後漢書

巻十二・王劉張李彭盧 列傳第二

巻十二・王劉張李彭盧 列傳第二

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原文(段落全体)王昌

王昌

原文(段落全体)王昌

王昌は一名を郎といい、趙国邯鄲の人である。もともと卜相の職にあり、星や暦に明るく、常々河北に天子の気があると考えていた。当時、趙繆王の子の林(景帝の七代目の孫である)は奇異な術数を好み、趙・魏の間で任侠を振るい、多くの豪族や狡猾な者と通じていたが、郎は彼と親しくしていた。初め、王莽が帝位を簒奪した時、長安の中に成帝の子の子輿を自称する者がおり、王莽はこれを殺した。(『王莽伝』によれば、当時、男子の武仲が劉子輿を自称したという。)郎はこれに乗じて偽って真の子輿を名乗り、「母はもと成帝の謳者であり、かつて殿上から降りた際に突然倒れ、しばらくして黄気が上から下がってきて、半日ほどで解け、そのまま身ごもって館に入った。趙后(趙飛燕である)がこれを害そうとしたが、偽って他人の子と取り替えたため、命を全うすることができた。(『東観記』によれば「宮婢が子を産んだ時、ちょうど同時であったので、すぐに取り替えた」という。)子輿は十二歳の時、天命を知る者である郎中の李曼卿とともに蜀へ行き、十七歳で丹陽に至り(丹陽は楚が封じられた地で、現在の帰州秭帰県の東にある)、二十歳で長安に戻り、中山を転々とし、燕や趙を往来して、天の時を待った」と語った。林らはますます疑念を抱き、ついに趙国の大豪族である李育や張参らと謀議ぼうぎを交わし、共に郎を立てることを計画した。ちょうど世間に赤眉が黄河を渡ろうとしているという噂が流れ、林らはこれに乗じて「赤眉は劉子輿を立てるはずだ」と宣言して民衆の心を探ったところ、多くの百姓がこれを信じた。

原文王昌一名郎,趙國邯鄲人也。素爲卜相工,明星歷,常以爲河北有天子氣。時趙繆王子林(景帝七代孫也。)好竒數,(術數。)任俠於趙、魏間,多通豪猾,而郎與之親善。初,王莽篡位,長安中或自稱成帝子子輿者,莽殺之。(《王莽傳》曰,時男子武仲自稱劉子輿。)郎緣是詐稱真子輿,云「母故成帝謳者,甞下殿卒僵,須臾有黃氣從上下,半日乃解,遂姙身就館。趙后欲害之,(趙飛燕也。)僞易他人子,以故得全。(《東觀記》曰「宮婢生子,正與同時,即易之」也。)輿年十二,識命者郎中李曼卿,(識命謂知天命也。)與俱至蜀;十七,到丹陽;(丹陽,楚所封地,在今歸州秭歸縣東也。)二十,還長安;展轉中山,來往燕、趙,以須天時」。(須,待也。)林等愈動疑惑;乃與趙國大豪李育、張參等通謀,規共立郎。會人間傳赤眉將度河,林等因此宣言赤眉當立劉子輿以觀衆心,百姓多信之。

更始元年十二月、林らはついに数百の兵士と車騎を率いて、朝に邯鄲城に入り、王宮(かつての趙王の宮殿)に留まり、郎を天子として立てた。林は丞相となり、李育は大司馬となり、張参は大将軍となった。将帥を分遣して、幽州・冀州を巡行して平定させた。州郡に檄文を発して言った。「部刺史・郡太守に詔を下す。朕は孝成皇帝の子、子輿である。かつて趙氏の禍いに遭い、それによって王莽が簒奪し殺害したが、天命を知る者に頼って朕の身を守護させ(『東観記』によれば、知命者とは侍郎の韓公らを指す)、河辺で身を解き(解形とは身を脱すること)、趙・魏の地に跡を潜めた。王莽が位を窃取し、天に罪を得たので、天は漢を佑け、故に東郡太守の翟義と厳郷侯の劉信に兵を擁させて征討させ、胡・漢の地を出入りさせた。天下のすべての者が、朕が民間に隠れていることを知っている。南嶽の諸劉(聖公・光武はもともと舂陵から北に移った。故に舂陵は衡山に近く、故に「南嶽諸劉」と言う)が、その先駆けとなった。朕は天文を仰ぎ観て、ここに興ることを知り、今月壬辰の日に趙の宮で即位した。吉祥の気が蒸し立ち、時に応じて雨を得た。聞くところによれば、国を治めるには、子が父を継ぐことが古今変わらぬ道理である。劉聖公は朕を知らないので、しばらく帝号を保持している。義兵を起こした者たちは皆、朕を助けるものであり、みな土地を分け与え子孫に福禄を享受させるべきである。すでに聖公と翟太守に詔を下し、急ぎ功臣と共に行在所に参じるよう命じた(天子の所在する所を行在所という)。刺史・二千石は皆聖公が設置したもので、朕が沈滞しているのを見ず、あるいは去就を親しくせず、強者は力を恃み(負は恃むこと)、弱者は惶惑している。今、民衆は傷つき、すでに半数を超えている(痍は傷のこと)。朕はこれを非常に悼むので、使者を遣わして詔書を公布させる。」郎は、民衆が漢を思っており、翟義が死んでいないという話が多いので、それを詐称して、人々の望みに従った。そこで趙国以北、遼東以西は、皆風に従って靡いた。

原文更始元年十二月,林等遂率卒車騎數百,晨入邯鄲城,止於王宮,(故趙王之宮也。)立郎爲天子。林爲丞相,李育爲大司馬,張參爲大將軍。分遣將帥,徇下幽、兾。移檄州郡曰:「制詔部刺史、郡太守曰:朕,孝成皇帝子子輿者也。昔遭趙氏之禍,因以王莽篡殺,賴知命者將護朕躬,(《東觀記》曰,知命者謂侍郎韓公等。)解形河濵,(解形猶脫身也。)削迹趙、魏。王莽竊位,獲罪於天,天命佑漢,故使東郡太守翟義、嚴鄉侯劉信,擁兵征討,出入胡、漢。普天率土,知朕隱在人間。南嶽諸劉,(聖公、光武本自舂陵北徙。故舂陵近衡山,故曰「南嶽諸劉」也。)爲其先驅。朕仰觀天文,乃興于斯,以今月壬辰即位趙宮。休氣熏蒸,應時獲雨。蓋聞爲國,子之襲父,古今不易。劉聖公未知朕,故且持帝號。諸興義兵,咸以助朕,皆當裂土享祚子孫。已詔聖公及翟太守,亟與功臣詣行在所。(天子所在曰行在所。)疑刺史、二千石皆聖公所置,未覩朕之沈滯,或不親去就,強者負力,(負,恃也)弱者惶惑。今元元創痍,已過半矣,(痍,傷也。)朕甚悼焉,故遣使者班下詔書。」郎以百姓思漢,旣多言翟義不死,故詐稱之,以從人望。於是趙國以北,遼東以西,皆從風而靡。

翌年、光武帝は薊で王郎の檄文を得て、南へ信都に逃れ、(走は趣くことで、音は子豆の反切。)兵を発して周辺の県を巡行し、ついに栢人を攻めたが、落とせなかった。議論する者は、栢人を守るよりは鉅鹿を平定する方がよいと考え、光武帝は兵を率いて東北へ進み鉅鹿を包囲した。王郎配下の太守王饒が城を守り、数十日連続して攻撃したが陥落しなかった。耿純が進言した。「長く王饒を包囲し続ければ、兵士たちは疲弊します。大軍が精鋭を保っているうちに、邯鄲を攻撃する方がよいでしょう。もし王郎が誅殺されれば、王饒は戦わずして自ら降伏するでしょう。」光武帝はその計略を良しとし、将軍鄧満(『続漢書』では「満」を「蒲」と作る。)を留めて鉅鹿を守らせ、自らは軍を進めて邯鄲に至り、その外城の北門に駐屯した。

原文明年,光武自薊得郎檄,南走信都,(走,趣也,音子豆反。)發兵徇旁縣,遂攻栢人,不下。議者以爲守栢人不如定鉅鹿,光武乃引兵東北圍鉅鹿。郎太守王饒據城,數十日連攻不剋。耿純說曰:「乆守王饒,士衆疲敝,不如及大兵精銳,進攻邯鄲。若王郎已誅,王饒不戰自服矣。」光武善其計,乃留將軍鄧滿(《續漢書》「滿」作「蒲」。)守鉅鹿,而進軍邯鄲,屯其郭北門。

王郎は何度か出撃したが戦果が上がらず、諫議大夫の杜威に節を持たせて降伏を申し出させた。杜威は王郎が成帝の実子であると主張した。光武帝は言った。「たとえ成帝が生き返ったとしても、天下を得ることはできない。ましてや成帝を詐称する者などなおさらだ。」杜威は万戸侯を求めた。光武帝は言った。「身の安全が保たれることを願うだけで十分だ。」(顧は念うの意。)杜威は言った。「邯鄲は鄙びた地ではありますが、力を合わせて守りを固めれば、なおしばらくの間は持ちこたえられます。つまるところ、君臣がそろってただ身の安全だけを願うなどということはいたしません。」こう言って辞去した。二十余日にわたって激しく攻め立てたところ、王郎の少傅である李立が内応し、城門を開いて漢軍を招き入れたため、ついに邯鄲は陥落した。王郎は夜に逃亡したが、途中で死に、追撃して首を斬った。

原文郎數出戰不利,乃使其諫議大夫杜威持節請降。威雅稱郎實成帝遺體。光武曰:「設使成帝復生,天下不可得,況詐子輿者乎!」威請求萬戶侯。光武曰:「顧得全身可矣。」(顧猶念也。)威曰:「邯鄲雖鄙,并力固守,尚曠日月,終不君臣相率但全身而已。」遂辭而去。急攻之二十餘日,郎少傅李立爲反間,開門內漢兵,遂拔邯鄲。郎夜亡走,道死,追斬之。

劉永

原文劉永

劉永は、梁郡睢陽の人で、梁の孝王の八世の孫である。封国は父の劉立に伝わった。元始年間(平帝の年号)、劉立は平帝の外戚である衛氏(衛氏は平帝の母方の実家で、中山の衛子豪の娘である)と内通し、王莽によって誅殺された。

原文劉永者,梁郡睢陽人,梁孝王八世孫也。傳國至父立。元始中,立與平帝外家衛氏交通,(衞氏,平帝母家也,中山衞子豪之女。)爲王莽所誅。

更始帝が即位すると、劉永はまず洛陽に赴き、紹封されて梁王となり、都を睢陽に置いた。劉永は更始帝の政治が乱れていると聞くと、ついに国を拠点に兵を起こし、弟の劉防を輔国大将軍とし、劉防の弟の劉少公を御史大夫とし、魯王に封じた。そして諸豪傑の沛の人周建らを招き、いずれも将帥に任命し、済陰、山陽、沛、楚、淮陽、汝南を攻め落とし、合わせて二十八城を手に入れた。また使者を遣わして西防の賊の頭目である山陽の佼彊を横行将軍に任命した。(西防は県名で、故城は現在の宋州単父県の北にある。佼の音は絞。)この時、東海の人董憲が兵を起こしてその郡を占拠し、また張歩も斉の地を平定していた。劉永は使者を遣わして董憲を翼漢大将軍に、張歩を輔漢大将軍に任命し、ともに連合して兵を結び、ついに東方を専有した。更始帝が敗れると、劉永は自ら天子を称した。

原文更始即位,永先詣洛陽,紹封爲梁王,都睢陽。永聞更始政亂,遂據國起兵,以弟防爲輔國大將軍,防弟少公御史大夫,封魯王。遂招諸豪傑沛人周建等,並署爲將帥,攻下濟陰、山陽、沛、楚、淮陽、汝南,凡得二十八城。又遣使拜西防賊帥山陽佼彊爲橫行將軍。(西防,縣名,故城在今宋州單父縣北。佼音絞。)是時東海人董憲起兵據其郡,而張步亦定齊地。永遣使拜憲翼漢大將軍,步輔漢大將軍,與共連兵,遂專據東方。及更始敗,永自稱天子。

建武二年の夏、光武帝は虎牙大将軍の蓋延らを派遣して劉永を討伐した。初め、陳留の人蘇茂は更始帝の討難将軍となり、朱鮪らと共に洛陽を守っていた。朱鮪が漢に降伏すると、蘇茂も帰順したので、光武帝は蘇茂を蓋延と共に劉永を攻撃させることにした。しかし軍中で互いに相容れず、蘇茂は反乱を起こし、淮陽太守を殺害し、数県を略奪して広楽を占拠し、劉永に臣従した。劉永は蘇茂を大司馬・淮陽王に任じた。蓋延は睢陽を包囲し、数か月後にこれを陥落させ、劉永は家族を連れて虞へ逃れた。(虞は県名で、梁国に属し、故城は現在の宋州虞城県にある。)虞の住民が反乱を起こし、劉永の母と妻子を殺害したため、劉永は配下数十人を率いて譙へ奔った。蘇茂・佼彊・周建が合流して劉永を救援したが、蓋延に敗れ、蘇茂は広楽へ逃れ戻り、佼彊と周建は劉永に従って湖陵へ逃れて守りを固めた。三年の春、劉永は使者を派遣して張歩を斉王に、董憲を海西王に立てた。そこで光武帝は大司馬の呉漢らを派遣して広楽で蘇茂を包囲させた。周建が軍勢を率いて蘇茂を救援したが、蘇茂と周建は敗戦し、城を捨てて再び湖陵へ戻り、一方で睢陽の住民が城を反して劉永を迎え入れた。(反は幡と読む。)呉漢と蓋延らが合流してこれを包囲し、城中の食糧が尽きると、劉永は蘇茂・周建と共に酇へ逃れた。(現在の亳州の県である。酇は在何反と読む。)諸将が急追したため、劉永の部将の慶吾が劉永の首を斬って降伏し、慶吾は列侯に封じられた。蘇茂と周建は垂恵へ奔り、共に劉永の子の劉紆を立てて梁王とした。佼彊は西防に戻って守りを固めた。

原文建武二年夏,光武遣虎牙大將軍蓋延等伐永。初,陳留人蘇茂爲更始討難將軍,與朱鮪等守洛陽。鮪旣降漢,茂亦歸命,光武因使茂與蓋延俱攻永。軍中不相能,茂遂反,殺淮陽太守,掠得數縣,據廣樂而臣於永。永以茂爲大司馬、淮陽王。蓋延遂圍睢陽,數月,拔之,永將家屬走虞。(虞,縣名,屬梁國,故城在今宋州虞城縣。)虞人反,殺其母及妻子,永與麾下數十人奔譙。蘇茂、佼彊、周建合軍救永,爲蓋延所敗,茂奔還廣樂,彊、建從永走保湖陵。三年春,永遣使立張步爲齊王,董憲爲海西王。於是遣大司馬吳漢等圍蘇茂於廣樂,周建率衆救茂,茂、建戰敗,弃城復還湖陵,而睢陽人反城迎永。(反音幡。)吳漢與蓋延等合軍圍之,城中食盡,永與茂、建走酇。(今亳州縣也。酇音在何反。)諸將追急,永將慶吾斬永首降,封吾爲列侯。蘇茂、周建奔垂惠,共立永子紆爲梁王。佼彊還保西防。

建武四年の秋、捕虜将軍の馬武と騎都尉の王霸を派遣して、垂恵で劉紆と劉建を包囲した。蘇茂が五校の兵を率いて救援に来ると、劉紆と劉建も兵を出して馬武らと戦ったが、勝てなかった。その時、劉建の兄の子である劉誦が反乱を起こし、城門を閉ざして彼らを拒絶した。劉建、蘇茂、劉紆らは皆逃げ出し、劉建は途中で死に、蘇茂は下邳に逃れて董憲と合流し、劉紆は佼彊のもとに逃れた。五年、驃騎大将軍の杜茂を派遣して西防で佼彊を攻撃した。佼彊は劉紆とともに董憲のもとに逃れた。

原文四年秋,遣捕虜將軍馬武、騎都尉王霸圍紆、建於垂惠,蘇茂將五校兵救之,紆、建亦出兵與武等戰,不剋,而建兄子誦反,閉城門拒之。建、茂、紆等皆走,建於道死,茂奔下邳與董憲合,紆奔佼彊。五年,遣驃騎大將軍杜茂攻佼彊於西防,彊與劉紆奔董憲。

その時、平狄将軍の龐萌が反乱を起こし、蓋延を襲撃して破り、兵を率いて董憲と連合し、自ら東平王と称し、桃郷の北に駐屯した。(桃郷の故城は現在の兗州龔丘県の西北にある。)

原文時平狄將軍龐萌反叛,遂襲破蓋延,引兵與董憲連和,自號東平王,屯桃鄉之北。(桃鄉故城在今兖州龔丘縣西北也。)

龐萌

原文龐萌

龐萌は山陽の人である。初めは下江兵の中に亡命していた。更始帝が即位すると、冀州牧に任じられ、兵を率いて尚書令の謝躬に属し、共に王郎を破った。謝躬が敗れると、龐萌は帰順して降伏した。光武帝が即位すると、侍中に任じられた。龐萌は人となりが謙遜で従順であり、非常に信頼され寵愛された。帝は常にこう称えた。「六尺の孤を託し、百里の命を寄せることができる者(解釈は『明帝紀』を参照)は、龐萌である。」平狄将軍に任じられ、蓋延と共に董憲を討伐した。

原文龐萌,山陽人。初亡命在下江兵中。更始立,以爲兾州牧,將兵屬尚書令謝躬,共破王郎。及躬敗,萌乃歸降。光武即位,以爲侍中。萌爲人遜順,甚見信愛。帝常稱曰:「可以託六尺之孤,寄百里之命者,(解見《明紀》。)龐萌是也。」拜爲平狄將軍,與蓋延共擊董憲。

その時、詔書が蓋延だけに下り、龐萌には及ばなかった。龐萌は蓋延が自分を讒言したと思い、自ら疑念を抱き、ついに反乱を起こした。帝はこれを聞いて大いに怒り、自ら軍を率いて龐萌を討伐することにした。諸将に書を送り、「私は常に龐萌を社稷の臣と思っていた。将軍たちは私の言葉を笑わないだろうか?老賊は一族を滅ぼすに値する。それぞれ兵馬を整え、睢陽で会合せよ!」と記した。董憲は帝が自ら龐萌を討伐すると聞き、劉紆、蘇茂、佼彊とともに下邳を離れ、蘭陵に戻り、蘇茂と佼彊に龐萌を助けさせ、合計三万の兵で桃城を急襲して包囲した。

原文時詔書獨下延而不及萌,萌以爲延譖己,自疑,遂反。帝聞之,大怒,乃自將討萌。與諸將書曰:「吾常以龐萌社稷之臣,將軍得無笑其言乎?老賊當族。其各厲兵馬,會睢陽!」憲聞帝自討龐萌,乃與劉紆、蘇茂、佼彊去下邳,還蘭陵,使茂、彊助萌,合兵三萬,急圍桃城。

帝はその時蒙に滞在していたが、これを聞くと、輜重しちょうを残し、自ら軽騎三千、歩卒数万を率い、昼夜を問わず急行し、任城に駐屯した。桃郷から六十里の距離である。翌朝、諸将は進軍を請うたが、賊軍もまた兵を整えて挑戦してきた。帝は聞き入れず、兵士を休ませ鋭気を養い、敵の勢いを挫こうとした。城中では天子の車駕が到着したと聞き、人々の心はますます固くなった。その時、呉漢らは東郡にいたが、急使を走らせて召し寄せた。龐萌らは全軍で城を攻めたが、二十日余り経っても兵は疲弊し、城を落とすことができなかった。呉漢と諸将が到着すると、全軍を率いて桃城に進軍し、帝自らが戦闘に加わり、大いにこれを打ち破った。龐萌、蘇茂、佼彊は夜に輜重を捨てて逃げ出し、董憲は劉紆とともに数万の兵を率いて昌慮に駐屯し、自ら精鋭を率いて新陽を守った。(新陽は県名で、東海郡に属する。)帝は先に呉漢を派遣してこれを撃破し、董憲は逃げて昌慮に戻った。呉漢が進軍して守ると、董憲は恐れ、五校の残党の歩騎数千人を招き誘い、建陽に駐屯させた。(建陽は県名で、東海郡に属し、故城は現在の沂州丞県の北にある。丞の音は時證反。)昌慮から三十里の距離である。

原文帝時幸蒙,聞之,乃留輜重,自將輕騎三千,步卒數萬,晨夜馳赴,次任城,去桃鄉六十里。旦日,諸將請進,賊亦勒兵挑戰,帝不聽,乃休士養銳,以挫其鋒。城中聞車駕至,衆心益固。時吳漢等在東郡,馳使召之。萌等乃悉兵攻城,二十餘日,衆疲困而不能下。及吳漢與諸將到,乃率衆軍進桃城,而帝親自搏戰,大破之。萌、茂、彊夜棄輜重逃奔,董憲乃與劉紆悉其兵數萬人屯昌慮,自將銳卒拒新陽。(新陽,縣,屬東海郡。)帝先遣吳漢擊破之,憲走還昌慮。漢進守之,憲恐,乃招誘五校餘賊步騎數千人屯建陽,(建陽,縣,屬東海郡,故城在今沂州丞縣北。丞音時證反。)去昌慮三十里。

帝は蕃に到着した。(蕃の音は皮、また婆とも読む。)董憲の本拠地から百余里の距離である。諸将は進軍を請うたが、帝は聞き入れず、五校の兵が食糧不足で撤退するはずだと知り、それぞれ堅固に守って敵の疲弊を待つよう命じた。しばらくすると、五校の兵の食糧は尽き、果たして撤退した。帝は自ら陣頭に立ち、四方から董憲を攻撃し、三日後、再び大いにこれを打ち破り、兵士たちは皆散り散りに逃げた。呉漢を派遣して追撃させると、佼彊は配下の兵を率いて降伏し、蘇茂は張歩のもとに逃れ、董憲と龐萌は繒山に逃げ込んだ。(繒は県名で、故城は現在の沂州承県の東北にある。繒山はその県にある山である。)数日後、官吏や兵士たちは董憲がまだ生きていると聞き、再び集まり、数百騎を得て、董憲を迎えて郯城に入れた。呉漢らが再び郯城を攻め落とすと、董憲と龐萌は逃げて朐を守った。(県名で、東海郡に属する。現在の海州朐山県の西に故朐城があり、秦の始皇帝が石を立てて東の闕門としたのがこの地である。)劉紆は行く当てがなく、軍士の高扈がその首を斬って降伏し、梁の地はすべて平定された。

原文帝至蕃,(蕃音皮,又音婆。)去憲所百餘里。諸將請進,帝不聽,知五校乏食當退,勑各堅壁以待其敝。頃之,五校糧盡,果引去。帝乃親臨,四面攻憲,三日,復大破之,衆皆奔散。遣吳漢追擊之,佼彊將其衆降,蘇茂奔張步,憲及龐萌走入繒山。(繒,縣名,故城在今沂州承縣東北。繒山,即其縣之山也。)數日,吏士聞憲尚在,復往往相聚,得數百騎,迎憲入郯城。吳漢等復攻拔郯,憲與龐萌走保朐。(縣名,屬東海郡,今海州朐山縣西有故朐城,秦始皇立石以爲東闕門,即此地也。)劉紆不知所歸,軍士高扈斬其首降,梁地悉平。

呉漢が進軍して朐を包囲した。翌年、城中の食糧が尽きると、董憲と龐萌は密かに出て、贛榆を襲撃して奪取した。(贛榆は県名で、現在の海州東海県である。贛の音は貢。)琅邪太守の陳俊がこれを攻撃すると、董憲と龐萌は沢の中に逃げ込んだ。ちょうど呉漢が朐城を落とし、進軍して彼らの妻子をことごとく捕らえた。董憲は涙を流して配下の将士に謝罪し、「妻子は皆捕らえられてしまった。(呉漢に捕らえられたのである。)ああ、長い間、諸卿を苦しめてしまった。」と言った。そして数十騎を率いて夜に去り、間道から帰順しようとしたが、呉漢の校尉である韓湛が方与で董憲を追撃して斬り、方与の人である黔陵も龐萌を斬り、ともに首を洛陽に送った。韓湛を列侯に封じ、黔陵を関内侯に封じた。

原文吳漢進圍朐。明年,城中穀盡,憲、萌潛出,襲取贛榆,(贛榆,縣名,今海州東海縣也。贛音貢。)琅邪太守陳俊攻之,憲、萌走澤中。會吳漢下朐城,進盡獲其妻子。憲乃流涕謝其將士曰:「妻子皆已得矣。(爲吳漢所得也。)嗟乎!乆苦諸卿。」乃將數十騎夜去,欲從閒道歸降,而吳漢校尉韓湛追斬憲於方與,(方與音防預。)方與人黔陵亦斬萌,皆傳首洛陽。封韓湛爲列侯,黔陵關內侯。

張歩

原文張步

張歩は字あざなを文公といい、琅邪郡不其県の人である。漢の兵が起こると、張歩もまた数千の兵を集め、周辺の県を転戦して攻め、数城を落とし、自ら五威将軍と称し、ついに本郡を占拠した。

原文張步字文公,琅邪不其人也。漢兵之起,步亦聚衆數千,轉攻傍縣,下數城,自爲五威將軍,遂據本郡。

更始帝が魏郡の王閎を琅邪太守として派遣すると、張歩はこれを拒み、進軍させなかった。王閎は檄文を発し、官吏や民衆に降伏を説得して、贛榆など六県を得て、数千の兵を集め、張歩と戦ったが、勝てなかった。その時、梁王の劉永は自らが更始帝によって立てられたことを理由に、張歩の兵力の強さを貪り、皇帝の権限を行使して張歩を輔漢大将軍・忠節侯に任じ、青州と徐州の二州を監督させ、命令に従わない者を征伐させた。張歩はその爵号を貪り、ついにこれを受けた。そして劇で兵を整え、(劇は県名で、現在の青州寿光県の南にある。)弟の張弘を衛将軍に、張弘の弟の張藍を玄武大将将軍に、張藍の弟の張寿を高密太守に任じた。将軍を派遣して泰山、東萊、城陽、膠東、北海、済南、斉の諸郡を攻めさせ、すべてこれを平定した。

原文更始遣魏郡王閎爲琅邪太守,步拒之,不得進。閎爲檄,曉喻吏人降,得贛榆等六縣,收兵數千人,與步戰,不勝。時梁王劉永自以更始所立,貪步兵彊,承制拜步輔漢大將軍、忠節侯,督青徐二州,使征不從命者,步貪其爵號,遂受之。乃理兵於劇,(劇,縣名,在今青州壽光縣南也。)以弟弘爲衛將軍,弘弟藍玄武大將軍,藍弟壽高密太守。遣將徇太山、東萊、城陽、膠東、北海、濟南、齊諸郡,皆下之。

張歩は領土を次第に広げ、(濅は漸の意。)兵甲は日に日に盛んになった。王閎は彼の兵衆が離散することを恐れ、張歩のもとに赴いて面会し、正義の道で誘導しようとした。張歩は大いに兵を並べて王閎を引き入れ、怒って言った。「張歩に何の過ちがあって、君は以前、私を激しく攻撃したのか!」王閎は剣に手をかけながら言った。「太守は朝廷の命令を奉じているのに、文公(張歩)は兵を擁して対抗している。私は賊を攻撃したまでで、何が激しいというのか!」張歩は黙り込み、しばらくして、席を離れて跪いて謝罪し、音楽を奏で酒を献じて、上賓の礼をもって待遇し、王閎に郡の政務を通して執掌させた。(関は通ずるの意。)

原文步拓地濅廣,(濅,漸也。)兵甲日盛。王閎懼其衆散,乃詣步相見,欲誘以義方。步大陳兵引閎,怒曰:「步有何過,君前見攻之甚乎!」閎按劔曰:「太守奉朝命,而文公擁兵相距,閎攻賊耳,何謂甚邪!」步嘿然,良乆,離席跪謝,乃陳樂獻酒,待以上賔之禮,令閎關掌郡事。(關,通也。)

建武三年、光武帝は光禄大夫の伏隆を節を持たせて斉に派遣し、張歩を東萊太守に任じた。劉永は伏隆が劇に到着したと聞くと、急いで使者を派遣して張歩を斉王に立てた。張歩はすぐに伏隆を殺し、劉永の命令を受けた。

原文建武三年,光武遣光祿大夫伏隆持節使齊,拜步爲東萊太守。劉永聞隆至劇,乃馳遣立步爲齊王,步即殺隆而受永命。

この時、帝は北は漁陽を憂え、南は梁や楚の地を平定することに忙しくしていたため、張歩は斉の地を専有して集めることができ、十二郡を占拠した。劉永が死ぬと、張歩らは劉永の子である劉紆を天子に立てようとし、自らは定漢公と称し、百官を置いた。王閎が諫めて言った。「梁王は本朝(漢)を奉じたがゆえに、山東の人々が多く帰順したのです。今、その子を尊んで立てれば、人々の心を疑わせることになります。かつ斉の人は多くが狡詐です。(汲黯が公孫弘を評した言葉。)しばらく詳しく検討すべきです。」張歩はやめた。五年、張歩は帝が自分を攻撃すると聞き、配下の将である費邑を済南王に任じ、歴下に駐屯させた。冬、建威大将軍の耿弇が費邑を破って斬り、進軍して臨淄を陥落させた。張歩は耿弇の兵が少なく遠方からの客軍であるため、一挙に取り込めると思い、全軍を率いて臨淄で耿弇を攻撃した。張歩の軍は大敗し、劇に逃げ帰った。帝は自ら劇に行幸した。張歩は退いて平寿を守り、(現在の青州北海県である。)蘇茂が一万余りの兵を率いて救援に来た。蘇茂は張歩を責めて言った。「南陽の兵は精鋭で、延岑は戦上手であるのに、耿弇は彼を敗走させました。大王はどうしてその陣営を攻撃なさったのですか?私を呼び寄せたのに、待つことができなかったのですか?」張歩は言った。「恥ずかしい、何も言うことはない。」(負は恥の意。二度言うのは、非常に恥じていることの表現。)帝は使者を派遣して張歩と蘇茂に告げ、互いに斬り合って降伏すれば、列侯に封じると伝えた。張歩はついに蘇茂を斬り、使者にその首を持たせて降伏した。張歩の三人の弟はそれぞれ所在の獄に自ら縛られて出頭し、皆赦免された。張歩を安丘侯に封じ、後に家族とともに洛陽に住んだ。王閎もまた劇に赴いて降伏した。

原文是時帝方北憂漁陽,南事梁、楚,故步得專集齊地,據郡十二。及劉永死,步等欲立永子紆爲天子,自爲定漢公,置百官。王閎諫曰:「梁王以奉本朝之故,是以山東頗能歸之。今尊立其子,將疑衆心。且齊人多詐,(汲黯目公孫弘之詞。)宜且詳之。」步乃止。五年,步聞帝將攻之,以其將費邑爲濟南王,屯歷下。冬,建威大將軍耿弇破斬費邑,進拔臨淄。步以弇兵少遠客,可一舉而取,乃悉將其衆攻弇於臨淄。步兵大敗,還奔劇。帝自幸劇。步退保平壽,(今青州北海縣也。)蘇茂將萬餘人來救之。茂讓步曰:「以南陽兵精,延岑善戰,而耿弇走之。大王柰何就攻其營?旣呼茂,不能待邪?」步曰:「負負,無可言者。」(負,愧也。再言之者,愧之甚。)帝乃遣使告步、茂,能相斬降者,封爲列侯。步遂斬茂,使使奉其首降。步三弟各自繫所在獄,皆赦之。封步爲安丘侯,後與家屬居洛陽。王閎亦詣劇降。

八年の夏、歩は妻子を連れて臨淮に逃げ込み、弟の弘と藍と共に旧来の配下を招集し、船で海に入ろうとしたが、琅邪太守の陳俊が追撃してこれを斬った。

原文八年夏,步將妻子逃奔臨淮,與弟弘、藍欲招其故衆,乘船入海,琅邪太守陳俊追擊斬之。

王閎

原文王閎

王閎は、王莽の叔父である平阿侯の王譚の子である。哀帝の時に中常侍となった。当時、寵臣の董賢が大司馬となり、寵愛されて権勢を極めていたが、閎はたびたび諫めて、帝の意に逆らった。哀帝が臨終の際、璽綬じじゅを董賢に渡して、「軽々しく人に与えるな」と言った。当時、国には後継ぎの君主がおらず、朝廷内外は恐れおののいていた。閎は元后(王政君)に申し出て、璽綬を取り戻すことを請うた。そして剣を帯びて宣徳殿の後ろの門まで行き、(《三輔黄図》によれば、未央宮に宣徳殿がある。闥は宮中の門である。)手を挙げて董賢を叱責して言った。「宮車(天子の車)がすでに止み(帝が崩御し)、国の後継ぎがまだ定まっていない。公は深く恩を受けており、ひれ伏して号泣すべきである。どうして長く璽綬を持ち続け、禍が来るのを待っているのか。」董賢は閎が必ず死を覚悟していると知り、敢えて拒むことができず、跪いて璽綬を渡した。閎はそれを持って太后に献上し、朝廷の人々はその勇気を称えた。王莽が帝位を簒奪した後、閎を畏れ憎んで、東郡太守として出向させた。閎は誅殺されることを恐れ、常に毒薬を手に握りしめていた。王莽が敗れ、漢の兵が起こると、閎はただ一人で東郡三十余万戸を完全に守り、更始に帰順した。

原文王閎者,王莽叔父平阿侯譚之子也,哀帝時爲中常侍。時倖臣董賢爲大司馬,寵愛貴盛,閎屢諫,忤旨。哀帝臨崩,以璽綬付賢曰:「無妄以與人。」時國無嗣主,內外恇懼,閎白元后,請奪之;即帶劔至宣德後闥,(《三輔黃圖》曰,未央宮有宣德殿。闥,宮中門也。)舉手叱賢曰:「宮車晏駕,國嗣未立,公受恩深重,當俯伏號泣,何事久持璽綬以待禍至邪!」賢知閎必死,不敢拒之,乃跪授璽綬。閎持上太后,朝廷壯之。及王莽篡位,僭忌閎,乃出爲東郡太守。閎懼誅,常繫藥手內。莽敗,漢兵起,閎獨完全東郡三十餘萬戶,歸降更始。

李憲

原文李憲

李憲は、潁川郡許昌県の人である。王莽の時に廬江属令となった。(王莽は各郡に属令を置き、その職務は都尉のようであった。)王莽の末年、江賊の王州公らが十余万の兵を起こして郡県を攻撃略奪したため、王莽は李憲を偏将軍・廬江連率に任じて、王州公を撃破させた。王莽が敗れると、李憲は郡を占拠して自ら守った。更始元年、自ら淮南王を称した。建武三年、ついに自ら天子を称し、公卿百官を置き、九つの城を擁し、兵十余万を有した。

原文李憲者,潁川許昌人也。王莽時爲廬江屬令。(王莽每郡置屬令,職如都尉。)莽末,江賊王州公等起衆十餘萬,攻掠郡縣,莽以憲爲偏將軍、廬江連率,擊破州公。莽敗,憲據郡自守。更始元年,自稱淮南王。建武三年,遂自立爲天子,置公卿百官,擁九城,衆十餘萬。

四年の秋、光武帝が寿春に行幸し、楊武将軍の馬成らを派遣して李憲を攻撃させ、舒県を包囲した。(廬江郡の舒県である。)六年正月に至って、これを陥落させた。李憲は逃げ走ったが、その軍士の帛意(帛は姓である。宋の帛産の後裔で、韓非子に見える。)が追いかけて李憲を斬り、降伏した。李憲の妻子は皆誅殺された。帛意は漁浦侯に封ぜられた。

原文四年秋,光武幸壽春,遣楊武將軍馬成等擊憲,圍舒。(廬江舒縣。)至六年正月,拔之。憲亡走,其軍士帛意(帛,姓也,宋帛產之後,見韓非子也。)追斬憲而降,憲妻子皆伏誅。封帛意漁浦侯。

その後も李憲の残党の淳于臨らがなおも数千人の兵を集め、灊山に駐屯し、安風県令を攻め殺した。(灊山、安豊はともに県名で、廬江郡に属する。灊県の故城は、今の寿州である。)揚州牧の欧陽歙が兵を派遣したが平定できず、帝は討伐を議した。廬江郡人の陳衆が従事としており、欧陽歙に申し出て、淳于臨を説得して降伏させることを請うた。(その意を理解させて降伏させることである。)そこで単車に乗り、白馬を駆って、説得に向かい、降伏させた。灊山の人々は共に生きることを喜び、祠を建てて、「白馬陳従事」と号したという。

原文後憲餘黨淳于臨等猶聚衆數千人,屯灊山,攻殺安風令。(灊山、安豐,皆縣名,屬廬江郡。灊縣故城,今壽州也。)楊州牧歐陽歙遣兵不能剋,帝議欲討之。廬江人陳衆爲從事,白歙請得喻降臨;(曉喻其意而降之也。)於是乘單車,駕白馬,往說而降之。灊山人共生爲立祠,號「白馬陳從事」云。

彭寵

原文彭寵

彭寵は字を伯通といい、南陽郡宛県の人である。父の彭宏は、哀帝の時に漁陽太守となり、容貌が立派で、酒食をよくし、(飯の音は扶遠の反切。)辺境に威を有していた。王莽が摂政の地位にあった時、自分に従わない者を誅殺し、彭宏は何武、鮑宣と共に殺害された。

原文彭寵字伯通,南陽宛人也。父宏,哀帝時爲漁陽太守,偉容貌,能飲飯,(飯音扶遠反。)有威於邊。王莽居攝,誅不附己者,宏與何武、鮑宣並遇害。

彭寵は若くして郡吏となり、地皇年間に大司空士となった。(王莽の時、九卿は三公に分属し、各卿ごとに元士三人を置いた。)王邑に従って東へ行き、漢軍を防いだ。洛陽に到着し、同腹の弟が漢軍の中にいると聞き、誅殺を恐れて、同郷の呉漢と共に漁陽に逃れ、父の時代の旧吏を頼った。(抵は帰る、頼るの意。)更始帝が即位すると、謁者の韓鴻を使者として節を持たせ、北州を巡行させ、(幽州、并州を指す。)詔命を受けて二千石以下の官を独自に任命する権限を与えた。韓鴻が薊に到着し、彭寵と呉漢がともに同郷の旧知であることから、互いに喜んで会い、すぐに彭寵を偏将軍に任じ、漁陽太守の職務を行わせ、呉漢を安楽県令に任じた。(安楽は県名で、漁陽郡に属する。故城は現在の幽州潞県の西北にある。)

原文寵少爲郡吏,地皇中,爲大司空士,(王莽時九卿分屬三公,每一卿置元士三人。)從王邑東拒漢軍。到洛陽,聞同產弟在漢兵中,懼誅,即與鄉人吳漢亡至漁陽,抵父時吏。(抵,歸也。)更始立,使謁者韓鴻持節徇北州,(謂幽、并也。)承制得專拜二千石已下。鴻至薊,以寵、漢並鄉閭故人,相見歡甚,即拜寵偏將軍,行漁陽太守事,漢安樂令。(安樂,縣名,屬漁陽郡,故城在今幽州潞縣西北也。)

光武帝が河北を鎮撫慰問し、薊に到着した時、書状を送って彭寵を招いた。彭寵は牛と酒を準備し、拝謁しようとした。ちょうど王郎が偽って帝を称し、檄を燕・趙に伝え、将軍を派遣して漁陽・上谷を巡行させ、急いでその兵を動員しようとしたため、北州の多くの者は疑い惑い、王郎に従おうとした。呉漢が彭寵を説得して光武帝に従わせた。その話は呉漢伝にある。ちょうど上谷太守の耿況も功曹の寇恂を彭寵のもとに派遣し、共に謀って光武帝に帰順することを結んだ。彭寵は歩兵と騎兵三千人を発し、呉漢を行長史とし、都尉の厳宣、護軍の蓋延、狐奴県令の王梁(狐奴は県名で、漁陽郡に属する。)と共に、上谷の軍と合流して南進し、広阿で光武帝と合流した。光武帝は詔命を受けて彭寵を建忠侯に封じ、大将軍の称号を賜った。そして邯鄲を包囲し、彭寵は食糧を輸送して、前後絶えることがなかった。

原文及光武鎮慰河北,至薊,以書招寵。寵具牛酒,將上謁。會王郎詐立,傳檄燕、趙,遣將徇漁陽、上谷,急發其兵,北州衆多疑惑,欲從之。吳漢說寵從光武,語在漢傳。會上谷太守耿況亦使功曹寇恂詣寵,結謀共歸光武。寵乃發步騎三千人,以吳漢行長史,及都尉嚴宣、護軍蓋延、狐奴令王梁,(狐奴,縣名,屬漁陽郡。)與上谷軍合而南,及光武於廣阿。光武承制封寵建忠侯,賜號大將軍。遂圍邯鄲,寵轉糧食,前後不絕。

王郎が死んだ後、光武帝が銅馬軍を追撃し、北へ進んで薊に至った。彭寵が拝謁に来たが、自らその功績を恃み、(負は恃むこと。)非常に大きな期待を抱いていた。光武帝が接遇してもその期待を満たすことができず、これによって不満を抱いた。(その意を満たすことができないので、心が平らかでないのである。)光武帝はこれを察知し、幽州牧の朱浮に尋ねた。朱浮は答えて言った。「以前、呉漢が北から兵を発する時、大王(光武帝)はご自身が佩用されていた剣を彭寵に与えられ、また北道の主人として頼りにされました。彭寵は、当然迎えられて閤で手を握り、共に喜び合って並んで座るものと思っていました。今、そうでないので、失望しているのです。」朱浮はさらに言った。「王莽が宰衡であった時、甄豊は朝夕入って謀議に加わり、当時の人は『夜半の客、甄長伯』と言いました。(長伯は甄豊の字である。甄豊は平帝の時に少府となり、王莽が帝位を簒奪した時は更始将軍であった。)王莽が帝位を簒奪した後、甄豊は不満を抱き、ついに誅殺されました。」光武帝は大笑いし、そこまでは行かないだろうと思った。帝位に即くと、呉漢と王梁は、いずれも彭寵が派遣した人物であったが、ともに三公となり、彭寵だけは何も加官されなかったので、ますます不満で志を得られなかった。嘆いて言った。「私の功績は王となるべきものである。このようであるのは、陛下が私をお忘れになったのか。」

原文及王郎死,光武追銅馬,北至薊。寵上謁,自負其功,(負,恃也。)意望甚焉,光武接之不能滿,以此懷不平。(不能滿其意,故心不平也。)光武知之,以問幽州牧朱浮。浮對曰:「前吳漢北發兵時,大王遺寵以所服劔,又倚以爲北道主人。寵謂至當迎閤握手,交歡並坐。今旣不然,所以失望。」浮因曰:「王莽爲宰衡時,甄豐旦夕入謀議,時人語曰『夜半客,甄長伯。』(長伯,豐字也。豐,平帝時爲少府,王莽篡位時爲更始將軍。)及莽篡位後,豐意不平,卒以誅死。」光武大笑,以爲不至於此。及即位,吳漢、王梁,寵之所遣,並爲三公,而寵獨無所加,愈怏怏不得志。歎曰:「我功當爲王;但爾者,陛下忘我邪?」

当時、北州は破壊され離散していたが、漁陽は比較的無事で、昔の塩鉄官があり、彭寵はそれらを利用して穀物と交換し、(貿は交換すること。)珍宝を蓄積し、ますます富強となった。朱浮と彭寵は仲が悪く、朱浮はたびたび讒言して彭寵を陥れた。建武二年の春、詔を下して彭寵を召還しようとした。彭寵は朱浮が自分を売り渡したと思い、上疏して朱浮とともに召還されることを願った。また呉漢、蓋延らに書状を送り、朱浮が自分を陥れた無実の罪状を詳しく述べ、(枉は自分を讒言した罪状である。)固くともに召還されることを求めた。帝は許さず、彭寵はますます疑念を深めた。その妻はもともと気性が強く、抑圧されて屈辱に耐えられず、固く召還を受けないよう勧めた。彭寵はまた、常に親信している官吏と計議したが、皆朱浮を怨んでおり、召還に従うよう勧める者はいなかった。帝は彭寵の従弟の子である后蘭卿を派遣して説得させたが、彭寵はかえって后蘭卿を留め置き、ついに兵を起こして反乱した。将帥を任命し、自ら二万余人を率いて薊で朱浮を攻撃し、兵を分けて広陽、上谷、右北平を巡行させた。また、自ら耿況とともに大きな功績がありながら、恩賞がともに薄いと考え、たびたび使者を派遣して耿況を誘い出そうとしたが、耿況は受け入れず、使者を斬った。

原文是時北州破散,而漁陽差完,有舊鹽鐵官,寵轉以貿穀,(貿,易也。)積珍寶,益富彊。朱浮與寵不相能,浮數譖搆之。建武二年春,詔徵寵,寵意浮賣己,上疏願與浮俱徵。又與吳漢、蓋延等書,盛言浮枉狀,(枉,譖己之狀也。)固求同徵。帝不許,益以自疑。而其妻素剛,不堪抑屈,固勸無受召。寵又與常所親信吏計議,皆懷怨於浮,莫有勸行者。帝遣寵從弟子后蘭卿喻之,寵因留子后蘭卿,遂發兵反,拜署將帥,自將二萬餘人攻朱浮於薊,分兵徇廣陽、上谷、右北平。又自以與耿況俱有重功,而恩賞並薄,數遣使要誘況,況不受,輒斬其使。

秋、帝は游撃将軍の鄧隆を派遣して薊を救援させた。鄧隆の軍は潞県の南に、朱浮の軍は雍奴に駐屯し、役人を派遣して状況を奏上した。帝が檄文を読んで、怒って使者の役人に言った。「両軍の陣営は百里も離れており、その勢いでどうして互いに救援できようか。お前が帰る頃には、(若は汝である。)北軍(鄧隆軍)は必ず敗れているだろう。」果たして彭寵は大軍を率いて河岸に臨んで鄧隆を防ぎ、また別に軽騎三千を派遣してその背後を襲撃し、鄧隆の軍を大破した。朱浮は遠く離れており、遂に救援できず、兵を引き去った。翌年の春、彭寵はついに右北平、上谷の数県を陥落させた。使者を派遣して美女や絹織物を匈奴に贈り賄賂し、和親を結ぼうとした。単于は左南将軍に七八千騎を与え、往来して遊撃兵として彭寵を助けさせた。また南では張歩および富平・獲索の諸豪傑と結び、皆と人質を交換し連衡した。(交質とは互いに人質を交換することである。《左伝》に「人質を交換して往来し、道路に妨げがない」とある。《前書音義》によれば、「利益によって結ぶのを従(縦)といい、威力によって脅し合うのを衡という。」)そしてついに薊城を攻め落とし、自ら燕王と称した。

原文秋,帝使游擊將軍鄧隆救薊。隆軍潞南,浮軍擁奴,遣吏奏狀。帝讀檄,怒謂使吏曰:「營相去百里,其勢豈可得相及?比若還,(若,汝也。)北軍必敗矣。」寵果盛兵臨河以拒隆,又別發輕騎三千襲其後,大破隆軍。浮遠,遂不能救,引而去。明年春,寵遂拔右北平、上谷數縣。遣使以美女繒綵賂遺匈奴,要結和親。單于使左南將軍七八千騎,往來爲游兵以助寵。又南結張步及富平獲索諸豪傑,皆與交質連衡。(交質謂交相爲質也。《左傳》曰:「交質往來,道路無壅。」《前書音義》曰:「以利合曰從,以威力相脅曰衡。」)遂攻拔薊城,自立爲燕王。

その妻はしばしば悪夢を見、また多くの怪異な変化を見た。占いや望気を行う者たちは皆、兵乱が内部から起こると言った。彭寵は子の后蘭卿が漢に人質として行き帰ってきたことを疑い、それゆえ彼らの言葉を信じず、后蘭卿に兵を率いて外に駐屯させ、内部に近づけなかった。建武五年の春、彭寵が斎戒し、便室に一人でいた時、下僕の子密ら三人が彭寵が眠っている隙に、共謀して彼を寝台に縛り付け、外の役人たちに「大王は斎戒中で、皆休ませよ」と告げた。偽って彭寵の命令として、奴婢たちを捕らえて縛り、それぞれ別の場所に置いた。また彭寵の命令と偽ってその妻を呼んだ。妻が入って来て、大いに驚いた。彭寵は急いで叫んだ。「早く諸将軍のために装束を整えよ。」そこで二人の奴隷が妻を連れて宝物を取りに行き、一人の奴隷を残して彭寵を見張らせた。彭寵は見張りの奴隷に言った。「お前は若い者で、私は普段から可愛がっていた。今は子密に脅迫されているだけだ。私の縄を解いてくれれば、娘の珠をお前に嫁がせ、家中の財産を全てお前にやろう。」小奴隷は解こうとしたが、戸外を見ると、子密がその話を聞いているのを見て、遂に解くことができなかった。そこで金玉や衣服を集め、彭寵のところに持ってきて荷造りし、六頭の馬に鞍を置き、妻に二つの絹の袋を縫わせた。夜が更けてから、彭寵の手を解き、城門将軍に告げる手紙を書かせた。「今、子密らを子の后蘭卿のところに遣わす。速やかに門を開けて出させ、留め置かないように。」手紙ができあがると、すぐに彭寵と妻の首を斬り、袋の中に入れ、手紙を持って城を馳せ出て、それを持って朝廷に赴き、不義侯に封じられた。翌朝、閣門が開かず、役人たちが塀を越えて入ると、彭寵の死体を見て驚き恐れた。その尚書の韓立らは共に彭寵の子の午を立てて王とし、子后蘭卿を将軍とした。国師の韓利が午の首を斬り、征虜将軍の祭遵のもとに赴いて降伏した。その宗族は滅ぼされた。

原文其妻數惡夢,又多見恠變,(《東觀記》曰:「夢臝袒冠幘,踰城,髡徒推之。」又「寵堂上聞蝦蟆聲在火罏下,鑿地求之,不得」也。)卜筮及望氣者皆言兵當從中起。寵疑子后蘭卿質漢歸,故不信之,使將兵居外,無親於中。五年春,寵齋,獨在便室。(便坐之室,非正室也。)蒼頭子密等三人因寵卧寐,共縛著牀,告外吏云:「大王齋禁,皆使吏休。」僞稱寵命敎,収縛奴婢,各置一處。又以寵命呼其妻。妻入,大驚。(《東觀記》曰:「妻入,驚曰:『奴反!』奴乃捽其妻頭,擊其頰。」)寵急呼曰:「趣爲諸將軍辦裝。」(呼奴爲將軍,欲其赦己也。)於是兩奴將妻入取寶物,留一奴守寵。寵謂守奴曰:「若小兒,我素愛也,今爲子密所迫劫耳。解我縛,當以女珠妻汝,家中財物皆與若。」小奴意欲解之,視戶外,見子密聽其語,遂不敢解。於是収金玉衣物,至寵所裝之,被馬六疋,使妻縫兩縑囊。昬夜後,解寵手,令作記告城門將軍云:「今遣子密等至子后蘭卿所,速開門出,勿稽留之。」(稽,停也。)書成,即斬寵及妻頭,置囊中,便持記馳出城,因以詣闕,封爲不義侯。明旦,閤門不開,官屬踰牆而入,見寵屍,驚怖。其尚書韓立等共立寵子午爲王,以子后蘭卿爲將軍。國師韓利斬午首,詣征虜將軍祭遵降。夷其宗族。

盧芳

原文盧芳

盧芳は字を君期といい、安定郡三水県の人で、左谷に住んでいた。王莽の時代、天下が皆漢の徳政を懐かしんだため、盧芳はこれに乗じて偽って武帝の曾孫の劉文伯を自称した。曾祖母は匈奴の谷蠡渾邪王の姉で、武帝の皇后となり、三人の子を生んだ。江充の乱に遭い、太子が誅殺され、皇后は連座して死罪となり、次男の次卿は長陵に逃れ、末子の回卿は左谷に逃れた。霍将軍が次卿を立て、回卿を迎えたが、回卿は出て来ず、左谷に住み着き、子の孫卿を生み、孫卿が文伯を生んだ。盧芳は常にこの話で安定地方を欺き惑わせた。王莽の末年、三水属国の羌胡と共に兵を起こした。更始帝が長安に入ると、盧芳を騎都尉に任命し、安定以西を鎮撫させた。

原文盧芳字君期,安定三水人也,居左谷中。(《續漢志》曰三水縣有左右谷,故城在今涇州安定縣南。)王莽時,天下咸思漢德,芳由是詐自稱武帝曾孫劉文伯。曾祖母匈奴谷蠡渾邪王之姊爲武帝皇后,生三子。遭江充之亂,太子誅,皇后坐死,中子次卿亡之長陵,小子回卿逃於左谷。霍將軍立次卿,迎回卿,回卿不出,因居左谷,生子孫卿,孫卿生文伯。常以是言誑惑安定間。王莽末,乃與三水屬國羌胡起兵。更始至長安,徵芳爲騎都尉,使鎮撫安定以西。

更始帝が敗れると、三水の豪傑たちが共に協議し、盧芳が劉氏の子孫であるから、宗廟を継ぐべきだとして、共に盧芳を上将軍・西平王に立てた。使者を遣わして西羌や匈奴と和親を結ばせた。単于は言った。「匈奴は本来漢と兄弟の約束を結んでいた。その後、匈奴が中衰し、呼韓邪単于が漢に帰順すると、漢は兵を発して擁護し、代々臣下を称した。今、漢もまた中絶し、劉氏が我がもとに帰って来た。やはり彼を立てて、私を尊び仕えさせよう。」そこで句林王に数千騎を率いさせて盧芳を迎えさせ、盧芳は兄の禽、弟の程と共に匈奴に入った。単于は遂に盧芳を漢帝に立てた。程を中郎将とし、胡騎を率いて安定に戻らせた。初め、五原郡の李興・随昱、朔方郡の田颯、代郡の石鮪・閔堪が、それぞれ兵を起こして将軍を自称していた。建武四年、単于は無樓且渠王を五原塞に遣わし、李興らと和親し、盧芳を漢の地に戻して帝とさせたいと李興に告げた。五年、李興と閔堪が兵を率いて単于の庭に赴き盧芳を迎え、共に塞内に入り、九原県を都とした。五原・朔方・雲中・定襄・雁門の五郡を掠め取り、守令を置き、胡と連合して兵を動かし、北方辺境を侵して苦しめた。

原文更始敗,三水豪傑共計議,以芳劉氏子孫,宜承宗廟,乃共立芳爲上將軍、西平王,(欲平定西方,故以爲號。)使使與西羌、匈奴結和親。單于曰:「匈奴本與漢約爲兄弟。(高祖時,與冒頓單于約爲兄弟。)後匈奴中衰,呼韓邪單于歸漢,漢爲發兵擁護,世世稱臣。(呼韓邪單于降漢,入朝,宣帝擁護,國內遂定。)今漢亦中絕,劉氏來歸我,亦當立之,令尊事我。」乃使句林王將數千騎迎芳,(句音古侯反。)芳與兄禽、弟程俱入匈奴。單于遂立芳爲漢帝。以程爲中郎將,將胡騎還入安定。初,五原人李興、隨昱,朔方人田颯,代郡人石鮪、閔堪,各起兵自稱將軍。建武四年,單于遣無樓且渠王入五原塞,(塞屬五原郡,因以爲名。)與李興等和親,告興欲令芳還漢地爲帝。五年,李興、閔堪引兵至單于庭迎芳,與俱入塞,都九原縣。(九原,縣名,故城在勝州銀山縣也。)掠有五原、朔方、雲中、定襄、鴈門五郡,並置守令,與胡通兵,侵苦北邊。

六年、盧芳の将軍の賈覧が胡騎を率いて代郡太守の劉興を撃ち殺した。盧芳は後に事件があってその五原太守の李興兄弟を誅殺し、その朔方太守の田颯と雲中太守の橋扈は恐れをなして盧芳に背き、郡を挙げて降伏した。光武帝は彼らに従前の通り職務を執らせた。後に大司馬の呉漢と驃騎大将軍の杜茂がたびたび盧芳を攻撃したが、いずれも勝利できなかった。十二年、盧芳は賈覧と共に雲中を攻撃したが、長く落とせず、その将の随昱が九原を留守にしていたが、盧芳を脅して降伏させようとした。盧芳は側近が外に付き、腹心が内で離反していることを知り、輜重を捨て、十数騎で匈奴に逃亡した。その配下は全て随昱に帰した。随昱は使者の程恂に従って朝廷に赴いた。随昱を五原太守に任命し、鐫胡侯に封じ、その弟の憲を武進侯とした。

原文六年,芳將軍賈覽將胡騎擊殺代郡太守劉興。芳後以事誅其五原太守李興兄弟,而其朔方太守田颯、雲中太守橋扈恐懼,叛芳,舉郡降,光武令領職如故。後大司馬吳漢、驃騎大將軍杜茂數擊芳,並不剋。十二年,芳與賈覽共攻雲中,乆不下,其將隨昱留守九原,欲脅芳降。芳知羽翼外附,心膂內離,遂棄輜重,與十餘騎亡入匈奴,其衆盡歸隨昱。昱乃隨使者程恂詣闕。拜昱爲五原太守,封鐫胡侯,(鐫謂琢鑿之,故以爲名。下有鐫羌侯,即其類。)昱弟憲武進侯。

十六年、盧芳は再び高柳に入って居住し、閔堪の兄の林を使者として降伏を請わせた。そこで盧芳を代王に立て、閔堪を代の相とし、林を代の太傅とし、絹二万匹を賜り、匈奴と和睦させて集結させた。盧芳は上疏して謝罪した。「臣盧芳は過って先帝の遺体を託されながら、辺境に捨てられました。社稷は王莽によって廃絶に遭い、これは子孫の憂いであり、共に誅伐すべきところでした。それゆえ西は羌戎と連合し、北は匈奴を懐柔しました。単于は旧徳を忘れず、一時的に擁立して救助してくれました。当時は兵乱が各地で起こっていました。臣は敢えて貪り望むところはなく、宗廟を奉じ、社稷を興立することを期しており、それゆえ長く僭称せんしょうして位に就き、十余年に及び、罪は万死に値します。陛下は聖徳高く明らかで、自ら衆賢を率い、海内は賓服し、恩恵は異なる風俗の地にまで及びます。親戚の縁故により、臣盧芳の罪を赦し、仁恩を加えて代王に封じ、北方の藩屏とさせてくださいました。重責に報いる術がなく、必ずや匈奴と和睦させ、全力を尽くして恩恵に背かぬよう努めます。謹んで天子の玉璽を奉り、朝廷を思っております。」詔で盧芳に来年の正月に朝見するよう返答した。その冬、盧芳が入朝し、南の昌平まで来た時、詔で止められ、翌年また朝見するよう命じられた。盧芳は途中から戻り、憂い恐れて再び背き、遂に反逆し、閔堪・閔林と数ヶ月にわたって攻撃し合った。匈奴が数百騎を遣わして盧芳と妻子を迎え出塞させた。盧芳は匈奴の中で十余年留まり、病死した。

原文十六年,芳復入居高栁,(高栁,縣名,故城在今雲州定襄縣。)與閔堪兄林使使請降。乃立芳爲代王,堪爲代相,林爲代太傅,賜繒二萬匹,因使和集匈奴。芳上疏謝曰:「臣芳過託先帝遺體,棄在邊陲。社稷遭王莽廢絕,以是子孫之憂,所宜共誅,故遂西連羌戎,北懷匈奴。單于不忘舊德,權立救助。是時兵革並起,往往而在。臣非敢有所貪覬,(覬,望也。)期於奉承宗廟,興立社稷,是以乆僭號位,十有餘年,罪宜萬死。陛下聖德高明,躬率衆賢,海內賔服,惠及殊俗。以胏附之故,(胏附,若肝胏相附著,猶言親戚也。)赦臣芳罪,加以仁恩,封爲代王,使備北藩。無以報塞重責,兾必欲和輯匈奴,(輯音才入反。郭景純云古「集」字。)不敢遺餘力,負恩貸。(負猶背也。)謹奉天子玉璽,思望闕庭。」詔報芳朝明年正月。其冬,芳入朝,南及昌平,(昌平,縣名,故城在今幽州昌平縣東南。)有詔止,令更朝明嵗。芳自道還,憂恐,乃復背叛,遂反,與閔堪、閔林相攻連月。匈奴遣數百萬騎迎芳及妻子出塞。芳留匈奴中十餘年,病死。

初め、安定属国の胡が盧芳と共に寇掠していたが、盧芳が敗れると、胡人は故郷に戻り、県官の徭役ようえきに苦しめられた。その中に駮馬少伯という者がおり、元来剛健で壮健であった。建武二十一年、遂に種族の人々を率いて反乱を起こし、匈奴と連合し、青山に屯聚した。そこで将兵長史の陳訢を派遣し、三千騎を率いてこれを撃たせると、少伯は降伏した。冀県に移住させた。

原文初,安定屬國胡與芳爲冦,及芳敗,胡人還鄉里,積苦縣官徭役,其中有駮馬少伯者,素剛壯;二十一年,遂率種人反叛,與匈奴連和,屯聚青山。(青山,在今慶州,有青山水。)乃遣將兵長史陳訢,(呂忱云:「訢,古『欣』字。」)率三千騎擊之,少伯乃降。徙於冀縣。(冀縣屬天水郡,今秦州伏羌縣。)

【史論】

原文【史論】

論者は言う。伝に「盛徳あれば必ず百世祀る」と称え、(『左伝』に晋侯が史趙に問うて言う、「陳は遂に滅びるだろうか」と。答えて言う、「まだです。臣は聞きます、盛徳あれば必ず百代祀られると。虞の代の数はまだ尽きていません」と。)孔子は「寛大であれば衆を得る」と言われた。衆の心を得ることができれば、百世忘れられることはない。更始の際を観るに、劉氏の遺した恩沢と残った功業に対して、英雄たちがどうして抗うことができようか。それならば、高祖や孝文帝の寛大で仁愛ある政治が、人々の心に深く結びついていたことが分かる。周の人々が邵公を思い、その甘棠の木を愛したように、(『詩』の序に言う、「甘棠は邵伯を美たたえるものである。邵伯が甘棠の木の下で訴訟を聴いたので、周の人々は彼を思い、その木を伐らなかった」と。)ましてやその子孫であればなおさらであろう。劉氏が再び天命を受けたのは、おそらくこのためではなかろうか。この数人の者たちは、どうして国家の遠大な計画を持っていただろうか。時勢の混乱に乗じて、ただ勝手気ままに振る舞っただけである。それでもなお、宗室に仮託し、強情に数年の間持ちこたえることができた。(掘強とは強梁のことである。『前書』に伍被が淮南王劉安に言う、「江淮の間に強情に立ち、かろうじて月日の命を延ばす」と。)その智略を観れば、確かに漢の高祖を畏れさせるには足りず、その英霊を奮い起こすほどのものではなかった。(この数人の者は漢の高祖の敵ではなく、英霊を奮い起こして畏れさせるには足りなかったという意味である。)

原文論曰:傳稱「盛德必百世祀」,(《左傳》晉侯問於史趙曰:「陳其遂亡乎?」對曰:「未也。臣聞盛德必百代祀,虞之代數未也。」)孔子曰「寬則得衆」。夫能得衆心,則百世不忘矣。觀更始之際,劉氏之遺恩餘烈,英雄豈能抗之哉!然則知高祖、孝文之寬仁,結於人心深矣。周人之思邵公,愛其甘棠,(《詩》序曰:「甘棠,美邵伯也。邵伯聽訟於甘棠之下,周人思之,不伐其樹。」)又況其子孫哉!劉氏之再受命,蓋以此乎!若數子者,豈有國之遠圖哉!因時擾攘,苟恣縱而已耳,然猶以附假宗室,能掘強歲月之間。(掘強謂強梁也。《前書》伍被謂淮南王安曰:「掘強江淮之間,苟延歲月之命。」)觀其智略,固無足以憚漢祖,發其英靈者也。(言此數子非漢祖之敵,不足奮發英靈而憚畏之也。)

賛に言う。天地が閉ざされ変革が起こり、(革は改めることである。『易』に「天地が閉ざされると、賢人は隠れる」と言い、また「天地が革まって四時が成り、湯や武が革命を起こすのは、天に順い人に応じるためである」と言う。)野で群龍が戦う。(英雄が一斉に立ち上がることを喩えている。『易』に「龍が野で戦い、その血は玄黄である」と言い、また「群龍に首領なし、吉なり」と言う。)劉昌や李芳は僭称し詐り、梁王劉永と斉王張歩は連合して鋒を交えた。彭寵は強固な地盤を頼み、(漁陽を拠点とした。)李憲は深い江に縛られた。(廬江で挙兵した。)まさに軍律に背き、(『易』に「師を出すには律による」と言う。律は法である。反乱は軍を用いる法に非ずと言う意味。)代わる代わる神聖な国を委ね捨てた。(反乱は用兵の法に適わないため、代わる代わる破滅し、その神聖な国を委ね捨て、光武帝に降伏したのである。)

原文贊曰:天地閉革,(革,改也,《易》曰:「天地閉,賢人隱。」又曰:「天地革而四時成,湯、武革命,順乎天而應乎人。」)野戰羣龍。(喻英雄並起也。《易》曰:「龍戰于野,其血玄黃。」又曰「羣龍無首,吉」也。)昌、芳僭詐,梁、齊連鋒。(梁王劉永,齊王張步。)寵負強地,(據漁陽也。)憲縈深江。(起廬江也。)實惟非律,代委神邦。(易曰:「師出以律。」律,法也。言反叛非用師之法,故更代破滅,委棄其神皐之國,伏於光武也。)