後漢書

巻二十六・伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝 第十六

巻二十六・伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝 第十六

伏湛

原文伏湛

伏湛は字あざなを惠公といい、瑯邪郡東武県の人である。九世の祖の勝は字を子賤といい、いわゆる済南の伏生である。湛の高祖父の孺は、武帝の時、東武に客として教えを授け、その地に家を定めた。父の理は当時の名儒であり、『詩経』を成帝に教授し、高密国の太傅となり、独自の学問を立てた。

原文伏湛字惠公,瑯邪東武人也。九世祖勝,字子賤,所謂濟南伏生者也。湛高祖父孺,武帝時,客授東武,因家焉。父理,為當世名儒,以《詩》授成帝,為高密太傅,別自名學。

湛は性質が孝行で友愛に厚く、若くして父の学業を継承し、数百人に教授した。成帝の時、父の任官により博士弟子となった。五度の昇進を経て、王莽の時代には繡衣執法となり、大奸を監督する使者として派遣され、後隊属正に昇進した。

原文湛性孝友,少傳父業,教授數百人。成帝時,以父任為博士弟子。五遷,至王莽時為繡衣執法,使督大奸,遷後隊屬正。

更始帝が即位すると、平原太守に任じられた。当時は突然の兵乱が起こり、天下は驚き騒然としていたが、湛だけは平然としており、教授をやめなかった。妻子に言った。『一つの穀物が実らなければ、国君は食事を減らす。今、民は皆飢えているのに、どうして自分だけが満腹していられようか』。そこで共に粗末な食事をとり、俸禄をすべて分けて郷里を救済し、来客した者は百余家に及んだ。当時、門下督は元来気力があり、湛のために兵を起こそうと謀ったが、湛は彼が民衆を惑わすのを嫌い、ただちに捕らえて斬り、その首を城郭にさらして百姓に示した。これにより役人と民は信頼し従い、郡内は安定した。平原一帯は、湛によって保全されたのである。

原文更始立,以為平原太守。時倉卒兵起,天下驚擾,而湛獨晏然,教授不廢。謂妻子曰:『夫一穀不登,國君徹膳;今民皆饑,奈何獨飽?』乃共食粗糲,悉分奉祿以賑鄉裏,來客者百餘家。時門下督素有氣力,謀欲為湛起兵,湛惡其惑眾,即收斬之,徇首城郭,以示百姓,於是吏人信向,郡向以安。平原一境,湛所全也。

光武帝が即位すると、湛が名儒で旧臣であることを知り、内職で信頼して任用しようと考え、尚書に任命し、旧制の制定を担当させた。当時、大司徒の鄧禹が関中を西征していたが、帝は湛の才能が宰相に適任であると考え、司直に任命し、大司徒の職務を代行させた。帝が出征するたびに、常に留守を守らせ、諸官庁を総括させた。建武三年、ついに鄧禹に代わって大司徒となり、陽都侯に封じられた。

原文光武即位,知湛名儒舊臣,欲信幹任內職,徵拜尚書,使典定舊制。時,大司徒鄧禹西征關中,帝以湛才任宰相,拜為司直,行大司徒事。車駕每出征伐,常留鎮守,總攝群司。建武三年,遂代鄧禹為大司徒,封陽都侯。

当時、彭寵が漁陽で反乱を起こした。帝は自ら征伐しようとしたが、湛は上疏して諫めた。『臣は聞きます。文王は天命を受けて五国を征伐するにあたり、必ずまず同姓に相談し、その後群臣と謀り、さらに占いと亀卜を加えて行動を決定した。ゆえに謀は成就し、卜は吉となり、戦いは勝利したのです。『詩経』に言います。「帝は文王に告げる、汝の敵国に問え、汝の兄弟と共に、汝の鉤援と臨衝を用いて、崇庸を討て」と。崇国は城を守り、まず退いて後で討った。これは人命を重んじ、時機を待って行動したためであり、天下の三分の二を手に入れたのです。陛下は大乱の極みを継承し、天命を受けて帝となり、祖宗の業を興し明らかにされ、四年の間に檀郷を滅ぼし、五校を制圧し、銅馬を降伏させ、赤眉を破り、鄧奉の類を誅殺され、功績がないわけではありません。今、京師は空しく物資が不足し、近隣を服従させられないうちに、まず辺境の外に手を出すべきではありません。しかも漁陽の地は北狄に近接し、狡猾な虜が窮地に陥れば、必ずその援助を求めるでしょう。また、今通過する県邑は特に困窮しています。麦を栽培する家は多く城郭にあり、官兵が来ると聞けば、すでに収穫してしまっているでしょう。大軍が二千余里を遠征し、兵士と馬は疲労し、糧食の輸送は困難です。今、兗州、豫州、青州、冀州は中国の都でありながら、寇賊が横行し、まだ従順になっていません。漁陽以東は本来辺境の防備に当たり、外虜と地続きで、貢納と租税はわずかです。平和な時でさえ、まだ内郡に頼っているのに、まして今は荒廃し消耗している状況で、どうして先に図るに足りましょうか。陛下が近きを捨てて遠きに務め、易きを棄てて難きを求めるならば、四方は疑い怪しみ、百姓は恐れおののき、誠に臣の困惑するところです。どうか遠く文王が兵を重んじ広く謀ったことを顧み、近く征伐の前後の適切さを考え、有司に諮問され、臣の愚かな誠意を極めさせ、その長所を取り入れ、聖慮によって選択され、中原を憂慮されることを願います』。帝はその上奏を読んで、結局親征しなかった。

原文時,彭寵反於漁陽,帝欲自征之,湛上疏諫曰:『臣聞文王受命而征伐五國,必先詢之同姓,然後謀於群臣,加占蓍龜,以定行事,故謀則成,卜則吉,戰則勝。其《詩》曰:「帝謂文王,詢爾仇方,同爾弟兄,以爾鉤援,與爾臨沖,以伐崇庸。」崇國城守,先退後伐,所以重人命,俟時而動,故參分天下而有其二。陛下承大亂之極,受命而帝,興明祖宗,出入四年,而滅檀鄉,制五校,降銅馬,破赤眉,誅鄧奉之屬,不為無功。今京師空匱,資用不足,未能服近而先事邊外;且漁陽之地,逼接北狄,黠虜困迫,必求其助。又今所過縣邑,尤為困乏。種麥之家,多在城郭,聞官兵將至,當已收之矣。大軍遠涉二千餘裏,士馬罷勞,轉糧限阻,今兗、豫、青、翼,中國之都,而寇賊從橫,未及從化。漁陽以東,本備邊塞,地接外虜,貢稅微薄。安平之時,尚資內郡,況今荒耗,豈足先圖?而陛下舍近務遠,棄易求難,四方疑怪,百姓恐懼,誠臣之所惑也。復願遠覽文王重兵博謀,近思征伐前後之宜,顧問有司,使極愚誠,采其所長,擇之聖慮,以中土為憂念。』帝覽其奏,竟不親征。

当時、賊の徐異卿ら一万余人が富平を占拠し、連続して攻撃しても降伏せず、ただ「司徒の伏公に降伏したい」と言った。帝は湛が青州、徐州で信頼されていることを知り、平原に派遣すると、異卿らは即日に帰順し、洛陽に護送された。

原文時,賊徐異卿等萬餘人據富平,連攻之不下,唯雲:『願降司徒伏公。』帝知湛為青、徐所信向,遣到平原,異卿等即日歸降,護送洛陽。

湛はたとえ緊急時でも、どんな時でも必ず文徳を重んじ、礼楽による政治と教化を第一とし、困窮の中でもなおこれを違えることはできないと考えた。この年、郷飲酒礼の施行を上奏し、遂に実施された。

原文湛雖在倉卒,造次必於文德,以為禮樂政化之首,顛沛猶不可違。是歲奏行鄉飲酒禮,遂施行之。

その冬、帝は張歩を征伐するため出征し、湛を留守居とした。当時、高廟で蒸祭が行われたが、河南尹と司隸校尉が廟内で争論し、湛はこれを上奏しなかったため、策免の罪に問われた。建武六年、不其侯に移封され、邑三千六百戸を与えられ、封国に赴いた。後に南陽太守の杜詩が上疏して湛を推薦した。『臣は聞きます。唐、虞は股肱の臣によって安泰となり、文王は多くの士によって平穏を得た。だから『詩経』は「濟濟」と称え、『書経』は「良哉」と言うのです。臣の詩はひそかに見ますに、故大司徒陽都侯伏湛は、自ら学問を修め始めてから、終わりまで欠点がなく、篤実で信義に厚く学問を好み、善道を守って死に至り、経学においては人の師となり、行いにおいては模範となられました。以前、河内朝歌におられ、また平原におられた時、役人と民は畏敬し慕い、彼を手本としました。時勢の反復に遭い、兵乱の災いから離れられませんでしたが、節操を堅持して慎重に行動し、奪うことのできない志を持たれました。陛下は深くその才能をご存知で、宰相の重責を顕彰され、多くの賢人と百姓はその徳義を仰ぎ望んでいました。些細な過失で斥退され、長く再任用されないのは、識者が惜しみ、儒士が痛心するところであり、臣はひそかにこれを悲しみます。湛の容貌は堂堂としており、国の光輝です。智略と謀慮は朝廷の淵藪です。幼少の時から志を励まし、白髪になっても衰えません。実力は王室を助けるに足り、名声は遠方の人々に光を示すに足ります。古くは諸侯を選抜して公卿としました。それゆえ四方は首を回らせて京師を仰ぎ望んだのです。柱石の臣は、補佐の任に就き、禁門を出入りし、欠けたものを補い遺漏を拾うべきです。臣の詩は愚かで頑なであり、宰相の才能を知るには足りませんが、ひそかに些細な思いを抱き、敢えて自らを尽くさずにはいられません。臣は以前、侍御史であった時、封事を上奏し、湛が公正で廉潔で下を愛し、好悪がはっきりしており、累世の儒学を継承し、元来名声と信義を保ち、経学に明るく行いを修め、国政に通達しているので、特に近侍にふさわしく、左右で意見を聞き入れるべきであり、旧制では九州に五尚書がおり、一郡から二人を出すことになっているので、湛を代わりに任じることができると申し上げました。かなり執事に非難されました。しかし臣の詩は深く恩恵を受けており、申し上げることが誠に国のためになるなら、たとえ死んでも恨みはありません。それゆえ再び職権を越えて冒涜を恐れずにお聞かせします』。

原文其冬,車駕徵張步,留湛居守。時,蒸祭高廟,而河南尹、司隸校尉於廟中爭論,湛不舉奏,坐策免。六年,徙封不其侯,邑三千六百戶,遣就國。後南陽太守杜詩上疏薦湛曰:『臣聞唐、虞以股肱康,文王以多士寧,是故《詩》稱「濟濟」,《書》曰「良哉」。臣詩竊見故大司徒陽都侯伏湛,自行束修,訖無毀玷,篤信好學,守死善道,經為人師,行為儀表。前在河內朝歌及居平原,吏人畏愛,則而象之。遭時反復,不離兵兇,秉節持重,有不可奪之誌。陛下深知其能,顯以宰相之重,眾賢百姓,仰望德義。微過斥退,久不復用,有識所惜,儒士痛心,臣竊傷之。湛容貌堂堂,國之光輝;智略謀慮,朝之淵藪。髫發厲誌,白首不衰。實足以先後王室,名足以光示遠人。古者選擢諸侯以為公卿,是故四方回首,仰望京師。柱石之臣,宜居輔弼,出入禁門,補缺拾遺。臣詩愚戇,不足以知宰相之才,竊懷區區,敢不自竭。臣前為侍御史,上封事,言湛公廉愛下,好惡分明,累世儒學,素持名信,經明行修,通達國政,尤宜近侍,納言左右,舊制九州五尚書,令一郡二人,可以湛代。頗為執事所非。但臣詩蒙恩深渥,所言誠有益於國,雖死無恨,故復越職觸冒以聞。』

建武十三年の夏、召還され、尚書に命じて官吏任命の日を選ばせたが、まだ就任しないうちに、宴席で会見中に暑気にあたり、病死した。秘器を賜り、帝は自ら弔問し祭祀を行い、使者を遣わして葬儀を行い墳墓を修築させた。二人の子、隆と翕がいた。

原文十三年夏,徵,敕尚書擇拜吏日,未及就位,因宴見中暑,病卒。賜秘器,帝親吊祠,遣使者送喪修冢。二子:隆、翕。

翕が爵位を継ぎ、死去すると、子の光が継いだ。光が死去すると、子の晨が継いだ。(東観記によると、「晨は高平公主を娶った」)。晨は謙虚で礼儀正しく博愛であり、特に学問を好み、孫娘が順帝の貴人となったため、奉朝請となり、位は特進に至った。死去すると、子の無忌が継ぎ、家学を伝え、広く物事を知り識見が豊かであった。順帝の時、侍中屯騎校尉となった。永和元年、詔により無忌は議郎の黄景と共に中書の『五経』、諸子百家、芸術を校定した。(中書とは、宮中の書物である。芸文志によれば「諸子は凡そ百八十九家」と言い、百家とは概数を挙げたものである。芸とは書、数、射、御を指し、術とは医、方、卜、筮を指す)。元嘉年間、桓帝は再び詔を下し、無忌は黄景、崔寔らと共に『漢記』を編纂した。また自ら古今の事柄を収集し、事柄の要点を削除して著述し、『伏侯註』と号した。(その書は黄帝から始まり、漢の質帝までを記し、八巻あり、今日も行われている)。無忌が死去すると、子の質が継ぎ、官は大司農に至った。質が死去すると、子の完が継ぎ、桓帝の娘の陽安長公主を娶った。娘は孝献皇后となった。曹操が皇后を殺し、伏氏を誅殺したため、封国は除かれた。

原文翕嗣爵,卒,子光嗣。光卒,子晨嗣。(東觀記曰:「晨尚高平公主。」)晨謙敬博愛,好學尤篤,以女孫為順帝貴人,奉朝請,位特進。卒,子無忌嗣,亦傳家學,博物多識,順帝時,為侍中屯騎校尉。永和元年,詔無忌與議郎黃景校定中書《五經》、諸子百家、藝術。(中書,內中之書也。蓺文志曰「諸子凡一百八十九家」,言百家,舉其成數也。蓺謂書、數、射、御,術謂醫、方、卜、筮。)元嘉中,桓帝復詔無忌與黃景、崔寔等共撰《漢記》。又自采集古今,刪著事要,號曰《伏侯註》。(其書上自黃帝,下盡漢質帝,為八卷,見行於今。)無忌卒,子質嗣,官至大司農。質卒,子完嗣,尚桓帝女陽安長公主。女為孝獻皇後。曹操殺後,誅伏氏,國除。

初め、伏生以来、代々経学を伝え、清静で争わなかったため、東州では「伏は闘わず」と称されたという。

原文初,自伏生已後,世傳經學,清靜無競,故東州號為『伏不鬥』雲。

子の隆

原文子隆

隆は字を伯文といい、若い頃から節操を立てて名を知られ、(『東観記』では「隆」を「盛」とし、字を伯明とする。)郡の督郵に仕えた。建武二年、懐宮に赴き、光武帝は大いに親しく接遇した。

原文隆字伯文,少以節操立名,(東觀記「隆」作「盛」,字伯明。)仕郡督郵。建武二年,詣懷宮,光武甚親接之。

当時、張歩兄弟はそれぞれ強兵を擁し、斉の地を占拠していた。隆を太中大夫に任命し、節を持って青州・徐州の二州に使者として派遣し、郡国を招き降伏させた。隆は檄文を移して告げた。『かつて、狡猾な臣下の王莽が皇帝を殺し帝位を盗んだ。宗室が兵を起こし、乱を除き王莽を誅殺したため、群臣が推挙して聖公(劉玄)を立て、宗廟を主宰させた。しかし賊臣を用い、賢良を殺戮し、三王が乱を起こし、盗賊が横行し、天の心に逆らい、ついに赤眉軍に害された。皇天が漢を助け、聖哲が時に応じ、陛下は神武を奮い起こし、少をもって衆を制した。ゆえに尋・邑は百万の軍勢をもって昆陽で潰散し、王郎は全趙の軍勢をもって邯鄲で土崩し、大肜・高胡は旗を見て消滅し、鉄脛・五校はことごとく打ち破られた。梁王劉永は、幸いにも宗室の属籍により、侯王の爵位を得たが、飽くことを知らず、自ら禍を招き、ついに爵位を授け牧守を封じ、詐り逆をなした。今、虎牙大将軍が十万の兵を屯営し、すでに睢陽を陥落させ、劉永は奔り逃げ、家は族滅した。これは諸君の聞くところである。先んじて自ら図らなければ、後悔しても及ばない!』青州・徐州の群盗はこれを見て恐れおののき、獲索賊の右師郎ら六校は即時にことごとく降伏した。張歩は使者を隆に随行させ、宮闕に赴いて上書し、鰒魚を献上した。

原文時,張步兄弟各擁強兵,據有齊地,拜隆為太中大夫,持節使青、徐二州,招降郡國。隆移檄告曰:『乃者,猾臣王莽,殺帝盜位。宗室興兵,除亂誅莽,故群下推立聖公,以主宗廟。而任用賊臣,殺戮賢良,三王作亂,盜賊從橫,忤逆天心,卒為赤眉所害。皇天祐漢,聖哲應期,陛下神武奮發,以少制眾。故尋、邑以百萬之軍,潰散於昆陽,王郎以全趙之師,土崩於邯鄲,大肜、高胡望旗消靡,鐵脛、五校莫不摧破。梁王劉永,幸以宗室屬籍,爵為侯王,不知厭足,自求禍棄,遂封爵牧守,造為詐逆。今虎牙大將軍屯營十萬,已拔睢陽,劉永奔迸,家已族矣。此諸君所聞也。不先自圖。後悔何及!』青、徐群盜得此惶怖,獲索賊右師郎等六校即時皆降。張步遣使隨隆,詣闕上書,獻鰒魚。

その冬、隆を光禄大夫に任命し、再び張歩のもとへ派遣し、新たに任命された青州牧守および都尉とともに東へ向かわせ、詔により隆は令長以下の官をその場で任命する権限を与えられた。隆は懐柔し安撫し、多くが降伏帰附した。帝はその功績を称え、酈生に比した。即座に張歩を東萊太守に任命したが、劉永が再び使者を遣わし張歩を斉王に立てた。張歩は王爵を受けることに貪り、なお決断できなかった。隆は諭して言った。『高祖は天下と約束し、劉氏でなければ王としない、今得られるのは十万戸侯に過ぎない。』張歩は隆を留めて二州を共に守ろうとしたが、隆は聞き入れず、帰還して復命することを求めた。張歩はついに隆を拘束し、劉永の封を受け入れた。隆は密かに使者を遣わし上書した。『臣隆は使命を果たすことができず、凶逆の徒に捕らえられました。困窮の中にあっても、命を授けられたことを顧みません。また、官吏や民は張歩が反逆したことを知り、心から従っておりません。時を移さず進軍なさいますよう、臣隆のことをお考えにならないでください。臣隆が生きて宮廷に到着し、有司の手で誅殺されることが、これが最大の願いです。もし賊の手で命を落とすことになれば、父母や兄弟が長く陛下に累を及ぼすことになります。陛下と皇后、太子が永遠に万国を享受され、天と共に極まりなきことを。』帝は隆の上奏を得て、父の湛を召し出し涙を流してこれを見せ、言った。『隆は蘇武の節操があると言えよう。惜しいことに、しばらく許すと言わず、急いで帰還を求めたことだ!』その後、張歩はついに隆を殺した。当時の人々は誰もが憐れみ哀しんだ。

原文其冬,拜隆光祿大夫,復使於步,並與新除青州牧守及都尉俱東,詔隆輒拜令長以下。隆招懷綏緝,多來降附。帝嘉其功,比之酈生。即拜步為東萊太守,而劉永復遣使立步為齊王。步貪受王爵,豫未決。隆曉譬曰:『高祖與天下約,非劉氏不王,今可得為十萬戶侯耳。』步欲留隆與共守二州,隆不聽,求得反命,步遂執隆而受永封。隆遣間使上書曰:『臣隆奉使無狀,受執兇逆,雖在困厄,授命不顧。又吏人知步反畔,心不附之,願以時進兵,無以臣隆為念。臣隆得生到闕廷,受誅有司,此其大願;若令沒身寇手,以父母昆弟長累陛下。陛下與皇後、太子永享萬國,與天無極。』帝得隆奏,召父湛流涕以示之曰:『隆可謂有蘇武之節。恨不且許而遽求還也!』其後步遂殺之,時人莫不憐哀焉。

五年、張歩が平定されると、帝の車駕は北海に行幸し、詔して隆の中弟の鹹に隆の喪を収めさせ、棺と殮の品を賜り、太中大夫が喪事を護送し、瑯邪に詔して冢を作らせ、子の瑗を郎中とした。

原文五年,張步平,車駕幸北海,詔隆中弟鹹收隆喪,賜給棺斂,太中大夫護送喪事,詔告瑯邪作冢,以子瑗為郎中。

侯霸

原文侯霸

侯霸は字を君房といい、河南郡密県の人である。族父の淵は、宦官として才弁があり、元帝の時に職に任じられ、右顕らを補佐して中書を領し、大常侍と号した。成帝の時、霸を太子舎人に任じた。霸は厳かで威厳ある容貌を持ち、家には千金を蓄えていたが、産業には従事しなかった。志を篤くして学問を好み、九江太守の房元に師事し、『穀梁春秋』を研究し、元の都講となった。王莽の初め、王威司命の陳崇が霸の德行を推挙し、随県の宰に遷った。県の境界は広遠で、江湖に臨み、亡命者が多く寇盗となっていた。霸が到着すると、すぐに豪猾を糾明して誅殺し、山賊を分捕りし、県中は清静となった。再び執法刺奸に遷り、勢位のある者を糾弾しても、疑い憚ることがなかった。後に淮平大尹となり、政治に理があり能吏として名を知られた。王莽が敗れると、霸は堅固に守りを固め、ついに一郡を全うした。

原文侯霸字君房,河南密人也。族父淵,以宦者有才辯,任職元帝時,佐右顯等領中書,號曰大常侍。成帝時,任霸為太子舍人。霸矜嚴有威容,家累千金,不事產業。篤誌好學,師事九江太守房元,治《穀梁春秋》,為元都講。王莽初,王威司命陳崇舉霸德行,遷隨宰。縣界曠遠,濱帶江湖,而亡命者多為寇盜。霸到,即案誅豪猾,分捕山賊,縣中清靜。再遷為執法刺奸,糾案勢位者,無所疑憚。後為淮平大尹,政理有能名。及王莽之敗,霸保固自守,卒全一郡。

更始元年(23年)、使者を遣わして霸を召し出そうとした。百姓の老若は互いに手を取り合って号泣し、使者の車を遮り、ある者は道に臥した。皆言った。『侯君に一年だけでも留まってほしいと願います。』民の中には乳母に子を産ませないよう戒める者までおり、侯君が去れば必ずうまくいかないと言った。使者は霸が召しに応じれば臨淮が必ず乱れると考え、璽書を授けることを敢えず、詳しく状況を上奏した。ちょうど更始帝が敗れ、道路が通じなくなった。

原文更始元年|23年,遣使徵霸,百姓老弱相攜號哭,遮使者車,或當道而臥。皆曰:『願乞侯君復留期年。』民至乃戒乳婦勿得舉子,侯君當去,必不能合。使者慮霸就徵,臨淮必亂,不敢授璽書,具以狀聞。會更始敗,道路不通。

建武四年(28年)、光武帝は霸を召し出し、車駕と寿春で会い、尚書令に任命した。当時は古い法典がなく、朝廷にも旧臣が少なかった。霸は故事に明るく、遺文を収録し、前世の善政や法度で時世に有益なものを条奏し、すべて施行させた。毎年春に寬大の詔を下し、四時の令を奉じるのは、すべて霸が建議したものである。翌年、伏湛に代わって大司徒となり、関内侯に封じられた。在位中は明察で正を守り、公事を奉じて曲がることがなかった。

原文建武四年|28年,光武徵霸與車駕會壽春,拜尚書令。時無故典,朝廷又少舊臣,霸明習故事,收錄遺文,條奏前世善政法度有益於時者,皆施行之。每春下寬大之詔,奉四時之令,皆霸所建也。明年,代伏湛為大司徒,封關內侯。在位明察守正,奉公不回。

十三年、霸が薨去すると、帝は深く傷み惜しみ、自ら臨んで弔問した。詔を下して言った。『ただ霸は善を積み清廉潔白であった。職務に就いて九年。漢家の旧制では、丞相が任命されると、列侯に封じられる。朕は軍師が露営し、功臣がまだ封じられていないため、忠臣の義に縁り、互いに越えることを欲せず、爵命に及ばぬうちに、突然に終わってしまった。ああ哀しいかな!』ここにおいて追封して謚を則郷哀侯とし、食邑二千六百戸を与えた。子の昱が後を嗣いだ。臨淮の官吏や民は共に祠を立て、四季に祭った。沛郡太守の韓歆を以て霸に代わって大司徒とした。

原文十三年,霸薨,帝深傷惜之,親自臨吊。下詔曰:『惟霸積善清潔。視事九年。漢家舊制,丞相拜曰,封為列侯。朕以軍師暴露,功臣未封,緣忠臣之義,不欲相逾,未及爵命,奄然而終。嗚呼哀哉!』於是追封謚霸則鄉哀侯,食邑二千六百戶。子昱嗣。臨淮吏人共為立祠,四時祭焉。以沛郡太守韓歆代霸為大司徒。

歆は字を翁君といい、南陽の人で、攻伐に従って功績があり、扶陽侯に封じられた。直言を好み、隠し立てがなく、帝はしばしば容れることができなかった。かつて朝会の際、帝が隗囂と公孫述の互いの書簡を読むのを聞き、歆は言った。『亡国の君にも皆才能があり、桀や紂にも才能があった。』帝は大いに怒り、挑発していると考えた。歆はまた、今年は凶作と飢饉が起こると証言し、天を指し地を画き、言葉は非常に厳しく痛烈であったため、坐して免職され田舎に帰された。帝はなおも許さず、再び使者を遣わし詔を宣して責めた。司隸校尉の鮑永が固く請うたが得られず、歆と子の嬰はついに自殺した。歆は平素から重い名声があり、罪なくして死んだため、多くの者が納得せず、帝はついに銭穀を追賜し、礼を成して葬らせた。

原文歆字翁君,南陽人,以從攻伐有功,封扶陽侯。好直言,無隱諱,帝每不能容。嘗因朝會,聞帝讀隗囂、公孫述相與書,歆曰:『亡國之君皆有才,桀、紂亦有才。』帝大怒,以為激發。歆又證歲將饑兇,指天畫地,言甚剛切,坐免歸田裏。帝猶不釋,復遣使宣詔責之。司隸校尉鮑永固請不能得,歆及子嬰竟自殺。歆素有重名,死非其罪,眾多不厭,帝乃追賜錢穀,以成禮葬之。

その後、千乗の欧陽歙、清河の戴涉が相次いで大司徒となったが、事に坐して獄に下され死に、これ以降、大臣は相の任に居ることが難しくなった。その後、河内の蔡茂、京兆の玉況、魏郡の馮勤は、皆その位で薨去することができた。況は字を文伯といい、性質聡敏で、陳留太守となり、德行をもって人を教化し、司徒に遷り、四年で薨去した。

原文後千乘歐陽歙、清河戴涉相代為大司徒,坐事下獄死,自是大臣難居相任。其後,河內蔡茂、京兆玉況、魏郡馮勤,皆得薨位。況字文伯,性聰敏,為陳留太守,以德行化人,遷司徒,四年薨。

昱は後に於陵侯に転封され、永平年間に太僕を兼ねた。昱が卒すると、子の建が後を嗣いだ。建が卒すると、子の昌が後を嗣いだ。

原文昱後徒封於陵侯,永平中兼太僕。昱卒,子建嗣。建卒,子昌嗣。

宋弘

原文宋弘

宋弘は字を仲子といい、京兆長安の人である。父の尚は、成帝の時に少府となった。哀帝が即位すると、董賢に附かず、逆らって罪に当たった。弘は若い頃から温順で、哀帝・平帝の間に侍中となり、王莽の時に共工となった。赤眉軍が長安に入ると、使者を遣わして弘を召し出そうとした。逼迫してやむを得ず、渭橋まで行くと、自ら水に投身した。家人が救い出したが、仮死を装って免れることができた。

原文宋弘字仲子,京兆長安人也。父尚,成帝時至少府。哀帝立,以不附董賢,違忤抵罪。弘少而溫順,哀、平間作侍中,王莽時為共工。赤眉入長安,遣使徵弘,逼迫不得已,行至渭橋,自投於水,家人救得出,因佯死獲免。

光武帝が即位すると、召し出して太中大夫に任命した。建武二年、王梁に代わって大司空となり、栒邑侯に封じられた。得た租税や俸禄を九族に分け与え、家には資産がなく、清廉な行いで称えられた。宣平侯に転封された。

原文光武即位,徵拜太中大夫。建武二年,代王梁為大司空,封栒邑侯。所得租奉分贍九族,家無資產,以清行致稱。徙封宣平侯。

帝はかつて学識広博な士について尋ねた。宋弘は沛国の醒譚を推薦し、その才能と学問が広く知られており、ほとんど楊雄や劉向父子に及ぶと述べた。そこで譚を召し出して議郎・給事中に任じた。帝は宴会のたびに譚に琴を弾かせ、その複雑な音色を好んだ。弘はこれを聞いて喜ばず、推薦を後悔し、譚が宮中から出てくるのを待ち、正装して役所に座り、役人を遣わして譚を呼び寄せた。譚が到着すると、席を与えずに譴責して言った。『私があなたを推薦したのは、道徳をもって国家を補佐させたいと思ったからだ。しかし今、あなたはしばしば鄭の音楽を進めて雅や頌を乱している。これは忠正な者ではない。自分で改めることができるか?それとも法に基づいて糾弾させようか?』譚は頭を地に付けて謝罪し、しばらくしてからようやく帰された。後に群臣が大いに集まった時、帝は譚に琴を弾かせた。譚は弘を見て、平常の落ち着きを失った。帝は怪しんで理由を尋ねた。弘は席を離れ冠を脱いで謝罪して言った。『臣が醒譚を推薦したのは、忠正をもって主君を導くことを望んだからです。しかし朝廷に鄭の音楽を耽溺させてしまいました。これは臣の罪です。』帝は表情を改めて謝り、弘に冠を戻させ、その後は二度と譚を給事中に任じることはなかった。弘は賢士の馮翊桓梁ら三十余人を推挙し、そのうち公卿にまでなった者もいた。

原文帝嘗問弘通博之士,弘乃薦沛國醒譚才學洽聞,幾能及楊雄、劉向父子。於是召譚拜議郎、給事中。帝每宴,輒令鼓琴,好其繁聲。弘聞之不悅,悔於薦舉,伺譚內出,正朝服坐府上,遣吏召之。譚至,不與席而讓之曰:『吾所以薦子者,欲令輔國家以道德也,而今數進鄭聲以亂《雅》、《頌》,非忠正者也。能自改邪?將令相舉以法乎?』譚頓首辭謝,良久乃遣之。後大會群臣,帝使譚鼓琴,譚見弘,失其常度。帝怪而問之。弘乃離席免冠謝曰:『臣所以薦醒譚者,望能以忠正導主,而令朝廷耽悅鄭聲,臣之罪也。』帝改容謝,使反服,其後遂不復令譚給事中。弘推進賢士馮翊桓梁三十餘人,或相及為公卿者。

弘が宴会で謁見した時、御座の新しい屏風に列女の絵が描かれていた。帝はしばしばそれを見ていた。弘は厳しい表情で言った。『徳を好むことが色を好むようであるということは、まだ見たことがありません。』帝はすぐにそれを取り除かせた。笑って弘に言った。『義を聞けば従うということで、よいか?』弘は答えた。『陛下が徳を進められることは、臣にとってこの上ない喜びです。』

原文弘當宴見,御坐新屏風,圖畫列女,帝數顧視之。弘正容言曰:『未見好德如好色者。』帝即為徹之。笑謂弘曰:『聞義則服,可乎?』對曰:『陛下進德,臣不勝其喜。』

当時、帝の姉の湖陽公主が新たに未亡人となっていた。帝は彼女と共に朝臣について論じ、そっと彼女の本心を探った。公主は言った。『宋公(宋弘)の威厳ある容貌と徳の器量は、群臣の中で誰も及ぶ者はいません。』帝は言った。『ちょうどそのことを考えているところだ。』後に弘が引見されると、帝は公主を屏風の後ろに座らせ、弘に言った。『諺に「貴くなれば交わりを変え、富めば妻を変える」というが、これは人情か?』弘は言った。『臣は聞きます。貧賤の時の知り合いは忘れてはならず、糟糠の妻は堂から下ろしてはならないと。』帝は公主の方を振り返って言った。『話はまとまらなかったな。』

原文時帝姊湖陽公主新寡,帝與共論朝臣,微觀其竭。主曰:『宋公威容德器,群臣莫及。』帝曰:『方且圖之。』後弘被引見,帝令主坐屏風後,因謂弘曰:『諺言「貴易交,富易妻」,人情乎?』弘曰:『臣聞貧賤之知不可忘,糟糠之妻不下堂。』帝顧謂主曰:『事不諧矣。』

弘は在位五年で、上党太守の考課について根拠がないということで罪に問われ、免職されて邸宅に帰った。数年後に死去し、子がなかったため、封国は除かれた。

原文弘在位五年,坐考上黨太守無所據,免歸第。數年卒,無子,國除。

弘の弟の嵩は、剛強で孝行かつ烈しいことで著名であり、官は河南尹に至った。嵩の子の由は、元和年間に太尉となったが、竇憲に阿党した罪で、策書により免職され本郡に帰り、自殺した。由には二人の子がいた。漢と登である。登は『儒林伝』にある。

原文弘弟嵩,以剛強孝烈著名,官至河南尹。嵩子由,元和間為太尉,坐阿黨竇憲,策免歸本郡,自殺。由二子:漢、登。登在《儒林傳》。

漢について。

原文漢

漢は字を仲和といい、経学と品行で著名となり、茂才に挙げられ、四度の転任を経て西河太守となった。永建元年、東平相・度遼將軍となり、名節を立て、威厳と恩恵で称えられた。太僕に転じたが、病気を理由に自ら辞任を願い出て、太中大夫に任じられ、死去した。策書に言う。『太中大夫宋漢は、清廉で雪のように白く、正直で邪心がない。以前に辺境にあってなお軍務を統率し、異民族を懐柔し、その功績はすべて称えられるものであった。兵車は収められ、辺境の民は安寧を得た。朕はその功績を記録し、九卿の列に引き上げた。病気により退き譲り、節操を守ってますます堅固であった。三公の職を授けようとしたが、果たせずに終わった。朝廷は哀悼し、その悲しみに心を痛める。『詩経』に言わないか。「敏速に軍功を立て、それであなたに福を与える」と。将相大夫をして会葬させ、さらに十万銭を賜う。また、その殯の間、全き素絲と羔羊の潔白さを以てせよ。』

原文漢字仲和,以經行著名,舉茂才,四遷西河太守。永建元年,為東平相、度遼將軍,立名節,以威恩著稱。遷太僕,上病自乞,拜太中大夫,卒。策曰:『太中大夫宋漢,清修雪白,正直無邪。前在方外,仍統軍實,懷柔異類,莫匪嘉績,戎車載戢,邊人用寧。予錄乃勛,引登九列。因病退讓,守約彌堅,將授三事,未克而終。朝廷湣悼,怛其愴然。《詩》不雲乎:「肇敏戎功,用錫爾祉。」其令將相大夫會葬,加賜錢十萬,及其在殯,以全素絲羔羊之潔焉。』

則について。

原文則

子の則は、字を元矩といい、鄢陵令となり、やはり名声と事績があった。同郡の韋著と扶風の法真を抜擢し、人を見る目があると称された。則の子が十歳の時、下僕と共に弩で射をしていた。下僕の弦が切れて矢が勢いよく飛び、誤って則の子に当たり、即死した。奴隷は叩頭して誅殺を願い出たが、則は事情を察して許した。潁川の荀爽はこれを大いに美しいことと思い、当時の人々も感服した。

原文子則,字元矩,為鄢陵令,亦有名跡。拔同郡韋著、扶風法真,稱為知人。則子年十歲,與蒼頭共弩射,蒼頭弦斷矢激,誤中之,即死。奴叩頭就誅,則察而恕之。潁川荀爽深以為美,時人亦服焉。

論じて言う。中興以後、台輔の地位にあって権力を総攬する者は多かったが、その職務に堪えて名声を得た者は、遠大な事業を先にして細末な技術を後にするからではなかったか。故に恵公(宋弘)は軽率な行動をせず、郷射の礼を急いだ。君房(宋弘)が朝廷に入ると、まず寛大な法令を奏上した。器量が広い者は近い用途に使われず、道が長い者はその功績が遠くまで及ぶ。これは志士仁人が心の根底とするものである。君子はこれによって得ても、もとより貴い。これによって失っても、また得るのである。宋弘が繁声を止め、淫色を戒めたのは、『関雎』の風があったのではないか。

原文論曰:中興以後,居臺相總權衡多矣,其能以任職取名者,豈非先遠業後小數哉?故惠公造次,急於鄉射之禮;君房入朝,先奏寬大之令。夫器博者無近用,道長者其功遠,蓋誌士仁人所為根心者也。君子以之得,固貴矣;以之失,亦得矣。宋弘止繁聲,戒淫色,其有《關雎》之風乎!

蔡茂について。

原文蔡茂

蔡茂は字を子禮といい、河内郡懐県の人である。哀帝・平帝の間に儒学で顕著となり、博士に試験的に召され、災異についての策問に答え、高等の成績で議郎に抜擢され、侍中に転じた。王莽が摂政となると、病気を理由に自ら免職を願い出て、王莽の朝廷には仕えなかった。

原文蔡茂字子禮,河內懷人也。哀、平間以儒學顯,徵試博士,對策陳災異,以高等擢拜議郎,遷侍中。遇王莽居攝,以病自免,不仕莽朝。

天下が乱れると、茂はもとより竇融と親しくしていたので、難を避けて彼のもとに帰った。融は茂を張掖太守にしようとしたが、固辞して就任しなかった。融から与えられる供給物は、家族の人数分だけを受け取るだけであった。後に融と共に召し出され、再び議郎に任じられ、さらに転じて広漢太守となり、善政の評判があった。当時、陰氏の賓客が郡内でしばしば官吏の禁令を犯していたが、茂はすぐに糾弾し取り調べ、遠慮することはなかった。ちょうど洛陽令の董宣が湖陽公主を糾弾した事件があり、帝は最初は怒って宣を捕らえたが、後に赦した。茂は宣の剛直さを喜び、朝廷に貴戚を禁制させようと思い、上書して言った。『臣は聞きます。教化を興し致すには、必ず善を進めることによる。国を安んじ人を寧ろしめるには、悪を理めることに勝るものはないと。陛下の聖徳は継承され、再び天命を隆盛にされ、即位以来、四海は平穏です。誠に夙に興き夜に寐て、たとえ休むべき時でも休まずにいられるべきです。しかし近ごろ、貴戚や后妃の家が、しばしば恩寵と権勢に因って、官吏の禁令を犯し、人を殺しても死罪にせず、人を傷つけても罪に問わない。臣は恐れます。縄墨が捨てられて用いられず、斧斤が廃されて挙げられないことを。近ごろ湖陽公主の奴隷が西市で人を殺し、公主と共に車に乗り、宮省を出入りし、罪を逃れて日を重ね、冤魂が報いられませんでした。洛陽令の董宣は、まっすぐな道を顧みず、公主に干渉して奸を討ちました。陛下はまず事情を明らかに審査されず、召し出して鞭打ちを加えようとされました。宣が怒りを受けた初め、京師は耳をそばだて、その赦免を受けた時、天下は目を見張りました。今、外戚は驕り高ぶり、賓客は放縦で濫りがあります。司の官に命じて奸罪を取り調べさせ、公平な執務を行う吏が永くその職務を全うできるようにし、遠近の締まりのない心情を満足させるべきです。』光武帝はこれを聞き入れた。

原文會天下擾亂,茂素與竇融善,因避難歸之。融欲以為張掖太守,固辭不就;每所餉給,計口取足而已。後與融俱徵,復拜議郎,再遷廣漢太守,有政績稱。時陰氏賓客在郡界多犯吏禁,茂輒糾案,無所回避。會洛陽令董宣舉糾湖陽公主,帝始怒收宣,既而赦之。茂喜宣剛正,欲令朝廷禁制貴戚,乃上書曰:『臣聞興化致教,必由進善;康國寧人,莫大理惡。陛下聖德系興,再隆大命,即位以來,四海晏然。誠宜夙興夜寐,雖休勿休。然頃者貴戚椒房之家,數因恩勢,幹犯吏禁,殺人不死,傷人不論。臣恐繩墨棄而不用,斧斤廢而不舉。近湖陽公主奴殺人西市,而與主共輿,出入宮省,逋罪積日,冤魂不報。洛陽令董宣,直道不顧,幹主討奸。陛下不先澄審,召欲加箠。當宣受怒之初,京師側耳;及其蒙宥,天下試目。今者,外戚憍逸,賓客放濫,宜敕有司案理奸罪,使執平之吏永申其用,以厭遠近不緝之情。』光武納之。

建武二十年、戴渉に代わって司徒となり、在職中は清廉で倹約し、怠ることがなかった。二十三年、在職中に死去した。七十二歳であった。東園の梓の棺を賜り、葬儀の贈り物は非常に厚かった。

原文建武二十年,代戴涉為司徒,在職清儉匪懈。二十三年薨於位,時年七十二。賜東園梓棺,賻贈甚厚。

茂が初めて広漢にいた時、大殿に座っている夢を見た。棟の上に三本の穂が生えた禾があり、茂が跳び上がってそれを取ると、その中の穂を得たが、すぐにまたそれを失った。主簿の郭賀に尋ねると、賀は席を離れて祝って言った。『大殿とは、宮府の形象です。棟に禾があるのは、人臣の上等な俸禄です。中の穂を取るのは、中台(司徒)の地位です。字において、禾を失うのは「秩」です。失うと言っても、それによって禄秩を得るのです。袞職(三公の職)に欠けがあるなら、あなたがそれを補うでしょう。』一ヶ月もしないうちに茂は召し出され、賀を掾に辟召した。

原文茂初在廣漢,夢坐大殿,極上有三穗禾,茂跳取之,得其中穗,輒復失之。以問主簿郭賀,賀離席慶曰:『大殿者,宮府之形象也。極而有禾,人臣之上祿也。取中穗,是中臺之位也。於字禾失為秩,雖曰失之,乃所以得祿秩也。袞職有闕,君其補之。』旬月而茂徵焉,乃辟賀為掾。

郭賀

原文郭賀

郭賀は字を喬卿といい、洛の人である。祖父の堅伯と父の遊君はともに清節を修め、王莽に仕えなかった。郭賀は法令に明るく、官を重ねて建武年間に尚書令となった。在職六年、故事に通暁し、多くを匡正補益した。荊州刺史に任じられ、引見されて賞賜を受け、恩寵は格別に厚かった。任地に着くと、優れた政績を上げた。民衆はそれを喜び、歌った。『その徳は仁明、郭喬卿、忠正にして朝廷上下平らかなり』と。顕宗が巡狩して南陽に至った時、特にその様子を見て感嘆し、三公の服である黼黻と冕旒を賜った。行部する際の車の帷を取り去るよう命じ、民衆にその容姿と服を見せ、有徳者であることを顕彰させた。通る所々で、役人や民衆が指さして互いに示し合い、栄誉としなかった者はなかった。永平四年、河南尹に召されて任じられ、清静な政治で称えられた。在官三年で死去した。詔書は哀惜の意を示し、車一乗、銭四十万を賜った。

原文賀字喬卿,洛人。祖父堅伯,父遊君,並修清節,不仕王莽。賀能明法,累官,建武中為尚書令,在職六年,曉習故事,多所匡益。拜荊州刺史,引見賞賜,恩寵隆異,及到宮,有殊政。百姓便之,歌曰:『厥德仁明郭喬卿,忠正朝廷上下平。』顯宗巡狩到南陽,特見嗟嘆,賜以三公之服,黼黻冕旒。敕行部去襜帷,使百姓見其容服,以章有德。每所經過,吏人指以相示,莫不榮之。永平四年,徵拜河南尹,以清靜稱。在官三年卒,詔書慜惜,賜車一乘,錢四十萬。

馮勤

原文馮勤

馮勤は字を偉伯といい、魏郡繁陽の人である。曾祖父の揚は、宣帝の時に弘農太守となった。八人の子がおり、皆二千石の官に就き、趙・魏の間で栄誉とされ、『万石君』と号された。兄弟は皆体が大きくたくましかったが、ただ馮勤の祖父の偃だけは身長が七尺に満たず、常に自らその短小なことを恥じ、子孫が自分に似ることを恐れた。そこで子の伉に背の高い妻を娶らせた。伉が馮勤を生んだが、身長は八尺三寸あった。八歳で計算に長じた。

原文馮勤字偉伯,魏郡繁陽人也。曾祖父揚,宣帝時為弘農太守。有八子,皆為二千石,趙魏間榮之,號曰『萬石君』焉。兄弟形皆偉壯,唯勤祖父偃,長不滿七尺,常自恥短陋,恐子孫之似也,乃為子伉娶長妻。伉生勤,長八尺三寸。八歲善計。

初めは太守の銚期の功曹となり、高い能力で称えられた。銚期は常に光武帝に従って征伐し、政事は一切馮勤に委ねた。馮勤の同県の馮巡らが兵を挙げて光武帝に呼応しようとしたが、謀は未だ成就せず、豪族の焦廉らに裏切られた。馮勤は老母、兄弟および宗族を率いて銚期のもとに帰順した。銚期は皆を腹心とし、光武帝に推薦した。初めは用いられなかったが、後に郎中に任じられ、尚書に給事した。軍糧の計画・議論に当たり、職務に精励したため、次第に親しく認められるようになった。引き入れられる度に、帝は左右の者を顧みて言った。『なんと良い官吏か』と。これにより諸侯の封爵に関する事務を司らせることになった。馮勤は功績の順序の軽重、封国までの距離の遠近、地勢の豊かさや貧しさを比較考量し、互いに越えることがなく、皆が心服した。これ以降、封爵の制度は馮勤が決めなければ定まらなかった。帝はますますその才能を認め、尚書の諸事を全て総覧させた。

原文初為太守銚期功曹,有高能稱。期常從光武征伐,政事一以委勤。勤同縣馮巡等舉兵應光武,謀未成而為豪右焦廉等所反,勤乃率將老母、兄弟及宗親歸期,期悉以為腹心,薦於光武。初未被用,後乃除為郎中,給事尚書。以圖議軍糧,在事精勤,遂見親識。每引進,帝輒顧謂左右曰:『佳乎吏也!』由是使典諸侯封事。勤差量功次輕重,國土遠近,地勢豐薄,不相逾越,莫不厭服焉。自是封爵之制,非勤不定。帝益以為能,尚書眾事,皆令總錄之。

司徒の侯霸が前梁県令の閻楊を推薦した。閻楊は平素から批判的な言論があり、帝は常に彼を嫌っていた。侯霸の上奏を見て、何か奸計があるのではないかと疑い、大いに怒り、侯霸に璽書を賜って言った。『崇山や幽都(辺境の地)とどうして並び得ようか。黄鉞が一度下れば行く所はない。身をもって法を試そうというのか。それとも身を殺して仁を成そうというのか』。馮勤に策書を持たせて司徒府に遣わした。馮勤が戻り、侯霸の本来の意図を述べ、事の道理を説明すると、帝の怒りは少し解けた。馮勤を尚書仆射に任じた。職務に十五年勤め、勤労により関内侯の爵位を賜った。尚書令に転じ、大司農に任じられ、三年で司徒に昇進した。

原文司徒侯霸薦前梁令閻楊。楊素有譏議,帝常嫌之,既見霸奏,疑其有奸,大怒,賜霸璽書曰:『崇山、幽都何可偶,黃鉞一下無處所。欲以身試法邪?將殺身以成仁邪?』使勤奉策至司徒府。勤還,陳霸本意,申釋事理,帝意稍解,拜勤尚書仆射。職事十五年,以勤勞賜爵關內侯。遷尚書令,拜大司農,三歲遷司徒。

これ以前、三公は多く罪を得て退けられていた。帝は馮勤を賢臣とし、善終させたいと思い、宴席での謁見の際に、ゆったりと彼を戒めて言った。『朱浮は上は君に忠誠を尽くさず、下は同僚を陵轢し、ついに中傷されて今日に至り、生死吉凶も未だ知れない。惜しいことではないか。人臣が放逐され誅殺されるなら、たとえ後に賞賜や葬儀の贈り物を追加しても、計り知れない身の代償には足りない。忠臣孝子は、前世の事跡を照らし見て、鏡と戒めとするのだ。国に忠を尽くし、君に仕えて二心なきならば、爵禄と賞賜は当世に光り輝き、功績と名は不朽に列せられる。努め励まぬことがあろうか』。馮勤はますます恭しく倹約し、忠を尽くし、職務に適任と称えられた。

原文先是,三公多見罪退,帝賢勤,欲令以善自終,乃因宴見從容戒之曰:『朱浮上不忠於君,下陵轢同列,竟以中傷至今,死生吉兇未可知,豈不惜哉!人臣放逐受誅,雖復追加賞賜賻祭,不足以償不訾之身。忠臣孝子,覽照前世,以為鏡誡。能盡忠於國,事君無二,則爵賞光乎當世,功名列於不朽,可不勉哉!』勤愈恭約盡忠,號稱任職。

馮勤の母は八十歳で、謁見の度に、詔により拝礼を免除され、御者に命じて殿上に扶け上げさせられた。帝は諸侯王や公主たちを見て言った。『馮勤を貴寵させたのは、この母である』。このように親しく重んじられた。中元元年、馮勤は死去した。帝は悼み惜しみ、使者を遣わして弔問祭祀を行わせ、東園の秘器を賜り、贈り物は通常より増やされた。

原文勤母年八十,每會見,詔敕勿拜,令御者扶上殿,顧謂諸王主曰:『使勤貴寵者,此母也。』其見親重如此。中元元年,薨,帝悼惜之,使者吊祠,賜東園秘器,赗贈有加。

馮勤には七人の子がいた。長子の宗が後を継ぎ、張掖属国都尉に至った。中子の順は平陽長公主を娶り、大鴻臚の官で終わった。建初八年、順の中子の奮が主爵を襲い平陽侯となったが、死去し子がなかった。永元七年、詔書により奮の兄で羽林右監の勁を再び平陽侯に封じ、公主の祭祀を奉じさせた。奮の弟の由は黄門侍郎で、平安公主を娶った。勁が死去し、子の卯が後を継いだ。卯は延光年間に侍中となり、死去し、子の留が後を継いだ。

原文勤七子。長子宗嗣,至張掖屬國都尉。中子順,尚平陽長公主,終於大鴻臚。建初八年,以順中子奮襲主爵為平陽侯,薨,無子。永元七年,詔書復封奮兄羽林右監勁為平陽侯,奉公主之祀。奮弟由,黃門侍郎,尚平安公主。勁薨,子卯嗣。卯延光中為侍中,薨,子留嗣。

趙憙

原文趙憙

趙憙は字を伯陽といい、南陽郡宛県の人である。若い頃から節操があった。従兄が人に殺されたが、子がなかった。趙憙は十五歳の時、常に仇討ちを考えていた。そこで武器を持ち同志を結集し、後に遂に仇討ちに出かけた。ところが仇の一家は皆病気にかかっており、抵抗する者はいなかった。趙憙は病気に乗じて殺すのは仁者の心ではないと考え、彼らを解放して去った。振り返って仇たちに言った。『お前たちもし元気になったら、遠くへ避難しろ』。仇たちは皆寝たまま手を打って悔しがった。後日病気が治ると、皆自ら縛られて趙憙のもとに来た。趙憙は彼らと会おうとせず、後に遂に殺した。

原文趙憙字伯陽,南陽宛人也。少有節操。從兄為人所殺,無子,憙年十五,常思報之。乃挾兵結客,後遂往復仇。而仇家皆疾病,無相距者。憙以因疾報殺,非仁者心,且釋之而去。顧謂仇曰:『爾曹若健,遠相避也。』仇皆臥自搏。後病愈,悉自縛詣憙,憙不與相見,後竟殺之。

更始帝が即位すると、舞陰県の大姓の李氏が城を守って降伏しなかった。更始帝は柱天将軍の李宝を遣わして降伏させようとしたが、李氏は肯まず、言った。『宛の趙氏に孤孫の趙憙がおり、信義で著名だと聞く。彼に降伏したい』。更始帝は趙憙を召し出した。趙憙はまだ二十歳に満たなかったが、引見されると、更始帝は笑って言った。『繭や栗ほどの小牛が、どうして重荷を背負って遠くまで行けようか』。すぐに郎中に任じ、偏将軍の職務を行わせ、舞陰に赴かせたところ、李氏は遂に降伏した。趙憙は機に乗じて潁川に入り、降伏しない者どもを攻撃し、汝南郡の境界を経て、宛に戻った。更始帝は大いに喜び、趙憙に言った。『卿は名家の駿馬だ。努力して励め』。ちょうど王莽が王尋と王邑に兵を率いさせて関を出た時だった。更始帝は趙憙を五威偏将軍に任じ、諸将を助けて昆陽で王尋と王邑を防がせた。光武帝が王尋と王邑を破ると、趙憙は傷を負い、戦功があったため、戻って中郎将に任じられ、勇功侯に封じられた。

原文更始即位,舞陰大姓李氏擁城不下,更始遣柱天將軍李寶降之,不肯,雲:『聞宛之趙氏有孤孫憙,信義著名,願得降之。』更始乃徵憙。憙年未二十,既引見,更始笑曰:『繭栗犢,豈能負重致遠乎?』即除為郎中,行偏將軍事,使詣舞陰,而李氏遂降。憙因進入潁川,擊諸不下者,歷汝南界,還宛。更始大悅,謂憙曰:『卿名家駒,努力勉之。』會王莽遣王尋、王邑將兵出關,更始乃拜憙為五威偏將軍,使助諸將拒尋、邑於昆陽。光武破尋、邑,憙被創,有戰勞,還拜中郎將,封勇功侯。

更始帝が敗れると、趙憙は赤眉軍に包囲され、追い詰められた。そこで屋根を越えて逃げ出し、親友の韓仲伯ら数十人と、幼弱な者を連れ、山の険を越え、まっすぐに武関から出た。韓仲伯は自分の妻が美しいので、乱暴者に襲われ、自分も害を受けることを憂慮し、途中で妻を捨てようとした。趙憙は責めて怒り、聞き入れず、泥で韓仲伯の妻の顔を塗り、鹿車に乗せ、自らそれを押した。道中で賊に遭う度に、略奪や暴行を加えようとする者がいたが、趙憙はいつも彼女が病気である様子を言い、これによって難を免れた。丹水県に入ると、更始帝の親族に遭遇した。皆裸足で泥まみれになり、飢え疲れて前に進めなかった。趙憙はそれを見て悲しみ、携えていた絹織物や物資食糧を全て彼らに与え、保護して故郷に送り届けた。

原文更始敗,憙為赤眉兵所圍,迫急,乃逾屋亡走,與所友善韓仲伯等數十人,攜小弱,越山阻,徑出武關。仲伯以婦色美,慮有強暴者,而已受其害,欲棄之於道。憙責怒不聽,因以泥塗伯仲婦面,載以鹿車,身自推之。每道逢賊,或欲逼略,憙輒言其病狀,以此得免。既入丹水,遇更始親屬,皆裸跣塗炭,饑困不能前。憙見之悲感,所裝縑制資糧,悉以與之,將護歸鄉裏。

当時、鄧奉が南陽で反乱を起こした。趙憙は平素から鄧奉と親しかったが、何度も手紙を送って厳しく責めた。ところが讒言する者が趙憙が鄧奉と共謀していると誣告したため、帝は疑いを抱いた。鄧奉が敗れると、帝は趙憙の手紙を得て、驚いて言った。『趙憙は真の長者である』。すぐに趙憙を召し出し、引見して鞍と馬を賜り、公車で詔を待たせた。当時、江南はまだ帰順せず、道路も通じていなかった。趙憙を簡陽侯相として守らせようとした。趙憙は兵を受け取ろうとせず、単車で簡陽に馳せた。役人や民衆は趙憙を受け入れたがらなかったので、趙憙は説得し、城中の有力者を呼び出し、国家の威信を示した。その首領はすぐに城門を開き、自ら縛られて帰順した。これにより諸営塁は全て降伏した。荊州牧が趙憙の才能は難事を処理するに適任であると上奏したので、詔により平林侯相とした。群賊を攻撃し、既に降伏した者を安集し、県邑を平定した。

原文時,鄧奉反於南陽,憙素與奉善,數遺書切責之,而讒者因方憙與奉合謀,帝以為疑。及奉敗,帝得憙書,乃驚曰:『趙憙真長者也。』即徵憙,引見,賜鞍馬,待詔公車。時,江南未賓,道路不通,以憙守簡陽侯相。憙不肯受兵,單車馳之簡陽。吏民不欲內憙憙,憙乃告譬,呼城中大人,示以國家威信,其帥即開門面縛自歸,由是諸營壁悉降。荊州牧奏憙才任理劇,詔以為平林侯相。攻擊群賊,安集已降者,縣邑平定。

後に懐県令に任じられた。大姓の李子春は以前瑯邪相であったが、豪強で狡猾で土地を併合し、人々に恐れられていた。趙憙が着任すると、彼の二人の孫が人を殺した事件がまだ発覚していないと聞き、すぐにその奸計を徹底的に追及し、李子春を逮捕して取り調べた。二人の孫は自殺した。京師から数十人が請願したが、趙憙は終に聞き入れなかった。当時、趙王の劉良が病気で危篤に瀕し、車駕が自ら趙王を見舞い、言いたいことがあるかと尋ねた。趙王は言った。『平素から李子春と親しくしていた。今、罪を犯し、懐県令の趙憙が彼を殺そうとしている。どうか命を乞いたい』。帝は言った。『官吏は法を奉じる。法律を曲げることはできない。他の望みを言いなさい』。趙王はそれ以上何も言わなかった。趙王が薨去すると、帝は趙王を追憶し、李子春を赦免して出獄させた。

原文後拜懷令。大姓李子春先為瑯邪相,豪猾並兼,為人所患。憙下車,聞其二孫殺人事未發覺,即窮詰其奸,收考子春,二孫自殺。京師為請者數十,終不聽。時,趙王良疾病將終,車駕親臨王,問所欲言。王曰:『素與李子春厚,今犯罪,懷令趙憙欲殺之,願乞其命。』帝曰:『吏奉法,律不可枉也,更道它所欲。』王無復言。既薨,帝追感趙王,乃貰出子春。

その年、趙憙は平原太守に転任した。当時、平原には多くの盗賊がおり、趙憙は諸郡とともに討伐・捕縛し、その首領を斬り、残りの徒党で罪に当たる者は数千人に及んだ。趙憙は上奏して言った。『悪を憎むのはその本人に限るべきであり、一律に京師近くの郡に移すことができます。』帝はこれに従い、すべてを潁川や陳留に移住させた。そこで義行を推挙し、奸悪を誅鋤した。後に青州で大規模な蝗害こうがいが発生したが、平原の境界に入るとすぐに死に、毎年豊作が続き、民衆は彼を称える歌を歌った。

原文其年,遷憙平原太守。時,平原多盜賊,憙與諸郡討捕,斬其渠帥,餘黨當坐者數千人。憙上言:『惡惡止其身,可一切徙京師近郡。』帝從之,乃悉移置潁川、陳留。於是擢舉義行,誅鋤奸惡。後青州大蝗,侵入平原界輒死,歲屢有年,百姓歌之。

建武二十六年、帝は内戚を集めて宴会を開き、大いに楽しんだ。諸夫人たちはそれぞれ進み出て言った。『趙憙は義に篤く、恩情が深い。かつて赤眉軍の難で長安を出た時、私たちは皆、趙憙によって救われ、生き延びました。』帝は大いに彼を称賛した。後に趙憙を召し出して太僕とし、引見して言った。『卿は英雄たちに守られただけでなく、婦人たちも卿の恩を心に留めている。』手厚く賞賜を加えた。

原文二十六年,帝延集內戚宴會,歡甚,諸夫人各各前言『趙憙篤義多恩,往遭赤眉出長安,皆為憙所濟活』。帝甚嘉之。後徵憙入為太僕,引見謂曰:『卿非但為英雄所保也,婦人亦懷卿之恩。』厚加賞賜。

建武二十七年、太尉に任じられ、関内侯の爵位を賜った。当時、南匈奴が臣下を称し、烏桓や鮮卑も共に来朝した。帝は趙憙に辺境の事務を司らせ、長久の計を考えさせた。趙憙は辺境の諸郡を復興するよう上奏し、幽州と并州はこれによって安定した。

原文二十七年,拜太尉,賜爵關內侯。時,南單於稱臣,烏桓、鮮插並來入朝,帝令憙典邊事,思為久長規。憙上復緣邊諸郡,幽、并二州由是而定。

建武三十年、趙憙は封禅を行うべきであり、三雍の礼を正すべきだと上奏した。中元元年、泰山の封禅に従った。帝が崩御すると、趙憙は遺詔を受け、喪礼を司った。この時、藩王たちは皆、京師にいたが、王莽の簒奪と混乱以来、旧来の典章は失われており、皇太子と東海王などが雑然と同席し、秩序がなかった。趙憙は厳しい表情で、殿の階段に剣を横たえ、諸王を扶け下ろして、尊卑を明らかにした。当時、藩国の官属が宮省に出入りし、百官と区別がなかったため、趙憙は謁者に護衛させ、他の県に分けて滞在させ、諸王には皆邸宅に就くよう命じ、朝夕の拝礼時のみ入朝させるよう上表した。礼儀を整え、門衛を厳しくし、内外は粛然とした。

原文三十年,憙上言宜封禪,正三雍之禮。中元元年,從封泰山。及帝崩,憙受遺詔,典喪禮。是時,藩王皆在京師,自王莽篡亂,舊典不存,皇太子與東海王等雜止同席,憲章無序。憙乃正色,橫劍殿階,扶下諸王,以明尊卑。時,藩國官屬出入宮省,與百僚無別,憙乃表奏謁者將護,分止它縣,諸王並令就邸,唯朝晡入臨。整禮儀,嚴門衛,內外肅然。

永平元年、節郷侯に封じられた。三年の春、中山国の相である薛脩の事を調査して事実と合わなかった罪により免官された。その冬、竇融に代わって衛尉となった。八年、虞延に代わって太尉の事務を執り行い、府に居て本官同様に振る舞った。後に母の喪に遭い、上疏して官を辞し喪礼を行いたいと請うたが、顕宗は許さず、使者を遣わして喪服を脱がせ、賞賜と恩寵を大変厚くした。趙憙は内では宿衛を司り、外では宰相の職務を処理し、身を正して朝廷に立ち、怠惰になることはなかった。帝が崩御すると、再び喪事を司り、大行皇帝に再び奉仕し、礼事を整えて行った。粛宗が即位すると、太傅に進み、尚書事を録した。七人の子を郎吏に抜擢した。長子の趙代は給事黄門となった。

原文永平元年,封節鄉侯。三年春,坐考中山相薛脩事不實免。其冬,代竇融為衛尉。八年,代虞延行太尉事,居府如真。後遭母憂,上疏乞身行喪禮,顯宗不許,遣使者為釋服,賞賜恩寵甚渥。憙內典宿衛,外幹宰職,正身立朝,未嘗懈惰。及帝崩,復典喪事,再奉大行,禮事修舉。肅宗即位,進為太傅,錄尚書事。擢諸子為郎吏者七人。長子代,給事黃門。

建初五年、趙憙が病に倒れると、帝は自ら見舞いに行った。薨去すると、車駕を遣わして弔問した。時に八十四歳であった。諡は正侯といった。

原文建初五年,憙疾病,帝親幸視。及薨,車駕往臨吊。時年八十四。謚曰正侯。

子の趙代が後を嗣ぎ、官は越騎校尉に至った。永元年間中、征西将軍劉尚に副将として従い羌を征討し、事件に連座して獄に下され、病により死去した。和帝は彼を哀れみ、棺や銭布を賜り、越騎校尉、節郷侯の印綬を追贈した。子の趙直が後を嗣ぎ、官は歩兵校尉に至った。趙直が卒すると、子の趙淑が後を嗣いだが、子がなく、封国は除かれた。

原文子代嗣,官至越騎校尉。永元中,副行征西將軍劉尚征羌,坐事下獄,疾病物故。和帝憐之,賜秘器錢布,贈越騎校尉、節鄉侯印綬。子直嗣,官至步兵校尉。直卒,子淑嗣,無子,國除。

牟融

原文牟融

牟融は字を子優といい、北海国安丘県の人である。若い頃から博学で、『大夏侯尚書』を教授し、門徒は数百人に及び、その名声は州里に知れ渡った。司徒の茂才として豊県令となり、三年間職務に当たり、県内に訴訟はなく、州郡で最も優れていた。

原文牟融字子優,北海安丘人也。少博學,以《大夏侯尚書》教授,門徒數百人,名稱州裏。以司徒茂才為豐令,視事三年,縣無獄訟,為州郡最。

司徒の範遷は、牟融が忠実で公正方正であり、経学と行いが純粋で完備しているので、朝廷にいるべきだと推薦し、その治績の状況も併せて上奏した。永平五年、入朝して鮑昱に代わり司隸校尉となり、多くを是正し、百官は彼を敬い畏れた。八年、包鹹に代わって大鴻臚となった。十一年、鮭陽鴻に代わって大司農となった。

原文司徒範遷薦融忠正公方,經行純備,宜在本朝,並上其理狀。永平五年,入代鮑昱為司隸校尉,多所舉正,百僚敬憚之。八年,代包鹹為大鴻臚。十一年,代鮭陽鴻為大司農。

この時、顕宗は万機に励んでおり、公卿たちはしばしば朝会し、その度に政事について謀議ぼうぎを延べ、訴訟を裁断した。牟融は経学に明るく才能が高く、議論を得意とし、朝廷は皆その能力に敬服した。帝は幾度も嘆賞し、宰相に堪える才能であると考えた。翌年、伏恭に代わって司空となり、挙措は方正で重厚であり、大たる臣下の節操を大いに得た。粛宗が即位すると、牟融を先朝の名臣として、趙憙に代わって太尉とし、趙憙と共に尚書事を録させた。

原文是時,顯宗方勤萬機,公卿數朝會,每輒延謀政事,判折獄訟。融經明才高,善論議,朝廷皆服其能;帝數嗟嘆,以為才堪宰相。明年,代伏恭為司空,舉動方重,甚得大臣節。肅宗即位,以融先朝名臣,代趙憙為太尉,與憙參錄尚書事。

建初四年に薨去した。車駕が自らその喪に臨んだ。当時、牟融の長子の牟麟は郷里に帰っていたが、帝はその他の子が幼弱であるため、太尉の掾史に命じてその威儀や進退の作法を教えさせ、贈り物と恩寵を篤く行った。また、顕節陵の下に墓地を賜り、牟麟を郎に任じた。

原文建初四年薨,車駕親臨其喪。時融長子麟歸鄉裏,帝以其餘子幼弱,敕太尉掾史教其威儀進止,贈赗恩寵篤密焉。又賜冢塋地於顯節陵下,除麟為郎。

韋彪

原文韋彪

韋彪は字を孟達といい、扶風郡平陵県の人である。高祖父の韋賢は、宣帝の時に丞相となった。祖父の韋賞は、哀帝の時に大司馬となった。

原文韋彪字孟達,扶風平陵人也。高祖賢,宣帝時為丞相。祖賞,哀帝時為大司馬。

韋彪の孝行は純粋で極めて厚く、父母が亡くなると、三年間悲しみにやつれ、廬舎の外に出ずに寝起きした。喪が明けても、やせ衰えて骨と皮ばかりの異様な姿となり、数年治療してようやく起き上がった。学問を好み広く聞き知り、儒者の宗と称えられた。建武の末年に孝廉に挙げられ、郎中に任じられたが、病により免官され、再び教授に戻った。貧しさに安んじて道を楽しみ、出世に恬淡としており、三輔の諸儒は慕い仰がぬ者はなかった。

原文彪孝行純至,父母卒,哀毀三年,不出廬寢。服竟,贏瘠骨立異形,醫療數年乃起。好學洽聞,雅稱儒宗。建武末,舉孝廉,除郎中,以病免,復歸教授。安貧樂道,恬於進趣,三輔諸儒莫不慕仰之。

顕宗は韋彪の名声を聞き、永平六年に召し出して謁者に任命し、車馬と衣服を賜い、三度の昇進を経て魏郡太守となった。粛宗が即位すると、病気を理由に免職となった。左中郎将・長楽衛尉に任命され、たびたび政治の術策を述べ、常に寛厚な政治を主張した。たびたび上疏して隠退を願い出たため、奉車都尉に任命され、秩禄は中二千石となり、賞賜と恩寵は親戚に匹敵した。

原文顯宗聞彪名,永平六年,召拜謁者,賜以車馬衣服,三遷魏郡太守。肅宗即位,以病免。徵為左中郎將、長樂衛尉,數陳政術,每歸寬厚。比上疏乞骸骨,拜為奉車都尉,秩中二千石,賞賜恩寵,俟於親戚。

建初七年、皇帝の車駕が西の郡府を巡行する際、韋彪が太常の職務を代行して従い、たびたび召し出されて三輔の旧事や礼儀風俗について問われた。韋彪は進言した。『今、西の旧都を巡行されるにあたり、高祖・中宗の功臣を追って記録し、先人の勲功を顕彰し、その子孫を記録すべきです。』帝はこれを採用した。長安に至ると、詔を下して京兆尹・右扶風に蕭何・霍光の後裔を求めさせた。当時、霍光には子孫がおらず、ただ蕭何の末裔である蕭熊を酇侯に封じたのみであった。建初二年に既に曹参の後裔である曹湛を平陽侯に封じていたため、これには及ばなかった。そこで韋彪に多額の金銭と珍しい食物を賜い、平陵の墓参りをさせた。帰還後、大鴻臚に任命された。

原文建初七年,車駕西巡府,以彪行太常從,數召入,問以三輔舊事,禮儀風俗。彪因建言:『今西巡舊都,宜追錄高祖、中宗功臣、褒顯先勛,紀其子孫。』帝納之。行至長安,乃制詔京兆尹、右扶風求蕭何、霍光後。時光無苗裔,唯封何末孫熊為酂侯。建初二年已封曹參後曹湛為平陽侯,故不復及焉。乃厚賜彪錢珍羞食物,使歸平陵上冢。還,拜大鴻臚。

この時、上奏する者の多くが、郡国からの貢挙が概ね功績の順序によらないと述べたため、職務を守る者はますます怠け、官吏の事務は次第に疎かになり、その過失は州郡にあるとした。詔が下され、公卿朝臣に議論させた。韋彪は上議して言った。『伏して思うに、明詔は百姓を憂い労わり、選挙に恩を垂れ、必ず適任者を得ようとされています。国は賢者を簡抜することを務めとし、賢者は孝行を第一とします。孔子は言われた。「親に孝行するので、忠は君に移すことができる。それゆえ忠臣を求めるには必ず孝子の門に於いてせよ。」と。人の才能と品行は兼ね備えることが少ないため、孟公綽は趙・魏の家老としては優れていても、滕・薛の大夫としては適しません。忠孝の人は心が厚く、鍛え上げられた官吏は心が薄い。三代が直道を行えたのは、人材を磨く方法にあったからです。士は才能と品行を優先すべきで、純粋に門閥によって決めてはなりません。しかしその要は、二千石を選ぶことに帰着します。二千石が賢ければ、貢挙は皆適任者を得るでしょう。』帝は深くこれを採用した。

原文是時,陳事者多言郡國貢舉率非功次,故守職益懈而吏事浸疏,咎在州郡。有詔下公卿朝臣議。彪上議曰:『伏惟明詔,憂勞百姓,垂恩選舉,務得其人。夫國以簡賢為務,賢以孝行為首。孔子曰:「事親孝故忠可移於君,是以求忠臣必於孝子之門。」夫人才行少能相兼,是以孟公綽優於趙、魏老,不可以為滕、薛大夫。忠孝之人,持心近厚;鍛煉之吏,持心近薄。三代之所以直道而行者,在其所以磨之故也。士宜以才行為先,不可純以閥閱。然其要歸,在於選二千石。二千石賢,則貢舉皆得其人矣。』帝深納之。

韋彪は、世が二帝(明帝・章帝)の吏治教化の後に続き、多くが苛酷なことを能とするようになり、また官職を設置し選任するのに必ずしも才能によらず、盛夏なのに寒さが多いことを理由に、上疏して諫めた。『臣は聞きます。政治教化の根本は、必ず陰陽に順うことだと。伏して見るに、立夏以来、暑い時に寒さがあるのは、おそらく刑罰が厳しく急であり、郡国が時令を奉じないことによるものでしょう。農民は農作業に急いでいるのに苛酷な官吏がその時を奪い、賦税を徴発して常調を満たすのに貪婪な官吏がその財を奪う。これが大きな禍いです。人の急務を助けようとするなら、まずその禍いを取り除くべきです。天下の枢要は尚書にあり、尚書の選任はどうして重んじないでいられましょうか。近頃は多くが郎官からこの地位に超昇していますが、法令に通じ、応対に長けていても、些細な知恵に明るく、概して大能はありません。かつて州の長官を歴任し、もとより名声のある者を簡抜すべきです。進退が緩慢で、時に及ばないこともありますが、心を公に向け、職務を周到に奉じます。嗇夫の機敏な応対を戒めとし、絳侯(周勃)の無口な功績を深く考えるべきです。かつて楚王英の獄が大いに起こった時、令史を設置して郎官の職務を助けさせましたが、多くは小人であり、奸利を好みました。今は事務が簡素なので、皆停止・削減すべきです。また諫議の職は、公直な士を用い、財に通じ、正直で、朝廷に補益のある者を充てるべきです。今はある者は徴試の輩から大夫にしています。また御史が外任する時、動輒州郡を占拠します。皆その任を清く選び、言論と実績を責めるべきです。二千石が職務に就いて久しく、吏民に安んじられている者は、秩禄を増やし賞を重くし、安易に転任させないでください。どうか聖心に留められますように。』上書が奏上されると、帝はこれを採用した。

原文彪以世承二帝吏化之後,多以苛刻為能,又置官選職,不必以才,因盛夏多寒,上疏諫曰:『臣聞政化之本,必順陰陽。伏見立夏以來,當暑而寒,殆以刑罰刻急,郡國不奉時令之所致也。農人急於務而苛吏奪其時,賦發充常調而貪吏割其財,此其巨患也。夫欲急人所務,當先除其所患。天下樞要,在於尚書,尚書之選,豈可不重?而間者多從郎官超升此位,雖曉習文法,長於應對,然察察小慧,類無大能。宜簡嘗歷州宰素有名者,雖進退舒遲,時有不逮,然端心向公,奉職周密。宜鑒嗇夫捷急之對,沈思絳侯木訥之功也。往時楚獄大起,故置令史以助郎職,而類多小人,好為奸利。今者務簡,可皆停省。又諫議之職,應用公直之士,通財謇正,有補益於朝者。今或從征試輩為大夫。又御史外遷,動據州郡。並宜清選其任,責以言績。其二千石視事雖久,而為吏民所便安者,宜增秩重賞,勿妄遷徙。惟留聖心。』書奏,帝納之。

元和二年春、東巡狩に際し、韋彪が司徒の職務を代行して従った。帰還後、病気を理由に引退を願い出た。帝は小黄門と太醫を遣わして病状を問わせ、食物を賜った。韋彪は重篤であると称した。章和二年夏、謁者を使者として策詔を下した。『韋彪は将相の末裔として、身を励み行いを整え、州里より出て、在位すること多年に及んだ。中ごろ重い病気にかかり、連続して退任を求めた。君の年は耆艾に達し、これ以上増やすことはできず、職務の煩雑さが重なる損害を及ぼすことを恐れる。大鴻臚の印綬を上呈せよ。太子舎人を中臧府に遣わし、賜わる銭二十万を受け取らせる。』永元元年、死去した。詔を尚書に下した。『故大鴻臚韋彪は、在位中に過失がなく、まさに任用しようとしていたところ、突然死去した。銭二十万、布百匹、穀三千斛こくを賜え。』

原文元和二年春,東巡狩,以彪行司徒事從行。還,以病乞身,帝遣小黃門、太醫問病,賜以食物。彪遂稱困篤。章和二年夏,使謁者策詔曰:『彪以將相之裔,勤身飭行,出自州裏,在位歷載。中被篤疾,連上求退。君年在耆艾,不可復以加增,恐職事煩碎,重有損焉。其上大鴻臚印綬。其遣太子舍人詣中臧府,受賜錢二十萬。』永元元年,卒,詔尚書:『故大鴻臚韋彪,在位無愆,方欲錄用,奄忽而卒。其賜錢二十萬,布百匹,穀三千斛。』

韋彪は清廉で倹約し、施しを好み、俸禄と賞賜を宗族に分け与え、家に余財がなく、十二篇の書を著し、『韋卿子』と号した。

原文彪清儉好施,祿賜分與宗族,家無餘財,著書十二篇,號曰《韋卿子》。

族子の韋義

原文族子義

韋義は字を季節という。高祖父の韋玄成は、元帝の時に丞相となった。初め、韋彪だけが扶風に移ったため、韋義は依然として京兆杜陵の人であった。

原文義字季節。高祖父玄成,元帝時為丞相。初,彪獨徙扶風,故義猶為京兆杜陵人焉。

兄の韋順は字を淑文といい、平輿県令となった。高い名声があった。次兄の韋豹は字を季明という。たびたび公府に招聘されたが、常に事があって去った。司徒の劉愷が再び招聘し、言った。『あなたは軽率に去就を決め、爵位に昇らなかった。今年も暮れようとしている。そろそろ御史を選任するが、あなたを推薦しようと思う。しばらく留まらないか?』韋豹は言った。『犬馬の歯も衰え、体力も劣っています。崇高な恩恵を仰ぎ慕うので、自ら断ち切ることができませんでした。また目が眩み、持病があり、長く待つことはできません。選挙推薦のご厚情は、敢えて受けられません。』と言って、裸足で立ち上がった。劉愷が追ったが、まっすぐ去って顧みなかった。安帝が西巡した時、議郎に任命された。

原文兄順,字淑文,平輿令。有高名。次兄豹,字季明。數辟公府,輒以事去。司徒劉愷復辟之,謂曰:『卿以輕好去就,爵位不躋。今歲垂盡,當選御史,意在相薦,子其宿留乎?』豹曰:『犬馬齒衰,旅力已劣,仰慕崇恩,故未能自割。且眩瞀滯疾,不堪久待,選薦之私,非所敢當。』遂跣而起。愷追之,徑去不顧。安帝西巡,徵拜議郎。

韋義は若い時から二人の兄と名声を並べ、初め州郡に仕えた。太傅桓焉が難治の地を治める者として招聘・推挙し、広都県長、甘陵・陳の二県令となり、政治は非常に実績があり、官庁には事がなく、牢獄は空であった。たびたび順帝に上書し、古典に依拠して考課を行い、昇進・降格を行い、名儒を招集してその制度を大いに定めるべきことを述べた。また左右の者を風刺し、竇氏を貶して批判した。言論が受け入れられず、長く抑圧されて昇進せず、兄の韋順の喪のために官を去った。公府に招聘されたが、就任しなかった。広都では生前に廟を建立された。死去すると、三県の吏民が韋義のために哀悼の意を表し、父母を失ったかのようであった。

原文義少與二兄齊名,初仕州郡。太傅桓焉辟舉理劇,為廣都長,甘陵、陳二縣令,政甚有績,官曹無事,牢獄空虛。數上書順帝,陳宜依古典,考功黜陟,徵集名儒,大定其制。又譏切左右,貶刺竇氏。言既無感,而久抑不遷,以兄順喪去官。比辟公府,不就。廣都為生立廟。及卒,三縣吏民為義舉哀,若喪考妣。

韋豹の子の韋著

原文豹子著

韋豹の子の韋著は、字を休明という。若い時から経学と品行で知られ、州郡の招聘に応じなかった。大将軍梁冀が招聘したが、就任しなかった。延熹二年、桓帝が公車で礼を備えて招聘したが、霸陵に至り、病気と称して帰り、雲陽山に入り、薬草を採って戻らなかった。有司が上奏して罪を加えようとしたが、帝は特にこれを許した。再び詔を下して京兆尹に礼を厚くして敦促させたが、韋著は結局招聘に応じなかった。霊帝が即位すると、中常侍曹節は陳蕃・竇氏が既に誅殺され、海内に怨みが多いため、時の賢者を寵愛して名声を得ようとし、帝に奏上して韋著の家で東海相に任命した。詔書が逼迫していたため、やむを得ず、巾を解いて郡に赴任した。政治は威刑を任じ、罰せられた者から上奏され、論罪されて左校に輸作された。また後妻が驕慢で政治を乱し、これによって名声を失い、結局帰郷し、奸人に害され、隠者たちはこれを恥じた。

原文豹子著,字休明。少以經行知名,不應州郡之命。大將軍梁冀辟,不就。延熹二年,桓帝公車備禮徵,至霸陵,稱病歸,乃入雲陽山,采藥不反。有司舉奏加罪,帝特原之。復詔京兆尹重以禮敦勸,著遂不就徵。靈帝即位,中常侍曹節以陳蕃、竇氏既誅,海內多怨,欲借寵時賢以為名,白帝就家拜著東海相。詔書逼切,不得已,解巾之郡。政任威刑,為受罰者所奏,坐論輸左校。又後妻驕姿亂政,以之失名,竟歸,為奸人所害,隱者恥之。

史評

原文史評

賛して言う。『韋湛・韋霸は功を奮い起こし、二つの邦国を安寧にした。淮の人々は孺慕し、徐の賊寇は降伏を求めた。韋弘は実直で遠大な志を持ち、仁は根本を忘れなかった。韋憙の政治には多くの跡があり、韋彪は道理を明らかにし損なった。韋牟は帝を簡抜し、身は終に上公の位に至った。』

原文贊曰:『湛、霸奮庸,維寧兩邦。淮人孺慕,徐寇要降。弘實體遠,仁不忘本。憙政多跡,彪明理損。牟公簡帝,身終上袞。』