。少修高節,顯名三輔。哀、平際,見王氏據權專政,侵削宗室,有逆亂萌,遂隱遁深山,州郡連召,常稱疾不仕。王莽為宰衡,辟命不應。及莽篡位,又遣使者征之,秉固稱疾病。更始即位,征為侍中。建武元年,拜禦史中丞。光武特詔禦史中丞與司隸校尉、尚書令會同並專席而坐,故京師號曰『三獨坐』。明年,遷司隸校尉。務舉大綱,簡略苛細,百僚敬之。

宣秉の性質は倹約で、常に布の被り物を着用し、粗食を瓦器で食べた。帝がかつて彼の邸宅に行幸し、それを見て嘆じて言った。『楚国の二龔(龔勝・龔舍)も、雲陽の宣巨公には及ばない。』すぐに布帛や帳帷、什器を賜った。四年、大司徒司直に任命された。得た俸禄は、常に親族を養うために用いた。孤弱な者には田地を分け与え、自分には一石一斗の蓄えもなかった。六年、官の任上で亡くなった。帝は痛惜し、その子の彪を郎に取り立てた。

原文秉性節約,常服布被,蔬食瓦器。帝嘗幸其府舍,見而嘆曰:『楚國二龔,不如雲陽宣巨公。』即賜布帛帳帷什物。四年,拜大司徒司直。所得祿奉,輒以收養親族。其孤弱者,分與田地,自無擔石之儲。六年,卒於官,帝敏惜之,除子彪為郎。

張湛

原文張湛

張湛は字を子孝といい、扶風郡平陵県の人である。謹厳で礼を好み、動作や立ち居振る舞いに規範があり、奥まった部屋に住んでいても必ず自ら整え、妻子に会う時でさえ、厳格な君主のように接した。郷里においては、言葉を詳しくし顔色を正し、三輔の人々は彼を模範とした。ある人が張湛を偽善的だと言うと、張湛は聞いて笑って言った。『私は確かに偽っています。人々は皆、悪を偽るのに、私だけは善を偽る。それでも良いではないか。』

原文張湛字子孝,扶風平陵人也。矜嚴好禮,動止有則,居處幽室,必自修整,雖遇妻子,若嚴君焉。及在鄉黨,詳言正色,三輔以為儀表。人或謂湛偽詐,湛聞而笑曰:『我誠詐也。人皆詐惡,我獨詐善,不亦可乎?』

成帝・哀帝の時代、二千石の官にあった。王莽の時、太守・都尉を歴任した。

原文成、哀間,為二千石。王莽時,歷太守、都尉。

建武の初め、左馮翊となり、郡において典礼を整え、条教を設け、政治と教化が大いに行われた。後に平陵に帰郷する際、官寺の門を見ると歩みを進めた。主簿が進み出て言った。『明府(太守の尊称)は位が尊く徳が重い方です。自ら軽んずるべきではありません。』張湛は言った。『礼では、公門を下りる時は車の軾に手をかけ、輅馬に敬意を表する。孔子でさえ郷党においては、恭順な様子であった。父母の国に対しては、礼を尽くすべきである。どうして軽んじるなどと言えようか。』

原文建武初,為左馮翊,在郡修典禮,設條教,政化大行。後告歸平陵,望寺門而步。主簿進曰:『明府位尊德重,不宜自輕。』湛曰:『《禮》,下公門,軾輅馬。孔子於鄉黨,恂恂如也。父母之國,所宜盡禮,何謂輕哉?』

五年、光禄勲に任命された。光武帝が臨朝する時、たまに怠惰な様子があると、張湛はすぐにその過失を諫言した。常に白馬に乗っていたので、帝は張湛を見るたびに、『白馬生(白馬に乗る者)がまた諫めるだろう』と言った。

原文五年,拜光祿勛。光武臨朝,或有惰容,湛輒陳諫其失。常乘白馬,帝每見湛,輒言『白馬生且復諫矣』。

七年、病気を理由に引退を願い出て、光禄大夫に任命され、王丹に代わって太子太傅となった。郭后が廃されると、病気を称して朝参せず、太中大夫に任命され、中東門の候舎に住んだので、当時の人々は中東門君と号した。帝はたびたび見舞いの使者を遣わし賞賜を与えた。後に大司徒戴渉が誅殺されると、帝は無理に張湛を起用して彼の後任とした。張湛が朝堂に至ると、大小便を失禁し、そこで自ら重病であることを陳述し、もはや朝廷の政事を担えないとし、遂にその任を免じられた。数年後、家で亡くなった。

原文七年,以病乞身,拜光祿大夫,代王丹為太子太傅。及郭后廢,因稱疾不朝,拜太中大夫,居中東門候舍,故時人號曰中東門君。帝數存問賞賜。後大徒戴涉被誅,帝強起湛以代之。湛至朝堂,遺失溲便,因自陳疾篤,不能復任朝事,遂罷之。後數年,卒於家。

王丹

原文王丹

王丹は字を仲回といい、京兆尹下邽県の人である。哀帝・平帝の時代、州郡に仕えた。王莽の時、連続して徴されたが応じなかった。家には千金の財産があったが、隠居して志を養い、施しを好み急難を救った。毎年農繁期になると、酒肴を車に載せて田間に行き、勤勉な者を見つけては労った。怠惰な者は、王丹に労われないことを恥じて、皆、倍の努力をして自らを励ました。邑や集落は互いに導き合い、豊かになった。軽薄で狡猾で遊蕩し、生業を廃して害をなす者は、その父兄に諭し、彼らを退けて責めさせた。死者があれば葬儀の費用を給し、自ら付き添って世話をした。喪に遭って憂いのある者がいれば、常に王丹が待って事を整え、郷里の隣人はそれを常とした。これを十数年行い、その教化は大いに行き渡り、風俗は篤実になった。

原文王丹字仲回,京兆下邽人也。哀、平時,仕州郡。王莽時,連征不至。家累千金,隱居養誌,好施周急。每歲農時,輒載酒肴於田間,候勤者而勞之。其墮懶者,恥不致丹,皆兼功自厲。邑聚相率,以致殷富。其輕黠遊蕩廢業為患者,輒曉其父兄,使黜責之。沒者則賻給,親自將護。其有遭喪憂者,輒待丹為辦,鄉鄰以為常。行之十餘年,其化大洽,風俗以篤。

王丹の資質・性格は方正で清廉であり、悪事を働く豪族を憎んだ。当時、河南太守で同郡の陳遵は、関西の大侠であった。その友人が親を亡くすと、陳遵は喪事の世話をし、葬儀の援助を非常に豊かにした。王丹は縑一匹を懐にし、主人の前にそれを陳べて言った。『私のこの縑は、機織りから出たものです。』陳遵はこれを聞いて恥じ入った。自ら名を知られていたので、王丹と交際を結ぼうとしたが、王丹は拒絶して許さなかった。

原文丹資性方潔,疾惡強豪。時,河南太守同郡陳遵,關西之大俠也。其友人喪親,遵為護喪事,賻助甚豐。丹乃懷縑一匹,陳之於主人前,曰:『如丹此縑,出自機杼。』遵聞而有慚色。自以知名,欲結交於丹,丹拒而不許。

ちょうど前将軍鄧禹が関中を西征し、軍糧が不足した時、王丹は宗族を率いて二千斛こくを献上した。鄧禹が左馮翊を領していた時、病気を称して政務を見ず、免官されて帰郷した。後に太子少傅として徴された。

原文會前將軍鄧禹西征關中,軍糧乏,丹率宗族上表二千斛。禹在領左馮翊,稱疾不視事,免歸。後征為太子少傅。

その時、大司徒の侯霸が交友を望んだが、王丹が召し出された際、息子の侯昱を道で待たせた。侯昱は車の下で迎えて拝礼すると、王丹も降りて答礼した。侯昱が言った。『父があなたと交際を望んでいるのに、なぜ私に礼をされるのですか』。王丹は言った。『君房(侯霸の字)がそう言ったとしても、私はまだ承諾していない』。

原文時,大司徒侯霸欲與交友,及丹被征,遣子昱候於道。昱迎拜車下,丹下答之。昱曰:『家公欲與君結交,何為見拜?』丹曰:『君房有是言,丹未之許也。』

王丹の子に同門の生徒で喪に服す家があり、その家は中山にあった。彼は王丹に告げて駆けつけ慰めようとした。仲間を集めて出発しようとした時、王丹は怒って彼を打ち、絹を送って祭祀を行わせた。ある人がその理由を尋ねると、王丹は言った。『交友の道の難しさは、容易に言えるものではない。世は管仲と鮑叔を称え、次に王吉と貢禹を挙げる。張耳と陳余は終わりを凶事とし、蕭育と朱博は末に隙を生じた。だから、全うする者は少ないと知るべきだ』。当時の人々はこの言葉に感服した。

原文丹子有同門生喪家,家在中山,白丹欲往奔慰。結侶將行,丹怒而撻之,令寄縑以祠焉。或問其故,丹曰:『交道之難,未易言也。世稱管、鮑,次則王、貢。張、陳兇其終,蕭,朱隙其末,故知全之者鮮矣。』時人服其言。

かつて客が王丹に人物を推薦したことがあり、王丹はそれに従ってその者を推挙した。後にその推挙した者が罪に陥ると、王丹は連座して免官された。客は恥じ恐れて自ら縁を絶ったが、王丹は終始何も言わなかった。やがて再び太子太傅に召されると、客を呼んで言った。『あなたが自ら絶ったのは、私の度量が狭いとでも思ったのか?』食事を設けずに罰としたが、以前と変わらず接した。その後、官を退き、家で亡くなった。

原文客初有薦士於丹者,因選舉之,而後所舉者陷罪,丹坐以免。客慚懼自絕,而丹終無所言。尋復征為太子太傅,乃呼客謂曰:『子之自絕,何量丹之薄也?』不為設食以罰之,相待如舊。其後遜位,卒於家。

王良

原文王良

王良は字を仲子といい、東海郡蘭陵県の人である。若くして学問を好み、『小夏侯尚書』を学んだ。王莽の時代、病を患って仕官せず、千余人の生徒を教授した。

原文王良字仲子,東海蘭陵人也。少好學,習《小夏侯尚書》。王莽時,寢病不仕,教授諸生千餘人。

建武二年、大司馬の呉漢が召し出したが応じなかった。三年、諫議大夫に任命され、たびたび忠言を献じ、礼に従って進退したので、朝廷は彼を敬った。沛郡太守に転任した。蘄県に着くと、病気と称して役所に行かず、役人たちは皆彼のもとに赴いた。王良は病が重いと上奏し、骸骨を乞うた。太中大夫に任命された。

原文建武二年,大司馬吳漢辟,不應。三年,征拜諫議太夫,數有忠言,以禮進止,朝廷敬之。遷沛郡太守。至蘄縣,稱病不之府,官屬皆隨就之,良遂上疾篤,乞骸骨,征拜太中大夫。

六年、宣秉に代わって大司徒司直となった。在任中は恭倹で、妻子を官舎に入れず、布の衾と瓦器を用いた。時、司徒史の鮑恢が用事で東海に行き、ついでに彼の家を訪ねた。王良の妻が布の裳を着て柴を引き、田から帰ってきた。鮑恢が告げた。『私は司徒史です。書状を受け取りに来たので、夫人にお目にかかりたい』。妻は言った。『それが私です。あなた(掾)には書状はありません』。鮑恢は下がって拝礼し、嘆息して帰った。聞いた者は皆これを称賛した。

原文六年,代宣秉為大司徒司直。在位恭儉,妻子不入官舍,布被瓦器。時,司徒史鮑恢以事到東海,過候其家,而良妻布裙曳柴,從田中歸。恢告曰:『我司徒史也,故來受書,欲見夫人。』妻曰:『妾是也。若掾,無書。』恢乃下拜,嘆息而還,聞者莫不嘉之。

後に病気で帰郷し、一年後に再び召された。滎陽けいように着くと、病が重く進むことができず、友人の家を訪ねた。友人は会おうとせず、言った。『忠言や奇謀があるわけでもなく高位についた者が、どうしてあちこち忙しく煩わしがらないのか?』 こうして断った。王良は恥じ、その後連続して召されても、常に病気と称した。詔により玄纁(黒と浅黄の絹)を賜って招聘したが、遂に応じなかった。後、光武帝が蘭陵に行幸し、使者を遣わして王良の苦しむ病を尋ねさせたが、言葉で答えることができなかった。詔によりその子孫の邑中の徭役ようえきを免除し、家で亡くなった。

原文後以病歸,一歲復征,至滎陽,疾篤不任進道,乃過其友人。友人不肯見,曰:『不有忠言奇謀而取大位,何其往來屑屑不憚煩也?』遂拒之。良慚,自後連征,輒稱病。詔以玄纁聘之,遂不應。後光武幸蘭陵,遣使者問良所苦疾,不能言對。詔復其子孫邑中徭役,卒於家。

論じて言う。仁を利とする者は、仁を借りて利に従うことがある。義を体する者は、体することを期して義に合わそうとはしない。季文子の妾が絹を着なかったことは、魯の人々が美談とした。公孫弘が自ら布の衾を用いたことは、汲黯がその多くが偽りだと讒言した。事実は変わらないのに、誉れと毀損の議論が分かれる。なぜか。それは体するのと利するのとが異なるからだろうか。宣秉と王良は地位が優れて重かったが、宣秉は粗末なものを甘んじ、王良の妻は薪を担いだ。行いが倹しさを越えていたと言えよう。しかし当世はその清さを諮り、人君はその節義を高く評価した。誠をもって臨んだからではあるまいか。言葉にいう。『同じ言葉でも信じられるのは、信が言葉の前にあるからだ。同じ命令でも行われるのは、誠が命令の外にあるからだ』。その通りではないか。張湛は偽りを誇る誹りを気にせず、それゆえ偽りではなかった。王丹は交友を執る道を難しくし、それゆえ交友を知っていたのである。

原文論曰:夫利仁者或借仁以從利,體義者不期體以合義。季文子妾不衣帛,魯人以為美談。公孫弘身服布被,汲黯譏其多詐。事實未殊而譽毀別議。何也?將體之與利之異乎?宣秉、王良處位優重,而秉甘疏薄,良妻荷薪,可謂行過乎儉。然當世咨其清,人君高其節,豈非臨之以誠哉!語曰:『同言而信,則信在言前;同令而行,則誠在令外。』不其然乎!張湛不屑矜偽之誚,斯不偽矣。王丹難於交執之道,斯知交矣。

杜林

原文杜林

杜林は字を伯山といい、扶風郡茂陵県の人である。父の杜鄴は、成帝・哀帝の間に涼州刺史となった。杜林は若くして学問を好み沈着深遠で、家には既に多くの書物があり、また母方の親族の張竦父子が文采を喜んだので、杜林は張竦に師事して学び、広く通じて多くのことを聞き、当時は通儒と称された。

原文杜林字伯山,扶風茂陵人也。父鄴,成、哀間為涼州刺史。林少好學沈深,家既多書,又外氏張竦父子喜文采,林從竦受學,博洽多聞,時稱通儒。

初め郡の吏となった。王莽が敗れると、盗賊が起こり、杜林は弟の杜成および同郡の範逡、孟冀らと、妻子を連れて河西に客居した。道中で数千の賊に遭い、財産や荷物を奪われ、衣服をはぎ取られ、刀を抜かれて殺されそうになった。孟冀が仰ぎ見て言った。『一言だけ言わせてください。将軍は天神をご存知ですか?赤眉の兵は百万で、向かうところ敵なく、残虐で道に外れていたが、結局は破れ敗れました。今、将軍は数千の兵で、覇王の事業を図ろうとしているのに、仁恩を行わず、かえって覆った車の轍を踏み、天を畏れないのですか?』賊は遂に彼らを釈放し、共に難を免れた。

原文初為郡吏。王莽敗,盜賊起,林與弟成及同郡範逡、孟冀等,將細弱俱客河西。道逢賊數千人,遂掠取財裝,褫奪衣服,拔刃向林等將欲殺之。冀仰曰:『願一言而死。將軍知天神乎?赤眉兵眾百萬,所向無前,而殘賊不道,卒至破敗。今將軍以數千之眾,欲規霸王之事,不行仁恩而反遵覆車,不畏天乎?』賊遂釋之,俱免於難。

隗囂は平素から杜林の志節を聞き、深く敬って待遇し、持書平に任じた。後に病気で辞去を願い出て、禄食を返上して帰ろうとした。隗囂は再び強いて起用しようとしたが、杜林は重病と称した。隗囂は期待していたが、しばらくは寛容に扱おうと、命令を出して言った。『杜伯山は天子でも臣とすることができず、諸侯でも友とすることができない。伯夷や叔齊が周の粟を食うのを恥じたようなものだ。今は師友の位に就かせ、道が開通するのを待ち、その志に従わせよう』。杜林は隗囂に拘束されていたが、終に節を屈しなかった。建武六年、弟の杜成が亡くなると、隗囂はようやく杜林が喪に服して東帰することを許した。送り出して後悔し、刺客の楊賢を追わせて隴坻で遮って殺させようとした。楊賢は杜林が自ら鹿車を押し、弟の遺骸を載せて運んでいるのを見て、嘆いて言った。『今の世に、誰が義を行えるというのか。私は小人ではあるが、どうして義士を殺せようか!』こうして逃げ去った。

原文隗囂素聞林誌節,深相敬待,以為持書平。後因疾告去,辭還祿食。囂復欲令強起,遂稱篤。囂意雖相望,且欲優容之,乃出令曰:『杜伯山天子所不能臣,諸侯所不能友,蓋伯夷、叔齊恥食周粟。今且從師友之位,須道開通,使順所誌。』林雖拘於囂,而終不屈節。建武六年,弟成物故,囂乃聽林持喪東歸。既遣而悔,追令刺客楊賢於隴坻遮殺之。賢見林身推鹿車,載致弟喪,乃嘆曰:『當今之世,誰能行義?我雖小人,何忍殺義士!』因亡去。

光武帝は杜林が三輔に戻ったと聞き、侍御史に任命して召し出した。引見して経書の故事や西州の事情を問うと、大いに喜び、車馬や衣被を賜った。官僚たちは杜林が名望と徳行によって用いられたことを知り、非常に尊敬し畏れた。京師の士大夫は皆、その博識広学を推した。

原文光武聞林已還三輔,乃征拜侍禦史,引見,問以經書故舊及西州事,甚悅之,賜車馬衣被。群寮知林以名德用,甚尊憚之。京師士大夫,鹹推其博洽。

河南の鄭興、東海の衛宏らは、皆古学に長けていた。鄭興はかつて劉歆に師事した。杜林は彼らに出会うと、喜んで言った。『私が鄭興らを得たのは確かに調和がとれているが、衛宏が私を得れば、さらに益するところがあろう』。衛宏が杜林に会うと、暗然として敬服した。済南の徐巡は初め衛宏に師事したが、後には皆杜林の学問を受けるようになった。杜林は以前、西州で漆書の『古文尚書』一卷を得て、常に大切に愛蔵し、難儀に遭っても手放さず身につけていた。それを取り出して衛宏らに見せて言った。『私は兵乱のため流浪し、常にこの経典が絶えるのを恐れていた。どうして東海の衛子(衛宏)や済南の徐生(徐巡)が再びこれを伝えることができようか。これで道は遂に地に墜ちずに済んだ。古文は時務に合わないが、諸生が学んだことを後悔しないことを願う』。衛宏と徐巡はますます彼を重んじ、こうして古文は広まった。

原文河南鄭興、東海衛宏等,皆長於古學。興嘗師事劉歆,林既遇之,欣然言曰:『林得興等固諧矣,使宏得林,且有以益之。』及宏見林,闇然而服。濟南徐巡,始師事宏,後皆更受林學。林前於西州得漆書《古文尚書》一卷,常寶愛之,雖遭難困,握持不離身。出以示宏等曰:『林流離兵亂,常恐斯經將絕。何意東海衛子、濟南徐生復能傳之,是道竟不墜於地也。古文雖不合時務,然願諸生無悔所學。』宏、巡益重之,於是古文遂行。

翌年、郊祀の制度について大いに議論が行われ、多くの者は周が後稷を郊祀したように、漢は堯を祀るべきであるとした。詔が再び公卿に下されて議論され、議者たちは皆同じ意見であり、帝もまたそれを認めた。しかし杜林だけは、周王室の興隆は後稷による福運であり、漢の事業は独自に起こり、その功績は堯に由来するものではないと考えた。祖宗の旧例に従うべきであるとした。結局、杜林の意見に従うことが決まった。

原文明年,大議郊祀制,多以為周郊後稷,漢當祀堯。詔復下公卿議,議者僉同,帝亦然之。林獨以為周室之興,祚由後稷,漢業特起,功不緣堯。祖宗故事,所宜因循。定從林議。

後に王良に代わって大司徒司直となった。杜林は同郡の範逡、趙秉、申屠剛、および隴西の牛邯らを推薦し、皆が抜擢任用され、多くの士人が彼に帰依した。建武十一年、司直の官が廃止されると、杜林は郭憲に代わって光禄勲となった。内では宿衛を奉じ、外では三署を総括し、細やかで慎み深く、人材選抜は公平であると称された。郎官に好学の者がいれば、常に誘い導いて推挙し、朝夕その部屋は満ちていた。

原文後代王良為大司徒司直。林薦同郡範逡、趙秉、申屠剛及隴西牛邯等,皆被擢用,士多歸之。十一年,司直官罷,以林代郭憲為光祿勛。內奉宿衛,外總三署,周密敬慎,選舉稱平。郎有好學者,輒見誘進,朝夕滿堂。

建武十四年、群臣が上奏して言った。『古くは肉刑が厳重であったため、人々は法令を恐れた。今の法律は軽薄であるため、悪事が止まない。科条と禁令を増やして、その源を防ぐべきである。』詔が公卿に下された。杜林は上奏して言った。『人の心情は挫折や屈辱を受ければ、節義の気風が損なわれる。法的な防ぎが多すぎれば、免れようとする行為が盛んになる。孔子は言われた。「政令で導き、刑罰で整えれば、民は罪を免れても恥を知らない。徳で導き、礼で整えれば、恥を知り、自ら正す。」古代の明王は深い識見と遠大な思慮を持ち、行動は常に寛厚にあり、多くの刑罰を求めなかった。周の五刑は三千を超えなかった。大漢が興った初め、得失を詳しく鑑みたため、角を削って丸くし、彫り物を削って質朴にし、苛酷な政治を廃除し、代わりに粗い網を立てた。海内は歓喜し、人々は寛大な徳を心に抱いた。その後になって次第に煩雑になり、毛を吹いて疵を探し、誹謗や欺瞞に限りがなくなった。果物や桃、野菜の贈り物さえも集めて贓物とし、義に妨げのない小事を大罪とみなした。そのため国には廉潔な士がおらず、家には完全な行いがない。ついには法も禁じられず、令も止められず、上下が互いに欺き合うようになった。弊害はますます深まった。臣の愚見では、旧制の通りにすべきであり、変更すべきではありません。』帝はこれに従った。

原文十四年,群臣上言:『古者肉刑嚴重,則人畏法令;今憲律輕薄,故奸軌不勝。宜增科禁,以防其源。』詔下公卿。林奏曰:『夫人情挫辱,則義節之風損,法防繁多,則敬免之行興。孔子曰:「導之以政,齊之以刑,民免而無恥。導之以德,齊之以禮,有恥且格。」古之明王,深識遠慮,動居其厚,不務多辟,周之五刑,不過三千。大漢初興,詳鑒失得,故破矩為圓,斫雕為樸,蠲除苛政,更立疏網,海內歡欣,人懷寬德。及至其後,漸以滋章,吹毛索疵,詆欺無限。果桃菜茹之饋,集以成臧,小事無妨於義,以為大戮,故國無廉士,家無完行。至於法不能禁,令不能止,上下相遁。為敝彌深。臣愚以為宜如舊制,不合翻移。』帝從之。

後に皇太子劉彊が自ら退くことを求め、東海王に封じられたため、改めて官属が選ばれ、杜林が王傅となった。帝の南巡に従駕した。当時、諸王の傅はしばしば召し出されたが、多くは交遊が広すぎて詔に応じられなかった。ただ杜林だけが慎み深く守り、召しがあれば必ず参じた。他の者は咎められなかったが、杜林だけは特に賞賜を受け、また辞退して受け取ろうとしなかったので、帝はますます彼を重んじた。

原文後皇太子彊求乞自退,封東海王,故重選官屬,以林為王傅。從駕南巡狩。時諸王傅數被引命,或多交遊,不得應詔;唯林守慎,有召必至。餘人雖不見譴,而林特受賞賜,又辭不敢受,帝益重之。

翌年、丁恭に代わって少府となった。建武二十二年、再び光禄勲となった。間もなく、朱浮に代わって大司空となった。博学で高雅で多くのことに通じ、職務に相応しい宰相と称された。翌年に死去すると、帝は自ら喪に臨み葬送し、その子の杜喬を郎に任じた。詔して言った。『公侯の子孫は、必ずその始めに復する。賢者の後裔は、城邑を治めるに相応しい。杜喬を以て丹水県の長とせよ。』

原文明年,代丁恭為少府。二十二年,復為光祿勛。頃之,代朱浮為大司空。博雅多通,稱為任職相。明年薨,帝親自臨喪送葬,除子喬為郎。詔曰:『公侯子孫,必復其始,賢者之後,宜宰城邑。其以喬為丹水長。』

論じて言う。威勢と強力さをもって自らを守ろうとすれば、力が衰えれば身は危うくなる。偽りを飾って己を図ろうとすれば、偽りが尽きれば道は屈する。しかし忠信篤敬であれば、蛮貊の地でも行われる。まことに徳が物事を感化する力は厚いからである。故に趙盾は忠を抱き、一介の匹夫がその仁を成し遂げた。杜林は義を行い、烈士がその命を借りた。『易経』に言う。『人の助けとなるものは信である』と。これは偽りではない。

原文論曰:夫威強以自禦,力損則身危;飾詐以圖己,詐窮則道屈;而忠信篤敬,蠻貊行焉者,誠以德之感物厚矣。故趙孟懷忠,匹夫成其仁;杜林行義,烈士假其命。《易》曰:『人之所助者信』,有不誣矣。

郭丹

原文郭丹

郭丹は字を少卿といい、南陽郡穣県の人である。父の郭稚は成帝の時に廬江太守となり、清廉な名声があった。郭丹は七歳で孤児となり、小心で孝順であった。継母は彼を哀れみ、衣服を売り、財産を買い与えた。後に長安で師に就き、符を買って函谷関に入った時、慨然として嘆いて言った。『私は使者の車に乗らなければ、決してこの関を出ない。』京師に着くと、常に都講を務め、諸儒は皆彼を敬重した。大司馬の厳尤が郭丹を招いたが、病気を理由に辞退した。王莽もまた彼を徴したが、諸生と共に北地に逃れた。更始二年、三公が郭丹を賢能として推挙し、諫議大夫に徴され、節を持って南陽に使いし、降伏者を安集する任に当たった。郭丹は家を離れて十二年、果たして高車に乗って関を出て、その志の通りとなった。

原文郭丹字少卿,南陽穰人也。父稚,成帝時為廬江太守,有清名。丹七歲而孤,小心孝順,後母哀憐之,為鬻衣裝,買產業。後從師長安,買符入函谷關,乃慨然嘆曰:『丹不乘使者車,終不出關。』既至京師,常為都講,諸儒鹹敬重之。大司馬嚴尤請丹,辭病不就。王莽又征之,遂與諸生逃於北地。更始二年,三公舉丹賢能,征為諫議大夫,持節使歸南陽,安集受降。丹自去家十有二年,果乘高車出關,如其誌焉。

更始帝が敗れると、諸将は皆光武帝に帰順し、封爵を得た。しかし郭丹だけは平氏を守って降伏せず、更始帝の喪を発し、喪服を着て哀悼の意を尽くした。建武二年、遂に密かに逃れ去り、ぼろ衣を着て人目を避けて行き、険阻な地を渡り歩き、更始帝の妻子を訪ねて謁見し、節と伝を奉還した後、故郷に帰った。太守の杜詩が功曹に請うたが、郭丹は郷里の年長者を推薦して自らの代わりとし、去って行った。杜詩は嘆いて言った。『昔、明王が教化を興す時、卿士は位を譲った。今、功曹が賢者を推挙するとは、至徳と言える。郭丹の事績を黄堂に記録し、後の規範とせよ。』

原文更始敗,諸將悉歸光武,並獲封爵;丹獨保平氏不下,為更始發喪,衰绖盡哀。建武二年,遂潛逃去,敝衣間行,涉歷險阻,求謁更始妻子,奉還節傳,因歸鄉裏。太守杜詩請為功曹,丹薦鄉人長者自代而去。詩乃嘆曰:『昔明王興化,卿士讓位,今功曹推賢,可謂至德。敕以丹事編署黃堂,以為後法。』

建武十三年、大司馬の呉漢が高第として辟挙し、再び昇進して并州牧となり、清廉公平と称された。匈奴中郎将に転じ、左馮翊に遷った。永平三年、李訢に代わって司徒となった。朝廷にあって廉直公正であり、侯覇、杜林、張湛、郭伋と並び称され親しくした。翌年、隴西太守の鄧融の事を考課するに根拠がなかったことを理由に、策書により免官された。永平五年、家で死去した。時に八十七歳であった。河南尹の範遷に清廉な行いがあったため、代わって司徒とした。

原文十三年,大司馬吳漢辟舉高第,再遷並州牧,有清平稱。轉使匈奴中郎將,遷左馮翊。永平三年,代李訢為司徒。在朝廉直公正,與侯霸、杜林、張湛、郭伋齊名相善。明年,坐考隴西太守鄧融事無所據,策免。五年,卒於家,時年八十七。以河南尹範遷有清行,代為司徒。

範遷は字を子廬といい、沛国の人である。初め漁陽太守となり、智略をもって辺境を安定させ、匈奴は境界に入らなかった。三公の補佐の位にあっても、宅地は数畝、田は一頃を超えず、さらにそれを兄の子に譲った。その妻がかつて言った。『あなたには四人の子があるのに、立錐の余地もない土地です。余った俸禄を蓄えて、後の世の家業とすべきです。』範遷は言った。『私は大臣の位にありながら財を蓄え利を求めるなど、どうして後世に示せようか。』在位四年で死去し、家には一担の米もなかった。

原文遷字子廬,沛國人,初為漁陽太守,以智略安邊,匈奴不敢入界。及在公輔,有宅數畝,田不過一頃,復推與兄子。其妻嘗謂曰:『君有四子而無立錐之地,可余奉祿,以為後世業。』遷曰:『吾備位大臣而蓄財求利,何以示後世!』在位四年薨,家無擔石焉。

後に顕宗が朝会の際に群臣に問うた。『郭丹の家は今どうなっているか。』宗正の劉匡が答えて言った。『昔、孫叔敖が楚の宰相となった時、馬に粟を食べさせず、妻に絹を着せず、子孫はついに寝丘の封を受けた。郭丹は出て州郡を治め、入って三公となったが、家には遺産がなく、子孫は困窮しています。』帝はそこで南陽に下ってその子孫を訪ね求めた。長子の郭宇は、常山太守まで官位が昇った。末子の郭済は、趙国の相となった。

原文後顯宗因朝會問群臣:『郭丹家今何如?』宗正劉匡對曰:『昔孫叔敖相楚,馬不秣粟,妻不衣帛,子孫竟蒙寢丘之封。丹出典州郡,入為三公,而家無遺產,子孫困匱。』帝乃下南陽訪求其嗣。長子宇,官至常山太守。少子濟,趙相。

呉良

原文吳良

呉良は字を大儀といい、斉国臨淄県の人である。初め郡吏となり、年の初めに掾史と共に入って賀し、門下掾の王望が杯を挙げて寿を祝い、太守の功德を諂って称えた。呉良は下座から勃然として進み出て言った。『王望は佞邪の者で、諂い欺くこと甚だしい。どうかその杯を受け取らないでください。』太守は表情を引き締めて止めた。宴が終わると、呉良を功曹に転任させたが、彼は言葉によって昇進したことを恥じ、ついに謁見しようとしなかった。

原文吳良字大儀,齊國臨淄人也。初為郡吏,歲旦與掾史入賀,門下掾王望舉觴上壽,謅稱太守功德。良於下坐勃然進曰:『望佞邪之人,欺謅無狀,願勿受其觴。』太守斂容而止。宴罷,轉良為功曹;恥以言受進,終不肯謁。

その時、驃騎将軍の東平王劉蒼がこれを聞いて彼を辟召し、西曹に任じた。劉蒼は大いに彼を敬愛し、上疏して呉良を推薦して言った。『臣は聞く。国が重んずることは、必ず人材を得ることにある。恩に報いる義は、士を推薦することに勝るものはない。窃かに見るに、臣の府の西曹掾である斉国の呉良は、資質が篤実で堅固、公正で廉潔謹直、自ら倹約し貧しさに安んじ、白髪になるまで一貫した節操を持つ。また『尚書』を修め、師法に通じ、博士に任じられる学識を持ち、行いは模範に適っている。宿衛に備え、聖政を補佐させるべきです。臣の劉蒼は栄寵は極まり、憂いと責任は深く大きい。公叔の共に昇る義を私的に慕い、臧文仲が位を窃む罪を恐れ、敢えて愚かな見識を抱き、厳しい禁令を犯して申し上げます。』顕宗はこれを公卿に示して言った。『前に用事で呉良に会ったが、鬚髪は真っ白で、衣冠は非常に立派であった。賢者を推薦して国を助けるのは宰相の職務である。蕭何が韓信を推挙した時、壇を設けて拝礼し、再び試験などしなかった。今、呉良を議郎とする。』

原文時,驃騎將軍東平王蒼聞而辟之,署為西曹。蒼甚相敬受,上疏薦良曰:『臣聞為國所重,必在得人;報恩之義,莫大薦士。竊見臣府西曹掾齊國吳良,資質敦固,公方廉恪,躬儉安貧,白首一節;又治《尚書》,學通師法,經任博士,行中表儀。宜備宿衛,以輔聖政。臣蒼榮寵絕矣,憂責深大,私慕公叔同升之義,懼於臧文竊位之罪,敢秉愚瞽,犯冒嚴禁。』顯宗以示公卿曰:『前以事見良,鬚髮皓然,衣冠甚偉。夫薦賢助國,宰相之職,蕭何舉韓信,設壇而拜,不復考試。今以良為議郎。』

永平年間、皇帝の車駕が近くに出た際、信陽侯の陰就が禁衛を侵犯し、車府令の徐匡が就の車を引っ掛けて、御者を捕らえて獄に送った。詔書が徐匡を譴責したため、徐匡は自ら縄をかけた。趙良が上言して言った、『信陽侯の陰就は外戚を頼みとして、乗輿を侵犯し、人臣の礼がなく、大不敬です。徐匡は法を執り正義を守ったのに、かえって法廷に下されるとは、臣は聖なる教化がこれによって弛緩することを恐れます。』帝は徐匡を赦免したが、趙良を左遷して即丘長とした。後に司徒長史に昇進した。大きな議論の場では常に経典に基づき、上意を迎合したり世俗に合わせたりして、時の名誉を求めることはなかった。後に事に連座して免官されたが、再び議郎に任命され、官のまま死去した。

原文永平中,車駕近出,而信陽侯陰就幹突禁衛,車府令徐匡鉤就車,收禦者送獄。詔書譴匡,匡乃自系。良上言曰:『信陽侯就倚恃外戚,幹犯乘輿,無人臣禮,為大不敬。匡執法守正,反下於理,臣恐聖化由是而弛。』帝雖赦匡,猶左轉良為即丘長。後遷司徒長史。每處大議,輒據經典,不希旨偶俗,以僥時譽。後坐事免,復拜議郎,卒於官。

承宮

原文承宮

承宮は字を少子といい、瑯邪郡姑幕県の人である。幼くして孤児となり、八歳の時に人に雇われて豚を飼った。同郷の徐子盛という者が『春秋経』を数百人の諸生に教えており、承宮はその家の軒下を通りかかって休み、その学業を楽しみ、そこで経を聴講し、ついに門下に留まることを願い出て、諸生のために薪を拾った。数年苦労に耐え、勤学して倦むことがなかった。経典を理解した後、家に帰って教授した。天下に喪乱が起こると、諸生を率いて漢中に避難し、後に妻子と共に蒙陰山に行き、力を尽くして耕作した。穀物が実ろうとした時、それを自分のものだと主張する者がいたが、承宮は争わず、それを譲って去ったため、これによって名声が知られるようになった。三府が次々に召し出したが、いずれも応じなかった。

原文承宮字少子,瑯邪姑幕人也。少孤,年八歲為人牧豕。鄉裏徐子盛者,以《春秋經》授諸生數百人,宮過息廬下,樂其業,因就聽經,遂請留門下,為諸生拾薪。執苦數年,勤學不倦。經典既明,乃歸家教授。遭天下喪亂,遂將諸生避地漢中,後與妻子之蒙陰山,肆力耕種。禾黍將孰,人有認之者,宮不與計,推之而去,由是顯名。三府更辟,皆不應。

永平年間、公車に召し出された。皇帝が辟雍に臨幸し、承宮を召して博士に任命し、左中郎将に昇進させた。たびたび忠言を献じ、政治について論じ、議論は真摯で誠実であり、朝臣はその節義を畏れ、その名は匈奴にまで広まった。当時、北匈奴の単于が使者を遣わして承宮に会いたいと求めた。顕宗は承宮に身なりを整えるよう命じたが、承宮は答えて言った、『夷狄は名声に惑わされるだけで、実質を見分ける者ではありません。臣は容貌が醜く、遠方に見せるに足りません。威厳のある容貌の者を選ぶべきです。』帝は大鴻臚の魏応を代わりに立てた。十七年、侍中祭酒に任命された。建初元年、死去し、粛宗は褒め嘆き、墓地を賜った。妻が上書して故郷に葬ることを願い出ると、さらに銭三十万を賜った。

原文永平中,征詣公車。車駕臨辟雍,召宮拜博士,遷左中郎將。數納忠言,陳政,論議切愨,朝臣憚其節,名播匈奴。時,北單於遣使求得見宮,顯宗敕自整飾,宮對曰:『夷狄眩名,非識實者也。臣狀醜,不可以示遠,宜選有威容者。』帝乃以大鴻臚魏應代之。十七年,拜侍中祭酒。建初元年,卒,肅宗褒嘆,賜以冢地。妻上書乞歸葬鄉裏,復賜錢三十萬。

鄭均

原文鄭均

鄭均は字を仲虞といい、東平国任城県の人である。若い頃から黄老の書を好んだ。兄が県の役人で、しばしば賄賂を受け取っていた。鄭均はたびたび諫めて止めさせようとしたが、聞き入れられなかった。そこで自ら雇われて働き、一年余りして得た銭や絹を、帰って兄に与えた。そして言った、『物は使い尽くしても再び得られますが、役人が賄賂の罪で捕らえられれば、一生を台無しにします。』兄はその言葉に感じ入り、ついに廉潔になった。鄭均は義を好み篤実で、寡婦となった兄嫁と孤児を養い、恩情と礼を厚く尽くした。常に家で病気と称し、州郡の招聘に応じなかった。郡の長官がどうしても招こうとし、県令に策略を用いて門まで連れて行かせたが、到着してもついに屈服させることができなかった。鄭均はそこで濮陽に客居した。

原文鄭均字仲虞,東平任城人也。少好黃、老書。兄為縣吏,頗受禮遺,均數諫止,不聽。即脫身為傭,歲餘,得錢帛,歸以與兄。曰:『物盡可復得,為吏坐臧,終身捐棄。』兄感其言,遂為廉潔。均好義篤實,養寡嫂孤兒,恩禮敦至。常稱病家廷,不應州郡辟召。郡將欲必致之,使縣令譎將詣門,既至,卒不能屈。均於是客於濮陽。

建初三年(78年)、司徒の鮑昱が彼を招聘したが、後に直言に推挙された時も、いずれも赴かなかった。六年、公車が特に招聘した。再び昇進して尚書となり、たびたび忠言を献じ、粛宗は彼を敬重した。後に病気を理由に致仕を願い出て、議郎に任命され、帰郷を許されたが、病気が重いと称したため、帝は衣冠を賜った。

原文建初三年|78年,司徒鮑昱辟之,後舉直言,並不詣。六年,公車特征。再遷尚書,數納忠言,肅宗敬重之。後以病乞骸骨,拜議郎,告歸,因稱病篤,帝賜以衣冠。

元和元年(84年)、廬江太守と東平国の相に詔を下して告げた、『議郎の鄭均は、自らを律して貧しさに安んじ、恭しく倹約し節度を整え、以前機密の職にあり、病気で官を退いたが、善を守り貞固で、年老いても怠ることがない。また以前の安邑令の毛義は、自ら譲り合いを実践し、招聘されるたびに病気を理由に辞退し、純粋で清廉な風範は、東州で仁と称えられている。書経に言うではないか、「常に善行を明らかにする者は、吉祥である」と。鄭均と毛義にそれぞれ千斛の穀物を賜い、常に八月に長吏が慰問し、羊と酒を賜って、この優れた行いを顕彰せよ。』翌年、帝が東巡して任城を通り過ぎた時、鄭均の家に行幸し、尚書の俸禄を終身にわたって賜るよう命じたため、当時の人は彼を「白衣尚書」と呼んだ。永元年間、家で死去した。

原文元和元年|84年,詔告廬江太守、東平相曰:『議郎鄭均,束脩安貧,恭儉節整,前在機密,以病致仕,守善貞固,黃髮不怠。又前安邑令毛義,躬履遜讓,比徵辭病,淳潔之風,東州稱仁。書不雲乎:「章厥有常,吉哉!」其賜均、義谷各千斛,常以八月長吏存問,賜羊酒,顯茲異行。』明年,帝東巡過任城,乃幸均舍,敕賜尚書祿以終其身,故時人號為『白衣尚書』。永元中,卒於家。

趙典

原文趙典

趙典は字を仲経といい、蜀郡成都県の人である。父の趙戒は太尉となり、桓帝が即位した時、策定の功により廚亭侯に封じられた。趙典は若い頃から篤実な行いで質素に暮らし、経書に博学で、弟子が遠方からも集まった。建和初年、四府が上表して推薦し、議郎に任命されて招聘され、禁中で侍講し、再び侍中に昇進した。当時、帝が鴻池を広げようとしたが、趙典が諫めて言った、『鴻池は広く灌漑しており、すでに百頃ほどあるのに、さらに増やして深くするのは、堯や舜が自らを律した倹約を尊び、孝文帝が民を愛した精神に従うことにはなりません。』帝はその意見を聞き入れて中止した。

原文趙典字仲經,蜀郡成都人也。父戒,為太尉,桓帝立,以定策封廚亭侯。典少篤行隱約,博學經書,弟子自遠方至。建和初,四府表薦,征拜議郎,侍講禁內,再遷為侍中。時,帝欲廣開鴻池,典諫曰:『鴻池泛溉,已且百頃,猶復增而深之,非所以崇唐、虞之約己,遵孝之愛人也。』帝納其言而止。

父が死去すると、封爵を継承した。弘農太守として出向し、右扶風に転任した。公務のため官を去り、招聘されて城門校尉に任命され、将作大匠に転じ、少府に昇進し、また大鴻臚に転任した。当時、恩恵により諸侯が功労なく封じられ、群臣は不満ながらも敢えて諫める者がいなかったが、趙典だけが上奏して言った、『功績がないのに賞するのは、功労のある者を励まさず、上は辱め、下は恥じ、乱れた現象が法度を犯します。かつて高祖の誓いには、功臣でなければ封じないとあります。すべての爵位と封土を削除して免じ、旧典を存続させるべきです。』帝は従わなかった。まもなく、太仆に転じ、太常に昇進した。朝廷で災異や疑義があるたびに、彼に諮問した。趙典は経典に基づいて正しく答え、曲げることがなかった。賞賜を受けるたびに、貧しい諸生に分け与えた。後に諫争が帝の意に反し、免官されて封国に帰った。

原文父卒,襲封。出為弘農太守,轉右扶風。公事去官,征拜城門校尉,轉將作大匠,遷少府,又轉大鴻臚。時,恩澤諸侯以無勞受封,群臣不悅而莫敢諫,典獨奏曰:『夫無功而賞,勞者不勸,上忝下辱,亂象幹度。且高祖之誓,非功臣不封。宜一切削免爵士,以存舊典。』帝不從。頃之,轉太仆,遷太常。朝廷每有災異疑議,輒咨問之。典據經正對,無所曲折。每得賞賜,輒分與諸生之貧者。後以諫爭違旨,免官就國。

ちょうど帝が崩御した時、藩国の諸侯が奔喪することを禁じていたが、趙典は慨然として言った、『私は粗末な衣服の中から身を起こして高位に至った。しかも烏でさえ反哺して恩に報いるというのに、まして士たる者がどうしてできようか!』そこで印綬と符策を県に預け、馳せて京師に到着した。州郡と大鴻臚はともに彼を罪に問おうとしたが、公卿百官は趙典の義を称え、上表して租税で自ら贖罪させることを請い、詔書がこれを許した。再び長楽少府、衛尉に昇進した。公卿が再び上表し、趙典が学問に篤実で博識であるため、国師に備えるべきだと述べた。ちょうど病気で死去し、使者が弔問した。竇太后もまた使者を遣わして印綬を追贈し、諡を献侯とした。

原文會帝崩,時禁藩國諸侯不得奔吊,典慨然曰:『身從衣褐之中,致位上列。且鳥烏反哺報德,況於士邪!』遂解印綬符策付縣,而馳到京師。州郡及大鴻臚並執處其罪,而公卿百寮嘉典之義,表請以租自贖,詔書許之。再遷長樂少府、衛尉。公卿復表典篤學博聞,宜備國師。會病卒,使者吊祠。竇太后復遣使兼贈印綬,謚曰獻侯。

趙典の兄の子に趙謙、趙謙の弟に趙溫がおり、相次いで三公となった。

原文典兄子謙,謙弟溫,相繼為三公。

兄の子 趙謙

原文兄子 謙

趙謙は字を彦信といい、初平元年、黄琬に代わって太尉となった。献帝が長安に遷都した時、趙謙を行車騎將軍とし、先鋒とした。翌年、病気で罷免された。再び司隸校尉となった。車師王の侍子が董卓に寵愛されていたが、たびたび法を犯したので、趙謙は彼を捕らえて殺した。董卓は大いに怒り、都官従事を殺したが、平素から趙謙を敬い畏れていたため、罪を加えなかった。前将軍に転じ、白波賊を討伐するよう派遣され、功績を挙げて郫侯に封じられた。李傕が司徒の王允を殺すと、再び王允に代わって司徒となった。数か月で病気のため免官され、尚書令に任命された。その年に死去し、諡を忠侯とした。

原文謙字彥信,初平元年,代黃琬為太尉。獻帝遷都長安,以謙行車騎將軍,為前置。明年病罷。復為司隸校尉。車師王侍子為董卓所愛,數犯法,謙收殺之。卓大怒,殺都官從事,而素敬憚謙,故不加罪。轉為前將軍,遣擊白波賊,有功,封郫侯。李傕殺司徒王允,復代允為司徒。數月病免,拜尚書令。是年卒,溢曰忠侯。

謙の弟の温

原文謙弟 溫

温は字を子柔といい、初め京兆丞となったが、嘆いて言った。『大丈夫たるもの雄飛すべきであり、どうして雌伏していられようか!』そこで官を棄てて去った。大飢饉の年に遭い、家の食糧を分け与えて貧窮し飢えた者を救済し、生き延びさせた者は一万余人に及んだ。献帝が西遷して都としたとき、侍中となり、同じ輿輦に乗って長安に至り、江南亭侯に封ぜられ、楊彪に代わって司空となったが、免官され、間もなく、また司徒となり、尚書事を録した。

原文溫字子柔,初為京兆丞,嘆曰:『大丈夫當雄飛,安能雌伏!』遂棄官去。遭歲大饑,散家糧以振窮餓,所活萬餘人。獻帝西遷都,為侍中,同輿輦至長安,封江南亭侯,代楊彪為司空,免,頃之,復為司徒,錄尚書事。

当時、李傕と郭汜が互いに攻め合い、李傕はついに禁省を虜掠し、帝を動かして北塢に幸せしめ、内外を隔絶させた。李傕はもとより温が自分と同調しないことを疑っており、そこで温を塢の中に閉じ込め、また乗輿を黄白城に移そうとした。温は李傕に手紙を送って言った。『貴公は以前、董公の仇を討つと称しましたが、実は王城を屠り陥落させ、大臣を殺戮し、天下の人は家ごとに見て戸ごとに説くことはできません。今、郭汜と些細な隙を争って、千鈞の重みの仇を成し、人々は塗炭の苦しみにあり、それぞれ生きるに聊かもありません。かつて改悟せず、ついに禍乱を成しました。朝廷はなお明詔を下し、和解させようとしています。上の命令は行われず、威沢は日々損なわれています。それなのにまた乗輿を移し転じ、さらに適さぬ所に幸せさせようとするのは、これはまことに老夫の理解できないところです。『易』によれば、一度は過ち、二度は渉り、三度にして改めなければ、その頂を滅ぼし、凶です。早く和睦して和解し、軍を引き連れて駐屯地に戻り、上は万乗を安んじ、下は人民を全うする方が、はなはだ幸いではないでしょうか。』李傕は大いに怒り、人を遣わして温を殺そうとした。李傕の従弟の応は、温の旧掾であったが、数日間諫めて、ようやく免れることができた。

原文時,李傕與郭汜相攻,傕遂虜掠禁省,動帝幸北塢,外內隔絕。傕素疑溫不與己同,乃內溫於塢中,又欲移乘輿於黃白城。溫與傕書曰:『公前托為董公報仇,然實屠陷王城,殺戮大臣,天下不可家見而戶說也。今與郭汜爭睚眥之隙,以成千鈞之仇,人在塗炭,各不聊生。曾不改悟,遂成禍亂。朝廷仍下明詔,欲令和解。上命不行,威澤日損。而復欲移轉乘輿,更幸非所,此誠老夫所不達也。於《易》,一為過,再為涉,三而弗改,滅其頂,兇。不如早共和解,引軍還屯,上安萬乘,下全人民,豈不幸甚。』傕大怒,欲遣人殺溫。李傕從弟應,溫故掾也,諫之數日,乃獲免。

温は車駕に従って許に都した。建安十三年、司空曹操の子の丕を辟召して掾としたため、曹操は怒り、温が臣下の子弟を辟召し、選挙が実情に合わないと上奏し、免官された。この年に卒し、七十二歳であった。

原文溫從車駕都許。建安十三年,以辟司空曹操子丕為掾,操怒,奏溫辟臣子弟,選舉不實,免官。是歲卒,年七十二。

贊

原文贊

贊に言う。宣、鄭、二王は、身を奉じて清廉方正であった。杜林は古に拠り、張湛は矜荘であった。典は義によって黜けられ、宮は徳によって揚げられた。大儀は鵠発し、表は憲王に見える。少卿は仕官を志し、終に高箱に乗った。

原文贊曰:宣、鄭、二王,奉身清方。杜林據古,張湛矜莊。典以義黜,宮由德揚。大儀鵠發,見表憲王。少卿誌仕,終乘高箱。