後漢書
『志』第二十七
百官四 執金吾、太子太傅、大長秋、太子少傅、将作大匠、城門校尉、北軍中候、司隸校尉
執金吾
執金吾は一人、中二千石。〈漢官秩では比二千石とある。〉
本注にいう:宮外の警戒、非常事態、水火の事を司る。〈胡広は言う:「衛尉は宮中を巡行し、金吾は外で警戒し、互いに表裏をなして、奸を捕らえ猾を討つ。」〉
月に三度宮外を巡行し、また兵器を主管する。吾とは御と同じである。〈応劭は言う:「金革を執り非常を防ぐ。」漢官は言う:「員吏二十九人、そのうち十人は四科、一人は二百石、文学三人は百石、二人は斗食、十三人は佐学事、緹騎を主管する。」〉
丞一人、比千石。〈漢官秩では六百石とある。〉
緹騎二百人。
本注にいう:秩はなく、吏の食奉に準ずる。〈漢官は言う:「執金吾の緹騎二百人、〔持戟〕五百二十人、輿服導従、光が道路に満ち、群僚の中でこれが最も壮観である。世祖は嘆じて言った;『仕官するなら執金吾になるべきだ。』」〉
武庫令一人、六百石。
本注にいう:兵器を主管する。
丞が一人いる。
右は執金吾に属する。
本注にいう。本来は式道、左右中候の三人がおり、六百石であった。車駕が出る時には、前で清道を掌り、帰還する時には麾を持って宮門に至り、宮門を開かせた。中興以後はただ一人のみで、また常置せず、出るたびに郎が式道候を兼ね、事が終われば再び執金吾に属さない。また中壘、寺互、都船の令、丞、尉および左右京輔都尉を省いた。
太子太傅
太子太傅が一人、中二千石。
本注にいう。職掌は太子を輔導すること。礼は師の如く、官属を領しない。〈荀綽『晉百官表注』にいう。「唐、虞の官である。」〉
大長秋
大長秋が一人、二千石。
本注にいう。秦の将行を受け継ぎ、宦者である。景帝の時に大長秋と改め、時に士人を用いることもあった。中興以後は常に宦者を用い、職掌は中宮の命を奉宣すること。宗親に給賜する全てのこと、および宗親で謁見すべき者を通関し、中宮が出れば従う。〈張晏がいう。「皇后の卿である。」〉
丞が一人、六百石。
本注にいう。宦者である。
中宮僕が一人、千石。
本注にいう。宦者である。
主として馭を掌る。
本注にいう。太僕は秩二千石であったが、中興で「太」を省き、秩を千石に減じて長秋に属させた。
中宮謁者令が一人、六百石。
本注にいう。宦官である。
中宮謁者が三人、四百石。
本注にいう。宦官である。中宮の上奏文を報告することを主管する。
中宮尚書が五人、六百石。
本注にいう。宦官である。中宮の文書を主管する。
中宮私府令が一人、六百石。
本注にいう。宦官である。中宮の蔵する幣帛諸物を主管し、衣類の裁断や被服の補修洗濯もすべて主管する。〈丁孚の『漢儀』にいう。「中宮蔵府令、秩千石、儀礼は御府令に比す。」〉
丞が一人。
本注にいう。宦官である。
中宮永巷令が一人、六百石。
本注にいう。宦官である。宮人を主管する。
丞が一人。
本注にいう。宦官である。
中宮黄門冗従僕射が一人、六百石。
本注にいう。宦者である。中黄門冗従を主管する。〈丁孚の『漢儀』にいう。「給事中宮侍郎六人、尚書郎に比し、宦者がこれをつとめる。給事黄門四人、黄門侍郎に比する。給事羽林郎一人、羽林将虎賁官騎の下に比する。」〉
中宮署令一人、六百石。
本注にいう。宦者である。中宮の請署天子の数を主管する。
女騎六人、丞、復道丞各一人。
本注にいう。宦者である。復道丞は中閣道を主管する。
中宮薬長一人、四百石。
本注にいう。宦者である。
右は大長秋に属する。
本注にいう。秦を承け、詹事一人あり、位は長秋の上にあり、これも宦者で、中諸官を主管した。成帝がこれを省き、その職を長秋に併せた。この後、皇后が法駕で出る時は、中謁、中宦者の職吏が詹事の職を兼ねて奉引し、終わると罷免した。宦者が誅された後は、尚書が兼職吏一人を選んで奉引させたという。
そのうち長信宮、長楽宮にあるものは、少府一人を置き、職は長秋の如く、その他の吏もみな宮名を号とし、員数と秩次は中宮の如くである。〈長楽五官史、朱瑀の類がこれである。〉
本注にいう。帝の祖母を長信宮と称し、故に長信少府、長楽少府あり、位は長秋の上にあり、職吏もみな宦者で、秩次は中宮の如し。長楽にはまた衛尉あり、僕は太僕たり、みな二千石で、少府の上にある。〈丁孚『漢儀』にいう。「丞、六百石。」〉
その崩御の時は省き、常置しない。
太子少傅
太子少傅、二千石。
本注にいう。これも輔導を職とし、悉く太子の官属を主管する。〈『漢官』にいう。「員吏十二人。」〉
太子率更令は一人、千石。
本注にいう:庶子と舍人の宿直を主管し、職掌は光禄に似る。
太子庶子は、四百石。
本注にいう:定員なし、三署の中郎のごとし。
太子舍人は、二百石。
本注にいう:定員なし、宿直して宿衛に当たり、二署の郎中のごとし。〈漢官に曰く:「十三人、良家の子孫を選ぶ。」〉
太子家令は一人、千石。
本注にいう:倉穀と飲食を主管し、職掌は司農・少府に似る。
太子倉令は一人、六百石。
本注にいう:倉穀を主管する。
太子食官令は一人、六百石。
本注にいう:飲食を主管する。
太子僕は一人、千石。
本注にいう:車馬を主管し、職掌は太僕のごとし。
太子厩長は一人、四百石。
本注にいう。車馬を主管する。
太子門大夫、六百石。〈漢官にいう。「門大夫二人、四府の掾属から選ぶ。」〉
本注にいう。『旧注』に職は郎将に比すという。旧に左右戸将があり、別に左右戸直郎を主管したが、建武以来これを省いた。
太子中庶子、六百石。
本注にいう。員数は五人、職務は侍中のようである。
太子洗馬、比六百石。
本注にいう。『旧注』に員数は十六人、職務は謁者のようであるという。太子が出るときは、当直の者が先に立って威儀を導く。〈漢官にいう。「郎中を選んで補う。」〉
太子中盾一人、四百石。
本注にいう。周囲の警備と巡察を主管する。
太子衛率一人、四百石。
本注にいう。門の衛士を主管する。
右は太子少傅に属する。
本注にいう。およそ即位したばかりで太子がまだいないときは、官属はすべて廃止されるが、ただ舎人だけは省かれず、少府に属して管轄される。
將作大匠
将作大匠一人、二千石。〈蔡質の漢儀にいう。「位は河南尹の次、光武中元二年に省き、謁者がこれを領した。章帝建初元年に復置した。」〉
本注にいう。秦の制度を継承し、将作少府と称したが、景帝の時に将作大匠に改称された。宗廟、路寝、宮室、陵園の土木工事を掌握し、また桐や梓の類いを道の傍らに植える。〈『漢官篇』に「栗、漆、梓、桐の木を植える」とあり、胡広はいう。「古くは道の標示として木を列植し、また林苑とした。四者はいずれも木の名で、宮室の造営をともに主管する。」『毛詩伝』にいう。「椅は梓の類いである。」陸璣『草木疏』にいう。「梓の実に桐の皮を持つものを椅といい、今の人々が梧桐というのがこれである。梓は、今の人々が梓楸というものである。」〉
丞一人、六百石。
左校令一人、六百石。
本注にいう。左工徒を掌握する。
丞一人。〈安帝の時に復置された。〉
右校令一人、六百石。
本注にいう。右工徒を掌握する。
丞一人。〈安帝の時に復置された。〉
右は将作大匠に属する。〈『前書』によれば、属官にさらに左中候、右中候、石庫、東園主章、左校、右校、前校、後校、中校の七令丞があったが、成帝の時に廃止された。〉
城門校尉
城門校尉一人、比二千石。
本注にいう。洛陽の十二の城門を掌握する。〈『周礼』に「司門」とある。干宝の注にいう。「今の校尉のようである。」〉
司馬一人、千石。
本注にいう。城門の兵士を主管する。
各門に候一人ずつ。〈『周礼』に各門に下士二人とある。干宝はいう。「今の門候のようである。」〉
六百石。(蔡質の『漢儀』に「門候は校尉に会うと、板を持って拝礼しない」とある。)
本注にいう。洛陽城には十二の門があり、その正南の一門を平城門という。(『漢官秩』に「平城門は宮門であり、候を置かず、屯司馬を置き、秩は千石である」とある。李尤の銘に「平城は午に当たり、その位は中に在る」とある。『古今注』に「建武十四年九月に平城門を開いた」とある。)
北宮門は衛尉に属する。その他の上西門(応劭の『漢官』に「上西が純白でないのは、漢家が初めて成った時、丹漆で彫刻したからである」とある。李尤の銘に「上西は季に在り、位は月、戌に在る」とある。)
雍門(銘に「雍門は中に在り、位は月、酉に在る」とある。)
広陽門(銘に「広陽は孟の位に在り、その月は申に在る」とある。)
津門(銘に「津の名は自ら定まり、位は季月、未に在る」とある。)
小苑門、開陽門(応劭の『漢官』に「開陽門が完成した当初は名がなく、かつて一本の柱が楼の上に飛来した。琅邪郡開陽県が上奏して言うには、県の南城門の一本の柱が飛び去ったという。光武皇帝は人をやって見分させ、慨然として、遂にそれを堅く縛り付け、その年月を刻んで記し、これによって名付けた」とある。銘に「開陽は孟に在り、位は月、巳に在る」とある。)
粍門(銘に「秏門は季に当たり、月の位は辰に在る」とある。)
中東門(銘に「中東は仲に在り、月の位は卯に当たる」とある。)
上東門(銘に「上東は少陽、その位は寅に在る」とある。)
穀門(銘に「穀門は北の中に在り、位は子に当たる」とある。)
夏門(銘に「夏門は孟に当たり、位は月、亥に在る」とある。)
合わせて十二の門である。(蔡質の『漢儀』に「洛陽には二十四の街があり、街ごとに一亭。十二の城門があり、門ごとに一亭ある」とある。)
右は城門校尉に属する。
北軍中候
北軍中候一人、六百石。
本注にいう。五営を監察することを掌る。〈漢官にいう。「員吏七人、候は自ら辟召することができ、大鴻臚一人を通じ、斗食。」〉
屯騎校尉一人、比二千石。
本注にいう。宿衛兵を掌る。〈漢官にいう。「員吏百二十八人、士七百人を領す。」〉
司馬一人、千石。〈蔡質の漢儀にいう。「五営の司馬が校尉に謁見するときは、板を執って拝礼しない。」〉
越騎校尉一人、比二千石。〈如淳がいう。「越人が内附して騎兵としたものである。」晉灼がいう。「その才力が超越していることを取ったのである。」案ずるに紀によれば、光武帝は青巾〔左〕校尉を越騎校尉に改めた。臣昭がいう。越人は善騎の出ずる所ではないので、晉灼の説が妥当である。〉
本注にいう。宿衛兵を掌る。〈蔡質の漢儀もまた越騎を掌るという。漢官にいう。「員吏百二十七人、士七百人を領す。」〉
司馬一人、千石。
歩兵校尉一人、比二千石。〈初めに設置されたときは上林苑の門の屯兵を掌った。前書に見える。〉
本注にいう。宿衛兵を掌る。〈漢官にいう。「員吏七十三人、士七百人を領す。」〉
司馬一人、千石。
長水校尉一人、比二千石。〈如淳がいう。「長水は胡の名である。」韋昭がいう。「長水校尉は胡騎を典し、厩が長水に近いので、〔故に〕これをもって名とした。」長水はおそらく〔関〕中の小水の名であろう。〉
本注にいう。宿衛兵を掌る。〈蔡質の漢儀にいう。「長水、宣曲の胡騎を主る。」漢官にいう。「員吏百五十七人、烏桓の胡騎七百三十六人。」〉
司馬、胡騎司馬各一人、千石。
本注にいう。宿衛を掌り、烏桓騎を主る。
射声校尉一人、比二千石。
本注にいう。宿衛兵を掌る。
司馬一人、千石。
右は北軍中候に属す。
本注にいう。旧に中壘校尉あり、北軍の営塁の事を領す。胡騎・虎賁の校尉あり、皆武帝の置く所なり。中興して中壘を省き、ただ中候を置き、以て五営を監せしむ。胡騎は長水に併す。虎賁は軽車を主とし、射声に併す。
凡そ中二千石、丞は比千石。真二千石、丞・長史は六百石。比二千石、丞は比六百石。令・相は千石、丞・尉は四百石。その六百石、丞・尉は三百石。長・相は四百石及び三百石、丞・尉は皆二百石。諸侯・公主の家丞、秩は皆比百石。諸辺の鄣塞尉・諸陵の校尉長、皆二百石。常例ある者は秩を署さず。
司隷校尉
司隷校尉一人、比二千石。
本注にいう。孝武帝の初めに置く。
節を持ち、百官以下及び京師近郡の犯法者を察挙することを掌る。
元帝は節を去り、成帝は省く。建武中に復た置き、併せて一州を領す。
従事史十二人。
本注にいう。都官従事は、百官の犯法者を察挙することを主る。
功曹従事は、州の選署及び衆事を主る。別駕従事は、校尉が部を行くときは則ち奉引し、衆事を録す。簿曹従事は、財穀簿書を主る。軍事あるときは則ち兵曹従事を置き、兵事を主る。その余の部郡国従事は、各郡国ごとに各一人、文書を督促し、非法を察挙することを主る。皆州自ら辟除す。故に通じて百石と為す。
仮佐二十五人。
本注にいう。主簿は閣下の事を記録し、文書を省みる。門亭長は州の正を主る。門功曹書佐は選用を主る。
孝経
師は監試経を主る。月令師は時節の祠祀を主る。律令師は法律を平らかにすることを主る。簿曹書佐は簿書を主る。その他の都官書佐および各郡国ごとに、それぞれ典郡書佐一人があり、それぞれ一郡の文書を主り、郡吏をもって補い、一年で交代する。
司隷が管轄する郡は七つ。
河南尹一人は、京都を主管し、特に朝請に奉ずる。その京兆尹、左馮翊、右扶風の三人は、漢の初めに長安に都し、みな秩中二千石で、これを三輔と称した。中興して雒陽に都し、改めて河南郡を尹とし、三輔は陵廟の所在であるため、その号を改めず、ただその秩を減じた。その他の弘農、河内、河东の三郡。その尹、馮翊、扶風および太守丞奉の本官の位は、
地理志
にある。