後漢書

巻二十・銚期王霸祭遵列伝 第十

巻二十・銚期王霸祭遵列伝 第十

銚期

原文銚期

字あざなは次況、潁川郡郟県の人である。身長は八尺二寸、容貌は並外れて異なり、厳かで威厳があった。父の猛は桂陽太守となり、死去すると、期は三年間喪に服し、郷里で称賛された。光武帝が潁川を攻略した時、期の志と義を聞き、召し出して賊曹掾に任命した。

原文字次況,潁川郟人也。長八尺二寸,容貌絕異,矜嚴有威。父猛,為桂陽太守,卒,期服喪三年,鄉里稱之。光武略地潁川,聞期誌義,召署賊曹掾

薊に従って攻略した。

原文,從徇薊

その時、王郎の檄文が薊に届き、薊の中で兵を起こして王郎に呼応した。光武帝は車を急がせて出発しようとしたが、民衆が集まって見物し、叫び声が道いっぱいに満ち、道を遮って進めなかった。期は馬に乗り戟を奮い、目を怒らせて左右に向かって大声で叫んだ。

原文。時,王郎檄書到薊,薊中起兵應郎。光武趨駕出,百姓聚觀,喧呼滿道,遮路不得行,期騎馬奮戟,瞋目大呼左右曰「□」

人々は皆なびき退いた。

原文,眾皆披靡

城門に至ると、門はすでに閉ざされていたが、攻撃して脱出することができた。信都に行き着くと、期を裨将ひしょうとし、傅寬、呂晏とともに鄧禹に属させた。近隣の県を攻略し、また房子の兵を徴発した。鄧禹は期を有能と認め、特に偏将軍に任命し、兵二千人を与え、傅寬と呂晏にはそれぞれ数百人を与えた。

原文。及至城門,門已閉,攻之得出。行至信都,以期為裨將,與傅寬、呂晏俱屬鄧禹。徇傍縣,又發房子兵。禹以期為能,獨拜偏將軍,授兵二千人,寬、晏各數百人。

戻ってその様子を報告すると、光武帝は大いにこれを良しとした。期を別に真定の宋子を攻略させ、楽陽

原文還言其狀,光武甚善之。使期別徇真定宋子,攻拔樂陽

槁を攻め落とした。

原文、槁

肥累

原文、肥累

王郎の将軍である児宏と劉奉を鉅鹿の下で攻撃するのに従い、期は先陣を切って敵陣に突入し、自ら五十余人を斬り殺し、額に傷を負い、幘さくを整えて再び戦った。

原文、劉奉於鉅鹿下,期先登陷陳,手殺五十餘人,被創中額,攝*(幩)**[幘]*復戰

遂にこれを大破した。王郎が滅びると、期は虎牙大将軍に任じられた。そこで機会を見て光武帝に進言した。「河北の地は、辺境と接し、人々は戦いに慣れ、精鋭勇猛と称えられています。今、更始帝は政治を誤り、帝位は危うく、天下には帰依すべきところがありません。明公が山河の険固を拠り所とし、精鋭の兵を擁して、万民の漢を思う心に順応なされば、天下で誰が従わないことがありましょうか。」光武帝は笑って言った。「卿は前の話を続けようというのか?」

原文,遂大破之。王郎滅,拜期虎牙大將軍。乃因閒說光武曰:「河北之地,界接邊塞,人習兵戰,號為精勇。今更始失政,大統危殆,海內無所歸往。明公據河山之固,擁精銳之觿,以順萬人思漢之心,則天下誰敢不從?」光武笑曰:「卿欲遂前□邪?」

その時、銅馬の賊数十万が清陽・博平に入り込んだ。

原文時銅馬數十萬觿入清陽、博平

期は諸将と共にこれを迎え撃ったが、連戦して不利となり、期はさらに背水の陣を敷いて戦い、殺傷した者は非常に多かった。ちょうど光武帝の救援が到着し、遂にこれを大破し、館陶まで追撃して、全てを降伏させた。青犢・赤眉を射犬で攻撃するのに従い、賊が期の輜重しちょうを襲撃したので、期は引き返してこれを撃ち、自ら数十人を殺傷し、三ヶ所の傷を負いながらも戦いを奮い起こし、

原文,期與諸將迎擊之,連戰不利,期乃更背水而戰,所殺傷甚多。會光武救至,遂大破之,追至館陶,皆降之。從擊青犢、赤眉於射犬,賊襲期輜重,期還擊之,手殺傷數十人,身被三創,而戰方力

遂にこれを撃破して敗走させた。

原文,遂破走之。

光武帝が即位すると、安成侯に封ぜられ、五千戸を食邑とした。その時、檀郷・五楼の賊が繁陽・内黄に入り込んだ。また魏郡の大姓がたびたび反覆し、更始帝の将軍卓京が鄴城で相率いて反乱を謀ろうとした。帝は期を魏郡太守とし、大将軍の職務を行わせた。期は郡兵を発して卓京を攻撃し、これを破り、六百余級を斬首した。京は山中に逃亡したが、追撃してその将校数十人を斬り、京の妻子を捕らえた。繁陽・内黄を進撃し、さらに数百級を斬り、郡内は平定された。盗賊を監督する李熊は、鄴中の豪族であったが、熊の弟の陸が檀郷を迎え入れるために城を裏切ろうと謀った。ある者がこれを期に告げたが、期は応じず、告げる者が三、四度に及んだので、期はようやく熊を召し出して問いただした。熊は頭を地に叩きつけて自ら罪を認め、老母と共に死を願い出た。期は言った。「役人であることが賊であることより楽しくないというのなら、老母と共に弟の陸のもとへ行ってもよい。」

原文(段落全体)光武即位,封安成侯,[一]食邑五千戶。時檀鄉、五樓賊入繁陽、內黃,[二]  又魏郡大姓數反覆,而更始將卓京[三]謀欲相率反鄴城。帝以期為魏郡太守,行大將軍事。期發郡兵擊卓京,破之,斬首六百餘級。京亡入山,追斬其將校數十人,獲京妻子。進擊繁陽、內黃,復斬數百級,郡界清平。督盜賊李熊,鄴中之豪,而熊弟陸謀欲反城迎檀鄉。[四]或以告期,期不應,告者三四,期乃召問熊。熊叩頭首服,願與老母俱就死。期曰:「為吏儻不若為賊樂者,可歸與老母往就陸也。」[五]  使吏送出城。熊行求得陸,將詣鄴城西門。陸不勝愧感,自殺以謝期。期嗟歎,以禮葬之,而還熊故職。於是郡中服其威信。

役人に命じて城外まで送り出させた。熊は行って陸を見つけ出し、鄴城の西門まで連れて行った。陸は恥じ入り感激に耐えられず、自殺して期に詫びた。期は嘆息し、礼をもってこれを葬り、熊を元の職務に戻した。これにより郡中はその威信に服した。

原文(段落全体)光武即位,封安成侯,[一]食邑五千戶。時檀鄉、五樓賊入繁陽、內黃,[二]  又魏郡大姓數反覆,而更始將卓京[三]謀欲相率反鄴城。帝以期為魏郡太守,行大將軍事。期發郡兵擊卓京,破之,斬首六百餘級。京亡入山,追斬其將校數十人,獲京妻子。進擊繁陽、內黃,復斬數百級,郡界清平。督盜賊李熊,鄴中之豪,而熊弟陸謀欲反城迎檀鄉。[四]或以告期,期不應,告者三四,期乃召問熊。熊叩頭首服,願與老母俱就死。期曰:「為吏儻不若為賊樂者,可歸與老母往就陸也。」[五]  使吏送出城。熊行求得陸,將詣鄴城西門。陸不勝愧感,自殺以謝期。期嗟歎,以禮葬之,而還熊故職。於是郡中服其威信。

注[一]安成は県名で、汝南郡に属する。故城は現在の豫州汝陽県の東南にある。

原文注[一]安成,縣名,屬汝南郡,故城在今豫州汝陽縣東南也。

注[二]繁陽は県名で、故城は現在の相州内黄県の東北にある。内黄の故城は西北にある。

原文注[二]繁陽,縣名,故城在今相州內黃縣東北;內黃故城在西北。

注[三]「京」はある本では「原」と作る。

原文注[三]「京」或作「原」。

注[四]反は音は翻。

原文注[四]反音翻。

注[五]必ずや城中で役人であることが賊である楽しみに及ばないというなら、そのまま母を連れて弟のもとへ行くがよい。

原文注[五]必以在城中為吏不如為賊之樂,即任將母往就弟。

建武五年、帝は魏郡に行幸し、その時に期を太中大夫とした。洛陽に従って帰還すると、また尉に任じられた。

原文建武五年,行幸魏郡,以期為太中大夫。從還洛陽,又拜□尉。

期は信義を重んじ、将軍として降伏させた者があっても、略奪をしたことはなかった。朝廷にあっては国を憂い主君を愛し、心に納まらないことがあれば必ず直言して諫めた。帝がかつて軽率に期門と共に近くに出かけた時、期は車の前で頓首して言った。「臣は古今の戒めとして、思いがけない変事が起こることを聞いております。どうか陛下には微行してしばしば外出なさいませんよう」。帝はそのために車を返して帰還した。十年に死去した。帝は自ら臨んで死装束を整え、尉と安成侯の印綬を贈り、忠侯と諡した。

原文期重於信義,自為將,有所降下,未嘗虜掠。及在朝廷,憂國愛主,其有不得於心,必犯顏諫諍。帝嘗輕與期門近出,[一]期頓首車前曰:「臣聞古今之戒,變生不意,誠不願陛下微行數出。」帝為之回輿而還。十年卒,[二]帝親臨襚斂,贈以□尉、安成侯印綬,謚曰忠侯。

前漢書によると、武帝が出る時は必ず北地の良家の子と殿門で期約したので、「期門」と言った。

原文注[一]前書,武帝將出,必與北地良家子期於殿門,故曰「期門」。

東観記によると、「期が病気になった時、使者を遣わして見舞わせ、医薬の賜物を厚く加えた。その母が期に『どの子を封じるべきか』と問うた。

原文注[二]東觀記曰:「期疾病,使使者存問,加賜醫藥甚厚。其母問期當封何子?

期は言った。『国家の恩を受けること深く、常に背負いきれぬ思いをしている。死んでも国に報いる方法が分からぬのに、どうして子を封じることができようか』。上は大いに彼を哀れんだ」。

原文期言『受國家恩深,常籩負,如死,不知當何以報國,何宜封子也』!上甚憐之。」

子の丹が後を嗣いだ。また丹の弟の統を建平侯に封じた。

原文子丹嗣。復封丹弟統為建平侯

後に丹を葛陵侯に転封した。

原文。後徙封丹葛陵侯

丹が卒去すると、子の舒が後を嗣いだ。舒が卒去すると、子の羽が後を嗣いだ。羽が卒去すると、子の蔡が後を嗣いだ。

原文。丹卒,子舒嗣。舒卒,子羽嗣。羽卒,子蔡嗣。

王霸

原文(段落全体)王霸

字は元伯、潁川郡潁陽県の人である。代々法令の学を好み、父は郡の決曹掾であり、霸も若くして獄吏となった。常に慷慨して吏職を楽しまず、父は彼を異才と見なした。西の長安に学ばせた。漢の兵が起こると、光武帝が潁陽を通りかかり、霸は賓客を率いて謁見し、言った。「将軍が義兵を起こされました。私は自らの力量を知らず、威徳を貪り慕い、行伍に加わりたいと願います」。光武帝は言った。「賢士を夢想し、共に成功の業を成さんとしている。どうして二心があろうか」。そこで従って昆陽で王尋・王邑を撃破し、帰って郷里で休息した。

原文字符伯,穎川穎陽人也。世好文法,[一]父為郡決曹掾,[二]霸亦少為獄吏。常慷慨不樂吏職,其父奇之。遣西學長安。漢兵起,光武過穎陽,霸率賓客上謁,曰:「將軍興義兵,竊不自知量,貪慕威德,願充行伍。」光武曰:「夢想賢士,共成功業,豈有二哉!」遂從擊破王尋、王邑於昆陽,還休鄉里。

東観記によると、「祖父は詔獄の丞であった」。

原文注[一]東觀記曰:「祖父為詔獄丞。」

漢旧儀によると、「決曹は罪法の事を主管する」。

原文注[二]漢舊儀:「決曹,主罪法事。」

光武帝が司隸校尉となった時、道中潁陽を通りかかり、霸は父に願い出て従いたいと申し出た。父は言った。「私は老いた。軍旅に耐えられぬ。汝は行って励め」。霸は従って洛陽に至った。光武帝が大司馬となると、霸を功曹令史とし、従って河北を渡った。

原文及光武為司隸校尉,道過穎陽,霸請其父,願從。父曰:「吾老矣,不任軍旅,汝往,勉之!」霸從至洛陽。及光武為大司馬,以霸為功曹令史,從度河北。

霸に従った賓客数十人は次第に去っていった。光武帝は霸に言った。「潁川から私に従った者は皆去ったが、汝だけが留まった。努力せよ。疾風に勁草を知るという」

原文賓客從霸者數十人,稍稍引去。光武謂霸曰:「穎川從我者皆逝,而子獨留。努力!疾風知勁草。」

王郎が挙兵した時、光武帝は薊にいた。王郎は檄文を飛ばして光武帝の首に懸賞をかけた。光武帝は王覇に命じて市中で人を募集させ、王郎を討とうとした。市中の人々は皆大笑いし、手を挙げてあざけったので、王覇は恥ずかしさと焦りで引き返した。光武帝はすぐに南へ馳せて下曲陽に至った。王郎の兵が後ろに迫っているとの噂が流れ、従者たちは皆恐れた。虖沱河に着くと、斥候の役人が戻ってきて、川の流れが氷の破片で覆われており、船がなく渡れないと報告した。役人たちは大いに恐れた。光武帝は王覇に様子を見に行かせた。王覇は人々を驚かせるのを恐れ、とりあえず前進し、川に阻まれてから戻り、偽って言った。「氷が堅くて渡れます。」

原文及王郎起,光武在薊,郎移檄購光武。光武令霸至市中募人,將以擊郎。市人皆大笑,舉手邪揄之,[一]霸慚懅而還。[二]光武即南馳至下曲陽。傳聞王郎兵在後,從者皆恐。及至虖沱河,候吏還白河水流澌,[三]無船,不可濟。官屬大懼。光武令霸往視之。霸恐驚觿,欲且前,阻水,還即詭曰:「冰堅可度。」

役人たちは皆喜んだ。光武帝は笑って言った。「斥候の役人はやはりでたらめを言っていたのだな。」こうして前進した。河に着く頃には、河の氷もまた固まっており、王覇に命じて渡河を監督させた。数騎が渡り終わらないうちに氷が解けた。光武帝は王覇に言った。「我が軍勢が無事に渡河できたのは、卿の力である。」王覇は謝して言った。「これは明公の至高の徳と、神霊の加護によるものであり、武王の白魚の瑞兆にも勝るものはありません。」光武帝は役人たちに言った。「王覇が臨機応変に事を成し遂げたのは、まさに天の瑞兆であろう。」彼を軍正に任じ、関内侯の爵位を与えた。信都に着くと、兵を発して邯鄲を攻め落とした。王覇は王郎を追撃して斬り、その璽綬じじゅを得た。王郷侯に封じられた。

原文官屬皆喜。光武笑曰:「候吏果妄語也。」遂前。比至河,河冰亦合,乃令霸護度,[四]未畢數騎而冰解。光武謂霸曰:「安吾觿得濟免者,卿之力也。」霸謝曰:「此明公至德,神靈之佑,雖武王白魚之應,無以加此。」[五]武光謂官屬曰:「王霸權以濟事,殆天瑞也。」以為軍正,爵關內侯。既至信都,發兵攻拔邯鄲。霸追斬王郎,得其璽綬。封王鄉侯。

注[一]『説文』に「歋□は、手で笑い合うこと」とある。歋は音、弋支反。□は音、踰、あるいは由。ここで「邪揄」と言うのは、言葉の軽重が異なる。

原文注[一]說文曰:「歋□,手相笑也。」歋音弋支反。□音踰,或音由。此云「邪揄」,語輕重不同。

注[二]懅もまた懼おそれの意。音は遽。

原文注[二]懅亦籩也,音遽。

注[三]澌の音は斯。

原文注[三]澌音斯。

注[四]監視し、渡河を監督すること。

原文注[四]監護度也。

注[五]今文尚書に「武王が盟津を渡ると、白魚が王の舟に躍り込んだ」とある。

原文注[五]今文尚書曰:「武王度盟津,白魚躍入王舟。」

河北平定に従軍し、常に臧宮、傅俊と共に営を同じくしたが、王覇だけは特に士卒を慰撫することに優れ、死者には自らの衣を脱いで覆い、傷者には自ら世話をして養った。

原文從平河北,常與臧宮、傅俊共營,霸獨善撫士卒,死者脫衣以斂之,傷者躬親以養之。

光武帝が即位すると、王覇が兵事に通じ、士卒を愛するので、単独で任せられるとして、偏将軍に任じ、臧宮と傅俊の兵も併せて指揮させ、臧宮と傅俊は騎都尉とした。建武二年、富波侯に改封された。

原文光武即位,以霸曉兵愛士,可獨任,拜為偏將軍,並將臧宮、傅俊兵,而以宮、俊為騎都尉。建武二年,更封富波侯。[一]

注[一]富波は県名。汝南郡に属し、現在の豫州にある。

原文注[一]富波,縣名,屬汝南郡,在今豫州。

四年の秋、帝は譙に行幸し、王覇に捕虜将軍馬武と共に東へ向かい、垂恵で周建を討伐するよう命じた。蘇茂が五校の兵四千余人を率いて周建を救援し、まず精鋭の騎兵を派遣して馬武の軍糧を遮断・襲撃したので、馬武は救援に向かった。周建が城中から出兵して馬武を挟撃した。馬武は王覇の援軍を当てにし、十分に力を尽くして戦わなかったため、蘇茂と周建に敗れた。馬武の軍は敗走して王覇の陣営の前を通り過ぎ、大声で救援を求めた。王覇は言った。「賊軍は勢いが盛んで、出撃すれば両軍共に敗れるだろう。各自で奮闘するしかない。」そして陣営の門を閉ざし、守りを固めた。軍吏たちは皆、出撃を主張した。王覇は言った。「蘇茂の兵は精鋭で、その数も多い。我が軍の吏士は内心恐れており、捕虜将軍(馬武)と我々は互いに頼り合っているが、両軍の意志は一つではない。これでは敗北の道だ。今、陣営を閉じて守りを固め、援軍を出さないことを示せば、賊は必ず勝ちに乗じて軽率に進軍してくる。捕虜将軍に救援がないと知れば、彼らは自ら倍の力を出して戦うだろう。そうなれば、蘇茂の軍勢は疲労し、我々がその疲弊に乗じれば、打ち破ることができる。」蘇茂と周建は果たして全軍を挙げて馬武を攻撃した。しばらく激戦が続いた後、王覇の軍中の壮士、路潤ら数十人が髪を断ち切って出戦を請うた。

原文四年秋,帝幸譙,使霸與捕虜將軍馬武東討周建於垂惠。蘇茂將五校兵四千餘人救建,而先遣精騎遮擊馬武軍糧,武往救之。建從城中出兵夾擊武,武恃霸之援,戰不甚力,為茂、建所敗。武軍奔過霸營,大呼求救。霸曰:「賊兵盛,出必兩敗,努力而已。」乃閉營堅壁。軍吏皆爭之。霸曰:「茂兵精銳,其觿又多,吾吏士心恐,而捕虜與吾相恃,兩軍不一,此敗道也。今閉營固守,示不相援,賊必乘勝輕進;捕虜無救,其戰自倍。如此,茂觿疲勞,吾承其弊,乃可克也。」茂、建果悉出攻武。合戰良久,霸軍中壯士路潤等數十人斷髮請戰。

王覇は兵士の心が奮い立っているのを知り、陣営の後門を開き、精鋭の騎兵を出して敵の背後を襲撃した。蘇茂と周建は前後に敵を受けて驚き混乱し、敗走した。王覇と馬武はそれぞれ陣営に帰った。賊軍は再び兵を集めて挑戦してきたが、王覇は堅く陣営に籠もって出撃せず、ちょうど兵士に酒食を振る舞い、音楽を奏でていた。蘇茂の兵が雨のように矢を陣営に射込み、王覇の目の前の酒樽に命中したが、王覇は安座して動じなかった。軍吏たちは皆言った。「蘇茂は先日すでに破られています。今なら簡単に撃破できます。」王覇は言った。「そうではない。蘇茂は遠征してきた客軍で、食糧が不足している。だから何度も挑戦して、一時的な勝利を得ようとしているのだ。今、陣営を閉じて兵士を休ませるのは、いわゆる『戦わずして人の兵を屈する』ことであり、最善の策である。」蘇茂と周建は戦うことができず、ついに陣営に引き返した。その夜、周建の兄の子である周誦が反乱を起こし、城門を閉じて彼らを拒絶した。蘇茂と周建は逃げ去り、周誦は城を挙げて降伏した。

原文霸知士心銳,乃開營後,出精騎襲其背。茂、建前後受敵,驚亂敗走,霸、武各歸營。賊復聚觿挑戰,霸堅臥不出,方饗士作倡樂。茂雨射營中,中霸前酒樽,霸安坐不動。軍吏皆曰:「茂前日已破;今易擊也。」霸曰:「不然。蘇茂客兵遠來,糧食不足,故數挑戰,以儌一切之勝。[一]今閉營休士,所謂不戰而屈人之兵,善之善者也。」茂、建既不得戰,乃引還營。其夜,建兄子誦反,閉城拒之,茂、建遁去,誦以城降。

注[一]儌は求める意。一切は一時的な、その場しのぎの意。

原文注[一]儌,要也。一切猶權時也。

五年の春、帝は太中大夫を使者として節を持たせ、王覇を討虜将軍に任命した。六年、新安で屯田した。八年、函谷関で屯田した。滎陽けいようと中牟の盗賊を討ち、いずれも平定した。

原文五年春,帝使太中大夫持節拜霸為討虜將軍。六年,屯田新安。八年,屯*[田]*函谷關。擊滎陽、中牟盜賊,皆平之。

九年、王覇は呉漢および横野大将軍王常、建義大将軍朱佑、破奸将軍侯進ら五万余人と共に、高柳で盧芳の部将である賈覧と閔堪を攻撃した。匈奴が騎兵を派遣して盧芳を助け、漢軍の戦車は雨に遭い、戦いは不利となった。呉漢は洛陽に戻り、朱佑に常山に駐屯させ、王常に涿郡に駐屯させ、侯進に漁陽に駐屯させた。璽書をもって王覇を上谷太守に任命し、従来通り屯兵を指揮させ、胡虜を捕らえ討つことにあたり、郡の境界に拘束されないように命じた。翌年、王覇は再び呉漢ら四将軍と共に六万人を率いて高柳から出撃し賈覧を攻撃した。詔により王覇は漁陽太守陳欣と共に兵を率いて諸軍の先鋒となった。匈奴の左南将軍が数千騎を率いて賈覧を救援し、王覇らは平城の下で連戦し、これを破り、塞外まで追撃して数百の首級を斬った。王覇と諸将は雁門に戻り、驃騎大将軍杜茂と合流して盧芳の部将尹由を崞と繁畤で攻撃したが、陥落させられなかった。

原文九年,霸與吳漢及橫野大將軍王常、建義大將軍朱佑、破奸將軍侯進等五萬餘人,擊盧芳將賈覽、閔堪於高柳。匈奴遣騎助芳,漢車遇雨,戰不利。吳漢還洛陽,令朱佑屯常山,王常屯涿郡,侯進屯漁陽。璽書拜霸上谷太守,領屯兵如故,捕擊胡虜,無拘郡界。[一]明年,霸復與吳漢等四將軍六萬人出高柳擊賈覽,詔霸與漁陽太守陳欣將兵為諸軍鋒。匈奴左南將軍將數千騎救覽,霸等連戰於平城下,破之,追出塞,斬首數百級。霸及諸將還入鴈門,與驃騎大將軍杜茂會攻盧芳將尹由於崞、繁畤,不克。[二]

注[一]拘は限るの意。

原文注[一]拘猶限也。

注[二]崞及び繁畤は共に県名で、雁門郡に属し、いずれも現在の代州の県である。崞山がある。崞は郭と読む。

原文注[二]崞及繁畤皆縣名,屬鴈門郡,並今代州縣也,有崞山焉。崞音郭。

建武十三年、封邑の戸数を増やし、向侯に改封された。[一]この時、盧芳が匈奴や烏桓と連合して兵を起こし、寇盗が特に頻繁で、辺境の民は苦しんでいた。詔により王覇は弛刑徒六千余人を率い、杜茂と共に飛狐道を整備し、[二]石を積み土を敷き、亭障を築いて、代から平城まで三百余里に及んだ。匈奴や烏桓との大小数十百回の戦いを通じて、辺境の事情に通じるようになり、しばしば上書して匈奴と和親を結ぶべきこと、また輸送物資を温水を通じて漕運できることを述べ、[三]陸路輸送の労力を省くべきと陳べた。これらの事柄は全て施行された。

原文十三年,增邑戶,更封向侯。[一]是時,盧芳與匈奴、烏桓連兵,寇盜尤數,緣邊愁苦。詔霸將□刑徒六千餘人,與杜茂治飛狐道,[二]堆石布土,築起亭障,自代至平城三百餘里。凡與匈奴、烏桓大小數十百戰,頗識邊事,數上書言宜與匈奴結和親,又陳委輸可從溫水漕,[三]以省陸轉輸之勞,事皆施行。

後に南単于や烏桓が降服し、北方辺境は平穏となった。王覇は上谷に二十余年いた。建武三十年、淮陵侯に定封された。[四]永平二年、病気のため免官され、数か月後に死去した。

原文後南單于、烏桓降服,北邊無事。霸在上谷二十餘歲。三十年,定封淮陵侯。[四]  永平二年,以病免,後數月卒。

注[一]向は県名で、沛郡に属する。左伝に「莒人、向に入る」とある。案ずるに、現在の密州莒県の南にまた向城がある。

原文注[一]向,縣名,屬沛郡。左傳曰:「莒人入向。」案:今密州莒縣南又有向城。

注[二]飛狐道は現在の蔚州飛狐県にあり、北は媯州懐戎県に通じ、これが古の飛狐口である。

原文注[二]飛狐道在今蔚州飛狐縣,北通媯州懷戎縣,即古之飛狐口也。

注[三]水経注によれば、温余水は上谷居庸関の東から発し、東に流れて軍都県の南を過ぎ、さらに東に流れて薊県の北を過ぎる。

原文注[三]水經注曰,溫余水出上谷居庸關東,又東過軍都縣南,又東過薊縣北。

さらに通じて漕運に利用できる。

原文益通以運漕也。

注[四]淮陵は県名で、臨淮郡に属する。

原文注[四]淮陵,縣,屬臨淮郡。

子の符が後を嗣ぎ、軑侯に転封された。[一]符が没すると、子の度が後を嗣いだ。度は顕宗の娘である浚儀長公主を娶り、黄門郎となった。

原文子符嗣,徙封軑侯。[一]符卒,子度嗣。度尚顯宗女浚儀長公主,為黃門郎。

度が没すると、子の歆が後を嗣いだ。

原文度卒,子歆嗣。

注[一]軑は県名で、江夏郡に属する。軑は大と読む。

原文注[一]軑,縣,屬江夏郡。軑音大。

祭遵および祭肜

原文祭遵及祭肜

祭遵

原文祭遵

字は弟孫、[一]潁川郡潁陽県の人である。若い頃から経書を好んだ。家は裕福であったが、祭遵は恭倹で、粗末な衣服を着た。母が亡くなると、自ら土を背負って墳墓を築いた。かつて部吏に侵害されたことがあり、客を結んでこれを殺した。初め、県中の者は彼を柔弱と思っていたが、やがて皆恐れるようになった。

原文字弟孫,[一]穎川穎陽人也。少好經書。家富給,而遵恭儉,惡衣服。喪母,負土起墳。嘗為部吏所侵,結客殺之。初,縣中以其柔也,既而皆憚焉。

注[一]祭の音は側界反である。

原文注[一]祭音側界反。

光武帝が王尋らを破り、穎陽を通過して戻る際、祭遵は県の役人として何度も謁見し、光武帝はその容貌を気に入り、門下史に任命した。

原文及光武破王尋等,還過穎陽,遵以縣吏數進見,光武愛其容儀,署為門下史。

河北征討に従軍し、軍市令となった。光武帝の身近な者が法を犯したので、祭遵はこれを打ち殺した。光武帝は怒り、祭遵を逮捕するよう命じた。その時、主簿の陳副が諫めて言った。「明公は常に軍を整然とさせたいとお考えでした。今、祭遵が法を奉じて遠慮なく処罰したのは、まさに教令が行き渡っている証拠です。」光武帝はそこで彼を赦し、刺奸将軍に任命した。諸将に言った。「祭遵には気をつけよ!私の身近な者でさえ法を犯せば殺すのだから、諸卿に私情を挟むことは必ずない。」まもなく偏将軍に任命され、河北平定に従軍し、功績により列侯に封じられた。

原文從征河北,為軍市令。捨中兒犯法,遵格殺之。光武怒,命收遵。時主簿陳副諫曰:「明公常欲觿軍整齊,今遵奉法不避,是教令所行也。」光武乃貰之,[一]  以為刺奸將軍。謂諸將曰:「當備祭遵!吾捨中兒犯法尚殺之,必不私諸卿也。」尋拜為偏將軍,從平河北,以功封列侯。

注[一]貰は赦すと同じ意味である。

原文注[一]貰猶赦也。

建武二年の春、征虜将軍に任命され、穎陽侯に定封された。驃騎大将軍の景丹、建義大将軍の朱佑、漢忠将軍の王常、騎都尉の王梁、臧宮らと共に箕関に入り、南へ向かって弘農、厭新、柏華の蛮中の賊を攻撃した。弩が祭遵の口に当たり、貫通して流血した。兵士たちが祭遵の負傷を見て、少し後退し始めたが、祭遵は大声で叱って止めさせ、兵士たちは皆、倍の力を奮って戦い、遂に賊を大破した。その時、新城蛮中の山賊の張満が、険しい要害に拠って人々を害していたので、詔により祭遵がこれを攻撃した。祭遵はその糧道を断ち、張満は何度も挑戦したが、祭遵は堅く守って出撃しなかった。厭新、柏華の残党が再び張満と合流し、霍陽聚を攻め落としたので、祭遵は兵を分けてこれを撃破し、降伏させた。翌年の春、張満は飢えに苦しみ、城は陥落し、生け捕りにされた。初め、張満は天地を祭祀し、自ら王になると言っていたが、捕らえられて嘆いて言った。「讖文が私を誤らせた!」そこで斬り、妻子も皆殺しにした。祭遵は兵を率いて南進し、鄧奉の弟の鄧終を杜衍で撃ち破った。

原文建武二年春,拜征虜將軍,定封穎陽侯。與驃騎大將軍景丹、建義大將軍朱佑、漢忠將軍王常、騎都尉王梁、臧宮等入箕關,[一]南擊弘農、厭新、柏華蠻中賊。[二]弩中遵口,洞出流血,觿見遵傷,稍引退,遵呼叱止之,士卒戰皆自倍,遂大破之。時新城蠻中山賊張滿,[三]屯結險隘為人害,詔遵攻之。遵絕其糧道,滿數挑戰,遵堅壁不出。而厭新、柏華餘賊復與滿合,遂攻得霍陽聚,[四]遵乃分兵擊破降之。明年春,張滿饑困,城拔,生獲之。初,滿祭祀天地,自雲當王,既執,歎曰:「讖文誤我!」乃斬之,夷其妻子。遵引兵南擊鄧奉弟終於杜衍,破之。[五]

注[一]箕関については、鄧禹伝に解説がある。

原文注[一]箕關,解在鄧禹傳。

注[二]東観記によると、柏華聚である。

原文注[二]東觀記曰柏華聚也。

注[三]新城は県名で、河南郡に属し、現在の伊闕県である。

原文注[三]新城,縣名,屬河南郡,今伊闕縣也。

注[四]霍陽山があるのでこの名があり、俗に張侯城と呼び、現在の汝州の西南にある。

原文注[四]有霍陽山,故名焉,俗謂之張侯城,在今汝州西南。

注[五]杜衍は県名で、南陽郡に属し、故城は現在の鄧州南陽県の西南にある。

原文注[五]杜衍,縣名,屬南陽郡,故城在今鄧州南陽縣西南。

その時、涿郡太守の張豊が使者を捕らえて挙兵し、反乱を起こし、自ら無上大将軍と称し、彭寵と連合した。四年、祭遵は朱佑および建威大将軍の耿弇、驍騎将軍の劉喜と共にこれを攻撃した。祭遵の軍が先に到着し、張豊を急攻したところ、張豊の功曹の孟□が張豊を捕らえて降伏した。

原文時涿郡太守張豐執使者舉兵反,自稱無上大將軍,與彭寵連兵。四年,遵與朱佑及建威大將軍耿弇﹑驍騎將軍劉喜俱擊之。遵兵先至,急攻豐,豐功曹孟□執豐降。

初め、張豊は方術を好み、道士が張豊は天子になると言い、五色の袋に石を包んで張豊の肘に結びつけ、石の中に玉璽があると言った。張豊はこれを信じて、遂に反乱を起こした。捕らえられて斬られようとした時でさえ、「肘の石に玉璽がある」と言った。祭遵が槌でそれを打ち砕くと、張豊は騙されていたことを知り、天を仰いで嘆いて言った。「死ぬべき運命に恨みはない!」諸将は皆引き返したが、祭遵は詔を受けて良郷に留まり駐屯し、彭寵を防いだ。そこで護軍の傅玄を派遣し、潞で彭寵の将の李豪を襲撃して大破し、千余りの首級を斬った。一年余り対峙し、何度もその鋭鋒えいほうを挫き、仲間の多くが降伏した。彭寵が死ぬと、祭遵は進軍してその地を平定した。

原文初,豐好方術,有道士言豐當為天子,以五彩囊裹石系豐肘,雲石中有玉璽。豐信之,遂反。既執當斬,猶曰:「肘石有玉璽。」遵為椎破之,豐乃知被詐,仰天歎曰:「當死無所恨!」諸將皆引還,遵受詔留屯良鄉拒彭寵。因遣護軍傅玄襲擊寵將李豪於潞,大破之,斬首千餘級。相拒歲餘,數挫其鋒,黨與多降者。及寵死,遵進定其地。

六年の春、詔により祭遵は建威大将軍の耿弇、虎牙大将軍の蓋延、漢忠将軍の王常、捕虜将軍の馬武、驍騎将軍の劉歆、武威将軍の劉尚らと共に天水から公孫述を討伐することになった。

原文六年春,詔遵與建威大將軍耿弇﹑虎牙大將軍蓋延﹑漢忠將軍王常﹑捕虜將軍馬武﹑驍騎將軍劉歆﹑武威將軍劉尚等從天水伐公孫述。

軍は長安に駐屯した。その時、光武帝の車駕も到着したが、隗囂は漢軍が隴山を上るのを望まず、言い訳をして理由を述べた。

原文師次長安,時車駕亦至,而隗囂不欲漢兵上隴,辭說解故。

帝は諸将を召して協議した。皆が言った。「しばらく隗囂との期限を延ばし、その将帥をさらに封じて、彼の勢力を分散させるべきです。」祭遵は言った。「隗囂は長らく奸計を抱いています。今もし甲冑を整え時期を引き延ばせば、彼の詐謀をさらに深めさせ、蜀(公孫述)の警戒と防備を増すだけです。むしろ進軍すべきです。」帝はこれに従い、祭遵を先鋒として派遣した。隗囂はその将の王元を隴坻に派遣して防がせたが、祭遵が進撃してこれを破り、新関まで追撃した。諸将が到着し、隗囂と戦ったが、皆敗れて隴山を下って退却した。そこで詔により祭遵の軍を汧に、耿弇の軍を漆に、征西大将軍の馮異の軍を栒邑に駐屯させ、大司馬の呉漢らは長安に戻って駐屯させた。この後、祭遵は何度も隗囂を挫いた。この事柄は馮異伝に既に見える。

原文帝召諸將議。皆曰:「可且延囂日月之期,益封其將帥,以消散之。」遵曰:「囂挾奸久矣。今若按甲引時,則使其詐謀益深,而蜀警增備,固不如遂進。」帝從之,乃遣遵為前行。隗囂使其將王元拒隴坻,遵進擊,破之,追至新關。及諸將到,與囂戰,並敗,引退下隴。乃詔遵軍汧,耿弇軍漆,征西大將軍馮異軍栒邑,大司馬吳漢等還屯長安。自是後遵數挫隗囂。事已見馮異傳。

守死善道者とは、道を守り死ぬことを善とする者である。礼によれば、生きている時には爵位があり、死後には諡号があり、爵位は尊卑を区別し、諡号は善悪を明らかにする。臣の愚見では、祭遵が薨去したのを機に、その多くの功績を論じ述べ、詳しく諡法に照らし合わせ、礼をもってこれを成すべきであると考えます。

原文,守死善道者也。禮,生有爵,死有謚,爵以殊尊卑,謚以明善惡。臣愚以為宜因遵薨,論敘觿功,詳案謚法,以禮成之

国家が古制を重んじる制度を明らかにし、後継者の規範とすべきです。」帝は張湛の上奏文を公卿たちに見せた。葬儀の際には、帝の車駕が再び臨み、将軍と侯の印綬を追贈し、朱輪の容車と甲冑を着けた兵士の軍列が葬送に加わった。

原文。顯章國家篤古之制,為後嗣法。」帝乃下升章以示公卿。至葬,車駕復臨,贈以將軍、侯印綬,朱輪容車,介士軍陳送葬

諡号は成侯とされた。

原文,謚曰成侯

埋葬が済むと、帝の車駕が再びその墳墓に臨み、夫人や家族に面会して慰めた。その後、朝会のたびに、帝はしばしば嘆いて言った。「どうして祭征虜のような憂国奉公の臣を得ることができようか!」祭遵がこのように慕われたのである。

原文。既葬,車駕復臨其墳,存見夫人室家。其後會朝,帝每歎曰:「安得憂國奉公之臣如祭征虜者乎!」遵之見思若此

子がなく、封国は除かれた。兄の祭午は、酒泉太守まで官位が昇った。従弟に

原文無子,國除。兄午,官至酒泉太守。從弟

祭肜

原文肜

がいる。

原文(段落全体)肜字次孫,早孤,以至孝見稱。遇天下亂,野無煙火,而獨在頤側。每賊過,見其尚幼而有志節,皆奇而哀之。

祭肜は字を次孫といい、早くに孤児となり、至孝をもって称えられた。天下が乱れ、野に炊煙が上がらない中、一人で墓の傍らにいた。賊が通るたびに、彼がまだ幼いのに志操と節義があるのを見て、皆、奇異に思い哀れんだ。

原文(段落全体)肜字次孫,早孤,以至孝見稱。遇天下亂,野無煙火,而獨在頤側。每賊過,見其尚幼而有志節,皆奇而哀之。

光武帝は初め祭遵の縁故で、祭肜を黄門侍郎に任じ、常に側近に置いた。祭遵が子なくして亡くなると、帝はその死を悼み、祭肜を偃師県の長とし、祭遵の墓の近くに住まわせ、四季を通じて祭祀を執り行わせた。祭肜は権謀と策略に長け、職務に就いて五年、県内に盗賊はおらず、考課で第一となり、襄賁県令に昇進した。

原文光武初以遵故,拜肜為黃門侍郎,常在左右。及遵卒無子,帝追傷之,以肜為偃師長,令近遵墳墓,四時奉祠之。肜有權略,視事五歲,縣無盜賊,課為第一,遷襄賁令

当時、天下の郡国はまだすべて平定されておらず、襄賁では盗賊が白昼堂々と横行していた。祭肜が着任すると、奸悪狡猾な者を誅殺・撃破し、その手下を殲滅し、数年で襄賁は政治が清廉になった。詔書で激励され、秩禄が一等増やされ、絹百匹を賜った。

原文。時天下郡國尚未悉平,襄賁盜賊白日公行。肜至,誅破奸猾,殄其支黨,數年,襄賁政清。璽書勉勵,增秩一等,賜縑百匹。

この時、匈奴、鮮卑、および赤山の烏桓が連合して強盛となり、たびたび塞内に侵入して役人や民衆を殺害略奪した。朝廷はこれを憂慮し、さらに辺境の兵力を増強し、郡ごとに数千人の兵を置き、また諸将を派遣して要所に分屯させた。帝は祭肜を有能と認め、建武十七年、遼東太守に任じた。着任すると兵馬を鍛え、斥候の範囲を広げた。祭肜は勇力があり、三百斤の弓を引き絞ることができた。敵が塞を侵犯するたび、常に兵士の先鋒となり、

原文當是時,匈奴、鮮卑及赤山烏桓連和強盛,數入塞殺略吏人。朝廷以為憂,益增緣邊兵,郡有數千人,又遣諸將分屯障塞。帝以肜為能,建武十七年,拜遼東太守。至則勵兵馬,廣斥候。肜有勇力,能貫三百斤弓。虜每犯塞,常為士卒*[前]*鋒

たびたび敵を撃破して敗走させた。建武二十一年の秋、鮮卑の一万余騎が遼東を寇掠した。祭肜は数千人を率いて迎撃し、自ら甲冑を着けて敵陣に突入し、敵は大敗して逃げ、水に飛び込んで死んだ者は半数を超え、ついに塞外まで追撃した。敵は追い詰められ、皆、武器を捨て裸身で散り散りに逃げた。三千余級を斬首し、数千匹の馬を鹵獲した。この後、鮮卑は震え上がり、祭肜を恐れて再び塞を窺うことはなかった。祭肜は三つの異民族が連合して、ついに辺境の害となると考え、

原文,數破走之。二十一年秋,鮮卑萬餘騎寇遼東,肜率數千人迎擊之,自被甲陷陳,虜大奔,投水死者過半,遂窮追出塞,虜急,皆棄兵祼身散走,斬首三千餘級,獲馬數千匹。自是後鮮卑震怖,畏肜不敢復窺塞。肜以三虜連和,卒為邊害

建武二十五年、使者を送って鮮卑を招き寄せ、財貨の利益を示した。その大都護の偏何は

原文,二十五年,乃使招呼鮮卑,示以財利。其大都護偏何

使者を派遣して貢物を献上し、帰順したいと願い出たので、祭肜は慰撫して受け入れ、賞賜を与え、次第に親しみ従うようになった。

原文遣使奉獻,願得歸化,肜慰納賞賜,稍復親附。

745頁

原文745頁

その異種の満離、高句麗の類は、続々と国境に赴いて帰順を申し出、上質の貂裘や良馬を献上した。帝は常にその賞賜を倍加した。その後、偏何の邑落の諸豪族は一斉に帰順し、自ら功を立てたいと願った。祭肜は言った。「本当に功を立てたいと思うなら、匈奴を撃ちに行き、その首を斬って送ってこなければ信用できない。」偏何らは皆、天を仰ぎ心臓を指さして言った。「必ず自ら功を立ててみせます!」すぐに匈奴の左伊秩訾部を攻撃し、

原文其異種滿離、高句驪之屬,遂駱驛款塞,上貂裘好馬,帝輒倍其賞賜。其後偏何邑落諸豪並歸義,願自效。肜曰:「審欲立功,當歸擊匈奴,斬送頭首乃信耳。」偏何等皆仰天指心曰:「必自效!」即擊匈奴左伊*(袟)**[秩]*訾部

二千余級を斬首し、その首を持って郡に赴いた。その後、毎年互いに攻撃し合い、常に首級を送って賞賜を受けた。これ以降、匈奴は衰弱し、辺境に寇賊の警報はなくなり、鮮卑と烏桓は共に入朝して貢物を献上した。祭肜は人となり質朴で重厚、果断であり、体格容貌は並外れていた。夷狄を恩信をもって撫でれば、皆、畏敬しつつも彼を愛し、そのために彼らは命を懸けて力を尽くした。初め、赤山の烏桓がたびたび上谷を侵犯し、辺境の害となっていた。詔書で懸賞金を設け、州郡を厳しく責めたが、

原文,斬首二千餘級,持頭詣郡。其後歲歲相攻,輒送首級受賞賜。自是匈奴衰弱,邊無寇警,鮮卑、烏桓並入朝貢。肜為人質厚重毅,體貌絕觿。撫夷狄以恩信,皆畏而愛之,故得其死力。初,赤山烏桓數犯上谷,為邊害,詔書設購賞,*(功)**[切]*責州郡

制止できなかった。祭肜はそこで偏何を激励し、派遣してこれを討伐させた。永平元年、偏何は赤山を撃破し、その首領を斬り、その首を持って祭肜のもとに赴き、塞外は震え恐れた。

原文,不能禁。肜乃率勵偏何,遣往討之。永平元年,偏何擊破赤山,斬其魁帥,持首詣肜,塞外震讋

祭肜の威勢と名声は北方に広まり、西は武威から、東は玄菟および楽浪に至るまで、胡や夷は皆来て内属し、野に戦塵はなくなった。そこで辺境沿いの駐屯兵をすべて撤収させた。

原文。肜之威聲,暢於北方,西自武威,東盡玄菟及樂浪,胡夷皆來內附,野無風塵。乃悉罷緣邊屯兵。

746頁及びその後

原文746頁及之後

十二年、召し出されて太僕となった。祭肜は遼東にほぼ三十年いて、衣服に替えがなかった。顕宗はその功績を称えるとともに、祭肜の清廉で質素なことを賞賛し、拝命の日に、銭百万、馬三匹、衣類や寝具、刀剣から住居の什器に至るまで、大小を問わずすべてを備えさせて賜った。帝は祭肜に会うたびに、常にため息をつき、重任を託すことができると認めた。後に東巡に従い、魯を通り過ぎ、孔子の講堂に座り、子路の部屋を指さして左右の者に言った。「これが太僕の部屋だ。太僕は、わが侮りを防ぐ者である。」

原文十二年,徵為太僕。肜在遼東幾三十年,衣無兼副。顯宗既嘉其功,又美肜清約,拜日,賜錢百萬,馬三匹,衣被刀□下至居室什物,大小無不悉備。帝每見肜,常歎息以為可屬以重任。後從東巡狩,過魯,坐孔子講堂,顧指子路室謂左右曰:「此太僕之室。太僕,吾之禦侮也。」

十六年、祭肜を太僕として万余騎を率いさせ、南単于の左賢王信とともに北匈奴を討伐させ、期日を涿邪山に定めた。信は初め祭肜にわだかまりを持っており、行軍して高闕塞から九百余里出たところで小山を見つけ、勝手にそれを涿邪山だと言い張った。祭肜が到着したときには敵はおらず、帰還したが、逗留して臆病であったとして罪に問われ、投獄され免官となった。祭肜は性格が沈着で果断、内に重みがあり、欺かれて功績がなかったことを自ら恨み、出獄して数日後、吐血して死んだ。

原文十六年,使肜以太僕將萬餘騎與南單于左賢王信伐北匈奴,期至涿邪山。信初有嫌於肜,行出高闕塞九百餘里,得小山,乃妄言以為涿邪山。肜到不見虜而還,坐逗留畏懦下獄免。肜性沉毅內重,自恨見詐無功,出獄數日,歐血死。

臨終に際し、その子に言った。「私は国の厚恩を受けたが、使命を果たせず、わずかな功績も立てられず、死ぬに及んで誠に慚愧と悔恨を覚える。道理として功なくして賞を受けることはできない。死後、もし賜物のすべてを帳簿に記して献上し、

原文臨終謂其子曰:「吾蒙國厚恩,奉使不稱,微績不立,身死誠慚恨。義不可以無功受賞,死後,若悉簿上所得賜物

自ら兵営に赴き、死を賭して前線で働き、わが心に応えよ。」

原文,身自詣兵屯,效死前行,以副吾心。」

既に死去すると、その子の祭逢が上疏して遺言の詳細を述べた。帝は祭肜を大いに重んじており、ちょうどさらに任用しようとしていたところ、これを聞いて大いに驚き、祭逢を召して病気の様子を尋ね、長い間嘆息した。烏桓と鮮卑は祭肜を限りなく追慕し、毎年京師に朝賀に来るとき、常にその墓を訪れて拝謁し、天を仰いで号泣してから去った。遼東の官吏と民衆は彼のために祠を建て、四季を通じて祭祀を捧げた。

原文既卒,其子逢上疏具陳遺言。帝雅重肜,方更任用,聞之大驚,召問逢疾狀,嗟歎者良久焉。烏桓、鮮卑追思肜無已,每朝賀京師,常過頤拜謁,仰天號泣乃去。遼東吏人為立祠,四時奉祭焉。

史論

原文史論

論じて言う。祭肜は武勇の節操が剛直で方正であり、行動は安らかで重厚であった。たとえ条侯(周亜夫)や穰苴(司馬穰苴)の類であっても、これを超えることはできなかったであろう。

原文論曰:祭肜武節剛方,動用安重,雖條侯、穰苴之倫,不能過也

そして偏遠の海辺を守り臨み、政令によって獰猛な風俗を改めさせた。

原文。且臨守偏海,政移獷俗

異民族は符節を請うて信義を立て、胡や貊は幾度も国境の外で首級を挙げた。

原文,徼人請符以立信,胡貊數級於郊下

ついには辺境の亭に太鼓を伏せ、烽火を幽障に消すことおよそ三十年に及んだ。古の言う「必ず一世を経て後に仁政が行き渡る」とは、

原文,至乃臥鼓邊亭,滅烽幽障者將三十年。古所謂「必世而後仁」

まさにその通りではないか。しかし一つの過ちのゆえに、

原文,豈不然哉!而一眚

憤りを感じるに至ったのは、惜しいことである。法を畏れることの弊害である。

原文之故,以致感憤,惜哉,畏法之敝也

!

原文(段落全体)贊曰:期啟燕門,霸冰虖河。祭遵好禮,臨戎雅歌。肜抗遼左,邊廷懷和。

賛に曰く:期は燕門を開き、覇は虖河に氷を渡す。祭遵は礼を好み、戦場にあっても雅やかに歌った。肜は遼左に抗し、辺境の朝廷は和を懐いた。

原文(段落全体)贊曰:期啟燕門,霸冰虖河。祭遵好禮,臨戎雅歌。肜抗遼左,邊廷懷和。

校勘記

原文校勘記

七三一ページ四行目

原文七三一頁04行

:薊に従って行く

原文:從徇薊

按:集解が引く恵棟の説によれば、東観記には「河北を平らげるに従う」とある。

原文按:集解引惠棟說,謂東觀記「從平河北」。

七三一ページ十一行目

原文七三一頁11行

:披は普彼反

原文:披普彼反

按:「普」は原本「芳」と誤っており、直ちに訂正した。

原文按:「普」原斗「芳」,逕改正。

七三一ページ十二行目

原文七三一頁12行

:[棗]は今の恆州棗城県である。

原文:[棗]今恆州棗城縣也

集解に引用された銭大昕の説に基づいて補う。按ずるに、「棗」は「□」とすべきで、字は□禾であるが、各版本の本文・注文ともに「棗」と作っているので、今もそのままとする。

原文據集解引錢大昕說補。按:「棗」當作「□」,字□禾,然各本正文注文皆作「棗」,今仍之。

七三二頁二行 攝*(幩)**[幘]*復戰 刊誤は、幩は馬の扇汗(汗取り)であり、期が創傷を額に受けているのは「幘」の字であると述べている。王先謙は、東觀記が正しく「幘」と作っていると述べる。今これに拠って改める。按ずるに、「幩」は原斗では「憤」と作っており、直接に改正した。

原文七三二頁二行攝*(幩)**[幘]*復戰刊誤謂幩是馬扇汗,期被創中額,則是「幘」字。王先謙謂東觀記正作「幘」。今據改。按:「幩」原斗「憤」,逕改正。

七三四頁二行 復封丹弟統為建平侯 按ずるに、集解に引用された恵棟の説によれば、水経注は「平輿」と作っており、汝南に属するとする。

原文七三四頁二行復封丹弟統為建平侯按:集解引惠棟說,謂水經注作「平輿」,屬汝南也。

七三五頁九行 封王鄉侯 按ずるに、殿本考証は、地理志・郡国志に「王鄉」という地名はなく、「王」の字は誤りである疑いがあると述べている。

原文七三五頁九行封王鄉侯按:殿本考證謂地理、郡國志無「王鄉」地名,「王」字疑誤。

七三五頁一0行 說文曰歋□手相笑也 按ずるに、集解に引用された孫星衍の説によれば、説文は「歋愈」と作っており、ともに「□」の字はない。『人相笑相歋愈』とあり、『手相笑』とは言わない。注は誤りである。

原文七三五頁一0行說文曰歋□手相笑也按:集解引孫星衍說,謂說文作「歋愈」,並無「□」字。云「人相笑相歋愈」,不云「手相笑」。注誤。

七三五頁一五行 死者脫衣以斂之傷者躬親以養之 刊誤は、文に照らすと、脱衣は『以斂之』と言えるが、躬親には再び『以』の字を付けるのは適切でないと述べている。按ずるに、「以斂之」と「以養之」は対句を成しており、劉の説は杓子定規である。

原文七三五頁一五行死者脫衣以斂之傷者躬親以養之刊誤謂按文脫衣可言「以斂之」,躬親不宜復有「以」字。按:「以斂之」與「以養之」相對成文,劉說泥。

七三六頁八行 茂觿疲勞 按ずるに、御覧二八四に引用されているものには、「茂」の下に「建」の字がある。

原文七三六頁八行茂觿疲勞按:御覽二八四引。「茂」下有「建」字。

七三七頁一行 屯*[田]*函谷關 汲本・殿本に拠って補う。

原文七三七頁一行屯*[田]*函谷關據汲本、殿本補。

七三八頁三行 溫余水出上谷居庸關東 按ずるに、「溫余水」は「□余水」とすべきであり、詳細は楊守敬の水経註疏に説明されている。

原文七三八頁三行溫余水出上谷居庸關東按:「溫余水」當作「□余水」,說詳楊守敬水經註疏。

七三九頁四行 臧宮等入箕關 按ずるに、集解に引用された恵棟の説によれば、東觀記は「箕關」を「天中關」と作っている。

原文七三九頁四行臧宮等入箕關按:集解引惠棟說,謂東觀記「箕關」作「天中關」。

七三九頁四行 南擊弘農厭新柏華蠻中賊 按ずるに、集解に引用された沈欽韓の説によれば、紀要では柏谷は陝州霊宝県西南の朱陽鎮にあり、柏谷亭がある。「柏華」はおそらく「柏谷」の誤りであろう。

原文七三九頁四行南擊弘農厭新柏華蠻中賊按:集解引沉欽韓說,謂紀要柏谷在陝州靈寶縣西南朱陽鎮,有柏谷亭。「柏華」蓋「柏谷」之誤。

七三九頁五行 時新城蠻中山賊張滿 按ずるに、集解に引用された恵棟の説によれば、続志では新城に鄤聚があり、今は蠻中と呼ばれる。説文は「□中」と作る。

原文七三九頁五行時新城蠻中山賊張滿按:集解引惠棟說,謂續志新城有鄤聚,今名蠻中。說文作「□中」。

七三九頁八行 鄧奉弟終 按ずるに、集解に引用された恵棟の説によれば、「終」は一説に「觿」と作る。古くは通用する。

原文七三九頁八行鄧奉弟終按:集解引惠棟說,謂「終」一作「觿」,古通。

七四一頁一四行 先明漢道 按ずるに、刊誤は「先」は「光」とすべきであると述べている。

原文七四一頁一四行先明漢道按:刊誤謂「先」當作「光」。

七四二頁08行

原文七四二頁08行

:俎豆(祭祀の礼)を忘れず

原文:不忘俎豆

,注:王先謙は『東観記』が「王室を忘れず」としていると述べている。

原文,按:王先謙謂東觀記作「不忘王室」。

七四二ページ八行目

原文七四二頁08行

: 礼を好み楽を悦ぶと言える

原文:可*(為)**[謂]*好禮悅樂

,汲古閣本と武英殿本に基づいて改める。

原文,據汲本、殿本改。

七四二ページ十一行目

原文七四二頁11行

: 諡して成侯という

原文:謚曰成侯

,注:『集解』が引く沈欽韓の説によれば、『袁紀』は「威侯」としている。

原文,按:集解引沉欽韓說,謂袁紀作「威侯」。

七四四ページ三行目

原文七四四頁03行

: 従弟の肜

原文:從弟肜

,注:汲古閣本と武英殿本は「肜」を「彤」としている。『通鑑』は「彤」または「肜」としている。

原文,按:汲本、殿本「肜」作「彤」,通鑒或作「彤」,或作「肜」。

七四四ページ十三行目

原文七四四頁13行

: 常に士卒の先鋒となった

原文:常為士卒*[前]*鋒

,『太平御覧』巻三百二が引くものは「常に士卒の前鋒となった」とし、『東観記』は「常に士卒の先鋒となった」とする。今『御覧』に基づいて「前」の字を補う。

原文,御覽三0二引作「常為士卒前鋒」,東觀記作「常為士卒先鋒」,今據御覽補「前」字。

七四五ページ五行目

原文七四五頁05行

匈奴の左伊秩訾部を撃ち、

原文:即擊匈奴左伊*(袟)**[秩]*訾部

集解本に拠って改め、前書の匈奴伝と合致させる。

原文,據集解本改,與前書匈奴傳合。

七四五頁十一行

原文七四五頁11行

州郡を厳しく責め、

原文:*(功)**[切]*責州郡

刊誤に拠って改める。

原文,據刊誤改。

註釋

原文註釋