後漢書

巻二十六

 

伏湛

伏湛はあざなを惠公といい、瑯邪郡東武県の人である。九世の祖の勝は字を子賤といい、いわゆる済南の伏生である。湛の高祖父の孺は、武帝の時代に、客として東武で教え、その地に家を定めた。父の理は、当世の名儒であり、『詩』を以て

詩経

これを成帝に授け、高密太傅となり、別に自ら学を名づけた。

湛は孝行で兄弟仲が良く、幼い頃から父の学問を受け継ぎ、数百人に教授した。成帝の時、父の任官により博士弟子となった。五度の昇進を経て、王莽の時代には繡衣執法に至り、大奸を監督する使者となり、後隊属正に転任した。

更始帝が即位すると、平原太守に任じられた。当時は突然の兵乱が起こり、天下は驚き騒然としていたが、湛だけは平然として、教え授けることをやめなかった。妻子に言った。『一つの穀物が実らなければ、国君は食事を減らす。今、民は皆飢えているのに、どうして自分だけが満腹でいられようか』。そこで共に粗末な食事をとり、俸禄をすべて分けて郷里を救済し、来客した者は百余家に及んだ。当時、門下督は元来気力があり、湛のために兵を起こそうと謀ったが、湛は彼が民衆を惑わすのを嫌い、ただちに捕らえて斬り、その首を城郭にさらして百姓に示した。これにより役人と民は信頼し従い、郡内は安定した。平原の一地域は、湛によって保全されたのである。

光武帝が即位すると、光武帝は伏湛が名高い儒者で旧臣であることを知り、内職に信頼して任用しようと考え、尚書に任命して召し出し、旧制の制定を担当させた。当時、大司徒の鄧禹が関中を西征していたため、帝は伏湛の才能が宰相に適任であると考え、司直に任命し、大司徒の職務を代行させた。帝が車駕を率いて出征するたびに、伏湛は常に留守を守り、諸官庁を総括統轄した。

建武三年

その後、鄧禹に代わって大司徒となり、陽都侯に封ぜられた。

その時、賊の徐異卿ら一万余人が富平を占拠し、連続して攻撃しても陥落せず、ただ『司徒の伏公に降伏したい』と言った。帝は伏湛が青州・徐州の人々に信頼され慕われていることを知り、平原に派遣すると、異卿らは即日に帰順し、洛陽に護送された。

伏湛は緊急時であっても、慌ただしい中でも必ず文徳を重んじ、礼楽と政治教化の根本であると考え、困窮の中でもなおこれを違えることはできないとした。この年、郷飲酒礼の施行を上奏し、遂にこれを実施した。

その冬、帝の車駕は張歩を征討するため出発し、伏湛を留めて留守を守らせた。その時、高廟で蒸祭が行われたが、河南尹と司隸校尉が廟の中で争論し、伏湛はこれを上奏して弾劾しなかったため、罪に問われて策書により免官された。建武六年、不其侯に封を移され、邑三千六百戸を与えられ、封国に赴くよう命じられた。後に南陽太守の杜詩が上疏して伏湛を推薦し、次のように言った。『臣は聞きます。唐・虞は股肱の臣によって安泰となり、文王は多くの士によって平穏を得た。だからこそ『詩経』は「多士済々」と称え、『書経』は「良きかな」と言うのです。臣の杜詩がひそかに見るところ、元大司徒陽都侯伏湛は、自ら修養を始めて以来、終始欠点がなく、篤実で信義に厚く学問を好み、死を守って善道を貫き、経学においては人々の師となり、行いにおいては模範となられました。以前、河内朝歌におられ、また平原におられた時、官吏や民衆は畏敬し慕い、これを手本とし模倣しました。時勢が反復し、戦乱の災いから離れられない中にあっても、節操を守り慎重に行動し、奪うことのできない志をお持ちでした。陛下は深くその才能をご存知で、宰相という重職を顕彰され、多くの賢人や百姓はその徳義を仰ぎ望んでおりました。些細な過失で斥退され、長く再び用いられないのは、識者が惜しみ、儒士が痛心するところであり、臣はひそかにこれを悲しんでおります。伏湛の容貌は堂堂として、国の光輝であり、智略と謀慮は朝廷の淵藪であります。幼少の頃から志を奮い立たせ、白髪になっても衰えません。実力は王室を前後して補佐するに足り、名声は遠方の人々に光を示すに足ります。古くは諸侯から選抜して公卿とし、それ故四方が首を回らせて京師を仰ぎ望んだものです。柱石の臣は、補佐の任に就き、禁門を出入りして、欠けたところを補い遺漏を拾うべきです。臣の杜詩は愚かで頑なであり、宰相の才能を知るには及びませんが、ひそかに些細な思いを抱き、敢えて自らを尽くさずにはいられません。臣は以前、侍御史であった時、封事を上奏し、伏湛が公正で廉潔、下を愛し、好悪がはっきりしており、代々儒学を伝え、常に名声と信義を保ち、経学に明るく行いを修め、国政に通達しているので、特に近侍にふさわしく、左右で言葉を納めるべきであり、旧制では九州に五尚書、一郡に二人と定められておりますので、伏湛をもって代えることができると申し上げました。これはかなり執事の方々に非難されました。しかし臣の杜詩は深く恩恵を受けており、申し上げることが誠に国のためになるなら、たとえ死んでも恨みはありません。それ故、再び職権を越えておそれながらもお聞き入れ願います。』

建武十三年の夏、召還され、尚書に命じて官吏任命の日を選ばせたが、まだ就任しないうちに、宴席で拝謁中に暑気にあたり、病気で死去した。棺や副葬品を賜り、帝は自ら弔問し祭祀を行い、使者を遣わして葬儀を行い墓を修築させた。二人の子、伏隆と伏翕がいた。

伏翕が爵位を継ぎ、死去すると、子の伏光が継いだ。伏光が死去すると、子の伏晨が継いだ。〈東観記によると、「伏晨は高平公主を娶った」という。〉

伏晨は謙虚で敬虔、博愛であり、学問を好むことに特に篤く、孫娘が順帝の貴人となったため、奉朝請として朝参し、位は特進となった。死去すると、子の伏無忌が継ぎ、家学を伝え、広く物事を知り多くの知識を持ち、順帝の時、侍中・屯騎校尉となった。

永和元年

、詔により伏無忌は議郎の黄景と共に宮中の書庫の『五経』、諸子百家、芸術の書物を校定した。〈中書とは、宮中の書物のことである。芸文志によれば「諸子は凡そ百八十九家」とあり、百家と言うのは概数を挙げたものである。芸とは書・数・射・御を指し、術とは医・方・卜・筮を指す。〉

元嘉年間、桓帝は再び伏無忌に詔を下し、黄景、崔寔らと共に『漢記』を撰修させた。また自ら古今の事柄を採集し、削除・著述して要点をまとめ、『伏侯註』と名付けた。〈その書は黄帝から始まり、漢の質帝までを扱い、八巻からなり、今日も伝わっている。〉

伏無忌が死去すると、子の伏質が継ぎ、官は大司農に至った。伏質が死去すると、子の伏完が継ぎ、桓帝の娘である陽安長公主を娶った。伏完の娘は孝献皇后となった。曹操が皇后を殺害した後、伏氏一族を誅殺し、封国は除かれた。

初め、伏生以来、代々経学を伝え、清く静かで争いを好まなかったため、東州では『伏は闘わず』と称されたという。

子隆

隆は字を伯文といい、幼い頃から節操を立てて名を知られ、

郡の督郵に仕えた。

建武二年、

懐宮に赴くと、光武帝は大いに親しく接した。

当時、張歩兄弟はそれぞれ強兵を擁し、斉の地を占拠していた。隆は太中大夫に任じられ、節を持って青州・徐州の二州に使者として赴き、郡国を招降した。隆は檄を移して告げた。『かつて、狡猾な臣下の王莽が帝を殺し位を盗んだ。宗室が兵を起こし、乱を除き王莽を誅殺したため、群臣が推挙して聖公を立て、宗廟を主宰させた。しかし賊臣を用い、賢良を殺戮し、三王が乱を起こし、盗賊が横行し、天の心に逆らい、ついに赤眉軍に害された。皇天が漢を助け、聖哲が期に応じ、陛下は神武を奮い起こし、少をもって衆を制した。ゆえに尋・邑は百万の軍勢をもって昆陽で潰散し、王郎は全趙の師をもって邯鄲で土崩し、大肜・高胡は旗を見て消滅し、鉄脛・五校はことごとく打ち破られた。梁王劉永は、幸いにも宗室の属籍により、侯王の爵位を得たが、飽くことを知らず、自ら禍を招き、ついに爵位を牧守に封じ、詐逆を造り出した。今、虎牙大将軍は十万の兵を屯営し、すでに睢陽を陥落させ、劉永は奔り逃げ、家は族滅した。これは諸君の聞くところである。先んじて自ら図らなければ、後悔してもどうしようもない!』青州・徐州の群盗はこれを得て恐れおののき、獲索賊の右師郎ら六校は即時に皆降伏した。張歩は使者を隆に随行させ、宮闕に赴いて上書し、鰒魚を献上した。

その冬、隆は光禄大夫に任じられ、再び張歩のもとへ使者として赴き、新たに任命された青州牧守および都尉とともに東へ向かった。詔により隆は令長以下をその場で任命することができた。隆は懐柔し安撫してまとめ、多くが降伏帰附した。帝はその功績を嘉し、酈生に比した。即座に張歩を東萊太守に任命したが、劉永が再び使者を遣わして張歩を斉王に立てた。張歩は王爵を受けることを貪り、なお決断できなかった。隆は明らかに譬えて言った。『高祖は天下と約束し、劉氏でなければ王としない、今得られるのは十万戸侯だけである。』張歩は隆を留めて共に二州を守ろうとしたが、隆は聞き入れず、返命を得ようと求めると、張歩は隆を捕らえて劉永の封を受け入れた。隆は密使を遣わして上書した。『臣隆は使命を果たすことができず、凶逆に捕らえられました。困窮の中にあっても、命を授けられ顧みません。また、官吏や民は張歩が反逆したことを知り、心から彼に従わず、時を待って進軍されることを願い、臣隆のことをお考えにならないでください。臣隆が生きて宮廷に到着し、有司によって誅殺されることが、これが最大の願いです。もし賊の手に落ちて命を落とすならば、父母や兄弟が長く陛下に累を及ぼすことになります。陛下と皇后、太子が永遠に万国を享受され、天と共に極まりなきことを。』帝は隆の上奏を得ると、父の湛を召して涙を流しながらこれを見せて言った。『隆は蘇武の節操があると言えよう。惜しいことに、すぐに返還を求めることを許さなかったことを!』その後、張歩はついに隆を殺した。当時の人々は誰もが哀れみ悲しんだ。

五年、張歩が平定されると、車駕は北海に行幸した。詔により隆の中弟の鹹が隆の喪を収め、棺と殮の費用を賜り、太中大夫が喪事を護送した。詔により瑯邪に冢を作ることを告げ、子の瑗を郎中とした。

侯霸

侯霸は字を君房といい、河南郡密県の人である。族父の淵は、宦官として才弁があり、元帝の時に職に任じられ、右顕らを補佐して中書を領し、大常侍と号した。成帝の時、霸を太子舎人に任じた。霸は厳かで威容があり、家には千金が蓄えられていたが、産業に従事しなかった。志を篤くして学問を好み、九江太守の房元に師事し、『穀梁春秋』を研究し、元の都講となった。王莽の初め、王威司命の陳崇が霸の德行を推挙し、随宰に遷った。県の境界は広遠で、江湖に臨み、亡命者が多く寇盗となっていた。霸が到着すると、すぐに豪猾を断罪して誅殺し、山賊を分捕りし、県中は清静になった。再び執法刺奸に遷り、勢位のある者を糾弾・断案するのに、疑い恐れるところがなかった。後に淮平大尹となり、政治に理があり能吏として名を知られた。王莽が敗れると、霸は堅固に守りを固め、ついに一郡を全うした。

更始元年、

使者を遣わして霸を召し出そうとした。百姓の老若男女は互いに手を取り合って号泣し、使者の車を遮り、ある者は道に臥した。皆が言った。『侯君に一年だけでも留まってほしいとお願いします。』民は乳母に戒めて子を産ませないようにし、侯君が去れば必ず合わないだろうと言った。使者は霸が召し出されれば臨淮が必ず乱れると考え、璽書を授けることを敢えず、詳しく状況を上奏した。ちょうど更始が敗れ、道路が通じなくなった。

建武四年、

光武帝が霸を召し出し、車駕と寿春で会い、尚書令に任じた。当時は古い法典がなく、朝廷にも旧臣が少なかった。霸は故事に明るく習熟し、散逸した文書を収集記録し、前世の善政や法度で時世に有益なものを条奏し、皆施行した。毎年春に寛大の詔を下し、四時の令を奉ることは、全て霸が建議したものである。翌年、伏湛に代わって大司徒となり、関内侯に封じられた。在位中は明察で正を守り、公に奉じて曲がることがなかった。

十三年、霸が薨去すると、帝は深く傷み惜しみ、自ら臨んで弔問した。詔を下して言った。『ただ霸は善を積み清潔であった。職務に就いて九年。漢家の旧制では、丞相が任命されると、列侯に封じられる。朕は軍師が野にあり、功臣がまだ封じられていないため、忠臣の義に縁り、互いに越えることを欲せず、爵命に及ばないうちに、突然に終わった。ああ哀しいかな!』そこで追封して霸を則郷哀侯と諡し、食邑二千六百戸を与えた。子の昱が後を嗣いだ。臨淮の官吏や民は共に祠を立て、四季に祭った。沛郡太守の韓歆が代わって大司徒となった。

歆は字を翁君といい、南陽の人であり、従軍して戦功を立て、扶陽侯に封ぜられた。直言を好み、隠し立てすることがなく、帝はしばしば受け容れることができなかった。かつて朝会の際、帝が隗囂と公孫述の往復書簡を読んでいるのを聞き、歆は言った。『滅亡した国の君主にも皆才能があり、桀や紂にも才能があった。』帝は大いに怒り、挑発していると見なした。歆はまた、今年は凶作と飢饉が起こると証言し、天を指し地を画き、言葉は非常に厳しく痛切であったため、罪に坐して免官され郷里に帰った。帝はなおも怒りを解かず、再び使者を遣わして詔を宣し、彼を責めた。司隸校尉の鮑永が固く請願したが叶わず、歆とその子の嬰はついに自殺した。歆は平素から重い名声があり、罪なき死であったため、多くの者が納得せず、帝はようやく追って銭と穀物を賜い、礼を尽くして葬った。

その後、千乗の欧陽歙と清河の戴涉が代わる代わる大司徒となったが、事に坐して獄に下され死に、これ以降、大臣は丞相の任に就くのが難しくなった。その後、河内の蔡茂、京兆の玉況、魏郡の馮勤は、皆その地位で死去することができた。況は字を文伯といい、性質聡明で機敏であり、陳留太守として、徳行をもって人を教化し、司徒に遷り、四年で死去した。

昱は後に于陵侯に転封され、永平年間に太僕を兼ねた。昱が卒すると、子の建が嗣いだ。建が卒すると、子の昌が嗣いだ。

宋弘

宋弘は字を仲子といい、京兆長安の人である。父の尚は、成帝の時に少府に至った。哀帝が即位すると、董賢に附かず、逆らい罪に触れた。弘は若くして温順であり、哀帝・平帝の間に侍中となり、王莽の時に共工となった。赤眉が長安に入ると、使者を遣わして弘を徴用し、逼迫されてやむを得ず出発し、渭橋に至った時、自ら水に投身したが、家人に救い出され、死んだふりをして免れることができた。

光武帝が即位すると、徴されて太中大夫に拝された。建武二年、王梁に代わって大司空となり、栒邑侯に封ぜられた。得た租税と俸禄は九族に分け与え、家には資産がなく、清廉な行いで称賛された。宣平侯に転封された。

帝がかつて弘に博識で学問に通じた士を尋ねると、弘は沛国の醒譚が才学に富み見聞が広く、ほとんど楊雄や劉向父子に及ぶと推薦した。そこで譚を召し出して議郎・給事中に拝した。帝は宴会のたびに、必ず琴を弾かせ、その繁雑な音色を好んだ。弘はこれを聞いて喜ばず、推薦したことを後悔し、譚が宮中から出てくるのを待ち、正装して官府に座り、役人を遣わして彼を召し出した。譚が到着すると、席を与えずに責めて言った。『私があなたを推薦したのは、道徳をもって国家を補佐させたいと思ったからである。ところが今、しばしば鄭声を進めて《雅》《頌》を乱している。これは忠正な者ではない。自ら改めることができるか?それとも法に照らして糾弾させようか?』譚は頓首して謝罪し、ようやく長い時間を経て帰らせた。後に群臣を集めた大会で、帝が譚に琴を弾かせると、譚は弘を見て、平常の態度を失った。帝は怪しんで尋ねた。弘は席を離れ冠を脱いで謝罪して言った。『臣が醒譚を推薦したのは、忠正をもって主君を導くことを望んだからです。ところが朝廷に鄭声を耽悦させてしまいました。これは臣の罪です。』帝は表情を改めて謝り、服を元に戻させ、その後はついに譚を給事中とさせなかった。弘は賢士の馮翊桓梁ら三十余人を推挙し進め、ある者は互いに公卿に至った。

弘が宴会で謁見した時、御座の新しい屏風に列女が絵画されていた。帝はしばしばそれを顧みた。弘は厳しい表情で言った。『徳を好むことが色を好むような者は未だ見たことがありません。』帝はすぐにそれを撤去した。笑って弘に言った。『義を聞けば服する、これでよいか?』弘は答えて言った。『陛下が徳を進められるなら、臣は喜びに堪えません。』

当時、帝の姉の湖陽公主が新たに寡婦となった。帝は彼女と共に朝臣について論じ、ひそかにその意向を探った。主は言った。『宋公の威厳ある容貌と徳器は、群臣の及ぶところではありません。』帝は言った。『ちょうどそれを図ろうとしているところだ。』後に弘が引見されると、帝は主を屏風の後ろに座らせ、弘に言った。『諺に「貴くなれば交わりを変え、富めば妻を変える」というが、これは人情か?』弘は言った。『臣は聞きます。貧賤の時の知り合いは忘れるべからず、糟糠の妻は堂より下ろさず、と。』帝は主を顧みて言った。『事はうまくいかないようだ。』

弘は在位五年、上党太守の考課に根拠がないとして罪に問われ、免官されて邸宅に帰った。数年後に死去し、子がなかったため封国は除かれた。

弘の弟の嵩は、剛強で孝烈であることで著名であり、官は河南尹に至った。嵩の子の由は、元和年間に太尉となったが、竇憲に阿党した罪で、策書により免官されて本郡に帰り、自殺した。由には二人の子がいた。漢と登である。登は『儒林伝』にある。

從孫

漢は字を仲和といい、経学と品行で著名となり、茂才に挙げられ、四度の昇進を経て西河太守となった。

永建元年

東平国の相、度遼将軍となり、名節を立て、威厳と恩恵で知られた。太僕に昇進したが、病気を理由に自ら辞任を願い出て、太中大夫に任じられ、死去した。詔策に言う。『太中大夫宋漢は、清廉で汚れなく、正直で邪心がない。以前に辺境にあって、軍務を統率し、異民族を懐柔し、その功績はすべて称賛に値する。兵車は収められ、辺境の民は安寧を得た。朕はその功績を記録し、九卿の列に引き上げた。病気により退き譲り、節操を守ってますます堅固であり、三公の職を授けようとしたが、果たせずに終わった。朝廷は哀悼し、その悲しみに心を痛める。《詩経》に言うではないか、「敏速に軍功を立て、それであなたに福を与える」と。将相大夫をして葬儀に参列させ、さらに十万銭を賜う。また、霊柩が安置されている間に、その清廉潔白な節操を全うさせよ。』

宋漢の子

宋則

宋則は字を元矩といい、鄢陵県令となり、やはり名声と事績があった。同郡の韋著と扶風郡の法真を抜擢し、人を見る目があると称された。宋則の子が十歳の時、下僕とともに弩で射をしていたところ、下僕の弦が切れて矢が勢いよく飛び、誤って彼に当たり、即死した。下僕は叩頭して処刑を願い出たが、宋則は事情を察して許した。潁川の荀爽はこれを大いに賞賛し、当時の人々も感服した。

論じて言う。漢王朝が中興して以後、台閣の宰相として権力を総攬した者は多いが、その職務をよく果たして名声を得た者は、遠大な事業を先にして細かい術策を後にするからではないか。ゆえに恵公(宋弘)は急いで郷射の礼を整え、君房(侯覇)は朝廷に入ると先に寛大な法令を奏上した。器量が広大な者は目先の役には立たず、道が長遠な者はその功績も遠大である。これは志士仁人が心の根底に持つところであろう。君子はこれによって成功すれば、もちろん尊いが、これによって失敗しても、それもまた一つの得である。宋弘は繁雑な音楽を止め、淫らな色を戒めた。彼には『関雎』の風があったと言えよう。

蔡茂

蔡茂は字を子礼といい、河内郡懐県の人である。哀帝・平帝の時代に儒学で名声を上げ、博士に試験的に召され、策問に対して災異について述べ、優秀な成績で議郎に抜擢され、侍中に昇進した。王莽が摂政となった時、病気を理由に自ら免官を願い出て、王莽の朝廷には仕えなかった。

天下が乱れると、蔡茂はもともと竇融と親しかったので、難を避けて彼のもとに身を寄せた。竇融は彼を張掖太守にしようとしたが、固辞して就任しなかった。贈り物を受けるたびに、家族の人数分だけを受け取り、それ以上は取らなかった。後に竇融とともに朝廷に召され、再び議郎に任じられ、さらに広漢太守に昇進し、善政の評判があった。当時、陰氏(陰皇后の一族)の賓客が郡内でしばしば官吏の禁令を犯していたが、蔡茂はすぐに糾弾して取り調べ、遠慮することはなかった。ちょうど洛陽令の董宣が湖陽公主の罪を挙げて糾弾した時、光武帝は最初は怒って董宣を捕らえたが、後に赦免した。蔡茂は董宣の剛直さを喜び、朝廷に貴戚を抑制させようと考え、上書して言った。『臣は聞きます。教化を興し導きを致すには、必ず善人を登用することによるものであり、国を安泰にし民を寧らかにするには、悪を正すことに勝るものはないと。陛下は聖徳を継ぎ、天命を再び高く掲げられ、即位されて以来、天下は平穏であります。まさに朝早く起き夜遅くまで励み、たとえ休むべき時でも休まずにいられるべきです。しかし近ごろ、貴戚や后妃の一族が、しばしば恩寵と権勢を頼みとして、官吏の禁令を犯し、人を殺しても死罪にならず、人を傷つけても罪に問われません。臣は恐れます。規矩が捨てられて用いられず、斧が廃れて振るわれなくなることを。近ごろ湖陽公主の奴隷が西市で人を殺し、公主とともに車に乗り、宮中や官省に出入りし、罪を逃れて日を重ね、冤魂が報いられませんでした。洛陽令の董宣は、正しい道を曲げず、公主に立ち向かって奸を討ちました。陛下はまず事情を明らかに審理されず、召し出して鞭打ちを加えようとされました。董宣が怒りを受けた初めには、都中は耳をそばだて、彼が赦免を受けた時には、天下は目を見張りました。今、外戚は驕り高ぶり、賓客はほしいままに振る舞っています。司直の官に命じて奸悪の罪を取り調べさせ、公平な執法を行う官吏が永くその職務を全うできるようにし、遠近の不満が収まらない心情を満足させるべきです。』光武帝はこの意見を採用した。

建武二十年

戴涉に代わって司徒となり、在職中は清廉で倹約し、怠ることがなかった。建武二十三年に在職のまま死去した。七十二歳であった。東園の梓の棺を賜り、葬儀の贈り物は非常に厚かった。

蔡茂がかつて広漢にいた時、大殿に座っている夢を見た。棟の上に三本の穂がついた禾があり、蔡茂が跳び上がってそれを取ると、中の穂を得たが、すぐにまたそれを失った。主簿の郭賀に尋ねると、郭賀は席を離れて祝って言った。『大殿とは、宮府の象徴です。棟に禾があるのは、人臣の上等な俸禄です。中の穂を取るのは、中台(司徒)の地位です。字の上では、禾を失うと「秩」になります。たとえ失ったと言っても、それによって俸禄と官位を得ることになるのです。三公の職に欠員があれば、あなたがそれを補うでしょう。』一ヶ月もしないうちに蔡茂は朝廷に召され、彼は郭賀を掾に任命した。

郭賀

郭賀は字を喬卿といい、洛陽の人である。祖父の堅伯と父の遊君はともに清廉な節操を修め、王莽に仕えなかった。郭賀は法令に明るく、官を重ね、建武年間に尚書令となり、在職六年で、故事に通暁し、多くを補佐し益した。荊州刺史に任じられ、引見されて賞賜を受け、恩寵は格別であった。任地に着くと、優れた政績を上げた。民衆は彼を便利とし、歌った。『その徳は仁明なる郭喬卿、忠正にして朝廷上下平らかなり』。顕宗(明帝)が南陽に巡狩した時、特に彼を称賛し、三公の服である黼黻と冕旒を賜った。行部する時には車の帷を外すよう命じ、民衆にその姿と服装を見せ、有徳者であることを顕彰させた。通る所ごとに、官吏や民衆が指さして互いに示し、栄誉としなかった者はなかった。

永平四年

河南尹に召されて任じられ、清廉で静粛と称された。在官三年で死去した。詔書は哀惜の意を示し、車一乗と銭四十万を賜った。

馮勤

馮勤は字を偉伯といい、魏郡繁陽の人である。曾祖父の馮揚は、宣帝の時代に弘農太守を務めた。八人の子がおり、皆二千石の官に就き、趙・魏の間で栄誉を称えられ、『万石君』と号された。兄弟たちは皆体つきが大きくたくましかったが、ただ馮勤の祖父の馮偃だけは、身長が七尺に満たず、常に自らその短小な姿を恥じ、子孫が自分に似ることを恐れ、そこで子の馮伉に背の高い妻を娶らせた。馮伉が馮勤を生むと、身長は八尺三寸あった。八歳で計算に長じていた。

初めは太守の銚期の功曹となり、高い能力があると称された。銚期は常に光武帝に従って征伐し、政事は一切を馮勤に委ねた。馮勤の同県の馮巡らが兵を挙げて光武帝に呼応しようとしたが、謀略が未だ成就しないうちに豪族の焦廉らに裏切られ、馮勤は老母や兄弟、宗族を率いて銚期のもとに帰順した。銚期は彼らをすべて腹心とし、光武帝に推薦した。初めは用いられなかったが、後に郎中に任じられ、尚書に給事した。軍糧の計画を議論するにあたり、職務に精励したため、次第に親しく認められるようになった。引き入れられるたびに、帝は左右の者を顧みて言った。『立派な官吏だな!』これにより、諸侯の封爵に関する事務を司らせることになった。馮勤は功績の順序の軽重、封国の遠近、地勢の豊かさや貧しさを比較考量し、互いに越えることがなく、誰もが心服した。これ以降、封爵の制度は馮勤が決めなければ定まらなかった。帝はますます彼の才能を認め、尚書の諸事をすべて総覧させた。

司徒の侯霸が前梁県令の閻楊を推薦した。閻楊は平素から批判的な言論があり、帝は常に彼を嫌っていた。侯霸の上奏を見ると、その中に奸計があるのではないかと疑い、大いに怒り、侯霸に璽書を下賜して言った。『崇山や幽都(辺境の地)とどうして並び得ようか、黄鉞が一度下れば行き場もない。自ら法を試そうというのか?それとも身を殺して仁を成そうというのか?』馮勤に策書を持たせて司徒府に赴かせた。馮勤が戻り、侯霸の本来の意図を陳べ、事理を説明して弁解すると、帝の怒りは少し和らぎ、馮勤を尚書仆射に任命した。職務に十五年勤め、勤労により関内侯の爵位を賜った。尚書令に昇進し、大司農に任命され、三年で司徒に昇進した。

これ以前、三公は多く罪を得て退けられていた。帝は馮勤を賢臣とみなし、善き終わりを全うさせようと考え、宴席での謁見の際に、ゆったりと彼を戒めて言った。『朱浮は上は君に忠誠を尽くさず、下は同列を陵轢し、ついに中傷によって今日に至り、生死吉凶も未だ知れず、惜しいことではないか!人臣が放逐され誅殺されると、たとえ後に賞賜や葬儀の贈り物を追加しても、計り知れない身の代償には足りない。忠臣孝子は、前世の事跡を照らし見て、鏡と戒めとするのだ。国に忠を尽くし、君に仕えて二心なくすことができれば、爵禄と賞賜は当世に光り輝き、功績と名は不朽に列せられる。努め励まぬことがあろうか!』馮勤はますます恭しく倹約し、忠を尽くし、職務に適任と称された。

馮勤の母は八十歳になり、謁見のたびに、詔勅で拝礼を免除し、御者に命じて殿上に扶け上げさせ、諸侯王や公主たちを顧みて言った。『馮勤を貴く寵遇させたのは、この母である。』このように親しく重んじられた。中元元年に死去すると、帝は悼み惜しみ、使者を遣わして弔問と祭祀を行わせ、東園の秘器を賜り、贈り物は通常より加えられた。

馮勤には七人の子がいた。長子の馮宗が後を継ぎ、張掖属国都尉に至った。次子の馮順は、平陽長公主を娶り、大鴻臚の官で終わった。

建初八年、

馮順の次子の馮奮が主爵を襲い平陽侯となったが、死去し、子がなかった。

永元七年、

詔書により、再び馮奮の兄で羽林右監の馮勁を平陽侯に封じ、公主の祭祀を奉じさせた。馮奮の弟の馮由は、黄門侍郎となり、平安公主を娶った。馮勁が死去すると、子の馮卯が後を継いだ。馮卯は延光年間に侍中となり、死去すると、子の馮留が後を継いだ。

趙憙

趙憙は字を伯陽といい、南陽郡宛県の人である。若い頃から節操があった。従兄が人に殺されたが、子がおらず、趙憙は十五歳の時、常にその仇を討とうと思っていた。そこで武器を携えて客を結び、後に遂に仇討ちに出かけた。ところが仇の一家は皆病気にかかっており、抵抗する者はいなかった。趙憙は、病気に乗じて殺すのは仁者の心ではないと考え、彼らを解放して去った。振り返って仇たちに言った。『お前たちがもし健康なら、遠くへ避難しろ。』仇たちは皆寝たまま自ら頬を打った。後に病気が治ると、皆自ら縛られて趙憙のもとに来たが、趙憙は彼らと会おうとせず、後に遂に殺した。

更始帝が即位すると、舞陰の大姓である李氏が城を守って降伏せず、更始帝は柱天将軍の李宝を遣わして降伏させようとしたが、李氏は承諾せず、言った。『宛の趙氏に孤孫の趙憙がおり、信義で著名だと聞く。彼に降伏したい。』更始帝はそこで趙憙を召し出した。趙憙はまだ二十歳に満たなかったが、引見されると、更始帝は笑って言った。『繭や栗ほどの小さな子牛が、どうして重荷を負って遠くまで行けようか?』すぐに郎中に任じ、偏将軍の職務を行わせ、舞陰に赴かせると、李氏は遂に降伏した。趙憙はこれに乗じて潁川に入り、降伏しない者どもを撃ち、汝南の境界を経て、宛に戻った。更始帝は大いに喜び、趙憙に言った。『卿は名家の駿馬だ。努力して励め。』ちょうど王莽が王尋と王邑に兵を率いさせて関を出た時だったので、更始帝は趙憙を五威偏将軍に任命し、諸将を助けて昆陽で王尋・王邑を防がせた。光武帝が王尋・王邑を破ると、趙憙は傷を負い、戦功があったため、戻って中郎将に任命され、勇功侯に封じられた。

更始帝が敗れると、趙憙は赤眉軍に包囲され、追い詰められて、屋根を越えて逃亡し、親友の韓仲伯ら数十人と、幼い者や弱者を連れ、山の険阻を越え、まっすぐ武関から出た。韓仲伯は自分の妻が美しいことを理由に、暴漢に襲われることを憂慮し、自分がその害を受けると考え、道中で彼女を捨てようとした。趙憙は怒って責め、聞き入れず、泥で韓仲伯の妻の顔を塗り、鹿車に乗せて自ら押した。道中で賊に遭うたびに、もし迫って略奪しようとする者がいれば、趙憙はいつも彼女が病気である様子を言い、これによって難を免れた。丹水に入った後、更始帝の親族に遭遇したが、皆裸足で泥まみれになり、飢え疲れて前に進めなかった。趙憙はこれを見て悲しみ感慨し、携えていた絹織物や物資・食糧をすべて彼らに与え、保護して故郷に送り届けた。

その時、鄧奉が南陽で反乱を起こした。趙憙はもともと鄧奉と親しく、何度も手紙を送って厳しく責めたが、讒言する者が趙憙が鄧奉と共謀していると申し立てたため、光武帝は疑いを抱いた。鄧奉が敗れた後、光武帝は趙憙の手紙を手に入れ、驚いて言った。『趙憙は真の長者である。』すぐに趙憙を召し出し、引見して鞍馬を賜り、公車に待詔させた。当時、江南はまだ帰順せず、道路も通じていなかったため、趙憙を簡陽侯相に任命した。趙憙は兵士を受け取ることを肯まず、単車で簡陽へと馳せ向かった。役人や民衆は趙憙を受け入れたがらなかったので、趙憙は告諭し、城中の有力者を呼び出して国家の威信を示した。するとその首領はすぐに城門を開き、自ら縛られて降伏した。これにより諸々の営壁はことごとく降伏した。荊州牧は趙憙の才能が複雑な事案を処理するのに適していると上奏し、詔によって平林侯相に任命された。群賊を攻撃し、既に降伏した者たちを安んじて集め、県邑は平定された。

後に懐県令に任命された。大姓の李子春は以前瑯邪相を務め、豪強で狡猾で土地を併合し、人々に恐れられていた。趙憙が着任すると、彼の二人の孫が人を殺した事件がまだ発覚していないと聞き、ただちにその悪事を徹底的に追及し、李子春を逮捕して取り調べた。二人の孫は自殺した。京師では数十人が彼のために請願したが、趙憙はついに聞き入れなかった。その時、趙王劉良が病に伏せって危篤となり、車駕(皇帝)が自ら王を見舞い、言いたいことがあるかと尋ねた。王は言った。『もともと李子春と親しくしていた。今、彼は罪を犯し、懐県令の趙憙が彼を殺そうとしている。どうか彼の命を乞いたい。』帝は言った。『官吏は法を奉じている。法律を曲げることはできない。他の望みを言いなさい。』王はそれ以上何も言わなかった。王が薨去した後、帝は趙王を追慕し、李子春を赦免して釈放した。

その年、趙憙は平原太守に転任した。当時、平原には多くの盗賊がおり、趙憙は諸郡とともに討伐・捕縛し、その渠帥きょすいを斬り、残りの党類で連座すべき者は数千人に及んだ。趙憙は上言した。『悪を憎むのはその身に止めるべきであり、一律に京師近郡に移すことができます。』帝はこれに従い、彼らをことごとく潁川や陳留に移住させた。そこで趙憙は義行を推挙し、奸悪を誅鋤した。後に青州で大規模な蝗害こうがいが発生したが、平原の境界に入るとすぐに死に、毎年豊作が続き、百姓は彼を称える歌を歌った。

建武二十六年、帝は内戚を集めて宴会を開き、大いに楽しんだ。諸夫人たちがそれぞれ前に出て言った。『趙憙は義に篤く、多くの恩恵を施しました。以前、赤眉軍の時に長安を出た時、皆が趙憙によって救われ、生き延びました。』帝は大いにこれを称賛した。後に趙憙を召し出して太僕とし、引見して言った。『卿は英雄に保たれただけでなく、婦人たちも卿の恩を懐いている。』手厚く賞賜を加えた。

建武二十七年、太尉に任命され、関内侯の爵位を賜った。当時、南単於が臣下を称し、烏桓や鮮卑も共に来朝した。帝は趙憙に辺境の事を司らせ、長久の計画を考えさせた。趙憙は辺境の諸郡を修復するよう上言し、幽州と并州はこれによって安定した。

建武三十年、趙憙は封禅を行うべきであり、三雍の礼を正すべきだと上言した。中元元年、泰山での封禅に従った。帝が崩御すると、趙憙は遺詔を受け、喪礼を司った。この時、藩王たちは皆京師にいたが、王莽の簒奪と混乱以来、旧典は失われており、皇太子と東海王らが雑然と同席し、秩序がなかった。趙憙は厳しい表情で、殿の階段に剣を横たえ、諸王を扶け下ろして、尊卑を明らかにした。当時、藩国の官属が宮省に出入りし、百官と区別がなかったため、趙憙は謁者に護衛させ、他の県に分けて止宿させ、諸王には皆邸宅に就くよう命じ、朝夕の拝謁時のみ入るように上表した。礼儀を整え、門衛を厳しくし、内外は粛然とした。

永平元年、

節郷侯に封じられた。三年の春、中山相の薛脩の事件を取り調べて事実でなかったことで連座し、免官された。その冬、竇融に代わって衛尉となった。八年、虞延に代わって太尉の職務を行い、府に居て本官の如くであった。後に母の喪に遭い、上疏して身を引いて喪礼を行いたいと乞うたが、顕宗(明帝)は許さず、使者を遣わして喪服を脱がせ、賞賜と恩寵を大変厚くした。趙憙は内では宿衛を司り、外では宰相の職務を処理し、身を正して朝廷に立ち、懈怠したことはなかった。帝が崩御すると、再び喪事を司り、二度にわたり大行皇帝に奉仕し、礼事を整えて行った。粛宗(章帝)が即位すると、太傅に進み、尚書事を録した。七人の子を郎吏に抜擢した。長子の趙代は給事黄門となった。

建初五年、

趙憙が病に伏せると、帝が自ら見舞いに行かれた。薨去すると、車駕が臨んで弔問した。享年八十四歳。諡は正侯。

子の趙代が後を嗣ぎ、官は越騎校尉に至った。永元年間中、征西将軍劉尚の副将として羌征伐に従軍したが、事件に連座して獄に下され、病で死去した。和帝は彼を哀れみ、棺や銭布を賜り、越騎校尉、節郷侯の印綬を追贈した。子の趙直が後を嗣ぎ、官は歩兵校尉に至った。趙直が卒すると、子の趙淑が後を嗣いだが、子がなく、封国は除かれた。

牟融。

牟融は字を子優といい、北海郡安丘県の人である。若い頃から博学で、『大夏侯尚書』を教授し、門徒は数百人に及び、その名声は州里に知れ渡った。司徒の茂才として豊県令となり、職務に就いて三年、県に訴訟がなく、州郡で最も優れていた。

司徒の範遷は、牟融が忠正で公明正大であり、経学と品行が純粋で備わっているので、朝廷に置くべきだと推薦し、併せてその治績の状況を上奏した。

永平五年、

その後、鮑昱に代わって司隸校尉となり、多くの不正を糾弾・是正したため、百官は彼を敬い恐れた。八年、包鹹に代わって大鴻臚となった。十一年、鮭陽鴻に代わって大司農となった。

建初四年、

死去した。皇帝は自らその葬儀に臨んだ。当時、孔融の長男の孔麟は故郷に帰っていたが、帝は残された子供たちが幼弱であることを考慮し、太尉掾史に命じて彼らに礼儀作法や進退の作法を教えさせ、贈り物と恩寵は篤く行き届いたものであった。また、顕節陵の下に墓地を賜り、孔麟を郎に任じた。

韋彪

韋彪は字を孟達といい、扶風郡平陵県の人である。高祖の韋賢は、宣帝の時代に丞相となった。祖父の韋賞は、哀帝の時代に大司馬となった。

韋彪は孝行が純粋で極めて篤く、父母が亡くなると、悲しみのあまり三年間、喪屋を出ずに起居した。喪が明けた時には、痩せ衰えて骨と皮ばかりの異様な姿となり、数年にわたる治療の後ようやく起き上がることができた。学問を好み見聞が広く、儒者たちの間で模範と称えられた。建武の末年に孝廉に推挙され、郎中に任じられたが、病気のため免官となり、再び帰郷して教授に従事した。貧しさに安んじて道を楽しみ、出世には淡泊であり、三輔の儒者たちは皆、彼を慕い敬仰した。

顕宗(明帝)は韋彪の名を聞き、

永平六年、

召し出して謁者に任じ、車馬や衣服を賜った。三度の昇進を経て魏郡太守となった。肅宗(章帝)が即位すると、病気のため免官となった。左中郎将・長楽衛尉に徴され、しばしば政治の術策を述べ、その内容は常に寛厚なものに帰した。たびたび上疏して致仕を願い出たため、奉車都尉に任じられ、秩禄は中二千石となり、賞賜と恩寵は親戚なみに及んだ。

建初七年、

皇帝が西巡する際、韋彪は太常の職務を代行して随行し、たびたび召し出されて、三輔の旧事や礼儀風俗について問われた。韋彪はこれに応えて建言した。『今、西巡して旧都にお出でになるにあたり、高祖や中宗(宣帝)の功臣を追って記録し、先人の勲功を顕彰し、その子孫を記録されるのがよろしいかと存じます。』帝はこれを採用した。長安に行き着くと、詔を下して京兆尹と右扶風に蕭何と霍光の後裔を求めさせた。当時、霍光には子孫がおらず、ただ蕭何の末裔の蕭熊を酇侯に封じたのみであった。

建初二年、

この時、上奏する者の多くが、郡国による貢挙(人材推薦)が概ね功績の順序によっていないと述べ、そのため職務を守る者がますます怠け、官吏の事務が次第に疎かになっているのは、その責めは州郡にあると言った。詔が下って公卿朝臣に議論させた。韋彪は上議して言った。『伏して思うに、明詔は百姓を憂い労わり、選挙に恩を垂れ、必ず適任者を得ようとされています。国は賢者を選ぶことを要務とし、賢者は孝行を第一とします。孔子は言われました。「親に孝行する者は、その忠誠心を君主に移すことができる。だから忠臣を求めるには必ず孝子の家門に求めるべきである」と。人の才能と品行を兼ね備える者は少ないものです。だから孟公綽は趙や魏の家老としては優れていても、滕や薛の大夫としては適任ではなかったのです。忠孝の人は、心がほぼ篤厚である。鍛え上げられた(法律に精通しただけの)官吏は、心がほぼ薄情である。夏・殷・周の三代がまっすぐな道を行くことができたのは、人材をそのように磨いたからです。士は才能と品行を優先すべきであり、純粋に門閥や功歴だけで選ぶべきではありません。しかしその要は、二千石(郡太守など)を選ぶことに帰着します。二千石が賢明であれば、貢挙はすべて適任者を得ることになるでしょう。』帝は深くこれを採用した。

韋彪は、二代の皇帝(明帝・章帝)の吏治の教化が継承された後世では、多くが苛酷であることを能力とし、また官職を設置し人選するにも必ずしも才能によらず、盛夏なのに寒さが多いことを理由に、上疏して諫言した。『臣は聞きます。政治教化の根本は、必ず陰陽に順うことにあると。伏して拝見しますに、立夏以来、暑い時期であるのに寒さが続いているのは、おそらく刑罰が厳しく急峻であり、郡国が時令を奉じていないことによるものでしょう。農民は農作業に急いでいるのに苛酷な官吏がその時を奪い、賦税を徴発して常時の調達を満たそうとするのに貪欲な官吏がその財を奪う。これが大きな禍患です。人の急務を助けようとするなら、まずその患いを取り除くべきです。天下の枢要は尚書にあります。尚書の選任は、どうして重んじないことがありましょうか。ところが近頃は多くが郎官からこの地位に超抜されており、法令に通暁し、応対に長けてはいても、些細なことに明るいだけの小才で、概して大能はありません。かつて州の長官を歴任し、平素から名声のある者を選ぶべきです。彼らは進退がゆったりしていて、時に及ばないこともありますが、心を公に向け、職務を奉じて周到です。嗇夫の機敏な応対(文帝の故事)を戒めとし、絳侯(周勃)の無口で実直な功績に思いを致すべきです。以前、楚王劉英の獄事が大いに起こった時、令史を設置して郎官の職務を補助させましたが、その多くは小人の類で、奸利を好みました。今は事務が簡素化されていますので、皆これを停止・削減すべきです。また、諫議の職は、公直な士人を用い、才識に通じ誠実で正しく、朝廷に補益のある者を充てるべきです。今はあるいは徴用試験を受けた者たちから大夫を選んでいます。また、御史が地方に転出する時は、動輒して州郡の要職を占めています。これらも皆、その任を清く選び、言論と実績をもって責めるべきです。二千石が職務に就いている期間が長く、官吏や民衆に便利で安んじられている者は、秩禄を増やし賞賜を重くし、安易に転任させないべきです。どうか聖心に留められますよう。』上書が奏上されると、帝はこれを採用した。

元和二年、

春、皇帝が東方を巡狩した際、韋彪は司徒の職務を代行して従行した。帰還後、病気を理由に引退を願い出た。帝は小黄門と太醫を遣わして病状を問わせ、食物を賜った。韋彪は病が重篤であると称した。章和二年の夏、謁者に策詔を持たせて言わせた。『韋彪は将相の末裔であり、自らを励み行いを整え、州里から出て、在位すること数年になる。中ごろ重い病気にかかり、繰り返し上書して退任を求めてきた。卿の年齢はすでに老境に達しており、これ以上負担を増やすことはできず、職務の煩雑さがさらに害を及ぼすことを恐れる。大鴻臚の印綬を上納せよ。太子舍人を中臧府に遣わし、賜わる銭二十万を受け取らせる。』

永元元年

に死去した。詔を尚書に下した。『故大鴻臚韋彪は、在位中に過ちがなく、まさに任用しようとしていたところ、突然死去した。銭二十万、布百匹、穀物三千こくを賜う。』

韋彪は清廉で倹約を好み、施しを好んだ。俸禄や賜り物は宗族に分け与え、家に余財はなかった。十二篇の書を著し、『韋卿子』と号した。

族子の韋義

韋義は字を季節という。高祖父の韋玄成は、元帝の時に丞相となった。初め、韋彪だけが扶風に移住したので、韋義は依然として京兆杜陵の人であった。

兄の韋順は字を淑文といい、平輿県令となった。高い名声があった。次兄の韋豹は字を季明という。たびたび公府に招聘されたが、いつも事があって辞去した。司徒の劉愷が再び招聘し、言った。『卿は軽率に去就を決め、爵位に昇進しない。今年も暮れようとしている。そろそろ御史を選ぶ時期だが、卿を推薦しようと思っている。しばらく留まってはどうか。』韋豹は言った。『犬馬の齢は衰え、体力もすでに劣っています。仰ぎ慕う崇高な恩情ゆえ、自ら断ち切ることができませんでした。また、目がかすみ滞る病気があり、長く待つことはできません。選挙推薦のご厚情は、私が受けるべきものではありません。』こう言って裸足で立ち上がった。劉愷が追いかけたが、韋豹はまっすぐ去って振り返らなかった。安帝が西巡した時、議郎に任命された。

韋義は若い頃、二人の兄と並び称された。初め州郡に仕えた。太傅桓焉が難治の地を治める者として推挙し、広都県長、甘陵県令、陳県令となった。政治は非常に成果を上げ、役所は事務がなく、牢獄は空であった。たびたび順帝に上書し、古典に依拠して功績を考課し、昇進・降格を行い、名儒を招集してその制度を大いに定めるべきであると述べた。また、側近を痛烈に批判し、竇氏を貶し非難した。意見は聞き入れられず、長く抑圧されて昇進せず、兄の韋順の喪に服すために官を去った。公府に招聘されたが、就任しなかった。広都では生前に廟が立てられた。死去すると、三県の官吏と民衆は韋義のために哀悼の意を表し、父母を失ったかのようであった。

韋豹の子の韋著

韋豹の子の韋著は、字を休明という。若い頃から経学と品行で知られ、州郡の招聘に応じなかった。大将軍梁冀が招聘したが、就任しなかった。

延熹二年

に桓帝が公車を用いて礼を整えて招聘した。韋著は霸陵まで行ったが、病気と称して帰り、雲陽山に入り、薬草を採って戻らなかった。役人が上奏して罪を加えるよう求めたが、帝は特にこれを許した。再び詔を下し、京兆尹に礼を尽くして懇願させたが、韋著は結局招聘に応じなかった。霊帝が即位すると、中常侍曹節は陳蕃と竇氏が既に誅殺された後、海内に怨みが多いことを考え、時の賢者を寵愛して名声を得ようとし、帝に奏上して韋著の家で東海国相に任命した。詔書が厳しく迫ったため、やむを得ず、頭巾を解いてその郡に赴任した。政治は威圧と刑罰に任せ、罰せられた者から上奏され、罪に問われて左校に送られた。また、後妻が驕り高ぶって政治を乱し、これによって名声を失い、結局帰郷し、奸人に害された。隠者たちはこれを恥じた。

史評

賛に曰く、『湛と霸は功を奮い起こし、二つの邦国を安寧ならしむ。淮の人々は孺慕の情を抱き、徐の賊寇は降伏を求む。弘は実直にして遠大を体し、仁は本を忘れず。憙の政には跡多く、彪は明らかに理を損なう。牟公は帝を簡び、身は終に上袞に終わる。』