後漢書

後漢書 巻二十二

後漢書 巻二十二

朱景王杜馬劉傅堅馬列伝 第十二

原文朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

朱祐

原文朱祐

朱祐は字あざなを仲先といい、南陽郡宛県の人である。幼くして孤児となり、母方の実家である復陽の劉氏に身を寄せ、舂陵を往来した。世祖(光武帝)と伯升(劉縯)はともに彼を親しく愛した。伯升が大司徒に任じられると、朱祐を護軍とした。世祖が大司馬となり河北を討伐したとき、再び朱祐を護軍とし、常に親しく寵愛され、宿営は中軍にあった。朱祐が宴席に侍ると、落ち着いて言った。『長安の政治は乱れております。公には日角の相があります。これは天命です』。世祖は言った。『刺奸を呼んで護軍を捕らえよ!』。朱祐はそれ以上言えなくなった。河北征討に従軍し、常に力戦して敵陣を突破し、偏将軍に任じられ、安陽侯に封じられた。世祖が即位すると、建義大将軍に任じられた。

原文朱祐字仲先,南陽宛人也。少孤,歸外家復陽劉氏,往來舂陵,世祖與伯升皆親愛之。伯升拜大司徒,以祐為護軍。及世祖為大司馬,討河北,復以祐為護軍,常見親幸,舍止於中。祐侍宴,從容曰:『長安政亂,公有日角之相,此天命也。』世祖曰:『召刺奸收護軍!』祐乃不敢復言。從征河北,常力戰陷陣,以為偏將軍,封安陽侯。世祖即位,拜為建義大將軍。

建武二年

原文建武二年

に、堵陽侯に改封された。冬、諸将とともに淯陽で鄧奉を攻撃したが、朱祐の軍は敗れ、鄧奉に捕らえられた。翌年、鄧奉が破れると、鄧奉は裸の上体で朱祐を頼りに降伏した。帝は朱祐の官位を復帰させ、手厚く慰労と恩賜を加えた。新野と随を攻撃させ、いずれも平定した。

原文,更封堵陽侯。冬,與諸將擊鄧奉於淯陽,祐軍敗,為奉所獲。明年,奉破,乃肉袒因祐降。帝復祐位而厚加慰賜。遣擊新野、隨,皆平之。

延岑は穣で敗れた後、秦豊の部将張成と合流した。朱祐は征虜将軍祭遵を率いて東陽でこれと戦い、大破した。戦陣で張成を斬り、延岑は敗走して秦豊のもとに帰った。朱祐は印綬九十七個を獲得した。黄郵に進撃してこれを降伏させ、朱祐に黄金三十斤を賜った。四年、破奸将軍侯進、輔威将軍耿植を率い、征南大将軍岑彭に代わって黎丘で秦豊を包囲し、その部将張康を蔡陽で破って斬った。帝自ら黎丘に赴き、御史中丞李由に璽書を持たせて秦豊を招いたが、秦豊は悪口を吐き、降伏を拒んだ。帝は車駕を返し、朱祐に方策を授けた。朱祐は全力で攻撃した。翌年の夏、城中が困窮し、秦豊は母、妻、子九人を連れて裸の上体で降伏した。朱祐は監車で秦豊を護送して洛陽に送り、斬った。大司馬呉漢が朱祐を弾劾し、詔勅を廃して降伏を受け入れ、将帥の任務に背いたと上奏したが、帝は罪を問わなかった。朱祐は帰還し、騎都尉臧宮と合流して延岑の残党である陰県、酂県、築陽県の三県の賊を攻撃し、すべて平定した。

原文延岑自敗於穰,遂與秦豐將張成合,祐率征虜將軍祭遵與戰於東陽,大破之,臨陣斬成,延岑敗走歸豐。祐收得印綬九十七。進擊黃郵,降之,賜祐黃金三十斤。四年,率破奸將軍侯進、輔威將軍耿植代征南大將軍岑彭圍秦豐於黎丘,破其將張康於蔡陽,斬之。帝自至黎丘,使御史中丞李由持璽書招豐,豐出惡言,不肯降。車駕引還,敕祐方略,祐盡力攻之。明年夏,城中窮困,豐乃將其母、妻、子九人肉袒降。祐監車傳豐送洛陽,斬之。大司馬吳漢劾奏祐廢詔受降,違將帥之任,帝不加罪。祐還,與騎都尉臧宮會擊延岑餘黨陰、酂、築陽三縣賊,悉平之。

朱祐は人となりは質朴で正直であり、儒学を尊んだ。兵を率いて軍を指揮する際は、多くは降伏を受け入れ、城邑を平定することを本とし、首級の功績を求めなかった。また、士卒に百姓を略奪することを禁じた。軍人は放縦を好むため、多くはこのことで彼を怨んだ。九年、南行唐に駐屯して匈奴を防いだ。十三年、封邑を増やし、鬲侯に定封され、食邑七千三百戸を領した。

原文祐為人質直,尚儒學。將兵率眾,多受降,以克定城邑為本,不存首級之功。又禁制士卒不得虜掠百姓,軍人樂放縱,多以此怨之。九年,屯南行唐拒匈奴。十三年,增邑,定封鬲侯,食邑七千三百戶。

十五年、京師に参朝し、大将軍の印綬を返上し、そのまま奉朝請として留まった。朱祐は上奏して、古来の臣下が封を受ける際、王爵を加えないのが例であるから、諸王を公に改めるべきだと述べた。帝はすぐにこれを施行した。また、三公から「大」の名を除き、経典の法に従うべきだと上奏した。後にこの建議が採用された。

原文十五年,朝京師,上大將軍印綬,因留奉朝請。祐奏古者人臣受封,不加王爵,可改諸王為公。帝即施行。又奏宜令三公並去『大』名,以法經典。後遂從其議。

朱祐がかつて長安で学んでいたとき、帝(当時は劉秀)が訪ねて行ったが、朱祐はすぐに労をねぎらわず、先に講堂に上がってしまった。後に帝が彼の邸宅に行幸したとき、帝は笑って言った。『主人は私を置いて講義に行くのではないか?』。旧恩があったため、たびたび恩賞を受けた。二十四年、死去した。

原文祐初學長安,帝往候之,祐不時相勞苦,而先升講舍。後車駕幸其第,帝因笑曰:『主人得無舍我講乎?』以有舊恩,數蒙賞賚。二十四年,卒。

子の朱商が後を嗣いだ。朱商が死去すると、子の朱演が後を嗣いだ。

原文子商嗣。商卒,子演嗣,

永元十四年

原文永元十四年

に、兄の朱伯が外孫である陰皇后の巫蠱事件に関与した罪に連座し、免官されて庶人となった。

原文,坐以兄伯為外孫陰皇后巫蠱事,免為庶人。

永初七年

原文永初七年

に、鄧太后が朱演の子の朱沖を紹封して鬲侯とした。

原文,鄧太后紹封演子沖為鬲侯。

景丹

原文景丹

景丹は字を孫卿といい、馮翊郡櫟陽県の人である。若い頃に長安で学んだ。王莽の時代に四科に挙げられ、景丹は言語の才能によって固徳侯の相となり、事務処理に優れていると称賛され、朔調連率の副官に昇進した。

原文景丹字孫卿,馮翊櫟陽人也。少學長安。王莽時舉四科,丹以言語為固德侯相,有幹事稱,遷朔調連率副貳。

更始帝が即位すると、使者を上谷郡に派遣して帰順を促した。景丹は連率の耿況と共に降伏し、再び上谷郡の長史となった。王郎が立ち上がると、景丹は耿況と共にこれを防ぐことを謀った。耿況は景丹と子の耿弇、および寇恂らに兵を率いて南進し、世祖(光武帝)に帰順するよう命じた。世祖は景丹らを引見し、笑って言った。『邯鄲(王郎)の将帥たちはしばしば、私が漁陽・上谷の兵を動かすと言っている。そなたは確かにその通りだと言うべきだったのに、どうして二郡の良き兵が私のために来てくれるとは思わなかったのか!今こそ士大夫と共にこの功名を分かち合おう。』景丹を偏将軍に任じ、奉義侯の号を賜った。南〓で王郎の将軍宏らを攻撃するのに従軍した。王郎軍が迎え撃つと、漢軍は退却したが、景丹らは突騎を縦横に駆って攻撃し、これを大破し、十余里を追撃して、死傷者が縦横に倒れた。景丹が戻ると、世祖は言った。『私は突騎が天下の精兵だと聞いていたが、今その戦いぶりを見て、その喜びは言葉では言い表せない。』こうして河北征伐に従軍した。

原文更始立,遣使者徇上谷,丹與連率耿況降,復為上谷長史。王郎起,丹與況共謀拒之。況使丹與子弇及寇恂等將兵南歸世祖,世祖引見丹等,笑曰:『邯鄲將帥數言我發漁陽、上谷兵,吾卿應言然,何意二郡良為吾來!方與士大夫共此功名耳。』拜丹為偏將軍,號奉義侯。從擊王郎將宏等於南〓,郎兵迎戰,漢軍退卻,丹等縱突騎擊,大破之,追奔十餘里,死傷者從橫。丹還,世祖謂曰:『吾聞突騎天下精兵,今乃見其戰,樂可言邪?』遂從征河北。

世祖が即位すると、讖文に基づいて平狄将軍の孫咸を行大司馬に用いようとしたが、人々は皆喜ばなかった。詔を下して大司馬にふさわしい者を推挙させると、群臣が推したのは呉漢と景丹だけであった。帝は言った。『景将軍は北州の大将であり、その人である。しかし呉将軍には大計を立てた功績があり、また苗幽州や謝尚書を誅殺した功績は大きい。旧制では驃騎将軍の官は大司馬を兼ねるものだ。』そこで呉漢を大司馬とし、景丹を驃騎大将軍に任じた。

原文世祖即位,以讖文用平狄將軍孫咸行大司馬,眾威不悅。詔舉可為大司馬者,群臣所推惟吳漢及丹。帝曰:『景將軍北州大將,是其人也。然吳將軍有建大策之勛,又誅苗幽州、謝尚書,其功大。舊制驃騎將軍官與大司馬相兼也。』乃以吳漢為大司馬,而拜丹為驃騎大將軍。

建武二年

原文建武二年

、景丹を櫟陽侯に定封した。帝は景丹に言った。『今、関東の旧王国は、たとえ数県あっても、櫟陽の一万戸の邑には及ばない。「富貴になって故郷に帰らぬのは、錦の衣を夜に着るようなものだ」という。だからそなたに封じるのだ。』景丹は頓首して謝した。秋、呉漢、建威大将軍耿弇、建義大将軍朱祐、執金吾賈復、偏将軍馮異、強弩将軍陳俊、左曹王常、騎都尉臧宮らと共に、羛陽で五校軍を撃破し、その兵五万人を降伏させた。ちょうど陝の賊蘇況が弘農を攻め落とし、郡守を生け捕りにした。景丹は当時病んでいたが、帝は彼が旧将であることを考慮し、無理をさせて郡の事務を統轄させようと考え、夜に召し入れて言った。『賊が京師に迫っている。ただ将軍の威厳さえあれば、臥していても鎮めるには十分だ。』景丹は辞退できず、病をおして任命を受け、軍営を率いて郡に赴いたが、十余日で死去した。

原文,定封丹櫟陽侯。帝謂丹曰:『今關東故王國,雖數縣,不過櫟陽萬戶邑。夫「富貴不歸故鄉,如衣繡夜行」,故以封卿耳。』丹頓首謝。秋,與吳漢、建威大將軍耿弇、建義大將軍朱祐、執金吾賈復、偏將軍馮異、強弩將軍陳俊、左曹王常、騎都尉臧宮等從擊破五校於羛陽,降其眾五萬人。會陜賊蘇況攻破弘農,生獲郡守。丹時病,帝以其舊將,欲令強起領郡事,乃夜召入,謂曰:『賊迫近京師,但得將軍威重,臥以鎮之足矣。』丹不敢辭,乃力疾拜命,將營到郡,十餘日薨。

子の景尚が後を継ぎ、余吾侯に改封された。景尚が没すると、子の景苞が後を継いだ。景苞が没すると、子の景臨が後を継いだが、子がなく、封国は絶えた。

原文子尚嗣,徙封余吾侯。尚卒,子苞嗣。苞卒,子臨嗣,無子,國絕。

永初七年

原文永初七年

、鄧太后は景苞の弟の景遽を監亭侯に紹封した。

原文,鄧太后紹封苞弟遽為監亭侯。

王梁

原文王梁

王梁は字を君厳といい、漁陽郡要陽県の人である。郡の役人となり、太守の彭寵は王梁に狐奴県令を代行させた。蓋延、呉漢と共に兵を率いて南進し、広阿で世祖と合流し、偏将軍に任じられた。邯鄲を陥落させた後、関内侯の爵位を賜った。河北平定に従軍し、野王県令に任じられた。河内太守の寇恂と共に南は洛陽を防ぎ、北は天井関を守ったため、朱鮪らは出兵できず、世祖は王梁の功績を認めた。即位すると、大司空を選ぶことを議論し、『赤伏符』に『王梁が衛を主として玄武を作る』とあった。帝は、野王が衛の移封地であり、玄武は水神の名であり、司空は水土を司る官であると考え、そこで王梁を抜擢して大司空に任じ、武強侯に封じた。

原文王梁字君嚴,漁陽要陽人也。為郡吏,太守彭寵以梁守狐奴令,與蓋延、吳漢俱將兵南及世祖於廣阿,拜偏將軍。既拔邯鄲,賜爵關內侯。從平河北,拜野王令,與河內太守寇恂南拒洛陽,北守天井關,朱鮪等不敢出兵,世祖以來梁功。及即位,議選大司空,而《赤伏符》曰『王梁主衛作玄武』,帝以野王衛之所徙,玄武水神之名,司空水土之官也,於是擢拜梁為大司空,封武強侯。

建武二年、大司馬呉漢らと共に檀郷を攻撃した。詔により軍事はすべて大司馬に属することになっていたが、王梁は勝手に野王の兵を動員した。帝は詔勅に従わなかったとして、その所在の県で停止するよう命じたが、王梁は再び便宜を図って進軍した。帝は王梁が前後して命令に背いたことに激怒し、尚書の宗広に節を持たせて軍中に派遣し、王梁を斬らせようとした。宗広は忍びず、檻車で京師に送った。到着すると、赦免した。一か月余り後、中郎将とし、執金吾の職務を行わせた。北の箕関を守り、赤眉軍の別働隊を撃って降伏させた。三年の春、転進して五校軍を攻撃し、信都・趙国まで追撃してこれを破り、諸所の屯営をすべて平定した。冬、使者に節を持たせて王梁を前将軍に任じた。四年の春、肥城・文陽を攻撃して陥落させた。進軍して驃騎大将軍杜茂と共に楚・沛の間で佼彊・蘇茂を攻撃し、大梁・嚙桑を陥落させた。捕虜将軍馬武、偏将軍王霸もまた分かれて進軍し、一年余りで全てを平定した。五年、桃城救援に従軍し、龐萌らを破った。王梁の戦いぶりは特に力があり、山陽太守に任じられ、新たに帰順した者を鎮撫し、以前と同様に兵を率いた。

原文建武二年,與大司馬吳漢等俱擊檀鄉,有詔軍事一屬大司馬,而梁輒發野王兵,帝以其不奉詔敕,令止在所縣,而梁復以便宜進軍。帝以梁前後違命,大怒,遣尚書宗廣持節軍中斬梁。廣不忍,乃檻車送京師。既至,赦之。月餘,以為中郎將,行執金吾事。北守箕關,擊赤眉別校,降之。三年春,轉擊五校,追至信都、趙國,破之,悉平諸屯聚。冬,遣使者持節拜梁前將軍。四年春,擊肥城、文陽,拔之。進與驃騎大將軍杜茂擊佼韁、蘇茂於楚、沛間,拔大梁、嚙桑,而捕虜將軍馬武、偏將軍王霸亦分道並進,歲餘悉平之。五年,從救桃城,破龐萌等,梁戰尤力,拜山陽太守,鎮撫新附,將兵如故。

数か月後に召還され、欧陽歙に代わって河南尹となった。王梁は渠を穿ち穀水を引き、洛陽城下に注ぎ、東は鞏川に流そうとしたが、渠が完成しても水は流れなかった。七年、役人がこれを弾劾した。王梁は恥じ恐れ、上書して骸骨を乞うた。そこで詔を下して言った。『王梁は以前兵を率いて征伐し、人々は賢者と称えた。故に抜擢して京師を統轄させた。渠を開くことを建議し、人々に利益をもたらそうとしたが、体力が既に衰え、ついに成功せず、百姓は怨み謗り、世間の噂は騒がしかった。寛大な赦しは受けたが、なお謙退を執る。「君子は人の美を成す」という。王梁を済南太守とする。』十三年、封邑を増やし、阜成侯に定封した。十四年、任地で死去した。

原文數月征人,代歐陽歙為河南尹。梁穿渠引穀水註洛陽城下,東寫鞏川,及渠成而水不流。七年,有司劾奏之,梁慚懼,上書乞骸骨。乃下詔曰:『梁前將兵征伐,眾人稱賢,故擢典京師。建議開渠,為人興利,旅力既愆,迄無成功,百姓怨讟,談者讙嘩。雖蒙寬宥,猶執謙退,「君子成人之美」,其以梁為濟南太守。』十三年,增邑,定封阜成侯。十四年,卒官。

子の王禹が後を継いだ。王禹が没すると、子の王堅石が後を継いだ。王堅石は父の王禹と弟の王平が楚王劉英の謀反に加わった罪に連座して、市で処刑され、封国は除かれた。

原文子禹嗣。禹卒,子堅石嗣。堅石追坐父禹及弟平與楚王英謀反,棄市,國除。

杜茂

原文杜茂

杜茂は字を諸公といい、南陽郡冠軍県の人である。初め光武帝に河北で帰順し、中堅将軍となり、常に征伐に従った。世祖が即位すると、大将軍に任じられ、楽郷侯に封じられた。真定で五校を北撃し、広平を進降させた。建武二年、苦陘侯に改封された。中郎将王梁とともに魏郡・清河・東郡で五校の賊を撃ち、諸々の営塁をことごとく平定し、その持節大将三十余人を降伏させ、三郡は清静となり、道路は流通した。翌年、使者を遣わし持節を持たせて杜茂を驃騎大将軍に拝し、沛郡を撃ち、芒を陥落させた。当時、西防が再び反乱し、佼彊を迎え入れた。五年春、杜茂は捕虜将軍馬武を率いて西防に進攻し、数か月でこれを陥落させ、佼彊は董憲のもとに奔った。

原文杜茂字諸公,南陽冠軍人也。初歸光武於河北,為中堅將軍,常從征伐。世祖即位,拜大將軍,封樂鄉侯。北擊五校於真定,進降廣平。建武二年,更封苦陘侯。與中郎將王梁擊五校賊於魏郡、清河、東郡,悉平諸營保,降其持節大將三十餘人,三郡清靜,道路流通。明年,遣使持節拜茂為驃騎大將軍,擊沛郡,拔芒。時,西防復反,迎佼彊。五年春,茂率捕虜將軍馬武進攻西防,數月拔之,彊奔董憲。

東方が平定されると、七年、詔により杜茂は兵を率いて北に進み、晋陽・広武に屯田し、胡寇に備えた。九年、雁門太守郭涼とともに盧芳の将尹由を繁畤で撃ち、盧芳の将賈覧が胡騎一万余りを率いてこれを救援した。杜茂は戦い、軍は敗れ、楼煩城に引き入った。当時、盧芳は高柳を占拠し、匈奴と連合して兵を動かし、しばしば辺境の民を侵寇したため、帝はこれを憂慮した。十二年、謁者段忠を遣わし、諸郡の弛刑徒を率いさせて杜茂に配属し、北辺を鎮守させた。これにより辺境の兵卒を動員して亭候を築き、烽火を修復し、また輸送して金帛・繊絮を供給して軍士に与え、併せて辺民にも賜り、冠蓋が道に相望んだ。杜茂もまた屯田を建設し、驢車で東方から物資を転送した。これに先立ち、雁門の人賈丹・霍匡・解勝らは尹由に略取され、尹由は彼らを将帥とし、共に平城を守っていた。賈丹らは盧芳の敗北を聞くと、遂に共謀して尹由を殺し郭涼のもとに詣でた。郭涼は上奏して状況を報告し、皆を列侯に封じた。詔により輸送した金帛を賜り、杜茂・郭涼の軍吏および平城の降民に与えた。これより盧芳の城邑は次第に降伏して来るようになり、郭涼はその豪族の郇氏の類を誅殺し、疲弊した弱者を鎮撫した。十日余りの間に雁門はほぼ平定され、盧芳は遂に匈奴に亡命した。帝は郭涼の子を中郎に抜擢し、左右で宿衛させた。

原文東方既平,七年,詔茂引兵北屯田晉陽、廣武,以備胡寇。九年,與雁門太守郭涼擊盧芳將尹由於繁畤,芳將賈覽率胡騎萬餘救之,茂戰,軍敗,引入樓煩城。時,盧芳據高柳,與匈奴連兵,數寇邊民,帝患之。十二年,遣謁者段忠將眾郡弛刑配茂,鎮守北邊,因發邊卒築亭候,修烽火,又發委輸金帛繒絮供給軍士,並賜邊民,冠蓋相望。茂亦建屯田,驢東轉運。先是,雁門人賈丹、霍匡、解勝等為尹由所略,由以為將帥,與共守平城。丹等聞芳敗,遂共殺由詣郭涼;涼上狀,皆封為列侯,詔送委輸金帛賜茂、涼軍吏及平城降民。自是盧芳城邑稍稍來降,涼誅其豪右郇氏之屬,鎮撫贏弱,旬月間雁門且平,芳遂亡入匈奴。帝擢涼子為中郎,宿衛左右。

郭涼は字を公文といい、右北平郡の人である。身長八尺、気力は壮猛で、武将ではあったが、経書に通じ、智略が多く、特に辺境の事情に明るく、北方で有名であった。初め、幽州牧朱浮が兵曹掾に辟召し、彭寵を撃って功績があり、広武侯に封じられた。

原文涼字公文,右北平人也。身長八尺,氣力壯猛,雖武將,然通經書,多智略,尤曉邊事,有名北方。初,幽州牧朱浮辟為兵曹掾,擊彭寵有功,封廣武侯。

子の郭元が後を嗣いだ。永平十四年、東平王らと謀反を企てた罪に連座し、死刑一等を減じられ、封国は除かれた。永初七年、鄧太后が杜茂の孫の杜奉を安楽亭侯に紹封した。

原文子元嗣,永平十四年,坐與東平王等謀反,減死一等,國除。永初七年,鄧太后紹封茂孫奉為安樂亭侯。

馬成

原文馬成

馬成は字を君遷といい、南陽郡棘陽県の人である。若くして県吏となった。世祖が潁川を巡行した時、馬成を安集掾とし、郟県令を代行させた。世祖が河北を討伐する時、馬成はすぐに官を棄て徒歩で背負い、蒲陽で追いつき、馬成を期門とし、征伐に従わせた。世祖が即位すると、再び昇進して護軍都尉となった。

原文馬成字君遷,南陽棘陽人也。少為縣吏。世祖徇潁川,以成為安集掾,調守郟令。及世祖討河北,成即棄官步負,追及於蒲陽,以成為期門,從征伐。世祖即位,再遷護軍都尉。

建武四年、揚武将軍に拝され、誅虜将軍劉隆・振威将軍宋登・射声校尉王賞を督し、会稽・丹陽・九江・六安の四郡の兵を動員して李憲を撃った。当時、帝は寿春に行幸し、壇場を設け、祖道の礼を以て送り出した。舒で李憲を包囲し、諸軍にそれぞれ深い堀と高い塁を築かせた。李憲はしばしば挑戦したが、馬成は堅く守り出撃せず、一年余り守り続けた。六年春に至り、城中の食糧が尽きたため、攻撃をかけ、遂に舒を屠り、李憲を斬り、その党与を追及し、江淮の地をことごとく平定した。

原文建武四年,拜揚武將軍,督誅虜將軍劉隆、振威將軍宋登、射聲校尉王賞,發會稽、丹陽、九江、六安四郡兵擊李憲,時帝幸壽春,設壇場,祖禮遣之。進圍憲於舒,令諸軍各深溝高壘。憲數挑戰,成堅壁不出,守之歲餘。至六年春,城中食盡,乃攻之,遂屠舒,斬李憲,追及其黨與,盡平江淮地。

七年夏、平舒侯に封じられた。八年、従征して隗囂を破り、馬成を天水太守とし、将軍の職は元のままとした。冬、征還されて京師に帰った。九年、来歙に代わって中郎将を守り、武威将軍劉尚らを率いて河池を破り、遂に武都を平定した。翌年、大司空李通が罷免されると、馬成が大司空の職務を行い、府に居て真の官の如くし、数か月後に再び揚武将軍に拝された。

原文七年夏,封平舒侯。八年,從征破隗囂,以成為天水太守,將軍如故。冬,征還京師。九年,代來歙守中郎將,率武威將軍劉尚等破河池,遂平武都。明年,大司空李通罷,以成行大司空事,居府如真,數月復拜揚武將軍。

十四年、常山・中山に屯駐して北辺に備え、併せて建義大将軍朱祐の営を領した。また驃騎大将軍杜茂に代わって障塞を修繕整備し、西河から渭橋まで、河上から安邑まで、太原から井陘まで、中山から鄴まで、すべて堡塁を築き、烽燧を設け、十里ごとに斥候を置いた。この職務に五、六年従事し、帝は馬成の勤労を認め、征還して京師に帰した。辺境の民が多く上書して請願したため、再び馬成を派遣して屯駐させた。南単于が塞を守保するに及び、北方に事が無くなると、中山太守に拝され、上将軍の印綬を奉還し、屯兵を領するのは元のままとした。

原文十四年,屯常山、中山以備北邊,並領建義大將軍朱祐營。又代驃騎大將軍杜茂繕治障塞,自西河至渭橋,河上至安邑,太原至井陘,中山至鄴,皆築保壁,起烽燧,十里一候。在事五六年,帝以成勤勞,征還京師。邊人多上書求請者,復遣成還屯。及南單于保塞,北方無事,拜為中山太守,上將軍印綬,領屯兵如故。

二十四年、南に武谿の蛮賊を撃ったが、功績が無く、太守の印綬を奉還した。二十七年、定封されて全椒侯となった。封国に赴いた。三十二年、卒去した。

原文二十四年,南擊武谿蠻賊,無功,上太守印綬。二十七年,定封全椒侯。就國。三十二年卒。

子の馬衛が後を嗣いだ。馬衛が卒去すると、子の馬香が嗣ぎ、棘陵侯に転封された。馬香が卒去すると、子の馬豊が嗣いだ。馬豊が卒去すると、子の馬玄が嗣いだ。馬玄が卒去すると、子の馬邑が嗣いだ。馬邑が卒去すると、子の馬醜が嗣いだ。桓帝の時、罪により封国を失った。延熹二年、帝は再び馬成の玄孫の馬昌を益陽亭侯に封じた。

原文子衛嗣。衛卒,子香嗣,徙封棘陵侯。香卒,子豐嗣。豐卒,子玄嗣。玄卒,子邑嗣。邑卒,子醜嗣,桓帝時以罪失國。延熹二年,帝復封成玄孫昌為益陽亭侯。

劉隆

原文劉隆

劉隆は字を元伯といい、南陽の安衆侯の宗室である。王莽が居摂の時、劉隆の父の劉礼は安衆侯劉崇とともに起兵して王莽を誅殺しようとしたが、事が漏れ、劉隆は年齢が七歳に満たなかったため、免れることができた。壮年になって、長安で学び、更始帝により騎都尉に拝された。謁見して帰郷を請い、妻子を迎えて洛陽に置いた。世祖が河内にいることを聞き、すぐに射犬で追いつき、騎都尉とされ、馮異と共に朱鮪・李軼らを防ぎ、李軼は遂に劉隆の妻子を殺した。建武二年、亢父侯に封じられた。四年、誅虜将軍に拝され、李憲を討伐した。李憲が平定されると、劉隆を派遣して武当に屯田させた。

原文劉隆字元伯,南陽安眾侯宗室也。王莽居攝中,隆父禮與安眾侯崇起兵誅莽,事泄,隆以年未七歲,故得免。及壯,學於長安,更始拜為騎都尉。謁歸,迎妻、子置洛陽。聞世祖在河內,即追及於射犬,以為騎都尉,與馮異共拒朱鮪、李軼等,軼遂殺隆妻、子。建武二年,封亢父侯。四年,拜誅虜將軍,討李憲。憲平,遣隆屯田武當。

十一年、南郡太守を代行し、一年余りして将軍の印綬を奉還した。十三年、封邑を増やし、竟陵侯に改封された。この時、天下の墾田は多く実数と合わず、また戸口と年齢も互いに増減があった。十五年、詔を下して州郡にその事実を検査させたが、刺史・太守の多くは公平でなく、あるいは豪族を優遇し、疲弊した弱者を侵害し、百姓は嘆き怨み、道を遮って号呼した。当時、諸郡はそれぞれ使者を遣わして事を奏上したが、帝は陳留郡の吏の木簡の上に書かれたものを見つけ、それを見ると、『潁川・弘農は問うべし、河南・南陽は問うべからず』と書いてあった。帝は吏にその理由を詰問したが、吏は服さず、ただ長寿街で拾ったものだと言い張った。帝は怒った。当時、顕宗は東海公で、十二歳であり、帷幄の後ろから言った。『吏は郡の命令を受け、墾田の実情を比較しようとしたのでしょう』。帝は言った。『そうだとして、なぜ河南・南陽は問うべからずと言うのか?』。答えて言った。『河南は帝城で、近臣が多く、南陽は帝郷で、近親が多く、田宅が制度を超えており、基準とすることができないからです』。帝は虎賁将に命じて吏を詰問させると、吏はようやく実状を自白し、顕宗の答えの通りであった。そこで謁者を遣わして事実を調査させると、奸状が詳細に判明した。翌年、劉隆は連座して召還され獄に下され、その同輩十余人は皆死んだ。帝は劉隆が功臣であるため、特赦して庶人とした。

原文十一年,守南郡太守,歲餘,上將軍印綬。十三年,增邑,更封竟陵侯。是時,天下墾田多不以實,又戶口年紀互有增減。十五年,詔下州郡檢核其事,而刺史、太守多不平均,或優饒豪右,侵刻羸弱,百姓嗟怨,遮道號呼。時,諸郡各遣使奏事,帝見陳留吏牘上有書,視之,云:『潁川、弘農可問,河南、南陽不可問。』帝詰吏由趣,吏不肯服,抵言於長壽街上得之。帝怒。時,顯宗為東海公,年十二,在幄後言曰:『吏受郡敕,當欲以墾田相方耳。』帝曰:『即如此,何故言河南、南陽不可問?』對曰:『河南帝城,多近臣,南陽帝鄉,多近親,田宅逾制,不可為準。』帝令虎賁將詰問吏,吏乃實首服,如顯宗對。於是遣謁者考實,具知奸狀。明年,隆坐征下獄,其疇輩十餘人皆死。帝以隆功臣,物免為庶人。

翌年、再び扶楽郷侯に封じられ、中郎将として伏波将軍馬援の副将となり、交阯の蛮夷徴側らを撃った。劉隆は別働隊で禁谿口でこれを破り、その帥の徴貮を捕らえ、千余級を斬首し、降伏する者二万余人を得た。帰還後、大国に改封され、長平侯となった。大司馬呉漢が薨じると、劉隆は驃騎将軍となり、大司馬の職務を行った。

原文明年,復封為扶樂鄉侯,以中郎將副伏波將軍馬援擊交阯蠻夷徵側等,隆別於禁谿口破之,獲其帥徵貳,斬首千餘級,降者二萬餘人。還,更封大國,為長平侯。及大司馬吳漢薨,隆為驃騎將軍,行大司馬事。

劉隆は法令を遵守し、職務に就いて八年で、将軍の印綬を返上し、罷免されたが、養老用の牛と上等の酒十斛こくを賜り、列侯として朝請に奉仕した。建武三十年、慎侯に封ぜられた。中元二年に死去し、靖侯と諡された。子の劉安が後を嗣いだ。

原文隆奉法自守,視事八歲,上將軍印綬,罷,賜養牛,上樽酒十斛,以列侯奉朝請。三十年,定封慎侯。中元二年,卒,謚曰靖侯。子安嗣。

傅俊

原文傅俊

傅俊は字を子衛といい、潁川郡襄城県の人である。世祖が襄城を巡行したとき、傅俊は県の亭長として軍を迎え、校尉に任ぜられた。襄城では彼の母や弟、宗族が捕らえられ、皆殺しにされた。王尋らを破った後、偏将軍に任ぜられた。別働隊として京県と密県を攻撃し、これを破り、潁川に帰還して家族の遺体を収葬した。

原文傅俊字子衛,潁川襄城人也。世祖徇襄城,俊以縣亭長迎軍,拜為校尉,襄城收其母弟宗族,皆滅之。從破王尋等,以為偏將軍。別擊京、密,破之,遣歸潁川,收葬家屬。

世祖が河北を討伐したとき、傅俊は賓客十数人を率いて北へ追い、邯鄲で追いつき、謁見した。世祖は彼に潁川の兵を率いさせ、常に征伐に従軍させた。世祖が即位すると、傅俊を侍中とした。建武二年、昆陽侯に封ぜられた。三年、積弩将軍に任ぜられ、征南大将軍岑彭と共に秦豊を撃破し、兵を率いて江東を巡行し、揚州を平定した。七年に死去し、威侯と諡された。

原文及世祖討河北,俊與賓客十餘人北追,及於邯鄲,上謁,世祖使將潁川兵,常從征伐。世祖即位,以俊為侍中。建武二年,封昆陽侯。三年,拜俊積弩將軍,與征南大將軍岑彭擊破秦豐,因將兵徇江東,揚州悉定。七年,卒,謚曰威侯。

子の傅昌が後を嗣ぎ、蕪湖侯に転封された。建初年間、母の喪に服した際、上書して、国が貧しいため封を受けたくないと述べ、五十万銭を賜り関内侯になりたいと願い出た。肅宗は怒り、彼を関内侯に貶し、結局銭は賜らなかった。永初七年、鄧太后は傅昌の子傅鉄を再び高置亭侯に封じた。

原文子昌嗣,徙封蕪湖侯。建初中,遭母憂,因上書,以國貧不願之封,乞錢五十萬,為關內侯。肅宗怒,貶為關內侯,竟不賜錢。永初七年,鄧太后復封昌子鐵為高置亭侯。

堅鐔

原文堅鐔

堅鐔は字を子伋といい、潁川郡襄城県の人である。郡県の吏であった。世祖が河北を討伐したとき、誰かが堅鐔を推薦し、召し出されて謁見した。その吏としての能力を認められ、主簿に任用された。また偏将軍に任ぜられ、河北平定に従軍し、別働隊として盧奴で大槍軍を撃破した。世祖が即位すると、堅鐔を揚化将軍とし、㶏強侯に封じた。

原文堅鐔字子伋,潁川襄城人也。為郡縣吏。世祖討河北,或薦鐔者,因得召見。以其吏能,署主簿。又拜偏將軍,從平河北,別擊破大槍於盧奴。世祖即位,拜鐔揚化將軍,封㶏強侯。

諸将と共に洛陽を攻撃したとき、朱鮪の別将で東城を守っていた者が内応し、密かに堅鐔と朝に上東門を開けることを約束した。堅鐔は建義大将軍朱祐と共に朝に乗じて入城し、武庫の下で朱鮪と激戦し、多くの死傷者を出し、朝食の時分になってようやく終わった。朱鮪はこれにより降伏した。また別働隊として内黄を攻撃し、これを平定した。建武二年、右将軍萬脩と共に南陽の諸県を巡行したが、堵郷の董訢が宛城で反乱を起こし、南陽太守劉驎を捕らえた。堅鐔は軍を率いて宛に赴き、決死隊を選んで夜間に城壁を登り、門を破って入城した。董訢は城を捨てて堵郷に逃げ帰った。鄧奉が再び新野で反乱し、呉漢を撃破した。この時、萬脩が病死し、堅鐔は孤立無援となり、南では鄧奉を防ぎ、北では董訢を相手にし、一年間にわたり道路が遮断され、食糧の補給が途絶えた。堅鐔は野菜を食べ、兵士と共に苦労を分かち合った。危急の際には常に先頭に立って矢石に当たり、三ヶ所の傷を負ったが、これによって兵士たちを全員守り通した。帝が南陽を征伐し、董訢と鄧奉を撃破すると、堅鐔を左曹とし、常に征伐に従軍させた。六年、合肥侯に定封された。二十六年に死去した。

原文與諸將攻洛陽,而朱鮪別將守東城者為反間,私約鐔晨開上東門。鐔與建義大將軍朱祐乘朝而入,與鮪大戰武庫下,殺傷甚眾,至旦食乃罷,朱鮪由是遂降。又別擊內黃,平之。建武二年,與右將軍萬脩徇南陽諸縣,而堵鄉人董訢反宛城,獲南陽太守劉驎。鐔乃引軍赴宛,選敢死士夜自登城,斬關而入,訢遂棄城走還堵鄉。鄧奉復反新野,攻破吳漢。時,萬脩病卒,鐔獨孤絕,南拒鄧奉,北當董訢,一年間道路隔塞,糧饋不至,鐔食蔬菜,與士卒共勞苦。每急,輒先當矢石,身被三創,以此能全其眾。及帝征南陽,擊破訢、奉,以鐔為左曹,常從征伐。六年,定封合肥候。二十六年,卒。

子の堅鴻が後を嗣いだ。堅鴻が死去すると、子の堅浮が嗣いだ。堅浮が死去すると、子の堅雅が嗣いだ。

原文子鴻嗣。鴻卒,子浮嗣。浮卒,子雅嗣。

馬武

原文馬武

馬武は字を子張といい、南陽郡湖陽県の人である。若い頃、仇を避けて江夏に客居した。王莽の末年、竟陵と西陽の三老が郡内で兵を挙げると、馬武はこれに従い、後に緑林軍に入り、漢軍と合流した。更始帝が立つと、馬武を侍郎とし、世祖と共に王尋らを破った。振威将軍に任ぜられ、尚書令謝躬と共に王郎を攻撃した。

原文馬武字子張,南陽湖陽人也。少時避仇,客居江夏。王莽末,竟陵、西陽三老起兵於郡界,武往從之,後入綠林中,遂與漢軍合。更始立,以武為侍郎,與世祖破王尋等。拜為振威將軍,與尚書令謝躬共攻王郎。

世祖が邯鄲を陥落させたとき、謝躬と馬武らを招いて酒宴を開き、謝躬を除こうとしたが、成功しなかった。宴が終わると、馬武だけを連れて叢台に登り、落ち着いて馬武に言った。『私は漁陽と上谷の精鋭騎兵を得たが、将軍にこれを率いさせたいと思う。どうかね?』馬武は言った。『私は愚かで臆病で方略がありません』。世祖は言った。『将軍は長く将軍を務め、軍事に習熟している。どうして私の属官たちと同じだろうか!』馬武はこれにより心服した。

原文及世祖拔邯鄲,請躬及武等置酒高會,因欲以圖躬,不克。既罷,獨與武登叢臺,從容謂武曰:『吾得漁陽、上谷突騎,欲令將軍將之,何如?』武曰:『駑怯無方略。』世祖曰:『將軍久將,習兵,豈與我掾史同哉!』武由是歸心。

謝躬が誅殺されると、馬武は射犬まで馳せて降伏した。世祖は彼を大いに喜び、側近に置き、諸将を労う宴のたびに、馬武は進み出て酒を酌み交わし、世祖はこれを楽しんだ。再び彼に自分の部隊を率いて鄴に行かせようとしたが、馬武は叩頭して辞退した。世祖はますますその心意気を賞賛し、賊徒討伐に従軍させた。世祖が尤来や五幡などを攻撃し、慎水で敗れたとき、馬武だけが殿軍を務め、敵陣に突入して戻り、賊に追撃させなかった。安次や小広陽に進軍したとき、馬武は常に先鋒を務め、力戦して退かず、諸将は皆彼に従った。そのため賊を破り、平谷まで追撃し、浚靡から帰還した。

原文及謝躬誅死,武馳至射犬降,世祖見之甚悅,引置左右,每勞饗諸將,武輒起斟酌於前,世祖以為歡。復使將其部曲至鄴,武叩頭辭以不願,世祖愈美其意,因從擊群賊。世祖擊尤來、五幡等,敗於慎水,武獨殿,還陷陣,故賊不得迫及。進至安次、小廣陽,武常為軍鋒,力戰無前,諸將皆引而隨之,故遂破賊,窮追至平谷,浚靡而還。

世祖が即位すると、馬武を侍中・騎都尉とし、山都侯に封じた。

原文世祖即位,以武為侍中、騎都尉,封山都侯。

建武四年

原文建武四年

虎牙将軍の蓋延らと共に劉永を討伐し、馬武は別働隊で済陰を攻撃し、成武・楚丘を陥落させ、捕虜将軍に任じられた。翌年、龐萌が反乱し、桃城を攻撃すると、馬武は先鋒として戦い、これを撃破した。ちょうど天子の車駕が到着し、龐萌は敗走した。建武六年の夏、建威大将軍の耿弇と共に西進して隗囂を攻撃したが、漢軍は不利となり、隴山から撤退した。隗囂が急追してきたため、馬武は精鋭の騎兵を選んで後衛となり、自ら甲冑を身に着け戟を持って突撃し、数千人を斬殺した。これにより隗囂の軍は退却し、諸軍は長安に帰還することができた。

原文,與虎牙將軍蓋延等討劉永,武別擊濟陰,下成武、楚丘,拜捕虜將軍。明年,龐萌反,攻桃城,武先與戰,破之;會車駕至,萌遂敗走。六年夏,與建威大將軍耿弇西擊隗囂,漢軍不利,引下隴,囂追急,武選精騎還為後拒,身披甲持戟奔擊,殺數千人,囂兵乃退,諸軍得還長安。

建武十三年、封邑を増加され、脩侯に改封された。兵を率いて北の下曲陽に駐屯し、匈奴に備えた。軍吏を殺害した罪により、詔により妻子を連れて封国へ赴くこととなった。馬武は直接洛陽へ赴き、将軍の印綬を返上し、封戸五百戸を削減され、楊虚侯に定封された。その後、朝廷に留まり奉朝請となった。

原文十三年,增邑,更封脩侯。將兵北屯下曲陽,備匈奴。坐殺軍吏,受詔將妻子就國。武徑詣洛陽,上將軍印綬,削戶五百,定封為楊虛侯,因留奉朝請。

光武帝は後に功臣諸侯と宴会し、和やかに言った。『諸卿がもしこのような機会に恵まれなかったら、自らの爵禄はどの程度のものになると考えているか?』高密侯の鄧禹が先に答えて言った。『臣は若い頃学問をしましたので、郡の文学博士になれたでしょう。』帝は言った。『なぜそんなに謙遜するのか。卿は鄧氏の子で、志操行いが整っている。どうして功曹の属吏になれないというのか。』他の者も順番に答えた。馬武の番になると、『臣は武勇をもって、県の尉となり盗賊を取り締まることができたでしょう。』と言った。帝は笑って言った。『まず盗賊にならずに、自ら亭長にまでなれれば、それで十分だ。』馬武は酒を好み、度量が広く率直な発言をした。時に酔って天子の面前で同僚を面と向かって非難し、その長短を忌憚なく言った。帝はあえてそれを許し、笑いの種とした。帝は功臣を統制したが、常に寛容に接し、小さな過失は許した。遠方から珍しい美味が献上されると、必ずまず列侯に遍く賜り、太官には残らなかった。功績があれば、すぐに封邑や賞賜を増やしたが、吏職には任用せず、そのため皆が福禄を保ち、最後まで誅殺や譴責を受ける者はなかった。

原文帝後與功臣諸侯宴語,從容言曰:『諸卿不遭際會,自度爵祿何所至乎?』高密侯鄧禹先對曰:『臣少嘗學問,可郡文學博士。』帝曰:『何言之謙乎』卿鄧氏子,誌行修整,何為不掾功曹?』餘各以次對,至武,曰:『臣以武勇,可守尉督盜賊。』帝笑曰:『且勿為盜賊,自致亭長,斯可矣。』武為人嗜酒,闊達敢言,時醉在御前面折同列,言其短長,無所避忌,帝故縱之,以為笑樂。帝雖制禦功臣,而每能回容,宥其小失。遠方貢珍甘,必先遍賜列侯,而太官無餘。有功,輒增邑賞,不任以吏職,故皆保其福祿,終無誅譴者。

建武二十五年、馬武は中郎将として兵を率いて武陵の蛮夷を討伐し、帰還後、印綬を返上した。顕宗(明帝)の初め、西羌が隴右を侵し、軍を覆し将を殺したため、朝廷はこれを憂慮し、再び馬武を捕虜将軍に任じた。中郎将の王豊を副将とし、監軍使者の竇固、右輔都尉の陳訢と共に、烏桓兵、黎陽営の兵、三輔の募兵、涼州諸郡の羌胡兵および弛刑徒を率い、総勢四万人でこれを撃った。金城郡の浩まで進軍し、羌と戦い、六百の首級を斬った。また洛都谷で戦ったが、羌に敗れ、千余人が戦死した。羌は軍勢を率いて塞外へ引き揚げようとしたため、馬武はさらに追撃して東邯・西邯まで至り、これを大破し、四千六百の首級を斬り、捕虜千六百人を得た。残りは降伏あるいは散り散りになった。馬武は軍を整えて京師に凱旋し、封邑七百戸を加増され、前の分と合わせて千八百戸となった。永平四年に死去した。

原文二十五年,武以中郎將將兵擊武陵蠻夷,還,上印綬,顯宗初,西羌寇隴右,覆軍殺將,朝廷患之,復拜武捕虜將軍,以中郎將王豐副,與監軍使者竇固、右輔都尉陳訢,將烏桓、黎陽營、三輔募士、涼州諸郡羌胡兵及弛刑,合四萬人擊之。到金城浩,與羌戰,斬首六百級。又戰於洛都谷,為羌所敗,死者千餘人。羌乃率眾引出塞,武復追擊到東、西邯,大破之,斬首四千六百級,獲生口千六百人,餘皆降散。武振旅還京師,增邑七百戶,並前千八百戶。永平四年,卒。

子の馬檀が後を継いだが、兄の馬伯済が楚王劉英の党与の顔忠と謀反を企てたことに連座し、封国を除かれた。

原文子檀嗣,坐兄伯濟與楚王英黨顏忠謀反,國除。

永初七年、

原文永初七年

鄧太后が馬武の孫の馬震を漻亭侯に紹封した。馬震が没すると、子の馬側が後を継いだ。

原文,鄧太后紹封武孫震為漻亭侯。震卒,子側嗣。

史論

原文史論

永平年間、顕宗(明帝)は前世の功臣を追慕し、南宮の雲台に二十八将の画像を描かせた。その他に王常、李通、竇融、卓茂を加え、合わせて三十二人とした。そこで、その本来の順序に従って本篇の末尾に記し、功臣の序列を記すこととする。

原文永平中,顯宗追感前世功臣,乃圖畫二十八將於南宮雲臺,其外又有王常、李通、竇融、卓茂,合三十二人。故依其本弟系之篇末,以誌功臣之次云爾。

執金吾雍奴侯の寇恂、積弩将軍昆陽侯の傅俊、征南大将軍舞陽侯の岑彭、左曹合肥侯の堅鐔、征西大将軍陽夏侯の馮異、上谷太守淮陵侯の王霸、建義大将軍鬲侯の朱祐、信都太守阿陵侯の任光、

原文執金吾雍奴侯寇恂、積弩將軍昆陽侯傅俊、征南大將軍舞陽侯岑彭、左曹合肥侯堅鐔、征西大將軍陽夏侯馮異、上谷太守淮陵侯王霸、建義大將軍鬲侯朱祐、信都太守阿陵侯任光、

征虜将軍潁陽侯の祭遵、豫章太守中水侯の李忠、驃騎大将軍櫟陽侯の景丹、右将軍槐里侯の万脩、虎牙大将軍安平侯の蓋延、太常霊寿侯の邳彤、衛尉安成侯の銚期、驍騎将軍昌成侯の劉植、

原文征虜將軍潁陽侯祭遵、豫章太守中水侯李忠、驃騎大將軍櫟陽侯景丹、右將軍槐里侯萬脩、虎牙大將軍安平侯蓋延、太常靈壽侯邳彤、衛尉安成侯銚期、驍騎將軍昌成侯劉植、

東郡太守東光侯の耿純、横野大将軍山桑侯の王常、城門校尉朗陵侯の臧宮、大司空固始侯の李通、捕虜将軍楊虚侯の馬武、大司空安豊侯の竇融、驃騎将軍慎侯の劉隆、太傅宣徳侯の卓茂。

原文東郡太守東光侯耿純、橫野大將軍山桑侯王常、城門校尉朗陵侯臧宮、大司空固始侯李通、捕虜將軍楊虛侯馬武、大司空安豐侯竇融、驃騎將軍慎侯劉隆、太傅宣德侯卓茂。

賛して言う。帝の業績を思えば、功績はここに存する。群雄が来たりて、我が兵車を助けた。優美な龍の姿は、光と共に翻った。

原文贊曰:帝績思乂,庸功是存。有來羣后,捷我戎軒。婉孌龍姿,儷景同翻。