後漢書

巻一百十八・百官五 州郡 縣鄕 亭-{里}- 匈奴中郎將 烏桓校尉 護羌校尉 王國 宋衞公 列侯 關内侯 四夷國 百官奉

巻一百十八・百官五 州郡 縣鄕 亭-{里}- 匈奴中郎將 烏桓校尉 護羌校尉 王國 宋衞公 列侯 關内侯 四夷國 百官奉

 

州

原文州

 

外十二州、それぞれに刺史一人を置き、六百石の俸禄である。本注によると、秦には監御史があり、諸郡を監督したが、漢が興るとこれを廃止し、ただ丞相史を派遣して諸州を巡察させたが、常設の官ではなかった。孝武帝の初めに刺史十三人を設置し、秩禄は六百石であった。成帝の時に牧と改め、秩禄二千石とした。建武十八年に再び刺史とし、十二人がそれぞれ一州を管轄し、その一州は司隸校尉に属した。諸州は常に八月に管轄する郡国を巡行し、囚徒の記録を調べ、成績の優劣を考課した。当初は年末に京都へ赴いて上奏したが、中興後は計吏に任せるようになった。

原文外十二州,毎州刺史一人,六百石。本注曰:秦有監御史,監諸郡,漢興省之,但遣丞相史分刺諸州,無常官。孝武帝初置刺史十三人,秩六百石。(古今注曰:「常以春分行部,郡國各遣一吏迎界上。」諸書不同也。)成帝更爲牧,秩二千石。建武十八年,復爲刺史,十二人各主一州,其一州屬司隸校尉。(蔡質漢儀曰:「詔書舊典,刺史班宣,周行郡國,省察治政,黜陟能否,斷理冤獄,以六條問事,非條所問,卽不省。一條,強宗豪右,田宅踰制,以強陵弱,以衆暴寡。二條,二千石不奉詔書,遵承典制,倍公向私,旁詔守利,侵漁百姓,聚斂爲姦。三條,二千石不卹疑獄,風厲殺人,怒則任刑,喜則任賞,煩擾苛暴,剝戮黎元,爲百姓所疾,山崩石裂,妖祥訛言。四條,二千石選署不平,苟阿所愛,蔽賢寵頑。五條,二千石子弟怙恃榮勢,請託所監。六條,二千石違公下比,阿附豪強,通行貨賂,割損政令。諸州刺史初除,比諸持板揖不拜。」獻帝起居注曰:「建安十八年三月庚寅,省州幷郡,復禹貢之九州。冀州得魏郡、安平、鉅鹿、河閒、淸河、博陵、常山、趙國、勃海、甘陵、平原、太原、上黨、西河、定襄、鴈門、雲中、五原、朔方、河東、河内、涿郡、漁陽、廣陽、右北平、上谷、代郡、遼東、遼東屬國、遼西、玄菟、樂浪,凡三十二郡。省司隸校尉,以司隸部分屬豫州、冀州、雍州。省涼州刺史,以幷雍州部,郡得弘農、京兆、左馮翊、右扶風、上郡、安定、隴西、漢陽、北地、武都、武威、金城、西平、西郡、張掖、張掖屬國、酒泉、敦煌、西海、漢興、永陽、東安南,凡二十二郡。省交州,以其郡屬荊州。荊州得交州之蒼梧、南海、九眞、交趾、日南,與其舊所部南陽、章陵、南郡、江夏、武陵、長沙、零陵、桂陽,凡十三〔郡〕。益州本部郡有廣漢、漢中、巴郡、犍爲、蜀郡、牂牁、越巂、益州、永昌、犍爲屬國、蜀郡屬國、廣漢屬國,今幷得交州之鬱林、合浦,凡十四〔郡〕。豫州部郡本有潁川、陳國、汝南、沛國、梁國、魯國,今幷得河南、滎陽都尉,凡八郡。徐州部郡得下邳、廣陵、彭城、東海、琅邪、利城、城陽、東莞,凡八郡。靑州得齊國、北海、東萊、濟南、樂安,凡五郡。」獻帝春秋曰:「孫權以歩騭行交州刺史。」東觀書曰:「交趾刺史,持節。」)諸州常以八月巡行所部郡國,(胡廣注曰:「巡謂驛馬也。縣次傳駕之,以走疾,猶古言附遂。」)録囚徒,(胡廣曰:「縣邑囚徒,皆閲録視,參考辭狀,實其眞偽。有侵冤者,卽時平理也。」)考殿最。(胡廣曰:「課第長吏不稱職者爲殿,舉免之。其有治能者爲最。察上尤異州,又狀州中吏民茂才異等,歳舉一人。」)初歳盡詣京都奏事,(胡廣曰:「所察有條應繩異者,輒覆問之,不茹柔吐剛也。歳盡,齎所狀納京師,名奏事,差其遠近,各有常會。」)中興但因計吏。(胡廣曰:「不復自詣京師,其所道皆如舊典。」東觀書曰:「和帝初,張酺上言:『臣聞王者法天,熒惑奏事太微,故州牧刺史入奏事,所以通下問知外事也。數十年以來,重其道歸煩撓,故時止勿奏事,今因以爲故事。臣愚以爲刺史視事滿歳,可令奏事如舊典,問州中風俗,恐好惡過所道,事所聞見,考課衆職,下章所告,及所自舉有意者賞異之,其尤無狀,逆詔書,行罪法,冀敕戒其餘,令各敬愼所職,於以衰滅貪邪便佞。』」韓詩外傳曰:「王者必立牧,方三人,所以使闚遠牧衆也。遠方之民,有飢寒而不得衣食,獄訟而冤失,職賢而不舉者,入告天子。天子於其君之朝也,揖而進之曰:『意朕之政教,有不得爾者邪?如何乃有飢寒而不得衣食,獄訟而冤失,職賢而不舉?』然後其君退而與其卿大夫謀之。遠方之民聞,皆曰『誠天子也』。夫我居之辟,見我之近也;我居之幽,見我之明也。可欺乎哉!可欺乎哉!故牧者所以開四目,通四聰。」)

 

いずれも従事史と仮佐を置いた。本注によると、員数と職務はほぼ司隸と同じであるが、都官従事はなく、その功曹従事が治中従事となる。

原文皆有從事史、假佐。本注曰:員職略與司隸同,無都官從事,其功曹從事爲治中從事。

 

郡国

原文郡國

 

豫州には六つの郡国を管轄し、冀州には九つ、兗州には八つ、徐州には五つ、青州には六つ、荆州には七つ、揚州には六つ、益州には十二、涼州には十二、幷州には九つ、幽州には十一、交州には七つ、合わせて九十八である。そのうち二十七は王国の相であり、七十一は郡の太守である。属国の都尉がいる。属国は、郡から離れた遠方の県を分離して設置し、郡よりやや小さく、元の郡の名を冠する。世祖(光武帝)は郡県四百余りを合併廃止したが、後世になって次第に増加した。(臣昭が言う:昔、先代においては、爵位の等級は異なり、九服の制度は同じでなく、王畿と辺境では制度が異なっていた。連帥が互いに監督し、牧伯がそれぞれを治めたが、封疆には境界が設けられ、兼ねる役職にも定数があり、まるで体が腕を使い、手が指を使うかのようであり、それゆえに高低が互いに固く結びつき、遠近が秩序を保ち、諸侯はよく和合し、共に万民を安んじた。周が衰えるに及んで、次第に併呑拡大を競い、邦国は侵し合い、互いに貪欲な略奪を企てたが、それでもなお数百年を経て、ようやくその統一を成し遂げた。これは、樹木に根本があるからこそ、そうなったのではないだろうか?秦が天下を兼ね、郡県を設置したが、孤立した単独の王は、すぐに転覆して滅亡した。漢の高祖はこれを踏襲し、すぐには改革しなかったが、子弟を分封して置き、最終的には諸呂の難を平定し、次第に列郡を分割して、大都の権力を減らした。後世の厳安らは、なお慷慨して憤り、千里の威勢はすなわち古代の強国であり、根本を安んじて無窮の計とするものではないと述べた。孝武帝の末年、初めて刺史を置き、不法を監察糾弾したが、その職務は六条を超えず、伝車で巡回し、定まった鎮守はなく、秩禄はわずか数百石で、威光は軽く少なく、察挙の勤めはあったが、陵犯の兆しは生じなかった。成帝が牧に改めたとき、その萌芽は初めて大きくなり、すでに治世を識る君主ではなかったので、取るに足りない。世祖が中興し、政治の根本を監察し、その職務を再び制約し、旧制に戻って遵奉し、親しく奏事することを断ち、煩わしさを省いて惜しみ、次第に自重する道を得た。これ以降、歳月を重ねるにつれ、母后が朝政を執り、多くは弱い者が守りを固め、天下は危険に動揺し、四海は崩壊して疲弊し、財は尽き力は竭き、綱紀は撓み毀れたが、八方は内に侵すことができず、諸侯は敢えて入って討伐する者はなかった。これは、幹が強く枝が弱く、統制が平素から重かったことによるものではなかろうか?孝霊帝が在位するに至り、横流が既に及んだ。劉焉は偽りを企て、自らの身のための謀略であり、国を憂うる心はなく、専ら狼のように拠る策を懐き、昏乱な世に抗論し、愚かな主君に進言し、牧伯を重んずべきであると盛んに称え、万里を鎮圧するに足ると言い、奸を抱いて策を立て、一時を欺くのみで、どうして永く国の根本となり、長く勝つ術となりえようか?聖主が世を治めるには、大いに生民を庇護し、その善き謀略を受け継ぎ、その典制を伝えるものである。それでもなお、事が久しければ弊害が生じ、通貫しないことがあると言われる。故に変革して服制を正し、質と文を革め異ならせ、爵を三五に分け、参差不一である。ましてや愚かな君に、奸詐の臣を抱えて、共に創設設置したものを、どうしてなお踏襲できようか?州を尊ぶ規制を大いに建てたが、結局一日の治世もなかった。故に劉焉は益州を牧し、岷山・峨眉山に帝服を造り;袁紹は冀州を取って、燕・朔に制書を下し;劉表は荊南で、天を郊祀し地を祀り;魏祖(曹操)は兗州を拠点として、遂に皇業を構築した:漢の滅亡は、禍の源はここにある。後代に至って、任せ託すことはますます広がり、邦宰の命を委ね、斧鉞の重みを授け、都督の威を仮し、征討の謀略を開いた。晋の太康の初め、武帝もまたそのようであることを疑い、詔して言った:「上古および中代には、あるいは州牧を置き、あるいは刺史を置き、監御史を置いたが、皆綱紀を総べるだけで、政務を賦することはなく、民を治めることは、諸侯や郡守に任せた。昔、漢末に四海が分崩し、それによって呉・蜀が自ら擅行したが、これ以降、刺史は内では民事に親しみ、外では兵馬を領した。これは一時の適宜であった。今、宗廟の霊と士大夫の力に頼り、江表が平定され、天下が一つに合わさった。干戈を収め、天下と共に休息すべきである。諸州で事なきものはその兵を罷め、刺史の職務分担は、皆漢の故事のようにし、出ては詔条を頒布し、入っては京城で事を奏上させる。二千石は専ら民を治める重責に当たり、監司は上にあって清峻である。これが経久の体である。州牧を省くのが便利である。」晋武帝もまたその弊害を見たが、その言葉はあっても、その事を遂げず、後嗣が継承し、牧鎮はますます重くなり、地を拠って分争し、ついに天下を覆した。昔、王畿の大きさは千里を超えず、州の司る所は、広大で遠方を兼ねていた。強を争って虎視する時、鼎を遷し終わりを革める日に、嘗て藩兵の権を借りず、董司の力を挟まず、逼迫して隙を伺い、幼い者を陵奪することはなかった。甚だしいものは臣下と主君が兵を揚げ、骨肉が野で戦い、兄弟が梟首され、伯叔が屠裂される。末が壮んになると心を披き、尾が大きくなると振るえなくなり、この始めを用いたので、また病んで終わる。傾いた車はますます襲い、誰も道を改めず、洛京に璧を銜む痛みを生じさせ、秦の台に守れない残酷さをもたらした。胡・羌が次々に興り、氐・鮮卑が更に起こり、群黎を摩滅し、禍を百世に流した。堅い氷が次第に厚くなるように、この蠹(虫食い)に縁って兼ねる。ああ!後の聖王は、必ずや久しくこの跡に滞ることはなく、霊長の終わりには、神算があるであろう。そうでなければ、雄々しく捍ぎ拒む事は、この心よりも甚だしく懼れ、強きを憑んで害をなす謀りごとは、後の意図においてますます盛んとなるであろう。)

原文豫州部郡國六,冀州部九,兗州部八,徐州部五,靑州部六,荆州部七,揚州部六,益州部十二,涼州部十二,幷州部九,幽州部十一,交州部七,凡九十八。其二十七王國相,其七十一郡太守。其屬國都尉。屬國,分郡離遠縣置之,如郡差小,置本郡名。世祖幷省郡縣四百餘所,後世稍復增之。(臣昭曰:昔在先代,列爵殊等,九服不同,畿荒制異。雖連帥相司,牧伯分長,而封疆置限,兼庸有數,如身之使臂,手之使指,故能髙卑相固,遠近維緝,群後克穆,共康兆庶。爰及周衰,稍競呑廣,邦國侵爭,遞懷貪略,猶歴數百年,乃能成其幷一,豈非樹之有本,使其然乎?秦兼天下,開設郡縣,孤立獨王,卽以顛亡。漢祖因循,雖不頓革,分置子弟,終龕諸呂之難,漸剖列郡,以減大都之權。後嚴安之徒,猶慷慨發憤,謂千里之威,卽古之強國,慮非安本無窮之計也。孝武之末,始置刺史,監糾非法,不過六條,傳車周流,匪有定鎭,秩裁數百,威望輕寡,得有察舉之勤,未生陵犯之釁。成帝改牧,其萌始大,旣非識治之主,故無取焉爾。世祖中興,監乎政本,復約其職,還遵舊制,斷親奏事,省入惜煩,漸得自重之路。因茲以降,彌於歳年,母后當朝,多以弱守,六合危動,四海潰弊,財盡力竭,綱維撓毀,而八方不能内侵,諸侯莫敢入伐,豈非幹強枝弱,控制素重之所致乎?至孝靈在位,橫流旣及,劉焉徼偽,自爲身謀,非有憂國之心,專懷狼據之策,抗論昏世,薦議愚主,盛稱宜重牧伯,謂足鎭壓萬里,挾姦樹筭,苟罔一時,豈可永爲國本,長期勝術哉?夫聖主御世,莫不大庇生民,承其休謀,傳其典制。猶雲事久獘生,無或通貫,故變改正服,革異質文,分爵三五,參差不一。況在豎騃之君,挾姦詐之臣,共所創置,焉可仍因?大建尊州之規,竟無一日之治。故焉牧益土,造帝服於岷、峨;袁紹取冀,下制書於燕、朔;劉表荊南,郊天祀地;魏祖據兗,遂構皇業:漢之殄滅,禍源乎此。及臻後代,任寄彌廣,委之邦宰之命,授之斧鉞之重,假之都督之威,開之征討之略。晉太康之初,武帝亦疑其然,乃詔曰:「上古及中代,或置州牧,或置刺史,置監御史,皆總綱紀,而不賦政,治民之事,任之諸侯郡守。昔漢末四海分崩,因以呉、蜀自擅,自是刺史内親民事,外領兵馬,此一時之宜爾。今賴宗廟之靈,士大夫之力,江表平定,天下合之爲一,當韜戢干戈,與天下休息。諸州無事者罷其兵,刺史分職,皆如漢氏故事,出頒詔條,入奏事京城。二千石專治民之重,監司淸峻於上,此經久之體也。其便省州牧。」晉武帝又見其獘矣,雖有其言,不卒其事,後嗣纘繼,牧鎭愈重,據地分爭,竟覆天下。昔王畿之大,不過千里,州之所司,廣袤兼遠。爭強虎視之辰,遷鼎革終之日,未嘗不藉蕃兵之權,挾董司之力,逼迫伺隙,陵奪沖幼。其甚者臣主揚兵,骨肉戰野,昆弟梟懸,伯叔屠裂。末壯披心,尾大不掉,旣用此始,亦病以終。傾輈愈襲,莫或途改,致雒京有銜璧之痛,秦臺有不守之酷。胡、羌遞興,氐、鮮更起,摩滅群黎,流禍百世。堅冰所漸,兼縁茲蠹。嗚呼!後之聖王,必不久滯斯跡,靈長之終,當有神筭。不然,則雄捍反拒之事,懼甚於此心,憑強作害之謀,方盛於後意。)

 

すべての州で監察する都は京都とし、尹を一人置き、二千石の官秩とし、丞を一人置く。各郡には太守を一人置き、二千石の官秩とし、丞を一人置く。郡が辺境の守備に当たる場合、丞は長史となる。(古今注にいう。「建武六年三月、郡太守・諸侯相が病気のときは、丞・長史が職務を代行するよう命じた。十四年、辺境の郡の太守丞を廃止し、長史が丞の職務を兼ねた。」)王国の相もこれと同じである。各属国には都尉を一人置き、比二千石の官秩とし、丞を一人置く。本注にいう。すべての郡国はみな民を治め、賢者を推挙し功績を勧め、訴訟を裁き奸悪を取り締まることを職掌とする。常に春には管轄する県を巡行し、民に農桑を勧め、困窮者を救済する。秋冬には無害吏を派遣して諸囚を審問し、その罪法を公平にし、官吏の考課を行い最下位を論ずる。(律に無害都吏があるのを案ずるに、今でいう公平吏である。漢書音義にいう。「文書に枉げて害するところがない。」蕭何は文無害をもって沛の主吏掾となった。)年末には吏を派遣して上計を行う。(盧植の礼注にいう。「会計の区切りは九月である。秦が十月を正月としたことに因るためである。」)併せて孝廉を推挙し、郡の人口二十万人につき一人を挙げる。尉一人は、兵禁を司り、盗賊を防備する。景帝の時に都尉と改名した。武帝はまた三輔都尉をそれぞれ一人置き、出入りを取り締まった。辺境の郡には農都尉を置き、屯田と穀物の栽培を主管した。また属国都尉を置き、蛮夷の降伏者を主管した。中興して建武六年、諸郡の都尉を廃止し、その職務を太守に併せ、都試の役務をなくした。(古今注にいう。「六年八月、都尉官を廃止した。」応劭がいう。「劇賊があるたびに、郡は臨時に都尉を置き、事が終わればこれを罷免した。」)関都尉を廃止し、ただ辺境の郡にはしばしば都尉および属国都尉を置き、わずかに県を分けて治め、郡と同じように民を治めた。安帝の時、羌が法を犯し、三輔に陵園の守りがあるため、右扶風都尉と京兆虎牙都尉を再び置いた。(応劭の漢官にいう。「そもそも天は五材を生じ、民はこれを併せ用い、一つでも廃すればならず、誰が兵を去ることができようか。兵の設置は古くからある。易は『木に弦を張って弧とし、木を削って矢とし、弧矢の利をもって天下を威する』と称する。春秋は『三時は農に務め、一時は武を講ず』とする。詩は公劉を称えて『居らず康ならず、耕に入り戦に出で、すなわち餱糧を包み、干戈を揚げ、四方に当たるものなし』と美とする。郡国が材官騎士を廃止して以来、官に警備がなく、実に寇の心を開いた。一方に難があれば、三面からこれを救い、発動は雷の如く震い、煙は蒸し電は激しく、一切を調達し、民衆は騒然とする。その射御を講じ、その戒誓を用いる暇もなく、一旦これらを駆り立てて強敵に即せしめるのは、鳩や鵲が鷹や鸇を捕らえ、豚や羊が豺や虎を射るようなものであり、このため戦うごとに常に負け、王の軍旅は振るわない。張角は妖偽を抱き、遠近を揺るがし、八州併発し、煙炎は天を絳くし、牧守は梟裂され、流血は川となる。ここに至って遠く三辺の異俗の兵を徴発するが、我が族類ではなく、忿鷙にして縦横に振る舞い、多くの善良な者を殺害し、これを己の功とし、財貨を糞土の如くにする。哀れなるかな、民氓が流離する咎は、ここに出ることを見る。教えずして戦うは、これを棄つというのである。その禍敗の跡を尋ねれば、どうして虚妄であろうか。春秋の家は甲を蔵さず、これをもって国の威を一にし私力を抑えるのである。今たとえ四海が残壊し、王命が未だ行き渡らなくとも、衝を折り難を圧することは、掌を指すが如くである。故に右扶風を置く。」)皆、諸曹掾史を置く。(新論にいう。「王莽の時、西海郡を置き、その吏を皆百石の親事とした。」一説には四百石とし、二年で遷補した。)本注にいう。諸曹はおおよそ公府の曹のようであり、東西曹はない。(蔡質の漢儀にいう。「河南尹の掾は出向いて考案し、従事と同じである。」)功曹史があり、選挙と功労の登録を主管する。五官掾があり、功曹および諸曹の事務を担当する。その監属県には、五部督郵があり、曹掾一人がいる。正門には亭長一人がいる。主記室史は、記録と文書の収録、期日の督促を主管する。令史はない。閣下および諸曹にはそれぞれ書佐があり、幹は文書を主管する。(漢官にいう。「河南尹の員吏は九百二十七人、うち十二人は百石である。諸県の有秩は三十五人、官属掾史は五人、四部督郵吏部掾は二十六人、案獄仁恕は三人、監津渠漕水掾は二十五人、百石卒吏は二百五十人、文学守助掾は六十人、書佐は五十人、修行は二百三十人、幹小史は二百三十一人である。」)

原文凡州所監都爲京都,置尹一人,二千石,丞一人,毎郡置太守一人,二千石,丞一人。郡當邊戍者,丞爲長史。(古今注曰:「建武六年三月,令郡太守、諸侯相病,丞、長史行事。十四年,罷邊郡太守丞,長史領丞職。」)王國之相亦如之。毎屬國置都尉一人,比二千石,丞一人。本注曰:凡郡國皆掌治民,進賢勸功,決訟檢奸。常以春行所主縣,勸民農桑,振救乏絶。秋冬遣無害吏案訊諸囚,平其罪法,論課殿最。(案律有無害都吏,如今言公平吏。漢書音義曰:「文無所枉害。」蕭何以文無害爲沛主吏掾。)歳盡遣吏上計。(盧植禮注曰:「計斷九月,因秦以十月爲正故。」)幷舉孝廉,郡口二十萬舉一人。尉一人,典兵禁,備盜賊,景帝更名都尉。武帝又置三輔都尉各一人,譏出入。邊郡置農都尉,主屯田殖穀。又置屬國都尉,主蠻夷降者。中興建武六年,省諸郡都尉,幷職太守,無都試之役。(古今注曰:「六年八月,省都尉官。」應劭曰:「毎有劇〔賊〕,郡臨時置都尉,事訖罷之。」)省關都尉,唯邊郡往往置都尉及屬國都尉,稍有分縣,治民比郡。安帝以羌犯法,三輔有陵園之守,乃復置右扶風都尉,京兆虎牙都尉。(應劭漢官曰:「蓋天生五材,民並用之,廢一不可,誰能去兵?兵之設尙矣。易稱『絃木爲弧,剡木爲矢,弧矢之利,以威天下。』春秋『三時務農,一時講武』。詩美公劉『匪居匪康,入耕出戰,乃裹餱糧,干戈載(錫)〔揚〕,四方莫當』。自郡國罷材官騎士之後,官無警備,實啓寇心。一方有難,三面救之,發興雷震,煙蒸電激,一切取辨,黔首囂然。不及講其射御,用其戒誓,一旦驅之以卽強敵,猶鳩鵲捕鷹鸇,豚羊弋豺虎,是以毎戰常負,王旅不振。張角懷挾妖偽,遐邇搖蕩,八州幷發,煙炎絳天,牧守梟裂,流血成川。爾乃遠徴三邊殊俗之兵,非我族類,忿鷙縱橫,多殭良善,以爲己功,財貨糞土。哀夫民氓遷流之咎,見出在茲,不教而戰,是謂棄之,跡其禍敗,豈虚也哉!春秋家不藏甲,所以一國威抑私力也。今雖四海殘壤,王命未洽,可折衝壓難,若指於掌,故置右扶風。」)皆置諸曹掾史。(新論曰:「王莽時置西海郡,令其吏皆百石親事。」一曰爲四百石,二歳而遷補。)本注曰:諸曹略如公府曹,無東西曹。(蔡質漢儀曰:「河南〔尹〕掾出考案,與從事同。」)有功曹史,主選署功勞。有五官掾,署功曹及諸曹事。其監屬縣,有五部督郵,曹掾一人。正門有亭長一人。主記室史,主録記書,催期會。無令史。閣下及諸曹各有書佐,干主文書。(漢官曰:「河南尹員吏九百二十七人,十二人百石。諸縣有秩三十五人,官屬掾史五人,四部督郵〔吏〕部掾二十六人,案獄仁恕三人,監津渠漕水掾二十五人,百石卒吏二百五十人,文學守助掾六十人,書佐五十人,〔脩〕行二百三十人,幹小史二百三十一人。」)

 

属官として、各県・邑・道には、大きいものには令を一人置き、千石の官秩とする。次いで大きいものには長を置き、四百石の官秩とする。小さいものには長を置き、三百石の官秩とする。侯国の相の官秩もこれと同じである。(応劭の漢官にいう。「前書の百官表に云う、一万戸以上は令とし、一万戸以下は長とする。三辺は孝武皇帝が開いたところで、県の戸数は数百であるのに令とすることがある。荊揚江南の七郡では、ただ臨湘・南昌・呉の三つの令があるのみである。また南陽の穰中は、土地が肥沃で民が稠密で、四五万戸であるのに長とする。桓帝の時、汝南陽安を女公主の邑とし、号を改めて令とし、公主が薨じた後また元に戻した。このように本に係わるのである。俗説では令長は水土によって決まり、官秩の高低も皆明文がない。班固は通儒であり、一代の書を述べているが、これは真実に近い。」)本注にいう。皆、民を治め、善を顕彰し義を勧め、奸を禁じ悪を罰し、訴訟を処理し賊を平定し、民を恤み時務に努め、秋冬に集めて考課し、所属する郡国に上計することを職掌とする。(胡広がいう。「秋冬の年末に、各県は戸口・墾田・銭穀の出入・盗賊の多少を計上し、その集簿を上申する。丞尉以下は、毎年郡に赴き、その功績を考課する。功績が多く特に最上である者は、廷尉において労をねぎらい勉め、その後の励みとする。負けが多く特に最下位である者は、後曹において別に責め、怠慢を糾すのである。諸々の対辞で窮し特に困った者は、主管者を収監し、掾史が太守に関白し、法を取らせる。丞尉は縛られて責められ、下の者に転じて互いに督敕し、民のために害を除くのである。明帝の詔書は黄綬を辱めることを得ず、小人の吏と区別するためである。」)

原文屬官,毎縣、邑、道,大者置令一人,千石:其次置長,四百石;小者置長,三百石;侯國之相,秩次亦如之。(應劭漢官曰:「前書百官表云,萬戸以上爲令,萬戸以下爲長。三邊始孝武皇帝所開,縣戸數百而或爲令。荊揚江南七郡,唯有臨湘、南昌、呉三令爾。及南陽穰中,土沃民稠,四五萬戸而爲長。桓帝時,以〔汝〕南陽安爲女公主邑,改號爲令,主薨復復其故。若此爲繫其本。俗説令長以水土爲之,及秩髙下,皆無明文。班固通儒,述一代之書,斯近其眞。」)本注曰:皆掌治民,顯善勸義,禁奸罰惡,理訟平賊,恤民時務,秋冬集課,上計於所屬郡國。(胡廣曰:「秋冬歳盡,各計縣戸口墾田,錢穀入出,盜賊多少,上其集簿。丞尉以下,歳詣郡,課校其功。功多尤爲最者,於廷尉勞勉之,以勸其後。負多尤爲殿者,於後曹別責,以糾怠慢也。諸對辭窮尤困,收主者,掾史關白太守,使取法。丞尉縛責,以明下轉相督敕,爲民除害也。明帝詔書不得僇辱黃綬,以別小人吏也。」)

 

県

原文(段落全体)凡縣主蠻夷曰道。公主所食湯沐曰邑。縣萬戸以上爲令,不滿爲長。侯國爲相。皆秦制也。(史記秦併天下,夷郡縣,銷兵刃,示不復用。)丞各一人。尉大縣二人,小縣一人。本注曰:丞署文書。典知倉獄。尉主盜賊。凡有賊發,主名不立,則推索行尋,案察奸宄,以起端緒。(應劭漢官曰:「大縣丞左右尉,所謂命卿三人。小縣一尉一丞,命卿二人。」)各署諸曹掾史。本注曰:諸曹略如郡員,五官爲廷掾,監鄕五部,春夏爲勸農掾,秋冬爲制度掾。(漢官曰:「雒陽令秩千石,丞三人四百石,孝廉左尉四百石,孝廉右尉四百石。員吏七百九十六人,十三人四百石。鄕有秩、獄史五十六人,佐史、鄕佐七十七人,斗食、令史、嗇夫、假五十人,官掾史、幹小史二百五十人,書佐九十人,〔脩〕行二百六十人。」)

 

すべての県で蛮夷を主管するものを道という。公主が食する湯沐を邑という。県で一万戸以上は令とし、満たないものは長とする。侯国は相とする。皆、秦の制度である。(史記に、秦が天下を併合し、郡県を夷し、兵刃を銷し、再び用いないことを示した。)丞はそれぞれ一人。尉は大県には二人、小県には一人。本注にいう。丞は文書に署名する。倉と獄を主管して知る。尉は盗賊を主管する。賊が発生した場合、主犯が立たなければ、推索して行方を尋ね、案察して奸宄を明らかにし、端緒を起こす。(応劭の漢官にいう。「大県の丞・左右尉、いわゆる命卿三人である。小県は一尉一丞、命卿二人である。」)それぞれ諸曹掾史を置く。本注にいう。諸曹はおおよそ郡の員のようであり、五官は廷掾となり、郷の五部を監察し、春夏は勧農掾となり、秋冬は制度掾となる。(漢官にいう。「雒陽令は官秩千石、丞三人は四百石、孝廉左尉は四百石、孝廉右尉は四百石である。員吏は七百九十六人、うち十三人は四百石である。郷の有秩・獄史は五十六人、佐史・郷佐は七十七人、斗食・令史・嗇夫・仮は五十人、官掾史・幹小史は二百五十人、書佐は九十人、修行は二百六十人である。」)

原文(段落全体)凡縣主蠻夷曰道。公主所食湯沐曰邑。縣萬戸以上爲令,不滿爲長。侯國爲相。皆秦制也。(史記秦併天下,夷郡縣,銷兵刃,示不復用。)丞各一人。尉大縣二人,小縣一人。本注曰:丞署文書。典知倉獄。尉主盜賊。凡有賊發,主名不立,則推索行尋,案察奸宄,以起端緒。(應劭漢官曰:「大縣丞左右尉,所謂命卿三人。小縣一尉一丞,命卿二人。」)各署諸曹掾史。本注曰:諸曹略如郡員,五官爲廷掾,監鄕五部,春夏爲勸農掾,秋冬爲制度掾。(漢官曰:「雒陽令秩千石,丞三人四百石,孝廉左尉四百石,孝廉右尉四百石。員吏七百九十六人,十三人四百石。鄕有秩、獄史五十六人,佐史、鄕佐七十七人,斗食、令史、嗇夫、假五十人,官掾史、幹小史二百五十人,書佐九十人,〔脩〕行二百六十人。」)

 

郷

原文(段落全体)鄕置有秩、三老、遊徼。本注曰:有秩,郡所署,秩百石,(漢官曰:「鄕戸五千,則置有秩。」)掌一鄕人;(風俗通曰:「秩則田閒大夫,言其官裁有秩耳。」)其鄕小者,縣置嗇夫一人(風俗通曰:「嗇者,省也。夫,賦也。言消息百姓,均其役賦。」)。皆主知民善惡,爲役先後,知民貧富,爲賦多少,平其差品。三老掌教化。凡有孝子順孫,貞女義婦,讓財救患,及學士爲民法式者,皆扁表其門,以興善行。遊徼掌徼循,禁司奸盜。又有鄕佐,屬鄕,主民收賦稅(風俗通曰:「國家制度,大率十里一鄕。」)。

 

郷には有秩、三老、遊徼を置いた。本注にいう。有秩は郡が任命し、秩百石(漢官に「郷戸五千ならば有秩を置く」という)で、一郷の人民を管掌する(風俗通に「秩は田間の大夫であり、その官はわずかに秩があるだけだという」)。その郷が小さい場合は、県が嗇夫一人を置く(風俗通に「嗇は省くことであり、夫は賦である。百姓の消息をはかり、その役賦を均等にすることを言う」)。皆、人民の善悪を知り、役の先後を決め、人民の貧富を知り、賦の多少を決め、その差等を公平にすることを主とする。三老は教化を掌る。孝子順孫、貞女義婦、財を譲り患難を救う者、および学士で人民の模範となる者があれば、皆その門に扁額を掲げて表彰し、善行を奨励する。遊徼は巡察を掌り、奸盗を取り締まる。また郷佐があり、郷に属し、人民から賦税を徴収することを主とする(風俗通に「国家の制度は、おおむね十里で一郷とする」という)。

原文(段落全体)鄕置有秩、三老、遊徼。本注曰:有秩,郡所署,秩百石,(漢官曰:「鄕戸五千,則置有秩。」)掌一鄕人;(風俗通曰:「秩則田閒大夫,言其官裁有秩耳。」)其鄕小者,縣置嗇夫一人(風俗通曰:「嗇者,省也。夫,賦也。言消息百姓,均其役賦。」)。皆主知民善惡,爲役先後,知民貧富,爲賦多少,平其差品。三老掌教化。凡有孝子順孫,貞女義婦,讓財救患,及學士爲民法式者,皆扁表其門,以興善行。遊徼掌徼循,禁司奸盜。又有鄕佐,屬鄕,主民收賦稅(風俗通曰:「國家制度,大率十里一鄕。」)。

 

亭

原文亭

 

亭には亭長がおり、盗賊を禁圧する。本注にいう。亭長は盗賊の捕縛を主とし、都尉の指揮を受ける(漢官儀にいう。「民は二十三歳で正丁となり、一年は衛士、一年は材官騎士として、射御・騎乗・戦陣を習う。八月に太守・都尉・令・長・相・丞・尉が集まって都試を行い、成績の優劣を考課する。水辺の家は楼船となり、戦射・行船も習う。〔辺〕郡の太守はそれぞれ万騎を率い、障塞・烽火を巡り、敵を追撃する。長史一人、丞一人を置き、兵民を治める。兵が行くときは長がこれを率いる。部尉・千人・司馬・候・農都尉を置くが、皆、民を治めず、衛士を供給しない。材官・楼船は五十六歳で老衰し、ようやく免ぜられて民となり田畑に就く。応当に選ばれて亭長となる。亭長は巡察を考課される。尉・遊徼・亭長は皆、五種の兵器を整備するよう習う。五兵とは、弓弩、戟、楯、刀剣、甲鎧である。鼓吏は赤い幘さくをかぶり脛巾を巻き、剣を帯び刀を佩き、楯を持ち甲を着け、矛戟を設け、射を習う。十里ごとに一亭を設け、亭長・亭候を置く。五里ごとに一郵を設け、郵の間は二里半離れ、奸盗を取り締まる。亭長は二尺の板を持って賊を弾劾し、縄を持って賊を捕縛する」。風俗通にいう。「漢家は秦に因り、おおむね十里に一亭を置く。亭は留まることであり、行旅が宿泊し会合する館である。亭の吏は旧来、負弩と称したが、長に改め、あるいは亭父ともいう」)。

原文亭有亭長,以禁盜賊。本注曰:亭長,主求捕盜賊,承望都尉。(漢官儀曰:「民年二十三爲正,一歳以爲衞士,一歳爲材官騎士,習射御騎馳戰陣。八月,太守、都尉、令、長、相、丞、尉會都試,課殿最。水家爲樓船,亦習戰射行船。〔邊〕郡太守各將萬騎,行障塞烽火追虜。置長史一人,丞一人,治兵民。當兵行長領。置部尉、千人、司馬、候、農都尉,皆不治民,不給衞士。材官、樓船年五十六老衰,乃得免爲民就田。應合選爲亭長。亭長課徼巡。尉、遊徼、亭長皆習設備五兵。五兵:弓弩,戟,楯,刀劍,甲鎧。鼓吏赤幘行滕,帶劍佩刀,持楯被甲,設矛戟,習射。設十里一亭,亭長、亭候;五里一郵,郵閒相去二里半,司姦盜。亭長持二尺板以劾賊,索繩以收執賊。」風俗通曰:「漢家因秦,大率十里一亭。亭,留也,蓋行旅宿會之所館。亭史舊名負弩,改爲長,或謂亭父。」)

 

里

原文里

 

里には里魁がおり、民は什伍に編成され、善悪を報告する。本注にいう。里魁は一里百家を掌る。什は十家を主とし、伍は五家を主として、互いに監察し合う。民に善事悪事があれば、監官に報告する(風俗通にいう。「周礼では五家を鄰とし、四鄰を里とする。里は止まることである。里には有司があり、五十家を司り、共に居住し、旧来の仕事を喜び、その往来を通じさせる」)。

原文里有里魁,民有什伍,善惡以告。本注曰:里魁掌一里百家。什主十家,伍主五家,以相檢察。民有善事惡事,以告監官。(風俗通曰:「周禮五家爲鄰,四鄰爲里。里者,止也。里有司,司五十家,共居止,同事舊欣,通其所也。」)

 

辺境の県には障塞尉がいる。本注にいう。羌や夷が塞を犯すのを防備することを掌る(太公陰符にいう。「武王が太公に『治乱の要を聞きたい』と問うた。太公は『その根本は吏にある』と言った。武王が『吏は治める者であり、治めようとするのに、乱れるのはなぜか』と問うと、太公は『故に吏の重罪は十ある』と言った。武王が『吏の重罪とは』と問うと、太公は言った。『一、吏が苛刻であること。二、吏が不公平であること。三、吏が貪汚であること。四、吏が威力をもって民に迫脅すること。五、吏が史と結託して奸を行うこと。六、吏が人と情を失うこと。七、吏が盗賊となり、人を使って耳目とすること。八、吏が安く買い民に高く売ること。九、吏が民に対して増改すること。十、吏が民を震え上がらせること。治める者に三つの罪があれば国は乱れ民は愁い、全てあれば民は流亡し君はその国を失う』。武王が『民にも罪があるのか』と問うと、太公は『民にはこれより大きな十の罪があり、これを除けば国は治まり民は安らぐ』と言った。武王が『十の大罪とはどのようなものか』と問うと、太公は言った。『民が吏に勝ち、大臣を厚遇すること、第一の大罪である。民の宗族が強く、群下を侵陵すること、第二の大罪である。民が甚だ富み、国家を傾けること、第三の大罪である。民がその君を尊親し、天下が慕って帰すること、第四の大罪である。衆が寡を暴くこと、第五の大罪である。民が百里の誉れ、千里の交わりを持つこと、第六の大罪である。民が吏の威を権威とすること、第七の大罪である。恩が吏に行き渡ること、第八の大罪である。民が信服し、少を以て多とし、人の田宅を奪い、人の妻子を質に取ること、第九の大罪である。民の基業や畜産が人のために苦しめられること、第十の大罪である。いわゆる一家が一里を害し、一里が諸侯を害し、諸侯が天下を害するのである』。武王が『吏の罪を絶ち、民の大罪を塞ぐにはどうすればよいか』と問うと、太公は『民の暴く吏を察し、その賞を明らかにし、その誅を審らかにすれば、吏は敢えて罪を犯さず、民は敢えて大罪を犯さない』と言った。武王が『これは民と吏が互いに伺い、上下和せずに仇を結ぶことになる』と言うと、太公は『君は成を守り、吏は職を守り、民は事を守る。このように、各々その道に居れば国は治まり、国が治まれば都は治まり、都が治まれば里は治まり、里が治まれば家は治まり、家が治まれば善悪が分明になり、善悪が分明になれば国に事無く、国に事無ければ吏民は外に怨みを懐かず、内に事を求めない』と言った」)。その郡に塩官・鉄官・工官・都水官がある場合は、事の広狭に応じて令・長および丞を置き、秩次は全て県・道と同じで、分土はなく、均等に本吏を給する。本注にいう。凡そ郡県で塩の産出が多い所は塩官を置き、塩税を主とする。鉄の産出が多い所は鉄官を置き、鋳造を主とする(胡広にいう。「塩官は坑を掘って塩を得、あるいは井戸を掘り海水を煮て得る者もある。銅を鋳て器械とし、鋳冶の時、火を扇いで熾んにすることを鼓鑄という」)。工人が多い所は工官を置き、工税と物品を主とする。水池があり魚利が多い所は水官を置き、水を管理し漁税を徴収することを主とする。所在の諸県で均等に吏を差し出して交替で給仕させる。吏を置くのは事に随い、県の定員には含めない。

原文邊縣有障塞尉。本注曰:掌禁備羌夷犯塞。(太公陰符曰:「武王問太公:『願聞治亂之要。』太公曰:『其本在吏。』武王曰:『吏者治也,所以爲治,其亂者何?』太公曰:『故吏重罪有十。』武王問『吏之重罪。』太公曰;『一、吏苛刻;二、吏不平;三、吏貪汚;四、吏以威力迫脅於民;五、吏與史合姦;六、吏與人亡情;七、吏作盜賊,使人爲耳目;八、吏賤買賣貴於民;九、吏增易於民;十、吏振懼於民。夫治者有三罪,則國亂而民愁;盡有之,則民流亡而君失其國。』武王曰:『民亦有罪乎?』太公曰:『民有十大於此,除者則國治而民安。』武王曰:『十大何如?』太公曰:『民勝吏,厚大臣,一大也。民宗強,侵陵群下,二大也。民甚富,傾國家,三大也。民尊親其君,天下歸慕,四大也。衆暴寡,五大也。民有百里之譽,千里之交,六大也。民以吏威爲權,七大也。恩行於吏,八大也。民服信,以少爲多,奪人田宅,贅人妻於,九大也。民之基業畜産爲人所苦,十大也。所謂一家害一里,一里害諸侯,諸侯害天下。』武王曰:『絶吏之罪,塞民之大,奈何?』太公曰:『察民之暴吏,明其賞,審其誅,則吏不敢犯罪,民不敢大也。』武王曰:『是民吏相伺,上下不和而結其讎。』太公曰:『爲君守成,爲吏守職,爲民守事。如此,各居其道則國治,國治則都治,都治則里治,里治則家治,家治則善惡分明,善惡分明則國無事,國無事則吏民外不懷怨,内不徼事。』」)其郡有鹽官、鐵官、工官、都水官者,隨事廣狹置令、長及丞,秩次皆如縣、道,無分士,給均本吏。本注曰:凡郡縣出鹽多者置鹽官,主鹽稅。出鐵多者置鐵官,主鼓鑄。(胡廣曰:「鹽官掊坑而得鹽,或有鑿井煮海水而以得之者。鑄銅爲器械,當鑄冶之時,扇熾其火,謂之鼓鑄。」)有工多者置工官,主工稅物。有水池及魚利多者置水官,主平水收漁稅。在所諸縣均差吏更給之。置吏隨事,不具縣員。

 

匈奴中郎将

原文匈奴中郎將

 

使匈奴中郎将一人、比二千石。本注にいう。南単于を護衛することを主とする。従事二人を置き、事があれば事に応じて増員し、掾も事に応じて員数を定める。護羌校尉・烏桓校尉の設置も同様である(応劭の漢官にいう。「節を擁し、中歩南に駐屯し、官府の掾史を設ける。単于は毎年侍子を遣わして朝貢し、謁者が常に送迎し、弓・馬・氈・罽その他の物を賂として百余万得る。謁者は用事が済むと、表を具えて帑蔵に付し、詔書で自ら受け取るよう命じられる」)。

原文使匈奴中郎將一人,比二千石。本注曰:主護南單于。置從事二人,有事隨事增之,掾隨事爲員。護羌、烏桓校尉所置亦然。(應劭漢官曰:「擁節,屯中歩南,設官府掾(吏)〔史〕。單于歳遣侍子來朝,謁者常送迎焉,得賂弓馬氈罽他物百餘萬。謁者事訖,還具表付帑藏,詔書敕自受。」)

 

烏桓校尉

原文烏桓校尉

 

護烏桓校尉一人、比二千石。本注にいう。烏桓の胡を主とする(応劭の漢官にいう。「節を擁する。長史一人、司馬二人、皆六百石。併せて鮮卑を統領する。客として賜り、質子を置き、毎年胡との市を行う」。晋書にいう。「漢は東夷校尉を置き、鮮卑を撫でた」)。

原文護烏桓校尉一人,比二千石。本注曰:主烏桓胡。(應劭漢官曰:「擁節。長史一人,司馬二人,皆六百石。幷領鮮卑。客賜質子,歳時胡巿焉。」晉書曰:「漢置東夷校尉,以撫鮮卑。」)

 

護羌校尉

原文護羌校尉

 

護羌校尉一人、比二千石。本注にいう。西羌を主とする(応劭の漢官にいう。「節を擁する。長史・司馬二人、皆六百石」)。

原文護羌校尉一人,比二千石。本注曰:主西羌。(應劭漢官曰:「擁節。長史、司馬二人,皆六百石。」)

 

王国

原文王國

 

皇子が王に封ぜられると、その郡は国となり、毎に傅一人、相一人を置き、皆二千石である。本注にいう。傅は王を導いて善に向かわせることを主とし、礼は師の如くで、臣とはしない。相は太守の如し。その長史は郡丞の如し。

原文皇子封王,其郡爲國,毎置傅一人,相一人,皆二千石。本注曰:傅主導王以善,禮如師,不臣也。相如太守。其長史,如郡丞。

 

漢の初期に諸王を立てたのは、項羽が立てた諸王の制度に基づき、領地は広大で、千里に及ぶものもあった。またその官職は、傅が太傅、相が丞相となり、さらに御史大夫や諸卿があり、皆二千石の秩禄で、百官は朝廷と同じであった。国家はただ丞相を置くだけで、御史大夫以下はすべて自ら任命した。(胡広が言うには、「後漢では妾の数に制限がなく、正室を設ける制度を作り、妃と称し、小夫人は四十人を超えてはならないとした」という。)景帝の時代になると、呉・楚の七国は自国の大きさを頼みに乱を起こし、漢王朝を危うくした。それらが誅滅された後、景帝はこれを戒め、諸王に民を治めることを禁じ、内史に民の統治を主にさせ、丞相を相と改称し、御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士の官を廃止した。武帝は漢の内史・中尉・郎中令の名称を改めたが、(『漢書』によれば、「漢の内史を京兆尹に、中尉を執金吾に、郎中令を光禄勲に改めた」という。)王国は従前のままで、人員と官職はすべて朝廷が任命し、自ら置くことはできなかった。成帝の時に至り、内史を廃して民を治めさせ、代わりに相に民を治めさせ、(『漢旧儀』によれば、「大司空の何武が内史を廃止し、相を太守のように、中尉を都尉のようにし、職務に参与させるよう上奏した。その後、中尉が権力を争い、王や相と上奏し合い、常に不和であった」という。)太傅は単に傅と称するようになった。(臣の昭が言う:高祖の創業を見ると、それは単に偉大な功績と徳行で、多くの民を庇護し、その毒害と暴虐を払拭して、平和と安泰をもたらしただけではない。深遠な謀略と長期的な考慮をもって、子弟を封建し、藩屏を盤石に固め、その計画は広大遠大であった。しかし、三趙は終わりを全うせず、燕霊王は夭折し、斉・代・淮・楚はすべて外戚の勢力が重くなった。だから宋昌が「外では斉・楚・淮南を恐れる」と言ったのは、その証拠ではないか。事が過ぎれば弊害が生じ、誰がそれを是正できようか。国全体を危うくする難しさは、確かに財物の豊かさを固守すること、防衛の利益も、すでに前代から得ていた。だから几杖を賜って、奸計を止めさせた。後継者が狭い立場に落ちると、怨みが生じる理由があった。ついに軍隊が乱を構成し、戦いが梁の宮廷で交わされ、外侮を防ぎ敵を打ち破ることは、密接な親戚から始まった。景帝は遂に藩国の権力を削ぎ、骨肉の支援を刻みつけ、君に封じてもその民を治めることを聞き入れず、主として置いてもその臣を次第に軽んじた。矯正が過ぎて、遂にこのような事態に至った。呂氏・霍氏の朝廷の危機では、后族が寵愛によってますます貴重となり、呉・楚の反乱と逃亡では、侯王が常にそれによって非難を受けた。だから賈誼は多く封建してその力を弱め、虚位を列ねてその生存を待とうとした。これは達観した深い見識であり、親族と陪臣の要諦を監察したものである。嫡子は必ず万里の地を伝え、分家は動揺させないようにする。経緯と遠大な計画において、すでに妨げられていた。さらに哀帝・平帝の時代には、劉氏が四海に遍在し、宗正の記録に載せられた者は遂に万を数えた。後漢に至っても、前代の跡をより一層踏襲し、光武帝の十人の子はすべて畿外の近郡に並び立ち、孝明帝の八国は遠方の民を庇護し開拓することができなかった。国が近いと大きくできず、大きくないと強国となるには不足である。これが本枝の支援が結局は弱く固まらなかった理由である。もし漢が両越を分割して二、三の親王国を置き、呉・楚を分割して数多くの列藩を立て、遼海を割いて皇族の枝を分け、隴蜀を開いて子弟を王とし、君主を尊貴顕著にし、漢初の貴さに依拠させ、民に定限を設けず、豊かに養育することを許し、もし暗愚で暴虐な後継者がいれば、廃することはできても削ることはできず、必ず劉氏を伝えさせ、民が信奉する所に従い、その侵略兼併のきっかけを発し、他の族の簒奪殺害の科条を厳しくし、その貢納の軽重の法を定め、その来朝往復の回数を疎かにする。君は君として、臣は臣として、永遠に百世の約束を許し、一国の民は長く移動の志を持たず、四方が志を得て、離宮に列封することを聞き入れ、賢才と知恵を抱き、適した楽土に従う。強弱は等しく、遠近は互いに牽制し、その大筋を挙げ、小さな停滞を略し、画一にして、海内に公布する。天子の朝廷では、異姓による僭越奪取でない限り、王を助ける軍を起こすことはできない。諸藩国では、雑多な互いの簒奪主でない限り、討伐の詔を下すことはない。犬牙のように互いに絡み合い、厳かな国として共にあり、たとえ王莽が巧みに盗んだとしても、何の理由で敢えて窃取できようか。曹操が雄勇であっても、どうして士を得ることができようか。これは極聖を待たずして実行でき、明賢が大まかに識るだけで十分に立てられる。故に父子は頭と足、兄弟は四肢である。筋・骨・髄・血が、動静によって互いに勝ち、長短大小が、その働きによって互いに守り合うようにすべきである。どうして脛を切り取って腹に致し、骨肉を取って頭を増やし、背を削って骨を露わにし、膏腴を剥いで頬を補い、頭蓋骨と額が大きく、松や晉のように長寿に比べられ、咽喉が腫れ上がって、必ず長生久視できると言えようか。漢王朝はこれをわずかに得て、なお四百年続いたが、魏はこれを大きく失い、数十年も満たなかった。晋の世からは、矯正が過ぎて、皇朝に列なる者は、賢才を選んで授けるのではなく、ただ親族であることを貴び、愚かさと知恵の区別がなかった。衣冠を着こなせない者が早くも公相の尊位に就き、幼い童子が速やかに槐嶽の地位に登った。職務は道理を論ずるべきであるのに、乳母の養育から離れず、侯を継いで政務を執るのに、二、三尺の衣を着ている。英明で度量の大きい者は、あの昏愚で幼稚な者に委ねられ、高い才能と博識な儒者は、幼い認識に恭しく従った。公の鼎が覆っても憂えず、美しい錦が砕けてもさらに裁断した。兼任は流れるように授けられ、回り道で競争の道となり、才能が鈍く重任を負い、功績は少なく過失は多かった。朝には公旦と名声を並べ、夕には盗跖と同罪となり、褒め称えられても位がなく、徳を満たすことができず、貶されて退けられ刑に処せられても、過失を塞ぐには足りなかった。〔威〕力は強く事を成し、名声と実績は重んじられたが、嫌疑と猜疑心に脅かされ、身はその弊害を受けた。滅ぼされて体を分かれ、梟や仇敵のようになり、〔齏〕粉のように同気を砕き、他の逆賊よりも過ぎた。忠貞の士は、横暴にその凶事に巻き込まれ、志節の人は、狼狽してその災禍に遭った。閼伯と実沈は、史筆に続き、顕思と顕甫は、国書に並んで記された。趙倫は〔憃〕愚をもって天を排し、斉攸は賢明をもって世を去り、無実の鬱憤に滅び、冤罪の孫は尽き、数え切れないほどである。どうして周・漢の君主は多く孝悌の性質を持ち、晋・宋の主は豺狼の情けを受けたのか、それは事の勢いがそうさせたのである。朝にこの術を行えば、夕には崩壊と混乱に窮し、改悛することができず、来る事態はますます甚だしくなった。蒼生はこれによって尽きようとし、四海はこれによって窮屈に構えられた。聖帝英君がこの敗北を覆そうとすれば、必ずさらに同姓の国を開き、増やさない約束を置き、皇胤が宮中に入る禍いを罷め、盟牲を砺く河の篤実さを守り、険しい墜落の道を還し、全安の轍に戻すべきである。)

原文漢初立諸王,因項羽所立諸王之制,地旣廣大,且至千里。又其官職,傅爲太傅,相爲丞相,又有御史大夫及諸卿,皆秩二千石,百官皆如朝廷。國家唯爲置丞相,其御史大夫以下皆自置之。(胡廣曰:「後漢妾數無限別,乃制設正適,曰妃,取小夫人不得過四十人。」)至景帝時,呉、楚七國恃其國大,遂以作亂,幾危漢室。及其誅滅,景帝懲之,遂令諸王不得治民,令内史主治民,改丞相曰相,省御史大夫、廷尉、少府、宗正、博士官。武帝改漢内史、中尉、郎中令之名,(前書曰:「改漢内史爲京兆尹,中尉爲執金吾,郎中令爲光祿勳。」)而王國如故,員職皆朝廷爲署,不得自置。至成帝省内史治民,更令相治民,(漢舊儀曰:「大司空何武奏罷内史,相如太守,中尉如都尉,參職。是後中尉爭權,與王相奏,常不和也。」)太傅但曰傅。(臣昭曰:觀夫髙祖之創業也,豈直鴻勳碩德,大庇群生,蕩其毒虐,厝之和泰而已哉!至於謀深慮久,封建子弟,蕃維盤固,規謀弘遠。及於三趙不終,燕靈夭絶,齊、代、淮、楚皆爲外重,故宋昌曰「外畏齊、楚、淮南」,斯非效與?事過則獘,孰或通之?全國之難,誠固財物之富,作衞之益,亦旣得之於前矣,故賜以幾杖,用息姦謀。嗣隕局下,怨生有以,逮連師構亂,兵交梁闕,禦侮摧寇,肇自密戚。景帝遂削蕃國之權,刻骨肉之援,封爲君而不聽治其民,置爲主而稍賤其臣,矯枉過甚,遂臻於此。呂、霍之危朝,后族愈貴於來寵,呉、楚之叛奔,侯王恆藉以受誚,故賈誼欲衆建以少其力,列虚以侯其生,此乃達觀深識,監於親陪之要者也。冢嗣必傳萬裏之地,分支欲使動搖不得,於經維遠筭,且已礙矣。復哀平之際,劉氏遍於四海,宗正著録,遂以萬數。及乎後漢,彌循前跡,光武十子,並列畿外近郡,孝明八國,不能開庇遠民。國近則不可以大,不大則不足爲強,此所以本枝之援,終以少固。若使漢分兩越置二三親國,剖呉、楚樹數四列蕃,割遼海而分皇枝,開隴蜀而王子弟,使主尊顯,依漢初之貴,民無定限,許滋養之富;若有昏虐之嗣,可得廢而不得削,必傳劉氏。民信所奉,發其侵伐兼幷之釁,峻其他族篡殺之科,制其入貢輕重之法,疎其來朝往復之數。君君臣臣,永許百世之期,一國之民,長無遷動之志,四方得志,聽離官列封,懷賢抱智,隨所適樂土。強弱相侔,遠近相摧,舉其大歸,略其小滯,與其畫一,班之海内。天子之朝,自非異姓僭奪,不得興勤王之師。諸蕃國,自非雜互篡主,不降討伐之詔。犬牙相經,共爲嚴國,雖王莽善盜,將何因而敢竊,曹操雄勇,亦安能以得士。斯無俟極聖然克行,明賢粗識亦足立。故父子首足也,昆弟四支也,當使筋骨髓血,動靜足以相勝,長短大小,幹用足以相衞。豈有割脛致腹,取骨肉以增頭,剗背露骨,剝膏腴以裨頷,而謂顱顙魁岸,可得比壽松、晉,喉咽擁腫,必能長生久視哉?漢氏得之微,猶能四百載,魏人失之甚,不滿數十年。爰自晉世,矯枉太過,入列皇朝,非簡賢之授,唯親是貴,無愚智之辨。不能勝衣冠,早據公相之尊,童蒙幼子,遄登槐嶽之位。職應論道,而未離保母之養,續侯賦政,而服二三尺衣。英賢大度,稟彼昏稚,髙才碩儒,恭承藐識。公餗覆而不憂,美錦碎而愈截。兼授若流,迴遷競路,才駑任重,功尠釁多。曉比名於公旦,夕同罪於盜跖,褒稱無位,可以充德,貶退刑轘,不足以塞咎。〔威〕力強濟,聲實隆重,嫌猜畏逼,身受其獘。覆滅分體,若梟仇寇,〔齏〕粉同氣,有過他逆。忠貞之士,橫羅其凶,志節之人,狼狽其禍。閼伯、實沈,繼踵史筆,顯思顯甫,比有國書。趙倫以〔憃〕愚排天,齊攸以賢明謝世,枉鬱殄夷,冤孫就盡,不可勝載矣。豈周、漢之君多孝悌之性,晉、宋之主稟豺狼之情,蓋事勢使之然也。朝行斯術,夕窮崩亂,未能革悛,來事愈甚。蒼生爲此將盡矣,四海爲此構蹙矣!聖帝英君,欲反斯敗,必當更開同姓之國,置不增之約,罷皇胤入宮之禍,守盟牲礪河之篤,乃可還嶮墜之路,反乎全安之轍也。)

 

中尉は一人で、比二千石に相当する。本注によると、職務は郡の都尉と同じで、盗賊を取り締まる。(東観書には、「その紹封削絀者は、中尉・内史の官属もまた率に従って減らす」とある。)郎中令は一人、僕は一人で、いずれも千石である。本注によると、郎中令は王の大夫・郎中を管轄し宿衛を担当し、官制は光禄勲と同じである。少府が廃止されて以来、その職務はすべて併合された。僕は車と御者を主管し、太僕と同じである。本来は太僕といい、比二千石であったが、武帝が改めて単に僕と称し、またその秩禄をすべて減らした。治書は、比六百石に相当する。本注によると、治書は本来の尚書が改称されたものである。大夫は、比六百石に相当する。本注によると、定員はなく、王の使者として都に赴き、璧を捧げて正月を祝賀し、また諸国に派遣される任務を担当する。本来は皆節を持っていたが、後に節は取りやめられた。謁者は、比四百石に相当する。本注によると、長冠を冠することを担当する。本来の定員は十六人であったが、後に減らされた。礼楽長。本注によると、楽人を主管する。衛士長。本注によると、衛士を主管する。医工長。本注によると、医薬を主管する。永巷長。本注によると、宦官で、宮中の婢使を主管する。祠祀長。本注によると、祠祀を主管する。いずれも比四百石に相当する。(礼楽長からここまで、いずれも四百石である。)郎中は、二百石である。本注によると、定員はない。

原文中尉一人,比二千石。本注曰:職如郡都尉,主盜賊。(東觀書曰:「其紹封削絀者,中尉、内史官屬亦以率減。」)郎中令一人,僕一人,皆千石。本注曰:郎中令掌王大夫、郎中宿衞,官如光祿勛。自省少府,職皆幷焉。僕主車及馭,如太僕。本曰太僕,比二千石,武帝改,但曰僕,又皆減其秩。治書,比六百石。本注曰:治書本尙書更名。大夫,比六百石。本注曰:無員。掌奉王使至京都,奉璧賀正月,及使諸國。本皆持節,後去節。謁者,比四百石。本注曰:掌冠長冠。本員十六人,後減。禮樂長。本注曰:主樂人。衞士長。本注曰:主衞士。醫工長。本注曰:主醫藥。永巷長。本注曰:宦者,主宮中婢使。祠祀長。本注曰:主祠祀。皆比四百石。(自禮樂長至此,皆四百石。)郎中,二百石。本注曰:無員。

 

宋公、衛公。

原文宋衞公

 

衛公、宋公。本注によると、建武二年、周の後裔である姬常を周承休公に封じた。五年、殷の後裔である孔安を殷紹嘉公に封じた。十三年、常を衛公に、安を宋公に改め、漢の賓客として、三公の上に位置づけた。(五経通義には、「二王の後裔は功績を考課せず、誅罰はあっても絶やさない」とある。鄭玄は言う。「王者は二代を存続させて封じ、五まで及ぶ。郊天では天子の礼を用いてその始祖を祭り、その正朔を行い、これを三統を通じるという。三恪とは、その先聖を敬い、その後裔を封じるだけで、特別な待遇はないものである。」)

原文衞公、宋公。本注曰:建武二年,封周後姬常爲周承休公;五年,封殷後孔安爲殷紹嘉公。十三年,改常爲衞公,安爲宋公,以爲漢賓,在三公上。(五經通義:「二王之後不考功,有誅無絶。」鄭玄曰:「王者存二代而封及五,郊天用天子禮以祭其始祖,行其正朔,此謂通三統也。三恪者,敬其先聖,封其後而已,無殊異者也。」)

 

列侯

原文列侯

 

列侯は、その食邑とする県が侯国となる。本注によると、秦の二十等爵を継承し、徹侯とし、金印紫綬を授け、功績を賞する。功績の大きい者は県を食邑とし、小さい者は郷や亭を食邑とし、その食邑の吏民を臣下とすることができる。後に武帝の諱いみなを避けて、列侯と改称した。武帝の元朔二年、諸王が恩を推して多くの子に領土を分け与えることを許し、国家が封じる場合も列侯とした。旧来、長安で朝請に奉仕する列侯は、位次は三公の次であった。中興以来、功徳により特進の位を賜った者のみが、車騎将軍の次に位置する。(胡広の漢制度によると、「功徳が優れて盛んで、朝廷が特に敬異する者には、特進を賜り、三公の下、車騎将軍の下ではない」という。)朝侯の位を賜った者は、五校尉の次に位置する。侍祠侯の位を賜った者は、大夫の次に位置する。その他、姻戚として付随した者や、公主の子孫で京都で墳墓を守る者は、時宜に応じて会合に参加し、位は博士・議郎の下である。(胡広の制度によると、「これは猥諸侯である」という。)

原文列侯,所食縣爲侯國。本注曰:承秦爵二十等,爲徹侯,金印紫綬,以賞有功。功大者食縣,小者食鄕、亭,得臣其所食吏民。後避武帝諱,爲列侯。武帝元朔二年,令諸王得推恩分衆子土,國家爲封,亦爲列侯。舊列侯奉朝請在長安者,位次三公。中興以來,唯以功德賜位特進者,次車騎將軍;(胡廣漢制度曰:「功德優盛,朝廷所敬異者,賜特進,在三公下,不在車騎下。」)賜位朝侯,次五校尉;賜位侍祠侯,次大夫。其餘以[BD4A]附及公主子孫奉墳墓於京都者,亦隨時見會,位在博士、議郎下。(胡廣制度曰:「是爲猥諸侯。」)

 

諸王が封を受ける者は茅土を受け、帰国して社稷を立てるのが礼である。(胡広は言う。「諸王が封を受ける時は、皆茅土を受け、帰国して社稷を立てる。本朝では宮室を建て、独自の制度がある。列侯が国に帰る者は、茅土を受けず、宮室を立てず、それぞれ貧富に応じて裁量し、庶民を治めてその寵愛を守る。」)列土・特進・朝侯は、正月の祝賀で璧を執る。

原文諸王封者受茅土,歸以立社稷,禮也。(胡廣曰:「諸王受封,皆受茅土,歸立社稷。本朝爲宮室,自有制度。至於列侯歸國者,不受茅土,不立宮室,各隨貧富,裁制黎庶,以守其寵。」)列土、特進、朝侯賀正月執璧雲。

 

各国ごとに相を一人置き、その秩禄はそれぞれ本来の県と同じである。本注によると、民を治めることを主管し、令・長と同じで、臣下とはしない。ただし、侯に租税を納め、戸数を限度とする。その家臣として、家丞・庶子を各一人置く。本注によると、侯に侍し、家事を処理させることを主管する。列侯には旧来、行人・洗馬・門大夫の五官があった。中興以来、食邑千戸以上の者は家丞・庶子を各一人置き、千戸に満たない者は家丞を置かず、また行人・洗馬・門大夫をすべて廃止した。

原文毎國置相一人,其秩各如本縣。本注曰:主治民,如令、長,不臣也。但納租於侯,以戸數爲限。其家臣,置家丞、庶子各一人。本注曰:主侍侯,使理家事。列侯舊有行人、洗馬、門大夫,凡五官。中興以來,食邑千戸已上置家丞、庶子各一人,不滿千戸不置家丞,又悉省行人、洗馬、門大夫。

 

関内侯

原文關内侯

 

関内侯(如淳が言うには、「列侯は関を出て国に就くが、侯はただ爵位のみで、家累のある者には関内の邑を与え、その租税を食む」という。古今注によれば、「建武六年、初めて関内侯で食邑する者の俸禄を月二十五斛こくと定めた」という。)は、秦の制度を受け継ぎ、賜爵十九等のうち関内侯とし、領土はなく、在所の県に寄食し、民の租税の多少は、それぞれ戸数に限りがあった。(荀綽の晋百官表注によれば、「当時六国が未だ平定されておらず、将帥は皆関中に家があったため、この号を用いた」という。劉劭の爵制によれば、「春秋伝に庶長鮑がいる。商君が政を執り、その法品を備えて十八級とし、関内侯・列侯を合わせて凡そ二十等とした。その制度は古義に因る。古くは天子が軍政を六卿に寄せ、平時には田に従事し、警報があれば戦い、いわゆる入ってはこれを治め、出てはこれを長じ、平素から信頼される者が衆と相得るのである。故に啓が有扈を討伐した時、六卿を召したが、大夫が軍中にいる者は将となる者である。周の六卿もまた軍中に居り、国中では比長・閭胥・族師・党正・州長・卿大夫と称し、軍中では卒伍・司馬・将軍を号とした。これが国中での名と異なる所以である。秦は古制に依り、軍中で爵を賜うことを等級とし、その人を率いる者は皆更卒である。功があって爵を賜れば、軍吏の例に入る。一爵以上から不更までの四等は、皆士である。大夫以上から五大夫までの五等は、大夫に比する。九等は、九命の義に依る。左庶長以上から大庶長までは、九卿の義である。関内侯は、古の畿内子男の義に依る。秦は山西に都し、関内を王畿としたため、関内侯というのである。列侯は、古の列国諸侯の義に依る。然らば卿・大夫・士以下の品は、皆古に倣い、朝廷の制度に比べてその名を異にし、また軍と国とを区別する所以でもある。古くは車戦を用い、兵車一乗に歩卒七十二人、左右の翼に分かれる。車には、大夫が左に、御者が中に、勇士が右に居り、凡そ七十五人である。一爵を公士というのは、歩卒で爵を持つ者が公士であるから。二爵を上造という。造は成である。古くは士が成って司徒に昇る者を造士といい、この名に依るが、皆歩卒である。三爵を簪褭という。四頭立ての馬を御する者である。要褭は古の名馬である。四頭立ての馬を駕する者の形が簪に似ているため、簪褭というのである。四爵を不更という。不更とは車右となり、凡そ更卒と同じくしない者である。五爵を大夫という。大夫とは車左に居る者である。六爵は官大夫、七爵は公大夫、八爵は公乗、九爵は五大夫で、皆軍吏である。吏民の爵は公乗を超えることができないが、子や同産に売り与えることができる。然らば公乗とは、軍吏の爵で高い者である。戦いに臨まなくても、公卒の車を得るため、公乗というのである。十爵は左庶長、十一爵は右庶長、十二爵は左更、十三爵は中更、十四爵は右更、十五爵は少上造、十六爵は大上造、十七爵は駟車庶長、十八爵は大庶長、十九爵は関内侯、二十爵は列侯である。左庶長以上から大庶長までは、皆卿大夫で、皆軍の将である。率いる者は皆庶人・更卒であるため、庶・更を名とする。大庶長は即ち大将軍であり、左右庶長は即ち左右の偏裨将ひしょう軍である。」という。古今注によれば、「成帝の鴻嘉三年、吏民に爵を買うことを許し、一級千銭とした」という。)

原文關内侯,(如淳曰:「列侯出關就國,侯但爵身,其有家累者與之關内之邑,食其租稅也。」古今注曰:「建武六年,初令關内侯食邑者俸月二十五斛。」)承秦賜爵十九等,爲關内侯,無土,寄食在所縣,民租多少,各有戸數爲限。(荀綽晉百官表注曰:「時六國未平,將帥皆家關中,故以爲號。」劉劭爵制曰:「春秋傳有庶長鮑。商君爲政,備其法品爲十八級,合關内侯、列侯凡二十等,其制因古義。古者天子寄軍政於六卿,居則以田,警則以戰,所謂入使治之,出使長之,素信者與衆相得也。故啓伐有扈,乃召六卿,大夫之在軍爲將者也。及周之六卿,亦以居軍,在國也則以比長、閭胥、族師、黨正、州長、卿大夫爲稱,其在軍也則以卒伍、司馬、將軍爲號,所以異在國之名也。秦依古制,其在軍賜爵爲等級,其帥人皆更卒也,有功賜爵,則在軍吏之例。自一爵以上至不更四等,皆士也。大夫以上至五大夫五等,比大夫也。九等,依九命之義也。自左庶長以上至大庶長,九卿之義也。關内侯者,依古圻内子男之義也。秦都山西,以關内爲王畿,故曰關内侯也。列侯者,依古列國諸侯之義也。然則卿大夫士下之品,皆放古,比朝之制而異其名,亦所以殊軍國也。古者以車戰,兵車一乘,歩卒七十二人,分翼左右。車,大夫在左,御者處中,勇士居右,凡七十五人。一爵曰公士者,歩卒之有爵爲公士者。二爵曰上造。造,成也。古者成士昇於司徒曰造士,雖依此名,皆歩卒也。三爵曰簪褭,御駟馬者。要褭,古之名馬也。駕駟馬者其形似簪,故曰簪褭也。四爵曰不更。不更者,爲車右,不復與凡更卒同也。五爵曰大夫。大夫者,在車左者也。六爵爲官大夫,七爵爲公大夫,八爵爲公乘,九爵爲五大夫,皆軍吏也。吏民爵不得過公乘者,得貰與子若同産。然則公乘者,軍吏之爵髙者也。雖非臨戰,得公卒車,故曰公乘也。十爵爲左庶長,十一爵爲右庶長,十二爵爲左更,十三爵爲中更,十四爵爲右更,十五爵爲少上造,十六爵爲大上造,十七爵爲駟車庶長,十八爵爲大庶長,十九爵爲關内侯,二十爵爲列侯。自左庶長已上至大庶長,皆卿大夫,皆軍將也。所將皆庶人、更卒也,故以庶更爲名。大庶長卽大將軍也,左右庶長卽左右偏裨將軍也。」古今注曰:「成帝鴻嘉三年,令吏民得買爵,級千錢。」)

 

四夷の国

原文四夷國

 

四夷の国王、率衆王、帰義侯、邑君、邑長には、皆丞がおり、郡・県に比する。

原文四夷國王,率衆王,歸義侯,邑君,邑長,皆有丞,比郡、縣。

 

百官の俸禄

原文百官奉

 

百官の俸禄受給の例:(古今注によれば、建武二十六年四月戊戌、吏の俸禄をこのように増し、志の例によって明らかにするという。)大将軍・三公の俸禄は、月三百五十斛。中二千石の俸禄は、月百八十斛。二千石の俸禄は、月百二十斛。比二千石の俸禄は、月百斛。千石の俸禄は、月八十斛。六百石の俸禄は、月七十斛。比六百石の俸禄は、月五十斛。四百石の俸禄は、月四十五斛。比四百石の俸禄は、月四十斛。三百石の俸禄は、月四十斛。比三百石の俸禄は、月三十七斛。二百石の俸禄は、月三十斛。比二百石の俸禄は、月二十七斛。一百石の俸禄は、月十六斛。斗食の俸禄は、月十一斛。(漢書音義によれば、「斗食の禄は、日を以て斗を計る」という。)佐史の俸禄は、月八斛。(古今注によれば、「永和三年、初めて河南尹及び洛陽の員吏四百二十七人に俸禄を与え、月四十五斛とした」という。臣の昭が言うには、この言葉はどうして妄りであろうか?もし人々が四十五斛の俸禄を受けるならば、四百石の秩は余りに優遇され過ぎて品がないことになり、もし共に進奉する者が一人一斗に過ぎないとしても、また義理に合わない。)凡そ諸々の俸禄を受ける者は、皆半銭半穀である。(荀綽の『晋百官表注』によれば、「漢の延平年間、中二千石の俸禄は銭九千、米七十二斛。真二千石は月銭六千五百、米三十六斛。比二千石は月銭五千、米三十四斛。一千石は月銭四千、米三十斛。六百石は月銭三千五百、米二十一斛。四百石は月銭二千五百、米十五斛。三百石は月銭二千、米十二斛。二百石は月銭一千、米九斛。百石は月銭八百、米四斛八斗。」という。献帝起居注によれば、「帝が長安におられた時、詔書で三輔の地は千里に満たず、しかも軍師の用度は一つではなく、公卿以下は奏上して除くことができない。その公田については、秩石を率として、令にそれぞれその租税を収めさせた」という。)

原文百官受奉例:(古今注曰,建武二十六年四月戊戌,增吏奉如此,志例以明也。)大將軍、三公奉,月三百五十斛。中二千石奉,月百八十斛。二千石奉,月百二十斛。比二千石奉,月百斛。千石奉,月八十斛。六百石奉,月七十斛。比六百石奉,月五十斛。四百石奉,月四十五斛。比四百石奉,月四十斛。三百石奉,月四十斛。比三百石奉,月三十七斛。二百石奉,月三十斛。比二百石奉,月二十七斛。一百石奉,月十六斛。斗食奉,月十一斛。(漢書音義曰:「斗食祿,日以斗爲計。」)佐史奉,月八斛。(古今注曰:「永和三年,初與河南尹及雒陽員吏四百二十七人奉,月四十五斛。」臣昭曰:此言豈其妄乎?若人人奉四十五斛,則四百石秩爲太優而無品,若共進奉者人不過一斗,亦非義理。)凡諸受奉,皆半錢半谷。(荀綽《晉百官表注》曰:「漢延平中,中二千石奉錢九千,米七十二斛。眞二千石月錢六千五百,米三十六斛。比二千石月錢五千,米三十四斛。一千石月錢四千,米三十斛。六百石月錢三千五百,米二十一斛。四百石月錢二千五百,米十五斛。三百石月錢二千,米十二斛。二百石月錢一千,米九斛。百石月錢八百,米四斛八斗。」獻帝起居注曰:「帝在長安,詔書以三輔地不滿千里,而軍師用度非一,公卿已下不得奏除。其若公田,以秩石爲率,賦(輿)〔與〕令各自收其租稅。」)

 

賛

原文贊

 

賛に言う:帝道は淵黙にして、冢帥は徳を修める。寡を以て衆を御し、職を分けて乃ち克つ。置かず監せず、驕らず誤らず。程はこれ師徒、民を寧んじ国を康んず。

原文贊曰:帝道淵默,冢帥修德。寡以御衆,分職乃克。不置不監,無驕無忒。程是師徒,寧民康國。