後漢書

巻十下・皇后紀第十下

巻十下・皇后紀第十下

安思閻皇后

原文安思閻皇后

安思閻皇后の諱いみなは姫(『謚法』に「謀りごとを誤らないことを思という」とある)で、河南郡滎陽けいよう県の人である。祖父の章は、永平年間に尚書となり、二人の妹を貴人とした。章は精力に富み旧典に通じ、長くその地位にあり、重職に昇進すべきところであったが、顕宗(明帝)は後宮の親族であることを理由に、結局用いず、出して步兵校尉とした(『漢官儀』に「比二千石で、宿衛兵を掌握し、北軍中候に属する」とある)。章は暢を生み、暢が后を生んだ。

原文安思閻皇后諱姬,(《謚法》曰:「謀慮不愆曰思。」)河南滎陽人也。祖父章,永平中爲尚書,以二妹爲貴人。章精力曉舊典,乆次,當遷以重職,顯宗爲後宮親屬,竟不用,出爲步兵校尉。(《漢官儀》曰「比二千石,掌宿衞兵,屬北軍中候」也。)章生暢,暢生后。

后は才知と美貌を備えていた。元初元年、選ばれて掖庭に入り、大いに寵愛を受け、貴人となった。二年、皇后に立てられた。后は後宮を独占し嫉妬深く、帝が宮人李氏を寵幸して皇子の保を生ませると、ついに李氏を鴆毒で殺した(鴆は毒鳥である。蝮を食べる。その羽で酒の中に描き、飲ませるとたちまち死ぬ)。三年、后の父である侍中の暢を長水校尉とし、北宜春侯に封じた(北宜春は県で、汝南郡に属する。豫章郡に宜春があるため、ここに北を加えた。故城は現在の豫州汝陽県の西南にある)。食邑は五千戸。四年、暢が卒去し、文侯と諡され、子の顕が後を嗣いだ。

原文后有才色。元初元年,以選入掖庭,甚見寵愛,爲貴人。二年,立爲皇后。后專房妒忌,帝幸宮人李氏,生皇子保,遂鴆殺李氏。(鴆,毒鳥也。食蝮。以其羽畫酒中,飲之立死。)三年,以后父侍中暢爲長水校尉,封北宜春侯,(北宜春,縣,屬汝南郡。以豫章有宜春,故此加北。故城在今豫州汝陽縣西南也。)食邑五千戶。四年,暢卒,謚曰文侯,子顯嗣。

建光元年、鄧太后が崩御し、帝は初めて政事を親裁するようになった。顕と弟の景、耀、晏はともに卿校となり、禁兵を統率した。延光元年、顕を改めて長社県侯に封じた(長社は県で、潁川郡に属する。『前書音義』に「その社の中の樹木が急に伸びたので、長社と名付けた」とある。現在の許州の県である)。食邑は一万三千五百戸。后の母の宗を追尊して滎陽君とした(『続漢志』に「婦人が封君となる儀礼は公主に準じ、油犍軿車に乗り、綬を帯び、采組で緄帯を作り、それぞれその綬の色と同様とし、黄金の辟邪をその首に加えて帯とする」とある)。顕、景らの諸子は皆まだ幼年(『大戴礼』に「男は八歳で齔、女は七歳で齔」とある。齔は歯が生え変わることで、音は初刃の反切)であり、ともに黄門侍郎となった。后の寵愛が盛んになるにつれ、兄弟は朝廷の権力に深く関与するようになり、后はついに大長秋の江京、中常侍の樊豊らと共謀して皇太子保を讒言し、廃して済陰王とした。

原文建光元年,鄧太后崩,帝始親政事。顯及弟景、耀、晏並爲卿校,典禁兵。延光元年,更封顯長社縣侯,(長社,縣,屬潁川郡。《前書音義》曰:「其社中樹暴長,故名長社。」今許州縣。)食邑萬三千五百戶,追尊后母宗爲滎陽君。(《續漢志》曰:「婦人封君,儀比公主,油犍軿車,帶綬以采組爲緄帶,各如其綬色,黃金辟邪加其首爲帶。」)顯、景諸子年皆童齔,(《大戴禮》曰:「男八歲而齔,女七歲而齔。」齔,毀齒也,音初刃反。)並爲黃門侍郎。后寵旣盛,而兄弟頗與朝權,后遂與大長秋江京、中常侍樊豐等共譖皇太子保,廢爲濟陰王。

四年の春、后は帝に従って章陵に行幸したが、帝は道中で病に倒れ、葉県で崩御した。后と顕兄弟、および江京、樊豊らは謀議ぼうぎして言った。「今、帝は道中で晏駕された(晏は晩の意。臣下が帝の崩御を直接言うのを憚り、あたかも遅く出発したかのように言う)。済陰王が宮中におり、もし公卿たちが偶然にも彼を立てれば、後々大きな害となる」。そこで偽って帝の病が重いと称し、御臥車に移して行路を急がせた。四日間走り続けて宮中に戻った。翌日、司徒の劉喜を郊廟社稷に遣わして天に命を請うたと詐った。その夜になって、ようやく発喪した。后を尊んで皇太后とした。皇太后が臨朝した(蔡邕の『独断』に「少帝が即位すると、太后はすぐに摂政を代行し、前殿に臨んで群臣を朝見させる。太后は東面し、少帝は西面する。群臣が奏事や上書をする際は、皆二通作成し、一通は后に、一通は少帝に届ける」とある)。顕を車騎将軍儀同三司とした。

原文四年春,后從帝幸章陵,帝道疾,崩於葉縣。后、顯兄弟及江京、樊豐等謀曰:「今晏駕道次,(晏,晚也。臣下不敢斥言帝崩,猶言晚駕而出。)濟陰王在內,邂逅公卿立之,還爲大害。」乃僞云帝疾甚,徙御卧車。行四日,驅馳還宮。明日,詐遣司徒劉喜詣郊廟社稷,告天請命。其夕,乃發喪。尊后曰皇太后。皇太后臨朝,(蔡邕《獨斷》曰:「少帝即位,太后即代攝政,臨前殿,朝羣臣。太后東面,少帝西面。羣臣奏事上書,皆爲兩通,一詣后,一詣少帝。」)以顯爲車騎將軍儀同三司。

太后は長く国政を専断したいと望み、幼年の者を立てることを欲し、顕らと禁中で策を定め、済北恵王の子である北郷侯懿(恵王の名は寿、章帝の子である)を迎え、皇帝に立てた。顕は大将軍の耿宝(耿弇の弟である舒の孫)が地位が高く権力が重く、威勢が前朝に及んでいるのを忌み嫌い、役人に唆して耿宝とその党与である中常侍の樊豊、虎賁中郎将の謝惲、惲の弟で侍中の篤、篤の弟で大将軍長史の宓(『善文』に「惲は字あざなを伯周、宓は字を仲周、篤は字を季周という」とある)、侍中の周広、阿母の野王君王聖、聖の娘の永、永の婿である黄門侍郎の樊厳らが、互いに結託し、威福をほしいままにし、禁省を探り刺し、互いに呼応しているのは、皆大逆不道であると上奏させた。豊、惲、広は皆獄に下されて死に、家族は比景県に流された(比景は県名で、日南郡に属する。『前書音義』に「太陽が頭上にあり、影が自分の下にあるので、この名がある」とある)。宓と厳は死罪を減じられ、髡鉗の刑に処された。耿宝は則亭侯に貶爵され、封国に赴くよう命じられ、自殺した。王聖母子は鴈門郡に流された。こうして景は衛尉、耀は城門校尉、晏は執金吾となり、兄弟は権力の要職に就き、威福を自由に行うようになった。

原文太后欲乆專國政,貪立幼年,與顯等定策禁中,迎濟北惠王子北鄉侯懿,(惠王名壽,章帝子也。)立爲皇帝。顯忌大將軍耿寶(耿弇之弟舒之孫。)位尊權重,威行前朝,乃風有司奏寶及其黨與中常侍樊豐、虎賁中郎將謝惲、惲弟侍中篤、篤弟大將軍長史宓、(《善文》曰:「惲字伯周。宓字仲周,篤字季周。」)侍中周廣、阿母野王君王聖、聖女永、永壻黃門侍郎樊嚴等,更相阿黨,互作威福,探刺禁省,更爲唱和,皆大不道。豐、惲、廣皆下獄死,家屬徙比景;(比景,縣名,屬日南郡。《前書音義》曰:「日中於頭上,景在己下,故名之。」)宓、嚴減死,髡鉗;貶寶爲則亭侯,遣就國,自殺;王聖母子徙鴈門。於是景爲衞尉,耀城門校尉,晏執金吾,兄弟權要,威福自由。

少帝が立って二百余日で病が重くなると、顕兄弟と江京らは皆側近にいた。京は顕を引き寄せて人目を避けて語った。「北郷侯の病は快方に向かわず、国の後継者は時宜を得て定めるべきである。以前済陰王を用いなかったのに、今もし彼を立てれば、後で必ず怨まれるだろう。どうして早く諸王子を召し寄せ、選んで立てようとしないのか」。顕はその通りだと思った。少帝が薨去すると、京は太后に申し上げ、済北王と河間王の王子を召し寄せた。到着する前に、中黄門の孫程が江京らを殺害する計画を立て、済陰王を立てた。これが順帝である。顕、景、晏およびその党与は皆誅殺され、太后は離宮に移され、家族は比景県に流された。翌年、太后は崩御した。在位十二年、恭陵に合葬された。

原文少帝立二百餘日而疾篤,顯兄弟及江京等皆在左右。京引顯屏語曰:「北鄉侯病不解,國嗣宜時有定。前不用濟陰王,今若立之,後必當怨,人何不早徵諸王子,簡所置乎?」顯以爲然。及少帝薨,京白太后,徵濟北、河閒王子。未至,而中黃門孫程合謀殺江京等,立濟陰王,是爲順帝。顯、景、晏及黨與皆伏誅,遷太后於離宮,家屬徙比景。明年,太后崩。在位十二年,合葬恭陵。

帝の母である李氏は洛陽城の北に埋葬されていたが、帝は当初それを知らず、誰も敢えて告げる者はなかった。太后が崩御すると、側近がそのことを告げ、帝は感じ入って悲しみ、自ら埋葬の地に赴き、改めて礼をもって殯を行い、尊んで恭愍皇后と諡し、恭北陵に葬り、策書を金匱に納めて世祖廟に蔵した(恭陵の北にあるので、この名がついた。『漢官儀』に「陵園令と食監を各一人置き、秩禄はともに六百石」とある。金匱は金で封緘する)。

原文帝母李氏瘞在洛陽城北,帝初不知,莫敢以聞。及太后崩,左右白之,帝感悟發哀,親到瘞所,更以禮殯,上尊謚曰恭愍皇后,葬恭北陵,爲策書金匱,藏于世祖廟。(在恭陵之北,因以爲名。《漢官儀》曰:「置陵園令、食監各一人,秩皆六百石。」金匱,緘之以金。)

順烈梁皇后

原文順烈梁皇后

順烈梁皇后の諱は妠(『謚法』に「徳を執り業を尊ぶことを烈という」とある。『声類』に「妠は娶ることで、音は納」とある)で、大将軍梁商の娘、恭懐皇后の弟の孫である。后が生まれた時、光景の祥瑞があった。幼少時から女工をよくし、史書を好み、九歳で『論語』を誦し、『韓詩』(韓嬰が伝えた詩)を学び、その大義をおおよそ挙げることができた。常に列女の図画を身近に置き、自らを戒めとした(劉向が撰した『列女伝』八篇があり、その像を図画にした)。父の商はこれを大いに異とし、ひそかに諸弟に言った。「我が先祖は河西を救済し、生き延びさせた者は数え切れない(商の曾祖父の統は、更始二年に中郎将、酒泉太守を補任され、涼州を安集させた。当時西河は混乱しており、衆議は統が平素から威信があるとして、統を推して竇融と共に五郡を完全に保全させた)。高位には至らなかったが、積んだ徳は必ず報いられる。もし慶事が子孫に流れるなら、ひょっとするとこの娘によって興るのではないか」。

原文順烈梁皇后諱妠,(《謚法》曰:「執德尊業曰烈。」聲類曰:「妠,娶也,音納。」)大將軍商之女,恭懷皇后弟之孫也。后生,有光景之祥。少善女工,好史書,九歲能誦《論語》,治《韓詩》,(韓嬰所傳詩也。)大義略舉。常以列女圖畫置於左右,以自監戒。(劉向撰《列女傳》八篇,圖畫其象。)父商深異之,竊謂諸弟曰:「我先人全濟河西,所活者不可勝數。(商曾祖統,更始二年補中郎將、酒泉太守,使安集涼州。時西河擾亂,衆議以統素有威信,乃推統與竇融共完全五郡。)雖大位不究,而積德必報。若慶流子孫者,儻興此女乎?」

永建三年、彼女は叔母と共に掖庭に選ばれて入った。その時、年齢は十三歳であった。相工の茅通が后を見て驚き、再拝して祝賀して言った。「これはいわゆる日角偃月の相で、極めて貴い相であり、臣がかつて見たことのないものです。」太史が卜兆して寿房を得、また筮って坤の比を得た。(『易』の坤卦六五爻が変じて比となり、比の九五爻は、象に「顕比の吉、位正中なり」とある。九五はその位を得て、下が上に応ずるので、吉である。)そこで貴人とした。常に特に引見され寵愛を受けたが、彼女は落ち着いて帝に辞退して言った。「陽は広く施すことを徳とし、陰は専有しないことを義とします。螽斯が百をなすのは、福の興る由縁です。(『詩』国風序に「后妃が螽斯のように嫉妬しなければ、子孫が多く生まれる」とある。『詩』大雅に「太姒は徽音を嗣ぎ、百斯男をなす」とある。)願わくは陛下には、雲雨が均しく潤すことを思い、貫魚の順序をお認めください。(『易』に「雲行き雨施し、品物流形す」とある。剥卦に「魚を貫き、宮人をもって寵す、不利なし」とある。剥は、坤下艮上、五陰一陽で、衆陰が下に並び、頭を連ねて順序よく並ぶ様は、魚を貫いたようである。)どうか妾を罪や誹謗の累から免れさせてください。」これによって帝はますます敬意を加えた。

原文永建三年,與姑俱選入掖庭,時年十三。相工茅通見后,驚,再拜賀曰:「此所謂日角偃月,相之極貴,臣所未甞見也。」太史卜兆得壽房,又筮得坤之比,(《易》坤卦六五爻,變而之比,比九五,象曰:「顯比之吉,位正中也。」九五居得其位,下應於上,故吉。)遂以爲貴人。常特被引御,從容辭於帝曰:「夫陽以博施爲德,陰以不專爲義,螽斯則百,福之所由興也。(《詩》國風序曰:「言后妃若螽斯不妒忌,則子孫衆多也。」《詩》大雅曰「太姒嗣徽音,則百斯男」也。)願陛下思雲雨之均澤,識貫魚之次序,(《易》曰:「雲行雨施,品物流形。」剝卦曰:「貫魚,以宮人寵,無不利。」剝,坤下艮上,五陰而一陽,衆陰在下,駢頭相次,似貫魚也。)使小妾得免罪謗之累。」由是帝加敬焉。

陽嘉元年春、有司が長秋宮(皇后)を立てることを上奏した。乗氏侯の梁商は先帝の外戚であり、(梁商の祖姑は、章帝の貴人で、和帝を生んだ。)『春秋』の義によれば、先ず大国から娶るべきであり、(『公羊伝』に、天子は紀から娶るとある。紀は本来子爵であったが、先に侯に褒められており、王者は小国から娶らないという意味である。)梁小貴人は天の福に相応しく、坤極(皇后の位)に正位すべきである。(内位を正し、陰徳の極みに居ることをいう。『易』に「女は内に位を正す」とある。)帝はこれに従い、寿安殿において貴人を皇后に立てた。(寿安は徳陽宮内の殿名である。)后は幼少より聡明で、前世の得失を深く考察し、徳によって進んだとはいえ、驕り専横する心は持たず、日食や月食があるたびに、(讁は責めである。『礼記』に「陽事が得られなければ、天に責められて現れ、日がこれによって食する。陰事が得られなければ、天に責められて現れ、月がこれによって食する」とある。)礼服を下げて過ちを悔い、罪を求めた。

原文陽嘉元年春,有司奏立長秋宮,以乘氏侯商先帝外戚,(商祖姑,章帝貴人,生和帝也。)《春秋》之義,娶先大國,(《公羊傳》曰,天子娶於紀。紀本子爵也,先襃爲侯,言王者不娶於小國也。)梁小貴人宜配天祚,正位坤極。(正其內位,居陰德之極也。《易》曰「女正位乎內」也。)帝從之,乃於壽安殿立貴人爲皇后。(壽安是德陽宮內殿名。)后旣少聦惠,深覽前世得失,雖以德進,不敢有驕專之心,每日月見讁,(讁,責也。《禮記》云:「陽事不得,讁見於天,日爲之食。陰事不得,讁見於天,月爲之食。」)輒降服求愆。

建康元年、帝が崩御した。后には子がなく、美人虞氏の子の炳が立てられ、これが沖帝である。后を皇太后と尊び、太后が臨朝した。沖帝はまもなく崩御し、再び質帝を立てたが、太后は依然として朝政を執った。

原文建康元年,帝崩。后無子,美人虞氏子炳立,是爲沖帝。尊后爲皇太后,太后臨朝。沖帝尋崩,復立質帝,猶秉朝政。

当時、楊州・徐州の凶悪な賊が州郡をかき乱し、西羌・鮮卑および日南の蛮夷が城を攻め略奪を働き、賦役の取り立てが頻繁で、官民ともに困窮し尽きていた。太后は日夜勤労し、誠心を推し量って賢者を頼りとし、太尉李固らを委任し、忠良を抜擢任用し、節倹を重んじた。貪欲で罪悪な者(財を貪ることを叨という。慝は悪である。)は多く誅殺・廃免された。兵を分けて討伐し、群賊は消滅平定された。そのため海内は粛然とし、宗廟は安寧を得た。しかし兄の大将軍梁冀が質帝を毒殺し、権力を専断して暴虐に振るい、忠良を忌み害し、しばしば邪説をもって太后を惑わせ誤らせ、ついに桓帝を立てて李固を誅殺した。太后はまた宦官に溺れ、多くを封じ寵愛したため、これによって天下は失望した。

原文時楊、徐劇賊寇擾州郡,西羌、鮮卑及日南蠻夷攻城暴掠,賦斂煩數,官民困竭。太后夙夜勤勞,推心杖賢,委任太尉李固等,拔用忠良,務崇節儉。其貪叨罪慝,(貪財曰叨。慝,惡也。)多見誅廢。分兵討伐,羣寇消夷。故海內肅然,宗廟以寧。而兄大將軍兾鴆殺質帝,專權暴濫,忌害忠良,數以邪說疑誤太后,遂立桓帝而誅李固。太后又溺於宦官,多所封寵,以此天下失望。

和平元年春、政権を帝に返還した。太后は病臥し、やがて重篤となった。そこで輦に乗って宣徳殿に行幸し、宮省の官属および諸梁の兄弟に会った。詔して言った。「朕はもとより心下に結気の病があり、しばらく前から、浮腫が加わり、飲食を妨げられ、次第に沈滞困憊している。(寖は漸くである。)近頃は内外に心労をかけ祈祷させている。私に考えてみると、日夜体力が衰え、もはや群公卿士と共に最後まで政務に当たることができない。聖なる嗣君を立てたが、長く育養できず、その終始を見届けられないことを残念に思う。今、皇帝と将軍兄弟を股肱の臣に委ね託す。各自努め励むように。」二日後に崩御した。在位十九年、四十五歳。憲陵に合葬された。

原文和平元年春,歸政於帝,太后寢疾遂篤,乃御輦幸宣德殿,見宮省官屬及諸梁兄弟。詔曰:「朕素有心下結氣,從閒以來,加以浮腫,逆害飲食,寖以沈困,(寖,漸也。)比使內外勞心請禱。私自忖度,日夜虛劣,不能復與羣公卿士共相終竟。援立聖嗣,恨不乆育養,見其終始。今以皇帝、將軍兄弟委付股肱,其各自勉焉。」後二日而崩。在位十九年,年四十五。合葬憲陵。

(付録) 虞美人、陳夫人

原文(附) 虞美人、陳夫人

虞美人は、良家の子女として十三歳で掖庭に選ばれて入った。(『続漢志』に「美人の父の虞詩は郎中となり、詩の父の虞衡は屯騎校尉であった」とある。)また娘の舞陽長公主を生んだ。漢が興って以来、母方の一族は皆尊寵を受けた。順帝はすでに美人に爵号を加えなかったが、沖帝が早く夭折し、大将軍梁冀が政権を執り、他族を忌み嫌ったため、虞氏は抑圧されて昇進せず、ただ「大家」と称されるだけであった。

原文虞美人者,以良家子年十三選入掖庭,(《續漢志》曰:「美人父詩爲郎中,詩父衡屯騎校尉。」)又生女舞陽長公主。自漢興,母氏莫不尊寵。順帝旣未加美人爵號,而沖帝早夭,大將軍梁兾秉政,忌惡佗族,故虞氏抑而不登,但稱「大家」而已。

陳夫人は、家はもと魏郡にあり、幼少より声楽や技芸で孝王(勃海王劉鴻)の宮に入り、寵愛を受けて質帝を生んだ。これも梁氏のため、栄誉と寵愛は及ばなかった。

原文陳夫人者,家本魏郡,少以聲伎入孝王宮,得幸,生質帝。亦以梁氏故,榮寵不及焉。

熹平四年、小黄門の趙祐(『続漢志』に「小黄門は六百石、宦官で、定員なく、左右に侍し、尚書の事を受け持つ。上(皇帝)が内宮におられる時、内外を通じさせ、中宮以下の諸事、諸公主及び王大妃等の疾苦について、使いを遣わして問う」とある。)と議郎の卑整(風俗通に「卑氏は鄭の大夫卑諶の後裔で、漢に卑躬がおり、北平太守となった」とある。)が上言した。「『春秋』の義によれば、母は子によって貴くなる。(『公羊伝』に「桓公は幼くして貴く、隠公は年長だが卑しい。桓公はなぜ貴いのか。母が貴いからである。母が貴ければ子はなぜ貴いのか。子は母によって貴くなり、母は子によって貴くなる」とある。)隆盛なる漢の盛典では、母方を尊崇し、外戚たる者は皆寵愛を加えている。今、沖帝の母である虞大家、質帝の母である陳夫人は、ともに聖皇を生んだが、称号がない。臣下たる者たとえ卑賤であっても、なお追贈の典があるのに、まして二人の母上が存命でありながら、崇め顕彰する順序に預からなければ、先世に従い遵奉し、後世に示すことができない。」帝はその言葉に感じ入り、虞大家を憲陵貴人とし、陳夫人を渤海孝王妃とした。(孝王は名を鴻といい、章帝の子である千乗貞王劉伉の孫である。劉鴻が質帝を生み、帝が立つと、勃海に移封された。)中常侍に節を持たせて印綬を授けさせ、太常に三牲を持たせて憲陵、懷陵、静陵に告げさせた。(懷陵は沖帝の陵。静陵は質帝の陵である。)

原文熹平四年,小黃門趙祐、(《續漢志》曰:「小黃門,六百石,宦者,無員,掌侍左右,受尚書事。上在內宮,關通中外,及中宮以下衆事,諸公主及王大妃等疾苦,則使問之。」)議郎卑整上言:(風俗通曰:「卑氏,鄭大夫卑諶之後,漢有卑躬,爲北平太守。」)「《春秋》之義,母以子貴。(《公羊傳》曰:「桓公幼而貴,隱公長而卑。桓何以貴?母貴也。母貴則子何以貴?子以母貴,母以子貴。」)隆漢盛典,尊崇母氏,凡在外戚,莫不加寵。今沖帝母虞大家,質帝母陳夫人,皆誕生聖皇,而未有稱號。夫臣子雖賤,尚有追贈之典,況二母見在,不蒙崇顯之次,無以述遵先世,垂示後世也。」帝感其言,乃拜虞大家爲憲陵貴人,陳夫人爲渤海孝王妃,(孝王名鴻,章帝子千乘貞王伉之孫。鴻生質帝,帝立,徙勃海焉。)使中常侍持節授印綬,遣太常以三牲告憲陵、懷陵、靜陵焉。(懷陵,沖帝陵。靜陵,質帝陵。)

孝崇匽皇后

原文孝崇匽皇后

孝崇匽皇后は諱を明といい、蠡吾侯劉翼の側室であり、桓帝を生んだ。桓帝が即位した翌年、劉翼を孝崇皇と追尊し、陵を博陵とし、皇后を博園貴人とした。和平元年、梁太后が崩御すると、博陵において皇后を孝崇皇后と尊んだ。司徒が節を持ち、策書と璽綬じじゅを奉じて授け、乗輿や器物・服飾を贈り、法物を整えた。宮殿を永楽宮と称し、太僕・少府以下を置き、すべて長楽宮の故事に倣った。また虎賁・羽林の衛士を置き、宮室を造営し、鉅鹿郡の九県を皇后の湯沐邑として分与した。在位三年、元嘉二年に崩御した。帝の弟である平原王劉石を喪主とし、東園が製作した画梓の寿器・玉匣・飯含の具で納め、礼儀制度は恭懐皇后に準じた。司徒が節を持ち、大長秋が弔問と祭祀を奉行し、賻として銭四千万・布四万匹を贈り、中謁者僕射が喪事を監督し、侍御史が大駕鹵簿を護衛した。詔により安平王劉豹・河間王劉建・勃海王劉悝、長社・益陽の二長公主、および諸国の侯で三百里以内にいる者、ならびに中二千石・二千石・令・長・相は皆会葬した。将作大匠が墳墓を築き、廟を修繕し、博陵に合葬した。

原文孝崇匽皇后諱明,(匽音偃。)爲蠡吾侯翼媵妾,(蠡吾侯翼,河閒王開子,和帝孫。)生桓帝。桓帝即位,明年,追尊翼爲孝崇皇,陵曰博陵,以后爲博園貴人。和平元年,梁太后崩,乃就博陵尊后爲孝崇皇后。遣司徒持節奉策授璽綬,齎乘輿器服,備法物。宮曰永樂。置太僕、少府以下,皆如長樂宮故事。(《漢官儀》曰:「帝祖母稱長信宮,帝母稱長樂宮,故有長信少府、長樂少府及職吏,皆宦者爲之。」)又置虎賁、羽林衞士,起宮室,分鉅鹿九縣爲后湯沐邑。在位三年,元嘉二年崩。以帝弟平原王石爲喪主,(石,蠡吾侯翼子,桓帝兄。)斂以東園畫梓壽器、玉匣、飯含之具,禮儀制度比恭懷皇后。(東園,署名,屬少府,掌爲棺器。梓木爲棺,以漆畫之。稱壽器者,欲其乆長也,猶如壽堂、壽宮、壽陵之類也。《漢舊儀》曰:「梓棺長二丈,崇廣四尺。」玉匣者,腰已下爲匣,至足亦縫,以黃金爲鏤。飯含者,以珠玉實口。)使司徒持節,大長秋奉弔祠,賻錢四千萬,(《公羊傳》曰:「貨財曰賻。」)布四萬匹,中謁者僕射典護喪事,侍御史護大駕鹵簿。(《漢官儀》曰:「天子車駕次第謂之鹵簿。有大駕、法駕、小駕。大駕公卿奉引,大將軍參乘,太僕御,屬車八十一乘,備千乘萬騎,侍御史在左駕馬,詢問不法者。」今儀比車駕,故以侍御史監護焉。)詔安平王豹、河閒王建、勃海王悝,(悝音恢。)長社、益陽二長公主,(長社公主,桓帝姊,耿弇弟霸玄孫援尚焉。益陽公主,桓帝妹,侍中寇榮從兄子尚焉。)與諸國侯三百里內者,及中二千石、二千石、令、長、相,皆會葬。將作大匠復土,繕廟,合葬博陵。

桓帝懿献梁皇后

原文桓帝懿獻梁皇后

桓帝懿献梁皇后は諱を女瑩といい、順烈皇后の妹である。帝が初め蠡吾侯であった時、梁太后が召し出し、皇后との婚姻を望んだが、婚礼を挙げる前に質帝が崩御し、それによって帝が立てられた。翌年、有司が太后に上奏した。「『春秋』では紀から王后を迎える際、途中ですでに后と称しています。今、大将軍梁冀の妹は、聖善を継ぐにふさわしい方です。結婚の機会が到来し、すでに命令が下されています。礼の規定を整え、時宜に合わせて納幣を進めるべきです。三公・太常に礼儀を審議させてください。」奏上は許可された。そこで孝恵皇帝が皇后を迎えた故事にすべて倣い、聘礼として黄金二万斤を贈り、納采の際には雁・璧・乗馬・束帛を用い、すべて旧典の通りとした。建和元年六月に掖庭に入り、八月に皇后に立てられた。

原文桓帝懿獻梁皇后諱女瑩,(《謚法》曰:「溫和聖善曰懿,聦明叡知曰獻。」)順烈皇后之女弟也。帝初爲蠡吾侯,梁太后徵,欲與后爲婚,未及嘉禮,(嘉禮,婚禮。)會質帝崩,因以立帝。明年,有司奏太后曰:「《春秋》迎王后于紀,在塗則稱后。(《公羊傳》曰:「祭公來逆王后于紀。」傳曰:「祭公者何?天子之三公。其稱王后何?王者無外,其辭成矣。」)今大將軍兾女弟,膺紹聖善。(膺,當也。紹,嗣也。聖善謂母也,言娶妻當嗣親也。《詩》云:「母氏聖善。」)結婚之際,有命旣集,(謂太后先有令許結親也。詩云「天監在下,有命旣集」也。)宜備禮章,時進徵幣。(徵,成也。納幣以成婚。)請下三公、太常案禮儀。」奏可。於是悉依孝惠皇帝納后故事,聘黃金二萬斤,納采鴈璧乘馬束帛,一如舊典。(《漢書舊儀》:「娉皇后,黃金萬斤。」呂后爲惠帝娶魯元公主女,故特優其禮也。《儀禮》曰:「納采用鴈。」鄭玄注曰:「納其采擇之禮。用鴈,取順陰陽往來也。」《周禮》:「王者穀圭以聘女。」鄭玄注云:「士大夫已上,乃以玄纁束帛,天子加以穀圭,諸侯加以大璋。」然禮稱以圭,此云用璧,形制雖異,爲玉同也。乘馬,四匹馬也。雜記曰:「納幣一束,束五兩,兩五尋。」然則每端二丈也。)建和元年六月始入掖庭,八月立爲皇后。

当時、太后が政務を執り、梁冀が朝廷を専断していたため、皇后だけが寵愛を受け、それ以下の者は進み出て謁見することができなかった。皇后は姉と兄の権勢を頼み、奢侈を極め、宮殿の帳幕は彫刻が施され美しく、衣服や車馬は珍しいもので飾られ、巧みに制度を飾り立て、前代の倍以上であった。皇太后が崩御すると、恩愛は次第に衰えた。皇后には子がなく、ひそかに怨みと嫉妬を抱き、宮人が妊娠するたびに、無事に出産できる者はほとんどいなかった。帝は梁冀を恐れて圧迫されていたため、敢えて怒りを表すことはできなかったが、寵愛を受ける機会はますます少なくなった。延熹三年、皇后は憂いと憤りにより崩御し、在位十三年、懿陵に葬られた。その年、梁冀が誅殺され、懿陵は貴人の冢に格下げされた。

原文時太后秉政而梁兾專朝,故后獨得寵幸,自下莫得進見。后藉姊兄廕埶,恣極奢靡,宮幄彫麗,服御珍華,巧飾制度,兼倍前世。及皇太后崩,恩愛稍衰。后旣無子,潛懷怨忌,每宮人孕育,鮮得全者。帝雖迫畏梁兾,不敢譴怒,然見御轉稀。至延熹三年,后以憂恚崩,在位十三年,葬懿陵。其歲,誅梁兾,廢懿陵爲貴人冢焉。

桓帝鄧皇后

原文桓帝鄧皇后

桓帝鄧皇后は諱を猛女といい、和熹皇后の従兄の子である鄧香の娘である。母の宣は、最初鄧香に嫁ぎ、皇后を生んだ。後に梁紀に再嫁した。梁紀は、大将軍梁冀の妻である孫寿の舅である。皇后は幼くして孤児となり、母に従って暮らし、それによって梁姓を名乗った。梁冀の妻は皇后の容貌の美しさを見て、永興年間に掖庭に進め、采女とし、特別な寵愛を受けた。翌年、兄の鄧演を南頓侯に封じ、位は特進とした。鄧演が没すると、子の鄧康が嗣いだ。懿献皇后が崩御し、梁冀が誅殺されると、皇后を皇后に立てた。帝は梁氏を嫌い、姓を薄に改めさせ、皇后の母である宣を長安君に封じた。四年、有司が上奏したところによれば、皇后は本来郎中鄧香の娘であり、他の姓に改めるのは適切でないということで、そこで再び鄧姓に戻した。鄧香を車騎将軍安陽侯に追封し印綬を贈り、さらに宣と鄧康を大県に封じ、宣を昆陽君、鄧康を沘陽侯とし、賞賜は巨万の計に上った。宣が没すると、賵贈と葬礼はすべて皇后の母としての旧儀に依った。鄧康の弟である鄧統に昆陽侯の封を継がせ、位は侍中とした。鄧統の従兄である鄧会に安陽侯を継がせ、虎賁中郎将とした。また鄧統の弟である鄧秉を淯陽侯に封じた。宗族は皆、校尉・郎将に列せられた。

原文桓帝鄧皇后諱猛女,和熹皇后從兄子鄧香之女也。母宣,初適香,生后。改嫁梁紀,紀者,大將軍梁兾妻孫壽之舅也。后少孤,隨母爲居,因冒姓梁氏。兾妻見后貌美,永興中進入掖庭,爲采女,絕幸。(采,擇也,以因采擇而立名。)明年,封兄鄧演爲南頓侯,位特進。演卒,子康嗣。及懿獻后崩,梁兾誅,立后爲皇后。帝惡梁氏,改姓爲薄,封后母宣爲長安君。四年,有司奏后本郎中鄧香之女,不宜改易它姓,於是復爲鄧氏。追封贈香車騎將軍安陽侯印綬,更封宣、康大縣,宣爲昆陽君,康爲沘陽侯,賞賜巨萬計。(巨,大也。大萬謂萬萬也。)宣卒,賵贈葬禮,皆依后母舊儀。以康弟統襲封昆陽侯,位侍中;統從兄會襲安陽侯,爲虎賁中郎將;又封統弟秉爲淯陽侯。宗族皆列校、郎將。

帝は多くの女性を寵愛し、宮女を広く採択して五六千人に及び、また駆使される従者や使役は、これにさらに倍するほどであった。しかし皇后は尊貴を恃んで驕り嫉妬深く、帝が寵愛する郭貴人と互いに讒言し合った。八年、詔により皇后を廃し、暴室に送られ、憂いのうちに死去した。在位七年。北邙に葬られた。従父である河南尹の鄧万世および鄧会は皆、獄に下されて死んだ。鄧統らも暴室に拘禁され、官爵を免ぜられて本郡に帰され、財物は没収された。

原文帝多內幸,博採宮女至五六千人,及駈役從使,復兼倍於此。而后恃尊驕忌,與帝所幸郭貴人更相譖訴。八年,詔廢后,送暴室,以憂死。(《漢官儀》曰:「暴室在掖庭內,丞一人,主宮中婦人疾病者。其皇后、貴人有罪,亦就此室也。」)立七年。葬於北邙。從父河南尹萬世及會皆下獄死。統等亦繫暴室,免官爵,歸本郡,財物沒入縣官。

桓思竇皇后

原文桓思竇皇后

桓思竇皇后の諱は妙であり、章徳皇后の従祖弟の孫娘である。父の諱は武である。延熹八年、鄧皇后が廃されると、后は選ばれて掖庭に入り貴人となり、その冬、皇后に立てられたが、帝の御前に出ることは非常に稀で、帝が寵愛したのは采女の田聖らだけだった。永康元年の冬、帝が病床に伏すと、ついに田聖ら九人の女を皆貴人とした。帝が崩御した時、嗣子がなく、后は皇太后となった。太后は臨朝して策を定め、解犢亭侯の宏を立てた。これが霊帝である。

原文桓思竇皇后諱妙,章德皇后從祖弟之孫女也。父諱武。延熹八年,鄧皇后廢,后以選入掖庭爲貴人,其冬,立爲皇后,而御見甚稀,帝所寵唯采女田聖等。永康元年冬,帝寢疾,遂以聖等九女皆爲貴人。及崩,無嗣,后爲皇太后。太后臨朝定策,立解犢亭侯宏,是爲靈帝。

太后は元来嫉妬深く残忍で、田聖らに対する怒りを積もらせており、桓帝の梓宮がまだ前殿にあるうちに、田聖を殺した。さらに諸貴人を皆誅殺しようとしたが、中常侍の管霸と蘇康が懸命に諫めたので、やめた。当時、太后の父である大将軍の竇武が宦官誅殺を謀ったが、中常侍の曹節らが詔を偽って竇武を殺し、太后を南宮の雲台に移し、家族は比景に流された。

原文太后素忌忍,積怒田聖等,桓帝梓宮尚在前殿,遂殺田聖。又欲盡誅諸貴人,中常侍管霸、蘇康苦諫,乃止。時太后父大將軍武謀誅宦官,而中常侍曹節等矯詔殺武,遷太后於南宮雲臺,家屬徙比景。

竇氏は誅殺されたが、帝はなお太后に擁立の功があったとして、建寧四年十月の朔日、群臣を率いて南宮に朝見し、自ら食を進めて長寿を祝った。黄門令の董萌(『漢官儀』によれば、「黄門令の秩禄は六百石」)はこのためしばしば太后の無念を訴え、帝は深く受け入れて、供養と資財の奉仕を以前より増やした。中常侍の曹節と王甫は董萌が太后に付き従い助けることを憎み、永楽宮を誹謗したと誣告した(永楽宮は霊帝の母が住んでいた所。訕は誹謗中傷すること)。董萌は罪に問われて獄死した。熹平元年、太后の母が比景で亡くなると、太后は悲しみのあまり病を得て崩御した。在位七年。宣陵に合葬された。

原文竇氏雖誅,帝猶以太后有援立之功,建寧四年十月朔,率羣臣朝于南宮,親饋上壽。黃門令董萌(《漢官儀》曰:「黃門令秩六百石。」)因此數爲太后訴怨,帝深納之,供養資奉有加於前。中常侍曹節、王甫疾萌附助太后,誣以謗訕永樂宮,(靈帝母所居也。訕,謗毀也。)萌坐下獄死。熹平元年,太后母卒於比景,太后感疾而崩。立七年。合葬宣陵。

孝仁董皇后

原文孝仁董皇后

孝仁董皇后の諱は某、河間の人である。解犢亭侯の萇の夫人となり(萇は、河間孝王の開の孫である淑の子)、霊帝を生んだ。建寧元年、帝が即位すると、萇を追尊して孝仁皇とし、陵を慎陵とし、后を慎園貴人とした。竇氏が誅殺された後、翌年、帝は中常侍を使わして貴人を迎え、併せて貴人の兄の董寵を京師に召し、尊号を孝仁皇后とし、南宮の嘉徳殿に住まわせた(嘉徳殿は九龍門の内にある)。宮は永楽と称した。董寵を執金吾に任じた。後に永楽太后の縁者であると偽って請託した罪で、獄に下されて死んだ。

原文孝仁董皇后諱某,河閒人。爲解犢亭侯萇夫人,(萇,河閒孝王開孫淑之子也。)生靈帝。建寧元年,帝即位,追尊萇爲孝仁皇,陵曰慎陵,以后爲慎園貴人。及竇氏誅,明年,帝使中常侍迎貴人,并徵貴人兄寵到京師,上尊號曰孝仁皇后,居南宮嘉德殿,(嘉德殿在九龍門內。)宮稱永樂。拜寵執金吾。後坐矯稱永樂后屬請,下獄死。

竇太后が崩御すると、ようやく朝政に関与するようになり、帝に官職を売って財貨を求めさせ、自ら金銭を受け取り、堂室に満ち溢れた。中平五年、后の兄の子で衛尉・脩侯の董重(脩は現在の德州の県で、故城は県の南にある。「脩」は今「蓨」と書き、音は条)を票騎将軍とし、千余りの兵を率いさせた。初め、后は自ら皇子の劉協を養育し、しばしば帝に太子に立てるよう勧めたが、何皇后がこれを恨み、議論が定まらないうちに帝が崩御した。何太后が臨朝すると、董重と太后の兄である大将軍の何進が権勢を争って互いに害し合い、后が政事に関与しようとするたびに、太后はそれを阻止した。后は憤慨して罵って言った。「お前は今、強情を張って、兄を頼みにしているのか?(輈張とは強情なこと)票騎将軍に命じて何進の首を斬って来させよう。」何太后はこれを聞き、何進に告げた。何進は三公と弟の車騎将軍の何苗らとともに上奏した。「孝仁皇后が元中常侍の夏惲や永楽太僕の封諝らを使わし(『漢官儀』によれば、「永楽太僕は宦官を用いる」)、州郡と交わり、各地の珍宝や賄賂をことごとく西省に収めています(辜較の解釈は霊帝紀を参照。西省とは永楽宮の役所を指す)。蕃后の故事により京師に留まることはできず(蕃后とは平帝の母の衛姫を指す。当時王莽が摂政となり、彼女が専権するのを恐れ、后は京師に留まれなかったので、故事という)、車輿や服飾には規定があり、食事にも等級があります。永楽后を本国の宮に遷すことを請います。」奏上は許可された。何進は兵を挙げて票騎将軍府を包囲し、董重を捕らえ、董重は官を免じられて自殺した。后は憂い恐れ、病気で急に崩御した。在位二十二年。民間では何氏のせいだと非難した。喪は河間に還され、慎陵に合葬された。

原文及竇太后崩,始與朝政,使帝賣官求貨,自納金錢,盈滿堂室。中平五年,以后兄子衞尉脩侯重(脩,今德州縣也,故城在縣南。「脩」今作「蓨」,音條。)爲票騎將軍,領兵千餘人。初,后自養皇子協,數勸帝立爲太子,而何皇后恨之,議未及定而帝崩。何太后臨朝,重與太后兄大將軍進權埶相害,后每欲參干政事,太后輒相禁塞。后忿恚詈言曰:「汝今輈張,怙汝兄耶?(輈張猶彊梁也。)當勑票騎斷何進頭來。」何太后聞,以告進。進與三公及弟車騎將軍苗等奏:「孝仁皇后使故中常侍夏惲、永樂太僕封諝等交通州郡,(《漢官儀》曰:「永樂太僕,用中人爲之。」)辜較在所珍寶貨賂,悉入西省。(辜較,解見靈紀。西省,即謂永樂宮之司。)蕃后故事不得留京師,(蕃后謂平帝母衞姬。時王莽攝政,恐其專權,后不得留在京師,故云故事也。)輿服有章,膳羞有品。請永樂后遷宮本國。」奏可。何進遂舉兵圍驃騎府,收重,重免官自殺。后憂怖,疾病暴崩,在位二十二年。民間歸咎何氏。喪還河閒,合葬慎陵。

霊帝宋皇后

原文靈帝宋皇后

霊帝宋皇后の諱は某、扶風平陵の人で、粛宗(章帝)の宋貴人の従曾孫である。建寧三年、選ばれて掖庭に入り貴人となった。翌年、皇后に立てられた。父の宋酆は執金吾で、不其郷侯に封じられた(不其は県で琅邪郡に属し、故城は現在の萊州即墨県の西南にあり、おそらくその県の郷である。その音は基。決録注によれば「酆の字は伯遇」)。

原文靈帝宋皇后諱某,扶風平陵人也,肅宗宋貴人之從曾孫也。建寧三年,選入掖庭爲貴人。明年,立爲皇后。父酆,執金吾,封不其鄉侯。(不其,縣,屬琅邪郡,故城在今萊州即墨縣西南,蓋其縣之鄉也。其音基。決錄注:「酆字伯遇。」)

后は寵愛されなかったが正位にあり、後宮の寵姫たちが多く、共に讒言して誹謗した。初め、中常侍の王甫が無実の罪で勃海王の劉悝とその妃の宋氏を誅殺したが(熹平元年、王甫が劉悝が中常侍の鄭颯と通じ、劉悝を迎え立てようとしていると讒言し、劉悝は自殺し、妃は獄中で死んだ)、妃は后の叔母であった。王甫は后が恨むことを恐れ、太中大夫の程阿と共に皇后が左道を用いて呪詛していると偽って言い立てた(礼記に「左道を執って衆を乱す者は、赦さず殺す」とある。鄭玄の注に「左道とは巫蠱のようなもの」)。帝はこれを信じた。光和元年、ついに策書を下して璽綬を没収した。后は自ら暴室に行き、憂いのうちに死んだ。在位八年。父と兄弟は皆誅殺された。省闥にいる諸常侍や小黄門たちは皆、宋氏が無実であることを哀れみ、共に金品を出し合い、廃后と宋酆父子を葬り、宋氏の旧墳である皐門亭に帰した(『詩経』に「迺立皐門」とある。注に「王の郭門を皐門という」。『漢官儀』に「十二門には皆亭がある」)。

原文后無寵而居正位,後宮幸姬衆,共譖毀。初,中常侍王甫枉誅勃海王悝及妃宋氏,(熹平元年,王甫譖悝與中常侍鄭颯交通,欲迎立悝,悝自殺,妃死獄中也。)妃即后之姑也。甫恐后怨之,及與太中大夫程阿共構言皇后挾左道祝詛,(禮記曰:「執左道以亂衆,殺無赦。」鄭玄注云:「左道,若巫蠱也。」)帝信之。光和元年,遂策收璽綬。后自致暴室,以憂死。在位八年。父及兄弟並被誅。諸常侍、小黃門在省闥者,皆憐宋氏無辜,共合錢物,收葬廢后及酆父子,歸宋氏舊塋皐門亭。(《詩》云:「迺立皐門。」注云:「王之郭門曰皐門。」《漢官儀》曰:「十二門皆有亭。」)

帝は後に桓帝が怒って言う夢を見た。「宋皇后に何の罪過があって、邪悪な輩の言葉を聞き入れ、彼女の命を絶ったのか?勃海王の劉悝は既に自ら貶められ、さらに誅殺された。今、宋氏と劉悝が天に訴え出て、上帝が激怒している(上帝は天。震は動くこと。書経に「帝乃震怒」とある)。罪は救い難い。」夢は非常に明らかだった。帝は目覚めて恐れ、事を羽林左監の許永(『続漢志』によれば、「羽林左監一人、秩禄六百石、羽林左騎を主管する。右も同じ」。「永」は「詠」とも作る)に問うて言った。「これは何の兆しか?除くことができるか?(攘とは除くこと)」許永は答えて言った。「宋皇后は陛下と共に宗廟を継ぎ、万国に対して母として臨み、年数は既に久しく、海内は教化を受け、過ちや悪事は聞こえませんでした。それなのに虚しく讒言や妬みの説を聞き入れ、無実の罪に陥れ、身は極刑を受け、禍は家族に及び、天下の臣妾は皆、怨み痛んでいます。勃海王の劉悝は桓帝の同母弟です。国にあって藩屏として仕え、かつて過ちはありませんでした。陛下は一度も証拠を確かめず、遂にその罪を伏せました。昔、晋侯が刑罰を誤った時も、大厲が髪を振り乱して地に届く夢を見ました(『左伝』に「晋侯が大厲の夢を見た。髪を振り乱して地に届き、胸を叩いて踊りながら言った『我が孫を殺すとは不義である。我は帝に請うて許しを得た』」。杜預の注に「厲鬼は趙氏の先祖である。晋侯は先に趙同と趙括を殺したので、怒ったのである」)。天道は明らかに見ており、鬼神を欺くことは難しい。共に改葬し、冤魂を慰めるべきです。宋后の家の者の流刑を解き、勃海王の先の封を復し、その咎を消すべきです。」帝は用いることができず、間もなく崩御した。

原文帝後夢見桓帝怒曰:「宋皇后有何罪過,而聽用邪孽,使絕其命?勃海王悝旣已自貶,又受誅斃。今宋氏及悝自訴於天,上帝震怒,(上帝,天也。震,動也。書曰「帝乃震怒」也。)罪在難救。」夢殊明察。帝旣覺而恐,以事問於羽林左監許永(《續漢志》曰:「羽林左監一人,秩六百石,主羽林左騎。右亦如之。」「永」或作「詠」。)曰:「此何祥?其可攘乎?」(攘謂除也。)永對曰:「宋皇后親與陛下共承宗廟,母臨萬國,歷年已乆,海內蒙化,過惡無聞。而虛聽讒妬之說,以致無辜之罪,身嬰極誅,禍及家族,天下臣妾,咸爲怨痛。勃海王悝,桓帝母弟也。處國奉藩,未甞有過。陛下曾不證審,遂伏其辜。昔晉侯失刑,亦夢大厲被髮屬地。(《左傳》曰:「晉侯夢大厲,被髮及地,搏膺而踊曰:『殺余孫,不義,余得請于帝矣。』」杜預注曰:「厲鬼,趙氏之先祖也。晉侯先殺趙同、趙括,故怒也。」)天道明察,鬼神難誣。宜並改葬,以安冤魂。反宋后之徙家,復勃海之先封,以消厥咎。」帝弗能用,尋亦崩焉。

霊思何皇后

原文靈思何皇后

霊思何皇后の諱は某、南陽宛の人である。家は元々屠殺業者で、選ばれて掖庭に入った(風俗通によれば、漢では八月に人口調査を行う。后の家は金帛を主事者に贈って入ることを求めた)。身長七尺一寸。皇子の劉辯を生み、史道人の家で養育され、史侯と号した(道人とは道術を行う者のこと。『献帝春秋』によれば「霊帝は数度子を失い、正式な名を付けず、道人の史子眇の家で養育し、史侯と号した」)。后を貴人に任じ、非常に寵愛された。性格は強情で嫉妬深く、後宮は皆震え上がった。

原文靈思何皇后諱某,南陽宛人。家本屠者,以選入掖庭。(風俗通曰,漢以八月筭人。后家以金帛賂遺主者以求入也。)長七尺一寸。生皇子辯,養於史道人家,號曰史侯。(道人謂道術之人也。《獻帝春秋》曰:「靈帝數失子,不敢正名,養道人史子眇家,號曰史侯。」)拜后爲貴人,甚有寵幸。性彊忌,後宮莫不震懾。

光和三年、皇后に立てられた。翌年、皇后の父の真を車騎将軍・舞陽宣徳侯と追号し、これに因んで皇后の母の興を舞陽君に封じた。当時、王美人が妊娠していたが、皇后を恐れて薬を服用して胎を除こうとしたが、胎は安らかで動かず、またしばしば日を背負って行く夢を見た。四年、皇子の協を生んだ。皇后はついに王美人を毒殺した。帝は大いに怒り、皇后を廃そうとしたが、諸宦官が固く請うて止めることができた。董太后が自ら協を養育し、董侯と号した。

原文光和三年,立爲皇后。明年,追號后父真爲車騎將軍、舞陽宣德侯,因封后母興爲舞陽君。時王美人任娠,(《左傳》曰:「邑姜方娠。」杜預注曰:「懷胎爲娠。」音之刃反,一音身。)畏后,乃服藥欲除之,而胎安不動,又數夢負日而行。四年,生皇子恊,后遂酖殺美人。帝大怒,欲廢后,諸宦官固請得止。董太后自養協,號曰董侯。

王美人は趙国の人である。祖父の苞は五官中郎将であった。美人は容姿に優れ、聡明で才知があり、書を能くし会計に通じていたため、良家の子女として法に応じて相選ばれて掖庭に入った。帝は協が早く母を失ったことを哀れみ、また美人を思い、追徳賦と令儀頌を作った。

原文王美人,趙國人也。祖父苞,五官中郎將。美人豐姿色,聦敏有才明,能書會計,(會計謂揔會其數而筭。)以良家子應法相選入掖庭。帝愍協早失母,又思美人,作追德賦、令儀頌。

中平六年、帝が崩御し、皇子の弁が即位すると、皇后を皇太后と尊んだ。太后が臨朝した。太后の兄の大将軍の進が宦官を誅殺しようとしたが、かえって害され、舞陽君もまた乱兵に殺された。并州牧の董卓が徴されて兵を率いて洛陽に入り、朝廷を陵虐し、ついに少帝を廃して弘農王とし、協を立てた。これが献帝である。弘農王を殿から降ろし、北面して臣と称させた。太后は声を詰まらせて涙し、群臣は悲しみを抱き、敢えて言う者はいなかった。董卓はまた、太后が永楽宮で逼迫され、ついに憂死に至らしめたことは、姑と嫁の礼に逆らうものだとして、永安宮に遷し、毒を進めて弑し、崩御させた。在位十年であった。董卓は帝に命じて奉常亭に出て哀悼の礼を行わせた。公卿は皆白衣で会し、喪の礼を成さなかった。文昭陵に合葬された。

原文中平六年,帝崩,皇子辯即位,尊后爲皇太后。太后臨朝。后兄大將軍進欲誅宦官,反爲所害;舞陽君亦爲亂兵所殺。并州牧董卓被徵,將兵入洛陽,陵虐朝庭,遂廢少帝爲弘農王而立協,是爲獻帝。扶弘農王下殿,北面稱臣。太后鯁涕,羣臣含悲,莫敢言。董卓又議太后踧迫永樂宮,至令憂死,逆婦姑之禮,乃遷於永安宮,因進酖,弒而崩。在位十年。董卓令帝出奉常亭舉哀,(華延儁《洛陽記》曰:「城內有奉常亭。」)公卿皆白衣會,不成喪也。(有凶事素服而朝,謂之白衣會。《左傳》曰:「不書葬,不成喪。」)合葬文昭陵。

初め、太后が新たに立てられた時、二祖の廟に謁見しようとし、斎戒しようとする度に変故があり、このようなことが数度あって、ついに果たせなかった。当時、識者は心の中でこれを怪しんだが、後に何氏が漢の国統を傾没させることとなった。

原文初,太后新立,當謁二祖廟,欲齋,輒有變故,如此者數,竟不克。時有識之士心獨怪之,後遂因何氏傾沒漢祚焉。

翌年、山東で義兵が大いに起こり、董卓の乱を討った。董卓は弘農王を閣上に置き、郎中令の李儒に毒を進めさせて言わせた。「この薬を服すれば、悪を避けることができる。」王は言った。「私は病気ではない。これは私を殺そうとしているだけだ!」飲もうとしなかった。強いて飲ませた。やむを得ず、妻の唐姫および宮人と共に酒宴を開いて別れを告げた。酒が巡り、王は悲歌して言った。「天道は易きにあり、我は何ぞ艱しきことか!万乗を棄てて退き蕃を守る。逆臣に迫られて命延びず、逝きて将に汝を去りて幽玄に適わん!」そこで唐姫に舞を命じた。姫は袖を挙げて歌った。「皇天崩れ、后土頽る。身は帝たりしも命は夭摧す。死生の路異なりてここより乖く。我が煢独なるを奈何せん、心中哀し!」そこで涙を流して嗚咽し、座る者は皆すすり泣いた。王は姫に言った。「卿は王者の妃である。勢い、再び吏民の妻となることはない。自らを愛し、ここから長く別れよ!」ついに薬を飲んで死んだ。時に十八歳であった。

原文明年,山東義兵大起,討董卓之亂。卓乃置弘農王於閣上,使郎中令李儒進酖,曰:「服此藥,可以辟惡。」王曰:「我無疾,是欲殺我耳!」不肯飲。強飲之,不得已,乃與妻唐姬及宮人飲讌別。酒行,王悲歌曰:「天道易兮我何艱!棄萬乘兮退守蕃。逆臣見迫兮命不延,逝將去汝兮適幽玄!」因令唐姬起舞,姬抗袖而歌(抗,舉也。)曰:「皇天崩兮后土穨,(《史記》:周烈王崩,周人謂齊威王曰「天崩地坼」也。)身爲帝兮命夭摧。死生路異兮從此乖,柰我焭獨兮心中哀!」因泣下嗚咽,坐者皆歔欷。王謂姬曰:「卿王者妃,埶不復爲吏民妻。自愛,從此長辭!」遂飲藥而死。時年十八。

唐姫は潁川の人である。王が薨じた後、郷里に帰った。父の会稽太守の瑁が彼女を嫁がせようとしたが、姫は誓って許さなかった。李傕が長安を破り、兵を遣わして関東を掠奪し、姫を捕らえた。李傕は彼女を妻にしようとしたが、固く聞き入れず、終に自ら名乗らなかった。尚書の賈詡がこのことを知り、その状況を献帝に報告した。帝は聞いて感傷し、詔を下して姫を迎え、園中に置き、侍中に節を持たせて弘農王妃に拝した。

原文唐姬,潁川人也。王薨,歸鄉里。父會稽太守瑁欲嫁之,姬誓不許。及李傕破長安,遣兵鈔關東,略得姬。傕因欲妻之,固不聽,而終不自名。(不自名少帝之姬也。袁宏《紀》曰:「爲傕所略,不敢自言。」)尚書賈詡知之,(《魏志》曰:「詡字文和,武威姑臧人。少時漢陽閻忠見而異之,曰:『詡有良、平之才。』」)以狀白獻帝。帝聞感愴,乃下詔迎姬,置園中,使侍中持節拜爲弘農王妃。

初平元年二月、弘農王を故中常侍の趙忠の成壙の中に葬り、諡して懐王とした。

原文初平元年二月,葬弘農王於故中常侍趙忠成壙中,(趙忠先有成壙,因而葬焉。)謚曰懷王。

帝は母の王美人の兄の斌を求め、斌は妻子を連れて長安に赴き、邸宅と田業を賜り、奉車都尉に拝された。

原文帝求母王美人兄斌,斌將妻子詣長安,賜第宅田業,拜奉車都尉。

興平元年、帝が元服した。有司が長秋宮を立てることを奏上した。詔して言った。「朕は稟受するところ弘からず、禍乱に遭い、先業を継いで故典を光らせることができなかった。皇母は先に薨じ、まだ墓所を卜していない。礼の章典に欠けがあり、中心結ぶが如し。三年の喪の間は、吉事を言わないのが礼である。しばらくその後を待て。」そこで有司は王美人を霊懐皇后と追尊し、文昭陵に改葬し、その儀礼を敬陵と恭陵の例に比せしめることを奏上した。光禄大夫に節を持たせて司空の事を行わせ、璽綬を奉じさせ、斌と河南尹の駱業に土を復させることとした。

原文興平元年,帝加元服。有司奏立長秋宮。詔曰:「朕稟受不弘,遭值禍亂,未能紹先,以光故典。皇母前薨,未卜宅兆,禮章有闕,中心如結。(《詩》云:「心如結兮。」)三歲之慼,蓋不言吉,且須其後。」於是有司乃奏追尊王美人爲靈懷皇后,改葬文昭陵,儀比敬、恭二陵,(敬,章帝陵。恭,安帝陵。)使光祿大夫持節行司空事奉璽綬,斌與河南尹駱業復土。

斌が帰還すると、執金吾に遷り、都亭侯に封じられ、食邑五百戸を与えられた。病没し、前将軍の印綬を追贈され、謁者が監護して喪事を行った。長子の端が爵を襲った。

原文斌還,遷執金吾,封都亭侯,(凡言都亭者,並城內亭也。漢法,大縣侯位視三公,小縣侯位視上卿,鄉侯、亭侯視中二千石也。)食邑五百戶。病卒,贈前將軍印綬,謁者監護喪事。長子端襲爵。

献帝伏皇后

原文獻帝伏皇后

献帝の伏皇后は諱を寿といい、琅邪東武の人で、大司徒の湛の八世孫である。父の完は沈深にして大度があり、不其侯の爵を襲ぎ、桓帝の女の陽安公主を娶り、侍中となった。

原文獻帝伏皇后諱壽,琅邪東武人,(東武,今密州諸城縣。),大司徒湛之八世孫也。父完,沈深有大度,襲爵不其侯,尚桓帝女陽安公主,(陽安,縣,屬汝南郡,故城在今豫州朗山縣東北。)爲侍中。

初平元年、大駕に従って西遷して長安に至り、后は時に掖庭に入って貴人となった。興平二年、皇后に立てられ、完は執金吾に遷った。帝はまもなく東帰しようとしたが、李傕・郭汜らが追撃して曹陽で乗輿を破り、帝はひそかに夜に河を渡って逃走した。六宮は皆歩行で営を出た。后は手に数匹の絹を持っていたが、董承が符節令の孫徽に刃で脅してこれを奪わせ、傍らの侍者を殺し、血が后の衣に飛び散った。安邑に至ると、御服は破れ、ただ棗と栗を糧とした。建安元年、完を輔国将軍に拝し、その儀礼は三司に比した。完は政が曹操にあることを以て、自ら尊戚であることを嫌い、印綬を上って中散大夫に拝され、まもなく屯騎校尉に遷った。十四年に卒し、子の典が嗣いだ。

原文初平元年,從大駕西遷長安,后時入掖庭爲貴人。興平二年,立爲皇后,完遷執金吾。帝尋而東歸,李傕、郭汜等追敗乘輿於曹陽,帝乃潛夜度河走,(度所在今陝州陝縣北。水經曰銅翁仲所沒處,是獻帝東遷潛度所。)六宮皆步行出營。(《周禮》曰:「王后率六宮之人。」鄭玄注曰:「六宮之人,夫人以下,分居后之六宮者。」)后手持縑數匹,董承使符節令孫徽以刃脅奪之,殺傍侍者,血濺后衣。(濺音子見反。)旣至安邑,御服穿敝,唯以棗栗爲糧。建安元年,拜完輔國將軍,儀比三司。完以政在曹操,自嫌尊戚,乃上印綬,拜中散大夫,尋遷屯騎校尉。十四年卒,子典嗣。

帝都が許に移ってからは、帝は位を守るだけであった。宿衛の兵士や侍従は、ことごとく曹氏の旧臣や姻戚でなかった者はなかった。議郎の趙彦はかつて帝に時勢の策を述べたことがあったが、曹操はこれを憎んで殺した。その他、内外の者で多く誅殺された。曹操は後に用事があって殿中に入って拝謁した時、帝は憤りを抑えきれず、ついに言った。「君がもし補佐するならば、それは厚いものだ。そうでなければ、どうか恩恵を垂れて私を見捨ててくれ。」曹操は顔色を失い、うつむいたり仰いだりして退出を請うた。旧儀では、三公が兵を率いて朝見する時は、虎賁に命じて刃を持たせて挟ませるものだった。曹操が出て行く時、左右を見回し、汗が背中に流れた。(浹は徹の意。音は子協反。)その後は敢えて再び朝請しなかった。董承の娘が貴人となっていたが、曹操は董承を誅殺し、貴人を求めて殺そうとした。帝は貴人が妊娠していたため、(『説文』に「𡜟は孕なり」とある。音は仁蔭反。)繰り返し請願したが、叶わなかった。伏后はこれ以来、恐れを抱き、父の伏完に手紙を送り、曹操の残酷で逼迫する様子を書き、密かに図るよう命じた。伏完は敢えて実行しなかった。建安十九年になって、事は露見した。曹操は大いに怒り、ついに帝を脅迫して皇后を廃した。偽りの策書を作り、次のように言った。「皇后の寿(伏后の名)は、卑賤の身から出て、顕著な尊極の位に登り、椒房に自ら処すること、二紀(二十四年)に及んだ。既に大任・大姒のような美しい誉れの音もなく、(大任は文王の母。大姒は武王の母。徽は美なり。『詩』に「大姒は徽音を嗣ぐ」とある。)また謹んで身を養い己を保つ福も乏しく、(『左伝』に「人は天地の中和を受けて生まれ、これを命という。能くする者はこれをもって福を養い、能くしない者はこれをもって禍を取って敗れる」とある。)しかも陰に妬み害する心を懐き、禍心を包み隠している。天命を承け、祖宗に奉ずるに足りない。今、御史大夫の郗慮に節を持たせて策詔を授け、その皇后の璽綬を上らせ、(蔡邕『独断』に「皇后は赤綬玉璽」とある。『続漢志』に「乗輿は黄赤綬、四綵(黄赤縹紺)で、淳黄圭、綬の長さは二丈九尺九寸、五百首。太皇太后・皇太后、その綬は皆乗輿と同じ」とある。)中宮を退避させ、他の館に移す。ああ、悲しいかな。自ら寿が招いたことであり、道理に至らなかったが、幸いが多い方である。」また、尚書令の華歆を郗慮の副使とし、(『魏志』に「華歆は字を子魚といい、平原郡高唐県の人。荀彧に代わって尚書令となった。慮は字を鴻預といい、山陽郡高平県の人」とある。)兵を率いて宮中に入り皇后を捕らえさせた。皇后は戸を閉めて壁の中に隠れたが、華歆が近づいて皇后を引きずり出した。その時、帝は外殿におり、郗慮を座に招き入れた。皇后は髪を振り乱し、裸足で歩きながら泣き、別れの言葉を述べて言った。「もう私を生かしてはおけないのですか。」帝は言った。「私も命がいつまで続くかわからない。」振り返って郗慮に言った。「郗公、天下にこのようなことがあろうか。」ついに皇后を暴室に下し、幽閉して死なせた。生んだ二人の皇子は、皆毒殺された。皇后が在位した二十年間、兄弟及び宗族で死んだ者は百余人、母の盈ら十九人は涿郡に流された。

原文自帝都許,守位而已,宿衞兵侍,莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彥甞爲帝陳言時策,曹操惡而殺之。其餘內外,多見誅戮。操後以事入見殿中,帝不任其憤,因曰:「君若能相輔,則厚;不爾,幸垂恩相捨。」操失色,俛仰求出。舊儀,三公領兵朝見,令虎賁執刃挾之。操出,顧左右,汗流浹背,(浹,徹也,音子協反。)自後不敢復朝請。董承女爲貴人,操誅承而求貴人殺之。帝以貴人有𡜟,(《說文》曰:「𡜟,孕也。」音仁蔭反。)累爲請,不能得。后自是懷懼,乃與父完書,言曹操殘逼之狀,令密圖之。完不敢發。至十九年,事乃露泄。操追大怒,遂逼帝廢后,假爲策曰:「皇后壽,得由卑賤,登顯尊極,自處椒房,(《漢官儀》曰:「皇后稱椒房,取其蕃實之義也。」《詩》云:「椒聊之實,蕃衍盈升。」)二紀于茲。旣無任、姒徽音之羙,(大任,文王母。大姒,武王母。徽,美也。《詩》云:「大姒嗣徽音。」)又乏謹身養己之福,(《左傳》曰:「人受天地之中而生,謂之命。能者養之以福,不能者敗以取禍。」)而陰懷妒害,苞藏禍心,弗可以承天命,奉祖宗。今使御史大夫郗慮持節策詔,其上皇后璽綬,(蔡邕《獨斷》曰:「皇后赤綬玉璽。」《續漢志》曰:「乘輿黃赤綬,四綵黃赤縹紺,淳黃圭,綬長二丈九尺九寸,五百首。太皇太后、皇太后,其綬皆與乘輿同。」)退避中宮,遷于它館。嗚呼傷哉!自壽取之,未致于理,爲幸多焉。」又以尚書令華歆爲郗慮副,(《魏志》曰:「華歆字子魚,平原高唐人。代荀彧爲尚書令。慮字鴻預,山陽高平人。」)勒兵入宮收后。閉戶藏壁中,歆就牽后出。時帝在外殿,引慮於坐。后被髮徒跣行泣過訣曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不知命在何時!」顧謂慮曰:「郗公,天下寧有是邪?」遂將后下暴室,以幽崩。所生二皇子,皆酖殺之。后在位二十年,兄弟及宗族死者百餘人,母盈等十九人徙涿郡。

献穆曹皇后

原文獻穆曹皇后

献穆曹皇后は諱を節という。(『謚法』に「布徳執義を穆という」とある。)魏公曹操の中女(次女)である。建安十八年、曹操は三人の娘、憲・節・華を夫人として献上し、束帛と玄纁五万匹を聘礼とし、末の娘(華)は国で年を待たせた。(国に留めて、年長を待つ。)十九年、皆貴人に拝された。伏皇后が弑された後、翌年、節を立てて皇后とした。魏が禅譲を受けると、使者を遣わして璽綬を求めた。后は怒って与えなかった。このようなことが数回あり、后はついに使者を呼び入れ、自ら数えながら責め、璽を軒の下に投げつけ、(抵は擲つ。軒は欄干の板。)涙を流して言った。「天はお前たちを助けない。」左右の者は皆、顔を上げて見ることができなかった。后在位七年。魏が既に立つと、后を山陽公夫人とした。その後四十一年、魏の景初元年に薨去し、禅陵に合葬された。車服礼儀は皆漢の制度に依った。

原文獻穆曹皇后諱節,(《謚法》曰:「布德執義曰穆。」)魏公曹操之中女也。建安十八年,操進三女憲、節、華爲夫人,聘以束帛玄纁五萬匹,小者待年於國。(留住於國,以待年長。)十九年,並拜爲貴人。及伏皇后被弒,明年,立節爲皇后。魏受禪,遣使求璽綬,后怒不與。如此數輩,后乃呼使者入,親數讓之,以璽抵軒下,(抵,擲也。軒,闌板也。)因涕泣橫流曰:「天不祚爾!」左右皆莫能仰視。后在位七年。魏氏旣立,以后爲山陽公夫人。自後四十一年,魏景初元年薨,合葬禪陵,車服禮儀皆依漢制。

論じて言う。漢代の皇后には謚がなく、皆帝の謚によって称された。たとえ呂氏が専政し、上官氏が制を臨んでも、特別な称号はなかった。(上官は昭帝の后。)中興して、明帝が初めて光烈の称を建て、その後は皆徳をもって配し、賢愚優劣にかかわらず、混同して一貫させた。故に馬・竇の二后は共に徳と称された。その他は、帝の庶母及び蕃王が統を承けて、追尊の重みにより、特にその号を与えた。例えば恭懐・孝崇の類である。初平年間、蔡邕が初めて和熹の謚を追正した。(蔡邕の集めた謚議に「漢代の母氏には謚がなく、明帝に至って初めて光烈の称を建て、その後は転じて帝号に徳を加えることとなり、上下優劣が混然として一つとなり、礼の『大行は大名を受け、小行は小名を受く』の制に違う。『謚法』に『功有りて人を安んずるを熹という』。帝后は一体であり、礼もまた同じくすべきである。大行皇太后の謚は和熹とすべきである」とある。)安思・順烈以下は、皆これに依って加えられた。

原文論曰:漢世皇后無謚,皆因帝謚以爲稱。雖呂氏專政,上官臨制,亦無殊號。(上官,昭帝后也。)中興,明帝始建光烈之稱,其後並以德爲配,至於賢愚優劣,混同一貫,故馬、竇二后俱稱德焉。其餘唯帝之庶母及蕃王承統,以追尊之重,特爲其號,如恭懷、孝崇之比是也。初平中,蔡邕始追正和熹之謚,(蔡邕集謚議曰:「漢世母氏無謚,至于明帝始建光烈之稱,是後轉因帝號加之以德,上下優劣,混而爲一,違禮『大行受大名,小行受小名』之制。《謚法》『有功安人曰熹』。帝后一體,禮亦宜同。大行皇太后謚宜爲和熹。」)其安思、順烈以下,皆依而加焉。

賛して言う。坤は厚く載せるのみ。陰は内に正し。(『易』に「坤は厚く物を載せる」とある。また「女は内に位を正し、男は外に位を正す」とある。)詩は好逑を美しみ、(逑は匹なり。『詩』に「窈窕たる淑女、君子の好逑」とある。后妃に関雎の徳有り、君子の好匹となることを言う。)易は帰妹を称す。(兌下震上、帰妹の卦なり。婦人、嫁するを帰といい、妹は少女の称。兌は少陰、震は長陽、少陰にして長陽を承け、悦びて以て之を動かす、帰妹の象なり。六五と九二と相応ずるに以て、五は王侯なり、故に易に「帝乙、妹を帰す」と言う。)祁祁たる皇孋、貞淑を示すことを言う。(祁祁は衆多なり。孋もまた儷なり。観は示すなり。諸后皆その貞淑を示し、皇に配して儷となることを言う。字書に「孋」の字無し、相伝えて音は麗、蕭該は音は離とす。)この良哲に媚び、我が天祿を承く。政を蘭閨に班し、礼を椒屋に宣ぶ。(班固『西都賦』に「後宮は則ち掖庭椒房、后妃の室。蘭林蕙草、披香発越」とある。蘭林は殿名、故に蘭閨と言う。椒屋は即ち椒房なり。)既に徳の昇るを云い、また幸進を曰う。(徳升は馬・鄧等を謂う。幸進は閻・何の類を謂う。)身隆極に当たり、族漸く河潤す。(『公羊伝』に「河海千里を潤す」とある。)景に視て暉を争い、方山と並びて峻し。剛に乗れば阻多く、地を行えば必ず順す。(易の屯卦の象に「六二の難は、剛に乗るなり」とある。また坤卦に「牝馬は地類、地を行くに疆無し」とある。王弼の注に「地の以て疆無きを得るは、卑順に行うが故なり」と云う。)咎は驕満に集まり、福は貞信に協う。慶は己より延び、禍は誰が釁に成る。

原文贊曰:坤惟厚載,陰正乎內。(《易》曰:「坤厚載物。」又曰:「女正位乎內,男正位乎外。」)詩美好逑,(逑,匹也。《詩》云:「窈窕淑女,君子好逑。」言后妃有關雎之德,爲君子好匹。)易稱歸妹。(兌下震上,歸妹卦也。婦人謂嫁曰歸,妹爲少女之稱。兌爲少陰,震爲長陽,少陰而承長陽,恱以動之,歸妹之象也。以六五與九二相應,五爲王侯,故易言「帝乙歸妹」。)祁祁皇孋,言觀貞淑。(祁祁,衆多也。孋亦儷也。觀,示也。言諸后皆示其貞淑,配皇爲儷。案字書無「孋」字,相傳音麗,蕭該音離。)媚茲良哲,承我天祿。班政蘭閨,宣禮椒屋。(班固《西都賦》曰:「後宮則掖庭椒房,后妃之室。蘭林蕙草,披香發越。」蘭林,殿名,故言蘭閨。椒屋即椒房也。)旣云德升,亦曰幸進。(德升謂馬、鄧等也。幸進謂閻、何之類也。)身當隆極,族漸河潤。(《公羊傳》曰「河海潤千里」也。)視景爭暉,方山並峻。乘剛多阻,行地必順。(易屯卦象曰:「六二之難,乘剛也。」又坤卦曰:「牝馬地類,行地無疆。」王弼注云:「地之所以得無疆者,以卑順行之故也。」)咎集驕滿,福協貞信。慶延自己,禍成誰釁。

附:公主

原文附:公主

漢の制度では、皇女は皆県公主に封ぜられ、儀礼と服飾は列侯と同じであった。(漢法では、大県侯は三公と同等に扱われた。)そのうち尊崇される者は、長公主の称号を加えられ、儀礼と服飾は蕃王と同じであった。(蔡邕が言うには、「皇帝の娘は公主、姉妹は長公主という。」建武十五年、舞陽公主を長公主に封じたのは、すなわち皇帝の娘であっても尊崇されれば長公主となるのであり、姉妹だけに限らないのである。輿服志には「長公主は赤𦋺軿車を用い、諸侯と同じ綬を持つ」とある。)諸王の娘は皆、郷公主または亭公主に封ぜられ、儀礼と服飾は郷侯・亭侯と同じであった。(郷侯・亭侯は中二千石と同等に扱われた。)粛宗(章帝)は特に、東平憲王劉蒼と琅邪孝王劉京の娘だけを県公主に封じた。(『東平王伝』には「劉蒼の娘五人を県公主に封じた」とある。孝王の娘については、伝にその数が見えない。)その後、安帝や桓帝の妹も長公主に封ぜられ、皇女と同じ扱いを受けた。(考証:鄧禹の玄孫で少府の鄧襃が舞陰長公主を娶り、耿弇の曾孫で侍中の耿良が濮陽長公主を娶り、岑彭の玄孫で魏郡太守の岑熙が涅陽長公主を娶り、来歙の玄孫で虎賁中郎将の来定が平氏長公主を娶ったが、いずれも安帝の妹である。長社公主と益陽公主は、桓帝の妹である。解釈は上記参照。)皇女で公主に封ぜられた者の、生んだ子は母の封を継いで列侯となった。(馮定は獲嘉公主の子で、獲嘉侯の封を継いだ。馮奮は平陽公主の子で、平陽侯の封を継いだ。これがその類例である。)皆、封国を後世に伝えた。郷・亭の封は、伝承されなかった。その職僚と品秩については、百官志に事績が記されている。(沈約『謝儼伝』によると、「范曄が撰した十志は、全て謝儼に託されたものであった。収集撰述がほぼ完了した時、范曄が敗北に遭い、全て車を覆うための蝋にされた。宋文帝は丹陽尹の徐湛之に謝儼のもとを訪ねさせて求めさせたが、すでに再び得ることはできず、一時代の恨みとなった。その志は今欠けている。」『続漢志』によると、「諸公主の家令一人、六百石。丞一人、三百石。その他の属吏は、増減が一定しない。」『漢官儀』によると「長公主には傅一人、私府長一人、食官一人、永巷長一人、家令一人がおり、秩はいずれも六百石で、それぞれ員吏を持つ。また郷公主には傅一人、秩六百石。僕一人、六百石。家丞一人、三百石がいる」という。)別に記載するに足りないので、故に后紀の末尾に附する。

原文漢制,皇女皆封縣公主,儀服同列侯。(漢法,大縣侯視三公。)其尊崇者,加號長公主,儀服同蕃王。(蔡邕曰:「帝女曰公主,姊妹曰長公主。」建武十五年,封舞陽公主爲長公主,即是帝女尊崇亦爲長,非惟姊妹也。輿服志曰「長公主赤𦋺軿車,與諸侯同綬」也。)諸王女皆封鄉、亭公主,儀服同鄉、亭侯。(鄉、亭侯視中二千石。)肅宗唯特封東平憲王蒼、琅邪孝王京女爲縣公主。(《東平王傳》曰:「封蒼女五人爲縣公主。」孝王女,傳不見其數。)其後安帝、桓帝妹亦封長公主,同之皇女。(案:鄧禹玄孫少府襃尚舞陰長公主,耿弇曾孫侍中良尚濮陽長公主,岑彭玄孫魏郡守熙尚涅陽長公主,來歙玄孫虎賁中郎將定尚平氏長公主,並安帝妹也。長社、益陽公主,桓帝妹也。解見上。)其皇女封公主者,所生之子襲母封爲列侯,(溤定,獲嘉公主子,襲封獲嘉侯;馮奮,平陽公主子,襲封平陽侯。此其類也。)皆傳國於後。鄉、亭之封,則不傳襲。其職僚品秩,事在百官志。(沈約《謝儼傳》曰:「范曄所撰十志,一皆託儼。搜撰垂畢,遇曄敗,悉蠟以覆車。宋文帝令丹陽尹徐湛之就儼尋求,巳不復得,一代以爲恨。其志今闕。」《續漢志》曰:「諸公主家令一人,六百石;丞一人,三百石;其餘屬吏,增減無常。」《漢官儀》曰「長公主傅一人,私府長一人,食官一人,永巷長一人,家令一人,秩皆六百石,各有員吏。而鄉公主傅一人,秩六百石,僕一人,六百石,家丞一人,三百石」也。)不足別載,故附于后紀末。

世祖(光武帝)の五人の娘

原文世祖五女

皇女義王は、建武十五年に舞陽長公主に封ぜられ、延陵郷侯で太僕の梁松に嫁いだ。(舞陽は県で、潁川郡に属する。梁松は梁統の子である。その伝には「光武帝の娘の舞陰公主を娶った」とある。また鄧訓伝には「舞陰公主の子の梁扈が罪を犯し、鄧訓が彼と交際した」とある。ここで舞陽とあるのは誤りである。)梁松は誹謗の罪で誅殺された。

原文皇女義王,建武十五年封舞陽長公主,適延陵鄉侯太僕梁松。(舞陽,縣,屬潁川郡。松,梁統之子。其傳云:「尚光武女舞陰公主。」又鄧訓傳:「舞陰公主子梁扈,有罪,訓與交通。」此云舞陽,誤也。)松坐誹謗誅。

皇女中礼は、建武十五年に涅陽公主に封ぜられ、顕親侯で大鴻臚の竇固に嫁いだ。(涅陽は南陽郡に属する。顕親は県で、漢陽郡に属する。竇固は竇融の子である。)粛宗(章帝)は彼女を長公主として尊んだ。

原文皇女中禮,十五年封涅陽公主,適顯親侯大鴻臚竇固,(涅陽,屬南陽郡。顯親,縣,屬漢陽郡。固,竇融子。)肅宗尊爲長公主。

皇女紅夫は、建武十五年に館陶公主に封ぜられ、駙馬都尉の韓光に嫁いだ。韓光は淮陽王劉延の謀反に加担した罪で誅殺された。

原文皇女紅夫,十五年封館陶公主,適駙馬都尉韓光。光坐與淮陽王延謀反誅。

皇女礼劉は、建武十七年に淯陽公主に封ぜられ、陽安侯で長楽少府の郭璜に嫁いだ。(郭璜は郭況の子である。)郭璜は竇憲の謀反に加担した罪で誅殺された。

原文皇女禮劉,十七年封淯陽公主,適陽安侯長樂少府郭璜。(璜,郭況子也。)璜坐與竇憲謀反誅。

皇女綬(「綬」は一説に「緩」とも作る)は、建武二十一年に酈邑公主に封ぜられ、新陽侯の世子の陰豊に嫁いだ。陰豊が公主を害し、誅殺された。(酈は県で、南陽郡に属し、音は擲亦の反切。新陽は県で、汝南郡に属する。陰豊は陰就の子である。)

原文皇女綬,(「綬」一作「緩」。)二十一年封酈邑公主,適新陽侯世子陰豐。豐害主,誅死。(酈,縣,屬南陽郡,音擲亦反。新陽,縣,屬汝南郡。豐,陰就子。)

世祖(光武帝)の五人の娘

原文世祖五女

顕宗(明帝)の十一人の娘

原文顯宗十一女

皇女姫は、永平二年に獲嘉長公主に封ぜられ、楊邑侯で将作大匠の馮柱に嫁いだ。(獲嘉は県で、河内郡に属する。楊邑は県で、太原郡に属する。馮柱は馮魴の子である。)

原文皇女姬,永平二年封獲嘉長公主,適楊邑侯將作大匠馮柱。(獲嘉,縣,屬河內郡。楊邑,縣,屬太原郡。柱,馮魴子。)

皇女奴は、永平三年に平陽公主に封ぜられ、(平陽は県で、河東郡に属する。)大鴻臚の馮順に嫁いだ。(馮勤の子である。)

原文皇女奴,三年封平陽公主,(平陽,縣,屬河東郡。)適大鴻臚馮順。(馮勤子也。)

皇女迎(「迎」はある本では「延」と作る)は、永平三年に隆慮公主に封ぜられ、(隆慮は県で、河内郡に属する。)牟平侯の耿襲に嫁いだ。(牟平は県で、東萊郡に属する。耿襲は耿弇の弟の耿舒の子である。)

原文皇女迎,(「迎」或作「延」。)三年封隆慮公主,(隆慮,縣,屬河內郡。)適牟平侯耿襲。(牟平,縣,屬東萊郡。襲,耿弇弟舒之子。)

皇女次は、永平二年に平氏公主に封ぜられた。(平氏は県で、南陽郡に属する。嫁ぎ先を言わず、始めから終わりまで明らかでないのは、おそらく史書に欠落があるためである。他の場合もこれに倣う。)

原文皇女次,二年封平氏公主。(平氏,縣,屬南陽郡。旣不言所適,不顯始終,蓋史闕之也。它皆倣此。)

皇女致は、永平三年に沁水公主に封ぜられ、(沁水は県で、河内郡に属する。)高密侯の鄧乾に嫁いだ。(鄧乾は鄧震の子で、鄧禹の孫である。)

原文皇女致,三年封沁水公主,(沁水,縣,屬河內郡。)適高密侯鄧乾。(乾,鄧震之子,禹之孫。)

皇女小姫は、永平十二年に平臯公主に封ぜられ、(平臯は県で、河内郡に属する。)昌安侯で侍中の鄧蕃に嫁いだ。(昌安は県で、高密国に属する。鄧蕃は鄧襲の子で、鄧禹の孫である。)

原文皇女小姬,十二年封平臯公主,(平臯,縣,屬河內郡。)適昌安侯侍中鄧蕃。(昌安,縣,屬高密國。蕃,鄧襲子,禹之孫也。)

皇女の仲は、建武十七年に浚儀公主に封ぜられ、軮侯の黄門侍郎王度に嫁いだ。(「軮」は、志では「軑」と作る。音は忕。師古が言うには、また徒系反と読む。軮は県で、江夏郡に属する。度は王符の子で、王覇の孫である。)

原文皇女仲,十七年封浚儀公主,適軮侯黃門侍郎王度。(「軮」,志作「軑」,音忕。師古曰:又音徒系反。軮,縣,屬江夏郡。度,王符子,霸之孫。)

皇女の恵は、建武十七年に武安公主に封ぜられ、征羌侯の世子で黄門侍郎の来棱に嫁いだ。(征羌は県で、汝南郡に属する。棱は来襃の子で、来歙の孫である。)安帝は彼女を長公主として尊んだ。

原文皇女惠,十七年封武安公主,適征羌侯世子黃門侍郎來棱,(征羌,縣,屬汝南郡。棱,襃之子,歙之孫。)安帝尊爲長公主。

皇女の臣は、建初元年に魯陽公主に封ぜられた。(魯陽は県で、南陽郡に属する。)

原文(段落全体)皇女臣,建初元年封魯陽公主。(魯陽,縣,屬南陽郡。)

皇女の小迎は、建初元年に楽平公主に封ぜられた。(楽平は太清県で、東郡に属し、章帝の時に改名された。)

原文(段落全体)皇女臣,建初元年封魯陽公主。(魯陽,縣,屬南陽郡。)

皇女の小民は、建初元年に成安公主に封ぜられた。(成安は県で、潁川郡に属する。)

原文(段落全体)皇女臣,建初元年封魯陽公主。(魯陽,縣,屬南陽郡。)

顕宗(明帝)の十一人の娘

原文顯宗十一女

粛宗(章帝)の三人の娘

原文肅宗三女

皇女の男は、建初四年(79年)に武徳長公主に封ぜられた。

原文皇女男,建初四年|79年封武德長公主。

皇女の王は、建初四年に平邑公主に封ぜられ、(平邑は県で、代郡に属する。現在の魏郡昌楽の東北にも平邑城がある。)黄門侍郎の馮由に嫁いだ。

原文皇女王,四年封平邑公主,(平邑,縣,屬代郡,今魏郡昌樂東北又有平邑城。)適黃門侍郎馮由。

皇女の吉は、永元五年に陰安公主に封ぜられた。(陰安は県で、魏郡に属する。)

原文皇女吉,永元五年封陰安公主。(陰安,縣,屬魏郡。)

粛宗(章帝)の三人の娘

原文肅宗三女

和帝の四人の娘

原文和帝四女

皇女の保は、延平元年に脩武長公主に封ぜられた。(脩武は県で、河内郡に属する。)

原文(段落全体)皇女保,延平元年封脩武長公主。(脩武,縣,屬河內郡。)

皇女の成は、延平元年に共邑公主に封ぜられた。(共は県で、河内郡に属する。)

原文(段落全体)皇女保,延平元年封脩武長公主。(脩武,縣,屬河內郡。)

皇女の利は、延平元年に臨潁公主に封ぜられ、(臨潁は県で、潁川郡に属する。)即墨侯で侍中の賈建に嫁いだ。(即墨は県で、膠東国に属する。建は賈参の子で、賈復の曾孫である。)

原文皇女利,元年封臨潁公主。(縣,屬潁川郡。)適即墨侯侍中賈建。(即墨,縣,屬膠東國。建,賈參子,復之曾孫。)

皇女の劉興は、元年に聞喜公主に封ぜられた。(聞喜は県であり、河東郡に属する。)

原文皇女興,元年封聞喜公主。(聞喜,縣,屬河東郡。)

和帝には四人の娘がいた。

原文和帝四女

順帝には三人の娘がいた。

原文順帝三女

皇女の劉生は、永和三年に舞陽長公主に封ぜられた。

原文皇女生,永和三年封舞陽長公主。

皇女の劉成男は、三年に冠軍長公主に封ぜられた。(冠軍は県であり、南陽郡に属する。)

原文皇女成男,三年封冠軍長公主。(冠軍,縣,屬南陽郡。)

皇女の劉広は、永和六年に汝陽長公主に封ぜられた。(汝陽は県であり、汝南郡に属する。)

原文皇女廣,永和六年封汝陽長公主。(汝陽,縣,屬汝南郡。)

順帝には三人の娘がいた。

原文順帝三女

桓帝には三人の娘がいた。

原文桓帝三女

皇女の劉華は、延熹元年に陽安長公主に封ぜられ、不其侯で輔国将軍の伏完に嫁いだ。(伏完は伏湛の五世孫である。)

原文皇女華,延熹元年封陽安長公主,適不其侯輔國將軍伏完。(完,伏湛五世孫。)

皇女の劉堅は、七年に潁陰長公主に封ぜられた。(潁陰は県であり、潁川郡に属する。)

原文皇女堅,七年封潁陰長公主。(潁陰,縣,屬潁川郡。)

皇女の劉脩は、九年に陽翟長公主に封ぜられた。

原文皇女脩,九年封陽翟長公主。

桓帝には三人の娘がいた。

原文桓帝三女

霊帝には一人の娘がいた。

原文靈帝一女

皇女の劉某は、光和三年に萬年公主に封ぜられた。

原文皇女某,光和三年封萬年公主。

霊帝には一人の娘がいた。

原文靈帝一女