後漢書

志第二十六

百官三 宗正、大司農、少府

 

宗正

宗正には、卿が一人おり、中二千石である。

本注によると、その職掌は王国の嫡子と庶子の順序および諸宗室の親族の遠近を記録し、郡国は毎年の上計に合わせて宗室の名簿を上奏する。もし髡刑以上の刑に当たる罪を犯した者がいれば、まず宗正に上申し、宗正がそれを上聞してから、判決を下す。

丞が一人おり、比千石である。

諸公主には、それぞれ家令が一人おり、六百石である。丞が一人おり、三百石である。

本注によると、その他の属吏は増減が一定しない。

右は宗正に属する。

本注によると、後漢(中興)では都司空令と丞を廃止した。

大司農

大司農は、卿一人、中二千石。

本注にいう。諸々の銭穀・金帛・諸貨幣を掌る。郡国は四時に上月旦の銭穀簿を上奏し、その未納分はそれぞれ別に明記する。辺境の郡の諸官が調度を請う者は、皆に報じて給与し、多いものを減らし少ないものを補い、互いに給与が足りるようにする。〈漢官にいう。「員吏百六十四人、そのうち十八人は四科、九人は斗食、十六人は二百石、文学二十人は百石、二十五人は佐、七十五人は学事、一人は官医。」〉

丞一人、比千石。部丞一人、六百石。

本注にいう。部丞は帑蔵を主管する。〈古今注にいう「建初七年七月、大司農のために丞一人を置き、秩千石、別に帑蔵を主管す」と。すると部丞はこれに当たるが、秩が異なる。応劭の漢官秩も二千石と云う。〉

太倉令一人、六百石。

本注にいう。郡国から伝送・漕運された穀物を受け入れることを主管する。〈漢官にいう。「員吏九十九人。」〉

丞一人。

平準令一人、六百石。

本注にいう。物価を知り、練染を主管し、彩色を作ることを掌る。〈漢官にいう。「員吏百九十人。」〉

丞一人。

導官令一人、六百石。

本注にいう。御米を搗き、乾飯を作ることを主管する。導は、選択の意。〈漢官にいう。「員吏百十二人。」〉

丞一人。

右は大司農に属す。

本注にいう。郡国の塩官・鉄官は本来は司農に属したが、中興後は皆郡県に属するようになった。〈魏志にいう。「曹公は典農中郎将を置き、秩二千石。典農都尉、秩六百石、あるいは四百石。典農校尉、秩比二千石。主管することは中郎将の如し。管轄部分は別で小規模なものを校尉丞とする。」〉

また廩犠令があり、六百石で、祭祀の犠牲となる牛や雁・鴨などを掌る。〈漢官によれば、「丞一人、三百石。員吏四十人、そのうち十一人は斗食、十七人は佐、七人は学事、五人は守学事で、皆河南属県から給される吏である。」〉

また洛陽市長があり、〈漢官によれば、「市長一人、秩四百石。丞一人、二百石、明法により補任される。員吏三十六人、うち十三人は百石嗇夫、十一人は斗食、十二人は佐である。また楫櫂丞があり、三百石で、別に中水官を治め、水路を主管し、馬市の東にあり、員吏六人を有する。」〉

滎陽けいようの敖倉官は、中興後は皆河南尹に属した。その他の均輸などは皆廃止された。〈均輸とは、前書の孟康注に「諸々官に輸すべきものがある場合、皆その土地の産物を輸させ、その地の時価を平準化し、官が他処で売りさばくこと。輸する者も便利であり、官も利益を得る」とある。塩鉄論では、「大夫が言うには、『かつて郡国諸侯はそれぞれその物産を貢輸したが、往来煩雑で、物品は粗悪なものが多く、費用を償わないこともあった。故に郡に輸官を置いて給運を相互に行わせ、遠方の貢を便利にした。故に均輸という。京師に委府を開き、貨物を籠絡し、安ければ買い、高ければ売る。これにより県官は実利を失わず、商賈は利益を得られない。故に平準という。準が平らなら民は職を失わず、均輸なら民は苦労しない。故に平準・均輸は万物を平らにし百姓を便利にするものである。』文学が言うには、『古の民への賦税は、その得意なものによった。不得手なものを求めなかった。農人はその収穫を納め、工女はその織物を献上した。今、その所有するものを捨て、所有しないものを責め立てる。百姓は安く貨物を買って上からの要求に応じる。近頃、郡国によっては民に布や綿を作らせ、吏が難癖をつけて取引する。吏が取り入れるのは斉・陶の絹や蜀・漢の布だけではない。民間の産物も同様である。奸を行い価格を操作し、農民は苦しみ、女工の繭税も必ず苦しむ。輸が均であるとは見えない。県官がむやみに徴発し、門を閉ざして市場を独占すれば、万民の物を一斉に収奪する。一斉収奪すれば物価は高騰し、高騰すれば商賈が利益を得る。自ら市場を仕切れば吏は奸を許し、豪吏や富商が貨物を蓄積して急場に備える。軽薄な商人や奸吏が収集して高値で売る。準が平らであるとは見えない。古の均輸は労逸を均しくし貢輸を便利にするためのもので、利益のために万物を売買するものではなかった。』」王隆の小学漢官篇に「調均報度、輸漕委輸」とある。胡広注に「辺郡の諸官が調を請う場合、皆調均して報給する。水運で輸することを漕という。委は積むこと。郡国が積聚する金帛貨賄を、時宜に応じて諸司農に輸送することを委輸といい、国用に供する」とある。前書にはまた都内籍田令・丞、幹官、鉄市両長・丞、郡国諸倉農監六十五官長・丞があり、皆これに属した。〉

少府

少府、卿一人、中二千石。

本注に曰く、宮中の服用や諸器物、衣服・宝貨・珍膳の類を掌る。〈漢官によれば、「員吏三十四人、そのうち一人は四科、一人は二百石、五人は百石、四人は斗食、三人は佐、六人は騎吏、十三人は学事、一人は官医。少は小の意で、小さいが故に少府と称する。王者は租税を公用とし、山沢陂池の税を以て王の私用に供する。古くは皆小府と作った」。漢官儀によれば、「田租・芻稿は経用に給し、凶年には、山沢魚塩市税を少府が私用に給する。」〉

丞一人、比千石。

太医令一人、六百石。

本注に曰く、諸医を掌る。〈漢官によれば、「員医二百九十三人、員吏十九人。」〉

薬丞、方丞各一人。

本注に曰く、薬丞は薬を主管する。方丞は薬方を主管する。

太官令一人、六百石。

本注に曰く、御飲食を掌る。〈漢官によれば、「員吏六十九人、衛士三十八人。」荀綽の晋百官表注に「漢制では、太官令は秩千石。丞四人、秩四百石」とあり、志と一致しない。〉

左丞、甘丞、湯官丞、果丞各一人。

本注に曰く、左丞は飲食を主管する。甘丞は膳具を主管する。湯官丞は酒を主管する。果丞は果物を主管する。〈荀綽によれば、「甘丞は諸々の甘いものや脂っこいものを掌る。果丞は外部の諸果物や野菜を別に掌る。」〉

守宮令一人、六百石。

本注にいう。御用の紙・筆・墨および尚書の財用諸物および封泥を主管する。〈漢官にいう。「員吏六十九人。」〉

丞一人。〈漢官にいう。「外官丞二百石、公府吏府である。」〉

上林苑令一人、六百石。

本注にいう。苑中の禽獣を主管する。かなり多くの民居があり、すべてこれを主管する。捕らえた獣は太官に送る。〈漢官にいう。「員吏五十八人。」案ずるに桓帝はまた鴻德苑令を置いた。〉

丞・尉各一人。

侍中、比二千石。〈漢官秩は千石という。周礼の「太僕」、干宝の注にいう。「漢の侍中のごとし。」〉

本注にいう。定員なし。左右に侍して、諸事を補佐・導き、顧問・応対にあたる。法駕が出るときは、多く見識ある者一人が参乗し、その他はみな騎乗して乗輿の車の後ろに従う。もと僕射一人があったが、中興して祭酒に改め、置くこともあり置かぬこともある。〈〉

中常侍、千石。

本注にいう。宦者、定員なし。のちに秩を増して比二千石とした。左右に侍し、内宮に入り従い、内衆の事を補佐・導き、顧問・応対・給事にあたる。

黄門侍郎、六百石。

本注にいう。定員なし。左右に侍従し、給事中として、内外を通じさせることをつかさどる。および諸王が殿上で朝見するとき、王を導いて座に就かせる。〈漢旧儀にいう。「黄門郎は黄門令に属し、日暮れに青棄門に入り対して拝し、名づけて夕郎という。」宮閣簿に青棄門は南宮にある。衛権の呉都賦注にいう。「青棄は戸辺の青鏤なり。一説に天子の門内に眉あり、格再重にして、裏を青く画くものを棄という。」献帝起居注にいう。「帝初めて即位し、初めて侍中・給事黄門侍郎を置き、員各六人、禁中に出入りし、帷幄に近侍して、尚書の事を省みる。給事黄門侍郎を改めて侍中侍郎とし、給事黄門の号を去り、まもなくまた元に復す。旧来、侍中・黄門侍郎は中宮にある者は、近密と交わって政事にあたらなかった。黄門を誅した後、侍中・侍郎は禁闈に出入りし、機密の事がかなり漏れた。ここにおいて王允はついに尚書に比して、出入りせず、賓客と通じざることを奏し、これより始まる。」またいう。「諸奄人官は、みな議郎・郎中と称し、秩はもとのままとする。諸署令は両梁冠を戴き、殿上に陛し、都官從事以下を召すことができる。」〉

小黄門、六百石。

本注にいう。宦者、定員なし。左右に侍し、尚書の事を受け取ることをつかさどる。上が内宮におられるとき、内外および中宮以下の諸事を通じさせる。諸公主および王太妃などに疾苦があるときは、使いをしてこれを問わしめる。

黄門令一人、六百石。〈董巴がいう。「禁門を黄闥といい、中人をもってこれを主とし、故に号して黄門令という。」〉

本注にいう。宦者。省中の諸宦者を主管する。〈漢官にいう。「員吏十八人。」〉

丞、従丞各一人。

本注にいう。宦者。従丞は出入りの従者を主管する。

黄門署長、画室署長、玉堂署長各一人。丙署長七人。皆四百石、黄綬。

本注にいう。宦者。各々中宮の別の場所を主管する。

中黄門冗従僕射一人、六百石。

本注にいう。宦者。中黄門冗従を主管する。居るときは宿衛し、門戸を直守し、出るときは騎乗して従い、乗輿車を夾する。

中黄門、比百石。

本注にいう。宦者、定員なし。後に比三百石を増す。禁中に給事することを掌る。

掖庭令一人、六百石。

本注にいう。宦者。後宮の貴人・采女の事を掌る。〈漢官にいう。「吏従官百六十七人、待詔五人、員吏十人。」〉

左右丞、暴室丞各一人。

本注にいう。宦者。暴室丞は中婦人の疾病のある者を主管し、この室に就いて治療する。皇后・貴人に罪あれば、またこの室に就く。

永巷令一人、六百石。

本注にいう。宦者。官婢の侍使を典める。〈漢官にいう。「員吏六人、吏従官三十四人。」〉

丞が一人いる。

本注にいう。宦官である。〈漢官にいう。「右丞一人、暴室一人。」〉

御府令が一人、六百石。

本注にいう。宦官である。宮中の衣服を作り、洗濯や繕いなどを担当する。〈漢官にいう。「員吏七人、吏従官三十人。」〉

丞、織室丞がそれぞれ一人いる。

本注にいう。宦官である。〈漢官にいう。「右丞一人。」〉

祠祀令が一人、六百石。

本注にいう。宮中の諸々の小規模な祭祀を司る。〈漢官にいう。「従官吏八人、騶僕射一人、家巫八人。」〉

丞が一人いる。

本注にいう。宦官である。

鉤盾令が一人、六百石。

本注にいう。宦官である。近隣の池、苑、園、遊覧の場所を管理する。〈漢官にいう。「吏従官四十人、員吏四十八人。」〉

丞、永安丞がそれぞれ一人、三百石。

本注にいう。宦官である。永安とは、北宮の東北にある別の小宮殿の名で、園や観がある。

苑中丞、果丞、鴻池丞、南園丞がそれぞれ一人、二百石。

本注にいう。苑中丞は苑中の離宮を主管する。果丞は果樹園を主管する。鴻池は池の名で、洛陽の東二十里にある。南園は洛水の南にある。〈漢官にいう。『また署一人、胡熟監一人がある』。本紀を案ずるに、桓帝はまた顕陽苑丞を置いた。〉

濯龍監、〈応劭の漢官秩にいう。『秩六百石』。〉

直里監、それぞれ一人、四百石。

本注にいう。濯龍もまた園の名で、北宮に近い。直里もまた園の名で、洛陽城の西南角にある。

中蔵府令一人、六百石。

本注にいう。宮中の幣帛・金銀・諸貨物を掌る。〈漢官にいう。『員吏十三人、吏従官六人』。〉

丞一人。

内者令一人、六百石。

本注にいう。宮中の布張・諸衣物を掌る。〈漢官にいう。『従官録事一人、員吏十九人』。〉

左右丞それぞれ一人。

尚方令一人、六百石。

本注にいう。上手の工作、御用の刀剣・諸々の良き器物を掌る。〈漢官にいう。『員吏十三人、吏従官六人』。〉

丞一人。

尚書令一人、千石。

本注にいう。秦の置いたものを承継する。〈荀綽の晋百官表注にいう。『唐・虞の官である。詩に「仲山甫は王の喉舌」とあるのは、この人を指すという』。〉

武帝は宦官を用いて、中書謁者令と改め、成帝は士人を用いて、元に戻した。選任の手続きや尚書曹への文書の上奏・下付など、あらゆる事務を管掌する。〈蔡質の『漢儀』にいう。「かつて公がこれを務めた者は、朝会の際に階下で奏事し、秩禄を二千石に増やされ、銅印墨綬を佩用した。」〉

尚書僕射一人、六百石。

本注にいう。尚書の事務を統括し、令が不在の時は諸事を奏上・下付する。〈蔡質の『漢儀』にいう。「僕射は門の封緘を主管し、俸禄・休暇・銭穀の支給を掌る。三公・列卿・将軍・大夫・五営校尉が復道の中を行く時、尚書僕射・左右丞郎・御史中丞・侍御史に出会えば、皆車を避けて予め互いに回避する。衛士が伝令する時も台官に逆らってはならず、台官が通り過ぎてから去る。」臣の昭が調べるに、献帝が左・右僕射を分置し、建安四年に栄邵を尚書左僕射としたのがこれである。『献帝起居注』にいう。「邵は官で没し、執金吾を追贈された。」〉

尚書六人、六百石。

本注にいう。成帝の初めに尚書四人を置き、〈韋昭がいう。「尚とは、奉ずることである。」〉

四曹に分けた。〈『漢旧儀』にいう。「初め五曹を置き、三公曹があり、獄の判決を主管した。」蔡質の『漢儀』にいう。「天下の歳末の考課事務を総括する。三公尚書二人は、三公の文書を主管する。吏曹尚書は選挙と斎祀を主管し、三公曹に属する。霊帝の末、梁鵠が選部尚書となった。」〉

常侍曹尚書は公卿の事務を主管する。〈蔡質の『漢儀』にいう。「常侍・黄門・御史の事務を主管し、世祖が吏曹と改称した。」〉

二千石曹尚書は郡国二千石の事務を主管する。〈『漢旧儀』にいう。「刺史を主管するともいう。」蔡質の『漢儀』にいう。「中都官の水火・盗賊・訴訟・罪過を掌る。」〉

民曹尚書は官吏の上書全般の事務を主管する。〈蔡質の『漢旧儀』にいう。「土木工事・池・苑・囿・盗賊の事務を主管し監督する。」〉

客曹尚書は外国・夷狄の事務を主管する。〈『尚書』にいう。「龍が納言となり、帝命を出入りする。」応劭がいう。「今の尚書官は、王の喉舌である。」〉

世祖はこれを承継遵守したが、後に二千石曹を分割し、また客曹を南主客曹・北主客曹に分割した。〈蔡質の『漢儀』にいう。「天子が狩猟に出る時、車駕のことは御府曹郎がこれに属する。」〉

合わせて六曹となる。〈『周礼』天官に司会があり、鄭玄がいう。「今の尚書のようなものである」。〉

左右丞各一人、四百石。

本注にいう。文書の記録と期日の管理を掌る。左丞は吏民の上奏文の処理と驺伯史を主管する。〈蔡質の『漢儀』にいう。「台中の綱紀を総括し、統べないものはない。」〉

右丞は印綬の仮授与や紙・筆・墨など諸財用の庫蔵を管掌する。〈蔡質の『漢儀』にいう。「右丞は僕射とともに俸禄・休暇・銭穀の支給を掌り、左丞と同様に統べないものはない。宮中の漏刻が夜明けを告げ、太鼓が鳴れば起き、鐘が鳴れば休む。衛士は甲乙で順番に警戒を伝え、甲夜が終われば乙夜に伝え、五更まで伝え続ける。衛士が五更を告げ、未明の三刻後、鶏が鳴くと、衛士は丞郎の後に続いて厳かに台に上る。宮中では鶏を飼わず、汝南から鶏鳴が届き、衛士が朱爵門外で待機し、専ら宮中に鶏鳴を伝える。」応劭がいう。「楚の歌は、今の鶏鳴歌である。」『晋太康地道記』にいう。「後漢の固始・鮦陽・公安・細陽の四県の衛士が、この曲を闕下で習って歌ったのが、今の鶏鳴である。」〉

侍郎は三十六人、四百石。

本注にいう。一曹に六人ずつおり、文書の起草を主管する。〈蔡質の漢儀にいう。「尚書郎は初め三署から台に赴き試験を受け、初めて台に上った時は守尚書郎と称し、中ほどで年が満ちると尚書郎と称し、三年で侍郎と称する。客曹郎は主に羌胡の事を治め、劇務であれば二千石か刺史に昇進し、公務であれば県令に転じる。秩禄が満ちると自ら県を占めて去り、詔書によって三万銭を賜り、三台で餞別の宴が行われる。他の官はそうではない。厳しい治めを一月行い、公卿の陵廟を拝謁する基準を満たしてから出発する。御史中丞が尚書丞や郎に出会うと、車を避けて板を持ち立ち止まり揖する。丞や郎は車に座ったまま手を挙げて礼を返し、車が遠く過ぎ去ってから去る。尚書が左右丞に言うには、敢えて詔書律令の如く知らせると。郎が左右丞に会うと、対面して揖し敬意はなく、左右君と称する。丞や郎が尚書に会うと、板を持って対面して揖し、明時と称する。令や僕射に会うと、板を持って拝礼し、朝賀では対面して揖する。」〉

令史は十八人、二百石。

本注にいう。曹ごとに三人ずつおり、文書を主管する。後に劇曹が三人増員され、合わせて二十一人となった。〈古今注にいう。「永元三年七月、尚書令史の員数を増やした。功績が満ちて一度も禁を犯したことのない者は、小県の補任に充て、墨綬を授けられる。」蔡質はいう。「皆、蘭台や符節から上称され、簡抜され精練され、吏能のある者が選ばれる。」決録注にいう。「故事では尚書郎は令史の長く欠員した者を補うが、世祖が初めて孝廉を用いて郎とし、孝廉の丁邯を補った。邯は病と称して就任しなかった。詔で問うた。『本当に病か? 郎となるのを恥じているのか?』答えて言うには、『臣は本当に病ではなく、孝廉として令史の職に就くことを恥じているだけです!』世祖は怒って言った。『虎賁に頭を滅ぼす杖を数十回打たせよ。』詔して言った。『郎になりたいか?』邯は言った。『臣を殺せるのは陛下ですが、郎になれないのは臣です。』中詔によって出させ、結局郎とはならなかった。邯はあざなを叔春といい、京兆陽陵の人である。高節があり、正直で屈せず、後に汾陰令に拝され、治績に名跡があり、漢中太守に遷った。妻の弟が公孫述の将となり、妻を収監して南鄭の獄に送った。邯は冠を免き徒跣で自ら陳述した。詔して言った。『漢中太守の妻が南鄭の獄に繋がれているとは、誰がその背中の垢を掻いてやるというのか? 牛の頭を掲げて馬の干し肉を売り、盗跖の行いを孔子が語るようなものだ。邯が服罪した以上、かつ邯には一妻しかいないのだから、冠履を謝させなくてよい。』治績に異なるものがあり、官で没した。」〉

符節令は一人、六百石。

本注にいう。符節台の長として、符節の事を主管する。使者を派遣する際は全て節を授けることを掌る。

尚符璽郎中は四人。

本注にいう。旧制では二人が中にいて、璽および虎符、竹符の半分を主管した。〈漢官にいう。「明法律の郎を得るべきである。」周禮の掌節に虎節、龍節があり、皆金でできている。干寶の注にいう。「漢の銅虎符はその制である。」周禮にまたいう。「英蕩をもってこれを輔ける。」干寶はいう。「英は刻書である。蕩は竹箭である。刻んでその使わしめる事を書き、三節の信を助ける。則ち漢の竹使符もまた故事に則って取ったものである。」〉

符節令史は、二百石。

本注にいう。文書を掌る。〈魏氏春秋にいう。「中平六年、初めて節の上に赤い葆を復した。」〉

御史中丞は一人、千石。

本注にいう。御史大夫の丞である。旧制では別に御史を監し殿中におり、密かに非法を挙げた。〈周禮。「〔小宰〕は邦の宮刑を掌り、もって王宮の政令を主治する。」干寶の注にいう。「御史中丞の如し。」〉

御史大夫が司空に転じた時、それに因って別に中に留まり、御史台の長となった。〈風俗通にいう。「尚書、御史台は皆、官の蒼頭を吏とし、賦舎を主管し、凡そその門戸を守る。」蔡質の漢儀にいう。「丞は、故に二千石がこれとなり、あるいは侍御史の高第を選び、憲を執り中司し、朝会では独坐し、内では蘭台を掌り、諸州刺史を督し、百寮を糾察し、出て二千石となる。」魏志にいう。「建安年間に御史大夫を置いたが、中丞を領せず、長史一人を置いた。」〉

後にまた少府に属した。

治書侍御史は二人、六百石。

本注にいう。法律に明るい者を選んでこれを担当させる。天下の諸々の疑わしい事件を審議し、法律をもってその是非を判断する職務を掌る。〈蔡質の『漢儀』にいう。「御史の高第を選んでこれを補う。」胡広がいう。「孝宣帝は路温舒の言葉に感じて、秋季の後に審議を請うた。時に帝は宣室に幸し、斎戒して居住し事を決し、侍御史二人に命じて文書を治めさせた。御史はここから始まる。後に別に置き、法冠を冠し、秩百石、印綬あり、符節郎と共に廷尉の奏事を平議し、罪の軽重を定めた。」荀綽の『晉百官表注』にいう。「恵帝以後は、平治することなく、備位するのみである。」〉

侍御史十五人、六百石。

本注にいう。非法を察挙し、公卿群吏の奏事を受け、違失があればこれを挙劾する職務を掌る。郊廟の祭祀および大朝会、大封拜の際には、二人が威儀を監し、違失があればこれを劾奏する。〈蔡質の『漢儀』にいう。「その二人は交代で直す。執法として省中にいる者は、皆百官を糾察し、州郡を督する。公法府の掾属の高第を補う。初めは守と称し、満歳して真に拝し、劇を治めるために出て刺史・二千石となり、平遷して令を補う。中丞に会うときは、板を執って揖する。」〉

蘭台令史、六百石。

本注にいう。奏および印工文書を掌る。

右は少府に属す。

本注にいう。職が少府に属するものは、太医、上林以下凡そ四官である。侍中から御史までは、皆文属とする。秦を承け、凡そ山沢陂池の税は、名づけて禁銭といい、少府に属した。世祖はこれを司農に改属させ、考工は転じて太僕に属させ、都水は郡国に属させた。孝武帝が初めて水衡都尉を置き、秩比二千石、別に上林苑の離宮燕休の処を主としたが、世祖はこれを省き、その職を少府に併せた。毎年立秋の貙劉の日には、暫く水衡都尉を置き、事が終わればこれを罷める。少府は本来六丞あったが、五つを省く。また湯官、織室令を省き、丞を置く。また上林十池監、胞人長丞、宦者、昆台、〈昆臺は本名を甘泉居室といい、武帝が改めた。〉

佽飛〈佽飛は本名を左弋といい、武帝が改めた。〉

三令、二十一丞を省く。また水衡の属官である令、長、丞、尉二十余人を省く。章和以下、中官が次第に広がり、嘗薬、太官、御者、鈎盾、尚方、考工、別作監を加え、皆六百石、宦者がこれを担当し、兼副に転じ、あるいは省く。故に本官を録す。〈蔡質の『漢儀』にいう。「少府の符著が出て都官従事に会うときは、板を持つ。都官従事が少府に入って符著に会うときは、板を持つ。」『漢官目録』にいう。「右の三卿は、司空の所部である。」〉