後漢書

巻11

巻11

皇后紀第十下

原文皇后紀第十下

劉玄 劉盆子 列傳第一

原文劉玄 劉盆子 列傳第一

王劉張李彭盧 列傳第二

原文王劉張李彭盧 列傳第二

劉玄

原文劉玄

更始帝

原文更始帝

劉玄は字あざなを聖公といい、光武帝の族兄である。(『爾雅』に、族父の子同士を族昆弟と呼ぶという。『帝王紀』に、舂陵戴侯熊渠が蒼梧太守利を生み、利が子張を生み、子張が平林の何氏の女を娶って更始を生んだという。)

原文劉玄字聖公,光武族兄也,〈《爾雅》曰:「族父之子相謂爲族昆弟。」《帝王紀》曰:「舂陵戴侯熊渠生蒼梧太守利,利生子張,納平林何氏女,生更始。」〉

弟が人に殺されたので、聖公は客を結集して復讐しようとした。客が法を犯し、(『続漢書』に、時に聖公が客を集め、家に酒があり、游徼を招いて飲ませたところ、賓客が酔って歌い、『朝に両都尉を煮て、游徼が後から来たので、調羹の味に用いよう』と言った。游徼は大いに怒り、縛って数百回捶ったという。)

原文弟爲人所殺,聖公結客欲報之。客犯法,〈《續漢書》曰:「時聖公聚客,家有酒,請游徼飲,賔客醉歌,言『朝亨兩都尉,游徼後來,用調羹味』。游徼大怒,縛捶數百。」〉

聖公は平林で役人から逃れた。役人は聖公の父の子張を捕らえた。聖公は死んだふりをし、人に喪を執り行わせて舂陵に帰らせたので、役人は子張を釈放し、聖公はそこで自ら逃げ隠れた。

原文聖公避吏於平林。吏繫聖公父子張。聖公詐死,使人持喪歸舂陵,吏乃出子張,聖公因自逃匿。

王莽の末、南方は飢饉となり、民衆は群れをなして野沢に入り、鳧茈を掘って食べ、互いに侵奪し合った。(『爾雅』に、芍は鳧茈であるという。郭璞に、田の中に生え、苗は龍鬚に似て細く、根は指の頭のようで黒く、食べられるという。芍の音は胡了の反。鳧茈は『続漢書』に「符訾」と作る。)

原文王莽末,南方飢饉,人庶羣入野澤,掘鳧茈而食之,更相侵奪。〈《爾雅》曰:「芍,鳧茈。」郭璞曰:「生下田中,苗似龍鬚而細,根如指頭,黑色,可食。」芍音胡了反。鳧茈,《續漢書》作「符訾」。〉

新市の人王匡と王鳳が争訟を公平に処理したので、遂に渠帥きょすいに推され、その衆は数百人であった。そこで諸亡命の馬武、王常、成丹らがこれに従った。共に離郷聚を攻め、緑林に潜伏した。(離郷聚」とは、諸々の郷聚が離散し、城郭から遠く離れたものをいう。大きいものを郷、小さいものを聚という。『前書』に「離郷を収め合せて大城の中に置く」とあるのが、その意味である。緑林は山であり、今の荊州当陽県の東北にある。)

原文新市人王匡、王鳳爲平理諍訟,遂推爲渠帥,衆數百人。於是諸亡命馬武、王常、成丹等往從之;共攻離鄉聚,臧於綠林中,〈離鄉聚謂諸鄉聚離散,去城郭遠者。大曰鄉,小曰聚。《前書》曰「收合離鄉置大城中」,即其義也。綠林,山,在今荊州當陽縣東北也。〉

数ヶ月の間に七、八千人にまでなった。

原文數月閒至七八千人。

地皇二年

原文地皇二年

(王莽の時代である。)

原文,〈王莽年也。〉

荊州牧の某(史書に名が欠けている。)

原文荊州牧某〈史闕名也。〉

奔命(緊急召集兵)二万人を発してこれを攻撃し、王匡らは相率いて雲杜で迎撃した。(雲杜は県名で、江夏郡に属し、故城は現在の復州沔陽県の西北にある。)

原文發奔命二萬人攻之,匡等相率迎擊於雲杜。〈雲杜,縣名,屬江夏郡,故城在今復州沔陽縣西北。〉

州牧の軍を大いに破り、数千人を殺し、輜重しちょうをことごとく鹵獲した。(『続漢書』によると、「州牧は北へ帰って随に至ろうとしたが、武らが再び遮ってこれを撃ち、州牧の車の屏泥に鉤をかけ、その驂乗を刺殺した。しかし州牧を殺すことは敢えてしなかった」という。)

原文大破牧軍,殺數千人,盡獲輜重,〈《續漢書》曰:「牧欲北歸隨,武等復遮擊之,鉤牧車屏泥,刺殺其驂乘,然不敢殺牧也。」〉

ついに竟陵を攻め落とした。(県名で、江夏郡に属し、故城は現在の郢州えいしゅう長寿県の南にある。)

原文遂攻拔竟陵。〈縣名,屬江夏郡,故城在今郢州長壽縣南。〉

転じて雲杜、安陸を攻撃した。(安陸は県で、江夏郡に属し、現在の安州県である。)

原文轉擊雲杜、安陸,〈安陸,縣,屬江夏郡,今安州縣也。〉

多くの婦女を略奪し、緑林の中に帰還した。その数は五万余口に至り、州郡はこれを制することができなかった。

原文多略婦女,還入綠林中,至有五萬餘口,州郡不能制。

三年、大規模な疫病が流行し、死者はほぼ半数に及び、そこでそれぞれ分散して去った。王常、成丹は西へ入って南郡に入り、下江兵と号した。王匡、王鳳、馬武およびその支党の朱鮪、張卬ら(『続漢書』では「卬」を「印」と作る。)

原文三年,大疾疫,死者且半,乃各分散引去。王常、成丹西入南郡,号下江兵;王匡、王鳳、馬武及其支黨朱鮪、張卬等〈續漢書「卬」作「印」。〉

北へ入って南陽に入り、新市兵と号した。皆、自ら将軍と称した。七月、王匡らは随を攻撃したが、落とすことができなかった。(随は県で、南陽郡に属し、現在の随州県である。)

原文北入南陽,號新市兵:皆自稱將軍。七月,匡等進攻隨,未能下。〈隨,縣,屬南陽郡,今隨州縣。〉

平林の人陳牧、廖湛(廖は音、力弔反。)

原文平林人陳牧、廖湛〈廖音力弔反。〉

再び千余人の衆を集め、平林兵と号し、これに応じた。聖公(劉玄)はこれに従って陳牧らのもとに行き、その軍の安集掾となった。(軍衆を安んじて集めさせようとしたので、仮にこの官名とした。)

原文復聚衆千餘人,號平林兵,以應之。聖公因徃從牧等,爲其軍安集掾。〈欲其安集軍衆,故權以爲官名。〉

この時、光武帝およびその兄の伯升(劉縯)もまた舂陵で挙兵し、諸部と合兵して進軍した。四年正月、王莽の前隊大夫甄阜、属正梁丘賜を破り、これを斬った。聖公を更始将軍と号した。衆は多いが統一するところがなく、諸将はついに共に議して更始を立てて天子とした。二月辛巳、淯水のほとりの砂中に壇場を設け、兵を陳べて大会を開いた。更始が帝位に即き、南面して立ち、群臣を朝見した。もともと懦弱で、羞愧して汗を流し、手を挙げても言葉を発することができなかった。ここにおいて天下に大赦を行い、建元して

原文是時光武及兄伯升亦起舂陵,與諸部合兵而進。四年正月,破王莽前隊大夫甄阜、屬正梁丘賜,斬之,號聖公爲更始將軍。衆雖多而無所統一,諸將遂共議立更始爲天子。二月辛巳,設壇場於淯水上沙中,陳兵大會。更始即帝位,南面立,朝羣臣。素懦弱,羞愧流汗,舉手不能言。於是大赦天下,建元曰

更始元年

原文更始元年

とした。諸将をことごとく拝して置き、族父の劉良を国三老とし、王匡を定国上公とし、王鳳を成国上公とし、朱鮪を大司馬とし、伯升を大司徒とし、陳牧を大司空とし、その他は皆、九卿、将軍とした。五月、伯升が宛を陥落させた。六月、更始は宛城に入って都とし、宗室および諸将をことごとく封じ、列侯となった者は百余人に及んだ。

原文。悉拜置諸將,以族父良爲國三老,王匡爲定國上公,王鳳成國上公,朱鮪大司馬,伯升大司徒,陳牧大司空,餘皆九卿、將軍。五月,伯升拔宛。六月,更始入都宛城,盡封宗室及諸將,爲列侯者百餘人。

更始は伯升の威名を忌み、ついにこれを誅殺し、光禄勲の劉賜を大司徒とした。前の鍾武侯劉望が兵を起こし、汝南をほぼ占領した。この時、王莽の納言将軍厳尤、秩宗将軍陳茂はすでに昆陽で敗れ、劉望のもとに帰った。八月、劉望はついに自立して天子となり、厳尤を大司馬とし、陳茂を丞相とした。王莽は太師王匡、国将哀章を派遣して洛陽を守らせた。(『風俗通』によると、「哀という姓は、魯の哀公の後裔で、諡号によって姓とした」という。)

原文更始忌伯升威名,遂誅之,以光祿勳劉賜爲大司徒。前鍾武侯劉望起兵,略有汝南。時王莽納言將軍嚴尤、秩宗將軍陳茂旣敗於昆陽,徃歸之。八月,望遂自立爲天子,以尤爲大司馬,茂爲丞相。王莽使太師王匡、國將哀章守洛陽。〈《風俗通》曰:「哀姓,魯哀公之後,因謚以爲姓。」〉

更始帝は定国上公の王匡を派遣して洛陽を攻撃させ、西屏大将軍の申屠建と丞相司直の李松を派遣して武関を攻撃させたため、三輔は震動した。この時、海内の豪傑たちは一斉に呼応し、皆それぞれの州牧や太守を殺害し、自ら将軍を称し、漢の年号を用いて詔命を待ち、十日から一ヶ月の間に、天下に広がった。

原文更始遣定國上公王匡攻洛陽,西屏大將軍申屠建、丞相司直李松攻武關,三輔震動。是時海內豪桀翕然響應,皆殺其牧守,自稱將軍,用漢年號,以待詔命,旬月之閒,徧於天下。

長安で兵を起こして未央宮を攻撃した。九月、東海の人公賔就が漸台で王莽を斬った。(『風俗通』に「公賔は姓である。魯の大夫公賔庚の後裔である」という。漸台は太液池の中の台である。水に浸潤されたため、これを名とした。)

原文長安中起兵攻未央宮。九月,東海人公賔就斬王莽於漸臺,〈《風俗通》曰:「公賔,姓也。魯大夫公賔庚之後。」漸臺,太液池中臺也。爲水所漸潤,故以爲名。〉

璽綬じじゅを収め、首を宛に伝送して届けた。更始帝は当時便坐の黄堂におり、それを受け取って見ると、喜んで言った。「王莽がこのようでなければ、霍光らと並ぶ存在だっただろう。」寵姫の韓夫人は笑って言った。「もしこのようでなければ、陛下はどうして帝位を得ることができたでしょうか?」更始帝は喜び、王莽の首を宛の市場に晒した。この月、洛陽を陥落させ、王匡と哀章を生け捕りにし、到着すると、皆斬った。十月、奮威大将軍の劉信を派遣して汝南で劉望を撃ち殺し、同時に厳尤と陳茂を誅殺した。更始帝はついに北進して洛陽を都とし、劉賜を丞相とした。申屠建と李松は長安から乗輿や服御の品々を運送し、また中黄門の従官を派遣して遷都を奉迎させた。二年二月、更始帝は洛陽から西へ向かった。出発の時、李松が先導を務めたが、馬が驚いて暴走し、北宮の鉄柱に衝突し、三頭の馬が皆死んだ。(『続漢書』に「馬の禍である。時に更始は道に失し、まさに滅びんとする兆しであった」という。)

原文收璽綬,傳首詣宛。更始時在便坐黃堂,取視之,喜曰:「莽不如是,當與霍光等。」寵姬韓夫人笑曰:「若不如是,帝焉得之乎?」更始恱,乃懸莽首於宛城市。是月,拔洛陽,生縛王匡、哀章,至,皆斬之。十月,使奮威大將軍劉信擊殺劉望於汝南,并誅嚴尤、陳茂。更始遂北都洛陽,以劉賜爲丞相。申屠建、李松自長安傳送乘輿服御,又遣中黃門從官奉迎遷都。二年二月,更始自洛陽而西。初發,李松奉引,馬驚奔,觸北宮鐵柱,三馬皆死。〈《續漢書》曰:「馬禍也。時更始失道,將亡之徵。」〉

当初、王莽が敗れた時、焼かれたのは未央宮だけで、その他の宮殿や館は一つも損なわれなかった。宮女数千人が後宮に整然と並び、鐘鼓、帷帳、輿輦、器服、太倉、武庫、官府、市里は、以前と変わらなかった。更始帝が到着すると、長楽宮に住み、前殿に昇ると、郎吏が順に庭中に並んだ。更始帝は恥ずかしさのあまり、うつむいて席をこすり、見上げようとしなかった。

原文初,王莽敗,唯未央宮被焚而已,其餘宮館一無所毀。宮女數千,備列後庭,自鍾鼓、帷帳、輿輦、器服、太倉、武庫、官府、市里,不改於舊。更始旣至,居長樂宮,升前殿,郎吏以次列庭中。更始羞怍,俛首刮席不敢視。〈怍,顏色變也。俛,俯也。〉

諸将で後から到着した者に対して、更始帝はどれだけ略奪したかを尋ねた。左右の侍官は皆、宮省に長く仕えた官吏たちで、互いに驚いて顔を見合わせた。

原文諸將後至者,更始問虜掠得幾何,左右侍官皆宮省乆吏,各驚相視。

李松と棘陽の人趙萌が更始帝に進言し、功臣をすべて王に封じるべきだと説いた。朱鮪がこれに反対し、高祖の約束である劉氏でなければ王にしないということを理由とした。更始帝はまず宗室の太常将軍劉祉を定陶王に、劉賜を宛王に、劉慶を燕王に、劉歙を元氏王に、大将軍劉嘉を漢中王に、劉信を汝陰王に封じた。その後、王匡を比陽王に、王鳳を宜城王に、朱鮪を膠東王に、衛尉大将軍張卬を淮陽王に、廷尉大将軍王常を鄧王に、執金吾大将軍廖湛を穰王に、申屠建を平氏王に、尚書胡殷を随王に、柱天大將軍李通を西平王に立てた。(西平は県であり、汝南郡に属し、旧城は今の豫州郾城県の南にある。)

原文李松與棘陽人趙萌說更始,宜悉王諸功臣。朱鮪爭之,以爲高祖約,非劉氏不王。更始乃先封宗室太常將軍劉祉爲定陶王,劉賜爲宛王,劉慶爲燕王,劉歙爲元氏王,大將軍劉嘉爲漢中王,劉信爲汝陰王;後遂立王匡爲比陽王,王鳳爲宜城王,朱鮪爲膠東王,衞尉大將軍張卬爲淮陽王,廷尉大將軍王常爲鄧王,執金吾大將軍廖湛爲穰王,申屠建爲平氏王,尚書胡殷爲隨王,柱天大將軍李通爲西平王,〈西平,縣,屬汝南郡,故城在今豫州郾城縣南也。〉

五威中郎将李軼を舞陰王に、水衡大将軍成丹を襄邑王に、大司空陳牧を陰平王にした。

原文五威中郎將李軼爲舞陰王,水衡大將軍成丹爲襄邑王,大司空陳牧爲陰平王,〈陰平,縣,屬廣漢國。〉

驃騎大将軍宋佻を潁陰王に、尹尊を郾王にした。ただ朱鮪だけが辞退して言った。「臣は劉氏の宗族ではないので、典制に干渉することはできません。」そして受け取ることを辞退した。そこで朱鮪を左大司馬に転任させ、劉賜を前大司馬とし、李軼、李通、王常らと共に関東を鎮撫させた。李松を丞相とし、趙萌を右大司馬とし、共に内政を担当させた。

原文驃騎大將軍宋佻爲潁陰王,尹尊爲郾王。唯朱鮪辭曰:「臣非劉宗,不敢干典。」遂讓不受。乃徙鮪爲左大司馬,劉賜爲前大司馬,使與李軼、李通、王常等鎮撫關東。以李松爲丞相,趙萌爲右大司馬,共秉內任。

更始帝は趙萌の娘を夫人として娶り、寵愛を受けたため、ついに政務を趙萌に委ね、日夜後宮で婦人たちと酒宴を開いた。群臣が事を奏上しようとしても、いつも酔っていて会うことができず、やむを得ない時は、侍中に帷の中に座らせて話をさせた。諸将はそれが更始帝の声ではないと気づき、退出すると皆怨んで言った。「成功するか失敗するかまだ分からないのに、こんなに早くから放縦にふけっているとは!」韓夫人は特に酒を好み、侍飲する時、常侍が奏上するのを見ると、いつも怒って言った。「皇帝はちょうど私と酒を飲んでいる最中だ。わざわざこの時に用件を持って来るのか!」立ち上がり、書案を叩き壊した。

原文更始納趙萌女爲夫人,有寵,遂委政於萌,日夜與婦人飲讌後庭。羣臣欲言事,輒醉不能見,時不得已,乃令侍中坐帷內與語。諸將識非更始聲,出皆怨曰:「成敗未可知,遽自縱放若此!」韓夫人尤嗜酒,每侍飲,見常侍奏事,輒怒曰:「帝方對我飲,正用此時持事來乎!」起,扺破書案。〈扺,擊也。〉

趙萌が権力を専断し、威福をほしいままにした。郎吏で趙萌の放縦ぶりを諫める者がいたが、更始帝は怒り、剣を抜いてその者を撃った。これ以来、敢えて言う者はなくなった。趙萌は私怨で侍中を引きずり下ろして斬ろうとした。更始帝が助命を請うたが、聞き入れなかった。当時、李軼と朱鮪は山東で勝手に命令を出し、王匡と張卬は三輔で横暴を働いた。彼らが授けた官爵は、皆、取るに足らない商人や小者、あるいは料理人や調理人で、多くは刺繍の上衣、錦の袴、襜褕、諸于しょりを着て、道中で罵詈雑言を浴びせた。(襜褕・諸于については『光武紀』に見える。『続漢志』に「時に智者はこれを見て、服が体に合わず、身の災いとなると考え、辺郡に奔って避けた。これは服の妖である。その後赤眉に殺された」という。)

原文趙萌專權,威福自己。郎吏有說萌放縱者,更始怒,拔劔擊之。自是無復敢言。萌私忿侍中,引下斬之,更始救請,不從。時李軼、朱鮪擅命山東,王匡、張卬橫暴三輔。其所授官爵者,皆羣小賈豎,或有膳夫庖人,多著繡面衣、錦袴、襜褕、諸于,罵詈道中。〈襜褕、諸于見《光武紀》。《續漢志》曰「時智者見之,以爲服之不中,身之災也,乃奔入邊郡避之。是服妖也。其後爲赤眉所殺」也。〉

長安ではこのような言葉が流行った。「竈の下で炊事をする者が中郎将。腐った羊の胃袋が騎都尉。腐った羊の頭が関内侯。」

原文長安爲之語曰:「竈下養,中郎將。爛羊胃,騎都尉。爛羊頭,關內侯。」〈《公羊傳》曰:「炊亨爲養。」〉

軍帥将軍の豫章の李淑が上書して諫言した。「今、賊寇をようやく誅滅したばかりで、王道の教化はまだ行われておらず、百官や有司はその職責を慎重にすべきです。三公は天上の台宿に応じ、九卿は下界の河海を包括するものです。(『春秋漢含孳』に「三公は天にあって三台となり、九卿は北斗となる。ゆえに三公は五岳に象り、九卿は河海に法り、二十七大夫は山陵に法り、八十一元士は谷阜に法り、合わせて帝の佐となり、以て綱紀を正す」という。)

原文軍帥將軍豫章李淑上書諫曰:「方今賊寇始誅,王化未行,百官有司宜慎其任。夫三公上應台宿,九卿下括河海,〈《春秋漢含孳》曰:「三公在天爲三台,九卿爲北斗,故三公象五岳,九卿法河海,二十七大夫法山陵,八十一元士法谷阜,合爲帝佐,以匡綱紀。」〉

ゆえに天の仕事を人が代わって行うのです。陛下が大業を定められたのは、下江兵や平林兵の勢力によるものでしたが、これはあくまで一時の救済策であり、安定した後に施行すべきものではありません。制度を改め、英俊をさらに招き、才能に応じて爵位を授け、王国を正すべきです。今、公卿の高位は皆軍功によるものであり、尚書のような顕官も凡庸な兵卒から出ています。亭長や賊捕りの役に立つ資質しかない者が、(漢の法では、十里に一亭を置き、亭に一長を置く。捕賊掾は、もっぱら盗賊を捕らえるものである。)

原文故天工人其代之。陛下定業,雖因下江、平林之埶,斯蓋臨時濟用,不可施之旣安。宜釐改制度,更延英俊,因才授爵,以匡王國。今公卿大位莫非戎陳,尚書顯官皆出庸伍,資亭長、賊捕之用,〈漢法,十里一亭,亭置一長。捕賊掾,專捕盜賊也。〉

輔佐して綱紀を維持する重任を担っているのです。名分と器物は、聖人が重んじるものです。今、重んじるものをふさわしくない者に与え、その者が万に一つの益をもたらし、教化を興し治世を実現することを望むのは、木に登って魚を求め、山に登って真珠を採るようなものです。(求める所が不当であれば、得ることはできない。孟子が梁恵王に答えて「あなたのなすところをもって、あなたの欲するところを求めるのは、なお木に縁って魚を求めるようなものである」といった。)

原文而當輔佐綱維之任。唯名與器,聖人所重。今以所重加非其人,望其毗益萬分,興化致理,譬猶緣木求魚,升山採珠。〈求之非所,不可得也。孟子對梁惠王曰:「以若所爲,求若所欲,猶緣木求魚。」〉

海内の人々はこれを見て、漢の国運を推し量る材料としています。臣は憎しみや嫉妬から進言するのではありません。ただ陛下のためにこの措置を惜しむのです。材木を台無しにし、美しい錦を傷つけるようなことは、最も考慮すべきことです。(『孟子』の梁恵王篇で、孟子が斉宣王に「大きな家を建てるには、まず工匠に大きな木材を探させ、工匠が良材を得れば王は喜んで任に堪えるとし、大工が削って小さくすれば王は怒って任に堪えないとする」と述べた故事、および『左伝』襄公三十一年で子産が子皮に「美しい錦を持ちながら、人に裁縫を学ばせない。大官・大邑は身を庇うものなのに、学ぶ者に裁縫させるのか。美しい錦ですら重んじるのに、ましてや官職を。刀を一度も握ったことのない者に人を宰割させれば、傷つくものが多い」と述べた故事を引く。)

原文海內望此,有以闚度漢祚。臣非有憎疾以求進也,但爲陛下惜此舉厝。敗材傷錦,所宜至慮。〈孟子謂齊宣王曰:「爲巨室,則必使工師求大木。工師得大木,則王喜,以爲能勝其任也。匠人斲而小之,則王怒,以爲不勝其任矣。」《左傳》子產謂子皮曰「子有美錦,不使人學製焉。大官大邑,身之所庇,而使學者製焉。其爲美錦,不亦重乎?未甞操刀而使之割,其傷實多」也。〉

ただ過去の誤りや虚妄の過ちを断ち切り、周の文王の時代のような立派な人材が多く集う美しさを盛んにしたいと思う。」(割は断つ意。《詩経》大雅に「立派な人材が多く集い、文王はこれによって安寧を得た」とある。)

原文惟割旣往謬妄之失,思隆周文濟濟之美。」〈割,絕也。《詩》大雅曰:「濟濟多士,文王以寧。」〉

更始帝は怒り、劉淑を詔獄に投獄した。これ以降、関中では人心が離反し、四方で怨みと反乱が起こった。諸将が出征する際、それぞれ勝手に牧守を任命し、州郡の管轄が交錯して、誰に従えばよいかわからなくなった。

原文更始怒,繫淑詔獄。自是關中離心,四方怨叛。諸將出征,各自專置牧守,州郡交錯,不知所從。

十二月、赤眉軍が西進して関中に入った。

原文十二月,赤眉西入關。

三年正月、平陵の方望が前の孺子劉嬰を立てて天子とした。初め、方望は更始帝の政治が乱れているのを見て、必ず敗れると見込み、安陵の弓林らに言った。「前の定安公劉嬰は、平帝の後継者であり、王莽が簒奪したとはいえ、かつて漢の君主であった。今、皆が劉氏こそ真の天子で、天命を改めて受けるべきだと言っている。共に大功を立てようと思うが、どうか。」弓林らはこれに同意し、長安で劉嬰を探し出し、臨涇に連れて行って皇帝に立てた。(臨涇は現在の涇州の県である。)

原文三年正月,平陵人方望立前孺子劉嬰爲天子。初,望見更始政亂,度其必敗,謂安陵人弓林等曰:「前定安公嬰,平帝之嗣,雖王莽篡奪,而甞爲漢主。今皆云劉氏真人,當更受命,欲共定大功,何如?」林等然之,乃於長安求得嬰,將至臨涇立之。〈今涇州縣也。〉

数千人の徒党を集め、方望を丞相、弓林を大司馬とした。更始帝は李松と討難将軍蘇茂らを派遣してこれを撃破し、皆を斬った。また蘇茂に弘農で赤眉軍を防がせたが、蘇茂軍は敗れ、千余人が死んだ。

原文聚黨數千人,望爲丞相,林爲大司馬。更始遣李松與討難將軍蘇茂等擊破,皆斬之。又使蘇茂拒赤眉於弘農,茂軍敗,死者千餘人。

三月、李松を派遣して朱鮪と合流させ、蓩郷で赤眉軍と戦わせた。(蓩は莫老反と読む。《字林》に「毒草である」とある。これによって地名とした。《続漢書》志によれば、弘農に蓩郷がある。《東観漢記》に「徐宣、樊崇らが弘農の枯樅山の下に入り、更始帝の将軍蘇茂と戦った。樊崇は北へ蓩郷に至り、転じて湖に至った」とある。湖は湖城県である。これによって言えば、その蓩郷はおそらく現在の虢州湖城県の間にある。)

原文三月,遣李松會朱鮪與赤眉戰於蓩鄉,〈蓩音莫老反。《字林》云:「毒草也。」因以爲地名。《續漢志》弘農有蓩鄉。《東觀記》曰:「徐宣、樊崇等入至弘農枯樅山下,與更始將軍蘇茂戰。崇北至蓩鄉,轉至湖。」湖即湖城縣也。以此而言,其蓩蓋在今虢州湖城縣之閒。〉

李松らは大敗し、軍を捨てて逃走し、三万余人が死んだ。

原文松等大敗,弃軍走,死者三萬餘人。

その時、王匡と張卬は河東を守っていたが、鄧禹に撃破され、長安に逃げ戻った。張卬は諸将と協議して言った。「赤眉軍は鄭や華陰の近くにおり、朝夕のうちに到着するだろう。今、長安だけを頼りにしているが、まもなく滅ぼされる。兵を率いて城中を略奪して富を蓄え、転戦して各地を攻め、東へ帰って南陽に入り、宛王らの兵を収集する方がよい。もし事が成就しなければ、また湖や池の中に入って賊となるだけだ。」申屠建、廖湛らは皆これに同意し、共に入って更始帝を説得した。更始帝は怒って応じず、誰も再び言う者はなかった。赤眉軍が劉盆子を立てると、更始帝は王匡、陳牧、成丹、趙萌を新豊に駐屯させ、李松に掫城に駐屯させた。(掫は子侯反と読む。《続漢書》志に「新豊に鴻門亭がある」とある。掫城はこれである。)

原文(段落全体)時王匡、張卬守河東,爲鄧禹所破,還奔長安。卬與諸將議曰:「赤眉近在鄭、華陰間,旦暮且至。今獨有長安,見滅不乆,不如勒兵掠城中以自富,轉攻所在,東歸南陽,收宛王等兵。事若不集,復入湖池中爲盜耳。」申屠建、廖湛等皆以爲然,共入說更始。更始怒不應,莫敢復言。及赤眉立劉盆子,更始使王匡、陳牧、成丹、趙萌屯新豐,李松軍掫,〈掫音子侯反。《續漢志》曰:「新豐有鴻門亭。」掫城即此也。〉

これによって赤眉軍を防がせた。(掫」の音は「子侯反」。「続漢志」に「新豊に鴻門亭がある」とあり、掫城とはすなわちこの地を指す。)

原文(段落全体)時王匡、張卬守河東,爲鄧禹所破,還奔長安。卬與諸將議曰:「赤眉近在鄭、華陰間,旦暮且至。今獨有長安,見滅不乆,不如勒兵掠城中以自富,轉攻所在,東歸南陽,收宛王等兵。事若不集,復入湖池中爲盜耳。」申屠建、廖湛等皆以爲然,共入說更始。更始怒不應,莫敢復言。及赤眉立劉盆子,更始使王匡、陳牧、成丹、趙萌屯新豐,李松軍掫,〈掫音子侯反。《續漢志》曰:「新豐有鴻門亭。」掫城即此也。〉

張卬、廖湛、胡殷、申屠建らは御史大夫の隗嚻と共謀し、立秋の日の貙膢の祭りの時に更始帝を挟み撃ちにしようとした。(《前書音義》に「貙は獣である。立秋の日に獣を祭る。王者もこの日に出猟し、宗廟の祭りに用いる」とある。冀州の北郡では八月の朝に飲食を作ることを膢といい、その俗語に「膢臘社伏」という。貙は丑于反と読む。膢は婁と読む。)

原文張卬、廖湛、胡殷、申屠建等與御史大夫隗嚻合謀,欲以立秋日貙膢時共劫更始,〈《前書音義》曰:「貙,獸。以立秋日祭獸。王者亦此日出獵,用祭宗廟。」兾州北郡以八月朝作飲食爲膢,其俗語曰「膢臘社伏」。貙音丑于反。膢音婁。〉

共に以前の計画を成し遂げようとした。侍中の劉能卿がこの謀略を知り、更始帝に告げた。更始帝は病気と称して出ず、張卬らを召し出した。張卬らは皆入ったが、更始帝は彼らを皆誅殺しようとし、ただ隗嚻だけが来なかった。更始帝は疑い深く、張卬ら四人に外廬で待つように命じた。張卬と廖湛、胡殷は変事があると疑い、遂に突き出て逃げ、申屠建だけが残ったので、更始帝は彼を斬った。張卬と廖湛、胡殷は兵を率いて東西の市を略奪した。日暮れ時に、門を焼いて侵入し、宮中で戦い、更始帝は大敗した。翌朝、更始帝は妻子と車騎百余りを連れ、東へ新豊の趙萌のもとに奔った。

原文俱成前計。侍中劉能卿知其謀,以告之。更始託病不出,召張卬等。卬等皆入,將悉誅之,唯隗嚻不至。更始狐疑,使卬等四人且待於外廬。卬與湛、殷疑有變,遂突出,獨申屠建在,更始斬之。卬與湛、殷遂勒兵掠東西市。昏時,燒門入,戰於宮中,更始大敗。明旦,將妻子車騎百餘,東奔趙萌於新豐。

更始帝はまた、王匡、陳牧、成丹が張卬らと共謀していると疑い、彼らを皆召し出した。陳牧と成丹が先に到着したので、即座に斬った。王匡は恐れ、兵を率いて長安に入り、張卬らと合流した。李松は更始帝のもとに戻り、趙萌と共に城内で王匡、張卬を攻撃した。連戦一か月余り、王匡らは敗走し、更始帝は長信宮に移り住んだ。(《三輔黄図》によれば、洛門から周廟門にかけて、その中に長信宮がある。)

原文更始復疑王匡、陳牧、成丹與張卬等同謀,乃並召入。牧、丹先至,即斬之。王匡懼,將兵入長安,與張卬等合。李松還從更始,與趙萌共攻匡、卬於城內。連戰月餘,匡等敗走,更始徙居長信宮。〈《三輔黃圖》曰,從洛門至周廟門,有長信宮在其中。〉

赤眉軍が高陵に到着すると、王匡らは迎えて降伏し、遂に連合して進軍した。更始帝は城を守り、李松を出撃させたが、敗れ、二千余人が死に、赤眉軍は李松を生け捕りにした。その時、李松の弟の李汎が城門校尉であった。赤眉軍は使者を遣わして彼に言った。「城門を開ければ、お前の兄を生かしておいてやる。」李汎は即座に門を開いた。九月、赤眉軍が城に入った。更始帝は単騎で逃げ、厨城門から出た。(《三輔黄図》によれば、洛城門を王莽が建子門と改称した。その内に長安厨官があるため、俗に厨城門と呼び、現在の長安故城北面の中門である。)

原文赤眉至高陵,匡等迎降之,遂共連兵而進。更始守城,使李松出戰,敗,死者二千餘人,赤眉生得松。時松弟汎爲城門校尉,赤眉使使謂之曰:「開城門,活汝兄。」汎即開門。九月,赤眉入城。更始單騎走,從厨城門出。〈《三輔黃圖》曰,洛城門,王莽改曰建子門,其內有長安厨官,俗名之爲厨城門,今長安故城北面之中門是也。〉

多くの婦女が後ろから連呼して言った。「陛下、降りて城に礼をなさるべきです!」更始帝は即座に下馬して拝礼し、再び馬に乗って去った。

原文諸婦女從後連呼曰:「陛下,當下謝城!」更始即下拜,復上馬去。

初め、侍中の劉恭は赤眉軍がその弟の盆子を立てたため、自ら詔獄に身を投じていた。更始帝の敗北を聞くと、出獄し、徒歩で従って高陵まで行き、伝舎に留まった。右輔都尉の厳本(「本」は、ある本では「平」、ある本では「丕」と作る。)

原文初,侍中劉恭以赤眉立其弟盆子,自繫詔獄;聞更始敗,乃出,步從至高陵,止傳舍。右輔都尉嚴本〈「本」,或作「平」,或作「丕」。〉

更始帝が赤眉軍に殺されることを恐れ、兵を率いて外におり、屯衛と称して実は彼を監禁していた。赤眉軍は文書を下して言った。「聖公(更始帝)が降伏するなら、長沙王に封じる。二十日を過ぎたら受け取らない。」更始帝は劉恭を遣わして降伏を請わせ、赤眉軍はその将軍の謝祿をやって彼を受け取らせた。十月、更始帝はついに謝祿に従い、肌脱ぎになって長楽宮に赴き、盆子に璽綬を奉った。赤眉軍は更始帝を座らせ、庭中に置き、殺そうとした。劉恭と謝祿が取りなしたが、叶わず、ついに更始帝を引き出した。劉恭が追いかけて叫んだ。「臣は誠に力尽きました。どうか先に死なせてください。」剣を抜いて自刎しようとしたので、赤眉軍の帥である樊崇らが急いで共に救い止め、ようやく更始帝を赦し、畏威侯に封じた。劉恭がさらに強く請願したので、ついに長沙王に封じられることになった。更始帝は常に謝祿の下に寄り添って住み、劉恭もまた彼を擁護した。

原文恐失更始爲赤眉所誅,將兵在外,號爲屯衛而實囚之。赤眉下書曰:「聖公降者,封長沙王。過二十日,勿受。」更始遣劉恭請降,赤眉使其將謝祿往受之。十月更始遂隨祿肉袒詣長樂宮,上璽綬於盆子。赤眉坐更始,置庭中,將殺之。劉恭、謝祿爲請,不能得,遂引更始出。劉恭追呼曰:「臣誠力極,請得先死。」拔劔欲自刎,赤眉帥樊崇等遽共救止之,乃赦更始,封爲畏威侯。劉恭復爲固請,竟得封長沙王。更始常依謝祿居,劉恭亦擁護之。

三輔の地は赤眉軍の暴虐に苦しみ、皆更始帝を哀れんだが、張卬らはこれを憂慮し、謝祿に言った。「今、諸営の長の多くは聖公を簒奪しようとしています。一旦彼を失えば、兵を合わせて貴公を攻め、自滅の道となります。」そこで謝祿は付き従う兵に命じて更始帝と共に郊外で馬を放牧させ、その機に縊り殺させた。劉恭は夜にその屍を収めて葬った。光武帝はこれを聞いて悲しみ、大司徒の鄧禹に詔して彼を覇陵に葬らせた。

原文三輔苦赤眉暴虐,皆憐更始,而張卬等以爲慮,謂祿曰:「今諸營長多欲篡聖公者。一旦失之,合兵攻公,自滅之道也。」於是祿使從兵與更始共牧馬於郊下,因令縊殺之。劉恭夜往收臧其屍。光武聞而傷焉,詔大司徒鄧禹葬之於霸陵。

三人の子があった。求、歆、鯉である。翌年の夏、求兄弟は母と共に東の洛陽に赴き、帝は求を襄邑侯に封じて更始帝の祭祀を奉らせ、歆を穀孰侯に、鯉を寿光侯に封じた。求は後に成陽侯に転封された。求が没すると、子の巡が嗣ぎ、さらに灌沢侯に転封された。(襄邑は即ち春秋の襄牛の地であり、今は県で、宋州の西にある。穀孰は県で、梁国に属し、宋州の東南にある。寿光は県で、北海郡に属し、今の青州の県である。灌沢は県で、今の沢州の県であり、故に転封と言う。)

原文有三子:求,歆,鯉。明年夏,求兄弟與母東詣洛陽,帝封求爲襄邑侯,奉更始祀;歆爲穀孰侯,鯉爲壽光侯。求後徙封成陽侯。求卒,子巡嗣,復徙封灌澤侯。〈襄邑即春秋襄牛地也,今爲縣,在宋州西。穀孰,縣,屬梁國,在宋州東南。壽光,縣,屬北海郡,今青州縣也。灌澤,縣,今澤州縣,故曰徙封。〉

巡が没すると、子の姚が嗣いだ。

原文巡卒,子姚嗣。

論じて言う。周の武王が孟津で兵を閲し、退いて師を還したのは、紂を伐つにはまだ時が至っていないと考えたからである。(『史記』に言う。武王が即位し、太公望を師とし、周公旦を輔佐とし、召公・畢公の徒が王師の左右にあり、東に孟津で兵を閲した。時に諸侯で期せずして会した者が八百あり、皆言った。「紂を伐つべきです。」武王は言った。「まだできない。」そこで師を還した。)

原文論曰:周武王觀兵孟津,退而還師,以爲紂未可伐,斯時有未至者也。〈《史記》曰,武王即位,太公望爲師,周公旦爲輔,召公、畢公之徒左右王師,東觀兵孟津。時諸侯不期而會者八百,皆曰:「紂可伐矣。」武王曰:「未可。」乃還師。〉

漢が興り、軽佻で狡猾な烏合の衆を駆り立て、(軽黠とは軽鋭で傑出して狡猾な者を言う。烏合とは烏の群れが合うようなもの。)

原文漢起,驅輕黠烏合之衆,〈輕黠謂輕銳傑黠也。烏合如烏鳥之羣合也。〉

天下の一万分の一にも満たないのに、旌旗の指し向かうところ、(撝は麾と同じ。)

原文不當天下萬分之一,而旌旃之所撝及,〈撝與麾同。〉

文書の通じる届くところ、戈を折り額を地に付けて、職命を受けることを争わない者はなかった。ただ漢人の残した恩徳によるだけでなく、まさにまた時運の巡り合わせでもあった。権謀の首魁となる者は、災いを免れないことが多い。(『左伝』に「禍を始めるな」とある。『前書』に「権謀の首魁となるな、将にその咎を受けん」とある。)

原文書文之所通被,莫不折戈頓顙,爭受職命。非唯漢人餘思,固亦幾運之會也。夫爲權首,鮮或不及。〈《左傳》曰:「無始禍。」《前書》曰:「無爲權首,將受其咎。」〉

陳勝・項羽でさえまだ興らなかったのに、まして凡庸な者においてをや。

原文陳、項且猶未興,況庸庸者乎!

劉盆子

原文劉盆子

劉盆子

原文劉盆子

劉盆子は、太山郡式県の人であり、(式は県の名。中興後に県は廃止された。)

原文劉盆子者,太山式人,〈式,縣名,中興縣廢。〉

城陽景王劉章の後裔である。(章は高帝の孫の朱虚侯である。)

原文城陽景王章之後也。〈章,高帝孫朱虛侯也。〉

祖父の劉憲は、元帝の時に式侯に封ぜられ、父の劉萌がこれを継いだ。王莽が帝位を簒奪すると、封国は除かれ、それゆえに式県の人となった。

原文祖父憲,元帝時封爲式侯,父萌嗣。王莽篡位,國除,因爲式人焉。

天鳳元年、

原文天鳳元年

琅邪郡海曲県に呂母という者がいた。彼女の子は県の役人であったが、小さな罪を犯し、県令がこれを死刑に処した。(海曲は県名で、旧城は密州莒県の東にある。「続漢書」に「呂母の子の名は育、游徼となり、罪を犯した」とある。)

原文,琅邪海曲有呂母者,子爲縣吏,犯小罪,宰論殺之。〈海曲,縣名,故城在密州莒縣東。《續漢書》曰「呂母子名育,爲游徼,犯罪」也。〉

呂母は県令を怨み、密かに客を集め、仇を討つことを計画した。呂母の家はもともと豊かで、財産は数百万あった。そこでさらに醇酒を醸造し、刀剣や衣服を買い求めた。若者が酒を買いに来ると、皆に掛け売りで与え、困窮している者を見れば、衣服を貸し与え、その多少を問わなかった。数年後、財産が次第に尽きると、若者たちは一緒に返済しようとした。呂母は涙を流して言った。「私が諸君を厚遇したのは、利益を求めるためではなく、ただ県令が道理に外れ、我が子を不当に殺したので、その怨みを晴らしたいだけなのです。諸君はどうか哀れんでくれませんか。」若者たちはその志に感銘を受け、また日頃から恩を受けていたので、皆承諾した。その中の勇士は自ら猛虎と号した。(東観記」に「賓客の徐次子らは自ら『搤虎』と号した」とある。「搤」の音は「於責反」で、力で虎を搤(つか)むことをいい、その勇猛さを表す。今は「猛」の字を用いるが、「搤」と「猛」は字形が似ているためである。)

原文呂母怨宰,密聚客,規以報仇。母家素豐,貲產數百萬,乃益釀醇酒,買刀劔衣服。少年來酤者,皆賒與之,視其乏者,輒假衣裳,不問多少。數年,財用稍盡,少年欲相與償之。呂母垂泣曰:「所以厚諸君者,非欲求利,徒以縣宰不道,枉殺吾子,欲爲報怨耳。諸君寧肯哀之乎!」少年壯其意,又素受恩,皆許諾。其中勇士自号猛虎,〈《東觀記》曰:「賔客徐次子等自號『搤虎』。」搤音於責反,力可搤虎,言其勇也。今爲「猛」字,「搤」與「猛」相類也。〉

こうして数十人から百人ほどが集まり、呂母と共に海に入り、逃亡者を招き集めた。その数は数千人にまでなった。呂母は自ら将軍と称し、兵を率いて引き返し海曲を攻め落とし、県令を捕らえた。役人たちが頭を地に叩きつけて県令の助命を請うた。呂母は言った。「我が子は小さな罪を犯しただけで、死に当たるものではなかったのに、県令に殺された。人を殺した者は死すべきであり、また何を請うことがあろうか。」こうして県令を斬り、その首を子の墓に供え、再び海の中に戻った。

原文遂相聚得數十百人,因與呂母入海中,招合亡命,衆至數千。呂母自稱將軍,引兵還攻破海曲,執縣宰。諸吏叩頭爲宰請。母曰:「吾子犯小罪,不當死,而爲宰所殺。殺人當死,又何請乎?」遂斬之,以其首祭子冢,復還海中。

数年後、琅邪郡の人樊崇が莒県で兵を起こした。

原文後數歲,琅邪人樊崇起兵於莒,〈《東觀記》曰:「樊崇字細君。」〉

その衆は百余人で、太山に転じ、自ら三老と号した。当時、青州・徐州で大飢饉が起こり、賊が蜂起ほうきした。多くの盗賊は樊崇の勇猛さに惹かれ、皆これに付き従い、一年の間に一万人余りにまでなった。樊崇と同じ郡の出身者である逄安、東海郡の出身者である徐宣、謝祿、楊音が、(東観記」に「逄」の音は「龐」。安の字は少子、東莞の人。徐宣の字は驕稚、謝禄の字は子奇、いずれも東海臨沂の人であると記す。)

原文衆百餘人,轉入太山,自號三老。時青、徐大飢,寇賊蜂起,衆盜以崇勇猛,皆附之,一歲閒至萬餘人。崇同郡人逄安,東海人徐宣、謝祿、楊音,〈《東觀記》曰「逄」,音龐。安字少子,東莞人也。徐宣字驕稚,謝祿字子竒,皆東海臨沂人也。〉

それぞれ兵を起こし、数万人を集め、さらに樊崇に従った。共に引き返して莒県を攻めたが、落とせず、転じて姑幕まで略奪を繰り広げ、(姑幕は県名で、旧城は今の密州莒県の東北にあり、古の薄姑氏の国である。)

原文各起兵,合數萬人,復引從崇。共還攻莒,不能下,轉掠至姑幕,〈姑幕,縣名,故城在今密州莒縣東北,古薄姑氏之國。〉

そこで王莽の探湯侯田況を攻撃し、

原文因擊王莽探湯侯田況,〈王莽改北海益縣曰探湯。〉

これを大破し、一万余人を殺害した。こうして北へ青州に入り、通過する地で略奪を行った。太山に戻り、南城に留まって駐屯した。(南城は県で、東海郡に属し、南城山があり、それに因んで名とした。)

原文大破之,殺萬餘人,遂北入青州,所過虜掠。還至太山,留屯南城。〈南城,縣,屬東海郡,有南城山,因以爲名也。〉

当初、樊崇らは困窮のために賊となったのであり、城を攻め地を奪う計画はなかった。衆が次第に盛んになると、互いに約束を定めた。人を殺した者は死に、人を傷つけた者はその傷を償う。言葉で規律を定め、文書や旌旗、部曲ぶきょく、号令はなかった。その中で最も尊い者は三老と号し、次が従事、次が卒吏で、互いに広く臣人と呼び合った。王莽は平均公廉丹と太師王匡を派遣してこれを討った。樊崇らは戦おうとしたが、自らの衆が王莽の兵と混同されることを恐れ、皆眉を朱色に染めて互いに識別できるようにした。これによって赤眉と号した。赤眉は廉丹・王匡の軍を大破し、一万余人を殺害し、無塩まで追撃した。

原文初,崇等以困窮爲寇,無攻城徇地之計。衆旣寖盛,乃相與爲約:殺人者死,傷人者償創。以言辭爲約束,無文書、旌旗、部曲、號令。其中最尊者號三老,次從事,次卒吏,汎相稱曰臣人。王莽遣平均公廉丹、太師王匡擊之。崇等欲戰,恐其衆與莽兵亂,乃皆朱其眉以相識別,由是號曰赤眉。赤眉遂大破丹、匡軍,殺萬餘人,追至無鹽,〈無鹽,縣名,故城在今鄆州須昌縣東。〉

廉丹は戦死し、王匡は逃走した。樊崇はさらにその兵十余万を率い、再び引き返して莒県を包囲したこと数か月。ある者が樊崇に言った。「莒は父母の国である。どうしてこれを攻めるのか。」そこで包囲を解いて去った。この時、呂母は病死し、その衆は赤眉、青犢、銅馬の中に分かれて入った。赤眉は東海郡を寇し、王莽の沂平大尹と戦い、

原文廉丹戰死,王匡走。崇又引其兵十餘萬,復還圍莒,數月。或說崇曰:「莒,父母之國,柰何攻之?」乃解去。時呂母病死,其衆分入赤眉、青犢、銅馬中。赤眉遂寇東海,與王莽沂平大尹戰,〈王莽改東海郡曰沂平,以郡守爲大尹。〉

敗北し、数千人が死んだ。そこで引き揚げ、楚、沛、汝南、潁川を掠め、陳留に戻り、魯城を攻め落とし、転じて濮陽に至った。

原文敗,死者數千人,乃引去,掠楚、沛、汝南、潁川,還入陳留,攻拔魯城,轉至濮陽。

ちょうど更始帝が洛陽に都を置き、使者を派遣して樊崇を降伏させようとした。樊崇らは漢室が再興されたと聞き、すぐにその兵を留め置き、自ら将帥二十余人を率いて使者に従い洛陽に至り、更始帝に降伏した。皆列侯に封ぜられた。樊崇らはまだ封国を持たず、留め置いた衆が次第に離反したので、ついに逃亡して自らの陣営に帰り、兵を率いて潁川に入った。その衆を二部に分け、樊崇と逄安が一部、徐宣、謝祿、楊音が一部となった。樊崇と逄安は長社を攻め落とし、南へ宛を攻撃して県令を斬った。一方、徐宣、謝祿らも陽翟を攻め落とし、梁県に進軍し、

原文會更始都洛陽,遣使降崇。崇等聞漢室復興,即留其兵,自將渠帥二十餘人,隨使者至洛陽降更始,皆封爲列侯。崇等即未有國邑,而留衆稍有離叛,乃遂亡歸其營,將兵入潁川,分其衆爲二部,崇與逄安爲一部,徐宣、謝祿、楊音爲一部。崇、安攻拔長社,南擊宛,斬縣令;而宣、祿等亦拔陽翟,引之梁,〈今汝州梁縣也。〉

河南太守を撃ち殺した。赤眉の衆は数度戦いに勝ったが、疲弊し戦争に倦んでいた。

原文擊殺河南太守。赤眉衆雖數戰勝,而疲敝厭兵,〈厭,倦。〉

皆、日夜愁いて泣き、東に帰ろうとばかり思っていた。樊崇らは計議し、大衆が東に向かえば必ず散り散りになることを憂慮し、長安を西から攻める方が良いと考えた。

原文皆日夜愁泣,思欲東歸。崇等計議,慮衆東向必散,不如西攻長安。

更始二年

原文更始二年

冬、樊崇と逄安は武関から、徐宣らは陸渾関から、〈武関は現在の商州上洛県の東にある。河図括地象に「武関山は地門となり、上は天斉星となる」とある。《前漢書》によれば陸渾県に関があり、現在の洛州伊闕県の西南にある。〉

原文冬,崇、安自武關,宣等從陸渾關,〈武關在今商州上洛縣東。河圖括地象曰:「武關山爲地門,上爲天齊星。」《前書》曰陸渾縣有關,在今洛州伊闕縣西南。〉

二つの道からともに侵入した。三年正月、ともに弘農に到着し、更始帝の諸将と連戦して勝利し、軍勢はついに大いに集結した。そこで一万人を一つの営とし、合わせて三十営とし、各営に三老と從事をそれぞれ一人ずつ置いた。進軍して華陰に至った。

原文兩道俱入。三年正月,俱至弘農,與更始諸將連戰剋勝,衆遂大集。乃分萬人爲一營,凡三十營,營置三老、從事各一人。進至華陰。

軍中には常に斉の巫が鼓舞して城陽景王を祠り、福と助けを求めた。〈彼が諸呂を平定し、社稷を安んじたので、郡国は多く彼のために祠を建てた。劉盆子はその末裔を継いでいるので、軍中で彼を祠ったのである。〉

原文軍中常有齊巫鼓舞祠城陽景王,以求福助。〈以其定諸呂,安社稷,故郡國多爲立祠焉。盆子承其後,故軍中祠之。〉

巫が狂言を吐き、景王が大いに怒って言うには、「天子となるべきなのに、どうして賊となるのか?」〈県官とは天子を指す。〉

原文巫狂言景王大怒,曰:「當爲縣官,何故爲賊?」〈縣官謂天子也。〉

巫を笑う者がいるとすぐに病気になり、軍中は驚き動揺した。当時、方望の弟の方陽は、更始帝がその兄を殺したことを怨み、そこで樊崇らを迎えて説いて言った。「更始帝は荒淫で乱れており、政令が行われていないので、将軍がここまで来ることができたのです。今、将軍は百万の軍勢を擁し、西に向かって帝城を目指していますが、称号がなく、群賊と呼ばれており、長くは続きません。宗室を立てて、大義を掲げて誅伐する方が良いでしょう。これをもって号令すれば、誰が服さないことがありましょうか?」樊崇らはその通りだと思ったが、巫の言葉はますます激しくなった。前進して鄭に至り、〈現在の華州県。〉

原文有笑巫者輒病,軍中驚動。時方望弟陽怨更始殺其兄,乃逆說崇等曰:「更始荒亂,政令不行,故使將軍得至於此。今將軍擁百萬之衆,西向帝城,而無稱號,名爲羣賊,不可以乆。不如立宗室,挾義誅伐。以此號令,誰敢不服?」崇等以爲然,而巫言益甚。前及鄭,〈今華州縣。〉

そこで互いに議して言った。「今、長安に迫っているが、鬼神がこのように言うのであれば、劉氏を求めて共に尊び立てるべきだ。」六月、ついに劉盆子を皇帝に立て、自ら年号を

原文乃相與議曰:「今迫近長安,而鬼神如此,當求劉氏共尊立之。」六月,遂立盆子爲帝,自號

建世元年

原文建世元年

と称した。

原文(段落全体)初,赤眉過式,掠盆子及二兄恭、茂,皆在軍中。恭少習尚書,略通大義。及隨崇等降更始,即封爲式侯。以明經數言事,拜侍中,從更始在長安。盆子與茂留軍中,屬右校卒吏劉俠卿,主芻牧牛,號曰牛吏。及崇等欲立帝,求軍中景王後者,得七十餘人,唯盆子與茂及前西安侯劉孝最爲近屬。崇等議曰:「聞古天子將兵稱上將軍。」乃書札爲符曰「上將軍」,又以兩空札置笥中,〈札,簡也。笥,篋也。〉

初め、赤眉軍が式県を通り過ぎた時、劉盆子と二人の兄の劉恭、劉茂を掠奪し、皆軍中にいた。劉恭は若い頃から尚書を学び、大義をほぼ通暁していた。樊崇らに従って更始帝に降伏すると、すぐに式侯に封ぜられた。経書に明るく、たびたび事を言上したので、侍中に任ぜられ、更始帝に従って長安にいた。劉盆子と劉茂は軍中に留まり、右校の卒吏である劉俠卿に属し、飼料を刈り牛を飼うことを主管し、牛吏と呼ばれた。樊崇らが皇帝を立てようとした時、軍中で城陽景王の後裔を求め、七十余人を得たが、劉盆子と劉茂、および前の西安侯劉孝が最も近い縁戚であった。樊崇らは議して言った。「聞くところによると、古の天子は兵を率いる時、上将軍と称したという。」そこで木札に符として「上将軍」と書き、また二枚の空白の札を笥の中に置いた。〈札は木簡。笥は箱。〉

原文(段落全体)初,赤眉過式,掠盆子及二兄恭、茂,皆在軍中。恭少習尚書,略通大義。及隨崇等降更始,即封爲式侯。以明經數言事,拜侍中,從更始在長安。盆子與茂留軍中,屬右校卒吏劉俠卿,主芻牧牛,號曰牛吏。及崇等欲立帝,求軍中景王後者,得七十餘人,唯盆子與茂及前西安侯劉孝最爲近屬。崇等議曰:「聞古天子將兵稱上將軍。」乃書札爲符曰「上將軍」,又以兩空札置笥中,〈札,簡也。笥,篋也。〉

そこで鄭の北に壇場を設け、城陽景王を祠った。諸三老、從事は皆、階下に大いに集まり、劉盆子ら三人を中央に立たせ、年齢順に札を探らせた。劉盆子が最も幼く、後に探って符を得たので、諸将は皆、臣として拝礼した。劉盆子は当時十五歳で、髪を振り乱し裸足で、ぼろぼろの衣に赤土色の汗をかき、大衆が拝礼するのを見て、恐れおののき泣き出そうとした。劉茂が言った。「符をよくしまっておけ。」劉盆子はすぐにかみ切って捨て、再び劉俠卿のもとに戻って頼った。劉俠卿が彼のために深紅色の単衣、半頭の赤い幘さく、〈幘は頭巾で、いわゆる髻を覆うものである。《続漢書》に「童子の幘には屋がなく、成人していないことを示す」とある。半頭の幘とは空頂の幘のことで、その上に屋がないので、この名がある。董仲舒の《繁露》に「赤統を以てする者は、幘は赤を尚ぶ」とある。劉盆子は漢の統を継いでいるので、赤を用いたのである。東宮故事に「太子に空頂の幘一枚あり」とある。これが半頭の幘の制である。〉

原文遂於鄭北設壇場,祠城陽景王。諸三老、從事皆大會陛下,列盆子等三人居中立,以年次探札。盆子最幼,後探得符,諸將乃皆稱臣拜。盆子時年十五,被髮徒跣,敝衣赭汗,見衆拜,恐畏欲啼。茂謂曰:「善藏符。」盆子即齧折棄之,復還依俠卿。俠卿爲制絳單衣、半頭赤幘、〈幘巾,所謂覆髻也。《續漢書》曰:「童子幘無屋,示未成人也。」半頭幘即空頂幘也,其上無屋,故以爲名。董仲舒《繁露》曰:「以赤統者,幘尚赤。」盆子承漢統,故用赤也。東宮故事曰:「太子有空頂幘一枚。」即半頭幘之製也。〉

直綦の履、〈綦は履の文様である。おそらくその文様を直に刺して飾りとしたのであろう。〉

原文直綦履,〈綦,履文也。蓋直刺其文以爲飾也。〉

軒車と大馬に乗り、赤い屏泥、〈赤い屏泥とは、緹油で軾の前に屏泥を施したものをいう。〉

原文乘軒車大馬,赤屏泥,〈赤屏泥謂以緹油屏泥於軾前。〉

深紅色の襜と絡、〈襜は帷である。車上に帷を施して遮蔽するもので、交絡して飾りとした。《続漢志》に「王公列侯の安車には、交絡の帷裳を加える」とある。〉

原文絳襜絡,〈襜,帷也。車上施帷以屏蔽者,交絡之以爲飾。《續漢志》曰「王公列侯安車,加交絡帷裳」也。〉

それでもなお牧童と遊び回っていた。

原文而猶從牧兒遨。

樊崇は勇力によって立ち上がり、大衆から崇拝されたが、文字や計算を知らなかった。徐宣は元は県の獄吏であり、易経に通じていた。そこで一同は徐宣を丞相に推挙し、樊崇を御史大夫に、逄安を左大司馬に、謝禄を右大司馬に任じ、楊音以下はすべて列卿とした。

原文崇雖起勇力而爲衆所宗,然不知書數。徐宣故縣獄吏,能通易經。遂共推宣爲丞相,崇御史大夫,逄安左大司馬,謝祿右大司馬,自楊音以下皆爲列卿。

軍勢は高陵に至り、更始帝の叛将張卬らと連合し、ついに東都門を攻撃した。(三輔黄図」に「宣平門は長安城東面の北端第一の門で、その外郭の門を東都門という」とある。)

原文軍及高陵,與更始叛將張卬等連和,遂攻東都門,〈《三輔黃圖》曰:「宣平門,長安城東面北頭第一門也,其外郭門名東都門。」〉

長安城に入ると、更始帝が降伏してきた。

原文入長安城,更始來降。

盆子は長楽宮に住み、諸将は毎日会合して功績を論じ、争って大声で叫び騒いだ。

原文盆子居長樂宮,諸將日會論功,争言讙呼,〈讙,譁也。讙音火完反。〉

剣を抜いて柱を打ち、互いに一致することができなかった。三輔の郡県や営長が使者を派遣して貢物を献上すると、兵士たちはすぐにそれを略奪した。

原文拔劔擊柱,不能相一。三輔郡縣營長遣使貢獻,兵士輙剽奪之。〈剽,劫也。〉

また、しばしば官吏や民衆を暴虐に略奪したため、百姓たちは塢壁に立て籠もり、これによって皆が再び堅固に守りを固めた。臘日(旧暦12月の祭日)に至り、張崇らは音楽を設けて盛大な宴会を開き、劉盆子は正殿に座り、中黄門が武器を持って後ろに立ち、公卿たちは皆殿上に列座した。酒がまだ巡る前に、その中の一人が刀筆を取り出して謁見の文を書いて祝賀しようとした。

原文又數虜暴吏民,百姓保壁,由是皆復固守。至臘日,崇等乃設樂大會,盆子坐正殿,中黃門持兵在後,公卿皆列坐殿上。酒未行,其中一人出刀筆書謁欲賀,〈古者記事書於簡冊,謬誤者以刀削而除之,故曰刀筆。〉

そのほか、文字を知らない者は、自分の名前を書いてもらうよう頼んだ。

原文其餘不知書者起請之,〈請其書己名也。〉

それぞれが屯集し、互いに背き合った。大司農の楊音は剣を押さえて罵った。「諸卿は皆、老いた雇い人だ!今日、君臣の礼を設けたのに、かえって混乱を招いている。

原文各各屯聚,更相背向。大司農楊音案劔罵曰:「諸卿皆老傭也!今日設君臣之禮,反更殽亂,〈肴亦亂也。〉

子供の遊びでさえこのようにはしない。皆、打ち殺してしまえ!」〈互いに抵抗して殺すことを「格」という。〉

原文兒戲尚不如此,皆可格殺!」〈相拒而殺之曰格。〉

互いに争い合い、兵士たちはついにそれぞれ宮殿を乗り越え門を破り、侵入して酒や肉を略奪し、互いに殺傷し合った。衛尉の諸葛釋がこれを聞き、兵を率いて入り、百余人を斬殺してようやく鎮めた。盆子は恐れおののき、日夜泣き続け、ただ中黄門と共に起居し、ただ上観閣にいるだけで外の事情は聞くことができなかった。

原文更相辯鬬,而兵衆遂各踰宮斬關,入掠酒肉,互相殺傷。衛尉諸葛釋聞之,勒兵入,格殺百餘人,乃定。盆子惶恐,日夜啼泣,獨與中黃門共卧起,唯得上觀閣而不聞外事。

当時、掖庭の中にはまだ宮女が数百千人おり、更始帝が敗れた後、殿内に幽閉され、庭中の大根の根を掘って食べていた。(『爾雅』に「葖は蘆菔(大根)である」とある。「菔」の音は歩北反。「菔」の字は「蔔」と書くこともある。)

原文時掖庭中宮女猶有數百千人,自更始敗後,幽閉殿內,掘庭中蘆菔根,〈《爾雅》曰:「葖,蘆菔。」音步北反。「菔」字或作「蔔」。〉

池の魚を捕らえて食べ、死者は互いに宮中に埋めた。かつて甘泉宮の楽人が祠に仕えていた者たちは、依然として共に太鼓を打ち歌舞を奏で、衣服は鮮やかであった。(甘泉宮には祭祀を行う場所があった。楽人とは祭天の楽を司る者をいう。)

原文捕池魚而食之,死者因相埋於宮中。有故祠甘泉樂人,尚共擊鼓歌舞,衣服鮮明,〈甘泉宮有祭祠之所。樂人謂掌祭天之樂者也。〉

盆子が頭を叩きつけて飢えを訴えた。盆子は中黄門に命じて彼らに米を与えさせ、一人あたり数斗ずつ支給した。その後、盆子が去ると、皆が餓死して出てこなかった。

原文見盆子叩頭言飢。盆子使中黃門稟之米,人數斗。後盆子去,皆餓死不出。

劉恭は赤眉の衆が乱れているのを見て、彼らが必ず敗れることを知り、兄弟ともに禍に遭うことを恐れ、密かに盆子に璽綬を返上し、辞退を申し出る言葉を言う練習をさせた。

原文劉恭見赤眉衆亂,知其必敗,自恐兄弟俱禍,密敎盆子歸璽綬,習爲辭讓之言。

建武二年

原文建武二年

正月の朔日、樊崇らが大集会を開くと、劉恭が先に言った。「皆様が私の弟を共に皇帝に立ててくださった恩徳は誠に厚い。即位してほぼ一年になるが、混乱は日増しにひどくなり、確かに皆様を助けるには足りない。死んでも何の益もないことを恐れ、退いて庶人となり、賢明な知恵者を改めて求めることを願う。どうか皆様ご賢察ください。」樊崇らは謝罪して言った。「これは全て樊崇らの罪です。」劉恭がさらに固く請うと、ある者が言った。「これは寧んぞ式侯の関わることか!」

原文正月朔,崇等大會,劉恭先曰:「諸君共立恭弟爲帝,德誠深厚。立且一年,肴亂日甚,誠不足以相成。恐死而無所益,願得退爲庶人,更求賢知,唯諸君省察。」崇等謝曰:「此皆崇等罪也。」恭復固請。或曰:「此寧式侯事邪!」〈劉恭爲式侯。言衆立天子,非恭所預。〉

劉恭は恐れおののいて立ち去った。劉盆子は床から降りて璽綬を解き、頭を地に叩きつけて言った。「今、天子を立てたのに、以前と同じく賊のようである。役人や民が貢ぎ物を献上すると、すぐに略奪され、その噂は四方に流れ、恨みを抱かない者はなく、もはや信頼して従おうとはしない。これは皆、ふさわしくない者を立てたことによる結果です。どうか骸骨を乞い、賢聖にお譲りしたい。もしどうしても劉盆子を殺して責任を果たそうというのであれば、死を避けるつもりはありません。

原文恭惶恐起去。盆子乃下牀解璽綬,叩頭曰:「今設置縣官而爲賊如故。吏人貢獻,輙見剽劫,流聞四方,莫不怨恨,不復信向。此皆立非其人所致,願乞骸骨,避賢聖。必欲殺盆子以塞責者,無所離死。〈離,避也。〉

誠に諸君が哀れんでくださることを願うばかりです!」そして涙を流し、すすり泣いた。

原文誠兾諸君肯哀憐之耳!」因涕泣噓唏。〈唏與欷同。〉

樊崇らと参会した数百人は、哀れに思わない者はなく、皆、席を下がって頓首し言った。「臣らは無様で、陛下に背きました。今後は、二度と勝手な振る舞いをいたしません。」そして共に劉盆子を抱きかかえ、璽綬を帯びさせた。劉盆子は泣き叫び、やむを得なかった。会が終わって退出すると、それぞれ陣営に閉じこもって自らを守り、三輔は一致して、天子の聡明を称えた。民衆は争って長安に戻り、市街はほぼ満杯となった。

原文崇等及會者數百人,莫不哀憐之,乃皆避席頓首曰:「臣無狀,負陛下。請自今已後,不敢復放縱。」因共抱持盆子,帶以璽綬。盆子號呼不得已。旣罷出,各閉營自守,三輔翕然,稱天子聦明。百姓争還長安,市里且滿。

二十日余り経つと、赤眉軍は財物を貪り、再び出て大規模な略奪を行った。城中の食糧が尽きると、遂に珍宝を収集して積み込み、宮殿に火を放って焼き払い、兵を率いて西へ向かった。南郊で祭祀を行い、その車甲兵馬は最も猛々しく盛んで、その数は百万と号した。劉盆子は王車に乗り、三頭立ての馬車を駆った。(『続漢志』に「王車は朱色のまだら模様の輪、青い蓋、左右に騑(副馬)を伴い、三頭立てである」とある。)

原文得二十餘日,赤眉貪財物,復出大掠。城中粮食盡,遂収載珍寶,因大縱火燒宮室,引兵而西。過祠南郊,車甲兵馬最爲猛盛,衆號百萬。盆子乘王車,駕三馬,〈《續漢志》曰:「王車,朱班輪,青蓋,左右騑,駕三馬。」〉

数百騎の騎兵を従えた。そして南山から転じて城邑を略奪し、更始の将軍厳春と郿で戦い、厳春を破って殺し、遂に安定、北地に入った。陽城、番須の地に至ると、大雪に遭い、谷間は雪で埋まり尽くし、兵士の多くが凍死したため、再び引き返し、諸陵を発掘してその宝貨を奪い、遂に呂后の屍を汚辱した。賊が発掘した陵墓のうち、玉匣で納められていたものは、ほとんどが生きているようであった。(『漢儀注』に「腰から下を玉の札で覆い、長さ一尺、幅一寸半で匣とし、足まで黄金の糸で綴じたものを玉匣という」とある。)

原文從數百騎。乃自南山轉掠城邑,與更始將軍嚴春戰於郿,破春,殺之,遂入安定、北地。至陽城、番須中,逢大雪,坑谷皆滿,士多凍死,乃復還,發掘諸陵,取其寶貨,遂汙辱呂后屍。凡賊所發,有玉匣殮者率皆如生,〈《漢儀注》曰「自腰以下,以玉爲札,長尺,廣一寸半,爲匣,下至足,綴以黃金縷,謂之爲玉匣」也。〉

故に赤眉軍は多く淫らで穢れた行いをすることができた。大司徒鄧禹は当時長安におり、郁夷で彼らを攻撃するために兵を派遣した。

原文故赤眉得多行婬穢。大司徒鄧禹時在長安,遣兵擊之於郁夷,〈郁夷,縣,屬右扶風也。〉

逆に敗北を喫し、鄧禹は雲陽に出た。九月、赤眉軍は再び長安に入り、桂宮に留まった。(『長安記』に「桂宮は未央宮の北にあり、北宮ともいう」とある。)

原文反爲所敗,禹乃出之雲陽。九月,赤眉復入長安,止桂宮。〈《長安記》曰:「桂宮在未央宮北,亦曰北宮。」〉

その時、漢中の賊延岑が散関から出て、杜陵に駐屯し、逄安が十余万の兵を率いてこれを攻撃した。鄧禹は、逄安の精鋭部隊が外におり、劉盆子と老弱者だけが城中にいるのを見て、自ら攻撃に向かった。ちょうど謝禄の救援が到着し、槀街で夜戦となり、

原文時漢中賊延岑出散關,屯杜陵,逄安將十餘萬人擊之。鄧禹以逄安精兵在外,唯盆子與羸弱居城中,乃自往攻之。會謝祿救至,夜戰槀街中,〈《三輔舊事》曰:「長安城中有槀街。」〉

鄧禹の軍は敗走した。延岑と更始の将軍李宝が数万の兵を合わせ、逄安と杜陵で戦った。延岑らは大敗し、死者は一万余人に上り、李宝は遂に逄安に降伏したが、延岑は散り散りになった兵卒を収容して逃走した。李宝は密かに人を遣わし延岑に言った。「貴殿は奮戦して戻って戦え。私は内側から裏切る。内外で力を合わせれば、大いに打ち破ることができる。」延岑はすぐに戻って挑戦し、逄安らは空になった陣営から出撃した。李宝は後方から赤眉軍の旌旗を全て抜き取り、代わりに自分の幡旗を立てた。逄安らは戦いに疲れて陣営に戻ると、旗が全て白いのを見て、大いに驚き混乱して逃走し、自ら川や谷に身を投げ、死者は十余万に及び、逄安は数千人と共に脱出して長安に帰った。当時、三輔は大飢饉に見舞われ、人々は互いに食らい合い、城郭は空となり、白骨が野を覆い、生き残った者たちはしばしば集まって塁を築き、それぞれ堅く守って降伏しなかった。赤眉軍は略奪しても得るものがなく、十二月、遂に兵を率いて東へ帰還した。その数はなお二十万余りであったが、道中でまた散り散りになった。

原文禹兵敗走。延岑及更始將軍李寶合兵數萬人,與逄安戰於杜陵。岑等大敗,死者萬餘人,寶遂降安,而延岑収散卒走。寶乃密使人謂岑曰:「子努力還戰,吾當於內反之,表裏合勢,可大破也。」岑即還挑戰,安等空營擊之,寶從後悉拔赤眉旌幟,更立己幡旗。安等戰疲還營,見旗幟皆白,大驚亂走,自投川谷,死者十餘萬,逄安與數千人脫歸長安。時三輔大飢,人相食,城郭皆空,白骨蔽野,遺人往往聚爲營保,各堅守不下。赤眉虜掠無所得,十二月,乃引而東歸,衆尚二十餘萬,隨道復散。

光武帝は破姦将軍侯進らを新安に、建威大将軍耿弇らを宜陽に駐屯させ、二手に分かれて、その帰路を遮ろうとした。諸将に命じて言った。「賊が東へ向かうならば、宜陽の兵を率いて新安で合流せよ。賊が南へ向かうならば、新安の兵を率いて宜陽で合流せよ。」翌年正月、鄧禹は河北から渡河し、湖で赤眉軍を攻撃した。

原文光武乃遣破姦將軍侯進等屯新安,建威大將軍耿弇等屯宜陽,分爲二道,以要其還路。勑諸將曰:「賊若東走,可引宜陽兵會新安;賊若南走,可引新安兵會宜陽。」明年正月,鄧禹自河北度,擊赤眉於湖,〈湖,縣,故城在今虢州湖城縣西南。〉

鄧禹はまた敗走し、赤眉軍は遂に関を出て南へ向かった。征西大将軍馮異が崤底でこれを破った。

原文禹復敗走,赤眉遂出關南向。征西大將軍馮異破之於崤底。〈即崤坂也,在今洛州永寧縣西北。〉

帝はこれを聞くと、自ら軍を率いて宜陽に行幸し、大軍を集めてその退路を遮った。

原文帝聞,乃自將幸宜陽,盛兵以邀其走路。

赤眉軍は突然大軍に遭遇し、驚き慌ててどうしてよいか分からず、劉恭を遣わして降伏を乞い、言った。「劉盆子が百万の兵を率いて降伏します。陛下はどのようにお扱いになりますか。」帝は言った。「お前たちを死なせぬように扱うだけだ。」樊崇は遂に劉盆子と丞相徐宣以下三十余人を引き連れ、裸身になって降伏した。帝が得たものは、伝国の璽綬、更始帝の七尺の宝剣、および玉璧各一つであった。兵器と甲冑は宜陽城の西に積み上げられ、その高さは熊耳山と同じほどであった。(宜陽は県であり、旧城は韓国の城である。現在の洛州福昌県の東にある。酈道元『水経注』に「洛水の北に熊耳山があり、二つの峰が競い立って、その姿は熊耳に同じい」とある。宜陽の西にある。)

原文赤眉忽遇大軍,驚震不知所爲,乃遣劉恭乞降,曰:「盆子將百萬衆降,陛下何以待之?」帝曰:「待汝以不死耳。」樊崇乃將盆子及丞相徐宣以下三十餘人肉袒降。上所得傳國璽綬,更始七尺寶劔及玉璧各一。積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。〈宜陽,縣,故城韓國城也,在今洛州福昌縣東。酈元《水經注》曰:「洛水之北有熊耳山,雙巒競舉,狀同熊耳。」在宜陽西也。〉

帝は県の厨房に命じて食事を与えさせ、群衆は飢えに苦しんでいたが、十余万人が皆満腹することができた。翌朝、大いに兵馬を整えて洛水のほとりに臨み、盆子君臣を列をなして見物させた。盆子に言った。「自分が死ぬべきだとわかっているか?」と。盆子は答えて言った。「罪は死に当たりますが、それでも上様が哀れんで赦してくださることを願っています。」帝は笑って言った。「子供ながら大いに賢い。宗室に愚か者はない。」

原文帝令縣厨賜食,衆積困餧,十餘萬人皆得飽飫。明旦,大陳兵馬臨洛水,令盆子君臣列而觀之。謂盆子曰:「自知當死不?」對曰:「罪當應死,猶幸上憐赦之耳。」帝笑曰:「兒大黠,宗室無蚩者。」〈《釋名》曰:「蚩,癡也。」〉

また崇らに言った。「降伏を後悔していないか?朕は今、卿らを帰して軍営で兵を整えさせ、太鼓を鳴らして互いに攻め合い、勝負を決させよう。無理に服従させたくはない。」徐宣らは頭を地に叩きつけて言った。「臣らは長安の東都門を出た時、君臣で相談し、聖なる徳に帰順することを決めました。民衆は成功した結果を共に楽しむことはできても、事の始めを共に図ることは難しいので、敢えて衆には告げませんでした。今日降伏することができたのは、まるで虎の口を離れて慈母のもとに帰るようなもので、誠に嬉しく喜ばしく、何の恨みもありません。」帝は言った。「卿らはまさに鉄の中の錚錚たる者、傭兵の中の佼佼たる者である。」(『説文』に「錚錚とは金(金属)のことである」とある。鉄の錚錚とは、わずかに剛利さがあることをいう。錚の音は初耕反。佼の音は古巧反。佼とは美しいさまである。『詩経』に「佼人僚兮」とある。今は相伝えて胡巧反と読む。佼佼とは、凡庸な者の中でもやや勝っていることをいう。)

原文又謂崇等曰:「得無悔降乎?朕今遣卿歸營勒兵,鳴鼓相攻,決其勝負,不欲強相服也。」徐宣等叩頭曰:「臣等出長安東都門,君臣計議,歸命聖德。百姓可與樂成,難與圖始,故不告衆耳。今日得降,猶去虎口歸慈母,誠歡誠喜,無所恨也。」帝曰:「卿所謂鐵中錚錚,傭中佼佼者也。」〈《說文》曰:「錚錚,金也。」鐵之錚錚,言微有剛利也。錚音初耕反。佼音古巧反。佼,好貌也。《詩》曰:「佼人僚兮。」今相傳云音胡巧反。言佼佼者,凡傭之人稍爲勝也。〉

また言った。「諸卿は大いに無道を行い、通過した所では皆、老弱者を滅ぼし、社稷を汚し、

原文又曰:「諸卿大爲無道,所過皆夷滅老弱,溺社稷,〈溺音奴弔反。〉

井戸や竈を穢した。しかしそれでも三つの善い点がある。城邑を攻め破り、天下をくまなく行き渡ったが、元の妻を改め変えることがなかった。これが一つの善である。君主を立てるのに宗室を用いることができた。これが二つ目の善である。他の賊は君主を立てても、追い詰められると皆その首を持って降伏し、自ら功績だと思ったが、諸卿だけは完全なまま朕に引き渡した。これが三つ目の善である。」そこで、それぞれ妻子と共に洛陽に住まわせ、住宅を一区画、田を二頃賜った。

原文汙井竈。然猶有三善:攻破城邑,周徧天下,本故妻婦無所改易,是一善也;立君能用宗室,是二善也;餘賊立君,迫急皆持其首降,自以爲功,諸卿獨完全以付朕,是三善也。」乃令各與妻子居洛陽,賜宅人一區,田二頃。

その夏、樊崇と逄安が謀反を企て、誅殺された。楊音は長安にいた時、趙王劉良に恩を施したことがあり、関内侯の爵位を賜り、徐宣と共に故郷に帰り、家で死去した。劉恭は更始帝の仇を討つために謝禄を殺し、自ら獄に繋がり、赦されて誅殺されなかった。

原文其夏,樊崇、逄安謀反,誅死。楊音在長安時,遇趙王良有恩,賜爵關內侯,與徐宣俱歸鄉里,卒於家。劉恭爲更始報殺謝祿,自繫獄,赦不誅。

帝は盆子を哀れみ、非常に厚く賞賜し、趙王の郎中とした。後に病気で視力を失い、滎陽けいようの均輸官の土地を賜り、それを店舗が並ぶ市場とし、(均輸は官名で、司農に属する。肆とは市場の列である。桓寛『塩鉄論』に「郡国の諸侯はそれぞれその地方の産物を貢ぎ輸送して往来するが、品物の多くは粗悪で、その費用を償えないため、郡国に輸官を置いて互いに連続して運ばせた。ゆえに均輸という」とある。)

原文帝憐盆子,賞賜甚厚,以爲趙王郎中。後病失明,賜滎陽均輸官地,以爲列肆,〈均輸,官名,屬司農。肆,市列也。桓寬鹽鐵論云:「郡國諸侯各以其方物貢輸往來,物多苦惡,不償其費,故郡國置輸官以相紹運,故曰均輸。」〉

その税収で一生を過ごさせた。

原文使食其稅終身。

賛して言う。聖公(劉玄)は名を知られず、我が風雲を借りた。(『易』に「雲は龍に従い、風は虎に従い、聖人が作られて万物がこれを見る」という。假は借りるの意。聖公が初め起こったとき聞き知るところがなく、我が中興の風雲の便りを借りたことを言う。)

原文贊曰:聖公靡聞,假我風雲。〈《易》曰:「雲從龍,風從虎,聖人作而萬物睹。」假,借也。言聖公初起無所聞知,借我中興風雲之便。〉

初めは順調に時を経たが、終わりには崩れ分かれた。赤眉は乱を恃み、

原文始順歸歷,終然崩分。赤眉阻亂,〈阻,恃也。〉

盆子が符を探った。皇器(帝位)を盗んではいるが、

原文盆子探符。雖盜皇器,〈皇器猶神器,謂天位也。〉

結局は均輸(の税)を食む身となった。

原文乃食均輸。

校勘記

原文校勘記

四六七頁一0行 共に離郷聚を攻む 按:『殿本考証』に萬承蒼が離郷聚は地名であり、章懐太子の注は誤りと謂う。今これに従い標号を加える。

原文四六七頁一0行 共攻離鄉聚 按:《殿本考證》萬承蒼謂離鄉聚地名,章懷注非。今據加標號。

四六八頁一三行 及びその支党の朱鮪・張卬らが北に入り南陽にて新市兵と号す 按:校補が張熷の説を引き、『王常伝』では卬は王常・成丹と共に下江兵であったとし、本紀と異なるとする。

原文四六八頁一三行 及其支黨朱鮪張卬等北入南陽號新市兵 按:校補引張熷說,謂〈王常傳〉卬與王常、成丹皆為下江兵,與紀異。

四六九頁一0行 前鍾武侯劉望が兵を起こす 按:『集解』が『通鑑考異』を引き、

原文四六九頁一0行 前鍾武侯劉望起兵 按:《集解》引《通鑑考異》,謂

前漢書

原文前書

王莽伝では「劉望」を「劉聖」としている。

原文王莽傳「劉望」作「劉聖」。

四七〇頁 六行 北宮の鉄柱〔門〕に触れる 汲本・殿本に基づき補う。 按:『続漢志』に「門」の字がある。

原文四七0頁 六行 觸北宮鐵柱〔門〕 據汲本、殿本補。 按:《續志》有「門」字。

四七〇頁一一行 首を垂れて席を刮り、敢えて仰ぎ見ず 按:恵棟補注本では「視」の上に「仰」の字がある。

原文四七0頁一一行 俛首刮席不敢視 按:惠棟補注本「視」上有「仰」字。

四七一頁 四行 驃騎大将軍宋佻を潁陰王とする 按:『集解』が引く恵棟の説によれば、〈光武帝紀〉及び『

原文四七一頁 四行 驃騎大將軍宋佻為潁陰王 按:《集解》引惠棟說,謂〈光武紀〉及《

通鑑

原文通鑑

』では「宋」を皆「宗」としている。

原文》「宋」皆作「宗」。

四七一頁 八行 陰平県は広漢国に属する 按:校補は、前漢の陰平国は東海郡に属し、後漢で県に改められ、所属は同じであるという。また前漢の陰平道は広漢郡に属し、後漢では分かれて広漢属国に属した。注は陰平道について述べているので、確かに「県」と言うこともできるが、前漢について言うなら「国」と言うべきではなく、後漢について言うなら「属国」と言うべきで、単に「国」と言うだけでは不適切である。

原文四七一頁 八行 陰平縣屬廣漢國 按:校補謂前漢陰平國屬東海郡,後漢改縣,屬同。又前漢陰平道屬廣漢郡,後漢分屬廣漢屬國,注據陰平道言,雖亦可言「縣」,但屬前漢言,不當言「國」,屬後漢言,當云「屬國」,亦不當僅言「國」。

四七二頁 五行 軍帥将軍 按:刊誤は「帥」は「師」とすべきであり、当時は多く軍師を置き、〈鄧禹伝〉も「軍師将軍」としている、という。

原文四七二頁 五行 軍帥將軍 按:刊誤謂「帥」當作「師」,是時多置軍師,〈鄧禹傳〉亦作「軍師將軍」。

四七二頁一五行 捕賊掾 按:刊誤は、『前漢書』を調べると「賊捕掾」とすべきである、という。

原文四七二頁一五行 捕賊掾 按:刊誤謂案《前書》合作「賊捕掾」。

四七二頁一六行 孟子が(梁恵)〔斉宣〕王に対して曰く 殿本に基づき改める。

原文四七二頁一六行 孟子對(梁惠)〔齊宣〕王曰 據殿本改。

四七三頁一二行 蓩郷で戦う 按:『続漢志』では「蓩」を「務」としている。

原文四七三頁一二行 戰於蓩鄉 按:《續志》「蓩」作「務」。

四七三頁一四行 その(蓩)〔地〕は蓋し今の虢州湖城県の間に在る 『集解』が引く王補の説によれば、「其蓩」は通鑑注では「其地」としており、それが正しい。今これに基づき改める。

原文四七三頁一四行 其(蓩)〔地〕蓋在今虢州湖城縣之閒 《集解》引王補說,謂「其蓩」通鑑注作「其地」,是。今據改。

四七六頁 三行 再び封を移して(灌)〔濩〕沢侯とする 集解が引く銭大昕の説に基づき改める。注も同じ。

原文四七六頁 三行 復徙封(灌)〔濩〕澤侯 據集解引錢大昕說改,注同。

四七八頁 六行 次卒(吏)〔史〕 刊誤は「吏」は「史」とすべきであるという。今これに基づき改める。

原文四七八頁 六行 次卒(吏)〔史〕 刊誤謂「吏」當作「史」。今據改。

四七八頁の六行目に「汎相稱曰(臣)〔巨〕人」とある。刊誤は『前書』に盗賊が勝手に巨人と称したとあるのに、今ここでは臣人となっているのも誤りであると述べている。「巨」とすべきである。今これに拠って改める。

原文四七八頁 六行 汎相稱曰(臣)〔巨〕人 刊誤謂《前書》言盜賊擅稱巨人,今此為臣人,亦誤也。當作「巨」。今據改。

右校の卒史劉俠卿に属した。刊誤により改めた。

原文四八0頁一0行 屬右校卒(吏)〔史〕劉俠卿 據刊誤改。

四八〇頁十一行 ただ盆子と茂および前の西安侯劉孝が最も近い親族であった。 按:沈家本は『前書・王子侯表』を引いて、西安侯は漢の東平思王の孫であるとし、城陽の近い親族には西安に封じられた者も、名が孝である者もいないと述べている。

原文四八0頁一一行 唯盆子與茂及前西安侯劉孝最為近屬 按:沈家本謂按《前書·王子侯表》,西安侯漢東平思王孫,而城陽近屬無封西安者,亦無名孝者。

四八二頁三行目に「衛尉諸葛稚聞之」とある。按ずるに、「稚」は原本では誤って「釋」と作っている。汲古閣本と武英殿本に基づいて直接に「稚」に改めた。

原文四八二頁 三行 衛尉諸葛稚聞之 按:「稚」原訛「釋」,逕據汲本、殿本改正。

四八二頁 九行 肴亦亂也 按:殿本「肴」作「殽」。校補謂殿本注作「殽」,取與正文相應。然觀下文「肴亂日甚」,正文本作「肴」,知此處正文作「殽」,乃繙刻之誤,注蓋本不誤也。

原文四八二頁 九行 肴亦亂也 按:殿本「肴」作「殽」。校補謂殿本注作「殽」,取與正文相應。然觀下文「肴亂日甚」,正文本作「肴」,知此處正文作「殽」,乃繙刻之誤,注蓋本不誤也。

四八二頁十一行「幽閉殿內掘庭中蘆菔根」の箇所について、校勘を記す。汲古閣本では「內」の字が「門」となっている。

原文四八二頁一一行 幽閉殿內掘庭中蘆菔根 按:汲本「內」作「門」。《

御覧

原文御覽

九八〇頁の引用では「掘」を「拔」としている。また、「閉」は原本では「閑」と誤記されていたが、直接に訂正した。

原文》九八0引「掘」作「拔」。又按:「閉」原訛「閑」,逕改正。

四八三頁一二行 (得)〔後〕二十餘日 集解は王補の説を引き、『

原文四八三頁一二行 (得)〔後〕二十餘日 集解引王補說,謂《

袁宏の『後漢紀』

原文袁紀

《資治通鑑》もまた「後二十餘日」と作っており、これは正しい。今これに拠って改める。

原文》、通鑑並作「後二十餘日」,是。今據改。

四八四頁 四行 広さ一寸半 按:殿本では「一寸」を「二寸」と作る。

原文四八四頁 四行 廣一寸半 按:殿本「一寸」作「二寸」。

四八五頁一五行「攻破城邑」について、按ずるに、『刊誤』は本文は「攻城破邑」とあるべきだとしている。

原文四八五頁一五行 攻破城邑 按:刊誤謂案文當云「攻城破邑」。

四八六頁七行、『説文』に「錚錚は金なり」とある。按ずるに:

原文四八六頁 七行 說文曰錚錚金也 按:

『説文』

原文說文

「錚」とは金属の音であるというが、これは誤りではないかと思われる。

原文「錚,金聲也」,此疑誤。