漢書かんじょごかんじょ

巻一百十八・百官五 州郡 縣鄕 亭-{里}- 匈奴中郎將 烏桓校尉こうい 護羌校尉 王國 宋えい公 列侯 關内侯 四夷國 百官奉

外十二州、それぞれに刺史一人を置き、六百石の俸禄である。本注によると、秦には監御史があり、諸郡を監督したが、漢が興るとこれを廃止し、ただ丞相史を派遣して諸州を巡察させたが、常設の官ではなかった。孝武帝の初めに刺史十三人を設置し、秩禄は六百石であった。成帝の時に牧と改め、秩禄二千石とした。建武十八年に再び刺史とし、十二人がそれぞれ一州を管轄し、その一州は司隸校尉に属した。諸州は常に八月に管轄する郡国を巡行し、囚徒の記録を調べ、成績の優劣を考課した。当初は年末に京都へ赴いて上奏したが、中興後は計吏に任せるようになった。

いずれも従事史と仮佐を置いた。本注によると、員数と職務はほぼ司隸と同じであるが、都官従事はなく、その功曹従事が治中従事となる。

郡国

すべての州で監察する都は京都とし、尹を一人置き、二千石の官秩とし、丞を一人置く。各郡には太守を一人置き、二千石の官秩とし、丞を一人置く。郡が辺境の守備に当たる場合、丞は長史となる。(古今注にいう。「建武六年三月、郡太守・諸侯相が病気のときは、丞・長史が職務を代行するよう命じた。十四年、辺境の郡の太守丞を廃止し、長史が丞の職務を兼ねた。」)王国の相もこれと同じである。各属国には都尉を一人置き、比二千石の官秩とし、丞を一人置く。本注にいう。すべての郡国はみな民を治め、賢者を推挙し功績を勧め、訴訟を裁き奸悪を取り締まることを職掌とする。常に春には管轄する県を巡行し、民に農桑を勧め、困窮者を救済する。秋冬には無害吏を派遣して諸囚を審問し、その罪法を公平にし、官吏の考課を行い最下位を論ずる。(律に無害都吏があるのを案ずるに、今でいう公平吏である。漢書音義にいう。「文書に枉げて害するところがない。」蕭何しょうかは文無害をもってはいの主吏掾となった。)年末には吏を派遣して上計を行う。(盧植の礼注にいう。「会計の区切りは九月である。秦が十月を正月としたことに因るためである。」)併せて孝廉を推挙し、郡の人口二十万人につき一人を挙げる。尉一人は、兵禁を司り、盗賊を防備する。景帝の時に都尉と改名した。武帝はまた三輔都尉をそれぞれ一人置き、出入りを取り締まった。辺境の郡には農都尉を置き、屯田と穀物の栽培を主管した。また属国都尉を置き、蛮夷の降伏者を主管した。中興して建武六年、諸郡の都尉を廃止し、その職務を太守に併せ、都試の役務をなくした。(古今注にいう。「六年八月、都尉官を廃止した。」応劭がいう。「劇賊があるたびに、郡は臨時に都尉を置き、事が終わればこれを罷免した。」)関都尉を廃止し、ただ辺境の郡にはしばしば都尉および属国都尉を置き、わずかに県を分けて治め、郡と同じように民を治めた。安帝の時、羌が法を犯し、三輔に陵園の守りがあるため、右扶風都尉と京兆虎牙都尉を再び置いた。(応劭の漢官にいう。「そもそも天は五材を生じ、民はこれを併せ用い、一つでも廃すればならず、誰が兵を去ることができようか。兵の設置は古くからある。易は『木に弦を張って弧とし、木を削って矢とし、弧矢の利をもって天下を威する』と称する。春秋は『三時は農に務め、一時は武を講ず』とする。詩は公劉を称えて『居らず康ならず、耕に入り戦に出で、すなわち餱糧を包み、干戈を揚げ、四方に当たるものなし』と美とする。郡国が材官騎士を廃止して以来、官に警備がなく、実に寇の心を開いた。一方に難があれば、三面からこれを救い、発動は雷の如く震い、煙は蒸し電は激しく、一切を調達し、民衆は騒然とする。その射御を講じ、その戒誓を用いる暇もなく、一旦これらを駆り立てて強敵に即せしめるのは、鳩や鵲が鷹や鸇を捕らえ、豚や羊が豺や虎を射るようなものであり、このため戦うごとに常に負け、王の軍旅は振るわない。張角は妖偽を抱き、遠近を揺るがし、八州併発し、煙炎は天を絳くし、牧守は梟裂され、流血は川となる。ここに至って遠く三辺の異俗の兵を徴発するが、我が族類ではなく、忿鷙にして縦横に振る舞い、多くの善良な者を殺害し、これを己の功とし、財貨を糞土の如くにする。哀れなるかな、民氓が流離する咎は、ここに出ることを見る。教えずして戦うは、これを棄つというのである。その禍敗の跡を尋ねれば、どうして虚妄であろうか。春秋の家は甲を蔵さず、これをもって国の威を一にし私力を抑えるのである。今たとえ四海が残壊し、王命が未だ行き渡らなくとも、衝を折り難を圧することは、掌を指すが如くである。故に右扶風を置く。」)皆、諸曹掾史を置く。(新論にいう。「王莽の時、西海郡を置き、その吏を皆百石の親事とした。」一説には四百石とし、二年で遷補した。)本注にいう。諸曹はおおよそ公府の曹のようであり、東西曹はない。(蔡質の漢儀にいう。「河南尹の掾は出向いて考案し、従事と同じである。」)功曹史があり、選挙と功労の登録を主管する。五官掾があり、功曹および諸曹の事務を担当する。その監属県には、五部督郵があり、曹掾一人がいる。正門には亭長ていちょう一人がいる。主記室史は、記録と文書の収録、期日の督促を主管する。令史はない。閣下および諸曹にはそれぞれ書佐があり、幹は文書を主管する。(漢官にいう。「河南尹の員吏は九百二十七人、うち十二人は百石である。諸県の有秩は三十五人、官属掾史は五人、四部督郵吏部掾は二十六人、案獄仁恕は三人、監津渠漕水掾は二十五人、百石卒吏は二百五十人、文学守助掾は六十人、書佐は五十人、修行は二百三十人、幹小史は二百三十一人である。」)

属官として、各県・邑・道には、大きいものには令を一人置き、千石の官秩とする。次いで大きいものには長を置き、四百石の官秩とする。小さいものには長を置き、三百石の官秩とする。侯国の相の官秩もこれと同じである。(応劭の漢官にいう。「前書の百官表に云う、一万戸以上は令とし、一万戸以下は長とする。三辺は孝武皇帝が開いたところで、県の戸数は数百であるのに令とすることがある。荊揚江南の七郡では、ただ臨湘・南昌・呉の三つの令があるのみである。また南陽の穰中は、土地が肥沃で民が稠密で、四五万戸であるのに長とする。桓帝の時、汝南陽安を女公主の邑とし、号を改めて令とし、公主が薨じた後また元に戻した。このように本に係わるのである。俗説では令長は水土によって決まり、官秩の高低も皆明文がない。班固は通儒であり、一代の書を述べているが、これは真実に近い。」)本注にいう。皆、民を治め、善を顕彰し義を勧め、奸を禁じ悪を罰し、訴訟を処理し賊を平定し、民を恤み時務に努め、秋冬に集めて考課し、所属する郡国に上計することを職掌とする。(胡広がいう。「秋冬の年末に、各県は戸口・墾田・銭穀の出入・盗賊の多少を計上し、その集簿を上申する。丞尉以下は、毎年郡に赴き、その功績を考課する。功績が多く特に最上である者は、廷尉において労をねぎらい勉め、その後の励みとする。負けが多く特に最下位である者は、後曹において別に責め、怠慢を糾すのである。諸々の対辞で窮し特に困った者は、主管者を収監し、掾史が太守に関白し、法を取らせる。丞尉は縛られて責められ、下の者に転じて互いに督敕し、民のために害を除くのである。明帝の詔書は黄綬を辱めることを得ず、小人の吏と区別するためである。」)

すべての県で蛮夷を主管するものを道という。公主が食する湯沐を邑という。県で一万戸以上は令とし、満たないものは長とする。侯国は相とする。皆、秦の制度である。(史記しきに、秦が天下を併合し、郡県を夷し、兵刃を銷し、再び用いないことを示した。)丞はそれぞれ一人。尉は大県には二人、小県には一人。本注にいう。丞は文書に署名する。倉と獄を主管して知る。尉は盗賊を主管する。賊が発生した場合、主犯が立たなければ、推索して行方を尋ね、案察して奸宄を明らかにし、端緒を起こす。(応劭の漢官にいう。「大県の丞・左右尉、いわゆる命卿三人である。小県は一尉一丞、命卿二人である。」)それぞれ諸曹掾史を置く。本注にいう。諸曹はおおよそ郡の員のようであり、五官は廷掾となり、郷の五部を監察し、春夏は勧農掾となり、秋冬は制度掾となる。(漢官にいう。「雒陽令は官秩千石、丞三人は四百石、孝廉左尉は四百石、孝廉右尉は四百石である。員吏は七百九十六人、うち十三人は四百石である。郷の有秩・獄史は五十六人、佐史・郷佐は七十七人、斗食・令史・嗇夫・仮は五十人、官掾史・幹小史は二百五十人、書佐は九十人、修行は二百六十人である。」)

郷には有秩、三老、遊徼を置いた。本注にいう。有秩は郡が任命し、秩百石(漢官に「郷戸五千ならば有秩を置く」という)で、一郷の人民を管掌する(風俗通に「秩は田間の大夫であり、その官はわずかに秩があるだけだという」)。その郷が小さい場合は、県が嗇夫一人を置く(風俗通に「嗇は省くことであり、夫は賦である。百姓の消息をはかり、その役賦を均等にすることを言う」)。皆、人民の善悪を知り、役の先後を決め、人民の貧富を知り、賦の多少を決め、その差等を公平にすることを主とする。三老は教化を掌る。孝子順孫、貞女義婦、財を譲り患難を救う者、および学士で人民の模範となる者があれば、皆その門に扁額を掲げて表彰し、善行を奨励する。遊徼は巡察を掌り、奸盗を取り締まる。また郷佐があり、郷に属し、人民から賦税を徴収することを主とする(風俗通に「国家の制度は、おおむね十里で一郷とする」という)。

亭には亭長がおり、盗賊を禁圧する。本注にいう。亭長は盗賊の捕縛を主とし、都尉の指揮を受ける(漢官儀にいう。「民は二十三歳で正丁となり、一年は衛士、一年は材官騎士として、射御・騎乗・戦陣を習う。八月に太守・都尉・令・長・相・丞・尉が集まって都試を行い、成績の優劣を考課する。水辺の家は楼船となり、戦射・行船も習う。〔辺〕郡の太守はそれぞれ万騎を率い、障塞・烽火を巡り、敵を追撃する。長史一人、丞一人を置き、兵民を治める。兵が行くときは長がこれを率いる。部尉・千人・司馬・候・農都尉を置くが、皆、民を治めず、衛士を供給しない。材官・楼船は五十六歳で老衰し、ようやく免ぜられて民となり田畑に就く。応当に選ばれて亭長となる。亭長は巡察を考課される。尉・遊徼・亭長は皆、五種の兵器を整備するよう習う。五兵とは、弓弩、戟、楯、刀剣、甲鎧である。鼓吏は赤い幘をかぶり脛巾を巻き、剣を帯び刀を佩き、楯を持ち甲を着け、矛戟を設け、射を習う。十里ごとに一亭を設け、亭長・亭候を置く。五里ごとに一郵を設け、郵の間は二里半離れ、奸盗を取り締まる。亭長は二尺の板を持って賊を弾劾し、縄を持って賊を捕縛する」。風俗通にいう。「漢家は秦に因り、おおむね十里に一亭を置く。亭は留まることであり、行旅が宿泊し会合する館である。亭の吏は旧来、負弩と称したが、長に改め、あるいは亭父ともいう」)。

里には里魁がおり、民は什伍に編成され、善悪を報告する。本注にいう。里魁は一里百家を掌る。什は十家を主とし、伍は五家を主として、互いに監察し合う。民に善事悪事があれば、監官に報告する(風俗通にいう。「周礼では五家を鄰とし、四鄰を里とする。里は止まることである。里には有司があり、五十家を司り、共に居住し、旧来の仕事を喜び、その往来を通じさせる」)。

辺境の県には障塞尉がいる。本注にいう。羌や夷が塞を犯すのを防備することを掌る(太公たいこう陰符にいう。「武王が太公に『治乱の要を聞きたい』と問うた。太公は『その根本は吏にある』と言った。武王が『吏は治める者であり、治めようとするのに、乱れるのはなぜか』と問うと、太公は『故に吏の重罪は十ある』と言った。武王が『吏の重罪とは』と問うと、太公は言った。『一、吏が苛刻であること。二、吏が不公平であること。三、吏が貪汚であること。四、吏が威力をもって民に迫脅すること。五、吏が史と結託して奸を行うこと。六、吏が人と情を失うこと。七、吏が盗賊となり、人を使って耳目とすること。八、吏が安く買い民に高く売ること。九、吏が民に対して増改すること。十、吏が民を震え上がらせること。治める者に三つの罪があれば国は乱れ民は愁い、全てあれば民は流亡し君はその国を失う』。武王が『民にも罪があるのか』と問うと、太公は『民にはこれより大きな十の罪があり、これを除けば国は治まり民は安らぐ』と言った。武王が『十の大罪とはどのようなものか』と問うと、太公は言った。『民が吏に勝ち、大臣を厚遇すること、第一の大罪である。民の宗族が強く、群下を侵陵すること、第二の大罪である。民が甚だ富み、国家を傾けること、第三の大罪である。民がその君を尊親し、天下が慕って帰すること、第四の大罪である。衆が寡を暴くこと、第五の大罪である。民が百里の誉れ、千里の交わりを持つこと、第六の大罪である。民が吏の威を権威とすること、第七の大罪である。恩が吏に行き渡ること、第八の大罪である。民が信服し、少を以て多とし、人の田宅を奪い、人の妻子を質に取ること、第九の大罪である。民の基業や畜産が人のために苦しめられること、第十の大罪である。いわゆる一家が一里を害し、一里が諸侯を害し、諸侯が天下を害するのである』。武王が『吏の罪を絶ち、民の大罪を塞ぐにはどうすればよいか』と問うと、太公は『民の暴く吏を察し、その賞を明らかにし、その誅を審らかにすれば、吏は敢えて罪を犯さず、民は敢えて大罪を犯さない』と言った。武王が『これは民と吏が互いに伺い、上下和せずに仇を結ぶことになる』と言うと、太公は『君は成を守り、吏は職を守り、民は事を守る。このように、各々その道に居れば国は治まり、国が治まれば都は治まり、都が治まれば里は治まり、里が治まれば家は治まり、家が治まれば善悪が分明になり、善悪が分明になれば国に事無く、国に事無ければ吏民は外に怨みを懐かず、内に事を求めない』と言った」)。その郡に塩官・鉄官・工官・都水官がある場合は、事の広狭に応じて令・長および丞を置き、秩次は全て県・道と同じで、分土はなく、均等に本吏を給する。本注にいう。凡そ郡県で塩の産出が多い所は塩官を置き、塩税を主とする。鉄の産出が多い所は鉄官を置き、鋳造を主とする(胡広にいう。「塩官は坑を掘って塩を得、あるいは井戸を掘り海水を煮て得る者もある。銅を鋳て器械とし、鋳冶の時、火を扇いで熾んにすることを鼓鑄という」)。工人が多い所は工官を置き、工税と物品を主とする。水池があり魚利が多い所は水官を置き、水を管理し漁税を徴収することを主とする。所在の諸県で均等に吏を差し出して交替で給仕させる。吏を置くのは事に随い、県の定員には含めない。

匈奴中郎将

使匈奴中郎将一人、比二千石。本注にいう。南単于を護衛することを主とする。従事二人を置き、事があれば事に応じて増員し、掾も事に応じて員数を定める。護羌校尉・烏桓校尉の設置も同様である(応劭の漢官にいう。「節を擁し、中歩南に駐屯し、官府の掾史を設ける。単于は毎年侍子を遣わして朝貢し、謁者が常に送迎し、弓・馬・氈・罽その他の物を賂として百余万得る。謁者は用事が済むと、表を具えて帑蔵に付し、詔書で自ら受け取るよう命じられる」)。

烏桓校尉

護烏桓校尉一人、比二千石。本注にいう。烏桓の胡を主とする(応劭の漢官にいう。「節を擁する。長史一人、司馬二人、皆六百石。併せて鮮卑を統領する。客として賜り、質子を置き、毎年胡との市を行う」。晋書にいう。「漢は東夷校尉を置き、鮮卑を撫でた」)。

護羌校尉

護羌校尉一人、比二千石。本注にいう。西羌を主とする(応劭の漢官にいう。「節を擁する。長史・司馬二人、皆六百石」)。

王国

皇子が王に封ぜられると、その郡は国となり、毎に傅一人、相一人を置き、皆二千石である。本注にいう。傅は王を導いて善に向かわせることを主とし、礼は師の如くで、臣とはしない。相は太守の如し。その長史は郡丞の如し。

漢の初期に諸王を立てたのは、項羽こううが立てた諸王の制度に基づき、領地は広大で、千里に及ぶものもあった。またその官職は、傅が太傅、相が丞相となり、さらに御史大夫や諸卿があり、皆二千石の秩禄で、百官は朝廷と同じであった。国家はただ丞相を置くだけで、御史大夫以下はすべて自ら任命した。(胡広が言うには、「後漢では妾の数に制限がなく、正室を設ける制度を作り、妃と称し、小夫人は四十人を超えてはならないとした」という。)景帝の時代になると、呉・楚の七国は自国の大きさを頼みに乱を起こし、漢王朝を危うくした。それらが誅滅された後、景帝はこれを戒め、諸王に民を治めることを禁じ、内史に民の統治を主にさせ、丞相を相と改称し、御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士の官を廃止した。武帝は漢の内史・中尉・郎中令の名称を改めたが、(『漢書』によれば、「漢の内史を京兆尹に、中尉を執金吾に、郎中令を光禄勲に改めた」という。)王国は従前のままで、人員と官職はすべて朝廷が任命し、自ら置くことはできなかった。成帝の時に至り、内史を廃して民を治めさせ、代わりに相に民を治めさせ、(『漢旧儀』によれば、「大司空しくうの何武が内史を廃止し、相を太守のように、中尉を都尉のようにし、職務に参与させるよう上奏した。その後、中尉が権力を争い、王や相と上奏し合い、常に不和であった」という。)太傅は単に傅と称するようになった。(臣の昭が言う:高祖の創業を見ると、それは単に偉大な功績と徳行で、多くの民を庇護し、その毒害と暴虐を払拭して、平和と安泰をもたらしただけではない。深遠な謀略と長期的な考慮をもって、子弟を封建し、藩屏を盤石に固め、その計画は広大遠大であった。しかし、三趙は終わりを全うせず、燕霊王は夭折し、斉・代・淮・楚はすべて外戚の勢力が重くなった。だから宋昌が「外では斉・楚・淮南を恐れる」と言ったのは、その証拠ではないか。事が過ぎれば弊害が生じ、誰がそれを是正できようか。国全体を危うくする難しさは、確かに財物の豊かさを固守すること、防衛の利益も、すでに前代から得ていた。だから几杖を賜って、奸計を止めさせた。後継者が狭い立場に落ちると、怨みが生じる理由があった。ついに軍隊が乱を構成し、戦いが梁の宮廷で交わされ、外侮を防ぎ敵を打ち破ることは、密接な親戚から始まった。景帝は遂に藩国の権力を削ぎ、骨肉の支援を刻みつけ、君に封じてもその民を治めることを聞き入れず、主として置いてもその臣を次第に軽んじた。矯正が過ぎて、遂にこのような事態に至った。呂氏・霍氏の朝廷の危機では、后族が寵愛によってますます貴重となり、呉・楚の反乱と逃亡では、侯王が常にそれによって非難を受けた。だから賈誼は多く封建してその力を弱め、虚位を列ねてその生存を待とうとした。これは達観した深い見識であり、親族と陪臣の要諦を監察したものである。嫡子は必ず万里の地を伝え、分家は動揺させないようにする。経緯と遠大な計画において、すでに妨げられていた。さらに哀帝・平帝の時代には、劉氏が四海に遍在し、宗正の記録に載せられた者は遂に万を数えた。後漢に至っても、前代の跡をより一層踏襲し、光武帝の十人の子はすべて畿外の近郡に並び立ち、孝明帝の八国は遠方の民を庇護し開拓することができなかった。国が近いと大きくできず、大きくないと強国となるには不足である。これが本枝の支援が結局は弱く固まらなかった理由である。もし漢が両越を分割して二、三の親王国を置き、呉・楚を分割して数多くの列藩を立て、遼海を割いて皇族の枝を分け、隴蜀を開いて子弟を王とし、君主を尊貴顕著にし、漢初の貴さに依拠させ、民に定限を設けず、豊かに養育することを許し、もし暗愚で暴虐な後継者がいれば、廃することはできても削ることはできず、必ず劉氏を伝えさせ、民が信奉する所に従い、その侵略兼併のきっかけを発し、他の族のさんさんだつ殺害の科条を厳しくし、その貢納の軽重の法を定め、その来朝往復の回数を疎かにする。君は君として、臣は臣として、永遠に百世の約束を許し、一国の民は長く移動の志を持たず、四方が志を得て、離宮に列封することを聞き入れ、賢才と知恵を抱き、適した楽土に従う。強弱は等しく、遠近は互いに牽制し、その大筋を挙げ、小さな停滞を略し、画一にして、海内に公布する。天子の朝廷では、異姓による僭越奪取でない限り、王を助ける軍を起こすことはできない。諸藩国では、雑多な互いの簒奪主でない限り、討伐の詔を下すことはない。犬牙のように互いに絡み合い、厳かな国として共にあり、たとえ王莽が巧みに盗んだとしても、何の理由で敢えて窃取できようか。曹操が雄勇であっても、どうして士を得ることができようか。これは極聖を待たずして実行でき、明賢が大まかに識るだけで十分に立てられる。故に父子は頭と足、兄弟は四肢である。筋・骨・髄・血が、動静によって互いに勝ち、長短大小が、その働きによって互いに守り合うようにすべきである。どうして脛を切り取って腹に致し、骨肉を取って頭を増やし、背を削って骨を露わにし、膏腴を剥いで頬を補い、頭蓋骨と額が大きく、松や晉のように長寿に比べられ、咽喉が腫れ上がって、必ず長生久視できると言えようか。漢王朝はこれをわずかに得て、なお四百年続いたが、魏はこれを大きく失い、数十年も満たなかった。晋の世からは、矯正が過ぎて、皇朝に列なる者は、賢才を選んで授けるのではなく、ただ親族であることを貴び、愚かさと知恵の区別がなかった。衣冠を着こなせない者が早くも公相の尊位に就き、幼い童子が速やかに槐嶽の地位に登った。職務は道理を論ずるべきであるのに、乳母の養育から離れず、侯を継いで政務を執るのに、二、三尺の衣を着ている。英明で度量の大きい者は、あの昏愚で幼稚な者に委ねられ、高い才能と博識な儒者は、幼い認識に恭しく従った。公の鼎が覆っても憂えず、美しい錦が砕けてもさらに裁断した。兼任は流れるように授けられ、回り道で競争の道となり、才能が鈍く重任を負い、功績は少なく過失は多かった。朝には公旦と名声を並べ、夕には盗跖と同罪となり、褒め称えられても位がなく、徳を満たすことができず、貶されて退けられ刑に処せられても、過失を塞ぐには足りなかった。〔威〕力は強く事を成し、名声と実績は重んじられたが、嫌疑と猜疑心に脅かされ、身はその弊害を受けた。滅ぼされて体を分かれ、梟や仇敵のようになり、〔齏〕粉のように同気を砕き、他の逆賊よりも過ぎた。忠貞の士は、横暴にその凶事に巻き込まれ、志節の人は、狼狽してその災禍に遭った。閼伯と実沈は、史筆に続き、顕思と顕甫は、国書に並んで記された。趙倫は〔憃〕愚をもって天を排し、斉攸は賢明をもって世を去り、無実の鬱憤に滅び、冤罪の孫は尽き、数え切れないほどである。どうして周・漢の君主は多く孝悌の性質を持ち、晋・宋の主は豺狼の情けを受けたのか、それは事の勢いがそうさせたのである。朝にこの術を行えば、夕には崩壊と混乱に窮し、改悛することができず、来る事態はますます甚だしくなった。蒼生はこれによって尽きようとし、四海はこれによって窮屈に構えられた。聖帝英君がこの敗北を覆そうとすれば、必ずさらに同姓の国を開き、増やさない約束を置き、皇胤が宮中に入る禍いを罷め、盟牲を砺く河の篤実さを守り、険しい墜落の道を還し、全安の轍に戻すべきである。)

中尉は一人で、比二千石に相当する。本注によると、職務は郡の都尉と同じで、盗賊を取り締まる。(東観書には、「その紹封削絀者は、中尉・内史の官属もまた率に従って減らす」とある。)郎中令は一人、僕は一人で、いずれも千石である。本注によると、郎中令は王の大夫・郎中を管轄し宿衛を担当し、官制は光禄勲と同じである。少府が廃止されて以来、その職務はすべて併合された。僕は車と御者を主管し、太僕と同じである。本来は太僕といい、比二千石であったが、武帝が改めて単に僕と称し、またその秩禄をすべて減らした。治書は、比六百石に相当する。本注によると、治書は本来の尚書が改称されたものである。大夫は、比六百石に相当する。本注によると、定員はなく、王の使者として都に赴き、璧を捧げて正月を祝賀し、また諸国に派遣される任務を担当する。本来は皆節を持っていたが、後に節は取りやめられた。謁者は、比四百石に相当する。本注によると、長冠を冠することを担当する。本来の定員は十六人であったが、後に減らされた。礼楽長。本注によると、楽人を主管する。衛士長。本注によると、衛士を主管する。医工長。本注によると、医薬を主管する。永巷長。本注によると、宦官で、宮中の婢使を主管する。祠祀長。本注によると、祠祀を主管する。いずれも比四百石に相当する。(礼楽長からここまで、いずれも四百石である。)郎中は、二百石である。本注によると、定員はない。

宋公、衛公。

衛公、宋公。本注によると、建武二年、周の後裔である姬常を周承休公に封じた。五年、殷の後裔である孔安を殷紹嘉公に封じた。十三年、常を衛公に、安を宋公に改め、漢の賓客として、三公の上に位置づけた。(五経通義には、「二王の後裔は功績を考課せず、誅罰はあっても絶やさない」とある。鄭玄は言う。「王者は二代を存続させて封じ、五まで及ぶ。郊天では天子の礼を用いてその始祖を祭り、その正朔を行い、これを三統を通じるという。三恪とは、その先聖を敬い、その後裔を封じるだけで、特別な待遇はないものである。」)

列侯

列侯は、その食邑とする県が侯国となる。本注によると、秦の二十等爵を継承し、徹侯とし、金印紫綬を授け、功績を賞する。功績の大きい者は県を食邑とし、小さい者は郷や亭を食邑とし、その食邑の吏民を臣下とすることができる。後に武帝の諱を避けて、列侯と改称した。武帝の元朔二年、諸王が恩を推して多くの子に領土を分け与えることを許し、国家が封じる場合も列侯とした。旧来、長安ちょうあんで朝請に奉仕する列侯は、位次は三公の次であった。中興以来、功徳により特進の位を賜った者のみが、車騎将軍の次に位置する。(胡広の漢制度によると、「功徳が優れて盛んで、朝廷が特に敬異する者には、特進を賜り、三公の下、車騎将軍の下ではない」という。)朝侯の位を賜った者は、五校尉の次に位置する。侍祠侯の位を賜った者は、大夫の次に位置する。その他、姻戚として付随した者や、公主の子孫で京都で墳墓を守る者は、時宜に応じて会合に参加し、位は博士・議郎の下である。(胡広の制度によると、「これは猥諸侯である」という。)

諸王が封を受ける者は茅土を受け、帰国して社稷を立てるのが礼である。(胡広は言う。「諸王が封を受ける時は、皆茅土を受け、帰国して社稷を立てる。本朝では宮室を建て、独自の制度がある。列侯が国に帰る者は、茅土を受けず、宮室を立てず、それぞれ貧富に応じて裁量し、庶民を治めてその寵愛を守る。」)列土・特進・朝侯は、正月の祝賀で璧を執る。

各国ごとに相を一人置き、その秩禄はそれぞれ本来の県と同じである。本注によると、民を治めることを主管し、令・長と同じで、臣下とはしない。ただし、侯に租税を納め、戸数を限度とする。その家臣として、家丞・庶子を各一人置く。本注によると、侯に侍し、家事を処理させることを主管する。列侯には旧来、行人・洗馬・門大夫の五官があった。中興以来、食邑千戸以上の者は家丞・庶子を各一人置き、千戸に満たない者は家丞を置かず、また行人・洗馬・門大夫をすべて廃止した。

関内侯

関内侯(如淳が言うには、「列侯は関を出て国に就くが、侯はただ爵位のみで、家累のある者には関内の邑を与え、その租税を食む」という。古今注によれば、「建武六年、初めて関内侯で食邑する者の俸禄を月二十五斛と定めた」という。)は、秦の制度を受け継ぎ、賜爵十九等のうち関内侯とし、領土はなく、在所の県に寄食し、民の租税の多少は、それぞれ戸数に限りがあった。(荀綽の晋百官表注によれば、「当時六国が未だ平定されておらず、将帥は皆関中に家があったため、この号を用いた」という。劉劭の爵制によれば、「春秋伝に庶長鮑がいる。商君が政を執り、その法品を備えて十八級とし、関内侯・列侯を合わせて凡そ二十等とした。その制度は古義に因る。古くは天子が軍政を六卿に寄せ、平時には田に従事し、警報があれば戦い、いわゆる入ってはこれを治め、出てはこれを長じ、平素から信頼される者が衆と相得るのである。故に啓が有扈を討伐した時、六卿を召したが、大夫が軍中にいる者は将となる者である。周の六卿もまた軍中に居り、国中では比長・閭胥・族師・党正・州長・卿大夫と称し、軍中では卒伍・司馬・将軍を号とした。これが国中での名と異なる所以である。秦は古制に依り、軍中で爵を賜うことを等級とし、その人を率いる者は皆更卒である。功があって爵を賜れば、軍吏の例に入る。一爵以上から不更までの四等は、皆士である。大夫以上から五大夫までの五等は、大夫に比する。九等は、九命の義に依る。左庶長以上から大庶長までは、九卿の義である。関内侯は、古の畿内子男の義に依る。秦は山西に都し、関内を王畿としたため、関内侯というのである。列侯は、古の列国諸侯の義に依る。然らば卿・大夫・士以下の品は、皆古に倣い、朝廷の制度に比べてその名を異にし、また軍と国とを区別する所以でもある。古くは車戦を用い、兵車一乗に歩卒七十二人、左右の翼に分かれる。車には、大夫が左に、御者が中に、勇士が右に居り、凡そ七十五人である。一爵を公士というのは、歩卒で爵を持つ者が公士であるから。二爵を上造という。造は成である。古くは士が成って司徒しとに昇る者を造士といい、この名に依るが、皆歩卒である。三爵を簪褭という。四頭立ての馬を御する者である。要褭は古の名馬である。四頭立ての馬を駕する者の形が簪に似ているため、簪褭というのである。四爵を不更という。不更とは車右となり、凡そ更卒と同じくしない者である。五爵を大夫という。大夫とは車左に居る者である。六爵は官大夫、七爵は公大夫、八爵は公乗、九爵は五大夫で、皆軍吏である。吏民の爵は公乗を超えることができないが、子や同産に売り与えることができる。然らば公乗とは、軍吏の爵で高い者である。戦いに臨まなくても、公卒の車を得るため、公乗というのである。十爵は左庶長、十一爵は右庶長、十二爵は左更、十三爵は中更、十四爵は右更、十五爵は少上造、十六爵は大上造、十七爵は駟車庶長、十八爵は大庶長、十九爵は関内侯、二十爵は列侯である。左庶長以上から大庶長までは、皆卿大夫で、皆軍の将である。率いる者は皆庶人・更卒であるため、庶・更を名とする。大庶長は即ち大将軍であり、左右庶長は即ち左右の偏裨将軍である。」という。古今注によれば、「成帝の鴻嘉三年、吏民に爵を買うことを許し、一級千銭とした」という。)

四夷の国

四夷の国王、率衆王、帰義侯、邑君、邑長には、皆丞がおり、郡・県に比する。

百官の俸禄

百官の俸禄受給の例:(古今注によれば、建武二十六年四月戊戌、吏の俸禄をこのように増し、志の例によって明らかにするという。)大将軍・三公の俸禄は、月三百五十斛。中二千石の俸禄は、月百八十斛。二千石の俸禄は、月百二十斛。比二千石の俸禄は、月百斛。千石の俸禄は、月八十斛。六百石の俸禄は、月七十斛。比六百石の俸禄は、月五十斛。四百石の俸禄は、月四十五斛。比四百石の俸禄は、月四十斛。三百石の俸禄は、月四十斛。比三百石の俸禄は、月三十七斛。二百石の俸禄は、月三十斛。比二百石の俸禄は、月二十七斛。一百石の俸禄は、月十六斛。斗食の俸禄は、月十一斛。(漢書音義によれば、「斗食の禄は、日を以て斗を計る」という。)佐史の俸禄は、月八斛。(古今注によれば、「永和三年、初めて河南尹及び洛陽らくようの員吏四百二十七人に俸禄を与え、月四十五斛とした」という。臣の昭が言うには、この言葉はどうして妄りであろうか?もし人々が四十五斛の俸禄を受けるならば、四百石の秩は余りに優遇され過ぎて品がないことになり、もし共に進奉する者が一人一斗に過ぎないとしても、また義理に合わない。)凡そ諸々の俸禄を受ける者は、皆半銭半穀である。(荀綽の『晋百官表注』によれば、「漢の延平年間、中二千石の俸禄は銭九千、米七十二斛。真二千石は月銭六千五百、米三十六斛。比二千石は月銭五千、米三十四斛。一千石は月銭四千、米三十斛。六百石は月銭三千五百、米二十一斛。四百石は月銭二千五百、米十五斛。三百石は月銭二千、米十二斛。二百石は月銭一千、米九斛。百石は月銭八百、米四斛八斗。」という。献帝起居注によれば、「帝が長安におられた時、詔書で三輔の地は千里に満たず、しかも軍師の用度は一つではなく、公卿以下は奏上して除くことができない。その公田については、秩石を率として、令にそれぞれその租税を収めさせた」という。)

賛に言う:帝道は淵黙にして、冢帥は徳を修める。寡を以て衆を御し、職を分けて乃ち克つ。置かず監せず、驕らず誤らず。程はこれ師徒、民を寧んじ国を康んず。